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(昨日の日記の続き)もうすぐアメリカに帰る。家族の誰かがそう言ったのだろうか。それとも、私、イコール、アメリカからやってくる、という図式から考え出したのであろうか。アメリカに “帰る”。そう表現されたことが、私には心外だった。日本に帰国しては 「いつアメリカに帰るの?」 と聞かれ、アメリカに戻ってきては 「次はいつ日本に帰るの?」 と聞かれる。毎度のことながら、これにはうんざりさせられてしまう。私の帰るところはどこなのだろう。そんなことを考えながらスーパーに買出しに出かけたときのことだった。"Hi, how are you?"レジ係からのお決まりのセリフだった。意訳すると、いらっしゃいませ、といったところだろうか。もちろん仰々しく答える必要などない。 good, you? とか thank you. などと返すのが普通である。が、時として、思いつくままに会話を発展させることもある。「ん~と。ちょっと時差ボケですね。日本に帰ってたから」そのとき日本から戻ったばかりだった私は、そう答えた。「へえ。 (中略) じゃあ、もう、ホームシック?」「まだだけど。たぶん来週ね」「ハハハ! ウェルカム・ホーム! ホームシックになったらいつでもここにおいで」私は、うれしかった。なんとなく、うれしかった。どうせうわべでしょ (相棒談) と言ってしまえばそれまでだが、アメリカは、少なくともうわべでは、人を迎え入れるやさしさがあるのだ。ドイツにいた頃、私は、いつもガイジン扱いされていた。いつもお客様扱いされていた。ドイツに住んで10年、20年という友人もやはり同様だった。ドイツで生まれたが国籍はドイツではない、という知人とて、同じ思いをしていた。これは歴史にも見て取れるが、ドイツは移民にはあまり寛大ではない。国交の事情もあり、トルコ系やロシア系移民の数は大変なものではあるが、それでも、移民は移民でしかない。一方、アメリカでは、差別問題は根強いとはいえ、アメリカに住んでいるひとりひとりがアメリカを形成するひとりひとりとして見なされることが多いように思う。アメリカってやっぱりいいな――。改めてそう思った。
Oct 29, 2004
「今日いっしょに寝てもいい?」先日5歳になったばかりの姪が私に訊いた。2年前のことである。「どうして?」質問には答えず私は問い返した。「だって……」一瞬言い淀み、やはり質問には答えない彼女が今度はこう訊ねた。「ねぇ、アメリカに帰っちゃうって、ほんとう……?」藪から棒な質問に、私の目は点になった。「ん? アメリカに行くからいっしょに寝たいの???」すると姪、「だって、いろいろあるじゃない――」雷に打たれたような衝撃が私の脳天に走った。弱冠3歳にして、酸いも甘いも噛み分けたようなこの科白。これなら安心して跡を継がせられそうだ。私は即座にそう確信した。よその子ですが。(明日の日記に続く)
Oct 28, 2004
(昨日の日記の続き)アパートに足を踏み入れた途端、目の前が真っ暗になった。カーペットの上に散乱しているのは、靴、服、ゴミ。本、紙、枕。私はそれらを見なかったことにすると、スーツケースを部屋の片隅に置き、手早く歯磨きを済ませベッドに入った。そして一夜明けて――。私のハラワタは煮えくり返っている。グツグツと音を立てて。我が物顔でリビングルームに陣取る見慣れない四角い物体。それは、醜く黒光りする大きな大きな箱だった。その上には、もはや小さな玩具にしか見えない21インチのテレビがちょこんと乗っている。私は思わず息をのんだ。「ア、アンタ……。こんなの……どこで拾ってきたのよ……」かろうじて声を絞り出す。「キンジョノゴミステバデース」相棒の答えを聞き終わらないうちに、私の怒りは頂点に達した。「早くッ! 今すぐッ! 捨ててきなさいーッ!」テレビ台をゴロゴロと運搬する音だけが私の背後でこだましていた。なんだか息苦しい。ひさしぶりに怒り狂ったせいだ。あまりの憤慨に呼吸が浅くなっているのだ。冷静にそう考えると、私は頭を冷やそうとバスルームへと向かった。バタン。ジョーーーー。カラカラカラ。ハッ!!!視野の隅を黒いものが走ったような気がした。お尻を拭く手を止め、目を凝らす。そう、それは、カビだった。タイルの目地を縦横無隅に覆う黒いカビ。私は頭を振った。「違う! 違う! ここはコロラドなんだ!」一年中乾燥注意報が出ているような土地である。カビなど、生やそうと思って生やせるものではない。嗚呼、いったい私の留守中に何が起こったというのか。「ちょっと! コレ! 何したのよ!」呼吸が再び浅くなっているのを感じる。「ナニモシテマセンガ?」駆けつけた相棒がうそぶく。いや、まてよ……。相棒はとぼけているのではない。文字通り、奴は、何もしなかったのだ。掃除も、換気も、何も、しなかっただけなのだ。私は悟った。コイツには怒るだけ無駄だ、と。傍らに目をやると、相棒は、今度は何だとでも言いたげな顔をしてつっ立っている。私は、掃除をするようにとだけ命ずると、放心の相棒を残しキッチンへと移動した。と、そこで目にしたものは――。3ヶ月前に掛けた布巾そのものであった――。
Oct 26, 2004
こうも日記をサボッてしまうと、いったい何から書いていいのかわからなくなってしまう。本日、夕刻、ほぼ三ヶ月ぶりにアメリカに戻った。当初一ヶ月余りを予定していた私の日本滞在は、延長に延長を重ね、気が付くとアキアカネが舞う季節となっていた。私は、そろそろかな、と思いデンバーに戻ったのだった。何がそろそろなのかというと、そろそろ、相棒の顔を忘れてしまう頃、なのだった。相棒のいるデンバーに生活の拠点を置く私ではあるが、私用であったり、仕事であったり、はたまた暇つぶしであったりで、年に多いときで三回は日本に帰国している。一回の滞在は短いときで一週間、長いときには三~四ヶ月にものぼるから、これで、相棒の顔を忘れないわけがない。パートナーの顔を、そしてその存在を忘れるということ。とても冷たく聞こえるかもしれない。しかしこれは、私が無意識にしている自己防衛なのである。いわゆる遠距離恋愛という状況に身を置くのはつらい (と想像できる) から、あえて何も考えないようにするのである。そんなこんなで迎えた再会のとき。私の日本滞在中、相棒が私を訪ねて日本へやってきたこともあったから、顔を見るのは実質一ヶ月ぶりだった。が――。案の定。感動もなければ感涙もなく、はたまた熱い抱擁などあるはずもなかった。私たち、このままでいいのか。(明日の日記に続く)
Oct 25, 2004
今日は私の誕生日でした。相棒から 「オタンヨウビオメデト」 というメールが届いたのは数日前のことでした。
Oct 13, 2004
さっきまでの暴風雨が嘘のように静かになりました。こういうのを、台風一過といいます。私は、子供の頃、「台風一過」 のことを、「台風一家」 だと信じていました。「汚職事件」 のことは、もちろん 「お食事券」 と信じて疑いませんでした。ええ。ここまではよくある話です。しかし。私は。「ロッキード事件丸紅ルート」 のことをそういう種類の口紅なんだ、と思っていました。9歳のときのことでした。私の勘違いだらけの人生のルーツは、このあたりにありそうです。ところで台風って、本当に 「上陸」 するものなのですか?上空をゴーッと飛んできて、着陸する?そしてまた、飛び立つ?なんだかとっても巨大で不思議な生き物みたいです。つうかオマエ、他人の自転車なぎ倒したら戻していけや。せっかく高台に避難させといたのによ。ちょっと、悲しかったです。一般人でも天候デリバティブって加入できるんですかね。自転車4台といったら結構な財産ですから。
Oct 9, 2004
一昨年の今頃。一通のメールが届きました。「東京のトーナメントに出るんだけど会えるかな」。それは、プロのテニス選手をしている友人からでした。その友人とはドイツで出会いました。どういうわけか私のことを気に入ったその人はヨーロッパ中をあちこち招待してくれて私は豪華な旅行を楽しみました。周りにはテニス界のスターたち。その周りにはサインを求めて集まる人たち。すべてが新鮮でした。すべてが素敵でした。なのに、私は、どうして相棒を選んでしまったのでしょう……。分岐点は3年前でした。テニス選手の住む国で仕事のオファーがあったのですが私はそのオファーを取らなかったのです。代わりに、日本へ向けて飛び立ちました。相棒の待つ日本へ。嗚呼……!なんだかすべてが相棒のせいのような気がしてなりません……! 追伸● そのテニス選手とは今でも良い友達です。● 今年のAIGジャパンオープンには出場しません。
Oct 6, 2004
私の周りには風変わりな人が多い。想像を絶するケチンボや、不動産売買が趣味の主婦、ホストで一儲けしている男子などなど。しかし、いずれも、うちの母の天然ぶりには負けるだろう。先日も彼女はアルバイトでも始めようと一念発起したはいいものの履歴書に貼る写真を撮影する段階ですでに断念。なぜなら。撮影したその写真に 自分の顔が写っていなかったのだ という。駅前などによくあるコイン式の証明写真撮影機。あれで撮影を試みたわけだが、コインを入れ椅子の高さをグルグルと調整しているうちにカシャッと音がし数分後に出てきた写真には平身した彼女の背中が水平に写っているのみ。肝心の顔は影も形もなかったという。こんな反面教師がいたからこそ今の私があるのだろう。感謝……か?
Oct 1, 2004
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