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■「現代のいじめは特殊」論に対して少し前『国家の品格』なる書で、「論理ではない、弱い者いじめはよくない」と叩き込めという者がいた。なるほど、ここだけみれば、そうかもしれない。だが、ここには欺瞞を感じるし、また、それを「日本の精神」と呼ぶことははっきり間違っている。自分や自国を冷静に眺める目を持たない者は、気付かないうちに自らが率先してその禁を破る可能性が高い。後で述べるが、このナイーブな発想こそ、解決を遠ざけているように思える。自分が差別をしていることに気付かない人間の無意識的な差別的言動が、真に被差別者に応えることを知っていれば、こうした問題はまず自身を省みることからはじめないといけない。■いじめの国この国の歴史は、結構いじめの歴史だ。一門でない者をいじめる。新参者をいじめる。後輩をいじめる。下級の者をいじめる。公平に言って、多くの国がそうだったのだろうが、しかしながら、そうしたことへの意義の申し立て(つまり、いじめを無くそうとする活動)は、むしろ日本よりも、他の国に見出せたのではないかと思える。「こんな陰湿ないじめが増えて…」などと言う者が、簡単に「戦前は良かった」という思考とつながったりしているのを見ると、ちょっと空恐ろしさを感じる。少なくとも、旧日本帝国軍隊内でのいじめは、多くの人が証言している通りで、しかも、今の「陰湿な」いじめと比べて「さわやかな」いじめだったなどとは、俺の理解力では思えない。いじめはいつもどこにでもるある。これは厳然たる事実だ。■「いじめ当たり前」論に対してしかし、いじめがいつでもどこでもあったからと言って、これを当然に起こるべきものと考える感覚には抵抗したい。いじめはいつでもどこにでも見出せるかもしれないが、異常事態であるという認識は持ち続けたい。というのも、この感覚の基底には、トラシュマコス的発想が潜んでいるように思えるからだ。■トラシュマコストラシュマコスは「<正義>とは、強者の利益だ」と言った。むしろ、喝破した、と記したいくらいだ。強い者は、「正義」をつくれる。これは多くの現実に、確かにあてはまってしまう。会社の社長には、なかなか諫言できない。ミートホープ社の事例は、格好の例だと思える。■自分を省みないナイーブさずっと言い続けていることだが、「権利は義務をなしてから」という考えは大変に間違った考えだ。そして、注意深く見ていればわかるが、多くの場合、この言は、強者から弱者に対して吐かれる。おそらく、こういうことを言いたい人間は、「勝手なことを言わずにやることやれよ」と言いたいだけだ。そもそも、用語として「権利」や「義務」を使うのが間違いであって、そういう用語を使わずに、「私が社長なんだから、四の五の言わずに従え」と言ったって、言いたいことをちっとも外していないんじゃなかろうか。このレベルの議論に、「権利/義務」などという用語を誤用するのが良くない。会社というのは、すでに、力のある者が発言力を増すような「トラシュマコス的世界」であるわけで、当然のごとくそうした論理が通っているのだから、わざわざ義務云々の話にする必要はそもそもない。権利というのはもっと根底的なもので、「家族が亡くなったから休ませてください」と言った主張の根拠になるものだ。そんなの当然じゃないという反応をした人間は、歴史をしらなすぎるだけだ。まあ、そもそも間違った用法だからどうでもいいのだが、はっきり言ってしまえば、こういう用語を用いてしまう心情というのは、自らの人望で部下を従えられない人間の単なる泣き言に根ざしているのだろう。こういうことを簡単に吐く人間にだけはなりたくない。吐かずに済むような上司・経営者でありたい。■強者たちの世界に対してトラシュマコスに対して、ソクラテスは弁論に勝っただけでなく、それとは違った世界を見事に描いた(描いたのはプラトンだけど)。これについてはまた書くこともあろう。いずれにしても、考えなければならないのは、「強者なら発言力を持てる」という発想で良いかということだ。良いというならば、そもそも権利や法などという概念はいるまい。一人一票じゃなくたっていい。残念ながら、われわれの政治体制の理念は、そういう発想が入り込むことを予定していない。「権利が義務の対価だ」と発想する人間は、単純に勉強不足なだけだ。しかし、先ほども述べたように、そういう論理が通用してしまっているところは確かにある。だが、だからこそ、「ミニマム・スタンダード」(ロールズ)としての人権が必要なのだともいえる。■強者といじめ強い人間が「義務」を言う構造は、強い者が弱い者をいじめる構造に似ている。どうして、そういうことを言いたくなるか考えると興味深い。社長が、部下に「義務」を言いたくなるのは、会社経営において危機感を持っているからだ。そうした社長は、常に経営の危機意識に襲われている存在だ。つまり、社長がある種の<弱者>であるから、さらなる弱者に無理を通したくなる。「強い」から何かが言える。「強い」からいじめる。この構造に囚われている者たちは、実は<弱い>。■処方は簡単ではないこうした<弱者>たちの大きな構造が大人の社会にあって、子どもたちは、それを内面化している。こうした状況で、「弱い者いじめはよくない」という「叩き込み」だけでうまくいくわけがない。そもそも、そうした発言者は、自分こそが、そうした構造の社会にいることをわかっていない。子どものいじめよりも先に、「大人のいじめ」に対する発言をしなければならないはずだ。いじめのある社会。それを認めたうえで、どのように発想するのか。社会契約論はその一つだ。そんなものは歴史上無かった、なんてのはつまらない反論だ。そうじゃなくて、現実が違うからこそ、そして少しでもdecentな世の中にしたいからこそ、われわれはこの発想を基底に据えるのじゃなかろうか。それこそ、「権利」と絡む話になるわけだ。そして、ルソーが、プラトンの『国家』が「教育書」であることを見抜いたうえで、『社会契約論』より連なる『エミール』を書いたように、教育がそこに絡む。「国を愛する心」を教えれば済む話ではない。残念ながら。■■■「本に溺れたい」のrenqing氏の記事も参照されたし。「明治の立身出世主義の起源について」「明治の立身出世主義の起源について(2)」「teaching と communicating は異なる」
2007.06.29
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ヤンキー先生については、耳に挟む発言がどうも首を傾げざるをえないものばかりなので、いつか著作でも読んで、逐一検証しようと考えていたのだが、この世の中は凄いもので、そういうことをすでにしてくれているサイトがあった。まあ、どんな人物なのか、ちゃんと認識しないといけない。というわけで、こちら(「義家弘介研究会」)をどうぞ(これはなかなかのサイトです)。その中でも、経歴がコロコロ変わっていることや、結婚の経緯が120%くらい変わっていることが留意に値する。意見がコロコロ変わっているのは気づいていたが、それもわざわざ纏めてある(笑)ちょっと引こうか。■義家の結婚経緯マスコミに出始めは、当時担任していた女生徒と交際し、妊娠、退学させたが、結婚したことで「責任を取った」「純愛だった」と主張。講演会や本、「徹子の部屋」では出産に立ち会ったことを感動的だったと語っている。週刊アスキー 2005年9月6日号 進藤晶子との対談では、大麻事件で傷ついた女生徒の相談にのっているうちに付き合うようになったと発言。が、月刊LEE 2005年6月号では、退学後交際を始め、1年半後に妊娠発覚と発言している。教育委員就任直後のインタビューである。また、瀬戸内寂聴との対談本「私の夢 俺の希望」では、退学後交際をはじめ、12月に結婚、2003年5月出産と主張している。つづきも面白いので、ぜひ目を通してほしい。■ヤンキー先生という戦略どうも読んでいて、この人、虚言癖があるのかな、と思い出した。自分を大きく見せたくて、嘘を言っちゃう。実力で勝負できないから、ヤンキーだったということを言う(これも事実かどうか怪しいけど)。しかし、この戦略がこの国では成功するのがすごい。今や自民党候補!笑なんか、大仁田の方がまともに思えるようになったんだけど、俺は普通じゃないのかね。■発泡酒男ま、こんな候補が最大与党の集票装置として機能するんだから、「ヤンキー先生」っていうラベルはすごいもんだ。ちょっと調べりゃわかるおかしさが、この国では政治上のディスコースとして上がってこない。ラベル政治。ビールのうまさがわからないやつが、ラベルで判断するようなもんだ。中身は発泡酒。義家を発泡酒って言ったら、発泡酒に失礼か。
2007.06.25
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本当にいろんなところに新自由主義的発想が入り込んでいる。成り上がりの儲け至上主義経営者や、ヤンキーだったことしか特筆することのない教師などが加わっている「教育なんとか会議」などがその代表ともいえる。儲け第一主義の経営者などは、効率優先でやってきたわけだが、もちろん、やつは経営において、数値優先でやり続けてきたし、利益を求めてスクラップアンドビルド(壊したり建てたり)をやってきた。「社会貢献」という大儀名文を備えた「金儲け第一主義」を貫いているところは、グッドウィルやライブドアなんかと本当によく似ている。(ちなみに、彼らは儲けられれば、それはつまり「社会貢献」だというなんともナイーヴな考えを繰り返す。ニーズに応えるのが貢献だとぬかす。しかし、ちょっと考えればわかるが、多くのブーム的なヒット商品などは、ニーズというよりも「騙し」の効果によることが多い。「騙されたい」というニーズに応えるのが「社会貢献」だと強弁するなら成立するが、普通は、これを「貢献」とは言い難い。ヒトラーが選ばれたこともニーズだと言える人間だけが、そして、その「ニーズ」の結果の悲劇に胸を痛めるだけの心が無い人間だけが、そう強弁できよう。)さて、そういう成り上がりが教育に口を出すことを許すというのは、実はおのずと一つの政治的なスタンスに立っていることを意味する。儲けのみを求めて居酒屋を始めた彼が(当初は「居酒屋は素晴らしい」みたいなことを言っていたが)、学校経営にも介護事業にも手を出すのはなぜか、という問いを考えてみることが、彼を許容する政治スタンスを明確にすることになる。つまり、ゲーム的に成功するような「如才なさ」を良いものとする価値観である。「○○をやる」という「求道精神」よりも、「何をやってでも」「成功」するのをよしとする価値観に、彼を許容する者はおのずと立っていることになるわけだ。(悪事を働いたって、人を騙したって、「ルールに則っ」ていて、とにかく「勝て」ばいいという価値観に。ルールを守っていれば、心は関係ないという価値観に。)これは「<正義>とは、強い者の利益だ」といった、プラトン『国家』に出てくるトラシュマコスの立場の、歴史的に何度も何度も煎じ返されてきた、さらなるベタな繰り返しでしかない。■安全第一「安全第一」という言葉は、「安全第一、効率第二」の略である。効率を優先した会社で、不幸にも生命を落とした人たちがいたからこそ、作られてきた<制度>的言葉だ。昨今の効率第一主義が、こうした考えの積み重なりを破壊するものであることは言うまでもない。■効率が善いかどうかではなく、その目的が善いかどうか人間が効率を求める工夫をすることがあるのは当然だ。ただ、それは目的に紐付いているからこそ意味をもつ。ある目的があって、それを行う上で、工夫する。これは当然だろう。だが、大切なのは、その「工夫」が<善い>かどうかは、「目的」によるということだ。他者の生活を蹂躙してまでやる「工夫」が善いかどうか。「効率第一、安全第二」で善いかどうか。■人間よりも効率優先会社的価値観は、何よりも効率を優先する。とくに、ここ十数年、アメリカの「年次改革要望書」というこの国の「実質的憲法」によって進められた、外資的価値観の導入は、この国の企業制度をおかしなものにした(こっちの「押し付け」批判をかわすために「日本国憲法」を変えようとしているって見方もできる)。言うまでもなく、効率=利益を優先すれば、企業はリストラを行ってでも結果を出そうとする。企業的考えにおいて、「非効率部門の廃止」という考えは避け得ないわけだ。■強者じゃないのに賛成するやつら「民間的発想」という言葉が安易に使われるが、当然のことながら、それがよい場面わるい場面がある。効率というものを第一におけば、民間的発想なるものは手放しで賛成できるだろうが、そもそもそこまで非人間的発想を持てる人間はどこにいるのだろうか。経営者がそういう考えを持つのは当然だ。彼らは「強者」なのだから。ミートホープなる会社の社長を見ればわかろう。だが、普通の者たちにとって、どうしたらそういう考えに与することができるのか、いつも俺は不思議に思う。(結論としては、「よくわかってないんだな」に落ち着くが。)■学校に効率?会社的効率第一主義の発想は、不採算部門のリストラにつながるに決まっている。学校というところが効率を優先したら、何が起こるのだろう。そして、効率の効果を計るのは、学力テストなのだろうが、子どもたちは再び、国家の威信の道具に戻されてしまうのだろうか。それに何よりも、効率主義は常に下手糞な真似を再生産するが(例えば、流行っている人事制度を適当に導入して滅茶苦茶になる企業社会のように)、教育における効率主義は、それが下手糞に真似られたとき、酷い結果を生むのは間違いない。そして、結局、社会学が明らかにしているように、学校の「努力」よりも、その他の要因(地域的経済格差や親の収入格差)によって、結果が決まることになるという、笑えない効果をもたらすだろう。馬鹿げている。安倍は選挙に使いたいだけだからある意味、悪意があるだけマシだが、それに付き合って自分が何者かになったかのように感じている「痛い奴ら」の大真面目な「間違った議論」は、何か空恐ろしいものを感じる。馬鹿が勘違いするのが一番怖い。だって、ヤンキーだっただけだぜ? 居酒屋チェーンで成功しただけだぜ?■善よりも効率別に、共通する善がある、なんて言いたいわけじゃない。だが、少し考えて、良心に従えば出てくるような考えが、効率優先のもとでは掻き消されるという事実を指摘しておきたいだけだ。非常に興味深い記事がある。効率優先の病をしっかりと考えたい。「地球温暖化対策につながる、ごみの減量化を図ろう」と、袖ケ浦市はレジ袋を使わない買い物を普及させる「マイバッグ利用推進運動」を16日からスタートした。しかし、1週間たった22日現在、運動に協力する店はなく、減量化の柱として取り入れた割引制度も有名無実化している。 同運動は市と袖ケ浦市商工会が連携。買い物客がマイバッグを持参してレジ袋を辞退した場合、店が1回につき1枚のシールを渡し、20枚集めたポイントカードを会計時に店に出すと100円割引する。店は客から集めたカードを商工会に提出すると1枚につき40円助成される仕組み。 同市によると、原料が石油のレジ袋を、市民が月1回辞退すると、年間72万枚、1万4800リットルの原油の節約になる、という。このため同市は40万円の予算を計上。5月から広報紙やホームページで運動をPR、初日の16日には市民会館でイベントを開いて協力店を募集したが、スーパーなどの反応は鈍く、応募店はゼロのまま。 導入をためらっているスーパーの店長は「ポイントカード1枚につき店が60円負担しなければならない。荷物が入ったマイバッグを持ったお客さんを、店員が“万引き”と間違っては大変」などと説明。また、主婦たちも「ポイントカードは各店ごと別々にためなければならない。スーパーなどの安売りに比べて魅力がない」と冷ややかな反応を示す。 予想外の市民の反応に担当の市生活環境課は「これまで以上にスーパーや小売店に協力をお願いして、ごみの減量化を進めたい」と話している。
2007.06.23
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■説明岩波の底力を思わせる企画の岩波講座『憲法』の第一巻「まえがき」において井上達夫は、戦後の護憲運動は、国家(右派)に対して憲法を護ることに感けて、民主主義(左派)に対して憲法(立憲主義)を護るということに鈍感だった、みたいなことを書いている(いつものごとくえらい曖昧な記憶です)。お上にへへぃ的メンタリティを持つある国の人たちは、ある時、民主主義が新たな原理として与えられたときに、それを「民主」の原理としてではなく、「多数」の原理として受け取った。なぜなら、「民主」を理解するには自分を構成しているお上にへへぃ的メンタリティを抜本から捨てなければならないのだが、そんなこと簡単ではなかったからだ。だから、新たな「お上」として「多数」を据えた。そういう点で、左翼と右翼という区別自体が、その国では可笑しいくらい成立していない。そうした状況への処方をいろんな人たちが考えてきたし、いまなお活発に議論されているが、俺などはかなりシニカルで、『国家』においてグラウコンが言ったようにこう言いたい。「あなたが語りかけている人たち自身に対しては、不可能でしょう。しかし、彼らの息子たちや、その次の世代の人たちや、さらにその後に生まれる人たちには、信じさせることができるでしょう」まあ、政治上において、教育が重要課題になる理由は、ここにある。教育が政治を求めているからではなくて、政治が教育を求めているからだ。ということは、<正しい>政治なくして、<正しい>教育はない(そこにきて、はじめて<教育=政治>という地平が開かれるように思う)。いずれにしても、今後の政治において、教育という舞台は重要なissueとして避けられないところに来ている。それをただ政府に任すのでもなく、民主主義に任すのでもなく、しっかりした基盤を持ったものにすること。俺の<政治=教育>への関心ははじまったばかりです。(なんだ、この長い説明は。)■多数の専制解題■君主の物理的強制力は、行為に対して発動するが、意思にまでは及びえない。しかし、多数は物理的であるとともに精神的な力を身にまとっており、それによって行為と同様に意思に対しても影響を及ぼし、作為と同時に作為の欲望も禁圧されるのである。・・・絶対君主制は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼には、その忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。――フランシス・ド・トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』19世紀にトクヴィルがアメリカの民主政から学ぼうとしたものはたくさんあるが、上に挙げた危険もその一つだった。この章(第7章)のトクヴィルは面白い。「アメリカほど、自主独立の精神と真の言論の自由の少ない国を私は知らない」とまで述べている。その理由が、上の「多数による意思への影響」であることは言うまでもない。この民主政への警句は現代なお輝き続けていないか?ところで、先日の「多数の専制」において問題だったのは、最後の多数決への強権的誘導よりも、それ以前にフィクシャスな共同体ができてしまっていたことではなかろうか。あの場面ですでに、登場人物のDは、そう簡単には拒否できない状況にまで追い込まれていたはずだ。君には自由があるという言葉の裏に、権力者に従うならばという条件節が紛れ込んでいる事実は、学校生活を過ごしたことのある人間なら誰でも知っていよう。その権力者が多数であるときが本当の厄介だということは容易に想像できるのじゃなかろうか。権力が見えなくされている社会は怖い。俺は、(これ以上語るのは、蛇足もいいところだが)それゆえにこそ、立憲主義の精神が絶対的に肝要なように考えている。司法過程は、統治の一機関によるものであることは間違いない。だが、権力側だからといってこれを忌避するのはおかしい。というのは、権力分立が説かれる本当の理由は、権力が必要だからに他ならないからだ。権力が無い状態で、友愛に頼ろうなどという言は、それこそアメリカのネオコンには馬鹿にされるだけだろう。俺は権力の必要性を認め、その上で、その危険に意識的に臨もうという意志こそ、立憲主義の本義だと考える。司法の場における<解釈>行為の保障こそが、「多数の専制」へのカウンターになりうる装置なわけだ。民主主義という政治過程だけに自浄作用を求めようとするのは、自分が権力側に立つ可能性があるということを知らない蒙昧な意見に過ぎないように思う。
2007.06.15
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■説明今日から何編かは、多数の専制について書いたものたち。「多数が正しい」と勘違いしている人が首相にまでなってしまっている不幸に留意する今日この頃。■多数の専制■今年は17日がボージョレ・ヌーボーの解禁日で、その意義もわからずに儀式にだけは与るという大勢の愚か者の一員として、俺もボージョレを飲もうと計画するのであるが、東経135度を標準時子午線とする世界でも有数の「早くに味わえる土地」にいながらも、このようなワインに関する知識を持たない者が真っ先に飲もうとするのは、ワインの神様がいるならきっとお怒りになるだろうと気が引けて、一日おいて飲むことにしたわけだ。ちなみにワインの神様というものが概念としてでさえ存在するのかどうかもわからないが、麺類好きの細君がある国において味噌ラーメンと名うったものを食べたときに、これは味噌ラーメンの神様がいたらお怒りになると感じて書いてよこしたその文中に、確かに味噌ラーメンの神様は存在するんじゃないかと納得させられてしまうだけの、情念とでも呼ぶべき圧倒的な神性を感じたことが今なお俺に崇敬の念を起こさせている。そのようなわけで、解禁日の翌日を舞台としたあるフィクションがここから語られることになるわけだ。その日、仕事を終えたHはボージョレ解禁の会を思い立ち、スタッフ2名にボージョレ残業を命じ、共同経営者のDの戻りを待っていた。Hは、ボージョレのようなものは飲み屋に飲みに行くのではなく、職場で皆で飲むものだと考え、グラスと一本のボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーを用意しておいた。ところが、Dは珍しくその日車で出社しており、ボージョレを飲むことが叶わない状況である。互いに残念と思いながらも、まあ、とにかく乾杯くらいは一緒にしよう、となったそのときに、4名はワインオープナーがオフィスに無いことに気付いたのだった。まずHが近くに買いに走ったが、鄙びた地、遅い時間では、どこにも発見できなかった。それからの会話である。「どこにも売ってるところ無かったよ」「ナイフとかで開けられませんかね」スタッフのSが言う。「無理でしょう。コルクがボロボロになって中に落ちるのがオチですよ」ともう一方のスタッフA。「これなら飲みに行った方がよかったな。でも、ここで飲むのが意義深いと思ってね。・・・一つだけ案が無くはない」とHが言ったとき、即座にDが「俺は行かないよ」と、すべてを読みきったように言った。そう、HとDは長い付き合いなのだ。「確かに、その案は俺も考えついてはいたけど」Dが言う。「俺に何のメリットもないだろ。俺が車でワインオープナーを取りに行ったって、俺は飲めないし、何よりも俺は帰ったら、もう来たくないぜ」「しかし、それしかないよなぁ」とHが二人に振る。「私、誕生日なんです。今日」とAが言う。「後3時間で終わってしまう」「お願いします」Sものる。「おいおい、俺には何のメリットがあるわけ?」Dがたまらず言ったところで、Hが似非民主主義を持ち出す。「わかった。じゃ、ここは公正に多数決にしよう」弱者は常に弱者がゆえに、強者の利益の前に屈する。そのような政治制度もあろう。
2007.06.14
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■説明言葉の権力性におののく。愛さえが言葉に支配されている。権力者の言葉で内面を縛られた「こども」。そこには全く自由などない。内なる反発を秘めつつ、その言葉から離れられない。そこには本当はむき出しの権力関係があることを知っているから。そしてそのことを自分に嘘をついて隠さなければならないからこそ「愛」という語がある。問題は単純じゃない。■ケチな言葉のビラミッド■敵は個人じゃない、その背後に聳えるケチな言葉のピラミッドだ。――モブ・ノリオ『介護入門』個人が言葉を吐くというのが幻想にも感じられるような現実。個体が言葉を吐くのではなく、言葉が自身を語る口を探しているだけだとも言いたくなる。これをミームと呼ぶのか? おいおい、勘弁してくれ。ただのステレオタイプの反響板だぜ。救いを求めて言葉を消費しているようだ。お父さん聞いて、お母さん聞いて、ってのは、日頃十全に話を聞いてもらえない子どものやることだ。認めてもらえていないから、何かを口走ってしまう。少しく成長して、ただ口を開くだけでは怒られることを学んだ子どもは、聞いてもらえる事柄を探す。自分の意見ではなく、人の意見を<かたる>。父母への愛がある場合、それは自己保存欲求に根ざしている。あらゆる動物のなかでも有数の弱い「赤ん坊」として生まれる人間は、絶対的に父母からのattentionを必要とする。その関係性を愛と呼ぶ。ここに変な物語をつくりたがるのはよせ。虐待や捨子、そんなもんは結構溢れてる。そんな権力関係を愛と呼びえてしまうから、attentionが足りない人間は、権力を求める。縛られたくなる。命令を求める。死んで来いって言われたい。『異邦人』のムルソーが、死刑を前に牢獄のなかで世界の愛を感じるごとく。これは宗教だ。人は宗教から逃れられない。自然へ帰れない。ケチな言葉のピラミッドを「敵」とするところに、モブの凄さがある。恐らくは、人の忌避するものを真正面に受け止めた者だけが到達可能な地点に立っている。誰もが自由を語るが、誰もが自由じゃない? 結構じゃないか。誰も自由を語らなくなるまで、自由を語ろう。自由こそは、不自由な者の特権のはずだ。
2007.06.13
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■説明本来なら「その5」くらいまで続くはずだった「自由への予備的問題」シリーズは、この「その2」にして終わりを迎える(笑)。はっきり言って、最後のキャサリン・マッキノンの言葉への長い前置きに過ぎない文章に思える。しかし、世の碩学たちが示した答えに対して、自分の言葉で辿ってみるということは、少なくとも、自分には効果的だと思えなくもない。■自由への予備的問題(2)■法はどこで生まれるのか。これは現代民主主義=立憲主義を考えるうえで、つまりは、自由(われわれの自由とこの国の自由)を考えるうえで、大切な問題であろうと思う。「日本は法治国家」だという、よくある誤解を語り出しの鍵としようか。■日本は法治国家ではないネタとしてとって置こうと思っていたのに、前回先走って書いてしまったが、分かっていながらわざと確信犯的に言っていたのか、本当に知らずに言っていたのか、中曽根康弘という人は「日本は法治国家だ」ということをかつて述べた。本気だとすると、とんでもない誤解なのだが、もしかすると「(国民)放置国家」(あるいは「放恥」?)と言っていたのかもしれない(であれば、言行一致の見事な政治家だが)。いずれにせよ、巷にもこの誤解は溢れているように思う■法治国家形式的法治国家とは、法律で決めさえすれば何でもできるという考えだと言ってしまって差し支えないだろうと思う。後で少し書くが、俺はこの形態よりは権力者の「恣意の政治」の方がマシなんじゃないかとすら考えている。「法治」とはつまり「法律を用いた統治」なのであり、権力側が「統治」するという考えが濃く、民主主義の大前提「主権者は国民」を壊す可能性があるわけだ。たまに「でも、国民の代表者が法律を作るんでしょ」なんていう純粋無垢でナイーブな意見も聞くんだが、形式的法治主義を見事に体現してくれたのが、絶大なる支持を得たヒトラー君だったわけだね。■じゃ、なんなのよ「○○は△△じゃない」と言ったとき、「じゃ、なんなのよ」っていう受け答えがあるけど、これはおかしい(個人的に好きなやりとりではあるんだけど)。まあ、これは長くなるからいいか。暇なときに書こう。実は、ドイツの「法治国家」も、戦後反省から「違憲審査制」を採り入れ、実質的には変わらなくなってきたのだが、われわれの立憲主義はふつう「法の支配」として位置づけられる。「法の支配」は、字のごとく「法が支配する」わけで、権力者は支配される側に入るわけだ。憲法の名宛人は国家だと以前も書いたが、形式的法治主義と法の支配では、理念において大きく異なる。■メンタリティ?法が支配している、というよりも、なんか「お上」が法律作っていろいろやってるって思ってる人が多いんじゃなかろうか。そうすると、自然、「お上、しっかりやってくださいよ」って考え方になる。これは、法律作るなら、ちゃんとしたの作ってね、っていう気持ちに近いかな。確かに、この要素も必要だろうと思う。なんか、衆院で与党が2/3とったから何でもできるっていう意見があるけれど、人間の世界はそんなに単純じゃない。現に、参考人や野党の追及で「共謀罪」はひとまず法案提出が見送られたわけで、少数だって力を持ちうるのが本来の議会のあり方なわけだ(だから、何度も書いてるけど、俺は多党制の方がいいと思っている)。だけど、そうしたお上に倫理を求めるやり方は、小泉みたいなポピュリストが出てくるとうまくいかなくなる。現に「郵政」で、もっと審議が必要だからと、NOを言っていた自民党議員たちは、離党させられているわけだ。これは言論による説得ではなく、れっきとした物理力=暴力であるわけで、民主主義の危険状態といえる。そこで行政府の歯止めが聞かなくなったときのことを想定していないという点で、「法治国家」という考え方は危うい。■法の支配の運動では、「法の支配」はなぜ良いのかといえば、行政とは独立した司法が「憲法(立憲主義)に照らして」判断するという機会を踏むからだ。つまり、立法府(国会)でできた文言が、われわれの実際の生活を脅かしたとき、その実際の生活においてその法が正しいのかどうかを判断するということを大前提に考えられている理念であるわけだ。もう少し言えば、人は間違うということを前提にしている理念であるといえる。どんなに注意したって、理論と実際は違うと言われるように、それが誰かの生活を脅かす可能性はあるわけだ。良かれと思ってやったことが、逆に酷い事態を起こすことがあるわけだ。国民の生活を酷い目にあわせる法律をつくる国会を、民主主義政府というのは難しいでしょ(この点、自民党改憲案の95条削除は驚くべき歴史的アホさだ)。■無垢な良心が人を傷つけるときが怖いさっき、少し触れたことだが、俺は統治形態をマシな順に並べれば、法の支配>明白なる独裁>法治主義だと思っている。前に「続・回り道雑談(1)」にも書かれていたが、表現の自由が制限されているということが明らかな国の方が、この国のように国民を騙す政府よりもずっとマシだと考える。■法とはさて、やっと「法はどこで生まれるのか」に迫ってきたが、最後の準備として、法とは何かを考えておこうと思う。英語では、法は「law」で権利は「right」だが、ドイツ語では「Recht」、フランス語では「Droit」が、「法」と「権利」の両方の意味を持つ。つまり、法=権利という概念ができているわけだ。歴史的に、法というものがどのように出来てきたのか、示唆しているように思えないだろうか。主観的法である「権利」と、客観的法である「法」の鬩ぎ合いの中でできてきたと考えられないだろうか。つまり、法を作っているのは、国会ではなく、まさに人類の営為なんだと俺は考えたい。これは、「文言」として国会が作った法律を「どのように理解するか」という行為もまた、法を生む行為であるわけだ。■法はどこで生まれるのかそれゆえ、俺は民主主義には、絶対に「独立した司法」が必要だと考えている。法はこの場所にあって、主観的なものから客観的なものに変わる。そういう理解で読むと、憲法12条は「われわれの法をつくる歴史への参加」という風に読めて、俺は大好きなのだが、クソ中曽根は、これにも手を加えやがった。あの禿げ。ともかく、最後にまた引用しときましょうかね。法の生命は経験であって、論理ではないという事実はコモン・ローに限ったことではありません。すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は-政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は-誰の経験がどの法のもととなっているかにあります。――キャサリン・マッキノン
2007.06.08
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■説明自由について考えるために予備的にいろいろやろうとした頃のもの。ちょっと今読むと怪しいところもあるが。■自由への予備的問題(1)■二つの自由概念ともう一つ(俺のための理論的整理)ある種の人々は、二つの自由概念と書いた時点で、これから何が語られるかわかることと思う。だが、そうしたある場所における「常識」は、現代民主主義における重要な鍵である情報流通にのっているとは言い難いのが実情ではなかろうか。てなわけで、俺は、多少の誤謬可能性を恐れずに、果敢にこれを書き記そうと考える。言うまでもないことだが、ァイザイア・バーリンの「二つの自由概念」に関してである。そして、その二つのあとにもうひとつを付け加える予定だ。これが前者二つとどのような関係にあるのかも考えられれば考えようか。■自由への二つのアプローチバーリンによると、「自由」は常に「権威」との対比において概念されてきた。そして、そこには二つのアプローチがあった。ここは俺流に纏めさせてもらうが、二つのアプローチは、両方とも問いの形をとっている。ひとつは、「個人が権威に干渉されない範囲はどれくらいのものか」という問いであり、いまひとつは、「どのような場合、権威は正当に個人を干渉できるのか」という問いである。前者を問うた代表はJ・S・ミルであり、後者を問うた代表はJ・J・ルソーである(ちなみに、俺はこの両者は本当に天才だと考えている)。■二つの自由概念前者の問いへ対するミルの答えは「危害原理」と呼ばれるもので、多かれ少なかれリベラルズの大前提なのではないかと思う。これは、「他者への具体的な危害を及ぼさない限りにおいて、自由は最大限認められるべきだ」というものだ。つまり、自由概念への一つの回答は「他者に危害を及ぼさない限りにおいて、権威は個人の自由を奪えない」ということになろう。それに対し、後者へのルソーの答えは「自己統治」と呼ばれるもので、国民主権原理の大前提となっている。これは、「自らが自らの主人である限りにおいて、強制は正当化される」というものだ。つまり、自由概念へのもう一つの回答は「権威が自分自身による(正しい)命令である限りにおいて、<自由意志>において従うことができる」ということになろう。■バーリンの評価バーリンは、この二つの自由を、それぞれ「消極的自由」と「積極的自由」と呼ぶ。「消極的自由」は「(国家)からの自由」として表現され、「積極的自由」は「(国家)への自由」として表現される。バーリンは(両方が大切だと後になって述べるのではあるが)、明らかに消極的自由が大切だと言い切っているように読める。その理由は、「積極的自由が新たな権威に取って代わることを求める」のに対して、「消極的自由は権威を掘り崩そうとする」からである。(これは明らかに東西冷戦期において、西側の肩を持っていたからだという風に読む研究者もいる。)■自由の構成ここからは、この二つの自由相互の関係のことを考えたいのだが、これに関しては、俺は二つの考え方を紹介したい。ひとつは、バーリンの概念分類は「(われわれの考える)自由は簡単には折り合えない二つの原理で構成されている」ということを示しているという読み方。もうひとつは、「消極的自由と積極的自由はコインの表裏であって、分かちがたく結合している」という読み方である。全く違うことを述べているような二つの読み方だが、俺は、実は両方真理だと考えている(一応、現代民主主義においては、という留保をつけておこうか)。現代民主主義においては、「消極的自由は積極的自由に支えられており、積極的自由は消極的自由の保障のもとに成り立つ」ように思える。そして、だからこそ、それらの保障の源泉は、それぞれ外部に求められなければならない(自由は弱い)。すなわち、(ミルが求めるような)個人の自由の保障は、絶対的な徳(価値・正しさ)として、それが認められていなければならず、(ルソーが提出する)自己統治は、自由の保障がなければ、ただの「多数の専制」あるいは「全体主義」に陥ってしまう(後者の読み方)のだが、これらは別々のアプローチにおいて保障するべきだと思える(前者の読み方)わけだ。両方大切なのだが、それをただ唱えても始まらず、両方をそれぞれにおいて保障する必要がある。そして、私見では、これを可能にしているのは、結局「憲法」なんじゃないかと思える。「憲法」を「自由の構成=constitution」という風に、語義通りに捉えるべきだと思うわけだ。前回「続々・回り道雑談」で法曹界の問題矮小化に関して述べたが、あれはあきらかに、片方のアプローチしかしていないように俺には思えたわけだ。 ■もうひとつの自由?――全体主義へのカウンターとしてさてある種俺のための基本的自由概念のおさらいが終わったのだが、いまひとつ無視できない自由概念が無いわけじゃない。10年前くらいから、ヨーロッパで大流行したハンナ・アーレントのものがそれだ。当時フランスに留学していた友人にアーレントの流行について訊ねたのだが、曰く、ヨーロッパでは全体主義の問題への知識層の意識が高く、再びこの問題が起こらないようにと本気で考えているようだ、という旨回答を得たことがある。つまりは、全体主義をしっかりと見据えながら鍛えられたアーレントの論に全体主義理解と解決の鍵があると考えられているわけだ。ともかく、彼女の自由概念は独特だ。アーレントの新しさというか独自性は、自由を公的概念として捉えたことである。アーレントにおいては、自由は「公的現れ(appearance)の空間」においてのみ保障される。そして、その「公的現れの空間」はアーレントの意味における「政治」の空間でもある。アーレントによれば、近代に入り、私的領域が重要視されるようになったことが、自由を奪った原因である。全体主義も、自由の後退に由来するものといえる。■公的自由の条件、あるいは誤解される「公」さて、公的自由なんてことを言うと、頭の悪いという意味での「保守」が喜びそうだが、残念ながらそういうわけにはいかない。アーレントの公的空間の重要な要件は、「plurality(複数性)」である。これは、さまざまな言説が競合することを必要とし、誰に対しても開かれているということを根源的条件とする。つまり、偏狭な排他的ナショナリズムとは、絶対に結びつかないものなのである。そこには「他者の現れ」が絶対要件であり、それによって計算できない「自由」が現れるのである。アーレントにとっての自由は「予測不可能性」を保持している。「公」が無い状況の危険は、自分勝手が増えるといったこととは違う。むしろ逆に、「他者の現れ」の無い状況では、切り分けられた個人は簡単にステレオタイプに絡みとられてしまうという危険なのである。つまり、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)として見られる「権威への逃避」は、アーレントによれば、開かれた他者がいなくなったからこそ、全体主義化したと解釈されるわけだ。(フロムの「自由」をアーレントは絶対に自由とは呼ぶまい。)■この国への処方箋になるか?俺はこの国は、間違いなく全体主義化していると思っているが、それは上に見た三つの自由のどれとも関係しているように思える。俺はここまで、それぞれの<身体>言語を、公的言説とすることと何度も述べてきたが、無論、それは「消極的自由」と「積極的自由」のことだ。そして、アーレントの自由概念に助けを借りれば、まさに、他者との関わりにおいてそれが可能だともいえるのかもしれない。アーレントにおいて、自由は、ただの自己利益的言説を超えて、全体主義化する政治へのカウンター言説として機能しうるように思う。そして、もしかすると、現代における、「積極的/消極的自由」の結合の鍵かもしれない。だから、愛国心があればこそ、堂々と自由を主張するべきなのだろう。もしかすると、こうしたブログの活動というのは、ひとつの開かれた活動足りうるかもしれないな。
2007.06.07
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■説明これはゲーム論のような何とか論のような。ファイナルファンタジー10ですな。■FFXいまさら■筒井康隆の『七瀬ふたたび』にかけてみたんだが、まあ気づかったならいい。俺が義務的にやっていたロールプレイングゲームというのは、ファイナルファンタジーXのことだ。シナリオの論理一貫性という点において、しっかりしているかどうかは議論の分かれるところではないかと思うが、そういう物語の破れ目がありながら、なお世界的に人気を博したというのは、それなりの理由があったからだというのは間違いないだろう。あるいは、破れ目にこそある種の真実があるのかもしれない。今回はひとつの試論として、やり終わりの感想を残しておく。発売して時間が経っており、廉価版も販売されたあとであるから、こういうことをしても許されるだろう。というか、そもそもFFXなんて、このブログ来る人はやらんよな。詳しく知りたい方はここを参照(若干俺の解釈との違いもあり)。■いくつかを思いつくままに死者に規定される土地。記憶の断片と集積。思想統制的教え(ある種の国家宗教の存在)。内在する不幸が統治を安定させる構造。スケープゴートとされる種族の存在。歴史の歪曲。統治のための物語を再生産する物語。そのどうしようもない物語に内在しながら本気で国を思っている寺院。上層部の利権的構造。民の純粋なる善意。信仰から発する差別。熱狂的若者。政治権力と母国語。オイディプスのパロディ。解決できない問題があるから統治は成立するという逆説的真理を含んでいる物語で、ある種のこうした統治に関する構造を、個人的意思によって打ち破る物語とも読める。解決できない問題から民を(一時的に)救うのは、「国民的スポーツ」と「偉大なる殉教者」の二つがもたらす希望で、そのどちらもが究極的解決になっていないのがこの物語の特徴である。つまり、究極的解決のない螺旋階段的問題構造を持ったなかで、一時の希望だけを民に与え続ける土地(国)の物語なのである。それを打ち破るというシナリオにおいて、重要なポイントは「わかった振りをして何もいえない大人になりたくない」という「青さ=若さ」かもしれないし、偶然の(シナリオ上は必然だが)出来事の重なりによる啓蒙が主人公たちに起こったからかもしれないし、その土地の問題構造を見抜いていた「祈り子」たちの夢見た「救世主」として主人公が存在していたかもしれないし、あるいは、恋愛の力なのかもしれない。そのどれもが考えられうるし、一つだけをすべてのように言う必要はない気もするが、俺として「救世主」説だけは採りたくないと思う。そこには物語的救いが無いし、何よりもこの物語の「破れ目」を覆ってしまうからだ。繰り返すが、破れ目にこそ、俺はこの作品のアクチュアリティが表れているんじゃないかと思っている。■破れ目このゲームは主人公の名前を変えることができる。俺のような面倒臭がりは、そもそも用意されている名前をそのまま用いるが、これを変更しようとする者は、自らのアイデンティティを付した名前を用いたのではないかと思う。つまり、あらゆるRPGがそうであるように、主人公への感情移入が要求されているし、それを想定して細部に注意して作られている。さて、問題は、そうしたプレイヤーと感情の重なる主人公の出自なのである。あらゆるRPGが、感情移入する対象としての主人公について、プレイヤーにしらせていない。それはある種当然の話であり、主人公の「記憶」は一般的なRPGにおいてはどうでもいいものに近いからだ。物語的アイデンティティがあり、それを対象化する視点として主人公の目をプレイヤーは持つのである。主人公はあくまでも視点であって、物語に自らの存在の根源を包摂されたりはしないはずだ。しかし、このRPGは違う。主人公(あるいはプレーするあなた)自体が、物語中に出てくる者たちの夢なのである。夢が実態を持った結果なのだ。そのことに物語を通して気付かされる。感情移入の度合いに応じて大小の差はあれ、ショックを受けるように作られている。だから、すべての解決の後には、自らは消える存在であることを覚悟しないといけない。最後にヒロインが、「多くの失った人たちがいます。その人たちのことをたまには思い出してください」と(いうようなことを)言う。これは一つの感情移入先であるコンピュータからのプレイヤーへの語りかけなのかもしれない。これはこれでこれからのバーチャルな世界を考える重要な考察点だとも思えるが、今回は、そこには触れず、話を戻す。■「各人にとって自己自身は最も遠い者なのである」主人公が視点として物語を対象化するだけではなく、主人公が自身の存在を物語によって保障されている。これがFFXのポイントなのだろうと思う。ある種の論理的一貫性を犠牲にしても、この破れ目こそがアクチュアリティの源泉として残っていなければならないものだと思える。つまり、「自らが存在しているとはどういうことなのか」という問いをこのゲームは差し出してくるわけだ。物語の土地において、主人公は自らの存在をわかっていない。夢の世界から引っ張り出されたせいで、その土地との関わり方がわからないわけである。まさに、ニーチェが「自己自身が最も遠い者」だと言ったそのままの意味において、主人公は自分から「最も遠い者」なのである。■アイデンティティ自らの存在は規定者を必要とする。それは、他者の視線として表れる。自己自身が最も遠いとは、自らの存在を自ら規定することはできないからである。われわれは他者の視線によって、はじめて自らの存在位置を確認できる(この点、初期のポール・オースター作品が興味深い)。恐らく、アクチュアリティは、ここにあるのだろうと思う。自己を規定する存在の不在。これが「民主主義の不安」である。柄谷行人はこれを「王の穴」と読んだ。つまりは、王が存在しなくなった「民主制」において、民衆が代表されない状況が起こるということである。だから、それはある種の「英雄待望論」になり、ある種のポピュリズムになる。そして、そのような状況下で、何よりもアイデンティティを確実に保障してくれるのは、実は「死者の視線」なのである。この物語も、死者に規定されているのだが、「死者」というのは不動の視線を自らに投げかけてくれる。死者は、生きている他者と違い、ずっと自分を見守ってくれる(という擬制が成り立つ)。俺は実は、ここに現代の「靖国」問題の構造があるんじゃないかと思っているが、これはまたにしよう(「反戦老年委員会」さんから示唆を得たうえでコメントを付してある参照)。しかし、この物語は、それを超えようと示唆しているように思える。■オイディプスこの作品は、またオイディプスのシミュラークルとしても読める。父親を超えることが一つの目的として定位されており、オイディプスと同様に父を殺すことになる。オイディプスが父と知らずに殺したのに対し、このRPGでは、主人公は父と知りつつ父のために殺さないといけない。また、主人公の幼少期の記憶において、父を憎いと思う理由は、母を取られるからであった。つまりは、フロイトが解釈した意味での「父殺し」という自立の儀式と、父との和解の儀式が、このゲームのクリア条件とも読めるのである。(主人公とライバル的位置にある登場人物もまた父親を殺しているが、物語を超える契機を同時になくしている。)父親の視線に規定されてきた主人公が、そうした視点を超えて、自立する物語なのである。つまりは、そこに同一化していたプレーヤーが、最後に主人公が消えることによって、物語から離れ、自立するのだ、というふうに俺は読みたいわけだ。(そこには恋人との別れもあって、自立の材料が遍在している。)論理的にきっちり詰めたときに、この物語に解決があるのかはわからない。しかしながら、やはり、われわれは大きな物語に包摂されることを拒否できるんだというメッセージは力があるように思える。そうした個としての輝きが、この作品に力を与えているのだと思いたい。
2007.06.06
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■説明これは郵政解散選挙の後に書いたもの。■日本はアホ国家■今回の選挙を自分なりにまとめておくことは必要かもしれないと思う。徒然に、毒々に書くが、■「選挙へ行こう」なんていうプロジェクトはやはり害悪だった。「参政」(あるいは狭義に「投票」としてもいい)の権利は、確かに人類の歴史的営為の賜物である。それに関して、亭主は、その辺の人たちよりかなり真剣に捉えているつもりだ(Taking rights seriously!)。しかし、それを「義務」だとか、「行使するべきだ」という言説にしてしまったのは、はっきり言って、「権利」の意義をちっとも理解していないからだと思う。我々は必要に迫って権利を主張する。自分の財産が不当に脅かされたとき、自分の表現が不当に押し止められたとき、自分の尊厳を不当に傷つけられたとき。権利とは本来、普段の生活で、主張しなくて済むなら済む方が良いものなのだ。そうしたものを「義務」と置き換え、「行かなきゃいけない」という風潮を作り出すのは、それこそ「権利=自由」とは逆の原理に他ならないように思う。なぜそのようなことを俺が言うかというと、今回の選挙では、あきらかに無熟慮の票が動いたように思えるからだ(これに関しては、後に詳述する)。フェミニストに誤解・批判されるのを覚悟で書けば、「女子供」の票が当初から狙われていたし、「女子供」の票が大きく影響した。■「国民はそんなにバカじゃない」?テレビのコメンテーターでアホ丸出しの奴がいた。小泉自民の選挙戦術について、野党議員が「意図的に争点を隠した」と述べたとき、「国民はそんなにバカじゃないですよ」と言った。テレビにおいては受けるセリフだ。この言葉は、普通の政治家には否定しにくい(「国民はバカです」なんて言えないよな)。しかし、アホコメンテーターもちょっとでも政治を勉強していて、ワイマール期にナチスが台頭した状況を知っていれば、こんなアホなことは言えなかったはずだ(ルイ・ナポレオンのときとは違うという言説も俺には疑わしい。俺には小さな状況の違いよりも大きな構造の類似の方に目が行く)。民主的手続きに則り、大衆がヒトラーを選んだんだ。■一番悪いのは野党だしかし、一番アホだったのは、間違いなく野党だった。そういう国民の性質も知らず、争点作りも後手に回り、そもそもすべての作戦において負けていたと思える。大衆はヒトラーを好む。政治家ならこのことを真剣に考え、理念・政策とともに、どのようにしたらそれが実行できるのか、戦術論をもっと磨くべきなんだろうと思う。野党が弱くなったとき、ファシズムは完成したのだから。■選挙なんて行くべきだと自分で思ったときに行くべき今回のいろいろな場所における「選挙へ行こうプロジェクト」は、結果として与党を支える形になった。体制を支える市民運動なんて信じられん・・・一党独裁じゃないとあまり考えられないことだ・・・人口が減りつつある中で、アメリカのようなフロータイプの経済を目指すネオリベラリズムか、ヨーロッパのようなストックタイプの経済を目指す社会民主的改革か、といった争点が実は裏に潜んでいたのに、前者の選択でもっとも打撃を被るはずの20代の「子供たち」の票の多くが、無熟慮に投票箱に投げ込まれた。どちらが良いのかは、もちろんそれぞれの選択だ。ただ、どれくらいの人間がそれについて考えていただろう。俺は、所帯を持ったりして、給料から税金を引かれることの「痛さ」をわかるようになった人が、「だから投票に行く」というので良いと思う。わからないのに投票に行く必要があるとは思えない。■だからアホ結果的に体制側を支援する「市民運動気取りのアホ運動」体制側に簡単にしてやられている「アホ野党」不勉強のアホ語垂れ流しの「アホコメンテーター」自分がアホともわからない「アホえる子羊な国民」
2007.06.05
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■シリーズ説明以前書いたものを再録しようと思います。別に、素晴らしい出来だからということでは全くなくて、人は悲しいくらい忘れていく生き物なので、自分として考えていたことを整理したいからでございます。もちろん、それなりのものを選んで再録です。というわけで、このブログはじめての記事から。■携帯の自動オフ化について■携帯電話のマナー対策(!)を一部機関が考えているという。以前から、電車でのルール・マナーという名の規制について、亭主は文句があった。心臓にペースメーカーを入れている方がいるのは承知している。そうした方々のための対策が必要だということにも賛成している。しかし、鉄道会社が勝手にルールを作って、電源を切れというのはどうなのよ?つまり、本当に危険ならば、国民的議論として立法議論になるべきであって、一部の人間が他者の行動を、何の正統性もなく規定することはできないはずじゃないのかね。優先席近くで電源切ったところで、混んだ新宿駅降りなきゃいけないわけだし、そこでの危険はどうするの?こうした議論をつめていけば、絶対に公共の場での携帯規制論につながるわけで(タバコのように)、業界団体からの圧力などから政府はそこへは踏み込めない。ただの欺瞞じゃねーか?優先席付近だけ切らせてればなんとかなるなんて、白痴の議論だろ。ポイントは二つ・リベラルデモクラティックな社会においては、自らの自由を規制できるのは自らの判断であって、私的機関の人間が行動を規制するのはおかしい。規制したいなら、立法行為を通して法的規制をするべき。・そうした立法議論に踏み込めないのは、携帯規制論が進んだ場合の経済に与える影響であって、本音のところは、人の命よりも経済を優先している政府に問題がある。どっちがマナー無視よ?携帯電話のマナー対策として、電機・通信関連企業でつくる情報通信ネットワーク産業協会(CIAJ、会長=野間口有・三菱電機社長)は、電車や病院内で自動的に携帯電話の電源が切れるシステムなどの検討を10月に始める。電波が医療機器などに悪影響を与えるのを防ぐため。通話を控えるよう呼びかけるだけでなく、技術的に通話を制限する仕組みを議論するのは初めて。 携帯電話のマナーを巡っては、鉄道会社が「優先席付近では電源を切り、優先席以外ではマナーモードに設定して通話は控える」といった利用ルールを設けている。病院でも医療機器に影響を与えないため電源を切るよう指示するケースが多いが、利用者のモラルに任せるしかなく、完全には守られていない。 このためCIAJは、9月末をめどに通信事業者や携帯電話メーカーに参加を呼びかけて検討部会を発足させ、利用者が電車や病院内に入ると自動的に電源が切れたり、マナーモードに切り替わるなどの対策が技術的に可能かどうか、コストがどの程度かかるかなどを議論する。 ただ、強制的に電源を切ると車両内での事件やトラブルで緊急に通報が必要になっても対応できない恐れがある。こうした課題を解決するシステムも検討対象になる。今年度中に規制の方法や問題点について論点を整理し、総務省など関係機関への提言や、実際に規制を導入するかどうかの判断材料にする。
2007.06.04
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