日記はこれから書かれるところです。
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公職選挙法というのが、その存在意義を持つとすれば、それは真に民主的な選挙を求める方向においてであって、阿呆な政治家たちが自分たちの保身のために決めた決め事であっていいわけがない。公示後に、特定の候補者を応援したり、あるいはネガティブキャンペーンを行うようなブログの更新は、違反の可能性があるなどと都の選挙管理委員会は書くが(参照)、では、われわれはどのように、自分の判断材料を得ればいいというのか?民主政が言説の政治であるならば、その情報交換の可能性と、情報への到達の道こそ確保するべきだろう。頭の悪い政治家たちは、「政治は金が掛かる」と繰り返すが、よくよく考えれば、今の公職選挙法で「当選するのには金が掛かる」だけであって、正しい政治を行おうというような気概が無いからこそ、そういう集団的思い込みを続けているだけであるわけだ。インターネットを使った選挙活動なら、ずっと金が掛からないで済むじゃないか。そして、それは選挙プレーヤーだけでなく、それを選ぶ主権者側の言説の多様性をもたらすじゃないか。この道を塞ぐ理由がわからない。「誤った情報」とか「情報アクセスの不平等」とかくだらないことを言っちゃいけない。情報の誤りって何だ?今の政治家なんかほとんど誤った情報で選ばれてるじゃないか。いろんな情報があるなかで、自分にとっての正しい情報を見出し、選択する。これが当たり前じゃないか?情報アクセスの不平等?もちろん、ネットにつながっていない人もいる。だが、それが情報を閉ざす理由になるか? むしろ、そういう人に少しでも情報が回るようにするには、情報の道は多くあった方が良いに決まっているだろう。じゃなきゃ、おまえ、名前の連呼を聞くだけで判断しろって言ってるのと同じだぞ。これで思い出すのは「在外邦人の投票権」を争った一昨年の裁判だ。「在外邦人の投票について」(こっちはおまけ「最高裁がまっとうな判断」「民主主義の前進はどこにあるのか」)国会のことを国会議員という既得権益保持者に決めさせてうまくいくはずがない。これはやはりどこかで裁判が起こらなければならない。そういう果敢なブログ的闘いをもっとやっていいと思う(俺のは弱小すぎて誰の目にも止まらんだろうけど笑)。■都知事選まずはじめに言っておけば、俺は今回の都知事選で共感する人間がいる。だが、その人間には投票しない。なぜかといえば、落ちるから。応援票というか、理念票というか、そういうのは嫌いじゃない。だが、政治はもっとずっとリアルなんだ。実際に問題が自分の身に降りかかってきたときに文句を言っても遅い。俺の近くには数人の社会的弱者がいて、理念に死すよりも、どうしてもひどい政治を変えないといけない。ナイーブな人間は、比較的マシな場所から、その候補者とその候補者には違いがないというが、そういうことを言っていられるのは、お前がまだ恵まれているからなんだよ。今示すべきは、「都民が候補者を選んでいる」という実際を政治家たちに見せてくれることなんだ。「ダメな政治をしたら次には落とすよ」というメッセージを強く発することなんだ。■わざと負ける戦略ある党の戦略は、碁でいうところの捨石戦略だ。負ける候補を立て、他の候補者の票も割り、わざと、ひどい政治を進めさせることで民衆の不満を溜めさせて、「次回に」一挙に政権を取ろうという戦略なんだろう。つまり、この4年は捨てる戦略(あるいは「あすなろ」のように、いつまでも来ない「次回」を待つ戦略)。だがね、それは都民を馬鹿にしていることなんだよ、君ら。不満で選ばせようという考えも許せなければ、今ひどい状態にある人間を放置しようとしてることも全く許せんよ。いかに議会で、一生懸命訴えたところで、野党じゃダメなんだよ。それは君らの選挙パフォーマンスにしかなっていないんだよ。「崇高な」理念のもとに何人かは殺せるような戦略は、今の内閣のやってることと変わらんじゃないか。「崇高さ」に解釈の違いがあるだけだろ。■心情ではなく、リアルに、選ばないといけない俺らは選ばないといけない。自分をしっかり代表してくれる人間なんていない、ということを知っておくのはさらに重要だ。俺らは、それでも、選ばないといけない。それはリアルな判断であるはずだ。いい人そうだから選ぶんじゃない。自分の決定が実際に政治に影響してしまうことをしっかり理解して選ばないといけない。その判断ミスが、リアルに生活に影響してくるんだから。
2007.04.02
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