日記はこれから書かれるところです。
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某所で「議論は「競技」である」という記事を見つけた。ここでの「競技」とはもちろん「アゴーン」のことであろう。ハンナ・アーレントによれば、アゴーンとは、「生への関心」とは非連続の関係にある「世界への関心」と関わりのあるものだ。つまり、自分自身の「生」=「個的な利益」よりも、「世界における自身の<現れ>」=「存在のリアリティ」を重要視する態度に関係する。勝敗よりも、大切な何かへの関心と言えるだろうか。これは「ただ生きること」と「善く生きること」という、アリストテレス以来の区分にも近いだろう。■善く生きることさて、その「競技」の一例として、優れたものを見つけた。マラソン、である。いや、村上春樹が語るところのマラソン、である。村上は語る。自分がこのような深い疲弊の中にあって、それを全面的に引き受けた上で、しかもこうして着実に走り続けていられるという事実がそこにあり、僕としては、それを超えて世界に望むべきことなど何ひとつなかった。(『走ることについて語るときに僕の語ること』p.154)生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。(同書p.230)効率があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。(同書p.231)人はなぜ走るのだろうか。あるいは、人はなぜ生きるのだろうか。村上は走るなかで、あるいは、書くなかで(この両者は村上においてパラレルだ)、「善く」生きようとしているように思えてくる。これは、リベラル・デモクラシーのエートスであるような気がする。この書は、リベラル・デモクラシーを生きる者のための、最良の教科書だろうと思う。最後に、この本の中でもっとも素晴らしい言葉を引こう。それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。
2007.12.20
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