2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
全30件 (30件中 1-30件目)
1
『学ぷ者は、精神を収拾して、一路に併帰するを要す。もし徳を修めて意を事功名誉に留むれば、必ず実詣なし。書を読みて興を吟詠風雅に寄すれば、定めて深心ならず。』(学問する者は、気を多方面に散らさぬようにして、精神を集中し、一筋に目指すことが大切である。もしも道徳を身に修めようとしながら、その意を世俗の事業功名に留めていたならば、真実の修養の道に達せず、うわすべりのものになる。また、その手段である書物を読みながら、興味をうわついた詩や遊びごとに気持ちを寄せたならば、書物を読む深い心には至らず、浅薄なものとなる。)『列子』に「魚釣りのコツ」として、こう説明している。センカという釣りの名人がいた。釣り糸にはカイコの吐く細い糸、針には稲の穂先の毛、竿には灌木の小枝、餌には米粒を細かくしたものを用いる。それでいて、深さ百仞(じん)もあろうという淵、逆まく激流に糸をたれ、車でなければ運べぬような大魚を釣り上げる。糸が切れたり、針が伸びたり、竿が折れたりすることはない。これを知った楚の王が男を呼んでそのコツを尋ねた。彼はこう答えた。「私は死んだ父から、こんな話を聞いたことがあります。蒲且子(ほしょし)は、いぐるみ(=矢)に糸をつなぎ、飛ぶ鳥を傷つけることなく射落とすことの名人で、貧弱な弓に、細い糸を結んだ矢をつがえ、風を利用して射かければ、一矢で飛ぶ鳥二羽をからめ落としたものだ。精神を獲物に集中し、肩の力を抜いて、バランスよく自然に矢を放ったからだ、と。私はこの話をヒントにして修業に打ち込んで5年、ようやくそのコツを会得しました。今では川を前にして竿をとりあげれば、一切の雑念が消え、心の中は魚のことしかありません。糸をたれ、針を沈めれば、手には重さというものがなく、手元は何ものにも乱されません。こうなると、魚は餌を見ても、チリかアブクとしか思わず何の危険も感じることなく呑み込んでしまいます。弱よく強を制し、貧弱な釣り具で大魚を釣りあげられるのも、自然のバランスの中にとけ込んで、それを利用するからです。」雑念を払って一つの目的に集中した成果を語っているのである。学問に限らず、すべて目的を単一にしぼり、それに全力投球するところから成功の道が開かれてくる。既に述べたとおり、私は一科目10年の単位で勉学の計画を立てた。20歳から30歳までの10年間は法律であったが、この法律勉強が役に立ち、銀行の本部課長の椅子を得ることができた。大学卒業者に追いつくための法律勉強であったが、課長になったことで追いつく目的を果たすことができたわけで、一目的の効の偉大さを知らされたものである。また、後年あるメーカーの再建に協力した時、借金返済を唯一の目的として攻撃を加え、予定より早く完済してしまったが、これにしても、孫子の兵法にある集中の効果に従ったからである。『孫子』に「激水の疾くして石を漂わすに至るは勢なり。鷲鳥の撃ちて毀折に至るは節なり」とある。つまり、鉄砲水のような水が大きな石を浮かしてしまうのは、水に勢いがあるからである。また、鷲のような猛禽が獲物を一撃のもとに打ちくだいてしまうのは瞬発力があるからだ、という意味で集中の効果を示したものといえよう。読書にしても、一つに集中して何度も読み返していると、「読書百遍意自ずから通ず」で、意味までわかってくるし、意味がわかってくると、自分に役立つヒラメキが得られるようになる。これが読書の効果の最たるものといえるのではなかろうか。私が若い頃抱いていた「五無斎」の恥(学なし、地位なし、金もなし、頭髪もなければ、青春もなし)にしても、いまだに消すことのできない劣等感にしても、すべて私の足かせになってきた。近年は年のせいか次第に意識も薄らいできたが、激しくこれらを緩和してくれたのは、『和漢朗詠集』にあった詩の一節であった。「東岸西岸の柳、遅速同じからず。南枝北枝の梅、開落已に異なる」というもので、意味は、位置によって春のくるのが違う、というだけのものだが、自分で何回も口ずさんでいるうちに、詩の意味が現在の自分の境遇そのものであるような感じがしてくる。すなわち、西岸の柳北枝の梅は、東岸、南枝より寒さが残るので、芽を出しつぼみが開くのも遅れる。自分の現在の境遇と同じであるが、いずれは東岸と同じ芽を出し、花を咲かせるようになる、という気持ちにもなってくる。「他山の石、以て玉を攻むべし」(よその山のつまらない石でも、自分の石を磨いて玉にする時には役立つものである)という言葉があるが、読書の効果も熟読しているうちに役立つ何事かを与えてくれるもので、読んで面白かった、楽しかったというだけではなく、読んで役に立ったといえる読み方に徹したいものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.30
『天地に万古あるも、この身はふたたび得られず。人生はただ百年、この日は最も過ぎ易し。幸いにその間に生まるる者は、有生の楽しみを知らざるべからず、また虚生の憂いを懐かざるべからず。』(天地は永遠であるが、人生は二度とない。せいぜい生きるとしても百年でしかない。幸い、その間に生まれた者は、人生を楽しく生き抜くことを知りたいものだが、人生を無為に過ごすことの恐ろしさをも知らなければならない。)夜学を卒業した19歳頃であったろうか、銀行閉店後、老行員書家から呼び止められ、筆慣らしの時に書いたであろう唐の詩人・劉庭芝作の「白頭を悲しむ翁に代わる」と題した詩の説明を受けた。「洛陽城東桃李の花、飛び来り飛び去って誰が家にか落つ。洛陽の女児顔色を惜しみ、行く行く落花に逢うて長く嘆息す。(中略)年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。言を寄す全盛の紅顔子、応に憐れむべし、半死白頭の翁。此の翁白頭真に憐れむべし、伊れ昔は紅顔の美少年。(後略)」(洛陽の町の東に咲きみだれる桃や李の花。あちこちに飛びかうその花は、誰の家へ落ちるのだろうか。洛陽の少女が衰えやすい容色を惜しみ、道を歩きながら落花に出合って長い溜め息をつく。(中略)年ごとの花は同じでも、年ごとに見る人は変わっている。今全盛の紅顔の若者たちよ、この死にかかっている白髪頭の年寄りを憐れんでほしい。この翁とて、今こそ白髪の憐れな年寄りだが、昔は皆と同じ美少年だったのだ。)ここで一息ついた老書家は、「紅顔の少年を井原君とすれば、半死白頭の翁はこの私だが、私だってその昔は紅顔の美少年だったんだ」と言った。そして、その後を続け、最後の一節。「宛転たる蛾眉能く幾時ぞ。須萸にして鶴髪乱れて糸の如し。但だ看る古来歌舞の地、惟だ黄昏鳥雀の悲しみあり」(思えば黒く美しい眉を誇るのも幾時の間だろうか。たちまち鶴のような白い細い毛が糸のように乱れかかってくる。見たまえ、昔若人たちが歌い舞って楽しんだ場所も、今では黄昏に悲しく鳴く鳥や雀の声があるばかりではないか。)「こういう意味だが、井原君だって、そのうちに白髪を悲しむようになるよ」といって嘆息した。その時は自分は年をとることはないと考えていたが、今では、孫たちに「おじいさんといわず、おにいさんと呼びなさい」と言っても、言うことを聞いてもらえない年になってしまっている。「これ、誰の過ちぞや」と言いたくても、誰に言ったらいいかもわからなくなっている。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.29
『一苦一楽の相磨練し、練極まりて福を成す者は、その福始めて久し。一疑一信の相参勘し、勘極まりて知を成す者は、その知始めて真なり。』(苦しみ、時には楽しんだりした結果得た幸福であれば未永く続く。疑ったり、信じたりして苦心をして考え抜いて得た知識であれば、その知識こそ本物で、もはや動かすことはできないものである。)私は、この言葉に出合った時、これは私自身のことを書いているのではなかろうかと、錯覚したり、うぬぽれたりしたものである。少年、青年時代の苦労を苦としてきたら今日はなかったろう。「苦は楽のタネ」を信じてきたから今日があると思っている。当時の莫大な借金苦、夜学、荷車引き、肥桶かつぎ、青年時代のヤカン頭、どれをとっても将来の夢を消し去るようなことばかりであった。しかし、こうした苦の中にも、天は光を与えてくれるものである。この『菜根譚』をはじめ、先賢の残してくれた心の教科書である。といって、そうした本を買うだけの余裕はなかった。夜学当時の教科書、図書館などからの借本、それでも足りないと天は無料で教えてくれる。一字の活字、一冊の本を読んだら自分に役立つことを考え出せ、考えることで何を得てもすべて無料だ、これ以上の利益はない、と。私は93歳になった今も晴耕雨読を欠くことはない。晴耕の楽しみはいわば苦の中から生まれたもので、借金返済のため母の農耕を手伝ったことと、売るために栽培した切り花、自家の果物と野菜、どれも趣味ならぬ実益を狙ったものであったが、今では老いの唯一の楽しみとなっているのである。人生、何事にも、悲しみ苦しみの中から、楽しみ悦びを見いだし、先意の中から希望、生きがいを見いだしたいと考えてきた。というより、そうしなければ自分の人生はないと考え続けてきたことが、「先憂後楽」の“楽”を今も味わい続けさせてくれるのではなかろうか。天は人間にただただ苦だけを与えているものではなく、人に、この苦をバネにして楽を勝ち取れと励ましているのである、と理解すべきではないだろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.28
『鷹の立つや睡るがごとく、虎の行くや病むに似たり。まさにこれ他の人をつかみ、人を咬む手段のところなり。ゆえに君子は聡明を露わさず、才華は逞しくせざるを要す。わずかに肩鴻任鉅の力量あり。』(鷹の立っている姿は眠っているようであり、虎が歩く様子は病人のようである。だがそれは人に襲いかかり咬みつく手段である。君子もまた才能を外に現したり、才知をむやみに振りまわさないほうがよい。それでこそ天下の大任を果たすことができるのである。)この文の趣旨は、何事をなすにも準備が必要であるが、より必要なのは心の準備、ことを成す場合の心の準備を説いているとも考えられる。銀行時代、取締役就任の挨拶に行った時、「僕は、おめでとうは言わない。取締役になれば定年というものはない。その覚悟でことに当たれ。そして平素は昼あんどんのようにぼんやりしていてもよいが、一旦緩急に際しては、自分を捨ててその解決に当たれ」と言われたことがある。幸い銀行時代には一旦緩急に出合ったことはなかったが、あるメーカーの再建に協力した際に会社の存亡にかかわるほどのピンチに見舞われたことがある。なにしろ私が入社した翌年はドル切り下げ、翌々年が石油ショックという環境悪化が加わり、銀行からは、「一度会社を整理して出直したらどうか」とまで言われるに至った。しかし、自分の立場としてこれに応ずるわけにはいかない。会社を立て直すためにきたはずの人間が、会社を潰しにきたことになってしまうからだ。といって、これを社内に知らせることはできない。他に相談し、まして協力を求めることもできない。会社危うしの声は誰も止めることはできないことを知っていたからだ。そこで、社長に幹部会の招集を頼み、そこで次のように話した。「会社の危地脱出のため、本日から次の点について完全実施する。一として、今後3年間に12%の人員削減を行う。社員の辞職勧告は決して行わない。自然退職者を補完しなければこの目標は達成できる。二つに、変動費、固定費を加え、つまり総支出が前期を上回ることは許さない。三つに、退職希望者の引きとめのため所属長は徹夜の苦労をしているようだが、ただちにやめてもらいたい。去ろうとする人間を引きとめるほど愚かなことはない。心を失った人間は人形にも等しいからだ。四つに、社員のうちには、自社株を売り急いでいる向きが多いと聞いているが、その株は私が買い受ける。株券と売渡証に譲渡税相当の印紙を貼り持参すれば、前日の引け値ですぐ現金と引き換える。以上、私は会社、さらには皆さんとの約束として話したが、必ずこれを守る。皆さんも守って欲しい。」2、30分で閉会とした。こうした話は長くなっては決意を伝えることができないと考えたからである。台風で船が沈む危険に直面して、風の止むのを待つほど愚かなことはない。まず積み荷を海に捨てる勇気から始めなければならないだろう。こうして私どもの船も浮かんでいることができたが、この翌年は何と石油ショック。まず計画の誤算は自然退職者が皆無といえるほどであったこと。いずこの会社も石油ショックで新規・中途採用とも門を閉ざしたからであった。といって、これに代わる対策を講じなければ12%の減員は果たせず、採用の門を閉ざすどころではない。自分の会社の門を閉ざすことにもなりかねない。こうした時は、昔話、古老、近くは祖父、祖母などから聞いた話でもよいし、映画演劇でもよしそれらを思い出してみることだ。それらの見聞は溺れる者に藁を与えてくれることがある。私にこのとき思い浮かんだヒントは、「口減らし」ということだった。昔の言葉に「貧乏人の子だくさん」というのがあった。いまだに目に残っているが、NHKドラマの「おしん」の健気な子守り姿が、むしろいじらしくも映ったものだ。また、川柳に「雪の日や、あれも人の子樽拾い」というのがある。子供が奉公に出て酒屋の小僧になり、雪の日に酒樽を集めている姿を句にしたものだろうが、いずれも裕福な家庭から、子守や小僧にきたものではない。子供が多くて食事も満足に与えられなかった。このままでは親子ともに飢えてしまうことになる。そこで義務教育を終えたら、商店や農家、金持ちの家へ住み込み奉公に出した。いい換えれば、それだけ家の食料が少なくてすむ、ということになる。また、親の助けにもなる。子供の年季奉公の代償が子の親に渡されるからだ。そういう私も、今の中学一年を終えると銀行に見習い行員として入ったが、樽拾いと札勘定の違いこそあれ、形を変えた口減らし親孝行であったと思っているのである。さて、会社の口減らしをどう進めるか。石油ショックで日本経済は破綻するとまで懸念されていた。これでは、このショック、いつまで続くかわからない。それならということで会社の口減らしについて考えた。といって他社も口減らしの最中では、減らした口を塞ぐところがない。となれば自分たちで塞ぐ以外に道はなくなる。そこで考えたのが、全国に設けられている販売店の独立、つまり分社化であった。既存の販売店をそのまま販売会社として独立させるのであるから本社が全額出資である。独立会社はそのカネで本社所属の資産を買うことになるから本社に資金は還元される。これなら資金なしで本社の口減らし計画は達成できる計算。これで本社の口を60%近く減らすことができ、再建を軌道に乗せることができたのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.27
『動を好む者は雲電風燈、寂を嗜む者は死灰稿木なリ。すべからく定雲止水の中に鳶飛び魚躍るの気象あるべくして、わずかにこれ有道の心体なり。』(あまり活動的に動き過ぎる者は雲間の稲妻や風にゆらぐ灯のように落ち着きがない。静寂を好む者は、あたかも、火の気のない灰や枯れ木のように静かに過ぎる。人間としては動かない雲の中を鳶が飛び、静かな水の中にあっておどり上がる魚のような溌剌とした気概があってこそ、本当の道を体得した人の心である。)その昔、ある会社にいた時、工場内を見て回ったことがある。生産課長の席をのぞいてみたところ、課長がなにやら表に書き込んでいる。私を見るや、「見てくれ」といわんばかりに表を前につき出している。そして、「私にはこういう仕事があるので、昼食もゆっくりとっていられない」と、いかにも働き者のような口ぶり。そこで、思わず憎まれ口をたたいてしまった。「課長の忙しいのは、余計なことで忙しいだけだ。そんな表を作るのは、新入社員か、パートのおばさんでもできる仕事。課長が課長らしい仕事をしないと、肩書から苦情が出るだろう。部下にやらせもしないで自分でやって、いかにも働き者のような顔をしている。これはまさに月給泥棒に地位を与えているようなもの。課長は課長らしい仕事をするところに課長としての値打ちがある。」ここで余談にすぎるかもしれないが、中国故事を述べてみたい。前漢の祖・劉邦が天下を得た後に功臣3人を称えた言葉が『十八史略』にある。現在の会社組織でいえば総務、人事、経理など一般管理部門に相当する担当責任者に粛何がいた。劉邦はこの粛何を最高の功労者として最高の賞を与えているが、称賛の言葉として「国家を鎮め、百姓を撫し、醜餉を給し、糧道を絶たざるは吾粛何に如かず」と。国の平和を保ち、人民を愛し、いたわり、兵糧を送り、その輸送路を確保して絶やさないようにすることは、とても自分は粛何には及ばない、という意味だ。戦争に兵糧、武器補給は重要な要件だが、その重要件を劉邦は粛何に、粛何は部隊長に任せ、指令だけを任務としている。上位者には上位者としての任務があるからだ。極端な話になるが、将兵に欠かせないからといって、劉邦が弓や刀、それに食糧袋を肩にかつぎ荷車を引いていたら結果はどうなるか、いうまでもない。現代の会社・団体の組織にしても同じこと。課長が課長の仕事をせず任務を果たしていないなら、諸給与もパートのおばさん並みでよいのではないか。ある本に、トップの忙しい理由の7、80%はやらなくてもよいことをしているから、という意味のことが書いてあった。よく「私がやらないと」といって自分でやっている人も少なくないようだが、多くは、そう言っている人がやらない方が良い結果になる場合が多いものである。だいたい、社長が「忙しくて」といっている会社ほどうだつが上がっていないようで、平素は稿木死灰を装いながら、時を得れば定雲止水の中に鳶飛び魚躍る気概を示し、始めは処女のごとくなるも終わりは脱兎のごとく活動するような社長ほど、部下からも信頼され、社運も鴻鵠の羽ばたきを示すものである。かつて私は、「孫子の兵法に学ぶ会社再建」というテーマで講演したことがある。その時、武田信玄も旗印にした「風林火山」(疾きこと風のごとく、徐なること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし)の文句は武器をもって戦うときに必要なばかりではない、将たる者の心構えや行動に対しても教えとすべきものだとつけ加えたことがある。銀行に勤務していた頃、私は、日々刻々変わる部門といわれていた証券課長、資金課長を兼務したことがある。課長として勤務時間中は椅子から離れない。それを知らない者はないはずなのに、ある日突然、直接頭取から呼び出された。「時代は急速に変化している。当然銀行経営も変わることになる。ついては、これからの銀行経営はどうあるべきか、経営方針、組織改革を含めて立案してもらいたい。そのため新たにプロジェクトチームを設ける。君がチーフになって進めてもらいたい。メンバーは十人以内、いずれも現職のまま、チームの仕事は、現在の仕事と兼務とする。君は今すでに2つの課長を兼任しているが、どうだ、やれるかな」と言われ、「多々益々弁じます」(多ければ多いなりにやることができます)と答えた。突然こう答えられた理由は、私が日々刻々変わる証券や資金の動きなどに気をつかうことはなかったからである。日々の仕事は一切課長代理に任せ、大局的な動きだけを見ていれば任務は果たせると考えていたからである。これは、前にのべた朝鮮戦争終結を予測して株式を売却した、その直後のことである。当時は戦後と言われた頃で、国民の貯蓄は少なく企業の資金調達も容易ではなかった。織物会社は秋・冬物用の布を織るための原糸を買う資金がない。製糸会社は季節ごとに繭を買う資金が不足する。これを季節資金といって銀行から借り、銀行は日本銀行から借りて融資する仕組みになっていた。その資金の供給を私が一課長の分際でストップしてしまったのだから、ただではすまなくなった。それらの会社の取引銀行である当行の支店長が来て、地場産業を見殺しにするつもりか、有力取引先を敵に回して支店が成り立つと思うか等々、強談判を受けることになり、頭取にまで苦情が持ち込まれることになった。私はそれに対し、「朝鮮戦争は休戦に入り、特需景気も沈静し、物価も下がる。下がることを予想しながら貸し出しをすることは取引先に損をさせるために貸し出すようなもので、奉仕、サービスを任務とする銀行のとるべき道ではない」と反対し続けた。結果はどうであったか。昭和28年の戦争終結で、その後は反動不況、戦後の最大の不況となっている。当時、アメリカからの製糸用の綿花を積んだ船が沈没し、輸入した会社では沈没祝いをしたとか聞いた。荷が無事に着いたら契約どおりの代金を払い値下がり損は避けられないが、沈没すれば保険金が入って損なしですむからであった。けんか腰で談判にきた支店長から、その後「お客さんから『借金を断られて得をした』と言われた」という報告を受けた。長い銀行生活だったが、断って礼を言われたのは最初で最後であった。これは私事だが、昭和20年の終戦不況の時に自宅を建築した。大工さんの一日の手間賃は550円という超安値である。建築資金は母から50万円、銀行借り入れ150万円、計200万円。そのうち、父と戦死した弟の墓石二基に20万円を使い、残り180万円で、あるテレビメーカーの株式を一株86円で2万株買い、建築屋さん、材木屋さんには代金は後ほど支払うという契約で百数十平方メートルの新築にかかった。途中で株が値上がりし、それを売却、材料もより上等なものに替えるなどして相当な贅沢建築になった。結果は総工費420万円だったが、これも株の値上がりでまかなうことができた。これは私の一生に一度のバクチといえることだが、それというのも、見習い銀行員時代に、ある先輩がいっていた「静に動を見、動に静を見る」という『菜根譚』の文句が頭に残っていたからではないかと思う。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.26
『風斜めに雨急なるところは、脚を立てえて定めんことを要す。花こまやかに柳艶なるところは、眼を着けえて高からんことを要す。路危うく径険しきところは、頭を回らしえて早からんことを要す。』(風雨が激しく吹きつけるときは脚を大地に踏みつけて立つがよく、花や柳が美しいところは目を高くして、それに心を奪われないようにし、路が狭くて危険と知ったら早く引き返さなければならない。)ここでは、まず私の反省から書いてみる。この項を読んでいると、しごく当たり前のことで、多くの場合、そんなことは百も承知だ、というようなことが書いてある。講演などで聞いても、当たり前の話だ、耳にタコができるほど聞いている、などと言いたくなる。私もその昔は「そんなことは聞き飽きている」と思ったものである。ところが、実際に自分が、その「当たり前」なるものを、そのとおり実行しているか、ということになると、むしろ、当たり前とは反対のことをしている。たとえば、株式投資で儲けるには、安い時に買って高くなったら売ればよい、と言われると、そんなことは当たり前、分かりきったことだ、とすぐ反発したくなるが、実際自分がやっていることは高値で買って安くなると売っている。その昔、私がある蓄財家に、「どうしたらカネがたまるのか」と聞いたところ、「カネはたまるものではない、ためるものだ。入ったカネを出さなければ自然にたまるようになる」と言われ、その時は、子供だましのことを言っていやがると思ったが、事実はその人の言ったことが正しかった。それからというもの、当たり前の話を聞いた場合は、立ちどまって、自分の行動を反省してみる。さて、長く経営に当たっている間には、時代の変化に出合ったり、環境不透明時には突発的異変に出合うこともある。こうした時に心しておきたいことは、進退の時を誤らないことといえるだろう。日の出があれば日没もあり、春夏が過ぎれば秋冬がくるのと同じく、経済にも同じ変化がある。「山高ければ谷深し」の戒めもある。「人に千日の好なく、花に百日の紅なし。」つまり、人間社会には良いことが千日も続くことはなく、花が百日もの長い間、赤々と咲き誇ることはないという意味で、良いことは長くは続かない、ということでもある。このことは、とかく会社経営はもちろん、個人の場合も同じであるが、人に味方する期間は千日はおろか一万日も続くと考えたり、花は千日も咲き続けるものと考えるから失敗するのである。しかも、環境が熟してくるにしたがい、なにかと理由をつけて好況持続を自分に言いきかせている。自然がそれを認めるはずはない。たとえば、今は昔、株価が高値を続けていた頃、「株を持たざる者人間にあらず」とまでいわれたが、持ち続けた人は株と心中している。土地ブームのころ、日本の領土は狭い、このままでは土地は買い尽くされてしまうだろう、と考えて外国の土地にまで手を伸ばした向きもある。株や土地の高値続きを自分で理由づけし、自分で納得して火中の栗を拾っている。結果は自分も栗と同じ運命に突き落とされている。会社没落の多くは、「花こまやか、柳艶なるとき、それに見とれてはならない」ということが経営の鉄則であることを示している。「会社が美人に見とれてどぶ池に落ちた」では株主に対しても面目が立つまい。銀行に勤めていた頃、私にはこんな体験がある。昭和25年、朝鮮戦争が起こり、わが国は特需景気に見舞われて戦後不況を脱し、経済界にも生気がよみがえり、株価もジリ高に転じてきた。私はその頃、銀行の証券課長で、銀行が所有している債券、株式の運用の任に当たっていた。戦争勃発から2年過ぎた昭和27年の後半時分であったか、所有株のうち処分可能なもののほとんどを売却し、利益を確保してしまった。その翌年の3月だったか、ソビエトのスターリン死去を機に株価は大暴落に転じてしまった。これをスターリン暴落という。私はその半年ほど以前に株を売却していたので、井原課長はスターリンの死去を知っていて株処分に出たのではないかという評判が立った。いろんな質問もあったし、ほめ言葉を呈してくれる人もあった。しかし、埼玉の田舎生まれ、文字どおり浅学非才の私が遠く離れた地の人の死を半年も前に知るはずもない。ただ私は、朝鮮戦争も長期にわたるわけはない、始めがあれば終わりがある、という、いとも単純な考えであったのである。ところが、全銀行中最高額の株式売却益を計上したということで、大蔵省から直接名指しで呼びつけられ、一席お説教を頂戴したことがある。理由は、投機的運用ということであった。しかし投機には当たらない立派な理由があったことを担当官が理解してくれ、帰る時に、「私の女房も少し株をやっているのだが、今何を買ったらいいか」と尋ねて下さった。私はこう答えておいた。「日立製作所が1株40円、東芝が19円。このあたりが良いのではないか」と。今にして思えば、自分でも買っておけばよかったと思っているが、後悔先に立たず、とは私のための格言のようでもある。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.25
『魔を降す者は、まず自心を降せ。心伏すればすなわち群魔は退き聴く。横を御する者は、まずこの気を御せよ。気平らかなればすなわち外横は侵さず。』(魔性のものを降伏させようとする者は、何よりも先に自分の心に打ち勝つようにすべきである。自分の心にある煩悩や妄想を退治すれば本心が明らかになって、さまざまな悪魔も心服し退散してしまう。また横着なものを制御するには、まず己の心を制御すべきである。自分の心にわだかまる他人に勝ちたい気持ちや客気を退ければ、心も平静になって外道も恐れ入って退散することになる。己に勝つ心が強ければ、魔性も横着も屈服させることができる。)『言志四録』に、真に清い水が噴出しているところには、いかなる濁り水も交わり加わることはできないという意味の文句がある。これと同じように、自分の心が勢いのある清い水のようであれば、いかなる魔性もそれにつけ入ることはできない。つまり、魔性というものは、人の心に邪心邪欲という濁り水が溜まっている時に、それにつけ込んで入ってくる。したがって己の心に溜まっている濁り水を取り去ってしまえば、魔性もつけ入ることはできなくなる。バブルで土地に投資したある社長は「失敗したのは土地価格が下がったからだ」と言い訳しているが、失敗のもとは自分に「儲けてやろう」という欲、つまり魔性が潜んでいたからである。中国の昔、前漢の劉邦に破れた項羽は再起不能を知って、生き残っている28騎を前にしてこう語っている。「自分は江東の子弟八千を率いて戦いを始めてから8年になる。その間70余度戦って一度も破れたことがない。今ここに最後の時を迎えたが、これは天が自分を亡ぼすのであって、戦いが下手であったからではない。今私は死を覚悟しているから諸氏のために決戦して必ず囲みを突破し、敵将を斬り、自分が今言った言葉が嘘ではなかったことを知らせたいと思う。」項羽は囲みを破りはしたものの、ついには舟着場の烏江へ独り逃げ、自ら首をかき切って烏江の露と消えている。さて、それならなぜ天は百戦百勝の英雄を亡ぼしたのであろうか、という疑問が私ならずとも湧いてくるに違いない。これに対する答えは、『史記』の著者・司馬遷が出している。すなわち「数百年の間、稀にみる大人物であるが、指導者として欠ける点があった。我と我が功を誇るあまり自分一個の知恵に頼って、歴史上の教訓を学ばなかったことである」と。また、項羽は叔父の項梁から書を学べとすすめられた時、「姓名が書ければ足りる」と言っている。もちろん学問で知識を得ることなど、眼中になかったろう。治世の基礎は徳であることなど知る由もなく、これで天下人を志したのであるから、何とも救いがたい話である。それなら、なぜ項羽は歴史上の教訓を学ばなかったのであろうか?項羽の学びを妨げたものは、「傲」の一字だったのではなかろうか。中国の明の王守仁(=陽明)が著した『伝習録』に「人生の大病は、ただこれ傲の一字なり」とある。すなわち、人の一生で、もっとも弊害をもたらすものは傲慢-驕り高ぶるということである。端的にいえば、項羽は傲という魔性に勝つことができなかったのである。傲という魔性は何十万の敵よりも強かったといえるのである。美空ひばりの「柔」の歌詞に「勝つと思うな、思えば負けよ」とあるが、勝ち気という魔性も強力な敵となるもので、勝つことのみにとらわれていると負けのあることを忘れ、その忘れた隙間から魔性が入ってくる。卑近な例になるが、詐欺にかかった、騙された、と泣く人も少なくないようである。騙す人間の言葉には欠点というものがないから、ついそれに釣り込まれる。欠点のない話の陰には魔性が潜んでいることを知らねばならない。たとえば「絶対に儲かります」といわれて、それを丸のみにしてしまうから騙される。「絶対に儲かることを、なぜ他人にすすめるのだろう」と考えてみると、つきまとっていた欲という魔性は逃げ出すことになっている。だいたい魔性というものは、会社が好調の時に住み込み、人の得意の時に入り込んでくる。この防御法として、『易経』はこう教えている。「安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず。治まりて乱るるを忘れず。」 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.24
『魚網を設くる、鴻すなわちその中に罹る。蟷螂の貧る、雀またその後に乗ず。機裡に機を蔵し、変外に変を生ず。智巧何ぞ恃むに足らんや。』(魚をとろうとした網に、魚でなく大きな鳥がかかることがある。カマキリが何かを狙っていると、その後から雀が狙っている。まったくこの世の中は、からくりの中にからくりがあるようなもので油断もスキもならない。したがって人間の知恵や術策ではどうすることもできない。人間のそれなど、なんの頼みにもならない。)生物の世界では、生存をかけた厳しい競争が昼夜を問わずくり返されている。経済の世界も同じ。たとえば、新鋭機械を誇っていたとしても、来年は陳腐化商品になるかもしれない。今から40年ほど昔になるが、ある銀行の海外支店を訪問した際、駐車場を指差して「あの駐車場に日本製の車が何台あるか」と聞いてきた。答えかねていると彼は誇らしげに3台きりない、あとはアメリカ製だ、と自慢していた。デパートを見て回ったら、日本製カメラが特売場に雑然と並べてあった。数年後に再び行った時は、アメリカ人に「これは日本製のカメラだ」と自慢している。まさにカマキリを雀が食うに似ている。戦後、繊維産業は繊維、セメント、砂糖の「三白景気」の筆頭業種として、商品・証券市場でもわが世の春を謳歌していたが、今やその鴻も、かつての発展途上国で羽ばたいている。今年の成長産業も、来年には衰退産業となる。詩の文句ではないが、「いまだ覚めず池塘春草の夢。階前の梧葉已に秋声」というのが産業界の今日といえるだろう。人生も同じ。地位を利用して公金で競走馬まで買って役得を胸に秘めていたろうが、今では、馬と一緒に鹿まで買ってしまったという、あの織田信長になっているのではないか。また、秘書の給料をピンハネしたということで大きな名誉を失った議員もいる。飼い犬に手を吹まれるという言葉があるが、飼い犬ならずとも餌を与えられなければ咬みつきたくもなる。権力の乱用で大きな権力を失った先生もいるが、カマキリがいかに二本の足を振りかざしても、法という網を切り破ることはできないはず。さて、このような油断もスキもならない世の中で、自分を守り、企業を守りぬくにはどうあるべきか。大変な難題であるが、これを解決しておかないと、将来の人生もあいまいになるだろう。そこで、これは大方の参考となるかどうかわからないが、私が20歳の時に立てた人生計画なるものを述べてみたい。私の20歳当時といえば、失意貧困の極みといえた頃で、「学なし、地位なし、金もなし、頭髪もなければ、青春もなし」の「五無斎」と自嘲していた頃であった。それは、勉学五段作戦として、20歳から30歳まで、法律30歳から40歳まで、歴史哲学40歳から50歳まで、経済経営学50歳から蓄財(老後の準備)60歳から晴耕雨読次いで、4挑戦として、1、厳しさに挑戦2、時代の変化に挑戦3、自己能力の限界に挑戦4、疑問に挑戦(先見)以上を貫くため、ギャンブル、囲碁・将棋、マージャン、ゴルフなど、勝敗にかかわる一切の楽しみを自ら禁止することにした。以上、いかにも角張った計画であったが、これは母の教えを守るためでもあったわけである。昔、母は農業用暦の人生占いの欄にあった一白水星の運勢を読みながら、「隆一、おまえは、あれこれ何ごとにも手を出すが、どれも満足な結果は得られない相だ。これからは何をやるにも目的を一つに絞って、それに力を精一杯出しなさい」と小学生の私に言った。それをいまだに守っているつもりであるが、時折り脱線しては反省している始末なのである。目的をあれこれ持つから心の集中が乱れる。乱れに乗じて襲いかかるのが、鴻であり、雀、カマキリなのである。さらに私は50歳の時、銀行の取締役に就任したが、人生有終の美を飾るために「五ケンの戒め」というものを作り、卒寿を越した今もそれを貫いているつもりである。その五ケンとは、「堅、謙、倹、憲、研」の五文字で、堅実、謙虚、倹約、憲(人の道、経済人としての道を守る意)、研鑽である。そして処世の要として「敬」の一字を守ることにしている。こうして、自分を狙う鳥の攻撃を防いでいるのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.23
『怨は徳によりて彰わる。ゆえに人をして我を徳とせしむるは、徳怨の両つながら忘るるにしかず。仇は恩によりて立つ。ゆえに人をして恩を知らしむるは、恩仇のともにほろぼすにしかず。』(怨みは徳を施すことによって現れる。だから、相手に徳を施しても感謝を求めないのがよい。徳も怨みも両方忘れてもらうに限る。仇は恩を施すことによって生ずる。だから、相手に恩を感じさせようとせず、恩仇ともになくしてしまうに限る。)これは私の体験で、事後に思ったものであるが、徳を施した者も施された者も恩仇を感じないことが、経営には欠かせない。銀行を退き、あるメーカーへ入った。入社の翌朝出社すると、待っていたかのように課長会の幹事と名乗る人から、「今朝は毎月一回の課長会の日なので、新任の挨拶をしてもらいたい」といわれた。何を話すべきか少々戸惑ったが、ひと言、こう話した。「昨日社長から人事についても一任されました。ついては、課長の皆さんの頭の中がカラになったら部長に昇格することを約束します。これで終わり。」会が終わった後、幹部が来て、「先ほどの話の意味を聞かせてもらいたい。」というのでこう話した。「課長の最高の任務は、部下を自分より秀れた人材に育てることにある。そうするためにはまず、自分の持っている能力、才能を部下に譲ってしまうことだ。それで課長の頭の中はカラになる。こうして自分の頭をカラにするほどの課長は、その頭を再び満たそうとする。そして、それをまた部下に譲ってしまう。こうすることによって上下ともに立派に育ち、これが会社の発展を促す力となっていくはずだ。もし、経済・社会が進歩するのに対し、経営する人間の頭が進歩しないことになればどうなるか。考えるまでもないことだろう。」とかく管理職の座にありながら、部下を教え育てず、自分の座を維持しようと考える者もあるようだが、これは自ら己の座を逆に手離す者といえるだろう。それから二年ほどたってからであったろうか、人事部長から相談するともなく話があった。「最近、A課長の影が薄くなって霞んで見えるようになってきた、課長代理のBが頭角を現すようになったからだ。ここでA課長を閑職に格下げして、B代理を課長に抜擢したいと考えている」という。そこで私は、「それは考えものだ。Bが頭角を現すようになったのはA課長が教育指導したからだろう。してみるとA課長は部下を己より秀れた人材に育てあげた能力と功績がある。格下げするより、部長に昇格すべきではないか。今部長の空席はないから有力部の副部長に抜擢してはどうか。」と話したことがある。伸びようとする芽をつまんで己の身の安泰をはかる上役などは、夜、芽を食いちぎる夜盗虫にも劣るといわなければなるまい。恩を施して名利を求めるなら、その恩の恵みは帳消しになるだろう。恩を施すならその返礼を期待するな、ということは先賢の教えだが、恩を売り物にしたのでは恩を施したとはいえなくなる。これは恩とはいえないほどの私事だが、老後の私の道楽は、野菜と果実作り。家族四人で食べきれるものではない。近くの家に運び、通りがかりの人にはその場でもらって頂くことにしているが、飴玉一つ、タバコ一本いただかないことにしている。頂いては道楽とはいえなくなるからだ。スイカ、ミカンなど無断で持ち帰る人もいるが、カラス、ヒヨドリも無断で食べている。食べてもらうことに変わりはない。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.22
『人の小過を責めず、人の陰私を発かず、人の旧悪を念わず。三者は、もって徳を養うべく、またもって害を遠ざくべし。』(小さな過失はとがめず、人の秘密をあばかず、人の昔の悪事に触れない。この3つを心がければ、自分の徳を養うことにもなるし、人から恨まれることはない。)ある会社での現役時代、販売子会社の社長から、ある出張所の所長が優秀な業績を上げているので子会社の取締役に抜擢したい、という伺い書が本社社長に寄せられた。それについて私が相談を受けた。「この出張所の所長はかつて、下取りした機械を数万円で売却し、その代金を顧客の接待に使ったということで譴責処分を受けた。処罰の理由は収支の帳簿記入をしないで使用したということであった。」それに対して私はこう答えておいた。「中国の戦国時代、孔子の孫に当たる子思が衛の国に仕えていたとき、子思が衛侯に対し『勾変を大将に任用してはどうか』と推薦したところ、衛侯は、『勾変という男は以前役人であったころ、人民から一人当たり鶏卵二個ずつ取り立てて食べたことがある。そんな男を大将に取り立てることはできない』と反対された。これに対して子思が、『聖人が人を用いるやり方は、ちょうど大工が材木を用いるようなものである。大工は材木の長くて役立つところを用い、短くて役に立たないものを捨てる。太くて長い大木なら、少しくらい朽ちたところがあっても朽ちているところを削り取って用いるのである。(人を用いるにも誰にも長所短所はあるもの。短所を見過ごし、長所だけを見て用いればよい。)今、わが君は、人材を必要とする戦国の時代というのに、わずか鶏卵二個のことで国を守る秀れた武将を棄てようとしている。こんな不見識なことは、絶対に隣国に知られないようにしなければならない』と言ったという故事があります。その出張所の所長にしても、下取り品の処分代金を雑収入として処理しなかっただけのこと、鶏卵二個よりも罪は軽いと思います。」と答えておいた。翌朝、社長が「昨日の件は鶏卵二個に決めました」と言ってくれたが、その男、私が退社する頃は大会社の子会社の社長に昇格していた。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.21
『人心の一真は、すなわち霜をも飛ばすべく、城をも落すべく、金石をも貫くべし。偽妄の人のごときは、形骸はいたずらに具わるも、真宰はすでに亡び、人に対すればすなわち面目憎むべく、独り居ればすなわち形影みずから愧ず。』(人の真心は夏にも霜を降らすことができ、城を突き崩すこともでき、金石を貫くこともできる。偽りの多い人間は肉体はあっても心が失われているから人にも嫌われ、一人になると、自分自身でさえ自分にあきれるに違いない。)「信なればすなわち人任ず。」つまり、誠をもって接すれば人は信頼してくれるものである。誠意をもって人に対することは徳の一つでもある、とは『論語』にあるものだが、『孟子』にも、「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。誠ならずして、未だ能く動かす者は有らざるなり」とある。すなわち、誠を尽くして感動させることのできないものは天下にない。誠を欠いて他を感動させるなどあったためしがない、という意味だが、『論語』にある「仁」の心を言い表わしたものといえよう。さらに劉安という人物の著した『准南子』には、「両心は以て一人を得べからず、一心は以て百人を得べし」、つまり二心を抱く者は一人の味方も得られないが、一つの真心を持った者は百人の味方を得ることができる、という言葉がある。人に対して裏表のない真心一つで、多くの人の心をつかむことができるのである。これを裏づける言葉に「赤心を推して人の腹中に置く」の故事がある。後漢の祖、光武帝が、銅馬の賊を討伐し降参させたが、味方の諸将は降参を信ぜず、銅馬の連中も、果たしてまことに降服を認めてくれたのかどうか疑問を抱いていた。この両者の不信を解くため、銅馬の将兵たちをそれぞれの陣営に帰らせ、部下をまとめさせ、自らは、武装もせず、軽装で馬に乗り、悠々と多くの降服部隊を巡視した。これを眺めた銅馬の連中は互いに話し合って、「粛王(光武帝)は自分の真心を他人の腹の中におし込んで少しも疑ってはいない。どうしてこのような人のために死力を尽くさずにおられようか。」これが「赤心を推して人の腹中に置く」のいわれだが、真心をもって当たれば、鬼心をも仏心に変えることができるものである。私も、再建のためにある会社へ入ったとき、悪口雑言を浴び、追放運動も受けた。が、それにひるまず会社再建に当たったためか、次第に排斥運動も止み、退社する頃には握手を求められ私の方が面食らったことさえあった。彼らが握手を求めたのは、私に対してではなく至誠に対してだったのだ。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.20
『逆境の中におれば、周身、皆鍼乏薬石にして、節を砥ぎ行いを砺きて、しかも覚らず。順境の内におれば、満前尽く兵刃戈矛にして、膏を鎔かし骨をへらして、しかも知らず。』(逆境にいると、身辺すべてが鍼や良薬となり、節操を高め、行いを砥ぎ、真剣にことに当たっているが、自分ではそれを悟っていない。順調であるときは、周囲すべてが刀や戈のようで、体が油抜きになり、骨抜きにされても自分ではそれに気づかない。)この文句は私の体験からもいえることだ。空腹を抱えて夜学に通い、借金苦のために銀行勤めと畑仕事の二足のわらじを履き、ヤカン頭に荷車引き、頼りもきかず、頼りもできず、というような苦しみを体験しているときには、辛い、苦しいなどという気持ちになることはない。ただただ、この苦を乗り越えてやろう、勝ってやろうという敵愾心ともいえる火だけが燃え上がってくるが、やけっぱちになることはなかった。いくぶん地位も上がり、生活にもゆとりが出てくると、濁り水がしみ込んでくるように、よからぬ気も起きてくる。会社経営などにしても、創業当初は身も心も張り切ってことに当たっているが、業績に目鼻がつくようになってくると、まず心がゆるみ、体の活気も低下してくる。「勝って兜の緒を締めよ」は昔からいい伝えられてきた文句だが、この文句を忘れてしまうから兜を置く下の台まで失うことになる。私は、ある会社の再建に協力した際、再建五ヶ年計画の完全達成に目鼻がついたときから兜の緒を締めはじめた。まず通勤に、ハイヤー、タクシーを利用していたのを電車に替え、毎日往復の乗車券をその都度買う。自弁ということになる。毎日の昼食も、会社の食堂なら割安で栄養も研究済みのものを食えるが、握り飯、つまり腰弁通勤に替え、会社の諸経費も節約に徹した予算計上に改めた。これらの腰弁仕度を女房に話したところ、ひどい悪趣味だと言っていたが、家康の遺訓ではないが「不自由を常と思わば不足なし」を読み替えて「不自由を常と思わば、その後もよし」とすれば、公私の長寿は疑いなし、ということにもなる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.19
『この心常に看得て円満ならば、天下おのずから欠陥の世界なからん。この心常に放ち得て寛平ならば、天下おのずから険側の人情なからん。』(自分の心を常に円満にしておけば、この世界に不平不満はないようになる。自分の心をいつも寛大にしておけば、世界の中に険しく、とげとげしいことも自然になくなるようになる。)こうした心は職場などでも必要なことである。人間は心ならずも「自分の感情を人に移す」ことがあるが、移された人こそ迷惑千万なことである。家庭での不満を、出社して周囲に当たり散らしたり、当たる相手がいないと机を叩いてみたり。机は何も言わないが、人間ならなんと心の狭い人だろうと見るに違いない。銀行員時代、ある行員が帳簿を開いて計算しはじめたが、計算が合わなかったのか、ガチャガチャソロバンを振っている。支店長が見兼ねたのか、近づいて、「それは自分の心が乱れているからだ。ムシャクシャしている気持ちをソロバンに打ちつけず、自分の胸に叩きつければすぐなおる」と言っていたが、さすがに支店長、上手いことを言うものだと思ったものだ。孔子の一番弟子といわれた顔回は「怒りを人に移さず」と言われているが、人の上に立つ者にとっては最高の戒めともいえるだろう。「電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのも、みんな私が悪いのよ」という文句が昔あった。そこまで卑屈になることはないが、少なくとも、自分の感情を人に移すようでは、上司としての体面どころか信頼をも傷つけかねないだろう。感情を他人に移すような人間は責任まで人に移す。退嬰型人間の通例だが、これでは、ひいては自分まで窓際の椅子に移されることになるだろう。ここに「自分の心を円満に」とあるが、自分の心を常に円満に保つにはどうあるべきか。つかみにくい問題だが、私は徳川家康の遺訓を読むだけで不満の大部分は消え失せ、満足が得られるのではないかと思っている。【家康の遺訓】一、人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。 急ぐべからず。一、不自由を常と思わば不足なし。一、心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。一、堪忍は無事長久のもとい。一、怒りは敵と思え。一、勝つことばかり知りて負けることを知らざれば、 害その身に到る。一、己を責めて人を責むるな。一、及ばざるは過ぐるにまされり。私は、ないないづくしともいえる家庭に生まれ育ったためか、自然に、ないものをあるもので補い、苦しいことを楽しくし、まずいものをうまくして食い、不満なものを満足に変えることが習性ともいえるほどになっている。年齢を若くすることは不可能だが、心を若くすることは可能だ。食事と食事の間を長くし毎度空腹にしておけば、粗末なものも山海の珍味をしのぐことになる。対人問題にしても、相手の欠点を先に拾い上げるから長所が見えなくなる。長所長所と求めていけば、短所などは見えなくなってしまうもので、短所だけを見つめているから長所が行方不明になるのだと思う。会社などでも、「あの社員はこういう長所がある」といえば、「でも、あの男にはこれこれの短所がある」という人がいる。人の長所にケチをつけなくともよさそうなものであるが、そういう反対者自身の短所は容易に語らないらしい。先ごろ家族でレストランヘ行き、私が、「ボーイさん、大変うまかった」と言ったら若い者たちが顔を見合わせていた。お金を払っているのに褒めたり、礼を言うことはない、と言いたいところだろうが、お礼というものは、予期していた人から言われるよりも、予期しない人から言われる方が嬉しいものだ、ということを知らないのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.18
『天地の気暖なればすなわち生じ、寒なればすなわち殺す。ゆえに性気の清冷なる者は、受享もまた涼薄なり。ただ和気熱心の人のみ、その福もまた厚く、その沢もまた長し。』(気候が温暖であれば万物は生育するが、寒冷だと枯死してしまう。人間も同じで、心の冷たい者は幸福に恵まれることも少ない。心あたたかく人情味のある人だけが、幸福に恵まれ、恩沢もまた長い。)ものの本に次のような記事があり、人の上に立つ者として大変教えられたことがある。明治維新の頃であったろうか、山岡鉄舟が、街道一の親分の清水次郎長に、「親分は子分を大勢持っているようだが、親分のために命を投げ出してもよい、というような子分は何人いるかね」と聞いたのに対し、次郎長は「そういう子分は一人もいなかろうが、自分は子分のためなら、いつでも命を投げ出す」と答えたという。また、加藤清正が、家来とともに船旅をした際、台風に遭い、船が沈没の危険にさらされた。船頭が、「人柱を入れて波を鎮めたい、ついては家来の一人をさし出してもらいたい」と申し出た時、清正は、「家来を人柱に出すことはできない。どうしても出せというなら、この清正が人柱になろう」と言って断ったという。中国の歴史を見ても、兵法家として知られる呉起は、将軍となって兵を率いた時、一人の兵士が傷を負い化膿して苦しんでいるのを見て、自ら口を寄せて吸い出してやったという。これを伝え聞いた兵士の母親が泣き出した。わけを聞くと、「この子の父親も呉起将軍に膿を吸い出していただき、その温情に報いるため決死の働きをして戦場の土となりました。今度息子が再び同じ情を受けたので、また討ち死にしてしまうのではないかと思って泣いてしまいました」と。いかなる兵も、敵には強いが上司の情には弱くなるものである。現代の組織内においても、権力による統率は限られた人数に及ぶに過ぎないが、あたたかい心を持った統率は限りなく数多くの部下に及ぶものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.17
『学ぷ者は、段の競業的心思ありて、また段の瀟洒的趣味あるを要す。もし一味にれ飲束清苦ならば、これ秋殺ありて春生なきなり。何をもってか万物を発育せん。』(道を会得しようとするなら、己を戒め、慎み、厳しく姿勢を正すことが肝心である。またその一面では、物事にこだわらない酒脱な味わいが欲しいものである。ただただ己を苦しめ、それに耐えるばかりであるなら、秋の冷気ばかりで、万物を育てる春の暖気がない。これで万物を育てることができようか。)『論語』の子張篇に次のような文句がある。「子夏曰く、君子に三変あり。これを望めば厳然たり。これに即けば温なり。その言を聴けば厳し」(君子には三つの変化がある。遠くから見るときは、近づきがたい威厳がある。親しく接してみると、その人柄のあたたかさが伝わってくる。さらに、その言葉をかみしめると、その言葉の厳しさがわかってくる。)この文句の中に「温」の一字があるため、なんとなく救われるような気持ちになる。人間社会、ことに組織の中で上に立つ者が、いかめしい顔で見張っていると、その下で働く人々の心は凍りついてしまうだろう。仮に上に立つ者が仁王様のようにいかめしい姿であっても、時に冗句の一つでも口に出せば、従う人々の心も和んでくる。人というものは、いかめしい仁王に頭を下げる者はいないが、一寸八分(約5.5cm)とかの小さな仏には深々と頭をたれるものである。その昔、銀行員の駆け出しであった頃、まじめ一徹の支店長がいた。孔子様が背広を着たような店長といわれていたが、支店の業績は抜群。店内をよく治めていた証拠である。その支店長と酒席を共にしたことがあるが、余興に、農夫姿に着替えて「どじょうすくい」を踊りだした。一座大喝采になったが、寒暖を兼ね備えた店内掌握が好業績の力であることを知らされたものである。これも銀行にいた頃の話、厳格そのものといえる頭取がいたが、客を招待したときなど、必ず義太夫をうなりだす。一同膝は正すが耳は塞ぎたくなる。落語の「寝床」を思い出しながら聞き入っているわけだ。が、先輩は先輩らしく、座禅を組んでいると思えと言っていたが、厳しい頭取の一面がうかがい知れて微笑ましくもなったものである。もう一人の頭取はパチンコの趣味をもち、やはり行員の心を掌握していた。少々濁った水にこそ魚は棲みつくものである。本項の言葉は、人を用いる者にとっても見逃せないもので、鬼面一点ばりでは人はついてこない。その中にえびす顔があってはじめて人はついてくる。賞罰にしても、厳しいばかりでは人は離れてしまう。しかし、ゆるやかなばかりでも怠慢の心が芽生えてくる。私は現役時代「和中厳」を守り通したつもりである。つまり、組織内では和に重点を置くが、賞罰については信賞必罰を貫いた。現役時代、怒り叱った記憶はない。それでもそれに馴れて気まま、わがままになったり、つけ上がったり、怠けるような人間も見ることはなかった。信賞必罰を守り通せば、叱り怒ることも用なしになるものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.16
『祖宗の徳沢を問わば、わが身の亨くところの者これなり。まさにその積累の難きを念うべし。子孫の福祉を問わば、わが身の残すところの者これなり。その傾覆の易きを思うを要す。』(先祖の恩恵とは何か。わが身が現在受けている恩恵そのものである。長い間苦労をし続けて残してくれたそれに感謝しなければならない。子孫の幸福とは何か。それは現在自分が努力し続けていることによってもたらされる幸福である。崩れやすいものだけに、長きにわたって傾き崩れないよう、しっかり積み固めなければならない。)私は先年、自分の墓地の改修を行い、先祖の墓石を右から年代順に置き替えた。一番粗末な墓石は、元禄二年死去の先祖の石であった。立派な石を先にしては先祖に失礼になると考えたからである。わが国では、盆、彼岸には先祖の霊をまつり拝すことを例としている。今、自分たちが健康平和で生活できるのは先祖代々の恩恵によるもの、という先祖代々の霊に対する感謝の心からである。先年、「俺は先祖の顔など見たこともなければ、何かを恵んでもらったこともない」などという男がいたので、「おまえさんは、自分の顔を鏡に映したことがないようだ。よく人は何かの生まれ変わりというが、まさか犬や猫の生まれ変わりではなかろう。人間の生まれ変わり、それも先祖から生まれ変わり続けておまえさんになっている。してみると、鏡に映っている顔は誰でもない、先祖が生まれ変わったおまえさんの顔ではないか」と言っておいたが、恩知らずにもほどがあると思ったものである。こう考えてくると、いずれはこの自分も先祖の仲間入りをすることになる。後輩にはなるが、先祖になる自分も今の自分も同一人であるとすれば、今の自分は後に続く子孫から尊敬される生前でなければならない。今の自分は子孫の手本となるような人物でなければならない。こうした考えが、自分を立派に育て上げることとなる。私の場合にしても、私まで十五代の先祖のうちには、農夫ながら江戸時代に苗字帯刀を許され財を築いた人もあれば、その名利を遊びに費やした人もある。いずれにしても後輩に教訓と反省を与えてくれているもので、すべて先祖の恩として感謝しなければならないものといえよう。だいたい内外の歴史を見ても、先祖からの恩を恩としない者で成功した者はない。むしろ国を滅ぼし、家を失っているのである。中国の歴史を見ても、夏の桀王は、その先祖である仁徳に秀れた兎王の教えにそむいたために四百年の歴史を閉じ、殷の紂王もまた湯王の徳を無視して六百余年の長期政権の幕を降ろしている。わが国の徳川政権は、その祖・家康の遺訓を代々守って三百年の歴史を成している。すべて先祖の恩恵を恩恵として敬い慕ってきた成果といえるだろう。こうしたことから、今の自分は子孫のための自分であることも忘れるべきではない。自分の善は子孫の誇りとなり、自分の悪は子孫の恥、劣等感につながるものと考えるべきではないか。自分は孔子の子孫だ、諸葛孔明の何代目だという人はいるだろうが、俺は、秦の趙高、新の王奔の子孫だという者もなければ、唐の安禄山だ、盗跖だといって自慢する者もなかろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.15
『天、我に薄くするに福をもってせば、吾、吾が徳を厚くしてもってこれを迎えん。天、我を労するに形をもってせば、吾、吾が心を逸にしてもってこれを補わん。天、我を厄するに遇をもってせば、吾、吾が道を亨らしめてもってこれを通ぜしめん。天かつ我をいかんせんや。』(天が幸福を少なく授けてくれたら、われは徳を厚くして迎えよう。徳を高めて幸福を勝ち取るだけである。天がわれに苦しい仕事をさせて肉体を苦しめようとするなら、われは心を楽にしてこれを補おう。天がわれに進退きわまるような苦境に落とそうとするなら、われ、初心を貫くようにしよう。こうであれば天としても、わが強固な決意にどうすることもできないであろう。)私の銀行員時代の話である。東京・銀座の「春日」という広告会社の創業者・春日輝子さんと対談したことがある。春日さんは30歳を過ぎた頃、男の子2人を残して夫に先立たれ、その日の暮らしにも事欠くほどであった。手に職はなし。そこでサンドイッチマンになったが収入は少なく、米も買えず、八百屋の軒下に捨ててあったキャベツの葉を拾い、それを煮て子供に食べさせたことも何度か。食堂からサンドイッチマンを頼まれた時、帰り際にどんぶり飯を出してくれたが自分一人で食べるわけにもいかない。他の客の目を盗んで、ハンカチに包み持ち帰って子供たちに食べさせた。ある夜、銀座から浅草まで歩いて帰った時のことである。「私だけが、どうして苦しまなければならないのか、と考えた時、ふと、それは前世の悪業の償いをさせられているのではないか、もしそうだとすれば、今苦しめば苦しむほど前世の償いができ、楽な時がくるはず、と考えついた途端に重い足が軽くなった」と話してくれた。この春日さんには、NHKテレビの「父際術」という番組に一緒に出てもらったことがある。リハーサルが終わった時、「これが終わったらすぐ羽田へ直行、台湾旅行に出かけます。子供たちは先ごろ南方の国々へ行ったんです。その時『あちらでは悪い病気にかかるというからしっかり用意して行きなさい』といっておいたら、長男がそのための小道具(避妊具)を買ってきてカバンヘ入れようとしていたので、『お父さんに見せなさい』といって取り上げ仏壇へ上げて、『子供もようやく、これが使えるようになりました』といってお線香をあげました。」と言っていたが、昔、キャベツの葉を拾っていたとは思われないほど満ち足りた顔つきは、天をも人をも憎まず恨まずの心の現れであったろう。自分を苦しめ、悩ませた人を憎み、天や会社を恨んでも、相手は何の反応を示すわけはなし、何の償いを保証してくれるものでもない。かえって自分の不甲斐なさを嘆く結果を招くだろう。その昔、人相をみてもらったところ、「あなたは病気がち、悪くすると短命に終わる。地位も上がらず、カネも貯まらない」と言われたが、今私は93歳の短命だし、この先、長命までの生活費ぐらいは貯えてある。地位は上がらずといわれても、上げる人が死に絶えているので上がりようがない。といって占いの先生を恨む気にはなれない。むしろ、そう占ってくれたから、お陰様でと感謝しているのである。ある会社に副社長として関係した時、ひた隠しにしていた不良商品を発掘して焼却すべく、ほこりをかぶりながら、ほこりだらけの不良品を探し出していた時、案内していた社員が、「副社長がやらなくても誰かにさせたら」と言ってくれたが、私は「副社長は肩書だけのもので、去年入社した新入社員。それに『あなたはヘドロを流す人、私はそれをさらう人』という、それぞれが勝手をやる会社は必ずつぶれることになっている。だから、そんな人間の反省を促すためだ。『身をもって教える者は従い、言をもって教える者は訟う』という言葉に従って動くことも私の役目」と言っておいた。肩書などは忘れて自分自身も朗らかな気分になる。私は18歳の時、父に死別し、私の年収の4倍以上の借金が残された。祖父が道楽した借金である。祖父は何十ヘクタールかの土地を遊興で使い果たしたが、1ヘクタール(三千坪)の土地は兄弟たちの努力で残してきた。それを現在私が引き継いでいるわけだが、終戦後の農地解放で1ヘクタール以上は国に買い上げられている。私は1ヘクタールだけしか引き継いでいなかったため農地解放の対象になっていない。これは祖父が敗戦、農地解放を見越して道楽したのではないか。お陰で、所有地を二束三文で買い上げられなくて済んだ、と思うと、むしろ道楽祖父さんに感謝したくなるし、お陰様まで、借金苦で私を鍛えていただきましたと思うと、皮肉の心は感謝の心に変わってくる。よく、「長生きの秘訣は?」と聞かれるが、いつも私は「仇は恩なり、苦も恩なり」と答えている。仇を恨んだり、苦を憎んだりしても、自分の心を憎む結果を招き、仇を恨み続けることは己の志の門を閉ざすようなもので、自分で自分を恨むだけとなるものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.14
『富貴名誉の、道徳より来る者は、山林の中の花のごとく、おのずからこれじょじょはんえんす。功業より来る者は、盆監の中の花のごとく、遷徒廃興あり。もし権カをもって得る者は、瓶鉢の巾の花のごとく、その根植えざれば、その萎むこと、立ちて待つべし。』(徳望によって得た富や名誉は、野山に咲く花。自然に根を張り芽を伸ばしてくる。功績によって得たものは、鉢植や花だんの花。他に移されたり、捨てられたりする。権力によって得たものは、花びんにさされた花。根がないので、たちまちしおれてしまう。)「山路来て何やらゆかしすみれ草」芭蕉の句であるが、藪かげに楚々として咲くすみれ草は、その上に咲き誇っている藪つばきよりも愛らしく、「朝顔に釣瓶取られて貰ひ水」は、加賀千代女の句とされているが、弱弱しい姿のうちにもあくまで伸びようとしているたくましさに、千代女ならずとも、もらい水に走りたくなるだろう。いずれも、生きんとする力強さを人に感じさせるからである。花に限らず、己を守ろうとする力ほど強く感じさせるものはないようである。この加賀千代女が加賀百万石の領主・前田侯に城中に召し出されたことがある。前田侯が千代女を見るなり一句を詠んで示した。「加賀千代なんにたとえん鬼瓦」と。女性にとってははなはだしい侮辱。しかし千代女は気にもかけず返句を示した。「鬼瓦天主閣をも下に見る」百万石城の誇る天主閣を足軽風情の女房に下に見られては、ただごとではすむまいと周囲は思っていたが、そんな野暮な前田侯ではなかった。今日は千代女にしてやられたと言って褒美を与えて帰したという。この話は、金沢へ講演旅行をした際、タクシーの運転手さんから聞いたものだが、千代女の心意気に思わず胸中では快哉を叫んだものである。現在の職場などにおいても、人格、人柄は目で見ることはできないが、人々の心では見ることができる。私は現役時代、「課長、部長、役員などの肩書を与えるのは社長や人事部長ではない、役員会でもない。その多くは会社の井戸端会議や雑談している間に決められるものだ」と話してきた。井戸端会議に出席するような人には、組織内での手腕力量がわかり評価するだけの知識もあるまいが、人柄だけはわかる。人柄、つまり人格だけで候補者を選んでいるようであるが、後で社長が与える人事と違うことはないものである。いくら大きく美しい花であっても、造花に蜂や蝶が集まることはないものである。人間も同じ。人格の劣る者には、人間に仇となるスズメ蜂さえ近づかないものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.13
『道徳を棲守する者は、一時の寂莫たり。権勢に依阿する者は、万古凄涼たり。達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。むしろ一時の寂莫を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。』(人間としての道を通そうとする者は、一時的には不遇で苦境に立たされることもある。権力におもね、へつらう人間は一時的には栄進もするし、虎の威を借りて居心地もよいが、やがては永遠の孤独に苦しむことになる。達人は、世俗を超えたところに真実を見出し、この世を去ったあとの自分の名を惜しむ。片時の寂しさを味わうことがあっても、そのために永遠に孤独を招くようなことをしてはならない。)ここで、わが国の『平家物語』の巻頭の一節を借用してみよう。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる者もひさしからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱己、唐の禄山、これらはみな旧主先王のまつりごとにもしたがはず、楽しみを極め、いさめをも思ひいれず、天下の乱れんことをも悟らずして、民間の憂ふるところを知らざりしかば、久しからずして滅びし者どもなり。」この四人の悪名は千年二千年の昔話だが、その悪名は歴史の続く限り絶えることはなかろう。これに対し、『三国志』にある諸葛孔明の赤心は「出師の表」の「鞠躬尽力死して後已まん」の一言とともに後世の人を導くに違いない。さらに、唐の太宗に仕えた魏徴の信義は、「季布に二諾なく、こうえいは一言を重んず。人生意気に感ず。功名誰かまた論ぜん」と、詩「述懐」の末尾を飾った一節とともに後世の人々の教訓となるに違いない。こうしたことは生身の人間に限らない。法人格の団体企業にも通じているものである。徳に反した行為をすれば、一時的には利を得、手柄話にもなるだろうが、やがては、自分どころか、企業の命取りになる。近年新聞ダネになった食肉をめぐる問題にしても、偽って買い取ってもらえば、在庫も減り、収入も増える。功名にもつながったろうが、やがては名利ともに失って悪名だけが永久の不良在庫となる。今にして思うことだが、高度成長時代、物価高からインフレ進行を予想して換物運動が盛んになった。会社が借金までして、美術刀剣、果ては田舎の農家の土蔵でほこりをかぶっていた古火鉢まで買い込んだというほどのものであった。そして先見の明を誇っていた向きも少なくなかったが、今では先見の不明を独り嘆いているに違いない。このように考えてみると、徳を後にして名利を先にすれば、確かに自分だけは一時的に満足することもできようが、後に続く者にとっては、消すことのできない不義不信の汚名だけが残る。昔、罪人に加えられた入墨は隠すことができたろうが、企業に加えられた入墨を消すことはできないものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.12
『徳は才の主にして、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして奴の事を用うるがごとし。いかんぞ魍魎にして唱狂せざらん。』(徳、人格は主人公で、才能は召使いである。才能がいくらあっても人格の裏づけのないのは、家に主人がいなくて、召使いが勝手気ままに取り仕切っているようなものである。これでは、せっかくの家庭も妖怪の住家となってしまう。)名経営学者P・F・ドラッカーも、「能力よりも人格を後にする者は人の上には立てない」と述べている。いい換えれば、人の上に立つ者の第一条件は徳であるということになる。ここで、よく口にされている「多々益々弁ず」の故事に触れてみよう。中国の昔、前漢の祖・劉邦(高租)が、韓信に向かって「自分はどのくらいの兵士の将になれるだろうか」と尋ねた。韓信は、「せいぜい十万人の将にしかなれないでしょう」と。「では韓信、おまえは何人の将になることができるのか」と聞かれた韓信は、「私は多ければ多いなりに使うことができます(多々益々弁ず)」と答えた。「多々益々弁ずる者が、なぜこの私のとりこになったのか」と聞かれた韓信は、「陛下は兵士の将になることは下手ですが、しかし、将軍たちの将となる力を持っています。これが私のとりこになった理由です。それに陛下は天がこの世に授けて人君とされた方であって、人間の力で人君となったのではありません」と。劉邦には天性ともいうべき徳が備わっていたと見るべきである。『十八史略』に、次の文句がある。「高租の顔は、鼻が高く、龍のような顔で、美しいあごひげがあり、左のももに72のホクロがあり、性質は心寛く、情深く、人を愛し、気持ちもさっばりしていて、家業などは少しもしなかった。大志を抱いていたからだろう。」この言葉からも、徳の高い、なかなかの人物を思わせる。韓信は「百万の衆をつらね戦えば必ず勝ち、征れば必ず取るは吾韓信に如かず」として、主君劉邦をして優れた武勇に兜を脱がせたほどの人傑であるが、仁徳に関しては韓信のほうが兜を脱がざるを得なくなっている。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.11
『徳は事業の基なり。いまだ基の固からずして、棟宇の堅久なる者はあらず。心は後裔の根なり。いまだ根の植たずして、枝葉の栄茂する者はあらず。』(事業発展の基となるのは人格である。基礎が固まっていないで家屋が長持ちすることはない。また、心は子孫繁栄の根である。根がなくて枝葉が生い茂ったことはない。)徳とは何か。ある人は「生きる悦びを与えるすべて」と言ったが、当を得た解釈と理解している。孔子が「自分は、仁の一字を貫いた」と述べているが、仁はすなわち忠恕-忠実と思いやり-に通じるもので、人の道、企業人としての道の要ともいえるものである。大きく、国家を治めるにしても、企業経営に当たっても、徳を欠いては成り立つものも成り立たなくなる。「徳に依って興り、徳を失って亡ぶ」ということは古今東西の歴史が証明している。その一例として中国の万里の長城があげられよう。唐の詩人王遵はこう詠んでいる。秦長城を築いて鉄牢に比す蕃戎敢て臨挑を過ぎずいずくんぞ知らん万里連雲の勢及ばず堯階三尺の高きに(秦は長城を築いて、鉄の牢屋のように匈奴を閉じこめてしまったので、長城の起点である臨挑からこちらに攻めてこられなくなってしまったが、このように雲に連なる長城も、その昔、聖天子といわれた堯帝が、土の階段三尺の粗末な宮殿にいて五十年もの長い間平和に国を治めたことに比べると、まったく愚かなことであったといわねばならない。)秦は二代目胡亥が徳を失ったため、始皇帝以来わずか三代十五年で亡びている。後年、隋も初代文帝の後、子の煬帝が徳を失ったため三代三十七年で亡びている。わが国でもよく話題になるのが栄華をきわめた平氏で、驕る者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとく消え去っている。事柄は違い時代も異なるが、昭和の高度成長期、あるいは土地ブーム当時、わが世の春を謳歌した企業のうち、平成の今日の不況時まで生を長らえているものは何社あるだろうか。この明暗を分けたものは、徳を基礎としたか、利を先にしたか、であったといえるだろう。『論語』に「近き者説べば、遠き者来らん」とある。これは楚の葉公が政治の眼目について聞いたのに対して孔子が答えたもので、近い領民から悦ばれ慕われるように政治を行えば、その評判を聞いて遠くの地方からも移住してくる。人が増えれば産業も盛んになり、人々の暮らしも楽になる、という意味である。戦後、わが国の商品は世界を制覇したとまでいわれたが、わが国の人々が人の悦ぶ商品を開発したため、それを慕って遠い国々からも買いにきたということで、二千数百年も昔に孔子の言われたことを裏書きしている。ここで冒頭の本文に戻って、心は子孫繁栄の根である云々の文句である。心とは、どういう心か。いうまでもなく、徳の心、思いやり、生きる悦びを与える心、いい換えれば人間としての道、企業マンとしての正しい道を歩く心といえるだろう。西郷南洲(隆盛)は、「児孫のために美田を買わず」と詠んでいるが、近年の厳しい時代に生き残るためには美田も残しておかなければ生き残ることさえ困難である。そのため、児孫のために美田(財)を残すべし。ただし、美田と美心(徳)をあわせ残すことを、できれば条件とすべきであると付言したいのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.10
その昔、最初に『菜根譚』を読んだ頃は、「眼からウロコが落ちる」ほど感動もしたが、失意の中に野心もあり、それなりに志も抱いていたため、いくつかの箇所で反発を感じた。何しろ血気盛ん、「力山を抜く」ほどに気持ちが高ぶっていた頃である。目の前の本は、達観した人の処世訓、仙人のような世捨て人の台詞を頭から真に受けていては、変化の激しい、厳しい競争原理の世の中を生き抜いていけないのではないか。そんな思いも、どこかにあった。これもまた若気の至りである。たとえば、「鷹の立つや睡るがごとく、虎の行くや病むに似たり。まさにこれ他の人をつかみ、人を咬む手段のところなり。ゆえに君子は聡明を露わさず、才華は逞しくせざるを要す。」という言葉がある。本来の意味は、己の賢明さは外に現わさず、才知をひけらかすな、ということだが、これが、実は、投資のためのチャンスをつかむ心構えに通じるところがある。ことほどさように、『菜根譚』は、それぞれの人によって、多様な読み方ができる。また、読む人が同じであっても、その時々の立場や心境で、いかようにも解釈できる。ここにも万人の心をひく秘密があるのではないだろうか。本書は、『菜根譚』を私なりに読み解いたものである。中国古典の忠実な翻訳書、研究書の類では、もとよりない。原文の訳も大半は先達の労に負うものだが、漢文に親しみのない読者も想定し、かなり大胆に意訳し、表記法、章立てや見出しなども私なりのものを採用した。本文の話も原文を離れ、自分の思いが独り歩きしたところもある。いわば洪自誠の名著を借りて、私の九十余年の人生を省みて、ささやかな人生の知恵を伝えようとしたのが本書である。 ※日々、野良仕事に出ながら、「先憂後楽」という言葉を思い浮かべることがある。人生、何事にも、悲しみ、苦しみの中から、楽しみ、悦びを見出し、失意の中から希望、生きがいを見出したいと考えてきた。そうでもしなければ、やっていられなかったわけでもあるが、おかげで何ごとにも代え難い“楽”を、今私は、毎日、味わい続けさせてもらっているのではないだろうか。『菜根譚』の書名は、「人よく菜根を噛み得ば」の言葉による。すなわち「野菜の根は固く筋が多いが、これを噛み得るものが、真の味を味わうことができる」の意だともいう。この「私なりの『菜根譚』」を、ここで噛みしめていただき、混迷と不安の時代を生きるヒントを、多少なりとも汲み取っていただければ幸いである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.09
『菜根譚』は17世紀の中国、明の時代に洪応明(字は自誠)という人物が著わした人生の指南書だが、特に、中国の指導者の思想である儒教、一般大衆の思想の道教、それに仏教の3つの教えを融合し、処世の道を説いているところに特徴がある。著者の洪自誠について、詳しい生まれや経歴はわからない。ただ、若いころ、あの超難関の科挙の試験に合格し、相当な官位まで昇ったものの、恥辱と辛酸を体験し、官を退いた人物といわれている。『菜根譚』には、そうした著者の博識と教養、それに加えて独特な人生体験と生き方が色濃く影を落とし、得がたい魅力をかもし出している。この名著が日本に紹介されたのは江戸時代の後期のことで、紹介者は、加賀前田藩の儒学者だという。以来、数多くの翻訳本、解説書が出版されてきたが、本家の中国より日本で、むしろ幅広い読者を得て愛読されてきた。たとえば、東急グループの創始者である五島慶太などは、自ら『ポケット菜根譚』という著作なども著わしている。よほど、日本人の心の琴線に触れる何かが、あるのだろう。 ※『菜根譚』に「竹は声を留めず」という下りがある。「風、疎竹に来たる、風過ぎて竹は声を留めず。雁、寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。ゆえに君子は事来たりて心始めて現われ、事去って心随って空し」(風がまばらな竹やぶに吹くと、竹の葉は鳴るが、風がやむと元の静けさが戻る。雁が渡ると、淵の水はその影を映すが、飛び去ってしまうと影はない。君子の心も同じく、事が現われればそれに対応し、事が過ぎ去れば元の静けさ、無の境地となる。)平たくいえば、「終わってしまえば、そのことは忘れてしまえ、後々まで執着はしない」ということになろうか。ひるがえって考えると、「今さら、どうしようもない」と思われることに執拗にこだわっている人の、何と多いことか。私はよく、「当たり前を、破れ」といったりもする。その心は、一つには「常識を破って、時代の変化に対応せよ」の意である。もう一つは、消極性や劣等感にとらわれての「当たり前」がある。学歴がないから、出世できないのは当たり前。弱小企業だから、大きくなれないのは当たり前。こうした当たり前は、勇気をもって破るしかない。過去の取り戻せないことにとらわれたり、こうしておけばよかったなどと、後々で悔いてみたりしてもはじまらない。だとすれば、「五無斎」などと気どり、自ら将来の夢を消し去るようなことは、愚かしいことでしかない。人生の迷い道で出合った『菜根譚』は、そのことを教えてくれたのだ。私に貴重な自信を与えてくれたのである。 (続く) (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.08
菜根を噛みしめて - はじめに93歳になる私の最大の楽しみは、野菜作り、果物作りの畑仕事である。畑といっても四ヶ所に散在する土地を合わせて150平方メートルほどのものだが、天の恵みを取り入れてみると、これが意外に量が多く、家族だけでは食べきれない。ご近所に配ったり、通りすがりの人にもらっていただくことになる。ただし、お礼を受け取るのは、自ら固く禁じている。お礼を受け取ってしまっては、せっかくの道楽が道楽でなくなってしまうからだ。スイカやミカンなど、こっそりやって来て、無断で持ち帰る人もいる。カラスにヒヨドリも、平気な顔で、無断で食べている。食べてもらうことに、何一つ変わりはない。実はこの楽しみ、私が10代の少年時代、親が作った借金の返済のため、母親の農作業を手伝ったことに始まっている。売るために育てた切り花、野菜、果物、いずれも「道楽仕事」ではなく、勤め仕事の合間、寸暇を惜しみ、血のにじむ思いで実益を狙ったものである。それが、今では、老いの「唯一の楽しみ」になっている。 ※私は、1910(明治43)年、農家の長男として生まれ、14歳のとき、夜学に通えるという条件に心ひかれて銀行に入った。当時は、時代も、また私自身の身辺も、限りなく暗く、重苦しい雰囲気に包まれていた。銀行に就職した半年後に、関東大震災が首都・東京を襲った。この震災で発生したいわゆる「震災手形」が引き金となり、4年後の1927(昭和2)年、金融大恐慌が日本経済を飲み込んでしまう。そして、その2年後には世界大恐慌。さらに満州事変、太平洋戦争と続き、人々は、不安と混迷の「出口なし」の生活を強いられることになった。わが家もその例外ではない。震災で家は全壊、父が倒れる。かつて、わが家には幅3メートルの堀が、4・50メートル残されていた。全盛時代の構え堀のなごりである。しかし、祖父の代に莫大な借金をしょいこみ、父親が倒れてからは、それが10代の私の肩にのしかかる。勤めながらの農作業、寸暇を惜しんで借金の返済に走り回らなくてはならない。借金返済の義務に加え、私には、もう一つ大きな天罰が加えられていた。何の囚果か、青春を奪う脱毛症、ヤカン頭である。銀行に入り、あたりを見渡せば、皆、自信満々、高学歴の「エリート学士」たちである。勢い、強い劣等感にからめ取られ、「学なし、地位なし、金もなし、頭髪もなければ青春もなし」と自嘲し、「五無斎」を自称したのも、その頃であった。こうした奈落の底にあった私を慰め、励まし、導いてくれたのが、「心の教科書」とでもいうべき、『菜根譚』という中国古典である。 (続く) (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.06.07
この章は、関川夏央の『昭和が明るかった頃』(文藝春秋刊)に対する批判である。この「吉永小百合という物語」をモチーフとする作品は、面白い指摘を交えながらも、ある根源的な問題を我々に提示している。第一に、この本には、方法的な大問題が抱え込まれている。つまり、サユリやユージローの映画をもとに、その時代の社会世相を議論できるかどうかという問題である。戦後文学論争は、政治と文学、社会と芸能が直接つらなっているものではなく、別々に議論されない限り、理解はできないものだという認識を血をあがなって固めてきた。しかるに、関川の議論は、「元気で、素朴で、なぜか減法、明るかった」昭和30年代の高度経済成長が、サユリとユージローをつくったという、旧左翼以来の唯物史観、下部構造が上部構造を決定するという先祖返りを果たしているに過ぎない。このやり方は俗受けし、分かりやすい。しかし、ある現象と別の現象を並べるだけで、なんら論理的証明もなく、牽強付会や我田引水をするだけで、因果関係を説明し得たかのような錯覚に陥るだけだ。私の持つ第二の疑問は、昭和30年代の高度成長期がそんなに明るい時代だったのだろうかということである。別に、関川や解説者の増田悦佐の少年時代が明るかったことに異論を差しはさむつもりはない。時代が仮に暗かったとしても、少年時代は誰にとっても明るいものだ。そういう意味では、昭和であれ、平成であれ、大正であれ、変わりはしない。ただ、私は性格的に懐疑的で、他人の言うことに何でも眉唾をつけていたために、高度成長期でも、私の少年時代は暗かった。高度成長のブームを信じられなかったし、それに乗るつもりもなかった。何となく胡散臭く斜めに見ていた。のちに、大学に入って歴史意識を学んだ時に、昭和30年代の高度成長期というのは、たかだか日清日露の頃、『坂の上の雲』と同じことであり、文化文政、元禄の頃の長期ブームに乗っていたのと同じことでしかなかったということが分かってきた。つまり、60年ごとに訪れるコンドラチェフ・サイクルのブームヘの上昇期に過ぎないということも分かってきたのである。こういうブームに乗っているということが、本質的に明るいことなのだろうか?日本という「クニ」は、この60年ごとに訪れるブームとバーストの間で揺れ動いてきた。そして、人々はこのサイクルの波の間に間に、ただ翻弄されて、泡のごとく浮き沈みを繰り返してきた。その波のピークに顔を出したことだけで、明るかった幸せな時代と言えるのであろうか?私にはとてもそうとは思えないのだ。不思議なことに、『昭和が明るかった頃』の中で、最も面白く、出来栄えのよいのは、ユージローの「憎いあんちくしょう」を関川が物語るところである。『梅雨の晴れ間の祭りは美しい。そのエネルギーは青空に惜しみなく放射され、神輿をかつぐ男たちは陶酔する。-(中略)-祭りの渦に迷い込んできたルリ子に対しては、彼らはすこぶる冷淡である。むしろ彼女は祭りの男たちに激しく攻撃されるのである。少なくとも彼女はそう思い、心からおびえる。土着の共同体の中にあっては、旅人である彼女は異物にほかならない。-(中略)-このシークエンスは、明らかに外地からの帰国者たる蔵原惟繕の日本観の反映である。』(同書176頁)『蔵原惟繕も日本になじみきれず、異邦人意識を消すことができなかった。彼は日本と日本人が嫌いだった。-(中略)-蔵原は、親子、主従、師弟といった共同体としての日本をつらぬく原理を信じなかった。その原理のもとに日々を生きる主人公をついに一度もつくらなかった。矢島翠の言葉を借りれば、「木の股から生まれてきたような」個人だけを好んで描こうとした。-(中略)-それは蔵原惟繕の異邦人意識、あるいは反日本意識が生み落としたものであるが、より広くは、古典的な人間関係の枠組みを温存しつつ高度成長をひた走る当時の日本への嫌悪から脱日本の夢を青年たちに提示し、それゆえにこそ「無国籍」と揶揄されつづけた日活アクション映画群の「無意識の思想」を、一番意図的意志的に表現する映画作家たらしめたのである。』(173~174頁)この作品論、作家論は、極めて精彩のある優れた指摘だ。また、関川の肉体派としての真骨頂を最も鮮明に示している。しかし、この論理展開と高度成長とはまったく関係はない。逆に、日本の共同体の暗い情念に対する激しいアンチテーゼが日活映画の思想にあり、また、高度成長が日本の暗い共同体に立脚していることを鋭く指摘していたのが、日活映画だったとも言える。つまり、昭和が明るかったのではなく、暗かったことをはっきり示した時代意識が日活映画だったのである。ある意味で、戦後の日本の価値崩壊による混沌の中で、昭和が暗かったことを見つめる自由さが、日活映画の明るさの原点であったとも言え、高度成長の中で既成秩序が確立していく中で、時代は暗転していったと言えよう。つまり、上部構造と下部構造は直結はしないのだ。さて、最後の問題は関川の造語であろう「知識的大衆」だ。おそらく、この言葉は、思想家・吉本隆明が最も嫌悪する対象であろう。確かに、日本という社会は、階級としてのエリート知識人でもなく、といって大地に根ざした生活者でもない、うたかたのような大衆が知識を切り買いすることで、社会的ハシゴを登っていく、「知識的大衆」が主流を占める社会である。この階層は、江戸期に登場し、大正ロマンの担い手ともなり、戦後飛躍的に増殖し戦後民主主義の申し子となって、ワイワイガヤガヤやりながら、高度成長の担い手となっているのでもあろう。しかし、この連中は、明るい時はイケイケドンドンなのだが、暗くなると打ちのめされて沈んでしまう。基軸となる思想も時代意識もなく、地についた生活者でもないために、雰囲気だけで、どこへでも転がってゆくだけだ。この典型である父・吉永芳之のように、自己の少女趣味的な感情から、娘のマネジャーをやり、サユリの女優生命をダイナシにする程度のことしかできないのである。そして、この連中は、いったん崩れると、大衆の心情しかないものだから、マスに引きずられて、右でも左でも無責任にどこへでも流れていく。いわば、ナチズムとスターリニズムの温床は、この連中が担っていた。昭和恐慌をもたらしたのも、天皇制ファシズムになだれ込んでいったのも、この「知識的大衆」というやつらだ。また、バブルに突っ込んでいったのも、ITバブルを演出したのもこの連中だ。おそらく、この連中が主流となっている限り、日本はコンドラチェフの波に揺られて浮き沈みする運命に弄ばれるだけとなろう。天明、天保の飢饉、昭和恐慌から15年戦役へと歩む道を繰り返し、長期循環の波に翻弄されるのか、昭和が暗かったことを凝視しつつ、千年王国を築けるのか。そのような日本の哲学的決着をつけるためにも、日経平均は4000円に向かって、崩落していくことともなろう。 (終) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.06
日経平均4000円、金利5%、地価10分の1、所得2分の1、失業率10%・・・。この世界から日本が再びテイクオフするためには、考え方そのものを変えなければならない。我々は、いかに生きるべきか?■平清盛・織田信長の血を受け継いで、 我々は再び国際舞台に立てるのか■銀行の倒産が経済再生のカギを握る■金利5%は正しい投資を呼び起こす■10年先を見ることのできる企業は環境の激変に対応できる■これからの経営は人件費・賃貸費の比率を管哩すること■中小企業のカネは、もう銀行に依存するぺきではない■収益還元法に基づいてまともな経営をする不動産会社■海外進出はリスクとリターンを考えながら選択する■サービス産業が台頭する時、女性のパワーが生かされる■「家も持たない、大学も行かない」で国民の負担はなくなる■苦しいなら国民も債権放棄をしてしまえ(上記から一部抜粋)【これからの経営は人件費・賃貸費の比率を管理すること】レストランというと猫も杓子も、プロの味とかグルメが満足とか、あるいはアットホームな雰囲気、ゴージャスな雰囲気というような、重要でないとは言わないが、経営にとっていわば二次的な要素で店の良し悪しが議論されることが多い。マスコミが問題にするのも、このような見栄の部分のことがほとんどと言っていい。しかし、本当に大事なのは、売上高人件費率・売上高賃貸費率を他店がやっていないようなレベルにいかに下げられるか、下げたうえで尚且つ、いかにオぺレーションできるか、である。レストラン業界が軒並み売り上げ減をかこつ中にあって、べーカリーレストランを展開するサンマルク(本社・岡山市)がなぜ堅調なのか。私はそれを、この会社の売上高人件費率・売上高賃貸費率を一定の比率に厳しく維持しようという経営姿勢に見る。前項で、売価を定めたら、コスト構造をいかにそれにかなうようにつくれるかが、これからは企業の死命を制すると記した。ここでいう適切なコスト構造は、かつてのように材料のパンを安く仕入れるとか牛肉を安く仕入れるというようなことでは達成できない。コスト構造を左右する最大の要素は労賃、そして店舗や工場など施設の賃貸費である。これをどのくらいまで下げられるのかを問題にしなければならない。日本は人件費・賃貸費のどちらもがとてつもなく高い。多くの企業は、これらが高すぎることはどうにもならないこととして、それを前提にして経営を行おうとし、他のところでコスト削減を図るべく悪戦苦闘している。それは本末転倒である。人件費・賃貸費は、そもそも実態にそぐわないレベルまで上がりすぎているのだから、これを実態に近いレベルに落とし、それでも経営を続けていくことができるかどうか、この点が重要なポイントである。そのために従業員にどう納得してもらうか、地主にどう対応するのか、これがこれからの経営者に課せられる使命になる。サンマルクは、それができているから強い。1989年に会社を設立して以来15年で、べーカリーレストラン「サンマルク」の数は、直営店91、フランチャイズ店166に達した。(2004年3月)ところが、予想売上高に対して賃貸率がいくらという社内規定があり、賃貸率がそれ以上になると、店舗を借りない。つまり店舗展開に対して断固たる規定を設けており、いたずらな拡大を行わないようにたがをはめているのである。これまで、小売業やレストランチェーンでは、賃貸率を無視した店舗展開が多すぎた。立地を争って賃貸料を釣り上げられ、それでも無理して出店するから、売上高に占める賃貸率がべらぼうな比率になってしまう。サンマルクは、こういう争いには初めから加わらなかった。PHSサービスを始めた光通信が店舗展開を始めた頃、時々立地がバッティングすることがあったらしい。しかし、サンマルクは必ず引きのいたという。相手はカネに糸目をつけないから、争いにならない。無理をして店舗費用を上げる愚は絶対に犯さないということを守り続けた。チェーン店では、もうかるとつい、店舗展開を急ぎがちである。ブームに乗り、マスコミにあおられて上っ調子になって破綻した企業は枚挙にいとまがない。つい先頃のA-A戦争の結末も記憶に新しいではないか。いついかなる時でも、予想売上高に対して、地代あるいは賃貸料が何%になるかを定めておき、「それ以上だったら、店舗を取得しない」という交渉が、土地のオーナーとできるかどうかである。案外、マスコミの寵児になった企業が駄目になるのは、身のほども知らず、調子に乗るからである。私たちファンド・マネジャーは、マスコミがよく記事にするような、話題の新商品を次々発売とか、いつも行列になっている店とか、そういうことにとらわれることはない。サンマルクチェーンが「ファミリーレストランでは味わえない『味・雰囲気・サービス』こそ、私たちの誇りであり最大の商品です。そのためにも店舗規模第一主義でなく、日々改善努力を積み重ね、質で日本一のレストランチェーンの構築を図って参ります。」と謳い上げるのは、もちろん大切なことであるが、経営の良し悪しを見る私たちにとって最も大切なことは、あくまで売上高に占める人件費率・賃貸費率という一定の経営比率が維持されているかどうかである。一時代を画した日本マクドナルドの藤田田商法が、このデフレ・スパイラルの中で急に失速したのは、経営数値に対していい加減だったからで、結局、それまでの発展は、マスコミ受けのする派手なラッパを吹き鳴らし、調子に乗って拡大路線一辺倒できたに過ぎなかったというのが、はしなくも露呈した。デパートも同じである。いまだに売り場をどうつくり直すか、商品構成を見直して、どのようにするかといった議論をしているが、もはやその段階ではあるまい。売上高が7%下がったとすると、その分、人件費や地代あるいは賃貸費をどうやって下げるかが緊急課題でなければならない。この辺をきちんと考えられる経営者がいないから、デパートは再建できない。これからは、企業が一定の経営比率を目標に据え、それに向かって努力していくことが、ますます大切になる。これは、言うは易く行うは難しである。きちんとやっている経営者、企業は、驚くほど少ない。最近、マスコミの間で企業の勝ち組・負け組が話題になっているが、私はマスコミの挙げる「勝ち組」をほとんど信用していない。私の勝ち組・負け組を分ける基準は単純明解で、バランスシートがよくて、その結果として利益が上がっている、そのための戦略をきちんと持っている、それが勝ち組であって、流行っているとか、評判になっているとか現象的、一時的に売り上げを上げているというだけでは勝ち組の対象にならない。たとえば、一時マスコミの寵児になった光通信やユニクロ、ソフトバンクなど、私は昔からボロクソに言ってきた。あのバランスシートでは継続的に勝てるわけがない。私は上場企業のうち、残念ながら「こいつはすごい」と評価している経営者は10人もいない。すでに紹介したサンマルクの片山直之、SFCG(旧・商工ファンド)の大島健伸、ダヴィンチ・アドバイザーズの金子修、エステー化学工業の鈴木喬、ドットウェル ビー・エム・エスの佐々木秀吉、光彩工芸の深沢栄治、アルビスの本郷俊作といったところ。いずれも日経225には入っていない。あとは「まあまあだけど、難点も多くて困ったな」という人たちか、「こういう人たちには早くやめてもらうか、会社が潰れるかどっちかだ」という人たちがほとんどである。(その他省略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.05
戦後からの過剰なマネーサプライは、日本人の土地神話と相まって、異様とも取れる不動産投資を招いた。我々は自らの歴史に何を学ぶのか?■アメリカの傘の下にあった日本の高度経済成長■永遠の高度経済の幻想により、バブルの道は開かれた■「プラザ合意」後、マネーサプライの処理を誤った日銀■過剰なマネーサプライが銀行・企業を不動産投資に導いた■日本人にはなぜ根強い土地神話があるのか■バブル崩壊で土地神話も崩壊した■株価高騰を危険視していた海外の専門家たち■バブル期の日本企業時価総額は限界を超えていた■日本にもかつて紙切れ一枚で大量のカネが動く 時代があった■モノづくりを中心にした時代は終わり、 次にテイクオフできるか(上記から一部抜粋)【モノづくりを中心にした時代は終わり、 次にテイクオフできるか】かつて日本の高度成長は、世界の模範だった。しかし、それがアメリカのドル本位制に守られ、土地担保主義に支えられて成し遂げられたものであり、後に不動産バブルを生む主因となったことが明らかになった。「バブル」崩壊後の長いデフレ不況の渦中にある日本が今できることは、こうした負の歴史を検証し、これからどのようにして、どこへ行けるのかを定めることであろう。決して羅針盤を失ったまま、大海で嵐に遭遇している船であってはならない。羅針盤とは、まさに自分の負の体験であるのだから。最近問われているのは、日本の今までの経済成長は、大量につくっては、かたわらで大量に消費し、その差益でなんとか食いつなぐという浪費経済だったことである。食べていくためには、とにかく大量のモノをこなしていかなければならない。こういう経済成長をこれからもよしとするかどうかである。「バブル」崩壊以降、それはもうできないという流れが形成されつつある一方で、もうできないということに対する負い目のようなものも抱え込まれている。私は、日本がモノづくりで生きていく時代は終わって、カネづくりあるいはサービスづくりで生きていくという方向へシフトできなければ、生き延びていけないという一応の結論を持っている。モノづくりを中心とした日本の経済成長は終わったのである。日本のあとに韓国や台湾、中国、インドが続く。それぞれの国がそれぞれの特徴を持ちながら、テイクオフする。日本が欧米の経済史を学んだように、後に続く国は日本の経済成長を前例として学び、取り入れるべきところは取り入れ、捨てるべきところは捨て、それぞれの高度成長を目指して飛び立つ。それは、彼らにとってモノづくりの経済成長が必要だからである。中にはテイクオフしない国もある。比喩的によく挙げられる話がある。「日本には優秀な政治家はいないが、優秀な門番がいる。アフリカの某国には優秀な大統領はいるが優秀な門番はいない。」だからアフリカの某国はテイクオフできない、経済成長することができないというのである。経済成長には偉大なリーダーも大統領もいらない。門番が自分の仕事をまっとうすればいいと言われる。在庫品を盗んだり、売り飛ばしたり、横流ししたりしないモラルを持ち、またきちんと出入り口をチェックし、泥棒に入られたりしないようにする。こういうことができる門番さえいれば、経済成長はできるのだという議論である。世界にはさまざまな国があり、門番が在庫品を失敬したり、賄賂をもらって商品を横流ししたりする事件は、枚挙にいとまがない。では、テイクオフするかしないか、その違いはなぜ起こるのか。私は、宗教の問題であると思っている。宗教革命を経験するか、宗教の洗礼をきちんと受けた国は、国民がモラルを持っているから、経済社会を形成し、それにきちんと適応できる能力を持っている。また、宗教革命は価格を一本化することによって、一物一価を社会に浸透させることができる。宗教革命を経験していない国は、モラルを育てることができなかったために、経済社会を成立させることができない。彼らは、またカネを一物一価できちんと捉えることができないために、経済社会を成長させることができないのである。私は、ある国の経済が発展していくためには、特定の価値を共有する集団の存在が不可欠であり、その中でモラルが育ち、カネの価値が認識され、モノづくり経済がテイクオフするのだと思っている。私に言わせれば、マルクス主義もキリスト教に対する宗教革命である。だからこそ、ロシアばかりでない、世界の人々をあれだけ魅了した。ところがそれはスターリニズム、反宗教革命を経て、崩壊への道をたどった。宗教革命と言ったとき、既成宗教のアンチテーゼで終わったのでは、永続する力は持ち得ない。トロツキズムはロシア・マルクス主義(スターリニズム)のアンチテーゼであって、両者を統合し発展させるジンテーゼはついに出し得なかった。日本はモノづくり経済のテイクオフを終え、次の新たな経済発展へ向けてテイクオフを試みる途上にある。その成功・不成功が「日経平均4000円時代」に課された大きな使命である。(その他省略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.04
戦後の高度経済成長に浮かれた日本人。その時に出来上がった常識は、世界から見て非常識なものばかりであった。今、何が世界の常識なのか?■なぜ日本は会社をチェックする機能がないのか■日本の長期デフレ化を「企業救済」と指摘するアメリカ■日本人は「100歩目の危険」が見えない■モノが先でカネが後、という経済音痴の日本の企業■債権整理は欧米では常識■収益還元法で正当に評価する企業が出ている■現在の恐慌の原因はすべて日銀にあり■世界の交渉現場では、日本は「刺身のツマ」になっている■もう原価法では資産をごまかすことはできない■中小企業は消費税アップでバタバタ潰れていく■上場企業とインサイダー情報(上記から一部抜粋)【中小企業は消費税アップでバタバタ潰れていく】政府は消費税を上げないと言っているが、その一方で消費税アップも致し方なしの世論づくりにせっせと励んでいる。昨年の年初に日本経団連会長・奥田碩が「2004年度から毎年1%ずつ税率を引き上げた場合、2014年度から先は、16%で据え置く」と発言。これに対して、政府は、「示唆に富んだ発言」「選択肢を限らず議論することが必要」などと、消費税増税を容認する答弁をしている。こうした政府の基本姿勢から見て、よほど支出を減らすことができない限り、消費税増税は、せざるを得ない状況になるだろう。すでに見たように、膨らむ財政赤字を国民貯蓄で穴埋めするにも限度がある。支出を思い切って削減するか、収入を増やすか、なんらかの抜本的改革が緊急務になっている。収入を増やす方法で最も安易な方法が消費税増税である。当然、消費税増税を年金の維持のためといって正当化するのは、まやかし以外の何ものでもない。年金財政が今後破綻することは、すでに明々白々になっている。今日の年金財政は、国民所得が今後も漸増していくことと、ピラミッド型の人口構成になって多数の若者が少数の老人を養うことを前提に組まれたものである。ところが、出生率の低下によって若年層が激減、今まで2,3人で1人の老人を養っていたのが、1人の若年労働者が4人の老人を養っていかなければならないという、とんでもないことになろうとしている。もし年金を消費税でカバーするとすれば、ヨーロッパの一部の国、たとえば、デンマークとスウェーデンの25%、ノルウェーの23%、フランスの19.6%のように、思い切った数字にしなければ焼け石に水である。要するに年金の問題に関していえば、考え方は逆であって、受給者への支払いを切り下げなければならないのである。特に団塊の世代が受給する頃になると、今の年金制度では完全にパンクする。また財政支出の大きな問題である役人の人数と給料を思い切って減らすこと。これができなければ、財政赤字の解消あるいは財政収支の均衡など達成できるわけはない。ここでいう役人の中には、中央・地方公務員、公社・公団や第三セクター従業員を含む。彼らの人数を削減し、給料を民間レベルにスライドさせる。これは今の情勢では、せざるを得ない。昨今、大問題化した大阪市の無駄遣いで、市バスの運ちゃんの年収が1300万円だそうだ。大手トラック企業の運ちゃんの平均年収が450万円だそうで、大阪市のバスの運ちゃんを馬鹿にする気はないのだが、彼らがトラックの運ちゃんの3倍の能力があるとは思えないのだが・・・。つまり財政の問題というと、財政赤字である、税収が不足している、だから税収をどうするか、消費税をアップしなければならないというふうに結びつけるが、大切なのは財政支出をどう削減するかである。したがって、どんな理由にせよ消費税を安易に上げるべきではない。もし消費税を10%に上げたら、消費はガクッと落ちる。それは欧米の例で分かっていることで、当然、デフレが促進し、恐慌の底打ちは早まる。政府は、この消費税でもっとすごいことを考え出した。消費税を毎月徴収しようというのである。これを実施に移したら、中小企業はバタバタとつぶれる。中小企業は、店頭で商品を現金で売る小売業は別として、普通は取引が成立しても、その時に現金を得ることはなく、2ヶ月後、3ヶ月後に現金あるいは手形で収入を得る。今までは収入を得ると、それに対して消費税を払っていたから資金を回転させることができた。ところが5%ずつ毎月先に取られたら、確実に運転資金に窮する。国税庁は実務を知らないから、こういうことを平気でしようとするのか、あるいは実務を知っていて、中小企業潰しを狙って、こういうことを実施しようとしているのか。いずれにせよ中小企業の死活問題になる。(その他省略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.03
2012~15年まで、日経平均の株価はじりじりと下がり続ける。この流れは、日本がどんなテコ入れをしようと動かしがたい事象となる。果たして、どのように4000円まで下落するのか?■不動産価格の矛盾が株価を10分の1まで下げる■バブル崩壊以降、自己浄化されていない日本経済■政治改革をすればするほど株価は下落する■公的資金注入によって日経平均4000円が加速する■「バブル崩壊から25年で大底」が長期デフレのシナリオ■現在のコンドラチェフの波は日本が作り出している■現在の長期デフレは1873年の恐慌および「松方デフレ」 と類似している■バブル時のストックインフレは簡単には吐き切れない■日本人の優柔不断さがデフレを長引かせている■日経平均4000円は下降・反発を繰り返し、 ゆっくり大底へ到達する■今や有名無実化している「日経平均225」■日経平均4000円のプロセスで 「2割の勝ち組、8割の負け組」の企業に分かれる■新興企業は沈没船から大海に泳ぎ出せるのか■国民も階層化する - 2割のマル金、8割のマルビへの二極文化(上記から一部抜粋)【新興企業は沈没船から大海に泳ぎ出せるのか?】日経平均4000円に至る過程で、強かった大企業が軒並み凋落し、今まで小さかった名もない会社がのし上がって、大会社になるという、下克上あるいは弱肉強食の世界が展開する。日経平均4000円の意味が、「不均衡の均衡化」である以上、こういう事態が生じるのは当たり前であって、景気が悪化し、デフレが進む中で、将来を見据え、健全な経営をしている企業のみが生き残る。バブルの余韻を引きずり、あるいは過去の成功の記憶から抜け出せない企業は、たとえ有名企業であれ大企業であれ、今の恐慌の荒波にのまれ、消えていくのである。たとえば、金融業では、衰退化していく銀行に対して商工ファンド(SFCG)がますます強くなるだろう。商工ファンドがなぜここまで伸びたかと言うと、まさにバブル崩壊後の金融界のあり方と表裏一体の関係にある。バブル崩壊後、不良債権をたっぷり抱えた銀行は、その処理のために資金を投入せざるを得ず、本来の業務である貸し付け業務において、いわゆる「貸し渋り」「貸しはがし」を頻繁に行うようになった。この状態が10数年続いた結果、そのしわ寄せは中小企業を襲った。資金の道を断たれ、運転資金に窮するようになった彼らを救ったのが商工ファンドだったのである。つまり、商工ファンドの成立、成長の背景には、明らかにバブル以降、銀行が業務をさぼり、無能を露呈したからという構造的要因がある。この事実を決して見逃してはならない。そういう目で見ると、商工ファンドの悪評も違った意味に受け取れる。貸金回収に関して、問題の本質は、むしろ彼らが銀行というトラの尾を踏んだことにある。もともと保証人ローンを中心に貸し付け業務を行ってきた商工ファンドが、土地担保も低利で受け入れるようになった時、銀行とバッティングし始めた。銀行にとって、これほど気に入らぬこと、存在を脅かされることはない。商工ファンド叩きは、決して正義から発したわけではない。要因には、明らかに敵対者の怒りがある。いずれにせよ、こうして金融業界は、要らない銀行とますます必要になってくる金融業者に二分され、一方が淘汰されるだろう。同様にさまざまな産業、業種の中で企業の入れ替わりが進んでいく。こういう新旧企業の入れ替えこそ、現在進んでいるデフレ不況の重要な意味である。1880年代に起こった「松方デフレ」が日本の自作農民層を小作人と寄生地主に分解し、産業革命を推進する基盤を形成したように、今日のデフレ・スパイラルは、一億総中流層と言われた日本社会を少数の上層と多数の下層に分解し、さらには経済のあり方を官僚型擬似市場経済から純然たる市場経済へ移行させようとしている。不均衡の均衡化は、現在も進行中である。この生みの苦しみ、長い陣痛の苦しみが現在であって、苦境に耐えられない者はふるい落とされていく。一方で新しい階層、新しい企業、次代を担うニューリーダーが次々に生まれてくる。今は危機をどこかで感じながら「戦艦大和」に乗り組んでいる人々も、「これはいよいよ危ない」となれば、沈没船からわれ先にと、ねずみが逃げ出すように大海に飛び出し、自力で泳ぎ出す。「日経平均4000円」は、日本の次代への画期なのである。彼らの耳元でマーケットのささやき声が聞こえる。「おまえら、もう、ぬるま湯につかっているわけにはいかないんだ。そのままそこにいたら、死を待つだけだぞ。さあ、そこから出て泳ぐんだ」と。それでも、沈没船と共に没し、海の藻くずとなる人々がたくさん出るだろう。しかし、冷たい水をものともせず、大海を泳ぎ切る人々もきっといるはずである。その中から、恐慌後の日本を支える新興企業主が登場するはずだ。激しいリシャッフルが、今の日本には必要である。既存の企業を蘇生させ、なまじっかな復興を果たすと、日本は芯まで腐ってしまう。戦国乱世から、あるいは幕末から次代を担う英傑が生まれたように、日本新生のためには激しいリシャッフルが必要であり、「日経平均4000円」という世界が、それを証明することになる。 (その他省略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.02
経済大国と言われる日本の資本は、市場に流通していない。これは日本の経済活性化を大きく妨げ、デフレを長期化させている。その原因とは何か?K(資本)の不均衡の概要◇銀行の経営システムの不均衡今まで銀行は政府の統制・保護のもとに守られた存在だった。システムはかつて配給制度によって存立していた米屋・酒屋と同じである。しかし金融自由化が高コスト体質に劇的な変革を迫り、淘汰・合併の嵐を起こしている。◇低金利政策の不均衡日本の金融政策はゼロパーセントという極端な低金利政策をとり続けてきた。本来低金利政策は企業が資金を借りやすくし、景気を回復させるために行う。ところが、潰れそうな銀行や瀕死のゼネコンの延命策にしかなっておらず、かえってデフレ・スパイラルを勢いづかせている。この不均衡は金利暴騰という形で解決せざるを得ない。◇銀行のバランスシートの不均衡銀行経営の健全性を示す国際指標として自己資本比率が用いられる。しかし日本の銀行のほとんどがバブルの後遺症である膨大な不良債権を抱え込み、繰り延べ税金資産によって自己資本比率を粉飾する、極めて「不健全」な状態にあることが分かってきた。日銀でさえ、基準値とされる8%を割り込む、極めて危機的な状況にある。◇マネタリーべースとマネーサプライの不均衡日銀が市場に放出するカネを増やしているのに、市中にカネが回らない状況がずっと続いている。市中銀行が「貸し渋り」を行い、その先にカネが流れていっていないのである。こういう不均衡が長続きするはずがない。金利の上昇が事態を暴カ的に改善する。◇国債と長期金利の不均衡金融機関は、抱え込んだ不良債権を処理するために、国債を大量に買い込んでいる。今、無理やり抑え込んできた長期金利が上昇の気配を見せ始めた。やがて5%近くに至るだろう。国債が暴落し、金融業界が壊滅的打撃を受ける日は遠くない。◇国民経済のバランスシート政府は1400兆円に達する財政赤字を国民貯蓄で相殺しようとしている。しかし国民貯蓄計算は基本的に原価法によっており、時価法では半分にしかならない。この不均衡は当然、日経平均に反映される。日経平均の実質価値も現在の半分、4000円程度にしかならない。◇「日経平均」の不均衡株価も無理に無理を重ねてかろうじて保っている数値に過ぎない。金利と株価はパラレルな関係にあり、金利が暴騰してゼロ近くから5%になると、株価は逆に5分の1程度まで暴落せざるを得ないだろう。つまり「日経平均4000円」が現実化する。(後略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.06.01
全30件 (30件中 1-30件目)
1