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百恵ちゃんSLもう一つの思い出深い写真があります。学生時代の夏休みに北海道でSL撮影旅行をしていました。1週間で帰る予定でしたが、当時の大スター山口百恵ちゃんがSLに乗るという情報を聞いた私は予定を3日延ばしまして、この日を迎えました。この写真を持っている一般人は私だけです。見てください。貴重な一枚です。 室蘭発岩見沢行きのC57列車でした。この135号機はこのおかげで、百恵ちゃんSLと呼ばれて、人気になりました。この列車には週刊誌のカメラマンなどが多数乗り込んでいました。途中の追分駅で時刻表よりも少し長めの停車をして撮影会になりました。プロカメラマンだけが前方に行くことが出来て、一般客は閉め出されています。しかし、僕はプロ用の大きなカメラも持っていましたので、ロープをくぐり、厚かましくもプロカメラマン達に混じって正面からカメラを構えました。 前にいたカメラマンたちが撮影が終わって、どんどん入れ替わっていきます。ついに、僕が最前列に来た。何枚か写したあとで、いいポーズが欲しかったので、注文をつけました。そして、「百恵ちゃん、こっちです」と目線を要求したら、きっちり笑顔を向けてくれました。超興奮状態でしたね。 感激、感激、感激×100でした。ひざはがくがく、心臓ばくばくの状態でしたが、「このチャンスを逃してたまるか。時間がない、急げ。ピント、構図、よし。」もう夢中でした。その感動の写真です。 このときの記事を載せた週刊誌を何冊か見ました。すべて、百恵ちゃんを中心にして撮影しています。SLなんて付録にしか思っていませんからね。 でも、ぼくは違います。あくまでもSLファンで写真の構図に懲ります。だから、しっかりとC57135号機を構図に収めているのです。(エライ、さすが。)ピントは百恵ちゃんに、そして、SL全体を入れて構図を決めました。 こんな、ばっちりと決まった写真はこの1枚だけでしょう。このSLが保存されている、埼玉県大宮市の交通博物館に進呈しようかしら。(笑) となりの加藤芳郎さんは最近(何年前かな?)他界されましたね。まだ、話はあるのです。聞いてちょ。列車の中では百恵ちゃんが何回か移動して、SLの後方を見学するシーンがありました。車内を移動しているときに、みんな握手攻めでした。私も合計4回握手しましたね。「今日は一日手を洗わないぞ!」と思ったもんです。でも、3日も風呂に入ってなかったので、さすがに次の日には風呂に行きました。「百恵ちゃん。きたない手で握手してごめんね」このとき、百恵ちゃんは高校2年生。ボブソンのジーンズに白いハイネックのセーターがかわいかった。今から33年前(1974)のことです。続きの話。この日の撮影がNHKで放送されました。30分番組でしたが、始まると実家に電話しました。「かあちゃん。今すぐNHKを見て!」「なんね。あら、百恵ちゃんやね。ほな、見とくわ。」後半の部分で終点に着いた百恵ちゃんは列車を降りてSLの運転台の方へ進んでいきます。もちろんカメラは追いかけて撮影しています。私の横を通り過ぎるときもカメラは回っています。私は番組の中であのシーンがカットされていないことを祈りました。ほんの1秒ぐらいですが私の顔が百恵ちゃんと並んでいます。「やったー。うれしいなあ。」後で母ちゃんに電話すると、「あんた、北海道までSL写しに行ったんか。まだ、SL追いかけているんか。あほ。あきれてしまうわ。」だって、病気やもん。SL病。高校時代はSLバカ、と言われてましたから。北海道での懐かしい思い出でした。 またまた、続きの話。 埼玉県の大宮市に交通博物館ができましたね。あまり興味はなかったのですが、いろんな列車や機関車が展示されています。その中でSLの代表としてこのC57135番が展示されています。びっくりでした。百恵ちゃん列車とよばれて人気になった135番はそのおかげで解体されることなく、現在も生き続けています。室蘭線では特別に人気のある番号ではなかったというか、みんなありふれた普通の形のC57ばかりだった。番号でいえば2桁のもっときれいな機関車があったのですが、偶然にも時のスターを乗せたということで、その運命が変わってしまった。不思議なことがあるものです。いつかは交通博物館に行ってみたいですね。
2007.12.31
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これからSLの写真を掲載していこうと思います。その手始めに過去の投稿した3枚の写真をもう一度載せます。最初は絶対これです。C5711号機。この機関車を線路沿いで見たことが、それからの人生を大きく左右したのです。SLバカと言われた俺の人生転落の元凶なんです。とにかく、かっこいい。おそらく男子高校生の100人がこれを見たら99人は感動すると思う。(大げさかな?) どうですか。高校生の時に家のすぐそばをSLが走っていたんです。そのかっこいいこと、最高でした。とくにこのC5711号機はデフが変わっています。デフは除煙板ともいいます。正面からの風を受けて気流を上向きにして、煙を上げる働きをします。門司鉄道管理局管轄の工場で作成されたこの独特の形状は門デフと呼ばれて人気でした。以前に九州の長崎本線で特急かもめを牽引していた人気のSLです。この11号機のせいで私は高校生活をひたすらSL撮影に没頭したのです。今から36年前の写真です。ブログに載せるならこれを1番にすることは前から決めていました。現在、豊岡市に保存されています。デジタルデータでなくて、写真の複写なので、一部に光りが入ってすっきりしませんが、まあ、なんとか見ることができるでしょう。あ~!感激。(自分だけが感激している?)
2007.12.30
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日帰りデート3しばらく行くと食事にどこかに入った。何を食べたか覚えていない。なんでもよかった。そこで、懸賞に応募する用紙をもらった。住所、氏名を書いて応募すると当たれば、7月の博多山笠のときに何かがもらえるというものだった。丁寧に書いたのだが、それを投函するのをためらった。外れたときが彼女との別れにつながるような妙な気持ちになって、出さずに終わった。彼女は別れ際にどうして出さなかったのか疑問に思ったことを言った。でも俺は答えなかった。言えなかった。まだ学生の分際で彼女との付き合いは無理だ。変に堅物のところがありまして、思いこんだら一途なんです。俺はこれ以上の苦しみは避けたかった。 食事が終わって、どこかで遊ぼうということになった。地下街のどこかにパチンコ屋があった。普段の生活ではパチンコをするなんて普通のことなんだが、デートでそこに入るというのは気が引けた。でも、彼女は入ろうと誘う。こんな時でないと出来ないし、学生時代に2,3回やったことがあるという。勝負事はやるからには真剣にするのが俺の信念ですが、この時ばかりはそんな気持ちになれない。でも、彼女が無邪気にニコッと笑って楽しんでいるのを見ると、それだけでいい。なんてかわいいのだろう。才能のある人間はなにをやってもできるものですね。彼女は大当たりほどではないが、出ました。はい。えらいもんです。感心します。長続きはしなかったけど、なくなってしまった俺にも分けてくれて、「一緒にもう少しやろうよ。」 にこっとした笑顔がたまらない。 小学校で彼女の笑顔に参ってしまった俺だったが、またしても心を奪われてしまった。早く終わってくれないかと願っていた。ビギナーズラックなんかで大勝ちなんてしたら、その後の人生に狂いが出るかもしれない。今でこそ女性がパチンコをするのは当たり前みたいになっているが、その当時は珍しいことだった。混み合っていた店内に目立つ美人が打っているので、周りの客からは注目の的でした。周りの雰囲気が変わったのを感じた。白い毛皮風のハーフコートにすらりとしたスタイル。顔はドキッとするくらいの美人がパチンコ屋にいること自体が珍しい事ですから。僕は勝負よりも彼女がそこそこに楽しんでくれればいいと思っていたので、勝って長引くのは本意ではなかった。パチンコ屋を出た二人は地上に出た。 どんたく祭りのメイン通りを歩いたのだが、そのときは大勢の人混みしか見ていない。日がずれていたのか、時間帯がずれていたのかは知らないが、中州にかかる橋をわたって博多の空気を吸った。景色はどうでも良かったような気がする。ひたすらに歩いた。歩きながら語り合った。 俺の記憶はここまでなんです。別れたのが何時頃で、場所は、別れの言葉は?すべて記憶がない。彼女の笑顔だけは強烈な印象で心に残っている。 今、会えばしわの多いおばちゃんになっているだろうなあ。子供の頃の憧れや、若い頃の女性の印象は思い出の中にしまっておくのがいいのでしょうね。もうじき彼女の誕生日です。忘れません。1月1日。元日が彼女の誕生日。めでたい人です。
2007.12.29
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日帰りデート(2) 博多駅の地下街を散歩した。どこを歩いているのかさっぱり分からない。でも楽しいですね。人混みの中を二人で歩くことがこんなに楽しいとは・・・ 名物の松露まんじゅうを作っていた。博多には多数の名産物があるがその一つ。本来は唐津の松原にあった松露というきのこをイメージしたのが起源とされているが博多にも多数の店がある。小さく丸めた「こしあん」に薄い生地を付けて焼いていく。職人の流れるような作業にしばし見入っている。「へぇ~、こうして作るのか。かわいいなあ。」マドンナも吸い込まれるように立ち止まって見ている。松露という言葉で俺は高村光太郎の智恵子抄の作品を思い出した。智恵子抄の中でも好きな詩の一つです。 風にのる智恵子狂った智恵子は口をきかないただ尾長や千鳥と相図する防風林の丘つづきいちめんの松の花粉は黄いろく流れ五月晴れの風に九十九里の浜はけむる智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ白い砂には松露があるわたしは松露をひろひながらゆっくり智恵子のあとをおふ尾長や千鳥が智恵子の友だちもう人間であることをやめた智恵子に恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場智恵子飛ぶ 最後の1行が強烈な印象を与えますね。この詩を読んだらしばらくは放心状態です。浜辺で光太郎が松露を集めながら智恵子の後を歩くイメージが浮かんでくる。 場所も時代も違うが、松露まんじゅうが作られる様子を無心にながめているマドンナを俺は光太郎になったような気持ちになって見つめていた。帰ってからの日記にはこの時のことを感動的に綴っていた。この時の彼女の横顔が天使に見えた。ガラスのショーケースに入れて飾っておきたいくらいですね。でも、この天使はおてんば娘なんですね。本性は ・・・ つづく
2007.12.28
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九州までの日帰りデートクリスマスがあったので、追憶シリーズを中断していました。でも、続きを書かなくては過去への未練が残ります。(書いても残ると思うが・・)と、いうことで、続きの再開です。 マドンナとはその後も手紙の文通はしていた。3月の下旬に劇的な出会いをしたときに、「今度はどんたくの時に来んしゃいね。」この言葉はもう一度「会おうね」と解釈した。(自分に都合のいいように解釈します。) 会いたい気持ちと「博多どんたくまつり」を見たことがなかったので、それも一度は見たいという気持ちから5月の連休に会いに行くことにした。 信州からは例の如く夜行列車の「ちくま」です。今度は新大阪まで行きます。そして新幹線です。夜行列車は結構疲れるし、眠りにくいので博多に着いたときは、睡眠不足で朦朧としていた。彼女に電話連絡して、博多駅の新幹線ホームまで迎えにきてもらった。駅のホームでバタン、グーでした。 「たぬきさん、たぬきさん。疲れとっとね?」甲高いきれいな天使の声に目が覚めました。目を開けると、女神が顔を近づけてのぞき込んでいます。「わあ~。」 朦朧とした意識の中で、彼女の姿がぼんやりから、次第にはっきりしてきました。相変わらず美人だ。会うまでのわくわく、どきどきが実際に会うと、もうこれは夢かうつつか幻か?の感じです。迎えに来てくれたのが嬉しかった。さあ、今日は楽しいデートです。目覚めのコーヒーを飲みに連れて行ってもらった。博多の街は彼女の庭ですから、すべてお任せです。 人生の中でこんな美人とデートしたのは今回だけですね。日頃、世の中の美人とペアになっている男を羨む気持ちばかりだったが、今日は美人のとなりの男を体験します。服が釣り合っていないのが心配です。高級品やブランド品が似合う女性ですが、そんな贅沢はしていません。別に高級ブランド品を身につけなくても彼女は光り輝いている。今は誰でも化粧が上手で高校生ですら、パッと見た目はきれいです。でも中身は?となると疑問符の付く人が多いですね。顔にはその人の知性と教養がにじみ出てくるものです。姿、形だけではない。でも、全てがハイレベルの人間がこの世に少しは存在する。男でいえばキムタクとか。顔、スタイル、運動神経、知能(運動神経がいい人は頭脳も優れている)文字、歌、性格。どれをとっても素晴らしい。そんな人がいるのですね。 問題はただ一つ。才能有りすぎの女を誰が嫁さんにするかでしょう。なかなかいませんよ。男がつらいよね。年齢の離れた男が手中に収めるパターンが多いですね。彼女もそうなるのかな。実際にそうなってしまいましたが・・・ この日のデートは社会人のマドンナにお任せなんですが、やはり金のかかることになると、全部を頼るわけにもいかない。金がないことでチャンスをたくさん逃してきたが、このときも似たようなものでした。 そして、悲しいことに、この日の出来事をよく覚えていないのです。いくつかは鮮明に残っているのですが、全体としては記憶が曖昧です。 ・・・つづく
2007.12.28
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あと1週間もないよ激動の一年だった。前の職場に勤めて13年。転勤して9ヶ月が過ぎた。環境が変わって生活も変わった。病気といえるのかどうか、高血圧以外の珍しい病気にもなった。へそヘルニア。なんとも不思議な病気になったものだ。治りそうもない。だんだんひどくなってくる。これから寒くなって、風邪を引きやすくなる。喘息気味なので咳がひどくなる。これまでは気楽に咳をしていたが、これからはへそを押さえてしないといけない。今も咳をするときはへそを押さえている。 ブログを書き始めて1年になろうとしている。まさかこんなに文章を書くとは思っていなかった。ほぼ毎日のようにPCに向かい、自分のブログを覗く。見るだけにしようと思うのだが、書きたいことが浮かぶとつい夜なべをしてしまう。自分の人生を振り返って書き綴ってみると、結構面白い人生だったのかなあと思える。けれど、やはり後悔が多い。もうやり直しが出来ない年になって、愚痴をいうのも情けない。 ブログには初めの予定では自分が撮りためたSLの写真を掲載して写真集を作るつもりだった。転勤のどさくさでできなかったが、これからやりますよ。なんと、プリンタを買い換えたのです。エプソンのプリンタです。今、使っているプリンタの色がだめになってしまったので、カートリッジを買うつもりが、売り場で新製品を見ていると係員がよってきた。製品の説明をしてくれたのですが、なんと上位機種に写真のネガをスキャンできるものがあった。これだ!!! 職場のスキャナでもいいのだが、なかなかする時間がない。これで35mmのフィルムは取り込むことが出来るようになった。みなさん、もうじきSLの写真をどっさりと掲載しますね。他にブローニー版のネガがあるのですが、これは出来ないようだ。結構良い作品があるのですが、少し時間が必要です。とりあえず、35mmの分をやりましょう。気長に待っててちょ。 まずは年賀状を作らなくては。昨日は大阪に出張だった、今日は体力回復のためボケーとしていたので、年末の準備が全然できていない。明日はがんばんべえ。
2007.12.27
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娘のクリスマス俺がクリスマスの悲しい思い出を書き込んだクリスマスに娘は遅く帰ってきた。配偶者は何処に行ったか知っているみたいで、にやりとしていた。晩飯に娘がいないと我が家は寒い。ケーキもない。「どこに行ったんや。」「神戸」「なに~。ひょっとして、彼氏とか?」「そうや。」わなわな・・・(怒)う~む、ちくしょうめ。彼氏とデートで神戸とな。許せん。去年は一応ケーキがあったのに、今年はなにもなし。(怒)爆発寸前。すると、娘からメールが配偶者にきた。「観覧車が混んでて、えらい時間がかかっている。」夕方から並んで、やっと乗れたとか。神戸の夜景はきれいだったやろうなあ。ちくしょうめ、くやしい。俺はそんな楽しい思い出がない。つらくて一人寂しく時間をつぶしたクリスマス。それが何年も。子供が幸せな気分になれたのならそれも良かろう。と思うが、・・・複雑な心境。 帰ってきた娘はNHKの放送を見ていて感動していた。ニュース番組の最後は神戸の夜景が映し出される。赤くライトアップされたポートタワーとその周辺。観覧車も写っている。「あれに乗ったんか」「あれに乗ったんや」「1時間も並んだやて?」「うん。」「夜景はきれいやったやろなあ」「うん、・・・・・」いつもはそんな場面は見向きもしないのに、最後まで画面に見入っていた。1周するのに10分かかる。二人でどんな会話があったのでしょうか。あ~あ、羨ましい。
2007.12.26
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クリスマス 自分のクリスマスには楽しい思い出がない。悲しいことだが彼女と一緒にいたとか、楽しかった思い出がない。逆に、切ない悲しい思い出がある。ある愚かな男の話です。 今から30年前頃に喫茶店なんかで、コンピュータゲームが流行した。インベーダーゲームに熱中したもんです。その後、賭博まがいのポーカーゲームが広まった。このゲームにはまって人生を台無しにした人物を知っている。コンピュータのプログラミングに熱中していた僕は、このプログラムに興味があった。どうなっているんだろう。所詮、金儲けのための道具ですから、客が負けるようになっている。パチンコも同じです。 学生時代はパチンコでけっこう稼いでいた。数百円単位のことです。かわいいでしょ。その頃は、クギの見方とバネのはじき方で、うまい、へたがあり器用な人は勝つことができた。しかし、コンピュータが登場して、上手、下手の区別無く、運がよければ勝てるようになった。数百円単位の賭け事があっというまに、1万円をつぎ込むような博打になってしまった。 僕は学生時代には生活費稼ぎのためにパチンコをしていたが、コンピュータが導入されてからは止めた。勝てるわけがない。長くやれば絶対に負ける。それも金額が大きい。給料を博打につぎ込むと生活が破壊されます。生活費までもつぎ込むようになり、借金をする人間が増えた。博打は一部の人間のものでなくなり、大勢の人がこの博打に参加した。結果は当然ながら借金地獄。 ポーカーゲームが広まったのは25年くらい前のことだった。ちょうどその頃にサラ金が広まった。普通に生活していれば、貧しくても家庭が崩壊するようなことはなかった。欲しいものがあっても、我慢する人が多かったと思う。それに、個人に金を貸すということ自体が考えられなかった。銀行はそんな個人に金を貸すことはしなかった。 金を借りることは簡単ではなかったのに、サラ金によって簡単に金が借りられるようになった。全国でポーカーゲームとパチンコによるサラ金地獄にはまった人が大勢いた。 ある喫茶店で夢中になっている人がいた。「あんた、そんなゲームやって勝てるわけないやん。やめとき。」「もう、俺はあかんのや。」 悲壮な顔で男は言った。「どんなってんの?あんた。」その男はぽつりぽつりと語りはじめた。仰天の内容だった。「俺はなあ、もう死ぬんや。」「なんでまた。え~、なんで死ななあかんの?」 なんか、訳ありの雰囲気です。 俺は男を誘った。「場所を変えよう。近くのレストランにでも行こう。おごるわ。」24時間営業のレストランに移った。話しを聞いてあげようと思った。 「俺は昔はあのゲーム喫茶店にクラウンで来てたんや。会社も真面目に勤めていた。でも、会社の上司に連れてこられてなあ。それからや。おかしくなったのは。いつの間にか、俺も同じようにはまってもた。損を取り返そうと通うたんや。上司はあちこちに借金して、ついには会社の金を使い込んで、ばれて首を吊った。俺も同じように死ぬんや。」博打で死んだ者がいるという噂は聞いたことがあったが、目の前にそんな関係者がいることに驚いた。彼の話は続いた。 「一軒家に住んでいたんやで。車を売って今は自転車や。サラ金に金を借りて、会社にも借りて、そして自分の親にも。ついには嫁さんの実家にも金を借りた。それでも、悔しくてやめれんかった。会社に行く時間が来ても、もう少しで、大きい役が出来るかもしれないとゲームを続けた。無断欠勤が続いてついに首になった。退職金は少なかった。金が返せんので、ついに家も売った。嫁さんは呆れて離婚した。」 このあたりまで聞いたら、呆れるというよりマンガの世界のように思えた。「アパートの家賃も滞納を続けて、今月分を払わな、追い出されるんや。やっと借りられるサラ金を見つけて金を借りてきたんや。これが最後の20万円やったんや。これで、家賃を払えば、しばらくは生活できる。でもなあ、もう収入のあてはないし、最後にもう一回、一回だけ勝負しようと思うてなあ。来たんやけど。」「勝てたか?」「いいや。でも、まだ10万ある。これで勝てるかもしれん。」「あほ~! 俺が止めなかったら残りの10万もなくなっとるわ。」( 俺はコーヒー代が10円安いかどうかの生活をしているのに。車は10万円の中古。 ) コンピュータの仕組みや当たり、はずれの仕組みを説明してやった。「え~、そんな。絶対勝てないようになっとるのか。」「当たり前やん、それだけ負けて分からんか。バカや、あんたは。」 「そうやろなあ、だから俺は死ぬしかないんや。残りの10万で勝負して負けたら死ぬ。」「そんなん、負けるに決まってるわ。勝ったところでなんぼになる?どこで止める?勝ってもどうせ、つぎ込むだけやろ。」 真面目で仕事熱心で実直な男が全てを失っていた。夜も更けて眠くなっていた。「勝ってに死ね。」と、言いたいところだが、目の前にほんとに死にそうな人をほっといてバイバイはできなかった。 なんとか、生きる目標を持たせなければと思い、自己破産のことなどを説明した。敷かれたレールの上だけを生きてきた男。一度、踏み外したらどう直したらいいのか分かっていない。坂道を転落していく人生とはこのことをいうのか。年下の俺が人生の先輩に「人生とはなあ・・」と説教している。言いながら、まだ自分に自信がないので断言しにくい。結婚していないどころか、彼女もいない。でも、言わなければこの男は自殺する。ほぼ確実に。 話が一段落したときに、その男は周りを見回して言った。「こんな夜遅くに、なんで大勢の人がおるんや!今頃の若い奴らは何を考えてるんやろ。」え~、こっちが呆れた。「あのなあ、今日は何の日か知ってるか?クリスマスや。クリスマスだと知らずに生活してたんか?呆れたあ。明日は休みやし、若いカップルは人生を楽しんでいるんや。みんな楽しそうやないか。ええなあ。」( 惨めなのはあんたと彼女のいない俺だけや。ああ、惨めじゃ。)「あ~、そうか。クリスマスか。そうやなあ、クリスマスもなんも分からずに、博打ばかりに夢中になっとったわ。俺にも家族と過ごしたクリスマスがあったなあ。」しみじみと男はつぶやいた。昔のクリスマスを思い出していた。うつろな顔で。 「死んだらおしまいや。それでいいかもしれん。でも、生きていたらきっといいこともあるで。嫁さんも子供もいないから生き甲斐がないとは思うけど、これからどんな人生があるか知らんけど、神様が死ねと言うまで自分で死んだらあかんで。」「そうやな、この残った金はこれから生きるために使うわ。ありがとう、にいちゃん。今日は世話になったな。ありがとう。」 その男と別れたのはすでに4時を過ぎていた頃だった。 あの男、今頃どうしているだろう。死んだかな。25年前の忘れられないクリスマスの夜だった。
2007.12.25
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第1回からずっと見ているが、前日の予想番組の推理が当たった。つまり、過去の優勝者は出場順番が全て異なっているということ。残る番号は3番、4番、9番。その中で今年は奇数だということ。ならば3と9。9番は敗者復活者ですから誰になるか分かりませんが、勢いがあればそのまま行くのでは、と思っていた。こんな、非科学的なことを面白く見ていたのだが、なんと、なんと、「小汚いおっさん」のサンドウィッチマンが大逆転でグランプリを獲得。二人にとっては激動の1日でしたね。復活戦を昼に行い、最後の一組に勝ち残り、決勝まできてしまった。そして、優勝。感激、「夢見心地です」の言葉が今までの苦労を物語っている。 お笑いブームが起きて数年が経つが、スターを目指す若者は大変多い。4200組以上がエントリーしたということは、その2倍以上の人間が参加しているわけですから。(数字を訂正しました)やはり、この道10年、という言葉があるが、ある程度の評価を受けるには年月が必要ですね。人間は誰しも自分の人生劇場の主人公なんですね。 「努力した者にのみ幸運はやってくる。」 優勝者にはM-1バブルがやってくるといいますから、これからの活躍に期待します。
2007.12.24
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娘のおごりの食事会ボーナス祝いということでさっき食べてきた。えび料理と言うことなんですが、みんな貧乏性ですから、伊勢エビを注文したのは本人の一人だけ。こっちは忘年会でも食べているし、今更と言う気がする。娘が伊勢エビは食べたことないというから、遠慮するなと言って薦めた。金を出すのは娘なんだから、俺が遠慮するなというのはおかしいですね。母にも選んでやればよかったかなと思うが、いかんせん食べにくいだろうと思ってしまった。やはり、遠慮なく金持ちの娘にたかるべきだった。残念。母にはいつか伊勢エビのコースを俺が食わしてやる。あんまり愚図愚図とはできないが。なんせ、いつあの世からの迎えが来ても不思議でないからね。 というわけで、写真を撮りました。娘が食べた伊勢エビ こちらは他の4人が食べた車エビ 初めての娘のおごり会でした。ちょっとした記念になったかな。
2007.12.22
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娘が家に帰ってきた。3日前にも帰って来ていたのだが、またまたです。「なんで帰って来るの?」と、配偶者に聞くと、「そりゃ、自分の家なんだから、帰って来てもええやんか。」こっちはそうは思っていなかった。就職して、寮に入っているので、すでに家を出た人間にカウントしています。まだ、結婚したわけでもないので、たしかに帰ってくるのは我が家なんですけどね。今日はおばあちゃんに食事をプレゼントするということで帰ってきたそうだ。ボーナスが入って、おばあちゃんへのお礼ということでしょうか。少し値段を奮発したレストランでの食事を計画しているらしい。まあ、少しは常識が身に付いてきたのかな。期待しましょうか。
2007.12.22
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学部対抗戦大学は俗に言う「たこ足大学」なんです。総合大学なんですが、各学部があちこちに散らばっています。だから、大学の規模は大きくても、部活動は強くないのが多い。我が剣道部も部員は100人以上いたが、練習は各学部ごとにしているので、どうしても全体レベルが上がらない。対外試合や公式戦ではいい成績は残せていなかった。現在は専門の教授が赴任してきたおかげで全日本にもよく出場するようになりましたが、僕たちの時代は全日本なんて夢でした。代わりに力が入っていたのが、学部対抗戦です。各地の部員が交流をする目的もあり、春と秋の2回、学部ごとに持ち回りで開催していた。 僕は1年の秋にドジをしているのです。1年だけのチームで選手になっていたのですが、なんと寝坊して、試合に間に合わなかった。悔しかったですね。せっかく選手になっているのにね。 大学に残ったおかげで、この1回を取り返すことができた。春の大会はゴールデンウィークの前に開催された。2年と3年の元気のいい大学代表のレギュラーたちでAチームをつくり、大学院の先輩と俺と4年生でBチームを作った。 試合になるとこのBチームが快進撃です。リーグ戦を勝ち上がり、トーナメントになっても勝っていきます。「おじさんチームがえらく頑張っているやんか。」だって、5人共に去年までの公式戦出場のレギュラー経験者ですから強いです。普段の練習はあまりやっていませんけれど、2週間前から気合いを入れて練習しました。 大学院の先輩だけが2段で他は全員3段でした。段の数だけだったら1位ですね。僕のいる学部は歴代のキャプテンを出している強豪学部ということで、レギュラー7人の半分はいつも占めていた。若い奴らには負けられん、と気持ちだけは強かった。けど、さすがに時間が長引くと体力が持たない。結局3位でした。でも、表彰式ではおじさんチームに大きな拍手がありました。とくにレギュラーチームのAチームよりも上位だったのが、嬉しかったですね。 僕が3年の時に同学年のトップをきって、三段に合格すると、みんなが驚いた。2つの評価がみんなの話題になった。「たぬきさんが三段かあ。すごいなあ。」もう一つは、「三段ってこの程度なんかあ」みんなに自信と三段合格の希望を与えたと、高く評価されました。この野郎め、なんてこと言いやがる。好き勝手なこと言ってますね。ちなみに、現在は高校生でも三段は取得する人が多いです。でも、その当時は三段は高校生では稀で、大学で取得するのも困難だった。長野県は特に難しかった。剣道の雑誌にそのことの非難記事が出たくらいに難しかったんです。 最後が楽しい思い出になってよかったね、よかったよ。めでたし、めでたし。
2007.12.21
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支離滅裂な日記昨日の日記を読み返してみると、なんでこんなに脈絡のない展開をしているのだと、呆れかえった。要するに、日記を書き始めたのが1月で、これはNHKの大河ドラマを見て感動し、その気持ちを書いたものが始まりだった。と、いうことなんですね。あ~あ、解説しなきゃ分からないような文章は書くな!!!! 昨日の日記を書いていて、不思議なことに気が付いた。それは、その時期のことなんかあまり覚えていなくて、さして書こうとは思っていなかったのに、なんとなくこの頃のことを書いていこうとしている自分に気が付いた。 たしかにこの時期は自分にとっては激動?というほどのことではないが、結構変化が起きた2ヶ月なんですね。あまり面白くもない、感動もない、でも自分の歴史を振り返ってみると大事な折り返し点だった。 一つずつテーマごとに書いていこうかな。自分の自己満足だけのために。
2007.12.21
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日記 学生時代の一時期、日記を書いていた。新寮になって個室に住むようになって、自分の空間が確保された。木造のすきま風だらけの寒い部屋から、みんなが羨むような鉄筋コンクリートの個室寮となった。勉強することもないというか、4年生の授業は少ししかない。力を入れているのは卒論だけの状態だった。いきおい暇なので麻雀ばかり。でもメンバーが固定されていたところに、それぞれが旅立ちの準備に入っている。後輩と俺だけがのんびりしている。いつしか日記を書くようになった。 この年のNHKの大河ドラマは「花神」であった。あまり有名ではないが、大村益次郎が主人公の物語です。長州藩を率いて幕府軍と戦った英雄です。1月から始まったドラマであるが、その第一回を実家で見た。その後も日曜日ごとに見ていた。さすがに2ヶ月も経つと毎回見逃さずに見ることはできなかった。そこで、単行本を買ってきて、一気に読んでしまった。すると、司馬遼太郎の作品を読んでみたくなって、次々に買ってきて読みあさった。やはり感動は新撰組が題材の「燃えよ剣」でしょう。「龍馬が行く」も有名なだけに面白かった。吉田松陰の人物も好きです。幕末の頃の人物が青春の力を出していることに皆が感動するのでしょうね。幕末の人物評についてはまたの機会にゆずるとして、日記の話に戻ります。 この年の1月から日記を付けだしたのです。日々思うこと、今までの寮生活のこと、彼女のこと、これからのこと等々。 九州に出発する前にも書いていた。もし、もし、この身に何かがあれば、自分のことを残す唯一の形見になるかもという思いで、書き綴っていました。 九州から帰ってから10日ほど空白のままです。空白を表すためにもページをとばしました。それぐらい親友の死は心を空虚にしてしまった。 4月になって、研究生として勉強することになっているのですが、肝心の研究室にも顔を出さず、担当教授に挨拶に行っただけだった。 なんという自堕落でしょう。まあ、こんな生活をもう少しやりたいという気持ちから、ここに残ったわけですが、それにしてもひどい生活です。 しかし、自分の精神的な豊かさとしては、この時期が一番心が成長したような気がする。とにかく、読んだ。必ず一日に数十ページは読んでいた。一人の個室はいくらでも読めた。今までは実験の本やら理系の本ばかりだったが、文学書というジャンルの本を集めるように読み出した。これはこの後1年以上も続いた。誰にも邪魔されずに、眠くなるまで読み、起きたら読んで、食って、集い、時々剣道部にも顔を出し、適度に運動する。 そして、寝る前に日記を書く。精神が高揚しているのがよく分かった。自分でも感心するくらいに、人間について考えるようになった。これだけでも大学に残った価値があると思っている。 そして、日記には今までの自分と違う俺がそこにいた。歯の浮くような言葉がなんのてらいもなく並んでいる。恋の歌に綴られたきらびやかで、まるで別世界のような言葉が自分のペンから生まれている。書きながら、これを何十年後かの自分が読んだらきっと恥ずかしくて、破り捨てるか、燃やしてしまうような気がした。でも、そんな言葉が出てくるのが若さなのでしょう。 こんな生活がいつまで続くのでしょうか。8月になれば就職活動もしなければいけないが、まだその心の準備はできていない。しかし、こんな生活は実はあと2ヶ月も続かなかった。自分の運命が決まろうとしていた。
2007.12.20
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桜前線と共に母の実家を出た僕は兵庫の家に向かった。列車の旅はめずらしく昼間の移動だった。途中の車窓は桜がきれいだった。そこで、信州へ戻る前に桜の名所を見ることにして、姫路城の桜見学をした。ここもまだ咲き始めたところだった。まだつぼみが多かったが、ちらほらと咲き始めた桜はこれからの見事な花びらを期待させてくれる。散り初めよりも気分が晴れるのはその期待感なのでしょうか。リュックを背負ってさくら見学は、ちと寂しいですね。二人で歩くと楽しい観光地も一人で早足で歩くのはなんとも侘びしい。 早々に自宅へ向かいました。 家に着くと早速報告です。前に書いた親父と雅勝の父との関係はこの時に詳しく聞いた。炭坑夫仲間の中でもわりと親しくしていたことや、目や指の怪我は爆発事故のせいだということ。都合がつけば会いに行きたいと言ってくれた。そのときは僕も、もう一度訪ねるつもりだった。ゆっくりしたいがここでは何も面白いものがない。中学や高校の同級生に会いたいが、今の時代と違って捜すあてがない。 信じられないだろうが、中学卒業の頃はまだ自宅に電話がない家が少しはあった。炭坑離職者が多く住んでいた団地では、ほとんどがなかった。もちろん僕の家にもなかった。都会でも電話の普及率は十分ではなかった時代です。高校に入った頃からほとんどの家庭に電話が引かれていた。 会いたいと思う中学の同級生たちと連絡が取れないのです。その頃はまだ、同窓会をしたいとか、昔を懐かしむなんて気持ちは少なかった。みんな、することがたくさん有りすぎて、自分の生活に追われる毎日です。移動の足もなかったし、麻雀中毒の自分にはそろそろ、限界がきています。ということで、親の家も2日いただけです。おふくろが寂しそうに言いました。「信州が第二のふる里になったみたいやね。」笑いながら、実家を後にした。 名古屋から長野までの車窓での見所は、木曽の「目覚めの床」と松本から長野間の景色でしょう。この季節は聖高原駅や姨捨駅から見る川中島あたりが最高です。山の上から見下ろすと下界がピンク色に染まっている。桃の花がきれいだった。リンゴの白い花もいい。そして桜。信州は夏もいいが、春も最高にいい。空気もうまい。高校時代にもっと勉強していれば、こんな寒い所に来なくてすんだのにと、思うこともあるが、この景色の良さを知れば、逆に信州に来て良かったと思える。 寮に戻ると景色が変わって見えた。なにも変わらないのだが、3月までいた仲間がいない。そうなんです。みんな卒業していなくなったです。同じ学年の友が全部いなくなってしまった。寮では5年生の長老として君臨することになった。 時代が変わって留年生が少なくなった。1年のときは8年生を筆頭に、7年生が2人、6年生は多数、5年生も多数、4年生が多数で、寮の自治を担当する3年生の寮長や委員会のメンバーはたんなる小間使いみたいな存在だった。時代が変わったことを痛切に感じる。授業料が高くなって、気楽に留年できなくなった。おりしも不況の真っ最中。先輩達みたいに授業料が年に1万2千円だったら、ちょっとバイトして、優雅に生活できたのですが。帰ったその日から麻雀漬けの毎日にもどってしまった。
2007.12.19
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母の実家母の実家は有明海に近い。レンコンで有名な白石町です。子どもの頃はよくおばあちゃんに会いに来ていた。夏や冬は必ず里帰りということでお世話になっていた。白石駅から歩くと子どもの頃の記憶では長い距離だった。でも、大きくなって歩くと直ぐに着いてしまった。景色が変わっている。たった4年の間に区画整理やら、道路の新設などで昔の田舎の風景がなくなっている。 最後に訪れたのは、おばあちゃんが脳卒中で倒れた4年前だ。そのときは意識もなく、かわいがってくれたおばあちゃんが死ぬかもしれないと、悲しみの対面だった。今は落ち着いて老人ホームで快適に過ごしている。 家を訪ねたときは叔父さんが畑で農作業の最中だった。挨拶したときにはびっくりしていました。当たり前ですよね。事前の連絡もなく、突然の訪問なんて、いくら親戚と言っても失礼なことです。だけど、そこが気楽な学生の身分です。夕方に老人ホームに祖母を訪ねた。意識のある祖母との面会も11年ぶりぐらいでしょうか。大きくなった僕のことが、なかなか思い出せなかったようです。いろんな事を話したいのだけれど、興味がなかったり、理解できない話しをしても退屈なだけですから、ほどほどのところで帰ることにした。 叔父さん宅には従兄弟がいるのですが、大阪に働きに行っているというか、建築士として修行中です。訪ねて行っても話しが進まない。親の様子はどうかと訪ねられても、自分が実家に帰っていないのだから分からない。なんだかバカを晒しに行っただけみたいな感じだった。1泊したが、ばつの悪い宿泊だった。次の日には早々にお礼を述べて帰ることにした。雅勝のことを早く親に報告したい気持ちを押さえきれずに、他の場所への旅は中止した。 小学校のころの思い出が大きく変化して戸惑うことが多い。時代の大きな変化が起きている。子どもの頃に感じた戦後の復興前の様子が消えていく。叔父さん宅での様子は小さい頃のあまり変化のなかった頃から、一年ごとに変化していった。どこの町でも同じだろうとは思うが、田舎では劇的な変化に思えた。1年生から4年生までの思い出が田舎の原風景として心に残っている。有明海まで、ハゼ釣りに車で遠い距離をかけて行った思い出も、レンコンを掘る叔父さんを手伝ったこと、その弟や妹さんとの遊びやザリガニ釣りも、昔の遠い思い出でしかない。もう僕の田舎はなくなった。 これで、望郷編は終わりにします。
2007.12.18
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名残は尽きねど正の家で一泊したのが土曜日だった。そのため昨夜は夜更けまで語り合うことができた。みんなが起きたのは朝というには遅い時間だった。そこそこに朝食を頂いて、今日は半日太宰府に遊びに行くことにした。3月の下旬とはいえまだ、ほんのりと寒かった。桜はつぼみふくらむ状態で、ちらほら咲きのものもあった。早春のいい天気だった。こんなときに若者が男女4人で行楽地に行くというのは、いいですねえ。ほんとは久子さんは兄の雅勝の死で落ち込んでいるはずなのに、気丈な性格だなあと感心した。太宰府は子どもの頃にも何回か来たことがあるのだが記憶はない。今こうして4人で回っているのが不思議な感じです。梅の季節は終わり、すでに桜の季節。おみくじを引いたと思うが何だったんだろう。思い出せない。 3つの赤い橋を通ったことは覚えているが、その大きさも覚えていない。何故なんだろう。マドンナに夢中だったのかな。帰りがけに梅ヶ枝餅を買っておみやげにした。マドンナを家まで送って、家人にマドンナが言った、「桜はまだやったよ。」と、「梅ヶ枝餅、ありがとう」の言葉の記憶が最後です。 さだまさしのちょうど三〇年前のアルバムに飛梅という曲がある。 心字池にかかる 三つの赤い橋は 一つ目が過去で 二つ目が現在 三つ目の橋で君が 転びそうになった時 初めて君の手に触れた 僕の指 手を合わせた後で 君は神籤を引いて 大吉が出る迄と も一度引き直したね 登り詰めたらあとは 下るしかないと 下るしかないと 気づかなかった 天神様の細道 裏庭を抜けて お石の茶屋へ寄って 君がひとつ 僕が半分 梅ヶ枝餅を喰べた 来年も二人で 来れるといいのにねと 僕の声に君は 答えられなかった 時間という樹の想い出という落葉を 拾い集めるのに夢中だったね君 あなたがもしも 遠くへ行ってしまったら 私も一夜で飛んでゆくと云った 忘れたのかい 飛梅 或の日と同じ様に 今 鳩が舞う 東風吹けば 東風吹かば君は 何処かで想いおこしてくれるだろうか 太宰府は春 いずれにしても春 この歌はマドンナたちとの偶然の出会いの頃にリリースされた。数年後にアルバムを買った。各人ごとに思い入れの曲というのは違うでしょう。僕はこの曲を聴くたびに当時の出来事やマドンナの妖艶な笑顔を思い出す。この飛梅みたいに飛んでいけたらと、何度思ったことか。(一ヶ月後に実行したんですよ。うふっっ。) 太宰府から帰った僕たちは、それぞれの生活に戻ることにした。マドンナも明日から仕事。久子さんもアルバイトがあるし、それぞれに用事をかかえている。のんびりしているのは俺だけ。 俺の予定としてはこの後、母親の実家に寄って挨拶しようと思っていた。高校3年のときにおばあちゃんが倒れてから、見舞いにも行っていないし、子どもの頃はよくお世話になったものですから、大人になった自分を見てもらいたい気持ちもあった。 お世話になった正とマドンナの家に挨拶をすませて、別れることになった。マドンナの家が分かってこれから手紙のやり取りができるかと思うと少し嬉しい気分だった。 正とは・・・住所の交換はしたかなあ。互いにまだ学生だし、どうせ住所も変わるからと、住所の確認は・・・してないような。まあ、いいや。どうせ長続きはしないし。男と文通したって面白くないよね。 博多の駅までどうやっていったのか。変化のないことは思い出せませんね。とにかく、母の実家に向かった。
2007.12.17
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尽きない思い出話先生の自宅から帰って正の家に行った。今日はここで泊めてもらうことになった。久子さんもマドンナも一緒に昔話に花が咲きました。正が自分のアルバムを持ってきた。かわいい坊ちゃんの写真がいっぱいです。さすが金持ち~。自分も子どものころの写真は少しはあるのですが、その枚数ではかないません。 アルバムの中に小学校の学校新聞があった。1年生のときのもので、正の日記作文が載っていた。「あれ、となりは俺のじゃん。」彼の作文のとなりには僕の作文がありました。一緒に切り取って貼り付けてあります。「へえ~、俺、こんなこと書いたのかあ。」こんなところに自分の作文が残っているとは、感激ですね。 この社長の息子は自己顕示欲も強いし、金持ち、わがまま、強引な性格で、貧乏人の僕たち炭坑夫のがき達とは付き合いができなかったはずです。ぼくも住む世界が違うなあと感じる。ただ、クラスの中ではいつも行事なんかで全体をリードしてきた仲ですから、意見はどんどん言い合ってきた。そのあたりが対等に話しができる要因かな。付き合いの期間も長かったしね。 彼は大学入試では一度挫折を味わっているし、鼻っぱしを折られた経験があって、少し性格が丸くなったみたいです。それでも、マドンナがいるもんですから、なにかと自分をアピールしている。ほんとに自己顕示欲が強い奴です。あきれます。 話しが終わらない。だんだんと眠くなって行くのですが、それでも次々といろんな話しが出てきます。いい加減に打ち切りたいところですが、こんなことは二度とはないだろうし、まあ体力の続くかぎり話しましょうか。これまでのことだけでなく、これからの自分の夢や今の生活のことなどを、お互いに聞いて話して、どこまで続くんだあ~。 体力なら徹夜麻雀で鍛えた俺は自信がある。これだけは絶対です。(笑)話しがそろそろ終わりにしようか、というあたりで、すでに家人は寝ています。僕たち4人は毛布や蒲団を自分の分を確保して、雑魚寝状態です。マドンナと同じ部屋で寝れたのが幸せでした。 旧友との再会の話しはこれで終わりにします。他にも親友の市丸くんのことを書きたいのですが、またの機会にします。マドンナとはこの後もちょっとした、付き合いがありました。それも後ほどに。
2007.12.16
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テレビ出演(3)土曜日の昼から熊本に向けて出発した。このとき初めて準急という列車に乗った。急行よりも停車駅が多い、今で言うところの快速列車です。別料金が必要でした。必要経費は全て放送局持ちということで、うきうきの1泊旅行です。宿泊は普通の旅館です。普段は話もしたことのない4人が緊張の1日を過ごしました。6年は児童長の高田くん、5年は中村さん、4年が僕で、3年は宇都宮さんです。高田くんは朝礼などで前に出ているので、顔はよく知っていました。かっこいいイケメンの男です。中村さんは面識がなかった。3年の宇都宮さんはええとこのお嬢さんでした。引率には2年後にマドンナの担任になる本村先生。さて、放送局の中に入ります。誰もが緊張しています。先生は顔に反射防止のドーランを塗られています。男のイケメン先生が化粧しているのが、おかしくて心の中で笑っていました。いよいよ本番です。味の素株式会社がスポンサーなので、後ろのついたてには、でかでかと味の素の商標が描かれています。初めは学校の紹介です。ひとしきり先生との会話があり、女性の司会者が出題の用意をしています。トップは高田くんからです。彼には社会の問題でした。日本地図が示されて県名を答える問題でした。他に山脈やら湖の名前を問われていました。どうしたことでしょう。彼は緊張しているのか間違えています。「これで、いいですか?」司会の女性が念を押しますが、彼はそのまま「はい。」「あちゃ~、違うよ。」と言いたかったけど、生放送です。しゃべってはいけません。残念です。 次に5年の中村さん。彼女の問題は国語の問題。けど、・・・・彼女も緊張のためか正答率が悪かった。「あ~あ。なんばしょっとね。」 僕の心の中のつぶやきです。簡単だと思うけど、緊張しているから判断が狂います。カメラが向けられると、もう何がなんだかわからなくなる。動転するというのはこんなことをいうのでしょう。頭が真っ白になる状態です。クイズのミリオネラでも解答者が席に座った瞬間に自分を見失ってしまいますね。簡単な問題も分からなくなるのです。それと同じ状態なんですね。悔しかったです。 さて、さて、いよいよです。僕の問題は音楽です。「え~~、やばい、これはいかん。」実をいうと音楽だけはだめなんです。小学校ではオール5を取ったことがない。なぜなら自他ともに認めるオンチなんです。だからいつも音楽は4だった。筆記テストはいい点を取るし、笛もうまいけど、歌を歌えば音程はずれるし、リズム感もまるでダメ。テレビを見ていた母校の担任だった先生達もドキッとしたそうです。「たぬきくんは音楽以外ならどの教科でも心配ないけど。音楽だけはねえ。」と心配してくれたそうです。 楽典の問題なら全部分かります。すらすらと正解していきました。1問目、クリア。2問目、クリア。3問目、クリア。4問目もクリア。最後の問題はカスタネットで演奏するリズムはどの譜面か?と言う問題。緊張しますねえ。座ってみていると、冷静に考えることができますが、本番でカメラが向けられているし、正面からはライトに暑いくらいに照らされています。似たような譜面なので、まずどこが違うかを認識しなくてはいけません。でも時間が少なくて、説明のあとにすぐ始まりました。リズム演奏がありました。緊張しているのでどこを演奏しているかわかりません。だめだ~。全然わからん。えらいこっちゃ。もう1回演奏があった。ほっとしたが、はたして2回目で分かるのかな?紛らわしい似たような音符が並んでいました。「さあ、どれだったでしょうか?」一部の少し変化しているところの違いを聞きとることができました。「こっちだな」 でも自信がありません。どっちか言わなくてはいけないので、おそるおそる「こっち。」女性の司会者が「こちらでいいですか?」おいおい、そんなこと言われたら、迷うやんけ。でも、はっきりと「こちらです。」結果は見事に全問正解。「やったあ」ほっとしました。カメラの前に立つと緊張しますよ。自分が何をしゃべっているのかわからなくなるし、正常な判断ができなくなります。とにかく、終わった。やれやれ。 岩屋の炭坑住宅では近所の人たちが大勢集まっていたそうです。そして、向かいの意地悪ばあさんが「良かったねえ。ほんとに良かったねえ。」と、涙を流して喜んでくれたそうです。これを聞いて今までさんざん僕を怒っていた、このばあさんを許そうと思いました。もっとも、僕がいたずらをするから怒られていたのですが。 担任だった先生たちも僕が音楽を正解して感激してくれたそうです。続いて、3年の宇都宮さんです。彼女の問題が何だったか覚えていない。自分の出番が終わって緊張が解け、ほうーとしていた。ただ、彼女も間違いがあったことは覚えている。 結果発表の後で記念撮影です。今はこの時の写真が行方不明ですが、実家にあると思うので、いつか捜してアップしますね。 出場記念に味の素の詰め合わせセットとペリカンの万年筆をもらった。ペリカンの万年筆のことは知らなかった。当たり前ですよね。使うことないもんね。でも有名なドイツのメーカーで高級品であることは先生から教えてもらって分かった。この万年筆は僕の宝物となった。 この成績では月間の最高得点は無理です。つまりテレビは無理だということ。残念。他の3人はしょんぼりです。僕は全問正解しているので、少し心が軽やかです。 でも、考えようによっては、その方が良かった。だって、テレビは数年で壊れるけど、鏡なら割れさえしなければ、長く存在しますからね。 食事が終わってあとは自由時間ということで、近くの水前寺公園に行った。池の中に鯉がいたこと、庭園がきれいだったことを覚えている。この年の1年間は思い出に残ることが多かった。 引率してくれた本村先生宅に行って、この時のことを尋ねた。意外なことを教えてくれた。「送られて来たときにすでに割れていたんだ。それで、もう一度送ってもらったんだよ。」 当時の佐賀県東松浦郡厳木町立本山小学校です。回転遊具は僕も好んで遊びました。 その鏡は校舎の2階へ上がる階段の踊り場に掛けられた。自分が5年生になったときの教室は、この階段を上がってすぐだったので、毎日その鏡を見ることができた。今も残っているのかな。そりゃ、無理かな。だって、校舎は建て替えられているし、割れることもあるからね。残っているとすれば奇跡ですね。
2007.12.15
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我が家はテレビが来たことで、町内の人々の集会所みたいになった。小さな炭坑町でテレビが見られるのは、あの駄菓子屋ぐらいしかなかったのです。見たい番組の時間帯が夕方から夜にかけてですから、どうしても我が家に集まってしまいます。どうせ自分たちも見るし、減ることもないので 「どうぞ、どうぞ。」特に、力道山のプロレス中継はみんなが集まった。当時はビデオでの録画放送なんてありません。映画やドラマ、アニメ以外はすべて生放送です。隠密剣士、ハリマオ、ひょっこりひょうたん島などテレビの創世記からの番組を見てきた。都会に引っ越してきても、同年代の友だちと、当時のテレビ番組の話をすると、小学校の低学年の番組はしらない者が多かった。 4年生のときのことです。「日曜教室」という番組に学校が申し込んだら抽選で当たって、出ることになった。これは、ぼくもよく見ていた番組です。日曜日の朝10時から放送していました。内容は教科ごとに問題を出して、6年生から3年生までの4人が問題を解く番組です。出題教科は本番まで秘密になっています。そのときにしか分かりません。1ヶ月の出場4校の中で最高の成績であればテレビが賞品でした。他の3校は記念の大鏡です。熊本のRKK放送局が製作した番組です。当時はNHKと民放はRKKしか見ることができなかった。担任の先生から打診があった。「4年生ではあなたを選んだけど、出てくれる?」「うん、よかよ。」簡単に返事をしたが、なんか大変なことになってしまった。図太い神経の僕には「え~い、何でもやってやれ~。」くらいの気持ちでした。「遠慮」という文字は僕の行動辞書にはありません。厚かましさと神経の図太さでは誰にも負けない自信がある。自慢できる性格ではないけどね。
2007.12.15
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今夜は忘年会でした。飲めない酒に体はふらふら。でも、家に帰ってパソコンの前に座ると、何故かブログを書きたくなった。という訳で書きます。でもね、1回分が大体2時間ぐらいかかるのですよね。夢中になって書くので、つい寝不足です。思い出しながらの作文は時間がかかります。では、がんばって書くべえ。 テレビ出演(1)マドンナの小学校6年生の時の担任が近くに住んでいると言うことで、会いに行くことになった。僕は6年の時には転校していたので、深い付き合いはなかった。しかし、自分にとって大きな出来事に関わった先生なのです。不思議ですよね。佐賀県で教えてもらった先生が福岡に住んでいるなんて。それもすぐ近くに。そのあたりの事情については知らない。聞いてもしょうがない。先生との関わりがどんな出来事かというと、僕はテレビに出演したことがあるのです。 4年生の時のことです。当時はまだテレビが普及していなかった。都会でのことは知らないが、貧しい炭坑町ではテレビを買うゆとりのある家はほとんどなかった。都会では高度成長の加速をはじめた頃のことです。10月1日には新幹線が開通しました。「夢の超特急」の夢が夢でなくなり、現実になったと10月2日の新聞にでかでかと載っていました。東京オリンピックが10月10日に開催されて、カラー放送が始まったのもこの年です。カラーテレビは100万円でした。親父の給料が1万円もなかった頃の100万円です。この値段は新聞のニュースで知った。「すごいなあ。」と思うと同時に「誰が買えるのだろう。」と、疑問でした。うむ?僕の年齢がばれたような気がするが、まあ、しゃあない。 近所に駄菓子屋と食料品店を兼ねた何でも屋があった。そこには客寄せのためのテレビがあった。もちろん白黒です。その店は僕の友だちの家なのですが、一日に5円か10円しか買い物をしないで長時間テレビを見る子ども達は商売の邪魔とばかりに冷たかった。悔しい気持ちを味わったことを知った親父は、「えい、やっ~。」とばかりにテレビを買ってくれた。炭坑長屋の中でテレビを持っていた炭坑夫は親父だけでした。それは1年生の夏休みに入る時のことでした。 貧しい生活だったが倹約の生活だったので、銀行への貯金は炭坑夫の中で1番だった。だから、盆や暮れには銀行マンがカレンダーや粗品を持ってきていた。近所の人たちはそれをひがんでいたという。親父が会社の重役たちにも卑屈になっていなかったのは、隠れた金持ちの自負だったように思う。このことを僕は知らなかった。ひたすら我が家は貧乏だと思っていた。子どもに教えるとしゃべりまくって、妬まれたりすると、親父は考えていたそうだ。今の自分を思えば親父の判断は正しい。ブログにべらべらと自分のことを書きまくっているのだから。
2007.12.14
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マドンナへのいたずら雨が降って長靴で学校に行った日のことだった。 雨が上がり昼過ぎには晴れて放課後に友だちと遊んでいた。講堂とプールの間には植え込みがあった。適度な湿り気の場所には時々、蛇を見ることがあった。その日は「へび」の死骸があった。蛇は自宅でも時々見かけたし、脱皮の抜け殻をおもちゃにして遊ぶことも何度もあった。というわけで、蛇の死骸の尻尾をつかんでふりまわしていた。みんな「キャー、キャー」と言って、逃げ回る。それが面白くて調子になってちょっとひどいことをしてしまった。 靴箱の近くまで行くとマドンナがいた。今から長靴を履こうかという時だった。蛇を見た彼女は悲鳴をあげて逃げた。そこにあったマドンナの長靴に蛇の死骸を入れるふりをした。実際に入れてしまえば、さすがにもう二度とその長靴を履こうとは思わないだろうから、そこまではしなかった。強い女のマドンナが反発してくるのを期待したのだが、彼女はひたすら悲鳴をあげて、逃げるのみ。「あれ~。あんがい弱虫だなあ」ひとしきり、蛇の死骸で遊んで、家に帰った。晩飯が終わった頃、なにやら母親に近所の人が連絡してきた。「お宅の悪ガキ坊主がこともあろうに、重役の娘さんの長靴に蛇の死骸を入れたという噂が広まって、親が怒っているそうだ。」それを聞いた母は、すぐに俺を問いただした。「入れとらんばってん、入れるふりはしたけど・・・」「今すぐに謝りにいくけんね。」日頃は強気な俺も母が連れて行くとなると、神妙にするしかなかった。マドンナの家は学校の帰りがけにある。通りに面した家ですぐ近くを通るときは彼女の顔を思い浮かべたものだ。「会社の偉いさんやのに、なんてことしてくれるの。」 母がひとしきり謝って、次に俺が謝罪の言葉をいうことになった。あまり罪の意識がない俺には言いたくもないことであるが、親の立場を考えると辛抱して言わざるを得ない。悔しいなあ。親の立場が理由で大したことないのに謝らなくてはいけないのか。心から謝ったわけではない。でも、女の子に蛇はやっぱりショックだったのかなあ。それよりも、自宅で顔を出したマドンナの顔を見られたのが嬉しかった。学校での強気の女とは違った顔があった。 このことを今回、聞いてみた。彼女曰く、「うちねえ、(自分のことです)蛇だけは絶対にいや。もう気色悪うて、ぞーとする。」そうだよなあ。俺だって生きている蛇に遭遇したら、心臓が止まるかと思うもんなあ。死骸は怖くないけど、やっぱり気持ちいいものじゃないよな。納得です。ごめん。悪かった。謝ります。近所でも評判の「悪ガキ」だったからなあ。たいした悪ではありません。ちょっと、いたずら好きなだけです。
2007.12.13
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マドンナとの思い出話夕方にマドンナの家を訪問した。湯上がりのマドンナは格別に色気があった。いい女になったなあ。正も俺もマドンナも目立ちたがりの性格ですから、おしゃべりは途切れることがありません。昔のアルバムを開いてはあれこれと懐かしんでいました。 雅勝の妹の久子さんは理知的で穏やかで、三人の間で居場所を捜すのに苦労しています。それほど個性の強い三人です。久子さんは幼稚園の先生を目指しているとかで、夢に向かって勉強中。いいなあ、目標を持って努力し、こんな人間になるんだと、はっきり主張できることはすばらしい。輝いて見えますね。マドンナは近くの会社でOLをしていました。こんな女がOLで収まるはずがない。とは思うが、なんとなくこのまま誰かの嫁さんになって、平凡な家庭の主婦に収まるような気もする。正の行っている大学は先生の養成を目的としているので、いずれは先生と呼ばれる職業に就くのだろう。 俺はどうなるのかなあ?とりあえず、学生をもう一年続けて、なにかを捜してみよう。なんとなく目標はあるのだが。それに向けての努力はまだしていない。 マドンナとのエピソード。実はこれを書きながら思い出してしまった。屈辱のできごとである。思い出したからには、書かずばなるまい。 先に書いた男子と女子のケンカの決着のことである。なんとなく、休戦となった争いであるが、仲直りしたわけではなく、まだくすぶっていた。しつこい奴です。この女は。僕が司会をしていないときなので、2学期のことだった。学級会で日常の問題を話し合っていたときのことである。男子の悪行について非難の嵐が起きた。で、で、で、結論は女の代表が男の代表をげんこつで殴るという、決着となった。 ちょっと待ってくれ~。ひょっとして俺が叩かれるわけ?え~~。なんてことだ。判決が下ると、反対の窓際にいたマドンナが怖い顔でこちらにやってきます。わあ~、来た~。「ごつん!」「いたあ~。」げんこつで思い切りたたきやがった。親父には何度も叩かれてきたが、女に叩かれるなんて、こんな屈辱は初めてだ。振り返ってみれば、女にげんこつもらったのは後にも先にもこのときだけ。今じゃ考えられないよね。先生が立ち会いのもとで、こんな暴力?制裁があるなんて。まあ、男子がさんざん勝手なことをして、好き放題にわがままやってたからなあ。非難されても仕方ない部分もあるが、そのとばっちりを俺の頭が受けた。大事な頭を。学年1番のこの優秀な頭をあいつは「どついた」のだ。九州では叩くとしか言わなかった。関西に来てから、いろんな表現があることを知った。一番ポピュラーなのが「どつく」。他にも「ぶちます」、「かちます」、「ぶちかます」、「しばく」などなど。まるでやくざ言葉みたいです。この時の彼女のげんこつは「叩く」ではなかった。「どつく」でしたね。う~ん、思い出してしまった。これはこの後もずっと恨みに思っていくだろうなあ。 別にこのことがあったから彼女を恨みに思っていたわけではないのだが、この後に再びトラブルが起きた。今度の決着には親も絡んでの事になった。
2007.12.12
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マドンナ彼女とは5年生の時に初めて同じクラスになった。小さな小学校ではあるが、隣のクラスのことなんて気にする年齢ではない。ひたすらに自分のクラスの中と地域の仲間との遊びが忙しい。だからこの女のことを何かの機会に聞いたことはあるが、詮索することもなかった。ところがついに、この女親分と同じクラスになってしまった。 新学期になってクラスの中で男女の争いが始まった。今までは男子の言い分がまかり通った世界に反旗をひるがえし立ち上がった女。発端は小さな事です。休み時間の遊びで男子の悪ふざけが女子の反感を買ってしまった。一部のケンカが仲間を引き込み学級全体の対立となってしまった。ついには場所を変えて放課後の決闘騒ぎにまで発展してしまった。女グループの大将はマドンナです。男の方はもちろん俺。しかし、どうも分が悪い。口が達者で理路整然と理屈をかましてくる。ということでなんと、力勝負。普通はこうなったら女子が引くことの方が多いですが、この大将は運動神経抜群でケンカも辞さない気の強い女なんです。 勝負は3日間も続いた。力ずくの勝負なら男が勝つと思うでしょう。しかし、そうはならないのです。にらみ合いの状態で集まっているだけなのです。相手が普通の女の子なら、すぐにとっくみあいのけんかとなりますが、そうはなりません。だって、彼女はとびきりの美人なのです。マドンナなのです。マドンナと呼べばおしとやかな女性を想像しますが、彼女はそうではない。だが、黙って、ニコッとすれば、少女マンガに出てくるような女なのです。 こんな美人相手に腕をふるったら一生後悔します。やばい。惚れたかな?僕は男子の大将ということで、簡単に引くわけにはいかなかった。でも、どうも別の感情が入ってきて、できることならなんとか平和的解決を願っていた。にらみ合い状態が3日目になると、いつしか噂があちこちに広まって、どうも集まりにくい雰囲気になってしまった。というわけで、休戦。めでたし、めでたし。 どれくらいの美人かって?う~ん、似ている人といえば、国会議員の橋本聖子さんかなあ。目がぱっちり、色白の美形、スタイルは八頭身、運動神経抜群、頭脳明晰、字は達筆、佳人、麗人、美人、可憐・・・・・形容する言葉が足りない。今なら必ずモデルになっているぐらいのカッコよさ。これで性格がおしとやかだったら・・・ 天は二物を与えず。という言葉があるが、彼女の場合は例外か。彼女を知ったことで、弊害がおきた。以後に知り合う女性をすべてマドンナと比べてしまうことだ。 今回、彼女の家にもおじゃまして、いろんな話をした。彼女の運動神経のすばらしさを表すエピソードがある。 中学では背が高いのでバスケット部に所属していた。ある時、ボールをフリースローで何回連続して入るかを競ったそうだ。なんと100回連続で入れてしまった。足が速いので、陸上部の助っ人として郡の大会にエントリーした。結果はハードル競争で優勝してしまった。才能ある人間からは凡人のことがなんとも歯がゆく思われるのでしょうね。言った言葉が、「なんで、みんなあんなに遅かとかねえ。」一生懸命に練習して、走って、鍛えたけれども結果が出せなかった人が聞いたら怒りますよね。 今回は近くに彼女の小学校の恩師が住んでいるということで、会いに行きました。この先生には僕も少し縁がありまして、会うことになりました。その先生の話です。先生たちの間でも彼女のことになると、こんな話をしていたそうだ。「この子は女性初の総理大臣にでもなるのと違うか?」そのくらい、才能豊かだった。でも、長崎のお嬢さん大学を卒業したら、ただの女になっていた。「10で神童、15で天才、20歳を過ぎればただの人」せっかく期待したんだが・・・。 今回12年ぶりに再会することになったが、この女を嫁にできるのはどんな男なんだろうと、常々思っていた。僕は遠慮します。尻に敷かれることまちがいない。
2007.12.10
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正ちゃん。博多に着いた。彼の実家は列車で二駅の所にあった。もちろん市内です。閑静な高級住宅街だった。そして、憧れのマドンナの家も直ぐ近くにあるという。 まずは、正の家に寄って挨拶しました。正のお母さんには子どもの頃に何度も家に遊びに行ってお世話になりました。ここで正について紹介します。彼の親父は炭坑の社長でした。マドンナの父は専務です。社長の家は国道に近い平地の1等地に広い敷地と広い建物だった。マドンナの家もその近くだった。 炭鉱が閉山になってから退職金も払ってもらえずに、労働者たちは全国各地に散らばった。知り合いもいない、親戚もいない場所で、体一つを頼りに働かなくてはいけなかった。それに引き替え、会社の偉いさん達は本社のある博多で次の職場を与えられて優雅な生活。子どもの頃はそんなことは知りもしなかった。住んでいる地域もあいつがどこで、あいつがここで、というぐらいにしか意識していなかった。家の大きさが違うとか、なんとなく金持ちなんだなあ、と思うぐらいだった。結局、町全体が企業そのものだった。だから、会社の役職によって住んでいる地域が違っていた。 親の地位で言うならば社長の息子と下っ端の炭坑夫の息子が同じように遊んでいることが不自然な気がします。事実、僕以外では彼と遊んでいる友だちは少なかったと思う。いたとしても近所の重役達の子ども達でしょう。雅勝もその近所だったので、正とは遊んでいたみたいです。 まさしく正はええとこのボンボンなのです。その社長の息子に対して苗字で呼び捨てにしていたのは僕だけです。何故かって?それは彼の父が社長だということを知らなかったから。子どもの世界に親の地位を持ち込んではいけないと、僕の親父は教えなかった。彼の家に遊びに行って、おやつにケーキやら普段は食べたことのない美味しいものを頂いても親は「行くな」と言わなかった。ましてや父親が社長なんて一言も言わなかった。 他の家庭なら遠慮する場面ですよね。でも僕は結構遊び相手として認知されていた。というか、親が許可していたみたい。一目置かれていた存在だった。彼とは最初から仲が良かったわけではない。小学校の1年生の入学式だけでなく、普段着にスーツみたいな服を着ているボンボンと、炭坑夫の子ども達とは別世界の人間です。彼とは1年生から一緒だった。5年生まで偶然かどうかは知らないが、2クラスしかなかったから確率は高くなりますね。そして、5年間、1学期の学級委員長は僕で彼は副委員長だった。勉強も運動も常に彼の上にいたので彼は僕をライバル視していたが、僕にしたらこんな奴はライバルなんかじゃない。実はそんな意識はなかった。学習塾なんてないし、勉強なんて学校でするだけのこと。帰ったらすぐに野山を走り回って、ビー玉、ぱっちん、缶けり、竹馬、釣り、楠の実鉄砲つくりなど遊ぶことがいっぱいあった。それに引き替え、彼は哀れだった。子どもの遊びを知らず、遊び友だちも制限されていた。レベルの低い目標のない下層階級とは遊ぶなということらしいです。僕が行っても妹と広い庭で遊んでいることが多かった。それに「勉強だ、家庭教師だ」と追いまくられていた。もっとも、仕方のないことなんです。今回、知ったことなんですが、彼のパパは(彼はこんな田舎で唯一パパという言葉を使っていました。)東大出身だったんです。福岡にきてからも有名な進学校に進み、東大を受験した。残念ながら不合格。一浪して筑波に進んだということです。結構プレッシャーがあったと言っていましたね。そんな彼を僕はいつも呼び捨てにしていた。自分の意見が思うように採択されずに、逆に僕によって否定されることが多かった。ボンボンには耐えられない屈辱だったのでしょうね。とにかく、学級会はたいてい僕と彼の対立だった。互いに正しい意見だと分かっていても、すぐには賛成しないというか、ほとんど反対意見を出し合っていた。僕は友だちが大勢いたので採決すると僕の意見が通ってしまう。あいつが何度「くそー。」と言ったことか。もし、この学級会の様子を彼の親が見ていたら、すぐに僕の親父を解雇したでしょうね。親の立場を知らないで、怖い者知らずとはこのことでしょう。彼の偉かったところは自分の父親が社長なんて1回も言わなかった。それは褒めておきましょう。彼なりにプライドはあったみたいです。自力で僕を追い越したいと思っていたらしい。子どもの世界での優劣は親の身分じゃない。力があるか、運動神経がいいか、賢いかの自分の能力での勝負です。彼は残念ながら僕に勝てなかった。顔だけは可愛いかったが。という訳で、僕と彼は何かにつけて対立することが多かった。彼の意見はまともなことを言っているようですが、いかんせん僕に対するライバル意識がすごかったので、いいかげんうんざりすることも多かった。これが彼を気にくわない奴と言った理由なんです。 次はマドンナです。
2007.12.09
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12年ぶりの再会国道で運良く直ぐに乗せてくれる車があった。「前に出発した列車に追いつきたいんです。」「そうか、そんならちょっとがんばってみるか。」と、乗り気で運転してくれました。岩屋駅は当然の如く通り過ぎています。次の相知駅でも見あたりません。本牟田部を過ぎても列車は見られません。少し不安になってきました。「単線だから絶対どこかで待ち合わせなんかで、ゆっくりしているはずなんだが。」焦ってはいますが、かといって、事故を起こすような運転を頼むわけにはいきません。幸いにも唐津まで行ってくれる車でよかった。その間にはなんとか見つかるはずです。ついに見つけた。山本駅と鬼塚駅の間で発見。これだ。国道と線路が並行しているあたりで列車を見つめる俺。正直いって興奮しています。この列車にあいつがいる。しかし、鬼塚駅で乗り込むには時間が足りない。へたに降りて間に合わなかったら、次の唐津までのヒッチハイクの確証はない。唐津線から博多までは唐津で筑肥線に乗り換えです。そこで、唐津で待ち受けることにしました。わざわざ、唐津駅まで送ってくれました。ありがとう。さすが人情の佐賀県人。 駅に入って走ってホームまで行きました。ちょうど列車から降りた乗客がぞろぞろと別のホームへ向かっているときです。若い男でそれらしき人物に声をかけます。「おーい、正。正。正。」と声をかけます。怪訝そうに見る目、目、目。この人も違う、この人も。最後尾あたりに若い娘さんと話しながら歩いてくる奴がいます。こいつだ。おかしげなパーマなんぞかけて(井上陽水を真似ています)、かっこつけているが、そういうところがまさしく、あいつだ。「オーイ、正か?正やろ。俺だ、たぬきだよ。」驚きで、一瞬警戒しながら、自分の名前を呼ばれて、俺のことを思い出している。こどもの頃の印象しかないだろうが、昔の面影は残っているはずです。 「あ~、え!!、たぬきかあ。覚えている。何故ここにいるんだよ。」不思議といえば不思議な場面です。駅のホームでの11年ぶりの突然の再会だった。僕は走ってここまで来ていたし、会えるかどうかの焦りで、やや興奮状態です。本人だと確認できてまた興奮です。涙が出るくらい嬉しかった。二人は博多まで行くことになっている。僕はぶらりと自由な一人旅ですから、一緒に行動することにして、博多行きの列車に乗り込んだ。 列車の中では、雅勝の家に行ったこと、死因についての詳しい話など、尽きぬ話題がいっぱいだった。同行している雅勝の妹の久子さんは僕と正の再会に感動していた。「まるで、ドラマみたい。そばで見ていてほんとに感動だったわ。」そうだったんでしょうね。確かに劇的といえばあまりにも劇的です。この劇的という言葉は、事実が劇のようで、まるで作られたような展開だから、劇的という言葉が生まれたのでしょうね。正は一浪して筑波の大学に行っているので、4年になる春休み中。そして、俺は信州からのお気楽学生。それが偶然ではあるが、こうやって出会っている。久子さんが言った。「お兄ちゃんが離ればなれになった幼なじみを結びつけたんだね。でも、できれば兄も一緒にいてくれたらなあ。」列車の中ではずっと感激の対面と二人の話を心にきざんでいるようだった。予定外の突発的出来事が目の前で起こるなんて、人生の中ではあまりあるもんではないですよね。 一番会いたかった親友が突然の死で望みが叶わなかった。でも、もう一人会いたかった友だちに会うことができた。さらに、もっと会いたかった人にこれから会うことになる。あこがれの彼女です。列車は博多に到着した。
2007.12.08
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遺影に会うふる里を訪ねて最初に足を向けた所で悲しみの事実を知らされた。ショックといえばあまりにもショックです。楽しく昔を思い出しながら、散歩することを予定していたのだが、気持ちが動揺して周りの景色を見ても、感激も程々になってしまった。中学校はもう一つ先の駅の近くにあります。急いでいきたい気持ちもあったが、せっかく訪ねたふる里を見ないわけにもいかず、急いで回ることにした。小川を過ぎるとすぐに、小学校が見える。敷地に沿って道なりに行くと、すぐに自分が住んでいた集落がある。自分が生まれた炭坑長屋のあたりにも行ったのだが、記憶が定かでない。市場と呼ばれた個人商店が並んであった場所もただの空き地になっていた。そこを通って行くともう小学校の反対側に出てしまった。子どもの頃の記憶ではもっと遠くて、広い地域だったように思うのだが、実際の広さはこんなにも狭い範囲だったのか。友だちを訪ねようにも炭坑長屋の数が減ってまるでゴーストタウンのようだった。何人と出会っただろう。ほとんど人がいなかった。雅勝の家に行くことばかりが頭をよぎっている。 すぐに国道へ出た。列車を待つのも面倒だ。慣れたヒッチハイクで隣町まで行った。 JRの一駅は距離がある。僕の姉は中学校まで徒歩で通った。みんなが自転車を持っている時代でもないし、みんな貧しかったから、徒歩で通うのが当たり前だった。1時間近くかかっていたということだ。僕も中学校の運動会を見に行ったことがあるが、すべて徒歩です。そんな時代だった。 中学校についたが、さてどこに住んでいるのでしょう。学校の近所の方に聞いてやっと分かった。住み込みの用務員なので、学校の一部に住居があった。 学校の中に入り、それらしき建物に向かった。 「ごめん下さい。」「どちらさんですか?」「雅勝くんの同級生で、○○○と申します。△△の息子です。」「お~お~、そうか、そうか。よう、きんしゃったね。」「雅勝くんに会いに来ました。」「さあ、あがって、あがって。 ありがとう。手を合わせてやってください。」お母さんとも挨拶したが、昔の明るくにこやかな顔ではなかった。幼なじみの友だちが訪ねてくれた喜びよりも、息子を亡くした悲しみが大きく、やるせない表情がにじんでいます。仏壇に向かうと、笑顔の彼がいた。わずか22歳でこの世を去ってしまった。信じられなかった。体格はりっぱだったし、スポーツマンの彼がたった1本の注射で死んでしまうなんて、こんなことってあるのだろうか。 福岡で大学に在学中から新聞配達のアルバイトをしていた。その年の冬は格別寒かった。無理をしたのでしょうか。熱を出して、弱っているところに注射が逆効果になって、ついに帰らぬ人となってしまった。卒業を目前にしてこんなことになるなんて。家族も本人も無念の気持ちでしょう。元気であれば、剣道の試合もしたかった。彼を目標にがんばってきたのだから。小学校では経験の違いで遠く及ばなかったが、中学、高校、大学と10年間も続けてきたし、大学ではレギュラーにもなって、いくらかの自信はあった。その後の親父さんとの会話。「そうか、君も剣道を続けていたんか。3段取っているんなら大したもんや。雅勝も3段取ってなあ、わしよりも強ようなっとった。どや、剣道しようか。」でも、できなかった。そのときは悲しみで頭の中が朦朧としていたし、悲しみとやるせなさで力も出ない状態だった。 でも、そのときにしなかったことを、ずっとずっと、今も後悔している。息子と剣道をしたくても出来なくなって、息子の代わりとして僕とやりたかったんではないかな。そうであれば、親父さんの気持ちを叶えてあげればよかったと思う。 もっと話をしたかったのだが、親父さんの次の言葉で、すぐにこの場所を離れることになった。「さっき、君が来るちょっと前に正ちゃんが来てくれてなあ。君と入れ違いになったね。」「え~~。あいつが~。」「そうや、初七日だからというて、博多から来てくれとった。娘の久子が一緒について博多まで列車で帰ったところや。」正ちゃんは僕の小学校1年からの友だちだった。気にくわない奴なんだが、結構長い時間を共に遊んだ仲だった。なんで、気にくわないかって? それは後で述べます。「親父さん、もっとゆっくり話をしたいのですが、すぐに追いかけます。すみません。」会いたいと願っていた親友に会うことができない今となっては、他に会いたい奴は数名だけ。その一人がさっきまでここにいた。荷物を持って急いで国道に出た。ローカル線の単線です。とばせば追いつく可能性はあります。もちろん、ヒッチハイクです。スピードを出してくれる車に当たることを願いました。
2007.12.08
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いざふる里へ今回の旅は撮影旅行ではないので三脚やカメラバックは持って行かなかった。それでもカメラの愛機ニコマートは持って行きます。旅にはこれがないと心配です。心細いですから。これがあるだけで落ち着きますね。他には着替えの下着程度です。愛用のリュックを背負って出発です。さて、どの経路を通って行ったのか記憶がない。時間はあるが金はない学生ですから、当然新幹線なんか使いません。おそらく使い慣れた長野発の夜行列車「ちくま」で京都まで。京都には朝の6時頃の到着です。じつは大阪が終点なのですが、そこで乗り換えると、ホムを移らなければいけません。結構しんどいし、どうせ同じ列車になるわけですから、京都で乗り換えるのが正解です。そこで快速に乗り換えて、姫路までいきます。ここからは列車本数が極端に減ります。快速と普通列車を乗り継いで岡山、三原へ。山陽本線といっても各駅停車の普通列車は時間がかかります。新幹線ならすでに目的地に着いているはずです。でも金がないのです。今ならこれくらいの金は時間を買うことと割り切れば出せる金額なんですが、いかんせん貧乏学生です。それに、普通列車でのんびりと旅に出るのも、目的の一つですから。学生だからこそ出来ることでしょうね。というわけで、ここからもっと遠回りをします。三原から呉線を通り広島へ行くことにしました。この呉線は昔SLのC62が走っていました。僕が高校生の頃はまだ走っていたのですが、とてもここまでは遠征出来ませんでした。そこで憧れていた呉線に乗ってみたいという気持ちから乗り込みました。でも、結果として大いに反省でした。なんと、時間がかかりすぎる。ほんとにローカル線でした。時間はあるからとのんびりと構えていましたが、あまりにも駅での停車時間が長すぎて、イライラしました。やっと広島につきました。たしかここで晩飯だった。何食ったか忘れた。 下関をめざす訳ですが、時刻が遅いと各駅停車の列車もあまりありません。下関にはたしか深夜の11時頃だった。ここから時間稼ぎをします。なんせ、宿泊場所がありませんから、夜行列車を乗り換えながら夜を過ごします。 熟睡できないのが難点ですが、さりとて野宿よりはましでしょう。博多を過ぎて、鳥栖駅で降りて目的地まではヒッチハイクで行きました。なんで、鳥栖駅で降りるかって?それは、高校の時にSL撮影旅行で来たときにここで降りたことがあるのです。つまり、かつての場所をめぐる思い出旅行を兼ねていますから。この時やっと朝の6時。つまり京都から24時間かかってこの場所にいます。しんどいですよ。若いからできたことでしょう。普通の人は絶対に考えない時間配分ですね。ヒッチハイクでは3,4台の車を乗り継ぎました。これを書き始めたときは、どの経路を通ったか忘れたと書きましたが、書いている内に思い出してきました。あ~行って、こう行って、あの時の景色がこうで、と思いだしました。さて、目的の厳木町の岩屋駅にようやく着きました。 学生時代に読んだ外国の小説にこんなくだりがありました。「大きな川だと思っていた川は小さな小川だった。大きな道と思っていたら、車がすれ違うこともできないせまい幅だった。市場まではるか遠くまで歩いたようだが、今歩くとあっという間についてしまった。きつい坂を上った記憶があったのに、ゆるやかな坂だった」この文章がまさしくその通りだと実感した。 国道から炭坑街へ行く道を入ると、すぐに懐かしい川に出ました。あんなに大きな川だと思っていたのに、こんなに小さかったのか。ここで蟹やウナギをとったのか。 そこから雅勝の家はすぐそこだ。行ってみた。でも見あたらない。引っ越したのか。川にかかっている橋のそばに果物屋がある。ここは昔のままだ。店のおばさんに聞いてみた。「あの~、この先に住んでいた井上さんはどちらに引っ越されたんですか?」「あ~あ、あの井上さんね。あん人は中学校の用務員さんになっちょるけん、中学校の中に住んどらすとよ。」「厳木中学校ですか?」「そうばい。なしてや。」「息子の雅勝くんと同級なんで会いに来たんです。」「え~、あの息子さんなら、その前死んだったやろ。たしか、そうやったな。」「・・・・・・・。それ、ほんとですか?」奥にいた誰かに確認して聞いていました。「その前、若い息子さん死んだよなあ?」「そやなあ、死んだよ。」「なんでです。なんで死んだとですか。」「風邪やと聞いたけどなあ。風邪ひいて、病院で注射打ったら、具合悪うなって死んだんやて。」茫然です。しばらく言葉が出ませんでした。彼に会うことを期待してきたのに、なんとほんの1週間前に死んだとは。それも風邪で。注射の薬が合わなかったのか。 1週間前といえば、俺が無性に九州に帰りたいと思っていた頃だ。卒業式もあまり気乗りしなかった。それよりも九州に行きたい事の方が、強く心を支配していた。雅勝が俺を呼んでいたのか。 寝不足で意識がはっきりしない自分の体も思考もどう動いたらいいのか、分からない。
2007.12.06
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親友の中で一人だけ高校まで文通を続けていた友がいた。彼とは5年生の時に同級になり、なんとなく気が合った。彼の家は学校近くの小川の側だった。ぼくはこの小川によく釣りに行った。うなぎや、川蟹が取れました。彼の自宅前で川に入って蟹を取っていたら時々彼の母と会うこともあり、挨拶もした。家に上がり込んでゲームをしたこともある。自分の家にはなかった野球盤という当時は人気のゲームでした。 そんな付き合いの中で彼が剣道をしていることを知った。学校が終わると、いつも自然の中で遊んでいた。山で木を切っては刀のつもりでチャンバラごっこをしていた。当時は隠密剣士や猿飛佐助の時代劇ものが多かった。男の子が棒を持てばチャンバラごっこが当たり前でした。遊びでしか棒振りをしたことがなかった自分には剣道という本格的な棒振りがあこがれでした。「ぼくもやりたいなあ」と言ったそうですが、防具は貸してもらうことになり、竹刀だけは買いました。注文した竹刀は学校の教室で担任の先生から受け取りました。白い鍔が印象に残っています。「がんばれよ。先生もやっていたんだぞ。」といいながら、素振りをして見せてくれました。40代の先生でしたから、戦時中は剣道の教練は男子には当然でしょう。戦後、進駐軍の方針で剣道は長く禁止されていました。だから、僕が剣道を始めたのは、国全体の剣道解禁からあまり年月が経っていないときでした。 友だちの名前は井上雅勝といいます。雅勝は強かった。低学年の頃からやっているだけに、同級生の中ではずば抜けていたし、6年生や中学生とも同じように練習していた。体も大きかったし、強くて憧れだった。彼の父が指導者の一人というか、彼の父が剣道教室の師範でした。彼とも試合ができるようになった1年後に僕は転校した。ほんの1年間だけだったけど、自分の剣道との付き合いはここからスタートした。後で知ったことであるが、僕の父とは仲が良く、同じ炭坑夫としてトンネルの中で命をかけた仕事をした仲であった。雅勝の父はダイナマイトの発破作業の事故で目を傷めて、片目は凸レンズのような眼鏡をかけていた。そして指は左手の指が2本欠けていた。右手も親指がなかった。このことは、ずっと後になって知ったことです。子どもの頃は彼の父の詳しいことなど知らずに稽古に通っていた。彼の母のやさしい笑顔が印象に残っている。親どうしの仲が良かったし、人格的にもすばらしい人だったと親父の話でした。九州を離れても彼とは文通が続いた。6年生になっていろんな大会で賞を取ったことや、中学に入って初段を取ったこと、そして2段も。僕も中学では剣道部に入った。「ずっと続けようね。」子どもの頃の軽い口約束だった。でも、この約束が自分の人生を大きく左右することになった
2007.12.05
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卒業式のために寮に残っていたのに肝心の式に参加出来なくてがっくりしていた。同級生の退寮が次々と進み、別れを告げた。不思議なことに連絡先を交換しなかった。俺はこのまま寮に残るとみんなは知っていたから、また会えると思っていた。実際、卒業生は度々寮に帰ってきて、後輩たちと交流していたから、自然と自分たちも今までのように、寮祭には戻ってくるだろうし、寮の後輩を通じてみんなの消息を知ることもできると思っていた。何人かとは実家の連絡先を交換したが、さりとて頻繁に手紙をやり取りしたわけでもない。このあたりが男のあっさりした特徴なのか、それとも自分の性格でしょうか。1級上の先輩とはその後、結婚式に参列して、懐かしい思い出に浸ったことがあるが、その他はどうしているんだろう。 今みたいにメールアドレスもないし、簡単に消息を知る方法もなかった。こんな気持ちから学校ごとの同窓会のスレッドが有るのでしょうね。でも、僕の年代でパソコンをやっているのは少ないでしょう。さて自分のことであるが、3月の中旬になると、無性に九州に帰りたくなっていた。卒業式が終わったら行こう。卒業式が終わったら・・・・ 期待はずれの結果になった卒業式であったが、とりあえず気持ちのけじめはつけた。社会人となっていったみんなは喜びと緊張の時期を過ごしていたと思う。僕は今までと変わらない寮の生活。研究生となるための手続きを済ませるのを待って、出発を考えていた。学費がすごい値上がりでした。今までは1年で36000円でした。けれど、オイルショックの狂乱物価で何もかもが値上がって授業料も96000円になった。半期分の48000円をどう区面するか。当時の親からの仕送りは月に1万円でした。この48000円は当時は大金です。バイトでも工面できない金額だった。結局、親に頼みました。とりあえず、諸々の手続きが終わってやっと春休み気分です。 大学1年生のときは合計8回も九州へSL撮影旅行に行った。ただ、みんな線路沿線ばかりだし、もちろんふる里を訪ねることもなかった。人生の一区切りとして、小学校の友だちと会いたかった。
2007.12.04
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大学4年の冬の事だった。秋からの就職活動もしないままに、ずるずると学生生活を続けていた。昔、寮の先輩のエピソードです。先輩は入社試験の面接でこんなことを言いました。「君は2年も留年していますが、どうしてなんですか?」「社会に出るためのエネルギーを貯めていました。」この言葉でめでたく、合格となったそうです。僕もこの気持ちと同じでした。それで、大学に残ることにした。残るといっても、方法は修士課程に進むか、研究生として残るかのどちらかだった。留年したかったが、授業の単位は全て取得してしまい、留年は認められない。ちなみに取得単位は188単位です。すごい数字です。文系ならともかく理系の工学部系の学部でこの数字は立派なものです。最低は125単位で卒業が認定されます。余分にいっぱい取ったのです。4年生でも授業に出て取りまくりでした。何故なんでしょうかね。変にバカ正直。チャランポランに見えるけど、実は真面目学生でした。当時は今よりは少しだけましな不況の時代でした。1年のときにオイルショックがおこり、卒業の頃は不況で就職が難しかった。レベルを落とせばそれなりに就職はあったけど、もう少し学生をしたい気持ちが勝っていた。結局、研究生として残ることになったのですが、実際の生活は寮で麻雀ばかりの毎日。 時々、アルバイトをして、のんびりと学生生活を満喫していた。麻雀仲間の先輩がつくづく言った。「こんな生活が続いたら最高やけどなあ。もうじき社会人かあ。この寮でのことはいい思い出になるだろうなあ。」1年留年しているのですが、まだ遊び足りないみたい。僕と一緒に卒論研究をした仲間なのですが、もともと頭脳明晰で麻雀も強かった。奈良県の一流企業に就職しました。この年に寮が鉄筋コンクリートに立て替えられて、後輩たちのことも気になっていました。寮は建物も中身も大きく変わっていった。僕はこの新学生寮の建設委員実行委員長ということで、大学当局ともいろいろと折衝したり、寮の規則、規約などもすべて検討していった。寮の自治は3年生が中心となっているのだが、上級生を尊敬する風潮の残った寮でしたから、なにかにつけて4年生の意向が影響力大でした。 2年生になって寮に入ったのは20人だった。見るからに倒壊寸前のボロイ木造建築です。なんと明治40年の建築ということです。(消防署から危険建造物指定を受けていました。3分で焼け落ちてしまうと言われてました。)おまけに、やたらと厳しい。先輩への挨拶がなかったら、リンチをくらうような、今では考えられないような寮だった。ほとんどが運動部の所属で空手部が多く、少林寺拳法部も多かった。寮生は怖いというのが学内の常識でしたね。それで、一人やめ、二人やめていき、3年生では8人、4年生ではたった4人になってしまった。彼女が出来て退寮したのが一人いました。僕を除く3人はそれぞれに就職が決まり、晴れて社会人となって出ていきました。残った僕は最初に書いたように、毎日のように麻雀。 古い寮は2部屋を二人で使っていたが、今度の寮は個室です。時代の流れですね。1月になって新寮に引っ越してから、僕は日記を付けるようになった。 これからのこと、彼女のこと、つたない詩も書きましたね。歯の浮くような言葉が並んでいます。 卒業を控えた3月ごろに無性に九州に行きたくなった。何故なんだろうか?卒業論文の発表会が2月で、卒業式が3月の20日頃だったように思う。卒業式の前日も麻雀をしていた。相棒の先輩は着ていくスーツがないというので出席しないという。僕は何も準備はしていないけれど、特別にあらたまった服装もいらない。平服でいいや。と思っていた。この感覚が寮で4年間も生活していたら人間の非常識です。5時頃に麻雀が終わって、少し仮眠をすることにした。しかし、・・・・・寝過ごした。気が付けば11時。あわてて研究室あたりにいくと、式が終わってみんなでワイワイやった後の散会しようかというあたりだった。 「どうして来なかったんだよ。」仲の良かった友だちが言ってくれたけど、理由を詳しく言うのも恥ずかしい。「巻きずしがあるぞ。食えや。」「ありがとう。」今の時代と違って、女の子で振り袖を着ている者は数人だけです。男もスーツにネクタイ姿はちらほら。ジーパンにジャケット姿が一般的だった。それでも、それぞれが一番いい服を着て参列したのでしょう。なんとなく普段の教室やゼミの雰囲気ではなかった。4年間の思い出を胸に卒業する格別の気持ちを持つ記念の日です。そんな大事な日に・・・・・寝坊とは・・・全国の大学生経験者に聞いてみたい。前夜の麻雀のために寝過ごして、大事な卒業式に遅刻した奴いますか?こんな理由で出席しなかったバカは僕だけでしょう。親が聞いたら怒りますよね。 記念写真も何もない。ただ卒業証書を友だちから受け取って、終わった。人生の節目の行事に参加することなく、ただ何となく過ぎてしまった。感動も感激もなかった。虚しさだけが残った。
2007.12.03
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日曜日の夜ということで、釣り人は少なかった。それでも、好きな人たちが竿を出しています。しかし、ほとんどの人があたりがなく、釣っている人も型が小さくておかずにならないくらい。先週あたりから、大きいのが釣れなくなった。そんな情報を釣具屋でも聞いた。僕はそんなことないべえと、竿を出す。すぐにヒット。でもたしかに小さくなっている。近くで釣っていた人は1時間もあたりがないので諦めて帰ってしまった。僕には頻繁にあたりがある。けれどもよくバレル。バレルというのは、針に十分にかからずに途中で逃がしてしまうことです。結局、ほどほどの大きさを2匹釣っておしまい。同じ位のサイズならもっと釣れるけど、小さいものを持って帰っても食べにくいだけ。針がきれいに外れた小さい魚を逃がしました。それが3匹ほど続いたので、 とりあえず、今シーズンの気合いの入った太刀魚釣りは終了。でも、遊びを兼ねてまた行くでしょう。数ではなく、1mクラスだけを願って、行きます。これから寒くなり、人も少なく、寒い寒いとぼやきながら、海に出かけます。「老人と海」の物語みたいに、ひたすら魚との根比べ。おそらく、今月の中旬までは行きますね。それじゃ、シーーズン終了ではないのでは?と思いますが、やはり釣れても釣れなくてもいいや、と出かけるのは釣りではない。毎日食べている太刀魚も冷蔵庫に入っている分で終わり。いやあ~、今年はよく食べました。満足です。では、次の釣行で大きいのが釣れたら報告します。
2007.12.02
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ふるさとのことを書こうと思っていたのですが、なかなか書けません。人生の長さのほんの僅かの期間なんですが、いろんな思い出がよみがえってくる。ばらばらでいいから思い出を書き綴っていきたい。子どもたちに残す親父の人生。自分たちのルーツを知ってもらいたい。僕が生まれたのは佐賀県の小さな炭坑町。小学校の時に閉山になって、大勢の友だちと離ればなれになった。インターネットが普及してずいぶん経つのに今までふる里のことを知ろうとしなかった。何故なんでしょうか。不思議です。先日、我が母校のHPを捜して閲覧した。驚きでした。廃校寸前のような状態でした。なんと全校児童が42名です。時代に取り残された場所が学校です。時代の最先端を行く企業があれば、その逆もあります。HPの充実度を見れば教育行政の力の入れ方がわかります。寂しい内容でした。仕方ないよね。たった42名だもん。周りの小学校も児童数は激減しています。分校になっている学校が多かった。中には廃校になっているところもある。googleの航空写真もこんな田舎は省略しているみたい。そんな過疎の町です。それでも、一応JRの駅があり、国道沿いの町なので、廃校にはならないでしょう。炭坑が閉山になったら何も産業がありません。働く場所がないので、人口流出が止まりません。かろうじて、人々の目に知られたのが、中島潔さんの作品です。彼は東松浦郡厳木町の出身です。現在は唐津市となっています。平成の大合併によって、東松浦郡はほんの僅かになってしまいました。彼の作品の中にJRの岩屋駅を題材にしたものがあります。数年前に朝日新聞の日曜版に彼の作品が掲載されていました。親父も母も偶然に彼の作品を見る機会があって、その中の一つを額に入れて飾っています。昔、石炭を貨車に積み込むための設備があり、蒸気機関車の給水塔や石炭供給の施設がありました。今はどうなっているのでしょうか。もう一度訪ねてみたい。実は今から30年前に訪ねたことがあるのです。でもそのときはふる里をじっくりと歩き回ることができなかった。それは親友の死でした。長くなるので次回にします。
2007.12.01
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