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(1)のつづき■しんらつな反対論さて、選評の抜粋を足がかりにするという、「とんでも」なやり方であることは重々承知しつつ、さらに続ける。選評の抜粋上わかる限り、唯一でありながら、絶対的な反対者が石原だ。しかし、石原の反対は、宮本が述べるような質のものではない、というのが俺の意見だ。いろいろな反対意見を述べようとも、石原の評価は、単純に好悪に由来している(もちろん、好悪がレベルの低い判断基準だと述べるつもりなど毛頭ない)。そして、その好悪に文学的ではない何かのスタンスがおのずと出ていると俺は考えている。石原は、ある箇所で、文学の絶対要件のひとつとして「カタルシス」を挙げている。ここにひとつの、文学的ではない、彼の何かのスタンスがあるのだが、それは後述する。ここでは、再度、石原の選評の「抜粋」を見よう。以前の、絶滅に瀕している鳥「トキ」について書いた作品にも一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられたが、今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても、物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない。さて、「トキ」について書いた作品というのは、言うまでもなく『ニッポニア・ニッポン』のことだ。石原は、「一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられ」るというのだが、これはおそらく誤りだ。『ニッポニア・ニッポン』に関しても論じる用意が無くはないのだが、この書に関しては、文庫版「解説(と名打っていないが)」で斎藤環が卓越した読解をしているので、ひとまずそちらに譲りたい。この斎藤の「読み」に関しては、全体を引く必要があるものだと思うが、ここでは無理なので、少しだけ引くことにする。■斎藤環の読み(象徴を妄想化する形式主義のほうへ)いまや阿部が信ずるのは形式であり、論理だけである。ある形式を論理的に徹底するところから、導き出されるいびつな「妄想」。複数の妄想が関係を結びあい、妄想の複雑系が繁茂しはじめる。このとき阿部はあきらかに、妄想のひとつの本質を独自に看破している。そう、ほんらい妄想とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にもパラノイアが治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な考え方をするためだ。さらに、もう一箇所。…〔前略〕…そう、本作こそは、「天皇萌え」の可能性を示唆した最初の作品でもあったのだ。…〔中略〕…ここでトキ=天皇という「究極の象徴」同士の交配は、むしろ象徴なるもののいかがわしさを露呈させるためのテクニック以外の何物でもない。かつては禁忌の圧力のもと、壮大なる文学的幻想の源泉たりえた「天皇=父」殺しの身振りは、もはや「ひきこもり」青年の妄想という矮小化をこうむって、象徴そのものの衰弱へと向かう。本作が、クイーンの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞とともに閉じられていることを思い起こそう。夢とも現実ともつかない虚構空間で、殺人をおかした死刑囚が母親に呼びかける決別の歌。まさに、このうえなく通俗でベタな終わり。象徴殺しに失敗した少年は、みずからはぐくみ育てた妄想からも解放され、あっけなく「象徴そのものの不在」に気付くことになるだろう。そう、象徴は殺すこともできないし、殺すにも値しない。なぜなら象徴は、端的に「存在しない」のだから。斎藤の「読み」は、(ラカン研究者らしく)最後に興味深い結論を示唆して終わるのだが、今回は、とりあえず、石原のあてずっぽうな批判に応答するための箇所を引いた。石原は、もしかすると、阿部が「トキ=天皇」という記号を用いたことを「マーケティング」と呼んだのかもしれないが、おそらく、この作品を毛嫌いする本当のところは、そうした表層上の問題以上に、阿部が「象徴」を「存在しない」ものだと「暴いた」事実にあるように思われる。というのも、石原が文学の絶対要件とする「カタルシス」は、象徴的世界での象徴的な問題解決手段でしかないからだ。阿部のやったことは、石原が無意識に感じ取っている通り、「(石原が考える)文学」そのものの「廃棄」という行為に等しい。そして、それを批評しようとするならば、「文学」を超えた視線を必要とする(つまり、内部の問題ではなく、それ自身の存在意義を問われる問題である場合、われわれは参照項を外部に必要とするだろう)。すなわち、いや、とりあえず、これを「政治」と呼ぶことにしておこう。石原は、文学者(「文学」に内在する者)としてではなく、選考者の中でひとり「政治家」として振舞っている。彼は、文学者としてのスタンスが存在できない問題に関して、政治的な好悪(preference)を文学的世界へと忍ばせているわけだ。<(石原が考えるのとは違った)文学>というものが、もしその枠を常に変化させ続けるものであるとすれば、石原の「政治」から規定される「文学」は、常に<文学>作品によってその存在意義を問われ、ゆえに、石原はその都度、「好悪」によってそれを判定せざるを得なくなるだろうことは必然的結果なのだ。とにかく、阿部の題材選びは、石原的な「必然性」は持っていなくとも、周到に計算され<文学>的論理性を持った<必然性>を湛えていることが、斎藤の記述から読み取れよう。村上が以上のことを捉えて、「小説にしかできないことに作者が挑戦している」と言ったとしたならば、おそらくそれは正しい。■なぜ、ロリコンか本当は、しっかり調べてから書こうと思っていたことだが、『グランド・フィナーレ』において、主人公が「ロリコン」であることにも、私見では、必然性がある。ここでは仮説的にのみ、記しておく。ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』のロリータ(ドロレス・ヘイズ)は12歳である。12歳という年齢は、『グランド・フィナーレ』の主人公が主に性愛対象とする子どもたちの年齢にぴったりと対応している。そして、この年齢は世阿弥『花伝書』にあらわれる「時分の花」としての年齢と同じだ。言うまでもなく、「時分の花」は年齢とともにあらわれる「花」であり、それは「真の花」ではないわけだ。『花伝書』はいろんな読み方のできる書物だが、ある部分において教育書であることはもちろん間違いない。つまり、「真の花」になるための書ということもできる。そう、「目的」があるわけだ。さて、この花伝書的世界において、この「目的」がなくなったならば、どうなるだろうか。そう、つまり、「グランド・フィナーレな世界」となったならば、どうなるだろうか。そう、もはや、「花」と呼べるものは、「時分の花」しか存在しないのである。それゆえ、その世界を生きる主人公沢見は、ロリコンでしかあり得ないという結論に至らないだろうか。もはや、正しいロリコンかどうか、正しいペドフィリアかどうか、などということは問題にならないのである。これは阿部の論理的必然性の然らしめるものであるように思えてならない。
2007.11.30
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今回は本当に適当で長いだけのものになってしまいました。良い作品というのは、常に賛否両論巻き起こすものだが、『グランド・フィナーレ』について、ネット世界で多くの言及がなされていることに気付いた。まあ、芥川賞受賞作なんだから当然のことなんだが、そういう流行ものに疎いため、全く気付いていなかった。しかし、しっかりと論じ切っているものには出会えなかった。どこかお茶を濁している感が拭えないものばかり(いや、私のものも十分お茶を濁しておりますことは棚に上げないと、こういうことは語れないものでして)。より驚いたのは、「わからない」という評価を「良くない作品」という評価にそのまま無反省につなげているものの多さだった。大学の映画史だか何だかの講義で、まあまあ有名な映画評論家が言っていた言葉を思い出す。「レポートを書かせると、たまに「自分には合わないと思った」なんてことを書くやつがいる。その時点で、本当はそのレポート用紙を破り捨てたくなるんです。自分がわからないなら、その要素は何であるのか、自分を超えたものであるなら、その要素は何であるのか、こうしたことを考えようとしない学生のレポートは全く価値が無い」というわけで、本当は「所有権」について書こうと思っていたんだけど、グランド・フィナーレの世間的評価というものをちょっとまとめたい。といっても、他者様のブログを探し出し、トラックバック張るのも面倒なので、結構言及されていた「芥川賞選考者の選評」に触れたいと思う。■132回芥川賞選評(ここから引用)◆選評(抜粋)高樹のぶ子「グランド・フィナーレ」は、少女偏愛性癖者の内面にこもる熱が、ひんやりと伝わってくる、明るくて無邪気で無気味な小説である。正常の中の異常、異常の中の妙に純な部分がきわどく描かれていて、今話題になっている奈良女児殺人事件を外側から事件として見たときの恐怖とは別の、人間の内側に寄り添って見る場合にしか経験できない、汗ばみ息苦しくなるような怖さがある。これは文学にしか果せないことだ。池沢夏樹 では、今から受賞作として広く読まれるべきは何か。阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」以外にはないだろう。主人公の姿勢が神町に戻ってがらりと変わることの意味付けが難しいし、ペドフィリアの実態について不正確だという指摘もあったけれど、しかしこれは受賞に価する作品である(本当は前回の候補作の「ニッポニアニッポン」で受賞できればよかったのだが)。石原慎太郎 当選作となった阿部和重氏の「グランド・フィナーレ」を私は全く評価出来なかった。以前の、絶滅に瀕している鳥「トキ」について書いた作品にも一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられたが、今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても、物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない。古井由吉「目をとじるまでの短かい間」は、老境小説と読める。それらしい香りさえする。ところが主人公の医師は、どう読んでも、男盛り働き盛りの年齢にある。(中略)手術の場は最前線である。そこはそのつど技術の先端の伸び切るところで、その先にはあらわな、運命がある。医療とは限らぬことだ。働き盛りの人間はつねに先端の場に、先端のつもりはなくても立たされ、そこに尚早の老いが迫る。さらに追うべきテーマだ。黒井千次 阿部和重氏の「グランド・フィナーレ」は、ロリータコンプレックスを持つ主人公の東京での家庭生活の破綻と、故郷山形へ引き上げてからの逼塞した暮しとを描いた作品である。(中略)自分の娘に対する心情と他の少女に向う欲求との違いなど必ずしも描き切れていない恨みはあるものの、生の捩れを追う筆に確かな手応えを覚えた。宮本輝「グランド・フィナーレ」では、これまでの氏の作品と比して、その素材も文章も構成も機微が増し、登場人物それぞれの存在感が肉厚化したと感じて、私は受賞作に推した。けれども、受賞に反対する委員の意見は辛辣で、一時は受賞作なしという流れにもなりかけた。そのそれぞれの厳しい意見を、私は全面的に否定できない。河野多恵子 白岩玄さんの『野ブタ。をプロデュース』では、高校二年生の主人公が鎧(よろ)おった自信家の野心から、いじめられっ子にされそうだった転校生を人気者に仕立ててゆく。男女の生徒たちの中でそれが成功してゆくのは、彼等の関心と無関心が混合しているからで、やがて主人公がふとしたことから窮地に立たされた時の周囲の様相、彼の身の処し方に至るまで、時には世の中というものの雛型をも見るように興味深く読んだ。村上龍肝心な部分が書かれていない中途半端な小説だと思ったが、(中略)それでもわたしは阿部氏の作品を推した。その理由はただ一つ、小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じたからだ。他の候補作は、たとえば作文でも漫画でもエッセイでも表現可能だと思えるものばかりだった。山田詠美「グランド・フィナーレ」。微妙な境界線がいくつも交緒し、大きな境界線を作り出した丹念な作品。乱暴で繊細。惨めで不遜。欠点はあるけれども筆力を感じて、祝、受賞。■文学者による文学評しかし、文学者の文学評というのは、なぜにこうわかりにくいのだろう。わかるやつにだけわかればいい、と言っているかのようだ。そして、そうした考えの持ち主たちが、賞を選ぶという、この矛盾をいかに解消するのだろう、といつも不思議に思う。まあ、とにかく、賞に選ばれないからこそ天才的という作家の可能性は否定できないことは述べておかねばなるまい。さて、選評の抜粋ゆえ、よくわからないところもあるのだが、受賞作『グランド・フィナーレ』への賛否を分けてみたい(以上の引用だけを手がかりにしているので適当なんだが)。賛成…高樹のぶ子、池澤夏樹、黒井千次、宮本輝、村上龍、山田詠美反対…石原慎太郎不明…古井由吉、河野多恵子さて、宮本輝が述べるところの「受賞に反対する委員の意見は辛辣」というくだりは、こうしてみると、石原慎太郎だけの意見ということになろうか。これについては後で見よう。■賛成評の抜粋の抜粋賛成票が多く見えるが、しかし、その内部意見は必ずしも一致していない(といっても、選評の全文を読んでいないから適当なんですが)。上にみた抜粋自体が、実際に「抜粋」たりえているか気になるのだが、そこからさらに抜粋しよう。高樹のぶ子…「正常の中の異常、異常の中の妙に純な部分がきわどく描かれてい」る。池澤夏樹…「今から受賞作として広く読まれるべきは」「阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」以外にはない」黒井千次…「生の捩れを追う筆に確かな手応えを覚えた」宮本輝…「それまでの氏の作品と比して、その素材も文章も構成も機微が増し、登場人物それぞれの存在感が肉厚化した」村上龍…「小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じたから」山田詠美…「微妙な境界線がいくつも交緒し、大きな境界線を作り出した丹念な作品。乱暴で繊細。惨めで不遜。欠点はあるけれども筆力を感じて」さて、やはり、よくわからない。高樹や黒井の言うような「正常の中の異常」や「生の捩れ」というものが主題だと、どうして読めるのか、俺にはよくわからない。また、池澤や宮本、そして山田の評は、(この部分だけでは)何が言いたいのかよくわからない。村上の選評(の抜粋の抜粋)だけが、理由をある程度はっきり述べているように感じられる。部分として良いとか悪いとかではなく、村上だけが、小説を論じているように思える。そして、俺も、阿部和重が「小説にしかできないことに」「挑戦している」ということに賛成する。ただし、村上が考えている以上の挑戦ではないかと疑っているが。つづく
2007.11.30
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(1)のつづき■グランドフィナーレな世界さて、やっと本題なのですが(笑)、こうした出口のなさを表現したのが、『グランド・フィナーレ』であるように思います。この題名は本当にシニカルです。私は読み終えて「冗談きついよ」とつぶやいてしまいました。「グランド・フィナーレ(最終場面)」という題でありながら、この小説には最終場面なんて存在しないのです。ナイーブなアマゾン書評子が、「「ここからが物語の肝だ!」というところで終わってしまいます」なんてことを書きたがるのも、まあわからなくはありません。逆に、「物語のラストは「グランドフィナーレ」に相応しい、希望に満ちた最後になっている」という「読み」をしたくなってしまうのも、その裏返しでしかありません。この二者は阿部和重が好きか嫌いかで意見が割れているだけで、本質的に同じ読みをしてしまっています。「グランド・フィナーレ」という題名に引っ張られた読みです。非常に学校国語的な読みですね。しかし、私見では、阿部がこの題名で意図しているのは「グランド・フィナーレな世界」なのです。この小説は、むしろ、「すべての終わり」から始まっています。主人公にとってのすべての終わり。晴れがましい終わりを迎えるための計画を立てながらも、あえなく失敗して、本当に終わり。もう、これ以上希望も何もない世界です。しかし、重要なのは、それでも物語(と呼んでも良いでしょうか)が、続くことです。はっきり言ってしまえば、「終われない」ことです。「終われない」世界。われわれの生きている、この高度資本主義の世界です。上位の目的がない、欲望だけの世界。終わりたくても、終われない世界。そうして考えると、「グランド・フィナーレ」とは、本当にシニカルな題です。痛いくらいに、冗談きつい題です。われわれは、「グランド・フィナーレ(最終場面)」にいながら、終われない。「グランド・フィナーレ(最終場面)」が無いのではなく、実はこの物語すべてが「グランド・フィナーレ(最終場面)」だったという落ちなわけです。だから、(この小説の)最後もしっくりくる形で終わらない。■新宿ヨドバシカメラ阿部の天才性(は以前から感じていましたが)を確信したのは、同書に加えられている『新宿ヨドバシカメラ』を読んだからでした。これは、企画ものだからと忌避する向きもありますが、阿部は、周到な計算のもと、これを『グランド・フィナーレ』の次に持ってきているのではないかと私は疑ってしまいます。語られるのは、新宿について、そして西口のヨドバシカメラについてのしょうもない論理です。ある意味で、阿部は遊んでいます。井原西鶴が好きな私は、その遊びだけで楽しめるのですが、阿部の酷いところは、こうした作品にも阿部なりの計算を加えていることです。阿部は、『グランド・フィナーレ』での主題をこの作品にもつなげています。冒頭の引用で大澤が述べていたように、昨今は学生が論文に「おたく」的な情熱を傾けている。私の知る限りでは、大学院生にだって研究者にだっています。ここでの問題は、その行為をドライブする情熱はどこから来ているのか、ということです。阿部は、その答えをはっきりと語っています。現代の人々は、大きな目的から何かの情熱を引き出し、その情熱のもとに行為しているのではなく、資本主義的に何かを欲望している。つまり、物神性(フェティシズム)です。先に貨幣=資本という紙=神について述べましたが、それは構造として、フェティシズムを生み出しています。社会が貨幣を欲望するために、個人はフェティシズムを抱えるという構造です。さて、文字に関する職業に就く人々にとっての物神とは何か。これは「論理」といえるように思います。終わらない世界で、論理を追求する。これは目的の無い世界で、資本を追求する行為とパラレルです。そして、その「論理」を追求すること自体が、彼らにとって「快楽」になっている。完全なるフェティシズムです。阿部は、そうした現実を見抜いています。だからこそ、『新宿ヨドバシカメラ』における「遊び」的論理は、性的なものと結びつけられているわけです。そうして考えると、「欲望」とはどうしようもないものです。『グランド・フィナーレ』の主人公がそうであったように、われわれは、そうした世界を知らずに生きているわけです。そのことに少しでも自覚的である人だけが、『グランド・フィナーレ』の過激さに気付けるように思うのです。
2007.11.26
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今回は、阿部和重『グランド・フィナーレ』について書きます。かなり長いです。少しく作品あるいは作家を論じようというのに、いきなり長い引用をするなんてしょうもない話なんですが、大澤真幸がかつて語ったところをこの稿の書き出しにしようと思います。まあ、面白い箇所なので。■大澤真幸から引用いずれにせよ、「おたく」というのは、マンガやアニメ、TVゲームといった虚構や仮想現実の領域に没頭する若者たちのことです。でも、こういう特徴づけだけだったら、「おたく」という語まで生み出したような過剰性や異様性、人々が「おたく」に接したときに覚えた驚きを、とうてい表現し尽くせてはいない。「おたく」は、以前からある「趣味人」とどこが違うのか。まず直感的にいっておけば、たかが趣味なのに、ふざけてると思えるほど大袈裟に関わっているという印象ですね。所詮は趣味。ほぼ生死に関係しないし、人生の他のもろもろのことにも関係ない。にもかかわらず、異様なほど大袈裟なんです。実際、おたくが書いたおたく論は現在たくさんありますが、どうしてそんなに大袈裟なのかと驚くことがよくあります。たとえば、二年くらい前、東浩紀氏が編集した『網状言論F改』(青土社、二〇〇三年)という本の書評を書いたことがある。これは、まさにおたくによるおたく論集です。東さんの論文は、彼の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、二〇〇一年)という本のエッセンスを凝縮したような論文で、なかなかおもしろいのですが、この本の中に入っているいくつかの論文は、特に若い人の論文は、――内容の水準とは関係なしに――ときどき、読んでいると笑いをこらえきれないところがある。たとえば「エヴァンゲリオン以前/以降」とか凄く大事件としてかかれていて、まるで、第二次世界大戦とエヴァンゲリオンの登場が同じくらい重要であるかのような印象が漂うわけです。いくらなんでも、それはどうかなあ、と思ってしまうわけです(笑)。おたくに対してもつこうした印象を、もう少し理論的な言葉でいうと、こうなります。「おたく」の定義は、「意味の持っている重要性と情報の密度のあいだに逆立があること」。ここでいう「意味」なんですが、普通、ある対象に関して「それにどういう意味があるの?」と問われたときには、その対象をより広いコンテキストに持っていったときに、どういう価値を持っているかを説明しなくてはいけないのです。たとえば、カール・マルクスの初期の『経済学・哲学草稿』と、後期の、たとえば『資本論』の間では、「疎外」という語の使用頻度は、大きく異なっている。なぜ、そんなことに注目するのか、その意味は何かと問われれば、そのことがマルクスの思想全体の大きな転換の印であり、さらには、近代社会思想史全体を転覆させうるような大きな価値すらもつような転換の印だからです。このように、あるものに情報が蓄積されるのは、普通は、有意味だからです。意味の重みと情報の密度は比例関係にある。しかし「おたく」の場合、意味的には全然大したことがない。つまり、より広いコンテキストに参照して価値があるようなものではない。しかし情報の密度は高い。それが「おたく」の特徴だと思うのです。意味的には希薄で、情報的には濃密という、逆比例の関係が生じている。僕も仕事柄、学生の卒業論文を山ほど読まなくてはいけない。いまではおたくっぽい論文は普通になったので別に驚かなくなりましたが、九〇年代初頭は、「へえー」と思ったものです。そういう論文を書く学生はある特定の事柄の「おたく」だから、論文を読みおわったときには、僕もそれについてめちゃくちゃ詳しくなってしまう。で、ふと思うんですよ。「どうして俺が、こんなことに詳しくならなくちゃならないんだ!」(笑)それで学生に「どうして君は、こんなことを一生懸命書いているの」と訊くと、ほとんど説明できない。というか、本人がはまっている狭いコンテキストのなかでしか説明できない。だから、なぜこんなに熱が入っているのか、そのコンテキストの外にいる人に説明できない。有意味性へのレファレンスを欠いたまま、どんどん情報が細部にまでおよんでいく。「おたく」にはそういう特徴がある。(大澤真幸『現実の向こう』春秋社、2005年、p.114-117)■自身のおたく的情熱をシニカルに眺める稀有な作家ここまで引用したら、疲れてどうでもよくなってきました(笑)。というか、文芸評論自体が、大澤が言うところの「おたく」的性質を逃れられていないんじゃないかという気がしてきました(笑)。まあ、気を取り直していきましょうか。ちなみに、というか、周知のことですが、阿部和重と引用に出てきた東浩紀とは仲の良い友人なわけで、この長い引用にも根拠が無いわけではないのです。さて、阿部和重の『グランド・フィナーレ』という作品の凄さは、上の引用のような「おたく性」をたっぷりと湛えながら、それに自覚的であるということに尽きます。阿部の作品を読んで、「おたく性が足りない」といった論じ方をする人がいますが、それはその人が「おたく性」を取り違えている結果です。中途半端におたくな人間は、自分のおたく性を誇りたい欲求のために、そのような言い方をするのですが、阿部はそんなことは百も承知です。阿部こそ、大澤が論じたような意味における「おたく性」を純化した形で作品に取り込み、それと同時に、その自身の作品の持つおたく的情熱をシニカルに眺めるという離れ業をやってのけている稀有な作家なのです(おたく性に物足りなさを感じる人がいるとすれば、それはこうした洗練されたおたく性を受け入れられないからであるわけです)。■おたくと資本主義資本主義の始まりがどこなのかはわかりません(私は自分の僅少な知識からユダヤ世界が関係しているのではないかと思っているのですが、これは読むべき一冊を読んでから最終判断としたいと考えております)。しかし、資本主義の現状到達点はわかっています。おたくです。資本主義というものを定義付けるには相当な勇気が必要ですが、ここでは、ある種の生産様式として捉えるよりも、ひとつの運動の形式として、貨幣を欲望する体系として捉えたいと思います。われわれは、本来貨幣を何かの手段として欲していたはずなのですが(つまり、生活のために必要だとか、何かの目的のために必要というように)、いつのまにか、貨幣自体を目的として求めるような時代に生きています。この貨幣自体は不換紙幣であり、「信用」というものにおいて成立しています。他者が認めるから、この今手元にある貨幣は価値を持つわけです。そうした紙切れをわれわれは熱烈に求めている。個人的には違ったとしても、そういう経済主体が溢れかえっている社会に生きている。そして、他者が欲望するからこそ、さらに貨幣は欲望され、欲望が欲望を生むようなシステムとして、資本主義は運動しているように思います。そして、こうした貨幣=資本という紙=神が、われわれの生活よりも重要な共同体的秩序=律法として機能している。私は(粗い定義であることは重々承知していますが)これを資本主義だと考えています。これは、大澤が言うところの「おたく性」と似ていないでしょうか。「何のため」が欠如した状態における情熱的行為であるわけです。■出口が無い、というか外の世界があると知らない高度資本化社会とも呼ばれる社会=時代に生きるわれわれには、二つのタイプがあるように思います。大変厭味な言い方になってしまうのですが、そうした社会を対象化して眺める側と、そこに内在してそうした価値観を踊る側の二つです。たとえば、マルクスがそうであったように、資本主義を対象化し、その問題構造を打ち破ろうとする人たちがいる。その一方で、そうした社会にどっぷりと内在して、資本の神に信仰を抱きながら、その社会において信仰を成就しようとする人々がいる。かつては、前者が多かったように思いますが、現状は、前者が存在するのが難しくなっているように思います。それは資本主義に対抗する言論、資本主義の問題点を暴くような言説が巷には少なくなっているからのように思います。出口が無いわけです。いや、外の世界があることさえ信じられないわけです。現代の資本主義の只中で踊る人たちは、希望ということすら認識できない閉塞間の中で、資本の神が与える試練を資本の神の栄光のために踊っているように思います。つづく
2007.11.26
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先月の終わり頃からなぜか急に小説が読みたくなって、いくつか読んでいる。糸糸山秋子『海の仙人』を読んだ。(糸二つ重ねて一文字。「いと」と読む。)どのように評していいかわからないが、重要な作家である可能性があるとだけ言える。文庫版で福田和也なんかが賞賛の解説などを書くものだから、作品の方も急に薄っぺらく感じられるようなところがあるのだが、福田の指摘するような箇所は丁寧に読み返せば、福田の指摘なんか全くあてにならないことがはっきりし、作者の重要性は少し回復する。とはいえ、じゃあ、はっきりと重要な作家かというと、これは心許ない。つまりは、もうしばらく様子を見る必要がある、という意味において、重要な作家である可能性があるわけだ(いや、俺の場合、もうちょっと著作を読んでみろということになるのだが)。俺が重要な作家である可能性を見出すとすれば、福田和也が重要な作家の要素を見取る部分に、(福田とは全く逆に)俺が作者の不安を認めるからに他ならない。福田が言う「倫理」なんかが重要な作家性を決めるのだとしたら、この国の作家はものすごくつまらない集団でしかないだろう。しかし、この作家は、福田の決め付ける「倫理」に対して、かなりアンビバレントな態度を取っているように俺には思われた。そして、その態度こそ重要な作家性(まあ、そんなものがあるとすればだが)を担保するように思えてならないわけだ。文学が国民をつくる、なんてのは結構な話だが、福田とか、その仲の良い石原なんかが、それを代表して進めようとしているのを見ると、おまえらのレベルでなんてやめてくれよ、と言いたくもなるわけだ。まあいい。■ファンタジーこの小説にはファンタジーなるキャラクターが登場する。これが何かよくわからない。まあ、いくらか示唆しているところはあって、たとえば、「小説」の象徴であったりするのは間違いない。が、それですべてかと言えば、これがわからない。そして、これもよくわからないのだが、作者自身もそれをはっきりと「わかっ」ていないのではないかと思える。ここが、この小説のポイントなのではないか。いくらかの人間にとっては、なんとなく存在を知っていて、出会った時にすぐにファンタジーそれとわかる存在。希少種の絶滅の折りに、それを見取る存在。今手元に本が無いので、他の例を思いつかないが、まあそういった存在。本人は神様の一種だみたいなことを言う。役に立たないからよいみたいなことも言う。■役に立たないさて、しかし、この小説の他の登場人物たちにとっては、このファンタジー、なかなか重要な存在になっていく。近くにいてほしい存在になっていく。偶然を導く存在にも感じられるが、必ずしもそういう「導きの糸」というわけではない。たまに何かを語るが、物語上、影響を与えるようなことを言わない。それでも、当たり前のように、近くにいてほしい存在、のような雰囲気を小説全体が醸しだそうと努力している。つまりは、いてもいなくてもいい、だからこそ、存在それ自体が理由を必要としない。言いたいことをもっとはっきり言えば、「役に立たない」。だからこそ、「役に立つ―立たない」という二項対立を超越した立ち位置に存在することができる存在。存在に理由を必要としないというのは、近代において、本当に本当に貴重なことではなかったか。■偶然という癒しあるいは救いへの希望この作家は、おそらく癒しを求めている。この理由を必要とする現実に傷つけられる小さき者たちを代表して、現実の偶然性に癒しを求めている。偶然の織り成す世界が癒しをも保持しているという救いへの信仰を持っている。いや、そういうと、作者の意図を少しばかり外す可能性がある。もう少し精確な読みを試みれば、作者は、そうした偶然性に癒しを求めるこの存在(われわれ!)の信仰にこそ、救いへの希望を読み取っていると言えるだろう。いろいろな現実をそのままのものとして受け入れることが可能になった主人公に、ファンタジーは、自分がもう必要無いというようなことを仄めかす。そこに至るまで、現実の暴力に苛まれ、自身をも醜く思うようなこの小さき存在が、自分の存在をそのまま受け入れるため(これは決して「肯定」ではない!)、ファンタジーが存在している。■愛の拒否この作品が「救い」において「愛」を拒否していることも指摘しておかなければならない(残念ながら、述べたいことは全く違うとは言え、福田もこの部分を指摘している)。「愛」というか、肉体的結合をして、ハッピーエンドとするような風潮があった。しかし、主人公は、周到にも、このハッピーエンドに至れないという「仕掛け」がなされた存在である。「愛」に回収(改宗?)されない状態をつくってあるわけだ。つまり、この小説は、救いの物語が無くなってしまった時代の、救いのための小説だと言える。愛は、すべてのものに価値を見出すところに意味がある。しかしこの小説は、そうした枠組み自体を拒否する。「価値を見出せない=役に立たない」にこそ、救いを見出すのである。■わからないという<価値>さて、勝手なことを書いてきたが、この作家の重要性は、やはりわからない。しかし、この作家は「わからない」を大切にしているように感じる。その点をして、重要かどうかが「わからない」存在に立ち得ている。価値があるかどうかを福田なんかは考える。だが、俺は、この作家の素晴らしさというか可能性というかは、「役に立たない=価値が無い」ということを前提とした「小説的なもの」において、「Dennoch(それでもなお)!」といわんとする活動のうちに見出す。文学は国民なんか作らない。ただの役に立たないものだ。だからこそ、素晴らしい存在でありえる可能性を持っているのだろう。
2007.11.03
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私見では、近代は、キリスト教、社会契約、憲法に表象されている。もちろん、国民国家(ネーション=ステート)や資本主義というものは、近代を語る上で絶対に外せないものだが、そこで語られることとは別の側面について考えたいわけだ。と、ここまで書いて、すぐさまミスリードする可能性があることに気付いたので、こう訂正したい。私見では、近代は、キリスト教的なもの=社会契約的なもの=憲法的なものに表象されている。■キリスト教的なものキリスト教はキリストの<身体>を通して「世界宗教」となった。これは大きな出来事だと思われる。それまでの宗教が、土着的なもので、宗教なのか習俗なのかわからなかったのに対し、キリスト教は「土」から離れた最初の宗教だと言える(もちろん、ここには若干の単純化があって、「土」からの乖離がはっきりするのはプロテスタンティズムの誕生を待たねばならないが、その萌芽は当初からあった)。「土着」の宗教においては、教義が根本にあるのではなく、生活が根本にある。生活の必要から、いわばオートポイエーシスのように、「教義」が生じていく。そう、まるでコモン・ローのように。キリスト教は、教義を上から被せる形で、世界を覆った。そこでの共感原理は、「土」ではなく、何か他のものであった(それをキリストの<身体>とでも呼んでおこうか)。いうまでも無く、この国の「茶番的な近代化」においては、キリスト教の真似真似宗教が造りだされたわけだが、それも「土」から離れたものであったことは言うまでも無い(ちなみに、その形成は江戸時代に用意されていた。神道が宗教的体面を整えたのは江戸期で、それは儒家によって理論家された「儒家神道」だったという指摘もある)。■社会契約的なもの社会契約への批判の重要なものとして、「土」を無視しているということは、当初からずっと言われてきた。社会契約は、「生活」に根ざした「統治」(ヒュームのコンベンションに拠るような)が限界を有したところにおいて、極度に抽象化された原理として登場したと言えるかもしれない(もちろん、社会契約説自体は古代からあるのだが、実際に力を持ったという意味において、ここでは17、18世紀のものを指そう)。極度に抽象化されていることにおいて、その「批判原理」としての価値は現代でも全く色褪せていないと思うが(たとえば、ロールズは「正議論」においてそのことを言明している)、それのみを「原理」とした社会がいかなる方向に帰結するかは、全くわからない。社会契約では、われわれは「(「土」的な)エトノス」ではなく、「(契約参加者としての)デモス」として想定されている。だが、実際のところ、「土」なくしてわれわれは存在することはできないわけで、社会契約のみを原理とするところには、無理が生じる可能性は否定できないわけだ。この社会契約が「土」から離れたところに共同体を作れるのか。そのときに何かが必要だとすれば、それは何か。天才ルソーは、早くからそのことを見抜いていた。彼は、おそらくキリスト教を想定しつつ、「市民の宗教」が必要だと喝破した。しかし、キリストの<身体>(的なもの)は、はたして近代を支えきれるのだろうか。■憲法的なもの形式的意味の憲法を戴く立憲主義というものが、ひとつの原理であることは間違いない。これが、ある種の「世界的」原理であって、他国のものをお互いに参照しながら、互いに働きかけあいながら発展してきているというところは、その近代国家の成立との類似性を見ても興味深い。憲法典が、(多くの勘違いがあるように)本来的意義をその文面解釈に見出すならば、その原理は「土」とはかけ離れたものとなるだろう。さて、しかし、「土」を生かしつつある「憲法典」とはいかなるものか。俺にはこれがよくわからない。安易な発想で答えれば、長谷部恭男的な「公私区分論」に行き着くだろう。いずれにしても、「憲法」が「世界的」原理であれば、少なくとも「憲法」自体においては、「土」とは離れたものと言いうるかもしれない(右派が「郷土愛」などと言いたがるのは決して偶然なんかではない)。■「土」しかし、「土」とは何か。「土」とは<土>と離れたものではないのか。そうであればこそ、キリスト教的なもの=社会契約的なもの=憲法的なものが力を得たのではなかったか。「愛」に、アガペーとフィレオーとエロースという階層が生じたのもこの「近代」なのかもしれない。しかし、それを転倒させようとする志向自体が、ひとつの近代的なものではないか。「愛」が「権力(暴力)」であることは、指摘してきたことだが、ではそこに「恋」を対置すれば事足りるのか、それはひとつの近代的態度ではないか(しかしこれはよくわからんので、はじめて三島由紀夫を真剣に読んでみようかと思う)。いずれにしても、今考えるべきは、「キリストの<身体>的なもの」は何か、あるいは、「土」と「土から離れたもの」との調和原理は何か、のどちらかだろう(政治学者は前者に、憲法学者は後者に別れがちな気もするな)。時に「憎悪」によってしか、世界に結び付けない、この切り離された小さき者たちに残されているのは、いかなる希望だろうか。信仰よりも愛が優れている、という言葉は、俺には、「希望」よりも「権力」が政治をつくるという風に読めなくもない。権力は必要だろう。ただ、だからこそ、こうしたことを考えないといけないのかもしれないように思うんだよな。
2007.11.01
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