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思想あるいは思考が立ち昇る これを聴いていると、やはり音楽はかなり意識して、「観る」ものだなと思ってしまう。何も尺八にかぎらず、琵琶だのヴァイオリンだのピアノとかの、いわゆる「名手たちの演奏」というのには、一種舞踊的な様式美みたいなのがあって、たんに耳で聴くのとは別の響きがあるのではないか(何も振りが大きいのがいいと言っているわけじゃないですよ。ときどき嫌味のような振りで演奏するミュージシャンもポップに限らずいて、これでは逆に聴くのを大いに阻害されてしまいます)。 「産安」という表題は、創造の困難と孤独を、妊婦さんの生みの苦しみに仮託したものとも言われますが、何しろ古典本曲というのは江戸時代以来の伝承音楽なので、いろいろいわくありげな物語が、あとからくっついたようなのが多い。先に取り上げた「鶴の巣籠」も、いかにも鶴の鳴き声を連想させる響きがあるし、有名な「鹿の遠音」という本曲も、琴古流などだと鹿の求愛を模したような奏法が現れる。 しかし、かといってそれらの音楽が、ズバリ「鶴」とか「鹿」を表現しているのかと言えば、もちろんそんなことはない。それらは表現の起点ではあっても、それらが伝えようとするところは、もっとはるか彼方、司馬さん流に言えば、坂の上の雲のように仰ぎ見て、それをつかもうとして追っかけても、ついに届かない(届きようのない)彼岸のようなものを指し示そうとするのです。 蛇足かもしれませんが、起点が「鶴」だの「鹿」だのというのは、それら生き物が人の歌心を刺激するから取り上げられるわけで、早い話「猿の遠音」とか「熊の巣籠」ではやはり具合が悪いでしょう。マーラーが「大地の歌」で猿の鳴き声を取り入れましたが、それは猿の叫喚が十九世紀末ウィーンのデカダンな雰囲気を表すのにピッタリだったからで、たんなるエキゾチシズムで取り入れたわけではありません。 現代芸術は音楽にかぎらず、多かれ少なかれ前時代の素材では、新鮮な美の起点が見出せず、いろいろ変わったものが登場する時代なので、例えば便器を逆さまに置いたオブジェが出て来たりもする。こうなると歴史的経緯は分かっていても、こちらの賞味力が相当タフでないと、到底ついていけないという仕儀となります。 一時風靡した「前衛音楽」が、今どき全く顧みられなくなったのは、受け手側の賞玩力がついていけなくなったというのもあるかもしれないけれど、何よりも作り手側の「絵心」「歌心」の減衰が、今の景況を招いているのではないか?武満が晩年、前衛から調性音楽へ移行したのは、何やら示唆的ですね。 ところでこの横山勝也という人、その自己に厳しくストイックな求道性は、学生時代の私にとってほとんど偶像でしたが、同時に「これは、とてもかなわんわい」という存在でもありました。この場合の「かなわん」とは、こうした求道性に深入りした場合の危険と覚悟は、とても自分には持てないという意味です。私の友人知人にも、何人か高い志を目指した人がいましたが、なかなか苦労されてるようですね。 私は幸か不幸か、前にも言いましたが、ごく初めに自身の分というものを、痛いほどを知らされてしまったので、ただただこういう人たちを遠くから、ひそかに眺めることになってしまいました。 これは個人的な好みですが、私はどちらかというと、華やかで明朗な音色の都山流よりも、いささか枯淡な感触のする琴古流が好きで、なかでも青木静夫の枯れた中にも、洗練されたキレを交えた演奏のファンでした。それが横山勝也の普化宗系尺八とはまた違った形で、西欧楽器のどれともなじまない、独自の音色と奏法を持っていると思ったからです。この人の動画で奥州薩慈(おうしゅうさし)を聴いてみてください。 民謡らしいモティーフを基にしながら、虚無僧的な求心性よりも、どことなく乾いた都会的な洒脱を私など感じてしまう。 最近は洋楽器のようにスタイリッシュな演奏を聴かせる、注目すべき若い尺八ミュージシャンたちも現れているようですが、その多様な試みと一般への普及の努力は認めつつ、果たしてそれでいいのかという不安もよぎります。これらの人たちのテクニックと音色は特筆もので、なんだか和洋の音色にずうっと囚われている、こっちがバカみたいに思えてくる。とはいえ、そうした若い一群から寄田さんのような才能が生まれてきたのですから、すそ野が広がっていくのは、やはり良いことなのでしょう。 その寄田さんの演奏で、古典本曲「鹿の遠音」を聴いてみてください。 先にインテルメッツォ101.で取り上げた「鶴の巣籠」と並ぶ古典本曲の代表で、意のある尺八吹きなら一度は挑戦したいと思う曲でしょう。寄田さんの演奏は例によって、古伝その他のあらゆる技法を駆使しつつも、過度に求心的にならない。サラリとは言わないけれど、破裂やムラ息の後に残る弱音を際立たせるために、これらは駆使されているのではないか、という気さえしてしまいました。 したがって、本曲尺八を聴いたあとの「疲れた感」が全然しないというか、むしろ何度でも聴き返したいという清々しい気分にさせられるのです。これって、なかなか大事なことなのではないかしらん。「それが、それぞれの持ち味というもんだろう」という声が聞こえてきそうですが、私は多分そういうカテゴリーを踏み越えた「何物か」なんだろうという気が、これはする。 昔、T.S.エリオットというアメリカ生まれの英国詩人が、詩を読むことを「思想をバラのように嗅ぐ」という言い方をしましたが、横山、青木、寄田とこの三人の演奏からは、言葉からではない、しかし確固と自立した「思想あるいは思考が立ち昇っている」のです。
2020.07.27
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音楽を観る このイギリスの名手S・ラトルと、名門ベルリンフィルの演奏などを聴いていると、音楽が紡ぎ出されてくる瞬間は、やはりしかと「観ておきたい」という欲求にかられます。世界中の超一流の才能が集ったようなこのオーケストラ、当然かなりうるさ型の審美眼や主張をさまざま持っている集団が、ここ一番で集中する気迫、聴き手に何かを必ず届けたいという強い気概には、息を飲みますね。 コンサートマスターの樫本大進さん、指揮者とオーケストラのつなぎ役として大奮闘ですが、これくらいのオケになると、まとめようとか指揮者の意図を伝えようとかのレベルじゃなくて、各楽員の「歌心」を何とか極限まで引き出そう、という一点に注力しているように見える。それも各員バラバラの「歌心」じゃなくて、指揮者と同じビジョンを共有するような仕方で。 それらが時に幸福に一致するとき、そこから立ち昇る音楽は、指揮者の意図からも、名手たちの奏でる楽器からも解き放たれて、何やら別のところから包み込むように響き渡っているように見える。私は思うのですよ、そうした瞬間には、じつは音楽は聴き手も含めた、会場全体が作り出しているのではないか、と。 しわぶき一つ許されないクラシックコンサートですが、音楽が本当に聴き手に届いたとき、音楽は指揮者やオーケストラの手を離れ、ある意味自然物のように勝手に動き出す。それはあるいは先の見えない、ひょっとして不安もともなう進行であるかもしれないけれど、同時にかぎりなく「心地好い」瞬間でもあるのです。 なんだか禅問答のような意味不明の話になってしまいましたが、「音楽は、どこに本当にあると言えるのか?」という例の命題を考えたとき、私には上のような想念がよぎってしまう。カラヤン以前のいわば全権委任型の音楽じゃなく、オケも聴衆も一緒に音楽を作り上げようとするのが、今どきの流れではないかしらん。 だから!と言い張るわけじゃないですが、演奏家はやっぱり顔を出すべきだと思いますよ。ラトルや樫本さんの表情や身振りを観ることによって、私たちは音の紡ぎ出される瞬間に立ち会うことができる。時に苦悶の表情であったり、喜びや憂いを含んだものであっても、それはいわば「集中」がなせる業なのであって、一流アスリートたちが本番で見せる厳しい表情と一緒でしょう。私たちはそれらを「美しい」と感じるはずです。 それにしても、ベルリンフィルというのは、各楽員の表情や振りが大きいのが印象に残る。ザアとらしい歌舞伎みたいな見栄は、イヤミったらしくてゴメンですが、それぞれが集中し、なおかつ全体として驚くほどシンクロしているというのは、かつて指揮者以外、だれ一人微動だにしなかった、お堅いクラシックオーケストラの演奏を見慣れた者には、ずいぶん新鮮に映ったものでした。 樫本さんの身振りや表情は、ときに楽員に向かってではなく、なんだかもっと遠いところに向かっているようにさえ見える、「音楽のミューズよ、ここに降りて来い!」みたいな。 私が意識して「音楽を観る」ようになったのは、先にも触れた高校の時、武満徹「ノヴェンバーステップス 」の横山勝也、鶴田錦史の尺八と琵琶の協奏を聴いてからです。この曲のカデンツァ部分、さながら二人は剣士の立ち合いのごとく、命がけで音を生み出しているかのようです。横山勝也と言えば、普化尺八直流と言われる海童道祖(わだつみどうそ)のただ一人の弟子で、その求道的な姿勢には、ある意味、私たちが抱く音楽という通念を超える部分がありますね。 それもそのはず、普化宗とは鎌倉禅仏教の一派で、経典を持たず、尺八を奏することによってのみ、悟りに至ろうという教義を持つ(いわゆる虚無僧尺八)ので、尺八は楽器ではなく法具なのです。法具(仏具)であるなら、これを改変改造するなどということはあり得ない、という仕儀になるのでしょう。かの楽器が古体のままの姿を残しているというのには、しかるべき理由があったのでした。 私は鶴田錦糸と横山勝也の協奏で、武満のもう一つの邦楽曲「エクリプス(蝕)」という曲を、実演で一回だけ聴いたことがありますが、残念、この二人の演奏風景の入った動画が見当たりません。先ほど剣士の立ち回りなどと言いましたが、見ようによってはバレエのデュエットのような優雅さも、そこから感じたものでした。 横山勝也の代表的な演奏と言えば、どうしても古典本曲ということになってしまいますが、貴重な動画があったので、音も画像も今一つですが聴いてみてください。「産安 」。
2020.07.19
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ワインヤード ところで、岩内さんの動画の中で、すっかり面食らってしまったのがありました。これまた自作自演で、「水琴の庭」という曲です。先に挙げた「セレナーデ」と似た小品なのですが、聴いていて皆さんどう思われます?画像が京都妙心寺の庭で占められていて、演奏場面が一つも出て来ない。で、聴いているうちに「これ、ホンマにエレクトーンかいな?」と思わせる響きが現れてビックリさせられる。だって弦楽器特有の雑味を帯びた擦過音まで、確かに聞こえて来るじゃないですか。 しかし、そこで首をひねらずに聴き続けていると、そのミニマルな反復に誘われるように、そんなことはどうでもいいような気がしてくる、という仕掛けになっているのです。演奏場面を隠してあるのは、要はここでは「音の響きだけを堪能してね。」という意味なのではないか。 話が飛びますが、先にインテルメッツォ101.で取り上げた「古伝 鶴の巣籠」の動画では、演奏動画と鶴の写真が交互に出て来ますが、奏者の寄田さんによると、これは「秘伝、秘儀に属する部分は、公開が許されてない」との由。まあいろいろあるのでしょうが、私はこうした秘密主義というか、日本の伝承法によくある「秘匿癖」というのは、あまり好きではありません。かといって、なんでも「見える化」というのも、政治の話じゃあるまいし、賛成はしないけれども。 岩内さんのは、もちろんそんな秘術めいた理由でそうしているのじゃなくて、「ことさらにエレクトーンを意識しないで、これは聴いてください」ということでしょう(想像ですよ)。とはいえ、インスタ映えじゃないですけど、強力な美しい画像はややもすると、かんじんの耳への集中が阻害される、ということもあるのではないか? ここ最近、とくに明らかになって来たのは、一枚の画像は、一編の音楽や原稿用紙十枚百枚の文章なんかより、はるかに優先的に人の脳髄に入り込みやすいらしい(したがって、私のこんなおしゃべりなんか、それこそケシ粒みたいなもんだ、ということになってしまうのですが、まあそれは横に置いといて)。 かつて、デカいオーディオセットと、にらめっこするような仕方でLPを聴くというのが、音楽鑑賞(!?)のスタイルだった私にとっては、こうした画像というのは雑念雑味に属するもので、はなはだ耳で「聴く」という行為をそがれるような気がするのですが、皆さんはいかが? しかし、沈思黙考して渋面顔で音楽を聴くというのも、何やら今どきふうでないというか、あんまりスタイリッシュな感じがしません。いつぞや、私はLPから急速にライブに趣向が変わって行ったという話をしましたが、その理由として「いつでもどこでも聞ける」CDより、理屈上「一回限りで、二度と再現できない(帰ってこない)」ライブのほうが、音楽の有りようとしては、その本質に近いんじゃないか?音楽が本質的に時間の芸術であるとすれば、これは当然の帰結ということになるでしょう。 しかし私は、ライブの魅力には、この「一回限り」という時間性の中に「だからこそ、しっかり見ておきたい」という願望も含まれていることに気付くのです。だからライブは、パンクのように何でもカラフルにやれ、という意味ではありません。しわぶきも身動きも原則御法度のクラシック演奏会だって、それはただたんに音楽を「聴きに行く」のじゃなくて、より積極的に「見に行く」ものなんだと思う。一回限りの演奏を「五感全体で堪能」しようとするなら、会場に行くしかないのではないか? このあたり、「音楽を聴くこと」におけるビジュアルな位置づけというのを、最初に大いに意識したのはやはりカラヤンだと思いますが、彼の場合自意識が強すぎて、誤解も生むことにもなりました。しかし彼が主導したワインヤード型の新会場ベルリンフィルハーモニーホールは、その後のクラシックオーケストラ演奏会場の一つのひな型となりましたね。このあたかもブドウ畑のように、観客がオーケストラと指揮者を取り囲む会場配置は、音楽を「聴く」から「体感する」ものとして、明確な形を与えたと言っていいでしょう。 ちょっと話に疲れました。その会場での演奏を聴いてみましょう。マーラー交響曲第五番から「アダージェット 」。
2020.07.18
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岩内沙織 一聴して気づかれると思いますが、アナログ音の再現性という点では驚くばかりであるにしても、「で、それでどうした?」という感じがしないでもない。まあ、これがデモ用というせいもあるのでしょうが、この場合、自然音の忠実な再現性というのは、ちっとも電子楽器の魅力につながってない気がする。 このデモでちょっと取り上げられた三曲目を、岩内沙織さん の「オペラ座の怪人」と比べてみましょう。ライブ録音なので音は少し悪いですが、明らかに音楽から発出された切迫性が全然違う(余談ですがこのライブ、四年ほど前に香港のショッピングモールらしきところで行われたようですが、現今の香港情勢を考えると、暗澹たる気分に誘われます)。 しかし、これは考えてみればあたりまえの話で、演奏者の音楽に対する姿勢というのは、デモ演奏と本番の演奏では違って当然、それって何も電子楽器にかぎった話じゃなくて、あらゆる楽器と奏者について言えることじゃないですか。 ところで、この岩内沙織という人、知れば知るほどこんなブログで手軽に触れるのは恐れ多く、エレクトーン業界では知らない人はいないアーティストでいらっしゃるのですが、かといって一般にそんなに広く知られているわけではない。youtubeはおろか、おそらくネット配信が始まる以前から、活躍されて来たこの人のことは、もっと知られてしかるべし。 今どきのエレクトーンの特質を知り尽くしているであろう、この人の最大のテーマは、これまた推測ですが、まさしく「電子音の弱点の克服」ということではないかしらん。整序された乾いた電子音をいかに生身の音に引き寄せるか?この人の他の公開映像を見ていると、そういう気がして来ました。 その一つ、ご自身作曲の「セレナーデ 」を聴いてみてください。私はこの音楽を初めて聴いたとき、年甲斐もなくやたら興奮して、動画に以下のような恥ずかしいコメントをしてしまいました。―なんて蠱惑(こわく)的な音楽なのでしょう。私はこういうクラシカル・フィールなサウンドが大好きです。アコースティックな響きの代表のような弦と、オーケストラ・サウンドを擬した電子音のコラボが、こんなに自然に融け合っている音楽は聴いたことがありません。 それにしてもこんな美しい音楽が、なぜ一般に膾炙(かいしゃ)されないのか私は理解に苦しむ。まあ知ってる人は知ってるのでしょうが、少なくとも私の耳には今まで一度も入って来ませんでした。もったいないね!― このあたかもヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章を思わせる響きは、いとも簡単に人の心を捕まえる。その大きな要因は、ロマン派音楽のイディオムとエートスを、なんの衒いもなく駆使されておられるからで、それは間違いなく、岩内さんの音楽に対する幅広い学識と、深い感性の修練の裏付けがあってのことなのです。でなければ、ややもすると「古い」とか「時代遅れ」と言われかねない技法を、「今の時代の音楽」として、このように歌わせることは出来ない。 ヴァイオリンの山本理紗さん(どんな方か知りません)は、ここを先途とばかり、アナログとしてのヴァイオリンの響きを前面に出して大熱演。対する岩内さん、そのアナログの響きに、恐ろしく神経を使ってらっしゃるのがよく分かる。カラヤンなら間違いなくもっと押し出して来るであろう、オケのフレーズも、そこはご自身の作品という余裕からか、かなり抑えておられて笑っちゃいますね。 こういうのを聴いていると、私には逆に、このすっかり古さびているであろうクラシック音楽の書法が、まだまだ侮れないというか、じつはまだ充分に渉猟され尽くしていないんじゃないか、という気さえしてきました。これに関連して、例の久石譲の音楽が浮かんで来ますが、ここでは触れません。 かといって、岩内さんの書法がどれも保守的なのかと言えば、もちろんとんでもない。かなり挑戦的な音楽もまた物にされていて、例えばおそらく代表作の一つになるだろう「Rhythm Junction~Hong Kong~ 」など、最もエレクトーンらしい快活洒脱な音楽で、見どころ聴きどころ満載。エレクトーンの特色と奏者の技量を、もっとも端的に示した音楽の一つと言って好いのではないかしらん。 この方、数年間香港に暮らしておられたことがあるそうで、東洋の金融センターとしての国際性と、文化のダイナミズムを色濃く感じさせる作品ですが、繰り返しますと現今の中国情勢を考えるとき、何やら今昔の感を押さえることが出来ません。
2020.07.16
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波形 エレクトーンにかぎらず、なぜ電子楽器一般が乾いた無機質な音に聞こえるのか?私たちの耳は、もうそうしたサウンドに長いこと取り巻かれていて、ほとんど何とも思わなくなっているのかもしれませんが、私はやはり「本当に耳に心地よい音」というものにこだわっていきたい。 美しいメロディー、見事なハーモニー、グルーヴ感あふれるリズムというのが、電子楽器でもいくらでも可能だということを、私たちはasukaさん他の電子楽器奏者で知ったわけですが、さわさりながら、それらを発する音源そのものの質感だの量感というのが、クラシックファンとしての私だけではないと思いますが、どうしても気になるというか、潤いに乏しいのではないか、という憾みが残るのです。 昔、新幹線が走り始めたころ、案内のチャイムを、当時代表的な現代音楽の作曲家の一人とされた黛敏郎に委嘱したところが、音源が電子音であるうえに、すこぶる現代的な無調整のフレーズだったので、乗客その他から「気色悪い」という評判が立ち、すぐ別の音楽に切り変えたという話がありました。その時の黛の「私はメロディー・メーカーじゃないので」というコメントは、いかにも現代音楽家としての矜持を示していて、何となく納得させられたものですが、さて今どきの音楽シーンで同じ言葉が通用するのかどうか? この話で、今の私が面白いと思うのは、乗客その他(おそらく乗務員でしょう)の「気色悪い」という感想なのでした。電子音、無音階、無調整という、いわば20世紀現代音楽の基本ツールというのは、本質的に人間の耳朶になじまないというか、不快にさせる要素があったのではないか?早い話、テポドン発射の時に流された警報音は、何となくこれに近かったような気もする。 少し、話が逸れました。かつて、絶対分かりっこない現代音楽を、気難しい顔をして聴いていた私には、電子音とはオシロ・スコープで、きれいに整序された波形を描く音、ないしそれらの組み合わせでできた音という先入観が、大いにあったのです。実際のところ、エレクトーンにかぎらず電子楽器全般が、そうした整序されたさまざまな音の波形を加工して、いかに現実の楽器音に近づけていくかというしかたで、アプローチをしていたように思う(想像ですよ)。 結果、出来上がった音というのが、確かに言われてみれば、木管の(ような)弦楽の(ような)響きであったにしても、それよりも何よりも一聴して最初に電子音という印象が残るというのは、皮肉なことではありました。それかあらぬか、「では、いっそのこと電子音そのものを、音源の前面に押し出したほうが手っ取り早い」とばかり、富田さんや喜太郎さんがシンセサイザーを用いた音楽で一世を風靡してました(ヴァンゲリスという映画「ブレード・ランナー」の作曲者も、この後継になりますね)。 しかし、電子音そのものが新鮮に響く期間というのは、そんなに続かないのであって、街中にあふれ出れば、それらはたちまち飽きられてしまうのです。今や映画館はもちろん、テレビCMや駅中にもこの種の音響は充満しています。 肝心なことは、電子音であれアナログの自然音であれ、音楽そのものの本質的な魅力とは何か、何が人をチャームするのか、を絶えず問い直す姿勢がなければ、この種の音楽や楽器は早晩飽きられてしまうということでしょう。大事なことは、今に伝わる西洋音楽や楽器、あるい邦楽や和楽器その他には、今に残る画然とした「歴史」があるということです。 それは技術的理論的な話である以前に、ごくシンプルに「耳に心地好い」から、あるいはそうした「心地好さ」とは何か、という問い直しが絶えず行われてきたから、今に残っているということではないか。今に残り、なお私たちをチャームして止まないのには、私たちが意識している以上に、何やら厳然とした「理由」があるのだと思うのです。そうしたチャームの歴史というか、過去の人々の営みを甘く見てはいけない。 鳥の声や水のせせらぎの音は飽きないけれども、それに似せた電子音は、どれだけ近似したとしてもやはり飽きるのです。 とすれば、結局私たちの周囲には、オシロ・スコープでは包み切れない世界が、広大に横たわっているということを、もう一度知るしかないということでしょう。考えてみれば、音叉のような純音が描くきれいな波形と違って、例えば雑味満載のヴァイオリンの擦過音が描く波形など、グラフに現れた波形以上に、そこからこぼれ落ちた音のほうが、はるかに多いのではないか?測り切れない世界を、測り切れる波形で包み込もうとするのは、いかんせん、ちょっと無理筋という感じがあるのです。 で、それかあらぬか、エレクトーンはいつごろからか、その音源を電子音の加工でなく、自然音の集積加工に切り替えて、逆の発想から新しい楽器の提案を行ってきたようですね(想像ですよ)。その色合いはSTAGEA シリーズでより鮮明になってきたというか、世界中の一流ミュージシャンの音源を集積加工してパッケージしているみたい。 しかし、この手法は何もヤマハの専売特許ではなくて、ドイツあたりの電子オルガンでもやってるらしい。自然音の再現性という点では、いかにもドイツらしく、もうほとんど生のオーケストラと変わりがないという感じ。WERSIというメーカーのデモビデオらしきものを聴いてみてください。
2020.07.15
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令和の響き 多少毛色の変わった中国の話をしようとして、なんとなく予感したとおり難渋しています。こういうふうに鬱屈した時は、ネットをググって何か元気の出る話題がないかと探して回るのですが、面白いもので年に一回か二回は、顔を叩かれたように覚醒する画像や音楽に出会うものです。 それは例えば荒川静香さんであったり、826asukaさんであったりするのですが、今回は寄田真見乃(よりたまみの)さんという京都生まれの尺八奏者(またしても女性!1990生まれ)。で、これまた知る人ぞ知る、恐るべき才能を秘めた人であるようです。とはいえ、なぜか今どきの一般的なメディアにはなかなか登場しない。したがって、私の前にも長いこと現れないということになってしまいました。 これまでにも何回か話したことがありますが、私は学生時代、高校の時に聴いた武満徹の「ノヴェンバーステップス」に刺激されて、少し尺八をかじったことがあります。しかし、すぐさまそっち方面の才のなさに気づいて(要は「歌心」皆無の自身の正体に嫌気がさして)、早々に退散したのですが、洋音楽に疲れたときに、和の音を口直しのようにして聴くのは好きで、ひそかにマーラーやB・ストライザンドと並行して聴いていました。武満徹の音楽は、それほど日本人にとって音楽とは何かを問いかける力を持っていたのです。 当時、ことのほか好んで聴いていた尺八の音楽があります。松本雅夫作曲「鼎(かなえ) 」という尺八三重奏曲ですが、まあ聴いてみてください。これ、尺八三本会が1970年にリリースした、「三本の響き」というLPに入っているのですが、邦楽部の仲間と食い入るように聴いていたのを思い出します。私的には武満のいささか高踏過ぎる現代音楽としての和楽器の取り扱いに対して、もう少しカジュアルで、なおかつ尺八の音以外では考えられない音楽という意味で、「鼎」は格好の入り口なのでした(早い話、これをフリュート三本で聴いても、ちっとも面白くないでしょう)。 この音楽、今ふうの不協和音から尺八独特の音の揺らぎ(これを「ユリ」と言います。譜面を見ると、どの音をユリで奏するか、細かく指示してありました)まで、大胆に取り入れながら、一方でごくカジュアルなメロディーラインを、バロック音楽のように朗らかに聴かせていて、すこぶる面白い。これの二番煎じはごめんだけども、これと似たような方向性を持った邦楽が、もっと現れたら良いのにと思いもし、当時それを期したかのような現代邦楽なる音楽も結構書かれたのですが、残念ながら、広く人口に膾炙するには至りませんでした。 「なぜ現代邦楽なる音楽が、一般に受け入れられないのか?」という疑問は、そのまま「日本のクラシック音楽は、なぜ西欧音楽ばかりなのか?」あるいはまた、「なぜ日本には、日本を代表し世界中で普通に演奏されるような音楽がないのか?」という、このブログがずうっと問いかけている疑問に直結するのです。しかしこの大命題については、ここでは深入りしません。 ところで、この「三本会」というのは、当時を代表する尺八演奏家、青木静夫、山本邦山、横山勝也が集ったドリーム演奏団だったのですが、何しろ流派も違い、尺八や音楽に対する考え方も異なる(たぶん)うえに、名うての個性派ばかりでしたから、会としての活動は短かったような気がします。これを聴いていても、それぞれがかなり辛抱して、音色その他を合わせているところがあり、結果的に持ち味が消されるということもあったに違いない。 というわけで、LPとして後世に残されたのは、この一枚だけということになってしまいました。 さて、話が一挙に飛んで寄田さんのことなのです。ホームページによればこの人、小学三年生のころに都山流大師範三好芫山に師事し中三で師範に当第、高校に入るや琴古流大師範谷口嘉信に師事、高校二年にして史上最年少で琴古流大師範を充許、さらにそのかん、流派にとらわれず先ほどの青木静夫や横山勝也などにも指導を受けたとありますから、その才能のほどが分かるうえに、二十歳前にしてすでに尺八の学際的知識と奏法を、手中にしていたということになりますね。その後東京芸大に進み、卒業と同時にCDをリリースするといった具合で、まさに異能が大過なく見事に開花したといった経歴ですね。 ま、しかしこうした話は、826asukaさんのところでも触れたとおり、人にはそれぞれ自身の持っている才能や能力を、爆発的に開花させる時期というのが必ずあり、それがさまざまな要因でもって幸福に重なり合ったとき、とんでもない人たちが現れるということなのであって、私は、そうした人たちを、世間がなべて「天才」呼ばわりして、一言で片付けてしまう風はあまり好きではありません。 とはいえ、前置きがずいぶん長くなりました。尺八独奏曲「古伝巣籠(鶴の巣籠)」です。 古典本曲とも称される尺八独奏ないし二重奏曲などは、古来さまざまな流派によって、独自にオーソライズされ、例えばこの「鶴の巣籠」と称される曲にしても、十種類ほどあるとか。琴古流の本曲を長く聴いてきた私から見ると、これはもう全く別の曲に聴こえる。実際のところ、はなはだいわくありげな元祖「鶴の巣籠」という曲が、本当にあったのかどうか、私はあやしいと思っているのです。むしろ話は逆で、さまざま玄妙な物語をもって語られる「鶴の巣籠」という名前に引かれて、いろいろな流派が「これこそ、あの『鶴の巣籠』直系の秘伝曲」と言い始めたのではないか? この「 古伝巣籠」というのは、古典本曲の中でも、さまざまな秘伝の技法が駆使された難曲中の難曲だそうですが、面白いのは寄田さんのは、そうした演奏の難しさを不思議なほど感じさせない。 否、確かに難しい技法のパーツは山ほどあるのですが、この人の音はそうした困難をはるか超えたところから、降りかかってくるように聴こえる。私が感心したのはとくにムラ息や、フラッターなどの倍音や破裂音が入ったあとに残る、純音のピアニシモの美しさでした。尺八は五孔しかないため、運指はシンプルな孔の開閉だけでは済まなくて、半開とか三分開きとか微妙な指さばきが必要なのです。同時に歌口も弁がなくて、直に息で竹全体を響かせるため、音程も純音もはなはだ安定しない。まあ、西洋楽器に比べたら、「これが楽器?」と思えるぐらい古体な姿を成していて、むしろ先史時代からあったであろう縦笛を思わせる。 ところが日本の縦笛は、楽器そのものの改変はせずに、いわば古体のままのキツい縛りの中で、その響きをどんどん洗練させていったという感じがしますね。なぜ、そうした進化を遂げたのだろう、という話に入って行くとキリがないので、ここではしませんが、いずれにしても、雑味を生じさせる破裂音から瞬時に純音に戻すのは、なかなか厄介な楽器ではあるのです。 実際、こういう秘儀めいた技巧てんこ盛りの曲を普通の人がやると、わざとらしく嫌味な演奏に陥りがちで、聴くほうはしんどくて大変。奏者も大変でしょうが、聴く側だって「これぞ古典本曲」と持ってこられると、息が詰まりそうになる時があるのです(ホントですよ)。 寄田さんの演奏には、途中驚くほどの破裂や雑味が、何度も発出するにもかかわらず、聴いていてとても心地が良い。何回聴いても疲れないのです。それは先ほども言ったように、そのあとに続く純音の安定性にかかっているので、たいていの奏者は破裂のあとは、息も絶え絶えになってしまう。 これを聴いていると、音楽というよりは自然界の有りようを、おのずと感じてしまうのです。常に雑味にあふれ、不規則に破裂を繰り返す自然ですが、それでも結局は一様な純音に帰っていく。この陰と陽の吹き分けがとても明晰でしょう。 私はなぜか唐突に「源氏物語」を思い出してしまうのです。ほとんど動きのない眠ったような宮廷社会に、ある日勃然と破裂が発生する、しかしそれも一時、しばらくするとまた元の時間が、あたりまえのように進行していく。私はこの長い物語はいったい何を書こうとしたのか、いろいろ考えあぐねていましたが、結局のところこの読後感、つまり「時間」と「自然」としか言いようのないものを、描こうとしたのではないかと思ったりもしているのです。 話が逸れました。この「古伝巣籠」には、それとすぐ分かるメロディーラインもリズムもなく、一見さまざまな音たちのクラスター進行のみで構成されているように思え、西洋音楽に慣れた今どきの耳には、いささか面食らう部分があるかもしれません。 しかし、たいていの人はすぐに気づかれるでしょう。この音たちの生成には、西欧音楽とはまったく異なった、しかしおそろしく堅牢な構築性があることを。で、それが奈辺から来るものなのだろうと考えるとき、私たちはそれまでとまったく違った階梯に、自身が立っていることに気づくはずです。 長くなりました。それにしても、「鼎」の三人の響きが、明らかに竹林を吹き抜ける一陣の風、あるいは息吹のようなものを感じさせるのに対し、寄田さんの響きは、眼前に飛び散る水の透明なしずくのように明晰で、「今まさしく、そこで生成されつつある音」を感じさせる。和楽器や邦楽の未来は、これまでもそうであったように決して明るいものではなく、考えれば考えるほど、むしろ困難ばかり私には見えて来るのですが、それでもこうした響きが、もし令和の世を告げる響きであるならば(厳密にはこの演奏は平成ですけど、まあ、いいじゃないですか)、多少の希望は抱いて良いのかなと思ったりしたのでした。
2020.07.09
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