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今日行われた決勝戦は、智弁学園が高松商を下して初優勝した。智弁・小坂将商(まさあき)監督は、優勝後のインタビューで「あまりにしんどい試合で、優勝が決まったら泣くかと思っていましたが、泣くどころか、思わず笑ってしまいました」。伏し目がちに関西弁で訥々と話す語り口はいつもと同じ、優勝を決めた後もそれは変わらない。まさに「しんどい試合」だった。併殺崩れで1点を先制して逃げ切りを図るも、8回に同点に追いつかれ延長へ。その後も一進一退の攻防が続き、ついに延長11回裏、走者を置いてエース・村上頌樹が中越え適時打を放ってサヨナラ勝ち、優勝を決めた。小坂は勝因に村上の頑張りを挙げる。今大会の全5試合をすべて投げ抜き47イニング、669球、失点はたったの「3」。変化球を注目されるが、伸びのある直球を低めに集める投球術も光った。初優勝に導いた小坂自身も智弁OB。平成7年夏に主将として甲子園出場し、高岡商、青森山田を下して準々決勝は福留孝介擁するPL学園を8-6で撃破するも、準決勝はエース・山本省吾のいる星稜に1-3で惜敗した。卒業後もアマチュア野球界の王道を歩み続ける。法政大に進学すると安藤優也や廣瀬純らとともに3度のリーグ優勝。4年時には主将も任され、ベストナインに2度選出された。ポジションは外野手。その後は松下電器に進みプレーを続けた。転機は平成17年に訪れた。智弁野球部コーチに就任すると、同年12月、それまで監督だった上村恭生氏が急逝し、すぐさま監督に昇進した。当時、上村氏の息子・恭一が野球部に在籍しており、「恭一を甲子園に連れていく。それが上村氏への恩返し」と心に誓った。そして一年半後の平成19年夏、その目標を果たす。甲子園に出場し、初戦(尽誠学園戦)の7回、背番号「13」をつけた恭一を代打でバッターボックスに送り出した。その時、小坂の思いを知る人々はスタンドから大きな拍手を送り、目標成就を祝った。そして勝利を決めた後「言葉で言い表せないほど嬉しい」と、この時も訥々と語りながら笑顔を見せた。朴訥な人柄、それが小坂への印象だ。高校野球監督には能弁な人も多い。星稜・山下智茂、帝京・前田三夫、そして今大会で注目された秀岳館の鍛治舎巧監督も。小坂は彼らの対極にいるが、能弁に語らずとも実行する。今大会も「日本一になる」ことだけを目標にし、今日、見事に大輪の花を咲かせた。(写真)優勝インタビュー、智弁学園・小坂将商監督。NHKより。
2016.03.31
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今日の決勝戦は、古豪高松商と強豪智弁学園の対戦になりました。両校ともに甲子園では、数々の記憶に残る選手、そしてエピソードがありました。■まず高松商。大正13年の第1回選抜大会の優勝校です。この優勝がその後の黄金時代の布石となりましたが、そのメンバーに志摩定一という三塁手がおりました。この志摩選手、同年夏の四国大会(於松山)で宿敵高松中に大敗後、帰途の船中で発熱(胸部疾患)して死去する悲しい出来事がありました。このことが契機となって、以後高松商は志摩選手を供養するため始めたのが「志摩供養」。1回最初の守備に就く際にナインが三塁ベースを囲んで肩を組み、主将が水を口に含んで三塁ベースに吹きかける、あれですね。以前、といっても昭和の時代ですが、テレビで見かけたことがあります。最近はやらないのですかね。ちなみに翌14年も高松商は大躍進。春に準優勝、夏はまたも優勝を果たします。この時、エースは宮武三郎(後に慶應大ー阪急)、三塁手は水原茂(後に慶應大ー巨人ー東映)でした。プロ野球が「職業野球」と蔑まれていた時代、この2人は果敢にこの世界に飛び込んで職業野球を日本の文化に育て上げた大功労者です。※野球どころ高松には、ほかにも偉人がいます。高松高の三原脩(後に早稲田大ー巨人ー西鉄ー大洋など)、そして三原の娘婿にあたる中西太(後に西鉄ー近鉄コーチなど)は高松一出身。■一方の智弁学園。ボクが忘れられない選手は山口哲治(後に近鉄ー南海)です。昭和52年に春夏連続出場した際のエース。この時主将はショートの中葉伸二郎(後に法政大ー日本石油)。春はベスト4入りの原動力となり、夏は小松辰雄の星稜を4安打1点に抑えて勝利するなどしました。そして近鉄入団2年目の昭和54年、山口は八面六臂の大活躍を見せます。先発・抑えにフル回転し、阪急とのプレーオフでは3試合連続で抑えとして登板し、いずれも完璧に抑えて近鉄史上初のリーグ優勝に貢献しました。山口を称えて新聞各紙には「弱冠19歳、山口が近鉄初Vへ導く!」といった大見出しが躍っていました。昨日のことのように鮮明に憶えています。ちなみに、その年の近鉄は日本シリーズを広島と戦いますが、山口の大車輪の活躍がなければ近鉄が日本シリーズに出ていなかったはずで、あの伝説となった「江夏の21球」は生まれなかったのです。あ、今日のセンバツ決勝戦の話題からだいぶ逸れましたが、このへんで・・・。<関連記事>1979年山口哲治、全登板成績たばともさん作成。こんなに詳細なデータをどのようにして作るんだろ? 不思議です!(^^)! http://classicstats.doorblog.jp/archives/46400261.html
2016.03.31
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■たった今、FaceBook(FB)を見て、佐野正幸さんが3月21日に逝去されたことを知りました。佐野さんは近鉄百貨店に勤務する傍ら、近鉄バファローズの応援団長を務められ、団長を引退後はスポーツ作家として書籍や北海道新聞などに執筆活動を続けていらっしゃいました。最近心臓の調子が良くないとFBに何度か書かれていて、ぜひお体を大切にとメッセージを送ると、「大丈夫ですよ!」と明るく返事を下さったものでした。享年63歳。ボクが初めて佐野さんとお話ししたのは、3年前の10月19日、「10・19」25周年トーク&ライブの席上でした。近鉄ーロッテのダブルヘッダー「伝説の10・19」からちょうど25年を経たこの日に、近鉄のことを忘れまい!といった趣旨で開かれたイベントでした。■そしてその翌年、全日本大学野球選手権の決勝は、佐野さんの母校・神奈川大と東海大が対戦しましたが、ボクはこの試合を見に行くことをFBに書いたところ、すぐに佐野さんから「チケットをもってますから、神宮に着いたら携帯に電話をください。差し上げますから」と有難いメッセージをいただきました。まだ一度しか話したことのないボクにですよ。なんと心の広い人なのか。佐野さんは、母校応援のため神宮に駆けつけていたようです。一瞬ご厚意に甘えようかな?とも思いましたが、「佐野さんや神奈川大OBの皆さんがいる場に、自分が加わるのはいかがなものか?」と躊躇して、「ありがとうございます。でも自分でチケットを買いますから大丈夫です」とメッセージを返信し、その後にあらためてお誘いいただいたお礼メッセージを送ったものでした。もしあの時、ご厚意に甘えていたら、もっと深く親交できたかもしれない。それが、いま、ボクの後悔です。■佐野さんが亡くなる直前、野球賭博問題に関わった選手、球団首脳に対して痛烈な批判をされ、巨人に対して公式戦出場の資格はない!と断じていました。おっしゃることはすべてごもっともなこと。良識派というか、常識のある人がこの世を去ったことは悲しく寂しい限り。心よりご冥福をお祈りします。
2016.03.23
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■今日の第三試合。秀岳館(熊本)は、本格派左腕・高橋昴也を6回で10安打6点を奪う猛攻で、花咲徳栄(埼玉)に競り勝ちました。 秀岳館の鍛治舎巧監督は、県岐阜商ー早稲田大から松下電器(現パナソニック)に進み、後に監督を務めた人物。その後はNHK高校野球の解説者としても、つとに有名でした。その一方で、大阪・枚方ボーイズの監督としてチームを幾度も全国優勝に導き、2年前に、請われて秀岳館野球部の監督に就任しました。今日出場した秀岳館はスタメンの大半が、その枚方ボーイズの出身。鍛治舎さんを慕ってはるばる大阪から熊本にやってきた選手たちです。いかに相手が強豪の(主に関東圏のリトルシニア出身の精鋭たちが集う)花咲徳栄であっても、簡単に負けるはずはありません。このまま勝ち進み、もし3回戦で大阪桐蔭との対戦が実現すれば、この大阪桐蔭には同じ枚方ボーイズ出身の吉澤一翔がおり、「師弟対決」「ボーイズ時代のチームメイト対決」となります。■さて、今日のブログでなぜ鍛治舎さんのことを書くか。その理由は、次の出来事があったから。勝利後のインタビューでは、喜びもそこそこに鍛治舎さんは自ら反省点を語り始めました。それは二塁走者に紛らわしい動きがあり、主審から注意を受けたシーンについてです。「日頃から走者は紛らわしい(サイン盗み、サイン伝達の疑い)動きはするなと選手に伝えてあるのに、残念なプレーでした。その選手には厳重注意をしておきました」と。鍛冶舎さんが解説者だった頃、ボクは爽やかな語り口と的確な解説に好感を持ち、最も好きな解説者でした。爽やか、公正、潔白。それが鍛治舎さんに対する印象です。だから不正や間違ったことは似合わないし、きっと信条であろうと。しかもNHKの解説者だった立場上も、采配に一点の曇りも許されるはずがありません。だからそれを表明するため、聞かれもしないのにわざわざ自ら弁明したのでしょう。(写真)早稲田大時代の鍛治舎巧。テレビで見た背番号「24」は、とても輝いて異彩を放っていました。~ 『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)より ~余談ですが、鍛治舎さんが日米野球に出場した際、チームメイトには田尾安志(同志社大)、楠城徹(早稲田大)、山下大輔(慶應義塾大)、中畑清(駒澤大)、山本功児(法政大)、佐野仙好(中央大)らがいました。<関連記事>鍛冶舎巧 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201311170000/
2016.03.23
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■野球賭博問題で、巨人・高木京介投手に1年間の失格処分が下されました。あれれ?他の3投手は無期失格処分だったのに、なぜ高木だけたった1年間? そんな疑問を持ちました。ま、それは多くの方も同じだったと思います。NPB(日本野球機構)の説明によれば、「自主申告制度」を近く創設することで、選手が正直に申告すれば処分を減免するというもの。高木のケースをこれに当てはめたのだとか。でも待てよ、他の3選手と比較して、これは「後出しジャンケン」が功を奏したという印象を拭えません。いわゆる司法取引なんでしょうが、他選手との整合性に疑問が残るし、甘い処分は球界浄化の弊害にもなります。選手にとっては「野球賭博に関わってもその程度か?」と罪意識を軽減させ、NPBにとっては悪しき前例となります。必ず厳罰で臨まなければいけません。■これまでの経緯を振り返ると、巨人3選手の野球賭博問題がクローズアップされて以来、金銭がらみの声出しや賭け麻雀、さらに高校野球トトカルチョの話題になり、そして高木に甘い処分・・・と話題が変遷してきたように思います。これは、誰かが企てた巧妙な仕掛けとしか思ません。野球賭博問題からファンの視線を逸らすため、意図的に話題を庶民感覚で理解しやすい賭け麻雀や高校野球トトカルチョにまで話題をすり替えて、昔は仲間内で1度や2度は経験あるでしょ、そんな大きな問題じゃないんだからと共感を呼んでおいて、その直後に高木に甘い処分を下したー。こうして今、様々なレベルの問題が一緒くたにされて、本当の問題は何かが見えなくなっている状況です。真の問題は野球賭博、八百長があったのか、なかったのかを明確にすることです。そしてその可能性のある選手に対しては厳罰を下す。さらに内部と環境を立て直す、これに尽きます。これがうやむやなままでは、「黒い霧」の教訓が何も生きていないと言えるでしょう。また、今後も同じことが繰り返されるはずです。一連の動きは、何が何でも開幕に漕ぎつけたいNPBの思惑が透けて見えます。「どうせ開幕してしまえば、ファンは、巨人が勝った負けた、で夢中になって野球賭博のことはすっかり忘れるさ」といった薄笑いが聞こえてきそうです。週刊文春の報道を待たねば真相究明できないのか。正義は週刊文春のみにあるのか? ストップ ザ プロ野球開幕。ささやかな抵抗ではありますが、ボクは今季もプロ野球を見ません! きっぱり。
2016.03.23
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注目の21世紀枠対決、岩手・釜石と香川・小豆島の対決は、スコア2-1で釜石が勝利しました。 (写真)スコア。NHKより。以下も同じ。■スター選手や、とりたててガタイのでかい選手がいるわけでもなく。いかにも田舎の公立校らしい両チーム。かつて「伝説の10・19(1988年)」で魅せたロッテ・水上のスーパープレーを「ジス・イズ・プロ野球!」と叫んだABC安部憲幸アナの言葉を借りるなら、今日の両チームの対戦は「ジス・イズ・高校野球!」 。(夏の甲子園出場は難しいかもしれないが)個々の選手がもてる力を十分に発揮した、爽やかさ溢れる試合でした。こういうチームが甲子園に出場できるからセンバツはいいですね、その点にこそセンバツの存在意義があると思います。■さて、試合内容について。ポイントは3回裏、釜石の攻撃でした。安打とボークなどで一死三塁のチャンスをつかむと・・。次打者の1番・佐々木航太(2年)は初球にいきなりスクイズを敢行し、打球は三塁線の内側をコロコロと転がりました。すわっ、スクイズ成功か? と思いましたが、わずかに左に逸れてファール。その後、サインは一転してヒッティングに変わり、一球ボールを挟んだ後、3球目は、左打席に立つ佐々木の内角低めへ。これを佐々木は引き付けてセンターへはじき返しました。巧い! 仮に引っ張ったらボテボテの一ゴロだったかもしれません。それをセンターに弾き返したのは巧みな技術、いや、むしろ気迫というべきか。校訓「鋼鐵の意志」(=釜石の掛詞か?)が結実した勝利と言えるでしょう。(写真)3回裏、佐々木航太がセンター前に先制の適時打を放つ。
2016.03.21
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センバツが開幕しました。 (写真)スコア~NHKより。以下も同じ。「春は投手力で決まる!」なんて言葉が生まれたのは何時の頃だったでしょうか。それがため開幕前の下馬評でも、本格派左腕に注目が集まりました。が、しかし、今日の第三試合、滋賀学園ー桐生第一を見ていて、いえいえそうじゃありませんぞ! なんて叫びたくなりました!(^^)!まず滋賀学園の右腕・神村月光(170cm、65キロ)の投球が素晴らしかった。特に落ちる系のボール、あれはカーブなんでしょうか。がんがんに落ちて、打者のバットがクルクルと空を斬っておりました。後半は疲れが見えましたが、今後が楽しみです。 そして桐生第一の3番手で登板した右腕・金田海都(174cm、75キロ)も良かった。せいぜい直球の球速が130キロ台半ばにもかかわらず、その球速以上のスピード、重さを感じました。物怖じする様子もなく、ズバッと投げ込む直球に惚れ惚れしました。昨年秋以降は公式戦の登板がゼロなのに、度胸だってなかなかのもの。 だいぶ以前、東海大浦安に背番号「4」をつけつつも投手として大活躍した小柄な右腕がいました。名前を忘れましたが(笑)。プロのスカウト好みでないでしょうが、高校野球はこういう投手がチームに勝利をもたらし勝ち進むのです。明日からも小柄右腕に注目しましょ(^^♪
2016.03.20
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201603100000/ ■かくして三原脩率いる大洋がセ・リーグを制しましたが、開幕当初は6連敗を喫する不運に見舞われました。なぜか? その理由は「牧野バット放り投げ事件」と「秋山昏倒事件」にありました。それは開幕当日に起きました。試合前、大洋と対戦する中日のノッカー・牧野茂コーチが、大洋の選手たちにからかわれ、ふざけ半分に大洋ベンチへ放り投げたバットがクルクルと回転して、ベンチの最前列に腰かけていた秋山登の頭部を直撃したのです。(なんと!)ちょっと信じられない話ですが、これは本当の話。決して他意のない冗談(あそび)のはずでしたが、秋山は昏倒したまま救急車で病院に運ばれる憂き目に。 診断結果は「一週間の安静」でした。つまり大洋6連敗の原因はエース・秋山の不在であり、それだけ秋山は大黒柱的な存在でした。振り返れば三原さんは名将であったものの、エースの酷使で勝ち星を稼ぐタイプと言うこともできそうです。西鉄時代の稲尾和久もしかり。三原采配には、絶対的なエースの存在が欠かせません。■一方、パ・リーグを制したのは、西本幸雄監督の大毎でした。西本さんもこの年就任した新人監督。自慢の「ミサイル打線」が炸裂しての優勝ではありますが、他球団の弱体化という点も見逃せません。大和さんは言います。以下、『野球百年』(時事通信社)より。「(2年前の)昭和33年に優勝した西鉄は前半で脱落した。三原の後に川崎が監督として座ったが、三原の大洋行きの気持ちが一年前から球団内外に漏れていただけに、ナインの結束をはばんだようであり、34年度と同じように故障者が続出した。(前年の)34年優勝の南海は、阿修羅の活躍をして優勝をもたらした杉浦が二年続けて勇投したが孤立無援、杉浦をカバーする投手の台頭がなかった」。■セは大洋、パは大毎が制して、両チームによる日本シリーズが行われました。打撃に優れる大毎が有利と下馬評はありましたが、西本さんに悲劇が襲い、結果、大洋に軍配が上がりました。西本さんの悲劇、それは昭和54年の「石渡のスクイズ失敗」と重なる、西本さんにとって苦い経験でした。 <関連記事>近鉄・石渡茂のスクイズ失敗http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201304160000/ (写真)大毎オリオンズのミサイル打線。左から葛城隆雄、榎本喜八、田宮謙次郎、山内和弘、柳田利夫、矢頭高雄、八田正。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2016.03.18
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いまプロ野球界は、野球賭博の話題で持ち切りであります。が、しかし、当ブログはそれをスルーさせていただき、【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】シリーズを続け、どんどん時代を遡っていきたいと思います。前回が1961年でしたので、今回は1960年(昭和35)のことです。■この当時、世の中では「安保(反対)闘争」が吹き荒れました。東大生の樺美智子さんが警察隊と衝突して亡くなったのもこの年です。時の岸信介首相はデモを矮小化するため「野球場や映画館は満員」(つまり、国民の大多数はデモ隊とは関係なしに野球等に興じている)と発言、さらにNHKに対して「偏向報道」と警告して物議を醸しました。なんだか昨今の権力者の言動と酷似していますね。また、朝日訴訟について東京地裁による違憲判決があったのもこの年ですし、カラーテレビの本放送が開始され、歌謡界では西田佐知子の『アカシアの雨がやむ時』がヒットしました。♬アカシアの 雨に打たれて このまま 死んでしまいたい~♪ 西田佐知子はなぜ死にたかったのか、その歌詞までは覚えていませんが。■そんな混沌とした様相は、プロ野球界においても同様でした。昨年まで西鉄ライオンズを率いて数々の実績を作った三原脩が、万年最下位だった大洋の監督に就任するや、いきなりリーグ優勝、日本一を果たし、それまであった球界の序列をたった一年で覆してしまったのですから。大和球士さんは、尊敬の念を込めて三原さんを「教祖」と呼びます。そして、日本一に導いた勝因として2つの点を挙げます。ひとつは、実績十分の三原に対して選手たちは無条件心服であったこと。二つ目は、三原はその選手心理を利用して、教祖的な態度を貫いたこと。たとえば、大和さんは、こんな例を挙げています。以下、『野球百年』(時事通信社)より引用。「監督就任直後のキャンプの第一声は、『・・・こんなに優秀な選手が多くいるチームとはキャンプインまで知りませんでした。優勝する実力のあるチームです』。前年度までビリ専門だったチームを知っている記者たちは、当然疑問を抱く。ところが、三原教祖のご託宣はこう続く。『優勝チーム・・・と私が言うと諸君(記者)は疑うが、疑うほうがどうかしている。形は違うが秋山は稲尾級の勝星を挙げられる投手だし、近藤和、桑田の打力は豊田、中西に匹敵します。捕手土井に至っては西鉄に見当たらぬ好捕手ですよ・・・』。三原監督時代の西鉄捕手は和田博だったと思いますが、彼はこの発言をどう聞いたのでしょう?(笑)ま、それはさておき、活字になった三原談は、選手たちの長年の劣等感を吹き飛ばし、自信を植え付ける。マスコミを利用する技術では三原は抜群である。と同時に、三原は選手に催眠術をかけたのだ。 ■まさに三原魔術とでも言いましょうか。でも、大和さんの挙げる上記2点だけで日本一になれるはずもありません。大洋の改革には、まだまだ他の要素も、あちこちに散りばめられていました。球団常務という肩書をつけて大洋に乗り込み、まず三原の野球観を土井淳捕手を利用して他選手に徹底的に教え込んだことが挙げられます。そしてマスコミの関心を集める目的で、意図的に春季キャンプをどのチームよりも早く開始したこと(つまり、記者にとってネタ枯れの時期ゆえ、皆、大洋のキャンプを訪れる!)や、成績が伴わずに腐っていた投手を再生させる(権藤正利)、他球団で燻ぶっている選手を引き抜く(近鉄・鈴木武)などの戦術も見逃せません。ちなみに、優勝した昭和35年のベストオーダーは、下記のとおりです。1(8)渡辺清2(7)岩本堯3(3)近藤和彦4(5)桑田武5(9)黒木基康6(4)近藤昭仁7(6)鈴木武8(2)土井淳そしエースは、もちろん秋山登でした。(写真)日本一のチャンピオンフラッグを背に、三原脩監督(右)と中部謙吉オーナー。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2016.03.10
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今回は、鶴岡一人さんについての最終回です。■鶴岡さんと言えば「グラウンドにはゼニが落ちている」が有名です。プロ野球人ならば、金を稼げ!そのためには人の2倍、3倍の練習をしろ!!と、選手を鼓舞するものでした。しかしご本人は、この言葉の独り歩きには弱った様子で、「多少誤解されているようだが、私自身、さほど金銭に執着したことはない」と、銭ゲバのごとき世間からの人物像をキッパリと否定し(笑)、その上で、金銭のことで球団にかみついたのはたった一度だけだったと述べています、それは南海の監督時代のことでした。「選手の契約更改交渉の席で、球団側が『監督でもこれだけだから、これで辛抱しろ』とやった時だ。監督がもっともらってくれたら・・・と選手たちに文句を言われてそれを知り、『正当な評価をもとに年俸を決めるべきものを、私のサラリーをダシにするとは卑怯』とねじ込んだものだった」。■さらに、南海入団時の契約金についてエピソードを明かします。もし兵役にとられて死んだらこの契約金を両親に送ってくださいと、大学生時代から公私ともに世話になった医師に預けたそうです。その後、鶴岡さんは予想通りに兵役にとられて戦場に赴くのですが、戦後になって会うと、その医師は契約金全額を満州重工業の株に投資して失敗、すべてを失くしてスッカラカンになっていたそう。ただただ平謝りする医師に対し、「心配しないでください。私は若いから、これから稼ぎます」と言って穏便に済ませたとか。「契約金の額は、大企業の部長クラスが住む家を一軒買える額」と、鶴岡さんは表現しています。具体的な額はわかりませんが、きっとすごい額???だったのでしょう。嘆いたり、怒ったり、訴えたり・・・、それが当たり前と思いますが、「無一文になったおかげで、かえってファイトがわいたのだ。わたしは決して先生(医師のこと)を恨んだりはしていない」と明るくキッパリ。「グラウンドにはゼニが落ちている=お金にがめつい鶴岡」の図式を、本人はよほど気にしていたのでしょう。そうではなく、むしろお金には無頓着だったことを懸命にPRするあたり、そういった内心を忖度してしまいます。■最後に少年期、青年期の交友記を・・・。鶴岡さんが少年時代を過ごした広島・呉には、一緒に草野球に興じ、ともに広島商で甲子園優勝した浜崎忠治がいた。浜崎はのちに中日を経てプロ野球審判員となり、有名な平和台事件(昭和27年)では主審を務めていた。浜崎の実兄・真二も阪急で活躍した元プロ野球選手。また、昭和6年に広島商で甲子園優勝した際のご褒美はアメリカ遠征だった。ノンプロやハイスクールを相手に30試合を戦い、28勝2敗の成果を収めた(本人の記載より)。相手チームには、後に親交を深めるキャピー原田がいたし、最後に立ち寄ったハワイのチームには、後に巨人で活躍するウオーリー与那嶺がいた。鶴岡さんの著書には与那嶺のことは書かれていないが、与那嶺は覚えている。自著『野球を変えた男』に「日本のチームに、ショートを守る大柄な男がいた。それが鶴岡だったと、後になってわかった」と。そして、法政大に進学すると、最上級生に七色の変化球で法政を六大学リーグ初優勝に導いた若林忠志がいた。また、少年時代にライバルだった藤村富美男に法政入学を勧め、入学する段取りが整っていた。しかし、鶴岡さんの『私の履歴書』によれば、「藤村のいる呉港中が神宮大会で上京した時は、法大グラウンドを練習場に提供した。藤村君の打球がフェンスを越え、通行中の老婦人にケガをさせたことがあったが、その治療費も法大がもった。それなのに、藤村君は阪神へ入団した」。う~ん、なぜだ?■さて、鶴岡一人さんについて、計5回に分けてブログに書きました。その間中、ボクの頭の中に聞こえていたのは、鶴岡さん独特のダミ声?(笑)です。その昔、NHKのプロ野球中継といえば、解説者は鶴岡さんであることが多かった。戦況や選手心理を冷静に伝えるも、時には突き放したような語り口に特徴があったと記憶しています。したがい、ボクにとっての鶴岡さんは南海の選手・監督としてではなく、NHKの解説者としての印象が強いです。このブログは今後もどんどん時代を遡っていきます。鶴岡さんのことに触れる機会がますます多くなると思いますので、途中でネタ切れせぬよう、このへんで一旦終了とします。 <まとめ>鶴岡一人さんが日経『私の履歴書』で語ったこと。(1)野村克也とのよき思い出と、憤りhttp://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601280000/(2)穴吹義雄を得るも、長嶋茂雄、広岡達朗、稲尾和久を逃すhttp://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602020000/(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(上)http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(下)http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602230000/※その他の関連記事として、「蔭山死して、鶴岡かえる」http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201502010000/(写真)法政大時代の鶴岡一人。~『私の履歴書ープロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より~
2016.03.04
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