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『人を害するの心あるべからず、人を防ぐの心はなかるべからずとは、これ慮(おもんばか)るに疎(うと)きを戒(いまし)むるなり。むしろ人の欺(あざむき)を受くるも、人の詐(いつわり)を逆(むか)うることなかれとは、これ察(さつ)に傷(やぶ)るるを警(いまし)むるなり。二語並び存すれば、精明にしてこんこうならん。』(人を陥れようとしたり危害を加える心を持ってはならないが、人から危害を被るのを防ぐ心がけは持たねばならないという言葉は、思慮の浅い人を戒めたものである。また、人から騙されるとしても、人から騙されまいと神経を研ぎ澄まして身構えるべきではない、という言葉は目先のきき過ぎる人を戒めたものだ。この二つの文句を肝に銘じて実践すれば、思慮深く円満な人間になることができる。)現役時代、ある国へ一年間の輸出価格を決めるために行った時である。私が挨拶を始めたところ相手4人で雑談を始めた。聞く耳は持たんの素振りである。ところが相手の挨拶は一時間にも及び、それも、いやがらせ文句を並べ、その合い間に「これ以上話し合う考えはない」をつけ加えている。これはいうまでもなく、出鼻をくじいて有利な立場になろうとする魂胆である、と思って翌朝の再会の最初に私はこう言った。「昨日の挨拶の中で、これ以上話し合うつもりはない、といっていたが、本当にそうだとすれば、我々がこれ以上ここに留まっていることも無駄、繰り上げて帰国したいと思う。」と切り出した。すると相手は「ちょっと待ってくれ、輸出価格を4%値上げで妥結しようではないか」と言い出した。私は一度も値上げを口にしたことはない。会社内の打ち合わせでも、前年並みの価格なら上々の出来とまで言われてきたのに、4%の値上げである。私はダメを押した。「日本では4という数字を嫌う、5%値上げにしてもらいたい」と。相手4人は何やら話していたが、結局5%値上げでOKした。相手は策を用いて勝とうとしたが、策を用いて負けてしまっている。もし、相手が本項冒頭の文章を読んでいたとしたら5%の値上げは避けられたろうに。かくいう私は、相手国の文字を書くこともできなければ話すこともできなかった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.31
『恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、すなわち斗粟(とぞく)も万鍾(ばんしょう)の恵みに当たるべし。物を利する者は、己の施しを計り、人の報いを責むれば、百いつといえども一文の功を成し難し。』(人に恩を施す者は、心の中に施す自分を意識することはない。相手の感謝や賞讃を考えなければ、わずかな恩を施しても莫大な恩恵にも価するものである。反対に、人に利益を与える者が、自分の利益を計算したり、その報酬を求める心を起こしたりすれば、仮に大金を与えたとしても、ビタ一文にも価しないものである。)ある社長がこう話してくれた。「私は創業間もなく経営に行きづまり、わずかな物品でも現金引き換えでなければ買えなくなった。そうした中で近くの豆腐屋さんが『人間誰しも浮き沈みはあるもの。豆腐で飢えがしのげるならいくらでもお持ちなさい、払えるようになったら払ってくれればよい』と言ってくれた。その豆腐屋さんからは、今でも買っている」と。その会社は、今、当時の何十倍にもなっている。そして社長は「とにかく売ってくださるということはありがたいことです。ですから、うちの諸支払いは月末締め切り、翌月5日払いですが5日には社員が購買先の豆腐屋へ出向き、『先月はありがとうございました』といって支払ってくる」と。豆腐屋の昔の主人は生きていないだろうが、受けた方は、死んでも恩が死ぬことはないと思い込んでいるのである。これと同じような体験が私にもある。私が十歳の時である。父に、本を買うカネをねだったところ、家の前にある畑に生えている柿の木を指さして「あの実を採って売ってカネをつくれ」と言って、売り先の地図を書いてくれた。翌朝、31個採ってザルに入れ、浦和の八百久(正塚久蔵さん)の店先に立ったが、雨戸が開いていない。戸袋の前で腰を降ろしていたところ久蔵さんが雨戸を開け、用件を聞かれた。朝早く盗んで売りにきたと思ったのであろうか。私が父の名前を告げると了解したらしく、柿のヘタの近くをなめて「まだ渋が残っている。今すぐの売り物にはならないが、売ったカネを何に使うのかね」と聞かれた。「本を買うんだ」と答えたところ、ギザギザのついた十銭銀貨3個を私の手に握らせ、「よく勉強するんだよ」と言ってくれた。私が自力で稼いだ最初のカネは金30銭なりであるが、その悦びは、その何百、何千倍にもなっていただろう。帰る途中、「今に大きくなったらお礼にこよう」と考えていたが、それは40年後に果たすことができた。ちょうど50歳の時、銀行の取締役に就任した折り、株主総会が終了すると同時に八百久さんへ礼に行ったが、久蔵さんはすでに亡くなっておられた。長男の方は、そういう話は、おやじからも聞いていない、という。そこで、新築前のお店の戸袋はこの辺にあったはず、ということが判明して、久蔵さんの仏前に頭を下げて帰った。久蔵さんは恩を施したとは毛頭考えていなかったようだが、私としては今でも大恩ある人の一人と思っているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.30
『勤は徳義に敏し、しかるに世人は勤を借りて、もってその貧を済う。倹は貨利に淡し、しかるに世人は倹を仮りて、もってその吝を飾る。君子身を持するの符は、反りて小人私を営むの具となれり。惜しいかな。』(勤勉とはもともと道徳の実践に励むという意味だが、世人はそれを財産を増やすためと誤解している。倹約とは本来利の追求に走らずということで、むしろ財には淡白なことであるが、世人はそれをケチ、吝薔を飾る口実としてしまっている。この二つは君子が身を守るための守り札であるが、かえって小人には私利をむさぼる道具に使われている。残念なことである。)戦争直後、勤労者の中には、「働いただけ取れ、くれただけ働けばよい」というような労働の切り売り的な考えを持つ人が少なくなかった。これに対し、働くことは人間としての当然の道、国家社会への奉仕であり、力のあるかぎり働くのが当然と考え、働き続けた人がいる。この両者、天はいずれに味方したであろうか、いうまでもない。また、倹約といえばケチ、シマリヤなどといって軽蔑し、あるいは不況の原因とみる人も少なくないようだが、近年の不況続きの中においても連休ともなれば何十万人の人が海外へ向かう空港へ殺到し、スポーツ大会では大競技場を埋め尽くす。個人貯蓄千何百兆円の安心感を背負っているからではなかろうか。極端になるが、もし日本人が戦後収入のすべてを使い果たし、貯蓄なしということであれば消費意欲は地に落ち、産業界は闇と化すだろう。このように考えてくると、今日の不況を下支えしているものは日本人の倹約にあり、ともいえるのではなかろうか。『韓非子』に次の記述がある。昔、戎(西方の異民族)の王が由余という使者を秦の国に派遣したときのこと。秦の穆公は由余にたずねた。「昔の明君たちはどのような方法で国を作り、国をなくしたかについて聞きたい」「倹約で国を作り、贅沢でなくしたということです」「私は恥を忍んで聞いているのに倹約とは・・・。そのような話は聞きたくない」「いや、私は、こう聞いています。昔、堯が天下を治めていたときは素焼きの食器で飲食していました。そのため、太陽や月の出入りする地点まで、みな堯の支配に服していました。次いで、舜が堯のあとを継ぎますと食器は山から木を切り出し、それを加工して、うるしで表面を飾り、宮中に運んで使いました。堯のときより贅沢になったというので、支配に服さない国が十三も出てしまいました。次のうの時代になりますと祭器を作り、外側を黒く内側を赤く塗り、絹の敷物を置き、ゴザのへりには飾りをつけ、盃や銚子、樽や肉を盛る器にまで飾りをつけました。一層贅沢になったということで、支配に服さない国が三十三に増えました。次いで殷の代になりますと、天子は特別な車を作り、房のついた旗を九本立て、食器に彫刻、盃には金をちりばめ、四方の壁は白く塗り、敷物には模様をつけました。ますます贅沢になったという理由で、支配に服さない国が五十三にもなりました。このように、上に立つ者が美しく飾ることを知るにつれ、服従する者が少なくなっていったのです。こうしたわけで、倹約こそ国を作る道であると申し上げたのです。」これを聞き終えた穆公は、隣国に由余のような聖人がいては心配でならぬということで、近臣に対策をたずねた。寥という記録官が答えた。「戎王は僻地に住んでいるため、中央の音楽を聞いたことがない由。当方から女歌舞団を送り由余の帰国を遅らせ、謹言できないようにすることです。」穆公はそれに従い、十六人の女歌舞団を送らせた。戎王は酒宴を張り日々歌舞に酔い、一年もの長い間所を変えなかったため、牧草は食い尽くされて牛や馬が半分も死んでしまった。この弱味を利用して秦が攻め入り、戎の領地十二の国と千里四方の地を得てしまった。いずれにしても倹約にまつわる話であり、現代の経営に対してもよい参考になるといえよう。中国五代時代の譚哨という人は「一人倹を知ればすなわち一家富み、王者倹を知ればすなわち天下富む」といっているが、「社長倹を知れば一社富む」ともいえるだろう。これは私の思い出話の一つである。会社を退る時、会社の有力な協力会社の社長から「虫の息だった会社を虎の咆哮(ほうこう)にも似た会社にしたのは井原副社長だ」と言われたので、「いや私ではない。労働組合のストライキの時、会社の至るところに張り出されたビラ、アジビラに書かれていた人ですよ」「それですか」といって笑っていたが、そのビラには「ケチ出ていけ、ハゲを追放しろ」という文字とケチだといわれた人物の似顔絵があった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.29
『貞士は福をもとむるに心なし。天はすなわち無心のところに就きてその衷をひらく。けん人は禍を避くるに意を着く。天はすなわち着意の中に就きてそのはくを奪う。見るべし、天の機権の最も神なるを。人の智巧は何の益かあらん。』(節操の堅い人は、進んで幸福など求めないが、天はその心に感じ、福に無心な点に報いて幸せの窓を開いてくれる。陰険な者は、禍を避けることばかり考えているが、天はかえってその心に報いるため遠慮なく不幸を与える。このように天の働きというものは微妙不可思議なもので、人間の浅はかな知恵などは及びもつかない。)ここでは「愚公山を移す」の故事をあげてみたい。北山に住む愚公は、太行山と王屋山の二山に面して住んでいたが、この二山を平らにして南に通ずる平坦な道を開こうと家中の者に相談をもちかけた。子と孫は賛成したが妻君は反対。「あなたの老いた体では小さな丘さえ切り崩せないでしょう。それに切り取った石や土をどこへ捨てるつもりですか」「渤海の浜へでも捨てるさ」と言い捨てて愚公は三人の子供と孫を引きつれ、石を割り土を掘り、箕やモッコに入れ渤海の浜へ運び始めた。愚公の隣に住む幼い子も助太刀に加わった。何しろ、渤海までの往復が一年がかりという気も遠くなるような仕事。これを見た智そうという男は笑いながら愚公に忠告した。「あんたの馬鹿さかげんには、あきれてしまった。老い先短いのに、その老体では山の一角さえ切り崩すこともできまいに。それに、この大きな石や土をどうしようというのだ」すると愚公は哀れむように溜息をついてこう答えた。「お前さんみたいな浅はかな心の持ち主にはとてもわかるまい。いいかな、たとえ老い先短いわしが死んでも子は残るし、子は孫を産み、孫はまたその子を産みして子々孫々絶えることはあるまい。ところが山の方は増えるものじゃない。とすれば、いつかは平らになる時がこようというもの、といえるのではないか。」智そうもこれには二の句がつげなかった。これを聞いていた山の蛇神は山がなくなっては大変と、さっそく事情を天帝に訴え出た。天帝は愚公の真心に感じ、力持ちの二人の子神に命じ、二山を背負わせて他に移させてくれた。『列子』にある寓話であるが、人の真心には天も味方するという意味でもある。あくまで志を遂げよ、とする教えともいえる。事に向かって一心不乱に当たれば成功するし、それに私利私欲を忘れて当たれば不可能も可能になる。これは私事だが、銀行で人も羨むほどのスピード出世で本部課長になった。与えられた任務遂行の一点に力を注いだ結果であったと思う。しかし、その後は万年課長と陰口を言われるほどで、待てどくらせど昇格の噂さえ聞こえてこない。こうなると上司の不徳不明は先走るが、頭は後ろ向き-不平不満の多い、後ろ向きの人材となった。それが、ある特命を果たしたということで部の次長に昇格し、その後は4年で4つの部長を務め上げ、取締役1年で常務、その間5年。課長を6年もの長い間強いられたのに比べると、スピードで、荷車と自動車以上の差がある。しかし、これもみな、すべてわが身から出た心の錆、そして光であると考えているわけである。二宮尊徳の歌に「この秋は雨か嵐か知らねども今日の務めに田草取るなり」とある。先々の苦楽を忘れて今日の務めに励みさえすれば、天は雨も嵐も避けてくれることになる。「わが先は昼か夜かは知らねども今日の務めに本を読むなり」これは二宮金次郎の銅像を見上げながら、前記の和歌を思い合わせたときふと頭に浮かんだ詠み替え歌である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.28
『天地は寂然(せきぜん)として動かずして、しかも気機は息むことなく停まること少なり。日月(じつげつ)は昼夜に奔馳(ほんち)して、しかも貞明(ていめい)は万古(ばんこ)に易(かわ)らず。ゆえに君子は、間時(かんじ)には喫緊の心思あるを要し、忙処には悠間の趣味あるを要す。』(天地は動くことなく、日月の明は永遠に変わることはない。が、その中にも陰陽があり、地変天災もある。作為的な異変もあり得る。この中にあって存続発展するためには、平穏の内には変に応じる心構えが必要である。といって、日夜、それのみに心をとらわれていることは、守りを先にして攻撃を怠ることにもなりかねない。忙中に閑、厳中に和の境地に己を置くことも欠かせないことである。)「責任ある地位にある者は常に『準備』の二字を忘れてはならない」とは私自身を戒めている文句だが、『中庸』にも「事予めすればすなわち立ち、予めせざればすなわち廃す」とある。何事もあらかじめ準備しておけば成功するが、していないと失敗するという意味である。また『易経』には次の言葉もある。「危うしとする者はその位を安んずる者なり。亡びんとする者はその存を保つ者なり。乱れんとする者はその治を有つ者なり」(常に危険を感じて警戒を怠らない者は地位を安定させることができる。破滅することを警戒し慎む人は家代々の存立を保つことができる。世が乱れることを警戒する人は国の平和を維持することができる。)次も『易経』にある文句で、私が会社の再建を果たし退社する際、別れの挨拶の中に加えたものだ。「安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず」いずれも、経営者が常に心しておきたい言葉である。といって、経営者の頭の中が四六時中守り中心の考えであっては、前進姿勢も崩れることになるだろう。やはり、忙中に閑を求め、閑の内に忙を求め、明の暗に変わることを知り、暗は明に移る前兆であることを知ることも欠かせないことといえよう。ある社長は、「会社が不景気の時はノンビリとゴルフを楽しむことができるが、好況になると会社へ詰めっきりだ」と話していた。「不景気になると全社が緊張して精一杯働きだすから、社長が尻をたたく必要はなくなる。しかし、好況になると上から下まで気もゆるんでくるし、手の動きも鈍くなる。その時、喝を入れるのは自分一人になってしまうから、忙しくなってゴルフにも行けない」と。かつての長期不況の時、ある社長会の酒席に招かれたことがあった。酒が進むにつれて歌もでてくる。一人の社長が立ち上がって村田英雄の「人生劇場」を歌いだした。「やると思えば、どこまでやるさ、それが男の魂じゃないか。」2、3の社長も加わって合唱になった。次いで歌いだしたのが「王将」。「明日は東京へ出て行くからは、なにがなんでも勝たねばならぬ」ここまで進んだ時には、半数以上の人の口が動きだした。「空に灯がつく通天閣に、俺の闘志がまた燃える」「俺の闘志が」を何度も繰り返していたが、私もつられて口ずさみながら考えた、逆境をハネ返そうとする社長魂が演歌に現れているたのもしさを。その昔、職場の忘年会で一人の先輩が歌いだした。「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせ二人はこの世では、花の咲かない枯れすすき」。大正から昭和初期の世界大恐慌当時に流行した歌である。その時上座にいた支店長まで合唱に加わっていたほどであるから、心は枯れすすき一色になっていたのではなかろうか。「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、歌は人の心を楽しくもすれば悲しくもする。浮かせもすれば沈ませもする。そうしたことで、歌というものは会社経営などにも大きなかかわりがあるものと考えているわけである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.27
『耳中(じちゅう)、常に耳に逆うの言を聞き、心中(しんちゅう)、常に心に払(もと)るの事あれば、わずかにこれ徳に進み、行を修むるの砥石(しせき)なり。もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、すなわちこの生を把りてちん毒の中に埋在せん。』(諌言・忠言は耳に逆うものであるが、常にこれに耳を傾け、心に思いどおりにいかないことがあって、はじめて徳を高め、ことを修める基となる。耳を喜ばせるような甘言で満足しているようでは、人生を猛毒の中に沈めてしまうことになる。)古今東西、忠言、諌言に耳を傾けて成功した例も多いが、その一方で、甘言に従って己を失った者も多いものである。中国の歴史を見ても、諫言、忠言を用いたか退けたかによって明暗を分けている例が多いものである。2、3の例をあげてみよう。殷の紂王(ちゅうおう)は、微子(びし)、比干(ひかん)、箕子(きし)の諫言を用いず殷六百余年の歴史に幕を閉じ、「三仁去って殷亡ぶ」の怨みを残している。楚の項羽は范増(はんぞう)の計を用いず、烏江(うこう)の露と消え、唐の太宗は皇后の諌言、狩役人の忠言に耳を傾けて名君の名を欲しいままにしている。ここで少し説明を加えると、太宗は狩が唯一の楽しみであったが、家臣たちは、そのために政務に支障があってはならないと考えていた。家臣の谷那律(こくなりつ)が、諫言を呈するのが役目である「諌議大夫(かんぎたいふ)」になり、帝に従って狩に出た。途中雨にあったときである。太宗が谷那律に「雨の浸み通らぬ雨具はないか」と聞いたのに対し「瓦で作ったものであれば雨を防ぐことができます」と答えた。暗に「狩を控えるように」という意味であった。太宗はその言葉に絹五十段(たん)と金帯を賜わったという。平日ゴルフを諌めた者を遠ざけたという社長とは、人種が違うようである。また太宗は一頭の愛馬が死んだ時、馬役人の過ちとして死刑にしようとした。皇后がそれを聞いて諌めた。「昔、斉の景公も愛馬が死んだ時、係の役人を死刑にしようとした。これを見て、宰相の晏嬰が願い出て公に代わって馬役人の罪状を数えあげた。『よいか、おまえがどんな罪を犯したか、ここで教えてつかわす。まず第一は、担当の役人でありながら愛馬を殺してしまったこと。第二に、わが君にたかが馬一頭のために人一人を殺させる。このことを人民が知ったなら、人民の怨みはわが君に集まるであろう。第三に、諸侯がこのことを知ったなら、必ずやわが国を軽んずるようになるだろう。そのほうの犯した罪は、以上三つである』と。これを聞いていた景公は、役人を許したということです。陛下も、このことはご存知のはずです」太宗はこの皇后の言葉を悦び、役人を許したあとで「皇后は私の至らない点をよく指摘してくれる、かけがえのない女性だ」と語ったという。「女の出る幕じゃない」と一喝したとしたら、男の値打ちは馬より下がることになるだろう。『韓非子』に「小逆心に在りて、久福(きゅうふく)国に在り」(耳が痛くなるような意見を聴くと、君主たる者には少し耳に逆らう心が生じるが、国には末長い幸福をもたらす)とある。ある本に、「国が亡びたのは賢い臣がいなかったからではなく、賢い臣がいたのだが、その人間のいうことを聞かなかったからなのである」とあった。会社が倒産したのは賢い社員がいなかったからではなく、その人たちのいうことを聞かなかったからである、と読み替えてみると、倒産した会社の内幕が見えてくるような気がする。現代ではそうした賢者が社内にいなくとも、それぞれの専門の先生方もいるはずである。時折り病院へ健康診断に行くように、会社の健康診断も欠かせないのではなかろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.26
『寵利(ちょうり)は人前に居ることなかれ、徳業は人後に落つることなかれ。受享(じゅきょう)は分外にこゆることなかれ、修為(しゅうい)は分中に減ずることなかれ。』(人から受ける寵愛や利益は、他の怨みを買うことになるので、他より先にとろうとしてはならない。しかし、人のためにする道徳や仕事に対しては、他に遅れをとらないようにしたい。人から受けるものは、もらうべきものであっても分相応を超えてはならない。自己の修養は分以下にせずに、より以上に努めなければならない)銀行員時代のこと、「新時代に対応するための銀行経営の進め方」というテーマのプロジェクトチームが発足し、私がそのチーフに任命された。課長当時である。もちろん組織改革も含まれていた。従来は部長の序列は並列であったが改革案では総務部長を資格・権限とも他の部長より上位とすることにした。ところがこれに伴う人事異動の際、格上げした総務部長に私を充てるという内示があった。直接頭取に変更を申し入れた。自分が格上げした席に自分が座るということは他の不満の種となるという理由である。それなら空席になっている経理副部長で、ということになったが一ヶ月後には副部長の副がとれ、その後一年で総務部長に昇格ということになった。また、部長時代であったが、副頭取から「今年の昇給をストップするから承知してもらいたい」と言われた。このところ昇給額がトップを続けた、最高額でしかも2位との差が大きくなり過ぎたから、というのが理由であったが、自分としては落胆よりもトップを続けさせてくれた悦びをまず感じた。それに、寵利を先に得て悦んだとしても、自分が悦んでいるだけ他の人は怨んでいるかもしれない。怨まずとも妬む心ぐらいはあるに違いない。ここまで考えると、何となく自分の心を責める気にもなってくる。人に妬む心を抱かせることも、人の道に背くような気にもなる。会社などで受ける寵愛も周囲の羨望となり、ひいては怨みや憎しみにも変わってくるものである。近年よく新聞報道されている企業、団体などの不始末の露顕も、こうした感情の爆発が内部告発となって現れている面があるのではないかと思う。最近は不況のためか社用族の姿も見え隠れ程度になったようだが、隆盛をきわめていたころにはバー、キャバレーなどのホステス嬢さえ愛想尽かししていたほどであった。かつて東京・銀座のあるクラブのホステスと対談し、来客の品定めをしてもらったことがある。気にくわない客として、一、油頭を私たちの衣服につける人、二、頼みもしないのに名刺を渡したがる人、三、会社の仕事の話しかできない人、四、一人で来て請求書の客数の1を4に直して 会社に取りに来いという客、五、招待客との料金に、彼女と来たこの前の料金を加えて 領収書を持って会社に取りに来てくれという客、をあげた。「それなら、ご指名を受けた人のノルマが達せられて、いい客ではないか」といったら「詐欺をするような人のおかげでナンバーワンになりたくありません」と話してくれたが、寵利寵愛をガメツク求めようとすると、結果は仇となって自分に振りかかってくる。利愛が強ければ強いほど、結局、幾倍もの代償を払わなければならなくなるに相違ない。銀行で働いていた頃、私は招待を受けると、宴席の場所を必ず指定したものである。隣にパチンコ店がある飲食店というように、である。パチンコ店の隣に高級料亭はない。相手の負担を軽くするとともに自分の驕る心を抑えるためでもあるし、周囲の批判から逃れるためでもあった。『韓非子』に次のような故事がある。魯の国の宰相であった公儀休は大の魚好きであった。それを知った国中の者は彼のもとへ競って上等な魚を届けたが、すべて断ってしまった。弟がそのわけを聞いたところ、「好きだから断っているのだ。もし受けとれば世辞の一つもいわなければならないし、相手のために法を曲げることにもなってくるだろう。そうすれば免職になることは必定。免職ともなれば、いくら魚好きだからといって小魚一尾届けてくれる人はいなくなる。今こうして断っていれば免職にされないで、いつまでも自分のカネで買って食えるではないか」といった、とある。このように考えてみると、徳でないことをすれば結果的には得を失い、徳に従えば得につながる、といえるのではないか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.25
『世に処するに一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるはすなわち歩を進むるの張本なり。人を待つに一分を寛くするはこれ福なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。』(この世で生きていくためには、先を争う時、人に一歩譲るのがよい。一歩退くことは後に一歩進める伏線になる。人を遇するには、厳しすぎてはならない。一分は寛大にする心がけが必要。それが自分のためになる土台である。)『易経』に、尺取り虫が身を縮めるのは前に進むためであり、竜や蛇が冬ごもりするのは身を守るためとある。この言葉は、謙虚であれと教えている言葉でもあり、一歩退くは大をなすためであるとも教えているものといえよう。人を用いる道として、『老子」には「人をよく用いる者は、これが下となる」とあり、また「江海(こうかい)の能(よ)く百谷(ひゃっこく)の王たる所以のものは、その善くこれに下るをもってなり」とある。すなわち、大河や大海が数多くの谷川の王者であり得るのは、それが低いところに身をおき、よくへり下っているからこそである。いい換えれば、人の上に立とうとするには、言葉、態度を謙虚にしてへり下らねばならない、ということである。『論語』には、こうある。「能をもって不能に問い、多きをもって寡(すく)なきに問う」(才能が十分であるのにへり下って才能のない人にまでたずね、学識が豊かであるのに謙虚に、修業不足の人にまでたずねる。)この言葉は孔子の弟子の曾子が、兄弟ともいえた顔回の人柄を評したものであるが、これに次ぐ言葉に「あれどもなきがごとく、実つれども虚しきがごとく」とある。すべて謙虚を表したものであるが、「なけれどもあるがごとく、空なれども満つるがごとく」振る舞っている人間への戒めのようでもある。私の銀行員当時、ある上司は目上目下を問わず「○○さん」とさんづけで呼び、手紙の場合は「君」も「殿」も使わず「様」で通していた。もう一人の上司は部下を呼び捨てるときもあり、機嫌良好のときでも「○○くん」と呼んでいた。さんづけの人は頭取になったが、呼び捨て常務はいつのまにか姿を消している。呼び捨てが災いとなったばかりではあるまい。二人の人格の差が、地位の隔たりをもたらしたといえよう。私が今まで、君も僕も使わず、殿も用いず「様」で通してきたのはその先輩を見習ったからである。これは些細なことだが、私が銀行で常務から専務に昇格したときである。後輩の常務からより優秀な自動車に買い替えてくれと言われ、わけを聞くと、先輩が現在の車だと我々一段高級な車に乗れないから、という。「私は小さいから三輪車でも間に合う」と言って断った。一ヶ月たったころ、カタログ持参で「この車にしました」といってきた。「いまなら高値で車を下取りしてくれますから」といっていたが、私としては車が問題ではない。より上等な車に乗って、乗る自分をより上等な人間に見せようという根性が問題なのである。体は高級車に乗っても心が二輪車並みでは釣り合いも取れまい。謙虚で、へり下った人間がへり下った車に乗ってこそ、威風がある。自動車で見栄、強がりを示しても、見る人は虎の威を借る狐どころか鼠とも見るまい。さて、この項の終わりに孟子の言葉を引用してみよう。孟子は「呼びつけできない部下を持て」と教えている。呼びつけることができないほど自分より秀れた人という意味で、上司として謙虚な人でなければできないことである。こんな故事もある。兵法家で知られている呉起が魏の武侯に仕えていたとき、武侯が部下と協議を終え、得意満面で部屋から出てきて呉起にいうには、「会議したが自分より秀れた意見をのべる者はいなかった」と。これに対し呉起は「昔、楚の荘王は臣下と会した後に『ことを計ろうとする者には必ず聖人君子といえるほど秀れた人物がいるものだが、今見渡したところ自分より秀れた臣は見当たらなかった。将来が思いやられる』と言って慨いた、とあります」とチラリと苦言を呈したという。世界の鉄鋼王といわれたアメリカのカーネギーの墓石には、「自分より秀れた人間を用いた天才がこの下に眠る」という文字が刻まれているとか。大成する人の共通点を一つあげよ、といわれたら“謙虚”と答えるに違いない。「世に処するに一歩譲る」とあるが、ある投資名人に「株式投資で確実に儲けるには」と聞いたところ「自分だけが儲けようとしないことだ」と答えた。十の値上がりを見越したら七か八のところで売れという意味であった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.24
『人となりて甚(なん)の高遠な事業なきも、俗情をはい脱し得れば、すなわち名流に入る。学をなして甚の増益の功夫なきも、物累を減除し得れば、すなわち聖境を超ゆ。』(ひとかどの人間になるには、高遠な事業を成さずとも名利の俗念さえ払い去れば、それで名士である。学問をなすには、学識を増やす工夫をしなくとも、外物によって心が煩わされることがなければ、それで聖人の境地を超えたものである。)年を重ねるにしたがって、見知らぬ人からの挨拶の文句まで変わってくる。近年一番多いのが「お元気そうですね」「お顔の色も若々しい」「張りのあるお声ですね」「おいくつになりました」等々、いずれも悪意のある挨拶ではない。他には「長生きの秘訣は」と聞く人も少なくないし、「お幸せのようですね」と声をかける人もある。受ける私も悪い気はしない。むしろ褒められている気分にもなる。先日も老境に入った人たちの集まりがあった。93歳の私が最年長であったためか、質問も多く出された。「長寿の秘訣」の答えは一つ、過去の不満を思い出さず現在に満足することである。とかく、地位が得られなかった、恩賞が受けられなかったなど、昔を今に返せないことを気に病んでいる。バカげたことだと思う。私は「天命を果たし、天寿を全うしている現在、何の不満も感じてはいない」と答えておいた。その時、私のあり方を聞かれたので、このように答えた。第二の会社で社長になってくれといわれたが、その場ですぐ断った。退職後、相談役という肩書をもらい任期は死ぬまでと言われたが途中で辞退し、それまで受けていた手当を会社へ寄付してしまった。仕事もしないでの報酬は心の負担と考えたからである。年寄りには、農作業の重荷よりも心の負担の方が重く感じるからである。心の負担といえば、私はよく農作業の合間に木の切り株に腰を降ろし、白楽天の詩を口ずさむことにしている。詩中の一句に「匡慮(きょうろ)はすなわち是れ名を逃るる地」(盧山は名誉心から逃避する人の住むところ)とあるが、心は白楽天になりきってしまう。口ずさむ私の声を聞いている人は寿命を縮めるだろうが、私にとっては長寿の妙薬と思っている。自分の声に自分で満足しきっているなど、これも長寿に役立っているのかもしれない。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.23
『友と交わるには、須(すべから)く三分の侠気を帯ぷべし。人となるには一点の素心(そしん)を存するを要す。』(友人と交わるには、打算からではなく、三分の義侠心が必要。一人前の人物になるには、世俗に流されない純粋な一点の本心を残しておくべきである)交友の手本としては、中国の春秋時代斉の桓公に仕えた、管仲と鮑叔牙の貧時の交わりがある。二人は若い頃親友であったが、後にそれぞれ別の国王に仕えたため、敵味方に分かれることになった。管仲は破れたほうの王に仕えていたため、捕らえられて殺されることになった。この時、勝利者側の桓公に仕えていた鮑叔牙は桓公に、「王が斉一国の統治で満足するなら、高けいとこの鮑叔だけで十分でしょう。しかし天下に覇を唱えようとするなら、管仲を用いなければならないでしょう」と進言した。桓公は信頼厚い鮑叔牙の言に従い、管仲を大夫に任じて政治に当たらせた。果たして管仲は桓公を春秋五覇の筆頭に大成させるほどの大任を果たしている。後に管仲は鮑叔牙に感謝して、「私は若い頃鮑叔君と一緒に商売をしたことがある。その利益の割前をいつも私が多く取ったが、彼は私を欲ばりとは言わなかった。私の貧乏を知っていたからだ。彼のためと考えてやったことが失敗し、彼を余計に窮地に陥れたが、彼は私を愚か者とは言わなかった。時には外れることがあるということを知っていたからだ。また私が出仕して何度も首になったが、私を無能とは言わなかった。まだ運の向いてこないことを知っていたからだ。私が何度も戦いに行き、その度に破れて逃げ帰ったが、彼は卑怯者とは言わなかった。私には年老いた母のいることを知っていたからだ。私と共に捕らえられた召忽が恥じて自殺した時、私は縄目の恥を受けたが彼は恥知らずとは言わなかった。小事にこだわらず、天下に功名の現れないことだけを恥としていることを知っていたからだ。私を産んでくれたのは父母だが、私を知ってくれたのは鮑叔君だ」と述懐している。ここには鮑叔牙の義侠、管仲の素心を感ずることはできるが、利害打算をうかがうことはできない。打算につながる友情は、恨みにつながることはあっても、心と心を結ぶことはできない。銀行員の駆け出し時代と夜学で四年間苦労を共にした友人が倒れ、体の自由を失った。慰めるつもりもあって、彼の屋敷内にリンゴの苗木を一本植え、こう話した。「四年後には実をつけるはず、それを食べるまで死んではならない」それで翌年また一本植えて、これは品種の違うリンゴだから、これを食べるまで生きていてくれ、と話した。こうして毎年植えていけば死ぬわけにはいかなくなる。誰にもわかる子供だましのことのようだが、やらないと気がすまなくなる。彼はリンゴの花を見たあたりでこの世を去ったが、秋になり仏前に供えられたリンゴを見て、「うまかった」と言ってくれたかどうか・・・。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.22
『地の穢(けが)れたるものは多く物を生じ、水の清めるものは常に魚なし。ゆえに君子はまさに垢(こう)を含み汚を納るるの量を存すべく、潔を好み独り行うの操を持すべからず。』(汚い土には作物も育つが、澄みきった水には魚は棲みつかない。そこで君子は、汚いものも受け入れてやる度量を持つべきだし、一人よがりに潔癖過ぎるべきではない。)「虎穴に入らずんば虎子を得ず」で知られる後漢の班超が西部方面の統治の任を終え、その後任に任尚という男が就任した。任尚は、先輩の班超に統治のあり方について教えを求めた。班超の答えは、あまり厳し過ぎないことと、性急に過ぎないことの二点であった。「水清ければ魚棲まず」のたとえもある。ところが任尚は、この平凡な答えを侮り、守らなかったために統治に失敗したという。人間誰しも緊張を続けることはできないし、一時でもゆったりした気持ちでいたいものである。やはり、厳の中にも和があり、清の中に濁があるところに人間味がある。ある会社の社長が、「社長らしくもあり、社長らしくもなし」というのが社長の心得であると話してくれたが、厳格ずくめの訓示を聞いているより、少し冗句の入った文句のほうが聞き入れやすい。ある工場主は「私は短気だから部下を叱りつけるが、一言でも相手が救われることをつけ加えることにしている。たとえば大声で叱りっけた後で『俺の血圧を上げないようにしてくれ』とか、『そう怒らせるな、また今晩も晩酌を楽しみたいし』など、たわいもない一言だが、これで相手も救われたことになる」と。現役時代、中国へ行き、輸出品について価格協定を行った時である。お互いの主張がかみ合わず、ついに、無言の行に入ってしまった。その時、中国の責任者は、気分転換のためだったろうか突然言いだした。「井原さんは花卉園芸を趣味にしているそうだが土地はどのくらい所有していますか」と。そこで私が「土地は持っていますが、お国(中国)の国土より狭いんです」と答えたところ、一同手を打って笑い出した。その後は交渉もトントン拍子に決まってしまった。その翌年に出向いた時は、交渉に入る前に中国側から注文が出された。「おたくの機械は良いが、チベットの高い山で計ると若干の狂いが出るので改良してもらいたい」という。「さっそく技術屋に改めさせます」と答えた後で「機械はすぐ改めますが中国側でもご協力願いたいことがあります。高いチベットの山を少し削り取って低くしてもらえませんか」この時も爆笑が後を引いて、なごやかなうちに交渉をすませることができた。ユーモアの通じる人との話し合いで暗礁に乗り上げることはないものである。これは私が銀行に務めていた当時のこと。先輩常務が浮かない顔で頭取室から出てきた。「頭取の扇子がバラバラになるほど机を叩いて怒られてしまった」と言っていた。その常務。翌朝ニコニコ顔で頭取室から出てきた。「昨日頭取の扇子をバラバラにしてしまったから新しいのを買って届けてきたが、頭取から『もう一度バラバラにできる』と言われたので『もう新しいのは買ってきません』と言って出てきた」と。これなら、怒った頭取も怒られた常務も心にしこりが残ることはない。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.21
『藜口けん腸の者は、氷清玉潔多く、袞衣玉食の者は、婢膝奴顔に甘んず。蓋し志は澹泊をもって明らかに、しかして節は肥甘より喪うなり。』(粗衣粗食の人は氷玉のような清く、けがれのない心の持ち主が多い。美衣美食の人は最低で、おべっか、追従を上役にする見下げた態度をとる者が多い。人間としての道を守る力は淡白な生活によって磨かれるが、その気概は豪奢な生活によって次第に失われていく)ここに「創業守成」の故事がある。唐の太宗が、ある時、重臣たちに「国家経営を始めるのと、すでに完成している国家を守るのとでは、いずれが難しいか」と尋ねた。房玄齢は「天下が治まるまでは多くの英雄、豪傑たちが覇を争い並び立ちます。これらを征服して天下を得るのですから創業のほうが難しいと思います」と答えた。これに対し、魏徴は「昔からいずれの帝王も艱難辛苦の結果ようやく天下を得て、安楽で無事平穏の時に失っていますから、守成のほうが難しいと思います」と答えた。太宗はこの二人の意見を聞いて「玄齢は、自分と共に、百死に一生を得る思いで天下を得たため創業の難しさを述べている。魏徴は、自分とともに天下を治めて、騎り、たかぶりは富貴に慣れるところから生じ、禍や乱は、物ごとをいいかげんにするところから生ずることを心配しているが、創業はすでに終わっているのであるから、今後、守成のためにお互いに努めたい」と話した。こうした話は現代の会社経営にも通ずることで、現代の企業の衰退を見ても創業の辛苦を忘れて、物事をおろそかにし、謙を忘れ、倹を退け、研を軽んじ、堅を捨て、結果は会社を捨てざるを得なくしている。日露戦争当時、鈴木久五郎という人がいた。戦争景気を見越して、兜町で当時の花形銘柄であった鐘紡株を買い、買った株を担保にさらに買い進んだ。株は戦勝が重なるたびに値上がりして大儲けをした。儲けたカネで大盤振る舞いが始まり、自宅の建築祝いには招待客を乗せた人力車が長い行列をつくり、東京の一流料亭の座敷に砂利を散らし、その中に金貨を埋め、きれいどころに裾をからげて拾わせたというから、今の世でも見られない豪遊。しかし結果は、戦争終結で株は大暴落、さすがの大尽も一夜乞食となって幕を閉じたという。といって、今の人々も久五郎の姿を見て笑って過ごすことはできない。人は違い、その行為は違うにしても、している中身は同じであるからだ。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.20
『父は慈、子は孝、兄は友、弟は恭。たとえ極処になし至るも、ともにこれまさにかくのごとくなるべく、一毫の感激の念頭を着け得ず。もし施す者は徳に任じ、受くる者は恩を懐わば、すなわちこれ路人、すなわち市道とならん。』(父は子を慈しみ、子は親に孝行を尽くし、兄は弟を愛しいたわり、弟は兄を敬う。これは肉親として当然の情愛であって、少しも感謝の心を抱くには当たらない。もし、それを施した方が恩着せがましく考えたり、それを受けた者が恩を感じるならば、それは他人同士と同じことになり、商取引と変わらないことになる。)昔の小学校唱歌に二宮金次郎をうたった唱歌があった。「芝刈り、縄なえわらじをつくり、親の手助け弟を世話し、兄弟仲よく、孝行つくす手本は二宮金次郎」今歌ってもほのぼのとした気分にしてくれるが、これとは逆に兄が弟をいじめた話もある。『三国志』の一方の雄、魏の曹操の長子は曹丕、三弟が曹植。この兄弟は仲が悪かった。兄が位についたが、ある日弟に対して「余の前七歩を歩むうちに詩を作れ、成らぬときは勅命にそむくものとして重罪に処す」と。こうして弟を苦しめようとしたが、曹植は兄の言に応じて立つと、たちまち作った。豆を煮て持して羹を作るしを漉して以て汁となすきは釜底に在って燃え豆は釜中に在って泣く本と是れ同根より生ず相煎る何ぞ太だ急なる(あつものを作ろうとして豆を煮、味噌をこして汁を作るのに、まめがらは釜の底で燃え、釜の中の豆が熱さに堪えかねて泣きながら言うには、「豆もまめがらももともと同じ根から育った間柄なのに、こんなに急いで煮るのはあんまりではないか」)これを読み替えると「父母を同じくする兄弟なのである、本来なら兄弟は協力すべきなのになんで弟の私を責めようとするのですか」という切ない弟の訴えでもある。兄の曹丕は、これで幾分反省したとあるが、いずれにしても、力ある兄が弱い立場の弟を苦しめることは、誰にしても許しがたい気持ちになるに違いない。わが国でも、源義経に味方し同情する者はあっても、頼朝を天下の英雄と称える者はなかろう。ことはどうあれ、実の弟、弱い弟を討つ者を尊敬する人間はいないからである。これは兄弟の間柄についてばかりではない。ことに親は慈、子は孝。互いにかくあるべし、という考えは人間誰しも共通しているだろうが、これにも差がある。慈に対し孝で報いようとしない人間はいずれは脱落し、報いようと努める人のみが成長していくことになる。「忠臣を求むるは、必ず孝子の門においてす」と『後漢書』にあるが、忠義な家臣を得たいと思うなら、必ず孝行に厚い人物を選びなさいという意味である。銀行員時代、新入行員の面接試験をしたことがある。当時、銀行の新入行員採用条件の一つは両親が健在であること、ということになっていた。私が面接した時、「採用が決定した場合、まず報告したい人、それに悦んでくれる人は誰ですか」という質問に「いずれも、母です」と答えた人に、私は内規に反して採用の印を押してしまった。私が課長を退いて何年か後に、ある支店へ出向いた。待合室に立っていた私に支店長席から立ち上がって近づいてきた人物がいるが、一面識もない。と思っていたのは私だけ、相手は私が面接試験をした新入行員であった。まず私が聞いたのは「お母さんは」であったが、彼が支店長になって間もなく亡くなったということであった。その時ふと頭に浮かんだのが「孝は道の美、百行の基なり」という後漢の歴史学者・班固の言葉であった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.19
『欲路上のことは、その便を楽しみて姑(しばら)くも染指(せんし)をなすことなかれ。ひとたび染指せば、すなわち深く万仞(ばんじん)に入らん。理跨上のことは、その難を憚(はばか)りてややも退歩をなすことなかれ。ひとたび退歩せば、すなわち遠く千山を隔てん。』(欲望に帰することは、ついでだからといって、かりそめにも手を出さないように。一度手を出したが最後、その味を覚え、引き込まれて溺れ、ついには万仞の深みに落ち込んでしまう。反対に道理に帰することは、その困難なことを億劫がって少しでも尻込みしないように。一度尻込みすると、なおさら億劫になり、ついには千山を隔ててしまい追いつくこともできなくなってしまう。)中国の春秋時代、斉の桓公が宰相の管仲に、「富」に限界というものがあるかと尋ねた。管仲はこう答えた。「水の限界は水の尽きたところ、富の限界は、これ以上富は不要と考えたところでしょうが、人間はこれ以上は不要とは考えず、さらに積み上げようと考え、結果はすべての富を失ってしまいます。ここらが限界といえます」今から二千数百年も昔のことだが、人間の欲というものは何年たっても変わることはないようである。といってまったく限界を知らない者ばかりではなかった。「陶朱猗頓(とうしゅいとん)の富」の故事で知られる陶の朱公とは、「臥薪嘗胆」の故事にかかわる越王・勾践に仕えた范蠡(はんれい)のことである。范蠡は勾践が天下をとると、勾践の人相は苦しみを共にできる人だが、楽しみは共にできないとして、財をまとめ一族を連れて斉に移り、商品の売買をはじめ数千万の富を得た。これを知った斉王は迎えて宰相にしようとしたが、「家にあっては千金を儲け、官については卿相となるのは栄華のきわみ。身のためにあらず」として断るとともに、儲けた数千万金をことごとく人々に与え、山東省の定陶に移り名を朱と変えて再び大金を儲け、それも人々に与えてしまった。19年間に3度も儲けたとある。子孫もまた栄えたという。限りない欲をもつ者は最後にはことごとく失い、欲の限界を知った者は儲け続けている。この故事を学んでいた人は土地投機で悔いを残すことはなかったろう。ある有名会社の社訓に、文句は忘れてあいまいだが「恐るべきは日々軽々の損、望むらくは日々軽々の利」、また、「恐るべきは一時の大利、恐るべからざるは一時の大損」という意味のものがあった。一時の大利を得て、それだけで満足する者はない。再度大利を狙ってことごとく失い、これを取り戻そうとして大損する。落ちゆく人間の常である。その昔、競馬の予想屋二人と語りあったことがある。一人は「大穴を当ててみろ」、もう一人は、「確実に取って帰れ、最終レースだ」と叫んでいた予想屋で、その二人から馬券を買ってみた。いずれも外れ。夕食を共にしながら聞いた。「百発百中大穴を取って帰れと言っていたが?」「大穴が百発百中なら、予想屋を止めて自分で馬券を買いますよ」「予想屋で預金を増やすには?」「絶対馬券を買わないこと」「競馬で一番確実に儲けている人は?」「それは地面師だろう、何しろ、捨ててある馬券をかき集めて持ち帰り、当たり券を探し出して次の日に引き替えるから確実だ」一人の予想屋はそれ以前は新橋で既製服を商っていたと言い、もう一人は元私大の労働法の講師だったと答えてくれた。酒も出ていたので田端義夫の「大利根月夜」でも歌うかと思っていたが歌は聞けなかった。「愚痴じゃなけれど、世が世であれば、大学の先生でいられたものを、今じゃ、今じゃ浮き世の予想屋暮らし」会社経営などが落ち目になると一穴当ててやろうという気にもなろうが、結果は大穴は当たらず大穴に落ちることになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.18
『事これを急にして自らかならざるものあり、これを寛くせばあるいはおのずから明らかならん。躁急にしてもってその怒りを速(まね)くことなかれ。人はこれを操りて従わざるものあり、これを縦てばあるいはおのずから化せん。操ること切にしてもってその頑(かたくな)を益すことなかれ。』(急いで知ろうとしても明らかにならないことがある。そうした時は、のんびり構えておれば明らかになることがある。あまり急いでは人の怒りを買うことになる。人を使う場合も同じで、働こうとしない者や命令に従わない人にうるさく言うよりは、自由に放っておけば自発的に動くようになる。うるさく言えばかえって依怙地(いこじ)になってしまう。)ある工場で、よく働く人と、怠けている人を区分して、工場の右側で作業する人間はよく働く人たち、怠けがちの工員は左側にし、右側の壁には「目標達成に全力投球しよう」「なせば成る」と書いたポスター、左側には「○○日は花見、○○日観劇」というポスターを掲げた。何日かたった頃、花見、観劇のポスターは破り捨てられていた。恥を意識したからだろう。これは私の体験だが、工場内に、口は八丁だが手は一丁という人間が20人ほどいたので、彼らを一括して一部を設けた。仕事は特に与えず、退屈しのぎに新聞と週刊誌だけは配布しておいた。幾日か過ぎた頃、何か仕事を出してくれという申し入れが出た。潜んでいた良心が促したのではなかろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.17
『肝、病を受くれば、すなわち目視ること能わず。腎、病を受くれば、すなわち耳聴くこと能わず。病は人の見ざるところに受けて、必ず人の共に見るところに発す。ゆえに君子は罪を昭々に得ることなきを欲せば、まず罪を冥々に得ることなかれ。』(肝臓を病むと目が見えなくなり、腎臓を病むと耳が聞こえなくなる。このように病気というものは最初は人に見えない内部からおきて、やがては誰にも見えるようになるものである。それゆえ、君子たるものは、人目につくところで罪を犯さないようにしたいと思ったら、まず人目のつかないところで罪を犯さないように心がけなければならない。)罪を犯す人は、誰にもわかるまいと思って犯していると思う。しかし、衆目から逃げることはできないもので天知る、地知る、吾知る、子知る、で最少四者は知っていることになる。仮に自分だけが知っていたとしよう。独り知っていたとしても、罪を犯した償いをまぬがれることはできないだろう。自責の念、劣等感、引け目などいずれも終身刑に当たるだろう。こうした「自分で、自分に科した罪」ほど勇気を妨げるものはない。私の場合、身から出た錆とでもいおうか、例の青年時代のヤカン頭である。当時私は尺八を楽しんでいた。三味線、琴との三曲合奏には有名校出身、良家の若い女性と席を同じくする。しかし、話しかけたこともなければ、見つめたこともない。なんとなく引け目を感じたからだ。尺八、琴の先生から「この中からお嫁さんを探しなさい」と言われたこともあったが、全くその気にもなれなかった。劣等感が先立ったからだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.16
『夜深く人静かなるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄窮まりて真独り露わるを覚ゆ。常に此の中において、大機趣を得。すでに真現れて妄の逃れ難きを覚ゆれば、またこの中において、大慚忸(ざんじく)を得。』(夜ふけて静まりかえっている時に自分の内心を見つめていると、妄念は消え去ってただ自然の真心だけが現れてくる。常にこうしていると、応用自在な心の働きを知ることができる。すでに真心を知っても妄念の去り難いことを知ると、そこで懺悔の心が生まれ、正しい道を志すことになる。)まさに私のような人間の頭には邪念邪欲、現在、過去、未来あり、悲喜去来して止むことを知らず、といえるような雑念が本心を失わせて止まないものである。これを一時でも払拭しないかぎり、知恵も出なければ善良な意欲も出ないことになる。ことに経営に当たる人にとっては肝要なことであって、名経営者といえる人は頭の休養に心掛けているものである。野村證券の元社長の奥村綱雄さんと生前対談したとき、「よく海釣りに出かけるが、船頭さんに『こちらから声をかけるまで話しかけないでくれ』と言っておく」と語っていたが、雑念一掃のためであったろう。そういえば太公望呂尚は川で釣りをしているとき、周の西伯(後の文王)に見いだされたとある。「釣れますかなどと文王そばに寄り」という川柳もある。このとき太公望の釣り竿には、針がついていなかったとか。となると、太公望の目的は、魚ではなく、精神統一にあったのではなかろうか。西濃運輸の創立者・田口利八さんと対談した時、「今、私は70歳だが、今でも判断に苦しむと母の墓前へ相談に行く。決断がつくまで妄念を去ってぬかずく」と話していた。そのとき私が社長のいがぐり頭を見ながら、「社長も私と同じくバリカンの世話になっていますね」と言ったのに対し、「一人前になるまでは」といっていたが、そのころ社長は“陸運王”といわれていた。傲慢という邪念を追い払う心掛けの坊主頭ではなかったろうか。また、ある社長は土曜の午後から行方不明になることにしている。ホテルに一泊してテレビも見なければ新聞も読まない。食事はルームサービス、部屋からも出ない、という。孤高の境地に己を置こうという考えであろう。一日一回椅子に座って般若心経を唱えるという社長もいたし、東京から福島まで週に一度は帰って一日農夫になるという社長もいた。昼食は南京豆という社長がいた。「皮をむいている間は何も考えないから」と。誠に恐れ入った努力である。私の雑念退治は家にあっては農作業、職場にいた頃は吟詠であった。詩中の心になっていると、他のことはたちまち霧消するから不思議である。9月10日去年の今夜清涼に侍す秋思の詩篇独り断腸恩賜の御衣今此に在り捧持して毎日余香を拝す作者・菅原道真の誠忠の胸の内、それを思いやるばかりで、他は無想。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.15
『苦心のうちに、常に心を悦ばしむるの趣を得る。得意の時、すなわち失意の悲しみを生ず。』(苦労している最中にこそ真の喜びがある。これとは反対に、望みを達した得意の時に失意の悲しみが忍び込んでくる。)ナポレオンは、欧州全土を席巻し次はイギリス本土攻略を目指して英仏海峡に臨んだ時、厳然として浮かんでいるイギリス大艦隊を眺めて、勝利の悲しみを味わったという。百戦百勝のうちにも勝ちの悲しみが潜んでいるものである。太平洋戦争の真珠湾攻撃の悦びの影は太平洋の孤島に悲しみの影となって見え隠れしていたろうし、バブル初戦の得意顔の亡霊はバブル崩壊後の失意の亡霊に姿を変えている。「盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」の名文句は『平家物語』に限らないようである。これとは反対に、苦心のうちに悦びを見い出し、苦労脱出に挑戦し続けた人は、悦びの涙を噛みしめているに違いない。「柔」の歌ではないが、「負けてもともとわが胸の、奥に生きてる柔の夢が、一生一度・・・」の栄光が待っている。負けても負けても最後まで金メダルを目指すところに金メダルは輝くものである。勝負の世界も会社経営の世界も同じ。負けの中に小さな金メダルの光を見い出し、これを手中に収めずんば已まずの旺盛な気力で体当たりする者は、金メダルを手にすることができるだろう。困難不可能を前にして将来の栄光を信じない者は、悲しみを抱いたまま消え去っていくに違いない。だいたい、有終の美を飾る者は百戦百敗しても挫けない不屈の精神の持ち主で、百敗の中にも常に一勝の楽しみを抱いているものである。とかく、経営に行き詰まると何かに頼る気を起こす。これは已の心に負けの悲哀が増してきているからだ。天も神も、そこまで手を差しのべる余裕はなさそうである。現役当時、会社再建5ヶ年計画を発表した時、達成祈願を奨められたが断り、達成後のお礼参りになら行くと答えたことがある。「天は自ら助くる者を助く」といわれている。我々が自ら助かろうとして努力すれば、天は頼まずとも助けてくれる。それに対してのお礼参りだ、と。そして、こうつけ加えておいた。「厳しい、苦しいということばかりを考えるから苦しくなる。神に頼んで早く楽になろうとすることは、せっかく天が用意してくれている楽しみ、悦びを味わうことができなくなる。苦労と戦っている最中の悦び、楽しみというものは、悦びの中で最高のものといえるだろう。私は20歳前後の頃、父が残した借金返済のため銀行から急いで帰り、荷車を引いて、大豆、サツマイモを2キロ離れた街中へ売りに行った。持ち帰るカネは2円か3円だったが、年4回、1回分40円の分割返済の1回分にもほど遠い2、3円のイモの代金を、おしいただくほどありがたく思ったものである。帰って母に渡す。母はそれを仏壇に供えて線香を立てている。こうしたひとときの悦びも苦があればこそといえるもので、天は人に苦ばかり強いているものではないと思えば、一つ楽しみを加えることになるだろう」これは後日のことになる。私の個人の借金苦は18歳から32歳までの14年間であったが、完済して土地建物の抵当権を解除し権利書を取り戻して母に渡したところ、仏壇に供えて線香に火をつけようとした。が、「これでご先祖様に申しわけが立った」と言いながら流れ落ちる涙で火がつかない。生涯、私が感激した最高のものであったと思う。厳しさ、悲しみを求める者はなかろうが、不幸にしてそうした境遇を余儀なくされたら、美空ひばりを気どって「柔」の一節でも歌ってみるがよい。「行くもとまるも坐るも臥すも、再起一筋、再建一筋」と繰り返せば、後の文句は力強く出てくる-「夜が明ける」と。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.14
『事々、個の有余不尽の意志を留むれば、すなわち造物もわれを忌むこと能わず、鬼神もわれを損ずること能わず。もし業は必ず満を求め、功は必ず盈(えい)を求むる者は、内変を生ぜざれば、必ず外憂を召く。』(何事もゆとりを持ち、控え目にする気持ちを持っていれば造物も我を忌みきらうことはなく、鬼神も害を加えることはない。しかし、仕事にも功名にも十二分に満ち足りることを求めれば、内部から変革が起こったり外部からの変事を招いてしまうものである。)ここに「何事にもゆとりを持ち、控え目に」とあるが、これに従っていないのが現在の私自身のようである。聖人孔子は、「私は15歳のときに学問によって身を立てようと決心し、30歳で自分の立場ができた。40歳で自分の方向に確信を持ち、50歳で天から与えられた使命を自覚した。60歳で、誰の意見にも耳を傾けられるようになり、70歳になってからは自分で抑える努力をしなくても常識を越すようなことはしなくなった」と述べているが、60までは、私なりにこの言葉に副ってきたつもりである。しかし、70からは「心の欲する所に従って、矩を越えず」とあるが、私は度々これに背いている。この違反については家族からも注意され自分なりに注意しているが、90過ぎた今も背いている。「論語読みの論語知らず」を裏書きしているようだが、不治の病ではないかと思う。「矩を越している」とは、私の百姓道楽で、除草で肩こりから炎症を起こして首が痛んで回らなくなって一年以上も苦しんだり、肥料をやり過ぎて枯らしてしまったり、盆栽作りのために土鉢を三千個も買って始末に苦しんだり、いずれも過ぎたるは及ばずの悔いである。今では家の近くにいる長女と家の嫁の監視つきで、過ぎると道具を取り上げられてしまうので、論語違反も減りつつあるが、それでも死んだら野菜の種を棺桶の中に入れてくれと言ってある。冥土というからには土があるだろうと思っているのであるから、この道楽は死んでも続けるつもりらしい。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.13
『身を立つるに一歩高くして立たざれば、塵裡(じんり)に衣を振い、泥中に足を濯うがごとし。いかんぞ超達せん。世に処するに一歩退いて処らざれば、飛蛾の燭に投じ、てい羊(よう)の藩に触るるがごとし。いかんぞ安楽ならん。』(この世で身を立てようとすると、常に一歩だけ世人よりも高くしておかないと、塵の中で衣を振るい、泥の中で足を洗うようなもので、汚れが増すばかりである。また、この世をわたっていくためには、世間から一歩だけ退いていないと、ちょうど虫が灯に身を投じ、牡羊が柵に角を突っ込んで進退窮まるようなことになる。それでは安楽に過ごすことができようか。)明の王守仁は、その著『伝習禄』で「志は易きを求めず事は難事を避けず」と述べている。つまり、志は容易にできるようなことを選びなさるな、また、それが困難が予想されることであっても避けなさるな、という意味である。その昔、子供に「将来何になりたいか」と聞くと、「大臣、大将」と答えた。大志まことに結構といいたいところだが、果たして何人が志をかなえることができたであろうか。「男子志を立てて郷関を出ず」誰でも志を抱いているものだが、その実現は極めて困難といえるだろう。『十八史略』にこんな記述がある。前漢の祖・劉邦は、現在でいえば小さな田舎町の警察署長程度の役人でしかなかった時、秦の始皇帝の豪華な行列を見て「大丈夫まさにかくのごとくなるべし」(男と生まれたからには、このくらいの人になりたいものだ)と将来への志を口にし、その生涯のライバルとなった項羽は、同じ行列を見て、「吾必ず始皇に代らん」といったという。しかし、この結果は、劉邦の勝利に帰している。その理由には武力と徳の差、部下への信頼と不信、謙虚と傲慢の違いをあげることができよう。男子が志を立てることは共通しているが、立てた志の達成いかんは仁徳の差によるものとも考えられる。これを端的にいえば、『伝習録』にある戒め、すなわち「人生の大病は、ただこれ傲の一字なり」ということになるだろう。少々有利な立場になると傲慢病に冒され前途を失うものである。また、この項の冒頭に「一歩退いて処らざれば」とある。せっかく大志の実現を目前にしていながら挫折してしまう人も少なくないが、いずれも大志に満足せず、さらにより大きな志を遂げようとするからである。その実例はバブル当時の失敗で、ここで述べるまでもなかろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.12
『醸肥辛甘(じょうひしんかん)は真味にあらず、真味はただこれ淡なり。神奇卓異(しんきたくい)は至人にあらず、至人はただこれ常なり。』(濃い酒、こってりした食べ物、辛過ぎ甘過ぎるものには本物の味はない。本物の味は淡白なものである。これと同じく奇抜な振る舞い、奇抜な才能を振り回す人は道を究めた人ではない。真の人物というのは平々凡々な尋常な人である。)聖人孔子は、忠恕合わせて“仁”の一字を貫いたという。『論語』の里仁(りじん)篇にこんな記述がある。「子曰く『参(しん)や、わが道は一もってこれを貫く』。曾子曰く、『唯(い)』。子出ず。門人問いて曰く、『何の謂(い)いぞや』。曾子曰く、『夫子の道は忠恕のみ』」実に簡単な文句だが、この意味は、きわめて大きい。「曾参(曾子)よ、私という人間は、ただ一つの原則だけで貫かれているのだ」という孔子の言葉に、曾子はただ「ハイ、そうですか」と言うだけであった。孔子が去ったあとで他の門人たちが「先生が貫いたという一つのこととはどういうことなのでしょうか」と尋ねたのに対し、曾子は答えた。「先生は良心をいつわらないこと、すなわち“忠”と他人への思いやり“恕”とが人倫の根本だと言われたのである」一つのこととは、忠と恕を合わせた仁の一字で、孔子は仁の一字を根として、人々への思いやりを施したということである。たった一字が、いかに多くの人々の心に感動を与えたか計り知れないものがある。いい換えれば、美辞麗句よりも簡単明瞭な文句のほうがよい、ということになる。なるほど回りくどい文句を読み聞きするよりも、簡単明瞭であるほうが聞きやすくもあり、従いやすくもある。昔、武士が戦場から送った妻への手紙が「火の用心、おせん泣かすな、かぜひくな」。まさにいい尽くされた手紙である。南極越冬隊員に新妻が打った電報は「あなた」だけ。欧州の作家が出版社に宛てた電文は「?」マークだけであった。「本の売れ行きいかに」の意味だ。会社が行きづまり、資産のすべてが差し押さえられ、進退きわまった夫を迎えた妻の言葉は「あなたは」の一言。「よもやあなたまで差し押さえられたわけではないでしょう」を略した文句である。私が会社の借金過多をグチったら「借金なんか返せばいいんだ」と言ってくれた人がいたが、嘆くより、返せばグチも出なくなる。会社再建5ヶ年計画を立てたときの計画目標は、「0、1、2、3」、つまり0(無借金)、1(東証2部上場から1部への昇格)、2(無配から2割配当)、3(社員ボーナスを年3回とする)という単純きわまるものであったが、漢文調の激励文句より効果があったと思う。簡単淡白をなぜ良しとするのか、ということで考えたことがある。思うに淡白、簡単であれば相手に考えさせる、思わせるという効果がある。そのため説得力も加わることになる。たとえば、会社が差し押さえられた夫に「あなたは」といえば、万物の自由は差し押さえられたが、自分の自由を知れば元気も出るし知恵も出る、失意を気力に変えることもできる、というような。目標の「0、1、2、3」にしても、不可能に考えていた向きを可能と願う気になるだろう。美辞を並べても失意に陥っているときは、並べれば並べるほど計画に対して疑心を増すようになる。会社の計画書などにしても、読んでは楽しいが読み終わってみるとあとに何も残らないものがある。昔の聖人は「無為にして化す」、つまり何もしないで人々を感化したというが、そこまではいかずとも簡単で効果のある手段方法を選ぶことに心がけたいものである。昔から私は自分なりの処世訓として「敬」の一字を守り通しているが、たった一字なら相当のボケが進んでも守ることができるのではないか。敬とは「己を慎み人を敬う」を意味している。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.11
『功過は少しも混ずべからず、混ずればすなわち人は惰きの心を懐かん。恩仇は甚だ明らかにすべからず、明らかにすればすなわち人は携弐の志を起こさん。』 (功績と過ちの評価を少しでもあいまいにしてはならない。あいまいにすると部下はやる気を失うことになる。また、人の恩と仇とを明らかにしてはならない。明らかにしすぎると人は離れるようになる。)組織内でも多くのトップの過ちは公私混同である。経費などの公私混同は部下の目をごまかすこともできようが、部下の評価についてはそう簡単にはすまされない。これについては中国の春秋時代斉の名宰相といわれた管仲の教えがある。管仲はトップの敵として、(1)から(6)の6つをあげている。1、(1)親族、(2)高官が命令に反してもとがめない。2、(3)金持ち、(4)愛妾が禁令違反をしても処罰しない。3、(5)へつらい者、(6)道楽仲間に功労がなくても位を与える。これらの点については現代でもありがちなことであるが、トップの公私混同、功罪の不公平は組織全体に悪影響を及ぼすはずである。不公平だけではすまされないこともあり得る。功ある者を罰し、功なき者を賞する類いである。ある上場会社のことである。バブル当時、土地投機で損が生じ、紛飾決算を余儀なくされたが、その後に出た利益で粉飾を中止してはと献策した、いわば忠臣を左遷したという。会社危うくして忠臣現れたのにこの忠臣を遠ざけるようでは、その命いくばくもなしと誰しも考えるだろう。『三国志』を飾る人物といえば蜀の諸葛孔明だが、今に孔明の名を高くしているのが「涙を振るって馬謖を斬る」であろう。孔明は、軍律命令違反の罪で馬謖を断罪に処している。孔明は馬謖の才能を認め将来に期待していた人物であったが罪は罪、涙を振るって斬っている。また楚の共王は、戦闘中酒で酔いつぶれたという罪で、かけがえのない子反将軍を断罪に処している。いずれも軍律を守るためには人傑も惜しまず、という心がなければできないことである。しかし孔明は馬謖を斬った後、家族の生活には事欠くことのないように配慮したという。公は公、私は私の区別を判然とすることが人々を率いる者の心しておきたい点である。とかくトップの心すべき点は数々あげられているが、帰するところは信賞必罰の公平にあり、といえるだろう。韓の公子・韓非の著した『韓非子』には、人を率いる条件は賞罰だけでよい、という意味のことが書かれている。このように組織運営の要は公平な賞罰を行うにありといえるが、とかく賞は行うが罰は行わず、あるいは、賞罰は行うが公平を欠く、さらに、賞罰共に行わず、賞罰規程は作ったが有名無実に終わったりで、その結果は会社そのものまで無名無実にしてしまう。ばかげたことである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.10
『世を渉ること浅けれ点染もまた浅し。事を歴ること深ければ機械もまた深し。ゆえに君子は、その練達ならんよりは朴魯なるにしかず。その曲謹ならんよりは疎狂なるにしかず。』(世を渡る体験が浅ければ、世間の悪風に染まることも少ない。体験を重ねるにつれて、手練手管、からくりも上手になる。そのため君子は世事にたけ、万事に如才ないよりは、いくらか間が抜け、飾り気のないほうがよい。むしろ粗雑だが志のしっかりしたほうがよい。)『論語』に「巧言令色、鮮なし仁」(巧みな弁舌、人をそらさぬ応対、そんな人間に限って仁には遠いものである)という文句がある。組織内にも、弁舌はいともさわやかだが、才能、手腕ともなるとさわやかならず、という者がいる。反対に口で言うより手のほうがうまいという人がいる。両者の話を聞いていると、弁舌鮮やかに聞こえて内容の多くは自己弁護に過ぎているようである。手腕力量を弁舌でカバーしているようなもので、いわば実のない内容の乏しいものに終わっているが、訥々としていても事の要点を指して話す者は聞く人に感激を与えている。昔から「鳴かない猫ほど鼠をよく取る」といわれているが、とかく口八丁の人は手は二丁三丁の人が多い。中国の戦国時代に活躍した策土たちが用いた名言奇策集がある。多くは言葉巧みに相手を説得して我田引水の目的を果たそうというものである。これはこれとして人々に興味を与え、何事かのヒントを与えてくれるものといえるが、悪心を抱いて言葉巧みに近づき我欲を満たそうとする者は警戒しなければならない。別項でも述べたが、大姦は忠に似、大詐は信に似ている。つまり大悪党は忠義者に似ているし、大うそつきは信用できる者に似ているという意味だが、トゲはきれいな花にだけあるのではない。言葉巧みな花には猛毒のあることを知っておくべきだろう。言葉というものは飾りつけができるため、心にもない飾りつけを簡単にしてしまうものがある。銀行に勤めていた頃、常務から仕事上の命令を受けた。私が「粉骨砕身やってみます」と答えたところ、「君に粉骨砕身されたら香典を出さなければならない。死ななくてもこの仕事はできるはずだ」と言われたことがある。いずれにしても、言葉巧みはかえって軽蔑され信用を落とすことが多い。また粗雑な態度は礼を失する心配もあるが、媚びへつらう態度は、相手に警戒心を与え、真実を自ら打ち消す結果となることに心したいと思う。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.09
『事を議する者は、身は事の外に在りて、よろしく利害の情を悉(つく)すべし。事に任ずる者は、身は事の中に居りて、まさに利害の慮(おもんばかり)を忘るべし。』(議論をする場合は自分を第三者の立場に置き、利害得失を検討し尽くすようにしなければならない。実行する場合は己を当事者とし、自分の利害得失を忘れてかからなければならない。)この文言は、いずこかの国会議員のために特に加えたのではないか?と考えられる。○○族とかいわれている“我田引水先生”ならぬ“専声”たちの「まさに利害の慮を忘れず」が思い浮かぶからである。私は現役当時、会議となると自分や自分の職だけの利害にとらわれて会社全体の利を考えない管理者があまりにも多く、また労働組合の勢力が盛んであったため、会社の利を捨てて組合の意に副うことのみに腐心している様子が会議中にも見られたため、「総論賛成各論反対」を主張する者は会場から出ていってもらうと宣言したことがある。会社の利害を後にした意見が多かったからである。もし、総論賛成というなら、各論に反対せず総論賛成に副うように努めるのが参加者の任務ともいえるからである。さらに会議をするものには「会して議せず、議して決せず、決して行わず、行って責任をとらず」であってはならない、という戒めがある。ある会社に関係して間もなく、そこの会議に出席したことがあった。議題は、機械の付属器機の研究開発に10億円の費用を投じ10年の年月を要しているが、いまだ未完成、今後も開発を続けるかどうかを決めることであった。その場に開発を担当している幹部も出席していたため正面切って反対ができず何回となく会議を繰り返していたらしい。これにしても、開発者に気兼ねすることは私的感情で、その損失は会社が負担することになる。その時、私も意見を求められたので、黒板に「鶏肋(けいろく)」と書き、これを説明して開発中止とした。「鶏肋」のいわれは『三国志』の魏の曹操が撤退命令に用いた隠語で「鶏の肋骨は食べるところはないが捨てるには惜しい」ということで、蜀の諸葛孔明と関中の争奪戦をしていた時の撤退命令の代わりに用いたものといわれている。また、私は子会社の責任者会議には一年間の業績順に席を与え、発言順も業績順にしたため、時間内に発言できない者もいた。この苦情に対して「敗軍の将は兵を語らず」というではないか、次の会議には発言可能な席を奪い取れと励ましたこともあった。「会議の有効利用」だと言っていた者もいたようである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.08
『疾風怒雨には禽鳥も戚々たり。霽日光風には草木も欣々たり。見るべし。天地は一日も和気なかるべからず。人心は一日も喜神なかるべからざるを。』(天気の悪い日には、鳥たちも悲しげに鳴く。晴れた日には、草木も嬉しそうだ。だから人間は、たとえ一日でも、喜び楽しむ心がなくてはならない。己の心の暗さは他人の心まで暗くしてしまうものである。)トップの一日の喜心は、全社員の喜心。トップの志気は、全社員の志気となる。トップの白信は、全社一丸の白信となる。打算的な言い分だが、トップの喜心には代価を必要としないが、代償は全社員の志気となって返ってくる。一方、部下を叱ると、部下をくさらせ、己にも不快を招く。これほど高い代償はない。今は昔、取引先の社長は豪快な人で、社員に対しても平素は穏やかだが、怒ると、まさに「烈火のごとし」という人であった。「私は気にくわないと怒りたくなる性分で、そこにいる誰にでも怒りをたたきつけて溜飲を下げることにしている」と言っていたので、私が「社長、溜飲は下がるが血圧のほうも上がるでしょう」と言ったら、血圧も下がるといい返していたが、2、3年後だったか、脳疾患で倒れている。「克己、自分に勝つ勇気は一呼吸の内にあり」とは先賢の教えだが、自分の喜心を妨げるものを取り除くことが一瞬にあると考えれば、一瞬、一時の間に、憂い、怒りを抑えることができるはず。このように考えてくると、トップはわずかな喜心も捨てるべきではない。これも、「私事をもって公事を害せず」の精神に副うことになるからである。唐の詩人・白楽天は「壮士憂いによりて減じ形容病と共にす」と詠んでいる。すなわち、やる気満々の若人でも心配事があるとその意気込みも減退し、病気になると顔形にまで現れてくる、という意味だが、壮士を社長に読み替えてみると会社の安否まで危ぶまれてくる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.07
『己をかえりみる者は、事に触れて皆薬石となり、人をとがむる者は、念を動かせばすなわちこれ戈矛なり。一はもって衆善の路を開き、一はもって諸悪の源を深くす。相去ること霄壤なり。』(自分を反省する者は、体験するすべてが日々成長の糧となる。人に責を負わせようとする者は、思い考えるすべてが自分をそこねる戈となる。前者は善に向かう路を開くのに対し、後者は悪の源を深くするもので、この両者には天と地との差がある。)「反省は準備なり」とは私の持論でもあるが、反省は攻守いずれにも通じる力となるものである。よく、「ボウフラ経営」という人がいる。景気がよくなると会社の業績も上がっていくが、不況になると沈んでしまう。会社の業績が上向き好調な時に反省してみると、この好調の原因は自分の力ではなく環境好転の力であることに気づくだろう。反対に、業績の悪化は環境悪化のためでもあろうが、好調時になぜ不況に耐えるための準備を怠っていたのか反省も起こってくるに違いない。このように考えてくると、業績の良し悪しにかかわらず反省の必要がある。それを知っておかねばならないともいえるわけで、これを怠ると、浮いたり、沈んだりの繰り返しで、少しも前進することができない、ということになる。それなら、なぜ反省を怠ることになるのか。端的にいえば、良いこと、成功したことは自分の力と考え、悪いこと、失敗は他のせいにしてしまうからである。成功を自分の力と考えるから、うぬぼれ根性も出れば有頂天にもなる。失敗を他に転嫁してしまうから一時は救われた気分になるが、悩みは果てないことになる。「過ちて改めざる、これを過ちという」「過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ」(過ちがあったなら、ただちに改めなさい)いずれも『論語』にある言葉である。しごく当たり前の文句のようだが、反省を怠ると会社の命取りになることも少なくない。東西の歴史を見ても、反省を促されて改めた者は成功し、改めなかった者は大きな悔いを残している。会社経営などにしてもしかりで、失敗を他のせいにして省みることなく過ごした者は、後日必ずその何倍、何十倍かの代償を強いられるものである。銀行員時代、同じ年齢で同じ学校を同じ年に卒業した新入行員の集まりに出席を求められ、こう話した。「現在は、すべて条件を一つにした選手がスタートラインに立ったと同じだが、次第に小差から大差がつくようになり、決勝点に着くまでには脱落する者も現れて、この同級会も自然消滅するだろう。それを避けようとするなら、互いに遅れている点を指摘し合い、反省し合い、励まし合っていけば大差なく決勝点に到着することになるだろう」この会は数年後には解散になっている。半数ほどの者には肩書がついたが残り半分にはつかなかったからで、肩書のない者は会に出席しなくなったからである。このグループの決勝点での成績は一人が常務取締、三人は有力支店の支店長で、最下位は一人だったが平行員で終わっている。最後の一人は「残業紳士」と言われたほど残業手当稼ぎを注意されたが反省することがなかった。『菜根譚』には、こんな文句もある。『声妓も晩景に良に従えば、一世のえん花もさまたげなし。貞婦も白頭に守を失えば、半生の清苦、ともに非なり。語に云う「人を看るには、ただ後のはんせつを看よ」とまことに名言なり。』(芸妓も晩年に身を固め貞節な妻になって夫に尽くせば、昔の浮いた暮らしも引け目とはならない。貞節であった妻も白髪になってから操を破るようであれば、それまでの貞節が水泡に帰する。ことわざにもある、「人の値打ちを見るには後半生を見るだけでよい」と。まさに名言である。) (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.06
『矜高倨傲は、客気にあらざるはなし。客気を降伏し得て下して、しかる後に正気伸ぷ。情欲意識は、ことごとく妄心に属す。妄心を消殺し得尽くして、しかる後に真心現る。』(誇り、高ぶり、他を見下げ、威張ったりするのは客気、カラ元気による。これを押さえつけてしまうことができて、はじめて真の勇気が出る。情欲、利害打算の考えは、すべて妄心のなせるわざ、これをすっかり消滅させてしまうことができて、はじめて真心が現れてくる。)孔子の弟子で武力自慢の子路が、「大軍を動員して戦いに臨もうとする時、誰と行をともにしますか」と師に聞いた。これに対し孔子は、「暴虎馮河死して悔いなき者は、吾ともにせざるなり」と言った。すなわち、虎に素手で立ち向かい、大きな河を歩いて渡るような無駄死にを悔いない者とは、行動をともにしない。「客気人間」とは、同じ行動はできないということである。バブル当時、借金をし、値上げ争いまでして土地買いを競ったような無茶な元気者は、真の勇者とはいえない。『論語』に「仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず」とあり、また「義を見て為ざるは勇なきなり」(人として為すべき正しいことを知りながら実行しないのは勇気がないのである)ともある。さらに『孟子』には「自ら反みて縮くんば、千万人といえども吾往かん」(自ら反省して自分が正しければ、たとえ相手が千万人いようとも恐れず立ち向かう)とある。『言志四録』には、「果断の勇は智より来たるものあり、義より来たるものあり、義と智が併わさっている勇気が一番立派な勇である」と書いている。このように、正しいと知りながら実行しないのは勇気がないからであり、義にかなったことであればいかに相手が多くとも突き進んでいく。このように、真の勇気というものは正義によって鼓舞されるといってもよい。正しいか正しくないかの疑問を抱えているときなどは元気よく立ち上がることはなく、及び腰になる。それなら、これから為そうとすることが正しいかどうかの判断は何によるか。私の場合は先賢の判断による、と言い切れる。つまり私のような浅学非才ともなると物事の正否の判断に苦しむことが多いが、先賢の知恵を書物から学べば、自信をもって決断・断行に踏みきれる。自信は勇気を何倍、何十倍にも強くしてくれるもので、学んだことを十分考え尽くし、これは正しいと考え自信をもって実行する者の動作は、鬼神も、これを避けるほど自信をもっているものである。銀行員時代、当時貯蓄推進委員会の会長をされていた岡崎嘉平太さんという方と対談したことがある。その際聞いた話である。ちなみに岡崎さんは、全日空の社長などもされたが、田中内閣の日中国交回復で大活躍し、歴史にその名を残している。岡崎さんが旧制高校生だった頃、郷里の先輩、日露海戦当時、連合艦隊の参謀であった藤井大佐を訪ねた時である。大佐は次のような話をされたという。「ロシアのバルチック艦隊が日本の海軍と決戦すべく東進してきたとき、敵艦隊は果たして北上して津軽海峡を経て日本海に入りロシアの東洋艦隊と力をあわせるか、それとも対馬海峡を直進するかを検討し、作戦を決定しておくために参謀会議が開かれた。自分一人が対馬直進と主張したが他の参謀はすべて津軽説であった。東郷連合艦隊司令長官は多数決により『連合艦隊は何日何時何分を期して津軽に向け出港すべし』の密令を各艦に与えた。これを知った自分は直ちに東郷司令長官に再び会議の開催を要求した。しかし、各参謀が前言を変えることはない。そこへ遅参して第一艦隊司令官が入ってきた。東郷司令長官が『貴官の意見は』と聞いたのに対し、『藤井大佐の意見に賛成』と答えたので、出していた密令を撤回し、しばし様子を待つことになった。しばらくして入ったのが、見張りに出ていた信濃丸からの電信『敵艦見ゆ、対馬に向かうがごとし。』自分の意見が的中したわけである。もし、多数決に従って津軽説に従い、わが国艦隊が北上していたなら、あるいは勝敗は逆転していたかもしれない」この話を聞き、岡崎さんは、藤井大佐が多数の主張に対して一人、自分の信念を通した勇気には何人も兜を脱ぐに違いないと思い、大佐に「海戦第一の手柄」といったところ、大佐は次のように答えた。「お上からお手当をいただいている人間が、立場上主張すべきことを主張しただけのことで、手柄でもなんでもない」岡崎さんは以上の話をいちいち一人うなずきながら話してくれたが、「自ら反みて縮くんば、千万人といえども吾往かん」の藤井先輩の心意気を思い浮かべてのことであったろう。何事においても、これが正しい、と考えていると、恐ろしいとか、恥ずかしい、出過ぎていやしないかなど、自分中心の考えは消え失せてしまうようである。これは私が経理部長であった時のことである。ある地方支店へ出張の途中、目下新築中の支店へ立ち寄り建築現場にも寄ってみたところ、一階から二階へ吹き抜けの様式になっている。頭取の好みで自作の仏像を設置する計画でもあったのではないか。その時私が建築設計責任者に「近年は光熱採光すべて電気。吹き抜けにするより二階も事務室に使用すべきではないか」と言ったところ、それが直ちに頭取に電話で直報されたらしい。私が目指した支店へ着くやいなや百雷が一時に落ちた。私の先輩が怒られた時は扇子がバラバラになるほど机を叩いて怒ったというから、そのすさまじさには定評があった。そのすさまじさが電話線を伝ってきたのであるから、免職にはなるまいが、今後の昇格は断念しなければなるまいと思っていた。幾日かたって秘書室長から、今日、頭取主催の会議に出席するようにという命令。いよいよ来る時が来たと思って片隅の方に席をとった。出席者の顔を見ると建築関係者ばかり。そこへ頭取が出席し「これからの営業店の床から天井までの高さは9フィートを限度とする。そのつもりで計画してもらいたい。今日頭取から言うことはこれだけ。あとは部長を中心に会議を進めてくれ」立ち上がった頭取、「井原君、これでいいんだろう」と言って出ていってしまったが、義に味方してくれた頭取の後ろ姿を拝みたい思いがしたものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.05
『書を読みて聖賢を見ざればえんざんの傭となる。官に居て子民を愛せざれば、衣冠の盗となる。学を講じて躬行を尚ばざれば、口頭の禅となる。業を立てて種徳を思わざれば、眼前の花となる。』(古人の書物を読んでも字句の解釈だけで聖賢の心にふれなければ、文字の奴隷となるに過ぎない。また官位についても俸給を貪るだけで人民を愛さなければ、衣冠をつけた俸給泥棒に過ぎない。学問を講じても理屈を言うだけで自ら実践することを尊重しなければ、ただ口先だけの禅となるに過ぎない。事業を興しても、自分の利益だけを計って、あとあとのために徳を育てておくことを考えないようでは、目先だけの花となるに過ぎない。)駆け出しの銀行員時代、上司から「本を読む時は活字と活字の間を読むことを心掛けなさい」と言われ、夜学の漢文の先生からは次のように言われた。「この『十八史略』抄本は、中国の史書である『史記』を中心に十七の正史から抜粋したものに宋代の資料を加えた『十八史略』、それからさらに抜粋したもので、いわば略しに略した歴史書であるが、それだけに、圧縮された先賢の知恵が詰め込まれている。したがって一言一句、さらには一字の中にも人生に役立たないものはない。そして書かれている事実は古いが、君たちのように若い者にも、仕事上の責任者にも役立つことが詰め込まれているものだ。182頁、44銭の本だが、君たちの読み方によってはこの何百何千倍にもなる知恵を与えてくれるだろう。孔子様の高弟である顔回は一を聞いて十を知ったと言われているが、君たちはこの本の中の一字一行からどれだけ知恵を得ることができるか。それは君たちの読み方次第だ。」私はこの本から、どれだけ多くのものを得ることができたか計り知れないものがある。その得たもので最高のものは「自信」といえるだろう。先賢の実行して間違ったことは、今行っても間違いになり、先賢の行ったことは本の中に結果が出ているので行うことの是非を知ることができる。この自信ほど勇気につながるものはない。先賢が行って失敗したことは、今行っても失敗することを知れば撤退の勇気も出てくるし、先賢の是は現代人にも是となって現れる。この項の冒頭にあるように、書物を読んで字句の解釈だけで先賢の心にふれることなく、また実行を尊重しなければ口頭禅となるとあるが、私は現役時代、口は八丁だが手は一丁といえる人たちの前でこんな故事を話したことがある。中国の戦国時代といえば強国秦の他に燕、趙、韓、魏、斉、楚の6ヶ国が、食うか食われるかの戦いを展開していたころである。この頃、趙の国に実戦を重ねた趙奢という名将がいた。その子の趙括は、兵法にかけては天下広しといえども並ぶ者なし、と自他ともに許すほどのものであった。この親子が兵法について論議を交わしたとき、父の趙奢はいい負かされてしまった。これを見ていた妻が「今、あなたは趙括にいい負かされましたが、少しはほめてやったらどうですか」と言ったのに対し、趙奢は「兵は死地なり」(戦いというものは命がけのものである。それなのに括は実戦の体験もなく、口先だけでまくし立てているが、あれが将来趙の軍を率いるようになったら趙の国は滅亡してしまうだろう)と言った。果たして後に趙括が兵を率いて秦と戦ったとき、たった一戦で四十万の兵を失い、趙を危地に陥れている。趙括の知識だけの生兵法が災いとなっている。いい替えれば「知識だけ、実行の体験なし」では何の役にも立たない、ということである。ここで、趙括の父、実戦の将・趙奢の戦い上手の一端を書いておきたい。ある年、強国の秦が大軍を整えて趙に侵攻してきた。趙王は趙奢に命じてこれを迎え撃たせた。このと趙奢は秦の陣地よりはるかに離れたところに陣を敷き、動こうともせず、様子を窺っていた敵の密偵を捕らえて馳走したり、みやげを与えたり、自分たちも気を許してノンビリムードで過ごしていた。これを知った秦は当分戦う気はあるまいと考えるようになった。趙奢は敵の気にゆるみを見て、全軍に命じ、秦の陣地に急攻撃を加えた。秦軍は油断を突かれ算を乱して逃げ帰ってしまった。『孫子』の軍争篇にある「迂直の計」(迂をもって直となす)を実践した、関予の戦いである。これもまさしく趙奢が『孫子』を学び実戦に生かしたものといえよう。現役時代、私も「迂を以て直となす」に従って、会社の不治の病ともいうべき悪習を断ち切ったことがある。それは、次第に衰退し、ついには行き詰まってしまう悪弊といえる「困難、不始末解決の先延ばし」である。たとえば、借金過多、赤字の累積、粉飾決算などいずれも会社の存立を危うくするものであるが、最初から巨大であったわけではなく次第に膨れ上がったもので、小さなうちに処置しておけば簡単にできたものを、一日延ばし一年延ばしと繰り延べたための大事なのである。老子は「難をその易に図り、大をその細に為す」、すなわち、困難になることは容易に解決できるうちに解決し、大事は小さいうちに処置しなさい、と教えている。老子といえば二千数百年も昔の人である。孔子の先輩格といわれているが、この戒めを知ってか知らずか近代の学問を修めたであろう人たちがこの文句に背いている。いずこの国のことか忘れたが、債務が未処理であることを知りながら、高速道路建設の債務を積み重ねようとしている。民間の団体企業のうちにもこれを手本(?)としている向きも少なくない。いずれは楚の項羽のセリフではないが「政治の不手際にあらず、天が財政を亡ぼすなり」ということになるだろうが、その頃には、責任の当事者は引退しているから、そういうことでは、後に続く者が嘆くことになる。私の関係した会社も経営行き詰まりの原因は「大をその細に為さなかった」ためであることは衆目の一致するところ。ただ、衆人は、目はつけたが解決の手は出さなかった。入社以来、いくら解決を促しても「今となっては手のつけようがない」「そのうち何とかします」と一時逃れの返事ばかり。そこで私が手のつけようのないことに手をつけたわけである。直接話しても効き目がない。そこで遠回しに、まったく関係のない手を用いることにしたのである。それは工場敷地の除草である。担当者が草が生えて近所迷惑になっては、と心配していた。その除草をするべく、私が薬剤持参で真夏の暑い日に出掛けたわけである。雑草ははじめは見えないほど小さなものだが、成長すると人間ほどの高さになり、始末におえなくなる。早ければ早いほど時間も費用も少なくなるはず。これに対し、社内から「上場会社の副社長が雑草とりとは、会社の体面にもかかわる」とか、「やる仕事がないからだろう、月給を払うだけムダになる」「物好きにもほどがある」等々憎まれ口やら皮肉やら、どこからともなく聞こえてきた。これらに対して私は、「雑草退治の目的は、雑草そのものではなく、当社の幹部の頭の中に密生している雑草を根絶することである。その雑草とは、即時始末すべきことを先に延ばすという怠慢である。」とキッパリと言い切った。そしてつけ加えておいた。「これから新任務を担当する人選を進めたいと思う。新任務とは、大事、難事になる会社の雑草の芽を見つけることである」と。この担当者を別に任命したわけではなかったが、私は、自らその任を果たすべく目を光らせていたつもりであった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.04
『事窮まり勢いちぢまる人は、まさにその初心にたずぬべし。功成り、行い満つるの士は、その末路を観んことを要す。』(万事に行き詰まり形勢の窮まった人は、出発点に立って、すなわち初心に返り、よく考え直すべきである。すでに功成り名を遂げた人は、晩年のことを見定めておくことが肝要である。)昭和の富豪といわれた高萩炭鉱の社長菊池寛実さんという人物を訪ねたことがある。一時間ほど話して帰ったが、その帰り際に社長秘書の二宮さんという方から「国賓待遇を受けましたね」と言われた。わけを聞くと、「お茶が二回出たでしょう」と言う。そういえば茶卓も蓋もない茶碗で2回出してくれた。昼食は素うどんか、コッペパン1個。とても財閥とは思えない。社長は中年の頃、事業に失敗し、墨染の衣をまとい托鉢に出たという。いずれも初心に帰るためであったに違いない。人間の中には事窮まって初心に帰らずやけになったり、あきらめたりする人がいるが、もったいない話である。万一事に窮して初心に帰る旅費も尽きていたなら、他にあるものを探すべきだ。自分に強い心が眠っていることに気づくだろう。これは自分のことだが、私は窮したことも再三体験したが初心に帰らなかった。初心を初心の頃から抱きかかえて離さなかったからである。せっかく身についたものを離したくなかったからである。さて、私の初心とは何であったか。本書の各所で述べている天の与えてくれた、苦難克服の試練といえるだろう。この多くが、自然に自分の性格となり、その性格を美徳と思い信じてきたことなのである。いかにも思い上がった言い分のようであるが、悪を働いた入墨は削り取ることができても、心に染みついた入墨は消すことができない。そのいくつかを述べてみたい。現役時代、よく、細かい人間、もったいながり屋、ケチなどと陰口を言われたが、なんと言われても仕方ない。私の行動はこの陰口を裏書きしている。旅行して旅館の電灯を消したり、宿泊した家のまわりの草取りをしたり、頼まれもしないのに自然に手が出てしまう。また、毎年依頼を受ける目の不自由な人への寄付も欠かしたことはないが、わずかでもしないと罪を犯しているような気になってしまう。これらの行為は、すべて青年時代の苦難との戦い中に身についてしまった不治の病といえるもののようである。日々の習慣にしても、80、90歳にもなって朝は厳冬でも4時に起きる。年をとると早起きになると人はいうが、私の早起きは借金返しのため母の農耕の手伝いをした時、出勤前に堆肥を作るための雑草を刈ったり、稲刈りをした頃の早起きの習慣が身についてしまったとしか思えない。それに、何事も終わりまでやり遂げないと気がすまない。十代に父から引き受けた借金返しに、一握りの土地も売らずに返済してやろうと心に決めた、いわば初心を貫いたが、会社へ入っても何十億という会社の借金を1円も残さず完済してしまった。どれほどの困難に遭っても、何ものかに頼るということをまったく避けてきたことなども、青年時代に頼ることのできない困難を背負ったことが原因になっているのではないかと思う。それに、私は昔から他人の欠点を指摘したり、探したり、口にしたりすることができない性分になっているが、これも、その昔自分が悪口の対象にされていやしないかということが意識として残っているのではないかと思う。人生は無から出発して無に帰るというが、私はマイナスから出て無に帰すということになる。もって満足としなければなるまい。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.03
『善をなしてその益を見ざるは、草裡の東瓜のごとし、自ずからまさに暗に長ずべし。悪をなしてその損を見ざるは、庭前の春雪のごとし、まさに必ず潜かに消ゆべし。』(善行を積んでも、その成果が見えない時があるが、それは草むらに陰れている瓜のようなもので、人知れず成長していくものだ。悪事を重ねても人に知られず、得たものも失わないですむこともある。しかし、それで得たものは庭先の春の雪のように、いつの間にか消え去る。)いろんな輩がいる。会社の利益を隠し秘密預金を増やしていったまでは良かったが、それを使うわけにはいかず、使えば秘密がばれて加税される。預金を引き出したくても引き出せず、終わりはインフレ目減りで悔いを残している。会社の資金で土地に投資して儲けるはずであったが、会社まで潰している。公金を横領して馬まで買ったが、今は獄舎で馬鹿を見ている。会社のカネで美人を得たが、美人には逃げられ、自分はつかまっている。そんな、川柳にもならない向きもあるが、本項では、「庭前の春雪のごとし、まさに必ず潜かに消ゆべし」とある。悪をなして消えないことは少ないもので、悪をなして利を得るよりも、善をなして利を得ることの方がはるかに利は大きくなるものである。その昔、私がある会社へ入った頃である。ある幹部から、面接試験でもするかのように入社の抱負を聞きたいといわれ、「この会社が2ケタの法人税を納めることだ。」「ケタは何だ? 万単位なら10万が2桁だが」「いや、ケタは億だ」「10億円ということか」「そうだ」幾日か経って私の耳に入ってきた文句が「とんでもない人間が舞い込んできたものだ。税金を多く納めることを生き甲斐としている。」そこで言っておいた。「法人税などというものは会社発展への通行税のようなものだ。多く納めることは、それだけ会社が発展している証拠だ。2ケタどころか3ケタでも4ケタでも多く納めることを考えるべきだ」たとえば松下幸之助さんが創立した松下電器産業は、当初は電気器具から出発した零細企業でしかなかったが、もし松下さんが法人税を惜しんでいたとすれば、今日の松下電器産業がこの世に現れることはなかったろう。かつて私は、ある会社の経営相談に応じたことがある。もちろん気息奄々としていた会社であった。そこまで落ちぶれてしまった原因は、その経営者の父親にあった。その会社は出発当初から経営は順調で利益も相応に計上していたが、次第に納税を避けるようになり、期末に利益計上の見込みが立つと、現社長の父親の先代社長、それに叔父に当たる専務とが海外視察旅行に行くことにしていた。つまり、旅行でその期の利益見込額を使ってしまうわけである。これなら利益なしで、納税の必要もなくなることになる。しかし、納税の必要はなくなったが、結局会社が呼吸をする必要もなくし、息絶えることになる。私が銀行の課長当時、新時代対応のための計画の立案を命じられた時、「行員教育制度」を提案したところ労組からは猛反対を受け、一部の幹部からも反対された。組合に対抗するための教育だろうという理由もあれば、学校教育をすべて受けている人間に今さら教育の必要もあるまいというのもあれば、まじめな人間を選抜して入行させているのに、経費をかけて屋上屋を架すようでは世間の笑いものになる、などといった反対であった。これらに対して私は、行員教育が世間の笑いものになると言っている人間を教育するための制度だ、とやり返したことがある。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.02
『閑中に放過せざれば、忙処に受用あり。静中に落空せざれば、動処に受用あり。暗中に欺隠せざれば、明処に受用あり。』(暇な時でも時間をムダにしないようにしておれば、多忙になった時にそれが役立つ。静かに休んでいる時でも心をゆるめないようにすれば、活動する時にそれが役立つ。人目につかないところでも良心に反かないようにすれば、人前に出た時に役立つ。)人間社会にムダな人間はいないのと同じく、人にムダな時間はなく、ムダな学問もない、というのが私の持論である。したがって、私は寝ている時間以外は、頭、口、手足のどこかを動かしていないと気がすまない。90を過ぎた今でも4時にはベッドを離れる。自分で食事をすませ、食器まで洗い、書斎に入る。2時間ほど読むか書くかした後は畑に出る。畑といっても4ヶ所に散在する土地で合わせて150平方メートルほどのもの。当然時間が余るから仕事を見つけては先へ先へと手をつける。野菜の苗床、トマトの支柱、メロン、スイカの施肥など、いずれも半年前の農閑期にすませる。春の農繁期にも手遅れになることはない。本項の言葉と共通しているものに読書がある。本文を読み替えて、「無用、無関係と思う書物でも、読んでおくと何かの役に立つ」ということもできるからである。別項でも書いたが、私の30代の読書は、中国の歴史、哲学などであった。当時は戦時中であったので、軍人勅諭、戦陣訓などは軍関係の人々の必読書であった。しかし、私は身長足らずで兵役免除であったが、これらの本を、ことのついでに読んでいた。終戦近く、召集令状が来て、無線通信兵として伊豆大島へ渡った。野増村の民家が宿舎だったが朝、起床すると点呼がある。その後で新兵十名の前で班長が戦陣訓を一節読み、兵隊が復唱するわけだが、漢字が多い漢文調。班長が読めない。「誰か読める者はおらんか」に応じて私が前に出た。班長が手にしていた軍人手帳を私に渡そうとしたから断った。「井原、おまえは、これを暗記しているのか」と言ってくれたが、私としては、余計な勉強と考えていたものが役に立った。おかげで、班長から叱られもせず叩かれもせずで復員となった。無用の読書変じて有用となる。ある社長は、「わが国の商品が世界を征服したのは担当者が専門以外の勉強をしたからだ」と言っているが、新しい物事というものは自分の専門以外から得られるものである。今流行の“回転寿司”は、ビールのビン詰め過程から思いついたという。ニュートンは、リンゴの落ちるのを見て地球の引力を知り、作曲家の古賀政男さんは、キセルの羅宇屋の笛の音を聞いて、「影を慕いて」の名曲を作詞・作曲したという。いずれも、他山の石で玉を磨いた成果といえるだろう。さて話を本題に戻して、本項ではもっぱら時間の有効利用を教えているが、経営上最も注意から外れているものは時間の有効利用ではなかろうか。私には、こんな失敗がある。銀行の課長時代、「新時代に対応するための銀行経営のあり方」をテーマに、銀行の機械化を含めたプロジェクトチームのチーフを命じられ、会議を重ね計画書を作成。決裁を得るべく常務会へ6回提出したが、審議未了で返されてくる。7回目には、頭取からまず決裁を得ようとして直接頭取に交渉した。「この提案書に、どこか訂正を加えたか?」「いや、最初に常務会に提出したままです」「それならよろしいが、ここで一字訂正すれば、いますぐ決裁しましょう」これはしめたと思って「一字ならどこでも訂正します」と簡単に引き受け資料をめくりだすと、頭取が「そうめくらんでもよい。最初の表の最初の欄の一字だ」そこには7年計画書とある。その「年」を「期」に直せ、ということであった。当時銀行決算は年2期であった。年を期に直せば7年計画は3年半計画になる。チームの原案を半分の期間でやれということになる。チーム内に苦情もあったが実行に移した。結果は3年でほぼ完了している。実行に移り、コンピュータの試運転の時、頭取自らスイッチを入れながら、「井原君、今度ばかりは僕の負けだ、年を期にしろと言ったが、期より月とすればよかった」と。後年、私があるメーカーへ移った時であった。ある商品を開発したというので会議が開かれた。担当者提出の資料を見ると2年計画となっている。そこでまず私が、昔、頭取にいわれた文句をまねて「一字訂正してから説明に入ったらどうだ」と。「どこの一字だ?」「最初の一字だ」「最初の一字は『新商品開発』の“新”の字だ」「その新を旧に訂正して、旧商品開発会議資料にしては、ということだ。完成に2年もかけている間に他社は1年で売り出すだろう。その結果当社の新商品は旧商品になってしまうからだ」これに対し、大事をとって2年計画にしたいという。そこで、「大事なんかとることはない。大事をとるよりムダな時間をとれ。とればとっただけ、真剣味が加わってくる。真剣味が加われば時間を加えるより、立派な結果が得られるものだ」と話したが、結果は1年で予想以上の新商品を作り出している。とかく会社などでも、カネや物のムダは目につくが時間のムダには気づかない。カネや物のムダは努力次第で補うことができるが、過ぎた時間のムダは万金を払っても補うことはできないものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.01
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