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大和堆近辺で、中国と日本との間で戦闘が発生。 流氷による事故で、中国の哨戒艇一隻と乗組員が失われたことがその契機。 日本のメガフロートや、その支援の艦船は、制限海域からすべて撤収される。 制限海域を支配下におこうとしていた中国は、この時を待っていたのだった。 日本人の技術を結集した全地球の環境予測システム・地球シュミレータは、 人類滅亡に繋がるような地球規模の気象変動と、寒冷化による食糧危機を予測。 あくまでもメガフロート建設に固執する中田首相は、米国との同盟に懸けるが、 米国は、情報を独占・操作し、自国の利益を最優先に外交を展開する。 ***『日本沈没』で示された、領土を失った日本人の歩むべき道筋は、中田首相との会談の中で、鳥飼外相が語った言葉に集約されている。国家や土地にしばられることのない生き方を、日本人は模索すべきであり、そのことなしに、日本も世界も、氷期という危機を乗り越えることは出来ないと。そして、鳥飼外相が、 「コスモポリタニズムの考え方は、 宇宙から地球を俯瞰する視点を持ち合わせているのです。」と述べた言葉の真意は、最後の最後、数世紀後の世界を描いた終幕部で明らかになる。氷期が進展し、広大な氷床で覆われた地球。しかし、赤道直下の浅瀬には、多数のメガフロートが浮かび、居住人口が、一千万人を越えるものもある。ただ、この地球上に、日本の版図が再建されることはなかった。そんな地上の世界を見つめながら、二百家族の日本人移民を乗せた恒星間航宙船が、地球を離れていく。船内には、「君が代」の歌の輪が、次第に広がっていく。沈んだ国に対する鎮魂と、あらたなる出発を暗示するように。 ***物語後半は、国家間の政治的な駆け引きや、その中で奔走する登場人物達の活躍で、スピード感・緊張感に溢れています。阿部玲子と小野寺との再会も、クライマックスにおける見せ所の一つでしょう。ただ、最後の結末は、あまりにSFになりすぎて、私的には、ちょっとですが……。
2008.10.27
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1973年に公開された映画では、 日本列島が、ボロボロになりながら沈んでいく様や、 人々が自然の脅威に恐れおののきながら、海外へと逃げ延びていく様に、 とてもリアリティがあり、ズシンと来るものがありました。 また、日本列島と運命を共にする道を選んだ田所博士役の 小林桂樹さんの演技が、とても印象に残りました。 その後作られたTVドラマも見ましたが、こちらは、ドラマ自体よりも 五木ひろしさんが歌っていた主題歌『明日の愛』の印象の方が強いです。そして、クサナギ君主演の、2006年公開・リメイク版映画も見ました。揺れたり、爆発したりしながら日本列島はボロボロになっていくんですが、自然の脅威や、人々が抱く恐怖心、切迫感というものは、もう一つ……。この緊張感の無さが、当該作品の評判が、あまり良くなかった一因かと思われます。 ***2006年のリメイク版映画作品では、「国民が、国土を失うとは、どういうことか」という本来のテーマは、見事に薄まってしまいました。しかし、その頃に、刊行されたのが、本著『日本沈没 第二部』です。私は、映画やTVドラマで『日本沈没』を見たことはあるものの、実は、小説としては、読んだことがありません。ですから、『日本沈没』は、日本列島が沈んでしまって、日本人が、各地にバラバラになって放り出されてお終い、という作品だと思っていました。ところが、そんな認識は、完全に間違っていたようです。実は、『日本沈没』は、まだ終わっていなかった。小説では、最後に「第一部 完」とあったのだそうです。『日本沈没 第二部(下)』の「あとがき」でも、著者の小松左京氏自身がそう述べています。「日本人とは何か、日本とはどんな国なのか」をテーマに書き始められた本作品は、実は、日本列島が沈んだ後こそ、小松氏が本当に描きたかったもののようです。しかし、その後、色んな事情が複雑に絡まって、世に出ることがなかった。そんな第二部の発行が、プロジェクトチームの結成により実現したのは、嬉しい限りです。 ***読み始めて、しばらくの間は、テンポも緩やかで、前作との繋がりも、あまり感じられず、「やっぱり、続編っていうのは、この程度のものか……」という感じでした。ところが、慰霊祭の最中、スクリーンに水中に沈んだ日本の風景が映し出されるあたりから、「おっ、いよいよ始まりましたね!」っていう感じで、俄然面白くなっていきます。何と、日本の領土の一部は、海中に没することなく、生き残っていた。それは、白山連邦の一部が、岩礁として海上に突出していたもので、白山岩と呼ばれる。そして、そこから半径200海里以内は、日本の排他的経済水域であり、そこには、近隣諸国に通告および恒常的な注意喚起を行えば、人工の構造物を建設が可能。25年前に大異変が起こり、日本列島が海中に沈み去ったとき、そこに住んでいた人々を、海外に脱出させる事業を、中心となって推進したのが中田。現在、彼は首相となって、国の復興を成し遂げようとしている。その一大プロジェクトが、メガフロートという、巨大な人工島の建設だった。しかも、その計画は、半端なものではない。「当面の居住人口を百万人と想定する」という、周囲の想像を遙かに超えたもの。第4章になると、阿部玲子が登場。1973年公開の映画では、いしだあゆみさん、テレビドラマでは、由実かおるさん、そして、2006年公開の映画では、柴咲コウさんが演じた役所ですが、これらは、少しずつ原作とはキャラクター設定が違うので、要注意。彼女以外に、本作品では、たくさんの新たなキャラクターが、次々に登場し、そのそれぞれが、部分部分で、中心となってストーリーが展開するので、途中で、誰が誰だか、よく分からなくなってしまいました。でも、もう少し読み進めていけば、頭の中が整理できてくるのかも。前に戻って、個々のキャラクター設定を、いちいち確認するのも面倒なので、このまま、下巻へと突入します!
2008.10.26
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本著のタイトル「シンガポール・フライヤー」は、 上巻を読んだところまででは、一切登場せず、 それが何なのかについて、気にすることがなかったのだけれど、 実は、世界一の観覧車の名前だったんですね。 富士スピードウェイ、日本GP決勝でも「らしさ」を見せつけた美由紀さん、 ファーストクラスで、次のGP開催国、シンガポールへ。 そこで、カトキツグミ六千羽に、一羽ずつヴェルガ・ウィルスを接種・感染させ、 生物兵器として用いるカラクリを、専光寺雄大とともに突き止める。高度百メートル、観覧車ゴンドラ上での自爆テロ騒ぎや、レーシング・チーム同僚の轢き逃げ容疑騒ぎを、次々にクリアし、さらには、夜間レースの最中、観覧車で、ノン=クオリアと対決。全てを機会の支配に委ねようとする、新たな強敵の一員を、見事に突破。最後は、一人乗りのプロペラ機である、FEデュラス邀撃機で、日本に向かおうとするカトキツグミを、サンハイミ島火口に誘導。さらに、それを阻止しようとする無人機アンノウン・シグマを撃墜。日本を、そして世界を、ウィルス感染の危機から救うことに成功する。それにしても、本編序章や前半部分で登場した、「ペピエマン・デ・シガル」や「不思議の国のアリス症候群」が、クライマックスシーンの、カトキツグミ誘導の手段として用いられたり、アンノウン・シグマの弱点、直径7センチの穴を撃ち抜く力となったのは、さすが。その他にも、数々の最新情報と、幅広いジャンルのアイデアを、練りに練って、物語の要所要所に、こっそりと忍ばせつつ、ストーリーを展開。「ああ、あのことは、こんな場面で、こんな風に生きてくるのか。」と、何度も何度も、読む者を唸らせてしまう。一流のシェフのごとく、あらゆる素材のよさを知り尽くし、それらを、縦横無尽に使いこなしながら、見事な一品に仕上げる技量は、「流石は、松岡さん!」と、言うしかない。これまでの作品の中でも、とびっきりの美味しさでした!!
2008.10.26
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松岡さんの作品を読むのは、本当に久しぶり。 千里眼シリーズも新作が出ているのは知ってましたが、サボってました。 そのため、『千里眼 岬美由紀の正体』のストーリーも、記憶が薄れがち。 でも、本作を読むと、ちゃんとポイントは思い出せるようになっていました。 さて、美由紀さん、今回も登場するやいなや、 いきなりガヤルドをカッ飛ばし、フランス空軍の輸送機の危機を救ってしまう。 ここまでは、いつも通りのじゃじゃ馬ぶりのように思えたのですが……。 ところが、その後は、ちょっと様子が違ってた。何と、前回のお話において、衝撃の自身の過去を知ったことが原因で、精神疾患を患ってしまい、臨床心理士を求職して療養中とのこと。それでも、危険を察知すると、見過ごすことが出来ない彼女は、前後の見境なく、首を突っ込んでしまうという、いつものパターン。それでも、なかなか本調子に戻らない美由紀さん。ところが、成り行きから、F1レースにドライバーとして参戦することに。それは、渡り鳥を生物兵器として用い、ヴェルガ・ウィルスを拡散している組織が、F1チームと関係しているという事実を政府が掴み、美由紀さんに協力を求めたため。このあたりから、だんだん本来の調子が出てき始めました。そして、気になる存在、パナソニック・レーシングの専光寺雄大が登場。彼はF1マシンのドライバーで、相当な動体視力を持つとともに、心理学にも造詣が深い。似たもの同士の二人の関係は、これからどうなっていくのか?そして、謎の無人機アンノウン・シグマとヴェルガ・ウィルスを駆使し、世界に脅威を及ぼそうとしているのは、一体何者なのか?今回は、上巻を読んだだけでは、全く予想がつかない展開。いざ、下巻の読書開始です!
2008.10.13
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著者も書いているように、とっても薄い本です。 だから、サクサク読め進め、あっというまに読了。 帯には「この本には、ビジネス&自己啓発書100冊以上の価値がある!」。 で、実際のところはと言うと……。 中身は、いたってシンプル。 運命の谷を前にして引き返すのは、よい考えではない。 行き止まりを前にして引き返すのは、賢明な考えである。(p.107) このことを、繰り返し述べるため、100ページ余りを費やしているのです。 目の前にあるのは、運命の谷、絶壁、行き止まりのうち、どれだろう? 行き止まりだとしたら、どうすればそれを運命の谷に変えられるだろう? 粘り抜けば、いつかは報われるのだろうか?(中略) いつの時点でやめるべきか? これは今、決めておかなくてはいけない。(p.111)進むべき時に進み、引くべき時に引く。言っているのは、それだけであり、それに纏わる若干のエピソードが示されているものの、いつ進めばよいのか、いつ引けばよいのかの見極めについては、ほとんど触れていない。でも、それが一番、肝心なところだと思うのですが……。その点、神田さんが解説で述べていることの方が、まだしっくりと来ます。本著が抽象的な論述で終始しているのに比べ、神田さんの春夏秋冬理論は、かなりイメージしやすいものです。ただ、こちらについても、詰めがやや甘い気がしますが……。
2008.10.13
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いじめ自殺が続いた直後の平成18年11月29日、 教育再生会議が政府に提出した「いじめ問題への緊急提言」。 それは、学校・教師・生徒に多大な義務を負わせ、 政治や行政は安全地帯に批難するという内容。 この欺瞞に満ちた行為に対し、都庁や都内公立校で勤務した経験を持つ著者が、 「いじめ議論」のレベル向上を目指し、執筆したのが本著。 様々ないじめ情報を分析し、どう対処すべきなのかを明らかにしようと、 これまで学者達から示されたモデルを駆使し、さらに修正を加えていきます。 ***まず、藤田英典氏の「いじめ四類型」が提示されます。 タイプ1 集団のモデルが混乱・低下している状況(アノミー的状況)で起こる。 タイプ2 なんらかの社会的な偏見や差別に根ざすもので、 基本的には<異質性>排除の論理で展開する。 タイプ3 一定の持続性をもった閉じた集団の中で起こる (いじめの対象になるのは集団の構成員)。 タイプ4 特定の個人や集団がなんらかの接点をもつ個人にくりかえし暴力を加え、 あるいは、恐喝の対象にする。(p.35)次に、これを、スクールカースト(クラス内ステータス)という概念を加え、修正します。スクールカーストは、「自己主張力」「共感力」「同調力」の総合力(コミュニケーション能力)を主因として決定され、各人はキャラクターに応じ、期待される役割が与えられます。著者は、これを修正藤田モデルとして示し、「何故、半数以上の子ども達が、いじめられる方にも理由があると思っているのか」「何故、多くの子ども達がいじめを見て、見ぬふりをするのか」を説明していきます。人はみな平等であるという理想が、現実を見誤らせていると、著者は言います。続いて、内藤朝雄氏の「いじめの発生メカニズムモデル」を紹介します。しかし、内藤モデルだけでは、「全能欲求」の具現化として、何故「いじめ」が選択されるかは解明できないと言います。そこで、「どのような場合に具現化手段として、いじめが選択されるのか」について、メリット・デメリット分析を行っていきます。さらに、内藤モデルでは、「加害者」になりやすいタイプだけが考察され、「被害者・加害者以外の者の行動」が、その対象となっていないと言います。そこで、ゲーム理論を用いて、「被害者・加害者以外の者の行動」を考察していきます。そして、その際、森田祥司氏らの「いじめ集団の四層構造」も用いられます。 多数の観客が存在する場合や傍観者が加害者を恐れている場合、 いじめを行うことで加害者のスクールカーストは向上します。 だから、加害者の引き金は引かれやすくなるのです。 ところが、観客が存在せず、傍観者もいじめに冷ややかな場合は、 いじめを行うことで加害者のスクールカーストは下降します。 この場合、自分より弱い者を見つけても、 内部によほど強いいじめ衝動を抱えている子どもでない限り、 いじめという行為には及ばないでしょう。(p.90) ***その後は、「いじめは何故隠蔽されるのか」や「いじめ妄言」「ダブルスタンダード社会」について論述されています。そこでは、当たり障りのよい言葉に終始するのとは真逆の、今までタブー視されてきたような内容に、敢然と立ち向かう姿勢が示されています。現実を直視することの大切さと、それが思うほど簡単でないことが伝わってきました。
2008.10.13
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一時、テレビでモバゲーのCMが盛んに流れていた。 広末涼子やにしおかすみこ、南明奈などが登場し、なかなか大々的だった。 この本を読んだのは、ちょうどその頃だったので、ちょっと記憶が薄れ気味。 でも、一応、記録としてまとめておこうと思います。 本著で描かれているのは、モバイル市場の変化と その変化の中で、ディー・エヌ・エーが、どのようにして成功を収めたかである。 そのスタートは、通信速度の向上、即ち第三世代ケータイの登場。 コンテンツの大容量化が進み、パケット定額制が普及していく。ケータイのインターネット常時接続環境が実現した頃、番号ポータビリティが開始される。そのことが、キャリアを越えたポータルをが求められる一因となっていく。コンテンツを公式サイトに登録しさえすれば、勝ち組になれたのは、もはや過去の話。検索エンジンも導入され、勝手サイトの勢いが一気に増していく。そんな急成長する勝手サイトの筆頭がモバゲータウンである。無料ゲームから始まり、今や一大コミュニティサイトにまで成長。アバターも重要な役割を果たしているという。さらに、ケータイは個人を特定しやすいことが、セキュリティ面でプラスとなる。 ***本著が発行されて、すでに1年3か月。その間にも、いろいろな新しい動きが起きている。アイシェアが、今年10月8日に発表した「健全サイトに関する意識調査」では、健全だと思うサイトのトップは「mixi」で30.7%、「モバゲー」は17.9%でこれに続く。そして、同調査回答者の、携帯電話からの各SNSの利用状況は、「どれも利用したことがない」が57.7%で、「mixi」27.7%、「2ちゃんねる」25.4%。その他については、10%未満という結果だったそうだ。変化の激しいモバイル市場で、成長を続け、生き残っていくことは、なかなか難しい。
2008.10.13
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エイリアンと言っても、本当に異星から来た宇宙人というわけではありません。 ちゃんと、地球人の両親から生まれ、地球で育った地球人です。 でも、他の人とは、ちょっと違うところが……。 それは、彼女が高機能自閉症だったからです。 そんな彼女を妻にした夫が、その生活ぶりを綴ったのが本著。 でも、ちょっとばかり、その分野のことを勉強している人にとっては、 メチャクチャ驚くようなことが書かれているわけではありません。 色んな場面での彼女の反応は、典型的なものと言えるかも。 ***本著を読み進めながら、途中、ずっと引っかかり続けたことが二点ありました。まず一つ目は、妻がアルコール依存による肝炎で生死の縁を彷徨った後、妻自身が行動を起こし、専門医から「自閉症スペクトラム障害」という診断を得たのに、その事実に対して、夫が何の賞賛の言葉も述べていないこと。自分自身が高機能自閉症である人間が、自らの力でその事実に辿り着くなんて言うのは、もう、言葉では言い尽くせないほどの努力だと思うし、本当に凄いことだと思う。そして、それまでの妻の様子を見ながら、そのことに全く気付くことが出来なかった夫が、自分の至らなさや、申し訳なさそうな素振りを、微塵も見せないのは、どうしてなの?もう一つは、そんな妻を幼少時から育ててきた両親に関する記述が、ほぼゼロと言うこと。普通、妻が夫にとって理解に苦しむような行動を続け、トラブルが多発しているのなら、妻の両親に、妻のそれまでの様子を聞いたり、どのように対処すればよいか相談するだろうから、夫にとって、妻の両親との関わりは、必要不可欠で避けて通れないもののはずなのに……。 ***しかし、それらの疑問は、「著者あとがき」で一気に解決!なるほど、そういうことですか……。でも、その控えめさや、そのことには触れられたくないっていう感情は、何と表現すればいいのか、適切な言葉が見つからないけれど、「普通」ですよね。それにしても、妻の前向きな姿勢や頑張りは、本当に素晴らしい。ただ、それを支え続けている夫も、実は、本著で描かれている以上に凄いのだと思います。妻が気付いていないような気遣いや忍耐等で、きっと溢れているはず。今度は、夫のホンネを聞いてみたいな。
2008.10.13
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かなりハッキリとモノを言う二人の対談。 「こんなの活字にして、出版して大丈夫なの?」と、 こちらが心配になる場面もチラホラ。 でも、こうやってちゃんと手元に新書があるんだから、大丈夫なんでしょう。 対談の主は、 神戸女学院大文学部の内田樹教授と 都立墨東病院の春日武彦神経科部長。 文学者とお医者さんという違いはあるものの、同年代のお二人。内田さんの著作は、これまでに何冊か読ませてもらい、ブログに記事も書いてます。『下流志向』と『子どもは判ってくれない』ですが、特に『下流志向』は、私にとって、とてもインパクトのある本でした。しかし、内田教授にとっては、他の多くの出版物とは多少趣が違うものなのかな。一方、春日さんの著作は、まだ一冊も読んだことがありません。しかしながら、全く興味の範疇外の人だったわけではなく、私が「購入候補」としている本の著者であることが、本著表紙裏「著者略歴」で判明しました。その本は、『不幸になりたがる人たち』です。 ***さて、本著の対談の中で、私が気になった内田教授のお言葉は、次のようなもの。 たしかに、ひきこもりにしても、その状態にとどまっているといろいろ困ることがあるけれど、 その状態が解決してしまったら、 つぎには現実的な問題に直面せざるを得なくなるというのはありますからね。(中略) それなら、病気のままでいる方が、病気を治すことよりも利益が大きい。 そうなると直りたいという意欲は殺がれますよね。(p.33)なるほどなぁ、という感じです。当事者にとっては、聞き捨てならない発言とも思えますが、実際のところは、かなり言い得て妙なのではないかと。 いま家庭がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、 本来ロングスパンで正否を見るはずの結婚や親子のあり方を 「早く決断しろ、早く結果を出せ」というビジネス的な時間間隔が歪めているせいじゃないかな。 (p.91)これも、ごもっともなご意見です。能率・効率が最優先され、数値的な結果を即刻求められるのが現代社会。大人も子どもも余裕というものを失い、ケータイに24時間監視され続け、プライベートがプライベートでなくなっている現状に、皆さん本当によく耐えている。 ぼくは家族というのはあまり語らない方がいいという考えなんですね。 特に、親子は議論なんかしない方がいい。 ぼくの家には、「政治とセックスと宗教の話はテーブルで絶対に議論しないこと」 というルールがあるんです。 これは家族で語ってはいけない話題なんですよ。(p.119)なかなか斬新なご意見!でも、これは目から鱗が落ちる思い。親子の関係とは、そういうものでないと成り立たないのかもしれません。 たぶん洋服というのは、その人にとって一番弱い部分とか 感受性のやわなところが外部に露出しているところなんでしょうね。 粘膜みたいに。きっと。 だから、すごく傷つきやすいんだ。 よく「洋服は名刺代わり」と言いますが、名刺どころじゃない。 ある意味、「恥部」なんでしょうね。 だから、「人を見た目で判断するな」というのはまったく無意味なことばであって、 見た目こそが最良の判断材料になると思うんです。(p.128)逆説的で、とても面白い。そして、急所を突いている! 名医って、治せる患者しか治さないんですよね。だから名医と言われるわけで。(p.162)なるほど、そうだったのか!! *** 少々本文の補足をしておこう。まず、人間が精神的に健康である条件について、 四つばかり挙げておきたい。 ●自分を客観的に眺められる能力。 ●物事を保留(ペンディング)しておける能力。 ●秘密をもてる能力。 ●物事には別解があり得ると考える柔軟性。(p.224)これは、春日さんの手による、締めの章からの抜粋。特に2つ目のペンディングしておける能力というものには、思わず「なるほど!」。この締めの章を読んで、春日さんにも、俄然興味がわいてきました。とりあえず、『不幸になりたがる人たち』を購入することにしましょうか。
2008.10.12
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五十嵐さんのデビュー作。 単行本化や文庫化に際し、加筆訂正が施されたらしいが その後の作品に比べれば、洗練度はやや劣るといった印象。 しかし、それはあくまでも、後に本人自身が書いた作品に比しての評価。 五十嵐さんについて、何も知らずに本作を読めば、十分すぎるほど素晴らしい。 デビュー作で、このレベルは本当に恐れ入る。 そして、その作品ですら、洗練度が落ちると感じるのは、 五十嵐さん自身が、着実に進化を遂げている証拠でもある。 ***170ページから始まる、原田が本間に語るインターネット論は、なかなかの説得力。 「インターネットてのはね、お前、あれは実体は誰にもわかっちゃいないんだ。 今や誰もがインターネット、インターネットってお題目みたいに口にしてるがね、 あれは悪魔の住処だってことに気がついていないのかな」21世紀が始まった頃、本作の原型が書かれた時点で、すでにこの部分が書かれていたとしたら(後に加筆されたのではなかったとしたら)、相当の慧眼と言えるのではないだろうか? 「それとも、わかっててわざと言わないようにしているのかな。 確かに便利なものかもしれないが、悪意が介在したら、 すぐにとんでもないものに変わってしまってしまう代物なんだぜ。」この指摘は見事に的中し、今やネットが絡むトラブルや事件は後を絶たない。先日の韓国女優自殺に見られるように、ネットの有り様が、真剣に問われるようになってきている。 「インターネットっていうのはな、有史以来人間が初めて持つ、 個人から全世界へ向かってのメディアなんだ。 そう言うと聞こえはいいが、実はお寒い限りでね」そして、極めつけの一言。 「本来メディアってのは公共性と責任がなければ存在してはならないものだよな。 その部分がまったく欠如しているメディア、それがインターネットの本質なんだぜ。」 ***それにしても、リカとは、一体何者だったんだろうか?普通の人間でないことだけは確かだが、怨念の塊みたいなものなのだろうか?そして、エピローグ後のリカは、どうしているんだろうか?不明確な結末にケリをつけるための行動を、五十嵐さんは予定しているのだろうか?
2008.10.12
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鈴木さんと言えば、私にとって『リング』。 『らせん』『ループ』『バースデイ』も読みました。 いずれも、独特の世界観が漂い、面白かった。 特に『ループ』は、大胆な設定で、まさにSFの世界。 ところが、鈴木さんは、文壇最強の子育てパパとの異名もあるという。 さらには、塾の講師や家庭教師の経験まであるそうだ。 それが、『なぜ勉強するのか?』というテーマで、文章を書く切っ掛けとなる。 『リング』と『なぜ勉強するのか?』を、同一人物が書いたというのも何か凄い。 ***学校で学ぶべきものは、知識それ自体ではない。「理解力」と「想像力」、「表現力」を鍛えること。数学を学ぶのも、世界史を学ぶのも、その本当の目的は、理解力・想像力・表現力という三つの能力の習得である。これが、『なぜ勉強するのか?』という質問に対する、鈴木さんの答えである。確かに、色んな分野で高度化・専門化が進む、日進月歩の現代社会では、生涯にわたって役立つ、共通の基礎知識を、授業の中で、全員で学ぼうとしても、なかなか難しい。そう言えば、何年か前に、文部省の方々が、これからは「学ぶ力」を身につけさせようと、さかんにPRしていたっけ。鈴木さんの言う理解力・想像力・表現力は、結構これに近いのでは?それらを身につけるべく登場したのが「ゆとり教育」「総合的な学習」だった。ところが、今、「学力低下」が叫ばれ、「学力向上」が求められている。ここで言う「学力」とは、何なのか?文科省の説明も、分かったような分からないような……である。鈴木さんの言う理解力・想像力・表現力とは、違うものなのか? ***本著の中で、私が興味を持ったのは、「UFOは存在するかどうか」や「脳死」のお話。特にUFOや宇宙人については、これまで「こんなに広い宇宙だから、どこかに宇宙人ぐらいいても不思議じゃない」と思ってましたが、本著を読んで、その考えを大いに改めることになりました。
2008.10.11
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何ともネガティブなタイトルである。 スキヤキソングとして知られる「上を向いて歩こう」を捩ったものか。 しかし、意味合いとしては、「上を見て暮らすな、下を見て暮らせ」という、 近世の権力者が、一般庶民に対して発したお言葉が連想されてしまう。 しかも、著者は『千円札は拾うな。』で、一躍脚光を浴びた安田さん。 若くしてワイキューブ代表を勤める、バリバリの実業家。 そんな人が、また何故……?という感じである。 普通なら、「上を目指してドンドン突き進め」っていうイメージなのに。読み進めていくと、全体的に、やはり結構ネガティブ基調。でもそれは、勢いだけで、熱く幻想を語ってしまうのではなく、冷静に物事を見極め、真理を語ろうとしているからだというのが分かる。確かに「ものは考えよう」なのである。例えば、スタート早々書かれている「人の幸せは相対評価で決まる。」。ここに書かれていることは、確かにそうなのだ。同じ百点でも、その人その人で、受け止め方は違う。飛び上がるほど嬉しい人もいれば、それほどのことでもない人も存在する。また、同じ人でも、それを得たタイミングで、受け止め方は変わるだろう。ずっと百点を取り続けているときには、それほどでもないと感じていた人でも、スランプに陥り、なかなか百点に手が届かなかいことが続く状況の中で得た百点なら、少なくとも、小さくガッツポーズだ。確かに、どこを見るかで「幸せ」は決まる。何でもかんでも、簡単に手に入れることが出来る状況の中では、どんなものを手に入れても、それは一瞬の喜びで終わってしまい、長続きしない。「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのである。より上を目指し、上だけを見つめていても、いつも、そこに辿り着けるとは限らない。また、そこに辿り着くことだけが、本当に幸せなのかと言えば、そうとは言えないことも、実はある。しかも、人の欲望には際限がないから、実は存在しない幻想の頂きを、あくせくと追い求め続けているだけなのかもしれない。上ばかり見てて、首が疲れてきたなと思ったら、本著を一読。いい癒しになるかもしれない。
2008.10.11
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正面切って向き合うには、とても重いテーマである。 生まれてくれば、必ず死ぬ。 そんなことは、普通に考えれば、当たり前のことだけど、 それが、いざ自分のこととなると、正視できなくなってしまう。 若ければ若いほど、自分とは無縁の、他人事としか感じられないかもしれない。 ある程度年齢を経ても、「自分だけは死なないんじゃないか」とか、 「医療の発達で、ひょっとしたら、死のない時代が訪れるのではないか」と考える。 不老不死は、古より多くの権力者も欲し続け、未だ誰も手に入れていないもの。果たして、死がこわくなるなんてことはありうるのか?著者は、死がこわいのは、生に未練があるからだと言う。だから、生への未練が少なくなれば、何とか死と折り合いがつくのではないかと言う。本著は、いかにして生への未練を減らし、その時を迎えるかの手引き書である。身辺の整理、心の整理をしながらも、夢を持って懸命に生きる。そして、最後の瞬間を迎えるまでの時間を、どんな形で過ごしたいのか、その終焉の地はどこなのか、その時、そばに誰がいてくれるのか、そんなことも色々考え、準備をしておく必要が、やはりありそうだ。 ***本著の著者は、精神神経科・斉藤病院名誉院長の斎藤茂太氏。あの歌人の斎藤茂吉さんの長男。茂吉さんも精神科医だったんですね。
2008.10.11
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