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図書館で『大阪ことば学』という文庫本を手にしたのです。パラパラとめくると・・・間合いを縮めるような関西弁のメカニズムに触れていて、ええでぇ♪【大阪ことば学】尾上圭介著、岩波書店、2010年刊<「BOOK」データベース>より客のややこしい注文には「惜しいなあ、きのうまであってん」と切り返す。動物園のオリの前の立て札には「かみます」とだけ書いてある。距離をとらずにさっぱりと、聞いて退屈せんように、なんなと工夫して話すのでなければ、ものを言う甲斐がない。誤解されがちなことばの意味と背後にある感覚を、鋭く軽快に語る大阪文化論。【目次】なんなと言わな、おもしろない/せっかくものを言うてくれてるのやから/ネンが足らんは念が足らん/言うて、言うてや、言うてんか/理づめで動くが理くつ言いはきらい/よう言わんわ/ぼちぼち行こか/待ってられへんがな/大阪弁は非能率的か/大阪弁は非論理的か/笑い指向と饒舌の背後にあるもの/内なる大阪ことばを求めて-あとがきの代わりに<読む前の大使寸評>パラパラとめくると・・・間合いを縮めるような関西弁のメカニズムに触れていて、ええでぇ♪rakuten大阪ことば学人間関係を円滑にする会話は、都会人のたしなみというか、生活の知恵だったんでしょうね。そんな例をひとつ。p34~37<ネンをつけたらよろしねん> せっかく物を買おうと思って店にはいっても、店員の応対が悪いと、「もう二度と来るもんか」という気持ちになる。 「これぐらいの大きさのベッコウのくしおくれ」 「おまへん」というような返事をされると、「この店に置いてないもんを買いに来るな」と叱られているような気になる。 そこで、大阪の商家では昔から丁稚さんの言語教育に力を入れたらしい。「そういう時は『おまへんねん』と『ねん』をつけなはれ。ことばにネンが足らんのは気持ちに念が足らんのや」と教えられると、なるほどそうかと思う。たしかに「おまへんねん」と言うと、先ほどの相手をつっぱねるような調子はみごとに消えてしまうから不思議である。 「ネン」をつけると、どうして当たりがやわらかくなるのであろうか。実は、「ネン」ということばは、相手と自分の間にある扉を開いてこちらの手の内を相手に見せるという姿勢を持っているのである。 「ネン」はもともと「ノヤ」であり、ノヤ→ネヤ→ネンと音変化をとげたものであって、「ノヤ」は言うまでもなく共通語で言うところの「ノダ」である。 濡れている地面を指さして、事情を知らない人に「雨が降ったのだ」と説明するときに使うとおり、「ノダ」ということばは、話し手だけが知っている事情、話し手の側に属する事情を、相手に見せて解説するという働きを持つ。 「ネン」もこれと同じで、ただ「おまへん」と言うと「ない」という事実を裸でほうり出すことになるが「おまへんねん」と言うと「実はないのです」というように自分の店の事情を客に説明することになる。「わし、帰る」と言えば一方的な宣言であるが、「わし、帰るねん」と言えば、自分のしようとする行動の中身、つもりを相手にうちあける表現となる。「ネン」をつけることによって「実は・・・・なのです」というような「ことを相手にうちあける」姿勢が表現されることになるから、当りがやわらかくなるのである。 相手と自分の間に壁を作るまいとする傾向の強い大阪弁にとって、このような響きを持つ「ネン」はまことに便利なことばである。 「あいつ、むちゃくちゃ言いよるねん」 「それがなあ、おもろいねん」 「今日、昼からひまやねん」 「ちょっとも仕事あらへんねん」というように、どこにでも「ネン」をつけたくなる。べつに「実は・・・なのです」というほどの気持ちがない場合でも、「ネン」をつけることで、やわらかく、親しく、手の内を開いて話しかける調子が出るから、大阪の人間にとって「ネン」はなくてはならない道具となっている。
2016.11.30
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図書館で『長沢芦雪:別冊太陽』という大型本を手にしたのです。芦雪といえば虎図襖のインパクトが大きいが・・・というかネコのような虎図が可愛いのです♪当時の京都において、若冲、蕭白と芦雪の接点を見てみましょう。p140~141 <個性の表現者たち> この時代には、芦雪と同じように、ひときわ強い個性を感じさせる画をのこした表現者たちが登場した。伊藤若冲と曽我蕭白である。個性は大きく異なるものの、意表をつかれる表現内容、とらわれのない自由奔放な表現、強固な造形への意志といった点で、両者は共通している。 青物問屋の跡取りとして京都・錦小路に生まれた伊藤若冲は、40歳で弟に家督を譲り絵に専心、京都から離れず一生を送る。京都の古寺に伝来する宋・元・明の中国画の模写や徹底した実物観察に基き、独自の花鳥画を描いた。 若冲といえば、目もあやな、あの大作群「動植サイ絵」30幅がまず思い浮かぶが、この大作群は、若冲40代、85年におよぶ若冲の生涯のなかで前半生の仕事だった。芦雪より38歳年上だが、没年は芦雪の1年後。芦雪が画家として活動した安永・天明・寛政期(1772~99)は、若冲の後半生とほぼ重なっている。 安永5年頃、61歳の還暦を機に、自らの下絵に基づく五百羅漢の石像を、京都深草の黄檗宗石峰寺の裏山に建て始め、天明8年、天明の大火で焼け出されて以降は、洛中から郊外の石峰寺門前に移り住んで作画に専念した。 当時の紳士録『平安人物志』の安政4年版・天明2年版の「画家」の項には、若冲が応挙に次いで2番目に登場しており、当時第一級の画家として目されていたことが知られる。 天明8年まで、若冲は高倉錦小路に住んでいた。その頃、京都にいた芦雪も、当然、若冲のことを知っていただろうし、四条界隈ですれ違うこともあっただろう。そして、後半生の若冲が描いた切れ味のよい水墨の花鳥画が、芦雪の視覚に何らかの作用をした可能性は考えられてよい。 曽我蕭白は、若冲とならぶ異色の画人であり、芦雪より24歳年上。芦雪が応挙に入門した安永年間は、蕭白の晩年にあたる。蕭白画には、人物たちのグロテスクな風貌、獣のような手足、空想的な環境といった描写が、奇想天外な絵画世界をくりひろげており、その迫力は尋常でない。 力強い表現力、強烈な色彩感覚、奇矯な形態感覚による個性的な造形は、きわめて高度な描写力に支えられており、同じくテクニシャンである芦雪が、蕭白画とくに奔放な水墨画に共鳴したことは、充分考えられるだろう。 蕭白が「画を望まば我に乞うべし。絵図を求めんとならば丸山主水(応挙)によかるべし」と人に語って応挙の絵を蔑んだ、という逸話がよく引用される。この逸話は、蕭白の文人的志向をしめす一方で、筆墨の運動性を排除し、生命あるものを物に還元する応挙の冷ややかな視線、視覚中心の現実主義をいい表したものでもあると指摘される。 抜群の表現力・発想力の点で蕭白とつながる芦雪。意外にも芦雪は、応挙門でありながら、応挙よりも蕭白に近い志向性をもっていたのではないだろうか。【長沢芦雪:別冊太陽】狩野博幸監修、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>芦雪といえば虎図襖のインパクトが大きいが・・・というかネコのような虎図が可愛いのです♪現代絵画としても通用するような独特な線描は、時代を超えて伝わるわけでおます。rakuten長沢芦雪:別冊太陽若冲、蕭白の絵『長沢芦雪:別冊太陽』1
2016.11.30
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図書館で『長沢芦雪:別冊太陽』という大型本を手にしたのです。芦雪といえば虎図襖のインパクトが大きいが・・・というかネコのような虎図が可愛いのです♪まず冒頭の芦雪紹介を見てみましょう。p2~3 <芦雪は今も生きている:狩野博幸> 芦雪、という画家の名はひたすら美しい。 諸橋轍次の『大漢和辞典』で「芦雪」の語を調べてみると、「あしの穂が雪のように白い」との喩えとある。雪のように白い芦の穂とする解釈であるが、冬の芦に積る雪とする考えも許されてしかるべきではないだろうか。芦そのものではなく、そこに積る雪自体が主役とする考え方に筆者は魅かれる。 芦雪。 という雅号と較べれば、「ヴィンチ村のレオナルド」はあまりに無味乾燥と評するほかないだろう。 いま、脆弱な精神世界をあてどなく漂うこの現代日本社会において、18世紀後半の京都を生きた長沢芦雪(1754~99)の画業を辿る意味は奈辺にあるのか。 18世紀の半ばから後半にかけて活躍した京都の画家の名を芦雪を除いて一応あげておくと、池大雅・与謝蕪村・丸山応挙・松村月渓・伊藤若冲・曾我蕭白らがいる。まことに錚々たる面々といってよい。たとえば桃山時代を代表する画家をあげるなら、狩野永徳・長谷川等伯・雲谷等顔・海北友松になるだろう。そう考えれば、18世紀後半の京都の絵画壇の豊饒さは、まことに比類ないものである。(中略) いま本書で特集する長沢芦雪は、ここにいわれる「もっとも江戸時代らしい」時期を生き抜いた画家たちのひとりであった。 芦雪は、たとえば若冲よりおよそ40年後に生まれたものの、長命だった若冲より1年前に没した。享年46歳。ちなみに若冲の享年は85である。 少なくとも若冲よりストレスの多かった人生であったやに思われる。芦雪のストレスとは何だったのか。そのことは以下、次第に明らかになってゆくだろう。 『平安人物志』なる版本がある。その書名が示しているごとく、平安すなわち京都各界の著名人を分野ごとにあげ、その別号などとともに住所をも記している。その初編は1768年に刊行され、その後幕末にいたるまで9回にわたって発兌された。 そのうち、「画家」という項目に「芦雪」の名が登場するのは第3回配本の1782年版。この年、芦雪は29歳である。芦雪とともにあげられた「画家」は全部で29人で、芦雪の師匠である丸山応挙のほか、若冲・蕪村の名に混じって、同じく応挙門の4名の名もあがっており、この時期の応挙一門の旺盛さを物語るものである。 まさしく上田秋成が随筆『肝大小心録』で特記しているように、18世紀半ば以降の京都画壇は応挙が牽引する「写生」派が席捲していたことは、『平安人物志』の「画家」の項を一瞥することでも明白だ。 その飛ぶ鳥落す勢いのあった丸山派のなかでも格別な待遇を、芦雪は応挙から受けていた。たとえ並外れた絵画的才能を芦雪が持っており、そのことを誰しも認めていたとしても、いやそれゆえにこそ芦雪は敵を呼び込むしかなかっただろう。 『平安人物志』で京都で一流の画家と位置づけられた4年後、芦雪33歳の冬のはじめ、南紀州への旅に出ることになる。紀州半島の南端の串本、無量寺の愚海和尚と同道した。愚海和尚は京都の本山での修業を終えて無量寺へ還るところであった。和尚の尽力があって同寺の本堂が再建された。和尚は在京中に応挙と親交を結んでおり、本道再建が叶った暁にはその内部を飾る障壁画を応挙が描くとする約束を応挙と交わしていた。(中略) 芦雪は都を席捲していた写生画派の首魁たる丸山応挙の名代として、無量寺のための応挙の障壁画を携えて下向したのである。それは無量寺にいまも遺る「波上群仙図」「山水図」「群鶴図」らであった。さらに応挙の配慮はまことにゆき届いたものがあり、無量寺におけるそれらの建てつけ工事のあいだの時間に、芦雪による障壁画をも制作させてもらえるように取り計らったのも応挙である。都での人気にものぼせ上がることもなく、芦雪の才能のさらなる開花を用意した応挙の人格には、ただただ頭が下がる。このとき、芦雪が無量寺において描きあげた障壁画は、「薔薇に鶏・猫図」「群鶴図」「唐子琴棋書画図」とともに、いまや18世紀京都の絵画世界の豊饒さを否応もなく代表する虎のすがたを含む「竜虎図」らがある。【長沢芦雪:別冊太陽】狩野博幸監修、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>芦雪といえば虎図襖のインパクトが大きいが・・・というかネコのような虎図が可愛いのです♪現代絵画としても通用するような独特な線描は、時代を超えて伝わるわけでおます。rakuten長沢芦雪:別冊太陽
2016.11.29
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図書館で『ギョッとする江戸の絵画』という本を手にしたが・・・美術館館長でもある著者の若々しい切り口がいいし、なんと言っても村上隆との対談が、ええでぇ♪【ギョッとする江戸の絵画】辻惟雄著、羽鳥書店、 2010年刊<「BOOK」データベース>より底知れない江戸絵画の魅力を美術史の巨匠が縦横無尽に語る。“『奇想の系譜』の申し子”村上隆との対談を収録。【目次】1 血染めの衝撃ー岩佐又兵衛/2 身もだえする巨木ー狩野山雪/3 「自己流」の迫力ー白隠/4 奇想天外の仙人たちー曾我蕭白/5 絵にしか描けない美しさー伊藤若冲/6 猛獣戯画ー長沢蘆雪/7 天才は爆発するー葛飾北斎/8 機知+滑稽・風刺の心ー歌川国芳/対談 『奇想の系譜』から「スーパーフラット」へ(辻惟雄×村上隆)<読む前の大使寸評>美術館館長でもある著者の若々しい切り口がいいし、なんと言っても村上隆との対談が、ええでぇ♪rakutenギョッとする江戸の絵画芦雪と言えば虎図でんがな♪ 猫好きの者にとってはインパクトが大きいのです。p108~110 <猫に見立てた虎> 襖4枚のうち3枚にわたって、こちらに飛びかかってくるような虎が画面いっぱいに描かれています。このギョッとする虎の正体は、和歌山県東牟婁郡串本町の無量寺にある襖絵「虎図」です。描いたのは、蕭白、若冲と同様に京都画壇で活躍した画家の長沢蘆雪(1754~99)で、この作品は文句なく彼の代表作といえると思います。 2本の前足は、そろえてこちらへ向かってくるありさまを描いていると思われますが、ある学者は、前足は1本で、もう1本はその後ろに隠れているという説を出しています。私はそろえているように見えるのですが、爪の数はたしかに4本、片足分しかありませんから、これはもう見る人の判断におまかせするしかないでしょう。 ただ、今にも獲物に向かって飛びかかるようなすごい迫力をもっている一方で、もう一つ、虎らしい猛々しさ、獰猛さというのは感じられません。どちらかといえば、その顔は猫のようにかわいらしい顔をしています。ですが、これは虎を描こうとして描けなかったのではなく、わざとこういう猫に見立てた虎を描いたのではないかと私は思います。 鼠に襲いかかってくる猫というのは、鼠の目からすれば、さぞかしこんなふうに見えるのではないか。そうした意味を暗示するようなウィットを含んだ知的な描写というのが蘆雪の真髄です。そして、襖の画面いっぱいに描かれた絵であること・・・この「奇抜な構図」というのも蘆雪作品の特色の一つですが、その斬新なクローズアップの手法が、見る者を引きつけて圧倒するのです。 さらに、この虎の顔について深く見ていくと、実は蘆雪の師匠である丸山応挙が描いた虎の顔に共通していることがわかります。「竹虎図」は、応挙が35から37歳のころ、画壇に頭角をあらわした時期に描かれたものと推定されています。後に円山派の得意の画題の一つとして確立する「虎図」シリーズの初期の作品です。これだけ見ても蘆雪が応挙から学んでいることは一目瞭然でしょう。応挙の虎図 もちろん、技術的にも共通するところがあります。筆全体に薄墨を含ませてから先端部分に濃墨を含ませて描くと濃いところと薄いところができます。そのまま筆の腹でスーッとなぞると、ちょうど「ぼかし」となって、ものの丸みや立体感を表現することができるのです。 これは「付立」という手法で、応挙が発明したものです。蘆雪はこの作品のなかで、それを応用しています。蘆雪の基本的な手法は、師の応挙から学んだものであることは間違いありません。もうひとつ、『熱闘!日本美術史』という本で、「こわいかわいい」に着目した虎図を見てみましょう。p105~107<絵合せ15番・長沢芦雪:辻惟雄>より 中国・朝鮮に生息して日本では見られない虎は、美しさと恐ろしさを備えた異国の霊獣として、武家の邸宅や、彼らの寄進する寺院の襖絵の画題に好んで用いられた。 昨年(2010)秋、名古屋城の天守閣で催されていた「武家と玄関 虎の美術」展では、中国・朝鮮の虎の絵と、それをモデルにした日本の中世・近世の虎図が、名品・珍品とりまぜて会場を賑わせ、実に興味深いものだった。 それを見て思ったのだが、せいぜい毛皮くらいしか見てなかった日本の画家が描く虎には、どうも実在感がない。竜のような架空の動物と違い、今なら動物園やサーカスなどで見られるだけに、リアリティの欠如が気になるのだ。装飾画としての効果はさておき、ハリボテの虎ではしまらない。 その中で、一番魅力的に映ったのは、無量寺の「虎図襖絵」だった。襖いっぱいに描かれた虎が、前脚を揃えて獲物に襲い掛かる、その刹那の躍動が見事にとらえられている。右方へ走るような岩のかたちが、虎の躍動感をいっそう強める。(中略) 言いたいのは、芦雪がここでいくつものモデルのすり替え・変身を行っていることである。描かれたモデルが虎から猫に変身していることもわかるだろう。大きさにまどわされないでよく見れば、柔軟な肢体を持つこの可愛らしい動物はまごうことなき猫なのだ。(中略) カメラをズーム・アップさせ、対象を眼前に迫らせる―映画が得意とするこうしたクローズアップの手法を、日本の画家はすでに17世紀から襖や屏風のような大画面で試みていた。海北友雪の妙心寺鱗祥院の襖絵では、竜の頭が画面いっぱいに拡大されている。芦雪と同時代の曾我蕭白が描く「雲竜図襖絵」では、思い切り巨大化された竜の出現が、怪獣映画さながらの劇的効果を収めている。 ムラカミさんが、これの現代版として制作した横幅18メートルの超巨大な竜の絵は、先日ローマで公開された。あちらの人はさぞたまげたことだろう。芦雪の無量寺の虎も蕭白の巨大竜の同類だが、このように、まるで映画のスクリーンから寅が跳び出るような3Dのイメージは、芦雪の前にも後にもあるまい。さらに、この猛獣が、実は猫だったとなると―芦雪の機知と遊び心(プレイフルネス)の横溢を感じさせるのだ。 見る者をアッと言わせる驚きの演出―これこそが芦雪が、絵に求めてやまないものだった。『ギョッとする江戸の絵画』1
2016.11.29
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図書館で『ギョッとする江戸の絵画』という本を手にしたが・・・美術館館長でもある著者の若々しい切り口がいいし、なんと言っても村上隆との対談が、ええでぇ♪【ギョッとする江戸の絵画】辻惟雄著、羽鳥書店、 2010年刊<「BOOK」データベース>より底知れない江戸絵画の魅力を美術史の巨匠が縦横無尽に語る。“『奇想の系譜』の申し子”村上隆との対談を収録。【目次】1 血染めの衝撃ー岩佐又兵衛/2 身もだえする巨木ー狩野山雪/3 「自己流」の迫力ー白隠/4 奇想天外の仙人たちー曾我蕭白/5 絵にしか描けない美しさー伊藤若冲/6 猛獣戯画ー長沢蘆雪/7 天才は爆発するー葛飾北斎/8 機知+滑稽・風刺の心ー歌川国芳/対談 『奇想の系譜』から「スーパーフラット」へ(辻惟雄×村上隆)<読む前の大使寸評>美術館館長でもある著者の若々しい切り口がいいし、なんと言っても村上隆との対談が、ええでぇ♪rakutenギョッとする江戸の絵画村上隆氏との対談を見てみましょう。p169~173 <辻惟雄と村上隆の出会い>辻:まぁしかし本当に、いつ頃だったかな、『日本美術の見方』(1992)の編集者が、「村上さんという面白い人がいて、会いたがっている」って言うもんだから連れてってもらった。上野の芸大のそばのお風呂屋さんを改造したところだったね。村上:スカイ・ザ・バスハウスという銭湯を改造したギャラリーです。辻:そう、バスハウス、そこに村上さんがいたんだよね。そして、そこで個展をやってたんだよ。見たら、例の烏滸絵といって義清阿ジャ梨の絵で、男が弓矢を引いて、向こうの的にヒュルヒュルヒュルッと矢が飛んでいる絵らしいものが出ているんだよ。「えぇ~つ!」と思ったね(笑)。そういうことを一生懸命やっておられて。おいくつぐらいだったのかな?村上さんは。村上:31,2歳でした。辻:まだ学生さんみたいな恰好をしておられたけど、それ以来のご縁になるんですよね。村上:岩波の人から紹介していただいて、ニューヨークに留学するときに『奇想の系譜』を買って行ったんですよね。それで、ホームシックとともに、その本に癒されました。辻:そうだ。あれはアメリカへ行く前なんだな。村上:そうです。それで初めて「日本美術ってなんだろう」って真剣に考えたりして。辻:まさにこれからの「村上隆」、という状態で初対面したんだ(笑)。村上:『日本美術の見方』のある章に「これからはマンガだ」って書かれていたんですよね。それ以外の美術史を語る方の中からは、「マンガ」の「マ」の字も出てこなかったので、結構、藁をもすがる気持ちみたいなものがあったんですよ。僕もそれは日本美術の現在を語るには中核をなすものだ、という確信はあったにせよ、若造でしたし、お墨付きがもらえると、じゃあ、攻めてみようと、思えたんです。しかしあの当時は、誰もオフィシャルに言えなかったんでしょうね。辻先生ぐらいしか、ヒストリアンがああいうふうに、言ってなかったですよね。1992,3年頃でしょうか。辻:その頃でしょうね。それから村上さんがアメリカに行って、グーッと成長されたわけだね(笑)。村上:グーッとしばらく大変な思いをして・・・。 そういえば誰かから、辻先生の『奇想の系譜』は、実は裏稼業で、表稼業は違うんだってよく言っているって聞きましたけど。辻:表稼業はね、研究所(東京国立文化財研究所)にいて、狩野元信なんて、堅い日本のアカデミーの元祖みたいなのを一生懸命やっていたんだよ。アカデミックなやり方で。まぁ、その両方をやっておけば、どっちに転んでも大丈夫だと思って(笑)。確かにそれは有利だったよ。大学なんかに就職するときに、「『奇想の系譜』? なんじゃこれ」って言われると、「一方でこれをやっています」「おぉ、そうか」なんて(笑)。そんな作戦もあった。でもまあ、こじつけじゃないけれども、両方はつながっていますよ。村上さんが芸大のドクター第一号だったという意味でも。村上さんのアートと芸大のアカデミーがつながっているわけだから。村上:僕、辻先生に初めてお目にかかったときに、宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」とか、それこそ今「エヴァンゲリオン」の監督をやっている庵野秀明さんの描いた巨神兵の口から波動砲打つシーンとか、アニメーター金田伊功さんがやられた「銀河鉄道999」とかいっぱいお見せしたんですよ。それで、「先生、これ、『日本美術の見方』っていう本のなかで、マンガが未来だっておっしゃっているけど、マンガとアニメはちょっと違っていて・・・」と、ああだこうだ言ったんです。・・・・もうね、せっかちなんだよね、先生ね。10分も見ないうちに「もういい。僕はわからないんで、君が研究しなさい」って言われたんですよ。それでスタスタ帰っちゃたんで、僕はポツーンと取り残されて。先生のためにプレゼンの資料・・・あの当時、ビデオの編集も大変だったのに・・・を一生懸命編集してお見せしたのに、全然シカトされて。辻:いや、印象に残ってますよ。金田という人の爆発シーンのアニメ。黄色い焔が、溶岩のお化けみたいにドロドロっと吹き出るところなんか面白かった。村上:う、うそだ!(笑)。そんなリアクション無かったですもん。でも、要するに歴史ってそんなものなのかなって教えられた気がしたんですよね。「僕はそんなの、よくわからん」って言われて「それ、君やりなさい」って言われたんで。まあ、確かに日本の美術とか現代美術にも足をひっかけて、マンガだ、オタクだって横断している人はなかなかいないんでね。そこらへんは、自分がやらなきゃいけないんだっていう自覚は、スタスタ帰られた先生の後姿を見て思いついたんです。そういう意味では、背中を見て学びました(笑)。辻:それはやっぱり、ものすごく勘がいいんだよ。察しがいいというか、勘がいいというか。ウン♪、スーパーフラットの芽が誕生した頃が語られていますね。なお、辻さんと村上さんの応酬については『熱闘!日本美術史』という本に出ているけど、これが面白いのです。
2016.11.28
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「絵画」でしょうか♪<市立図書館>・ギョッとする江戸の絵画・長沢芦雪:別冊太陽・大阪ことば学・世界のおもしろい家<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【ギョッとする江戸の絵画】辻惟雄著、羽鳥書店、 2010年刊<「BOOK」データベース>より底知れない江戸絵画の魅力を美術史の巨匠が縦横無尽に語る。“『奇想の系譜』の申し子”村上隆との対談を収録。【目次】1 血染めの衝撃ー岩佐又兵衛/2 身もだえする巨木ー狩野山雪/3 「自己流」の迫力ー白隠/4 奇想天外の仙人たちー曾我蕭白/5 絵にしか描けない美しさー伊藤若冲/6 猛獣戯画ー長沢蘆雪/7 天才は爆発するー葛飾北斎/8 機知+滑稽・風刺の心ー歌川国芳/対談 『奇想の系譜』から「スーパーフラット」へ(辻惟雄×村上隆)<読む前の大使寸評>美術館館長でもある著者の若々しい切り口がいいし、なんと言っても村上隆との対談が、ええでぇ♪rakutenギョッとする江戸の絵画************************************************************【長沢芦雪:別冊太陽】狩野博幸監修、平凡社、2011年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>芦雪といえば虎図襖のインパクトが大きいが・・・というかネコのような虎図が可愛いのです♪現代絵画としても通用するような独特な線描は、時代を超えて伝わるわけでおます。rakuten長沢芦雪:別冊太陽************************************************************【大阪ことば学】尾上圭介著、岩波書店、2010年刊<「BOOK」データベース>より客のややこしい注文には「惜しいなあ、きのうまであってん」と切り返す。動物園のオリの前の立て札には「かみます」とだけ書いてある。距離をとらずにさっぱりと、聞いて退屈せんように、なんなと工夫して話すのでなければ、ものを言う甲斐がない。誤解されがちなことばの意味と背後にある感覚を、鋭く軽快に語る大阪文化論。【目次】なんなと言わな、おもしろない/せっかくものを言うてくれてるのやから/ネンが足らんは念が足らん/言うて、言うてや、言うてんか/理づめで動くが理くつ言いはきらい/よう言わんわ/ぼちぼち行こか/待ってられへんがな/大阪弁は非能率的か/大阪弁は非論理的か/笑い指向と饒舌の背後にあるもの/内なる大阪ことばを求めて-あとがきの代わりに<読む前の大使寸評>パラパラとめくると・・・間合いを縮めるような関西弁のメカニズムに触れていて、ええでぇ♪rakuten大阪ことば学************************************************************【世界のおもしろい家】エクスナレッジ、2013年刊<「BOOK」データベース>より世界中から集めた楽しく愉快に暮らせる家。<読む前の大使寸評>追って記入amazon世界のおもしろい家世界の変な家・すごい家:NAVERまとめ************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き185
2016.11.28
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『永続敗戦論』の著者・白井聡さんがオピニオン欄で「自立の意思なく、追従露骨に」と説いているので、紹介します。(白井さんのオピニオンを11/25デジタル朝日から転記しました)「日本が(在日米軍の駐留経費で)公正な負担を払わなければ、日本を守ることはできない」。そんな発言を続けてきたトランプ氏が次期米大統領に就く。同氏の主張は、戦後、米国を「保護者」のように見てきた日本の常識を覆すものだ。日本にとって、危機なのか、好機なのか。■自立の意志なく、追従露骨に 白井聡さん(政治学者) トランプ氏が米大統領選で当選すると、安倍晋三首相は飛んでいきました。「夢を語り合う会談をしたい」と言って。夢みたいなことを言うなよと思いましたね。 安倍さんは選挙戦中クリントン氏には会った一方で、トランプ氏をスキップしてしまった。それを挽回したかったのでしょう。飼い主を見誤った犬が、一生懸命に尻尾を振って駆けつけた。失礼ながら、そんなふうに見えました。恥ずかしい。惨めです。それを指摘しないメディアもおかしい。 米国が孤立主義に振れれば、日本は対米従属から対米自立へと向かわざるを得なくなる。私も早く自立してほしいと思います。ではすぐにそっちへ向かうかと言えば、官邸や外務省にはそのビジョンも意志もないでしょう。だって、見捨てないでくださいご主人様、とやったばかりですよ。 大統領選中の報道や論議もおかしかった。トランプになったら、ヒラリーだったら、日本への影響はどうだこうだ、と。これは変でしょう。自分たちはこうしたい、というのが一切なくて、米国はどうなるかという読み解きばかり。異様です。何も考えずに米国にくっついてさえいればいいと思っている証拠でしょうね。 * 今後、日本に米軍の駐留経費を100%負担せよと言ってくるかもしれません。いや150%、200%出せ、かもしれない。はたして安倍政権は断れるのか。私は断れるという気がしません。 そもそも、米軍基地の有無や規模と自立性の程度はほとんど関係ない。ドイツを見てください。巨大な米軍基地がある。それで米国の顔色をうかがうような政治をやっていますか。違いますね。 沖縄で米軍基地問題がこれだけ軋轢を起こしているのに、なぜ政府は正面から向き合わないのか。 もし、私が権力中枢にいたら、「日米安保を断固維持するために、なんとかして地元の怒りを静める」と考えます。4月には沖縄でレイプ殺人事件がありました。1995年の米兵による集団暴行事件の記憶もある。内心慌てている米国に、こちらは「日米地位協定ぐらい改定しないとまずい」と持ちかける。その気があれば、強い姿勢で交渉できるはずです。 でも日本政府はやらない。最強の用心棒を怒らせやしないか、恐れているからでしょう。だから沖縄の苦悩には向き合わずに、とにかく米国のご機嫌をとっている。 親米保守政権にとって一番大事なのは、米国支配の世界秩序が続くことです。米国に寄りかかっていれば、自分の立場を守れ、変わる必要はない、と思えるからです。 日本のTPP反対派にはトランプ氏に期待する向きもありますが、楽観していません。「アメリカ・ファースト」とは、TPPなど手ぬるい、米企業のために日本はもっと市場を開けろという要求だと解釈できる。国民皆保険をやめて米の民間保険会社を入れろとか、水道事業を民営化しろとか。こうした要求に抵抗する覚悟が現政権にあるとは思えない。 * ひたすら対米追従するという日本側の本質は何ら変わっていないのだから、米国の国益追求がむき出しになる分だけ、今後、従属の露骨さはむしろ強まると思います。 90年前後に冷戦が終わり、敗戦によって生まれた対米従属を続ける必要はなくなったのに、保守政権はその後もそれをやめようとしない。だから私はこれを「永続敗戦」だと名づけました。この構図がなお続く可能性は高い。 保護者なき日本はどこへいくか、ですか。そもそも日本にとって保護者は存在したのでしょうか。これは国と国との関係です。親分と子分の関係だって、互いに都合がいいから。利害が変われば関係も変わる。もし「愛してくれているから同盟関係にある」などと信じているとしたら、そんなおめでたい国は日本だけでしょう。(聞き手 編集委員・刀祢館正明)*白井聡:77年生まれ。京都精華大学専任講師。13年の「永続敗戦論」(石橋湛山賞)が話題に。ほかに「戦後政治を終わらせる」「『戦後』の墓碑銘」など。保護者なき日本白井聡2016.11.25・・・ということで、この際、白井さんの『永続敗戦論』を読み返してみようと思うのです。この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR1に収めておきます。
2016.11.27
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先日、山田洋次監督『家族はつらいよ』を観たのだが・・・この作品は小津安二郎監督の名作『東京物語』へのオマージュになっています。しかも、オマージュ第2作となっていて、もしかしてシリーズ化を狙っているのかと思ったりするのです。(でも、山田監督は85歳とご高齢なんでシリーズ化はきついかも)・・・ということで、これらの作品を並べてみます。・家族はつらいよ(2016年)・東京家族(2012年)・東京物語(1953年)【家族はつらいよ】山田洋次監督、2016年制作、H28.8.14観賞<Movie Walker作品情報>より巨匠・山田洋次監督が『男はつらいよ』シリーズ以来ひさびさに手がけるコメディ。突然の両親の離婚問題に揺れる子供たちら8人が繰り広げる騒動を描き出す。橋爪功と吉行和子が離婚の危機を迎えた熟年夫婦を演じるほか、西村雅彦、夏川結衣といった『東京家族』で一家を演じた8人のキャストが再集結し、別の家族を演じている。<大使寸評>この映画の中に小津さんの「東京物語」が劇中劇のように出てくるわけで・・・山田さんの映画としては「東京家族」その2のような作りになっています。今回のはコメディタッチで、よく笑わせてもらったが・・・もしかして「家族はつらいよ」シリーズ化を狙っているのかも?♪Movie Walker家族はつらいよ*****************************************************************************【東京家族】山田洋次監督、2012年制作<Movie Walker作品情報>より小津安二郎監督の不朽の名作『東京物語』をモチーフに、山田洋次監督が現代の家族像を描くヒューマン・ドラマ。子供たちに会うために東京へやってきた老夫婦の姿を通して、家族の絆を映し出す。老夫婦に橋爪功と吉行和子、長男を西村雅彦、次男を妻夫木聡が演じるなど、新旧実力派たちが多数顔をあわせた。<大使寸評>最後のクレジット画面で、監督は山田洋次となっていたが、うかつにも山田監督の作品であることを失念したままで観た映画でした。(何しろ2本立て1000円なので、飛び込みで観にいったりするもんで―笑)この作品は小津安二郎監督へのオマージュとのことであるが・・・小津監督風に現代の『東京物語』を描いて見事な結果をだしていると思ったのです。こんな自然体の演技は、実は入念に計画されて演技しているはずではないか?・・・・監督の厳しい注文があって、役者がきっちりと応えたのでしょうね。どの役者もうまかったが、大使の一押しは吉行和子かな♪Movie.Walker東京家族東京家族予告編*****************************************************************************【東京物語】小津安二郎監督、1953年制作<Movie Walker作品情報>より「お茶漬の味」以来一年ぶりの小津安二郎監督作品で、脚本は小津安二郎と「落葉日記」の野田高梧の協同執筆、撮影も常に同監督とコンビをなす厚田雄春(陽気な天使)、音楽は斎藤高順。出演者は「白魚」の原節子、「君の名は」の笠智衆、「明日はどっちだ」の香川京子、「蟹工船」の山村聡、「雁(1953)」の三宅邦子、「残波岬の決闘」の安部徹、「きんぴら先生とお嬢さん」の大坂志郎などの他、東山千栄子、杉村春子、中村伸郎、東野英治郎等新劇人が出演している。<大使寸評>追って記入Movie.Walker東京物語山田監督作品は、笑いと泣きを心得た手法が鼻につかないでもないが・・・立ち位置が常に弱者の側にあることに、敬意を表したいのです。なお、寅さんや時代劇については山田洋次の世界に収めています。
2016.11.27
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図書館で『図書館に通う』という本を、手にしたのです。おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)【図書館に通う】宮田昇著、みすず書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より編集者、翻訳権エージェントとして、出版界で60余年を生きてきた著者。第一線を退き、今度は本好きの一市民として、街の図書館の奥深さと変貌を、つぶさに経験する。同時に、みずからの半生と対話しながら、たくさん読んできたエンターテインメントのこと、むかし営んだ貸本屋のこと、貧しいハンガリー移民のピューリツァーが、アメリカで図書館を学校として育った逸話、図書館と著作権の問題をはじめ、誰も書かなかった、本と人を繋ぐエピソードを満載。アイデアにみちた提案とともに、デジタル・ネットの時代に、図書館も書店も出版社も、ともに活躍できる道を探る。 <読む前の大使寸評>おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)amazon図書館に通う図書館への注文や、開架式の素晴らしさが述べられているが・・・図書館大好きの大使も目からウロコが落ちる気がします。p154~157 <『裏通りの紳士』と開架> また街の図書館は、先にも触れたように多くの優れた日本のエンターテインメントを紹介してくれた。それは私が、一般の利用者の立場に立ったからである。だが、利用者という視点に立つと、図書館には多くの注文がある。そのひとつに開架がある。 図書館の開架について、小尾俊人は、『本が生まれる。そして、それから』(幻戯書房)で次のように述べている。開架式の場合は、市民は、直接に本の感触に触れることができます。親戚のような同種類の本の数々、その選択と評価の自由さ、そこに不安があります。同時に希望があります。あるときには秩序の美しさが、あるときには混沌があります。しかし、しばしそこに佇んでいると、その混沌がかえって星々を生むことにもなるのです。 みすず書房の創立者であり、編集責任者として時代を画する優れた出版物を世に送り出しつづけた小尾俊人ならではの、的確で凝縮した美しい文章である。それには、文学者の中野重治が遺言に、蔵書をすべて故郷の図書館に寄付するのに、開架式であるということを条件としたと付記している。 中野重治の蔵書で、しかも郷里の図書館であれば、すべて開架にして閲覧に供したと思うが、一般的にはそうはいくまい。私が隣の町へ引っ越したのは、昭和50年代初期であった。図書館に連絡すると、車で取りにきて感謝された。平成10年代、いっときいまの町を離れたときは、図書館に自分で運ぶよう指示され、利用できない図書の廃棄同意書を事前に書かされた。だが、それには稀書も含まれていたのでたじろいだものである。 本が塵芥のように出版され、そのゴミを図書館に持ち込まれるのは迷惑という感覚であったのだろう。開架を条件にするどころではない。この間四半世紀経っているが、ずいぶん変わったものだと思った。だが、図書館の棚や書庫のスペースに限りがあることは事実である。 廃棄といえば、図書館利用者の一人である私は、平成13年に起きた船橋西図書館事件には、少しちがった感想をもっている。廃棄された本の著者の多くは、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーや「右」寄りの著作者である。だれが見ても、その廃棄の目的が明らかで、図書館がしてはならないことは言うまでもない。 だが、廃棄(除籍)だけを問題にするのはおかしいと思った。廃棄されても、現在は『裏通りの紳士』のように、他の図書館から取り寄せることができる。問題にすべきは、むしろ、購入されて開架に付されたものが、どのように書庫あげ(入り)されているかではないだろうか。開架にされていなければ、手にとって選ばれることもない。 図書館には、選書、開架、書庫入り、廃棄という四つの選択がある。そのどれにも、船橋西図書館事件と共通する問題がある。おそらくそれぞれの図書館ごとにルールがあるのかもしれないが、一利用者の知るところではない。 開架の棚を見ていくと、小説の場合、エンターテインメントも純文学も、時代小説も捕り物帖も、ミステリーもビジネス小説もひとくくりにされ、著者ごとに並べられている。だが、他のものはジャンル別に分けられる。おそらく、そこにそれぞれの図書館の工夫があるのだろう。 テレビのキャスターが書いたものも、研究者が書いたものも、政治の分野であれば、同じ棚に並べられている。どちらがより高く、それらが同列に扱われるのがおかしいなどと言っているのではない。ただ、古書も新刊も区別がない、そのあまりの「混沌」の前に、小尾俊人とちがって私のような人間は、ただただ佇まざるをえない。 わが街の図書館にも地域の図書室にも、新刊の「お知らせ」や表紙をコピーした掲示板や、新刊の開架の棚・コーナーはある。そこには、数冊の本が置かれてあるのみである。新刊すべてが、貸出されているとは思えない。にもかかわらず、この1年間、購入された著作物のタイトルも点数も、調べないかぎり利用者にはわからない。 新刊については「お知らせ」や一時的な展示でなく、1年間、フィクションとノンフィクションに分けて、月別に開架の棚に並べてもらえないか。ノンフィクションは、総記、人文・社会、自然科学、芸術とかいう分け方もせず、また入門書、実用書のたぐいから専門書まで、購入したすべてを雑然と残らず並べる。その「混沌」が「星々を生む」ことにもなる。 利用者は図書館がどのような新刊を購入したか、それによって知るし、またなんの先入観もなしに入門書と専門書、芸術と人文の区別なく、好き勝手に選んで読書の幅を広げる。それがすでに蔵書されている既刊本への興味に移るかもしれない。『図書館に通う』1『図書館に通う』2『図書館に通う』3
2016.11.26
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<『海のシルクロード史』>図書館で『海のシルクロード史』という新書を手にしたのです。中国が最近提唱する一帯一路戦略があるが・・・・その一路(海のシルクロード)について歴史を遡って見てみたいわけです。【海のシルクロード史】長澤和俊著、中央公論新社、1989年刊<「BOOK」データベース>より中国南部から、東南アジア、インド、西アジア沿岸を経て地中海に到る南海航路は、インダス文明の頃より連綿と継続してきた貿易路であり、決して、陸路の補助的な存在ではなかった。南海産の香料や大量の陶磁の輸送は、船舶によってこそ可能であり、またオアシス路も、海を渡って初めてアテネやローマと結ばれたのである。本書は、20年に及ぶ現地調査をもとに、東西交流の接点を海上交易の視点から見直そうとするものである。<読む前の大使寸評>中国が最近提唱する一帯一路戦略があるが・・・・その一路(海のシルクロード)について歴史を遡って見てみたいわけです。rakuten海のシルクロード史この本の第7章「鄭和の西洋下り」を見てみましょう。p151~154 ■明の南海路経営 モンゴル族を駆逐して、中国の統一を完成した明の太祖(1368~98在位)は、北方の長城線を補強して塞外との交通を絶つとともに、内政的には強力な専制的中央集権体制をつくり、経済的には農村の復興と農民の生活安定に力を尽くした。 太祖は即位の翌年から翌々年(1369~70)にかけて、海外諸国に新王朝の成立をつげ、入貢をうながす使節を送った。その結果、日本、朝鮮など十数国が朝貢使を送ってきた。しかし太祖は各国の来貢があまり頻繁になることを好まず、これらの国々に3年1貢、あるいは5年1貢に制限した。そして明朝の対外貿易を朝貢貿易のみに限定しようとした。 その結果、きびしい海禁政策をとり、私貿易を全面的に禁止した。とくに中国人の海外渡航は厳禁となり、1374年、市舶司も全廃された。こうして唐末以来、発展を続けてきた海外貿易は衰退し、商船の往来も途絶えがちとなった。 こうした国初以来の伝統を破って、積極的な対外政策を打出したのは、太祖の没後に孫の建文帝を破って(靖難の変)即位した、第3代の成祖永楽帝であった。英邁な成祖の視野はモンゴリア、シベリア、西域、チベット、安南、西アジアから朝鮮、日本にいたるアジア全域に及んでいた。 成祖はモンゴリアのタタール部やオイラート部征服のため、モンゴリアに5回も親征した。東北へは1411年、宦官イシハの軍を送ってサハリンまで征服させた。チベットには宦官候顕を送って間接統治に成功した。安南には1406年に出兵し、交址布政司をおいた。西アジアのシャー・ルフには、1413年以来、3度にわたって陳誠らを派遣した。 ■鄭和の登場 こうした永楽帝の積極的な対外政策の一環として、南海路には前後7回にわたって鄭和の西洋下りが敢行されたのである。 鄭和は1371年、雲南省の昆陽洲に生まれた。曽祖父は馬拝顔、祖父は父とともに馬ハッジと呼んだ。一家は古くからのイスラム教徒で、ハッジ聖地メッカに巡礼した人の意である。1382年明朝は雲南を攻略した。この時、父を失った鄭和は南京に連行され、宦官となった。征服された美少年を宦官にするのは、昔からの慣行だったという。 その後永楽帝に仕えて次第に重用され、とくに靖難の変で軍功を立てて鄭姓を賜り、宦官の最高職である内官監太監となった。彼は180センチ、腰囲は1メートルをこえ、眉目秀麗の偉丈夫であったという。 すでに触れたように、成祖永楽帝は大いに国威宣揚をはかり、とくに南海路では政府官営の海外貿易の振興を画策した。そこで鄭和を起用して大船団の司令官とし、東南アジア、インド、西アジア諸国の招撫と朝貢貿易の復活を図ったのである。 その結果、1405年から1433年にかけて、7回にわたる大遠征航海が行われた。宝船、西洋大宝船、西洋取宝船等と呼ばれたその船団は、ときには大船62隻、乗員2万700人以上の大船団(第1,3,7次)で、いたるところ反抗する者は鎮圧し、南海・西洋諸国に中国の勢威を誇示し、その朝貢をうながした。 それから約1世紀後の1498年に、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに達してインド航路を開拓するが、そのときのガマの艦隊は、100トン前後の旗艦サン・ガブリエル号以下4隻に、170人の水夫が乗組んだものだった。鄭和の大航海がいかにスケールの大きなものであったかが分かる。鄭和の大航海については中国が海を支配したとき3 でも、詳しく述べられています。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したとき
2016.11.26
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前回(11/7)に続いて、くだんの2本立て館に繰り出したが・・・・今回の出し物は「孤独のススメ」と「プロヴァンスの休日」であり、館主の設けたテーマは「離れても家族」となっています。毎度のことながら、2作品を選ぶ館主のセンスには感心しているのですが、今回のテーマとしてはピリッとしていません。確かに、家族愛を描いた2作品ではあるが・・・大使はどうしても「ヨーロッパの景観」が気になったわけでおます。【孤独のススメ】ディーデリク・エビンゲ監督、2013年、蘭制作、H28.11.18観賞<Movie Walker作品情報>よりロッテルダム国際映画祭観客賞を始め、世界各国の映画祭で数々の賞に輝いた作品。田舎町で1人静かに暮らす初老の男性の前に、奇妙な男が現われ共同生活を始めたことから人生が変わってゆく。監督のディーデリク・エビンゲは本作で長編デビュー。出演はオランダで活躍し、演技力に定評のあるトン・カス、ルネ・ファント・ホフ。<大使寸評>冒頭で田舎道を走るバスのシーンが出てくるが・・・定規で書いたような人工的な畑の風景は、最もオランダを表しているんだろう。事故で脳障害をうけた男は子どものように家畜を愛でるが・・・・その無垢な姿を見たフレッドは、彼との共同生活を始めたのです。それにしても、整然としたオランダの街並みの違和感には、息がつまりそうです。オランダ人で老後の心配をする人は0.5%となっているそうで・・・・日本とは対照的な国なんでしょうね。Movie Walker孤独のススメこの映画館では毎回、幕間にお昼の弁当を食べるのだが・・・・今回もダイエーで買ったサンドウィッチでした♪【プロヴァンスの休日】ローズ・ボッシュ監督、2014年、仏制作、H28.11.18観賞<Movie Walkerストーリー>よりレア、アドリアン、テオ(ルーカス・ペリシエ)の3きょうだいは、母との間に確執があったためこれまで疎遠だった祖父ポール(ジャン・レノ)に会いに、南フランスのプロヴァンスを訪れる。初めて対面したポールは頑固で近寄りがたかったが、生来聴覚に障害があるテオが懐いていくにつれ、きょうだいとポールは次第に馴染んでいく。そんな中、アドリアンがSNSにポールを登録したことから、ポールのかつてのバイク仲間が現れる。<大使寸評>ポールが集めたバイク仲間は陽気で気のいい仲間なんだが・・・歌うオールディーズが英語の歌ばっかりで、反米の大使としてはいただけないのです。なんでフランス人が英語の歌なんかを!それよりも、シロッコの吹きすさぶオリーブ園とか、カマルグの中を駆ける馬群などが、いかにも南仏という感じで・・・ええでぇ♪Movie Walkerプロヴァンスの休日どこに居ようと家族愛に変わりはないが・・・この2作品では、違和感とか景観のほうが気になったのです。・・・と、大使の評価はいまいちなんだけど、あくまでも個人的感想なんで。パルシネマ上映スケジュール2本立て館で観た映画
2016.11.25
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図書館で『新・武器としての言葉』という本を、手にしたのです。尖閣諸島沖の中国艦船のプレゼンスが増す昨今である。日本は防衛力を蓄えるとともに、漢族が得意な情報戦にも備える必用があるわけで・・・つい、この本を借りた次第でおます。【新・武器としての言葉】鈴木孝夫著、アートデイズ、2008年刊<「BOOK」データベース>より非武装日本がとるべき道は、「ことば」と「情報」への新しい戦略。言語社会学の第一人者が今こそ注目すべき提言。【目次】第1章 日本はいま、どんな国か(日本は情報鎖国ー誤算の連鎖/言葉のくびき ほか)/第2章 日本語の国際化(国際舞台での言語/日本語を国連公用語に ほか)/第3章 受信から発信へー西欧中心主義からの離脱(失われた自己の回復/自己を規準とする発想を ほか)/第4章 「言語政策」はなぜ必要か(「言語」に無関心な日本人/日本語は自然の一部 ほか)<読む前の大使寸評>尖閣諸島沖の中国艦船のプレゼンスが増す昨今である。日本は防衛力を蓄えるとともに、漢族が得意な情報戦にも備える必用があるわけで・・・つい、この本を借りた次第でおます。rakuten新・武器としての言葉尖閣諸島沖の中国艦船のプレゼンスに備える意味でも・・・次のくだりが気になるのです。p47~50 <ことば―残された唯一の防衛手段> 言語情報戦とは医学に例えれば予防医学であり、武力行使は外科手術に相当する。したがって、ひとたび事が起きてしまった時の、ことばによる攻撃と防御には限度がある。そこで中立国や非武装国が、自国の安全をはかる最善の策は、そもそも問題を起こさないことである。そのためにこそ、長期にわたる徹底した世界規模での情報収集、対外宣伝、そして同調国を増やすための国際世論の操作などは不可欠な投資と考えるべきなのだ。 直接の防衛費に国民総生産の1パーセントを使うことの可否をめぐっての論争に明け暮れるよりも、対外文化情報宣伝、海外放送網の整備、外国人留学生の大量受け入れ、日本語出版物の外国語翻訳出版、語学教育の改革といった、ありとあらゆる手段が防衛活動として見直されるべきなのだ、そしてこのような広範囲の防衛活動のために、国民総生産の1割や2割を他の大国なみに使うのは当然だとする国民的な合意を作る必要があるのではないだろうか。 ところが現状では、いま挙げたどの項目についても、日本はいかなる先進諸国に比べても、質量ともに極端に少ないことがつとに指摘されているのである。 そこで具体的な例として、日本と外国の対外情報宣伝活動における格差の一端を知るために、東京財団シニア・リサーチ・フェロー里見侑氏による2004年の東京財団研究報告書「日本の対外情報発信の現状と改革」というレポートを紹介してみたい。 著者は国際社会においては各国が国益のために戦いを演じ、自国に有利な「国際世論」を喚起するために「情報を管理し、自国の正当性を宣伝する」ことがきわめて重要になっているという現状を指摘し、主要各国と日本の対外情報発信に対する姿勢を比較している。それによると、 「最大のアメリカの場合には2000年予算の海外広報費は政府全体で11億ドル(千3百億円)で、これに携わる人員は数千人である。これに対して日本はと言えば、2001年で海外広報の任に当たる外務省の海外広報課23人、交際報道課15人と40人にも満たない人員で、同年度予算も海外広報課34億4千万円、交際報道課8億4千万円の計48億8千万円に過ぎない。プロパガンダの重要性に対する深い認識も国家戦略も存在しないことが、この陣容と予算からも浮かび上がる」 この報告書から、もう少し細かく数字を見ていこう。イギリスの対外広報予算は合計で6億ポンド(千5百億円)、フランスは53億フラン(960億円)、ドイツは14億5千マルク(870億円)にのぼっている(2000年度。日本円換算率は当時)。 里見侑氏はまた同報告書で、民間の情報収集と発信における欧米と日本の格差についても指摘している。ユネスコの規定によれば、情報収集と配信の領域が世界規模にわたる通信社は「国際通信社」に分類される。これには世界十ヶ国以上に支社局をもち、1日に数百万語に及ぶ記事を多言語で配信し、百ヶ国以上、数千のメディア各社に配信するといった条件がある。 現在これを満たすのは、イギリスのロイター、アメリカのAP、フランスのAFPのみである。「これら三社が配信するニュースを世界各国のメディアが配信を受けて活用しており、三社の情報に依拠して国際問題が討議され、国のイメージ形成に大きな影響力を与えている」(里見氏) 一方、日本の通信社である共同通信社は、国際通信社の条件を満たしていない。外国へ配信する語数も「ロイターやAPが1日2百万~3百万語であるのに対して、共同は3万語に過ぎず、ロイターやAPに対して桁が全く違う」と里見氏は指摘する。 日本のメディアは莫大な料金を払って欧米の通信社からニュースの受信に努めているが、日本の通信社が発信する声はほとんど世界に届かない。そんな偏った現状が浮かび上がってくる。少しでも国を守ることに関心のある人ならば、この事実を知って、肌寒い思いをするのではないだろうか。 アメリカに次ぐ経済大国の日本が、まともな軍備もせず、その上対外広報活動にもたいした金をかけていないとすれば、日本は儲けた金をいったい何に使っているのか、といいたくなる。
2016.11.25
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図書館に予約していた椎名誠著『熱風大陸』という本を、待つこと4日で手にしたのです。たまたま椎名誠著『駱駝狩り』を読んだところだが、その話がカラー写真付きで詳しく載っているのが、ええでぇ♪【熱風大陸】椎名誠著、講談社、1988年刊<「BOOK」データベース>より『恐るべき空白』!150年前、熱気70度のオーストラリア砂漠を旅した男たちのロマンを追いかける。<読む前の大使寸評>たまたま椎名誠著『駱駝狩り』を読んだところだが、その話がカラー写真付きで詳しく載っているのが、ええでぇ♪若い頃の椎名の砂漠旅行となると、バカげの至りで期待できそうやで。<図書館予約:(11/16予約、11/20受取)>amazon熱風大陸この本のメインイベントともいえる「駱駝狩り」のあたりを、見てみましょう。p122~126■おぞましい咆哮の主は何だ!? 「野生のラクダ?」 M・コーモリが言った。そんなものがオーストラリアに生息しているなんて誰もしらなかった。 「そう。誰も飼っていないラクダです。このへんに沢山いるのだそうです」 リチャードが日本語で解説した。 我々は大きな樹の陰に入り、しばらく彼らの話を聞いた。 ボスはイアンという名の大柄で眼の鋭い男だった。絶えずタバコを吸っており、テンガロンハットの下にくゆらした自分のタバコの煙に時おり困ったように眼をしばたく。それがとてもいいかんじで、マールボロのコマーシャルに出ると似合いそうだ。 その第一子分がグレアムという黒髯の男で、こっちはマカロニウェスタンでいつも一番最初に殺されそうな顔つきをしている。 あとでわかったのだが、このキャメルボーイのチームはいずれも何分の一かはアボリジニの血が入っているらしい。いつも野球帽をかぶっているトニー、小柄で人のよさそうなハゲ頭のビル、チェックの破れシャツが似合うフイルなどと次次に握手する。 話を聞いてわかってきたのは、もともとオーストラリアにラクダはいなかったのだが、ずっと昔に中近東あたりからもってきたのが自然繁殖し、このあたり一帯に棲みついてしまったらしい、ということ。そしていま中近東などかつてのラクダ生産国はラクダ不足になっており、それらの国にラクダをつかまえては売っている、というのだ。 つかまえたラクダは彼らの牧場で特訓し、人間を背中に乗せられるようにすると一頭40万円で売れるというのだ。そして現在このあたりにいる野生のラクダは推定3万~5万頭というからナカナカな話だ。 そこでフト気がついたのが130年前のバークとウィルズのオーストラリア探検隊である。この探検隊が編成された頃のオーストラリアにはまだラクダは一頭もおらず、当時かれらはペシャワルとアフガニスタンから30頭のラクダを買っているのだ。 ラクダはやがて探検隊が砂漠で四散分裂するのと同時に死んだり行方不明になったりしていくのだが、このときのラクダが何頭か生き残ったとしたらおそらく彼らこそがオーストラリアに野生帰化したラクダたちの先祖であろう。(中略) ■ヘッドロックでラクダを倒す トラックとバイクは道のようなとくにそういうわけでもないようなところを黙ってぐおんぐおんとやみくもに進む。先導はバイク。赤い砂にタイヤがめりこみ、絶えずあらわれる穴や溝のためにラフロードレースそのものだ。やがて我々は道のないブッシュの中をとにかく強引に力まかせに走っているだけだ、ということに気がついた。 こういうトラックに乗るには荷台に立ってぐんと両足をふんばり、運転台のパイプにつかまり、絶えず四肢にバランスよく力を入れ、上下左右めちゃくちゃにしかもめまぐるしくやってくるガチャ揺れ振動に対応していかなければあっという間に振り落とされてしまう。 しかもクルマは運転席すれすれになっている木の枝の下などをぐおん、とすり抜けていくので、常に前に気をくばり、頭すれすれの枝がでてきたときはモグラ叩きのモグラのように素早くサッと首をひっこめないと、絶対即死の超ド級ウェストラリアットをくらってしまうことになる。このあとの活劇については『駱駝狩り』に出ているので、そちらを見てください。『熱風大陸』1
2016.11.24
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図書館に予約していた椎名誠著『熱風大陸』という本を、待つこと4日で手にしたのです。たまたま椎名誠『駱駝狩り』を読んだところだが、その話がカラー写真付きで詳しく載っているのが、ええでぇ♪【熱風大陸】椎名誠著、講談社、1988年刊<「BOOK」データベース>より『恐るべき空白』!150年前、熱気70度のオーストラリア砂漠を旅した男たちのロマンを追いかける。<読む前の大使寸評>たまたま椎名誠『駱駝狩り』を読んだところだが、その話がカラー写真付きで詳しく載っているのが、ええでぇ♪若い頃の椎名の砂漠旅行となると、バカげの至りで期待できそうやで。<図書館予約:(11/16予約、11/20受取)>amazon熱風大陸オランダ娘のあたりにバカげの至りを、見てみましょう。p31~33 <カンタス機の中でなぜかオランダ娘を考える> カンタス機のエグゼクティブ席はこのM・コーモリとは並ばず、ぼくは妙に赤い鼻をしたオーストラリア人らしい25,6の若い男の隣だった。若いくせに腹が「ぼたっ」と出ている。見たところウェストは約90センチぐらい。赤茶けた紙のポケットブックを読んでいた。 オーストラリア人というのは大体にあまりカッコはよくない。男も女もだ。去年の夏ブリスベンの空港で飛行機待ちしているときに気づいたのだが、典型的なオーストラリア男というのはプロレスラーのディック・マードックふうと思えばいい。アメリカ人でいえば南部の赤鼻赤毛トウモロコシ体型というやつだ。腰骨が「くっ」と横にメリハリをつけて出てこないからジーンズが腰の上で止まらなくて、100メートル歩くと確実に3センチはずり下がってしまう。それに、オーストラリア女は世界三大ブス国の第3位に入っているのだそうだ。 そう言ったのは山本皓一で、彼はこれまで大体世界の百ヶ国ぐらい歩いているからおそらく真実なのだ。 世界三大ブス国の第1位はどこかというと「オランダしかない!」と感動的に意見が一致した。ズン胴赤毛ソバカス巨大甲高ムレ足の横揺れ歩きこそ典型的なオランダの女なのです、と山本皓一は右手の人差し指で自分の鼻の頭をびゅんとはじきながら力強く言った。そのしぐさの意味はわからないが言っている意味はわかる。アムステルダムでアントン・ヘーシンクふうのオランダの女が三人横揺れしながら歩いてくるのを絶望的に圧倒されながら見ていたことがある。 離陸前にシャンパンと本格オードブルのサービスがあった。エコノミー席との境界にいつの間にか暗緑色のカーテンが降りていた。エコノミー席にいるとき、このカーテンが閉まると何時も「ちっくしょう!」と思ってきた。これまで外国へ行くときは圧倒的にそっちのちくしょう席が多い。 「これからこっちだけおいしいものたべることにしたからカーテン閉めて見せなくするわけね。とりあえずわたしら、かなりはっきりと・・・」 ということをあの暗緑色のカーテンは暗黙のうちに語っているのだ。大使が在職時の役得といえば海外出張時のビジネス席であり・・・着席した後の食事なんかで浴びるほど飲んで、到着時はほろ酔い状態だったことを思いだすのでおます♪先日読んだ『駱駝狩り』を添えておきます。【駱駝狩り】椎名誠著、朝日新聞社、1989年刊<「BOOK」データベース>よりオーストラリア中央部のあつく乾したブッシュを南から北へ―。その旅の途中で出会ったラクダ狩りの男たち。50度を超える熱気の大砂漠の人と自然をペンとカメラで再現する。<読む前の大使寸評>オーストラリアのラクダといえば・・・『奇跡の2000マイル』というオーストラリア映画で彼の地のラクダを見て以来、大使のミニブームというか、気になっていたわけです。1989年刊の写真付き旅行記であるが・・・大人の絵本のようで、ええでぇ♪amazon駱駝狩り駱駝狩りbyドングリ
2016.11.24
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図書館で『明治の世相:ビゴー素描コレクション2』という大形本を手にしたのです。パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。【明治の世相:ビゴー素描コレクション2】ジョルジュ・ビゴ-, 芳賀徹著、岩波書店、1989年刊<「BOOK」データベース>より明治20年から23年まで、横浜居留地で刊行された『トバエ』は、当時の日本の世相を冷徹な眼力で描いたもので、その辛辣な政治諷刺は、ビゴーの諷刺画の最高傑作といわれている。『トバエ』を中心に220余点収録。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。rakuten明治の世相:ビゴー素描コレクション2p149~150 <フランスから来た浮世絵師:芳賀徹> 『トバエ』を中心としたこの素描集を繰ってゆくと、ジョルジュ・ビゴーというのはまことに才気活発、あらゆる意味で「達者な男」だったことに、あらためて気がつき、感心する。 彼自身、『トバエ』では第一号の表紙にピエロ姿で登場するのをはじめ、ときどき思いがけないところに自分の顔を出している。他に水彩の自画像などもある。 それらを見ても、この絵師は日本人の生活と社会にぶしつけなほどの好奇心を向け、そのなにげない細部にまで鋭敏な眼を走らせ、日本人との少々のトラブルなどは持ち前の陽気さとフランス人としての優越感によってまたたくまに乗りこえてしまったにちがいないと思われる。少なくても画中に見えるところではそんな風な男だ。 18年の日本滞在中、後半になるとさすがに少し太ったようではあるが、それでも背は高くて高すぎず、顔は面長で眉は濃く、黒っぽい眼は丸く大きくれ、よく動きよく笑う。長くて高い鼻の下には濃い口ひげを生やしたり、剃ったりしている。艶のいい頬やもみあげのあたりからはいつもオー・ド・コローニュのいい匂いなどさせていたのではなかろうか。そんな風にも思われるほど、こざっぱりとして、身奇麗だ。(中略) 明治15年(1882)4月、来日して3ヶ月目に横浜で撮ったという侍姿の写真も残っているが、なかなかハンサムな優男に写っている。これではビゴーの身辺にさまざまな日本女性が出入りしたというのも、もっともだと思われる。作品から推しても彼自身かなりの色好みだったと思われるが、女のほうから眺めてもちょっと惚れたくなるような洒落者だったのだろう。 口にくわえている曲がったパイプをちょっとはずすと、たちまち軽快な早口のフランス語が飛び出し、それに片言の面白おかしい日本語や、ときに英語も混じったのにちがいない。男の眼は愉快そうにまた皮肉っぽく、いきいきと輝きながら・・・・。 このようなパリ生まれのパリっ児の才人が、1870年代の後半、ジャポニスムがいよいよさかんになるパリで、フェリックス・ビュオやエドモン・ド・ゴンクール、フェリックス・レガメなどと知り合いになり、日本に憧れてついに明治15年(1882)1月末、22歳の若さで横浜にやって来たのである。 そしてそれから明治32年(1899)6月、39歳で帰国するまで、前に記したように実に18年の間を日本で暮らした。 いわゆる文明開化時代の終りの頃から、自由民権と鹿鳴館の時代、そして憲法発布と日清戦争、またなによりも条約改正へと、内にも外へも揺れ動き、急速に変転する明治半ばから後半の日本列島の情景を、あのよく動く眼で上から下から、表から裏から、外国人の治外法権の特権を生かしながらも大概は斜めから、ほとんど絶え間もなく観察し、記録し、風刺をこめて描いていったのである。ビゴーのこの漫画集、石版素描集が面白くないはずがない。 ビゴーの作品は、『トバエ』などの石版画のみならず、その水彩や油彩の作品も含めて、まだまともにフランス美術史のなかに位置づけられてはおらず、フランス・ジャポニスム運動の一環に名をとどめるにすぎないという。それは無理もないことである。 ビゴーは才気ある絵師にはちがいなかったが、同時代のマネヤモネやルノワールやゴーガンとならぶような第一流の独創の天才ではもちろんなかった。第二流でさえなかったろう。しかし、この異国における風刺の絵師をそのように同時代母国の画壇にすぐさまひきもどして格付けをしてみようというのは、たとえば徳川美術史の上で淋派や南画派と浮世絵師とを直接にならべてどちらが偉いかと問うのにも似て、あるいはそれ以上に、ジャンル、技法、また職分の別を故意に無視してしまうことになりかねない。 ジョルジュ・ビゴーにはジョルジュ・ビゴーの、19世紀後半の東西美術・文化交流史、また明治日本社会史の上における「分」、役割というものがあったのであって、彼はそれを十分に立派に果たした。おそらくはドーミエの風刺画の流れに北斎漫画の刺激が加わった画環境のなかから出てきて日本に渡来し、その資質と境遇とさまざまの偶然とから、明治日本の世態風俗を独自の見方で思うさまに描き批評するのが、その生涯の主要な仕事となってしまった画家。 彼はみずから「仏国の江戸っ子なりと自称」していたそうだが、まさにフランス生まれの浮世絵師、パリからやってきた明治の浮世絵師として、河鍋暁斉、チャールズ・ワーグマン、小林清親ら、日本における先輩・同僚の向こうを張ることとなったのであった。私たちはそのような日本なりの評価を添えて、いつか彼をフランスの近代美術史、美術社会史の分野に一時帰国させてやればよいのであろう。■ビゴー漫画のプロンプター ところが、明治の世相風刺の絵師としても、ビゴーの独創性はどの程度であったか、どのあたりまでが彼自身のものといえるのか、一応は疑ってみる必用のある作も少なくない。 とくに『トバエ』を中心としたこの「明治の世相」の巻で、日本語の文章を長短さまざまに書き入れた政治風刺の作については、かならずや日本側の協力者がいたにちがいない。達筆で書かれたその文字はもちろん、ときに中国の故事や漢詩の数句を織りこんだりする文章も、日本人でかなり学のある者でなければ書けないものであることは確かである。さらには風刺の発想そのものも日本人協力者から来ているのではないかと思われる例もある。トバエの数枚を見てみましょう。
2016.11.23
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「旅」でしょうか♪<市立図書館>・明治の世相:ビゴー素描コレクション2・熱風大陸・新・武器としての言葉・離陸<大学図書館>・海のシルクロード史図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【明治の世相:ビゴー素描コレクション2】ジョルジュ・ビゴ-, 芳賀徹著、岩波書店、1989年刊<「BOOK」データベース>より明治20年から23年まで、横浜居留地で刊行された『トバエ』は、当時の日本の世相を冷徹な眼力で描いたもので、その辛辣な政治諷刺は、ビゴーの諷刺画の最高傑作といわれている。『トバエ』を中心に220余点収録。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。rakuten明治の世相:ビゴー素描コレクション2【熱風大陸】椎名誠著、講談社、1988年刊<「BOOK」データベース>より『恐るべき空白』!150年前、熱気70度のオーストラリア砂漠を旅した男たちのロマンを追いかける。<読む前の大使寸評>たまたま椎名誠著『駱駝狩り』を読んだところだが、その話がカラー写真付きで詳しく載っているのが、ええでぇ♪若い頃の椎名の砂漠旅行となると、バカげの至りで期待できそうやで。<図書館予約:(11/16予約、11/20受取)>amazon熱風大陸【新・武器としての言葉】鈴木孝夫著、アートデイズ、2008年刊<「BOOK」データベース>より非武装日本がとるべき道は、「ことば」と「情報」への新しい戦略。言語社会学の第一人者が今こそ注目すべき提言。【目次】第1章 日本はいま、どんな国か(日本は情報鎖国ー誤算の連鎖/言葉のくびき ほか)/第2章 日本語の国際化(国際舞台での言語/日本語を国連公用語に ほか)/第3章 受信から発信へー西欧中心主義からの離脱(失われた自己の回復/自己を規準とする発想を ほか)/第4章 「言語政策」はなぜ必要か(「言語」に無関心な日本人/日本語は自然の一部 ほか)<読む前の大使寸評>尖閣諸島沖の中国艦船のプレゼンスが増す昨今である。日本は防衛力を蓄えるとともに、漢族が得意な情報戦にも備える必用があるわけで・・・つい、この本を借りた次第でおます。rakuten新・武器としての言葉【離陸】絲山秋子著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より「女優を探してほしい」。突如訪ねて来た不気味な黒人イルベールの言葉により、“ぼく”の平凡な人生は大きく動き始める。イスラエル映画に、戦間期のパリに…時空と場所を超えて足跡を残す“女優”とは何者なのか?謎めいた追跡の旅。そして親しき者たちの死。“ぼく”はやがて寄る辺なき生の核心へと迫っていくー人生を襲う不意打ちの死と向き合った傑作長篇。<読む前の大使寸評>個人的な絲山秋子ミニブームの勢いで、ちょっと厚めの本を借りたのでおます♪rakuten離陸【海のシルクロード史】長澤和俊著、中央公論新社、1989年刊<「BOOK」データベース>より中国南部から、東南アジア、インド、西アジア沿岸を経て地中海に到る南海航路は、インダス文明の頃より連綿と継続してきた貿易路であり、決して、陸路の補助的な存在ではなかった。南海産の香料や大量の陶磁の輸送は、船舶によってこそ可能であり、またオアシス路も、海を渡って初めてアテネやローマと結ばれたのである。本書は、20年に及ぶ現地調査をもとに、東西交流の接点を海上交易の視点から見直そうとするものである。<読む前の大使寸評>中国が最近提唱する一帯一路戦略があるが・・・・その一路について歴史を遡って見てみたいわけです。rakuten海のシルクロード史***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き184
2016.11.23
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図書館で『日本人のルーツ』というニュートン・ムックを、手にしたのです。大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。【日本人のルーツ】ムック、ニュートンプレス、2000年刊<「MARC」データベース>より日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。<読む前の大使寸評>大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。amazon日本人のルーツ大使一番の関心事は「日本列島への渡来ルート」である。そのあたりを見てみましょう。p31~33■日本列島への渡来ルート 「PART1」でのべたB型の多いインド・満州型の血液型や、「PART3」でのべた環中国語の分布もまた北方型である。これは今から約1万4000年前に、湧別型細石刃をもって北方からやってきた人たちの血液型がインド・満州型であり、彼らが環中国語を使っていたことを示す。 日本語の文法は環中国語的であるが、基本語はインドネシア語やポリネシア語と似て南方的である。ただし基本語とは、「手」「目」「耳」といった身体語、「日」「月」「雲」といった天体に関する語、「黒」「白」といった色彩語などである。 それとこれまでにのべたこととを考え合わせると、日本語には長い間、基本語だけがあって文法がなかった時代があったことになる。その時代のなごりと思われる特徴が、日本語(古代、現代)やアイヌ語にはみられるという。文法がなく、電報文のように単語だけを並べて意思を通じようとする特徴である。 また角田忠信によれば、日本人とポリネシア人だけが、ロゴス(論理)とパトス(感情)未分の脳の使い方をするという。これもまたここにのべたような日本人の歴史を反映するものではなかろうか。 図18は、7世紀から9世紀にかけて、唐の都長安(西安)へ派遣された外交使節、遣唐使がたどった四つの道を示す。渤海は、7世紀末から10世紀はじめにかけて満州を中心として存在した国であり、最盛期には沿海州、北朝鮮をも支配した。福井県敦賀市にあった松原客院を出発して日本海をよぎり、そのあと渤海国を経て長安へ達する道が渤海路である。 北路は朝鮮半島の西岸を北上して山東半島の北部に上陸し、そこから陸路をたどって長安へ行く道である。しかし7世紀後半に新羅との関係が悪化するにおよんで、東シナ海を直行して長江(揚子江)河口部に上陸する南路や、薩南諸島経由で東シナ海をよぎって長江河口部に上陸する南島路がとられた。 先にのべた剥片尖頭器技術は、華北からおそらくは渤海路をたどって沿海州のウスチノスカ、北路をたどって韓国のスヤンゲへ伝えられたものであろう。またヴュルム氷期には、海水面の低下によって陸続きとなった北路などをたどって、ナウマンゾウなどが大陸からやってきた。■3タイプの弥生人と邪馬台国 「PART3」でまとめてのべた南北端南方型の分布とはちがって、ナイフ形石器の分布は南端南方型、あるいはたんに南方型とよんでよい分布である。これはナイフ形石器が、日本の南方からやってきた南方系の特徴をもった石器であることを示している。 これと似た言い方を使えば、荒屋型彫器をともなった湧別型細石刃の分布は、北端北方型、あるいはたんに北方型といってよい分布であり、それはこのタイプの細石刃が北方からやってきた北方系のものであることを示している。 日本の石刃ヤナイフ形石器は、西へ行くほどより小型になる。とくに九州では、小型ナイフの分布が目立つ。一方、中国の山西省から山東省へかけての地域に、下川、芝寺といった小型ナイフを主とする遺跡がある。その年代は2万6000~2万年前とされている。というわけで、日本のナイフ形石器はこのあたり、つまり華北の地からやってきたのではないかとされている。(中略) 一般的にいって、日本の旧石器人の人骨には、旧石器がともなわない。大分県聖岳洞穴でみつかった聖岳人だけは例外であり、ここでは黒曜石でつくられた10数個のナイフ形石器、細石刃、石核などがみつかっている。「PART3」でのべたように、同時代の日本の旧石器人や華南の旧石器人である柳江人とはちがって、聖岳人の身長は高く、華北の山頂洞人並みである。これらの事実もまた、日本のナイフ形石器が華北起源であることを暗示する。 このように、ナイフ形石器技術を九州へもたらしたのは華北系の人たちである。しかし、これまでにくりかえしのべたことからも明らかなように、その技術をもって日本列島を北上し、ついに本州の北端にまで達したのは「PART3」で南I型と名づけた南方系の人たちである。『日本人のルーツ』1
2016.11.22
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図書館で『日本人のルーツ』というニュートン・ムックを、手にしたのです。大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。【日本人のルーツ】ムック、ニュートンプレス、2000年刊<「MARC」データベース>より日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。<読む前の大使寸評>大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。amazon日本人のルーツ水稲耕作の跡、照葉樹林型が出てくるあたりを見てみましょう。p54~58 <日本と中国の遺跡から日本人のルーツを探る> 河姆渡遺跡は中国の浙江省寧波市郊外にある。1973年夏の土木工事中に発見され、同年秋から発掘調査がはじまった。炭化米がみつかり、炭素14法を使った年代決定によって、最古のものの年代が今から約7000年前であることがわかった。 このころすでに稲作が行われていたことが明らかにされたのである。炭化米は長粒でパサパサしたインディカ種と、短粒で粘り気のあるジャポニカ種の両者を含んでいた。河姆渡遺跡ではまた赤漆塗椀、骨製植刃鎌、角製斧柄、木器類、鳥をきざんだ象牙製品、ブタと稲穂をえがいた黒皮胸、木魚などが出土しており、ブタの飼育も確かめられている。これらの出土品は杭州市博物館に展示されている。 ■日本と中国の遺跡の共通点を探る 河姆渡遺跡からの出土品に関係しているように思われるものが、日本には数多くある。鳥浜貝塚は福井県三方郡見方町にあり、三方湖へ注ぐハス川と高瀬川の合流点近くにある。それは縄文時代早期・前期を代表する遺跡である。 鳥浜貝塚の女性たちはおしゃれであり、さまざまなアクセサリーを使っていた。動物の骨で作ったかざりを細い糸でつなぎ、それをペンダントとして使った。貝で作った腕輪も使われた。前期に入ってからは、前面に漆を塗った真紅のくしが使われた。漆はまた盆や土器の表面にも塗られた。同じ前期に属する三内丸山遺跡からも漆塗り製品が見つかっており、このころにはそれがかなり流行していたらしい。(中略) 唐津市西南の菜畑遺跡および福岡市東南の板付遺跡では、紀元前350年ごろの水稲耕作の跡が見つかっている。これらはいずれも波風荒い玄界灘沿岸にある。こうして日本へ上陸した水稲耕作は、その後日本海沿岸沿いにかなりのスピードで北上した。津軽平野の南東部にある垂柳遺跡では、600枚をこす紀元前後の水田跡が見つかっている。 ■中国の歴史と日本人のルーツ 次に、この間の中国本土でどういうことがおきたか見てみよう。中国で栄えた最初の文化は仰韶文化であり、紀元前4500年ごろから約2000年間つづいた。彩色土器で知られており、その代表的な遺跡は黄河中流域の仰韶(河南省)である。これに次いで数百年間栄えたのが竜山文化である。黒陶でもって知られており、その代表的な遺跡は仰韶よりも下流の竜山(山東省)である。 仰韶期の遺跡からは、甕型の土器の破片にくっついた水稲のもみがらの跡が見つかっており、このころにこのあたりで水稲耕作がなされたことを物語っている。大量のブタとイヌの骨が見つかっており、定住生活に適したブタを主な家畜としていたことがわかる。 竜山期の人たちも仰韶期の人たちと同じ縦穴式住居に住んでいた。しかしそれは平地式に近いものであり、湿気を防ぐための工夫もされていた。 中国本土に最初にあらわれた王朝は、前1600年ごろから約500年間つづいた殷王朝である。その代表的な遺跡は安陽(河南省)の近くにある殷墟である。彼らは甲骨文字や青銅器を使っていた。甲骨文字は占いなどに使われた。これは北方的な風俗であった。これにつづいて、前1050年ごろから前256年へかけて栄えたのが周王朝である。周が都を西安の西にあるガオキンから洛邑ヘ移したのは前771年であり、春秋・戦国時代はこのころに始まっている。(後略) ■植生の変化が人々の移住を促進した? 河姆渡文化や仰韶文化のころの華北の地にはまだ、われわれが「漢族」と呼んだときに連想する人たちはあらわれていない。この期間中に含まれる、今から約6000~5000年前は「高温期」あるいは「気候最適期」と呼ばれる気温の高い時代であった。そのころの気温および海水面は、現在よりもそれぞれ1~2度および5~10メートル高かったとされている。 気温が高いと、植生や人々が北上する傾向がある。クス、シイ、カシなどに代表される照葉樹林帯は、現在の中国本土では、長江よりも南の華南の地にある。しかし高温期のころの照葉樹林帯は、華北の地にまでのびていたという人がいる。もしそうだとすると、河姆渡遺跡に代表されるそのころの南方系の人たちが、照葉樹林帯とともに北上し、華北の地いっぱいに広がっていたということも考えられる。仰韶遺跡から見つかった水稲のもみがらの跡や、殷墟で見つかった漆製品、訣、動物の骨などがそれを裏書きしているように思われる。 今から6000~5000年前の高温期は、日本の縄文時代前期に相当する。不思議なことに、まさにこのころから、「江南型」あるいは「照葉樹林型」と呼んでよいような南方系の文化要素が、日本、とくに西日本への進出を始めている。 鳥浜遺跡の漆塗りのくし、訣状耳飾り、さらには弥生時代へ入ってからの水稲耕作や高床式の建物がその例である。魏志倭人伝に出てくる倭国の風俗が、「タンジ・朱崖(海南島の地名)」南方系なのには、倭人伝の選者もびっくりしているほどである。 西日本、東日本および北海道の植生がそれぞれ照葉樹林、落葉広葉樹林および亜寒帯針葉樹林となったのは縄文時代前期であり、海洋性気候のおかげで、これらと似た植生が現在もなおつづいている。今から約1万年前に終わったヴェルム氷河期の影響で気温が低かったために、前期より前の縄文時代早期の西日本、北海道および東日本の植生はそれぞれ落葉広葉樹林、亜寒帯針葉樹林、および針広混合林であった。縄文時代前期におきた、照葉樹林帯へ向けての西日本の植生の変化が、当時華北の地にいた江南型の人たちの西日本進出にはずみをつけたのではなかろうか。 ■南方系の人々はどこからやってきた? 当時華北の地にいた江南型の人たちは北路をたどって北九州へやってきたにちがいない。これはほとんど陸づたいといってよい安全な道であり、魏志倭人伝に出てくる道もこの道である。江南と西日本とをつなぐ道としては、これ以外に南路や南海路がある。これらはいずれも、新羅がじゃまをしたために北路をたどれなくなった遣唐使たちが、ある時代以後にたどった江南への道である。 しかしそれらは航海困難な道であり、775年に遣唐大使に選ばれた佐伯今毛人が病を理由として大使を辞退し、894年にこれまた大使に選ばれた菅原道真の進言によって、遣唐使が廃止された真の理由もここにあったといわれる。753年末に現在の坊津町(鹿児島県)へたどり着いた鑑真和上も、12年、6度にわたる苦難の航海をしている。魏志倭人伝の中にも、中国への往復航海の安全を祈る持衰の話が出てくる。 今から6000年も前の、縄文時代前期のころの人たちにとって、航海の困難さはさらに大きかったはずである。中尾佐助や佐々木高明の「照葉樹林文化論」に共鳴を感じながらも、私(竹内均)がそれに心からの賛意を表せなかった理由がここにある。そういう意味で私は、私がここでのべた考えがポイントをついた正しい考えであることを、心から願っているネットで板付遺跡を検索したら、このブログに巡りあたりました。板付遺跡弥生館より 今から約2,400年前、稲作や金属器など新しい技術や風習を持った人たちが海を渡ってきました。板付では、台地の東西の低地を水田に変え米作りが始まりました。 中央の台地には、幅約6m、深さ3mの溝が経108mの卵形にめぐり(内環濠)、この内側に食糧を保存した貯蔵穴や竪穴住居があります。そして台地にそって用水路を掘り(外環濠)、その中には横木と木坑を組み合わせて井堰を設け、水田に送る水量を調整しました。水田は畦で長方形に区画されています。 鍬、鋤、えぶりなどの農耕具は、ほとんどが堅いカシの木で作られていますが、その形は現代と変わりません。実った稲穂は、石庖丁という石器で1本ずつ摘み取り、臼と籾がらを取り除いていました。 このようにムラ人たちは、いろんな種類の道具を使い、高度な技術で稲作をしていたことがわかります。
2016.11.22
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図書館で『日本の起源』という本を、手にしたのです。與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。【日本の起源】東島誠×與那覇潤著、太田出版、2013年刊<商品の説明>より古代の天皇誕生から現代の日本社会までを貫く法則とは? 歴史学がたどりついた日本論の最高地点。いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないのだろう。<読む前の大使寸評>與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。amazon日本の起源東アジア、突き詰めると中国との間合いが、常に頭の中にあるので、次のくだりが気になるのです。p132~134 <東アジアと日本の動乱はつねにリンクする>東島:たしかに、ここでも日本の歴史は東アジアの歴史と連動しています。與那覇:非常に重要ですね。そもそも古代でも、唐朝成立(618年)の衝撃があったからこそ大化の改新(645年)が起きて、最後は朝鮮半島をめぐって白村江の戦い(663年)にまで至るように、中国大陸と日本列島の動乱はいつもリンクしていたと見るべきではないか。 近現代に入っても同様で、たとえば朝鮮戦争が起きると、日本でも共産党が暴力路線に走って革命しようとするわけです。勝ち目があるわけじゃない、とあとから見たら絶対思うのですが、それでも半島で金日成同志が民族統一のために戦っているのであれば、日本でも米帝に対する革命を起こして支援しなくては、という話になる。 この運動の挫折のなかから、歴史家として出発したのが網野善彦です。だから彼の『東と西が語る日本の歴史』は、「もし、西日本が外国に占領されて別の国になるという事態が、有史上あったとしたら」という問いかけで終わっている。日本のレジームチェンジはつねに東アジアの争乱とつながっているというか、逆に言うとそのつながりが遮断されるごとに、変革の季節は終わる。国内の体制変革の可能性が、いつも国外とのつながりに依存している。 だからそういう国外とのリンケージ、国際的契機を重視する人のほうが、しばしば物騒なんですよね。対して国際的契機に疎くて、内向き志向の人のほうが平和だという構造も、日本史上ずっとあるのではないでしょうか。いまだと、意外とネット右翼が国際的契機にいちばん敏感ですし(笑)。普通の人にはどうでもいいような韓国や中国の小さなニュースを見つけてきて、「また日本がなめられた、許すまじ」とか逐一怒る。「別に中国とか韓国とか、興味ないわ」という人のほうが、平和は平和ですね。東島:右翼も左翼も、物騒という点では同じだということですか。左翼系では、古代国家誕生における「国際的契機」を強調したのが、網野善彦の先輩格にあたる石母田正です。石母田の議論もまあ物騒といえば物騒ですが、石母田には強靭な自己批判力があった。そこはやはり根本的に違いますよ。 も一点付け足せば、その話は結局「島国だから」で片がつく感じがしないでもない。物騒なほうは「日本が島国だから」、それで無関心のほうもまた「日本が島国だから」。どっちにせよ、いちおうの説明はついちゃうわけでして・・・・(笑)。與那覇:島国論と並んで巷間よく耳にするのは、「黒船がないと日本では変化が起こせない」という言い方ですよね。そう口にするとき、人々は普段明治維新以降しか考えていないけど、黒船の出港地を西洋に限らないなら、古代以来ずっと、日本社会は「東アジアの黒船」の去就に左右され続けてきた。東島:やはりそこが重要なんだと思う。変数として西洋ではなく東アジアを捉えようというところが。ただこの見方もまたある種の島国史観というか、世界地図の中心に日本を据えて考えているようなところがあって、結局、やっていることは右も左もナショナル・ヒストリーじゃんという、いまとなっては懐かしい、酒井直樹さん流の国民国家批判を思い起こしますね。 あと注意しておいたほうがよいと思うのは、与那覇さんの言われる「日本の国内秩序は、実は東アジア情勢の関数」という状況は、逆じゃないかと思わせるケースが少なくないという点です。歴史上、日本の側が変数となって東アジアをかきまわしてきたことも事実ですから。 豊臣秀吉が1592年に「豊太閤三国処置」、いわゆる三国国割計画を掲げて朝鮮侵略をはじめたのもそうですが、さきの南北朝時代の話も、倭寇を軸に見れば、日本側が変数となっている面が非常に濃厚です。だから戦争が絡むと状況は逆転するわけで、それこそ近代までそうでしょう。世界地図の中心に日本を据えて考えるのは、ある意味自然なことであるが・・・それを島国史観と言われてもなあ。『日本の起源』1『日本の起源』2
2016.11.21
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図書館で『図書館に通う』という本を、手にしたのです。おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)【図書館に通う】宮田昇著、みすず書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より編集者、翻訳権エージェントとして、出版界で60余年を生きてきた著者。第一線を退き、今度は本好きの一市民として、街の図書館の奥深さと変貌を、つぶさに経験する。同時に、みずからの半生と対話しながら、たくさん読んできたエンターテインメントのこと、むかし営んだ貸本屋のこと、貧しいハンガリー移民のピューリツァーが、アメリカで図書館を学校として育った逸話、図書館と著作権の問題をはじめ、誰も書かなかった、本と人を繋ぐエピソードを満載。アイデアにみちた提案とともに、デジタル・ネットの時代に、図書館も書店も出版社も、ともに活躍できる道を探る。 <読む前の大使寸評>おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)amazon図書館に通う暇な大使はよく、図書館の開館時刻に合わせて入館するのだが・・・この本にもそんなシーンが出てきますp160~164 <ジャレド・ダイアモンドと運営委託> 朝一番の図書館にはじめて行ってみて、平日だったが、早くも20余人の人が列をつくって待っているのにおどろいた。私の感じでは、多くが前期高齢者周辺の人で、主婦らしい人も数人いた。扉が開くと、7,8人が新聞閲覧コーナーへ向かったが、先を争って急ぐ、というふうでもなかった。 おそらく高度経済成長時代、企業戦士だった彼らの1日は、自宅か会社で、新聞を見比べることから始まったと思う。ネットで各誌を読める人も、それで満足できないで図書館に足を運ぶのだろう。私も当時、元旦は屠蘇を済ますと駅まで行き、新聞各紙を全部買い、掲載されている広告からその年の出版社の企画を占った。何十年かつづけたそれをやめて、もう久しい。 やはり目指す記事は、かすかに類推して憶えていたとおりのところにあって、簡単に探すことができた。それは1月3日の「朝日新聞インタビュー2012年」で、「時空超える地理・歴史学者」と名づけられた、カルフォルニア大学ロサンゼルス校ジャレド・ダイアモンド教授へのインタビュー記事、「文明崩壊への警告」であった。 それによれば、ダイアモンド教授は、現代文明にとってもっとも大きな脅威は、環境・人口問題だとし、それをさらにつぎの12に分類していた。 自然崩壊、漁業資源の枯渇、種の多様性喪失、土壌浸食、化石燃料の枯渇、水不足、光合成で得られるエネルギーの限界、化学物質汚染、外来種の被害、地球温暖化、人口増、一人当たりの消費エネルギーの増加である。そして、そのひとつでも対策に失敗すれば、50年以内に現代の文明全体が崩壊の危機に陥ると結論している。 人類が狩猟技術を開花させた5万年前から、環境との共存はむずかしかったとし、それえで滅びたマヤやイースター島とちがい、現代のわれわれは地球という孤立した島に住んでいる。地球環境を台無しにしてしまっても、別の星に移り住むことはできないとするダイアモンドの警告は、あまりにも重いものだったが、中段で思いもかけない彼の発言に出会った。それを私は、確認したかったのである。 それは、福島の原発を軽んじるつもりはないと前置きしながら、「原発事故もまた『リスクが過大評価されがちな事故』の」典型例だとする。そして、アメリカがスリーマイル島原発の事故のあと、一人も死者が出なかったのに、新しい原発の建設をやめたのは誤りだと言っていることである。 当然のこと、インタビュアは、放射能は人間の遺伝子を傷つけ、子どもたちへの影響が心配である。放射能廃棄物は10万年以上ものあいだ、危険な放射能を出しつづけると反問する。 (中略) 旧友Sが十何年か前、この著者の500頁余の原書を読んでいた。よほど内容が魅力的であったのか、彼の書く随筆や、送ってくるメールに触れられることが多かった。町の図書館で検索すると『銃・病原菌・鉄』(草思社)として、上下二巻で翻訳出版されている。しかも2000年10月に出ているではないか。 リクエストすると、上巻が3人、下巻が2人の予約待ちであった。出版されてから11年余もたっているのに、まだこのような待ちがあるとすると、この著書はロングセラーをつづけているだけでなく、発行時にベストセラーになり、話題を呼んだにちがいない。 (中略) 私がこの本を図書館にリクエストして、手にすることができるまで、ほぼ2ヶ月と20日を要した。はじめ上巻のほうの待ちが多いので、先に下巻だけ貸出されたらと心配したが、図書館はそのようなことには配慮するのか、上下合わせて貸してくれた。著者は、図書館の検索で『銃・病原菌・鉄』の文庫本が出ているのがわかれば、図書館で借りるより本屋で買い求めることだってあると言いたいようだが・・・今では図書館検索やアマゾンなんかで、単行本と文庫本の違いがわかりますね♪ちなみに、大使が借りて読んだ『銃・病原菌・鉄』下巻です。【銃・病原菌・鉄(下)】ジャレド ダイアモンド著、草思社、2010年刊<内容紹介>よりなぜ人類は五つの大陸で異なる発展をとげたのか。分子生物学から言語学に至るまでの最新の知見を編み上げて人類史の壮大な謎に挑む。ピュリッツァー賞受賞作。朝日新聞ゼロ年代の50冊・2000年~2009年に刊行された全ての本の第1位のに選定された名著。 <読む前の大使寸評>上下巻構成の名著であるが、文字、中国にふれている下巻から読もうと思ったわけです。amazon銃・病原菌・鉄(下)『図書館に通う』1
2016.11.21
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<『日本の起源』2>図書館で『日本の起源』という本を、手にしたのです。與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。【日本の起源】東島誠×與那覇潤著、太田出版、2013年刊<商品の説明>より古代の天皇誕生から現代の日本社会までを貫く法則とは? 歴史学がたどりついた日本論の最高地点。いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないのだろう。<読む前の大使寸評>與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。amazon日本の起源最後に現代(平成)のあたりを見てみましょう。p330~331 <混乱の平成へ、そして歴史学は何をすべきか>與那覇:「無理な背伸びをせず、安定した停滞状況をまったりと生きたい」というのが、江戸時代に仮託された日本人好みの秩序です。しかし、その安定を許してくれる国際関係が、歴史上そんなに多くなかった。南蛮船を追い払ったらしばらく来なくなりました、という近世半ばの1世紀強と、冷戦体制の下で再び擬似的な鎖国状況に置かれた20世紀後半だけ。東島:結局、日本列島、網野善彦ならば「花サイ列島」の地政学的な特性に由来するという話になってしまいますね。與那覇:海で外界と隔離された島国だったおかげで、いまある社会や夢見る秩序の内容を変えなくても、ずっとやっていけそうだと幻想できたわけですね。しかし、まさに島国で国力のポテンシャルが限られているがゆえに、何かあったら対応しないといけない。 普段はのんきに寝てるけど、起こされたときはいつも大変だった。ペリーに叩き起こされたあと、「どうなってるんだ、これは」と死ぬ気で変化に対応し続けて、ようやく1970年ごろからまた寝られるようになったのですが、平成に入って再び叩き起こされて、でも夢の中身は以前と同じままで、あわてふためき続けていると。 社会人向けのセミナーなどで『中国化する日本』を読んでくださった方とお話しすると、かならず言われるのが、「江戸時代的な日本のしくみが行き詰まっているという、あなたの説はよくわかった。でも、それだと希望がなさすぎる。なんとか、日本の独自性や伝統、日本の本来のよさを生かしながら、やっていく道はないでしょうか」というご質問なんですよね。そういうとき、いつも悩みます。さすがに「ないです」とは言えない半面、自分で信じていない「日本の可能性」をでっちあげるわけにもいきませんから。 だからお答えするのは、「日本人が『日本的』だと思っているのは、じつは日本史のうち『江戸時代的』な一部分だけで、日本史の全体を見ればそれ以外の要素、場合によっては180度正反対の部分だってたくさんありますよ」ということです。 その部分のことを、同書では中国化の局面だと呼んだのですが、この対談であきらかになったのは、江戸時代的なバッファー秩序への回帰幻想は古代にまで遡るルーツを持つと同時に、それが現実態として実体化される瞬間は、近世の中でもごく一部にすぎないという事実でした。それ以外は、ずっと実現することのない可能態としてのみ、日本人は「日本的なるもの」を夢見て生きてきただけで、しかも儒教的君主としての天皇親政の幻想のように、その内容はしばしば中国的なそれとすり替わることすらあった。 そこまで含めて私たちの国の歴史だし、逆にいえば、日本人が抱きがちな理想は「実現していないことのほうが常態」だと考えることで、私たちは先人と同じようにまだまだやっていける。ただし、その理想像のなかにある独特の歪みや、実現を焦って犯したさまざまな過ちを反省の糧としながら、今日の日本の起源がどこにあるのか、という問いは、そういうふうに読み替えられるべきなのでしょう。「日本的なるもの」が、中国的なそれとすり替わることすらあるだって・・・聞き捨てならないが、なにやら観念的で難しいがな。歴史学とはこんなものなのか・・・ワカラン。『日本の起源』1
2016.11.20
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図書館で『日本の起源』という本を、手にしたのです。與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。【日本の起源】東島誠×與那覇潤著、太田出版、2013年刊<商品の説明>より古代の天皇誕生から現代の日本社会までを貫く法則とは? 歴史学がたどりついた日本論の最高地点。いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないのだろう。<読む前の大使寸評>與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。amazon日本の起源戦後の高度成長期あたりを見てみましょう。(戦後という言葉は死語になるつつあるが)p295~300 <日本を変えなかった高度成長と68年>與那覇:近年ではすっかり、90年代の国民国家論ブームの際には明治にあった近現代史の前線が、戦後に移った感があります。そこで現在性の起源として注目されているのが、「1968年革命が、日本も含めて世界を変えた」といった切り口ですよね。東島:ウォーラーステインの「1968年革命」説ですか。小熊英二さんの2009年の大著『1968』は、現代の私たちが直面している不幸に最初に直面した若者たちの反乱とその失敗から学ぶ、というスタンスですから、「いま」の起源がそこにあるというわけですね。(中略) こう言っては身も蓋もありませんが、歴史は20年サイクルが基本ですからね。最近も、55年体制の終焉した1993年(細川連立内閣の誕生)からほぼ20年後に、安倍自民党内閣へと回帰したわけですが、はるか昔、鎌倉幕府の時代だって、だいたい20年に1回のサイクルで将軍を京都に送還していたわけです。 つまり「そこで何かっが変わった」と思いたいかどうかにかかわらず、実際にそのサイクルで歴史は動いているし、そうした時間感覚は人々のあいだに経験として幾重にも織り畳まれているわけです。 ということでまずは1968年ですが、その前提状況はどう捉えておられますか? 與那覇:当然ながら、まずは60年代の高度成長を理解する必要があります。しばしば農村から都市への「民族大移動」にたとえられるように、高度経済成長は戦国時代に続く日本史上、第二の分水嶺だった。 たびたび言及した内藤湖南の議論に表現を借りれば、応仁の乱以降に「日本全体の身代の入れ替り」が起こり、武士と百姓という身分が整備され、地元の大名が村ぐるみで保護する代わりに服従を要求するしくみもできた、これが江戸時代を通じて近代まで貫通する。戦前の政友会や1955年の結党直後の自民党は、村のまとめ役だった庄屋さんが地方名望家として党員になって、この「大名」の部分に代議士を座らせただけですから。 ところが、高度成長がはじまると農村から人口がどんどん都市に出てきて、まさしく身代の総入れ替えがもう一度起きるわけです。そうして、土間のある木造家屋の井戸で水をくむ暮らしが、上下水道完備のコンクリートの集合住宅に変わって、今日のわれわれが知る日常生活がはじまってゆく。東島:私の言う「衣替えに要する時間」という観点から言うと、社会の転換は政権交代と違って「はい、今日で民主党政権は終りです」というようにはいかず、ものすごく時間がかかるわけです。 戦国時代の「身代の入れ替り」の場合、1467年の応仁の乱の勃発から数えて、いわゆる「元禄までは中世」だとすると、200年以上のバッファーを保持しながら脱皮した計算になりますが、高度成長にともなう「身代の入れ替り」の起点と終点はどこに置かれますか?與那覇:のちに見るとおり終点は割りにはっきりしていて、1970年代初頭で間違いないと思います。起点のほうが難しくて、それこそ前章までの伏流だった江戸~戦前期の「都市化」とつなげて考えることもできなくはない。つまり、高度成長だけを取り出して前時代との断絶を見るというより、より長い歴史の系譜の一コマとして扱うこともできる。 なぜそう言うかというと、日本の場合は経済成長の局面でも、農村的生活と都市のそれとをなだらかに接続させるバッファーがあったという研究が、近年さかんだからです。ひとつの典型は、『ALWAYS 三丁目の夕日』で堀北真希さんが乗ってくる集団就職列車で、個人バラバラの自己責任で都市部に放り込まれるのではなく、地域や学校が就職先とのあいだを媒介していた。 就職列車自体は戦後の産物ですが、昨年邦訳が出たアンドルー・ゴードン先生の『日本労使関係史』によると、一般労働者でも地元の学校ぐるみで新卒者を募集するのは、戦時下で国策産業に人的資源を配分するためにはじまった方式です。それまでは職工層では流動的雇用があたりまえで、「新卒一斉採用」されたのは高等教育卒のホワイトカラーだけだった。この意味でも、戦争遂行のために全国民を包摂した共同体が、戦後も生き続けたと言えます。 いっぽう、もうひとつの典型が「団地」だったというのが、原武史さんの視点です。高度成長が日本をアメリカ化したという通説的なイメージに対して、急増する都市人口の受入先として郊外に大量建設された同質的な団地群は、むしろソ連・東欧など社会主義国の景観に近いという問題提起をされている。なぜそうなるかというと、マイカーの普及が遅くて鉄道頼みだからですね。 だから地価の安い郊外に増設した大団地に住んでもらって、職場までは猛ラッシュの通勤列車に乗せて儲けるという都市開発が進むわけですが、こうなると団地住民も結束して「運賃値上げ反対」の運動を起こすから、江戸の百姓一揆が村ぐるみで団地に引っ越してきた恰好になる(笑) 彼らが社会党や共産党を支持して、1963年の飛鳥田市政、67年の美濃部都政と、革新自治体の叢生につながっていった。 つまり、普通は経済成長によって都市化が進むと農村的な共同性は崩壊に向かうのに、日本の場合は「都市なんだけど、周りのみんなとムラみたいに暮らせる」時代が長く続いた。これは、無秩序な人口流入による途上国的なスラム化を避ける成果もあったのですが、いっぽうで都市の空気も自由にしない、都市のくせに妙に息苦しくてちっとも「都市的」にならない日本社会をかたちづくっている。なるほど、与那覇先生には「新卒一斉採用」や団地に日本的ムラが見えるのか・・・厭世的というか、少なくとも、夢があるとはいえないですね。
2016.11.20
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図書館で『描かれた倭寇』という本を、手にしたのです。下半身丸出し、はだしで、日本刀を携えた姿で知られる倭寇であるが・・・中国人が描いたこの絵が興味深いのです。【描かれた倭寇】東京大学史料編纂所編、吉川弘文館、2015年刊<「BOOK」データベース>より16世紀、時代の転換点にあって、東アジアの海域秩序を乱した倭寇。彼らを描いた作品として著名な「倭寇図巻」。それと非常によく似た「抗倭図巻」。日中の共同研究による最新の成果をビジュアルに紹介。【目次】第1章 「倭寇図巻」の魅力を探る/第2章 二つめの倭寇図巻ー「抗倭図巻」の発見/第3章 比較検討「倭寇図巻」と「抗倭図巻」(図巻を解剖する/蘇州片の世界/文字は語る)/第4章 三つめの倭寇図巻?-幻の「平倭図巻」(「文徴明画平倭図記」を読む/「乍浦・梁荘の勝利」と胡宗憲/成立と流布)/第5章 倭寇の記憶ー「太平抗倭図」の世界(民間絵画「太平抗倭図」/「太平抗倭図」に描かれた倭寇)<読む前の大使寸評>下半身丸出し、はだしで、日本刀を携えた姿で知られる倭寇であるが・・・中国人が描いたこの絵が興味深いのです。rakuten描かれた倭寇東シナ海を遊弋した海賊には、倭寇もいたし、中国人もいたわけで・・・アナーキーではあるが、勇壮な時代の背景を知りたいわけでおます。p79~80 <「嘉靖大倭寇」の「終焉」> 「嘉靖大倭寇」とは、嘉靖30年代(1550年代)、中国沿岸部、とりわけ江南地方で発生した一連の動乱である。嘉靖27年(1548年)、浙江巡撫兼福建海道提督軍務であった朱ガンは、海賊の巣窟とみなされていた双ショをはじめとする浙江・福建沿岸の密貿易港を攻撃、陥落させた。 これは結果として、密貿易集団・海賊集団の拡散化・過激化を招き、以後、主として江南・浙江・福建の沿海部は厳しい攻撃にさらされることとなった。このなかで一大勢力としてのし上がったのが王直で、彼は金トウ島北西部の烈港に拠点を置いていた。 嘉靖32年(1553)、明軍は烈港を攻撃、王直は日本平戸に逃亡した。こののち海賊の襲撃はさらに激しさを増すこととなった。 事態を憂慮した明朝は、嘉靖34年(1555)、王直の招撫と日本国王への倭寇禁圧要求を目的として、蒋洲らを日本に遣わした。彼らはまず王直と接触し、帰国すれば貿易活動を認めると称してこれを承諾させ、ついで王直と同道して、豊後大友氏のところに向かい、倭寇禁圧を説いた。 嘉靖36年(1557)4月、蒋洲・王直は大友氏使者徳陽らとともに帰国の途につき、蒋洲・王直は7月に、嵐にあって遅れた王直は10月に舟山の港に到着した。しかし、明朝は、徳陽らが勘合等を持参していなかったことを理由にこれを正式の使者として認めず、蒋洲を獄に下し、ついで王直をも捕縛して、翌嘉靖37年正月、杭州按察司の獄に繋いだ。これをみた徳陽らは逃亡し、王直は嘉靖38年、斬首された。 後期倭寇と呼ばれる現象は、隆慶元年(1568)前後、明朝が海禁政策を緩めることで、やや落ち着き、16世紀末、日本に統一政権が生まれることによって終息に向かう。嘉靖38年の王直の死によって倭寇活動が止んだわけではなかったが「嘉靖大倭寇」は、王直の死を以て終焉とみなされることが多い。
2016.11.19
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大使はもっぱら、ふじっこの塩コンブを愛用しているのだが・・・老舗昆布店「神宗(かんそう)」の塩昆布があるねんて♪「徳用」(260グラム、1080円)が狙い目だとか・・・神戸ではどこで手に入るか、調べなあかんな。2016.11.16(勝手に関西遺産)もらったら、よろこぶよより■塩昆布 朝10時前、JR大阪駅地下の大丸梅田店の食料品売り場の前を通ると、たいてい行列ができている。「名物のスイーツですか?」。ある日、東京から観光に来た夫婦に声をかけられたことがある。「これは塩昆布です」と記者。「ええっ!昆布? みなさん昆布に並んでいるんですか」。関西育ちの記者にはなじみの光景だが、どうやら驚きだったらしい。 そう、大阪・淀屋橋の老舗昆布店「神宗(かんそう)」の塩昆布、中でも「徳用」(260グラム、1080円)を求める行列なのだ。さらに質問が飛んでくる。「塩昆布って? 塩がふいている昆布ですか?」。いえいえ、そうじゃないんです、昆布の佃煮、白いご飯に合うんです――。会社でも同じ話になったが、関東出身者には昆布のために並ぶという発想はないらしい。なんでこんなに東西ギャップがあるの? 「神宗」の8代当主、尾嵜彰廣(おざきあきひろ)さん(66)に話を聞いた。「大阪には『昆布文化』が根付いている。大阪は昆布の集積地ですから」。江戸時代から北海道と大阪を結んだ北前船が大量の昆布を運んできた。山崎豊子の小説「暖簾」の舞台も大阪の老舗昆布店「小倉屋山本」だった。 神宗は1781(天明元)年創業。もともとは海産物を扱っていたが、明治時代になって、家で炊いていた塩昆布が評判となり、商売につながったという。 かつて、塩昆布は家庭の味だった。織田作之助の小説「夫婦善哉」にこんな場面がある。ぐうたらの若旦那が芸者として懸命に働く妻を尻目に、家でひがな一日昆布を炊く。 思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋に入れ、……「どや、良え按配に煮えて来よったやろ」長い竹箸で鍋の中を掻き廻しながら言うた。 神宗でも、北海道産の天然真昆布に、しょうゆ、砂糖、酒と、どの家庭にもある調味料だけを使って炊いてきた。今は工場でつくっているが、小さな釜を使い、直火によるほぼ手作業を守っている。職人がつきっきりで様子を見ながらかき混ぜることで、磯臭さを消し、甘みとうまみが引き出せるのだそうだ。 角切り昆布の切れ端を集めた「徳用」を始めたのは数十年前。昆布茶に転用していた端昆布の引き取りが減ったため、塩昆布に加工し、パック詰めしてお手頃価格で売り出した。それが、朝一番で売り切れるヒット商品に。尾嵜さんは「真ん中が売れないと端っこは出ないんですけどね」と笑う。 行列をつくる人たちは、1人3袋の制限いっぱいに「徳用」を買っていく。その理由を聞けば、「近所の人に配る」「嫌いな人おらんもんね」「ちょっとした配りものに一番いい」「東京にいる息子にも送ってる。東京にいても大阪人やから、昆布愛があるねん」。関西人の外交ツールの一つになった?恐るべし、塩昆布!(尾崎千裕)勝手に関西遺産11勝手に関西遺産10おおきに!「勝手に関西遺産」
2016.11.19
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図書館で『図書館に通う』という本を、手にしたのです。おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)【図書館に通う】宮田昇著、みすず書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より編集者、翻訳権エージェントとして、出版界で60余年を生きてきた著者。第一線を退き、今度は本好きの一市民として、街の図書館の奥深さと変貌を、つぶさに経験する。同時に、みずからの半生と対話しながら、たくさん読んできたエンターテインメントのこと、むかし営んだ貸本屋のこと、貧しいハンガリー移民のピューリツァーが、アメリカで図書館を学校として育った逸話、図書館と著作権の問題をはじめ、誰も書かなかった、本と人を繋ぐエピソードを満載。アイデアにみちた提案とともに、デジタル・ネットの時代に、図書館も書店も出版社も、ともに活躍できる道を探る。 <読む前の大使寸評>おお 図書館大好きな大使としては、その奥義を深める意味でかっこうの本ではないか♪(んな 大仰な)amazon図書館に通う図書館は貸本屋と漫画喫茶と競合する施設とも言えるわけで、次の章が気になるわけです。p50~53 <貸本屋と漫画喫茶> 貸本屋がその後、テレビの普及、少年週刊誌の飛躍的拡大などに押され、衰退していったことは、「ゲゲゲの女房」にも描かれている。もちろん、最大の衰退の理由は、まずは学校図書館、ついで公共図書館の充実であろう。 さらに最近になって、本を借りるよりもブックオフで廉価で買い、また売るというリサイクルを選ぶようになった利用者の変化のため、貸本屋はいよいよ減っていった。それに追い討ちをかけたのは、漫画喫茶の出現である。 またCD、ビデオレンタル業界が、そのノウハウを応用してレンタル・コミックに乗り出してきた。レンタル・コミックは、店頭だけでなく、インターネットでリクエストでき、冊数がまとまれば送料が無料になり、返却は電話1本で回収される。街の貸本屋が太刀打ちできるはずはない。 昭和59年、著作権法に貸与権の一条が加えられたとき、書籍または雑誌の貸与には当分のあいだ適用しない、としながらも、大規模な貸本業が出現した場合は別としてあったように、冒頭に記したごとく、平成18年から貸与権が認められることになった。また貸与権料の徴集や配分をする出版物貸与権管理センターが発足し、コンパクト・ビデオレンタル商業組合(CDVJ)とで貸与権料の料金が定められた。 だが、街の貸本屋は、江戸時代から自由におこなわれてきたという長い歴史があること、大きな経済的利益をあげている実態もなく、新刊本の売れゆきに影響を与えているとは思われないこともあって、出版物貸与権管理センターと全国貸本組合連合会との合意により、平成12年以前に開業した小規模な貸本屋は貸与権料の支払いを免除された。 火元であった漫画喫茶のコミックも、理髪店やラーメン屋や一般の喫茶店に置いてあるのとおなじで、「展示」であってレンタルでないとされて貸与権の適用外となった。だが、漫画喫茶は、漫画を置くことで客を誘引しているのである。待ち時間つぶしや、食事中の新聞や雑誌読みとちがう。 昔、街の貸本屋であった私は、若い友人に連れられて、漫画喫茶に行ってみた。正直、そこは私の想像を越えた快適で清潔な「」でもあった。入会金200円。利用料金10分100円。3時間パック料金は1500円。椅子もよければ、シャワー室もマッサージ椅子もあり、飲み物はセルフサービスで自由。多くの棚に、きれいなコミックが整然と並んでいた。 ネットで調べてみると、これら漫画喫茶のそれぞれの蔵書は最低でも1万冊以上、1万5000から1万8000が多く、3万冊というものもあった。机にはパソコンも置いてあり、ネットカフェであることにも、私はおどろかされた。 おそらく、どの漫画喫茶も複合喫茶に向かっているか、すでにそうであるにちがいない。その複合喫茶が、ネットから電子書籍を買い、それを利用客に読書端末で読ませるなどいろいろな場合が想定できる。店内であることを理由に、著作権のいずれの権利からも適用外でいられるのかどうか。 公立無料貸本屋の一面をもたざるを得ない図書館が、貸与権の適用外になっているのは、改正時点に加えられた著作権法第38条4による。営利を目的とせず、貸与を受けるものから料金をとらない場合、貸与権は及ばないとされたからである。 とはいえこのネット・デジタル時代、図書館も、資料の収集、保存の役割のほか、一般の教養、調査、レクレーションなどに資する施設と定義されている以上、漫画喫茶よりもっと大きな変貌をするのではないだろうか。その場合、図書館は営利を目的としないということで、絶えず著作権法の制限のもとでいられるのかどうか、疑問である。ウーム 図書館は公立無料貸本屋とは言い得て妙である。公共と営利と法制がせめぎあって、今後、図書館はどのように変貌するんでしょうね♪
2016.11.18
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図書館で椎名誠著『駱駝狩り』という本を、手にしたのです。おお オーストラリアのラクダではないか♪ 『奇跡の2000マイル』というオーストラリア映画で彼の地のラクダを見て以来、大使のミニブームというか、気になっていたわけです。【駱駝狩り】椎名誠著、朝日新聞社、1989年刊<「BOOK」データベース>よりオーストラリア中央部のあつく乾したブッシュを南から北へ―。その旅の途中で出会ったラクダ狩りの男たち。50度を超える熱気の大砂漠の人と自然をペンとカメラで再現する。<読む前の大使寸評>オーストラリアのラクダといえば・・・『奇跡の2000マイル』というオーストラリア映画で彼の地のラクダを見て以来、大使のミニブームというか、気になっていたわけです。1989年刊の写真付き旅行記であるが・・・大人の絵本のようで、ええでぇ♪amazon駱駝狩りこの本にラクダのつかまえ方が載っているが・・・なんとも豪快な格闘でおます。 キャメルボーイたちのラクダのつかまえ方もカウボーイのそれとおんなじだ。 これはという若い力のありそうなラクダを見つけると、トラックでもバイクでもとにかくそいつの走っているそばまで接近していく。そうして投げ縄をラクダの首にひっかける。 もっとも荷台に乗って狙いをつけて投げる投げ縄術ができるのはトラックだけだ。トラックはブッシュの中をものすごいスピードですっとばしていくから、投げ縄も片手しかつかえない。 バイクははじめトラックと組んでラクダを挟みうちにする役割りをしていたが、やがて1頭のコレハ・・・というのを見つけるとどこまでも追いつめていく。 若いラクダは動揺し、口から沢山のアブクみたいなツバやヨダレを流し「ひえええ」というような必死の顔つきで逃げ回るが、やがてスタミナがなくなってスピードがおちる。 するとバイクの男は走りながらラクダの首にしがみつき、バイクを捨ててプロレスでいうヘッドロックの技をつかう。力の強いラクダは首にしがみついてくる人間を振り落とそうとするが、勇敢なキャメルボーイは自分の体を振り子のようにして空中で大きくひねり、その反動で「ずっでーん」とついにラクダを倒してしまう。 ラクダが倒れると仲間の誰かがとんできて、すぐにラクダの前足をロープで縛ってしまう。ラクダは歩けなくなり、それで一丁あがりである。キャメルボーイは新たな獲物にむかって再び果敢な接近戦を挑んでいくのだ。(中略) 3時間すこしで5頭のラクダをつかまえた。つかまってしまったラクダは別段悲しそうな顔をするでもなく、もぐもぐと口をうごかしながら「しょうがねえなあ。こうなっちまったらよう・・・」というような気配で男たちを眺めていた。 トラックやバイクですっとんでいるうちは感じないがいったん止まるとものすごい熱気に全身を包まれてしまう。まだ10時前だというのに、地表の気温は50度以上である。ウーム さすがにオーストラリア・・・・ワイルドやでぇ♪ラクダが出てくる映画『奇跡の2000マイル』を紹介します。【奇跡の2000マイル】ジョン・カラン監督、2013年豪制作、H27.9.2観賞<movie.walker解説>よりラクダ4頭と愛犬を連れ、オーストラリア西部に広がる砂漠2000マイル(約3000キロ)を横断した女性の回顧録を映画化。オーストラリア各地で大規模ロケを敢行、アリス・スプリングスからウルル(エアーズロック)を経由しインド洋へと彼女がたどった道程を再現している。監督は「ストーン」のジョン・カラン。製作には「英国王のスピーチ」のイアン・カニングとエミール・シャーマンが加わっている。冒険の旅に出た女性を「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカが、ナショナルジオグラフィックの写真家を「フランシス・ハ」のアダム・ドライバーが演じている。第70回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。<大使寸評>ラクダ4頭と愛犬を連れ砂漠2000マイルを横断する実録の映画化なのだが、予想にたがわずかなりワイルドな砂漠、ラクダが見えて・・・ええでぇ♪驚いたのはオーストリアでは野生のラクダが闊歩していることです。世界でも野生ラクダの数はオーストラリアがいちばんとのこと。(オーストリア大陸へ家畜として人間が移入した後に野生化したようです)それから・・・向かってくる野生ラクダを撃ち殺すシーンがあるのだが、実際、野生ラクダは危険なので、砂漠横断には銃の携行はかかせないとのことです。この映画で見えるラクダは、大使がサウジで見た種類よりもやや大きくて、かなり強面の種類のようです。母の死があって以降、人間不信に陥っている主人公は、父親の跡を継ぐように砂漠横断を決意するわけで・・・ラクダを手に入れるために食堂やラクダ牧場で、アルバイトに精を出すのです。ラクダ4頭を手に入れて、砂漠横断に踏み出すと・・・過酷な砂漠や、アボリニジーとの交流がドキュメンタリー映画のように描かれていて飽きないわけでおます♪彼女の砂漠横断は、ナショナルジオグラフィックの資金援助で実現したのだが・・・この映画でも、5,6週間おきにカメラマンが撮影に訪れるのです。movie.walker奇跡の2000マイルmovie.walker公式サイト
2016.11.18
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「日本人」でしょうか♪<市立図書館>・観察する男・駱駝狩り・日本の起源・描かれた倭寇<大学図書館>・日本人のルーツ図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【観察する男】想田和弘著、ミシマ社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1 第1回取材(撮影前)取材日:2013年11月2日@世田谷美術館(舞台はなぜここなのか?)/2 第2回取材(撮影後・編集前)取材日:2013年12月10日@麹町ヴェローチェ(誰に密着するのか?/登場人物を増やすか?/どうすれば「映画」になるのか?)/3 第3回取材(ログ起こしの途中)取材日:2014年4月15日@上野カフェラミル(何でどう撮るのか?/編集の目的は何か?/どうすれば監督になれるのか?/生計をどう立てるのか?/映画づくりにとって、何がムダか?)/4 第4回取材(編集完了後)取材日:2015年4月30日NYとのスカイプにて(何を残し、何をカットするのか?/編集の基準は何か?/「何の」映画なのか?/被写体には観せるのか?)/5 第5回取材(ロカルノ映画祭招待)取材日:2015年7月22日NYとのスカイプにて(映画祭ではどうすれば上映されるのか?)<読む前の大使寸評>想田監督の「牡蠣工場」というドキュメンタリー映画を興味深く拝見したのだが・・・その映画の制作過程を監督が語っているとのことで、個人的には必見の本なのでおます。<図書館予約:(11/01予約、11/12受取予定)>rakuten観察する男【駱駝狩り】椎名 誠著、朝日新聞社、1989年刊<「BOOK」データベース>よりオーストラリア中央部のあつく乾したブッシュを南から北へ―。その旅の途中で出会ったラクダ狩りの男たち。50度を超える熱気の大砂漠の人と自然をペンとカメラで再現する。<読む前の大使寸評>オーストラリアのラクダといえば・・・『奇跡の2000マイル』というオーストラリア映画で彼の地のラクダを見て以来、大使のミニブームというか、気になっていたわけです。1989年刊の写真付き旅行記であるが・・・大人の絵本のようで、ええでぇ♪amazon駱駝狩り【日本の起源】東島誠×與那覇潤著、太田出版、2013年刊<商品の説明>より古代の天皇誕生から現代の日本社会までを貫く法則とは? 歴史学がたどりついた日本論の最高地点。いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないのだろう。<読む前の大使寸評>與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・その論理が気になるので借りた次第でおます。amazon日本の起源【描かれた倭寇】東京大学史料編纂所編、吉川弘文館、2015年刊<「BOOK」データベース>より16世紀、時代の転換点にあって、東アジアの海域秩序を乱した倭寇。彼らを描いた作品として著名な「倭寇図巻」。それと非常によく似た「抗倭図巻」。日中の共同研究による最新の成果をビジュアルに紹介。【目次】第1章 「倭寇図巻」の魅力を探る/第2章 二つめの倭寇図巻ー「抗倭図巻」の発見/第3章 比較検討「倭寇図巻」と「抗倭図巻」(図巻を解剖する/蘇州片の世界/文字は語る)/第4章 三つめの倭寇図巻?-幻の「平倭図巻」(「文徴明画平倭図記」を読む/「乍浦・梁荘の勝利」と胡宗憲/成立と流布)/第5章 倭寇の記憶ー「太平抗倭図」の世界(民間絵画「太平抗倭図」/「太平抗倭図」に描かれた倭寇)<読む前の大使寸評>下半身丸出し、はだしで、日本刀を携えた姿で知られる倭寇であるが・・・中国人が描いたこの絵が興味深いのです。rakuten描かれた倭寇【日本人のルーツ】ムック、ニュートンプレス、2000年刊<「MARC」データベース>より日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。<読む前の大使寸評>追って記入amazon日本人のルーツ***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き183
2016.11.17
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15日深夜にNHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』再放送を観たのだが、興味深い内容であった。アナ雪やベイマックスなど、ディズニーのCG作品の跋扈を見るにつけ・・・宮崎監督ならずとも、大使でも危機感を覚えるんですよ。2016.11.13終わらない人 宮崎駿より 3年前、電撃的な引退宣言を行った世界的なアニメーション映画監督・宮崎駿(75)。長編映画の現場から身を引くと宣言した宮崎だが、その創造への意欲は実は衰えていなかった。 新進気鋭の若きCGアニメーターとの出会いから、初めてCGを本格的に使い、短編アニメで新たな表現への挑戦を始めた。だが、映画作りは難航し、制作中止の危機に直面する。宮崎アニメ初となるCG短編制作の舞台裏を、カメラが2年にわたって独占取材した。 クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮崎が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。番組では、巨匠の溢れ出る映画作りへの想い、苦悩、あがきを生々しく活写していく。3年前、電撃的な引退宣言を行った世界的なアニメーション映画監督・宮崎駿(75)。長編映画の現場から身を引くと宣言した宮崎監督だが、その創造への意欲は実は衰えていなかった。アナログ派の宮崎監督がCGアニメに挑戦する様が放映されていたが・・・監督の目指すものは、最新技術でどう描くかというよりも、何を描くかというところにあるようですね。つまり、クリエーターの深い悩みがあるようです。番組の最後で、長篇アニメの新企画にも触れていたが・・・監督に残された時間はあまり無いのが辛いところか。
2016.11.17
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図書館に予約していた『図書館に通う』という本を、待つこと11日でゲットしたのです。想田監督の「牡蠣工場」というドキュメンタリー映画を興味深く拝見したのだが・・・その映画の制作過程を監督が語っているとのことで、個人的には必見なわけでおます。【観察する男】想田和弘著、ミシマ社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1 第1回取材(撮影前)取材日:2013年11月2日@世田谷美術館(舞台はなぜここなのか?)/2 第2回取材(撮影後・編集前)取材日:2013年12月10日@麹町ヴェローチェ(誰に密着するのか?/登場人物を増やすか?/どうすれば「映画」になるのか?)/3 第3回取材(ログ起こしの途中)取材日:2014年4月15日@上野カフェラミル(何でどう撮るのか?/編集の目的は何か?/どうすれば監督になれるのか?/生計をどう立てるのか?/映画づくりにとって、何がムダか?)/4 第4回取材(編集完了後)取材日:2015年4月30日NYとのスカイプにて(何を残し、何をカットするのか?/編集の基準は何か?/「何の」映画なのか?/被写体には観せるのか?)/5 第5回取材(ロカルノ映画祭招待)取材日:2015年7月22日NYとのスカイプにて(映画祭ではどうすれば上映されるのか?)<読む前の大使寸評>想田監督の「牡蠣工場」というドキュメンタリー映画を興味深く拝見したのだが・・・その映画の制作過程を監督が語っているとのことで、個人的には必見なわけでおます。<図書館予約:(11/01予約、11/12受取)>rakuten観察する男この映画に、かなり態度のでかい白猫が出てくるのだが・・・その自然な姿が猫好きにはたまらないのです。p193~196 <僕の中ではだんだんシロが中国人の人たちと重なってきたんですよね> 「シロの扱い」というメモがあります。シロというのは、映画にたびたび出てくるヨソの飼い猫ですね。完全版では、中盤、規与子が「入っちゃあだめだよ」と言うのに無理やりシロが僕らの家に入ろうとするシーンがあります。そしてラスト付近にシロがもう一回、家に入ってくるシーンがありますけど、第1編、あの中盤のシーンだけをラスト付近に使っていた。 でもそれだといまいちシロの印象が弱くて。規与子が「シロが弱い、シロが弱い」って言うんですよ。「でも、もう一回家に侵入してくるけど、同じようなシーンだからあまり使いたくない」って僕が言ったら「入れてダメだったら元に戻せばいいじゃん」と。 僕は英語で言うとredundant(冗長)になるかなと危惧していたんです。つまり繰り返しというか、蛇足になるかなと。でも、実際に家への侵入シーンを2回入れてみると、逆におもしろくなったというか。2回目に家に侵入する時は、シロが前よりも図々しくなっているというか、家に入るのに慣れてきたなこいつ、という変化が見えるので、ああ繰り返してよかったなと思いました。 シロのシーンは、最初は映画に入れるつもりもなくて、シロが可愛いから撮っていただけなんですけど、僕の中ではだんだんシロが中国人の人たちと重なってきたんですよね。規与子はまったくピンときていなかったみたいですけど。 だってシロは飼い猫で、本当のおうちはどこか別にあるわけじゃないですか。だけど、僕らの家に入りたがる。自分の家とは違う、どこか他に行きたいところ、入ってみたいところがあって、そこにわざわざ入ってくる。そういう存在。 僕らのほうも、シロが寄ってきてくれるとうれしいんだけど、実際に家に入ってこられると困るみたいな。移民の話と、構造が似ているなあと思ったんです。それに、日本で生まれ育ったのにニューヨークで暮らす自分たちとも重なるし。もちろん違いもありますが。 撮影している最中にそういうインスピレーションが湧いてきて、シロのことはちょっと丁寧に撮っていきました。規与子のほうはそんなことは知らないので、カメラの前なのにまったく無防備に振る舞っていて、自分の声とか振る舞いとかが気に入らないらしくて、けっこう嫌がってました。ははは。「観察映画の十戒」とやらを見てみましょう。p126~129 <観察映画の十戒> 出身地の花火大会を撮りたいと思っているんですね。足利市に、100年続いている伝統ある花火大会があるんですけど、その様子を観察映画にしようという構想があります。もう市からは撮影許可をいただいていて、本当は今年ちょうど100周年なので、今年撮るのが良かったんですけど。 実は、アメリカの大学でいわゆる客員教授のようなかたちで映画を教える話があって、それとの兼ね合いなどから今年は撮影を断念した。ところが大学の話が土壇場で延期になってしまって、「だったら、今年撮ればよかった1」と。めちゃくちゃ痛いですね・・・・。それがわかったのが、2,3日前なのですが、そういうことにいろいろ左右されますね。しょうがない。(中略) 観察映画の10ヶ条を、最近僕は、モーセの十戒になぞらえて、「観察映画の十戒」と呼んでいます。#1 被写体や題材ひ関するリサーチは行わない。#2 被写体との撮影内容に関する打合せは、原則行わない。#3 台本は書かない。作品のテーマや落しどころも、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。#4 機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が一人で回し、録音も自分で行う。#5 必用ないかも? と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。#6 撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。#7 編集作業でも、あらかじめテーマを設定しない。#8 ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。#9 観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。#10 製作費は基本的に自社で出す。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。 これを明記しているおかげで、原点に戻れるんですよ。 これがないと、簡単に雑念にやられて、映画づくりの方針が別の方向にシフトしてしまう。「100周年」というキーワードで映画をあらかじめ括ろうとするような、月並みな考え方になるというか。普通のドキュメンタリーの撮り方になるというか。よくやられている発想というものに引き戻されてしまうんです。 引き戻されてしまうたびに「いやいや違う。自分がやっているのは観察映画であり、あの十戒を基本としてやっているわけだから、その精神からすると、今年だろうが来年だろうが関係ないはずだ」という結論に戻れるんですよね。『観察する男』1『観察する男』2監督へのインタビューを見てみましょう。2016年2月20日『牡蠣工場』想田和弘監督ロングインタビューより 撮影前に台本を作らず、ナレーションやテロップ、BGMなどを排した「観察映画」の第6弾となる想田和弘監督の最新作『牡蠣工場』が公開される。牡蠣の産地、岡山県牛窓の工場に密着し、ただそこに暮らす人たち、そこで起きる事象を見つめる「観察」からグローバリズムや移民問題、震災後の日本が浮かび上がる野心作だ。 ニューヨーク在住で映画のプロモーションのため来日中の想田和弘監督が、『選挙』(2006)、『精神』(2008)、『Peace ピース』(2010)、『演劇1』『演劇2』(共に2012)、『選挙2』(2013)を経て、進化と深化を続ける「観察映画」への想い、そして社会や政治問題に警鐘を鳴らす「論客」としての立場から見た日本について語った。(取材・文:村山章)魚の消費量は減らないのになぜ漁師が減っているのか?Q:「観察映画」には、あらかじめテーマを決めずに撮影するというルールを設けられていると思いますが、題材に「牡蠣工場」を選んだのはなぜですか?A:最初は漁師さんの映画を撮りたいと思って牛窓に行ったんですね。夏休みを過ごすのによく牛窓を訪れていたんですけど、いつも借りる家の目の前が漁港なんです。そこで妻であり製作の柏木(規与子)がよく太極拳をやっていて、漁師さんたちと仲良くなるわけです。すると持ち帰ってくる話が「後継ぎがいないんだって」とか「(漁師は)みな70代、80代なんだよね」みたいなことで。っていうことは、もしかして10年後には漁師さんが魚を獲る光景自体が消えているんじゃないか。それってなんでだろう? という疑問がベースになりました。Q:漁師という職業自体に興味を抱いたんですね。A:そうですね。魚の消費量が世界的には増えているにもかかわらず漁師さんが生計を立てるのは難しい、あるいは後継ぎが現れないほど苦しいのはなぜなんだろうと。
2016.11.16
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図書館に予約していた『図書館に通う』という本を、待つこと11日でゲットしたのです。想田監督の「牡蠣工場」というドキュメンタリー映画を興味深く拝見したのだが・・・その映画の制作過程を監督が語っているとのことで、個人的には必見なわけでおます。【観察する男】想田和弘著、ミシマ社、2016年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1 第1回取材(撮影前)取材日:2013年11月2日@世田谷美術館(舞台はなぜここなのか?)/2 第2回取材(撮影後・編集前)取材日:2013年12月10日@麹町ヴェローチェ(誰に密着するのか?/登場人物を増やすか?/どうすれば「映画」になるのか?)/3 第3回取材(ログ起こしの途中)取材日:2014年4月15日@上野カフェラミル(何でどう撮るのか?/編集の目的は何か?/どうすれば監督になれるのか?/生計をどう立てるのか?/映画づくりにとって、何がムダか?)/4 第4回取材(編集完了後)取材日:2015年4月30日NYとのスカイプにて(何を残し、何をカットするのか?/編集の基準は何か?/「何の」映画なのか?/被写体には観せるのか?)/5 第5回取材(ロカルノ映画祭招待)取材日:2015年7月22日NYとのスカイプにて(映画祭ではどうすれば上映されるのか?)<読む前の大使寸評>想田監督の「牡蠣工場」というドキュメンタリー映画を興味深く拝見したのだが・・・その映画の制作過程を監督が語っているとのことで、個人的には必見なわけでおます。<図書館予約:(11/01予約、11/12受取)>rakuten観察する男ちょっと業界サイドの話になるけど、ハリウッドのDCP新規格の話が載っていました。ハリウッド映画といえば、大使の鬼門でもあるわけで・・・見過ごせないのです。p31~34 <映画界にもグローバリズムが押し寄せている> デジタル・プロジェクターの規格が統一されようとしているのは、ハリウッドがDCPという規格を開発して、それを世界標準にしようとしているからです。DCP規格のプロジェクターを日本全国の映画館が、というより全世界の映画館が採用せざるを得なくなっています。DCPを入れないと、観客動員の見込めるメジャーな映画を上映できなくなるのです。 それまで使っていた35mmフィルムの映写機を撤去して、DCPのプロジェクターを入れていく。それがここ4,5年くらいの全世界的な急激な変化です。恐ろしいことに、今年に入ったくらいからは、35mmの映画は、ほとんどどこでも上映できなくなってきています。 もともと僕の映画は35mmにはせず、デジタル上映しかしていないので、デジタル革命とは相性がいいはずだった。でも僕が使っていたデジタル規格は、多くのミニシアターが使っていた規格で、ハリウッドが決めた規格とは違うんですね。ミニシアターはお金がないので安いほうをとる。僕らインディーな製作者も安いほうをとる。「安くて、値段のわりにちゃんときれいに上映できるやり方」を狙うわけ。 ハリウッドのDCP規格はたしかにきれいだけど、僕らには完全にオーバースペックなのです。今はだんだん値段が下がってきていますが、映画館がDCPプロジェクターを導入すると、1000万円くらいかかっていました。1000万円の投資をして、それなりに売上が上がるならいいですが、売上は今までと変わらないですよね。プロジェクターを買い換えるだけですから。ですから、どの映画館もきつい。 じゃあどうするか? というと、お金を借りてプロジェクターを買い、少しずつ返していくという方式をDCPの業者が考案しました。ヴァーチャル・プリント・フィー(VPF)というのですが、1作品につき8万円とか9万円を、映画館が業者に納めていく方式なんです。 これは、たとえば100館、200館、300館で同時に上映されるようなメジャーな映画にとっては問題ないんですけど、そうではないミニシアターの作品だとすごくきつい。たとえば、とくに地方のミニシアターでは、1日1回上映を1週間しかやらない作品もありますから。それでも1本につき8万円、9万円かかると、それだけで赤字になってしまいます。 そういうところがどんどん淘汰されるのではないか、という危機がこの2,3年の間に出てきています。みんな本当に大変な思いをしています。最初からDCPを入れないことを決めて、「俺たちはアンッダーグラウンドでいく」という感じの映画館もあります。映画界にもグローバリズムが押し寄せているんですね。 僕らにとっては寝耳に水です。フィルムで撮って上映するのはすごくお金がかかります。だからこそ、僕らインディペンデントな作家たちは「デジタル」という安いけれども画質のよい規格に流れたわけですよね。そして思い思いの規格を採用して、ゲリラ的に映画をつくって上映してきました。 それは文字通り「革命」だった。われわれはデジタル技術によって、35mmという金のかかる方式から解放された。大げさな言い方をすれば、映画の「民主化」が進んだわけです。 ところが、結局、今度のDCP規格の導入によって、デジタルも大手の規格化にからめ取られてしまう。そういう事態が起きつつある。だから、内心忸怩たるものがありますね。この映画を、今年の3月に観たのでくだんのフォームで紹介します。【牡蠣工場】想田和弘監督、2015年日米制作、2016.3.12鑑賞<movie.walker作品情報>より「選挙」などで知られるドキュメンタリー作家、想田和弘の“観察映画”第6弾。瀬戸内海に面した町・岡山県の牛窓にある牡蠣工場で働く人々の姿を通して、グローバル化、少子高齢化、過疎化など、様々な社会問題を浮き彫りにする。2015年8月にスイスで開催された第86回ロカルノ国際映画祭に正式招待された。<観る前の大使寸評>ドキュメンタリー映画「選挙」の想田監督の最新作ということなので、気になるわけです。movie.walker牡蠣工場「牡蠣工場」を観たbyドングリ
2016.11.15
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図書館に予約していた『福沢諭吉の朝鮮』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。「脱亜論」で知られる福沢諭吉が、朝鮮をどう見ていたのか、朝鮮人とどう接していたのか・・・興味深いのです。【福沢諭吉の朝鮮】月脚達彦著、講談社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「転向者」福沢の思想/情念、「アジア主義」の本質的矛盾、挫折する「リベラルな帝国主義」…。『時事新報』での言説と朝鮮開化派との個人的関係から、真実の福沢諭吉像と現代日本の東アジア関係との連続性を提示する。 <読む前の大使寸評>「脱亜論」で知られる福沢諭吉が、朝鮮をどう見ていたのか、朝鮮人とどう接していたのか・・・興味深いのです。<図書館予約:(11/06予約、11/10受取)>rakuten福沢諭吉の朝鮮「アジア盟主論」、「脱亜論」のあたりを見てみましょう。p18~20 <「アジア主義」の成立と福沢諭吉> 『時事小言』で展開された「アジア盟主論」=「アジア改造論」は、その実は「朝鮮改造論」だった。『時事小言』の脱稿は1881年7月29日であるから、慶応義塾に二人の朝鮮人留学生を受入れたとき、福沢はその執筆中にあった。『時事小言』における福沢の「アジア改造論」は、実際は朝鮮人との出会いを受けた「朝鮮改造論」だったのであり、坂野の指摘のとおり、語勢として、「支那朝鮮」の「改造」と表現されたのである。 ではなぜそのような語勢をつけたのか。ここで留意すべきは、福沢が初めて朝鮮人と出会った1880年は、近代日本の「アジア」認識に一つの画期をもたらす年だったということである。この年、曽根俊虎らによって興亜会が結成されるが、明治維新史研究者の三谷博によれば、ヨーロッパ生まれの「アジア」という「空虚な地理的概念」が、日本において連帯の対象という政治的概念に転換する画期として位置づけられるのが、この興亜会の結成なのである。 同年に東京を訪れた李東仁もこの興亜会に出入りし、また修信使の金弘集も興亜会から招待状を受け取っていた。1880年に朝鮮人と出会った福沢が、朝鮮を30年前の日本に重ね、日本を訪れる朝鮮人を20年前の自分に重ねて「同情」を表明した年に、朝鮮に対する関心を「支那」を含めたアジアに対する関心として表現したのは、おそらく福沢も1880年の東京における「興亜」論の提唱という雰囲気に反応したからなのであろう。 ところで、福沢とアジアというと真っ先に思い出されるのが、『時事新報』1885年3月16日社説「脱亜論」である。1880年から「アジア盟主論」という「アジア主義」的主張を始めた福沢が、そのわずか5年後に日本はアジアから脱しなければならないと唱えたのは、その間に福沢とアジアをめぐる「状況」に変化が生じたからにほかならない。それでは、社説「脱亜論」とは果たしていかなる文章なのであろうか。 すでに多くの論者によって指摘されているように、社説「脱亜論」は発表の当時にはとくに注目された文章でなく、戦後日本の文脈で「発見」されたテクストだった。社説「脱亜論」の内容については本書でもこのあとすぐに検討するが、これが本格的に「有名」になったのは、竹内好が「アジア主義の展望」に全文を引用してからである。 橋川文三は、1968年発表の論文で「たぶん『脱亜論』が有名になり出したのは、ごく最近のことかと思われる」と述べている。また酒井哲哉は1999年発表の論文で社説「脱亜論」はサンフランシスコ講話後の日本において「アジア連帯」の思想的契機を「帝国主義成立前の歴史のなかに探し求める」なかで、その「陰画」として「発見」されたものだと指摘した。 その後、平山洋は戦後おいて社説「脱亜論」を「発見」したのは遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」(1951年)であり、これを受けて福沢のアジア侵略論について問題提起をしたのが服部之総「東洋における日本の位置」(1952年)だったという事実を明らかにしている。 つまり、日中戦争・太平洋戦争期の日本のアジア侵略の反省という戦後の問題意識のなかで社説「脱亜論」が日本史研究者によって「発見」され、さらに60年安保という状況のもと、竹内好らによる中国などアジア諸国・諸民族との連帯の「思想的契機」としての戦前の「アジア主義」の再評価のなかで、福沢の社説「脱亜論」がその「陰画」として注目されたということになろう。 ただし竹内好は、日清戦争以後の福沢については思想的堕落を見るのであるが、社説「脱亜論」当時の福沢については「同じ弱者である隣国への同情がないではな」く、「心情としてのアジア主義はある」とむしろ評価していた。「アジア主義の展望」に先立つ「日本とアジア」でも、竹内は「彼のアジア観は、アジアとは非ヨーロッパである、あるいは、アジアとはヨーロッパによって蚕食される地である、と考えたということである。こういう生き生きしたアジアのイメージから切り離して『脱亜』だけを取り出すのは、福沢の本旨を没却するもの」だと述べている。 竹内にとって「アジア」が「アジア」である所以はヨーロッパの侵略に抵抗することであり、その点で福沢も「アジア」の知識人だったのである。『福沢諭吉の朝鮮』1
2016.11.15
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図書館に予約していた『福沢諭吉の朝鮮』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。「脱亜論」で知られる福沢諭吉が、朝鮮をどう見ていたのか、朝鮮人とどう接していたのか・・・興味深いのです。【福沢諭吉の朝鮮】月脚達彦著、講談社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「転向者」福沢の思想/情念、「アジア主義」の本質的矛盾、挫折する「リベラルな帝国主義」…。『時事新報』での言説と朝鮮開化派との個人的関係から、真実の福沢諭吉像と現代日本の東アジア関係との連続性を提示する。 <読む前の大使寸評>「脱亜論」で知られる福沢諭吉が、朝鮮をどう見ていたのか、朝鮮人とどう接していたのか・・・興味深いのです。<図書館予約:(11/06予約、11/10受取)>rakuten福沢諭吉の朝鮮福沢と朝鮮人との最初の出会いあたりを見てみましょう。p10~13 <福沢諭吉の朝鮮との出会い> 福沢が初めて出会った朝鮮人は、金玉均の命を帯びて日本に密航した僧侶の李東仁だった。1876年に日朝修好条約が結ばれて釜山が開港場となった。李はそこに進出した東本願寺の援助で1879年に日本に密航して京都にとどまり、翌1880年4月には東京に移って浅草の東本願寺別院に滞在し、福沢と親交のあった東本願寺の僧侶の寺田福寿を介して、福沢の自宅をしばしば訪問するようになった。 この年、朝鮮から日朝修好条規締結後の2回目の使節である金弘集の一行が日本に派遣された。徳川幕府と外交関係を結んだ朝鮮政府が、日本に12回にわたって通信使を派遣したことはよく知られているが、修信使と名を改めた日本への使節が金ギ秀を正使として派遣されて東京を訪れた。それに続く第2回の修信使がこの金弘集である。李東仁は密航の身でありながらも、金弘集に認められて行動をともにした。朝士日本視察団の派遣に際して、李の意見が朝鮮政府で相当な影響力を発揮したものと推測される。 金弘集の一行が東京に到着したのは1880年8月12日であるが、朝鮮の官服を着た一行を見た福沢はやはり感慨が深かったらしく、「朝鮮使節渡来」と題する次のような漢詩を作っている。 異客相逢君莫驚 異客相逢うも君驚くなかれ 今吾自笑故吾情 今吾自ら笑う故吾の情 西遊記得廿年夢 西遊記すを得たり廿年の夢 帯剣横行龍動城 剣を帯びて横行す龍動(ロンドン)城 「東京で見慣れぬ衣冠装束を身に着けた異邦人を見ても驚くことはない。日本人も20年前に西洋に行ったときには、腰に刀を差してロンドンの街を歩いたのだから」というのである。ここでも福沢は1880年の朝鮮人との出会いを契機に、現今の朝鮮を30年前の日本に重ね、また日本にやってくる朝鮮人を20年前の自分の姿に重ねて、並々ならぬ思いで朝鮮を見ることになった。 それとともに、日本は朝鮮に対して、かつての日本に対するイギリスの位置に置かれていることも、この漢詩から読み取ることができる。朝鮮との出会いの最初から、福沢は朝鮮を日本より30年遅れた存在と見なしていたのである。 なお、福沢が初めて接した朝鮮人の李東仁はいったん帰国したが、同年11月に再び日本を訪れた。このときには、李と同じ僧侶の卓挺埴が神戸まで同行し、李より遅れて12月に東京に至った。ところが李は、1ヵ月ほど東京に滞在して帰国すると、翌年初めに忽然と消息を絶った。李は東京でイギリス公使館に出入りし、イギリスとの条約締結の可能性を探っていた。 そのため、西洋諸国との条約締結に反対する勢力によって殺されたという説が有力であるが、アメリカとの条約締結を決心した朝鮮政府によって殺されたという説もあり、真相はわからない。福沢が初めて接触した朝鮮人は、おそらく本国で消されたのであるが、これはこのあと本書で見るような、その後の福沢と朝鮮人政客との交わりの行く末を予言していた。
2016.11.14
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大学図書館の新刊コーナーで『意匠の天才 小村雪岱』という本を手にしたのです。おお 市図書館の予約カートで待機している本を、ここでみっけ♪「とんぼの本」シリーズなので、カラー画像満載であり・・・これぞビジュアル本の真価というところか。【意匠の天才 小村雪岱】原田治(イラストレーター), 平田雅樹著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より 大胆にして繊細。豪奢ながらもさりげない。懐かしき江戸の姿を描きつつ、極めてモダンー。大正から昭和初期にかけて、主に大衆文化の分野で活躍した意匠家・小村雪岱。独自のデザイン感覚に貫かれたその作品世界は、泉鏡花にも愛されました。彼が手がけた貴重な装幀本から、挿絵、舞台美術、日本画まで、珠玉の名品150余点を一挙掲載。新資料や味わい深い名随筆も特別所収し、永遠に古びることなき天才の全貌に迫ります。<読む前の大使寸評>市図書館の予約カートで待機していたが、大学図書館でみっけ♪「とんぼの本」シリーズなので、カラー画像満載であり・・・これぞビジュアル本の真価というところか。rakuten意匠の天才 小村雪岱雪岱の装丁本の続きを、見てみましょう。p49~50 <雪岱の装丁:平田雅樹> こうして世にその名を知られる存在となった雪岱は、大正7年(1918)、資生堂意匠部に招かれる。当時すでに在籍していた矢部季はビアズレーの影響を強く受けていたが、それは当然雪岱にも少なからぬ刺激を与えたはずだ。 アール・ヌーヴォーなどの多くの資料に触れる機会を得たことも、後の装丁意匠に大きな影響をもたらすことになるが、ビアズレーもアール・ヌーヴォーも、斬新で刺激的であると同時に、もとを辿ればかつて海を渡った日本美術の影響下に生まれた美であるから、雪岱としては、そこにある種の懐かしさも感じ取ったことだろうし、この新しい芸術を消化し自らのものとすることもたやすかったに違いない。 また、資生堂のオリジナル書体を作るために審美書院版『寒山詩集』を基に研究した宋朝体文字はその後の雪岱装丁本の背文字に広く応用されている。 資生堂在籍中から雪岱は新たに小説挿絵も手掛けていく。当時の連載小説は江戸を舞台とした作品も多かったが、その挿絵には少しも古臭さがなく、むしろ新鮮な印象を与えるものであった。 雪岱の挿絵については、浮世絵の影響、特に鈴木春信との関係や、先に触れたビアズレーの影響などがよく指摘されるが、その構図には絵巻物をはじめとする大和絵の技法が色濃く反映している。また、雪岱が没して2ヶ月後に行われた蔵書売立の目録『雪岱氏遺蔵本入札目録』をみると、雪岱の研究対象は古代中国や古代エジプトおよびギリシャの壁画・彫刻・陶器にまで及んでいたことがわかる。 確かに、雪岱描く挿絵の線や装丁に使われた紋様には、その応用の跡が見て取れる。こうして確立されていった独特の様式は、大和絵の「雅」と浮世絵の「俗」の融合というだけでなく、異国文化の雅俗までをも取り入れた、まさに「折衷の美」である。この何とも言葉では表現しようのない美の世界を人々は「雪岱調」と呼んで絶賛した。 時は昭和に入り、歌舞伎・新派の舞台美術や映画の仕事でも活躍するようになっていた雪岱だが、多忙を極める中でも夥しい数の挿絵を描き続けた。そして、作品が単行本化される際には、当然その装丁依頼がくる。例えば邦枝完二作『おせん』がその代表的なものだ。しかし、残念なことに、木版画はもはや時代遅れの技法となりつつあった。江戸以来の伝統技術を持った職人たちは去り、代わりにオフセット印刷が主流となっていく。 昭和期の装丁本には、その意匠の素晴らしさにもかかわらず、印刷の質の悪さゆえに魅力的とはいえないものが多い。こうして、木版画装丁本という類なき工芸美は、ごく一部の趣味的出版を除いて、徐々に世の中から消えていった。挿絵1挿絵2ビアズリー『意匠の天才 小村雪岱』1線描画の達人たち
2016.11.14
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大学図書館の新刊コーナーで『意匠の天才 小村雪岱』という本を手にしたのです。おお 市図書館の予約カートで待機している本を、ここでみっけ♪「とんぼの本」シリーズなので、カラー画像満載であり・・・これぞビジュアル本の真価というところか。【意匠の天才 小村雪岱】原田治(イラストレーター), 平田雅樹著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より 大胆にして繊細。豪奢ながらもさりげない。懐かしき江戸の姿を描きつつ、極めてモダンー。大正から昭和初期にかけて、主に大衆文化の分野で活躍した意匠家・小村雪岱。独自のデザイン感覚に貫かれたその作品世界は、泉鏡花にも愛されました。彼が手がけた貴重な装幀本から、挿絵、舞台美術、日本画まで、珠玉の名品150余点を一挙掲載。新資料や味わい深い名随筆も特別所収し、永遠に古びることなき天才の全貌に迫ります。<読む前の大使寸評>市図書館の予約カートで待機していたが、大学図書館でみっけ♪「とんぼの本」シリーズなので、カラー画像満載であり・・・これぞビジュアル本の真価というところか。rakuten意匠の天才 小村雪岱雪岱の装丁本について、見てみましょう。p46~47 <雪岱の装丁:平田雅樹> 多色木版画による装丁本は、江戸の錦絵から続く伝統と西欧からの新しい感性が絶妙に呼応した工芸美である。 しかし、この美しいオブジェが誕生し世界に類を見ない日本独特の書物文化が花開いたのは、明治も後期に入ってようやく洋装本という書物の形が我が国に根付いてから昭和初期に至りオフセット印刷が図版の主流となるまでの間、大正期を頂点とするわずか30年ほどに過ぎない。 橋口五葉、鏑木清方、竹久夢二といった人々が数多くの美しい木版画装丁本を世に送り出したが、その中でも抜群に優れた仕事を残したのが小村雪岱である。祇園夜話 一つ例を観よう。 茶店が軒を連ねる祇園の街はすっかり雪に包まれている。その静かな情景を描いた函から本を取り出すと、場面は一変して、暖かな座敷に立つまだ表情に幼さの残る舞妓の姿が眼に飛び込む。表紙の木版画は50度摺りというだけあって、舞妓の細やかな指先や絢爛な衣装は息を呑むほど精巧で美しく、地には「・・・しろい蝋のやうな指がほの暗い光のなかでしなやかに働いて幾本となく小さな紙撚を・・・」と物語の断片が変体仮名交じりで摺り込まれる。耳の奥に「祇園恋しやだらりの帯よ」と小唄のひとつも聞えてくれば、心はすでにこの小説の世界へ引き込まれている・・・。 大正4年(1915)4月、千章館から上梓された長田幹彦著『祇園夜話』は、雪岱の装丁本の中でも傑作のひとつである。私はこの本に「優れた装丁」の典型を見る思いがする。 いったい何をもって「優れた」と言うのか。私にとって書物の装丁とは、単に豪華であったり目立つものであればいというわけではない。その書物の内容に似つかわしく、その世界を象徴するものであるべきだ。 特に小説や詩集など文学書の装丁は、本を開く前から読者をその世界へと誘う装置として働く。読者の手のひらの上にあって、その心を一気に別世界へと引き込む、そんな装丁こそ、私にとっての「優れた装丁」なのである。その意味で、雪岱はあまたの優れた装丁本を残してくれた。 江戸時代中期に商業的出版が広まってから明治初期に至るまで、我が国で「本」といえばいわゆる和本であり、版木に文字や絵を彫り、和紙に摺り、表紙を付けて糸で綴じたものが一般的であった。 江戸後期には庶民にまで本を読む習慣が広まり、読本や草双紙そして艶本の挿絵・口絵や表紙絵として華麗な多色木版画が使われるようになる。その下絵は一枚摺り錦絵の人気浮世絵師たちの手になるものも多いが、それを版画の形に仕上げたのはもちろん多くの名もない彫師や摺師といった職人である。 文化文政期から幕末にかけて、彼ら職人たちの技術は「超絶」と呼んでいいほどのレベルに達する。かつて西欧で百科事典の銅版挿絵制作に従事した職人たちは、暗い照明の下での緻密な作業で眼を潰した者も多かったというが、我が国の職人たちの仕事も恐らく同じように過酷なものだったに違いない。この時代の多色木版画をみると職人の執念のようなものさえ感じられる。しかし、版画技術が緻密さと洗練の頂点を極めようとする一方で、世の中は幕末の動乱から明治維新に向けて混沌としていく。 明治に入ると書物の本文には徐々に活字が使われるようになり、簡素な和綴じ本やボール表紙本過渡的な形態を経て、明治30年代中頃から現在とほぼ同じ形の「洋装本」が定着する。 「和本」の時代からわずか20数年、日本の書物の形は大きく変わった。この頃、浮世絵師や超絶的技術を持った職人たちは木版画口絵の制作というかたちで本と係わっていく。 明治の終りから大正へと時代が移る頃、維新以降の江戸否定と西欧模倣が一段落し、かえって逝きし日の江戸情緒を懐かしむ風潮が広がりをみせ始める。その一方で、西欧からは実用的技術ばかりでなく、文学や絵画・工芸といった芸術的分野の新たな刺激が次々と我が国に入ってきていた。 そこに、雪岱が登場する。
2016.11.13
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作家・活動家の雨宮処凛さんがコラム(一期一会)で「生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ」と語っているので、紹介します。右翼出身の活動家というアウトサイダーだが、「生きさせろ!」というメッセージが鮮烈ですね。(11/10デジタル朝日・コラム(一期一会)から転記しました)■生きづらい人間は、革命家になるしかない 格差と貧困の問題に、10年前から警鐘を鳴らしていた。不安定な雇用、低賃金労働にあえぐ若者たちに向けて「生きるのがつらい時も、自分を責めるな」と著書やブログで訴え、デモを呼びかけてきた。かつての自分自身がそうだったからだ。 美大進学を志して北海道から上京するが挫折し、アルバイトを転々としていた1990年代半ば。服を買っても、バンドの「追っかけ」をしても、心は満たされない。「死にたい」とリストカットを繰り返した。 「自分の内側に閉じこもり、自傷行為で、心の痛みを体の痛みにごまかしていた。社会に居場所がない。お金もない。何者にもなれない。ショボい自分を罰していたんです」 そんな日々を、作家の見沢知廉(みさわちれん)さんとの出会いが変えた。96年発表の獄中ノンフィクション「囚人狂時代」を読み、「この人なら死にたいほどの心の痛みを理解してくれるかも」と感じ、読者イベントに足を運んだのが最初だ。「弟子」の1人となり、薫陶を受けるようになった。 見沢さんは10代で左翼思想に共鳴し、成田闘争にも関わった後、右翼へ転向。急進化し、82年には英国大使館に火炎瓶を投げ、殺人を犯してしまう。94年に出所後、純文学「天皇ごっこ」などを発表。雑誌の記事では、社会への怒りを忘れた若者たちを、熱い言葉でたきつけていた。 自分の「生きづらさ」を吐露すると、師匠の答えは明確だった。「社会のせいだ。全ての価値がカネに置き換えられてしまう今の世の中で、生きてる実感がないのは当然。消費社会はお前に『消費だけする人間に変われ』と言う。逆だ。お前がこの社会を変えろ。毛沢東だって最初は無名、無一文だった。生きづらい人間は、革命家になるしかないんだ」 見沢さんは2005年、自ら命を絶った。「文学への情熱と、人を殺めた罪を償う苦しみ。その間で、引き裂かれていたのかも知れない」 「革命」の志を受け継ぐように、翌06年から反貧困を訴え始めた。 「火炎瓶を投げる代わりに、私は見沢さんが身をもって教えてくれた『生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ』を理想に掲げて闘う。弱者への徹底したあの優しさは、見沢さんの強さであり弱さだった気がします」(寺下真理加) * 1975年、北海道滝川市生まれ。2000年、自伝的エッセー「生き地獄天国」でデビュー。「生きさせろ! 難民化する若者たち」(07年)で日本ジャーナリスト会議賞。「反貧困ネットワーク」世話人。(一語一会)作家・活動家、雨宮処凛さん2016.11.10 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2016.11.13
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図書館で『氷山の南』という厚めの本を手にしたのです。池澤夏樹さんの長篇小説といえば、『カデナ』以来となるのだが…読んでみるか♪【氷山の南】池澤夏樹著、文藝春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より2016年1月、18歳のジン・カイザワは、南極海の氷山曳航を計画するシンディバード号にオーストラリアから密航する。乗船を許されたジンは厨房で働く一方、クルーや研究者たちのために船内新聞をつくることに。多民族・多宗教の船内で、ジンはアイヌの血という自らのルーツを強く意識する。女性研究者アイリーンとともに、間近で見る氷山に畏怖の念を覚えるジン。真の大人になるための通過儀礼を経て、プロジェクトに反対する信仰集団と向き合う。このプロジェクトの行方は…。21世紀の冒険小説。<読む前の大使寸評>冒険小説というマイナーなジャンルであるが、たまには夢を見たいではないか。池澤さんの長篇小説といえば、『カデナ』以来となるのだが…読んでみるか♪主人公の18歳のジンはアイヌの血が混じる青年で、少数民族交換事業の一環でニュージーランドで学んでいたという設定である。英語がペラペラの18歳のアイヌ系日本人というのはなんだか没入できないところもあるが・・・そんなのは読者の狭量なのかも。rakuten氷山の南オーストラリアの港町の画廊で、アボリジニの絵をみていたら、その絵の画家(アボリジニ)が、ジンに話しかけるという導入部が印象的である。ドリーミングこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p361~366 「ドリーミングはカントリーの中を移動し、そうやって世界を創造した」とトミーじいさんが言った。 「ドリーミングって、夜寝て夢を見ることですか?」 「いや、ドリーミングは創造主だ。彼らが世界を造ったし、造っているし、われわれがきちんとしていれば、将来も造る」 ドリーミング カントリーに続いてまたむずかしい言葉がでてきた。 一応は英語だけれど、アボリジニの人たちとのとても抽象的な概念をなんとか英語に当てはめたのだろう。だから英語として考えても意味がつかめない。 「ドリーミングはずっと動いている。世界があるかぎり彼らが停まることはない。だから人間も動いている。カントリーの中を動いて、いくつもの景色を目で見て、耳で聞いて、風を肌に感じて、匂いを嗅いで、そうやってカントリーとつながっていなければならない」 「カントリーのために?」 「カントリーと自分たちのために」 「絵を描くんだってそうなんだよ」とジムが言った。「絵に描くことでカントリーを人間たちのものにする。そうやってカントリーを元気づける」 「それじゃ、カントリーは人間は人間の働きかけに応じるの?」 「そうだ」とトミーが言う。「川に行って釣りをするだろう。その時、人は川に向かって歌を歌って、魚を授けてくれるように頼む。川は人が来たことを喜び、人に魚を与えてくれる。どちらもがハッピーになる」 「そのためにはまず川まで行かなければならないのさ。川を見なければならないのさ」とジムは言った。 「わしは英語で聖地という言葉があるのを学んだ」とトミー・ムンガが続ける。「しかしその意味がよくわからなかった。どうして白人の世界には聖地があんなに少ししかないのか。すべての土地は無数の聖地で覆われている。わしらはそんな風に考えるんだ」 少しわかってきた。 「トラックというのもあるよ」とジムが言う。「道筋。これもカントリーやドリーミングと同じように大事な言葉だ。ぼくたちが移動した跡がトラック、ドリーミングが移動する道がトラック。カントリーの中には無数にトラックが走っている。そこを人はいつも行き来してカントリーの幸福をはかる。そうするとカントリーも人間の幸福を考えてくれる」 「カントリーは世界なの?」 「世界の一部、わしらの住む部分だ」 「じゃ、他の人のカントリーに入ってはいけないわけ?」 「ああ、それこそ白人の考えかただな。柵を作ってその中は自分の土地だから他人は入ってはいけないと言う。そういう考えがどうしても理解できなくてアボリジニはすたすた彼らが作った柵の中へ入っていって、それで殴られたり時には殺されたりした」 「不法侵入?」 「そう言われた。どこにせよ人が歩くことを禁止する法があるとはわしらにはわからん。わしらの考えではカントリーには境界はない。むしろ、たくさんの人たちが歩かないとカントリーはやつれてしまう。わしらは自分たちのカントリーだけでなく、別のカントリーもたくさん歩く。言ってみればあっちの人とこっちの人でカントリーを交換するんだ。カントリーを元気にするために」 「いろんな道筋(トラック)が交差するところがみんな聖地だと想えばいいよ」とジムが言う。「トラックの網の目が大地ぜんたいに広がっている」 「そこをいつも人は歩いているわけ?」 「それが人が生きるということで、世界があるということだから」(中略) カントリーと自分はいい仲だ、と思った。ここまでやってきてよかった。ジムの誘いの絵はがきに応じてよかった。 でも、自分はこの先どこまで行くんだろう? 北海道からニュージーランド、南極、そして今はここ。行き詰るたびに先が開けた。それを繰り返してここまで来た。遠くが見えている時もあったし、目の前が壁という時もあった。あのワシかタカにはいつだって遠くが見えているのだろうが人間はそうはいかない。 ここまでは運がよかった。 でも、なんでこんなに動いているんだ? そこで、唐突に、自分が持っているもののことを思い出した。ムックリを入れたアルミのチューブの底に押し込んである小さな隕石。 あれはもっと遠い旅をしてきたんだ。池澤さんはアボリジニの芸術を(終わりと始まり) 人と土地をつなぐ神話 として語っています。『氷山の南』1
2016.11.12
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図書館で『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』という本を手にしたのです。呉善花さんの本は、『スカートの風』以来、折りに触れて読んできたが・・・彼女の日本学は民俗学や美学の側面を持つまでに発展してきたようです。【なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか】呉善花著、PHP研究所、2012年刊<「BOOK」データベース>より百数十年前の西洋人が外から見た日本。そして、滞日歴29年の著者が現在見ている日本。その両方を往復しながら、わが国の「美」の本質に迫る。【目次】1 外側からの日本(夢のような国/天国に最も近い国 ほか)/2 美しく生きる(日本人の美意識の核心「いさぎよさ」/生き方の美学 ほか)/3 貝殻のなかの大洋(「もののあわれ」を知る心/桜、その散りぎわの美しさ ほか)/4 祭りに込められた祈り(雛祭りの人形/お遍路さんをもてなす信仰 ほか)<読む前の大使寸評>呉善花さんの本は、『スカートの風』以来、折りに触れて読んできたが・・・彼女の日本学は民俗学や美学の側面を持つまでに発展してきたようです。rakutenなぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか飛行機の上から地上を見れば、日本は山国であることが改めて感じられるのだが・・・もっと視野を広げると、山島ということになるようです。著者はこの視点で、次のように語っています。p171~174 <山島という地形の美しさ> 日本の国土の特徴は、なんといっても南北に長く弧状に連なる島嶼群としての地勢にある。北からは千島弧、日本弧、琉球弧と弓なりに結び連なる日本列島。その姿をドイツの地理学者0.F.ペシェルは、まるで花を編んで作った懸け花装飾の花サイ(フェストゥーン)のようだということから「花サイ列島」と呼んだ。 日本列島は、北へ辿れば千島列島からカムチャッカ半島、アリューシャン列島を経てアメリカ大陸のアラスカにまで至る。南へ辿れば、琉球列島から台湾、フィリピン、マレー諸島、ニューギニアからミクロネシアへ至るラインと、伊豆・小笠原諸島からマリアナ諸島を経てミクロネシアへと連なるラインを持っている。こうした環太平洋を巡る島々の一部としてありながら、さらに大陸東端に地を接するばかりの位置にあるのが日本列島である。日本列島を構成する島々は実に6852を数える。 作家・島尾敏雄はこの弧状に連なる群島としての日本を「ヤポネシア」と呼んだ。 「ヤポネシアというのは、そばにミクロネシアだとか、メラネシア、ポリネシア、インドネシアだとかありますが、われわれは、しょっちゅう大陸の方ばかり眺めてきたような気がするんです。地図を見ましても、大陸を真中に置くから、日本はもう大陸に振り落とされそうな形で、はじっこの方にしがみつこうとしている。そういうことじゃなくて、やはり半分は太平洋に面しているんですから、そうした側から日本を見れば、メラネシアとかミクロネシア、ポリネシアみたいに、一つの島々のグループがあるというふうな気がするわけです」 大陸と向き合う「小陸日本」の発想に対して、海に広く開かれた「弧状列島日本」の発想に立ってイメージされたのが「もう一つの日本」としてのヤポネシアだった。 日本が北方系・南方系の文化を幅広く複合させてきた大きな理由の一つが、この南北に細長い列島という地勢にある。長い時間をかけて、じわじわと島伝いに文化が渡ってくるのである。 こうした地勢から、日本は南北ではかなりの大国だが、東西では極小国となる。海辺から少し内陸部へ入ればすぐ山にぶつかる。山から少し降りればもう海である。脊梁山脈の切れている所では、あっという間に反対側に出てしまう。 こうした特徴をもつ日本の沿岸地帯に共通に見られるのが、海辺の狭小な平地からすぐに切り立った山地を擁する地形である。伊豆半島などもその典型の一つだが、この海辺と山地の極端な近接が織りなす沿岸地帯の景観の美しさは日本に独特なものだ。アメリカ、ヨーロッパ、中国などの大陸諸国ではもちろんのこと、日本とよく似ているといわれる韓国でもほとんど見られない景観である。 私は、海・山・平地が一挙に一つの視野に入ってくるこの独特な風景に、ずっと魅せられ続けてきた。そして、日本各地への旅を重ねていくなかで、日本文化は一つにはこの特異な地形から大きな影響を受けつつ形づくられてきたのではないかと、そう考えるようになった。 広大な大陸的景観のなかで育った外国人の多くが、日本に来てこの地形が織りなす景観に初めて触れたときに大きな驚きを覚えるという。 それは古代の中国人にとっても同じことだったようである。3世紀の西日本の見聞を記した中国の史書『魏志倭人伝』が、最初に書きとめた日本の景観もこれであった。冒頭に次のようにある。 「倭人は帯方の東南大海中に在り、山島に依りて国邑を成す」 古代の中国人は、右に述べた地形が織りなす景観を「山島」と表現したのである。柳田国男は、紀州熊野で山民が山の神に怪魚オコゼを供え、また海民が山の神を祀ってやはりオコゼを供えるという、海と山との信仰の複合を物語る伝説について述べた文章のなかで、「山島」に触れながら次のように書いている。 「恐らくは此信仰は『山島に拠って居を為せる』日本の如き国に非ざれば起るまじきものにて、殊に紀州の如き海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」 紀州熊野の沿岸地帯のように、海からわずかな平地を介してすぐに山が切り立ち、そこから平地へ川が流れ下るような、海・山・平地がきわめて接近した日本列島沿岸地帯に特有な地形が「山島」である。柳田は、人々がこうした地形で長らく生活を展開することによって、海の信仰や生活と山の信仰や生活が複合し、やがて融合をとげていくことを述べている。 魏の時代に朝鮮の一部は魏の植民地となっていて、魏の使節はそこから朝鮮半島を南下して船で日本へ渡った。そして日本に到着し、朝鮮半島でも見られないその独特な地形の光景に驚きを感じ、わざわざ「山島」とその特徴を記したのではなかったかと思う。『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』1この本も呉善花さんの本に収めておきます。
2016.11.12
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図書館で『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』という本を手にしたのです。呉善花さんの本は、『スカートの風』以来、折りに触れて読んできたが・・・彼女の日本学は民俗学や美学の側面を持つまでに発展してきたようです。【なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか】呉善花著、PHP研究所、2012年刊<「BOOK」データベース>より百数十年前の西洋人が外から見た日本。そして、滞日歴29年の著者が現在見ている日本。その両方を往復しながら、わが国の「美」の本質に迫る。【目次】1 外側からの日本(夢のような国/天国に最も近い国 ほか)/2 美しく生きる(日本人の美意識の核心「いさぎよさ」/生き方の美学 ほか)/3 貝殻のなかの大洋(「もののあわれ」を知る心/桜、その散りぎわの美しさ ほか)/4 祭りに込められた祈り(雛祭りの人形/お遍路さんをもてなす信仰 ほか)<読む前の大使寸評>呉善花さんの本は、『スカートの風』以来、折りに触れて読んできたが・・・彼女の日本学は民俗学や美学の側面を持つまでに発展してきたようです。rakutenなぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか日本人の潔さを理解し評価する韓国人は、おそらく呉善花さんぐらいのものだろう。p86~89 <日本人の美意識の核心「いさぎよさ」> これまで見てきた幕末~明治初期に日本を訪れた西洋人の滞在記では、日本人一般の気質はおおむね、穏やか、開けっぴろげ、快活、くったくがない、明るくいきいきとしている、といった印象で描かれている。誰にもすぐに感じ取られたのが、温帯性海洋国家に特徴的に見られる「温和な開放性」だったことはよく理解できる。 たしかに日本は、全般的にはきわめて温暖な気候に恵まれた、世界でも有数の住みやすい国である。しかしその一方で、日本は、歴史的に大地震が頻発し、しばしば火山が噴火し、さらには季節ごとに台風や豪雪が各地を襲うという意味では、自然が猛威をふるう国でもある。この面だけを見ると、日本はいかにも厳しい自然にさらされた住みにくい国のようにもなってくる。 日本はそのように、穏やかさばかりではなく、厳しさをも抱えもつ自然環境下にある。とはいえ、その厳しさは、和辻哲郎が台風と豪雪をもって論じたように、執拗に持続する厳しさではなく、季節的・突発的なものである。 猛烈な台風に襲われても、過ぎ去った途端に静寂がやってくる。豪雪の後には必ず雪解けがやってくる。そのように、季節的・突発的に猛威をふるう「日本の風土を除いてどこにも見いだされない」(和辻)自然の性格が日本にはある。これが、きれいにあきらめること、思い切りのよいこと、淡白に忘れることなどに特徴づけられる日本人の気質を形づくらせた、というのが和辻の考えである。 和辻は地震や火山の噴火には言及していないが、日本を「温帯性」で一般化することなく、猛威をふるう自然の面に重点をおいて論じたところに、まことに興味深いものを感じる。それは別にしても、こうした「思い切りのよいあきらめ」が日本人の気質の大きな特徴なのはたしかである。 かつての西洋人たちにも、くったくがない、くよくよしない、とらわれない、こだわらない、あっさりしている、などの面はそれなりに見えていた。しかしさらに進んで、スパッと執着を断ち切る「思い切りのよいあきらめ」に気づくまでには、多くの者が至っていなかったようである。 それは無理もないことである。私の体験でいえば、日本人の「思い切りのよいあきらめ」に当面したのは、来日2,3年経って日本人とのつきあいがようやく深まりだしてからのことだった。しかも最初のうちは、それが「変わり身の早さ」とか「突然一転する心変わり」と感じられ、「なんて冷たい人たちなのか、情の薄い人たちなのか」と思い続けていた。それが「思い切りのよいあきらめ―いさぎよさ」というべきものと、なんとか思えるようになったのは、さらに1,2年経ってからのことであった。 「思い切りのよいあきらめ―いさぎよさ」は、単に日本人の気質の大きな特徴であるだけではなく、日本人の美意識の核心をも形づくる、とても重要な属性である。未練がましい振る舞いは、日本人の美意識からすればとても醜いものである。未練なくさっぱりとしたあきらめの態度こそ美しいのだ。 「いさぎよい」という言葉は『日本書紀』に記されているというから、かなり古い時代からの言葉と想像される。古くは「清らか」とか「潔白」の意味で使われ、鎌倉時代末から室町時代にかけての頃より、「未練がなくさっぱりしている」といった現代と同じ意味で用いられるようになったようである。 「もののあわれ」(を知る)というのも、日本人の重要な美意識の一つだが、これは仏教の無常観と深く結びつくことで美的な生活理念にまで高まったものといえる。それに対して「いさぎよさ」は、仏教の悟りの境地と結びつくことで、やはり美的な生活理念にまでなっていったと思われる。ここでいう美的な生活理念とは、「どのように生きるのが美しいか」と発想するときに目指される人間的な理想とお考えいただきたい。 仏教の悟りとは、かなり乱暴ないい方になるが、ひとまずは自我・現世への執着から脱して真の自由の境地を得ること、といえるかたお思う。より実際生活に引き寄せていえば、「あきらめて運命を悟ること」とか「人生を諦観すること」となる。「いさぎよくあろう」とすれば、最終的にはそうした境地が目指されるといえるだろう。 「もののあわれ」は情緒的な心の系列に、「いさぎよさ」は自覚的な心の系列に対応している。いずれも日本人の美意識を考えるときに欠かすことのできない、核心的な要素である。ウーム 深情けの韓国人が日本人の潔さが理解できることに、けっこう驚くわけです。それはもしかして、彼女の辛い個人的体験のもとに得た認識かもしれないけど。この本も呉善花さんの本に収めておきます。
2016.11.11
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・イエスの幼子時代・薄情・福沢諭吉の朝鮮・図書館に通う<大学図書館>・意匠の天才 小村雪岱図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【イエスの幼子時代】J・M・クッツェー著、早川書房、2016年刊<「BOOK」データベース>より初老の男が5歳の少年の母親を捜している。2人に血の繋がりはなく、移民船で出会ったばかりだ。彼らが向かうのは過去を捨てた人々が暮らす街。そこでは生活が保障されるものの厳しい規則に従わねばならない。男も新たな名前と経歴を得てひとりで気ままに生きるはずだったが、少年の母親を捜し、性愛の相手を求めるうちに街の闇に踏み込んでゆく―。人と人との繋がりをアイロニカルに問う、ノーベル文学賞作家の傑作長篇。 <読む前の大使寸評>過去を捨てた人々が暮らす街てか・・・・なんか面白そうやでぇ♪<図書館予約:(7/27予約、11/05受取)>amazonイエスの幼子時代【薄情】絲山秋子著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より地方都市に暮らす宇田川静生は、他者への深入りを避け日々をやり過ごしてきた。だが、高校時代の後輩女子・蜂須賀との再会や、東京から移住した木工職人・鹿谷さんらとの交流を通し、かれは次第に考えを改めていく。そしてある日、決定的な事件が起きー。季節の移り変わりとともに揺れ動く内面。社会の本質に迫る。滋味豊かな長編小説。<読む前の大使寸評>この新作は、2016年の谷崎潤一郎賞受賞とのこと。絲山秋子ミニブームの勢いで、読んでみるか♪<図書館予約:(10/31予約、11/05受取)>rakuten薄情【福沢諭吉の朝鮮】月脚達彦著、講談社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「転向者」福沢の思想/情念、「アジア主義」の本質的矛盾、挫折する「リベラルな帝国主義」…。『時事新報』での言説と朝鮮開化派との個人的関係から、真実の福沢諭吉像と現代日本の東アジア関係との連続性を提示する。 <読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(11/06予約、11/10受取)>rakuten福沢諭吉の朝鮮【図書館に通う】宮田昇著、みすず書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より編集者、翻訳権エージェントとして、出版界で60余年を生きてきた著者。第一線を退き、今度は本好きの一市民として、街の図書館の奥深さと変貌を、つぶさに経験する。同時に、みずからの半生と対話しながら、たくさん読んできたエンターテインメントのこと、むかし営んだ貸本屋のこと、貧しいハンガリー移民のピューリツァーが、アメリカで図書館を学校として育った逸話、図書館と著作権の問題をはじめ、誰も書かなかった、本と人を繋ぐエピソードを満載。アイデアにみちた提案とともに、デジタル・ネットの時代に、図書館も書店も出版社も、ともに活躍できる道を探る。 <読む前の大使寸評>追って記入amazon図書館に通う【意匠の天才 小村雪岱】原田治(イラストレーター), 平田雅樹著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より 大胆にして繊細。豪奢ながらもさりげない。懐かしき江戸の姿を描きつつ、極めてモダンー。大正から昭和初期にかけて、主に大衆文化の分野で活躍した意匠家・小村雪岱。独自のデザイン感覚に貫かれたその作品世界は、泉鏡花にも愛されました。彼が手がけた貴重な装幀本から、挿絵、舞台美術、日本画まで、珠玉の名品150余点を一挙掲載。新資料や味わい深い名随筆も特別所収し、永遠に古びることなき天才の全貌に迫ります。<読む前の大使寸評>市図書館の予約カートで待機していたが、大学図書館でみっけ♪「とんぼの本」シリーズなので、カラー画像満載であり・・・これぞビジュアル本の真価というところか。rakuten意匠の天才 小村雪岱***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き182
2016.11.11
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図書館で『関西人のルール』という文庫本を手にしたのです。著者は、仕事で大阪と東京を行き来するバイリンガルにして、コスモポリタンとのこと。・・・この本は期待できそうやでぇ♪【関西人のルール】千秋育子著、中経出版、2012年刊<「BOOK」データベース>より仕事で大阪と東京を行き来することが多い著者が、自身を含めた「関西人」ならではの特長について、「関東人」の視点にふれながら書きつづったイラストエッセイ。交渉上手で、笑いにも厳しいといわれる「関西人」。本書は、そんな彼らのビジネスシーンやプライベートでのふるまい・行動の意味を面白おかしく解説していきます。<読む前の大使寸評>著者は、仕事で大阪と東京を行き来するバイリンガルにして、コスモポリタンとのこと。・・・この本は期待できそうやでぇ♪rakuten関西人のルールこの本に「あなたの中の関西人度チェック」として30項目が載っていました。面白い項目を、挙げてみます。p22~30#1 心の中でよく「なんでやねん」とツッコんでいる#4 やっぱり粉モンが好き #7 タクシーの運転手に話しかけることが多い#22 気に入らなかったらクレームは一応言う #25 もんじゃ焼きを食べたことがない#30 トイレットペーパーはシングル、食パンは5枚切りを買う さらに、「関西人苦手意識度チェック」として12項目が載っていました。面白い項目を、挙げてみます。p31~34#1 関西出身と聞くと「オモロい人かなぁ」と期待してしまう#2 一方で、「けっこうキツいこと言われる?」と少し不安も #6 関西人って、怒ると怖そう。怒らせないようにしないと#8 関西人にボケられたとき、どう返していいか困る#12 関西人には敬語を使わずに、なれなれしくしたほうがいいのかと悩む 関西人のラテン的のりが、わりと外国人に好評のようですが・・・これらのチェック項目を見てみると、関東人にはちょっと怖がられているようですね。
2016.11.10
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新保史生さんや栄藤稔さんが朝日のオピニオン欄で「AIと生きる」ことの意味や倫理を語っているので、紹介します。とにかく、自動運転たら技術は、基本的に「おせっかいな技術」と思い、鬼門として毛嫌いしている大使なので・・・そのあたりを見てみたいのです。(お二人のオピニオンを11/9デジタル朝日から転記しました)自動運転からがんの診断に至るまで、さまざまな分野で人工知能(AI)を活用する研究が進んでいる。AIの実力とはどれほどなのか、そして私たちはどう備えたら良いのか。■「人間第一」のルール必要 新保史生さん(慶応大学教授) AIの技術は進んでいるのに、それに対する人間の考えが追いついていない。それが今の状況です。 自動走行車で事故があったら、責任はドライバーにあるのか、メーカーにあるのか。そんな、AIを社会としてどう受け入れていくかという制度づくりの議論が、ようやく始まったところです。 法律面を考えてみても、表現の自由やプライバシーなど憲法上の問題から、刑法や民法、安全保障など国際法上の問題まで、今後は幅広い検討が必要になります。 AIと言っても、すでにある自動走行車と、「ターミネーター」のようなSF的なものを一緒に議論すると、混乱してしまう。議論の前提を整理する必要があります。 課題の緊急度では、まずは現に問題が起きている分野です。米国では自動走行中の死亡事故も起きている。さらに、いつ起きてもおかしくない問題。AIを搭載したドローンが墜落し、人的被害が出るようなケースを考える必要がある。SFのような想定問題は、その先のことです。 まずは緊急度が高い課題を念頭に、将来的には具体的な法律に落とし込む必要があります。ただ、現在進んでいるのはその基礎となるAI開発の原則や制度づくりです。 制度づくりと言うと、規制強化と思われがちです。しかし実際には、ルールが未整備だと、参入へのちゅうちょが生まれ、かえってイノベーションを阻害してしまいます。 日本は世界をリードするロボット大国。その優位をAIで生かすためにも、制度整備の議論を急ぐべきです。 私も参加した総務省の有識者会議「AIネットワーク化検討会議」は今年4月、まず「AIの研究開発の原則」として、「透明性」や「プライバシー保護」など8項目のたたき台をまとめました。同月末に高松で開かれたG7の情報通信大臣会合で、この「原則」を日本から提案し、各国も賛同しました。今後はこれをベースに国際的な議論が進むことになります。 検討会議での議論のきっかけは、私が昨年秋に試案としてまとめた「ロボット法 新8原則」です。SF作家アシモフが提唱したロボット工学の倫理「3原則」や経済協力開発機構(OECD)のプライバシーガイドラインを参考に、AIの進展も踏まえてアップデートしました。 そこで最初に取り上げたのが「人間第一の原則」です。 AIの活用で効率は上がる。ただ、それが人間にとって幸せかどうかは別問題です。作業を単純にAIに置き換えれば、機械ですから融通はきかない。人間が幸せになるよう、人間優先でAIをうまく使いこなす必要があります。その理念が、議論の出発点になると思っています。(聞き手・平和博) *新保史生:70年生まれ。OECDデジタル経済セキュリティ・プライバシー作業部会副議長。著書に「情報管理と法」。**************************************************************■社会課題解決のツールに:栄藤稔さん(NTTドコモ執行役員) 国立研究開発法人の科学技術振興機構で、AI活用プロジェクトを統括しています。昨年、AIの画像認識力が人間の「目」を超えたという研究結果が発表されました。たとえば、そっくりな双子の顔を人間はよく間違えますが、最新のAIは間違えない。 最近は、動画認識による自動運転や、文法だけでなく経験則にも学ぶ自動翻訳が、AIの最先端です。私が社長の子会社「みらい翻訳」のAIの英作文力は、TOEIC700点の人の水準。日英の言い回しを数百万も学習させて到達できました。 ただ、日本でAIというと、鉄腕アトムのような人型の万能ロボットをイメージする人が多いですが、欧米企業の技術者の間では「賢い機械」ぐらいの受け止め方。実際、まだまだAIは単純な認識をしているだけです。水を見せると、「水」という名前だとは判断しますが、それが「流れる」「飲める」といったことは理解していない。人間の意識とは程遠いのです。 だからこそ欧米の企業で進むのは、AIを、社会を効率化するツールとして活用する取り組みです。例えば、がん検査の画像診断で、AIの画像認識能力を活用し、医師の診断を補助してもらう。今後は農業や食品加工の分野でも、例えばトマトの熟れ具合を見極めて一番いい時に収穫するといった取り組みが進むでしょう。 そして大事なのは、今やAIの基本技術はオープンソース(公開)化されており、ネット上で入手できる点です。そこからダウンロードすれば、だれでも使えるし、改良してアップロードもできる。最先端の技術開発を続ける一握りの米国大手をのぞけば、大半のAI企業は、目的に最も合ったコモディティー(汎用品)のAI技術を組み合わせることで勝負しています。 日本も、高齢化などが進む国だからこそできる社会課題の解決に、公開されているAI技術を使ってもっと取り組めると思います。ただ、その際に障害となるのは、日本では各産業の取り組みや社会の様々なデータが、まだデジタル化して蓄積されておらず、AIが読み込める状態になっていないことです。デジタル化できていないと、AIの学習に使えず、その果実を取れません。 とにかく有用と思われるデータをネット上にアップロードし、デジタル化を進めることが、AI時代には欠かせないと思います。AIの最先端技術では世界と競えなくとも、さまざまなデータを蓄積して、「そんなところがデジタル化されてるの」という分野をつくる。それを汎用品のAIに学習させて、AI活用の成功例を作り、次につなげていく。そこに、日本の活路もあると思っています。(聞き手・吉川啓一郎) *栄藤稔:60年生まれ。松下電器産業(現パナソニック)から2000年にドコモへ。14年からイノベーション統括部長。要するに、アップルやグーグルそしてアメリカ的商法が嫌いなだけだったりして(笑)なお、AIのディープラーニングなんかについてはAIは人の脅威か、アルファ碁の圧勝で語られています。(耕論)AIと生きる新保史生2016.11.9この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR1に収めておきます。
2016.11.10
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<(耕論)変な国アメリカ?>本日9時頃から米大統領選の開票作業が始まるそうだが・・・・矢口教授や厚切りジェイソンさんが朝日のオピニオン欄で「変な国アメリカ?」と語っているので、紹介します。(お二人のオピニオンを11/8デジタル朝日から転記しました)8日は米大統領選投票日。イスラム教徒の入国禁止、国境に壁……問題発言を繰り返すトランプ氏が最後まで支持を集めるのはなぜなのか。米国は「変な国」になったのか、そう思う私たちが変なのか。■分断と融合、いつも併存:矢口祐人さん(東京大学教授) 日本から見ると、トランプ氏の支持者は極論の持ち主に思えます。しかし、米国社会全体から見れば、おかしな人でも、ひどく偏った人でもない。外国から見ると「奇妙」でも、米国では「普通」の人が大勢いるから、トランプ氏優勢の州があれだけある。 米国はもともと巨大な分断を抱えた国です。多くのノーベル賞受賞者を出しながら、4割の人が進化論を信じていない。カリフォルニア州などには、聖書の創造論の「正しさ」を展示する博物館があります。来館者はごく普通の人たちが多く、進化論は信じないけれど教育や科学の大切さは否定しない。一方で、リベラルな知識層の知人に「行ってみよう」と誘うと拒否反応を示す。そういうものの存在すら認めたくない。完全に分かれてしまっているんです。 トランプ氏支持者の中心は、白人、男性、地方在住、大学を出ていないブルーカラー層です。そうした人が、共和党主流派ではなくトランプ氏を支持したのは、人種問題がとても大きい。米国社会に占める白人の比率は確実に減っています。白人男性を中心とした伝統的・保守的な価値観が揺らぎ、形容しがたい不安が広がっている。それをトランプ氏は巧みにすくい上げたといえます。 民主党のサンダース氏も似ています。格差が拡大する中で若者は将来への不安にさいなまれている。一部の金持ちに極端に富が集中する一方、学生は学費を賄うための多額の借金に苦しんでいる。そうした若者の不満をつかんだ。 ただ、人種や学歴、都市と地方、貧富による分断というのは、突然出てきたものではありません。米国は、常に外から人が入ってくる国で、新しく来た人々への感情的反発が必ず起きる。激しい貧富の差も常にある。ずっと存在する分断が、今回の大統領選で非常にわかりやすい形で具現化されたのだと思います。 それに大きく寄与したのがメディアです。CNNなどのニュース専門テレビ局にとって、トランプ氏は非常においしい素材です。彼のセンセーショナルな発言を報道すればするほど視聴率も上がる。メディアとトランプ氏の共犯関係が、劇場型の大統領選を生み出してしまった。 この大統領選を経たことで、米国社会の分断が加速するとはあまり思いません。分断はもともと存在したもので、トランプ氏が作り出したわけではない。また、政策的にも、人々の意識の中でも、積極的に融合を進める動きはあります。個人のレベルでは人種の融和は進み、黒人と白人の結婚や、そこから生まれる子どもたちも増えている。 でも、それに対する根強い反発もある。融合と分断のベクトルが常に並行して存在する。それがアメリカです。(聞き手・尾沢智史) * 矢口祐人:1966年生まれ。専門はアメリカ研究。著書に「奇妙なアメリカ」「憧れのハワイ」など。**************************************************************■被害意識がトランプ熱に:厚切りジェイソンさん(お笑い芸人) ホワイ、アメリカンピープル 米国人はなぜこんなにトランプ氏を支持するのか、ですか? 日本の皆さんが疑問を持つのも、当然ですね。 僕はミシガン州のチェルシーという田舎町で、共和党を支持してきた両親の元で育ちました。一番近いコンビニまで砂利道を車で20分。エンジニアの父親は、仕事よりも神様が大事な真面目なキリスト教徒でした。僕も両親と週に3回教会に通っていました。父は今も教会で毎月のように説教をし、そのユーチューブのリンクを送ってきます。 両親は選挙の際、どの候補の主張が聖書に近いかを考え、ずっと共和党候補に投票してきました。でも今回初めて「あれ、トランプ氏は共和党候補だけど、聖書に近いのかな」と悩んでいると思う。 トランプ氏は政治家ではないから、何かを変えてくれる――というのが今の米国の空気です。今ある問題を「何かのせい」にしている人からの支持が多いと思う。「おまえのせいじゃないよ」って、言ってくれるのを求めてる。 例えば、私の出身州の街、デトロイトの自動車産業の人々は、仕事が減って不満を持っている人が多い。そこで、「日本の車さえ入ってこなければこんなに苦しまなくて済んだ」と。地域によってはメキシコ移民のせいで仕事がなくなったと思う人も多い。 本当はそんな簡単な話ではないんです。でも、仕事を失った人は、そういう話を聞きたがる。車の品質とか価格とか、本当のことを見なくなる。その不満をトランプ氏が拾っている。人の不満に火をつけて共通の敵をつくることで人気を集めるのはヒトラーのやり方ですよ。 米国の資本主義は、品質の良いモノ、安いモノ、頑張る人を歓迎するはずです。なのに「オレの仕事がなくなるなら歓迎できないよ」となっている。私の知る本当のアメリカではないと思います。 イスラム系の人を差別する発言も結構やばい。これも米国の根本と全然違います。宗教の自由、言論の自由、思想の自由を大切にしてきた国なのに……。宗教は心の中のこと、生き方のことだから、外から区別のしようがないでしょう。危ないですよ。魔女狩りのようなことを繰り返すことになってしまいます。ちゃんとがんばって、米国を本当に愛している人を強制的に追い出すことになりかねない。 でもどうしてそんな主張が支持される変なことになっているのか、ですか? 僕は米国は今でも、自由で多様な価値を認める国だと思っています。ただ、怒っている一部の人たちに聞こえの良いことをトランプ氏が言い、さまざまな不満を持つ人たちもなびいてしまっているというのが現状です。米国のイメージも含めて、心配ですね。(聞き手・池田伸壹) * 厚切りジェイソン:本名はJason David Danielson。1986年米国生まれ。2014年に日本で芸能界デビュー、IT企業役員も兼務。【選挙結果を受けて】大使は次のようにツイートしたのです。トランプ大統領が誕生したんやて・・・・それはないぜ! 悪夢じゃ。この番狂わせには、多くの共和党員も驚いているようです。とにかく増大するヒスパニックと国内の経済格差にさらされたプアホワイトの怒りが、外交未知数の下品な大統領を選んだのかもしれないですね。(耕論)変な国アメリカ?矢口祐人2016.11.8 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR1に収めておきます。
2016.11.09
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図書館に予約していた『イエスの幼子時代』という本を待つこと約3ヶ月でゲットしたのです。過去を捨てた人々が暮らす街てか・・・・なんか面白そうやでぇ♪【イエスの幼子時代】J・M・クッツェー著、早川書房、2016年刊<「BOOK」データベース>より初老の男が5歳の少年の母親を捜している。2人に血の繋がりはなく、移民船で出会ったばかりだ。彼らが向かうのは過去を捨てた人々が暮らす街。そこでは生活が保障されるものの厳しい規則に従わねばならない。男も新たな名前と経歴を得てひとりで気ままに生きるはずだったが、少年の母親を捜し、性愛の相手を求めるうちに街の闇に踏み込んでゆく―。人と人との繋がりをアイロニカルに問う、ノーベル文学賞作家の傑作長篇。 <読む前の大使寸評>過去を捨てた人々が暮らす街てか・・・・なんか面白そうやでぇ♪<大使寸評>この世界では「自分だけが例外なのか、自分だけが適応できていない」と主人公はいぶかるのです。 読み進めるうちに、どうしようもないもどかしさと不安が膨らむわけで、並外れたSF作品のようでもあり・・・それが著者の筆力なんでしょうね。<図書館予約:(7/27予約、11/05受取)>amazonイエスの幼子時代この本の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。。p87~88 さっきはこう言いたかったのだ。「わたしからすれば、ここの生活はあまりにもおだやかで味気ない。浮き沈みもなければ、ドラマやテンションにも欠け・・・実際のところ、ラジオのこの曲そっくりだ。スペイン語でアノデイナ(鎮静剤)というんだったかな?」 いつかアルバロに、どうしてラジオにニュース番組がないのか訊いたことを思い出す。「ニュースって、なんのニュースを伝えるんだ?」アルバロは訊き返した。「世界で起きていることのニュースさ」彼はそう答えた。「へえ、なんか起きてるのか?」アルバロはそう言った。いつかと同様、皮肉なのかと勘ぐってみた。ところが、どう考えても、皮肉には聞えなかった。 アルバロは皮肉を言う柄ではない。エレナも同じだ。エレナは知的な女性だが、世界にひそむ二重性とか、ものごとの仮象と実在の違いなどというものは目に入らない。知的かつ尊敬すべき女性であり、針仕事と音楽教室と火事というきわめて乏しい素材から、りっぱに新生活をつくりだし、その生活にはなにも欠くところがないと・・・正当な?・・・主張をしている。 アルバロも船場の荷役たちも同じだ。密かな渇望みたいなものは感じられないし、別種の人生への憧れもないようだ。自分だけが例外なのか。自分だけが満足せず、適応できていない。一体なにがいけないんだろう? エレナが言うように、考え方や感じ方が古いだけなのか?古い考えはまだ自分のなかで死に切れていないものの、すでに断末魔の苦しみでのたうち回っているに違いない。 この世界では、ものごとに然るべき重みがない。結局のところ、エレナに言いたいのは、そこなのだ。聞えてくる音楽も重みを欠いている。われわれのするセックスも重みがない。毎日の食べ物、あのわびしいパン食も、ちっとも食べごたえがない・・・獣の肉というずっしりした身を伴わず、その食べ物の背後にある殺戮と命の犠牲という由々しさがないのだ。それに、われわれの話す言葉からして重みがないではないか。学習したスペイン語は心の底から出てきたものではない。 ラジオの曲は品のいいエンディングを迎える。彼は起き上がる。「もう行かないと。いつか、自分は記憶に悩まされるタイプの人間じゃないと言ったね。憶えているかい?」 「そんなこと言いました?」 「ああ、言ったよ。公園でサッカーの試合を見ているときだ。まあいい、わたしはきみとは違うんだ。記憶、あるいは記憶の影に悩まされる。そうだな、ここに来るまでに“きれいに洗い流して”くるべきなんだろう。確かにそのとおりだ。思い出すと言っても、大した記憶のレパートリーがあるわけじゃない。それでも、その影がつきまとうんだ。それに悩まされている。そうでもなければ、“悩まされる”なんて言い方はしない。記憶の影に、わたしは自分からしがみついている」 「良いんじゃないかしら」エレナは言う。「いろんな人がいて、世界ができあがるんだし」
2016.11.09
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久々にくだんの2本立て館に繰り出したが・・・・今回の出し物は「殿、利息でござる!」と「団地」であり、館主の設けたテーマは「噂と真実・・・」となっていました。なるほど「噂と真実・・・」か、2作品をつなぐテーマと言えば、それしかないなあ♪毎度のことながら、2作品に対して館主が設けるテーマのセンスには感心しているのです。【殿、利息でござる!】中村義洋監督、2016年制作、H28.11.7観賞<Movie Walker作品情報>より千両もの大金を藩に貸し付け、その利子を配分し、寂れた宿場町の復活を成功させたという、江戸時代の実話を映画化した時代ドラマ。阿部サダヲが町の復興のために仲間とともに奇策に挑む、造り酒屋の十三郎を演じ、『予告犯』の中村義洋が監督を務める。仙台藩主役でフィギュアスケートの羽生結弦が映画初出演を果たしている。<大使寸評>夜逃げの家族が店の前を通りかかると、二階から「金を貸してたなあ」と声をかける旦那のシーンは何回も出てくるのだが、旦那の真実の姿は最後になって明かされるのです(ネタバレになるので伏せておくが)・・・なるほど、「噂と真実」の乖離は並みたいではないなあ♪殿様の役者はどっかで見たなと思っていたが、やはり、フィギュアスケートの羽生でした・・・サービス満天やでぇ♪このお話は実話にもとづいていると、映画の冒頭でも説明があったが・・・昔の日本人の無私の正直さには、本当に驚かされます。Movie Walker殿、利息でござる!羽生の殿様ぶりを見てみましょう。阿部サダヲ、殿役・羽生結弦の共演秘話を語るより 仙台藩の藩主・伊達重村役を凛とした佇まいで好演した羽生だが、実は殿様役のキャスティングは、撮影直前までふせられていたという。「びっくりしました!初めて対面した時には、もう芝居が始まっていたので。きれいだなあと見ほれつつ、思わず笑っちゃった人もいたようです。庶民は殿様を見たことがなかったはずなので、実際にこんなふうに驚くんだろうなと。そこはシーンとぴったり合っていたと思います」。この映画館では毎回、幕間にお昼の弁当を食べるのだが・・・・今回もダイエーで買ったサンドウィッチでした♪【団地】阪本順治監督、2016年制作、H28.11.7観賞<Movie Walker映画解説>より大阪のとある団地を舞台に、住民たちが繰り広げるおかしな騒動を描くコメディ。『顔』で数々の賞を受賞した阪本順治監督が同作でもコンビを組んだ藤山直美のためにオリジナルの脚本を執筆。さまざま人生が交錯する団地で暮らすごく平凡な夫婦の普通じゃない日常を映し出す。夫の清治を岸部一徳が演じる。<大使寸評>平凡な夫婦の普通じゃない日常を映し出すったって、シュールなSF的シーンもあるし、監督のシナリオは縦横無尽というか、やりたい放題であるし・・・「噂と真実」の乖離は並みたいではないなあ♪阪本順治監督と藤山直美がコンビを組んだ2作目とのこと、次回作も期待できそうです。観客の想像力を置き去りにするほどの、コメディタッチの自由闊達さが、ええでぇ♪Movie Walker団地しかし、まあ・・・平日の午前中にもかかわらず、館内は8割がた埋まっています。それも、大使のような高齢の客が多く、いわばボリュームゾーンを押さえていて・・・この2本立て館の経営は、しばらくは安泰のようです。パルシネマ上映スケジュール2本立て館で観た映画
2016.11.08
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図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)【縄文農耕の世界】佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊<「BOOK」データベース>より 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか? 著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。 本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。<読む前の大使寸評>おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。rakuten縄文農耕の世界「畝を伴うと見られる畑」の発掘事例が見られるようになったそうです。 <ヒトに撹乱されてできた耕地>p171~173 栽培行為の広まりによって出現した新たな生態系が農耕のための土地、つまり耕地である。栽培される植物が何であったかによってその生態的な性格に違いはあろうが、耕地は基本的にはヒトによって撹乱されてできた生態系である。 クリのような木の仲間の場合には、耕地は耕地といっても里山の一角の木を払った程度の極めて粗放で手のかからないものであったろう。しかし毎年種子で繁殖する草の仲間、例えば穀類などの場合には、新たに耕地を開くのも、開いた耕地を維持するのも、それなりのエネルギーを要する作業を伴ったに相違ない。 もしその類型を現代に求めるならば、東南アジアの山地部に今も残る焼畑以外に適当なものはないように思われる。 東南アジアの焼畑については佐々木高明さんの名著『稲作以前』に詳しいが、その特徴は、火入れをして木や下草を焼き払い、その灰分を肥料とすること、また肥料分が切れてきたころにはその農地を放棄し(つまり休耕し)、休耕して森に戻っていた土地を新たに開墾することが特徴である。休耕することで耕地であった土地では遷移が進み、やがては森(里山)に戻って行く。縄文時代の農耕も、おそらくこれとそう大きく違わない方法で農耕が行われていた可能性が高いといえよう。 ところで縄文農耕に関係して畑作における畝について触れておきたい。畝とはいうまでもなく畑の土を列状に寄せて作る暫定的な構造物である。縄文農耕に対する関心が考古学の間でも高まりつつあるなか、最近各地で「畝を伴うと見られる畑」の発掘の事例が相次いだ。 畝状の遺構があればそれは畑の跡である可能性が高いということであろう。私もその一部を見せていただいたが、率直なところ、畝状の遺構のすべてが真に畝であったかどうかの自信はない。というのも、畝を立てる作業はかなりの集約的な作業であり、焼畑地帯など粗放な畑作の場ではあまり畝を見ないからである。畝はもともと、水田の裏作など、乾燥を好む作物にはあまり好適でない環境で立てられるものである。 縄文農耕を畑作の類型と考えるのはおそらく正しいが、それは現代の私たちが考えるよりはだいぶ粗放なものであり、畝立てのような高度な作業を伴ったかどうかはわからない。畝状遺構の存在を畑の存在とするにはなお検討が必要であるように思う。 さて、耕地の主人公は栽培食物である。しかし耕地には栽培植物以外の植物が入り込んでくる。後にのべる雑草もそのひとつである。ここに除草という作業が生まれる必然性が生じるが、耕地が耕地としての性格をはっきりさせてくるにつれ、雑草もまた雑草としての性格を一層明確にしてくる。そしておそらく、害虫や病原菌もまた、耕地に棲みつく新たな生物として登場することとなった。『縄文農耕の世界』1:ヒエ日本原産説『縄文農耕の世界』2:海上の道
2016.11.08
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図書館で『秘伝「書く」技術』という本を手にしたのです。これまで幾多の文章ハウツー本を読んできた大使であるが・・・著者の人柄なのか、ほっこりした読み物のようになっています。【秘伝「書く」技術】夢枕獏著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>よりベストセラー作家であり続ける著者が、すべての創作に役立つ実践的技術を初公開。【目次】第1章 創作の現場ー一つの小説ができるまで(365日、毎日書くということ/ある日、事故のようにテーマに遭遇する/ゴジラへの不満がキッカケとなる ほか)/第2章 創作の技術ー面白い物語をつくるポイント(四歳からぼくは作家だった/文字のない時代にも物語はあった/「道」という漢字は「生首」に由来する ほか)/第3章 創作の継続ーどうやれば続けられるか(20代ー無心に書き続けた生活/30代ーアイディアを“外”に求めることを知る/40代ー死ぬまでにあと何冊書けるのか ほか)<読む前の大使寸評>これまで幾多の文章ハウツー本を読んできた大使であるが・・・著者の人柄なのか、ほっこりした読み物のようになっています。rakuten秘伝「書く」技術著者の語る「物語の終わらせ方」について、見てみましょう。p56~58 <ぼくの物語の終わらせ方> 物語をどう終わらせるか、物語の最後についてのお話をしましょう。 これまで述べてきたようにぼくは、細部の展開を、書きながら考えていきます。『大江戸恐龍伝』のラストシーンも、書き始めた頃は決まっていませんでした。決まっていたのは、恐竜が江戸の町で大暴れする、それを平賀源内が退治するところまで。これも単行本で言えば第5巻に出てくる場面ですから、最後のほうではあるのだけれど、「退治」の具体的なイメージまでは持っていませんでした。人が殺すのか、あるいは冬がやってくるなど、人間以外の要因で死んでしまうのか。人が殺す場合それは源内なのか、違う誰かが殺すのか。ラストシーンは茫漠としたまま、執筆が進んでいたんですね。 物語が真ん中くらいまで進んだとき、そろそろ決めなきゃならないぞ、と思い始めました。ラストシーンをどうするかによって、登場人物の進む方向が変わってくるからです。とりわけある人物をどちらに進ませるか・・・これ以上話すとネタバレになるので、控えさせていただきますが・・・に悩んでいました。 そうやって思案しながら書いているうちに、次第にぼくのなかで、源内と恐竜が重なるようになってきたんです。簡単に言えば、源内は早く生まれすぎた天才で、恐竜は遅くまで生き残りすぎた怪物。両方とも江戸という時代において、「異形」の存在と言う点で共通している。ゆえに源内は恐竜に感情移入するようになっていく。 源内の恐竜に対する思い入れをどんどん煮詰めていって辿り着いたのは、「ここで死ぬのは恐竜なんだけど、それは俺でもあるんだ」という源内の境地です。ここまできてようやくラストシーンが見えたんですね。「恐竜、かわいそうだなあ」と恐竜に同情する源内が、「江戸なんか燃えてしまえばいい!」と叫ぶシーンがありありと見えました。 しかしながら、これでラストシーンが決まりました、というほど、ことは単純ではありません。この時点で、大きな問題が二つ残っていたのです。 一つ目は、動かしがたい史実です。これまで述べてきたように、ぼくは歴史を完全に無視して歴史小説を書くことができません。歴史上、平賀源内は獄死しているのです。享年52。ほぼ間違いないとされるこの史実にどう向き合うか。ただし、「実は生きていた」という伝説は残っています。源義経など、悲運の英雄につきものの生きていた伝説です。田沼意次に匿ってもらったという言い伝えもあれば、熱気球を使って海外へ逃げたという説まである。こおれは夢があります。 そしてもう一つの問題。それは「ラストはハッピーエンドでなければならない」という掟にどう従うか。この掟をつくったのはぼくです。 ぼくは長篇小説のラストはハッピーエンドでなければならないという確固たる信念を持っています。長い物語を読んできて、そのラストが悲劇だったら、辛くてたまらないでしょう。ぼく自身がハッピーエンド好きなのもあるし、やっぱり長い小説を読んでくれた読者の方には幸せな気持ちになっていただきたい、という思いがあるから。『秘伝「書く」技術』1この記事も作家デビューを目指す貴方へ3に収めておきます。
2016.11.07
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図書館で『歩くような速さで』という本を手にしたのです。是枝監督といえば、ドキュメンタリータッチの映画作りが知られているわけで・・・・この本に、その裏話が載っているのではないかと思ったのです。【歩くような速さで】是枝裕和著、 ポプラ社、2013年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1章 映像の周辺で/2章 日々の風景/3章 遠くて近い/4章 役者を巡って/5章 メディアの間で/6章 悼む/7章 3月11日、それから<読む前の大使寸評>是枝監督といえば、ドキュメンタリータッチの映画作りが知られているわけで・・・・この本に、その裏話が載っているのではないかと思ったのです。rakuten歩くような速さで監督がカンヌ映画祭・審査員賞受賞の思いや出品作の動向を述べています。p164~167 <カンヌ映画祭から戻って> 作品のどこが評価されたと思うか?(これも日本メディア特有な質問なのだが)今までの作品とどこが違うのか? と繰り返し聞かれた。 この『そして父になる』という映画が描いた、父と子をつなぐのは血か? ともに過ごした時間か? という問い掛けは、日本以上に養子という制度の定着したヨーロッパの人々にとって身近で切実だったのは確かだろうと思う。 しかし、やはり自分としてはこの一作だけではなく、コンペには選ばれなかった前作、前々作の存在を忘れないでおきたい。 たとえば『歩いても 歩いても』(2008)や『奇蹟』(2011)といった僕の過去作品はヨーロッパ各地で劇場公開され、『歩いても~』はパリを中心に日本以上の観客を集めた。『奇蹟』もこの春ロンドンで公開され、僕の作品の中では一番のヒットとなっている。このような目立たない地道なつみ重ねが、少しづつ、フランスの観客に僕の作品の世界観を浸透させたその影響も今回の結果には反映されたのではないかと自負している。 今年のカンヌ映画祭には日本からコンペに2作品が入り、主演の方々もそれぞれ現地入りした。審査員にも河瀬監督が選ばれたことで日本のメディアの注目度も例年に比べかなり高かったように思う。こんな状況下でもし、賞(レース)にからまなかったら恐らく日本の多くのメディアはコンペに選ばれたという評価は棚上げし、僕たちの体験や感動のディテールなどは全く無かったかのように「残念な結果」だけを報じてそのレポートを終りにしただろう。 そのことでキャストとスタッフと一緒に経験したあの長く熱い観客の拍手の真実味が否定されるのは耐え難かった。 だから、審査員賞の受賞は嬉しいというよりも正直ホッとしたというほうが近い。もちろん「日本映画が快挙」と言われれば悪い気はしない。しかし、今回の報道のされ方は映画全体を反映していない。1秒でも多く『そして父になる』の映像を流してもらうべく放送局との折衝にしのぎをけずっている宣伝スタッフのことを考えると、僕としてはなかなか言いにくいのだけれど、せめてパルム・ドールの作品と監督の紹介にはもう少し時間を割いてしかるべきだったろう。そこには日本選手のメダル獲得だけに注目するオリンピック報道と同様の違和感を持った。 映画祭の会場内には国旗は掲げられない。同じ祭りでもオリンピックとの差はそこにある。いったい映画における国籍とは何なのだろう? 日本映画とは果たして何なのだろうか? それはどれほど自明なことなのだろうか? 脚本賞を獲った中国のジャ・ジャンクー監督作品『タッチ・オブ・シン』。この作品のプロデューサーはオフィス北野の市山尚三さんだ。日本では今回の受賞結果を巡る報道の中では市山さんにはあまり触れられていないが、彼はジャ監督の才能に惚れこみデビュー直後からずっとサポートし続けている。 パルム・ドールを獲ったフランス映画『アデルの人生』のケシシュ監督はチュニジア出身。コンペに出品された『ジミー・ピー』はデプレシャン監督が母国を離れアメリカで撮った全編英語のフランス(出資)映画らしい。(中略) 映画とその監督の出自や言語は複雑につながり、断絶している。映画の豊かな現在は、その複雑さにこそある。民族や地域や言語を横断したこの受賞作群こそが、まさにティエリー氏の考える今日的な「多様性」の体現であるのだろう。 映画はまぎれもなく世界言語である。多様性を背景にしながら、その差異を軽々と越境し、みなが映画の住人としてつながれるというこの豊かさ。その豊かさの前に、現住所は意味を、失う。『歩くような速さで』1
2016.11.07
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図書館に予約していた『植物はすごい』という新書を、待つこと4日で手にしたのです。パラパラとめくると、植物が体を守る防衛手段などが出ていて、面白そうでおます。【植物はすごい】田中修著、中央公論新社、2012年刊<「BOOK」データベース>より身近な植物にも不思議がいっぱい。アジサイやキョウチクトウ、アサガオなど毒をもつ意外な植物たち、長い年月をかけて巨木を枯らすシメコロシノキ、かさぶたをつくって身を守るバナナ、根も葉もないネナシカズラなど、植物のもつさまざまなパワーを紹介。動物たちには真似できない植物のすごさを、「渋みと辛みでからだを守る」「食べられる植物も毒をもつ」「なぜ、花々は美しく装うのか」などのテーマで、やさしく解説。 <読む前の大使寸評>パラパラとめくると、植物が体を守る防衛手段などが出ていて、面白そうでおます。<図書館予約:(10/25予約、10/29受取)>rakuten植物はすごい イタドリの花大使にとって、慣れ親しんだイタドリを見てみましょう。p227~229 <イギリスで嫌われる「すごさ」> 外国から日本に来て、日本の気候や土壌になじんで生き続けている植物は、「帰化植物」とよばれます。異国の地に移り住む運命を克服して、慣れない風土に適応し、懸命に生き、子孫を残し続けている植物たちです。 しかし、これらの植物たちは、ともすれば繁殖力が旺盛で、古来の日本の生態系を乱すので嫌われものになりがちです。春に花咲くセイヨウタンポポ、秋に花咲くセイタカアワダチソウなどが、日本の暮らしに溶け込もうとしている代表的な帰化植物です。 逆に日本から外国に行き、外国で「帰化植物」となっている植物がいます。その一つが、「イタドリ」です。イタドリは、タデ科の植物で、日本では全国の空き地や山地など、どこにでも生育しています。 イギリスでは、「ジャパニーズ・ノットウィード」とよばれます。ジャパニーズは、「日本の」という意味であり、ノットは「節」、ウィードは「草」です。さしずめ「日本の節くれ立った草」という意味でしょう。 この植物は、夏に、多くの小さい白い花を集めて咲かせ、それなりにきれいなものです。その美しさが、江戸時代、長崎にいたドイツ人の医師シーボルトに気に入られました。そのため、観賞用として、彼によってヨーロッパにもち込まれました。 日本では、私たちの身近にあり、地下茎を張りめぐらして繁殖力が旺盛な植物です。地上部を刈り取っても、すぐに地下茎から芽が出ます。冬の寒さを地下茎でしのぎ、春には、芽を出してきます。除草剤で枯らそうとしても、地下茎は土の中にいますから、枯れません。だから、根絶するのはむずかしい植物です。 仕方がないので、私たちはあきらめて、昔から、この植物と仲良くしてきました。この植物の葉っぱを揉んで、すり傷につけると、痛みが取れるといわれ、その効果を利用してきました。それが、「イタドリ」という名前の所以です。 また、この植物に愛着も感じてきました。多くの人が、子どものころ、この茎をかじった経験があります。茎は中空で、かじると酸っぱく、折ると「ポコン」という音がします。だから「スカンポ」とよばれることもあります。 イタドリは、イギリスでも、旺盛な繁殖力を発揮しています。空き地を埋めつくし、道路の舗装を破って成長します。そのため、除草の手間や道路の補修に多額の費用が必要で、厄介ものになっています。 この草がもともと繁殖していた日本には、天敵である「イタドリマダラキジラミ」がいます。2010年、イギリス政府は、イタドリを退治するために、この虫を日本からイギリスに持ち込むことを決めました。 イタドリは、イギリスで、昔からの天敵と出会い、なつかしい闘いを再開するのです。イギリス政府の思惑とは別に、イタドリには、「闘いを楽しみながら、力強く生き続けてほしい」と思います。ウン 植物に対する擬人化した思い入れが・・・・植物を愛でる著者が見えるようで、ええでぇ♪『植物はすごい』1『植物はすごい』2
2016.11.06
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<『縄文農耕の世界』2>図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)【縄文農耕の世界】佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊<「BOOK」データベース>より 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか? 著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。 本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。<読む前の大使寸評>おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。rakuten縄文農耕の世界「海上の道」の痕跡として確たるものは無いようです。でも、それだけにロマンが漂うわけでおます。 <「海上の道」の痕跡をどう証明するか>p124~126 列島に分布する要素のなかでもうひとつ気になるのが南の要素である。これはかつて柳田国男さんが「海上の道」と説いた、あのルートでもある。このルートは、「やしの実」の歌にもうたわられたロマンの香り高い説ととられ、学問的な裏付けはむしろ弱いものと考えられてきた。その最大の理由は、南西諸島などの考古学的な研究が、古い時代の文化の存在に否定的なためである。 たしかに、現時点での考古学的証拠からは、南西諸島に、日本本土の縄文時代に相当する古い文化要素はまだ認められていないようである。しかしいくつかの理由から、私は考古学的証拠の欠落は「海上の道」を否定する理由とはなり難いと考えている。 ひとつは舟の存在。黒潮の街道は船乗りたちのルートでもあった。大海原を縦横無尽に駆け巡っていた彼らにとって、南西諸島の存在は・・・あれば便利であったには違いないだろうが・・・なければ日本列島に達することができなかったわけでもなかったはずである。 もうひとつは「海上の道」の痕跡をどう証明するかである。たとえば稲作があったとして、もし水田のような構造を期待して発掘を進めるなら何も出てこないであろう。今まで稲作の証明は水田の検出によっていたが、南西諸島に縄文稲作に対応する稲作があったとして、それが水田を伴った可能性はきわめて小さい。こうしたことを考えると、南西諸島における考古学的証拠が乏しいことを理由に「黒潮の街道」を否定することはできないというべきであろう。 「海上の道」を経由したであろう植物要素として真っ先に挙げるべきは、今も書いたようにやはりイネ、それも陸稲であるが、これについては別に改めて詳しく書くことにしたい。他に私が気になっている植物は、クスノキ、ウバメガシ、ナギ、などの樹木である。 これらの自然植生を見ると、いずれも太平洋沿岸または瀬戸内海沿岸、それも南西斜面のように局地的に暖かい場所に限定された分布を示している。もっともナギは、その純林が奈良・春日山原生林に見られるなど、他の二種とはやや異なった分布のパターンを示す。著者は、高知の酒盗を題材にして、「海上の道」のロマンを語っています。 <漁労の文化と日本列島>p131~133 またもや個人的な経歴で恐縮だが、私は高知県で若い頃の2年を過ごしたことがある。南国土佐は太平洋の大海原に胸元を開き、人も自然も、実におおらかでダイナミックであった。 土佐には、男も女も酒豪でならす人が多かった。多少飲めますなどと言おうものなら大変な目にあう。なにしろ少々は升升、つまり二升酒を意味するのだ、と先輩から聞かされたときには、なぜその話を最初に聞かせてくれなかったかと言いたくなるほど人びとは豪胆に飲むのである。 高知の酒を支える食が魚。新鮮なものから保存食まで、実に様々な食が、それも飲むために用意されている。そんな感じであった。毎年初夏に出るどろめとは、静岡などで地域特産として出される生しらすそのものである。かつおのたたきには様々なバリエーションがある。そのはらわたを塩漬けにした塩辛。その名もなんと酒盗。 あるとき私は、貰いものの酒盗が賞味期間切れになったのを捨てがたく、火にかけて食べようとした。ところがそれは私の意に反して縮まった肉片とスープとに分離し原形をとどめなくなってしまった。諦めて捨てようかと思ったが、その前にと私はそのスープのほうをなめてみた。するとそれはなんと、東南アジア各地に広がる魚醤とよく似た味がするではないか。 東南アジアには、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマムはじめいろいろな魚醤の存在が知られる。それらは発酵させた魚のタンパクのエキスという共通項をもつが、タイのナンプラーもカンボディアのトンレサップ湖の人びとが作るそれも、淡水性の魚を利用したものである。それが、かつおという海の魚から作られる酒盗と共通項をもち得るとは夢にも思っていなかった。 実は魚醤と酒盗とが、厳密な意味で共通の要素をもつかどうか、確かめたわけではない。しかし鮮魚を塩漬けにして保存するという調理の方法は基本的には同じであって、あとは保存にかかわる微生物にどれほどの共通性があるかが問題になるだけである。 かつおにはまた鰹節という独特の保存食が知られるが、これは日本列島の中だけでも鹿児島県枕崎、高知、和歌山県印南、静岡県伊豆に生産地がある。また、フィリピンなどにも類似の発酵食品があるとされる。 このように見てくると、かつおという生の食材の保存に関して、魚醤、鰹節というまったく異なるように見える食品の文化のなかに、東南アジアから南島を通じて日本列島の太平洋岸に至る一本のルートが描けるように私には思われる。このルートの存在に関しては、繰り返し書くように、さらに厳密な検討の作業が必用である。私は、このルートが過去に大海原の上に展開していた街道のひとつであったとの夢をあたため続けてみたいと思っている。著者は縄文街道のロマンをさらに膨らましています♪ <日本列島を巡る複数の縄文街道>p133~134 こうしてみると縄文時代の日本列島の周辺には何本かの街道・・・海を巡るから海道と呼んだほうがいいかもしれない・・・があったように思われる。それらが具体的に「道」の形態をとっていたかどうかはともかく、数千年の長きにわたって、多くの人とものが運ばれ続けたに違いない。 複数の街道の存在は、縄文文化といわれる文化や同時代の農耕のスタイルが地域や時期によって異なったであろうことを示唆する。縄文文化の研究者によっては、縄文文化の要素のなかに北の文化の要素を見たり、南の文化の要素を見たりする。こうした不一致はときには論争の種になったりもするようだが、私にはそのどちらもが正しいように思われる。縄文文化や縄文農耕は複数の顔をもっていたのである。 縄文時代の街道は日本列島の中にも何本も通っていたことだろう。街道と街道の交わるところには多くの人やものが集まり、さぞや活況を呈していたことだろう。 縄文文化といえば私たちは北に偏って分布するように考えてしまうが、街道の存在を仮定すれば、西日本にもまた、いくつもの交易の拠点があったに違いない。さしずめ瀬戸内海などは黒潮の海道とも日本海の海道とも指呼の位置にあるばかりか、大陸からの距離も遠くない。埋もれた縄文の交易センターが将来出てくる可能性はきわめて高いと思っている。『縄文農耕の世界』1
2016.11.06
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図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)【縄文農耕の世界】佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊<「BOOK」データベース>より 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか? 著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。 本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。<読む前の大使寸評>おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。rakuten縄文農耕の世界「ヒエ日本原産説」あたりを見てみましょう。 <ヒエは日本列島原産か>p84~86 ヒエといえば、今では水田の雑草か、あるいはとるに足りない穀物の一つと考えられている。それは、アワ、キビ、モロコシなどとともに「雑穀」という名称で総称される穀物である。 「雑穀」とは何だろうか。日本語で「雑」という字を使うとき、そこには、重要でない、その他大勢、とるに足りないといった消極的なイメージがつきいまとう。「雑穀」もまさにその一つで、イネ、ムギなどの主要穀物以外のとるに足りない穀物という意味でもある。 アワ、キビ、ヒエなどとひとつひとつに名前はついているものの、名前で呼ばれることはむしろ少ない。農学部の先生でも、特別の専門家でもない限りアワとヒエを区別することはできないし、マシテヤイヌビエとタイヌビエを区別することなど絶望的である。 この、雑穀といわれる植物たちが、いつ、地球のどこで栽培化されたものか、わかっていることはわずかしかない。アワについては、考古学的な論証から、北部中国、いわゆる黄河文明の発祥地とその周辺が疑われてはいるが、生物学的な検証は行われていない。キビになると事態はさらに深刻で、何もわかっていないという表現のほうがぴったりする。 この手に負えない代物に果敢に挑戦したのが、『雑穀のきた道』の著者である竜谷大学の坂本寧男さんである。坂本さんは・・・こういう先輩に対してたいそう失礼な言い方になるが・・・、研究者としてもちょっと変わった方でおられる。だから雑穀などという、人が見捨てたものに光明を当てることができたのだと思うが、その坂本さんが十年余り前に人を驚かせる発言をしたことがある。 ヒエが日本列島原産だというのである。坂本さんは、ヒエといわれる植物を、日本を含む東アジアに分布するタイプとインド亜大陸を中心に分布するタイプとに分けた。そうしてその上で、遺伝学的な見地からヒエの起源を次のように考えた。 坂本さんのことばを引用しながら考えてみよう。 「従来から(ヒエが)中国東部で起源したという考えがあったが、現在までに考古学的にそれを証明するような遺物は中国では出土していない。また、詩経、本草綱目などにも栽培ビエの記述がないので、中国においてはその栽培の歴史が新しいと考えられる。(中略)(ヒエは)おそらく日本で栽培化され、その後朝鮮、中国に栽培雑穀の一つとして導入されたと考ええる説があり、私はその可能性はきわめて高いと考えるようになった」(『雑穀のきた道』128ページ) この坂本発言がきっかけとなって、ヒエが日本列島原産ではないかという「ヒエ日本原産説」はしだいに定着しつつある。ヒエだけではなく、アワ、キビなどといった雑穀全般への関心がようやく高まりつつあるのである。縄文農耕の核心部分「イネはあったか」あたりを見てみましょう <イネはあったか>p103~107 縄文農耕の要素の一つとして常に注目を集め、また常に強い批判にさらされてきたのが「縄文稲作」である。しかし最近の研究成果を客観的に眺める限り・・・そのウェイトはともかくとして・・・、縄文時代にイネと稲作があったことは紛れもない事実といわざるを得ない。 詳しい議論は別の機会に譲るとして、現時点では、日本列島における稲作は縄文時代の前期にまで遡ると見るのが自然である。もちろん私は、縄文時代の水田が発見されていないという事実を知らないわけではない。縄文時代には、晩期後半の一時期を別として、水田に相当する遺構が見つかっていない。だから、この時期を別として、縄文時代に水田稲作がなかったとすることに私も異存はない。 しかしイネは私たちが今日本で見るような水田でしか栽培されていないのかといえば決してそうではない。私たちが知る水田稲作以外の稲作は世界にはいくらでも存在する。いや、私たちの水田稲作は世界の稲作の中ではごく特殊な、大勢のなかの一人に過ぎない。 特に、東南アジアの山奥深い地域にいまも残る焼畑の陸稲栽培は縄文稲作のモデルとして十分参考にすべき稲作である。あるいはカンボディアやベトナムの一部で実際に見られる稲作の中には、私たちの常識ではおよそいいかげんとしかいいようのない稲作のスタイルをとるものさえ残されている。(中略) 水田の有無はともかくとして、現時点で、縄文時代に稲作があったらしいことを示す証拠があがっている。各地の遺跡から出土したプラントオパールがそれである。プラントオパールはイネの葉に溜まったケイ酸の塊が出土したもので、その存在はイネの葉がそこにあったことの強い証拠となる。イネの葉があったということはそこで稲作が行われていたことを彷彿とさせる。 せれで、遺跡の土の中からイネのプラントオパールを探し、それによって稲作の跡を証明しようというプラントオパール分析が考え出された。プラントオパール分析の詳しいことは考案者自身が書かれた優れた書物(藤原宏志『稲作の起源を考える』岩波新書)があるのでそれを参考にして頂くことにして、私たちは話を前に進めることにしよう。 さて、縄文時代の遺跡から出土したプラントオパールはどれくらいあるか。これについては皇學館大學の外山秀一さんの優れたまとめがあるのでそれを参考にさせて頂く。外山さんたちによると1999年秋現在、晩期後半を除く縄文時代の遺跡から見つかったイネのプラントオパールの事例は表2-1にある31点に上る。他にも籾や土器についた籾跡などを加えるとその数はさらに大きなものとなる。縄文時代にイネと稲作があったことはほぼ疑いのない事実である。
2016.11.05
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