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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「女性作家」でしょうか♪<市立図書館>・ばかもの・発火点:桐野夏生対論集 ・川上未映子×穂村弘・植物はすごい・歩くような速さで<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【ばかもの】絲山秋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>より気ままな大学生と、強気な年上の女。かつての無邪気な恋人たちは、気づけばそれぞれに、取り返しのつかない喪失の中にいた。すべてを失い、行き場をなくした二人が見つけた、ふるえるような愛。生きること、愛することの、激しい痛み。そして官能的なまでの喜びー。絶望の果てに響く、愛しい愚か者たちの声を鮮烈に描き出す、待望の恋愛長篇。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、どうやら官能小説のようであるが・・・なんでもやれるのが、ええでぇ♪、絲山秋子ミニブームがまだ続いています。rakutenばかもの【発火点:桐野夏生対論集】桐野夏生著、文藝春秋、2009年刊<「BOOK」データベース>より時代に挑み続けるキリノ。直木賞受賞から現在まで、識者十二人との刺激的な論考。【目次】剥き出しの生、生々しい性(松浦理英子)/悪意を小説で昇華させたい(皆川博子)/女は怪物?それとも鬼?(林真理子)/想像は現実である(斎藤環)/いまそこにある危機・ニッポンの男と女(重松清)/極私的オトコ論(小池真理子)/残酷な想像力の果て(柳美里)/星野智幸による「快楽主義者の伝記」(星野智幸)/「見えない貧困」がこの国を蝕む(佐藤優)/座して死を待たず(坂東眞砂子)/象徴天皇制の「オモテ」と「オク」(原武史)/フィクションに潜む真実(西川美和)<読む前の大使寸評>報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪rakuten発火点:桐野夏生対論集【川上未映子×穂村弘】川上未映子×穂村弘著、筑摩書房、2015年刊<「BOOK」データベース>より人気作家と人気歌人がジャンル、性別、世代を超え、創作の秘密から恋愛観、ひとに言えない性癖まで78のキーワードで友情の限界ギリギリまで攻めあった迫真のトークセッション!【目次】打擲/おめかし/香水/永遠/未来/便箋/銀色夏生/人たらし/ペット/兄弟姉妹〔ほか〕<読む前の大使寸評>小説家と歌人の対談とはいかなるものか・・・言葉とイメージのタッグというか哲学的なお話が期待できるかも♪rakuten川上未映子×穂村弘【植物はすごい】田中修著、中央公論新社、2012年刊<「BOOK」データベース>より身近な植物にも不思議がいっぱい。アジサイやキョウチクトウ、アサガオなど毒をもつ意外な植物たち、長い年月をかけて巨木を枯らすシメコロシノキ、かさぶたをつくって身を守るバナナ、根も葉もないネナシカズラなど、植物のもつさまざまなパワーを紹介。動物たちには真似できない植物のすごさを、「渋みと辛みでからだを守る」「食べられる植物も毒をもつ」「なぜ、花々は美しく装うのか」などのテーマで、やさしく解説。 <読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(10/25予約、10/29受取)>rakuten植物はすごい 【歩くような速さで】是枝裕和著、 ポプラ社、2013年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1章 映像の周辺で/2章 日々の風景/3章 遠くて近い/4章 役者を巡って/5章 メディアの間で/6章 悼む/7章 3月11日、それから<読む前の大使寸評>是枝監督といえば、ドキュメンタリータッチの映画作りが知られているわけで・・・・この本に、その裏話が載っているのではないかと思ったのです。rakuten歩くような速さで***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き180
2016.10.31
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図書館で『発火点:桐野夏生対論集』という本を手にしたのです。報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪【発火点:桐野夏生対論集】桐野夏生著、文藝春秋、2009年刊<「BOOK」データベース>より時代に挑み続けるキリノ。直木賞受賞から現在まで、識者十二人との刺激的な論考。【目次】剥き出しの生、生々しい性(松浦理英子)/悪意を小説で昇華させたい(皆川博子)/女は怪物?それとも鬼?(林真理子)/想像は現実である(斎藤環)/いまそこにある危機・ニッポンの男と女(重松清)/極私的オトコ論(小池真理子)/残酷な想像力の果て(柳美里)/星野智幸による「快楽主義者の伝記」(星野智幸)/「見えない貧困」がこの国を蝕む(佐藤優)/座して死を待たず(坂東眞砂子)/象徴天皇制の「オモテ」と「オク」(原武史)/フィクションに潜む真実(西川美和)<大使寸評>報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪rakuten発火点:桐野夏生対論集イタリアから高知に帰ってきた坂東真砂子さんとの対談を見てみましょう。「異境に暮らす」とか、「地方の独立」が語られています。p196~207 <座して死を待たず>桐野:坂東さんはミラノやタヒチで、いわゆる「異境に暮らす」ということを実践してこられた。そういう営みをする人は現在の日本の作家ではあまりいないと思うんです。異境で暮らしたいという、坂東さんの気持ちはどこから生まれてきたんですか?坂東:私はこの高知県の生まれで、しかも村社会というべき狭い人間関係のなかで育ったんです。中学生くらいのときから、あまりに窮屈な人間関係とか、閉塞感のある小さな共同体から逃げだしたいという気持ちを持っていました。桐野:だから、外国へ飛び出したのですね。東京や大阪という都市は、坂東さんにとって異境にはならなかったんですか?坂東:そうなんです。やっぱり同じ日本人が目の前にいれば、異境にいる気分にはならない。(中略)坂東:たとえばイタリアの場合は、すでに都市生活が営まれているんです。東京や大阪、日本の大都市とそんなに変わらない。だから、私が求めていた異境、エキゾチシズムみたいなものは、なかった。 じゃ、タヒチに行けばもう少しエキゾチックかなと思ったら、今度は生まれ育った高知の原風景のような感じがして(笑)。桐野:逆に、タヒチでノスタルジアを感じたわけですね。坂東:そう。そうなんです。 最近高知に戻ってきて思うのは、いまの高知の山間部に住んでいる人たちというのはまさにエキゾチックだということ。つまり、現代社会に慣れ親しんだ私にとって、高知の山間部で野良仕事をしながら暮らしているお年寄りたちの精神性や日々の行動こそが、最も異境だったんです。桐野:異境を求めて世界を巡って、故郷に異境を発見したということですか。坂東さんが、中学生時代、閉塞感から抜け出したいと感じたきっかけはあったのですか?坂東:公務員の娘だったということが大きいですね。教師の娘だったんです。小さい村の中だったから、「真砂子ちゃん、将来何になりたいの? お父さんとかお母さんみたいに先生になるの?」とか、選択肢を与えられる以前に・・・・。桐野:決まってしまっている。坂東:教師の娘として優等生であれ、という期待を村中から受けていた。人徳者である教師の娘はハメを外せない。桐野:それはたしかに窮屈かもしれません。作家になって、直木賞をとられて、何か変わったことはありましたか?坂東:変わりましたね。一度外国にいって、作家という社会的地位を得てしまうと、あまりごちゃごちゃ言われなくなるんですね。「坂東先生の娘」から脱却できたということです。そうじゃなければ、田舎の閉塞性のほうが強くて、エキゾティシズムを感じる余裕は生まれなかったかもしれません。桐野:海外で異境を発見できなかったのに、坂東さんご自身が異境化して帰ってきたんですね。坂東:まさにその通りですね(笑)。桐野:お話をうかがっていて、対照的だなと思いました。私はサラリーマンの娘で父は転勤族でしたから、地方で暮らしていても最後は東京に戻ってくると感じていました。じゃあ東京に帰属しているかというと、それも違うんです。どこにも帰属していない。フワフワした都市生活者というんでしょうか。坂東:自らの意思とは別に、知らない土地で暮らすというのはどんな感覚なんでしょう。桐野:子供だった私にとって、それこそが異境でした。いじめられたりはしないんだけれども、カルチャーショックを受けることが多かった。(中略) <ボーダーの向こう側>坂東:桐野さんは、以前、自分の居場所を確認するために辺境に行くとおっしゃっていました。桐野:そうなんです。私は、ボーダーラインを訪ねるのが好きです。国境マニアというのでしょうか。線が引かれた場所を見たいというだけで、じゃあ自分がそこに身を置いて暮らそうとか、ボーダーを越えてどこかへいこうとか、そういう発想はまったく持っていない。 なぜかというと、子供の時に「異境」で苦労しているからでしょうね。どこの共同体にも属せなかった。ボーダーラインに行って、「私は異境に行かないぞ」「何の共同体も関係ないぞ」という自分を発見して帰ってくるんです。坂東:他者である以上、どこにいっても結局は入りこむことはできないんだとわかっているんです。ただ、やっぱりそこに行って暮らして、異なるものに包まれる感覚というのに、ゾクゾクするんですね。桐野:それはどういうときに実感するんですか。坂東:たとえば、家の近くを一人で歩いていた、周りを見渡せばみんなイタリア人だった、というような。そうするとまるで自分がイタアリアの一部であるかのように、一瞬錯覚を覚えます。私も彼らの一人であるみたいな気分が味わえる。けれども、同時にそうではないこともわかる。そういった不確かな自己認識が好きなのかもしれない。桐野:私が国境を外から眺めている自己認識にちょっと近いのかもしれないですね。 坂東さんは高知新聞に『やっちゃれ、やっちゃれ! 高知独立宣言』という小説を連載されています。高知の独立というテーマは面白いですね。坂東:日本に戻ってくると、地方が置かれた悲惨な状況を実感するんです。そこで、地方が元気になるテーマはないだろうかと探していたら、以前、高知新聞で「時の方舟」という県独立をシミュレーションする企画があったんです。それがなかなか面白かった。 高知出身の人間の一人として、それを引き継ぐ形で小説化したんです。特集記事の終りが、住民投票をこれから始めます、というものだった。桐野:だから、小説の冒頭のシーンが住民投票なんですね。坂東:桐野さんの最近の作品に特徴的なのは、あくまでも、何処かから来た人間が他者として地方に住み着く、というものですね。いま「週刊文春」に連載中の『ポリティコン』もそうですね。 私の場合は、高知の人間が独立に立ち上がる。桐野さんは、よそ者が山形という地で律そう国家を作るという。そのへんのアプローチの違いが、さっき話していた立脚点の差異につながりますね。桐野:たしかにそうかもしれません。独立論の場合だと、沖縄がよく語られますが、私は地域の土着の人間がいかに独立していくか、という視点はあまり持ちえないんです。『ポリティコン』は主人公の高波東一が、山形の農村を舞台に、「唯腕村」という愛のない共同体を構築する、というものなんですが、この構想段階で、実は高知を舞台にしようかかと考えていたこともあったんです。坂東:えっ、高知県をですか?桐野:その時点での構想では、「満州国」を母胎とした人工国家が今でも存在していて、そこで国民を募って、集まった人たちが新しい国づくりに参加すればどうなるか、ということを考えていました。 舞台としてイメージしていたのが、高知県の東洋町だった。あのあたりは孤島感がありますし、サーファーが集まるとも聞いていたから、一個の独立国とすると面白いんじゃないかと編集者と話していたんです。坂東:室戸岬の先の東洋町? 私も先日、『やっちゃれ、やっちゃれ!』でも、サーファーたちを登場させるから、サーフィンのメッカである東洋町を取材にいったところです。(中略)坂東:舞台となっている唯腕村は、過疎化と高齢化という日本の田舎が抱えている問題に直面しています。桐野:日本の土俗から逃れるために作った一つの砦のような共同体が、実はそれこそグローバリズムとか新自由主義というか、アメリカを中心とした資本主義に取り込まれ、市場原理主義にやられていくなかで、たった一人で奮闘する主人公・東一がどう戦うのか。たぶん敗北する可能性のほうが大きいんですけれどね。坂東:コミュニティーと言ったときに、今、あんまり希望が感じられない。桐野:ないでしょう。坂東:高知を国家としての独立という表現にしたのも、小さな国であれば、頭があり、手足があるというようなある程度まとまった小さな形というのが必用となる。ところが、コミュニティーというと、手だけ、足だけとかいうイメージがあり、小説を書いていても無理だという実感がある。桐野:立ちゆかないと思いますね。私の描いている東一の大きな間違いは、頭の部分があるというふうに思っていること。けれども、手足がないから、やっぱりボロボロになってくる。坂東:間違いとおっしゃったけれども、得てしてこれまでの日本人がやりたがってきたことだし今もやっていることでしょう。オウムなんかでもやっぱり頭の部分だけでやろうとした。桐野:そう思いますね。その意味では、『やっちゃれ、やっちゃれ!』の高知は何処に行くのかなって、すごい興味があります。坂東:あれはね、どこにも行けないんじゃないかな(笑)。桐野:それはたぶん『ポリティコン』も同じかもしれません。坂東:とはいえ、人間の営みというのは常に、破滅にしろ成功にしろ、どこかに行かなければならない。 私が書きたいのは、座して死を待つなんていうようなことをするよりは、ジタバタしてでも何でもやってみればいいんではないかということです。大使はたまたま、お二人の『やっちゃれ、やっちゃれ!』と『ポリティコン』を読んでいたので、この2作品の執筆途中のお話が興味深いのです。【やっちゃれ、やっちゃれ!】坂東眞砂子著、文藝春秋、2010年刊<「BOOK」データベース>よりこのまま衰弱死するがやったら、高知は日本から独立するしかないろうが!直木賞作家が本気で描いた、迫真の地方独立小説。 <大使寸評>住民投票で土佐黒潮共和国を誕生させる。それもキューバを参考にして自給自足をめざすという・・・明るくて大胆な構想が、いかにも土佐のはちきんなんですね♪50代で早世したが、惜しい人を亡くしたものである。沖縄県には独立の気運がなくはないが、その次に独立の話がもちあがっても不思議でないのが高知県である・・・・この小説のラストでは、貿易交渉のため小さな漁船でフィリピン目指して航行するシーンとなっています。いかにも現代版の海援隊であるが、地産地消というか明るくていいではないか♪単なる実験小説と笑っている場合でない面白さがあるなぁ(笑)amazonやっちゃれ、やっちゃれ!【ポリティコン】桐野夏生著、文藝春秋、2011年刊<「BOOK」データベースより> 大正時代、東北の寒村に芸術家たちが創ったユートピア「唯腕村」。1997年3月、村の後継者・東一はこの村で美少女マヤと出会った。父親は失踪、母親は中国で行方不明になったマヤは、母親の恋人だった北田という謎の人物の「娘」として、外国人妻とともにこの村に流れ着いたのだった。自らの王国「唯腕村」に囚われた男と、家族もなく国と国の狭間からこぼれ落ちた女は、愛し合い憎み合い、運命を交錯させる。過疎、高齢化、農業破綻、食品偽装、外国人妻、脱北者、国境…東アジアをこの十数年間に襲った波は、いやおうなく日本の片隅の村を呑み込んでいった。ユートピアはいつしかディストピアへ。今の日本のありのままの姿を、著者が5年の歳月をかけて猫き尽くした渾身の長編小説。 <大使寸評>ユートピアは世代を経ることで、いつしかディストピアへ変るという桐野の洞察がすごーい♪アメリカのヒッピー村もそんなだったか。Amazonポリティコンお二人の対談の最後のあたりを見てみましょう。p213~214桐野:坂東さんが、さっきおっしゃっていたのを聞いて、改めて認識したんですが、私は小説を書くことで、何か幻想を砕きたいんでしょうね。高邁なものと言われているものの幻想を砕いて、「現実を見ろよ」って、突きつけたいんでしょう。坂東:『ポリティコン』にも、理想郷から暗黒郷へという章がありました。ユートピアは絶対引っ繰り返ると。桐野:ディストピアですね。坂東さんは、生きているのか!と問いかけているとおっしゃったけど、私はやっぱりむごい現実を見て考え直せじゃないけども、ちょっと目を覚ませ、と問いかけたい。 そのあと、じゃ、どうするかとまでは言わないですよ。だって、教養小説を書いているわけじゃないから。坂東:アプローチの仕方は違うけれども、私たちは二人とも、「現実を見ろよ」ということを読者に突きつけたいんでしょうね。『発火点:桐野夏生対論集』1『発火点:桐野夏生対論集』2
2016.10.31
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図書館で『ばかもの』という本を手にしたのです。パラパラとめくってみると、どうやら官能小説のようであるが・・・なんでもやれるのが、ええでぇ♪、絲山秋子ミニブームがまだ続いています。【ばかもの】絲山秋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>より気ままな大学生と、強気な年上の女。かつての無邪気な恋人たちは、気づけばそれぞれに、取り返しのつかない喪失の中にいた。すべてを失い、行き場をなくした二人が見つけた、ふるえるような愛。生きること、愛することの、激しい痛み。そして官能的なまでの喜びー。絶望の果てに響く、愛しい愚か者たちの声を鮮烈に描き出す、待望の恋愛長篇。<読む前の大使寸評>パラパラとめくってみると、どうやら官能小説のようであるが・・・なんでもやれるのが、ええでぇ♪、絲山秋子ミニブームがまだ続いています。rakutenばかものこの本も絲山秋子ミニブームR1に収めておきます。ところで報道によれば、絲山さんの新作「薄情」が今年の谷崎潤一郎賞を受賞したそうです。ネットで著者インタビューを探してみました。「薄情」の絲山秋子さん:著者との60分intereviewよりインタビュアー 石川淳志(映画監督)石川:新刊『薄情』は群馬県で叔父の神社を手伝う宇田川静生をめぐる人々の、2014年2月の大雪から翌年の夏までを描いた長編小説です。執筆の動機を教えて下さい。絲山:私が群馬に住んで十年以上経ちましたので、群馬を舞台に書こう、地元のひとが考えていることを書きたい、と決めていました。 群馬から出て行ったひと、帰ってきたひと、ずっとその土地に住んでいるひと、それから他所から来て私のように住み着いてしまうひともいれば他所から来てまた別の土地に去っていくひともいて、そんな中でひとの気持ちのズレみたいなものを書く上で「薄情」という言葉がキーワードになると思ったのが一つ。 それから「上毛かるた」に「雷と空風義理人情」とあるように、群馬県民は等しく義理人情に厚いという自覚があります。敢えて「薄情」というところから群馬を捉えてみたらどうだろう、と出発しました。そうした中、2014年の歴史的な大雪があったものですから、この大雪の場面から書かなければと思いました。 自分も雪に閉じ込められながら「今、宇田川はどうしているんだろう」と考えて書いていました。また、この『薄情』には「群馬愛」「よそ者」、地元と他所とを隔てる意味などで「境界」というテーマもあります。 「群馬愛」は「土地への信頼」でもあり、私自身、群馬の風土や歴史を含めた土地への信頼があるので相手も信頼してくれ、信頼関係ができているからあえて「薄情」という切り込み方ができたと思います。その中で自分にとって一番まずい事って何だろうと考えてみると、やはり土地の人にとって「よそ者」のグレーはない、「よそ者」には「善いよそ者」と「悪いよそ者」しかいない。書いていて自分のリスクみたいなものも考えていました。石川:絲山さんのホームページには曽祖父の父が神主だったと書かれていて、ついに主人公の職業として神職が登場したと思いました。絲山:自分では意識していたわけではありませんが、自分の先祖に神職がいて、絲山の親戚は神道で葬式も神式でしたし、最近では福永武彦さんが書いた子供向けの『古事記物語』を読んでいましたので、親しみを持っている世界ではありました。 取材に行った神社の神主さんも素晴らしい方で、それも良かったのでしょう。日本の神話の神様のユーモラスな感じ、神様なのに少し面白く、親戚のちょっとダメなおじさんみたいなところが好きなのだと思います。仕事の都合でもないかぎり、都民が高崎に転居することは考えられないんだそうだが・・・絲山さんは独特なひらめきで、あえてその逆コースを採った「よそ者」のようです。
2016.10.30
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図書館で『発火点:桐野夏生対論集』という本を手にしたのです。報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪【発火点:桐野夏生対論集】桐野夏生著、文藝春秋、2009年刊<「BOOK」データベース>より時代に挑み続けるキリノ。直木賞受賞から現在まで、識者十二人との刺激的な論考。【目次】剥き出しの生、生々しい性(松浦理英子)/悪意を小説で昇華させたい(皆川博子)/女は怪物?それとも鬼?(林真理子)/想像は現実である(斎藤環)/いまそこにある危機・ニッポンの男と女(重松清)/極私的オトコ論(小池真理子)/残酷な想像力の果て(柳美里)/星野智幸による「快楽主義者の伝記」(星野智幸)/「見えない貧困」がこの国を蝕む(佐藤優)/座して死を待たず(坂東眞砂子)/象徴天皇制の「オモテ」と「オク」(原武史)/フィクションに潜む真実(西川美和)<大使寸評>報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪rakuten発火点:桐野夏生対論集夫婦の関係について、重松清氏と語っているので見てみましょう。配偶者控除や「103万円のライン」が出てきて、生々しいトークでおます。p83~86 <モデルがないと男は父性時代に回帰する>重松:男はいまだ古き良き「父性の時代」、父親の世代に回帰しちゃっている。僕は持ち家幻想とローンのせいだと思っている。ローンを背負うことは男の人生にすごく影響を与える気がするんです。桐野:昔の女や低所得者はローンを組めなかったから、一種男の甲斐性でもあったわけでしょう。今は女もローンを組めるから、男的なメンタリティへの転換を迫られているのかもしれない。重松:ローンは年功序列と終身雇用に支えられた、右肩上がりの幻想のシステムの毒。人生の最大公約数的モデルがはっきり見えるから組める。ところが、今やモデルが作れない時代で、男はそれに耐えられない。だから父親の時代のモデルに回帰する。女性は母親に対してどういう思いなんでしょう?桐野:私は母の否定から青春が始まりました。ルサンチマンですね。専業主婦になっちゃいけない、手に職をつけなくては、と母にも言われたし、自分でもそう思いました。重松:それが均等法世代まで続く。母のルサンチマンを背負った娘と、古きよき時代の親父の幻想を背負った息子が結婚してうまくいくわけがない。僕は結婚初日にかみさんに「お前」って言ったら、「お前と呼ばれる筋合いはない」と怒られた(笑)。 桐野さんと僕の世代の端境には女性は短大まで、という時代があった。4年生大学を出ると就職も結婚もできないから短大出て、腰掛け就職して良妻賢母になる。古いタイプの夫は家の中で学歴というアドバンテージをとれ、それが最後の男女関係を象徴していた。桐野:私の著書『OUT』では東京近郊のパート主婦を描いたのですが、主人公たちの夫はホワイトカラー、妻はパートのブルーカラーという立場なんです。専業主婦が働こうと思うと、いまでもパートぐらいしかなくて、家庭の中でホワイトカラーとブルーカラーが分断される。重松:配偶者控除が適応される「103万円のライン」のせいで、男の立場は変わらない。今は、家や教育費のローンのために妻も「働かなきゃいけない」からパートをしているのに、「103万円」のせいで対等になれない。妻が「103万円」を超えて働くと、夫に残された経済のアドバンテージもなくなってしまう。アドバンテージがあってこそ、夫婦は何とかやってこられたのに。桐野:なくなったらなくなったで、男が新たなアドバンテージを無理やり作りますよ。重松:でも、男にとって夫婦をめぐるロールモデルってすごく少ない気がする。桐野:谷崎なんかは夫婦の話ばかり書いていますが、今の男性作家で夫婦のあり方を書いているのは、重松さんぐらいでしょ? 重松さんの『愛妻日記』ではある程度連れ添った夫婦が、もう一度セックスで燃えるために、いろいろ工夫するけど、基本的には男は妻を女として見ない。男の性は、家の外にあるものみたいですね。結婚したとたんセックスレスになる夫婦も多いとか。重松:夫の側が妻を見るときの基準線って母親だったりする。「母親だったら、こんなときはこうしてくれた」って。お母さんになっちゃうと、近親〇になっちゃうから、妻とはセックスできない。そういう妻も母親になって息子ができれば、100%受け入れる。 むしろ今のほうが母息子関係はひどいかもしれない。本来は抑圧してくれるべき父親が不在で、母子密着。限りなく自我が肥大してしまう。息子の女性を求める基準線も、母親像になる。その繰り返し。 <男も女も60過ぎたらめくるめく時代が戻る>桐野:そんな男の人たちとどうやって付き合っていけばいいのかしら。重松:やっぱり奥さんは二つ以上の顔を持ったほうがいい。夫婦としての顔も見せず、子どもに対する母親の顔のままで夫と接するのは、相当まずいと思います。桐野:日本はカップル文化じゃなくて、家文化だから駄目なんでしょうね。カップル社会になったら男の人も妻を女としてみざるを得ないでしょう。重松:(追って記入予定)ウーム 父親の甲斐性で住宅ローンを組んで家族を養っていた時代は、もう過去の残照なんでしょうね。『発火点:桐野夏生対論集』1
2016.10.30
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図書館で『発火点:桐野夏生対論集』という本を手にしたのです。報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪【発火点:桐野夏生対論集】桐野夏生著、文藝春秋、2009年刊<「BOOK」データベース>より時代に挑み続けるキリノ。直木賞受賞から現在まで、識者十二人との刺激的な論考。【目次】剥き出しの生、生々しい性(松浦理英子)/悪意を小説で昇華させたい(皆川博子)/女は怪物?それとも鬼?(林真理子)/想像は現実である(斎藤環)/いまそこにある危機・ニッポンの男と女(重松清)/極私的オトコ論(小池真理子)/残酷な想像力の果て(柳美里)/星野智幸による「快楽主義者の伝記」(星野智幸)/「見えない貧困」がこの国を蝕む(佐藤優)/座して死を待たず(坂東眞砂子)/象徴天皇制の「オモテ」と「オク」(原武史)/フィクションに潜む真実(西川美和)<大使寸評>報道では女性の地位が先進国のなかで日本が最下位あたりに低迷しているそうです。2009年発刊のこの本でも、それを喝破しているわけで・・・・なるほど作家の感性はだいたい5~10年先を見ているのか♪rakuten発火点:桐野夏生対論集今では本屋で著作が平置きとなっている佐藤優氏との対談を見てみましょう。p177~182 <「見えない貧困」がこの国を蝕む>佐藤:私は未払いの人々も、北海道のスーパーに押し寄せる老人たちも、究極的には、世界を席巻している極端な新自由主義への不満や、忌避を無意識のうちに表明しているのだと思います。一連の小泉改革によって非正規雇用も増え、格差が拡大しましたが、それによってわが国で生きている人々の連帯意識が分断されてしまった。そのひとつのあらわれが、桐野さんが言われた公共意識の崩壊ではないかと思うのです。国家として劣化が始まっている。今や官僚も政治家も経営者もみんな自分のことしか考えていない。桐野:偽装請負などその典型ですね。グローバリズムに対応するために、若い人や女性から搾取しなければ成立しないような産業構造になってしまっている。とくに若い女性は半分以上が非正規雇用ですから、結婚しないかぎり間違いなく貧困層に押しやられてしまいますね。そうした状況で、上から無理やりに「公」を押し付けても実感が持てないように思います。 <今の日本には受け皿がない>佐藤:現在の日本は、崩壊直前のソ連よりも危ない点があると、と言いましたが、それは「世間」の崩壊とも大きな関係があります。 1991年のソ連崩壊から17年経った今、ロシアは世界の強国のひとつとして復活を遂げています。それは何故かといえば、ソ連という政治体制が崩れても、まだ古き「ロシア」という受け皿があったからです。 崩壊に直面したロシアの指導者たちは、共産主義体制以前から存在した、農村共同体の伝統や家族制度、大地に根ざした価値観といったものを前面に押し立て、ロシアという「同胞意識」によって国としてのまとまりを必死で維持しました。「国家」という近代の概念の崩壊を乗り越えるために、前近代の価値を持ち出したと言ってもいいかもしれません。桐野:今の日本は、「世間」が崩れ、家族も大きく変容していますね。そうなると、受け皿がもはや存在しない。佐藤:そうなんです。これは、日本の国民一人あたりのGDPが18位に落ちた、といった表面的な問題よりも、ずっと深刻な問題です。桐野:ただ、昔からの農村的な共同体というものも、いい面ばかりではありませんね。互いに互いを縛りあうような、息の詰まる面もあって。そこに帰れ、といっても今の日本人には無理でしょう。佐藤:私は半分沖縄の血が流れていて、日本で唯一「世間」が残っているとすれば、沖縄ではないかと思うのです。まさに、桐野さんが『メタボラ』で書かれていたように、沖縄の人は、旅で来た連中には非常に親切で、インフラを使いながら寄生することも許してくれる反面、住民票を入れて本格的な居住を始めると、箸の上げ下ろしまで干渉するようになってうっとうしい(笑)。桐野:沖縄には優しいオバアがいて、何でも笑顔で明るく受け止めてくれる、という「オバア幻想」がありますけど、まさに「幻想」ですね。佐藤:ええ、現実のオバアは、青島幸男さんの演じた「意地悪ばあさん」に近いと思ったほうがいい。桐野:「世間」や「共同体」はそんなに甘くない(笑)。私たち本土の人間は、「沖縄=海と太陽」というような健康的なイメージを持っていますが、実際に取材してみると、エネルギーに溢れてはいるけれど、ダークなエネルギーなんですね。 主に沖縄本島を見てまわったんですが、田舎の非行少年が那覇に来て、朝方まで徘徊している。男たちはあまり働かず、性産業が発達していて、島全体に欲望がたぎっているような感じがしました。また、一方では日本で唯一の地上戦の舞台になったところでもある。すごく複雑な土地です。 それに、沖縄アイデンティティというよりも、出身の島や集落のアイデンティティを大切にしている。離島も多いですし、それぞれの島が独立した個人のような感じがしました。佐藤:私の母は久米島の出身ですが、東京に来て半世紀経ってもいまだに島や集落のアイデンティティを強く持っています。だからこそ、国家が崩壊しかけても、崩れない拠り所となりうるのでしょう。日本人はそもそも国家が崩壊すると思っていないでしょう。 <ばらまきこそ格差是正の突破口>桐野:崩壊前のソ連というのは、やはり悲惨な状況だったんですか。佐藤:いや、それがすごく居心地がいいんですよ。腐ってはいるものの、腐りかけの果物のような甘い匂い。だって、働かなくてもいいんですから。コカ・コーラやマクドナルド、あるいはソニーのカラーテレビなどに象徴される資本主義社会の果実はないけれど、飢えや寒さから解放され、ウオトカにも不自由しないソ連型「豊かな社会」は明らかに到来していました。もっともこのソ連型「豊かな社会」は、ソ連共産党の支配体制を維持するために国民にアメを与え続ける、一種の愚民化政策だったのですが。桐野:確かにグローバリズムからは遠い社会ですね。物的な欲望も限定されているし。佐藤:もうひとつ、居心地がいいという点では、男女の仲がとても良いんです。2,3回結婚する人はざらにいますが、別れたからといって、最初のパートナーとも付合いが続く。子供の教育について相談するとか。しかも、並行して愛人とも付き合っている人が少なくない。桐野:それはそれで楽しい社会かもしれないですね(笑)。しかし、そうした共産主義下の居心地のいい社会も、市場経済が本格的に押し寄せてきたとき、激しい格差が生まれ、社会の大混乱に陥りましたね。これは今の中国も同じだと思いますが。佐藤:まさにその通りで、お金というのは国家をも破壊する最大の暴力のひとつなのです。だから資本主義が入ってきたとき、労働意欲を失っていたソ連の人々はそれにまったく対抗できなかった。ソ連崩壊後の1992年、年率2000パーセントという超インフレが起きて、国民の貯蓄は全部ふっとんでしまったのです。桐野:そうして生まれた格差を、ロシアはどうやって乗り越えたのですか。佐藤:徹底したばらまきですね。大立者になった金融資本家やエネルギー長者が、故郷にばらまき、身内にばらまき、子分や友人・知人にばらまく。桐野:そのお金が消費に回ることで、景気が上向いたのですか。佐藤:はい。しかも、ばらまきに応じない会社や経営者には、政治的な圧力がかかります。最終的には、プーチンはそうした会社を潰して、年金生活者にばらまく。プーチンは独裁者だと言われますが、こういうポピュリスト的手法をとるので意外と大衆の人気があるのです。桐野:日本だと、田中角栄の列島改造論を思い出します。道路やトンネルを造ってお金を日本中にばらまいた。「若い人や女性から搾取しなければ成立しないような産業構造になってしまっている」うえに、富裕層は資産を海外に移して脱税に勤しんでいると聞くが・・・・日本には、中国共産党の腐敗を笑っている余裕はないようです。
2016.10.29
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「神戸繁昌亭」構想が前進とのこと・・・神戸市民としても嬉しいのだが・・・新開地まちづくり協議会などと共に、桂文枝会長の尽力がええでぇ♪神戸新聞から引用します。2016-10-21「神戸繁昌亭」構想が前進 上方落語協会で賛成多数より投票結果を報告する桂文枝会長 神戸・新開地で検討されている上方落語の定席「神戸繁昌亭(仮称)」の建設構想について、上方落語協会(大阪市北区)は21日、同市内で臨時総会を開き、構想の推進を決めた。協会員の投票で賛成意見が上回った。大阪の天満天神繁昌亭に続く「第二の繁昌亭」構想は、実現に向けて大きく動きだすことになった。 かつて大衆娯楽の街として東京・浅草と並び称された神戸・新開地。定席が実現すれば、新開地で約40年ぶりに本格的な寄席の灯がともる。 定席構想は、兵庫県と神戸市、地元の新開地周辺地区まちづくり協議会、上方落語協会の4者が2015年度から検討。同協会以外の3者はすでに推進の方針を固めており、協会の意志決定で4者の足並みがそろった。 神戸の定席は天満天神繁昌亭(216席)とほぼ同規模を想定。これまでに、県と市が国の補助金を活用し建設費2億円程度を負担し、運営は地元NPOが担う方針を4者で確認していた。 しかし、協会の若手落語家らから集客などを不安視する声が上がり、協会は改めて臨時総会を開き、会員256人に投票で賛否を問うた。 総会終了後、桂文枝会長は「賛成が多数だった」とした上で「新開地の皆さんのため、役立てればうれしい」と話した。(松本寿美子)天満天神繁昌亭には一度寄らせてもらったけど・・・笑いについてはシビアなおばちゃん連も入っていて、結構繁昌しているようでおま♪天満天神繁昌亭この記事も六代桂文枝R1に収めておきます。
2016.10.29
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図書館で『人魚はア・カペラで歌う』という本を手にしたのだが…ペラペラとめくったら「小村雪岱の挿絵」というくだりがあったので、借りる決め手になりました。丸谷さんの『ゴシップ的日本語論』という本も同時に借りたし・・・・何か短期集中というか、ミニブームの感があるのです。【人魚はア・カペラで歌う】丸谷才一著、文藝春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より信長が謙信に贈ったズボンから「小股の切れ上つたいい女」の小股って?まで、頭が刺激されて思わず膝をうつ24篇の知的エッセイ。【目次】鍋の底を眺めながら/検定ばやり/象鳥の研究/浮気な蝶/007とエニグマ暗号機/敵役について/村上春樹から橋本夢道へ/北朝びいき/人さまざま/槍奴〔ほか〕<読む前の大使寸評>ペラペラとめくったら「小村雪岱の挿絵」というくだりがあったので、借りる決め手になりました。rakuten人魚はア・カペラで歌う「満州の森林破壊」を、見てみましょう。満州族やツングース系民族は、もともとタイガの狩猟民族であった。p199~202 <赤い夕日の満州> 「満州」すなわち中国東北地域は、中国のなかで本格的な開発が最も遅れた辺境の一つだった。20世紀初頭、原生林をたくさん残していたのは、 東北地方 海南島 雲南、四川、チベットの一部などだったが、東北地域の森林地帯がまだ手付かずだった理由は複合的である。第一に、寒冷な気候のせい。第二に、狩猟、遊牧民族(満州族、モンゴル族、エベンキ、オロンチョン、ナナイ)の地であったため。第三に、満州族の祖地として清朝によって封禁されていたせい。この「封禁」といふのは封禁令のことで、漢人植民禁止令。 ロシアが16世紀後半からシベリアに進出し、17世紀前半にかけて黒龍江から南へ進んで来たため、これに対抗するため、清朝は北満に植民を促した。軍隊用の食糧の確保のためで、開発されたのは主としてホルチンやハルピン西部一帯の草原地帯。北西部の大興安嶺、北部の小公安嶺、東部の長白山系は大森林地帯のままであった。 ハルピンのすぐ東、東部満州も、ウスリートラやアムールトラ、チョウセントラが君臨する、野生動物が生きる森で、この森がタイガと呼ばれていた。これですね、バイコフの描く空間は。 とにかく20世紀になるまで、漢人はほとんど東北地域に入植していなかった。 この大森林を破壊したのはロシアと日本。 日清戦争に勝った日本が、遼東半島を領土にすることにロシアは反対し(いはゆる三国干渉)、ロシアはその見返りとして1896年、満州内に鉄道敷設権を得た。 1903年、東満州を東西に貫く東清鉄道が開通。 バイコフはこのため、1901年に鉄道警備隊長として赴任したんですね。彼の回想によれば、1910年代の東部満州はほとんど森で覆われていて、老爺嶺の裾野の「樹海」には樹齢五百年以上のチョウセンゴヨウマツの原生林が800平方キロも残っていたといふ。ところが鉄道敷設後、ロシアの伐採会社が、高さ40メートル以上、直径4メートル以上ものチョウセンゴヨウマツを次々に切り倒した。鉄道の枕木その他に用いたのである。 牡丹江地方は、ツングース系の狩猟民族が狩りや朝鮮人参の採取をおこなっていたが、そのほかに約四万平方キロが清朝皇帝の狩猟地帯になり、周囲を囲まれていたことは重要である。これが環境の保全に役立った。ただし1911年、中華民国が成立すると、この一帯の森が利権の対象となって無残に分割されたけど。 山火事も作用した。在来、満州族は農閑期に森にはいって、罠をかけたりしていたが、彼らの鳥獣の捕獲や樹木の伐採には節度があった。山火事になんかならないやう気を付けたのでせう。漢民族がはいって来ると、彼らは森林の開墾や耕地の拡大に熱心なあまり、しきりに山火事を発生させた。 日露戦争がはじまりさうになると、日本資本の森林調査が盛んになり、戦後には日中露合弁の林業会社が設立された。 1907年、南満州鉄道が設立。本線の複線化、ゲージ幅の標準軌への統一その他によって、満鉄は多線に対して優位に立つ。1925年以降は中国側の力が伸び、満鉄の勢力を圧迫しようとしたため、両国間の争ひが激しくなった。これが満州事変の伏線になることは前述した通りです。 かういふ鉄道網の発達が大森林の消滅を助長したことは言ふまでもない。 しかしこの大変動にかかはる交通機関がもう一つあった、馬車である。 厳密に言えば大車なるもので、これは荷馬車のこと。一頭立てから五頭立て六頭立てといろいろある。1928年の調べによれば、大都市では人口百人について荷馬車一、農村では人口30について荷馬車一の割合で持っていたとやら。これは大体、県城(県庁所在地と考へていいかしら)や鉄道駅と、後背地とをつなぐのに役立っていたけれど、鉄道の代用をすることもあった。農民は冬の農閑期になると、自分の家の農馬を使って荷馬車を走らせ、大豆その他を積んで県城にやって来ては、日用品を買ひ求めて帰る。これが2ヶ月がかりの旅行になることもあったといふから、長途の旅である。 この馬車輸送システムに必用なのは馬車材と馬。 馬車材は長白山森林の広葉樹(クヌギ、ナラ類)が用ひられた。木材ははじめ水送で運ばれたが、やがて馬車材そのものや製作した部品を鉄道で配送する仕組に改まった。 日露戦争のとき、日本軍は日本から馬車を持って行ったが、気候や道路事情に合わず、故障が続出して、現地の大車を調達した。1ヵ月たたぬうちに千百輌以上もの大車が第一軍に集まり、1904年5月から10月末までで延べ1万5千輌に達したといふ。おそらくロシア軍も同じやうに工面したのだらうから、当時の満州ではこの馬車がかなり普及していたことがわかる。 1939年には、安東省の馬車台数は3万5千台、通化省は千8百台。1910~20年代に馬車が急に殖えたやうである。つまりこの分だけ広葉樹は切り倒された。ウーム 丸谷さんの言葉の端々に、漢民族に対する忌避が感じられるが・・・ええなあ♪(コレコレ)話題は馬から大豆に変わって、続きます。p207~209 <赤い夕日の満州(続き)> 先程、馬車輸送システムを成立させた条件として、わたしは木材と馬との二つをあげた。本当のことを言ふともう一つあるので、それは満州の冬の寒さである。ほら、酷寒零下何十度とか、唄の文句にあるじゃないですか。あれのせいで路が凍り、さながら舗装したみたいになるのだ。あるいはさらに、路でないところ、つまり原っぱも畑も川も何もかも、路と同じことになった。自由自在にゆける。 その上、冬のきびしい寒さはあらゆる物を凍らせるから、物がいたむのを防ぐ。魚の輸送なんか、まことに具合がよく好都合である。これは大豆にも関係があって、秋に収穫したものをすぐには出荷しない場合、畑に積んで置いても、粗末な小屋にはふって置いても、大丈夫なのだ。零下2,30度だし、しかもものすごく乾燥しているから、こんな保管でも収穫物はいたまない。 実は、すぐ隣の山東省も大豆の産地なのですが、ここは省内で消費するだけで輸出なんかしない。寒くなくて地面が凍らないから、道路がぬかるみで、うまく運べないのである。土地柄が商業に向いていない。 『満州の成立』の著者たちは、これを「完全舗装・完全冷凍の馬車輸送システム」と呼んでいるが、このシステムがあるせいで、満州の社会構造は中国本土と趣を異にする、一種近代的みたいな仕組になった。本土ではいくつかの村落ごとに市が一つたって、そこへ商人たちがたいてい旬に二回やって来る素朴な仕組(地域が網状組織)なのに、満州では村から県城へおもむひて用をすませる仕組(樹状組織)になっていた。(中略) といふふうに見てきてから著者たちは言ふ。 近代満州社会の成立は、商品作物としての満州大豆の成立過程である。まづ漕運(水上運輸)といふシステムの副産物として華中の木綿の商品生産が満州大豆と結びつき、これに端を発して満州大豆が華南の甘藷畑にもたらされることになった。日露戦争のせいで、日本の水田、ヨーロッパの搾油工業、牧畜業と結びついたが、第二次大戦で衰えることになる。 かうして満州大豆は世界史とかかはりあった。 近代日本が国内の農業生産性を急にあげることができた一因は、満州大豆の粕を水田に入れたことであった。つまり近代日本の成功はどうやら満州大豆のおかげらしい。 まして満州それ自体への作用はすさまじい。満州の人口爆発も、森林消滅も、県城経済システムの出現も、張作霖政権の成立も、さらには満州国の出現も、みな大豆のたまものであるとこの本の著者たちは説く。いや、満鉄の繁盛だって大豆のおかげなので、もしも大豆がなければあんなに利益をあげることができなかった。たしかに、運ぶべきものがほかにあんまりないのだから、大豆あっての満鉄であったといふのは納得できる。『人魚はア・カペラで歌う』1
2016.10.28
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図書館で『人魚はア・カペラで歌う』という本を手にしたのだが…ペラペラとめくったら「小村雪岱の挿絵」というくだりがあったので、借りる決め手になりました。丸谷さんの『ゴシップ的日本語論』という本も同時に借りたし・・・・何か短期集中というか、ミニブームの感があるのです。【人魚はア・カペラで歌う】丸谷才一著、文藝春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より信長が謙信に贈ったズボンから「小股の切れ上つたいい女」の小股って?まで、頭が刺激されて思わず膝をうつ24篇の知的エッセイ。【目次】鍋の底を眺めながら/検定ばやり/象鳥の研究/浮気な蝶/007とエニグマ暗号機/敵役について/村上春樹から橋本夢道へ/北朝びいき/人さまざま/槍奴〔ほか〕<読む前の大使寸評>ペラペラとめくったら「小村雪岱の挿絵」というくだりがあったので、借りる決め手になりました。rakuten人魚はア・カペラで歌うまず、大使注目の「小村雪岱の挿絵」を、見てみましょう。p181~187 <小村雪岱の挿絵> 三といふのが魔的な力を持つ、呪術的な数であるせいでせうか、われわれは何かにつけ三つ並べて喜ぶのが好きです。 維新の三傑といへば西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。もっともこれは、中国で漢の瀟何、張良、韓信、蜀の諸葛亮、関羽、張飛をそれぞれ三傑と称したのにならったもので、木戸孝允なんか、三つ揃へるため無理に付け加へた気配がないでもない。薩摩ばかりでは何だから長州から一人といふ気持ちもあったでせうしね。 三山もあります。大和三山は天香具山、畝傍山、耳成山。出羽三山は月山、羽黒山、湯殿山。熊野三山は熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の神社。はじめは熊野三所権現と呼ばれていたが、三山のほうが言ひやすかったのでせう。もちろんこの言ひ方の根のところには山岳信仰がひそんでいる。(中略) などと三づくしから話をはじめたのは、先日、 鏑木清方 小村雪岱 木村荘八の三人が近代日本の挿絵画家の三絶だといふ落合清彦さんの一文(「名作挿絵全集」5所収)を読み、感銘を受けたからである。まったくその通りの見事な人選だと思ふ。岩田専太郎も加えたらどうかなんてことは、頭に浮かばない。 ちなみに「唐三絶」といへば李白の詩、ハイビンの剣舞、張旭の草書のことで、これが唐代の技芸で最もすぐれていた。「い篇三絶」といふ言葉がありますが、これは孔子が晩年に易を繰返し読み、紐を三度も切ったという故事にもとづく。読書に熱心なことを言ふ言ひまはしで、当面の話題とは別口であります。それはともかく「三絶」といふのは断固として言ひ切った趣があって褒め上手ですね。気前がよく、景気がいい。 落合さんはまづ、 「日本の近代の挿絵画家のなかで、トップ・クラスの位置をしめるのは、小村雪岱だと私はおもう」 と書いてから、三人の名を並べ、それから、 「とはいえ、清方は雪岱と逆に、本絵へ行って大成した人だし、荘八は死ぬまで、挿絵と本絵を両立させたいとしていたのだから、やはり小村雪岱はそういう意味でもユニークな人なのである」 と述べた。なるほどね、とは思ふけれど、しかしわたしの気持ちとしては挿絵専門でなんかなくたっていい。双方かけもちで一向かまはない。かういふ所、わたしはきびしくないたちで、いい加減なのである。 いい加減かもしれないが、しかし雪岱の挿絵が一番好きだ。 ここで話は70数年前にさかのぼる。いいですか。昔語りですよ。 1933年(昭和8年)9月から朝日新聞に邦枝完二の小説『おせん』の連載がはじまり、12月までつづく。挿絵は小村雪岱。 邦枝完二は三田文学系の作家で、永井荷風は例によって何かぶつぶつ言っているけれど、序文を与へたりしているからともかく荷風門下。 大変な美男で、娘さんを連れて銀座を歩くと、女の人たちがみんな振り返って彼を見る。娘さんはそれがとても誇らしかったと語っている。当然の結果、と言へるかどうかわからないが身持ちが悪かった由。このへんも荷風門下らしいね。(中略) 今はどうか知らないが、あのころは新聞小説は家族みんなが目を通すものだった。すくなくとも挿絵は全員が見て、いいとか悪いとか、あれこれと論じた。その挿絵の評判でとりわけ記憶に残っているのは、小村雪岱の『おせん』と岩田専太郎の『雪之丞変化』にみんなが興奮したこと、特に母が雪岱の大のひいきだったことである。 母は娘時代から竹久夢二が大好きで、そのせいか、イラスト的なものに関心が強かった。ちなみに『雪之丞変化』は三上於菟吉の作で、34年~35年(昭和9年~10年)の朝日連載。おや、こっちのほうは読んでいたやうな気がするぞ。何しろ3年生だからな。読んでいても不思議はないし、それに総ルビと称して全文振仮名つきだから、字をたどることは易しいのである。(中略) 70年前の挿絵を思ひ出したきっかけは、「芸術新潮」今年(2010)2月号の特集「小村雪岱を知っていますか?」だった。広告でこの特集を知り、久しぶりにこの雑誌を買って、ずいぶん長いことおもしろがった。あれだけ楽しめば、1400円なんて安いものだね。 挿絵、装丁、舞台装置の三方面にわたる至れり尽くせりの特集なのだが、やはり挿絵が一等よく、少年時代を懐かしむ思ひといっしょになってかもしれない、うっとりした。 たとえば『おせん』の女主人公の、こころもち前のめりに歩く腰の線の色っぽさ。雨とたくさんの雨傘の彼方に、ちょうど北斎描く波頭の向うの富士のやうに見え隠れしてある彼女の顔。それから『お伝地獄』の左半分はうつぶせになって刺青を入れられている高橋お伝の白い裸身で、右半分は刺青師の髷と着物の黒のつぶしといふ極端なコントラスト。さらにまた、女二人が橋の上で取組み合ひをしたあげく、片方がとつぜん現れた男によって川のなかに叩き落され、女の白い片脚が、シンクロナイッズド・スウィミングさながらに黒い川水の上に突き出ている、これも白と黒のコントラスト。どれもこれも、今まで何度も見た絵ですが、大きなページで、いい印刷で見るせいか、手に汗握る思ひ。小村雪岱の画像より丸谷さんは、イギリスの挿絵作家ビアズリーを引き合いに出して、雪岱を讃えています。p189~190 <小村雪岱の挿絵(続き)> さうさう、忘れていた。この画集に寄せた山本武夫さんの一文に、雪岱の「ブラック・エンド・ホワイト」は資生堂所蔵のビアズリー画集から生まれたとある。 これはむしろ当然なので、世紀末のイギリスでビアズリーがはじめた画風は、単にイギリスだけではなく、全世界を席巻した。日本の優秀な新鋭デザイナーがそれに注目するのはごく自然なことだし、単に浮世絵の摸倣で行ったのでは、新しい江戸情緒の創始者となることはできなかったらう。 これは文学における荷風の場合と同じで、『散柳窓夕栄』その他、江戸に材を取った荷風の作は、さほど成功してはいないけれど、しかし西方の文学に学んだせいで出来あがったものだった。江戸の戯作の糟粕をなめただけでは、あの程度のおもしろさもむづかしかったらう。 雪岱びいきは一体に西洋嫌ひなやうで、狭い日本美の枠のなかに置きたがるやうである。をかしいよ。第一、ビアズリーだって、オリエンタリズムに学んだからあの画風が成立したのである。ちなみに、お二人とも挿絵本あれこれでとりあげています。『アーサー王の死』挿絵(1893)
2016.10.28
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図書館で『ゴシップ的日本語論』という本を手にしたのです。旧仮名遣いで書かれた本ではあるが、書かれた内容は博識にあふれ今日的であるのが異色であり…ええでぇ♪【ゴシップ的日本語論】丸谷才一著、文藝春秋、2004年刊<「BOOK」データベース>よりテレビとケータイが日本語に与えた深刻な影響とは?昭和天皇の「ア、ソウ」と近代日本が背負った重荷!「猫被りの香具師のモモンガーの…」漱石の悪態づくしから学ぶ。さらに鏡花、折口から歌舞伎に現代思想まで、刺戟に満ちた講義、対談が満載。<読む前の大使寸評>旧仮名遣いで書かれた本ではあるが、書かれた内容は博識にあふれ今日的であるのが異色であり…ええでぇ♪rakutenゴシップ的日本語論丸谷さんが「日本語があぶない」と警鐘を鳴らしているので、見てみましょう。p32~37 <日本語があぶない> わづか百年余りのうちに二度の大変革が日本語に押し寄せた。現在、われわれのしゃべっている日本語はこの大騒ぎのせいで出来上がった。あるいはいまだに大変革のなかにあるといふ状態なわけですね。 二つの大変革の中心部にあるものは、主として漢字、漢語が大量に入った仮名まじり文によって西欧的概念を述べる、といふことでした。 しかし言語学的には、日本語は膠着語であり、中国語は孤立語、英語は屈折語と、まったく別の系統のものです。その異質の三要素をごちゃごちゃにまぜて使って日本語といふものを成り立たせている。 明治の人は、「和漢洋の才能が必要だ」と言ひました。夏目漱石や森鴎外は、和漢洋三つをこなしたから偉いといふことになっていた。 ところが現在の日本では、彼らのやうな大才の持主ではないごく普通の人が、和漢洋三つをやるしかない。さういふ文明的状況に立たされているわけです。 日本語はむづかしい。もちろん、易しい面もありますよ。発音は、何しろ母音が五つしかないから、易しいとも言える。でも、それ以外の点ではかなりの難物です。文化の極端な重層性のせいで厄介なことになった。 国民全体が和漢洋ごちゃまぜの日本語を駆使するのは大変な力業であって、それに成功するためには、社会全体が長い年月をかけてジワジワとやるのがいいんだけれど、さうはゆかなかった。百年ちょっとといふ短期間でわれわれはやらなくちゃならなかった。さういふ運命を背負ひこまされているのが、現代日本人なわけですね。 さっきも言ひましたけれども、言葉の差し出すものには大きな二つの局面があります。意味と語感です。もちろん意味のほうがずっと大事ですが、語感もその前後左右に寄り添って大切な働きをするわけです。 われわれは大和ことばは意味もわかりし、語感もわかる。漢語になると意味はわかっても、語感はどうも怪しい。カタカナ言葉、西洋語になると語感はいよいよ怪しい。「フィーリング」なんて言葉を、みんなむやみに使ふけれども、この語感、何か怪しい。まして、「ナショナル・コンセンサス」とか、「シビル・ミニマム」とか、語感なんてないんじゃないだらうか。 ただ意味があるだけで、その意味もごく一部の人がわかるだけ。その典型は、「スキゾフレニア」とか、「パラノイア」といった言葉ですね。略して「スキゾ」とか「パラノ」とか言ったりする(かういふのはネオアカ言葉っていふのかしら)。この手の言葉を聞いても、ふざけているとか、気取っているとか、おひゃらかしているといふ感じはわかるけれども。中身はどうもよくわからない。そして語感なんか、ぼくにはピンと来ない。 「スキゾ」や「パラゾ」は極端な例ですが、こんなふうに意味はあっても語感はわからないといふ言葉がいっぱいあって、われわれはそれを使って暮らしてゆかなければならない。つまり言語的にたいへん不安定な状況で、いはば手さぐりで生きている。だから現代日本人は、不安なわけですね。 その不安、困った感じ、厭な感じ、それを何とかしなきゃならないと思ふから、『現代用語の基礎知識』とか、『知恵蔵』とか、あの手の新語年鑑が毎年何種類も出て、よく売れるし、『文章読本』なんていふ本が何種類も、十何種類も書かれ、読まれる。日本語論なんか、何千種もあるんじゃないかな。それが現在の日本語で生きている人間、日本人の言語的状況なんですね。 もう一度、箇条書きにまとめてみませう。(1)相変わらず西欧の概念を背負った漢語を主にして表現している。カタカナ言語も多いけども、たとへば「経済」とか「政治」、「会社」、「欲望」など、大事な概念は結局のところ西洋語の漢語訳だといふ気がします。それは明治時代とほとんど変わらないでせう。 ただ、さういった漢語を使ふ人が飛躍的に増えた。明治時代は知識人しか使わなかったのに。そして明治の知識人は今の知識人と違ってものすごく漢文が出来ました。だから西洋語の漢語訳を自由自在に使ひこなせた。今は、知識人だって漢文の教養がないのに、もっと素養のない大衆が西洋語の漢語訳をあやつらなければならない。(2)欧文脈的構文の隆盛。これを日本人は戦後、明治時代よりもずっとたくさん使ふやうになった。たとへば「と言っても過言でない」、これはテレビでもしょっちゅう使ふ言ひ回しですが、「it is no exaggeration to say that…」の訳でせう。 はじめて使ったのは、明治43年(1910)竹越与三郎と『日本国語大辞典』にはありますが、いまや欧文脈的構文だと意識されないくらいよく使われています。(3)論理とレトリックの変化。漢文的論理といふものはほとんど使われなくなり、もっぱら欧文的論理、レトリックが使はれている。しかし、それがどれだけ身について消化されているかといふと、かなり怪しいんで、何か切れ味の悪い欧文脈的論理、欧文脈的レトリックだといふ気がします。論理がレトリックの裏にくっついて、一体になった構造の言ひまわしはまだまだできていない。(4)みんなよく書き、よくしゃべるやうになったけれど、社交性やユーモアといったものが言葉の技術に伴っていない。言葉の技術を増やす方向に行っていない。たとへば首相も野党の党首も、おもしろいことをちっとも口にしない。ほんとに芸がないね。(中略) 日本語の現状は、こんなふうに眺望できると思いますが、ぼくの気持ちとしてはここからが本論なんです。 かういふ混沌とした状態におけるわが国の言語教育は、どういふものでなければならないか、それをぼくは言ひたい。 一国の言語とは、その国の歴史全体によって出来上がった組織であるわけでせう。ですから、言葉を歴史から切り離して適当に訂正するなどといふことはできません。もともとが母音終りの日本語を、子音終りにするとか、強烈なアクセントつきにするとか、四声をつけるとかいふことは不可能な話です。さらに隣りが中国だったのをやめて、隣りをイギリスにしようといふこともできないんですよ。 われわれは日本語の歴史的条件を受入れて、その条件のなかで巧みに、一所懸命に、生きてゆくしかないんです。そして、かってそれをある程度うまくやったから、今の日本の国力があるわけですね。ウーム 大使の言語ナショナリズムに強くひびく丸谷さんのお言葉でおました♪ただ、漢語と英語に対するコンプレックスが見え隠れするのが辛いところか。『ゴシップ的日本語論』1『ゴシップ的日本語論』2
2016.10.27
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図書館で『ゴシップ的日本語論』という本を手にしたのです。旧仮名遣いで書かれた本ではあるが、書かれた内容は博識にあふれ今日的であるのが異色であり…ええでぇ♪【ゴシップ的日本語論】丸谷才一著、文藝春秋、2004年刊<「BOOK」データベース>よりテレビとケータイが日本語に与えた深刻な影響とは?昭和天皇の「ア、ソウ」と近代日本が背負った重荷!「猫被りの香具師のモモンガーの…」漱石の悪態づくしから学ぶ。さらに鏡花、折口から歌舞伎に現代思想まで、刺戟に満ちた講義、対談が満載。<読む前の大使寸評>旧仮名遣いで書かれた本ではあるが、書かれた内容は博識にあふれ今日的であるのが異色であり…ええでぇ♪rakutenゴシップ的日本語論まず文学論あたりを、見てみましょう。p95~97 <文学は言葉で作る> ここで、しかしなぜ『野火』を選んだかといふ話をしたほうがいいでせう。現代小説にはいろいろ名作が多い。そのなかでなぜ『野火』にしたのか。 一つにはやはりわたしの好みに合っているからです。あの長篇小説は、結末のところはちょっと問題があると思ひますが、全体としてはじつによく書いてあります。20世紀は戦争の世紀でしたから世界中で戦争小説がじつにたくさん書かれましたが、いざ選ぼうとしてみると、いい戦争小説はすくないんですね。ヘミングウェイの『武器よさらば』とか、井伏鱒二の『黒い雨』とか、ああいふいはゆる名作はどうも何だか物足りない思ひがする。 わたしの好みで三つ選ぶとすると、チェコの作家ハシェクの『兵士シュヴェイクの冒険』、まづこれが来る。これは第一次大戦のとき、白痴を装った、いや、ひょっとすると白痴なのかもしれないし、天才的に優秀なのかもしれない男が兵隊に取られてずるいことをするといふ、一種の反戦小説といふか、ユーモア小説です。じつにおもしろい切り口で戦争を書いています。 それから、J・G・バラードといふイギリスのSF作家が自分の上海での少年時代の体験を利用して書いた『太陽の帝国』。これはSFぢやないんです。彼はあの12月8日のころ上海にいました。スウェイトというイギリスの詩人は『太陽の帝国』の書評のなかで大岡さんの『野火』と並べて戦争による放浪の物語として絶賛していましたが、わたしも同感でした。つまりこれがわたしの選ぶ戦争小説三篇ですね。そんなふうにわたしは『野火』を、普通の戦争小説とは違ふ独自の描き方で戦争をとらへていると思って、感心しているんです。 第二に、もちろん、レトリックが花やかでした。これはその点でわたしの目的にぴったりでした。おとなしい、地味な書き方の文章ではなかった。『文章読本』のこの箇所が「中央公論」に載ったとき、大岡さんから葉書をいただいたのですが、そのなかで、おれもあのころは派手好みの(だったかな?)気障な(だったかな?)文章を書いていたなあと驚いた、みたいなことが書いてありました。 大岡さんは『花影』を書いて、それがモデル問題でいろんな友達から非難されて厭になったらしく、小説に力を入れなくなったやうに思ひますが、そのせいもあって小説の文体が変わりました。でも、わたしは『花影』までの張切って書いた文章、好きでしたね。『逆杉』なんて短篇小説は尾崎紅葉の『金色夜叉』の文語体の美文を何度も引用しながらの小説で、じつに凝ったものでしたし、紅葉とくらべてすこしも見劣りしない、きれいな口語文でした。 第三に、この小説は戦争とか、人肉食とか、キリスト教とか、精神病とか、さういふ問題、主題がいろいろあって、とにかく思想的な方面ばかり云々される小説であった。それを逆に、純粋に言葉のほうからとらへて分析するのはみんなに衝撃を与えるだらうといふ気持ちもあったかもしれません。 第四に、これは中条省平さんの説ですが、近代日本では、文章が文章であることを意識させず、つまり文章に凝らないで、淡々と、無色透明な文章を書かなければならないといふ考へ方が幅をきかせている。支配的である。これは別の言ひ方をすれば明晰な文体がいいといふことになるわけですが、その明晰な文体の代表が大岡昇平だといふことに世間ではなっている。そこで丸谷は、無色透明な文章も実はレトリカルであることを言ひたくて故意に大岡を選んだ。と中条さんは述べています。言われてみれば、さういふ面もあったかも、といふ気がしてくる。映画の『太陽の帝国』を紹介します。【太陽の帝国】ロバート・マーコウィッツ監督、1995年米制作<movie.walkerストーリー>より1941年、クリスマスを迎えた上海。英国租界の邸宅に両親と暮らすジム少年(クリスチャン・ベール)は、学校の勉強よりも空を飛ぶことに心を奪われていた。上海にも侵略しつつあった日本軍の「零戦」のパイロットになることが夢だった。そんなある日、米空軍ムスタングが収容所を急襲し、戦争は終結へと向かう。ジムは脱走するベイシーに見捨てられ、他の人々とともに南島まで移動。その途中、ヴィクター夫人が息をひきとる。一瞬、東の上空に美しい閃光が走った。それは長崎に落とされた原爆の光だった。<大使寸評>この映画のもうひとつの主役が戦闘機かもしれない。映画のクライマックスでムスタングの空襲シーンがあるが・・・ジム少年が我を忘れて「大空のキャデラック」と狂喜していた。確かにジュラルミンの地色に輝くムスタングの飛翔は綺麗だった。movie.walker太陽の帝国
2016.10.27
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「丸谷才一」でしょうか♪<市立図書館>・ゴシップ的日本語論・人魚はア・カペラで歌う・氷山の南・夜を乗り越える<大学図書館>(今回はなし)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【ゴシップ的日本語論】丸谷才一著、文藝春秋、2004年刊<「BOOK」データベース>よりテレビとケータイが日本語に与えた深刻な影響とは?昭和天皇の「ア、ソウ」と近代日本が背負った重荷!「猫被りの香具師のモモンガーの…」漱石の悪態づくしから学ぶ。さらに鏡花、折口から歌舞伎に現代思想まで、刺戟に満ちた講義、対談が満載。<読む前の大使寸評>旧仮名遣いで書かれた本ではあるが、書かれた内容は博識にあふれ今日的であるのが異色であり…ええでぇ♪rakutenゴシップ的日本語論ゴシップ的日本語論byドングリ【人魚はア・カペラで歌う】丸谷才一著、文藝春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より信長が謙信に贈ったズボンから「小股の切れ上つたいい女」の小股って?まで、頭が刺激されて思わず膝をうつ24篇の知的エッセイ。【目次】鍋の底を眺めながら/検定ばやり/象鳥の研究/浮気な蝶/007とエニグマ暗号機/敵役について/村上春樹から橋本夢道へ/北朝びいき/人さまざま/槍奴〔ほか〕<読む前の大使寸評>ペラペラとめくったら「小村雪岱の挿絵」というくだりがあったので、借りる決め手になりました。rakuten人魚はア・カペラで歌う【氷山の南】池澤夏樹著、文藝春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より2016年1月、18歳のジン・カイザワは、南極海の氷山曳航を計画するシンディバード号にオーストラリアから密航する。乗船を許されたジンは厨房で働く一方、クルーや研究者たちのために船内新聞をつくることに。多民族・多宗教の船内で、ジンはアイヌの血という自らのルーツを強く意識する。女性研究者アイリーンとともに、間近で見る氷山に畏怖の念を覚えるジン。真の大人になるための通過儀礼を経て、プロジェクトに反対する信仰集団と向き合う。このプロジェクトの行方は…。21世紀の冒険小説。<読む前の大使寸評>池澤夏樹さんの長篇小説といえば、『カデナ』以来となるのだが…読んでみるか♪rakuten氷山の南【夜を乗り越える】又吉直樹著、小学館、2016年刊<「BOOK」データベース>より芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」「人間とは何か」を考える。また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の創作秘話を初公開するとともに、自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、文学に出会い、助けられ、いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、著者初の新書。<読む前の大使寸評>又吉さんの「愛書論の集大成」のような一冊だそうで・・・おおいに興味深いのです。<図書館予約:(7/11予約、10/22受取)>rakuten夜を乗り越える夜を乗り越えるbyドングリ***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き179
2016.10.26
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図書館に予約していた又吉直樹著『夜を乗り越える』という本を、待つこと3ヶ月ちょっとでゲットしたのです。又吉さんの「愛書論の集大成」のような一冊だそうで・・・おおいに興味深いのです。【夜を乗り越える】又吉直樹著、小学館、2016年刊<「BOOK」データベース>より芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」「人間とは何か」を考える。また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の創作秘話を初公開するとともに、自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、文学に出会い、助けられ、いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、著者初の新書。<読む前の大使寸評>又吉さんの「愛書論の集大成」のような一冊だそうで・・・おおいに興味深いのです。<図書館予約:(7/11予約、10/22受取)>rakuten夜を乗り越える又吉さんが、文章のハウツーとか文体を語っているので、見てみましょう。p146~149 <本に無駄な文章はない> 小説に文体というものがあることを初めて意識したのが、野坂昭如さんの『火垂るの墓』でした。 小学6年の時、読書感想文のために初めて読みました。最初は「むずっ!」と思って読んでいました。最後まで読めるのかなあと思いながら読み進めていくと、闇市のシーンにぶつかりました。読点「、」も句点「。」さえもほとんど使わず、闇市に並ぶ品物を羅列してゆきます。なぜこんなに読みにくくするのか。間違いなくわざとです。でもそのうち、絵が浮かんできました。なるほど、この人は絵を描くように文章を書いているんだと思いました。こんな表現も文章でできるのか。 野坂さんご本人がどんな意図で書かれたのかはわかりませんが、僕には絵が浮かびました。整然とした商店街ではなく、どこで何を売っているかわからないような闇市の様子が目の前に現れるようでした。 今『火垂るの墓』を読み返すと泣けて仕方ないですね。当時はあんなに難しいと思っていた冒頭の三宮の風景から素晴らしい。もう完璧に絵が描けるぐらい映像が浮かぶ。文体のおもしろさについて考えるとなぜ難しく書く必要があるのかという問いが出てきます。 作家は頭の中で考えたことを文字にし、それを読者が頭の中で再構築します。作者が思い描いたことを完璧に読者が頭の中で再現できれば、それは理想の形です。 公園で小学生がサッカーをしていて、高校生がいきなり入ってきたとします。その時の小学生の恐怖を描こうとしたら、例えば高校生の太い太股を細かく描写します。そうすれば、小学生の目線の位置や高校生の大きさ、それに対する恐怖を読者が再現する度合いは随分と違ってきます。そういう描写の線を増やすことによって文章はよりおもしろくなります。 読者は想像力があるから説明しすぎてもいけません。線を増やしたり減らしたり、作家は読者が文章をどう再現するかを考えながら、細かい仕掛けをしています。 例えば、登場人物の気持ちとして「悲しい」と書くとどうか。「悲しい」と書かずに、風景や別の心理描写で悲しいという気持ちを表現する。そうやって「悲しい」という言葉を避け、他の描写を重ねた上で出てきた「悲しい」という言葉はまた別の意味になってきます。 本の中に無駄な文章はひとつもありません。それは漫才の中に無駄な言葉があってはいけないのと同じです。無駄なおもしろさはあります。しかしそれは必要な無駄、仕掛けのための無駄です。 作者は意図を持ってその描写、表現をしています。僕達読者はそれを面倒くさいと思ったらもったいない。作者が何をやろうとしているのか、何を語ろうとしているのか、文体や描写も含め、1行目からワクワクしてもらいたいなと思うんです。ウーム、なかなかよくできた文章ハウツーになっていますね。つまりは、これだけの下積みがあってこその作家誕生なんでしょうね♪『夜を乗り越える』1『夜を乗り越える』2
2016.10.26
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図書館に予約していた又吉直樹著『夜を乗り越える』という本を、待つこと3ヶ月ちょっとでゲットしたのです。又吉さんの「愛書論の集大成」のような一冊だそうで・・・おおいに興味深いのです。【夜を乗り越える】又吉直樹著、小学館、2016年刊<「BOOK」データベース>より芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」「人間とは何か」を考える。また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の創作秘話を初公開するとともに、自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、文学に出会い、助けられ、いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、著者初の新書。<読む前の大使寸評>又吉さんの「愛書論の集大成」のような一冊だそうで・・・おおいに興味深いのです。<図書館予約:(7/11予約、10/22受取)>rakuten夜を乗り越える初めての出版あたりを、見てみましょう。p69~71 <初めての本『カキフライが無いなら来なかった』> 2009年6月、作家のせきしろさんと共著で初めての本『カキフライが無いなら来なかった』を出すことができました。 せきしろさんとはライブで一度ご一緒したのですが、最初は何度かご挨拶したことがあるくらいの関係性でした。その後、共通の知り合いの構成作家の方と一緒にご飯を食べたのですが、その場で「俳句や短歌は好きですか?」「短歌は五七五七七で長いけど、俳句は五七五で長くないですか」というような話になりました。じゃあ、尾崎放哉、種田山頭火という自由律俳句の人がいるという話になり、僕がこんなんですかと「カキフライが無いなら来なかった」と言ったら、笑ってくださったんです。 後から聞いたのですが、せきしろさんは大喜利や一発ギャグのライブで僕のことを見てくれていて、俳句や短歌に向いているんじゃないかと思って下さっていたらしいのです。 それまで、ネタにはならないけど、何か捨てられない言葉みたいなものをいっぱい書き留めていました。その言葉のシリーズには「タイトル」という名前をつけて、いつか単独ライブのタイトルにしようかと思いストックしていました。でも途中から、照れ隠しで「タイトル」という名前をつけているけど、実は自由律俳句のような言葉のネタを考えたくてやっていたんだと思います。 しばらくはひたすら自由律俳句を作り、お互いに送り合い、たまってきたところで、せきしろさんが尽力して下さり、出版社を見つけてきてくれて本にすることができました。 まったく世に出ていない僕のような芸人が、地味で先輩にもたいしてかわいがられないようなタイプの芸人が本を出すことができた。本を出すってやっぱり僕にはすごいことでした。しかも、せきしろさんというスペシャルなセンスの持ち主が選んでくれた。本当に大きなことでした。感謝しきれないです。 同時期に、小説家の西加奈子さんが短編集『炎上する君』の帯を書いて欲しいと言って下さったことも本当に大きなことでした。小説家の中村文則さんともお話しする機会を頂いたりと、こういう他ジャンルのとてつもない才能の人達が、僕の言葉なり表現なりを面白いと言ってくれたのは本当に大きな自信になりました。みなさんにとってはなんの得もない。恥ずかしくなりました。僕には何も恩返しできません。損得ではなく、ただ面白いと思って下さったということだけが本当に嬉しかった。
2016.10.25
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図書館で『絲的サバイバル』という本を手にしたのです。この本は、オートキャンプのエッセイ集となっているのですが・・・絲山さんは、クーペ・フィアットにキャンプ道具1式、食料を積み込み、一人でキャンプに繰り出すんだそうです。七輪を持って行くところが独特でんな♪【絲的サバイバル】絲山秋子著、講談社、2009年刊<「BOOK」データベース>より四の五の言わずに外に出ろ!さぁ、七輪持って出かけよう。『絲的メイソウ』に続くエッセイ第2弾は野宿。【目次】たったひとりでいたいのだ/窪地窪地、それと薪ったら薪/親愛なるステファニーへ。/キャンプは日常の延長なのだ/氷上デイキャンプ/キュウリと猫と宇宙人/大都会の小さなオヤジ世界/焚き火は蹴って育てろ!/嫁に行くなら六合村へ/野獣と椅子焼肉〔ほか〕<読む前の大使寸評>先ごろ読んだ『逃亡くそたわけ』が面白かったので、絲山秋子の作品を短期集中的に読んでいます。この本は、オートキャンプのエッセイ集となっているのですが・・・絲山さんは、クーペ・フィアットにキャンプ道具1式、食料を積み込み、一人でキャンプに繰り出すんだそうです。七輪を持って行くところが独特でんな♪rakuten絲的サバイバル近場のキャンプを見てみましょう。 <キャンプは日常の延長なのだ>p41~44 前回は静岡まで遠征したので今回は近場で、高崎市の社会教育施設である観音山のキャンプ場を予約しました。家からクルマで15分かそこらという、図書館にでも行くような気楽さです。 管理棟で住所を書くと職員さんたちの顔つきが変わりました。「えっ、なんでそんな近くから!?」クーペ・フィアット 怪しまれています。やっぱりです。クルマもナンバーもチェックされています。「すごいクルマですねえ」「なんで品川ナンバーなんですか」なんだかなあと思いつつ、「以前は東京に住んでまして云々」と申し上げる。でも、全然納得が得られない様子。 「一人で本当に大丈夫なんですか」と、深刻な顔つきで5回くらい聞かれる。おじさんたちと泊まるよりいいよ、とは言えない。「毎月やっているんです」と答えると、さらに不審の度合いが増す。「サークルかなにかですか?」一人はサークルとは言わないだろう。えーい面倒くさい、自己紹介こそしないけれど、「キャンプのレポートを書いているんですよ」と説明。さらに怪しさが深まる。 薪を4束くれと言うと、「そんなにいりません、2束で十分です」と言う。そんなら間を取って3束。「返品はできませんよ」大丈夫です。 そこで判明した驚愕の事実。予約するとき、薪があると言うのですっかり油断していたら直火禁止というではありませんか。慌てて市街地へクルマをとばし、アウトドアショップで焚き火台を買ってくる。住んでいる街だからこそこんなことも楽勝。もちろん渋滞もありません。 帰ってきて、オートキャンプサイトにクルマをつける。サイトは6区画。アスファルトの上に砂利を四角形に盛ってある。小さな分譲住宅風の敷地といったら褒め過ぎか、大きな公園墓地風の区画といったらひど過ぎか。ちょっと風情がないけど、まあそういうときもあるわな。 荷物を出していたら、スーパーカブに乗った職員さん登場。なぜかがらっと変わって対応がよくなっていた。まさかこの短い時間で「小説現代」の連載を読んだのか? 「絲山さーん、薪の場所、わかりましたかあ?」 「お湯、ポットに入れてもってきましょうかあ?」 「絲山さん、こっちも水出るようにしときましたからね」 「コーヒーか紅茶、飲みませんか?」 あのー、お気遣いは嬉しいんですが、そんなことしてたらキャンプが始まらないんですけど。 「6時までで帰っちゃうけどいいですか」 やだって言っても帰っちゃうくせに。この、思わせぶりな。 「管理棟開けておきますか?」 管理棟に逃げ込まなきゃいけないような凄惨な事件が起こるんですか、ここは。閉めて下さい、いつも通りで。 今回のテーマは「寒さ」。 の、つもりだった。前回静岡であたたかい思いをしたので、今回は真冬の群馬で寒さと闘う女っぷりを書きたかったのだ。女っぷりって単なる着膨れっぷりだけど。 ところがどっこい。あったかい。からっ風も吹いてない。ダウンジャケットなんて全然いらない。ジジシャツとセーターで十分だ。 いきなりテーマを見失ったまま、とりあえずコーヒーを沸かして飲む。テーマを見いだせないまま、テント設営。まーいっか、今回は適当で、と思いながら、ランタンのチェックをする。寒くもないのに買ってきた焚き火台を早速使ってみたくなる。折り畳んであるのを組立てると三角錐を逆さまにしたような形状になる。火をおこしてみて。こりゃあ薪は3束もいらなかったな、と思う。職員さん正解。 一人キャンプってなんなんだろう、と思う。家から椅子と調理道具持ってきて、メモ取って、ぼーとして、飯食って酔っぱらったら寝る。なにが日常と違うんだろう。なにやってるんだろう、と思う。その上毎月キャンプしていると体験の重さもないなあ。(中略) いただきものの下仁田葱を持ってきたので、七輪で焼いて酒のつまみにする。下仁田葱は鍋やすき焼きで有名だが、炭火で焼くのも旨い。焼いていると、水分がきゅうと押し出される音がする。小さな音だが、今までネギが焼ける音なんて意識したこともなかった。外は焦げ目がたっぷりついて、中は甘くてとろとろ。醤油をちかっとかけていただく。たまんねー。でもネギ三本も食べたらお腹いっぱい。『絲的サバイバル』1
2016.10.25
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図書館で『問題があります』という本を手にしたのです。この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。amazon問題があります小林秀雄賞受賞スピーチを見てみましょう。「文章に関しては根っからの素人」と謙遜しておられるが、いやどうして、ええでぇ♪ <小林秀雄賞受賞スピーチ>p188~189 このような立派な賞をいただきまして、世間も驚いたと思いますし、私が一番びっくり致しました。小林秀雄氏は立腹してくだまいているのではないかと思います。死んでくれていてありがとう。 中沢新一先生、その偉大なる知性の寛大さをもちまして、私の様なものと同列に並べられたこと、どうかお許しください。 このようなめでたい事は、それをはげみに先さらに努力フンレイするものと存じますが、何しろ、寄る年波でございます。それに皆様よくご存知の様に、この本は、誰のためにも何のためにも役に立たないものです。それでも本にしてくれた筑摩書房の土器屋さんに心より感謝致します。又、審査員の皆様、ふと我にかえって目を覚まさないでください。 私は絵本作家であります。絵本について何かを申されたら、いささかの自負もございます。しかし、文章に関しては根っからの素人で、自ら何かを書きたいとか書かねばならぬと思ったこともございません。本はたくさん読みましたが、誰かの影響を深く受ける教養の素地も受け取る能力もなかったのではないかと思います。 もしあえて言わせていただければ私がショウゲキを受けつづけた文章は山下清でした。しかし、私には生来のあの特異性の持ち合わせもありません。いつかあのように嫌々ながら作文を書き、素裸の肉体と同様直接の魂をこの世の風にさらす事が出来たらと夢見ています。 私には90歳の痴呆の母がおります。すでに、私を誰であるか認識することも出来ません。先日母のベッドに寝ころがって、「母さん、父さんは?」と聞きますと、「あら、私もうずっと何にもしてないわよ」と申しました。何にもとは何でありましょうか。母は七人の子を産みました。 母の人生を思うと私もすっかり疲れを感じました。「あ、疲れたね。母さんも疲れたでしょう、私も疲れたよ、一緒に天国へ行こうか、いったい天国はどこにあるのだろうね」と申しますと、「あら、わりとそのへんにあるらしいわよ」と声をひそめて答えました。 本日は本当にありがとうございました。『問題があります』1『問題があります』2
2016.10.24
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図書館で『新「ニッポン社会」入門』という本を待つこと半年でゲットしたのです。パラパラとめくると前作より写真ページも増えているし、かなりパワーアップしている様子でおます♪【新「ニッポン社会」入門】コリン・ジョイス著、三賢社、2016年刊<「BOOK」データベース>より10年ぶり、あの快作がパワーアップして帰ってきた。デビュー作『「ニッポン社会」入門』で、日本社会の本質を鮮やかに描き出したコリン・ジョイスが、再びその真相に深く迫る抱腹必至のエッセイ集。今回も、思いもよらないような発見と磨き上げられたユーモアが満載。目からうろこが落ち、へそが茶をわかすー日本論なら、この人におまかせ!<読む前の大使寸評>この本は待つこと半年でゲットしたのです。パラパラとめくると前作より写真ページも増えているし、かなりパワーアップしている様子でおます♪<図書館予約:(4/25予約、10/21受取)>rakuten新「ニッポン社会」入門日本人の好きな、村上春樹、カラオケというテーマで、ジョイス氏はやや否定的に述べています。p135~137 <13 お願いだから、ぼくにその話を振らないで> このところ、村上春樹がノーベル文学賞を受賞するかどうかをじっと待つのが年中行事のようになった。ぼくは日本でこれを数回経験し、外国人の村上ファンがカフェに集まって受賞の知らせを(あるいは知らせが来ないという結果を)待っているというニュースも見た。村上は世界的な現象だ。彼は、ぼくがイギリスとアメリカの電車の中でその作品を読んでいる人を目撃した唯一の日本人作家だ(文字どおりそうなのだ。漱石や大江や谷崎を読んでいる人は一度も見たことがないが、村上を読んでいる人を見かけたことは10回はある)。 けれども、ぼくは村上がわからない。友だちが以前、日本社会を理解する手助けになると言って『ノルウェイの森』をくれた。うんざりするほどセンチメンタルな小説だと思った。しかし、この作品はまだ物語として形を成している。ほかの作品は、謎の羊や失われた猫や、話のできるカエルや、「消失」したりパラレルワールドに迷い込んだりする主人公が登場する。たいていの作品はやたらと長い。 村上氏がなんらかの才能と、執筆に使うとんでもないスタミナを持っていることはわかる。けれども彼の大変な人気は、ぼくには理解できない。おそらくみんなは理屈に合わない物語と労力のかかる執筆スタイルと、説明のつかない神秘的な物語が好きなのかもしれない。ぼくはそうでないということだ。 ぼくはうまく歌えるようになりたい。もしそれに見合う声を持っていれば、上手にメッセージを伝えられるのにと思う古いアイルランドの歌がいくつかある。けれどもぼくはその声を持っておらず、だからぼくのひどい声でそれらの歌が歌われないことについて世界に感謝してもらっていいだろう。 友人のタカが、こう言ったことがある。僕が彼と同じ「反カラオケ派」だと知っての発言だ。「音楽が好きな人はカラオケが嫌い」 ぼくは初めて行ったときからカラオケが嫌いだった。本当はみんなが歌っている間にカラオケ店のまわりを歩いて、新しい友だちでも探そうかと思っていたのだが、ぼくらはひとつのグループとして部屋に押し込まれ、ドアが閉められた。順番に歌うことになっていて、友人たちはぼくが気の進まないふりをしていると思ったようだ。結局、ぼくはその場を去ることになった。ジョイス氏の前作『「ニッポン社会」入門』を紹介します。こちらの方がシニカルであるが、新旧どちらがおもしろいか?・・・甲乙つけがたいでぇ。【「ニッポン社会」入門】コリン・ジョイス著、日本放送出版協会、2006年刊<「BOOK」データベース>より日本社会について手っ取り早く学びたければ、近くのプールに行ってみることだ。規則と清潔さを愛し、我慢強く、大きな集団の悪事に寛容な国民性が理解できるはずだから。過剰なまでに礼儀正しく親切な人々、思ったより簡単で奥深い日本語、ガイドブックには載っていない名所の数々…。14年間日本に暮らす英紙記者が無類のユーモアを交えて綴る、意外な発見に満ちた日本案内。<読む前の大使寸評>著者の『新「ニッポン社会」入門』を図書館に予約し待っているのだが(5ヶ月待ち)まだです。でも、先に『「ニッポン社会」入門』を借りられて、ラッキーやで♪rakuten「ニッポン社会」入門「ニッポン社会」入門3byドングリ
2016.10.24
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図書館で『ビートルズを知らなかった紅衛兵』という本を手にしたのだが・・・紅衛兵を経験した著者が、その後、文革という激動期について記録し、日本語で著わすということ自体が・・・充分に現代史になっていると思うんです♪【ビートルズを知らなかった紅衛兵】唐亜明著、岩波書店、1990年刊<「BOOK」データベース>より両親は延安時代以来の幹部、10人の兄弟たち、13歳で始まった文化大革命、『人民日報』総編集長だった父親の投獄、ソ連との戦争に備える下放地での青春…。紅衛兵世代の青年が、はじめて日本語で書き下した50年に及ぶ家族の記録は、社会の激動と革命の実態をつぶさに明らかにした貴重な中国現代史でもある。<大使寸評>紅衛兵を経験した著者が、その後、文革という激動期について記録し、日本語で著わすということ自体が・・・充分に現代史になっていると思うんです♪amazonビートルズを知らなかった紅衛兵エピローグあたりを、見てみましょう。p348~356 劉少奇とチャウシェスクのおかれた状況は違うので、簡単に比べられるわけはないが、社会主義国の「革命」の激しさがうかがえよう。社会主義下の人民と体制の矛盾をどう解釈するかは、マルクスもレーニンもその方法を提起していない。毛沢東は文化大革命という巨大な試みを行い、数千万人の「紅衛兵」はまさに「民主化」の「先駆者」であった。しかし文革は失敗した。 本来、「民主」とは新しいスローガンではない。70年前の「五・四運動」以来、中国人民はそれを求め、闘ってきた。 ここで、『毛主席語録』を引用してみたい。「人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である」「大衆こそ真の英雄であり、われわれ自身のほうが、とかくこっけいなほど幼稚である。この点を理解しなければ、最低の知識さえ得られない」。中国革命の歴史、さらに中国の数千年の歴史はこれを証明している。紅衛兵を経験した私は、多くの疑問を持ちながら成長していきたい。 いまの30代後半から40代後半ぐらいの人々は、もう人生の安定時期を迎えているかもしれないが、あの嵐のような1960年中期から70年中期の出来事は、心を揺すぶり続けるであろう。世界中の青年たちがビートルズの歌を口ずさみ、ベトナム戦争反対を高らかに叫び、学生運動の赤い旗を振っていた頃、中国の青年は、雄壮な文化大革命の渦の中で格闘していた。同じ地球で生活していたのに、異なる歌をうたっていた。 どれだけの人が、あの激動の時代に貴重な青春を過ごしたことか。たとえ、各国の青年の行動には違いはあったとしても、一人一人の生い立ちは異なろうと、家庭の境遇はさまざまであろうと、人の世の喜びと悲しみは変わらない。私は自分を練磨した偉大な毛沢東時代に、深い懐旧の念を抱く。 父と母は、その青春を戦火の絶えなかった1930年代、40年代に送った。彼らの一生は、この年代から切り離すことはできない。私たちの世代は、いつまでも、揺れ動いた1960年代、70年代を忘れることはないであろう。この年代は私たちに限りなく大きな影響を与え、一生涯私たちについてくると思う。 あの過ぎ去った青春時代に、心の奥から歌をささげよう。(中略) 空が青い 涙がこぼれてくる 空が青いから 「オー アイ ビリーブ イン イエスタデイ」
2016.10.23
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図書館で『絲的サバイバル』という本を手にしたのです。この本は、オートキャンプのエッセイ集となっているのですが・・・絲山さんは、クーペ・フィアットにキャンプ道具1式、食料を積み込み、一人でキャンプに繰り出すんだそうです。七輪を持って行くところが独特でんな♪【絲的サバイバル】絲山秋子著、講談社、2009年刊<「BOOK」データベース>より四の五の言わずに外に出ろ!さぁ、七輪持って出かけよう。『絲的メイソウ』に続くエッセイ第2弾は野宿。【目次】たったひとりでいたいのだ/窪地窪地、それと薪ったら薪/親愛なるステファニーへ。/キャンプは日常の延長なのだ/氷上デイキャンプ/キュウリと猫と宇宙人/大都会の小さなオヤジ世界/焚き火は蹴って育てろ!/嫁に行くなら六合村へ/野獣と椅子焼肉〔ほか〕<読む前の大使寸評>先ごろ読んだ『逃亡くそたわけ』が面白かったので、絲山秋子の作品を短期集中的に読んでいます。この本は、オートキャンプのエッセイ集となっているのですが・・・絲山さんは、クーペ・フィアットにキャンプ道具1式、食料を積み込み、一人でキャンプに繰り出すんだそうです。七輪を持って行くところが独特でんな♪rakuten絲的サバイバル『小説現代』連載の第一回発売日(2006年12月)に合わせて行ったキャンプを見てみましょう。 <たったひとりでいたいのだ>p8~12 そういえば、昔は海水浴野郎で、5月の連休から9月の半ばまで海水浴に行ってました。一人でも往復400キロとか平気でドライブして日本海まで行ってたなあ。間違ってもダイビングとかじゃありません。普通に泳いで浜で寝るという、正統派海水浴です。七輪とクーラーボックスはその頃からの友。 テントや寝袋などは愛用のものがあるのですが、いかんせんこれまでのキャンプは人の装備にたかってばっかだったので今回買った品々は、ボンベやマントルなどの消耗品を除くと、ペグハンマー、グラウンドシート、大きいランタン、バーナー、トーチなどです。 今回のキャンプ地「サンコーハルナパーク」はその名の通り榛名山麓にあり、標高六百メートル。高崎市内の自宅からは50分くらいだけど、時間的には半分くらいが林道。市町村合併で高崎市になったばかりで、これを市内って言われてもなあー、という美しい山奥です。 林道からキャンプ場に入ればいきなりオフロード。車のお腹をすらないか心配しつつフロントへ行き、チェックイン。「今日は絲山さんしかいませんからどこのサイトでもいいですよ」やったあ。クーペ・フィアット その場で薪を購入。さすがに車が荷物で一杯で、しかもクーペって2ドアだから助手席に薪を積み上げることになる。カッコ悪い以前にかなり怪しい。大体オフシーズンに品川ナンバーの黄色いスポーツカーで女一人って、死体を埋めに来たか死にに来たかと思われても仕方ないっすよね。 手ごろな場所を見つけて車を停め、七輪とバーナーを並べれば台所完成。まずは椅子を出して一服。バーナーでお湯を沸かし、コーヒーを飲む。ここで忘れ物に気がつく。コーヒードリッパーの紙が四枚しかない。ってことは午後のコーヒーはこれ一杯で、その後はワイン飲むしかないってことね。上機嫌でテント設営。 テントはあるけどタープなんていう小賢しいものは持っていない。雨降ったときには確かに便利なんだろうけど、なんかタープって「蒲田5丁目町内会・交通安全週間」みたいでいやなのだ。 今年は熊による被害をニュースでよく聞くが、事実群馬県でも頻繁に出没している。一人キャンプの脅威といえば熊なのだ。そんなわけで、早々に熊よけ鈴を装着。立ったり座ったりするたびにリンリン鳴ってうるさい。『レ・ミゼラブル』に出てきた、修道院の女性と出会っちゃいけないから鈴つけてる庭番みたいです。いっそ熊が鈴をつけてくれた方が早いんだが、どう考えてもここ2キロ四方くらいじゃ熊人口の方が多いので、多数決で私がつけます。 とりあえず明るいうちに焚き付けになりそうなものを拾って歩く。枯れ草とか小枝とか、そんなやつです。雨のあとで多少湿気てるけれど、結構たくさん集まったので多分明日の朝まで大丈夫。古い原稿や掲載紙なんかも持ってきた。自分の文章や自分の記事を燃やすのってかなり気分がいいんですわ。なんでかわからないけれど。今度やりたいのは自分の本の焚書。愛着? んなもんありません。今やってる小説のことしか考えてないから読み直しもしないし、年に三冊ずつ出してりゃ邪魔なんですよ、読者の皆さまには申し訳ないけど。 四時だ。ワインだ。飲む前にまず、骨付きラム肉のつけ汁を作る。簡単です。赤ワイン、瓶詰めのトマトとバジルのソース、醤油、すり下ろしにんにく、ウスターソース、これらをジップロックに入れて骨付きラム肉をつけこみます。ワインを開けるときに失敗してコルクをちぎってしまった。ってことは全部飲まなきゃいけないってことですね。夜になったらワインなんて寒いので明るいうちにしっかり飲もう。 管理人さんが二度も軽トラでやってきて入念に見回り。大丈夫っす。死体捨ててないっすから。首も吊ってないっすから。絲山さん オートキャンプにかけては、かなり年期が入っているようですね♪この記事も絲山秋子ミニブームに収めておくものとします。
2016.10.23
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図書館で『ダーリンは70歳』というマンガ本を待つこと5ヶ月半でゲットしたのです。この金満バカップルは揃いも揃って元気であり、話題提供も事欠かず・・・アホというか、何というかご立派でんがな♪この本の一部を見てみましょう。金満バカップル【ダーリンは70歳】西原理恵子著、小学館、2016年刊<出版社情報>より素敵に齢をとって生きたいカップルへ! 美容整形界の第一人者で高須クリニック院長である、高須克弥氏・70歳。そしてコミック界の最終兵器、西原理恵子氏・50歳。二人合わせて120歳の熟年バカップル漫画。いくつになっても愛と人生を語り続けます! <読む前の大使寸評>この本は待つこと5ヶ月半でゲットしたのです。この金満バカップルは揃いも揃って元気であり、話題提供も事欠かず・・・アホというか、何というかご立派でんがな♪<図書館予約:(5/11予約、10/21受取)>rakutenダーリンは70歳この記事も鳥頭ワールドR1に収めておくものとします。
2016.10.22
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・ダーリンは70歳・新「ニッポン社会」入門・絲的サバイバル<大学図書館>・ビートルズを知らなかった紅衛兵図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【ダーリンは70歳】西原理恵子著、小学館、2016年刊<出版社情報>より素敵に齢をとって生きたいカップルへ! 美容整形界の第一人者で高須クリニック院長である、高須克弥氏・70歳。そしてコミック界の最終兵器、西原理恵子氏・50歳。二人合わせて120歳の熟年バカップル漫画。いくつになっても愛と人生を語り続けます! <読む前の大使寸評>この本は待つこと5ヶ月半でゲットしたのです。この金満バカップルは揃いも揃って元気であり、話題提供も事欠かず・・・アホというか、何というかご立派でんがな♪<図書館予約:(5/11予約、10/21受取)>rakutenダーリンは70歳【新「ニッポン社会」入門】コリン・ジョイス著、三賢社、2016年刊<「BOOK」データベース>より10年ぶり、あの快作がパワーアップして帰ってきた。デビュー作『「ニッポン社会」入門』で、日本社会の本質を鮮やかに描き出したコリン・ジョイスが、再びその真相に深く迫る抱腹必至のエッセイ集。今回も、思いもよらないような発見と磨き上げられたユーモアが満載。目からうろこが落ち、へそが茶をわかすー日本論なら、この人におまかせ!<読む前の大使寸評>この本は待つこと半年でゲットしたのです。パラパラとめくると前作より写真ページも増えているし、かなりパワーアップしている様子でおます♪<図書館予約:(4/25予約、10/21受取)>rakuten新「ニッポン社会」入門【絲的サバイバル】絲山秋子著、講談社、2009年刊<「BOOK」データベース>より四の五の言わずに外に出ろ!さぁ、七輪持って出かけよう。『絲的メイソウ』に続くエッセイ第2弾は野宿。【目次】たったひとりでいたいのだ/窪地窪地、それと薪ったら薪/親愛なるステファニーへ。/キャンプは日常の延長なのだ/氷上デイキャンプ/キュウリと猫と宇宙人/大都会の小さなオヤジ世界/焚き火は蹴って育てろ!/嫁に行くなら六合村へ/野獣と椅子焼肉〔ほか〕<読む前の大使寸評>先ごろ読んだ『逃亡くそたわけ』が面白かったので、絲山秋子の作品を短期集中的に読んでいます。この本は、オートキャンプのエッセイ集となっているのですが・・・絲山さんは、クーペ・フィアットにキャンプ道具1式、食料を積み込み、一人キャンプに繰り出すんだそうです。七輪を持って行くところが独特でんな♪rakuten絲的サバイバル【ビートルズを知らなかった紅衛兵】唐亜明著、岩波書店、1990年刊<「BOOK」データベース>より両親は延安時代以来の幹部、10人の兄弟たち、13歳で始まった文化大革命、『人民日報』総編集長だった父親の投獄、ソ連との戦争に備える下放地での青春…。紅衛兵世代の青年が、はじめて日本語で書き下した50年に及ぶ家族の記録は、社会の激動と革命の実態をつぶさに明らかにした貴重な中国現代史でもある。<大使寸評>紅衛兵を経験した著者が、その後、文革という激動期について記録し、日本語で著わすということ自体が・・・充分に現代史になっていると思うんです♪amazonビートルズを知らなかった紅衛兵***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。ちなみに、予約本の受取については、予約分受取目録R1として収録し、2度借り防止に努めております♪図書館大好き178
2016.10.22
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図書館で『世界は終わりそうにない』という本を手にしたのです。高野秀行つながりということで、『ポケットに物語を入れて』と合わせて借りたのです。【世界は終わりそうにない】角田光代著、中央公論新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より愛すべき、私たちのしょっぱい日常。恋愛の苦み、読書の深み、暮らしの滋味…膝を打ちたい気分で人生の凸凹をあじわうエッセイ集。【目次】1 膝を打ちたい気分((笑)の救い/「くん」コンプレックス ほか)/2 あれ食べよう、これ食べよう(記憶味覚/私のごちそう ほか)/3 物語というもの(対談ー旅とボクシングとハードボイルド(船戸与一×角田光代)/対談ー映画『八日目の蝉』が見た世界(成島出×角田光代) ほか)/4 恋愛じゃなきゃできっこない(お金と恋愛/自分を磨きたいと思ったことはありますか? ほか)<読む前の大使寸評>高野秀行つながりということで、『ポケットに物語を入れて』と合わせて借りたのです。rakuten世界は終わりそうにない村上春樹は走る作家として知られているが、角田さんもかなり走っているようです♪角田さんはフルマラソンを6度も走ったそうだが、そのあたりを見てみましょう。 <つらいのに>p42~44 ちっとも好きではないのに、なぜかつらいことを進んでやっていることがある。私の場合はランニングである。走るのはちっとも好きになれないが、なんとなくはじめてしまったのでやめることができず、今も毎週末に走っている。そればかりか、フルマラソンまでやるようになった。12月は6度目のフルマラソンに参加する。 40キロ以上走るのはつらい。本当につらい。身体的、精神的つらさを今もありありと思い出すことができる。でも、やる。好きだからではない、やらなければ練習しなくなるからだ。趣味なんかではない、義務だ。でも、なぜ仕事でもないのに、自分に義務を課す必用があるのか?そこのところは考えてもわからない。 つらいとは思わずにやってみて、つらかったと気づくこともある。それはたとえば富士山だ。友人たちと飲みながら、富士山に登ろうともりあがった。まだ世界遺産に登録されていないころだ。それで、登ったのだが、驚くほどつらかった。たのしいことなどひとつもなかった。景色は見えず、友人とははぐれ、岩場は歩きづらく、日の出は雲に隠れて見えず、頂上までは渋滞の行列で、くだりはすべって転びやすい。 頂上でみやげものやラーメンなどを売っているのだが、その売店の賑わいを見たときは愕然とした。こんなにつらい思いをして必死に登ってきた先に、何があるかといえば富士山のペナントや絵葉書やラーメンを売る店なのである。 つらかったという思いは、薄まらず美化もされず、消えない恨みのように未だに私のなかにある。フルマラソンのほうがまだ楽だ、と思いながら登っていた。フルマラソンはまだ続けていて、富士山は二度と登ろうと思わないのだから、やはり数倍つらかったのだ。今もフルマラソンを走っていてつらいとき、富士山に比べればまだましだ、と自分を励ます。 しかしその比較にどんな意味があるのだろうと考えて、これもまたよくわからない。どちらも、べつにやらなくていいことなのだ。そして私はそのどちらにも、よろこびも達成感を見出していない。 そしてまた、気がつけばつらいことをはじめてしまった。山のなかを走る。トレイルランである。3年ほど前、友人に誘われた。トレイルランなんて、私にできるだろうかと思いながら友人と走った。もちろん友人が選んでくれたのは初心者コースで、ペースもゆっくりだった。それから幾度か友人と近隣を走った。(中略) トレランは、ロードと違ってずっと走っているわけではない。もちろんプロの人およびそれに類する人はどんな急な上り坂でもターッと走る。けれどふつうの人は上りや急な下り坂、足場の悪い場所は歩く。とはいえ、休憩なしでずーっと走ったり歩いたりする。 上りが本当につらく、脚が上がらず、10キロを過ぎたところで、なんとか脚を前に進めながら「これが限界だ」と思っていた。15キロが限界。これ以上は無理だ。そのくらいつらかった。 そのつらさを忘れたわけではない。富士山同様、今もありありと残っている。なのにそれから1年たって、たまたま23.54キロの大会を見つけてしまった。しかも家からわりと近い場所で開催される。私にもできるだろうか、まあ、無理だったらリタイヤすればいいやと思い、エントリーしてしまった。角田さん今度はトレランですか・・・・わりと体育会系なのが、ええでぇ♪『ポケットに物語を入れて』1
2016.10.21
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図書館で『宮本常一とあるいた昭和の日本23』という本を手にしたのです。シリーズ本23のテーマは、「漆・柿渋と木工」となっていて・・・大使のツボでんがな♪【宮本常一とあるいた昭和の日本23】田村善次郎監修、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。<読む前の大使寸評>シリーズ本23のテーマは、「漆・柿渋と木工」となっていて・・・大使のツボでんがな♪amazon宮本常一とあるいた昭和の日本23須藤護氏のレポート「越前漆器を訪れる」で木地屋のくらし見てみましょう。p171~173 <木地屋のくらし> 周囲の山々の紅葉はすでに色あせて、民家の背後に、そして比較的なだらかな山の斜面に植えられたスギやヒノキが、緑色をはっきりと浮き出させていた。昭和60年、車窓から見る越前の景色は、すでに冬の到来を告げていた。 福井から約1時間で大野盆地に入る。4万石の城下町大野の東方には両白山地が高くそびえ、その裾野のあたりまでうっすらと雪化粧しているのが見える。 越美北線は昭和41年の電源開発によってつくられた九頭竜湖駅が終点であるが、私はいったん越前大野駅で降りることに決めていた。大野には漆器の産地として知られる越前河和田や加賀の山中へ送り出す木地の工場があることを聞いていたからだ。大野市の市史編纂室を訪ねて概況をうかがったあと、室長の田中先生に案内されて桜井木工所を訪ねた。 市役所への途中に出会った人や、市史編纂室でたずねても、木地工場の現状は具体的にはわからなかった。そのとき田中先生が「桜井さんの所ならまだやっているかもしれない」といって案内してくれたのだが、このひと言で大野とその周辺の木地業が、この地方の産業の主役の座を、すでに降りていることを感じた。そして北陸の初冬の空のように、何か暗い、重くのしかかってくるものがあった。 後に聞いた話であるが、越前大野には桜井木工所のほかに丸裕、笹島木工所、山口製材所といった木地工場があり、このほかにも数軒の工場があったが、近年閉鎖したという。プラスチックやその他の製品におされて、工場の経営も楽ではないとのことであった。 幸いなことに桜井木工所は御主人の桜井武さん(昭和2年生)と弟さん、息子さん、そして奥さんの4人で作業していた。典型的な家族労働である。 その夜、話をうかがった桜井さんは、年のわりには昔の木地屋の生活をよく知っていた。子供の頃に両親とともに山に入り、両親の仕事ぶりを見て過ごした体験があったからだ。また母親のスエさん(明治38年生)も話をしてくれたので、いっそう山の暮らしを頭の中に思い描けるようになった。(中略) 木地屋の集団には親方とよばれる人がいた。親方は地元の山主から、この地方の木地の原木であるトチ、ケヤキ、ミズネが多く自生している山を買い、その山に職人を入れて木地を挽かせるとともに、若い職人の養成もしたようである。 親方は加賀の山中の出身者が多く、スエさん夫婦も最初のころは山中の親方についていたという。 スエさん夫婦が入った山は、主として岐阜県境に近い旧上穴馬大谷、久沢、上伊勢、下伊勢の山で、そのすぐ北には平家岳、左門岳、屏風山などの1300~1400メートル級の山が連なり、その名のごとく屏風のようにそそり立っている。大谷、久沢、上伊勢、下伊勢といった村むらは、山仕事と農業、峠越えの物資輸送などで生活をたててきた山村である。木地屋はそこから1里ほど離れた山中に、小屋を建てて生活の拠点にした。 木地屋が活動する範囲は、1里という距離が基準になっていたようである。木地屋が住居兼仕事場にしていた小屋を一般に木地小屋というが、この小屋から半道(2キロメートル)の範囲に原木がなくなると、また木のある場所に移っていく。木地小屋を中心に半径2キロ、つまり直径1里の範囲になる。 この距離は原木や木地椀の運搬と密接に関係しているようで、福島県会津地方でも同じような傾向がみられた。 木地屋の生活の場も仕事場も山であった。古くは家族ともども年間通しての山暮らしであったが、越前地方では次第に里山や大野市に降り、春から秋までの雪の降らない間だけ山に入るようになったようである。スエさん夫婦も結婚した当初は、冬期間も山を降りなかったというから、大正時代の後期ごろまでは山から山へ渡り歩く木地屋の姿があったとみられる。『宮本常一とあるいた昭和の日本23』1
2016.10.21
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図書館に予約していた『料理の起源』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。このところ、中尾佐助氏の著書をフォローしているのです。まあ、ツボなんでしょうね♪【料理の起源】中尾佐助著、吉川弘文館、2012年刊<商品説明>より全世界の家庭で日常行なわれている食糧の加工・料理に、初めて学問的なメスを入れる。日本の食文化の「深層」に迫った名著!<読む前の大使寸評>このところ、中尾佐助氏の著書をフォローしているのです。まあ、ツボなんでしょうね♪<図書館予約:(10/04予約、10/08受取)>amazon料理の起源食肉の歴史を見てみましょう。 <食肉の変遷と発達>p114~118 食用の肉類の給源は、歴史時代に大きく変遷、発達をとげている。日本の王朝時代から徳川時代まで上等の食事には野獣、野鳥は供されていたのに、家畜の肉はそうでなかった。鶴の肉は上等なものだったのに、ニワトリは日本には弥生以来飼われていたが、その肉料理は避けられていた。殺生禁断が仏教のイデオロギーの下に発せられ、それが家畜に適用されてきていた。日本で牛馬が表だって食べられるようになったのは、明治の開化以後であることはよく知られている歴史である。 このことは古来肉食で知られたヨーロッパにも相当あてはまる。ただしヨーロッパには肉専用の家畜であるブタとヒツジがあった。ヒツジは採毛は副産物であって、採毛用のヒツジ品種、例えばメリノー種のようなものが普及発展したのは、近代のことに属する。中国でもインドでも、西アジア、アフリカでも、ヒツジは至る所で肉用の動物であって、採毛は、ヒツジの採乳とならんで副産物である。ヨーロッパで問題はウシとニワトリの肉である。 ヨーロッパでは近世にいたるまで、ウシは農耕用の駄獣であり労役獣であった。そこでは牛肉も牛乳も副産物であった。時として勝手な牛の屠殺は死刑が課せられた。その状態は今日の中国やインド、西アジアと事情がかなり共通する。そして中国やインド回教徒では牛肉は劣等な肉とされ、ヒンズー教徒にはタブーである。牛肉や牛乳を供給するのを主目的として牛を飼育することは、ヨーロッパではごく最近の発達であって、当然牛肉の地位の向上はごく最近のことである。 ニワトリに関しても事情はやや似ている。ニワトリは古来旧世界に全般的(遊牧民を除いて)にひろがったが、その飼養目的は主に愛玩具、闘鶏用であった。卵と肉は副産物にしかすぎない。ニワトリがその卵、肉をもって人間の基本的食糧の中に関与しはじめたのは近代のことだ。それはあとで述べることにしよう。 人類生活史的な立場にたってみると、人間の肉類の給源はまずはじめに狩猟の獲物であった。人類史は採集狩猟の段階から、農耕の段階に入り、家畜もそれに伴って出現していることは考古学的にもよく知られた事実である。現在の世界にもごくわずかながら、採集狩猟民が残存している。エスキモーはその代表の一つで、生肉を食べることで有名である。他にオーストラリアや、東アジアの局部、アフリカなどに少数ながら残存している。このほか、狩猟が生活の一部をになう社会を形成している民俗はさらにひろく存在している。 多くの場合、こうした経済生活のための狩猟の対象をみると、小形獣やサルまでが対象になっており、文明国人には食欲を失わせるような動物まで肉の利用をしている。それが、農耕の方がはっきり発達した社会になると、狩猟は漸次スポーツ化して、大動物や大型の鳥を対象にするようになる。その中間段階ではどうだろう。 14世紀の書『パリの家畜飼養場』の著者は当時のパリ市場が常に最良の食物を充分に供給したかのごとく書いているが、食用家禽の中に、鶴、野雁、サンカノゴイ、鵜などを含めている。これは当然狩猟により獲得されたものである。ゴイサギ、鵜などの肉は、今日では誰も見向きもしないが、大形の鳥で食料としては能率がよいだろう。狩猟が経済の一翼となっている社会では、こんな肉が食べられていたのである。 家畜の肉を給源とするようになると、こんどは肉のみならず、血、内蔵までの全面的利用をする食べ方の発達がある。このことに関しては私はモンゴル族の、ヒツジの殺し方からはじまった内臓利用法には強い感銘を受けた。(中略) 肝臓、心臓、腎臓などは、それぞれよい料理材料となることは西欧の場合と同様とも言えよう。不味な肺もゆでて食べられる。変わった肉は雌のときの乳房だろう。頭は切り落とされて、直火でゆっくりと皮を焼いて、入念にけずり出すと、一つの頭で西洋皿二杯分の肉が出る。脳も骨髄も食べられてしまう。実に羊一頭まるまる、徹底的に食べてしまうのである。残るのは皮と骨と胃袋だけである。胃袋はバター油の容器などの別の用途がある。『料理の起源』1
2016.10.20
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「女性作家」でしょうか♪<市立図書館>・忘れられたワルツ・妻の超然・ポケットに物語を入れて・世界は終わりそうにない・問題があります<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【忘れられたワルツ】絲山秋子著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>より地震計を見つめる旧友と過ごす、海辺の静かな一夜(「強震モニタ走馬燈」)、豪雪のハイウェイで出会った、オーロラを運ぶ女(「葬式とオーロラ」)、空に音符を投げる預言者が奏でる、未来のメロディー(「ニイタカヤマノボレ」)、母の間男を追って、ピアノ部屋から飛び出した姉の行方(「忘れられたワルツ」)、女装する老人と、彼を見下ろす神様の人知れぬ懊悩(「神と増田喜十郎」)他二篇。「今」を描き出す想像力の最先端七篇。<読む前の大使寸評>先ごろ読んだ『逃亡くそたわけ』が面白かったので、絲山秋子の作品を短期集中的に読んでいます。amazon忘れられたワルツ【妻の超然】絲山秋子著、新潮社、2010年刊<「BOOK」データベース>より文学がなんであったとしても、化け物だったとしても、おまえは超然とするほかないではないか。「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」を収録した異色の三部作。<読む前の大使寸評>先ごろ読んだ『逃亡くそたわけ』が面白かったので、絲山秋子の作品を短期集中的に読んでいます。rakuten妻の超然【ポケットに物語を入れて】角田光代著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より本は、開くとき、読んでいるときばかりではなく、選んでいるときからもう、しあわせをくれるのだ。まるで旅みたい。読書という幸福な時間をたっぷりつめこんだエッセイ集。<読む前の大使寸評>文庫本の書評集というふれこみであるが・・・開高健、池澤夏樹、佐野洋子、三浦しおん、東海林さだお等々、大使好みラインナップであり、なにより、最近読んだ高野秀行著『アジア新聞屋台村』が載っているのが、ええでぇ♪amazonポケットに物語を入れて『ポケットに物語を入れて』2byドングリ【世界は終わりそうにない】角田光代著、中央公論新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より愛すべき、私たちのしょっぱい日常。恋愛の苦み、読書の深み、暮らしの滋味…膝を打ちたい気分で人生の凸凹をあじわうエッセイ集。【目次】1 膝を打ちたい気分((笑)の救い/「くん」コンプレックス ほか)/2 あれ食べよう、これ食べよう(記憶味覚/私のごちそう ほか)/3 物語というもの(対談ー旅とボクシングとハードボイルド(船戸与一×角田光代)/対談ー映画『八日目の蝉』が見た世界(成島出×角田光代) ほか)/4 恋愛じゃなきゃできっこない(お金と恋愛/自分を磨きたいと思ったことはありますか? ほか)<読む前の大使寸評>高野秀行つながりということで、『ポケットに物語を入れて』と合わせて借りたのです。rakuten世界は終わりそうにない世界は終わりそうにないbyドングリ【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。amazon問題があります『問題があります』2byドングリ***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き177
2016.10.19
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図書館で『問題があります』という本を手にしたのです。この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。amazon問題があります洋子さんの読書遍歴を見てみましょう。 <本の始末>p119~122 私は趣味が何もない。 多少は運動をして身体をきたえねばと思った事もある。テニスを始めた日、顔をめがけて来たボールをラケットで受けたら、顔面にラケットのガットの格子がもち焼きあみみたいに、ベッタリと印刷された様に残り、周りの人間が大変喜んだ。私はラケットをまじまじと見つめてコートを後にした。スキーに一度だけ行ったことがある。斜面を下へすべろうとすると何故か私は後向きに斜面をずり上がって行った。不思議な才能があるものである。 ビデオ屋で一度に7本のビデオ映画を借りて二日で見てしまうが、私はどうしても役者の名前を覚えられない。ハリソン・フォードとケビン・コスナーの区別がつかない。老化が進んでますます難儀であるが、数は増えても映画マニアと話が合わせられるほど頭の中が整理されていない。で、子どもの時から寝っころがって本ばかり読んでいた。(中略) 初めての給料で『リルケ全集』の一冊を手に入れ、毎月、小さな銀色に光る紫色の本を一つずつ増やしていった時の嬉しさは忘れない。それでも好きな本を好きなだけ買えなかった。私は古本屋をうろついた。中野の古本屋の小父さんは高いところの本を指さすと「あんな高いところのもんはめんどくせえ」と売る気がなかった。 アレキサンドリア四部作はその店で買った。 同じ店で、日本怪談全集の第4巻も手に入れた。他の巻は無かったのだ。 『ファニー・ヒル』が発禁になった日、私はその店へ早朝にすっとんで行った。発禁になったイヤラシイ部分だけを読みたかったのだ。小父さんは「あんなものを売ったら、私の手が後に回る。あんたみたいな若い女の子が読むもんじゃない」と私の品性を見抜いた。小父さんは更に言った。「日本で出ているのは、原作の三分の一しか訳していない。あの本を最初に訳したのは鎌倉のお医者で戦前にすでに訳されている。発禁になっているものなんざあ、骨抜きになっているもんだ。アンタ、どうしても読みたかったら羽田の本屋に行きな、原書がある。黄色い表紙だ、何、たいして難しい英語じゃねェーよ」と大変にくわしいのだった。 そして、家の中に入って「ホレ、うちで買ったって言うんじゃねェーよ」と、発禁本を持ち出して売ってくれた。私のせまいアパートに本棚が少しずつ増えていった。その頃まで、私は本を捨てるなどと考えもしなかった。 何しろ趣味の無い人だから、本ばかり増えていった。 家を建てる時、崖下を掘って書庫を作った。それでも本は増え続けた。その書庫に入って来た人に「下らない本ばっか並べちゃって」とせせら笑われた。当たり前だ、『野口英世』と『六本指の男』とカストリ雑誌が一緒くたの人間だ、中身が上等であるはずがない。 趣味もなく酒ものまない私は本くらい好きに買えるようになった。本は増え続ける一方である。私は古本屋にダンボールにつめた本を売りに行った。 「マンガ本と文庫本だけは買うよ」と言われ、他の本は明らかに迷惑そうであり、ほとんど金を払ってくれなかった。 考えてみれば、私は研究者でも教養人でもない。本を残しても、読んだ本をもう一度読むことはほとんどないことに気がついた。 本当に必要な時は図書館に行けばいいのだ。私は読み終わると、友達に、「この本あげる、返してくれなくてもいい」と言うようになった。すると友達も自分の本を「この本あげる、返してくれなくてもいい」と言う。「置くところ無いんだもん」と同じなのだ。 「この本は返してね」と言われる本は、私も返したくない本だったりする。 私は活字さえ読んでいればいいのだと気がついた。若いもんがウォークマンを聞きっ放しと同じ、バックグラウンド・ミュージックみたいなのだ。 読んでも次から次へとすぐ忘れる。それに本は読んでみないとわからない、十冊読んでも「ああ読んでよかったなあ」と思う本より、「マ、一応読んだか」か「ああ金損したなあ」と思う方が多い。 1年に1冊「ああ素晴らしい、世の中はやっぱり限りなく美しい、生きていてよかった。この本は人に貸すのも惜しい」という本に行きあたれば運がいい方なのだ。このごろは3年に1冊位かも知れない。『問題があります』1
2016.10.18
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ただいま~♪ 神戸に帰ってきました。日記の空白を埋めたいので、17日にバックデートして書き込みします。 <問題があります>図書館で『問題があります』という本を手にしたのです。この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。【問題があります】佐野洋子著、筑摩書房、2009年刊<「BOOK」データベース>より中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。<読む前の大使寸評>この本は、以前に一度借りたような気もするが・・・ま いいか。amazon問題があります美空ひばりにことよせて、洋子さんの生きた時代を見てみましょう。ちょうどまるまる昭和史のような時代だったようです。 <まるまる昭和>p60~62 美空ひばりは昭和12年生まれで私は13年生まれである。私は彼女と同じ時代を生き、美空ひばりはまるまる戦後の昭和を生き死んだ。私は美空ひばりが死んだとき昭和は終わったと思った。昭和天皇が死んだから終わったのだが天皇よりも美空ひばりのほうが、しみじみ私に密着した昭和であった。昭和が終わったとき、私もほぼ人生が終わったのだと思い、平成はおまけだと認識した。 私は才能のない美空ひばりであった。 美空ひばりは子どものころから一家を支えていたから、彼女は20のときは大金持だった。20のとき、私は貧乏人だった。貧乏は別に悪いものでもなかった。私は卒業して給料をもらえばとにかく生きてゆけると楽しみにしていた。給料をもらったが、別にじゅうぶんではなかった。片親から金をもらう事が終わった、開放感と自由が、なにより嬉しかった。 就職したのが、日本橋のデパートの宣伝部だった。 店の前を左手に歩いてゆくと銀座だった。私の勤め先の少し先にもデパートがあり、その宣伝部にも友達が勤めていた。 私は閑だった。ふらふらと隣のデパートの宣伝部にしょっちゅう行っていた。行くとそこも閑らしくデザイナーが電話帳をパッと開いて、かけをしていた。忙しいときはデザイン室は火事場のようだった。 月給は1万3千円で、アパート代が8千円だったからやっぱり貧乏だった。友達のかけの仲間に入れてもらい、また通りに出ても閑なので、ふらふらと歩いていると、少し年上の従姉にばったり出会った。従姉は丸の内の大きな保険会社に勤めていた。 「あんた、ちょっと来なさい」と私を丸善に連れて行った。私は丸善にもよくふらふらと行ったが、本しか見なかったので、丸善に洋服売り場があるのを知らなかった。従姉は目のさめるようなエメラルドグリーンのセーターとカーディガンのアンサンブルを買ってくれた。夢かと思った。 何十年もたって従姉は、「だってあっちからみすぼらしい女の子が来て、傍に来たら洋子ちゃんじゃないの。もうかわいそうになっちゃってさぁ」。 あのあざやかなセーターは輸入物だったと思う。私は自分では別にかわいそうだと思っていなかった。が、今思い出すと本当にかわいそう。かわいそー。 従姉の情けと気っぷの好さに泣きそうになる。それはずっと私のよそ行きになった。その年の冬だった。私はオーバーをつくった。 オーバーがなかったのだ。古いダッフルコートをずっと着ていた。張り切った私は真っ赤な本当に火のように赤いコートをつくった。帽子のデザイナーの友達が残った布で帽子をつくってくれた。真っ赤なほうずきのように、てっぺんがとんがっている帽子だった。 全身真っ赤で、私は得意だった。 するとまた、従姉にばったり出会った。 「あんときは驚いたわ。そこだけ火事みたいな人が居るじゃない。そこだけとび出して見えたのよ。近くに寄ったら洋子ちゃんじゃない、まぁー驚いたわ」 従姉には乞食が突然トップモードの女に変身したみたいに思えて、中間の無い人だと思ったと言った。 私達は日本の経済成長と共に生きて来たのだと思う。美空ひばりは歌っていた。ずっと。 そのころ、学校のときはうす汚いセーターを着ていた隣のデパートの友人は、ピッタピッタの背広を着ていた。どこもそこもピッタピッタの細身のスーツである。それが、あの時代のトップモードだったのだ。ネクタイも細かった。あの男にも中間がなかったような気がする。 私は美空ひばりと同じ日に結婚した。そして、子どもを産んだ。私が妊娠した年はミニスカートが流行りだした。私の妊婦服はとんでもないお尻が見えそうなミニスカートののだった。家もアパートから団地に住んだ。そしてその2,3年前には車も持った。スバル360の最初のモデルだった。 意識より、物のほうが先行していた。私達の年齢の人達は十年前に自分が車を所有するなんて誰も思わなかったと思う。そのように日本は人間が追いつかないほど、経済成長をつづけていたのだ。 美空ひばりはずっと歌っていた。心をこめて歌っていた。子どもが4,5歳になったとき、私は絵本づくりでなんとか食えるようになった。美空ひばりは流行とはなんのかかわりもない、ごってごての金らんどんすで美空ひばりの衣装をつけて日本中の人のために歌っていた。 私はせわしなくはためく、今見ると信じられないパンタロンをはいたり、先のとんがった靴をはいたりしていた。 私も離婚したりまた結婚したりまた離婚したり、子どもがぐれたり家を建てるときサギにかかったりしたが、明日の米がないという事はなかった。少しずつ少しずつ物資が豊富になることは、ありがたいと思うより、なんとなく当たり前と思うのだった。成り金になったのに成り金の自覚がないのだった。バブルさえ当たり前に思ったらしい。 そして美空ひばりの東京ドームの最後のコンサートがあった。私は美空ひばりの良いファンではなかったが、ひばりはこれが最後だろうと思って、無理してチケットを手に入れた。美空ひばりはすごい人だった。あの人には個人というものがなくて全身天才のひばりの固まりだった。私がものごころついたときの歌、例えば「東京キッド」から「川の流れのように」まで、どの歌のときも私はときも私はその時代を共に生きてきたという深い思いがあった。 そしてひばりは真っ赤な火事のようなドレスをひきずって消えた。そしてやがて死んだ。死んだとき、まるまる死んだと思った。
2016.10.17
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図書館で『ポケットに物語を入れて』という本を手にしたのです。文庫本の書評集というふれこみであるが・・・開高健、池澤夏樹、佐野洋子、三浦しおん、東海林さだお等々、大使好みラインナップであり、なにより、最近読んだ高野秀行著『アジア新聞屋台村』が載っているのが、ええでぇ♪【ポケットに物語を入れて】角田光代著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より本は、開くとき、読んでいるときばかりではなく、選んでいるときからもう、しあわせをくれるのだ。まるで旅みたい。読書という幸福な時間をたっぷりつめこんだエッセイ集。<読む前の大使寸評>文庫本の書評集というふれこみであるが・・・開高健、池澤夏樹、佐野洋子、三浦しおん、東海林さだお等々、大使好みラインナップであり、なにより、最近読んだ高野秀行著『アジア新聞屋台村』が載っているのが、ええでぇ♪amazonポケットに物語を入れて東海林さだお著『ホットドックの丸かじり』を見てみましょう。 <ああ、食べたい>p244~247 この『ホットドックの丸かじり』にも鯛茶漬けのレシピがのっているが、ほかの本それはいろんなレシピがのっている。塩らっきょうや、ラーメンスープや、クサヤまで。私は実際にいくつかを教わったまま作り、ちょっとびっくりした。かんたんで、おいしかったからである。 そして思ったのだ、こんなにおいしいものを自分で作ってしまう人の舌はさぞや肥えているに違いない。それによくよく読んでみれば、作者の舌が的確で厳格で、その的確と厳格をうまく隠しながら文章にしていることが読みとれる。この人が、私が日々食べているような立ち食い蕎麦やカツ丼や、よもやジャンクフードを、日常食べているはずがないのではないか、と疑問を抱くに至ったのである。 私たち読み手はひとり残らず、「丸かじりシリーズ」を読み「そう、そう、そう」と膝を打った。今まで考えたこともない、いや、考えはするが言葉にはしなかった食べものへのあれやこれやが、まったくかたちを損なわず文章にされたとき、あるカタルシスを覚える。それが「そう、そう、そう」であり、膝を打つという行為になってあらわれる。 この、だれにもカタルシスを覚えさせてしまう作者の観察眼はいったいなんなのであろう。この観察眼、洞察力は、鋭いというよりも、もはや過激であると私は思う。 その過激な観察眼と洞察力をもって作者が書くのは、徹底して地味な食べものである。ちらし寿司やロールケーキや肉まんやナポリタンといった、だれもが知っている、だれもが食べたことのあるもの。ときに豪華なものも書かれるが(本書では3千円のお好み焼きであり、3千円のラーメンである)、「えー、そんなの本当にあるの?おいしいのそれ?」というような私たちの胸の内を、きっちりと代弁してくれる。もしかして3千円のお好み焼きを毎日食べているかもしれないのに、である。 おいしいものを食べると、だれもがなんとなくにやつく。おいしいものを食べながら怒ることはむずかしい。この作者の書くものは、そんなおいしいものと似ていて、読んでいるだけでそこはかとなく満たされた気持ちになる。それは作者が、食と私たちの幸福な関係を見せてくれるからではないか。 ふだん何気なく食べていて、それについてとくに何か思ったりしないのに、じつはどれほど地味な食べものでも、私たちと密接なつながりがある。当たり前すぎて気づかない愛がある。そのことを発見し、書かれた食が愛しくなるのだと思う。本書に書かれた桃缶やウイロウや、ナポリタンやちらし寿司の、なんと愛しいことだろう。「」と、写真や実物を目にしたわけでもないのに、思う。 しかも、「丸かじりシリーズ」は1年や2年の連載ではないのである。20年以上も、作者は私たちに寄り添い、笑わせ、膝を打たせ、幸せな気分にし続けている。すごいを通り越して、コワイ。畏怖すら覚える。 考えてみれば、この20年、食は波乱万丈だった。80年代の後半から90年代にかけては好景気の絶頂で、すさまじい種類の食が氾濫し、だれもがグルメ気取りだった。一転、好景気が終焉を迎えると、B級グルメがブームになって、一気に価格破壊。その後、スローフードがはやったこともあれば、オーガニックがはやったことも、ロハスなどという言葉が登場したこともある。食と私たちの関わり方や求め方は、驚くほどころころ変わる。 その食激動の20年、この作者の姿勢は一貫して揺るがない。はやりにのって美食家ぶることもない、健康志向になることもない。しかも、ときどきそのときの流行を揶揄してくれる。「丸かじりシリーズ」を通読すると、食における時代の変化がじつによくわかる。 たとえば本書には「百円うどん」が登場する。私もこのチェーン店ができたときはもの珍しさに足を運んだものだが、今、わが家の近隣にあったその店はなくなっている。もちろんこのチェーン店自体がなくなったわけではないが、しかしあの勢いは失われているのだと思う。あと数年後、本書を読み返し私たちは「あったなー、百円うどん、並んで食べたなあ」と、なつかしく思うのではないか。そういう意味でいえば、このシリーズは私たちの風俗史でもあると思うのだ。東海林さんの「丸かじりシリーズ」については、どれを読んで、どれを読んでいないか?フォローできない大使であるが・・・・このシリーズは私たちの風俗史でもあるのか。角田さんの書評を読むとあらためて、その偉大さに気づくわけでおます♪ところで、今日から5日ほど四国の田舎に帰省します。例の如く、その間は音信不通になるので、そこのところを宜しくお願いします。『ポケットに物語を入れて』1
2016.10.16
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図書館に予約していた『謎のアジア納豆』という本を、待つこと4ヶ月でゲットしたのです。写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。【謎のアジア納豆】高野秀行著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より山奥のジャングルで出会った衝撃的納豆ご飯。ぱりぱりと割れるせんべい納豆。元・首狩り族の優雅な納豆会席。中国湖南省の納豆入り回鍋肉。そして日本で見つけてしまった「究極の納豆」。本気度1000パーセントのノンフィクション大作。壮大すぎる「納豆をめぐる冒険」<読む前の大使寸評>写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。<図書館予約:(6/11予約、10/08受取)>rakuten謎のアジア納豆第9章で、日本納豆の起源を見てみましょう。p192~193 <秋田県南部は「日本のシャン州」?> 30分くらいしてようやく話題が「納豆」に移った。しかもそれが想像をはるかに超えて面白かった。錬太郎さんは記憶力がよく、頭脳明晰で判断が速い。何か聞くと、たいてい明確な言葉で即答してくれる。 錬太郎さんは昭和22年生まれの67歳。生まれ育ったのは実は海沿いの秋田市だが、お母さんの実家が大曲にあり、子供の頃からよく遊びに来ていた。東京から帰ったあとは大仙市出身の奥さんと結婚し、大仙市清水字に40年以上暮らしている。事実上、地元の人である。 昔はたいていの家で大豆を栽培し、それから味噌や納豆を作っていたという。 納豆作りは子供のころ、母の実家でよく見た。冬はこたつで作る。夏はよほど好きな人が作る。初夏か秋めいた頃に作り始める。お父さんが警察官で特に公安だったため、米軍と仕事をしており、缶詰や毛布をもらった。その毛布はカーキ色でうすくてふわふわしており、藁菰を包むのにちょうどよかった。発酵時間は二晩か三晩。 ここまでも十分興味深かったが、次の一言に瞠目した。 「納豆はね、ほとんど失敗。糸を引かないんだ。1回に菰を50本くらい作るけど、5,6本しかうまくできない」 なんと昔ながらの方法で作る自家製納豆は、ほとんど糸を引かないのか。それではまるでシャンの納豆みたいじゃないか。びっくりする私にはかまわず錬太郎さんは続ける。 「いくつか成功したものはご飯にかけて食べ、残りは納豆汁にしたんだ」 それは面白い。納豆作りと食べ方の過程がシャン州に似ている。どちらも一部はそのまま粒納豆としてご飯のおかずにするが、大部分は加工して別の料理に使う。シャン州はせんべい納豆、秋田県南部では納豆汁というわけだ。 ・・・今、俺はすごい話を聞いている・・・。 興奮で肌が泡立つ思いだった。なにしろ日本納豆の起源地と言われる場所の納豆がシャン州の納豆に大きな共通点をもつという、予想もしない展開を見せているのだ。 納豆汁はどういうふうに作るのか。「擂り鉢と擂りこぎで納豆の豆をつぶす。これは小中学生の役目。豆の形がきれいになくなるのが理想だが、時間や労力がかかるためにそこまではやらない。たいてい豆の形が残っている」 これはまたシャン州タウンジーで体験したせんべい納豆の作り方に似ている。豆は完全に潰した方がいいが、なかなかそこまではできない。そして、きれいに潰すためには粘り気は少ないほうがいいはずである。 納豆汁には何を入れるのだろう。大曲ではメインの具は塩漬けにした山菜とキノコだという。山菜は蕨、ミョウサク、ネマガリタケ、フキ、ウド、アユッコ、ミズなど、キノコはサワモタシ、アミコダケ、ムキダケなど。それに芥子菜の塩漬けとゴボウは欠かせない。他には大根や人参といった根菜類。味噌とダシ(煮干しや焼き干し)。その他、角コンニャク、豆腐、油揚げ、長ネギなどを入れてもよい。「豆腐や油揚げが入るとちょっと高級な感じ」だという。外で買ってこなければいけない加工品だからだろう。 もっとも場所や家、個人によっても入れるものはちがうという。例えば、大曲と美郷町と横手市はみな納豆汁を食べるが、「文化がちがうから、納豆汁の食べ方もちがう」そうである。高野さんは、納豆は山岳民族の食、あるいは辺境食であると言っているが、なるほど大曲あたりは・・・・昔から蝦夷と言われ、辺境ではあるなあ。このあとも錬太郎さんによる「県南納豆文化講座」が続くのであるが、長くなるので割愛させてもらいます。納豆を食べるための専用の器「口ひどっこ」とやらもあるそうです。それから、納豆文化については秋田県南部とタイ・ミャンマー国境のシャン州と似ているのが驚きですね。『謎のアジア納豆』1byドングリ『謎のアジア納豆』2byドングリ料理の起源byドングリ
2016.10.16
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図書館に予約していた『謎のアジア納豆』という本を、待つこと4ヶ月でゲットしたのです。写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。【謎のアジア納豆】高野秀行著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より山奥のジャングルで出会った衝撃的納豆ご飯。ぱりぱりと割れるせんべい納豆。元・首狩り族の優雅な納豆会席。中国湖南省の納豆入り回鍋肉。そして日本で見つけてしまった「究極の納豆」。本気度1000パーセントのノンフィクション大作。壮大すぎる「納豆をめぐる冒険」<読む前の大使寸評>写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。<図書館予約:(6/11予約、10/08受取)>rakuten謎のアジア納豆第6章で、アジア納豆と日本納豆を見てみましょう。p136~138 <アジア納豆と日本の納豆は同じなのか、ちがうのか?> シンゲイさんに酸味納豆を見てもらうことはできなかった。なぜなら、私たちはとっくにそれを「うまい、うまい」と言って食べてしまったからである。一部をサンプルとして冷凍保存するという発想がどうして生まれなかったのか、今考えても不思議だ。思慮が浅いにもほどがある。もっとも全部食べてしまったわけではない。ほんの一部、検査分析のために使っていた。 東京都立食品技術センターへ行き、納豆の調査研究を十年以上にわたって担当している細井知弘先生に調べてもらったのだ。 私が知りたかったのは、長年、人々に問い詰められてきたこと・・・すなわち「アジア納豆と日本の納豆は同じなのか、ちがうのか」ということである。見た目や匂い、味、作り方については「ほぼ同じ」と言ってさしつかえないと思う。ブータンの納豆は若干酸味があるが、違和感があるほどではない。日本人の誰が食べても「あ、納豆」と思うだろう。だが「納豆菌」となると話は別だ。 日本とアジア各地の納豆菌を遺伝子レベルで比較した研究はある。例えば、原敏夫氏は、ある共通の起源をもつ菌から1億6千万年前にネパールの納豆である「キネマ」の菌が分岐し、1億3千万年前にタイのトナオの菌が、さらに7千万年前に日本の納豆と中国の「豆鼓」の菌が分離したことを明らかにした。ここで言う「豆鼓」とは今、一般的に中華料理で使用されるものではなく、中国雲南省や貴州省で食べられている納豆のことのようである。 しかし、これは「どの納豆菌も先祖は同じ」と言っているにすぎない。1億6千万年前といえば、中生代ジュラ紀。ご存知恐竜の全盛期であり、哺乳類はネズミのような容姿をしていたらしい。そこからキリンやクジラやヒトに分かれていった。でも、キリンやクジラやヒトと同じかというと、一般には「同じ」とは思われていない。 「タイやミャンマーの納豆菌と日本の納豆菌が同じかどうかは、判断するのが難しいですよ」 私たちが検査をお願いしたとき、細井先生は釘をさした。 「タイやミャンマーの人が日本人と同じかどうか訊くようなものです」 たしかに、タイ人やミャンマー人は日本人と同じと言えば同じだし、ちがうと言えばちがう。でもキリンやクジラやヒトよりは相当近いと思うのだが・・・・。 すべての納豆を調べてもらうのはあまりにも手間なので、アジア納豆を代表し、チェントゥンの納豆村で作られたせんべい納豆と、ブータンの酸味納豆をお願いした。 結果発表の日がやってきた。私は合格発表を見に行く受験生のような気分だった。 「検査は、食品の微生物検査で最も一般的な検査項目である『』を測定する検査法を用いました」 菌が生えたシャーレをテーブルの上にたくさん用意した先生は、理科の先生のように一つ一つ丁寧に見せながら説明していく。たいへんわかりやすい。 「結論からいえば」と細井先生は言った。「ミャンマーの納豆菌もブータンの納豆菌も日本の納豆菌とほぼ同じです。匂い、見た目、粘り気・・・。個性がちがう程度ですね」 「おおっ!」私、先輩、そして同席していた二人の編集者からどよめきがもれた。 ついに二つのアジア納豆と日本納豆の納豆菌は「ほぼ同じ」と判定されたのだ。日本の納豆にも個性が当然あり、チェントゥンとブータンのそれも、その範囲内の差でしかないわけだ。 ここで私たちの目的は達成されたのだが、興味深い結果が二つ判明した。一つは、チェントゥンとブータン両方の納豆から、ともに食中毒を起こすような菌が検出されなかったこと。例えば、納豆菌に近い種だが毒性をもっているセレウス菌。「そこら中にいるので、これらの納豆についてもおかしくないが、いませんでした」。また、大腸菌群も検出されなかった。先生にとっても「意外」という。 私たちにとってもそうだ。出自不明なブータンの納豆はともかく、チェントゥンの納豆は下に豚がブヒブヒ言いながらうろついているような環境で作られていたのだ。豆を包む葉も煮沸していない。「伝統の力はすごいなあ」と先輩は感嘆した。 もう一つの発見は、両方の納豆とも乳酸菌が検出されたことだ。チェントゥンは少なく、ブータンはその百倍から千倍の乳酸菌が見つかった。やはりあの酸味は乳酸菌によるものだったのだ。乳酸菌が先に入っていて後から納豆菌が入ったのか、その逆なのかはわからない。「両方ありえる」とのことである。 かくして、ついにアジア納豆は科学的にもそのベールをわれわれの前で脱いだ。すなわち、日本納豆とほぼ同じ納豆菌が働いていて、しかもかなり衛生的。おかげで、以後、私たちは堂々とアジア納豆と日本納豆を比較研究できるようになったのである。ウーム、アジア納豆に関する科学的な検査分析が敢行されたようだが・・・なんか高野さんの興味の矛先はどこまで進展するのかと思ったりするのです♪この後、日本でアジア納豆を作る試みが続きますが、追って紹介します(しないかも)。『謎のアジア納豆』1byドングリ料理の起源byドングリ
2016.10.15
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今年のノーベル文学賞は、またも村上春樹を外しましたね。でも、まあ、毎年この時期に、当落に心躍らせるのもなかなかいい風物詩ではないかと思ったりする♪・・・ということで、以前の記事をR1として復刻します。今年のノーベル文学賞はボブ・デュランが受賞し、びっくりポンでおます。でも、なかなかいい選定ではないか♪****************************************************【復刻】「食わず嫌いの村上春樹」と言いつつも、大使はこんな本を読んできました。今では結構はまっているけど「走ることについて語るときに僕の語ること」を最初に買ったところに大使の傾向が出ているのかも。<村上春樹関連の蔵書>・色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(2013年)・村上春樹ロングインタビュー(2010年)・夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです(2010年)・1Q84 BOOK1(2009年)・「1Q84」をどう読むか(2009年)・村上春樹にご用心(2007年)・走ることについて語るときに僕の語ること(2007年)<図書館で借りた本>・風の歌を聴け(1982年)・海辺のカフカ(2002年)・東京奇譚集(2005年)・職業としての小説家(2015年)<フィリップ・マーロウがつなぐ輪>それはそうと、村上春樹がなぜ芥川賞を取れなかったのか?ということでWeb検索したら、こんなHPがありました。村上春樹-芥川賞候補作家が充実してるし、面白いでぇ♪村上春樹研究所【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】村上春樹著、文藝春秋、2013年刊<内容紹介>より三年ぶりの書き下ろし長篇小説。 (発刊直後は「BOOK」データなし)<読む前の大使寸評>発売初日に内容も確かめずに単行本の小説を買ったことは、我が読書生活では初めてのことであるが・・・・ミーハーだったかなとの自覚はあるわけです(汗)Amazon色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年【村上春樹ロングインタビュー】考える人 2010年 08月号 、新潮社、2010年刊<内容紹介より>特集 村上春樹ロングインタビュー 日常から離れた新緑の山にこもって、たっぷりとお話をうかがった3日間。 【1日目】 一人称から三人称へ 『ノルウェイの森』のこと 僕と鼠の物語の終わり 歴史少年だったころ 物語の間口と奥行き プリンストンへ 「第三の新人」講義 『アンダーグラウンド』と『サハリン島』 『アフターダーク』と『1Q84』 『1Q84』はいかに生まれたか クローズド・サーキット 手を握りあう 物語を掘りだす 文体が支える BOOK3 女性たちとセックス 「1Q84」という世界 パラフレーズすること 【2日目】 プリミティブな愛の力 『静かなドン』から始まった 話し言葉と語りの力 メタファーの活用と描写 BOOK4の可能性 近過去の物語 十歳という年齢と偶然を待つこと 父的なものとの闘い 漱石のおもしろさ 芦屋から東京へ 心理描写なしの小説 自由であること、個であること 時間が検証する 十歳で読書少年に 芦屋のころ 19世紀的な小説像 自我をすっぽかす小説 長距離ランナー 【3日目】 リスペクトの感情 古典の訳し直し サリンジャー、カポーティをめぐって カーヴァーの新しい境地 20世紀の小説家の落とし穴 アメリカの出版界 オーサー・ツアー 全米ベストセラーリスト エルサレム賞のこと 短篇小説と雑誌の関係 今後のこと。 <大使寸評>村上さんがインタビューで、小説を書く舞台裏とかノウハウを惜しげもなく語っています。小説を書きたいと思う大使にとって、たいへん参考になります♪Amazon村上春樹ロングインタビュー村上春樹ロングインタビューbyドングリ【夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです】村上春樹、文藝春秋、2010年刊<内容紹介より>13年間の内外のインタビュー18本を収録。なぜ書くのか、創作の秘密、日本社会への視線、走ることについてなどを語りつくす。 <大使寸評>ちょっとかったるい本なので、いまは積読状態になっているけど・・・そのうち読もう。Amazon夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです【1Q84 BOOK1】村上春樹著、新潮社、2009年刊<内容紹介>より1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。 <大使寸評>1Q84のシリーズ3冊を購入したが、ハードカバーのシリーズ3冊とはしぶちんの大使としては画期的なことである。このシリーズはもう打ち止めにしてほしいものだ。Amazon1Q84 BOOK1【「1Q84」をどう読むか】河出書房新社編、河出書房新社、2009年刊<商品説明>より今を代表する30人の論客が、様々な角度から村上春樹の「1Q84」を照射し作品の謎を紐解く。「1Q84」に向けられた評論からの問い。加藤典洋/川村湊/沼野充義/森達也/島田裕巳/斎藤環他。<大使寸評>この3冊シリーズの小説がなぜこれだけ売れたのか気になるし、他の人がどう読むかも興味深いのです。rakuten「1Q84」をどう読むか【村上春樹にご用心】内田樹著、アルテスパブリッシング、2007年刊<内容紹介>よりベストセラー『下流志向』のウチダ教授が村上文学の秘密をついに解きあかす! 本文より 「私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。」 <大使寸評>追って記入Amazon村上春樹にご用心【走ることについて語るときに僕の語ること】 村上 春樹著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベースより>1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、彼は心を決めて路上を走り始めた。それ以来25年にわたって世界各地で、フル・マラソンや、100キロ・マラソンや、トライアスロン・レースを休むことなく走り続けてきた。旅行バッグの中にはいつもランニング・シューズがあった。走ることは彼自身の生き方をどのように変え、彼の書く小説をどのように変えてきたのだろう?日々路上に流された汗は、何をもたらしてくれたのか?村上春樹が書き下ろす、走る小説家としての、そして小説を書くランナーとしての、必読のメモワール。 <大使寸評>「継続は力なり」を地で行くような村上春樹のメモワールであり、市民ランナーとして思い当たるふしの多い本である。読破するのが惜しいので、少しづつ読んでいるが・・・これもある意味、積読になります。Amazon走ることについて語るときに僕の語ること<図書館で借りた本>【風の歌を聴け】 村上春樹著、講談社、1982年刊<出版社からの内容紹介より>1970年の夏、海辺の街に帰省した〈僕〉は、友人の〈鼠〉とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。2人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、〈僕〉の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。<大使寸評>神戸、芦屋あたりが舞台だから土地勘もはたらくし、ものうく軽い、この都会的センスがいいね♪Amazon風の歌を聴け【海辺のカフカ】 村上春樹著、新潮社、2002年刊<出版社からの内容紹介より>15歳の誕生日、少年は夜行バスに乗り、家を出た。一方、猫探しの老人・ナカタさんも、なにかに引き寄せられるように西へと向かう。暴力と喪失の影の谷を抜け、世界と世界が結びあわされるはずの場所を求めて。<大使寸評>どうでもいいことかもしれないけど、この小説の全編にわたって土地勘があるのです。ただ、大使の場合、四国の田舎から神戸、東京に向かうところが逆コースなんだけど(笑)Amazon海辺のカフカ【東京奇譚集】村上春樹著、新潮社、2005年刊<「BOOK」データベース>より五つの最新小説。不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。【目次】偶然の旅人/ハナレイ・ベイ/どこであれそれが見つかりそうな場所で/日々移動する腎臓のかたちをした石/品川猿<読む前の大使寸評>村上春樹の小説を昔にさかのぼって読みたくなるわけです。・・・はまってしまったんでしょうね。rakuten東京奇譚集東京奇譚集byドングリ【職業としての小説家】村上春樹著、スイッチ・パブリッシング 、2015年刊<「BOOK」データベース>より「MONKEY」大好評連載の“村上春樹私的講演録”に、大幅な書き下ろし150枚を加え、読書界待望の渾身の一冊、ついに発刊!【目次】第一回 小説家は寛容な人種なのか/第二回 小説家になった頃/第三回 文学賞について/第四回 オリジナリティーについて/第五回 さて、何を書けばいいのか?/第六回 時間を味方につけるー長編小説を書くこと/第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み/第八回 学校について/第九回 どんな人物を登場させようか?/第十回 誰のために書くのか?/第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア/第十二回 物語があるところ・河合隼雄先生の思い出<読む前の大使寸評>大学図書館でみっけ、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・大学図書館は穴場やで♪<図書館予約:(10/27予約、11/27大学図書館でミッケ、借出し)>rakuten職業としての小説家村上さんの文体の秘密や『風の歌を聴け』の誕生エピソードが、あっけらかんと語られています。p45~49<小説家になった頃> とはいえ「感じたこと、頭に浮かんだことを好きに自由に書く」というのは、口で言うほど簡単なことではありません。とくにこれまで小説を書いた経験のない人間にとっては、まさに至難の業です。発想を根本から転換するために、僕は原稿用紙と万年筆をとりあえず放棄することにしました。万年筆と原稿用紙が目の前にあると、どうしても姿勢が「文学的」になってしまいます。 そのかわりに押し入れにしまっていたオリベッティの英文タイプライターを持ち出しました。それで小説の出だしを、試しに英語で書いてみることにしたのです。とにかく何でもいいから「普通じゃないこと」をやってみようと。 もちろん僕の英語の作文能力なんて、たかがしれたものです。限られた数の単語を使って、限られた数の構文で文章を書くしかありません。センテンスも当然短いものになります。頭の中にどれほど複雑な思いをたっぷり抱いていても、そのままの形ではとても表現できません。内容をできるだけシンプルな言葉で言い換え、意図をわかりやすくパラフレーズし、描写から余分な贅肉を削ぎ落とし、全体をコンパクトな形態にして、制限のある容れ物に入れる段取りをつけていくしかありません。ずいぶん無骨な文章になってしまいます。でもそうやって苦労しながら文章を書き進めているうちに、だんだんそこに僕なりの文章のリズムみたいなものが生まれてきました。 僕は小さいときからずっと、日本生まれの日本人として日本語を使って生きてきたので、僕というシステムの中には日本語のいろんな言葉やいろんな表現が、コンテンツとしてぎっしり詰まっています。だから自分の中にある感情なり情景なりを文章化しようとすると、そういうコンテンツが忙しく行き来をして、システムの中でクラッシュを起こしてしまうことがあります。 ところが外国語で文章を書こうとすると、言葉や表現が限られるぶん、そういうことがありません。そして僕がそのときに発見したのは、たとえ言葉や表現の数が限られていても、それを効果的に組み合わせることができれば、そのコンビネーションの持って行き方によって、感情表現・意思表現はけっこううまくできるものなのだということでした。要するに「」ということです。 ずっとあとになってからですが、アゴタ・クリストフという作家が、同じような効果を持つ文体を用いて、いくつかの優れた小説を書いていることを、僕は発見しました。彼女はハンガリー人ですが、1956年のハンガリー動乱のときにスイスに亡命し、そこで半ばやむなくフランス語で小説を書き始めました。 ハンガリー語で小説を書いていては、とても生活ができなかったからです。フランス語は彼女にとっては後天的に学んだ外国語です。しかし彼女は外国語を創作に用いることによって、彼女自身の新しい文体を生み出すことに成功しました。 短い文章を組み合わせるリズムの良さ、まわりくどくない率直な言葉づかい、思い入れのない的確な描写。それでいて、何かとても大事なことが書かれることなく、あえて奥に隠されているような謎めいた雰囲気。僕はあとになって彼女の小説を始めて読んだとき、そこに何かしら懐かしいものを感じたことを、よく覚えています。もちろん作品の傾向はずいぶん違いますが。 とにかくそういう外国語で書く効果の面白さを「発見」し、自分なりに文章を書くリズムを身につけると、僕は英文タイプライターをまた押入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。 翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。まさに目から鱗が落ちる、ということです。 ときどき「おまえの翻訳調だ」と言われることがあります。翻訳調というのが正確にどういうことなのか、もうひとつよくわからないのですが、それはある意味ではあたっているし、ある意味でははっずれていると思います。最初の一章分を現実に日本語に「翻訳した」という字義通りの意味においては、その指摘に一理あるような気もしますが、それはあくまで実践的なプロセスの問題に過ぎません。 僕がそこで目指したのはむしろ、余分な修飾を排した「ニュートラルな」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語制を薄めた日本語」の文章を書くことではなく、いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」ことだったのです。そのためには捨て身になる必要がありました。極言すればそのときの僕にとって、日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかったということになるかもしれません。 それを日本語に対する侮辱ととる人も、中にはいるかもしれません。実際にそういう批判を受けたこともあります。しかし言語というものはもともとタフなものです。長い歴史に裏付けられた強靭な力を有しています。誰にどんな風に荒っぽく扱われようと、その自立性が損なわれるようなことはまずありません。 言語の持つ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、その有効性の幅をあたう限り押し広げていくことは、すべての作家に与えられた固有の権利なのです。そういう冒険心がなければ、新しいものは何も生まれません。僕にとっての日本語は今でも、ある意味ではツールであり続けています。そしてそのツール性を深く追求していくことは、いくぶん大げさにいえば、日本語の再生に繋がっていくはずだと信じています。 とにかく僕はそうやって新しく獲得した文体を使って、既に書き上げていた「あまり面白くない」小説を、頭から尻尾までそっくり書き直しました。小説の筋そのものはだいたい同じです。でも表現方法はまったく違います。読んだ印象もぜんぜん違います。それが今ある『』という作品です。< フィリップ・マーロウがつなぐ輪>『ブレ-ドランナー』と『チャイナタウン』をつなぐのがフィリップ・マーロウなんですね。もっと製作サイドから言えば・・・監督スコットの愛する『チャイナタウン』であり、脚本家ファンチャーが愛する『さらば愛しき女よ』ということになります。さらに、個人的な話になりますが・・・『さらば愛しき女よ』を図書館で借りて入院し、入院中に痛みに耐えて読破した大使である。医者が「本が読めるんですか」と感心していたが・・・・フィリップ・マーロウが好きなんですよ。【さよなら、愛しい人】レイモンド・チャンドラー著、早川書房、2009年刊、11年1月読破<「BOOK」データベースより>刑務所から出所したばかりの大男、へら鹿(ムース)マロイは、八年前に別れた恋人ヴェルマを探しに黒人街の酒場にやってきた。しかし、そこで激情に駆られ殺人を犯してしまう。偶然、現場に居合わせた私立探偵フィリップ・マーロウは、行方をくらましたマロイと女を探して紫煙たちこめる夜の酒場をさまよう。狂おしいほど一途な愛を待ち受ける哀しい結末とは?読書界に旋風を巻き起こした『ロング・グッドバイ』につづき、チャンドラーの代表作『さらば愛しき女よ』を村上春樹が新訳した話題作。 <大使寸評>映画『チャイナタウン』が、パクリとは言わないまでも、この本をを下敷きにしていることが良くわかります。ただ、フィリップ・マーロウは、エロ話で盛り上がるジェイク・ギテスよりは上品ですね(笑)Amazonさよなら、愛しい人レイモンド・チャンドラーといえば、村上春樹のロング・グッドバイも良かった。【ロング・グッドバイ】レイモンド・チャンドラー著、早川書房、2007年刊、2009年5月6日読破<「BOOK」データベースより>私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には哀しくも奥深い真相が隠されていた…大都会の孤独と死、愛と友情を謳いあげた永遠の名作が、村上春樹の翻訳により鮮やかに甦る。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長篇賞受賞作。 <大使寸評>ミステリーというジャンルに初めて手を出したのは、フィリップ・マーロウの魅力もあるが、村上春樹訳に惹かれたからでもある。翻訳本は翻訳者の創作とも言われるように、翻訳者の能力、感性が作用するようですが、村上訳は原本に忠実と言われているようです。(原本を読んだわけでは、ありませんが)Amazonロング・グッドバイリドリー・スコットも「未来のフィリップ・マーロウ」というアイデアに執着したようですね。ところで、村上春樹は未来のフィリップ・マーロウともいえる『ブレードランナー』のデッカードについて、どう思っているんでしょうね。(調べてみます。)【ブレードランナーの未来世紀】より60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた。いわゆるアメリカン・ニューシネマである。ハリウッド映画が描かなかったアメリカのダークサイドを描こうとしたニューシネマは、ハリウッドが闇を描いていた40年代のフィルム・ノワールを再生した。それがスコットの愛する『チャイナタウン』であり、ファンチャーが愛する『さらば愛しき女よ』なのだ。スコットはファンチャーの脚本の「未来のフィリップ・マーロウ」というアイデアに興奮した。彼はロマン・ポランスキー監督の「チャイナタウン」(74年)のようなフィルム・ノワールを撮りたいと思っていたからだ。
2016.10.14
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図書館で『会社人間だった父と偽装請負だった僕』という本を手にしたのです。著者は大阪出身で、塾講師、銀行マン、風俗店、トラック運転手などを経て現在は週刊誌記者というすさまじい職歴である。関西の底辺をレポートしているが、語られる関西弁が大使にひびくのおます♪【会社人間だった父と偽装請負だった僕】赤澤竜也著、ダイヤモンド社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりかつて会社は永遠だった。「負け組」「下流」という言葉が跋扈し、会社は平気で人を切り捨てるようになった。この国が目指した先にどんな社会があるのか、今、誰もが気づき始めている。企業戦士として生き抜いた父の人生と自らの体験を通して、働くことの意味と社会のあるべき姿を問いかける渾身のノンフィクション。<大使寸評>著者は大阪出身で、塾講師、銀行マン、風俗店、トラック運転手などを経て現在は週刊誌記者というすさまじい職歴である。関西の底辺をレポートしているが、語られる関西弁が大使にひびくのおます♪企業戦士を父に持ち、荒れる中学校を生き抜いた著者は、大学を卒業するまでに、いやというほどの学生間格差を体験し、どこかが壊れていたのではないか?rakuten会社人間だった父と偽装請負だった僕赤澤さんの父の秘密を見てみましょう。p120~123 <父の秘密> 米国マスコミの論調が、1銀行の事件というスタンスを離れ、日本の金融システムや政府批判へと様変わりするにつれ、新聞だけでなく週刊誌にも大きく報道されるようになった。 僕自身、大和銀行の庇護下で育った企業舎弟を自認する人間だけに興味を持って読んだ。 そんななか、一つの記事が目にとまった。 手に取った時の衝撃は忘れられない。 ・・・思い通りにいかない国際部門の立て直しのため、安倍川氏が白羽の矢をたてたのが、赤澤克彦専務(当時)だった。安倍川氏が社内でただひとり、自らの寺尾イズムを継承する後継者と目していた人物だった。 赤澤専務は業務畑が専門。英語も得意とはいえず、国際部門は全く未知の世界だった。国際総合部長として心労を重ねたのだろう。就任翌年の88年2月2日、会議の席上、脳出血で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 「赤澤さんは戦死した・・・」 それが大和銀行幹部の一致した思いだった。 「思いかえせば、赤澤さんが国際総合部長に任命された87年は、ダイワ・バンク・トラストの損失が約9千6百万ドルにまで膨れあがった年です。赤澤さんはその処理のためにかけずり回っていたのかもしれません」(1995年10月26日号、週間文春) なんと父は井口被告の犯罪の遠因となる米国子会社の損失処理を命ぜられていたというのである。 僕は長らく自らの引き起こした不祥事が父の心労を増し、死に至らしめたと思い続けていた。ところが僕の駈け落ちと同じころ、社命により不法な処理に走り回っていたというのである。 記事を目を通した僕はすぐに母へ電話をかけた。 「お母さん、週刊誌の記事、読んだ?」 「ええ、何回も読んだわ」 「お父さんがこんなことしてたこと、知ってたん?」 「いいえ、全然知らなかったわ。お父さんは家ではお仕事のことあんまりおっしゃらなかったから・・・」 1995年(平成7年)11月3日、ニューヨーク連邦地検は大和銀行を重罪隠匿、詐欺、金融機関検査妨害など24の罪でニューヨーク連邦地裁に起訴したと発表。また米連邦捜査局(FBI)は津田前支店長を重罪隠匿や文書偽造などの容疑で逮捕、告発した。同時に大和銀行は米国金融当局からのコンセント・オーダーにより、翌年2月2日以前に米国内のすべての拠点での業務停止を命ぜられる。 大和銀行は米国の市場から永久追放されてしまった。 FRB規則では、アメリカで業務を行う外国銀行、ならびにその支店、出張所に対して、刑事事件容疑が発覚してから30日以内に司法当局およびFRBに報告しなければならない旨が定められている。 大和銀行が井口氏から報告状を受け取ってから、米国当局へ通報するまで56日が経過していた。しかも、発覚から2週間後、大蔵省には報告している点に米国の怒りは集中し、これほどまでに厳しい処置となった。 経営側には当局に報告しておけばそれで事足りるという甘えがあった。当局にはそれを是正するに足る知識も指導力もなかった。護送船団方式での密室金融行政がいかに前近代的なものであったかを図らずも象徴的に露呈することとなった。 テレビ各社はニューヨークのビルから銀行の看板を外す映像をセンセーショナルに報道した。南麻布のマンションでビールを飲みながら熱っぽく語る父の顔が思い浮かんだ。 「詳しくは言えんけど、今香港の米銀買収を手がけてる。久しぶりに大きな仕事なんや。もしこれが成功したら大和銀行の国際部ももっと強くなると思うねん」 「そりゃ英語はあまり得意やないけど、大丈夫や。仕事なんかしょせんハート・トゥ・ハートや。真心を込めて接したらわかり合える」 国際業務発展に心血を注いでいた父がこの光景を目にしたらいったい何を感じるのだろう。そう考えざるを得なかった。父と自分を題材にした、すさまじいドキュメンタリーになっているが、どこで道をまちがえたのか・・・考え込むのです。
2016.10.14
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図書館で『ポケットに物語を入れて』という本を手にしたのです。文庫本の書評集というふれこみであるが・・・開高健、池澤夏樹、佐野洋子、三浦しおん、東海林さだお等々、大使好みラインナップであり、なにより、最近読んだ高野秀行著『アジア新聞屋台村』が載っているのが、ええでぇ♪【ポケットに物語を入れて】角田光代著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より本は、開くとき、読んでいるときばかりではなく、選んでいるときからもう、しあわせをくれるのだ。まるで旅みたい。読書という幸福な時間をたっぷりつめこんだエッセイ集。<読む前の大使寸評>文庫本の書評集というふれこみであるが・・・開高健、池澤夏樹、佐野洋子、三浦しおん、東海林さだお等々、大使好みラインナップであり、なにより、最近読んだ高野秀行著『アジア新聞屋台村』が載っているのが、ええでぇ♪amazonポケットに物語を入れて高野秀行著『アジア新聞屋台村』を見てみましょう。 <がんばれ、どうってことないから>p237~242 高野秀行さんは、常人にはなんだかよくわからないものを求めて、世界じゅうの辺境をさまよい歩いている人だ。だれもしたことのないこと、いや、だれもしたいとも思わないようなことばかりを、率先しておこない、その様子をノンフィクション作品として発表している。この『アジア新聞屋台村』は、その高野さんによる自伝的物語である。 語り手であるタカノ青年は、タイについてのコラムを書いてほしい、という依頼のわりには奇妙な電話を受け、それが縁で、エイジアンという不思議な会社の編集顧問として働くことになる。 エイジアンというこの会社、劉さんという、子犬のような若い台湾人女性が社長である。社員やアルバイト、ボランティアのスタッフは、インドネシア、韓国、台湾、タイとアジア各国から集まった面々で、国際電話プリペイドカードの販売営業や、外国人相手の不動産斡旋などもしつつ、タイ語やマレー・インドネシア語など、5ヶ国の言語で新聞も発行している。 とはいえ、その新聞作りは、学級新聞とほとんど変わらないほどの杜撰さ。編集顧問となったタカノ青年はそれに呆れつつ、同時に魅力も感じつつ、「エイジアン」というカオスのなかに次第に深く身を投じていく。(中略) とはいえ、作者はそれぞれの異国をただ愛しているだけではない。一歩引いて、「あちゃあ」と思うところもきちんと踏まえているし、私たちとどうしたって相容れない部分があることも認めている。いわばクールな愛である。ムスリムのインドネシア人バンバンさんと、中国系インドネシア人アンジェリーナさんの反目が描かれた箇所がある。それぞれの言い分を聞いていると、私などはつい「外国の人は自国の政治や歴史についてきちんと意見を持っていてすごいなー」と思ってしまいがちだが、作者はそういった安易な受け取りかたも無条件な敬意も抱かず、「単に個人的に気が合わないだけかもしれない」と、さらりと書く。 子犬のような劉さんが「私は台湾独立を支持している。ここは日本よ。私は負けない!」と息巻くときも、さすが日本人と違い愛国心にあふれていると感心したりしない。それが彼女の動物的勘にもとづく策略ではないのかとクールに眺めている。(中略) 2006年、本書が刊行されてすぐ読んだとき、私はある雑誌でこの物語をすばらしい「青春ストーリー」と書いた。今、そのことを申し訳なく思う。もちろん青春物語として読むことも可能だけれど、そんな括りにはおさまらない大きさが、この物語にはある。異文化とは何か、それと折り合うとはどういうことか、ひとりで立つとはどういうことか、わかり合うとはどういうことか、日本とはどういう国か、国民性とは何か・・・・抱腹絶倒必至のこの物語には、じつに深いことがらがいくつも埋めこまれている。 とくに、本書の刊行から3年後、経済はいっこうに好転せず、職に就くのはますますむずかしくなり、しかも派遣社員が窮地に立たされているという現在の状況のなかで読み返すと、至極説得力のある仕事論にも読め、何かこの物語は未来を予見していたような気がしないでもない。そうすると、あらためて本書は新たな意味を持つ。未来を予見していた本と、角田さんは評価しているのだが・・・たしかに、高野さんの民俗学的な素養や、わりと深いポテンシャルが感じられるのです♪先ごろ読んだ『アジア新聞屋台村』を紹介します。【アジア新聞屋台村】高野秀行著、集英社、2006年刊<「MARC」データベース>よりワセダ三畳間にくすぶっていたタカノ青年、突然、新聞社の編集顧問に迎えられて…本邦初!自伝仕立て“多国籍風”青春記。<読む前の大使寸評>高野秀行さんの本は絶対に外れはないはずである♪・・・大使が断言します。高野さんの初期の著作であり、まだ「間違う力」が育つ前なので、わりと真面目な直球勝負になっているようです。rakutenアジア新聞屋台村
2016.10.13
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図書館で『アジア新聞屋台村』という本を手にしたのです。おお 高野秀行さんの本やないけ♪高野さんの本なら、絶対に外れはないはずである♪・・・大使が断言します。【アジア新聞屋台村】高野秀行著、集英社、2006年刊<「MARC」データベース>よりワセダ三畳間にくすぶっていたタカノ青年、突然、新聞社の編集顧問に迎えられて…本邦初!自伝仕立て“多国籍風”青春記。<読む前の大使寸評>高野秀行さんの本は絶対に外れはないはずである♪・・・大使が断言します。高野さんの初期の著作であり、まだ「間違う力」が育つ前なので、わりと真面目な直球勝負になっているようです。rakutenアジア新聞屋台村この本に出てくる人物で不可解で魅力的な人といえば、何といっても劉社長である・・・その辺りを見てみましょう。 <かりそめの蜜月>p208~210 ある日、私たちは互いにまったくやる気がないまま、「会議室」で雑談していた。 どういう経緯か思い出せないが、「日本人は失敗を許さない」とかいう話題になった。 「小さい失敗も許せないから、みんな、失敗しないように小さくまとまる。これじゃ、画期的な発想なんかは生まれない。ビジネスだって、なんでも日本人向き。画一的。世界に広がらない。商売が下手で、やり方もつまらない」 私がそう言ったのは無意識的に桜田軍団に対する反発があったのかもいれない。こんな話を劉さんに言えば「全身オリジナリティ」の人だけに「ソウヨ、そうよ!」と同意するに決まっている。失意に沈みっぱなしの私としては、劉さんの同意で傷を癒してもらいたかったのかもしれない。 ところが、劉さんは意外にも「それはちがう」と言った。 「あのね、やっぱり国民性とか民族性とかあると思うの。はっきり言って日本人は商売が下手。発明にも向いてない。でも、それでいいじゃない。日本人は失敗が嫌いって言ったけど、それは日本人が職人だから。モノを作らせたら世界で日本人がいちばん。職人に発明や商売させたって無理よ。 商売は中国系がいちばん。発明は欧米系がいちばん。だから、発明は欧米系に任せて、それを商品にするのを日本人がやって、できた商品は台湾人が売ればいい。それがこれからの、なんだっけ、・・・あ、そうそう、グローバリズムよ!」 「おお!」私は思わず感嘆の声をあげてしまった。 そういう見方をするか、劉さん。「日本人が固定観念に縛られている」と言おうとしていたのだが、劉さんによれば、私のそういう日本人観が固定観念に縛られていることになる。 いつの間にか「中国系」が「台湾人」にすりかわっていたし、最後の「グローバリズム」もとって付けた感があったが、さすがは劉さん、どこでも聞いたことのない「日本人論」である。 たしかに日本人の異様な細かさ、まじめさ、責任感は「職人」の一言でずいぶんと説明がつく。最近では失望することが多く、劉さんを過小評価する傾向にあったが、今日ばかりは初めて出会ったころの鮮烈なイメージを思い出させた。 そうなのだ。劉さんの話は、独創的でひじょうにおもしろいのだ。 こんなおもしろい人に他人の記事を解説させるのはもったいない。彼女自身に語ってもらったほうがいい。 私は突然、新しい企画を思いついた。 劉さんはジャッキーという愛称を持っている。 「ジャッキー劉の『ここが違う!日本人と台湾人』ていうのをやろうよ」私は提案した。 「劉さんは日本も台湾も両方よく知ってるんだから、そのちがいとか、日本人には想像できない台湾人の習慣や考え方をしゃべってよ。ぼくがそれを書くからさ」 劉さんは提案に飛びついた。もともと、しゃべるのは好きだし、なにより台湾記事の翻訳・解説をやらないで済む。 こうして突発的に新企画が始まった。こういう、その場で新しいことができてしまうのがエイジアンの真骨頂であり、私は久しぶりに興奮していた。 その日、「第1回」として聞いたのは、「日本人の夫婦と台湾人の夫婦のちがい」だった。第1回目からめちゃくちゃおもしろい。 劉さんが言うには、「日本人の男性ほどかわいそうな人はいない」。 だって、そうでしょ? 外で死ぬほど働いたあげく、定年になればゴミ扱い。リストラでもされたら奥さんに冷たくされるし、離婚されることだって珍しくない。 だいたい、日本人の夫婦はほんとうに愛し合っているのかなって思う。夫は外で働き、妻は家の中。職場の分担みたい。週末、夫が家族を連れて遊びに行くのが「家族サービス」と呼ばれているのも台湾人には信じられない。 家族みんなで遊びに出かける。こんな幸せなことはないのに、それが「サービス」なの?その点、台湾人の夫婦はもっと情が深い。徹底的に助け合う。 台湾人女性の多くが仕事をもっているのは、結婚して縛られたくないからという理由じゃない。「私も頑張って稼いで、家計に貢献しよう」という思いがあるからなの。ウーム、この本が発刊された2006年当時といえば、フォックスコンのシャープ買収のバの字もない頃だと思うが、グローバリズムを見つめる劉社長の目は節穴ではないようですね。少なくとも日本の経産省官僚の経済的センスより上だったと、大使は思うのですが。『アジア新聞屋台村』1
2016.10.13
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このところ言語・方言に関する本よく読んでいるのです。・・・で、それらのインデックスを作ってみました。『日本語が亡びるとき』が出たとき、大使の言語学的ナショナリズムが過敏なまでに反応したのだが・・・・要するに横暴な米語が嫌いなわけでおます。【日本語】・『日本語の科学が世界を変える』(その2)・『日本語の科学が世界を変える』(その1)・思わず使ってしまうおバカな日本語・『日本人の知らない日本語4』・『日本人の知らない日本語3』・「日本語大博物館」・日本語変換あれこれ・ホンモノの日本語を話していますか1・ホンモノの日本語を話していますか2・日本語に生まれて・ 『日本語ぽこりぽこり』【消えゆく言語】・消えゆく満州語・絶滅寸前の満州語・文字を持っていた突厥帝国【漢字】・韓国、台湾の漢字事情・漢字と日本人1・漢字と日本人2・漢字と日本人3【方言】・やっとかめ!大名古屋語辞典・関西人の話法・播磨気質【文字】・『世界の文字事典』・文字の文化史4・文字の文化史3・文字の文化史2・文字の文化史1・ヴェトナム語の悲哀・世界の文字とことば【英語、米語】・英語化は愚民化2・英語化は愚民化1【翻訳】・映画字幕は翻訳ではない・『翻訳のさじかげん』1・『翻訳のさじかげん』2・『翻訳のさじかげん』3【日本語が亡びるとき】水村美苗著、筑摩書房、2008年刊<内容紹介より>豊かな国民文学を生み出してきた日本語が、「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか? 日本語をめぐる認識の根底を深く揺り動かす書き下ろし問題作! 第8回(2009年)小林秀雄賞受賞<大使寸評>何といっても、この本のタイトルが見事なキャッチコピーになっています。言語ナショナリズムの大使が見事に捕まりました(笑)Amazon日本語が亡びるとき
2016.10.12
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図書館で『宮本常一とあるいた昭和の日本23』という本を手にしたのです。シリーズ本23のテーマは、「漆・柿渋と木工」となっていて・・・大使のツボでんがな♪【宮本常一とあるいた昭和の日本23】田村善次郎監修、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。<読む前の大使寸評>シリーズ本23のテーマは、「漆・柿渋と木工」となっていて・・・大使のツボでんがな♪amazon宮本常一とあるいた昭和の日本23今は廃れた半田漆器を姫田道子氏のレポートで見てみましょう。p11~28 <半田町逢坂竹内家> 池田から18キロほど下流の南岸に半田町があります。別のルートでは本州から船で徳島へ、徳島本線で吉野川を遡るのです。南岸を走り、吉野川にそそぐ支流の鮎喰川、穴吹川、貞光川、そして半田川の手前に停車駅があります。静かな木造の駅でした。 半田町逢坂が私の尋ねる竹内久雄氏が住まわれるところです。出発前に「日暮れ前には必ず参ります。尋ねあてる楽しみがありますので、お出迎えの心配はどうぞなさらないで下さい」という意味の手紙を出したのです。駅を降りると急に心細くなり一刻も早くたどりつきたい、町を観察しながら歩いて行こうとする余裕もなくなってしまいました。(中略) <半田漆器を見る> 翌日、二階の仕事場に案内して頂く。土間があり台所の横から中二階に上りました。 この家が建てられたのは弘化4年(1847)と棟札にあるので竹内さんの玄曾祖父、政右ヱ門の代だといいます。下地塗りする場は一階で、二階が仕上げの上塗場です。 福井県河和田塗の若い絵師がいった言葉を思い出しました。「塗師は仕事場を見られるのは裸を見られるよりつらい」と。けれども半田を訪れた一番の願いは、この仕事場を見せてもらうことでした。四坪が二部屋で、南面に腰高の窓がありました。懐中電灯に照らし出された屋根裏は、割竹が張ってあり、棟の骨組が見えています。煤にいぶし出された棟木、周囲の壁は土壁で、二部屋にはそれぞれ室らしい戸棚がありました。 仕事の途中の下地塗をした、大名膳、皿鉢料理の台、重箱、硯箱、猫足の膳、大形鉢、栗の小鉢、会席膳などが雑然と積み重ねてありました。すべてが墨色に静まりかえっています。 小さい道具類を一つ一つ手にとって聞くと、漆を濾した茶碗であり、砥石、研ぎ炭、かたまった漆刷毛、空の漆桶、膳と膳との間にさし込む竹ヒゴ、漆をひくヘラ、そして漆掻きの道具。そのほかに、椀の白木地や、黒塗りの六十物といわれる仏事用の漆器などは、別棟の蔵の二階へ置いてあるとのことでした。 二人用の箱膳がありました。 この二人用の箱膳は、美しい朱塗りの堂々たるものでした。仕上げの上塗りはまだしてありませんが、塗り方のがっちりした堅地のものです。蓋をとると、中に飯椀二個、汁椀二個、そして小皿さえも入るほどの広さのものでした。横側には引出しが三つ。ちょうど鏡台の鏡の部分を取りはずしたようで、妙になまめかしく、しかも重厚なのです。 八寸膳よりやや上物の博多目の会席膳がありました。博多目とは卦引きカンナで薄くけずり、博多帯の縞柄の模様のような、線引き模様を施したものです。竹内さんはこれを雑の仕事と言われたが、雑とは安価で庶民の日常の用に広く使われたという意味です。 私もこの膳が好きになり、また値段が安そうですし、側面に使った檜の曲木の角の切り込み方も工夫されて面白い。竹内さんの話では昭和38年ごろまで、夫婦協同でひと仕事百枚単位で、八寸膳や会席膳を塗りつづけたということです。それほどこの膳に対する需要があったのでしょう。(中略) <木地椀が消える> 「半田塗という名称は明治時代、小学校の地理の教科書にも収録されていたから、日本中に知られていた。特に郷土の人々には、日常の食生活にかかすことができない膳、椀中心の生活必要品が主体であったから、半田漆器の名は非常に親しみ深いものであった」 これは竹内さんが見せてくれた昭和40年2月の徳島新聞の記事です。 ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。 また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。(中略) <木地の道> 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700メートルの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50キロ)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。 また半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。四国西南部の田舎へ車で帰省するたびに、半田町(現、つるぎ町)を通過する大使であるが、まだこの町に滞在したことはないのです。鄙びたこの町が昭和初期までは半田漆器の町として栄えたようだが・・・今はむかしのお話になったようですね。「あわ文化学校」というサイトで半田漆器を見てみましょう。姫田道子さんがレポートしていた最後の塗師・竹内久雄氏は2013年に亡くなったそうです。「あわ文化学校」半田漆器より半田そうめんで有名な、徳島県の北西に位置するつるぎ町(2005年に半田町・貞光町・一宇村が合併)に2003年まで職人さんがおられた伝統工芸「半田漆器」。最盛期は明治時代中期で、江戸時代の享保年間(1716~1736)から約280年の歴史があるそうです。2013年11月、半田漆器最後の塗師・竹内久雄氏が亡くなりました。
2016.10.12
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このところ料理・食文化に関する本よく読んでいるのです。・・・で、それらのインデックスを作ってみました。在職時の仕事がら韓国出張が多かったもので、韓国料理が多めになっています。テジクッパ【歴史、一般】・『料理の起源』・続・照葉樹林文化・『栽培植物と農耕の起源』1・『栽培植物と農耕の起源』2・『栽培植物と農耕の起源』3・『栽培植物と農耕の起源』4・『栽培植物と農耕の起源』5・『栽培植物と農耕の起源』6【発酵食品】・『謎のアジア納豆』・『漬け物大全』2・『漬け物大全』1・『東アジアの食文化探検』1・『東アジアの食文化探検』2・発酵する夜1・発酵する夜2・発酵する夜3【韓国料理】・『韓国を食べる』4・『韓国を食べる』3・『韓国を食べる』2・『韓国を食べる』1・キムチチゲを作ってみるか・韓国の魚料理・辛くてオイシイ韓国・韓国料理で美味しい思い出といえば・韓国で最も一般的な料理・韓国料理あれこれ【日本料理】・『英国一家 日本を食べる』2・『英国一家 日本を食べる』1・『上方食談』2・『上方食談』1・『飲み食い世界一の大阪』・大阪 くいだおれ学・神戸ぶらり下町グルメ【その他】・もちきびが美味しそう
2016.10.11
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<謎のアジア納豆>図書館に予約していた『謎のアジア納豆』という本を、待つこと4ヶ月でゲットしたのです。写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。【謎のアジア納豆】高野秀行著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より山奥のジャングルで出会った衝撃的納豆ご飯。ぱりぱりと割れるせんべい納豆。元・首狩り族の優雅な納豆会席。中国湖南省の納豆入り回鍋肉。そして日本で見つけてしまった「究極の納豆」。本気度1000パーセントのノンフィクション大作。壮大すぎる「納豆をめぐる冒険」<読む前の大使寸評>写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。<図書館予約:(6/11予約、10/08受取)>rakuten謎のアジア納豆プロローグを見てみましょう。p5~7 <日本は納豆後進国なのか?> 辺境の旅ではときおり「奇蹟」としか言いようのない出来事に遭遇する。 14年前のあのときもそうだった。私は森清というカメラマンと一緒に、ミャンマー北部カチン州のジャングルを歩いていた。カチン独立軍という反政府少数民族ゲリラの協力を得て、中国の国境からインド国境まで旅をしようとしたのだ。 中国国境に近いカチン族の拠点から歩き始めて二日目。不慣れなジャングル・ウォークにヘトヘトになった私たちは、密林が途切れた平原にある小さな村にたどり着いた。カチン軍の将校二人と高床式の民家にあがらせてもらうと、家の主が軽い夕食を出してくれた。 食事を見て、私と森は目を疑った。 白いご飯に、生卵と納豆が添えられていたのだ。納豆は見た目からしても匂いを嗅いでも、日本のものと変わらない。出されたスプーンでかき混ぜるとよく糸を引いている。 「何これ?」 「納豆卵かけご飯だ!」 私たちは歓声をあげた。とりわけ、辺境に慣れていない森はカチン料理が喉を通らず、毎食ご飯を残していたから、喜びようは尋常でなかった。 さっそく私たちは納豆をよくかき混ぜてご飯にかけ、上から卵を落とし、食べはじめた。炊きたてのご飯の湯気と納豆の匂いを嗅ぐと自分の家に帰ってきたような気がした。納豆は醤油でなく塩で味つけされていたが、完璧なまでに日本の納豆と同じ味。 夢を見ているようだった。 ―なぜ、こんなところに日本と全く同じ納豆があるのだろう? そう思ったのは夢中で食べ終えてからだったが、やがて忘却の彼方に消え去った。なにしろこのときはなんとか生き延びてインド国境にたどりつくことが唯一最大のテーマであり、それ以外は膨大にして些細なエピソードにすぎなかった。 不思議なことに、その後カチンのジャングルを1ヵ月以上歩いたが、糸引き納豆にお目にかかることは二度となかった。なおさら夢だったのではないかと思いそうになる。 アジアの納豆はいつも衝撃的に現れる。 カチンの糸引き納豆より十年近く遡るが、いちばん最初に見た納豆もそうだった。タイ北部の町・チェンマイに住んでいたとき、当時「麻薬王」と呼ばれていたクンサーの地下宝石工場で出くわしたのだ。 クンサーは「シャン独立」を掲げた反政府ゲリラを率い、タイ・ミャンマー国境付近に拠点を置いていた。一方では、軍隊維持のため、アヘンと宝石のビジネスに余念がなく、チェンマイにも秘密の工場をいくつも持ち、部下のシャン族や中国人に経営させていた。私は偶然、そのような経営者の弟と友だちになり、工場に出入りして、ご飯をご馳走になったりもした。 あるとき、何かわからないが、妙になつかしくてホッとする味の野菜スープが出た。まだ20代半ばだった私は「うまい、うまい」と無邪気に飲み干した。すると友だちがにやにやしてこう言う。 「高野さん、このスープ、何が入っているかわかる?」 「なに?」 「納豆だよ」 「え?納豆!?」 友だちは6年間、日本に出稼ぎに行っていたことがあり、日本語が堪能だった。私が呆気にとられていると、台所から変な丸い物体をもってきた。 「ほら、これ」 それは直径10センチくらい、厚さ2,3ミリの薄っぺらい円盤状の物体だった。茶色くて乾燥しており、薄焼きせんべいのようだった。 これを火に炙ってから杵でついて粉にしてスープに入れたという。 こんなものが納豆? 豆の形もとどめてないし、糸も引かないのに? 友だちによれば、「日本と同じ納豆を作ってから潰して乾燥させている」とのことだった。実際、このせんべい状物体の匂いは納豆そのものだし、先ほど飲んだスープの「なつかしくてホッとする味」とは言われてみれば納豆の味だった。さて、この本は中尾佐助著『料理の起源』と奇しくも同時に図書館で借りたのですが・・・これら2冊では納豆文化が語られていて内容的にかぶるところがあるのです。中尾佐助さんは1916年生まれ(1993年没)で、高野秀行さんは1966年生まれで、ちょうど歳が50歳離れているのだが・・・フィールドワークをもとに立論するスタンスがよく似ているのです。ただ、中尾さんは京大在学中から官費による海外探検を行ったという正統派の学者であり、早稲田大学探検部出身の高野秀行さんは、自腹でパスポート無用の探検を行ってきたノンフィクション・ライターという違いがあるわけです。でもね・・・お二人(顔を合わせたことは、たぶんなかったと思うけど)が、もし対談できていたら、ものすごく盛り上がっていたのではないかと想像するのです♪料理の起源byドングリこの本も高野秀行の世界R2に収めておきます。
2016.10.11
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NHK土曜ドラマで『夏目漱石の妻』が放映中であるが・・・尾野真千子が演じる妻の存在感が圧倒的である。 今では飛ぶ鳥を落とすような尾野真千子さんであるが、ブレークの原点は朝ドラの「カーネーション」でしたね。このドラマの岸和田弁で、ツイッターの糸子botが毎朝「起きりー! 朝やでぇ!」と怒鳴っているので・・・・大使も、それに負けないように怒鳴りかえしているのです♪ということで、尾野真千子あれこれを集めてみました。・夏目漱石の妻(2016年)・きみはいい子(2015年)・夫婦善哉(2013年)・そして父になる(2013年)・カーネーション(2012年)・トロッコ(2010年)【夏目漱石の妻】NHK土曜ドラマ、2016年放映<最終回「たたかう夫婦」予告>より最近夏目金之助(漱石:長谷川博己)が女流作家の大塚楠緒子(壇蜜)と親しくしていると知った鏡子(尾野真千子)は、気分が穏やかでなかった。そんなある日、夏目家に親しく出入りしていた足尾銅山の元坑夫・荒井(満島真之介)が、鏡子のいとこの山田房子(黒島結菜)から借金したまま姿を消す。房子と荒井の行方を捜す鏡子。一方その頃から小説の執筆で忙しくなった金之助は、持病の胃の病の療養のために静岡の修善寺に行くが…。<大使寸評>漱石の神経質な演技が、演技過剰ではないかと思えるほどの熱演であるが・・・鏡子(尾野真千子)の演技が、漱石に負けず図太い演技で、より印象深いのである。あの偏屈な漱石さんが「歯茎を見せて笑う女」として意識したそうだが・・・尾野真千子の演技がええでぇ♪nhk「夏目漱石の妻」HP『夏目漱石の妻』byドングリ【きみはいい子】呉美保監督、2015年、H28.1.1観賞<Movie Walker映画解説>より中脇初枝の同名小説を原作に「そこのみにて光輝く」の呉美保監督が映画化した群像劇。とある町に暮らし、様々な悩みや問題を抱えて生きる人々が人と人とのつながりに光を見いだし、小さな一歩を踏み出すさまを映し出す。出演は「横道世之介」の高良健吾、「そして父になる」の尾野真千子、「そこのみにて光輝く」の池脇千鶴、高橋和也、「盗まれた欲情」の喜多道枝、「ドライブイン蒲生」の黒川芽以、「おおかみこどもの雨と雪」の加部亜門、「もらとりあむタマ子」の富田靖子。<大使寸評>親のストレスを子供にぶつけようとする母(尾野真千子)の形相が、こわ~い。また、学校の先生に、精神疾患が増えているそうだが、わかるような気がします。それにしても小学生を演じる子役たちの自然な演技が、憎らしくなるほど上手いのだ。Movie Walkerきみはいい子【夫婦善哉】NHK土曜ドラマ、2013年放映<ストーリー>より大正から昭和へ、大阪が日本一華やかだった時代。その街の片隅で、居場所を失い、自らが招いたのか何一つ報われない男と女―――柳吉と蝶子、あほな二人が繰り広げる究極のラブストーリー。陽気で、迂闊で、一途な あほな女が、不甲斐ない、身勝手な、やさぐれた あほな男と、恋に落ち、何度も裏切られ、何度も傷ついて、でも、また惚れて・・・切っても切れない腐れ縁河童横丁、梅田新道、曽根崎新地、法善寺横丁―――華やかなりし大阪の歓楽街の片隅で、ヤトナ、関東煮屋、カフェー、化粧品問屋と、さまざまな職を転々と、やがて二人は、新天地・別府へ!<大使寸評>追って記入nhk「夫婦善哉」HP【そして父になる】是枝裕和監督 2013年制作<Movie Walker作品情報>より6年間愛情を注ぎ、育ててきたわが子が、もし他人の子だったら? 突然、過酷な現実にさらされた2組の夫婦の姿を映し出すヒューマンドラマ。『誰も知らない』の是枝裕和監督が、福山雅治を主演に迎えた深遠なドラマは、第66回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されるや、審査員賞に輝いた。<観る前の大使寸評>ドキュメンタリーを意識した監督が、ライフワークのように描くテーマ、家族とはどんなかな?・・・近日中に観に行く予定です。Movie Walkerそして父になるそして父になる・公式サイトさようなら「カーネーション」より朝ドラ「カーネーション」が終わったけど・・・carnation_bot(ツイッター管理者)からていねいな挨拶がありました。岸和田弁を広め、元気を与えてくれたbotに拍手♪@carnation_bot: 〈管理者より〉ついに連続テレビ小説カーネーションが最終回を迎えました。今までこのbotを楽しんでくださったフォロワー(それ以外も)の方々には心から感謝いたします、ありがとうございました。放送が終わったら絶対にお礼を伝えたいと思い、このアカウントからご挨拶させて頂きます。(続)1 私事ですが、自分は関西の人間でありながら岸和田言葉に関しては自信のないことが多く、皆さんにご指摘やお知恵をもらい助けても頂きました。また、個人的に管理に時間をさき難い時期なども、数多くの温かいメッセージに後押しされ、更新の大きな遅れもなく半年を終える事ができました。(続)2ドラマは終わり、更新がなくなり、管理上大きく手を加えることはなくなりますが、今後もアカウントはそのままで、botの発言も続けます。(本家からの苦情等がない限りw)そしてbot宛の質問やメッセージ等へのお返事も、時間はあいてしまうでしょうが、これまで通り行うつもりです。(続)3 最後に。このツイートが届くことがあるかどうかわかりませんが、ドラマ出演者の方々、スタッフの皆様、そして渡辺あやさん、そしてそして3人の糸ちゃん、素敵な素敵な半年間をありがとうございました。本当にお疲れ様でした。このbotを管理できたこと、幸せでした。(続)4【トロッコ】川口浩史監督、2010年制作<goo映画解説>より父を亡くした年の夏、敦(あつし)と凱(とき)の兄弟は母に連れられて、初めて父の故郷である台湾の小さな村を訪れ、祖父母に温かく迎えられる。敦は亡き父が大切にしていた古い写真にトロッコと写る少年が遥か昔の幼い祖父の姿だと知る。山林を走るトロッコに乗れば日本へ行けると信じていたと懐かしそうに語る祖父。ある日、母に置き去りにされるのではないかと不安を募らせた敦は凱を連れてトロッコに乗り込む。<大使寸評>台湾の景色のすばらしさが、よく表れています。ところで、この映画に母親役で尾野真千子が演じていたことを、最近になって知ったのです。movie.walkerトロッコ映画『トロッコ』予告編
2016.10.10
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尾野真千子のファンなので、NHK土曜ドラマ『夏目漱石の妻』を欠かさず観ているのです♪あの偏屈な漱石さんが「歯茎を見せて笑う女」として意識したそうだが・・・尾野真千子の演技がええでぇ♪・・・ということで、テレビドラマ向けの鑑賞フォームを作ってみました。【夏目漱石の妻】NHK土曜ドラマ、2016年放映<最終回「たたかう夫婦」予告>より最近夏目金之助(漱石:長谷川博己)が女流作家の大塚楠緒子(壇蜜)と親しくしていると知った鏡子(尾野真千子)は、気分が穏やかでなかった。そんなある日、夏目家に親しく出入りしていた足尾銅山の元坑夫・荒井(満島真之介)が、鏡子のいとこの山田房子(黒島結菜)から借金したまま姿を消す。房子と荒井の行方を捜す鏡子。一方その頃から小説の執筆で忙しくなった金之助は、持病の胃の病の療養のために静岡の修善寺に行くが…。<大使寸評>漱石の神経質な演技が、演技過剰ではないかと思えるほどの熱演であるが・・・鏡子(尾野真千子)の演技が、漱石に負けず図太い演技で、より印象深いのである。あの偏屈な漱石さんが「歯茎を見せて笑う女」として意識したそうだが・・・尾野真千子の演技がええでぇ♪nhk「夏目漱石の妻」HPwikipediaで「夏目鏡子」を覗いてみましょう。夏目鏡子より<概要>広島県出身。漱石との間に2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうけた。陸軍軍人・岩倉久米雄の先妻・センの従姉にあたる。一般には、「猛妻」「悪妻」として知られるが、今日的な基準では鏡子の言動はむしろよき妻、良き母であったことを示すととれるものも多く、悪妻説は彼女への中傷に近いものであったとみなされることがある。<漱石との結婚後>漱石が英国留学後に神経症を悪化させ、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力(今日でいうドメスティックバイオレンス)を振るうようになり、周囲から漱石との離婚を暗に勧められた時には、「(漱石が)私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったという。
2016.10.10
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図書館に予約していた『料理の起源』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。このところ、中尾佐助氏の著書をフォローしているのです。まあ、ツボなんでしょうね♪【料理の起源】中尾佐助著、吉川弘文館、2012年刊<商品説明>より全世界の家庭で日常行なわれている食糧の加工・料理に、初めて学問的なメスを入れる。日本の食文化の「深層」に迫った名著!<読む前の大使寸評>このところ、中尾佐助氏の著書をフォローしているのです。まあ、ツボなんでしょうね♪<図書館予約:(10/04予約、10/08受取)>amazon料理の起源味噌や納豆の原料としてのマメ類を知りたいということで・・・・第5章「豆の料理」を見てみましょう。 <マメは煮えにくい>p101~102 マメ類は穀物に比べると、いろいろ特色がある。マメ類には穀物とちがって、貯蔵栄養分として、澱粉の代わりに、油分が多くなっていることは、一つの特色である。またマメは穀物より蛋白質に富んでいて、食糧として価値が高い。 これらは化学分析技術などが最近発達してきたことによって、明快になってきたことであるが、古代人にとって、マメ類は穀物と料理上大きくちがっている点が一つあった。それは穀類澱粉は水を加えて加熱すれば容易に食べやすく、消化しやすいのに対し、マメ類は水を加えて煮てもなかなか軟らかくなりにくいことである。マメ類は野生から栽培植物となり、高度の品種となるほど、一般に煮やすい形態に変化発達してきていると了解できよう。 概論的に言えば、マメ類は穀類よりも加工、料理に高度の技術が必要な食品ということができる。マメの料理法はこの点からながめるのが一番適当であろう。マメ類の料理法として一番簡単なものは、マメを火で炒ってこげめをつけるだけである。 日本の節分の日にまく大豆はそうしたものであるし、またソラマメにもこんな加工がある。チベット人はエンドウ、ソラマメ、ダイズ(ヒマラヤ中腹産)などの炒ったものをツァンパとともに旅行用食糧として持ち歩いているのを、私はしばしば見たことがある。 日本やチベットで出会ったこの炒ったマメは、非常にかたくて、食べにくい食品と言ってよいだろう。おそらく歯の丈夫な原始生活をしている人にとっても、炒り豆をたくさん食べることは困難であろう。これはもう、口のさみしさをまぎらわす食品といった程度のもので、マメが本格的に料理されているものとは、ちょっと考えがたいものである。 今日の改良されたマメ類でも、台所で水とともに煮て軟らかなマメにすることは相当にむつかしいか、あるいは時間がかかる。煮豆をつくることは米を炊くよりずっと面倒なものであることは主婦は誰でも知っているだろう。 <ナットウの大三角形と味噌>p106~109 ジャワのテンペ、ヒマラヤのキネマ、日本のナットウの三つは、今のところはっきりしたナットウの三例である。ここで言うナットウとは、浜納豆、大徳寺納豆のように、ダイズを煮て、塩味をつけて発酵させたものではない。ただし発酵菌の種類は同一とはいえない。無塩のナットウを問題にしているのである。中国におけるナットウ状のものは、いまのところ加塩発酵のものしか判っておらず、無塩のナットウの所在はわかっていない。 しかし日本、ヒマラヤ、ジャワのナットウの存在が偶然の一致でなく、もしどこかからこの三地域に伝播したと仮定すれば、おのずからその仮定中心地は雲南省あたりに求めらることになるだろう。そうなると、これら地域間の文化的共通性が予測されることになるだろう。その範囲は、当然ナットウを指標とすると、日本、ヒマラヤ、ジャワを結んだ三角形の地域になる。メルカトール図法の地図上にこれら三地点を頂点とした三角形を書き、これらをナットウの大三角形とよぶことにしよう。ナットウの大三角形 日本の糸引きナットウの歴史はよく判らない。コンニャクは平安朝の文書には明らかに出てくるが、糸引きナットウの確認はできない。日本では室町時代に糸引きナットウがあらわれるので、これはもしかしたら、その頃にジャワから日本に伝来した可能性があると推測される。つまり当時ポルトガル人が活動して、鉄砲やカボチャが南蛮物として日本へ導入されたが、糸引きナットウもその一つとしてジャワから日本へ入ったものかもしれない。 これに対して、加塩された大豆発酵品は中国でも日本でも古くから存在し、これは味噌、醤油、タマリなどの一群をつくる加工品になる。これらは中国でも日本でも歴史的に変遷がある程度わかっており、複雑、膨大な加工食品群となっている。それらをここでは、ナットウに対してミソ群として一括しておくことにする。 ミソ群はナットウの大三角形の圏外となる華北で大発達し、華中から日本、朝鮮を含んだ地域に分布いている。この地域内では味噌、醤油、加塩納豆の類がともども見られる。(中略) ミソ楕円をつくりあげたのは、華北の文化であり、いわゆる中国文化の産物といってよい。しかしナットウの大三角形の成立については、同じ起源のものと考えにくい。この大三角形の中には、本来華北中国的と異なる文化要素が多く見出される。コンニャクはその一例であり、ほかにスシがまたこの三角形内にある。また酒に関しては、主としてコージを用いてシコクビエを濡れた状態で発酵させ、壷に入れて熱湯をそそぎ、竹の長いストローで吸って飲む型の酒がある。これはヒマラヤ地域ではチャンの名のもとに普及しており、チベット族も多く飲用している。この型の酒がボルネオまであって、その分布は大三角形の一つの底辺にほぼ一致している。 ナットウの大三角形の中にはこのように複雑な連帯性が存在するが、それを一元的に説明するには、おそらく、雲南あたりに中心のあった照葉樹林文化の開発した文化要素が、南流して東南アジアにいたり、一方西はヒマラヤ、東は日本へと伝播したとすれば、説明できるであろう。 目からウロコが落ちるナットウ論、照葉樹林文化論ではないか・・・文化は中華、朝鮮を経て到来するという固定観念をぶち破る中尾さんの論調がええなぁ♪
2016.10.09
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「アジア料理」でしょうか♪<市立図書館>・現代思想の遭難者たち・会社人間だった父と偽装請負だった僕・謎のアジア納豆・料理の起源<大学図書館>・宮本常一とあるいた昭和の日本23図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【現代思想の遭難者たち】いしいひさいち著、講談社、増補版2006年刊<「BOOK」データベース>よりいしいワールドに分け入った現代思想の冒険者たちは、鬼才漫画家の頭脳内部で氾濫、溶解し、そして遭難!変わり果てた遭難者たちの姿がここに。<読む前の大使寸評>ニーチェ、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、ラカン、ウィトゲンシュタイン等々・・・その著作を読んだこともない現代思想家のオンパレードで、とにかく難しい漫画である。辛辣なオチがあるのか?と見てみても・・・思想家自体をよく知らないのであまり笑えません(汗)<図書館予約:(9/19予約、10/06受取)>amazon現代思想の遭難者たち現代思想の遭難者たちbyドングリ【会社人間だった父と偽装請負だった僕】赤澤竜也著、ダイヤモンド社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりかつて会社は永遠だった。「負け組」「下流」という言葉が跋扈し、会社は平気で人を切り捨てるようになった。この国が目指した先にどんな社会があるのか、今、誰もが気づき始めている。企業戦士として生き抜いた父の人生と自らの体験を通して、働くことの意味と社会のあるべき姿を問いかける渾身のノンフィクション。<大使寸評>著者は大阪出身で、塾講師、銀行マン、風俗店、トラック運転手などを経て現在は週刊誌記者というすさまじい職歴である。関西の底辺をレポートしているが、語られる関西弁が大使にひびくのおます♪企業戦士を父に持ち、荒れる中学校を生き抜いた著者は、大学を卒業するまでに、いやというほどの学生間格差を体験し、どこかが壊れていたのではないか?rakuten会社人間だった父と偽装請負だった僕【謎のアジア納豆】高野秀行著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より山奥のジャングルで出会った衝撃的納豆ご飯。ぱりぱりと割れるせんべい納豆。元・首狩り族の優雅な納豆会席。中国湖南省の納豆入り回鍋肉。そして日本で見つけてしまった「究極の納豆」。本気度1000パーセントのノンフィクション大作。壮大すぎる「納豆をめぐる冒険」<読む前の大使寸評>写真も多く、わりと厚みのある本であり・・・本気度1000パーセントというコピーにも頷けるのである。これまで高野さんの本を5冊ほど読んでいるが、どれも面白かった。この新刊も面白いはずである。<図書館予約:(6/11予約、10/08受取)>rakuten謎のアジア納豆【料理の起源】中尾佐助著、吉川弘文館、2012年刊<商品説明>より全世界の家庭で日常行なわれている食糧の加工・料理に、初めて学問的なメスを入れる。日本の食文化の「深層」に迫った名著!<読む前の大使寸評>このところ、中尾佐助氏の著書をフォローしているのです。まあ、ツボなんでしょうね♪<図書館予約:(10/04予約、10/08受取)>amazon料理の起源【宮本常一とあるいた昭和の日本23】田村善次郎著、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。<読む前の大使寸評>シリーズ本23のテーマは、「漆・柿渋と木工」となっていて・・・大使のツボでんがな♪amazon宮本常一とあるいた昭和の日本23***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き176
2016.10.09
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図書館に予約していた『現代思想の遭難者たち』という本を、待つこと半月でゲットしたのです。ニーチェ、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、ラカン、ウィトゲンシュタイン等々・・・その著作を読んだこともない現代思想家のオンパレードで、とにかく難しい漫画である。【現代思想の遭難者たち】いしいひさいち著、講談社、増補版2006年刊<「BOOK」データベース>よりいしいワールドに分け入った現代思想の冒険者たちは、鬼才漫画家の頭脳内部で氾濫、溶解し、そして遭難!変わり果てた遭難者たちの姿がここに。<読む前の大使寸評>ニーチェ、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、ラカン、ウィトゲンシュタイン等々・・・その著作を読んだこともない現代思想家のオンパレードで、とにかく難しい漫画である。辛辣なオチがあるのか?と見てみても・・・思想家自体をよく知らないのであまり笑えません(汗)<図書館予約:(9/19予約、10/06受取)>amazon現代思想の遭難者たちちなみに、ウィトゲンシュタインの1例を見てみましょう。・・・ワカラン(汗)。『現代思想の遭難者たち』の画像よりこの本もいしいひさいちの世界R2に収めておきます。
2016.10.08
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図書館で『記録された記憶』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪【記録された記憶】東洋文庫編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース目次>より第1章 文明・国家・宗教の成立ー紀元前~7世紀(甲骨文字/古文尚書と論語集解 ほか)/第2章 民族の移動と東西交流のあけぼのー8世紀後半~14世紀半ば(古事記/万葉集 ほか)/第3章 広がりゆく世界ー14世紀後半~17世紀初頭(永楽大典/鄭和の航海図 ほか)/第4章 専制国家の隆盛ー17世紀初頭~18世紀末(群書治要と帝鑑図説/ジョン・セーリスの航海日誌 ほか)/第5章 激動の近代アジアー19世紀(大南寔録/環海異聞と北蝦夷地部 ほか)<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪rakuten記録された記憶明治期の日本で活躍した外国人たちを見てみましょう。p184~185 <日本で出会った同い年の研究者> ギリシャ生まれの小説家・日本研究家のパトリック・ラフカディオ・ハーン(1850~1904)は、1890年にアメリカの出版社の通信員として来日し、その6年後に日本国籍を取得して小泉八雲を名乗ります。日本語学者チェンバレンの紹介で島根県立松江中学校の英語教師となり、翌年熊本の第5高等中学校に移りました。ここで、出雲出身の妻節子と結婚します。 1896年から6年半にわたって東京大学で英文学を講義し、早稲田大学へ移った1904年に亡くなりました。10数冊に及ぶ日本時代の著作のうち、出雲の生活を書いた『知られぬ日本の面影』と日本各地の伝説や幽霊の話などを集めた『怪談』は特に有名です。 チェンバレンが来日間もないハーンを松江中学校に紹介した縁で、ハーンとチェンバレンには親交がありました。 本資料の往復書簡は、1890~96年にかけてハーンがチェンバレンや親しい友との間でやり取りした自筆の手紙128通です。 イギリス生まれの日本語学者・日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンは、1873年にお雇い外国人として来日し、1874~82年に海軍兵学寮で英語を教えました。1886年からは東京帝国大学の教師として日本語を講じて、日本の言語研究に大きな影響を与えました。また、日本語や日本に関する研究だけでなく、琉球やアイヌに関する研究、俳句や『古事記』を英訳したことでも知られています。 <あこがれの日本はいずこ?> 一方、パリ生まれのフランス人画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、22歳の時に来日しました。幼い頃から絵の才能を開花させたビゴーは、12歳でパリの美術学校エコール・デ・ボザールに入学しますが、家計を支えるために退学し、小説の挿絵などを描いて生計をたてていました。やがて、ビゴーは交流していた芸術家や文化人から、ジャポニスム、特に浮世絵の影響を受け、日本に強い関心をいだくようになりました。 しかし、ビゴーが来日した時、日本はすでに文明開化の時代であり、西洋文化を追いもとめる日本人は古き良き自国の文化を忘れさろうとしていました。日本の変貌のはげしさに、ビゴーは落胆しました。 <変わりゆく日本に風刺をこめて> 1882年から二年間、陸軍士官学校の画学教師を務めたビゴーは、1887年からは横浜の外国人居留地で、漫画雑誌『トバエ』をはじめとする数々の風刺雑誌、風刺画集の刊行を始めました。 教科書にしばしば取り上げられる「漁夫の利」や「ノルマントン号事件」といった作品をhじめ、条約改正や日本をめぐる内外の政局、欧米と肩をならべようと背伸びする日本人を風刺した漫画を描き、官憲に注意人物と見られていました。 ビゴーがこうした風刺画を自由に描くことができたのは、当時の日本が不平等条約改正前で、治外法権のもとにある居留地では、出版の自由が保証されていたためです。日清戦争では、イギリスの新聞『ザ・グラフィック』の特派員として朝鮮に従軍しましたが、写真機の性能の向上により、報道画家の存在意義がうすれていくことに不安を感じました。1899年、条約改正によって居留地が廃止されると、ビゴーは官憲の弾圧をおそれて帰国しました、 近代化という荒波の中で、あられもなく変わっていく日本の姿にビゴーは失望しましたが、その失望を笑いにかえて漫画を描いたのです。明治の日本を風刺したビゴーの作品には、つきはなすような冷たい視線はありません。むしろ、背伸びする日本に対するあたたかい眼差しが感じられるのです。ビゴーのトバエを見てみましょう。トバエの画像より『記録された記憶』1『記録された記憶』2『記録された記憶』3
2016.10.08
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図書館で『記録された記憶』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪【記録された記憶】東洋文庫編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース目次>より第1章 文明・国家・宗教の成立ー紀元前~7世紀(甲骨文字/古文尚書と論語集解 ほか)/第2章 民族の移動と東西交流のあけぼのー8世紀後半~14世紀半ば(古事記/万葉集 ほか)/第3章 広がりゆく世界ー14世紀後半~17世紀初頭(永楽大典/鄭和の航海図 ほか)/第4章 専制国家の隆盛ー17世紀初頭~18世紀末(群書治要と帝鑑図説/ジョン・セーリスの航海日誌 ほか)/第5章 激動の近代アジアー19世紀(大南寔録/環海異聞と北蝦夷地部 ほか)<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪rakuten記録された記憶記録された歴史として・・・・中国の「大航海時代」について見てみましょう。ただ惜しむらくは、鄭和の南海遠征は、中華の闇にまみれて、継続されることなく廃止されるのです。p64~65 <鄭和の南海遠征> ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ率いる4隻の船がインドのカリカットに到着したのは、1498年のことでした。その約1世紀も前に、明の宦官鄭和(1371~1434頃)の率いる62隻の艦隊が、南シナ海からインド洋を経て、遠く東アフリカ沿岸まで到着しました。 1405年から33年まで7度にわたって行われたこの大航海は、「鄭和の南海遠征」と呼ばれています。目的は、明の国威をアジア諸国に示し、朝貢を促すことでした。朝貢とは、中国を文明の中心と認めて臣属し、その証として中国を訪問することをいいます。 この遠征ののち、多くの国々が明にしました。ここに紹介するのは、その鄭和の南海遠征の航海図で、1621年に刊行された、茅元儀の『武備志』に収められています。 鄭和の一大事業を推し進めたのは、永楽帝でした。もともと北平(現、北京)に拠点を置く皇族だった永楽帝は、帝位につくと、元に匹敵する広大な中華世界の建設に乗り出します。彼は、宦官鄭和を南海に派遣する一方、自ら軍を率いてモンゴル遠征を行うなど、活発な外交・遠征を展開しました。 明は1404年に日本と勘合貿易を始めていますが、実はこれも永楽帝の積極外交の一環として行われたものでした。鄭和の南海遠征は、日本史にも関連する出来事だったのです。 <大航海を支えた東西交流>鄭和の航海図 『武備志』によると、鄭和の航海図は、海図と星図から成ります。艦隊は羅針盤を用いつつ、南シナ海では、沿岸の風景などを見る中国伝統の航法を使い、インド洋では星座の高さを測定するイスラームの航法を使って航海したことがわかっています。 また、司令官であった宦官鄭和は、もともと元代に中国に移住したイスラーム教徒の出身でした。この大航海には、元代中国とイスラームの東西交流の遺産が生かされていたのです。 <生き残った航海図> しかし、こうした大規模な外交活動は、永楽帝・鄭和の死後、明の国力の衰えとともに行われなくなりました。鄭和の残した多くの資料も不要なものとして処分されてしまいます。 17世紀に入ると、明の東北辺境にいた女真族が台頭して勢力を広げ、明を圧倒し始めました。これに危機感を抱いた知識人の一人が冒頭で紹介した茅元儀です。 彼は、迫りくる外敵に対抗するために、軍備の建て直しが必用だと考え、中国歴代の兵書を研究し、その集大成として『武備志』を完成させました。1621年のことです。 その編纂過程で、茅は、処分をまぬがれて民間に流出していた鄭和の資料も収録しました。それが、この航海図です。明が対外的危機におちいるなか、明の国威を輝かした鄭和の事績が再び注目されたのかもしれません。この書物は、南海遠征の詳しい航路や航海技術を知ることのできる貴重な史料です。茅元儀の献策もむなしく、明は滅亡の道を歩みます。鄭和が遠征艦隊の官軍側司令官であるなら、一方で約200年経った東シナ海で、鄭成功は海戦に長けた海賊の頭目のような人物である。国姓爺と呼ばれた鄭成功について見てみましょう。p98~99 <清朝誕生> 日本が寛永の大飢饉に見舞われていた1640年前後、中国でも異常気象による全国的な飢饉が起き、農民反乱が各地に広がっていました。その最大の勢力が李自成です。1644年3月、李自成が北京を攻略すると、明朝最後の皇帝となった崇禎帝は自殺し、明は滅亡しました。 しかし、事態はここから意外な展開を見せます。山海関の外で清軍と対峙していた明朝の将軍・呉三桂が、李自成を討つために清と和睦し、山海関を開いて清軍をむかえ入れたのです。これによって、清軍は「仁義の軍を率いて流賊を滅ぼす」という大義名分を得て、北京へ進撃しました。同年5月、清軍は北京を占領、9月、皇帝の即位式を行いました。 ここに、清朝が明朝を継ぐ中国の正統王朝であることを明らかにしたのです。1645年には、清朝によってほぼ全土が征服されました。 <国姓爺と呼ばれた男> 清にとって最大の脅威は、東南沿岸を拠点として日本や東南アジアとの貿易を活発に行っていた鄭氏勢力でした。大規模な船団をひきいる鄭芝龍とその子の鄭成功は、明の皇族を擁立した南明政権に参加します。 鄭成功は、父・芝龍と日本人女性田川マツとの子ですが、のちに功を認められて、明王朝の国姓「朱」を与えられました。彼が、国姓爺と呼ばれるのはそのためです。 彼は、東シナ海・南シナ海での交易から得られる潤沢な資金を財政基盤として、一時は長江をさかのぼって南京にまで迫り、海戦に慣れない清軍を悩ませました。また、4回にわたって日本の徳川幕府に手紙を送り、援兵を請います(日本乞師)。結局、日本乞師は失敗しましたが、鄭氏の持つ海外とのつながりを恐れた清朝は、海外貿易に依存する鄭成功の財源を断つため、1656年に海禁令を強化します。 さらに、福建・広東沿海の住民を20キロ以上内地に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして鄭氏勢力と住民との接触を断とうとしました。 こうした沿岸封鎖で拠点を奪われた鄭成功は、海外に新たな拠点をつくるべく、台湾へ侵攻しました。当時、台湾は、中国本土の港に来航することを許可されていなかった諸外国の船が中国帆船と出会い貿易を行うための絶好の拠点でした。 オランダは、1624年、台南の外港安平を占拠し、城塞を築きました。これがゼーランディア城です。成功はここを包囲し、オランダ勢力を追い払って占領しますが、そのわずか4ヵ月後の62年、病死します。その後も、鄭氏は台湾を拠点として清朝に対抗しましたが、83年についに降伏します。ここに、清朝による中国全土の統一が完成されたのです。 <イメージの中の鄭成功> 鄭成功の名は、さまざまなイメージを持って後世に伝えられています。ヨーロッパでは東アジア貿易を牛耳る強力な海賊として、台湾では本土回復をめざす忠臣として、あるいは台湾の開発を促進した「開土王公」として、中国大陸ではオランダを打ち破った民族英雄として伝えられています。 日本における鄭成功のイメージを決定したのは、近松門左衛門が脚色した人形浄瑠璃『国姓爺合戦』です。鄭成功をモデルとする日中混血の和藤内が明の復興のために活躍するさまを描いたこの作品は、1715年に大阪の竹本座で初演されると人気を博し、17ヶ月に及ぶ長期の興行となります。国姓爺『国姓爺御前軍談』 歌舞伎の荒事にも影響を与え、それを題材とした文学作品も多く生まれました。その内容はもちろん史実と異なりますが、日本と中国を股に掛けた壮大なストーリーであること、加えて異国の風俗描写の物珍しさもあって、鎖国当時の日本人の興味を引きました。また、かつて受けた恩義を忘れず、最後まで忠誠をつくす主人公和藤内の姿は日本で広くうけ入れられました。『記録された記憶』1
2016.10.07
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図書館で『記録された記憶』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪【記録された記憶】東洋文庫編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース目次>より第1章 文明・国家・宗教の成立ー紀元前~7世紀(甲骨文字/古文尚書と論語集解 ほか)/第2章 民族の移動と東西交流のあけぼのー8世紀後半~14世紀半ば(古事記/万葉集 ほか)/第3章 広がりゆく世界ー14世紀後半~17世紀初頭(永楽大典/鄭和の航海図 ほか)/第4章 専制国家の隆盛ー17世紀初頭~18世紀末(群書治要と帝鑑図説/ジョン・セーリスの航海日誌 ほか)/第5章 激動の近代アジアー19世紀(大南寔録/環海異聞と北蝦夷地部 ほか)<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪rakuten記録された記憶記録された歴史として・・・・まず、魏志倭人伝について見てみましょう。p16~17 <そんな書名の本はない?> 「魏志倭人伝」という名前の書物は中国の古典籍には存在しません。それは中国の歴史書『三国志』中の一つ、「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝の「倭人」の条の通称です。 『三国志』は、西普の陳寿が、後漢末の混乱期から西普による天下統一までの時代(180頃~280頃)を書いた歴史書です。(中略) <女王が君臨する国へ> 「魏志倭人伝」として知られる烏丸鮮卑東夷伝の「倭人」の条は、「魏書」全30巻の末巻第30巻のさらにその末尾にあります。 その記述は、倭の地理的位置から始まり、続いて帯方郡から倭の諸小国を経て、「南のかた邪馬台国に至る。女王の都する所なり」と、邪馬台国への工程が書かれています。ここが今なおその解釈をめぐり論争が続く邪馬台国の位置の根拠とされるところです。 その他、倭人の条には続いて人々の生活、風俗、習慣や、外交について記されています。特に、239年、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に大夫難升米を派遣し、男女10名の奴隷や貢物を贈り、それに対し魏の皇帝から、「親魏倭王」の金印や銅鏡100枚などが贈られたという記述は、卑弥呼が中国皇帝の権威をかりて、自国の支配権を安定させていたことを示しています。 これらは、中国の歴史書の中でも、日本に関するはじめてのまとまった記事といえ、当時の日本を知る史料として重視されています。お次に、広開土王碑文を見てみましょう。p18~19 <4~5世紀の東アジア世界> 4世紀から5世紀にかけての東アジア世界では、北方諸民族が勢力をのばして大規模な移動を開始しました。中国では北方の匈奴を初めとする遊牧諸民族(五胡)が華北に進出し、多くの漢人は華北から江南(長江下流域)へと移住して南北分裂動乱時代(南北朝時代)を迎えました。 このため周辺諸民族に対する中国の影響力は弱まり、東アジアの諸地域では次々と国家が形成されました。 中国北東部に前1世紀頃おこった高句麗(前1世紀~668)は、朝鮮半島北部に領土を広げ、313年、漢の支配地であった楽浪郡を滅ぼしました。このころ朝鮮半島南部では馬韓、弁韓、辰韓といった小国が分立していましたが、4世紀には半島西部に馬韓から百済が、東側に辰韓から新羅がおこり国家を形成しました。さらに4世紀後半に高句麗は、半島南部の鉄資源を求めて、かつて弁漢からおこった伽耶(加羅)諸国の支配をめざし、南下していました。 そのころ倭と呼ばれていた日本では、ヤマト政権による地方征討がすすめられました。その結果、鉄資源の確保のため半島南部の伽耶を初め新羅・百済と密接な関係を持ち、高句麗に対抗しました。高句麗の広開土王碑の碑文には、倭が高句麗や新羅と戦ったことが記されています。 <荒野に立つ> 広開土王碑は、高句麗の最盛期を築いた第19代広開土王の治績を後世に示すために、王の死後の414年に、子の長寿王によって都の丸都城(現在の中国吉林省集安市)に建てられました。高さ6.39メートルに達するやや歪んだ自然石の石柱で、長いあいだ荒野の中に忘れられていたのを、1880年頃に偶然発見されました。書体が隷書という中国で確立した漢字の古い書体を用いていることから、書道の分野でも手本として珍重され、たくほんもが多くとられました。(中略) 記載の大半は領土拡大に関することで、倭軍との戦いについても述べられています。なかでも第I面第8~9行に見える「辛卯年(391年)条」については、日本のことを示す「倭」字が出てくること、2~3字相当の判読不明の文字があることから、従来様々な解釈がなされ、広く注目を集めています。 この碑は、広開土王の治績を顕彰するために建立されたことから、記述には多少の誇張が含まれていると考えられます。しかし高句麗史研究における同時代の史料として、貴重であることに変わりはありません。
2016.10.07
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図書館で『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」』という本を手にしたのです。『武士の家計簿』というベストセラーがあったが、この本は「絵師の家計簿」とでもいえるかも♪【江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」 】安村敏信著、小学館、2008年刊<「BOOK」データベース>より収入、住まい、家族、友人、パトロン、事件、いじめ、異性関係―、探幽から暁斎まで、江戸時代絵師150人の仕事とプライバシー。江戸期の絵師事典付き。江戸文化歴史検定受検者も必携。<読む前の大使寸評>『武士の家計簿』というベストセラーがあったが、この本は「絵師の家計簿」とでもいえるかも♪amazon江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」第2章の2「民間絵師の稼ぎと生計」を見てみましょう。p83~84 <池大雅の画料> このあたりで、民間画工、すなわち絵を売って生活しっていた人たちの稼ぎに目を向けてみたい。あまり資料が多くないので断片的な記述になってしまうが、少し触れておこう。まず池大雅である。 大雅といえば、江戸中期に、我が国に新しい中国画が流入して生まれた南画を大成した画家として知られる。この大雅の47歳のときの作と推定されている『離合山水図屏風』がある。この屏風に中尾九朗右衛門にあてた手紙がついており、そこで画料として金500疋を受け取ったことが判明する。金1疋を25文とすると500疋は1万2500文(約2.5両)である。このころすでに名を成した大雅としては割安の画料といえよう。瀟湘勝概図屏風 また『瀟湘勝概図屏風』は六曲一隻に瀟湘八景を描いた淡彩の中屏風だが、これにも中尾九朗右衛門あての大雅の令状が貼られている。それによると、画料は1両である。中尾氏を介すると安くせざるを得なかった事情があるらしい。というのも水戸の岡野行従編『逢原紀聞』に、大雅が淀公のために金屏風を描いたことが記されており、その謝礼として金30両を頂戴しているのだから、大雅の相場は結構高かったとみられるのだ。第3章の3「奥絵師はどれだけ偉いのか」を見てみましょう。p138~139 <探幽と「鬼平」との給料の差は?> 幕府御用絵師が民間画工に比べて、社会的にどれだけ偉いのかは興味深いところだ。 そこでまず、幕府から地位を与えられている奥絵師について、それが武家社会の階級制度のなかでどの程度のものなのかを見てみたい。 奥絵師も時代によって地位は変わるだろうから最初に狩野探幽を取り上げてみよう。彼は後年「画壇の家康」とまで言われた江戸狩野派の創始者であり、その頂点に立った画家である。探幽の月俸は、寛永5年(1628)、27歳のときから20人扶持を与えられている。また後年63歳のときには采地200石を河内国河内郡客坊村(現、大阪府東大阪市)に賜っている。この20人扶持や200石取りが同じ武士の身分で、どの程度の階級の人と同じなのかを見てみよう。 江戸幕府の役職は数多くあるが、たとえば小姓組番や書院番と言っても、それが一体どんな仕事をするのか見当がつかない。そこで私はまず卑近なものとして、『鬼平犯科帳』でなじみのある火付盗賊改と比べてみることにする。彼らは先手弓頭や先手鉄砲頭から選ばれ、火付盗賊改を兼務するのだという。 先手頭は1500石高で、兼務料として十人扶持が加給されたという。したがって、探幽の200石よりはるかに高給取りだとわかる。 つぎに、「遠山の金さん」でおなじみの江戸の町奉行と比べてみよう。町奉行は南町奉行・北町奉行があり、月番で交代した。ご存知の「遠山の金さん」は北町奉行である。この江戸奉行は3000石高とかなり高給である。 それでは彼らの配下の八丁堀与力・同心はどうだろう。テレビドラマで「八丁堀の旦那」と呼ばれている人々である。彼ら八丁堀与力は定員50騎で、各々200石を賜り、八丁堀に300坪の宅地が与えられていた。 探幽の200石と同格の役職がひとつ見つかった。しかし彼らの実収は1000石以上といわれたので、実質的にどうだろう。探幽もさまざまなアルバイトをしていたので実収の程はわからない。ただ、八丁堀与力は旗本ではないため将軍には御目見えできなかったので、身分としては探幽が上だろう。
2016.10.06
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図書館で『アジア新聞屋台村』という本を手にしたのです。おお 高野秀行さんの本やないけ♪高野さんの本なら、絶対に外れはないはずである♪・・・大使が断言します。【アジア新聞屋台村】高野秀行著、集英社、2006年刊<「MARC」データベース>よりワセダ三畳間にくすぶっていたタカノ青年、突然、新聞社の編集顧問に迎えられて…本邦初!自伝仕立て“多国籍風”青春記。<読む前の大使寸評>高野秀行さんの本は絶対に外れはないはずである♪・・・大使が断言します。高野さんの初期の著作であり、まだ「間違う力」が育つ前なので、わりと真面目な直球勝負になっているようです。rakutenアジア新聞屋台村台湾出身で、タンクトップにショートパンツ、茶髪のロングヘアの劉社長との出会いあたりを見てみましょう。 <ここはスパイス香る屋台村>p24~27 しかし、テレビで見る武蔵丸とちがい、バンバンさんは茫洋としているのは顔の造りだけで、表情豊かによくしゃべる。日本語もうまい。 バンバンさんは「インドネシア・インフォメーション」の編集をやっているという。もうエイジアンに参加して二年以上経つらしい。 「どうして、劉さんは、こういうふうにいろんな国の新聞を出すんですかね?」 私は今抱いている疑問をバンバンさんにぶつけてみた。 「もしかすると、劉さんはナショナリズムとか内輪の集まりが嫌いな国際派なんですか?」 すると、バンバンさんは「アッハッハ」と豪快に笑った。 「ちがうよ、劉さんね、あの人は単に『安定』が嫌いなの。国際派なんて関係ないね」 安定が嫌い?それだけが理由? 「そうよ」バンバンさんは自信たっぷりに答えた。 バンバンさんによれば、劉さんはいつでも新しいことにチャレンジするのを生き甲斐としている。だから、新しく始めて新聞が順調に流れ出すと、もう次の国に興味が移る。 今はここにある五紙だが、それまでに、いくつもの新聞が出現しては消えていった。例えば90年代中頃には、ベトナム語の新聞が創刊されたが、日本には思ったほどベトナム人がいなかったこと、また当時はまだベトナムがブームになっていなかったことなどで、広告も入らないし、購読者もいないので、3ヶ月で打ち切ったという。 「ムチャクチャですね。ふつう、始める前にマーケティングくらいするでしょう」 どうも話を聞いていると、劉さんの経営方針とは、「まず出す。よかったら続ける。ダメなら止める」のようだ。それを「経営方針」と呼べるかどうかは疑問の余地があるが、とにかく、そういう安易なスタンスを頑なに貫いているらしい。 すると、小ぶりな武蔵丸がこう言った。 「あのね、タカノさん。こう考えてみて。ここは屋台なの。屋台の集まり。よくあるでしょ、レストランで「屋台村」っていうのが。『インドネシアの新聞、ある?』って言われたら、『はい、あります』。『タイの新聞は?』って訊かれたら『はい、どうぞ』。印刷した新聞の数が足りないときは『もう売り切れました』。だから、ここは屋台村と一緒よ」 なるほど!私は目から鱗が落ちたような気がした。 アジア風の屋台か。それならこの気安さも納得がいく。料理の代わりに新聞を出す。メニューを増やして評判がよければ続けるし、ダメなら止める。店同士で材料を融通するのも可能だ。 客が増えればテーブルと椅子を増やす。客が減れば、席も減らす。 さっき「マーケティングをしない」と言ったが、それもちがう。新聞を出すこと自体がマーケティングなのだ。準備もろくにしないで発行するから、コストがかかっておらず、失敗しても痛手が少ない。 日本人なら何をするにも「まず店を持たねば」「準備を入念にしなきゃあ」と考える。ところが、ここは中華鍋一つと屋台があればとりあえず始めてしまう。店がどうのとか、経営をどうするとかは、またあとで考えればいいことなのだ。 私はこの卓抜したアジア的発想に打たれた。勤めた経験がないからよく知らないが、話によく聞く日本のマスコミ企業の風通しの悪い世界とは対極にある。風通しどころか、社内にモンスーンが吹き荒れ、ヤシやバナナの木がゆっさゆさ揺れているような気すらする。 同時に、劉さんという風変わりな人の輪郭も見えてきた。 劉さんは、束縛を嫌う人なのだ。ふつうの経営者は見てくれが立派なレストランを開こうと思う。腕のよいコック(編集者やライター)を雇って、人気メニューを作ろうとする。しかし、そうなると、会社は格式は上がるかもしれないが、つまらなくなる。 劉さんは子犬のような顔で笑うし、子犬のように社内を(たぶん、社外も)飛びまわっているが、気持ちも子犬のような人なのだろう。鼻先に常に新鮮な風をあてていたいという好奇心いっぱいの子犬なのだ。 それは、大学時代に探検部に所属し、コンゴで謎の怪獣を探したり、ゴールデントライアングルでアヘン生産に従事してきた私の生き方にも通じるところがあった。ゲリラ的に活動する探検部気質そのままとも言えた。 現金なことに、ついさっきまでエイジアンを「国連」「国際的組織」に喩えようと努力していたことも忘れて、私は劉さんの心意気に強く同感した。いいじゃないか、常識や格式なんて。 実際に、常識や格式がない新聞社というものが存在しうるのかどうかは若干気にはなったものの、私はこの新しさに魅了された。アジア新聞屋台村。それはこの猥雑で、お気楽で、和気あいあいとした社内の空気を何よりもよく表している。 エイジアン社もある意味では「外資系」企業なんだが、社内の共通言語が日本語というのもユニークなところである。英語新聞を出そうということで、劉さんがイギリス人のセバスチャンを引っ張ってきたが、彼は日本語が喋れないという、決定的な弱点があるのです。このあと読みすすめるのだが、さてどうなることやら。この本も高野秀行の世界R2に収めておきます。
2016.10.06
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図書館で司馬遼太郎×小田実著『天下大乱を生きる』という本を手にしたのです。おお 偉大な思想家とも言えるお二人の対談とは・・・すごい対談が企画されたもんやでぇ♪初版が1977年とかなり古いのだが、当時の歴史認識には興味を惹かれるのです。【天下大乱を生きる】司馬遼太郎×小田実著、風媒社、1996年刊<「MARC」データベース>より渾沌とする時代状況をまっすぐにつき進んだ二人の「自由人」。国家とは何か。日本人とは何か。アジアを駆け、世界を股にかける唯一無二の対談集。1977年潮出版社刊行の再刊。<読む前の大使寸評>おお 偉大な思想家とも言えるお二人の対談とは・・・すごい対談が企画されたもんやでぇ♪初版が1977年とかなり古いのだが、当時の歴史認識には興味を惹かれるのです。amazon天下大乱を生きる小田さんのファシズム論を見てみましょう。東条英機のファシズムは民主ファシズムだったとのこと。p116~120司馬:ところが大阪のぼくの友だちの錠前屋は、全部下請けの町工場に請負で頼んでいる。下請けの町工場は彼の系列下に入っているだけです。だから、解散しようと思えばいつでもできる。私の友人がカバン一つで夜逃げしたら、それで解散という仕組みです。 そのシステムを彼がドイツ人にいくら説明しても分からない。これがだいたい日本の社会で、自民党がいちばんずるくそれを利用しているわけです。たとえば、代議士になるためには、まず何人かの県会議員が応援して、一人の代議士に自分の地盤を提供する。その県会議員は村会議員を系列下に置いている。みんな松下電器の販売店みたいに系列化されているわけですね。 そういう、戦国以前からある、そして戦国以後もある、いまもある下請システムをうまく利用しているわけです。(中略)小田:そうなんだけれども、おもしろい問題がありましてね、人間としての個ではなしに、機能としての個があるんです。日本のファシズムの危険はそこにあったと思う。つまり、大ファシストはだれもいないんです。機能として、錠前のメッキだけをやっているファシストで、何かをみがくだけのファシストがいた(笑)。 われわれが日本のファシストとして絶対研究しなければいけないのは東条英機やと思う。 <1パーセントのファシストが百人集まれば・・・>司馬:実体としてのあの人物(東条英機)はまったく何でもない人間なんだな。おかしいのはそこやな。小田:ぼくが思うに、たまたま彼は総理大臣になったからファシストになったんです。日本のファシストは2.26事件でみんな殺された。東条が陸軍少佐で肺病になってやめたら、おそらくファシストになっていない。あるいは在郷軍人会でファシストになっている。 第二の東条英機がたまたま総理大臣になって、たまたまファシストになったら、日本全国がファシストになるから、たまたま在郷軍人会の会長であるところの、元陸軍少佐の東条英機がファシストになる。 そのように考えてくると、天皇だってたまたま天皇であったからといえる。三島由紀夫はそこに腹を立てたと思うんですよ。もっと天皇は天皇らしくしなければいけない。ある意味ではひじょうに近代的だと思う。「機能としての天皇だ」という天皇機関説はまったく当たっているわけでしょう。だから、ある意味ではものすごく危険だよ。 アメリカの現在のファシストもそうでしょう。ばくは民主ファシズムと呼んでいるんだけれども、東条英機のファシズムは民主ファシズムですよ。 ナチ・ドイツはいつも反体制であって、それが体制に変わるわけだけれども、東条英機はいつでも体制側に立っているということが、まずポイントだと思うんです。その人が初めから体制側の一つの機能として生きていくことによってファシストになっていく。たとえば、ナチ・ドイツの場合は議会を解散したりするけれども、日本の場合はしない。 そこに岸信介、賀屋興宣が「私は平和主義者だ」と言える理由があると思うんです。彼らは自分で、「私は機能として生きてきた」と思ってるもん。 ぼくは賀屋興宣とどなり合いをしたことがあるんだけれど、彼はいつでも正しいことをしてきたと思っているんだ。東条内閣と和平のために働いた。いまも働いていると言ったもん。天皇もぜんぜん意識の変革なんかない。昔だって人間天皇だしね。機能としての小さな部分しかないとみんな言う。「私はどうせつまらない者で・・・・」と言うけど、そのつまらない者一人ひとりがメチャクチャなことをやっているわけでしょう。 民主主義の恐ろしさは、1パーセントのファシストが百人集まれば100パーセントになるということです。民主主義に官僚制がくっついたら天下無敵になる。それが頭のいい、最もすばらしい人たちがおかした過ちだと思う。民主的に見えるけれども、ちょっとずつファシストが集まれば、ウワーッとベトナム戦争を起こす。これがかつてやったことじゃないですか。 そこで、どうしたら新しい芽ができるか。錠前屋と機能分担しながらきている。そこのところで分解可能なんです。ある場合はAの力につく、Bの力につく、住民運動が大きくなれば、どちらにつくのも簡単にできます。そこのところがひじょうに問題だという気がするな。『天下大乱を生きる』1
2016.10.05
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図書館で司馬遼太郎×小田実著『天下大乱を生きる』という本を手にしたのです。おお 偉大な思想家とも言えるお二人の対談とは・・・すごい対談が企画されたもんやでぇ♪初版が1977年とかなり古いのだが、当時の歴史認識には興味を惹かれるのです。【天下大乱を生きる】司馬遼太郎×小田実著、風媒社、1996年刊<「MARC」データベース>より渾沌とする時代状況をまっすぐにつき進んだ二人の「自由人」。国家とは何か。日本人とは何か。アジアを駆け、世界を股にかける唯一無二の対談集。1977年潮出版社刊行の再刊。<読む前の大使寸評>おお 偉大な思想家とも言えるお二人の対談とは・・・すごい対談が企画されたもんやでぇ♪初版が1977年とかなり古いのだが、当時の歴史認識には興味を惹かれるのです。amazon天下大乱を生きる1977年当時の歴史認識について、お二人の対談を通じて見てみたいのです♪1977年当時といえば戦後32年で、1972年の日中国交正常化、1974年のベ平連解散の後、1989年の天安門事件、1991年のソ連崩壊の前なので、かなり昔になります。 <精神構造において官僚的な日本人>p170~174司馬:ともかく日本人というのは個人の能力を信用しないんです。トップの能力というのを。稲作農民はみんなそうですね。えらい変なことを言うようだけど、ヨーロッパも、もとは遊牧社会の基盤があるでしょう。スキタイとか、モンゴルとか、ロシアとかいうのは、遊牧社会が基盤でしょう。遊牧社会というのは、キャップが偉くなかったらいかんのです。キャップが偉くなかったら、冬どこで過ごすかということで失敗する。小田:だから、さっきのぼくの言い方をすれば「平時の感覚」の問題ですね。稲作というのは「平時」を前提としないとできないからね。司馬:そうですね。小田:ぼくが在日韓国人と一緒に運動してわかったことは、韓国人は一人の人物に賭けるね。それは安全のためにいろんなアンテナを張るよ。だけど、こうと決まったら賭けるというところが、ちょっとあるね。よく、日本人は一人の人間を信頼したら一緒に死ぬというようなことを言うけど、あれはウソやと思うんだ。司馬:そうかもしれない。韓国の場合は、賭けるのは人間しかないといえるかな。小田:「平時の感覚」というのは、個人はひっくり返るし、死ぬ。しかし組織は永遠に残るという確信があるね。稲作だから、共同体は確実に残るという。司馬:日本だと、貴殿はいくらやり手かもしれんけど、貴殿には金貸せん。三菱に貸す、というところがあるな。小田:それは「平時の感覚」で生きていればできますよ。個人は死ぬし、没落するけど、共同体は残るよ。稲作をやっている限り、しかし、遊牧民だったら破滅する。司馬:いまは日本は稲作の時代でないのに、それをやっているわけです。いくら危機感をそそるような情報が入っても、庄屋は握りつぶす。村内の秩序のために。それを握りつぶしても稲は伸びるんだから。また、庄屋が非常に優秀なやつだとかえって困る。村内が暗くなって。ヒットラーとかムッソリーニとか、ワシントンとかというようなやつが出てきたら、しんどくてしようがない。日本の政治風土は決して英雄を出さない。 日本人は他の民族と同様、人間は好きだけど、しかし個人の能力に大きな期待を持たない。韓国も稲作だから、本来はそうなんだけど、しかし韓国には何にもないから。小田:歴史がムチャクチャやからね。司馬:それで経済といったら借款しかない。そのほかに、組織があるかといったら、人間の群がりはあるけど、組織じゃない。組織というのは金が要るから。ただ処士横議の国やから、処士横議せざるを得ない。集まっとるだけや。 だから、あの人が出てきたら大丈夫やというのは、果たしてほんとうに韓国人は思っているのか、それしかないと思っているのか、というところがある。だから、韓国の問題は、われわれの社会で判断したこととずいぶん違うな。小田:日本の場合は、精神構造において、昔から非常に官僚的な国だね。僕はつくづく痛感した。司馬:たとえば幕府だってそうだから。将軍にたくさん子供ができたら、松平という姓になったりして、御親藩とか御家門の大名ができる。しかし幕政を見るのは井伊とか酒井やからね。つまり彼らだけが大老―内閣総理大臣―になれるわけで、血族の大名は老人にも若年寄にもなれない。 それは、家康が三河の庄屋に毛のはえた程度の家に生まれたときからの制度なんですね。家康が死ぬときに、制度は三河のままにせよ、と言って死ぬ。つまり番頭政治です。番頭のほうが信頼できるわけですね。小田:そうですね。 <損か得かの帝国主義>p204~208小田:ただ、こういうことがあると思うんです。ぼくは民主ファシズムと呼んだことがあるけど、つまり一つのイデオロギーがあって、それが強引に引っ張っていくのがファシズムでしょう。ところが、各人がちょっとずつファシズム的要素を持っていて、集大成したら、だいたい同じくらいになるでしょう。司馬:小田君が前に言っていたことで、東条の位置についたらファシストになると言うんだな。あれはおもしろいね。小田:あるいは官僚機構の中のファシズムとかがあって、それは一見ものすごい民主的体制をとるでしょう。ぼくがおもしろいと思うのは、そういうちょっとずつのものが官僚機構の中に組み込まれた場合、猛烈なファシズムになるんだけれども、現代の世界を見ていると、だんだんそうなっているという気がするな。 つまり、さっきおっしゃったとおり、帝国主義というのは得したらいいんだから、日本として朝鮮問題を損得でいったとすれば、北と南とどっちもやればいいわけよ。南北統一してくださいぐらい言ってやっていれば、いちばん得じゃない、日本の資本家にとって。それで相手はものすごくかたくなになって、さっき言った征韓論の蒸し返しみたいなことをやって、朴正煕にだけくっついて、ムチャクチャやっているわけよ。だから反感を買うさ。資本主義の原則からすれば損なことをやりますね。 ところが、全世界的にみて、いまは資本主義社会が危機にあると思っているじゃない、明治時代に比べて。ヨーロッパもそういう権威的感覚を失っている。つまり、官主導型にだんだん移行しているというんだ。司馬:明治維新のとき、イギリス帝国主義は安定政権が欲しかったわけや。安定政権が出ないと、日本と貿易ができないから。帝国主義というのは商売やから、貿易による収入がないから薩長を応援した。幕府ではだめと。ところがフランスは、まだいまの日本みたいな段階やから、内乱が起こって儲かったらええやないかというところがある。だけどイギリスは、さすがに帝国主義の先進国やから、早く安定してくれ、早く安定してくれというので薩長グループを応援したわけやね。 いまの朝鮮半島だって、安定政権を望むことが帝国主義でしょう。小田:朴ではなくて別なやつにかけるわけだ。司馬:あるいは南北統一する遠い将来にかけて、安定政権を求めることで、いがみ合わせることが帝国主義じゃない。これがもし帝国主義だとしたら、これも擬帝国主義で、政商的帝国主義で、その場限りの金儲けや。おれが儲けたらしまいというやつで、国家レベルで考えているわけじゃないでしょう。 朝鮮半島の安寧こそわれわれの儲けになりますということがあったら、初めて19世紀のイギリスになれるわけで、そこまで無論いっていない。それで朴正煕にばっかりかけている。小田:それはこういうことなんだ。1960年ぐらいまでは、先進諸国が力を回復する段階でしょう。その間隙を縫って新興諸国があらわれる。つまり、アジア・アフリカ・・・A・A時代と言われるようなものが出てくるわけですね。で、1960年ぐらいで、いわゆる先進国は力を回復して、そこから新植民地時代が始まるけれども、いわゆる先進国は二つの危機を持っているわけです。 一つは、社会主義諸国が昔みたいに弱くない。ものすごく勃興してくるでしょう。それと対決せないかんという東西関係が出てくる。 もう一つは、もう少し後に出てくるけど、南北問題がある。初めは貧乏な国だからばかにしていたら、資源がある。そういう危機にいま直面しているわけ。 東西危機はいまデタントとか何とか言って回避している。中国は怒っているけれども、これは第三世界にくみするから怒るわけですね。一応そこでごまかすわけ。ほんとうの危機は第三世界との対立にあると思っていることでしょう。そこが出てきていると思うんですよ。なりふりかまわず、とにかくやらなきゃだめじゃないかという感じを持っているな。防衛線として守らなきゃいかんと見てる。だからアメリカがいちばんいいでしょうね。 そうすると、そこでまさに資本主義は崩壊しつつあるわけ。だから明治時代のイギリスの賢明な資本主義で操縦できない時代が来ているんじゃないかと思う。つまりうまいこと安定してやっていこうとするが、しかし、できないかもしれないという危機意識みたいなものがすごくあると思う。だからアフリカでの動きなどを見てても、損なことをやっているでしょう。たとえば南アフリカに賭けてみたり。そんなのは損だよ、安定政権をつくったらいいんだから。これらを見ると、お二人にしてもソ連崩壊の予兆を感じていないわけで・・・・逆に、ソ連崩壊の衝撃がより大きく思い出されますね。
2016.10.05
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「対談」でしょうか♪<市立図書館>・むかつく二人・天下大乱を生きる・アジア新聞屋台村・記録された記憶<大学図書館>・江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」 ・沖で待つ図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【むかつく二人】三谷幸喜×清水ミチコ著、幻冬舎、2007年刊<「BOOK」データベース>より映画、舞台、テレビの話題から、カラオケ、グルメに内輪の話まで。丑年蟹座の脚本家と、子年水瓶座のタレントの丁々発止、縦横無尽な会話に笑いが止まらない。<読む前の大使寸評>達人の域に達したお二人であるが、むかつくような本音トークが見られるかも・・・・ええやんけ♪なお、この本は2005年4月~11月放送分を加筆再構成して作られたとのこと。amazonむかつく二人むかつく二人2byドングリ【天下大乱を生きる】司馬遼太郎×小田実著、風媒社、1996年刊<「MARC」データベース>より渾沌とする時代状況をまっすぐにつき進んだ二人の「自由人」。国家とは何か。日本人とは何か。アジアを駆け、世界を股にかける唯一無二の対談集。1977年潮出版社刊行の再刊。<読む前の大使寸評>おお 偉大な思想家とも言えるお二人の対談とは・・・すごい対談が企画されたもんやでぇ♪初版が1977年とかなり古いのだが、当時の歴史認識には興味を惹かれるのです。amazon天下大乱を生きる【アジア新聞屋台村】高野秀行著、集英社、2006年刊<「MARC」データベース>よりワセダ三畳間にくすぶっていたタカノ青年、突然、新聞社の編集顧問に迎えられて…本邦初!自伝仕立て“多国籍風”青春記。<読む前の大使寸評>高野秀行さんの本は絶対に外れはないはずである♪大使が断言します。rakutenアジア新聞屋台村【記録された記憶】東洋文庫編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース目次>より第1章 文明・国家・宗教の成立ー紀元前~7世紀(甲骨文字/古文尚書と論語集解 ほか)/第2章 民族の移動と東西交流のあけぼのー8世紀後半~14世紀半ば(古事記/万葉集 ほか)/第3章 広がりゆく世界ー14世紀後半~17世紀初頭(永楽大典/鄭和の航海図 ほか)/第4章 専制国家の隆盛ー17世紀初頭~18世紀末(群書治要と帝鑑図説/ジョン・セーリスの航海日誌 ほか)/第5章 激動の近代アジアー19世紀(大南寔録/環海異聞と北蝦夷地部 ほか)<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、魏志倭人伝、百万塔陀羅尼、東方見聞録、鄭和の航海図、ビゴーの風刺画等々・・・大使のツボ満載でんがな♪rakuten記録された記憶【江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」 】安村敏信著、小学館、2008年刊<「BOOK」データベース>より収入、住まい、家族、友人、パトロン、事件、いじめ、異性関係―、探幽から暁斎まで、江戸時代絵師150人の仕事とプライバシー。江戸期の絵師事典付き。江戸文化歴史検定受検者も必携。<読む前の大使寸評>追って記入amazon江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」【沖で待つ】絲山秋子著、文藝春秋、2006年刊<みんなのレビュー>より福岡に住んでいる僕は、本の中に出てくる場面と実際の場所を思い比べながら読みました。主人公と同期の会話を読んで自分が新入社員だった頃を思い出せてすごくうれしかったです。あと、一気に読めるところも良かったです。<読む前の大使寸評>芥川賞受賞作の単行本は「BOOK」データベースでも取り上げないのか・・・と驚いた次第です(笑)絲山秋子さんのアートの原点が見えるかも♪rakuten沖で待つ***************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き175
2016.10.04
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