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1
日本人の労働力は世界に比べて異様とも言える高さである。果たして日本人の労働力は、それにふさわしい対価となっているのか?L(労働力)の不均衡の概要◇所得水準の国際的不均衡戦後の高度成長からバブル崩壊まで、日本人の所得は上がり続けた。今日なお平均的名目所得はアメリカ人の2倍、東南アジア人の5倍、中国人の10倍にも達する。実質的な労働対価を外れたこの異常な不均衡は、海外からの安い労働力、安い製品の奔流のような流入によって、現在の半分くらいのレベルへと平準化されるだろう。◇所得に対する住居費・教育費の不均衡マイホームを持ち、子供に大学教育を受けさせるために、生涯給与のほとんどを住居費・教育費につぎ込む異様な暮らしを強いられてきたことも、日本人の所得を押し上げてきた原因の一つである。ところが、マイホームの資産価値の目減り、リストラの嵐の中で生じた学歴価値の下落が、その不均衡を突き崩し始めた。◇官庁・公企業・銀行と一般企業の所得の不均衡日本人の所得を高止まりにしている大きな原因は、官庁・公企業・銀行の世界の実情を無視した高水準とそれにならおうとする私企業にある。それでも前者と後者には2~3倍もの開きがある。しかし、不景気がこの不均衡を是正し始めた。政府・地方自治体の統廃合、合理化策、銀行の合併・倒産「国有化」の頻発である。◇失業率と雇用・所得の不均衡日本は長く終身雇用を維持してきたこともあって、世界レベルから見ると非常に低い失業率を保ってきた。これが実は、極めて異常な不均衡を形成し、雇用促進の足かせとなり、所得高止まりの原因となっている。不況によるリストラ、安価な労働力の流入は、潜在失業者の頭在化をもうながし、日本の失業率を10%台に引き上げる。◇外国人労働者受け入れの不均衡従来、日本は、移民が増えると犯罪が増えるなどと言い募ることで、中国・東南アジアの労働者に対するバリアを不当に高くしてきた。しかし国際競争力をつけるためには、彼らの安価な労働力を利用せさるを得ず、また、今後は海外からの移民受け入れ要請に抗することはできないだろう。◇失業率と消費税の不均衡日本はヨーロッパに比べて消費税が低く、政府・自民党はしばしば、それを消費税増税論に採用する。ところが消費税と失業率には景気を介して、ほぼパラレルな関係があって、消費税を現状の倍の10%にすると、景気が低迷し、失業率も現状のほぼ倍の10%になる。(後略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.05.31
プロローグ 経済を動かすのはマーケットである日本経済の先行きについて、明るさが見えたという楽観論から、日本沈没ふうの悲観論まで議論百出の感がある。しかし、どれをとっても、私には的を射たものはなく、論理性に欠けるものばかりである。私の予想は極めて明解、かつ一貫した論理性に基づいたものである。結論から言えば、2012年から15年に「日経平均4000円」となって、日本の大不況は大底を打つというものである。「またとんでもないことを」と思う人も多いかもしれないが、我々マネタリストに言わせれば、この予測は、経済の自然な摂理にかなった極めてまっとうな解答である。そこでまず、マネタリストとしての私の基本的な考え方を明らかにしておきたい。経済というのは、人為的にいろいろ操作をして決まる世界ではなく、究極的には人為を離れた「自然な」マーケットが決めていく世界である。だから、あくまで人為的にやろうとすると、マーケットからしっぺ返しを受け、かえってロクな結果にならない。しかし、日本政府がこれまで行ってきた支配的な経済政策は、財政金融政策を掲げて、その指針によって物事に対処し、問題を解決するという、ケインズ経済学を基本にしたケインジアン的考え方に基づいたものだった。周知のとおり、マーケットの、いわばマネーの摂理に刃向かう形で経済を動かしてきたのが、日本なのである。ケインズ経済学は、1929年にアメリカで発生した世界恐慌からの復興をモデルに登場したものだが、日本で昭和恐慌に援用されて以降、いわば日本的人治主義と分かちがたく結びついて、政府・官僚が人為的に何かやれば、世の中がよくなる式の発想となって浸透してきた。私は、経済はそれでは改革されないという立場で世の中を見てきた。財政と税金に対する施策をなんとかすれば、経済は思うように動かせる、世の中がよくなるという考え方に対して、私は強いアンチテーゼを持っている。なぜならば、我々マネタリストが重視するのは「金融」だからである。金融は経済の動向を映す鏡であって、マーケットでこそ、経済活動の自由を阻む様々なことが解決され、経済の不均衡が均衡化される。したがって、私が掲げた「日経平均4000円になる!」という、一見、驚くべき予想も、経済の不均衡が金融市場によって調整されるという「自然な」過程で実現されるごく当たり前のことに過ぎない。問題は今、何が不均衡になっているのか、である。日本の場合、世界の常識を外れた経済政策が横行しているが、その結果として現れた大きな不均衡が2つある。それは、L(労働力)とK(資本)の不均衡であり、この2つが均衡化するときこそ、日本が「自然」のマーケットへ回帰する時だと思っている。その時が、2012年から15年に到来する「日経平均4000円」という時代である。日本の高い労働所得と、最近高くなってきたとは言え、まだまだ低い失業率、それにどう見ても異様なゼロパーセント金利の長期継続は、世界の常識から見てもとてつもなく異常である。経済社会というのは、それにふさわしい「自然失業率」と「自然金利」を持っていて、「自然」に即してコントロールしてやれば、経済はまともに推移していく。しかし、「自然」から乖離すると、必ず逆襲される。巻きすぎて切れかけたぜんまいが反転するように、いわば「自然」に戻らざるを得ない。つまり、不均衡が均衡化されるのである。私は、「バブル」以降続いている長いデフレ・スパイラルと、さらにその後にやってくる「日経平均4000円」の時こそ、まさにその時と見るのである。日経平均が4000円までいくと、日本経済はバランスを取り戻し、大底を打って再び上昇に転ずる。それが我々マネタリストのごく「自然な」予想である。ところで、ここで断っておかなければならないことがある。私が言う「不均衡」とは、あくまで「国内不均衡」のことである。これを「国際不均衡」ととらえて、アメリカの影響で日経平均の動きをとらえる経済評論家が多いが、私はその考えにはくみしない。さらに、為替の議論になると、特にその傾向は強い。日本は頑張ってきたがアメリカがおかしくなり、その影響を受けて日本はデフレ不況に陥った式の考え方をする。これは責任転嫁でしかない。日本こそ十分におかしい。そこに目を向けなければ問題は解決しない。したがって、これから私が述べる「不均衡」は基本的に国内不均衡のことである。すなわち、高度経済成長以来蓄積してきた誤った経済政策によって生じた諸矛盾、とりわけLとKに集約される不均衡のことであって、それこそが「日経平均4000円」へと導く元凶である。(後略) (『日経平均4000円時代が来る』大竹愼一著より)
2005.05.30
社員の第二の人生まで心を配る社長は「名社長」である。俸給生活者にとっては、定年は絶対に避けることができない大きなショックである。会社側とすれば、退職金とか年金を払えば、規定の上では済む。しかし、定年になった社員とその家族にはまだ生活がある。そして、今までとは全く違った条件の元での生活が始まるのだ。定年社員の第二の人生を考えてやることこそ、社長として大切なことであるに間違いない。定年社員の人生といえば、自営組や数少ない悠々自適組を除けば「再就職」である。この再就職について面倒をみてやることである。社員の第二の人生まで心を配る社長は、私の知る限り、全て「名社長」である。これは決して偶然ではなく、真剣に自らの事業に打ち込んでいる間に、自然に社員の第二の人生まで考えてやるようになるのではないか、と私には思われる。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より) 終わり
2005.05.29
ボンクラ息子ほど、七光を自分の能力と思い込む。社長という職業は、容易ならざるものである。単に厳しいだけではなく、「社員の生活を保証する」という、大きな社会的責任を負っている。だから、いかなることがあっても、潰してはならないものである。それだけに、社長たるものは、わが子を後継者にすることについては、単なる愛情や、息子の「既得権」とは考えずに、本当に会社を守り抜くことができる能力を持っているかどうかを見定めてもらいたいのである。親の七光で、息子を重役にすることはたやすい。しかし、息子にその能力がない時には、七光は表面だけで、本当に威力を発揮することはできないのである。救われないのは、ボンクラ息子ほど、自分の能力を知らず、七光を自分の能力と思い込んでいることである。 (一倉定の社長学 第7巻「社長の条件」より)
2005.05.28
経営者の座がいかに厳しく難しいものであるかは、社長である自分が一番良く知っているはずなのに、子供のことになると盲目になってしまう。多くの創業経営者は、徒手空拳、全くの無一文から、会社の今日を築き上げた人が多い。その苦労たるや経験した人でなければ分からない。それだけに、自分の息子にだけはこんな苦労はさせたくない、という気持ちになる。その親心から、つい息子に甘くなる。甘やかされた息子は、世の中を甘く見、生活の苦労を知らないだけに他人に対する思いやりも少ない。このような人は、社長として、最も不適格な部類に入る。その不適格者を、自分の後継者にするのだから、うまくいくはずがない。それを、盲愛から、学校を卒業すると自分の会社に入れて、数年のうちに、専務や副社長にする。いかに親の愛だろうと、本人に力量が備わっていないのだから困る。親の目の黒いうちはなんとかボロをださずにやっていけるかもしれない。しかし、親がいなくなったら、途端にボロをだすハメになる。 (一倉定の社長学 第7巻「社長の条件」より)
2005.05.27
奨励金制度なるものは、絶対に取り入れてはならない。奨励金制度なるものは、それがどのようなものであれ、事業経営においては絶対に取り入れてはならないということである。社員は、それぞれの考えをめぐらして、奨励金が最もたくさんとれると思われる行動をとる。各人の勝手な行動によって、会社の中はバラバラになってしまい、会社の力を一つに結集することなど思いも及ばなくなる。だからといって、これを規制しようとすれば、社員は「行動を規制されたら、もっと奨励金がもらえると思うことがあっても、それがやれなくなる」という受け取り方をするに決まっている。奨励金というものは、「各人は自分勝手な行動をとってもよい」という意思表示に他ならないのであり、これは、まさに経営権の放棄であり、いささかオーバーではあるが、それは社長の社会的責任を自覚しないことである。 (一倉定の社長学 第3巻「販売戦略・市場戦略」より)
2005.05.26
社長という人種は、社員に低い給料しか与えていないのに、社員の能力に過大な期待を持ちすぎるものである。「一人一人が経営者」私はこういう言葉は嫌いである。このようなことを社員に要求する方が間違っているからである。だから、こういう会社は、必ず業績不振である。いったい社員にいくらの給料を与えているのか、と問いたい。ロクな給料も出さずに、経営者の姿勢を要求するとは何事であるか。こういうのを搾取型社長という。社員にそんな給料を与えていないのなら、給料並みの仕事以上を望むのは明らかに間違っている。そのくせ、社長自身は、社長の仕事を何もやっていないものだ。 (「経営の思いがけないコツ」より)
2005.05.25
優れた社長は、部門業績の不振は自らの責任として反省し、業績向上を必死で考える。ボンクラ社長は、部門の長の責任として、これを責め、自らは必死で考えようとしない。「部門の業績は、その部門の長の責任である」という考え方は全くの誤りで、見当違いも甚だしい。というより、社長の責任回避以外の何ものでもない。優れた社長は、部門業績の不振は自らの責任として反省し、業績向上を必死で考える。ボンクラ社長は、部門の長の責任として、これを責め、自らは真剣に考えようとしない。考えてみて頂きたい。部門の長に自らの意志でいったい何が決められるというのだ。その部門の事業も、商品構成も、価格も、人的資源の数も、テリトリーも、そして事業方針自体、基本的に社長が決めているのだ。いや「自由にやらせているから」という人がいるかも知れないが、その自由とはすべてこのような枠組みの中での活動の自由なのだ。 (一倉定の社長学 第5巻「増収増益戦略」より)
2005.05.24
「若い」ということは抜擢をためらう理由ではなく、抜擢を決める理由である。実力は年齢とは関係ない。「まだ若い」というのは、経験が浅いという意味であることは分かるが、優秀な奴は1年の経験で、普通の人間の3年も5年もの経験、いや10年もの経験と同じことをチャンと学びとっているものだ。それでも人間的に錬りが足りないというかも知れないが、それを補って余りある若さと情熱と馬力があることを忘れないでもらいたいのである。若さの持つ強みを早く活かしてこそ、優秀な人間は、さらに精彩を放つものである。「若い」ということは抜擢をためらう理由ではなくて、抜擢を決める理由であることを忘れないでもらいたい。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.23
人材の下には人材が隠れていても育たない。人材は、優秀なるが故にその部門をすべてうまく切り廻す。それはそれで結構だが、だからといって、便宜主義でいつまでも一つの部門に止めておくと、その人材のみならず、その人材が上にいるために、あたら伸びるべき新人の芽まで摘んでしまうという二重の損害を、これまた誰も知らぬ間に受けてしまうことになるのである。人材の下には人材が隠れていても育たないことを知るべきである。さあ、こうなったら、もう社長は人事異動をためらうべきではない。異動当座の僅かな仕事の停滞など恐れてはいけない。「一文惜しみの百文失い」にならぬよう、人事異動を行うべきである。異動のための障害や制約条件などは、決意さえあれば、どうにでもなるものだ。躊躇せずに踏み切るべきである。適性がどうだとか、経験がどうだとか、あとが困るとかいっていたら、何もできない。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.22
社長が社内にいる限り、管理職は育たない。社長が会社の中にいるということは、いかに管理職を信頼していないかを、言外に示しているものである。ちょっとでも社長の意にそわないことをしようものなら、「なぜ社長の了解なしにやったのか」と言われるに決まっている。だから、社長にお伺いをたてる。この方が楽だし、責任を追及されないからである。こんな状態で管理職が育つはずがない。「いつまでたっても世話をやかせる」「うちにはどうして人材が育たないのか」という社長の悩みは、社長自身がその原因なのである。社長が社内にいる限り、人材は育たない。 (一倉定の社長学 第9巻「新・社長の姿勢」より)
2005.05.21
社長は、無理を承知で社員に頼め。社員というものは、何か命ぜられると、二言目には「できません」と言う人種である。これに負けたら、企業間競争に負けるのだ。あくまでも要求し続けなければならないのである。この時に、気をつけなければならないのは、「できません」と言われた時に「そんなことはない、できる筈だ」と言ってはならないということである。できるかできないかは主観の問題であって、勝負は絶対につかない。社員は「できない」と思っているのに、「できる筈だ」と言っても始まらないのである。社員が「できない」というのは、実は責任逃れの伏線なのである。つまり、社長に命ぜられたことがもしできなかった時に、「だから、あの時できないと申し上げた筈です」と言うためである。だから初めての時には「できるかできないか、やってみなければ分からないではないか」という説得が肝要である。もしも、以前に試してみてできなかったことをやらせる時には「もう一度新しい工夫をしてみよ」と言ってやらせるのである。もう一つ、社員が社長の指令をはねつける伝家の宝刀がある。それは「無理ですよ」という言葉である。これに対して「無理ではない」と言うのは、明らかに社長の負けである。無理か無理ではないかは、完全な水かけ論であって、決着は絶対につかないからである。社員は、伝家の宝刀を引き抜いて身構えているのだから、まずこの宝刀を叩き落とさなければならない。これは意外と簡単である。「そうだ、無理だと思う」と言えばよい。社員の主張を社長が認めてしまえば、社員はもう何も言うことがなくなる。宝刀を叩き落としたら、こちらから切り込むのである。「無理を承知で頼むのだ。やってくれ」と。これで完全に社長の勝ちである。社長に無理を承知で頼まれたら、もう何も言わずにやってみる外はないのだ。社員が「無理ですよ」と言うのは、これまた、できなかった時の予防線なのである。それを「無理ではない」と言えば、これは「できて当たり前、できなければボンクラだ」と言っているのに等しいのである。これでは、社員はたまったものではない。「無理だ」という主張を変える筈がない。「無理だ」と社長が認める時には、できなくて当たり前、できたら手柄になるのである。ここのところの「理屈」というよりは「心理」というものを知っていることが大切なのである。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.20
口頭による指令は忘れられ、文章による指令は守られる。口頭というのは、もともとあやふやなものである。そのあやふやな口頭で社長の大切な指令が出されるというのは、一体どういうことなのだろうか?社長自身が、口頭の指令ではそれが的確に実施されないことをイヤというほど思い知らされているのに、それを改めないというのは、「社長の指令は的確に行われなくてもよい」と、社長自身で思っているからだ、と皮肉りたくもなるのである。本当のところ「口頭指令は独り言にしか過ぎない」ことを知ってもらいたいのである。私は声を大にして「指令メモ」を書くように社長にお勧めするのである。メモを書くことなど簡単なものなら数秒で済むし、1分以上かかることなど減多にない。社長が自らの指令を的確に行わせるためには、「指令は絶対に書いて行う」ことをやらなければならないのである。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.19
仕事の管理は、高度な管理やキメの細かい管理ではなくて、「最小限管理」が正しい。管理とは、会社の内部の繰り返し仕事だけを対象にしたものである。仕事というものは事業経営に必要であっても、事業経営ではない。管理というものは、仕事を円滑に運ぶためには役に立つけれども、その半面に必ず「費用」を生む。費用を上回るなんらかの成果が上がって、はじめて「管理」は意味がある。事業経営の要請からすれば、できれば「仕事の管理」は、しないで済ませたいのだ。管理費がかからないからである。しかし、現実の問題として、管理しないためのロスが発生するので、ロスの減少より少ない費用で管理できる場合に限って、管理した方が有利なのである。当然のこととして、高度な管理や、キメの細かい管理ではなくて「最小限管理」でなければならない。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.18
「責任範囲の明確化」自体が、無責任社員をつくりだす。組織論者は、責任の範囲を明らかにしないから、仕事がうまく行われないのだと思いこんでいる。これは全くの見当違いであって、責任の範囲を明確にすると「それ以外のことには責任がない」ととるのが人間というものなのだ。他の部門がいくら忙しくとも、他人の仕事がいくら忙しくとも、それは、「自分の責任の範囲外のことである」として、「我関せず」ということになってしまうのである。こうして人々は自分の部門のこと、自分の仕事だけしか考えなくなり、会社の業績をあげようという意識などなくなってしまう。ましてや「お客様にサービスをする」という企業本来の役割を果たすことなど考えてもみなくなってしまう。会社の業績を落とし、人々の魂を腐らせてゆくという、大きな罪悪を犯すものが「責任範囲明確化論」なのである。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.17
企業内に良好な人間関係が維持されているということは、革新が行われていない実証である。企業は外部の変化に合わせて、常に自らを変えてゆかなければ生きていけない。絶えず自らを変えるということは、生やさしいことではない。これを行うときには、必ずといってよい程、内部の抵抗があり、摩擦が発生するのである。摩擦が無いような内部の変更は革新ではない。これから成果の増大を期待することなどできない相談である。優れた革新ほど批判や摩擦が多く、人々を苦しませるものなのだ。逆説的にこれを言うならば、企業体内に良好な人間関係が維持されているということは、その企業体において革新が行われていない実証である。ということは、生き残るための死にもの狂いの努力がないことであり、企業が倒産に向かって、バク進している姿そのものなのである。 (一倉定の社長学 第7巻「社長の条件」より)
2005.05.16
良い組織とは、優れた顧客サービスができ、競合他社と戦って勝てる組織である。良い組織を定義付けてみると、それは「優れた業績をあげられる組織」という他にはない。そして優れた業績をあげられる組織の実体は2つしかない。優れた顧客サービスができる組織と、競合他社と戦って勝てる組織である。正しい組織原理の根幹をなすものは、「変化に対応する」企業の特性を踏まえたものであることは、言うまでもない。しかもそれは企業の二面性 -1つは「顧客の要求を満たす」という、企業本来の任務を果たすための「サービス集団」であり、もう1つは競合他社と戦って勝たなくてはならないという、生き残るための「戦闘集団」という2つの面を兼ね備えていなければならないのだ。組織の長である社長は、この二面性を踏まえた上で組織を指導し、運営していかなければならない。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.15
組織というものは、いったん出来上がると、奉仕すべき対象よりも、組織それ自体の存続の方が常に優先する、という危険をはらんでいる。組織というものは、いったんこれが生まれると、「組織自体の存続」のみが最重要な命題となってしまう、という恐ろしいものなのである。組織を存続させるための最重要条件は、「変化を阻止する」ということである。変化は常に組織のピンチを意味し、指導者失脚の危険を伴うからである。組織の暴威は、会社の業績を低下させることなど朝飯前、会社を潰しかねない危険極まりないものなのである。企業体はお客様がなければ、それ自体が存在しない。お客様の要求に応えなければ、企業は潰れてしまう。そして、お客様の要求は常に変わり続ける。変わり続けるお客様の要求に応えるためには、企業体自身もこれに合わせて変わり続けなければならないのである。我々は「変化に対応できる」全く新しい組織理論を持たなければならない。 (一倉定の社長学 第6巻「内部体勢の確立」より)
2005.05.14
「世の中になくてもよいもの」は、高収益を期待できることを知れ。世の中になくてもよいものは、顧客が値段のことをあまり言わない。本人の好みに合ったものならば、値段は二の次だからである。おまけに、こうした商品はマーケットがあまり大きくない。そのために、人々の注目をひかない。多くの人々は、「たくさん売れるもの」に魅力を感じる。単純に、「市場が大きい」というだけで、たくさん売れ、儲けも大きいと思い込むらしい。沢山の人が手を出し、過当競争に陥り、低収益に泣くことになるのである。高級品・贅沢品になると収益性も良くなるし、過当競争も緩和されてくるものだ。だから、中小企業の狙いは常に高級品・贅沢品にある、というのが私の年来の主張である。大企業とは競合せず、他の中小企業もあまり目を向けず、高収益を得られる結構な事業こそ、「世の中になくてもよいもの」なのである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.13
新たな収益をあげる最も早く、確実な道は、今ある商品の欠陥を見つけ出し、これを直すところにある。新商品開発といっても、その狙いは新商品そのものにあるのではなくて、そこから得られる新たな収益が狙いである。新たな収益をあげる最も早く、確実な道は、今ある商品の欠陥を見つけ出し、これを直すところにあるのだ。いたずらにアイデアだオリジナルだと格好良いことを考える前に、じっくりと現在の商品の改良に取り組むべきである。今ある商品の欠陥を見つけ出す最良の道は、社長自らが外に出て、流通業者、エンドユーザー、消費者の要求や意見、不満に耳を傾けることである。そこには、思いもかけなかったような欠陥が見つかるものである。見つけ出した欠陥を、わが社の責任と感じて、これを直す。この基本的態度こそ、社長に最も必要なもののひとつなのである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.12
一切のコストを無視して、まず完壁な試作品を作れ。はじめからコストを考えると、優れた新商品はできない。試作品ではまずコストを考えずに、考えられる最高の品質を追求するのが正しい態度である。そして期待した品質が得られた後に、今度はコスト低減に取り組む。そのコスト低減も、あくまでも「品質を落とさない」ということを大前提にしなければいけない。それは可能なのだ。世の中に次々と出てくる商品の品質をみると、欠陥の多いのに驚かずにはいられない。その根本原因は品質マインドの不足であり、それに拍車をかけるものが、ほかならぬ「安価でなければ売れない」という「コスト病」である。コストのためには、平気で品質や性能を無視する。商品というものは、お客様の要求を満たすために存在するのだ。「安かろう悪かろう」では、やがてお客様から見放されてしまうのである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.11
新商品・新事業の開発は、「易より難に入る」の原則に従って考えるのが得策である。新商品・新事業開発を、やさしい順序にあげていくと、1.現在の市場に新商品を投入する。2.現在の商品をひっさげて新市場に進出する。3.新商品を開発して新市場に乗り出す。ということになる。1の場合の新商品とは、必ずしも新規開発商品でなくてもよい。すでに世の中にあって、まだわが社が取り扱っていない商品でもよいのだ。この場合気をつけなければならないのは、お客様の要求のどの部分を満たすのか、ということである。あれもこれもと中途半端な商品構成となってしまうからだ。2の新たな努力は、販売だけである。しかし、他業界に進出する時に「これまでの業界の占有率を下げない」ということを絶対に忘れないことだ。3は非常に難しい。何もかも新しずくめだからだ。初めのうちは小規模に行い、3年は収益を二の次にして勉強する覚悟が必要である。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.10
未来事業部門は独立させ、社長直轄とせよ。未来事業は、それが新商品の開発であれ、販売促進であれ、マーケットの開拓であれ、現事業と完全に分離しなければならないのである。現事業と未来事業を兼任させるくらいなら、むしろ未来事業などという綺麗事はやめた方がよい。形だけ作っても、実質的には何もないのと同じだからである。人がいないというなら、社長自ら取り組むべきである。それができないなら、専任者をおくということになるのだ。次に、未来事業部門は必ず社長直轄でなければならない。専任者を、技術部長などのもとにつけるようなことをしてはならない。現事業の兼任と同じことだからである。もし未来事業部門を社長直轄としなければ、わが社の将来の運命を決める未来事業を社長自らやらない、ということになる。こんな大きな誤りはない。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.09
単品では事業になりにくい。私のところに新商品の相談に来る会社のほとんどすべてが、単品だけをひっさげてくる。しかも、その大部分が日用品雑貨類である。単品だけを考えるのは、事業を知らないからだ。単品だけですぐに商売になると思い込んでしまい、まずチラシを作って特約店を募集しようとする。特約店は直ちに見つかり、たちまち売上が伸びると思い込んでしまう。そして、その夢は実現しない場合がほとんどなのだ。新しいマーケットにいきなり単品で乗り出しても、おいそれと売れるものではない。仮に販売が成功したとしても、販売費が割高になって、採算を維持することは極めて難しい。もう一つの欠陥は「陳腐化」である。もしも陳腐化したら、それで終わりである。新商品を事業化するには、単品ではなくて、どうしても「商品群」の開発を考えなければならないのである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.08
自分の性格に合わない事業には、手を出さない方が無難である。新事業といっても業態が大きく違ったり、技術的に未知なものにいきなり飛び込んだり、社長の性格に合わなかったりすると、どうもうまくいかないケースが多い。人間というものは、急に大きな意識革命をしようとしても、なかなか一気にはできない動物らしい。過去の経験や考え方が障害になってしまうのである。性格も急には変えるわけにいかない。とするならば、そのような大きな意識改革を要するものや性格に合わない事業には手を出さない方が無難である。何も自ら苦手の分野に乗り込んで苦労することはない。自らの企業の特質を生かす事業、自らの性格に合った事業を見つけるべきである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.07
新商品は、まず少量で試売してみよ。大量に作るのは、売れると分かってからで遅くない。新商品というものは、最初の発売時には、少量作るものである。無論たくさん作るよりはコストが高いが、本当に売れる商品かどうかは分からないのであるから、まず第一には売れなかった時の損害を最小限に留めることを考えるのである。そのためにはまず、少量を作って、売れるかどうかをテストし、売れなかったら捨てるのである。売れると分かったら、次から大量に作ればよいのであって、その場合に、最初のロットのコスト高など、天下の大勢に全く関係はないのだ。最初の試売は、まず少量作り、このうちの半分とか3分の1とかをバラまき、あとはストックしておく、売れたなら、返り注文があるから、これはストックの出荷で時をかせぎ、その間に作ればよい。こうすれば、お客様に迷惑がかからない。これが事業経営の知恵なのである。 (一倉定の社長学 第9巻「新・社長の姿勢」より)
2005.05.06
新商品は、「それを誰が買うか」を一番先に考えよ。新商品は、「それを誰が買うか」を一番先に考える。顧客と思われるところに現物見本を持っていき、売れるかどうかを確かめてから、新設備なり新会社なりをたてるのであって、まだ売れるか売れないかも分かりもしないうちから、製造することを考えてはいけないのである。新事業・新商品の難事中の難事は「販売」である。今まで世の中になかった商品は、市場がない。消費者やエンド・ユーザーは、その商品のあることを知らない、販売実績のない商品は流通業者は扱いたがらない、という全くゼロの状態から出発しなければならない。だから不用意に走り出すことは、絶対に慎まなければならないのである。そして、早急に成果を期待せず、長期的な育成を図ることが肝心である。これが成功へ導く秘訣である。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.05
「危険がない」と感じた事業こそ、失敗の危険が大きい。ブームというのは、供給過剰の直前の状態だと思うべきである。その時に乗り出しても、すでに時機を失している。だから、ブームになったものは、いくら食指が動いても、絶対に乗り出してはいけない。特に大企業が乗り出した時は、供給過剰が間違いなく起こると思ってよい。新事業のタイミングというものは、まだブームにならず、先行きがどうなるか見通しの難しい時にあるのだ、ということを知らなければならない。そして、その時には失敗の危険も多いのである。危険がないと思われる時は、すでに時機を失しているのだ。「危険がない」と感じた事業こそ、失敗の危険が大きいのである。「成否相半ばする」と感じた時が、「失敗の危険の少ない最後の時機」というべきである。新事業を興すタイミングは難しい。その難しいことを決めるのが社長である。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.04
社員に任せても良いような新事業は、はじめから「わが社の将来の収益」など期待できない。新事業というものは、第一に、社長自ら身を挺してやるものだ。世の中の社長の中には、新事業に自らは携わろうとせず、他人任せにする人がかなりいる。難しい新事業は他人に任せ、自らは永年手慣れた事業の方をみている。やさしい方を自分がやり、難しい方を他人に任せるとは、いったい、どういう了見なのだろうか?成功など夢のまた夢である。社員に任せても良いような新事業は、はじめから「わが社の将来の収益」など期待できない。新商品・新事業の成否は、そのまま企業の将来の運命に直結する。社長の役割が企業の未来を作ることにある限り、社長自ら新事業に取り組み、総指揮をとるのが当たり前である。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.03
社長とは、企業の将来に手を打つ人である。新事業というものは、それが軌道に乗って、わが社の収益の柱になるには、少なくとも3年はかかると思わなければならない。ということは、3年後のことを今日から始めなければ間に合わない、ということを意味しているのだ。私が会社のお手伝いをして、まず短期経営計画を社長と共に作りあげると、そこには大きな収益不足を生ずるのが常だ。その収益を売上高に直すと、その大きさに、たいがいの社長がびっくりしてしまうのである。ということは、社長が如何にわが社の将来(それもたった1年後のことである)を知らないか、ということを意味している。前向きに物を考え、前向きの手を打つ、これが社長の仕事である。社長とは、企業の将来に関することをやる人である。そして、それは社長以外には誰もやってはくれないことなのである。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.02
どんな優れた商品でも、斜陽化してゆくことは避げられない。どんな優れた商品でも、斜陽化してゆくことは避けられない、という社長の認識こそ大切である。この認識の上に立って、わが社の将来を考えなければならないのが社長である。商品が斜陽化してゆく限り、わが社の現在の商品が、わが社の将来の収益を保証することはできないのである。とするならば、わが社の将来の収益を得るための商品を、まだ現在の商品の収益力があるうちに開発しておかなければならない。社長たるものは、現在の好調に酔うことなく、絶えずわが社の商品、事業をチェックし、長期的な視野から、どうすべきかを考えていなければならない。 (一倉定の社長学 第4巻「新事業・新商品開発」より)
2005.05.01
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