2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全18件 (18件中 1-18件目)
1
今晩、病院の緊急処置室へ行った。 知人の息子(夫のクラスの生徒)が怪我をした。 母子家庭で1歳半の娘もいる。 車はない。 カーシートも持ってないから、タクシーも呼べない。 救急車は来てくれない。 どうしよう・・・。 と慌てふためいた母親が我が家に電話。 ということで、私が病院まで連れてった。 うちの息子も年齢近いから、カーシートも使えるし。 病院についたけど、 エマージェンシー・ルームが見つからない。 小さな看板を見つけたけど、 その矢印の先は、車の通れない歩道があるだけ。 急いでるのに、ERへの行きかたが見つからない。 一度入った病院の敷地内から出て、 違う入り口を探して、ER専用の入り口を見つけた。 この病院。 敷地内の通路、道路が複雑で、 以前から問題になっているんだそうだ。 以前、出産のために来た夫婦が、 目的地を見つけられずに敷地内を車で走り回っているうちに、 赤ちゃんが産まれてしまった、という。 そんなこともあるのかとビックリ。 行き先も見つからないまま、車の中で陣痛、出産なんて、 さぞかし怖かったことだろう。 それにしても、彼、ほとんど体が動かせない状態だった。 あんまり酷いことではありませんように。 お母さんも、赤ちゃんと一緒にさぞかし大変だろう。 まだ、母乳だと言っていた。 睡眠もまだまだ不定期だと。 今晩のERはとても混雑していた。 あまり、時間がとられませんように。 明日、様子を見に家に訪ねてみよう。
2006年10月31日
コメント(2)
日本の母から、鰹節の削り器を送ってもらった。 実家に20年以上も眠っていた、削り器。 母は、面倒だからと、使わなくなってしまった。 削りたての味は格別。 鰹節だけじゃなく、 挽きたてのコーヒー、 おろしたてのパルメザン・チーズ、 おろしたてのナツメグ、 挽きたてのこしょう・・・・。 一度使ったら、やめられない美味しさで、 我が家では、毎回使うたびに削る、おろす、挽く。 日本で20年以上も眠っていた削り器は、 刃も鈍くなっていたし、 木の部分は古びていたけれど、 夫に刃を研いでもらって、新品以上の鋭い刃に。 カミソリ並の鋭さ。 削るのには手間もかかるし、 コツがつかめないので、まだまだ下手くそ。 でも、やっぱり美味しいのです。 今晩は、その削りたての鰹節で、おかかごはん。 それから、冬に仕込んだ手前味噌を使ってお味噌汁。 まろやかだけどコクがあって、にっこり。 メインはお肉だったけど、 おかかごはんとお味噌汁は、 お肉に負けないくらいの、ご馳走でした。 幸せ。
2006年10月30日
コメント(6)
実は、今回のドイツ旅行の目的の1つは、 ドイツ移住を前提として、 ドイツという国を感じてくる、 ということでした。 夫は、ドイツという国が嫌で国外脱出した人。 その夫が、ドイツに戻る気持ちになるか。 そして、私がドイツに住む気持ちになるか。 それを感じ取るための旅行・・・でもありました。 結局は、 「ドイツ移住は、絶対ない。」 というのが、私達二人の結論。 夫は、 嫌で仕方なかったドイツの一面を、この旅で再確認。 「この国には、住めない。」 と。 私は、言葉の壁を再確認。 日本を出てから、言葉で苦労しつづけた私。 カレッジで、授業が思うように理解できなくて泣いた。 言いたいことが思う存分、英語で表現できなくて、 悔しい思いをしつづけた。 今でも。 ドイツ語だって、勉強すれば、 生活できるレベルに達するのには、 そんなに時間はかからないだろう。 でも、でも、 ほとんどゼロに近いドイツ語のレベルを、 ドイツ語で口論できるレベルまで引き上げるのに、 どれだけかかるだろう。 ドイツ語で、教えられるレベルまでに達するのに、 どれだけの努力が必要だろう。 そこまでになるのに、どれだけ悔し涙を流すだろう。 英語でした、あの苦労をまたするのか。 1週間、義母の家に滞在するだけにも、 言葉の壁に苦しんで、悔し涙を流した。 不可能ではない。 できるだろう。 やる気にさえなれば。 でも、その努力は有意義な努力なのだろうか。 いや。ドイツ語という言語にではなく、 私の人生のテーマである「教育」に、 時間と努力を費やす方が大事だ。 ・・・・と、心から思った。 今世は、永遠ではないから。 因みに、ドイツ滞在1週間で、 ドイツ語なまりの英語に慣れてしまった。 今日、買い物に行って、 この地方のなまりが聞き取れなくなっているのに気付く。 "Pardon?" "Sorry?" と聞き返す私。 ・・・・・言語の壁は厚くて高い。
2006年10月30日
コメント(4)
朝3時くらいに、自宅に戻りました。 イギリス、フランス、ベルギーを通って、ドイツへの旅。 2200kmを越える走行量。 いやぁ、よく走りました。 ブリュッセルのスクエアでは、 あまりの美しさに涙。 大戦によって破壊されることなく、 そこに存在する中世の広場。 市役所の塔の上には、聖マイカエルとドラゴンが。 ベルギーはどこもかしこも美しかった。 ドイツでは、青空の下に森が金色に輝いていたし、 「典型的ドイツ」の街シュトゥットガルトは、 怖いほどに整然と美しかった。 そして、クラウスが案内してくれた、 シュトゥットガルトのシュタイナー学校。 エミー・モルト氏が建てた、 シュタイナー学校第一号。 古さを感じさせない、学校がもつ、そのエネルギー。 クラウスが子供時代をすごした学校。 クラウスが30年以上の教師生活をおくった学校。 クラウスも、 病気のため随分痩せてしまったけれど、 気持ちは元気そう。 死と隣り合わせに生きている彼。 とても落ち着いていて、神々しくさえ感じた。 「美しい学校の、 ガーデンの横に小さなワークショップがあって、 子どもたちが回りにいて、 バイオリンを作ったりして、 1日1日を過ごしていることが、 今、とても幸せだ。」 と、穏やかに言う彼。 「また、会いたいね。 もう、二度と会えないかもしれないけれど。 また、会えるといいね。」 と言いながら、合掌した彼。 できることならば、 いつまでも生きていて欲しいし、 これからも何度も何度も会いたい人だけれど、 人の命の長さを、人が決められることではなく。 もう二度と会えないかもしれない彼をあとに、 シュトゥットガルトの街を去った。 寂しかったけれど、 心の中に、穏やかな光がともった再会だった。 感動の多かった今回の旅だけど、 フランクフルト体験は、散々。 いえ、フランクフルトが悪いわけじゃありません。 運が悪かっただけ。 通る予定だった高速道路で、 第二次大戦の爆弾25トンが爆発し、 高速道路に穴があいて通行止めのトラブルに巻き込まれ・・・。 電車で行ったフランクフルトの街。 体調不良でフラフラしながら歩いていたら、 エスカレーターにスカート巻き込まれて、 スカート、ボロボロ。 パニック+ショック。 その後、 のろうとしていた電車に、 その駅の直前で誰かが投身自殺。 もちろん、電車はストップ。 駅員も人々も怒り散らすし。 こういうとき、イギリス人はとても寛容なのだけど、 ドイツ人はイギリス人のようにはなれない。 誰もがピリピリとして。 その張り詰めた空気の中で、 乗るべき電車に乗り継ぐための正確な情報も得られず。 ああ。 でも、初めて会った義母は優しかったし、 問題の(?)超偏食の義妹も、 私の作った親子丼を美味しそうに平らげてくれた。 夫は五世代に渡る芸術家ファミリー。 だから、義母の家には、美しい芸術作品がたくさん。 そんなお宝をいくつか頂いてきた。 今の小さな家のどこに、 飾る場所があるかってのが問題だけど。 ま、そんなかんなの、ドイツ家族旅行でした。 一番良かったのは、 「家に帰るのって嬉しいね。」 って思えたこと。 イギリスでは、 シャワーだって水圧低くて心地悪いし、 トイレだって水の流れ悪いし、 家は隙間風だらけだし、 仕事は遅くていい加減だけど、 イギリス人のおおらかさは、 ドイツ人の完璧主義よりも、 人間の心をあたたかくしてくれる。 イギリスに帰ってきて良かった。 もちろん、すぐに、イギリスの文句を言い始めますが。(笑)
2006年10月29日
コメント(0)
明日からドイツです。 来週金曜日に戻ってきます。 車でドーバーまで行って、 車ごとフェリーに乗ってドーバー海峡を渡り、 ブリュッセルを通り抜けてドイツへと。 全行程、私の運転です。多分。 夫の免許では、 ドイツ国内、イギリスの高速道路が運転できないから。 ま、運転好きだからいいんだけどね。 今度はスピード違反でつかまらないよう、 注意して走ります。(笑) ドイツの義母へのお土産は、 イギリス、プリンス・チャールズの オーガニック事業のブランド、 ダッチー・オリジナルの商品をセレクトしました。 ウィンター・エール エルダーフラワー・リフレッシャー レモンビスケット ジンジャービスケット ブラックペーッパー・オーツ・ビスケット ローズマリー&タイム・オーツ・ビスケット マーマレード クリスマス・プディング ついでに、ダッチーじゃないけど、 イギリス定番といえば!の、マーマイトも。 それから、 向こうでお寿司やお味噌汁も作ろうと、 日本食材も詰め込みました。 お義母さんはじめ、夫の家族とは初対面。 でも、お義母さんはいいのです。 多分。 難関は、義妹。 まだティーンエイジャーです。 かなり難しい気性のようで、 母親の作った食事しか食べないそうです。 以前、アメリカに夫のところに遊びに来た時も、 夫の前妻の作った食事は一切食べなかったどころか、 夫が作ったパスタも、 固めだったのが嫌だったとかで、 「こんなもん食べられるかい!」 と、お皿をひっくり返したとか。 「多分、彼氏のところか友達のところに泊り込んでて顔も出さないよ」 とは、夫の推測。 はてさて。 どうなることやら。 ドイツから帰ったら報告します。
2006年10月17日
コメント(2)
昔から粘土は嫌いでした。 でも、学校で粘土なんてあんまりやらなかったなぁ。 小学校低学年くらいかしら。 絵を描くのも、 紙を使った工作も大好きだったのに、 粘土はダメ。 手も汚れるしね。(苦笑) ところが、日本で人智学を学んでいたとき、 妙に、粘土に縁がある年があった。 人智学系アートのワークショップに行ったら、 粘土でのクラスが立て続けにあったり、 何となくやりたくなったジュエリー作りも、 PMC(銀粘土)のクラスに申し込んだら、 希望者が多くて定員オーバーのクラスなのに、 私が参加することができて。 その一年は粘土づくし。 でも、やっぱり、粘土はあまり好きになれなかった。 でも、先週までやってたメインレッスンで、 立方体から正八面体までのトランスフォーメーションの、 粘土のエクササイズを指導していたら、 何だか粘土が好きになってきた。 手に馴染む土の感覚。 なかなか思い通りに「完璧」ができない素材。 直線が作りにくい微妙な柔らかさ。 そして、粘土を触っているときの、 何とも不思議な瞑想的な時の流れがたまらない。 粘土細工は癒しの過程でもある。 今日は、何を作るともなく粘土を手に取り、 立方体からtruncated cubeへと変化させた。 そこで、何か、自由創作をしたくなった。 truncated cubeは、 突然に、丸みを帯びた左右不対称のハート型のようになり、 そこからスパイラルが生まれた。 できたスパイラルを包み込むかのように、 もう1つのスパイラル。 1つは、深く深くシャープな線。 1つは、天へ昇る自由な翼のように滑らかでのびのびと。 面白い。 そして、粘土をした日は、とても良く眠れるのです。 瞑想の効果あり。 作品を作ることが目的ではない。 プロセスそのものが、目的。
2006年10月17日
コメント(0)
考えを伝えることは、ほんと、難しい。 ブログでこうやって、ああだこうだと書いていても、 それを読む人の反応は様々。 全然、私の日記の主旨をとってない人も多いし、 全く誤解した反応をする人もいる。 一部分だけを受け取るひともいる。 (私も、人の日記に部分的に反応することも多い) でも、それが自然だろう。 読む人はいろいろで、皆それぞれ違うから、 受け取り方も違うし、 感じる部分も人によって違うのは自然なこと。 そういう反応を見ながら、 人による反応の違いを面白がってみたりする。 反応した箇所によって、 その人の個性や、内面にある心が垣間見えたり、 全く誤解している人の気持ちを推し量ることで、 私とは違う考えを認めたりする。 人それぞれ違うもの。 同じ人間なんて、この世にいないもの。 だから、この世界は美しいのだもの。
2006年10月17日
コメント(0)
学校でのヒトコマ。 休み時間にボール遊びをしていた小学生。 ボールが顔に激突。 メガネの上。 怪我も何もなかったのだけど、 彼の動揺は激しくて、 「目が見えないーーー。」 「痛いーーー。」 と泣き叫ぶ。 ぶつかった所を見て、 大したことがないことを確認して、 彼の顔を水で洗ってあげる。 彼の気持ちを休めるために応急処置をする。 更に激しく泣き叫ぶ彼の背中をさすり、 頭をなで、肩を抱き、 「痛いねーー。痛いねーー。」 と言う。愛情をこめて。 ふと思う。 昔の私だったら、「痛いね」とは言わなかった。 多分、「痛くないよ。痛くないよ。」って言ってたと思う。 今から思えば、 「痛くないよ」 って言う言い方は、彼が投げたボールを、 スマッシュで、叩き返すようなものだ。 「痛い」と言う言葉が、 本当であろうとなかろうと、 「痛い。痛い。」 の言葉で、彼は、訴える。 それは、「痛い」と言う意味でもあるけれど、 「気を遣ってほしい。心配してほしい。」 っていう気持ちの現れでもある。 「痛くないよ。大丈夫。○○君は強いから。」 ってスマッシュで返すんじゃなくて、 彼の気持ちを受け取って欲しくて、 「痛い」という言葉で投げてきたボールを、 ちゃんと受け止める。 「痛いねー。痛いねー。」 「痛かったねーー。ビックリしたねー。怖かったねー。」 って。 投げたボールを受け取ってもらえたと言う安心感。 それが、彼にとって、必要なことだから。 子どもだけじゃなく、 大人が相手でも同じこと。 誰でも、発する言葉は、何かの意思表示の現れ。 気持ちを受け止めて欲しくて、言葉を発する。 それに対して、 「そうだね」 と同意する。 投げられたボールは、 打ち返すんじゃなくて、受け止める。 まずは相手を丸ごと受け止めること。 そこから、気持ちの交流が始まる。
2006年10月16日
コメント(2)
ブログをやってていいなと思うことの1つ。 心を開きやすい、ということ。 現実世界では、言いにくい本音に近いことが、 このバーチャルな世界では表現しやすい。 現実に人を前にしてしまうと、 つい言い出しにくい言葉、 ごめんなさい、とか、 ありがとう、とか、 愛してるよ、とか、 本音の議論、とか、 ブログでは、書きやすい。 だから、どんどん、書こうと思う。 いつもだったら、 言いにくくてタイミングを逃してしまったりするけど、 ブログだったら大丈夫。 思っているとおりに「ごめんなさい」が言えない人に、 思いっきり「ごめんなさい」を言おう。 現実世界だったら、 誰かを励ましたり、あたたかい言葉を贈ったりするのも、 言葉足らずになってしまうこと多々あり。 だけど、ブログやメールだったら言える。 出し惜しみせずに、どんどん言おう。 ブログで、自分の気持ちを出すことを練習して、 現実世界にも応用する。 こんど、あの人に会ったときは、 ちゃんと、「ありがとう」を、心から表現しよう。 でも・・・・・・・、 本音をいいやすいからと言って、 批判や悪口など、ネガティブなことは書かない。 これは、私の中での鉄則。 たまに、鉄則、やぶっちゃうけど。 まだまだ弱いな。私。
2006年10月16日
コメント(0)
今日は久しぶりにいい気分。 先週から、ゴタゴタに巻き込まれて大変だったけど。 いや、そのゴタゴタはまだ解決していないけど。 朝、学校へ行ったら、 8年生のA君がメインレッスンブックを持ってる。 見せてもらったら、 なんとも、まあ。 すばらしい出来栄えだこと!!!! 因みに、彼は、ハイパーアクティブで、 じっと座っていることはおろか、 自分をオーガナイズすることができない。 課題を仕上げることは、まれ。 その出来栄えと言ったら、いつも、かなり乱雑。 そんな彼のメインレッスンブック。 正多面体が5つしかないことの証明をまとめたページ。 折りたたんだ正多面体のモデルが、 3次元の立体に組み立てるようにページに貼ってあって、 その脇に、文章での説明。 その工夫と説明のクリアさが、 抜群にいい出来栄え。 あのA君が! しかも、クラスの誰よりも先に仕上げた。 ああ、ああ、あのA君が! 感動ーーー。(涙) ブリリアントなアイデアだね。 綺麗にまとめてあるし、 ライティングもいい。 よくできた! よくできた! と褒め称えた。 何とも嬉しい学校のヒトコマ。 家に帰ったら、 なんと、タネを蒔いたサボテンの芽が出てるのを発見!!!!! まだ3mm程度なので、 写真でお見せできるほどじゃないけど。 1つだけだけど、 もう嬉しくって嬉しくって。 この先、うまく育つといいな。 サボテンもA君も。
2006年10月13日
コメント(2)
日本で教員をしていたときに思ったのは、 「子どもを育てたかったら、自分が育つしかない」 ということだった。 子どもは、大人の言うことを聞いて育つんじゃない。 大人の姿を見て育つ。 大人が 「整理整頓しなさい」 と言うのを聞くのではなくて、 大人がきちんと身の回りを整理している姿を見て、 整理整頓を習う。 これは、子どもだけではなくて、 大人に対しても当てはまる。 誰か、悩みの種になるような人がいたとしても、 その人を他者が変えることはできない。 本人が変わろうとしない限り。 だけど、その人を変えようと思ったら、 自分が変わることで、その人が変わる。 相手に問題があるように感じたら、 自分を振り返って、 自分の振る舞いや在り方を変えてみると、 事態は変わってくる。 たとえば、 相手の冷たい態度が気になったとき、 それに反発して冷たい態度で応戦しても意味がない。 自分側に何か問題があるのではないか、 相手にも何か事情があるのではないか。 そして、自分から心を開いていこうと、 歩み寄る心が自分の中に生まれると、 相手の冷たさを軟化させるための一歩になる。 自分を変えようと、 自分に目が向いた時点で、 物事は既に変わり始める。 もう、自分の心が開き始めているから。 でも、 大人同士の関係は、難しい。 子どもよりずっとずっと。 子ども相手だと、 大人対子どもの関係だから、 自分の感情を抑えることもしやすいけれど、 大人相手だとそう簡単にもいかなかったりして。 それでも、 やっぱり、何か問題があったときには、 自分を省りみる。 繰り返し、繰り返し。
2006年10月13日
コメント(2)
本読むの、好きです。 って言っても、英語の本は、未だに時間がかかるけど。 言い訳、ですが、 メインレッスンが入ってるときは、 読書量が激減します。 ほとんど、集中して読むことなんてできません。 そんな今の愛読書は、これ。 "Practical English Usage" by Michael Swan 英語の文法書。 大抵の、洋書の英語の文法書は内容が浅い。 内容は実践的なのだけど、浅い。 特に、高校英文法の参考書で鍛えぬかれた日本人には、 なんと物足りないこと。 でも、この本は違うのです。 どのページを開いても、何か新しい発見が。 しかも、とても具体的で分かりやすく、生きた英語。 ブリティッシュ英語と米語の違いも、 とってもクリアに記述されています。 これだったら、 ちょっと空いた時間に、 適当にページを開いて読める。 すぐに、読むのを止めることもできる。 どのページを開いても新鮮。 しかも500ページを越える内容。 当分は楽しめそうです。 あまりにも気に入ったので、 実は、夫と取り合いになってます。(笑)
2006年10月12日
コメント(0)
前から、ここに来て下さっている方はご存知だと思いますが、私、楽天ブログの他にミクシィにも日記を書いています。楽天で日記を初めて、ミクシィにもお友達に招待され。色々交流が広がって、とっても嬉しい。でも、このネットの世界に時間を取られすぎて、ちょっと困ったな、というのも事実。で、楽天を縮小してミクシィに移行しようとしたのは8月末くらいだったかな。その後、楽天ブログはミクシィのダイジェスト版に。ほんとは楽天を閉じようと思ったのだけど、移行を決めてからも、リンクしてくださる方が何人もいらっしゃるので、そのまま続行。楽天もミクシィも、それぞれの特徴があって、一長一短。どちらにも、向き不向きもあるので、今後、どういうように活用していくかも、考え中・・・・・・・・のまま・・・。私の日記を読みに来て下さってる方には、とっても感謝です。どうもありがとう。
2006年10月11日
コメント(8)
だれかの日記で、 無駄に1日を過ごさないよう、 っていうのがあった。 そこには、前向きに頑張っていこうという、 一生懸命な筆者の姿が見えた。 でも、思う。 無駄な1日って何だろう。 無駄な1日なんてあるのかな。 のんびりリラックスして過ごす日も、 一生懸命働く日も、 何の為にならないように思えることに、 エネルギーを使わなければいけない日も、 ただただ、ぼーっと寝ている日も、 お酒飲んでバカ騒ぎしているのも、 病気になって寝込んだ日も、 辛い状況に苦しむ日も、 無駄なんかじゃなくて、 必要があってしていること。 全ては必然。 やっぱり、そう思う。 無駄な日など、ない。 どんな1日からも、学び取ることがあるもの。 時として、無駄に思えるような日のほうが、 学びが多かったりもする。
2006年10月11日
コメント(0)
精神的に疲れているとき、それが授業にも影響する。 子どもたちは、教師の精神状態も、 敏感に感じ取るから。 教師も、一人の人間で、 辛い時もあるし、疲れているときもある、 ってことを、彼らが知ることは大事。 特に8年生ともなれば。 でも、そういう人間としての弱さを見せる一方で、 やっぱり、生徒たちにいい影響を与えられる存在でありたい。 自分の辛さに溺れてしまうわけにはいかない。 自分を鼓舞し、自分を律する。 でもね、辛い時は、辛い。 問題は、その自分の辛さをどうやって乗り越えるか。 私は、意識して、 生徒達への愛を感じようとする。 自分の辛さで、 生徒達への愛が感じ取れなくなってしまわないよう。 愛が曇ってしまわないよう。 大好き。 大好きだよ。 その気持ちが、 心のなかに再びフツフツと湧きあがってくると、 私の心がポッとあったかくなって、 私は、生徒のまえに、また、笑顔で立てる。 彼らを包み込む心が持てる。 そして、惜しげもなく言う。 「みんなのこと、大好きだよ」 愛をこめて。
2006年10月09日
コメント(4)
再来週、ハーフターム休暇はドイツへ。あと1週間、メインレッスンは残っているけれど、心は既にドイツです。 ドイツで見たいもの、と言えば、 そりゃ、本家本元シュタイナー学校。 ということで、 秋休みが私達の旅行日程と重なっていない シュタイナー学校をサーチ。 休み中で生徒のいない学校見ても仕方ないもの。 義母の住むフランクフルト近郊の街から、 日帰りでいける距離で、 人智学の考えがしっかりと根っこにある、 「これぞ、まさしくシュタイナー学校!!!」 って言えるような学校を見たい。 候補に上がったのは、 シュトゥットガルトのシュタイナー学校。 これこそ本家本元。 ここに行けば、大好きなクラウスにも会えるはず!! 病気療養中で、ここにはいないかも知れないけど。 今晩にでもクラウスに電話して確認しよう。 クラウスに会いたい。ワクワク。 (シュタイナー学校よりクラウスに心が飛んでいる。) クラウスってこんな人↓ http://plaza.rakuten.co.jp/chamokayo/diary/200511140000/
2006年10月08日
コメント(5)
Waldorf College projectの広告から。 "Tell me and I will forget Show me and I will learn Involve me and I will understand." Confucius(551BC-479BC) そう。 子どもたちを巻き込んで、 彼らは体験の中から学び、理解し、 その理解が、彼らの中に浸透する。 言葉で教えただけでは忘れてしまうけれど、 体験したことは、 彼らの中に息づく。 たとえ、記憶が薄れたとしても、 やっぱり彼らのなかに生き続ける。 それがシュタイナー教育の一面。
2006年10月07日
コメント(0)
私と夫は、同じ学校で教えている。私が、学校側に仕事を要請されたとき、夫の授業がない時間に私が教えられるよう、時間割を組んでもらった。それだけでなく、私達が協力して教えられるように、いくつかの条件を提示し、議論し、私が教えることを実現可能にしてもらった。協力。助け合い。こうやって助け合って働いていると、当然、息子達は学校のキャンパスで時を過ごす時間が増える。学校の生徒達も、先生達も、そのことをよく分かっていて、息子達の世話が必要になれば、喜んで助けてくれる。何より、生徒達に対する教育効果は絶大。いつも落ち着きがなくて、5分とじっとしていられないような子が、うちの息子達を抱きかかえた途端、息子達をあやしながら30分でも座っている。息子達に対する気配りも相当。危ない所へ行こうとすれば、ちゃんと見ていて、手をひいて、安全なところへ連れて行く。泣き出そうものなら、歌をうたってあやす。そんなことを、生徒たちが自然にする。そして、生徒たちは、私や夫が息子達の世話をしながらも働いている姿を見て、それが人間の生きる姿だということを、まさに、学んでいる。誰も教えたりはしない。彼らは、私達の姿から、それを当たり前のこととして受け止める。子どもを育てる親がいること。子どもを育てながら働く苦労のこと。子どもを育てるには、まわりの人の手助けが必要になることもあって、それを手助けすることは自然なことだということ。子育てだけのことでなく、そうやって、人が助け合いながら生きていくのは、自然なことだということを、生活のなかで学んでいる。そうやって育っている子どもたちは、人に助けを求められることを迷惑だとは思わない。手助けすることを、喜びだと思う。そうやって、手助けできる人は、自分が大変な思いをしているときに、人に助けを求められる人でもある。人に助けを求めることは、恥じゃない。人が助けを必要としているときに、それを迷惑に思ったり、助けないことの方が、余程、恥だ。子どもたちは、それを、学んでいる。誰も教えたりしない。ただ、大人たちが、助け合っている姿を見ているだけ。大人たちの生き様が、そのまま、子どもに伝わる。それだけのこと。
2006年10月05日
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1


