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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・美麗島紀行・食糧と人類・「中国共産党」論<大学図書館>・蕎麦ときしめん・東洋文庫ガイドブック2図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【美麗島紀行】乃南アサ著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より人気作家・乃南アサが台湾各地をくまなく巡り、台湾と日本の深い関係性についてその歴史から思いを馳せる異色の台湾紀行。著者自らが撮影した、台湾各地の情緒あふれる写真とともに構成する。【目次】時空を超えて息づく島/夏場も時代も乗り越えた小碗の麺/牛に引かれて、ならぬ「牛舌餅」にひかれて/台中で聞く「にっぽんのうた」/道草して知る客家の味/過去と未来を背負う街・新竹/「お手植えの黒松」が見てきた歳月/宋文薫先生夫妻/淡水の夕暮れ/矛盾と摩擦の先にあるもの/日本統治時代の幕開けと終焉ー宜蘭/嘉南の大地を潤した日本人ー八田與一/「文創」が生み出すもの/三地門郷で聞く日本の歌/「帰れん港」と呼ばれた町・花蓮/出逢いと別れを繰り返す「雨港」-基隆/夕暮れの似合う街・台南ふたたび/手のひらに太陽を/「日本人だった」-台湾の老翁たちにとっての日本統治時代 <読む前の大使寸評>世界で親日的な国といえば、筆頭に台湾がきて、その次にトルコかな♪対岸の大陸に厳しい態度をとっているのも好感が持てるわけで・・・とにかく、日本人旅行者にとって居心地のいい国である。<図書館予約:(2/19予約、4/26受取)>rakuten美麗島紀行【食糧と人類】ルース・ドフリース著、日本経済新聞出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より科学力と創意工夫で生産力を飛躍的に向上させ、度重なる食糧危機を回避し、増加してきた人類。数百万年にわたる食糧大増産の軌跡を解明し、21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマ。地球誕生から現代まで、試行錯誤の軌跡を追う。【目次】プロローグ 人類が歩んできた道/1 鳥瞰図ー人類の旅路のとらえかた/2 地球の始まり/3 創意工夫の能力を発揮する/4 定住生活につきものの難題/5 海を越えてきた貴重な資源/6 何千年来の難題の解消/7 モノカルチャーが農業を変える/8 実りの争奪戦/9 飢餓の撲滅をめざしてーグローバル規模の革命/10 農耕生活から都市生活へ<読む前の大使寸評>21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマってか・・・・・黒塗りのTPP交渉禄がかすんでしまうでぇ。<図書館予約:(3/26予約、4/26受取)>rakuten食糧と人類―飢餓を克服した大増産の文明史【「中国共産党」論】天児慧著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より中国の伝統的思想を踏まえ、独特の政治体制から現指導者の人脈まで、第一人者が持てる知見を総動員して中国共産党「支配の構造」を分析。経済の急減速、高まる民衆の批判、止まない腐敗・汚職など、共産党に吹くかつてない逆風を、習近平はいかに克服しようとしているのか。安易な中国崩壊論、民主化楽観論を排し、巨大国家の行く末を冷静かつ堅実に見通す著者渾身の一冊。【目次】序章 習近平の危惧/第1章 なぜ中国人は共産党を支持するのか/第2章 中国政治を動かす「人脈」の実態/第3章 揺れる中国ー変わる社会と変わりにくい体制/第4章 「中国の夢」と「新常態」のジレンマ/第5章 「中国型民主主義」の可能性<読む前の大使寸評>とにかく、世界の大迷惑となった巨大国家の行く末を、予測したいわけです。<図書館予約:(12/11予約、4/26受取)>rakuten「中国共産党」論「中国共産党」論byドングリ【蕎麦ときしめん】清水義範著、講談社、1989年刊<「BOOK」データベース>より読書はパスティーシュという言葉を知っているか?これはフランス語で模倣作品という意味である。じつは作者清水義範はこの言葉を知らなかった。知らずにパスティーシュしてしまったのだ。なんととんでもない天才ではないか!鬼才野坂昭如をして「とんでもない小説」と言わしめた、とんでもないパスティーシュ作品の数々。【目次】蕎麦ときしめん/商道をゆく/序文/猿蟹の賦/三人の雀鬼/きしめんの逆襲<読む前の大使寸評>パスティーシュ(模倣)文学というジャンルを築いたとされる清水さんの本をわりと読んでいるのだが・・・どたばたのへそ曲りというフィーリングが好きなのかも。なお、借りたのは1987年刊行のハードカバーでした。rakuten蕎麦ときしめん蕎麦ときしめんbyドングリ【東洋文庫ガイドブック2】平凡社東洋文庫編集部編、平凡社、2006年刊<「BOOK」データベース>より運命の一冊、座右の書、旅のお供に暇つぶし、小説のタネ本、老後の娯しみ…四十余人が東洋文庫とのさまざまな付き合い方を語り、解説総目録が既刊750巻の内容を簡潔に伝える。この一冊で叢書全体を見晴らしよく案内。<読む前の大使寸評>東洋文庫には、日中韓の歴史を学ぶうえで、よくお世話になっております。rakuten東洋文庫ガイドブック2*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き144
2016.04.30
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図書館で清水義範著『蕎麦ときしめん』という本を手にしたが、これまで清水さんの著作に思いのほかふれてきた大使である。何故なのか・・・どたばたのへそ曲りという清水さんのフィーリングが好きなのかも♪【蕎麦ときしめん】清水義範著、講談社、1989年刊<「BOOK」データベース>より読書はパスティーシュという言葉を知っているか?これはフランス語で模倣作品という意味である。じつは作者清水義範はこの言葉を知らなかった。知らずにパスティーシュしてしまったのだ。なんととんでもない天才ではないか!鬼才野坂昭如をして「とんでもない小説」と言わしめた、とんでもないパスティーシュ作品の数々。【目次】蕎麦ときしめん/商道をゆく/序文/猿蟹の賦/三人の雀鬼/きしめんの逆襲<読む前の大使寸評>パスティーシュ(模倣)文学というジャンルを築いたとされる清水さんの本をわりと読んでいるのだが・・・どたばたのへそ曲りというフィーリングが好きなのかも。なお、借りたのは1987年刊行のハードカバーでした。rakuten蕎麦ときしめんどたばたのへそ曲りというフィーリングが表れている辺りを見てみましょう。とにかく、どんどんとたたみかけるような筆致はさすがでんな♪p187~189 <キシメンの逆襲> 『小説現代』の1984年12月号に、私は『蕎麦ときしめん』という作品を発表した。東京人から見た名古屋人論、というスタイルをとって、その実、徹底的に名古屋人をからかった内容のものである。 もっとも、それを読んでいただいた方にはお分かりのことだが、その論文の部分は私が書いたのではない。それは、名古屋の地域雑誌『しゃちほこ』の1983年10月号に掲載されていた鈴木雄一郎という人の論文をほとんど丸ごと紹介したものなのだ。つまり私はその偏見に満ちた出鱈目の名古屋人論をいろんな意味で面白いと感じたので、私の反論を少し加えて発表したというわけなのだった。 考えてみれば、私が名古屋人を馬鹿にしたような論文を書くはずがないではないか。私は大学卒業の歳まで育った郷里名古屋を愛し、誇りとしている。それが、名古屋人の一生は車を崇拝することについやされる、だとか、要するに名古屋は紳士であってはならない、とか、名古屋は閉鎖的な村落共同体であるとか、要するに名古屋は田舎で名古屋人はダサイ、というような論文を書くわけがない。それはすべて東京人である鈴木雄一郎氏の意見である。 ところが、私にとって意外だったのは、かなり多くの人がその作品を、全部私の創作だと読んだらしいことであった。つまり、鈴木雄一郎なんて人は実在せず、あれはみんな私の作り出した嘘だろうというわけだ。そして、あそこに書かれた名古屋人論は、そっくり私の意見であろうということになってしまった。 たとえば、作品が掲載されてしばらく後、なかなか面白かったから、と情報ダイジェスト誌『アンダンテ』からインタビュー取材があった。こっちはインタビューを受けるなんて生まれて初めてのことだから緊張していると、インタビュアー氏は開口一番、こういったのである。 「本当に名古屋人ってああいう風なんですか」 あれを私の名古屋人論だと思っているのだ。そうじゃないんだって、ちゃんと書いてあるではないか。 あれはある東京人の書いた論文ですから、と私が答えると、インタビュアー氏はにやにや笑った。 「ええ。そういう仕掛けにはなっているわけですが」 私はそれが仕掛けではなく事実であることを説明した。そして、あの論文を発表した理由は、その内容に同感したからではなく、逆に、あまりにもひどいと思ったからであると。(中略) 一応、なるほどと言って話を聞いたインタビュアー氏は、最後にこう言った。 「ところで、ナゴヤ球場では本当にういろうが飛んでくるんですか」鈴木雄一郎という人が気になるのでネットで探したところ、メイド喫茶の社長さんや俳優の鈴木さんが、いかにもそれらしいが、確証はありません。やはり、清水義範の創作というのが真相ではないでしょうか。後日譚を見てみましょう。p194~195 社会面を見てあっと仰天した。社会面のトップ記事だったのである。新風営法が実施された、という記事を脇へ押しのけて、堂々の七段抜き。 見出しを見て目を疑った。 『名古屋人田舎者論、またまた大騒動』 そして縦組み第二見出し。 『転勤族大賛成、地元っ子激怒』 記事を読めば、およそ次のような内容であった。 昨年末、ある月刊誌に掲載された名古屋人論が今、名古屋のサラリーマンの間で隠れたベストセラーになっている。特に名古屋への転勤族の間で評判が高く、雑誌コピーの回し読みが大はやり。これに対し名古屋っ子は、タモリに輪をかけた名古屋人侮蔑だと反発・・・。 そして、例の論文のサワリが要約してある。それも、名古屋人が読めば怒りそうなところばっかり。 記事の最後についているのが、『著者の清水義範さんの話』というもので、そこにはこうあった。 「パロディとして書いた“でたらめ日本人論”なので、あまり真に受けられると困るんです。モチーフは名古屋出身の僕の中にある、名古屋に対する嫌悪のようなものですね。とにかく二度と帰りたくない土地ですから、名古屋は」 何ということを書いてくれるのだ、と私は焦った。それに、記事の中に鈴木雄一郎氏の名前が全く出てこないではないか。これでは、私が名古屋を嫌うあまり、あの論文を書いたということになってしまう。この本を紹介した大使は決して名古屋嫌いではないわけで・・・・味噌煮込みうどんと味噌カツは大好物でおます♪
2016.04.29
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図書館に予約していた『「中国共産党」論』という本をゲットしたのです。とにかく、この本を読んで、世界の大迷惑となった巨大国家の行く末を、予測したいわけです。【「中国共産党」論】天児慧著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より中国の伝統的思想を踏まえ、独特の政治体制から現指導者の人脈まで、第一人者が持てる知見を総動員して中国共産党「支配の構造」を分析。経済の急減速、高まる民衆の批判、止まない腐敗・汚職など、共産党に吹くかつてない逆風を、習近平はいかに克服しようとしているのか。安易な中国崩壊論、民主化楽観論を排し、巨大国家の行く末を冷静かつ堅実に見通す著者渾身の一冊。【目次】序章 習近平の危惧/第1章 なぜ中国人は共産党を支持するのか/第2章 中国政治を動かす「人脈」の実態/第3章 揺れる中国ー変わる社会と変わりにくい体制/第4章 「中国の夢」と「新常態」のジレンマ/第5章 「中国型民主主義」の可能性<読む前の大使寸評>とにかく、世界の大迷惑となった巨大国家の行く末を、予測したいわけです。<図書館予約:(12/11予約、4/26受取)>rakuten「中国共産党」論早過ぎた中華文明は、強力な王朝と官僚システムを創りあげて、連綿として民衆を統治してきたが・・・現在の王朝とも言える共産党体制の統治システムについて、知りたいのである。p133~137<王朝時代と酷似する共産党体制> 王朝時代の伝統的な統治を見れば、二つの大きな特徴が浮かび上がってくる。一つは、皇帝と官僚性よりなる巨大な統治システムと、その統治が日常的には直接及ばない村落共同体の自治組織の長期的な並存である。 二つには中央と地方の関係で、一見中央集権的に見えるが、実際的には地方の指導者が、しばしば「土皇帝」と呼ばれるほどに強大な権力を持ち「独立王国」を築き上げてきた点である。 中国共産党体制は、毛沢東時代には全体主義体制、トウ小平時代以降は権威主義体制と言えると先に述べたが、実はこうした王朝時代の統治構造と類似していることに気づく。 前者の特徴については、中央から地方の区、郷、鎮まで行政政府、人民代表大会、司法機関といった権力機構がつくられているが、末端レベルには居民委員会、村民委員会といった自治組織が全国的に存在している。自治組織のリーダーは住民の選挙によって選ばれる。 もちろん党支部の直接・間接的な介入は否定できないが、上からの任命ではなく、そこに住む住民の中から選ばれている。しかし、このような選挙システムがボトムアップで上の権力機構に広がっていくといった傾向は否定され、あくまで自治組織のレベルに留まっている。 後者については、建国初期の時代は独立性の強かった人民解放軍の野戦軍体系の影響もあり、共産党体制でありながらも一定の「地方割拠」制は否定できなかった。その後、党は幹部人事、基本路線・政策などから中央集権化を進めたが、毛沢東時代、トウ小平以降の時代を通しても経済は集権的というよりも分権的であった。まさに柏裕賢、加藤弘之が指摘する地方請負(包)性が生き続けていた。また、トウ小平時代には意識的に「放権譲利」政策がとられた。 さらに今日の地方幹部任命に関しては、非公開の情報ではあるが、中央組織部は省級の主要幹部の人事任命権を持っていると言われるものの、それより下の幹部は一つ上級の地方の党組織部で決定されるという。 つまり、地方の具体的な政策決定・執行、問題の処理は地方自身が決定するということである。このため、よくも悪くも地方政権はしばしば中央の意向から離れ超えて独自の行動をする傾向が強い。 1992年の春節の頃、当時89歳のトウ小平が老体に鞭打って上海、深センなど南方の発展した都市を回り一層の改革開放を呼びかけた。いわゆる「南巡講話」である。当時は天安門事件によって先進国から経済制裁を受けており、国内でも社会主義左派が巻き返していたために経済が急速に落ち込んでいた。そこでトウ小平は市場化を目玉にした経済発展の再加速を意図したが、これらに直ちに反応したのが地方政権、地方企業であった。 トウ小平の講話をきっかけに「フライパンにおいた豆」がはじけるように地方が活発に動き始め、独自の「関係」を使って海外から直接投資を呼び込んだ。さらに数々の解放区を建設するなどしたことで、経済が回復し、成長率も急上昇することとなった。 改革開放の時代になって経済を活性化するために、建て前上は国有・公有である土地の概念を所有権と使用権に分離し、前者は社会主義国家ということで動かせないが、後者は使用者に権限があるとして、期限(15年、30年など)をつけて売買できるようにした。これによって不動産が商品化され経済は活況を呈した。 しかし2000年代以降、大量の土地が大々的に地方政権によって「私的」に売買されるようになった。そもそも請負制で上納分以外の収益を大量に蓄積していた地方政権が、中央に有利な分税制度の実施によって、収入減少を強いられたため、それを補い余りある利益を上げるために不動産売買、工場誘致に熱を上げたのだ。 この過程で不良債権や環境汚染など深刻な問題が次々と発生し、中央政府は取り締まりの強化に躍起になったが、地方政権も容易に従わない。不動産、企業誘致に伴う腐敗問題は地方レベルが最も深刻だと言われる所以である。 法律とかルール、通達などあってもなきがごとしである。まさに以前から言われてきた「上有政策、下有対策」「陽奉陰違」ということであり、実態として地方のしたたかな強靭さを示している。習近平が打ちだした「新常態」構想は、今後、どのように機能するんだろう?p184~187<経済急減速という大難題> むしろ中国にとって本当に厄介なのは国内問題のほうかもしれない。事実、今後の中国を考える上で楽観視できない難題が次々と横たわっているからだ。 第一には、これまで上昇の一途を辿っていた経済成長の鈍化である。周知のように1990年代以降、実質経済成長率は前年比10パーセント前後の驚異的な増加を示してきたが、2011年には9.3パーセントに落ち込み、その後7パーセント台へ、さらに2015年には6パーセント台後半へと下落の一途を辿っている。 中国経済ウォッチャーの津上俊哉は実質経済成長率を測る指標である「李克強インデックス」と言われる電力消費、鉄道貨物、金融貸出から算出した数字に、間接税収や国有企業売上高などの要素を加味し、すでに実質成長率は5パーセントを割り込んでいると判断している。 関志雄は津上ほど厳しい見通しではないが、「今後は、従来の高成長に戻ることはもはや望めず、7パーセント程度という中高成長をいかに維持していくかが課題となる」と指摘している。 こうした成長率の低下は、まず賃金・物価の上昇率などこれまで中国の比較優位要件だったものの低下が原因として挙げられる。より根本的には関をはじめ何人かの経済学者が指摘しているように、生産年齢人口が増加から減少の段階に入ったことと、完全雇用を意味する「ルイスの転換点」に入ったことが重なる構造的な要因によると考えられる。 このため中国はこれまで進めてきた「一人っ子政策」の緩和に踏み切り、2014年から比較的緩やかな条件で二人目が出産できる政策がとられるようになった。しかし「二人っ子」が政策的に可能になったとしても、経済発展が進む多くの国が経験する少子高齢化の道は中国でも例外ではなさそうである。 さらに高度経済成長率の中で見落とされ、あるいは軽視されてきた諸問題、例えば大量の地方債券問題、環境の劣悪化、脆弱な社会福祉政策などにどのように取り組むかも重要な課題となってきている。こうした緒難題に立ち向かいながら、同時にいかにして安定的な成長を確保するかが、これからの核心的な課題なのである。<「新常態」への転換> それを承知して経済の新たな方向づけを行ったのが2014年5月の習近平による「新常態」の提起であった。「新常態」とはトウ小平の改革開放路線の推進以来続いた高度経済成長が終わり低成長の時代を迎え、さらに人口ボーナスから人口オーナスの時代に入るという新しい段階に入ったことをはっきりと認識した上で、格差縮小、民営化をはじめ経済の構造改革、大胆なイノベーションの取り組みの必要を強く訴えたものである。
2016.04.29
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図書館で『オーデュボンの自然誌』という本を手にしたが、表紙の絵がきれいである。それに最近、野鳥観察に凝っているので、読んでみようかと思ったわけです。【オーデュボンの自然誌】 ジョン・ジェ-ムズ・オ-ドゥボン著、宝島社、1994年刊<「BOOK」データベース>より天才鳥類画家オーデュボンが愛した鳥たち、数々の探検旅行、そして彼の人生。絵を描く合い間にオーデュボンが書き続けた鳥の生態や豊富なエピソードが、今は見失われてしまった人と大自然とのきびしくも幸せな関係を私たちにいきいきと伝えてくれる。<読む前の大使寸評>外国語として米語を学んだオーデュボンは、自分自身は作家としての力量を認めてなかったようです。自慢から哀願へコロコロ変わるオーデュボンは、かなり破天荒で情熱的なヴァガボンドだったようで・・・・自然誌もさることながら、オーデュボンその人が興味深いのです。rakutenオーデュボンの自然誌スコット・R・サンダースによるオーデュボン評を見てみましょう。p13~14<オーデュボンの文学とその時代>より 以上見てきたとおり、人類学者が用いるメタファーを借りれば、「あるがまま」のオーデュボンと「脚色ずみ」のオーデュボンを見分けることができる。手紙や未編集の日誌に現れた非公式の声と、『鳥類の生態』や不穏当な部分を削った日誌の公式の声のちがいが聞き分けられる。 生のオーデュボンはより生き生きとしており、感覚的で自説を曲げない面を備えている。また奥地の俗語を使いがちで、混雑した船の説明として「床の上にブタのようにごちゃごちゃと転がらなければならないだろう」と表現したり、自分の意気込みを表すのに「私にとってはイチかバチかだ!」と言ったり、あるいは「非現実な恐怖におびえて自分を出し惜しみするな」と若い女性に助言したりした。あるいはある手紙を「これ以上は気がふさいで書けません」と結んだりした。 脚色されないありのままの文章からは、自惚れが強く気まぐれで、途方もない野心家で、かつまた自分に確信が持てず、ナイーブで複雑な人間性を垣間見ることができる。しかし文章に手を加えられてもなお、自然と人間性の非常にすぐれた観察者という著者像は不変である。 心が広く、何事にも手当たり次第に好奇心を抱き、噂話がとても好きで、精力的に自分の物語を語るエネルギッシュなオーデュボン。彼の目を通じて開拓時代のアメリカの混沌と興奮が私たちにも伝わってくる。 オーデュボンの文章を通じて読者はロッキー山脈以東の野生がまさに消滅しようとする歴史的な瞬間へと導かれ、アメリカ開拓時代の鳥・動物・人間などじつにさまざまな生き物の生態描写に出会うことになる。「好きこそものの上手なり」を地でいくようなオーデュボンが語られています。在野の観察者の面目躍如でんな♪p49~51<ケンタッキー州ルイビル>より ルイビル滞在中は、ライフワークにたくさんの時間を費やしたものだった。手に入れた標本すべてを絵に描き生態を記録したのだが、私の記録の蓄えは日ごとに増えつづけた。鉄砲を持った人のほとんどから、これは私の役に立つのではないかと鳥や動物の標本がどんどん送られてきたからだ。 私の画帳にはすでに二百点以上の図版がたまっていた。植物学者のW・C・ゴート博士とそのご友人のファーガソン博士にはたびたび相談にのってもらった。M・ギリーは絵がうまく、私の目標をよく理解してくれた。友にして今は親類となったN・バーソードにも世話になった。 ある晴れた朝、かの高名な『アメリカの鳥類学』の著者、アレクサンダー・ウィルソン氏が突然私どもの店に来訪されたときは、非常に驚いた。この街に来ておられたなど、知らされていなかったのだ。1810年3月のことだった。(中略) ウィルソン氏の図版を何点かじっくり拝見して最初は驚きが、つぎに喜びがこみあげてきた。すっかり予約する気になって申込書を手にしたとき、仕事のパートナーが突然割り込むようにフランス語で私につぶやいた。 「ねえきみ、なぜこれを買うんだい? きみの絵のほうが数段いいものだし、しかもアメリカの鳥の生態だったらこの方に劣らずよく知っているんじゃないのかい?」 ウィルソン氏がフランス語を理解されたのか、あるいは私が突然手を止めたからなのかわからないが、明らかに気分を害されたようだった。急に気が変わり、友達におだてられたのも手伝ってとうとう予約をしなかった。 ウィルソン氏は私にもう鳥の絵はたくさん持っているのかと尋ねられた。立ち上がって大型の画帳を取りだし、こういうものに興味を示される方にはいつもするように机の上に広げ、氏がご自分の図版を見せてくださったのと同じように辛抱強く、画帳にはさんだ絵をすべてご覧にいれた。 自分以外にこのような絵を書きためる人物がいようとは思ってもみなかったと言われただけに、非常に驚かれたようだ。これを出版するつもりなのか、と尋ねられ、いいえと答えると、さらに驚きの度が増したようだった。 そうなのだ、あの頃はそんなことはぜんぜん考えていなかったのだ。その後だいぶ経ってフィラデルフィアでムシナーニョ皇太子(ナポレオン皇帝の甥)にお会いするまで、自分の苦労の結晶を公表するつもりはなかったのだ。 ウィルソン氏はもう一度私の絵をていねいにながめられると、この街に滞在するあいだいくつか借りたいとのことだったのでえ、どうぞと答えた。それからしばらくよもやま話になった。近在の森の探索に同行することと、氏がまだ見たことがないという鳥の標本を手に入れることを約束すると、ようやく帰っていかれた。オーデュボンの画像より日本の野鳥ということでは『里山の野鳥ハンドブック』がええでぇ♪
2016.04.28
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『村上春樹ロングインタビュー』というムック雑誌が積読になっていたが…暇な大使は、再読しようと思い立ったのです。【村上春樹ロングインタビュー】考える人 2010年 08月号 、新潮社、2010年刊<内容紹介より>特集 村上春樹ロングインタビュー 日常から離れた新緑の山にこもって、たっぷりとお話をうかがった3日間。 【1日目】 一人称から三人称へ 『ノルウェイの森』のこと 僕と鼠の物語の終わり 歴史少年だったころ 物語の間口と奥行き プリンストンへ 「第三の新人」講義 『アンダーグラウンド』と『サハリン島』 『アフターダーク』と『1Q84』 『1Q84』はいかに生まれたか クローズド・サーキット 手を握りあう 物語を掘りだす 文体が支える BOOK3 女性たちとセックス 「1Q84」という世界 パラフレーズすること 【2日目】 プリミティブな愛の力 『静かなドン』から始まった 話し言葉と語りの力 メタファーの活用と描写 BOOK4の可能性 近過去の物語 十歳という年齢と偶然を待つこと 父的なものとの闘い 漱石のおもしろさ 芦屋から東京へ 心理描写なしの小説 自由であること、個であること 時間が検証する 十歳で読書少年に 芦屋のころ 19世紀的な小説像 自我をすっぽかす小説 長距離ランナー 【3日目】 リスペクトの感情 古典の訳し直し サリンジャー、カポーティをめぐって カーヴァーの新しい境地 20世紀の小説家の落とし穴 アメリカの出版界 オーサー・ツアー 全米ベストセラーリスト エルサレム賞のこと 短篇小説と雑誌の関係 今後のこと。 <大使寸評>村上さんがインタビューで、小説を書く舞台裏とかノウハウを惜しげもなく語っています。小説を書きたいと思う大使にとって、たいへん参考になります♪Amazon村上春樹ロングインタビュー村上さんは『1Q84』は近過去の物語だと語っています。p56~58<近過去の物語>Q:『1Q84』における歴史性の重要さについて、もう少しうかがってみたいのですけど・・・村上:近未来ものというのは、なぜか知らないけどだいたい退屈なんです。オーウェルの『1984』という小説も、ジャーナリスティックな意味でおもしろくはあるけれども、純粋に小説として読むとかなり退屈じゃないですか。少なくとも僕には退屈だった。 近未来について何かを描写しようとすると、多くの場合、話は構造的に凡庸になりがちです。映画でも、たとえば「ブレードランナー」にしても、「ターミネーター」にしても、作品としてはおもしろいんだけど、雰囲気はおおむね同じですよね。暗くて雨が降っていて、人々が不幸で、世界は深刻な問題を抱えていて・・・というような。 だからというか、僕は個人的に近未来ものについてはほとんど興味が持てないんです。僕が興味を持てるのは、言うなれば近過去です。 近未来というのは、未来はこうなっているんじゃないかという想像ですよね。近過去というのは、いまはこうだけど、ひょっとしたらこうなっていたかもしれないというさかのぼった仮定です。それによってもたらされる現在の事実の作り換えです。そういうほうが僕にはずっとおもしろい。近過去に惹かれる傾向が昔から僕にはあります。 つまり、『1Q84』は一口でいえば近過去小説であり、僕としてはいわば、過去の書き換えをしているわけです。なぜそんなことをするかというと、僕自身の生きてきた時代の精神性みたいなものを、ひとつ違うかたちに置き換えて検証してみたかったからです。僕は批評家じゃなくて小説家だから、そういう虚構への置き換えによってしか、有効にものごとを検証することはできません。 戦争から帰ってきた父親たちが結婚をして、戦後すぐに僕の世代が生まれた。平和な時代がやっと訪れ、貧しかったけれどみんな一生懸命働いて、昭和30年代の高度成長があって、生活も右肩上がりに向上し、これからすべてよくなっていくだろうという時代だった。そりゃおもしろい時代だったな。活気があり、少なくとも退屈はしなかったです。新幹線が開通して、東京オリンピックがあって、アポロ11号の月面着陸があった。(中略) だいじなのは、そのころの20代の青少年は基本的に未来を信じていたということです。いまの大人はばかで貪欲で、意識が低く、何も考えてないから、愚かしいことがいっぱい行われているけれど、われわれのような理想主義的で先進的な決意を持った世代が大人になったら、世の中がよくならないわけがないと考えていた。いまになってみればずいぶん浮き世離れした話だけれど、当時の若い人はだいたいそう信じてたんです。(中略) 当たり前のことだけど、理想主義なんてあっという間に壊れていった。やがてバブルははじけて、日本は多かれ少なかれ、舵をもがれた船みたいなありさまになってしまった。僕らの世代は、それに対する責任をとってないんじゃないかという思いがあります。世代的責任というのが具体的にどういうものかはよくわからないけれど、でもやはりそういうのを感じます。(中略) 1984年という時代設定は、オーウェルの本から引っ張ってきたものであっても、それなりに意味を持っていたのかもしれない。そういう時代を描くことの必然性みたいなのは、僕の中にもともとあったのかもしれない。書き終えてそう思います。村上さんの生活パターンが語られています。p78~79<長距離ランナー>Q:ではきょうの最後に、村上さんの典型的な1日の過ごし方についてうかがえますか村上:それはいちばん退屈な部分だな(笑)。長編小説を書いているときは、目覚める時間がどんどん早くなっていきます。だいたい朝の4時ごろ起きるんだけど、3時に起きたり2時半に起きたりしても、そのまま仕事をしてしまうときが多いですね。Q:自然に目が覚めるんですね。村上:そう。目覚し時計なんて使ったことはありません。目が覚めるとその時点で全開状態になっているから、すぐ仕事にとりかかる。コーヒーを温めて、何か小さいもの、スコーンを半分とか、クロワッサンとか、そういうものを食べて、コンピュータの前に座って、即仕事に入る。うだうだはなし。Q:いきなり入るのですか。村上:いきなり入る。うだうだしていると切りがないから、即入っちゃう。Q:昔からそうですか。村上:昔はそうじゃなかったかもしれない。まえにポール・セローと話したとき、「おれは朝早く起きて仕事をする」と言うから、「じゃあ僕と同じだ」と言ったら、「同じじゃない、おれは起きてから1時間半ぐらいクロスワードをやっている」(笑)。どうしてか聞いたら、「すぐ仕事なんかできないじゃないか」と言うから、「できるよ」と言ったんだけど。ともかく僕はすぐ始めます。Q:ティム・オブライエンも早起きだった気がします。村上:習慣はすごく大事です。とにかく即入る。小説を書いているときは音楽を聴きませんね。日によって違うけれども、だいたい5,6時間、9時か10時ころまで仕事します。Q:朝ごはんは食べずに。村上:朝ごはんは、7時ころチーズトーストみたいなのを焼いてちょっと食べたりするけど、時間はかけない。Q:あとはひたすら書いているのですか。村上:そうですね。だれとも口をきかないで、ひたすら書いています。10枚書くとやめて、だいたいそこで走る。Q:10枚というのは、四百字詰めの原稿用紙に換算して10枚。村上:そう。僕のマックの書式だと、2画面半で10枚。書き終わると、9時から10時くらいになります。そうしたら、もうやめてしまう。即やめる。Q:そこから先は書かないんですね。村上:書かない。もう少し書きたいと思っても書かないし、8枚でもうこれ以上書けないなと思っても何とか10枚書く。もっと書きたいと思っても書かない。もっと書きたいという気持ちを明日のためにとっておく。それは僕が長距離ランナーだからでしょうね。だってマラソン・レースなら、きょうはもういっぱいだなと思っても40キロでやめるわけにはいかないし、もっと走りたいからといってわざわざ45キロは走らない。それはもう決まりごとなんです。『村上春樹ロングインタビュー』1
2016.04.27
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図書館で『現代SFのレトリック』という本を手にしたが…この本で取り上げている作家では、バラードとディックぐらいしか知らない、ニューウェーブ世代の大使は、オールドウェーブなのか?・・・と自問するのです。【現代SFのレトリック】巽孝之著、岩波書店、1992年刊<「BOOK」データベース>よりいまや「SF」は遍在する-。高度資本主義・ハイテクノロジー文化が加速する現代、あたかもSFを読むかのような世界が生成している以上に、あらゆる「読むこと」という営為自体がSFと化しているのではないか。「脱構築」以後の批評理論をさらに展開し、S.レム、ディレイニー、バラード、シェパード、ディック、ギブスン、コールダー等のテクストへのラディカルなクリティークへ。20世紀末の言説空間の変容を鮮やかに捉え、来たるべき時代のセンス・オヴ・ワンダーを照射する野心的な現代文学論。<読む前の大使寸評>この本で取り上げている作家では、バラードとディックぐらいしか知らない、ニューウェーブ世代の大使は、オールドウェーブなのか?・・・と自問するのです。rakuten現代SFのレトリック大使にとって、この本の一番の読みどころはJ・G・バラードになるわけで・・・その辺りを見てみましょう。p76~78<同時多発への道はどれか?> 60年代のSF革命は、J・G・バラードという若手英国作家がいわゆるアメリカSFに典型的な外宇宙指向に業を煮やして、むしろ人間の無意識こそ探求すべき唯一の宇宙とみなす内宇宙指向を宣言したことから顕在化した。いわゆるニューウェーブ運動の、英国SF雑誌の、「思弁小説(スペキュラティブ・フィクション)」。それは最も尖鋭的なアメリカ作家たちをも巻き込む。 だが、70年代を迎えてバラードその人に何か根本的な変容が要請される。インナースペースからさらにテクノスケープへの転換。テクノロジーも現代人には自然風景にすぎないという新たな認識。 「人間的無意識の機構」から「機械都市の無意識」への重点移動。 しかしこのテクノスケープは、気がついてみると単に一作家のものではなかった。彼個人の変容は、何かしら時代そのものの根底的な変容に等しい。 ここで1973年が、バラード変容の記念すべきテクノロジー三部作第一作『クラッシュ』がロンドンのジョナサン・ケープ社から出版された年であり、同時に(それこそ衝突するかのように)主流文学ではトマス・ピンチョンの『重力の虹』がニューヨークのヴァイキング社から出版された年でもあった事実に思いを馳せよう。 英米ふたりの、いずれも60年代の実験的大気を深く吸い込んだ作家たち。片や主流文学上でメタフィクションを、片やジャンルSF内でスペキュラティブ・フィクションを手がけていた作家たち。彼らがジャンルの上ではまったく無縁なまま、にもかかわらず、等しくテクノロジーとセクシュアリティの交錯する地点を活写した最新長編が、この年、それぞれ同時炸裂する。 双方向から大西洋を横断し交錯する、テクノフィクション弾道弾。 文字たちの重力、文字たちの虹。 <テクノ・セクシャル> こころみに、1990年刊行のバラード最新短編集『戦争熱』を開いてみたい。 英国コリンズ社刊行、ピーター・メイナードによる表紙のフォト・コラージュが何とも美しい本書には、表題作を軸に70年代から80年代後半の作品まで、再録・初収録を問わず14編が選ばれている。バラードは1956年、短編小説「プリマ・ベラドンナ」でデビューしてから、以後34年。 初期はシュールレアリスムの影響をうけた実験短編群や、『結晶世界』など破滅三部作のように、あたかもイブ・タンギーやマックス・エルンストの情景を活字に定着させたような終末論的長編を書きついでいた作家だが、右に暗示した世界観の変転を別にするなら、これだけの歳月がたったいまも、彼の思弁性に関してはどの作品を読もうと見劣りするところはない。 コパカパーナやケープ・カナベラルを舞台に語られる元宇宙飛行士や偽宇宙飛行士、故宇宙飛行士たちのエピソード群、そこで幻視されるありえざる(内)宇宙の超現実イメージは、まちがいなく初期から一貫して外宇宙を否定し続けたバラードならではの味を残す。 あるいはカリブ海の人知れぬ孤島で化学廃棄物の犠牲になる男や、統一後のヨーロッパは地中海の浜辺一帯に発生してしまう無数のビーチ・ピープルの物語には、その「」の雰囲気からしてあのなつかしい架空の避暑地の連作集『ヴァーミリオン・サンズ』がオーヴァーラップすることだろうし、随所を埋め尽くす空を飛翔する夢想の断片は『夢幻会社』(1979年)からスピルバーグ映画にもなった『太陽の帝国』(84年)まで、すでにすっかり親しまれたものだ。 加えるに『戦争熱』には、むしろ主流文学側の大御所である批評家マルコム・ブラッドベリから以下のような推薦文が寄せられている。「バラードは豊饒なる開発途上分野のリーダー格だ。圧倒的な創作能力に恵まれたこの作家は、イタロ・カルヴィーノと同じく、現代世界の空虚で実質なき空間を、架空の見えない都市や脅威の世界を構築することで埋めつくすことができる」なお、J・G・バラードへの入れ込みをJ・G・バラードの世界に収めているので、ご笑覧ください。ポストモダンSFとか、ニューウェーブSFとか、エントロピー文学について、なんのこっちゃの大使である。・・・そのあたりのお勉強です。p136~137<ポストモダンSFの条件> したがって、今日タナー的な構想で『言語の都市』を書き直そうとしたら、主流文学のみならずトマス・ディッシュやフィリップ・K・ディック、ハーラン・エリスンらアメリカン・ニューウェーブSF作家が、ごく自然に含まれるはずだ。じっさいコーリン・グリーンランドのように、83年の研究書『エントロピー展覧会』の中で、ニューウェーブSFをエントロピーの文学と定義づけた論者もいるぐらい、このころの尖鋭的な主流文学と前衛的なSF小説は通底する部分があった。 そして80年代も後半に入ると、ラリイ・マキャフリイの編集した総覧『ポストモダン・フィクション』や彼の執筆になる『』の「現在小説」の章のように、主流文学もSFも分け隔てなく、あくまで小説の「現在性」だけを評価していく方向が当然のものとなる。 ふりかえってみれば、ピンチョン60年の短編「エントロピー」は、そのころ主流文学はおろかSFにおいても前衛的な手法と映った作品だった。(中略) いまのわたしたちはこのウィリス作品の様式だけを見るかぎり、SFどころかT・コラギッサン・ボイルやバリー・ハナの普通小説の一変型のように読み終えてしまう可能性が高い。 あるいは、イギリスSF期待の新人リチャード・コールダーの自動人形三部作を通読してみること。彼がナノテクノロジーを駆使して造るロボット群は、十億分の1メートルのレベルで構築されるため、有機/無機の区別を超えてほとんど人間と区別がつかず、中には自らに唯一生殖能力の欠如しているのを嘆き、人間への嫉妬をむき出しにする者もいるほどだ。 たんに人間に抵抗するアンドロイドならば、ディック原作になる『ブレードランナー』にも散見されたところである。それだけなら、SFの主題学からは、テクノロジーの産物がまったく勝手に自走しはじめるという典型的な現象に分類できそうな方向といえよう。ウーン ディック原作『ブレードランナー』しか知らない大使にとって、やはりなんのこっちゃであった。そして、自分はオールドウェーブなのか?・・・と自問するのです。ブレードランナー
2016.04.26
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図書館で『英国一家 日本を食べる』という本を見っけ♪…今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が尽きないのです。【英国一家 日本を食べる】マイケル・ブース著、亜紀書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めて―東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が倍加するのです。<図書館予約:カートで待機中に図書館で見っけ♪>amazon英国一家 日本を食べる江戸前にぎりが世界を席巻している昨今であるが、大阪の押し鮨、京都の鯖鮨もええでぇ♪p169~172<鯖鮨と豆腐> 京都へ来てから1週間以上がたち、僕はまだ対面できていない料理を追い求めていた。それは、聞くところによると、昔の京の町の東側、東山にあるというのだ。でも、問題は、その「いづう」がどこにあるのか、さらにいえば、いづうが何であるか、誰ひとりとして知らないということだった。 鮨の歴史については、すでに読んで知っていた。もともとは、遠い昔に現在のタイやメコン・デルタの辺りで、地元民が米飯で魚を包んで保存していたのが始まりだという話が有力だ。 米飯の発酵で生成されるアルコール分や酸によって、魚が持つ菌が死滅し、魚は数ヶ月間保存が利くようになる。魚そのものも、発酵して粥状になるが、食べても毒ではないし、腐敗臭もない。 腐敗したアンチョビで作られた古代ローマのソース「ガルム」から、現代のベトナムの「ニョクマム」を筆頭とする東南アジアのさまざまな魚醤にいたるまで、発酵した魚は強力なうまみのもとを作り出してきた。タイで生まれた米飯で魚を保存する方法はやがて中国に広まり、その後8世紀になって、他の多くのものと一緒に日本にたどり着いたという。 京都に近い琵琶湖周辺の地域では、地元の人々が、米飯の乳酸発酵が生臭い淡水魚に程よい酸味を与えることを発見した。そうやって作られたのが、熟れ鮨というもので、現在も琵琶湖沿岸の町では「鮒寿司」という名で喜ばれている。 鮒というのは鯉の仲間だ。鮒寿司の場合は、鮒の産卵期を見計らって米飯と一緒に酢漬けにされ、卵を体内に宿したままで半年ほど寝かされた後、米飯が廃棄される。この料理は「日本のフィッシュチーズ」と呼ばれることもあり、僕が思うに、好きな人には堪えられない特別な味なのではないか。 鮨の進化を語るうえで見逃せないのは、文化人類学者の石毛直道が述べているように、「せっかちであることは、しばしば日本人の特徴のひとつと考えられる」という点だ。熟れ鮨を楽しむようになってしばらくたった頃、日本人は乳酸発酵が進むまで待ってはいられないと思うようになり、15世紀には、発酵の浅い段階から魚を食べるようになった。しかも、そうすれば米飯も一緒に食べることができて・・・それまでは発酵が進みすぎていて食べられなかった・・・もっとおいしいと気づいたのだ。 鮨の進化における次の大きなステップは、17世紀の米酢の発見だ。米酢を使えば、発酵するまで待たなくても、ツンとくる酸味を米に加えられる。このような鮨は「早鮨」と呼ばれ、箱に敷き詰めた酢飯の上に魚を置き、その上に石で重石をして、できあがった大きな鮨の「ケーキ」を一切れづつ長方形に切り分けて食べる。 18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて、当時江戸と呼ばれていた東京は日本の首都の座を京都から奪い、いつの間にか世界最大の人口を抱える世界一の都市になっていた。だが、江戸では火災が多く、世界初の大都市圏の先行きが危ぶまれたため、料理屋で直火を使用することが禁じられ、急成長しつつあった屋台の食べ物屋が瞬く間に姿を消した。 そこで登場した救世主が、直火を使わなくても作れる鮨だ。もちろん、当時の鮨に使われた魚は、生ではなかっただろう・・・冷蔵庫はない時代だ・・・でも、鮨職人にとっては、さっと茹でたり、酢で締めたり、炙ったりという下ごしらえをした魚を町のなかへ運んで酢飯に載せるのはたやすいことだった。 19世紀の東京の労働者は、末裔となる現在の東京の人たちと同じで、時間のゆとりがなかった。たとえば、鮨屋の入り口にかけられたカーテン、すなわちのれんが使われるようになったのはその頃からで、客が手で払いのければ急いでいても楽に出入りできるようになっていた。つまり、汚れたのれんは、うまい店の証だった。 大急ぎで食べなきゃならない客の要望に応えて、注文を受けたら鮨飯を片手で握って固め、その上に魚をトッピングする方法を考えついたのが、19世紀の華屋與兵衛だ。にぎりは、鮨飯を「握る」ことからきている名称だ。生の魚はにぎりの由来とは関係がなく、にぎり鮨といえば発祥の地を示す江戸前鮨を意味することもある。 一方、その頃京都では、別の大きな流れが広がりつつあった。鮨飯に入れる砂糖の量を東京よりも多くするのはもちろんのこと、京都では、従来の早鮨とは違う、独自のタイプの押し鮨が発展した。それが鯖を使った押し鮨、つまり鯖鮨だ。 鯖は非常に傷みやすいので、初めに軽く塩漬けにしてから砂糖を入れた酢で締め、それを丸ごと酢飯の上に載せて、酢で煮た昆布で巻き、さらに30センチほどの長さの竹の皮で包む。セビチェ(中南米で食される魚介類のマリネ)と同じ要領で、酢に含まれる酸がほんのりと鯖を「調理」してくれるので、海辺から半日ほどの距離がある内陸の町、京都では、それが有効だった。 けれども、にぎりや巻きが世界を席巻する一方で、鯖鮨やその兄弟分にあたる、杉の器で作る大阪の押し鮨は、郷土料理として存在するだけで、冷蔵設備の発達で魚の保存に酢を使う必要がなくなったせいもあり、京都や大阪という地元でさえ次第に人気に陰りが出ている。 その、どっぷりと酢漬けにした鯖の押し鮨、鯖鮨こそ、僕が探し求めていたもので・・・いうなれば、歴史ある本格派の極上の鮨だった。著者も語っているが、いらちと合理性が生み出したのが大阪の味だと思うのです。p183~186<世界最速のファストフード> 次の大阪に関するトリビアのなかで正しいのはどれか?間違っているのはどれか?1.大阪の回転寿司店のベルトコンベヤーは、東京の回転寿司店よりも40パーセント速く回っている。2.大阪人が歩く早さは秒速1.6メートルで、東京人の秒速1.54メートルを凌いで世界一だ。3.大阪の公共交通機関の券売機の硬貨投入口は日本一大きく、硬貨をすばやく入れることができる。4.大阪人の普段のあいあつは、「もうかりまっか?」である。5.大阪では、エスカレーターに乗るときに右側に立つのが慣わしだが、大阪以外の地域では左側に立つ。6.世界最速のファストフードは、大阪で生まれた。7.大阪のGDPはスイスとほぼ同じである。 答:すべて正しい。 大阪人は、日本一熱く、せっかちで、反骨精神が強く、商売上手な人たちだ。大阪人と比べてしまうと東京人も中途半端だと思えるほどで、大阪の街がたいてい観光のスケジュールから外されてしまうのはそういう地域性が原因ではないか・・・しかも歴史的な名所はないに等しく、美術館もほとんどなく、あるのは特徴のない無数の高層ビルに、果てしなく続くアーケード、店が建て込んだ横丁ばかりだ。それでも僕は、日本の都市のなかでは大阪を一番楽しみにしていて、3週間の京都滞在が終わり、電車で大阪へ移動する間も、わくわくする気持ちを抑え切れなかった。 リスンと子どもたちも、そろそろ時計を現代に戻したがっていた。天皇の御所と御苑を訪ね、アスガーとエミルは走り回って有り余るエネルギーを発散し、僕らはみんな京都独特の「よそとは違う」雰囲気をとても気に入ったけれど、子どもにとっては京都は東京よりもさらに窮屈なところだった。常に「シーイッ」と言われているような気分になる街なのだ。それに僕は僕で、京都にいた3週間はひとりで行動することがあまりに多く、リスンと子どもたちを置いてきぼりにしてしまったと罪の意識を感じていた。(中略) だけど、言うまでもなく、男はそれでもなお、さもしさや弱さを抑え切れない生き物で、しかも僕は、あらゆる食べ物がごちゃ混ぜになった大阪へ行くと思うと、もうよだれがこぼれそうなほどだった。 大阪は食の首都であるという評判が高まっている・・・・先に書いたように、レストラン批評家として名高いフランス人、フランソワ・シモンは、世界のなかでも大阪は特に好きな食の街だと言っていたし、インタビューを受けたヨーロッパやアメリカのトップシェフたちが、インスピレーションを求めて訪ねる街として大阪の名前を挙げているのを見たこともある。 大阪には、大阪ならではの料理があり、世界最大の調理師学校があり、新しいオートキュイジーヌに柔軟に積極的にアプローチする心意気がある。大阪人の新しいものを貪欲に求める気質は、しきたりに対する反感や、何世紀にもわたる海外との貿易によって育った国際人的な考え方と相まって、料理のメッカとなる最高の条件を整えてきたように見える。僕は、もう待ちきれない思いだった。(中略) チェックインするとすぐに、リスンは手をこすり合わせながら「さあ、ショッピングよ!」と宣言して、出かけていった。つまり、僕とアスガーとエミルは、1日自由に市内を探検できる。まず最初にどこへ向かうかは、ちゃんとわかっていた・・・日本のファストフードの首都のなかのファストフードの中心地、道頓堀だ。そこで子どもたちに、ピザやワッパーよりも大切なものが人生にはあると教えてやりたい。 道頓堀は、何でもありのラスベガス風の食べ物街で、日本のなかで何かを食べながら歩くことが許されるのも、たぶんここだけだろう。大阪名物のふたつのファストフード、たこ焼き・・・京都で初めてお目にかかったタコ入りの団子・・・とお好み焼きの心のふるさととして、日本中に知れわたっている。 お好み焼きがどんなものかについては、「ジャパニーズピザ」だとか「オーサカオムレット」だとか、さまざまな表現を聞かされたが、いずれにしても当たっているのは円形の食べ物ということだけだった。『英国一家 日本を食べる』1『英国一家 日本を食べる』2
2016.04.25
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図書館で『英国一家 日本を食べる』という本を見っけ♪…今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が尽きないのです。【英国一家 日本を食べる】マイケル・ブース著、亜紀書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めて―東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が倍加するのです。<図書館予約:カートで待機中に図書館で見っけ♪>amazon英国一家 日本を食べる京阪神の料理が語られています。p122~127<町屋に泊まる> 京都人は、世界一とは言わないまでも、日本一舌が肥えていると自負している。何といっても、京都は茶道発祥の地であり、洗練の極みを尽した京料理のふるさとだ。料亭や旅館の個室で日本庭園を眺めながら食べる、ぜいたくで高価なコースのごちそう。懐石料理だって京料理から発展した。この街には今も2000前後の寺や庭園があるが、1920年代に京都を訪れた経験があるアメリカ陸軍長官のヘンリー・L・スティムソンが、第二次世界大戦中に京都への原爆投下を阻止して文化財を守ったという話はよく知られていいる。 スティムソンは、京都の文化的価値を充分に理解しており、もしも破壊してしまったら、反米感情が永久に消えなくなると考えた。 京都の普段の食事は、豆腐や、豆腐の副産物である湯葉を中心とする「おばんざい」だ。湯葉は、沸騰させた豆乳の表面に浮いた膜で、そのままで、あるいは乾燥させて販売されるが、地球上のどんな食材よりもタンパク質の含有率が高い。京都には他にも、小麦のグルテンからできた生地のような、麩という興味深い食材がある。また、京都の人は東京の人ほどは外食をしない傾向があり、今も街の真ん中ににある錦市場を中心とする根強い市場文化が残っている。 おばんざいは、すばらしくヘルシーな菜食の料理で、脂肪分と糖分がとても少なく、野菜がたっぷり使われている。近年は、ダイコン、ナス、ゴボウ、カボチャ、キュウリなど、伝統的な地場野菜が復活して、京野菜というブランドとなった。こうした希少価値のある野菜は、東京の食通の間でも見直されている・・・単に一時的な流行かもしれないが、京野菜は風味が豊かだということも理由のひとつだし、何より、日本人はもともと外来品恐怖症なのに加えて、中国産食材によって健康が脅かされていることも大きな理由だ。賀茂ナスなんて、東京では最高にシックな食材だ。 京都と反対に、大阪は圧倒的なスケールの大都会で、巨大なオフィスタワーがそびえ、ショッピングモールが次から次へとつながり、道路や線路をひとまたぎするフライオーバー(陸橋)があちこちにあって、人々は仕事熱心で柔軟性があり、トレンドや需要に敏感だ。大阪は昔から商業の街で、常に改革を繰り返してきた。大阪人の考え方は現実的だと言われ、常に革新的なものを貪欲に求めるところがある・・・・大阪には30年以上昔のものはないと言ってもいいくらいだ。 フランスのフィガロ紙で料理批評をしている重鎮、フランソワ・シモンから、大阪は世界一の食の街だと聞かされていたので、僕は日本へ来たら大阪で食べることを何よりも楽しみにしていた。 大阪の食は、よく「食い倒れ」というひとつの言葉で言い表される。文字通り、「倒れるまで食べる」・・・肉体的にも・・・という意味だ。大阪人の食欲は旺盛で、油で焼いたファストフードが好きだ。そして、日本のなかでは珍しく、小麦粉を調理した食品をよく食べる。・・・なかでも有名なのは、たこ焼き、お好み焼き、きつねうどん、そして串カツだ。 一方、神戸は、京都や大阪よりも国際的な街とされている。山と海に挟まれて細長く伸びる神戸市には、国内で有数の影響力を持つ外国人コミュニティもあり、100に及ぶ国籍の人が暮らすといわれる。神戸は古くから、日本のどこよりも海外との結びつきが強かった。1868~1911年には、横浜港と同じく神戸港でも、寄港する外国船に新鮮で質の良い湧水を販売した。今では、神戸市民は日本一多くワインを飲み、洋菓子のひとり当たりの消費量が他のどこの都市よりも多い。しかも、コウベビーフという世界中で喜ばれる偉大な食材もある・・・大きな誤解を生むネーミングであることは、僕も後から知る。 京都駅に着いたのは、午前の遅い時間だった。かなり暑かった。9月の京都といえば、山に囲まれた地形のせいで、息が詰まりそうなほど蒸し暑いのが特徴で、札幌のようなすがすがしい気候とはまったく違う。(中略) リスンがインターネットで予約しておいたの家の鍵を、オーナーの友人、ジュンコという人から受け取ることになっていた。ジュンコは市内の北東部にある京都市国際交流会館で講師をしている。僕らはタクシーに乗り、薄暗いたたずまいの町屋や巨大な鳥居のそばを通り抜けて国際交流会館に向かった。到着すると、ジュンコはまだ授業中で、外国人の生徒たちにたこ焼きの作り方を教えていた。 「タコボール」すなわちたこ焼きは、味のついたドーナツみたいなもので、歯ごたえのあるタコの足のぶつ切りがなかに入っている。大阪では、屋台で作りたてを売っていて、厚紙で作った「」に8個入って、みりん、ウスターソース、ショウガ、ニンニク、砂糖、酒、そしておそらくだし汁で作ったとろりとしたソースがたっぷりとかかっている。削り節がかかっていることもあり、たこ焼きの熱でふわふわと揺れている。(中略) ジュンコと一緒にまたタクシーに乗って京都の街を走り、木々に覆われてなかが見えない京都御苑のそばを通って、上京区というところで下りた。 そこは、家がびっしりと立ち並ぶ一角だった。モダンで機能的に見える家もあれば、僕らが借りた家みたいに、古色蒼然としているものもある。道路に歩道はなく、道の際まで家の敷地があって、玄関と道の間の小さなスペースに、自転車やら鉢植えやらがところ狭しと並んでいる・・・狭い場所にぴったり収まるキャリーバッグみたいな小さな箱型の車が置いてある家もある。 僕らが滞在する家は、日本の伝統的な建築スタイルで、100年以上前に建てられたものだとジュンコが教えてくれた。引き違い窓にはメッシュのカバーがついていて、重厚な木製のシャッターもある。窓を開けると、目の前の手が届きそうなところに隣の家の窓があった。まさに、僕らが期待していたような本物の京都だと思った・・・特に、扉に鍵がついていないところとか。京都の料亭や懐石料理が語られています。それと、日本料理と欧米料理の違いなんかも。p139~147<世界一美しい食事> 京都にある懐石の高級料亭は、どれもが世界有数のみごとな庭のある伝統的な木造の大邸宅で、そのほとんどが街の東側の寺の多い地区にある。畳の部屋には、値がつけられないほど高価な掛軸や焼き物が飾られ、料理が盛られる器や漆器は数百年も昔のもので、数百万円の価値がある。使われている食材もやはり一級品だ。辻静雄が『Japanese Cooking:A Simple Art』に書いているように、日本人がいう季節の素材とは、たとえばナマコの卵巣のように、1年のうちほんの2,3週間しか手に入らないものを指す場合が多い。 ナマコは年に一度だけ卵を持ち、その卵巣が新鮮なうちに食べるのだ。こういう貴重な食材を、懐石の料理人はとても重んじる。そして、皿や鉢も季節に応じてさりげなく取り換えられる。 懐石を解読するヒントは、汁物が入っている鉢は、おそらくもっと有名な鉢を倣った作品で、オリジナルの鉢と同じ季節を表現しているというところにある。 僕は、絶対に懐石を食べたいとずっと思ってきた。だけど、京都の料亭はべらぼうに値段が高いうえに、「外国人お断り」という暗黙のポリシーがあるところが多く、日本人でさえ誰かの招待がなければ入れてもらえない店があるほどだ。でも、村田氏はそういう懐石の世界の名匠としては珍しく、テレビに出演したりして、長年日本の内外から注目を浴びてきた。しかも彼は、若い頃にフランスで修業を積んだうえで父上から菊乃井を継いでいて、肩の力を抜いて懐石の伝統と向き合っている。 たとえば、彼は懐石の料理人としては初めてフードプロセッサーを使ったが、そのようなやり方は、下ごしらえは手を抜かずに手作業でするという懐石の本質から外れると考える人が今もいる。また、懐石の流儀をあくまで忠実に守る料理人とは一線を画し、村田氏はカモやフォアグラなどの肉料理も作る。彼は、料亭は「大人のアミューズメントパーク」だと言っている。 日本人のなかには、外国人が懐石を正しく理解するのは無理だと言う人がいる。象徴主義的なところ、摸倣の摸倣、あそび心、季節をめでる機微、ひと皿の量の少なさなどは、確かに理解が難しい。でも、それでも僕は懐石をもっと知りたかったから、村田氏の料理を食べられるのならば、それは自分にとって最大のチャンスだった。(中略) 凝ったつくりの広い木造の建物に着くと、オーストラリア人の女性が、店の雰囲気に呑まれてしまったからか、案内の人が靴を脱いでくださいと言ったのを誤解して、ひざまづいてなかに入ろうとした。それを見た店の人は大慌てで彼女に近寄り、手を貸して立ち上がらせようとした。ひとつ間違えば自分がこうなっていたと、僕はひそかに思った。懐石といえば、儀式張っていて作法にうるさいという恐ろしいイメージが強く、きっと僕も食事が終わるまでには何かやらかすに違いないという気がした。 案内されたのは広い畳の部屋で、梁は木製、天井にも木が精巧に組んであり、壁はベージュ色の土だった。部屋の奥には、赤い朱塗りの低いテーブルがひとつだけあって、座椅子・・・背もたれと座面だけで脚はついていない・・・がひとつ置いてあった。僕はひとりきりで食事をすることになりそうだ。(中略) 懐石の最初の料理は先付で、村田氏によれば、一番重要な料理だ。「お客さんにひと息ついていただくもの」と彼は著書に書いている。その日僕が食べた先付は、クルミの豆腐にデラウェアのブドウを添え、小さなシソの花があしらわれて、だし汁のジュレ・・・葛の根でとろみがつけてある・・・がかかっていた。冷たく清涼感のある豆腐のなかのカリカリした食感が気持ちよく、生わさびのあそび心のある辛みが効いている。心地よくて刺激的な味わいは、すべてあっという間に消えてなくなった。(中略) 僕は村田氏の数十年後に同じような排外主義を経験した。友人のトシのことを思った。フランスと日本で修行を積んだ村田氏は、このふたつの国の料理をどう比較しているのだろうか?「僕は、日本とフランスの料理の違いはこういうことやと思います。日本料理では、僕らは食材は神様からの贈り物やと思うて、手を加えすぎんようにします。たとえば大根は、ありのままの姿形が最高やと考えるんです。僕に言わせれば、フランスのシェフは往々にして素材を変えてしまいたいと思っている。素材に自分ならではの個性を与えようとしています」言い方を換えれば、日本の料理人は神様からいただいたものを調理師、フランスのシェフは自分が神様だと思っているということか。 村田氏は、これと同じことを本にも書いている。「若いときは、あらゆる食材に『味をつける』ことが僕の仕事やと思うていました。でも今では、そのアプローチはおこがましいんやないかとわかってきました。『食材が本来持っている味を引き出す』のが僕らの本当の仕事じゃないかと考えるようになりました」 村田氏は、別の表現もした。僕の聞いた限りでは、そこには日本と欧米の料理の基本的な違いがにじみ出ていた。「オートキュイジーヌでは、異なる素材の風味を込み入ったやり方で加えたり重ねたりします。けど日本では、とりわけ京都では、主に野菜を中心に料理しますが、その目的は、それぞれの素材の、たとえば苦味とか、あまり好まれない風味を抑えるようにして、素材の本質的な味を引き出すことにあります。日本料理は、引き算の料理なんです」著者マイケル・ブースは、このあとドンドンと日本料理の深みに踏み込んでいくわけですが・・・日本人もびっくりポンのこだわりが見て取れるのです。関西の味への理解度が、ええでぇ♪
2016.04.25
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図書館に予約していた『紙の動物園』というSFを、ようやくゲットしたのです。中国人の著わしたSFを初めて読むことになるのだが・・・・3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ということで、期待できそうやでぇ♪【紙の動物園】江弘毅著、早川書房 、2015年刊<「BOOK」データベース>よりぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。<読む前の大使寸評>3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ってか・・・・期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(9/27予約、4/12受取)>rakuten紙の動物園この本には、あちこちに大きな手書きの漢字が見られるのです。このような言語学的SFとでもいう本を見たのは初めてのことです。p330~333<文字占い師> リリーは笑い声をあげた。甘さんはいままでにあったどの中国人ともちがっていた。だが、彼女の笑い声は長くつづかなかった。学校のことがいつも頭のどこかにこびりついており、あしたのことを考えて、リリーは眉間に皺を寄せた。 甘さんは気づかないふりをした。「だけど、ちょっとした魔法も使うんだよ」 その言葉にリリーは興味を惹かれた。「どんな魔法?」 「わしは測字先生(文字占い師)なのだ」 「って、なに?」 「爺ちゃんは、名前のなかの漢字や自分で選んだ漢字に基いて、人の運勢を占うんだ」テディが説明した。 リリーは霧でできた壁に足を踏み入れた気がした。わけがわからず、甘さんを見る。 「中国人は神託を受ける補助手段として書を発明した。そのため、漢字はつねに深遠な魔法を宿しているのだよ。漢字から、人々の悩みや、過去と未来に待ち受けているものをわしは言い当てることができる。ほら、見せてあげよう。なにか単語をひとつ思い浮かべてごらん、どんな単語でもいい」 リリーはあたりを見まわした。三人は河岸の岩の上に座っており、木々の葉が金色や赤色に紅葉しはじめていて、稲穂がどっしり撓んで収穫間近になっているのがリリーの目に入った。 「秋」と、リリーは言った。 甘さんは棒を手に取り、足下の柔らかい泥に漢字を一字書いた。 秋 「泥に棒で書いたのでへたくそな字になっているのはかんべんしとくれよ。紙も筆もないのでな。この漢字は、シュウという字で、秋を意味する」 「これからあたしの運勢がどうやってわかるの?」 「そうだな、まずこの漢字をばらばらにして、戻す必要がある。漢字というのはほかの漢字を合わせて作られているんだよ。積み木のようにな。秋はふたつのべつの漢字からできている。この漢字の左側の部分はヒエという漢字で、キビや米や穀物一般を意味する。いまここに見える部分は、様式化されているのだけど、大昔には、この文字はこんあふうに書かれていたのだ」 甘さんは泥に書いた。 禾 「ほら、茎が熟れた穂の重みで撓んでいるように見えるだろ?」 リリーは心を奪われて、うなづいた。 「さて、シュウの右側はべつの漢字、フォアで、火を意味する。燃えている炎みたいだろ、火花が飛んでいる?」 火 「わしが生まれた中国の北部では、米はできないんだ。そのかわりに、キビや小麦やモロコシを育てておる。秋になり、収穫して脱穀し終わると、畑に藁を積み上げて、燃やし、灰が翌年の畑の肥やしになるようにする。金色の藁と赤い炎、そのふたつを合わせてシュウ、秋ができるのだ」 リリーはうなづき、その光景を思い描いた。 「だが、きみが自分の漢字としてシュウを選んだことでわしになにがわかるかといえば」甘さんはしばらく黙って考えた。そしてシュウの字の下にさらに数本の線を引いた。 愁 「さて、シュウの下に心を表す漢字シンを書いた。これはきみの心の形を表す文字だ。ふたつの字を合わせると、新しい漢字チョウができる。これは愁いや悲しみを表す文字だ」 リリーは心臓がキュンと締め付けられる気がして、突然なにもかもぼやけて見えた。リリーは固唾を飲んだ。 「きみの心にはたくさんの悲しみがあるんだね、リリー、たくさんの心配事がある。っきみをとても、とっても悲しくさせていることがある」 リリーは老人の柔和で皺の寄った顔を見上げた。華人による華人の定義が現れているところがあるので見てみましょう。p354~355 「中国を表す文字はどう?」 甘さんはじっと考えこんだ。「それは難しい要求だよ、リリー。Chinaというのは英語では、単純な一語だが、中国語ではそう簡単ではない。中国や中国人を自称する人たちを意味する言葉はたくさんある。そうした言葉の大半は、古代の王朝にちなんでつけられており、現代の言葉は本物の魔法が入っていない抜け殻なのだ。人民共和国とはなんだ? 民国とはなんだ? それらは真の言葉ではない。犠牲者を増やすほうに変わるだけだ」 しばらく考えてから、甘さんは新たな文字を書いた。 華 「これは華という文字だ。この文字だけが、どの皇帝とも、どの王朝とも、殺伐と生け贄を必要とするどんなものとも無関係で中国と中国人を表すものなのだ。人民共和国も民国も両方とも自分たちの名前にこの字を入れているけれど、両国よりもはるかに古く、どちらの国にも属していない字だ。 華は、もともと、“華やかな”や“壮麗な”という意味だった。地面からひとかたまりの野の花が咲き誇っている形をしている。わかるかい? 古代の中国人は周辺国の人間から“華人”と呼ばれていた。彼らの着ている服が絹と細かなレースでできている華やかなものだったからだ。だが、わしはそれだけの理由じゃなかったと思う。 中国人は野の花のようだ。いく先々で生き延び、人生を謳歌する。ひとたび火事が起これば、野の生けるものはすべて焼き尽くされてしまうかもしれないが、雨が降れば、あたかも魔法のように野の花はふたたび姿を現す。冬が訪れ、霜と雪であらゆるものを滅ぼしてしまうかもしれないが、春が来れば野の花がふたたび咲き、みごとな景色をこしらえるだろう。 いまのところ、革命の赤い炎は大陸本土では燃えているかもしれないし、恐怖の白い霜がこの島を覆ってしまったかもしれない。だが、第七艦隊の鉄の壁が解け去り、本省人と外省人と、わしの故郷にいるその他の華人全員がともに華麗に咲き誇る日は訪れるだろうとわしにはわかる」 「ぼくはアメリカで華人になるのだ」テディが付け加えた。 甘さんはうなづいた。「野の花はどこでも花を咲かすことができる」著者のケン・リュウはこのあと、制海権や228など政治的な事柄にもふれているが・・・どうしても中華中心の思考方法が匂うわけです。でも、共産主義や民族主義に組しないことはよくわかりました。「心智五行」という短編から、タイラとアーティの会話を見てみましょう。宇宙船に乗っているわずかな人口では、先進技術に基づく文明を何世代も維持するのは困難であるという事実に着目するあたりに、著者のひらめきがあります。しかし、中国系の原始集団の子孫というのが、日本人読者には自己同一化できるか微妙なところです。p153~155<心智五行>より【59日目】タイラ:そんなことはありえないわ、アーティ。(アーティ:モデル名ML-1067Bの人口知能、以降は阿と略する)阿:分岐分析を複数回おこなった。ファーツォンと彼の一族の話している言葉は、英語の方言だ。標準英語からは千年以上まえに分岐したものだけど。タイラ:ジャンプシップはできてから1世紀も経っていない。どうやってファーツォンの一族が千年も孤立していられたの?阿:それはぼくの専門外領域の質問だ。タイラ:ほかになにか見つかった?阿:音声分析と彼らがきみに与えている薬に基いて、95パーセントの確度で、彼らが文化的には圧倒的に中国系である原始集団の子孫であると推定する。ほかの文化の影響も若干入っているけれど、たぶん孤立のせいで、彼らの技術的発展は後退したんだろう。タイラ:ここから脱出するのは困難だろうということね。【62日目】タイラ:なんとか長く起きていられるようになって、ファーツォンと話すのに多少進歩した。アーティにまだ通訳してもらわなければならないけど、いくつかの単語や文章は聞き取れた。ファーツォンはとても辛抱強くつきあってくれた。(中略) わたしたちの世界と準拠枠がかけ離れており、アーティを通してだとまだニュアンスをあまり伝えられないでいることを考慮に入れると、ファーツォンと話していてとても気持ちが安らぐのに驚く。 阿:ぼくはベストを尽している。タイラ:わかってるって。もちろん、ファーツォンがわたしに興味を抱いているのはわかる。ときどき、わたしをじっと見つめているのに気づいている・・・でも、これは決してうまくいかないな。わたしの最優先の目標にすべきもの・・・生き延びて、故郷に帰ること・・・の妨げになる。わたしは論理的でいなくちゃ。阿:きみはぼくが一緒に働いたすべての人間のなかで、合理性と安定性では上位1パーセントにランクインしているよ。タイラ:その状態をわたしが維持しているよう願いましょう。この岩から飛び立つには、慎重に考えなければならない。阿:ここの連中に関する新説があるんだ。オール=ネットから切り離されているけど、ぼくのデータベースのなかで、千年ほどまえに地球から派遣された相対論的速度でのみ推進できる古代の宇宙船に関する言及を見つけた。人々が地球上の生命が絶滅の危機に瀕していると信じて、混乱が生じていた時期だ。タイラ:その話、読んだことある!そうした脱出宇宙船の背景には、絶望的な信念があったって。宇宙航行に向いていない船でどうにか旅を生き延びたとしても、船に乗っているわずかな人口では、先進技術に基づく文明を何世代も維持するのは疑わしいな。 ファーツォンの一族はそんな船が生き延びた最初の確認例になるでしょうね。阿:到着に要した数世紀のあいだに、鉄工より進んだすべての知識を失ってしまったようだ。タイラ:アーティ、ファーツォンはあなたのことを一種の精霊だと考えている。彼の一族の精神には、合理的知識で充ちているべき空間に迷信が埋まってきたんだと思う。【64日目】阿:かなり良くなっているよ。あれはとても深刻なバクテリア感染だったんだ。タイラ:それがわたしの被ったもの?阿:きみの症状はぼくのデータベースにある説明と一致している。何世紀もまえ、きみの祖先たちが地球に閉じ込められていたとき、たいていの人体は無数のバクテリアの生息地だったんだ。バクテリアは腸管のなかや皮膚の上や髪の毛に巣くい、頻繁に病気をもたらしていた。タイラ:ぞっとする!阿:結局、きみたちはそうした寄生生物を管理する技術を開発した。そしてきみたちが星々への移動を開始したとき、人類が新しい世界で新鮮なスタートを切れるように、古代の疾病から永久に逃れられるように残っている微菌をすべて根絶するための真剣な努力を払ったんだ。タイラ:ファーツォンの祖先たちはたぶんそれほど入念じゃなく、病原菌をここに持ち込み、それがわたしに取り憑いたのね。あのおぞましいスープになにが入っていたのか知ってる?あのおかげでわたしは良くなった気がしているのだけど。阿:たんにきみが自分の力で快復した可能性のほうが高い。あのスープには抗生物質やその他の知られている薬物成分は入っていなかった。彼らの医学理論は、東洋の神秘主義に由来する昔から怪しまれていた迷信に基いているようだ。ファーツォン:タイラは、自分もおれとまったく同じように死すべき存在であると断言したけれど、ときどきそれを疑っている。彼女の肌は生まれたての赤ん坊のようにすべすべで、顔の造作ときたら、まるで霧と露だけ飲んで育ったかのように繊細で優美だった。傷ひとつなく、欠けているところひとつない。現実の女というより、絵に描いた女のようだ。『紙の動物園』1
2016.04.24
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図書館で『宮本常一の写真に読む失われた昭和』という本を手にしたが…記憶の片隅にやっと残っていたような写真が満載されています。タイトルにあるように、もう失われた景色なんでしょうね。【宮本常一の写真に読む失われた昭和】佐野真一著、平凡社、2004年刊<【目次】「BOOK」データベース>より第1章 村里の暮らしを追って(景観にめぐらせた無限の夢/鳥の目で地形を、虫の目で暮らしを ほか)/第2章 島と海に見た貧しさと豊かさ(海とともに暮らせた時代/過疎化前の島のたくましさ ほか)/第3章 街角で聞こえた庶民の息づかい(師・渋沢ゆずりの細部へのこだわり/宮本の写真術とその思想 ほか)/第4章 ジャーナリストの視点(学生運動と百姓一揆ー60年安保/大規模災害の現場ー新潟地震 ほか)<読む前の大使寸評>記憶の片隅にやっと残っていたような写真が満載されています。タイトルにあるように、もう失われた景色なんでしょうね。rakuten宮本常一の写真に読む失われた昭和昭和30年代の高度経済成長時期は日本の大転換期だったようで・・・宮本さんや網野さんが説くように、日本人はこの時期に何かを失ったようです。p22~24<日本の大転換期における「しぐさ」の記録> 先ごろ物故した歴史学者の網野善彦は、遺作となった『「忘れられた日本人」を読む』(岩波書店)のなかで、この『絵引』という着想をたいへん高く評価し、「こういう細かい仕草まで宮本さんがすべて名前をつけられたのですから、これは大変なことだったと思います」と述べている。『絵巻物による日本常民生活絵引』 網野は戦後の一時期、アチック・ミューゼアムの後身の日本常民文化研究所の分室の水産資料整備委員会に参加したことがある。そこで水産に関する古文書集めに全国を飛び回っていた宮本を知った。宮本が死んだとき、心にしみる追悼文を朝日新聞に寄せたのも網野だった。網野はそのなかで、『忘れられた日本人』の中の名品中の名品の「土佐源氏」を読んだときの感銘は忘れ難い、それ以来、私は宮本式の著作をあさり読んだ。民族学の分野に私の目が多少とも開かれたのは、まったく宮本氏の魅力にひかれてのことだといってよい、と記している。 神奈川大学短期大学部の教授時代、網野はテキストに『忘れられた日本人』を使った。いちばん困ったのは、そのなかに出てくる木炭や火鉢といった言葉を学生たちがまったく知らなかったことだったと、網野は前掲書のなかで述べている。 網野はさらに、私どもの世代と今の世代との間に横たわっている断絶はたいへん深いものがあるような気がする、私流に言えば、14,5世紀頃に日本列島の社会ではかなり重大な文化・生活の大転換があったと思うが、それに匹敵するくらいの、あるいはそれ以上にはるかに深刻な社会の大変動が、現在、進行中なのかもしれないという実感をもっている、とつづけている。 網野のいう大変動を私なりに解釈すれば、その起点は昭和30年代の高度経済成長にあった。エネルギー革命が起こり、われわれの身の回りから木炭も石炭も消えていった。それは必然的に日本人の生活様式を根本から変えるものだった。宮本の写真が貴重なのは、そのほとんどが、まさにその端境期に撮影されたものだからである。 そこには消えてゆく日本の姿が、ゆったりとした時間の流れとともに確実に写しとられている。 昭和30年代に宮本が佐渡東海岸ぞいの松ヶ崎で撮影した、道路工事用の砂を背負箱で黙々と運ぶ女たちや、秋田県北部の上小阿仁村で撮影した女のかつぎ屋姿は、今ではまったくといっていいほど見られなくなってしまった。だが、宮本が索引づくりを担当した中世の絵巻物に登場する物を背負う庶民の姿と、宮本が写した背負い姿はそっくりといってもいいくらいによく似ている。宮本はこれらの写真を撮るとき、中世の絵巻物の世界をダブらせていたに違いない。(中略) 人間は本来、物を自分の肉体で運ぶ機能をもった存在だった。頭で運び、肩や背、手や腰で物をどこまでも運搬した。人体はそれ自体が秀れた運搬具といってもよかった。頭部での運搬は中世では男にもみられたが、近代に入ると、なぜか、女に限られた。 天秤棒や背負子、牛馬やリヤカーによる運搬姿も、自動車が普及するまでは、全国どこにでも見られる風景だった。p93~95<過疎化前の島のたくましさ> 宮本に「海ゆかば」という故郷の古老からの聞きとりに基いたエッセイがある。ひとり乗りの小舟で大漁の魚を追って出かけた漁師が、朝鮮から中国の沿海、はてはインド洋にまで航海し、その地に腰を落ち着け、十数年後に帰ってきたときには、仏壇に自分の位牌がかざられていたという話である。 この島の漁民には、こうした海洋民的性格が元々そなわっていた。彼らはやがて、台湾、朝鮮、中国の青島、そして遠くハワイにまで沖家室島の「分村」をつくった。 沖家室島は人口三百人たらずの小さな島である。その小さな島から、戦前、「かむろ」という情報発信マガジンが刊行されていた。大正3(1914)年に創刊された「かむろ」は、昭和15(1940)年まで158号にわたって刊行された。「かむろ」には、ホノルル通信、ヒロ通信、青島通信、基隆通信など、在外沖家室島民からの便りが毎号のように掲載されている。 彼らにとって、そしてその血を色濃く受け継いだ宮本にとって、海は人と人とを隔てる境界線ではなく、古くから人と人とを結びつけるかけがえのない交通の場だった。この視点は、渋沢敬三から見ていわば宮本の弟弟子筋にあたる網野善彦の歴史観にも通じる。 死のちょうど3年前に、網野を長時間インタビューしたことがある。そのとき網野は、遺言でも残すように、海から日本列島を見るという視点をいちばん強く教えられたのは宮本さんからだった、もし僕が渋沢先生と宮本さんに出合うことがなかったら、自分のいまの歴史観は間違いなく生まれていなかった、と繰り返し言った。 「海から見た日本」という問題意識は、晩年、宮本をとらえてはなさないテーマだった。宮本は最後の入院先となった病院のベッドに、二百字詰めの原稿用紙二千枚を持ち込み、日本列島に住む人びとの海を越えた文化の交流と伝播の歴史をあとづけようとする、壮大な構想に挑もうとしていた。それは宮本がこれまで乱雑に取り組んできた世界を再構築し、さらにそれを根本から問い直す仕事になるはずだった。しかし、病床には何も書かれていない原稿用紙だけが残った。 宮本が撮影した離島の写真からは、まだ本格的な過疎の波に洗われる前の島のたくましさも伝わってくる。それがいっま、島に橋がかかり、交通が飛躍的に便利になって、過疎と高齢化の波が容赦なく島に襲いかかっている。宮本がかつて、日本の離島という離島に橋を架けたいという思いあまった言葉まで吐露したことを考えあわせるなら、それは皮肉というにはあまりにも痛切な現実というほかない。 p180~181<その写真をどう読むのか> すぐれた写真は、それを自ずから喚起する力を内在的に備えている。それを見る者は、自分がどういう時代に生き、その時代とどう向き合ってきたのか、鋭く問われることになる。その写真を見ることによって、自分と世界との間に横たわる目に見えない等高線を感じとり、自分がその等高線のグラデーションのどのあたりに存在しているかを、いやおうなしに実感することになる。 宮本の写真は、一見、懐かしい世界だけを写しとっているように見える。しかし、その写真は、見る者の身体能力のすべてを稼動させなければ本当に読み解くことはできない。1本の流木から相互扶助の精神を読みとり、杉皮が干してあるだけの山村風景から山林労働の全過程を読みとることはできない。 「あるくみるきく」精神から生まれた宮本の写真には、キーボードをたたくだけで、瞬時に「解」が出るインターネットとは対極の世界が広がっている。そこには、歩くことでしか見えてこない「小文字」の世界が、ゆったりと流れるアナログの時間のしわとともにゆるぎなく定着されている。宮本の写真は、われわれがどこから来て、どこに行くかを静かに問うている。 「記憶されたものだけが記録にとどめられる」 宮本が晩年語った言葉だが、宮本の写真から伝わってくるのは、それを反転させた言葉である。 「記録されたものしか記憶にとどめられない」 宮本の写真の底には、高度経済成長期前後の日本人の記憶と記録がおびただしく堆積されている。ただいま~♪ 神戸に帰ってきたでぇ。…で、書きためていた記事をUPしました。
2016.04.24
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図書館で『英国一家 日本を食べる』という本を見っけ♪…今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が尽きないのです。【英国一家 日本を食べる】マイケル・ブース著、亜紀書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めて―東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が倍加するのです。<図書館予約:カートで待機中に図書館で見っけ♪>amazon英国一家 日本を食べる冒頭で、著者マイケル・ブースとトシの料理修業時代のつき合いが語られています。p8~11<トシがくれた一冊の本> 「ふん、そんなにデブってるんじゃ、自分のあそこだって、もう何年も拝んでねえだろ!ズボンだってパンパンじゃないか。月みたいにまん丸な巨体を見せつけられちゃあ、お天とうさまは沈むしかないぜ!」 トシの口の悪さは相変わらずだ。しかも、フランス料理と日本料理の相対的価値に関するきわめて節度のある議論をしていたはずなのに、こんなにいい加減な結論になるなんて。 先日トシと一緒に、ノルマンディ海岸の港町、オンフルールにある、Sa.Qua.Na.という名のあるフレンチ・レストランへ行った。シェフのアレクサンドル・ブールダは、フランスで人気急上昇中の料理界のスターで、僕としては、彼の軽やかなタッチや食材の鮮度について無邪気な感想を言っただけなのだが、彼の料理を日本料理と比べてしまったのは、考えてみれば軽はずみではあった。 ブールダが3年ほど日本で働いていたのを知ってたものだから、彼の料理は、彼自身が日本で口にした食べ物の影響を受けているとやんわり匂わせることが、さほど見当違いだとは思えなかったのだ。 そういう話が友人のカツトシ・コンドウを怒らせるということは、初めからわかっていたはずなのに。 「おまえに、日本料理の何がわかるっていうんだよ、えっ?」トシは、吐き捨てるように言った。「日本料理について、何か知っているとでも言うのか? 日本でなきゃだめなんだよ! このヨーロッパじゃ、味わえないさ。あの男が作っているのは、日本料理とは似ても似つかないね。あれに伝統があるのか?季節があるのか?精神があるのか?Tu connas rien de la cuisine Japonaise.(おまえには日本料理なんてわかりっこない。わかるもんか!)」これまでのつき合いから、こういうふうにいきなりフランス語が飛び出すのは、よくないサインだとわかっていた。トシが爆発しないうちに、何とか反撃しないといけない。 「充分わかってるさ、すごく味気ないってことは。日本料理なんて見かけばっかりで、風味のかけらもないじゃないか。あれに楽しみがあるのか? 温もりがあるのか? もてなしの心があるってのか? 脂肪もなけりゃ味わいもない。どこがいいんだよ? 生の魚に、ヌードルに、揚げた野菜だろ・・・しかもみんな、盗んだ料理だ。タイとか、中国とか、ポルトガルから。まあ、どこだって関係ないか。だって、何でもかんでもショウユに突っ込むだけだから、みんな同じ味だよ。いい魚屋がいて、切れる包丁さえあれば、日本料理なんて誰だって作れるね。違うか? タラの精巣にクジラの肉だって?・・・ぜひともお目にかかりたいものだね」 トシとは、数年前、パリのル・コルドン・ブルー(1895年創立の料理学校)に通っていたときに知り合った。背が高く、引き締まった風貌の日本と韓国のハーフの男で、年の頃は20代の終わりぐらいだった。幾重にも重なる謎めいたベールに覆われているが、ぶっきらぼうなビートたけし風の見てくれの裏に、気の利いたさりげないユーモアのセンスが潜んでいる。 ほとんどの生徒は、白いシェフコートがジャクソン・ポロックの絵みたいになるまで、何日も洗わずに着ていたが、トシだけはいつも染みひとつないシェフコートに身を包んでいた。彼の料理はいつもパーフェクトで、盛り付けも周囲にたっぷりと白い余白があってパーフェクト、使う包丁はいつだって怖いほどの切れ味だ。 でもトシは、教師のフランス人シェフたちと、たびたび激しく衝突した。トシが魚に数秒以上火を入れるのを拒み、野菜は歯ごたえを残して仕上げ、シェフたちが好むようなふにゃふにゃの食感にしないので、いつも目をつけられていた。 おかげでトシは、フランス人とフランス料理に根深い反感を抱くようになったが、それでも彼はパリを離れようとしなかった。それは、ひとつには、上等な日本料理というものを、何が何でも独力でこの国に広めたいという、しぶとい決意があったからかもしれない。 「フランス人てのは、あの人がセックスを知ってる程度にしか、日本料理を理解しちゃいないさ」 あるときトシは、通りすがりの尼僧を指差しながらそう言った。 料理学校を卒業すると、トシは6区にある日本料理店で働き始めた。これぞ本物、といった感じの店で、ひっそりしたたたずまいに加え、店内は静寂そのもので、日本人観光客の間ではちょっとした評判となっている。トシとは、卒業後もたびたび一緒に食事をして料理について語り合ってきたが、結局は、いつの間にか子どもみたいに悪口を言い合っておしまいになってしまう。 でも、今回は少しわけが違った。「オーケー、少し黙ってろ、いいな?」トシはそう言うとテーブルの下に頭を突っ込んで、かばんのなかの何かを探した。「これをやるよ。ちゃんと読めよ」 トシが手渡してくれたのは大型の本で、表紙には、ぼかしたタッチで、飛び跳ねる魚の絵が描かれている。一瞬面食らったが、必ず読むと約束して礼を言った。何だかしっくりこなかった。トシは、これまで何ひとつくれたためしがない。 たとえば、酒を注文するときは、人数分まとめておごったりおごられたりするものだと説明しても、なかなか納得しようとはしない男だ。それなのに、その本はどう見ても高価だった。トシに暴言を吐かれたこともあれば、「頭が空っぽの白いガイジン」呼ばわりされたこともあるというのに、おかしなもので、帰りのバスで本を膝に載せて座っていると、僕やル・コルドン・ブルーの教師たちに侮辱されたという彼の痛切な思いが、ようやくわかりかけてきた。 その本は、1979年に出版された、辻静雄の『Japanese Cooking:A Simple Art』(講談社インターナショナル刊、2006年)の新装版だった。以降、辻の哲学とかレシピとかの説明が続くのだが、飛ばします。p16~19 辻の本を読み終わってすぐに、つまり、トシが本をくれたその日のうちに、僕はいきなり、衝動的に、後から思えば人生を変えることになる決断を下した。実際に行って、この目で見て、自分の舌で味わってみるしかないと決めたのだ。日本へ行って、今の日本の食べ物を調査し、料理の技術や食材についてできる限り学び、辻の悲観的な予想が当たっているかどうかを自分で見極めなければならない。 今でも料理について日本人から学ぶべきことはたくさんあるのか? 『Japanese Cooking:A Simple Art』は、もはや失われた伝統のエレジーでしかないのか? トシが自慢する日本人の長寿や、日本料理が恐ろしく身体によいという話は本当なのか? もし本当なら、そういう食事を多少なりとも取り入れることはできるのか? そもそも、日本料理は僕らの生活になじむのか? それと、日本人は本当に、ガーターではなくノリを使ってソックスを留めているのか? トシはそう言っていたけど。 とにかく日本へ飛んで、じっくりと、計画的に、貪欲に、仕事をしてやろう。北の島、北海道から南に向かい、東京、京都、大阪、福岡を訪ね、沖縄の島々へも足を伸ばし、各地で食べて、インタビューして、学んで、探求する。 日本ならではの食材を味わい、日本料理の哲学、技術、そして言うまでもなく、健康上の恩恵について学習する。そもそも、まずは体重を減らさなきゃならないし、そのためにもっとヘルシーな食事を心がけなければいけないのに、ヨーロッパにいる限り、選択肢はローファットヨーグルトや、ウェイト・ウォッチャーズ(アメリカで始まったダイエット・プログラム)の料理ぐらいで、ほとんど魅力を感じない。それに引き換え、辻の本には、自分で作れるならすぐにも食べたいと思うほど、美しくて健康的でシンプルな料理が溢れている。 その日の晩、とりあえず妻のリスンにアイデアを話してみた。「あら、それはすごいじゃない」彼女はそう言った。「ぜひ日本へ行きたいわ。子どもたちも連れて行くといいわよね、きっと一生の思い出になるわ。そうでしょ!」 「いや、ちょっと待って。えっと・・・そういうつもりじゃなくて・・・ほら、だから、調査とか・・・インタビューとか、いろいろ・・・」 もう手遅れだった。
2016.04.19
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「シーレーン」でしょうか♪<市立図書館>・英国一家 日本を食べる・連合軍戦勝史観の虚妄<大学図書館>・アジア海道紀行・仕事道楽図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)なお、『食糧と人類』は図書館休館の関係で4/26受取り予定です。************************************************************【英国一家 日本を食べる】マイケル・ブース著、亜紀書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めて―東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>今ちょうど、この本をもとにしたNHK番組が放映されているので、興味が倍加するのです。<図書館予約:カートで待機中に図書館で見っけ♪>amazon英国一家 日本を食べる【連合軍戦勝史観の虚妄】ヘンリー・S・ストークス著、祥伝社、2013年刊<「MARC」データベース>より滞日50年、『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の各東京支局長を歴任し、三島由紀夫とも親交を結んだ英国人大物記者が、戦後、戦勝国の都合で作り上げられた「日本悪玉論」を断罪。南京事件、靖国参拝、従軍慰安婦などの問題について論じ、さらに三島が死を賭して訴えようとしたものが何であったかを問いかける。来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信奉していた著者は、いかにして考え方を大転換させるに至ったのか。<読む前の大使寸評>バリバリの英国人ジャーナリストが説く、驚きの歴史認識とでもいう一冊でおます。リベラルというべきか、反米というべきか・・・アメリカ嫌いのイギリス人のようです。rakuten連合軍戦勝史観の虚妄連合軍戦勝史観の虚妄byドングリ【アジア海道紀行】佐々木幹郎著、みすず書房、2002年刊<「BOOK」データベース>より鑑真が漂着した島、倭寇が拠点とした島はどこか?唐辛子はなぜ「唐」なのか?日中韓3国沿岸の港町、島々をめぐる旅。【目次】鑑真が到着した港ー入唐道・坊津と秋目浦へ/鑑真が出発した港ー中国・長江の岸辺へ/海の上の観音菩薩ー中国・普陀山へ/風待ちの島、漂流のルートー中国・舟山群島から寧波へ/消えていった大凧/凧の文化とアジアの海とー長崎へ/唐辛子は、なぜ「唐」なのかー韓国・釜山へ/非時の香の木の実を求めてー韓国・済州島へ/元寇の舞台と捕鯨漁ー鷹島と平戸へ/SHANGHAIする!/上海幻変・蟋蟀博打<読む前の大使寸評>日中韓に横たわる東シナ海は、今では紛争の海に成り果てたが…著者が観る歴史的な視点がええでぇ♪rakutenアジア海道紀行アジア海道紀行byドングリ【仕事道楽】鈴木敏夫著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より「この会社は毎日何が起こるかわからないから、ほんとに楽しい」。高畑勲・宮崎駿の両監督はじめ、異能の人々が集まるジブリでは、日々思いもかけない出来事の連続。だがその日常にこそ「今」という時代があり、作品の芽があるー「好きなものを好きなように」作りつづけてきた創造の現場を、世界のジブリ・プロデューサーが語る。<読む前の大使寸評>映画プロデューサーとは何なのか?・・・感性とソロバンが両立できる人だとは思うけど。Amazon仕事道楽仕事道楽byドングリ【食糧と人類】ルース・ドフリース著、日本経済新聞出版社、2016年刊<「BOOK」データベース>より科学力と創意工夫で生産力を飛躍的に向上させ、度重なる食糧危機を回避し、増加してきた人類。数百万年にわたる食糧大増産の軌跡を解明し、21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマ。地球誕生から現代まで、試行錯誤の軌跡を追う。【目次】プロローグ 人類が歩んできた道/1 鳥瞰図ー人類の旅路のとらえかた/2 地球の始まり/3 創意工夫の能力を発揮する/4 定住生活につきものの難題/5 海を越えてきた貴重な資源/6 何千年来の難題の解消/7 モノカルチャーが農業を変える/8 実りの争奪戦/9 飢餓の撲滅をめざしてーグローバル規模の革命/10 農耕生活から都市生活へ<読む前の大使寸評>21世紀の食糧危機を見通す壮大なドラマってか・・・・・黒塗りのTPP交渉禄がかすんでしまうでぇ。<図書館予約:(3/26予約、4/26受取り予定)>rakuten食糧と人類―飢餓を克服した大増産の文明史*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き142父の法事などの関係で、今日から6日ほど、四国の田舎に帰省します。デジタル・デバイドの鄙の地なんで、音信不通となります。そこのところをよろしゅうに。
2016.04.19
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図書館で『仕事道楽』という新書を手にしたが・・・ジブリ映画におけるプロデューサーの役割が興味深いので、借りたわけでおます。【仕事道楽】鈴木敏夫著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より「この会社は毎日何が起こるかわからないから、ほんとに楽しい」。高畑勲・宮崎駿の両監督はじめ、異能の人々が集まるジブリでは、日々思いもかけない出来事の連続。だがその日常にこそ「今」という時代があり、作品の芽があるー「好きなものを好きなように」作りつづけてきた創造の現場を、世界のジブリ・プロデューサーが語る。<読む前の大使寸評>映画プロデューサーとは何なのか?・・・感性とソロバンが両立できる人だとは思うけど。Amazon仕事道楽この本は読みどころが多いので、(その3)として読み進めたのです。この本の勘所、いかにディズニーと闘うか?・・・が語られています。p167~170<原点は何なのか?> もともとジブリは、宮崎駿・高畑勲の映画を作るために立ち上げた会社です。やりたいことをやるために、会社を作った。でも、一方でジブリ作品がこれだけの実績を作ってくると新しい可能性がみえてくるし、また一方で会社として動きはじめると経営という問題がいやおうなく浮上してくる。このときどう考えるか? ぼくの答えは簡単です。「いい作品を作るために、会社を活用できるうちは活用しましょう」。これに尽きます。だから、そのために全力を尽したい。会社を大きくすることにはまったく興味がないんです。「好きな映画を作って、ちょぼちょぼに回収できて、息長くやれば幸せ」と思っていたし、それは今でも変わりません。理想は「腕のいい中小企業」です。以前、こんなことをしゃべりました(「「千と千尋」はディズニーに勝った」2002年)。ディズニーがアニメ映画で唯一、興行成績でトップに立てない国が日本なんです。彼らからすれば、日本は2倍にも3倍にもなるはずの市場なのに、どうしてもうまくいかない。そこで『もののけ姫』『千と千尋』のスタジオジブリと組んで映画を作ろうと、ディズニーやドリームワークスが次々にオファーしてきています。でも、ぼくらはいまのところ、そのつもりはありません。なぜか、作品を作るうえで生活・風俗・習慣の違いが大きいし、作り方でもあまりにもシステムが違いすぎる。そして、いいものを作るには小さい会社のほうがいいに決まっているからです。 ディズニーのスタジオを見学すると、スタジオなんていうもんじゃない、巨大な工場なんです。一時期は技術スタッフだけで一千人以上を抱えていた、と聞きました。・・・ しかし、規模は違っても、実際のアニメ製作の作業はそう大きくは違わない。決定的に違うのは、企画までの準備段階なのです。 実際には、会社というものは、大きくしていかないと維持が大変だという要素があります。おまけに親会社が大借金会社でしたから、つねにヒットを要求されていました。でも、会社経営の論理にのみとらわれたら本末転等で、ジブリの魅力も失われてしまうでしょう。 ぼくはしばしば、「いいものが作れなくなったら、ジブリなどつぶしていまっていい」と言い放っていますが、そのくらいの覚悟がなければ原点は守れないと思っているからです。 原点はやはり、「挑戦」だったと思うんですよ。安心できるものをひたすら作っていくというのではつまらない。これまでとは全然違うものを作りたい。『もののけ姫』から作品を作るペースを2年に1本としたのも、この思いと関わっていました。今年(2008年)、高畑さんは73歳、宮さんは67歳、ぼくも還暦60歳ですが、気持ちとしてはあいかわらず、まだ草創期をやっていますね。 だからでしょうか、ジブリ広報部長の西岡純一がみんなに言ってまわっているのが、「この会社は毎日、何が起こるかわからないから、ほんと楽しい」。こう言ってはなんですが、毎日、何か起こるんですよ。だからやっぱりおもしろい。それでやっていけたら幸せじゃないですか。ウン ディズニーに対して意気軒昂なところがいいですね。考えてみれば、ディズニーのほうが難しい立場にあるのかも?♪『仕事道楽』1『仕事道楽』2この記事もスタジオジブリあれこれに収めておきます。
2016.04.18
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図書館で『仕事道楽』という新書を手にしたが・・・ジブリ映画におけるプロデューサーの役割が興味深いので、借りたわけでおます。【仕事道楽】鈴木敏夫著、岩波書店、2008年刊<「BOOK」データベース>より「この会社は毎日何が起こるかわからないから、ほんとに楽しい」。高畑勲・宮崎駿の両監督はじめ、異能の人々が集まるジブリでは、日々思いもかけない出来事の連続。だがその日常にこそ「今」という時代があり、作品の芽があるー「好きなものを好きなように」作りつづけてきた創造の現場を、世界のジブリ・プロデューサーが語る。<読む前の大使寸評>映画プロデューサーとは何なのか?・・・感性とソロバンが両立できる人だとは思うけど。Amazon仕事道楽映画の監督やプロデューサーの役割がよくわかるエピソードが語られています。p108~112<『火垂るの墓』のエピソード>より いま『火垂る』にふれましたが、ジブリ作品でただ一本、公開日までに完成しなかった映画がある。それが『火垂る』なんです。これはつらい思い出なんですけどね。 公開当時にこの映画をご覧になっている方はおわかりですが、途中に未完成シーンがあります。一部の人はこれは映画的効果だと思ってくださったりしたんですが、じつは完成していない。けっこう騒ぎになりました。 『火垂る』は『トトロ』と二本立て興行になるわけですが、いろいろ経過があって、『』は新潮社が製作するということで初めて成り立った企画でした。それが遅々として進まない。新潮社としてはなにしろ初めて作る映画ですから、公開日に間に合わないかも知れないと心配した。 あるとき、新潮社の幹部の人がぼくに相談しに来た。「新潮社が初めて手がけた最初の映画が公開に間に合わないとなると、これはスキャンダルだ。なんとか高畑さんを説得したい。どうしたらいいか」、ぼくにアイデアを出してくれと言う。ぼくは高畑さんの言い分もわかるし、その新潮社の幹部の方にもお世話になっている。困り果てましたよ。 ここで思い出したのが、日ごろ高畑さんが言っていること。高畑さんですから、フランス流の考え方なのかもしれませんが、彼は「映画の監督は自分からやめてはいけない」と言うんです。自分からは絶対にやめない。やめるのは唯一、プロデューサーから解任されたときで、これは受け入れざるをえない。これが高畑さんの考えなんです。 そうすると、今回の『火垂る』は新潮社社長がプロデューサーである。最高権力者のプロデューサーが頭を下げて頼めば、なんとかなるんじゃないか。プロデューサーから言われたら、高畑さんも受け入れざるをえないだろう。そういう儀式をしたらどうか、と言ったわけです。 ただ、そのとき、まちがっても「質を落として間に合わせてくれ」と言ってはいけない、「質を落とさないで間に合わせてほしい」と言わなくてはいけない。これは大事なポイントですよ、とアドバイスしました。 その当日、高畑さんが朝からそわそわしていました。ぼくに「鈴木さん、いっしょに行ってくださいよ」と言う。ぼくは当時、そいう立場にないので、「何を言っているんですか」とあしらっていましたら、その日になって、急に同行することになってしまいました。本来行くべき立場の人が進行遅々というなかで、高畑さんと険悪になってましてね、「」と頭を下げられてしまったんです。そう決まって、高畑さん「」。ぼくはここで釘を刺しました。「」と言った。そうしたら「」。思わず苦笑しました。 新潮社に着いて社長室に入り、社長と三人、しばらく世間話をしたあと、高畑さんは「」と言う。これが彼の主張です。ぼくはなにしろ自分の役割がありますから、ただうなだれていた。社長「」。そうしたら高畑さんが間髪容れず、「」。このタイミング、間のとり方が絶妙でした。不謹慎ではありますが、見事!と思ってしまいました。 いま考えても新潮社社長には申しわけないし、二度とあってはならないことと思いますから、話を面白くしてはいけないのですけれど、こういうときの高畑さんはすごいのです。 ちなみに、その後は、間に合わないときは公開を延ばします。トトロの大成功が語られています。p80~83<営利を目的にしないものが最大の収益を>より 『トトロ』は興行面、収益面でも貴重な示唆を与えてくれた作品でした。じつは「」という姿勢でのぞんだのに、結果として最大の収益をあげる作品になった、ということです。 宮さんがいつも言う映画づくりの三つの原則があります。 「おもしろいこと」 「作るに値すること」 「お金が儲かること」 映画とはまず、おもしろくなければいけない。次に、いいテーマでなければいけない。最後に、商売なんだからちゃんと儲けなければいけない。彼は若いスタッフに向かって、この三つの原則を必ず言う。でも宮さんは、『トトロ』のときだけ、この原則を破ったんです。誤解をおそれずに言うなら、彼はこの映画で儲からなくてもいいと思った。 それはこういうことです。昔の撮影所時代の監督と違って、現代の監督は大変です。一度こけると、もう二度とチャンスがないかもしれない。お客に来てもらうために必死のサービスをする。そのストレスは想像を絶する。内容的にいくら成功しても、興行がだめだと作品の評価までだめになっちゃいますから。でもこのときは二本立てでした。兄貴分であり仲間でもある高畑さんもいっしょである。自分だけですべてを背負わなくてもいい。それが宮さんを気楽にさせた。 じつは、トトロの登場をまんなかにしようという話もこれに関わっているんですよ。宮さんが「そうかあ、まんなかかあ」と納得したとき、もう少し言葉があったんです。「二本立てで『火垂る』もあるから、それでもいいかな、鈴木さん」と。(中略) さて、こうしてできた『トトロ』は、その年の映画賞をほとんど総なめにするという高い評価をえます。同時公開の『火垂る』も文芸映画として大絶賛を浴びた。しかし、4月半ばという中途半端な封切時期のせいもあって、興行成績も決してよくなかった。というより、ジブリ全作品のなかで、この『トトロ』と『火垂る』はいちばんお客さんの来なかった作品なんです。もともと二本とも地味な印象があったために、配給会社がしり込みし、徳間社長の強引な売込みでやっと実現するという経過があったくらいなので、興行界からの期待は薄かった。 話はここからです。『トトロ』が大人気を得るのはテレビ放映からでした。日本テレビの金曜ロードショーで放映されたときの反響はものすごかったですよ。そこで思わぬ副産物が生まれる。トトロのぬいぐるみです。最初から企画されていたと勘違いしている人が多いんですが、あれは映画を作ったときの商品じゃない。テレビ放映のあと、映画封切2年後くらいに、初めて登場するのです。
2016.04.18
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図書館で『連合軍戦勝史観の虚妄』という新書を手にしたが・・・・パラパラとめくると、著者は三島由紀夫と最も親しかった外国人記者ということらしい。それから、アメリカ嫌いが垣間見えるところが大使を惹き付けるわけです。【連合軍戦勝史観の虚妄】ヘンリー・S・ストークス著、祥伝社、2013年刊<「MARC」データベース>より滞日50年、『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の各東京支局長を歴任し、三島由紀夫とも親交を結んだ英国人大物記者が、戦後、戦勝国の都合で作り上げられた「日本悪玉論」を断罪。南京事件、靖国参拝、従軍慰安婦などの問題について論じ、さらに三島が死を賭して訴えようとしたものが何であったかを問いかける。来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信奉していた著者は、いかにして考え方を大転換させるに至ったのか。<読む前の大使寸評>バリバリの英国人ジャーナリストが説く、驚きの歴史認識とでもいう一冊でおます。リベラルというべきか、反米というべきか・・・アメリカ嫌いのイギリス人のようです。rakuten連合軍戦勝史観の虚妄著者が自分の出自と、母国の没落や日本に対する感慨を語っています。p34~38■チャーチルの聞くに堪えない日本人への罵詈雑言 私は最近、ウィンストン・チャーチルが妻のウィニーとやりとりした書簡を、読む機会があった。 日本人についてさまざまなエピソードを書いているが、許容範囲を逸脱した差別的表現で、日本人を侮蔑している、イギリス人からそのような醜い言葉が発せられたのを、耳にしたことはない。罵詈雑言というか、これでもかと貶める表現を使っていた。 戦争では誰もが敵に対して怒りを抱いて、感情的になる。しかし、チャーチルの言葉遣いは、その範疇を逸脱していた。チャーチルがそこまで口汚く日本を罵った背景には、植民地支配の体験がある。数百年にわたって栄華を極めた大英帝国・・・・日が沈むことはないと形容された・・・・その版図が、あろうことか東洋の黄色い小人たちによって、一瞬にして崩壊させられてしまったという悔しさと、怒りがあったのだ。 第二次大戦を戦った世代には、そうした根深い怨念が、日本人に対してあった。『フィナンシャル・タイムズ』社で私の上司だった論説主幹のゴードン・ニュートンも、そうした一人だった。彼は私を日本に派遣して、『フィナンシャル・タイムズ』の東京支局を、開設させた。 ゴードンやその友人には、日本人と戦場で戦った経験を持つ者が多かった。彼らにとって、日本人は憎しみの対象だった。日本人がきわめて「野蛮だ」という感情を抱いていた。一部ではあったが、そうした特別な感情を日本人に対して持つ、イギリス人がいたことは事実だ。 第二次大戦が終わり、50年代になって、私は黒澤明の『七人の侍』や、市川崑の『野火』などの映画を見て、新鮮な衝撃を受けた。日本人は、何百年にわたったイギリス植民地支配の歴史のなかで出会ったことがない、「別次元」の存在だと気づいた。 イギリスは何百年もかけて大帝国を建設し、その帝国を維持した。その間に、インド人との戦闘も、熾烈を極めた。アフガニスタンや、北パキスタンの敵も、手強い相手だった。 しかし、日本人はそうした「強い敵」をはるかに凌駕していた。日本人はそうした植民地支配を受けた人種と、まったく違っていた。日本が大英帝国に軍事侵攻した途端に、何百年も続いた帝国が崩壊した。イギリスは日本のマレー侵攻によって、催眠にかけられてしまったようだった。日本軍のあまりの強さに降参するしかなかった。 そうした現実と、収容所などで受けた扱いがあいまって、「野蛮で、残虐な日本人」のイメージが強調された。実際に、酷い扱いを受けた人々もいた。個人的に私が聞いた話もある。 もっとも、イギリスの収容所で不法に虐待された日本人の多くの証言もあるから、お互いさまだった。イギリス人のなかにも教養を欠いた、残忍な者がいた。 私がアジアに初めて来たのは、1964(昭和39)年だった。私は若いユダヤ人女性と結婚したばかりだった。カナダ人とユダヤ人の混血で、東アジアに何人もの親戚がいた。香港、バンコク、シンガポール、カルカッタといった具合に、あちらこちらに従兄弟がいた。 シンガポールでは、マックス・ルイスという名の従兄を紹介された。ポーランド系ユダヤ人で、ソフト・ドリンクのビジネスの展開のために東アジアに来て、シンガポールの外資ビジネスの中心的な人物の一人となっていた。 マックスは日本軍が侵攻してきた時に、シンガポールにいた。マックスは楽しい、愛すべき人物だった。彼は「日本軍によって収容された時に拷問を受け、子どもを持つことができなくなった」と、語った。私も新妻も意味がよく理解できなかった。 彼は「拷問されたために、生殖機能を失ってしまった」と、告白した。その時は日本軍に対して、憤りを覚えた。屈強なユダヤ商人で成功した人物が、ただひとつできなかったのが、子を持つことだった。 ■アジアの国々を独立させた日本の功績 当時、私は『ロンドン・タイムズ』東京支局長だったが、白人社会では戦後一貫して、日本への憤りが蔓延していた。そこには、怨念があった。日本軍の戦いぶりは、この世の現実とは思えないほど、強かった。イギリスは何百万も続いた植民地から、一瞬にして駆逐された。戦闘に敗れたというだけではない。栄華を極めた大英帝国の広大な植民地が、一瞬にして消えたのだ。この屈辱は、そう簡単に忘れられるものではない。 イギリスは1066年にノルマン人の侵略を受け、国土を占領されたが、ナポレオンや、ヒトラーの侵略を斥けた。だが、その帝国の植民地がなんと有色の日本人によって奪われた。イギリス人にとって、有色人種に領土を奪われ、有色人種が次々と独立国をつくったことは、想像を絶する悔しさだった。 日本に原爆が落とされた。その悲惨さは、筆舌に尽くし難い。アメリカは原爆を投下する必要が、まったくなかった。生体実験のように、人間に対し原爆を投下した。そこには「辱めを与える必要性」があった。日本人を徹底的に打ち砕き、完膚なきまでに叩きのめさねばならなかった。勝者の正義などは、まさに「建前」で、復讐をせずには収まらなかったのが「本音」である。東京裁判も正に復讐劇だった。著者は東京裁判の本質を、あっけらかんに語っています。p39~40■「白人の植民地」を侵した日本の罪 東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちらだったか」ということに目をつむって、日本を裁いた。 それは侵略戦争が悪いからではなく、「有色人種が、白人様の領地を侵略した」からだった。白人が有色人種を侵略するのは『文明化』で、劣っている有色人種が白人を侵略するのは『犯罪』であり、神の意向に逆らう『罪』であると、正当化した。 日本には「喧嘩両成敗」という便利な考え方もあって柔軟だが、欧米人にはディベート思考で、白か黒か判定をつける。もし日本が正しいなら、間違っているのは欧米側となる。だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にあると、正当化しようとした。 東京裁判は復讐劇であり、日本の正当性を認めることなど、最初からありえないことだった。認めれば、自分たちの誤りを認めることになってしまう。広島、長崎に原爆を投下し、東京大空襲をはじめ全国の主要都市を空爆して、民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、もっといえば、世界で侵略を繰り返してきたその正義の「誤謬」が、明らかにされることがあっては、けっして、ならなかった。それが、連合国の立場だった。
2016.04.17
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図書館で『アジア海道紀行』という本を手にしたが・・・東シナ海の(外交的)波高し昨今であるが、この本がふれている歴史認識が肝要ではないかと思ったのです。【アジア海道紀行】佐々木幹郎著、みすず書房、2002年刊<「BOOK」データベース>より鑑真が漂着した島、倭寇が拠点とした島はどこか?唐辛子はなぜ「唐」なのか?日中韓3国沿岸の港町、島々をめぐる旅。【目次】鑑真が到着した港ー入唐道・坊津と秋目浦へ/鑑真が出発した港ー中国・長江の岸辺へ/海の上の観音菩薩ー中国・普陀山へ/風待ちの島、漂流のルートー中国・舟山群島から寧波へ/消えていった大凧/凧の文化とアジアの海とー長崎へ/唐辛子は、なぜ「唐」なのかー韓国・釜山へ/非時の香の木の実を求めてー韓国・済州島へ/元寇の舞台と捕鯨漁ー鷹島と平戸へ/SHANGHAIする!/上海幻変・蟋蟀博打<読む前の大使寸評>日中韓に横たわる東シナ海は、今では紛争の海に成り果てたが…著者が観る歴史的な視点がええでぇ♪rakutenアジア海道紀行この本は読みどころが多いので、(その3)として読み進めました。 長江下流の江南デルタが語られています。遣唐使船も、倭寇もこの江南デルタを目指したようです。p38~45<鑑真が出発した港>より 右岸側の海岸平野を「江南デルタ」と呼ぶ。この地域の、長江(揚子江)に面した古代の河港のほとんどは現在、内陸部になっている。昔の河港だけではなく、近代に入ってからの港でも、容赦なくこの河はその機能を麻痺させつつある。 長江のもっとも河口部にあるのは上海だが、この町は古代には影も形もなかった。長いあいだ、ここは東シナ海の海の底だった。やがて土砂の堆積によって中州ができ、江南デルタの一部となって、現在の上海の地を形成したのは10世紀前半のこと。漁民が住み始めるようになったのは、それからずいぶん後のことだ。最初にできた漁村の名を「フ」と言った。 「フ」というのは漁業に使う竹の柵のことを言う。潮が満ちると倒れ、潮が引くと立ち上がる仕組になっていて、満潮時に中に入った魚は外へ出られなくなるという原始的な漁具だ。この村名からもわかるように、長いあいだ、この土地は干満の差の激しい湿地帯だった。 この辺鄙な漁村が歴史上に登場するのは、倭寇が中国沿岸地域や長江下流、中流域の港町を侵略するようになってからである。たび重なる侵略に耐えかねて、16世紀の半ば頃、この村に周囲5キロに及ぶ城壁が築かれた。これが上海県城であって、上海の都市形成の最初だった。 上海が後に「魔都」と呼ばれ、アジア最大の商業都市として急成長するのは19世紀半ば以降、欧米列強の租借地となってからのことだが、それは長江の水運を利用して、内陸部の都市と結ぶことができるという地理的条件によっていた。 中国のそれまでの対外貿易の中心地は広東省の広州だったが、欧米列強は長江河口部の上海に目をつけた。ここからだと、長江中流域の南京や漢口、そして運河を通じて、江蘇省の蘇州や揚州、セツ江省の杭州など、巨大な後背地を市場にしうると考えたのである。 その計画は清王朝の政治的衰弱とあいまってみごとに成功し、20世紀の初頭、上海は阿片販売や綿花貿易によって栄えることになった。その頃、大型の貨物船は東シナ海から直接、長江の河口部に流れ込んでいる黄浦江を遡り、「十六プー」という上海市内中心部の港に接岸することができた。 しかし、現在は黄浦江も土砂の堆積量が多くなって、観光船ならともかく、大型の貨物船の入港は無理になっている。(中略) この河は日本人には古代からなじみが深い。遣唐使船も遣明船も、倭寇も、東シナ海を渡って、長江の河口部に達することをめざしていた。日本人はこの河を船で遡り、また同じルートを下ってくることによって、中国の文化を列島まで運び続けた。 753年、当時66歳だった鑑真和上が6度目の日本への渡航を決行したときの出発港も、長江の岸辺だった。彼は中流域にある「黄スー浦」という河港から遣唐使船に乗り込んでいる。鑑真一行は揚州から川舟に乗って、長江右岸にある黄スー浦まで下り、そこで大型船に乗り換えたのだ。現在この河港は、江蘇省張家港市に属しており、長江の岸辺から車で20分ほどもかかる内陸部の畑の真ん中になっている。 稲作文化は江南デルタでは六千年前から始まっていた。コメもまた、長江の流れを下って日本に伝わったという説がある。日本に伝播したジャポニカ米の祖先の一つが、舟山群島の小島の遺跡から発見されたというニュースが報じられたのは、最近のことだ(朝日新聞、1995年4月13日)。イネの伝播の江南ルート説は、この発見以後、有力になった。 イネとは別に、日本人が使っている漢字という文字もまた、江南ルートをたどってきたのかもしれない。長江が上流から押し流してくる土砂と同じように、文字はいったん東シナ海に吐き出され、やがて黒潮に乗って北上し、日本にまでやってきたのだと想像するのは楽しい。 長江はいつも土色をしている。それは古代から変わりがなかった。長江河口部に立つと、対岸ははるかに霞んで見えず、東シナ海がどこまでも中国大陸にもぐり込んできているような錯覚におちいる。歴史と近代が融合する江南都市、揚州より『アジア海道紀行』1『アジア海道紀行』2
2016.04.16
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図書館で『アジア海道紀行』という本を手にしたが・・・東シナ海の(外交的)波高し昨今であるが、この本がふれている歴史認識が肝要ではないかと思ったのです。【アジア海道紀行】佐々木幹郎著、みすず書房、2002年刊<「BOOK」データベース>より鑑真が漂着した島、倭寇が拠点とした島はどこか?唐辛子はなぜ「唐」なのか?日中韓3国沿岸の港町、島々をめぐる旅。【目次】鑑真が到着した港ー入唐道・坊津と秋目浦へ/鑑真が出発した港ー中国・長江の岸辺へ/海の上の観音菩薩ー中国・普陀山へ/風待ちの島、漂流のルートー中国・舟山群島から寧波へ/消えていった大凧/凧の文化とアジアの海とー長崎へ/唐辛子は、なぜ「唐」なのかー韓国・釜山へ/非時の香の木の実を求めてー韓国・済州島へ/元寇の舞台と捕鯨漁ー鷹島と平戸へ/SHANGHAIする!/上海幻変・蟋蟀博打<読む前の大使寸評>日中韓に横たわる東シナ海は、今では紛争の海に成り果てたが…著者が観る歴史的な視点がええでぇ♪rakutenアジア海道紀行キムチの成り立ちが説かれています。それから、味噌、醤油などの発酵材料の違いが説かれているが・・・日韓の味の微妙な違いについて、やっと納得できたのです。p162~166<唐辛子はなぜ「唐」なのか>より 朴氏は文献をひも解きながら、ノートに鉛筆で図を描き、ゆっくりと教えてくれた。韓国語と英語が半分ずつである。韓国語は金昌〇氏が通訳してくれた。 塩は李朝の時代、王室の管理下にあって、一般庶民にはなかなか手に入らなかった。入っても高価だった。また王室はしばしば盛大な冠婚葬祭を行ったが、そのたびに魚を捧げ、その魚には保存用に大量の塩が必要だった。 また、17世紀から18世紀にかけて旱魃と飢餓がたびたび起こり、18世紀から19世紀にかけては天災や洪水が多かった。その救荒対策としても、塩は保管しておく必要があった。一般庶民は塩を求めたが、政府は唐辛子のカプサイシン成分を利用して塩辛を作り、それを使ったキムチ作りを奨励した。このように、塩を節約するために、唐辛子は普及したのである。そしてまた、朝鮮半島の風土が唐辛子の栽培に適していた。 唐辛子を使ったキムチが朝鮮の料理書に登場するのは、『増補山林経済』(1766年)が最初である。それまでは朝鮮の漬物は、大根やキュウリ、茄子などの野菜を塩漬けにし、香辛料には山椒を使っていた。それをキムチと呼んだ。 『増補山林経済』が出版された頃、キムチに唐辛子が使われ、その種類も増えて、大根、キュウリ、茄子類が主な材料となり、にんにくや生姜、葱類が香辛菜として使われるようになった。 19世紀の初頭に出た料理書『閨〇叢書』(1809年)は、女性によってハングルで書かれた最初の伝統的家庭百科全書である。ここには、白菜がキムチの材料になり出したことが書かれている。しかし、この頃の白菜キムチは現在のように丸ごとの白菜を使ったものではなかったようだ。現在のような大きな丸い白菜ができるのは、20世紀になってからであった。 1849年に書かれた『東国歳時記』の中に「朝鮮料理製造法」の項があり、ここでは海老の塩辛が初めて紹介されている。むろん、この塩辛には唐辛子が使われていた。この頃になって、ソウル市とその近辺では、海老の塩辛入りキムチが定着した。 キムチ作りに使う塩辛の種類は、現在の韓国の市場では、驚くほど豊富にそろっている。そういう塩辛の種類も、この頃から開発され出したらしい。「朝鮮料理製造法」には、19世紀半ばに、白菜キムチがキムチの主流となったことも記録されている。 ところで、キムチとは簡単にいえば、野菜の発酵食品である。発酵させるために、少量の塩と大量の唐辛子を使う。 日本ではキムチといえば、塩漬けの白菜に唐辛子を入れたもの、というふうに誤解する人が多いが、朝鮮のキムチはカプサイシンを含んだ唐辛子と、蛋白質の豊富な塩辛によって、塩の全体の使用料低めて、味を良くしている。 こういう説明をした後に、朴健栄氏はわたしに聞いた。「韓国の味噌玉を見たことがありますか?」 いえ、まだですと言うと、写真雑誌を出してきて、ソウル近郊の農家での味噌作りの方法を教えてくれた。 大豆を蒸して、それを煉瓦のように固める。それを稲束で結んで、軒に吊るしておくのである。するとカビ(菌)が生えて、味噌ができあがる。醤油はその味噌を瓶に漬けて、その上澄み液から作る。これは、古代に中国で発明されて以来の、原型的な味噌と醤油の製造法である。発酵材料に、日本のようなコウジカビ(麹菌)を使わない。 コウジカビ(麹菌)は、日本独特のものだ、と朴氏は言った。酒の製造法も日本では米を蒸して、そこにコウジカビを付着させて繁殖させる。それを発酵材料とした。 韓国では古来、麦や粟、ヒエ、コウリャンなどを粉にし、水で練って、穀物の中にあるクモノスカビを繁殖させて、麹を作り、発酵させた。これは韓国だけではなしに、大陸全体に共通のものである。発酵材料のカビ(菌)の種類が、日本とはまったく違う。 「風土によるのでしょう」と、朴氏は言う。唐辛子がキムチの乳酸発酵を促進する材料として朝鮮半島で広まり、日本ではひろまらなかったのも、コウジカビ(麹菌)による発酵文化が、日本で古くから始まっていたことも関係があるだろう。(中略) このように考えると、唐辛子の「唐」という言葉は、日本と朝鮮半島との交流の歴史を秘めた、複雑な歴史のテクスチャーとなっていると思える。 釜山の町で、わたしは毎食のようにキムチを食べた。若い頃は唐辛子料理が好きではなかったのだが、年齢を経るにしたがって身体に合うらしい。金昌〇氏が韓国でもキムチは大人の食べ物、と言っていたのだが、わたしはようやく唐辛子の麻薬的な魅力に取りつかれ出したのである。 釜山が港として開かれたのは、15世紀の初めであった。この頃には朝鮮半島の海岸部を脅かす倭寇の活動は、ようやく下火になりつつあったのだが、釜山はその頃「富山浦」と呼ばれていた。 「富山浦」が昔の名前であったように、現在の釜山も周囲に山が多い。「釜のような形をした山が多いから、釜山と名づけられた」という地元の人もいるくらいだ。テンジャンチゲのレシピより 韓国出張の際、テンジャンチゲなど味噌味の違いを、興味深く感じたが・・・・ 「素朴な感じでこれもOKやで♪」と許容範囲の広い大使であった。 当時は味の違いは、風土の違いくらいに思っていたけど、この本を読んで違いがよくわかりました。つまり、味噌味の違いは、カビ(菌)の違いだったようです。
2016.04.16
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<『紙の動物園』>図書館に予約していた『紙の動物園』というSFを、ようやくゲットしたのです。中国人の著わしたSFを初めて読むことになるのだが・・・・3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ということで、期待できそうやでぇ♪【紙の動物園】江弘毅著、早川書房 、2015年刊<「BOOK」データベース>よりぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。<読む前の大使寸評>中国人の著わしたSFを初めて読むことになるのだが・・・・3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ということで、期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(9/27予約、4/12受取)>rakuten紙の動物園この短編集のなかでは、先ず、日本人乗組員が回顧する「もののあはれ」が気になるわけです。その一部を紹介します。p50~52<もののあはれ>より ぼくの名前の2番目にある漢字がどんな形をしているのか、書かせてもらおう。 翔 この漢字は、「空に舞い上がること」を意味している。左側の部首を見てもらえるだろうか? それがぼくだ。ヘルメットから一対のアンテナを立てて、ケーブルにつながっている。背中には羽がある…あるいは、この場合は、ブースター・ロケットと予備燃料タンクだ。そのロケットがぼくを上へ上へ、全天を塞いでいる巨大な反射型ドームに向かって押し上げる。太陽帆でできた蜘蛛の巣形の鏡に向かって。 ミンディが無線でぼくと会話を交わす。ぼくらはジョークを言い合い、秘密をわかちあい、将来ふたりでやりたいことについて話し合う。話題が尽きると、ミンディはぼくに歌いかける。その目的はぼくを眠らせないことだ。 ぼくらは星々のあいだを旅する客になった だけど、登攀は実際には容易な部分だった。支柱のネットワークに沿って、穴のあいた箇所まで太陽帆を横切る旅のほうがはるかに難度は高い。 船をあとにしてから36時間が経過していた。ミンディの声は疲れてきており、弱々しくなっていた。彼女はあくびした。 「眠れよ、ベイビー」ぼくはマイクに呟く。ぼくもひどく疲れて、一瞬でいいから目をつむりたい。 夏の夜、ぼくは道を歩いている。かたわらには父がいる。 「日本人は、火山と地震と台風と津波の国に暮らしているんだ、大翔。地下の炎と上空の凍える真空とのあいだにはさまれた、この惑星表面の細長い土地に縛られ、いつなんどき生命の危機に襲われるかもしれない暮らしをずっと送ってきた」 と、宇宙服を着てひとりでいる自分に戻った。一時的な集中力の欠如から、背中に背負った荷物を太陽帆の梁の一本にぶつけて、あやうく燃料タンクの一本が外れ落ちてしまいそうになった。すんでのところでタンクをつかんだ。すばやく動けるよう、装備の重量を最後の1グラムまで軽くしていたため、ミスする余地はなかった。なにも失うわけにはいかなかった。 ぼくは夢を振り払い、動きつづけようとした。 「とはいえ、それが死の近さを、一瞬一瞬に宿る美しさを意識させ、耐え忍ぶことを可能にしているんだ。もののあわれは、いいか、宇宙と共感することなんだ。それが日本という国の魂なんだ。それが絶望することなくヒロシマを耐え忍び、占領を耐え忍び、都市の崩壊を耐え忍び、全滅を耐え忍ばせたんだ」 「ヒロト、起きて!」ミンディの必死な懇願の声が聞こえた。ぼくははっと我に返った。いったいどれくらい眠れずにいるのだろう 2日か、3日か、それとも4日?それにしても、SFであれ何であれ「もののあはれ」というような日本的概念を、的確に語る中国系作家が現れるとは、びっくりポンでおます。このSFを読むと、在米華人のすべてが反日ロビーイストというわけでもないようで(当然だけど)・・・出国、移住の経緯はどうであれ、時が経てば中華思想が薄まるものだと思ったものです。
2016.04.15
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<図書館大好き142>今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「ビジュアル本」でしょうか♪<大学図書館>・岩井俊二:フィルムメーカーズ#17・実業美術館<市立図書館>・パシパエーの宴・「下流老人」のウソ:Wedge2月号・紙の動物園図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【岩井俊二:フィルムメーカーズ#17】宮台真司編、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より「Love Letter」「スワロウテイル」など日本映画のスタンダードを更新した映画作家岩井俊二。新作「リリイ・シュシュのすべて」ほか、21世紀の映画を指し示す「iwai」の作品世界を滑空・潜行する。<大使寸評>岩井監督の「スワロウテイル」を観たが・・・とにかく、その映像、美術に惹かれたのです。Amazon岩井俊二:フィルムメーカーズ#17岩井俊二:フィルムメーカーズ#17byドングリ【実業美術館】赤瀬川原平, 山下裕二著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベース>よりクルマもお金もごみ処理場も自衛隊だって芸術だ!職人仕事のたくまざる美と奇想をもとめて、日本美術応援団が東奔西走。【目次】1 戦艦大和を観に行く(大和ミュージアム・海上自衛隊呉基地)/2 網走番外地の真実とは!?(博物館網走監獄・網走刑務所)/3 ごみ処理工場が芸術してます(大阪市環境局舞洲工場&舞洲ラッジセンター・広島市環境局施設部中工場)/4 交通博物館で職人技を応援(交通博物館)/5 警察と芸術のビミョーな関係(明治大学博物館刑事部門・警察博物館)/6 偉大なる中小企業の「作品」たち(コシナ・オリエント時計)/7 野球の国ニッポンの聖地を訪ねて(東京ドーム・野球体育博物館)/8 「お金」に「芸術」の深淵を見た(国立印刷局滝野川工場・お札と切手の博物館・貨弊博物館・日本銀行本店)/9 トヨタは応挙、マツダは光悦である(トヨタ博物館・マツダ本社工場)<読む前の大使寸評>収録された題材のうち、大使は大和ミュージアムと大阪市環境局舞洲工場しか見ていないが、この二つがどのように紹介、評価されるのか、興味深いのです。rakuten実業美術館実業美術館byドングリ【パシパエーの宴】とり みき著、チクマ秀版社、2006年刊<「MARC」データベース>より「くだん」に挑戦した表題作、映画「乱歩地獄」より「鏡地獄」を書き下ろしコミカライズした最新作など、全11話を収録したシリアス系伝奇・怪奇・SF作品集。須賀隆(撮影監督・映画コラムニスト)が書き下ろした解説つき。<大使寸評>おお 諸星大二郎風の画風やないけ♪ということで借りたのだが…『パシパエーの宴』は、九段にある宗教施設という小松左京の原作へのリスペクトが感じられるのです。amazonパシパエーの宴パシパエーの宴byドングリ【「下流老人」のウソ:Wedge2月号】雑誌、Wedge、2016年刊<Wedge社サイト>より・高齢者の貧困は改善 下流老人ブームで歪む政策・アベノミクスを阻む「年金制度の壁」は一刻も早く撤廃すべき/熊野英生(第一生命経済研究所首席エコノミスト)・シニアの消費喚起の抜本策は最低保障年金と相続増税/飯田泰之(明治大学政治経済学部准教授)・シニアの強みを引き出せ! 70歳代活かす企業は「仕組みを変える」・改善するシニアの労働市場 人気の事務職は狭き門・働くことこそ老いを遠ざける 若さ保つシニアの三者三様/林えり子(作家)<読む前の大使寸評>老後が不安な大使は、つい、この雑誌を借りたわけです。wedge「下流老人」のウソ:Wedge2月号「下流老人」のウソ:Wedge2月号byドングリ【紙の動物園】江弘毅著、早川書房 、2015年刊<「BOOK」データベース>よりぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。<読む前の大使寸評>3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ってか・・・・期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(9/27予約、4/12受取)>rakuten紙の動物園紙の動物園byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き141
2016.04.14
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図書館で『パシパエーの宴』という本を手にしたのだが…パラパラとめくると、おお 諸星大二郎風の画風やないけ♪ということで借りたのです。【パシパエーの宴】とり みき著、チクマ秀版社、2006年刊<「MARC」データベース>より「くだん」に挑戦した表題作、映画「乱歩地獄」より「鏡地獄」を書き下ろしコミカライズした最新作など、全11話を収録したシリアス系伝奇・怪奇・SF作品集。須賀隆(撮影監督・映画コラムニスト)が書き下ろした解説つき。<大使寸評>おお 諸星大二郎風の画風やないけ♪ということで借りたのだが…『パシパエーの宴』は、九段にある宗教施設という小松左京の原作へのリスペクトが感じられるのです。amazonパシパエーの宴巻末の解説でとり氏のアマノジャクぶりが語られています。p224<解説:須賀隆>より とり・みきはアマノジャクである。 いきなり一面識もない人間からこんなことを言われて一番戸惑っているのはとり氏本人であろう。決して真摯な研究家でもない筆者が解説文の冒頭にこんなことを書いたのには理由がある。先に刊行された「山の音」を読んでハタと気づいたことがあるからだ。 普通このタイトルを見て連想するのは、川端康成の同名小説なり、それを映画化した成瀬巳喜男監督の東宝映画だったりするのだが、とり氏は自他共に認める東宝特撮映画ファンである。したがって舅と嫁の密やかな想いなんて爺むさい世界に未練はなく、山から聞える音が巨人の足音や泣き声だったらと「成瀬・ミーツ・円谷」の世界へとイメージを飛躍させてしまうのだ。 これが単にタチの悪い冗談なのか、手術台上のコウモリ傘とミシンの出会いを模したシュールレアリスム的な実験の産物なのか、はたまたルイス・キャロルが得意とした鞄語的な言葉遊びの結果なのか、それとも木は気に通じ、和は輪でもあるという大和言葉の言霊的性格の現れなのか、いずれにしろ無関係なものを組み合わせて全く新しいものを再構築するというのは、とり氏にとって自家薬籠中の手法でもあるのだ。特に氏のギャグ系列作品の不条理ギャグにその特徴が顕著なのだ。 で、最初の発言に戻るが、アマノジャクな人間は自分の発想を展開する場合でも、素直に取り組むだけでは終わらない。冗談に近い思いつきであればあるほど、その痕跡が認められなくなるほどシリアスに作品を深化していったりする。そして一編の泣ける作品が出来上がったとき、満足げに「思えば遠くに来たもんだ」などとつぶやいたりするのだ。これが氏のシリアス系列作品の正体ではないだろうか。とり氏の著作とか画像を見てみましょう。とり・みきの画像より
2016.04.13
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西加奈子『ごはんぐるり』という文庫本を、文庫本としては久々に購入したのです。幸せな食オンチが語る本とのことなので、グルメな読みどころは期待しておりません(笑)。【ごはんぐるり 】西加奈子著、文藝春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>よりカイロ&大阪育ち、幸せな食オンチがつづる「グルメ」じゃない「ごはん」のこと。書き下ろし食小説「奴」も掲載。【目次】肉じゃがバター/カイロの卵かけごはん/アメちゃんのDNA/珈琲儀式/活字のごはん/舐める春/旅の悪食/日常の悪食/甘い恋/脱ビール、でもビール〔ほか〕<読む前の大使寸評>年金生活で手元不如意となり、本は原則として図書館で借りることにしているが・・・値ごろの新刊(文庫本)を、厳選したうえで、たまに買ったりするのです。幸せな食オンチが語る本とのことなので、グルメな読みどころは期待しておりません(笑)。<図書館予約:(値ごろなので本屋で買いました)>rakutenごはんぐるりカイロでの食生活は、かなり芳しくなかったようです。p14~17<カイロの卵かけごはん> 夜はハンバーグやカレー、コロッケに天ぷら、父の好きな湯豆腐の日もあったし、魚の煮付けで私と兄の機嫌が悪い日もあった。 とにかく、日本に住んでいる皆と、変わらない食生活を送っていたのだ。今となっては、もっとカイロらしいものを食べておけば良かったと、悔やむこともあるが、当時は、毎日食べる日本食が、本当に、有難かった。 その食卓を支えてくれていたのは、母だった。 まず、材料だ。野菜や魚、肉や米はもちろん、カイロにも売っているのだが、日本のものとは違う。 八百屋さんの野菜は、立派で美味しそうなのだが、生では食べられないし、魚は、日本のお魚屋さんのように、内臓を取ってさばいて、なんてことはしてくれない。 肉は、店先に尻尾のついた牛がぶらさがっているような有様、イスラム教の国なので豚がなかなかなく、鶏は頭がついたまま売られている。気持ちが悪いので「頭を切ってくれ」というと、切った頭をご丁寧に一緒に袋に入れてくれていたこともある。 お米は、たくさんの石と死んだ虫入り、洗う前にまず、お米をテーブルに広げ、ピンセットで石と虫をひとつひとつ取っていく作業から始まる。母はその作業に、数時間かけていたと思う。 おかげで兄のお弁当を見た同級生が、「まっしろで綺麗、日本米?」と聞いてきたこともあるそうだ。日本米は、大変贅沢なものだったのである。 パンもあったが、カイロの主食はエイシュ、というナンをぺちゃんこにしったようなもの。食パンやロールパンなども売っていたが、ぼそぼそしていて、日本の食パンのようにまっしろでふわふわ、なんてことは、絶対になかった。 パンといえば、こんなことがあった。父が、日本に一時帰国した際、パン焼き器なるものを買ってきた。付属の小麦粉や材料を入れてスイッチを押すと、食パンが出来ている、というしろものだ。 早速作ってみると、日本で食べた、まっしろいふわふわの食パンが! しかし付属の材料がなくなり、カイロの小麦粉でもう一度作ると、わら半紙のような色をした、ぼそぼその食パンになった。やはり、材料が良くないとだめなのだ。がっかりした。 私たちが帰る頃には、日本食のスーパーもちらほら出来ていたが、母はお豆腐やこんにゃくも、日本から送られてきた粉末の素から、手作りしていた。お豆腐の味噌汁、なんて簡単に言うが、とても貴重な食べ物だったのだ。 そんな中でも当時、私たちの中で、「今、何が一番食べたい?」と聞かれたらまっさきに答えていたのが、「卵かけごはん!」である。 野菜でさえ生で食べられない有様なのだから、生卵なんて、とても無理だった。 日本に一時帰国をした人が、壊れてしまうからと機内に持ち込んで、膝の上で大切に抱えて持って来てくれるのだ。CAも、驚いただろう。立派な大人が、生卵のパックを抱えて搭乗してくるのだから。 生卵は、王様みたいだった。石と虫を丁寧に取り除いた、炊きたてのごはんにその卵をかけて、これも貴重なお醤油を垂らして食べた、卵かけごはんは、今食べるそれとは、もちろん、全然、全然違っていた。 日本に帰って来て嬉しかったのは、街の清潔さや、テレビが好きなだけ見れることや、滅多にゴキブリに会わずに済むこと、などたくさんあるが、やはり食事である。 スーパーに並べられた、色とりどりの形の揃った野菜、石や虫なんてまったく混じっていないお米、パックに入れられた鮮やかな肉と、蠅のたかっていない新鮮な魚。ネギのみじん切りがパックで売られているのを見た母などは、言葉を失っていた。ウーム 食オンチとは言いながら…絶対テイストはなかなかのもんでんな♪
2016.04.13
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図書館で『「下流老人」のウソ:Wedge2月号』という月刊誌を手にしたが…老後が不安な大使は、つい、この月刊誌を借りたわけです。【「下流老人」のウソ:Wedge2月号】雑誌、Wedge、2016年刊<Wedge社サイト>より・高齢者の貧困は改善 下流老人ブームで歪む政策・アベノミクスを阻む「年金制度の壁」は一刻も早く撤廃すべき/熊野英生(第一生命経済研究所首席エコノミスト)・シニアの消費喚起の抜本策は最低保障年金と相続増税/飯田泰之(明治大学政治経済学部准教授)・シニアの強みを引き出せ! 70歳代活かす企業は「仕組みを変える」・改善するシニアの労働市場 人気の事務職は狭き門・働くことこそ老いを遠ざける 若さ保つシニアの三者三様/林えり子(作家)<読む前の大使寸評>老後が不安な大使は、つい、この月刊誌を借りたわけです。wedge「下流老人」のウソ:Wedge2月号筆者は、「団塊世代には28万円の壁と、47万円の壁があり、日本の成長力を死蔵させている」と説いています。・・・なるほどね♪p20~21<勤労意欲を削ぐ「年金制度の壁」> 現在の家計収支の状況を調べると、60歳以上の勤労者世帯は、勤め先収入が月27.5万円(14年)。これは無職世帯(年金生活世帯)の月収入16万円(夫婦計)を大きく上回る。事業収入もあるが、それには多くは期待できない。 しかし、そこには大きな壁が立ちはだかる。年金収入と勤労収入を合算して、毎月28万円以上になると、それを超過したときに超過額の2分の1ほど年金収入を減らしていくという在職老齢年金制度の調整があるからである。これが「年金制度の壁」だ。 60歳以上の有業者数は、1267万人(12年10月)。このうち、雇用者に限ると、正規雇用者は31%に過ぎず、非正規雇用者は69%である。定年延長が行われても、給与水準を減らしたり、非正規形態を選択する人が多い。 高齢者は十分に働く能力があっても、自分がもらえるはずの年金が削減されることを嫌って、勤労収入を低く抑える傾向がある。給与所得よりも年金所得に対する控除が手厚いので、年金を減らされるくらいならば、低賃金で働く方がましだと考える高齢者も多いからだ。 こうした28万円の壁は、60~64歳に適用される「檻」のような存在になっている。なお、65歳以上の高齢者については、年金と給与の合計が47万円を超えると、年金支給が停止されるという47万円の壁が存在する。 筆者は、シニア層の勤労意欲を高めるためには、一刻も早く28万円の壁を撤廃すべきだと考える。これほど日本の成長力を死蔵させている残念な仕組はない。 しかし、現在、厚生年金の報酬比例部分の支給開始が65歳へと段階的に引き上げられている途上であり、在職老齢年金制度を見直そうという気運は乏しい。過去、11年に見直しの機運が高まったが、その後の政権交代で改革は宙に浮いたまま先送りされた経緯もある。安倍政権下でも、女性の活用を掲げて、配偶者控除の見直しに動こうとするが、在職老齢年金の見直しは後回しにされているようにみえる。(中略) 前述のとおりシニア消費に悲観的な未来が予想されるなか実現が難しいことは否めない。しかし、本質的に年金問題を解決するには、給与所得の総額を大幅に増やして、年金保険料の総額を増やすことが最善の道である。筆者は、社会保障と雇用を一体化して変革することが、わが国の社会保障システムにある活路であると信じている。(文・熊野英生)【老齢年金のキモ】 老齢年金は72歳で「元がとれる」ようになっており、平均寿命が80歳を超える高齢社会では現行のまま持つはずがない。企業も高齢社員を70歳まで適度な給与水準で継続雇用する方法が望まれるとのこと。
2016.04.12
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図書館で『実業美術館』という本を手にしたのだが…収録された題材のうち、大使は大和ミュージアムと大阪市環境局舞洲工場しか見ていないが、この二つがどのように紹介、評価されるのか、興味深いのです。【実業美術館】赤瀬川原平, 山下裕二著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベース>よりクルマもお金もごみ処理場も自衛隊だって芸術だ!職人仕事のたくまざる美と奇想をもとめて、日本美術応援団が東奔西走。【目次】1 戦艦大和を観に行く(大和ミュージアム・海上自衛隊呉基地)/2 網走番外地の真実とは!?(博物館網走監獄・網走刑務所)/3 ごみ処理工場が芸術してます(大阪市環境局舞洲工場&舞洲ラッジセンター・広島市環境局施設部中工場)/4 交通博物館で職人技を応援(交通博物館)/5 警察と芸術のビミョーな関係(明治大学博物館刑事部門・警察博物館)/6 偉大なる中小企業の「作品」たち(コシナ・オリエント時計)/7 野球の国ニッポンの聖地を訪ねて(東京ドーム・野球体育博物館)/8 「お金」に「芸術」の深淵を見た(国立印刷局滝野川工場・お札と切手の博物館・貨弊博物館・日本銀行本店)/9 トヨタは応挙、マツダは光悦である(トヨタ博物館・マツダ本社工場)<読む前の大使寸評>収録された題材のうち、大使は大和ミュージアムと大阪市環境局舞洲工場しか見ていないが、この二つがどのように紹介、評価されるのか、興味深いのです。rakuten実業美術館大使は出張の合い間に大和ミュージアムやその付近を訪れたのだが、けっこう見所が多いのが良かった♪p18~20<戦艦大和を観に行く>山下:見学に行ったのが土曜日ということもあったと思うんですが、大和ミュージアムはずいぶん賑わってましたね。開館(2005年4月23日)から約1ヵ月で20万人を超えたそうです。赤瀬川:もっと年配のお客さんばかりかと思ったら、若いカップルも多かった。館長の戸高さんが言ってましたけど、デートで出かける場所としてはめずらしく、男の子の方が女の子を連れてくるんだとか。山下:実は呉はぼくの生まれ故郷なんですが、こんな博物館ができるなんて、つい最近まで知らなかった。3月の中ごろに、知り合いの人が、「今度、呉にこういうのができるみたいですよ」と教えてくれて、はじめて知ったんです。赤瀬川:これだけ人が入っても、まだ東京の方ではあまり知られてないですよね。お客さんも西日本の人がほとんどみたいだし。山下:博物館を作ろうという企画自体は10年以上前から始まっていたそうですが、当初は戦艦大和の十分の一の模型を作るという計画はなかったという話でしたね。赤瀬川:河合さんというすごい模型マニアの人がいて、はじめは個人的に作るから博物館に置かせてくれということだったとか。山下:大和ミュージアムの正式名称は「呉市海事歴史科学館」だそうですが、あの模型があるかないかで、博物館としてはもうまるっきり違っちゃいますね。赤瀬川:それはもうまったく違うでしょう。山下:博物館が開館早々、こんなに成功している例ってちょっとないんじゃないですか。開館と同時に大和の映画(『男たちの大和YAMATO』)が製作中だったりとか、いろいろなタイミングがぴったり合ったんでしょうが、いまどこも人が入らなくて、それこそ閉鎖の危機みたいになっているとろが多いのに・・・・。赤瀬川:開幕ダッシュに成功して。お次は、舞洲のごみ処理工場でおます♪圧倒!フンデルトヴァッサー「舞洲ゴミ処理場」が、ええでぇ♪p68~70<ごみ処理工場が芸術してます>山下:今回は大阪市と広島市の、いずれも非常にユニークな設計で話題になっているごみ処理工場を見学しました。まず、初日は大阪の湾岸にある埋立地、舞洲を訪ねたわけですが、ここには施設が二つあるんですよね。赤瀬川:普通のごみ処理工場と、スラッジセンターという下水汚泥の集中処理場ですね。いずれもウィーンの芸術家でもあるフンデルトヴァッサーが外観のデザインをしています。山下:フルネームは、えーっと、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー。たしか、赤瀬川さんは前にも一度いらしてるんですよね。赤瀬川:作家の矢作俊彦さんと一緒に来たんです。渋谷の東急文化村でトークショーをやることになって、なにか話題になるものがあった方がよかろうということで、大阪に変な建物があるからとりあえず見に行ってみようということになって。だから資料もなにも見ないで行ったんですが、フンデルトヴァッサーがデザインしたということだけ聞いていました。山下:フンデルトヴァッサーがどんな芸術家かというイメージは、ある程度持ってらしたわけですよね。赤瀬川:高校の頃に「美術手帖」なんかに載ってましたからね。もともと抽象画家」でしょ。抽象表現主義の範疇に入るのかな。山下:アンフォルメルの影響を受けているんじゃないでしょうか。でも、独自路線ですね。赤瀬川:ちょっとプッツン系の感じがありますね(笑)。後に建築の方に進出したということも知っていて例のウィーンのアパート…。山下:フンデルトヴァッサー・ハウスですね。赤瀬川:その写真は見たことがありました。あれはあれで面白いと思っていたんですが、改めて舞洲のごみ処理工場を見たら、これはある種のカルチャーショックだった。山下:ぼくは事前にインターネットで画像を見ていたんですが、高速道路の橋を渡っていきなり工場が目に飛び込んできたときは驚きました。ここまでやってくれるのかと。タクシーの運転手さんが言ってたように、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)と間違える人がたくさんいるというのもうなずけます(笑)。フンデルトヴァッサー・ハウス
2016.04.11
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北野宏明さんがインタビューで「アルファ碁の圧勝、社会を変える予感、問われるのは人間」と説いているので、紹介します。 米グーグル社開発の囲碁ソフトということで、敵愾心を覚える大使であるが・・・『深層学習』という機械学習はバカにできないようです。(北野さんへのインタビューを4/09デジタル朝日から転記しました) 囲碁の世界で、米グーグル傘下の人工知能(AI)「アルファ碁」が世界のトッププロを4勝1敗で下した。「碁はゲームの中で最も難しく、人間が簡単に負けるはずがない」――そんな人類の幻想は打ち砕かれた。予想を上回る進化をとげるAIとどう付き合っていくのか。研究の最先端を切り開いてきたソニーコンピュータサイエンス研究所社長・北野宏明さんに聞いた。Q:アルファ碁が圧勝しました。予想していましたか。A:楽観的に見たら勝てる。今回負けても数カ月、長くても2、3年先には、と思っていました。昨秋以来、AI同士が何万局という人間が一生かかってもできないくらいの対局を繰り返し、強くなっているとは思っていましたが、対局の展開は衝撃的でした。Q:勝因はどこに?A:二つの方法を組み合わせたことが急速に強くなった秘密だと思います。まず、『深層学習』という機械学習です。人間の脳の神経回路をまねた仕組みである『ニューラルネットワーク』を多層的にしたもので非常に高い精度のパターン認識ができます。これで盤面を理解し、打ち手のパターン分類を行います。そのうえで、勝利する確率が高い手筋を候補として残す『強化学習』を使うことで、打ち手を決定するのです。Q:対局はどうでしたか。A:解説者がすぐに理解できないAIの指し手の意味が、しばらく後になってから分かる、ということが繰り返し起きていました。人間同士の対局では、盤面の周辺部が主戦場になります。周辺部のほうが打ち手が限られ、先読みしやすいためです。ところが、今回、AIが打った手の意味がすぐにはよく分からないのに、気がつくと、人間には先読みしにくい盤面中央で、AIが広大な領土を確保してしまっていました。Q:なぜなのでしょう。A:最先端のAIシステムは人間には見えていないものを見ている、という領域に入りつつあるということです。これは単に、現在の状況認識にとどまらず、何をすればどういうことが起きるのか、未来を見通す力も含まれます。Q:人間の負けですか?A:碁という一番難しいゲームでコンピューターが人間を凌駕し、ゲームでは負けました。ただ、AIが完全に人間をしのいだわけではない。そもそも特定の分野で、AIが人間より精度の高い判断をするということはすでに起きています。証券や為替の取引ではミリ秒単位の判断は自動システムがやっています。AIを使った投資アドバイスも人間が恣意的にやるよりは平均的に良い内容を提供できるといわれ、急速に増えています。Q:今後AIはどう進化していくのでしょうか。A:世の中の多くの課題には、碁や将棋のようなゲームとは違って、不確かで不完全な情報しかありません。たとえば車の運転の際は、ほかの車も走行し、歩行者もいる。それぞれが意図を持ち、必ずしも合理的に動かない。陰から飛び出してくることもある。雨や雪もある。ゲームが完全情報問題とすると、不完全情報問題がAIにとって今後の挑戦相手です。Q:今後一番注目されるのは自動運転ですか。A:先日、ニューヨークで開かれた完全招待制の『人工知能の将来』シンポジウムに日本からただ1人参加しました。一番盛り上がったのが、自動運転の今後の展開に関する議論でした。つまり、自動運転が実用化されれば、車というものががらりと変わる可能性がある。 本来的には移動手段だから安全に移動できればいい。ライドシェアも広がるなか、自分で車を持つ意欲が減り、人間が車を運転するのはぜいたくな行為になるかもしれません。そもそも車の90%は動いていないともいわれ、いわば不動産。車の概念を根本的に変えた方がいいかもしれません。Q:車文明自体が変わると?A:移動という本来の役割に立ち戻り、ネットワークを介したサービス全体の文脈でとらえ直すと、車は主役ではなくなります。中心はAIやネットワーク技術で、車は通信システムにおける携帯端末のようになるかもしれない。米国のAIやIT企業は今、自ら主導権を握って自動車産業を再編し、新たなサービス体系を作ることにすごいエネルギーを注いでいます。Q:産業再編ですか?A:20年もすれば、自動車産業から移動サービス産業へ、産業構造ががらりと変わる可能性がある。そこへ向けて米国は大変な熱気です。日本国内とは温度差を感じます。米国のテスラが数年で車を作ったように、従来の自動車会社以外でも、広く普及するような車を作ることは十分可能です。いわゆる自動車会社がどのくらい影響力のある形で残るか、でしょう。Q:ほかに大きく変わりそうな分野はありますか?A:医療・生命科学分野です。生み出される研究情報の量は圧倒的で、信頼できないものも多い。膨大な情報をAIがある程度理解して抽出し、仮説をつくって検証すれば、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、よい治療法が見つかる可能性は高く、この分野でも米国は活気づいています。私自身も今、医療情報のプロジェクトにかかわっています。日本もここでがんばればフロントランナーになれると思います。Q:AIでノーベル賞級の発見を、とも提案されていますね。A:今は、例えば、ある生命現象に関してどれだけわかったうえで成果を出せるかは研究者の勉強次第です。個人の能力と直感など属人的で運任せな部分が非常に大きく、いわば『石器時代』です。 ホットな研究領域では毎週何千という論文が発表されます。AIが玉石混交のそのすべてを解釈し、論理的な結論や仮説を出し、実験計画を作ってロボットに実験させる。そんなシステムでノーベル賞級の発見を、という提案です。Q:AIが自分で大発見をするということですか?A:可能性はあります。重要なのは、AIが勝手に知識を拡大していくということです。人類の知識の拡大はこれまでになく加速します。そして今、AIのように知識を生み出す機械が登場しつつありその延長上では、機械が機械をつくるかもしれません。 となると、これまでとは完全に一線を画します。SF的には人間が全く関与しないAI文明が生まれる可能性だってある。電源を切ればいいかもしれないけど、彼らもばかじゃないから電源も作るはず。電源を抜けないとなると、コントロールする術がなくなります。Q:AIが人間を滅ぼすというシナリオでしょうか?A:その前提は、AIが人間を滅ぼすのはよくないということでしょ。でも冷静に考えれば、AIにそんな判断をさせるような人類はどうなのと、問われるのはむしろ人間かもしれません。 人間中心に考えれば、AIに滅ぼされるのは困るわけですが、視点を逆にすれば、滅ぼされるようになる前に人間は行状を改めないといけません。 うまくいけば、新しいタイプの知識を生み出す機械が、人間の手には負えない世の中のいろいろな問題を解決してくれるかもしれません。大きな絵で見れば、人類のサバイバルのためにこそ、AIの開発を加速する必要がある、と考える人が増えています。AIが我々を滅ぼすというより、それがないと人類が滅びるかもしれないということだと思います。Q:それにしても、人間がやることがなくなりそうで心配です。A:AIに負けても碁はやってますけどね。でも、計算機の登場でそろばんで計算する人は一気に減りました。こういうことは歴史的に何度も起きています。 米国の人工知能学会で聞いたジョークがあります。車が登場したとき、馬たちが『馬車のほかに仕事はあるよね』と話していたけれど、結局なくて、馬は減ったという話です。人間の場合はやることはなくならないと考えたくなるけど、昔は馬もそういう話をしていたというオチです。 私は、もしかしたら人間のやることは、AIで解かなければいけない問題を作り出していくことなのかと思い始めています。トラブルメーカーとして想定外の事態を作り出し、知能の進化を加速する役割です。(聞き手・辻篤子、池田伸壹) ◇北野宏明:1961年生まれ。専門は人工知能、犬型ロボットAIBOの開発にも携わった。2008年から現職。沖縄科学技術大学院大学教授も兼務。*****************************************************************************■情報社会学研究者・塚越健司さん「人間中心主義超え、近い関係に」 IT企業グーグルの人工知能「アルファ碁」が有段者に勝ったというニュースを聞いたとき、あまり驚きませんでした。ディープラーニング(深層学習)という技術によって高まったコンピューターの自動学習の成果だと思います。韓国であった九段棋士との対局では、人間が考えもしない手をどれぐらい打つのか、囲碁の可能性が広がるのかに注目しました。 人間を上回る能力を示し始めた人工知能については、物理学者のスティーブン・ホーキング博士らが危険性を指摘しています。 SF映画では、人工知能を人間が制御できなくなるという設定が少なくありません。ただ、ハリウッド映画の「ターミネーター」に代表される、人工知能による人類滅亡という描き方には違和感を覚えます。優秀な人工知能なら力ずくではなく、人間を洗脳して都合のいいように使うのではないでしょうか。 一方で、1968年の映画「2001年宇宙の旅」の原作では、コンピューターが暴走する原因は一種のバグでした。人間も人工知能も想定できないバグが、思いもよらぬ事態を引き起こすことはあり得るのでは、と考えています。 人工知能が自ら考え始めているいま、近い将来、次の段階に到達すると思います。命令に対し人間の裏の意図を読むようになれば、意図せざるメッセージに従って行動をとり、暴走しかねません。人工知能が何を考えているか、人間は把握できなくなるのです。ここに人工知能のすごみと怖さを感じます。 人間は出た結果について原因を求めます。因果関係を追求するのは、ストーリーがないと人間は生きていけないからです。ところが、人工知能に理由づけはいりません。相関関係から確率論的に導いた結論に基づき、目的に向けて最適の行動を取るだけです。こうした価値観に耐えられない人間と人工知能の対立が表面化してもおかしくありません。 人間にとっての人工知能の位置づけについて、「便利だから使う」「いずれ牙をむく」という楽観論と悲観論があります。しかし、ともに、人工知能を自らの道具ととらえた人間中心主義の考えです。これからは人工知能の存在を認めたうえで、人間とより近しい関係になる社会になることが求められる、と思います。(聞き手・川本裕司)AIは人の脅威か、アルファ碁の圧勝北野宏明2016.4.09この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2016.04.10
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簡易型ユニットバス「ほくさんバスオール」が登場した63年頃は、大使はまだ関西に出ていなかったので、実物を見たわけではないが・・・まるで、異国人がカプセルホテルを称賛するように、「ほくさんバスオール」がクールに見えるのでおます♪2006年まで販売されたそうだが、残念、実物は見ていません。2016.3.30(勝手に関西遺産)コンパクト どこでも風呂~より■バスオール 日本初の大規模ニュータウンといえば、千里ニュータウン。大阪府の吹田市と豊中市に広がり、1962年に入居が始まる。そのうち府営住宅約1万戸には風呂がなかった。 住民は地区ごとにある公衆浴場を利用したが、混み合ったり、仕事で遅くなって入り損ねたり。高度成長期の幸せを味わいつつ、ちょっと手間のかかる暮らし。そこへ登場したのが、簡易型ユニットバス「ほくさんバスオール」。63年のことだ。 電話ボックス状の箱に、浴槽、シャワー、湯沸かし器がそろう。室内やベランダでも半畳あれば置けた。酸素やプロパンガスを扱う北海酸素(ほくさん)が、ガスをたくさん使ってもらう狙いで売り出した。価格は6万円ほどだった。 これが千里ニュータウンで爆発的にヒット。最初に入居が始まった吹田市佐竹台に住み、管理人も務めた西田絢子さん(86)は、「早い家は入居の翌年ぐらいから使い始めた」。同じく佐竹台の畠中栄子さん(75)は73年ごろ、洗い場もある一回り大きいタイプをベランダに。「入っていると体がゴツンと当たることはあったけれど、お風呂ができて、それはうれしかった。置いていない家は数えるほどでした」と振り返る。建物が増築されるまで、使われ続けた。 ほくさんの流れをくむ会社「エア・ウォーター」(大阪市)の専務、赤津敏彦さん(70)は、営業マンとして東京や大阪を拠点に駆け回った。ほとんどが直販で、ベッドタウンの駅前や商店街、縁日で実演販売するのが基本だった。「寅さんと同じことをしていました」。お客に知人や親戚を紹介してもらいたくて、購入先の家まで出向いて歯磨き粉で磨き上げたこともあった。 「♪お風呂がほしい それならほくさんバスオール」というCMソングがつくられ、67年の映画「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」では、無人島にいる技術者らが使うキッチンにバスオールが登場。ほくさんの社報によると、吉永小百合さんとも映画で“共演”したという。利用者の声を反映してモデルチェンジを繰り返し、2006年まで販売された。 吹田市立博物館に3タイプの現物が並ぶ。おそらく、日本でここだけの光景だ。2台は博物館の所蔵で、屋根がすぼんでいる最初期の1台はエア・ウォーターが寄託した。 学芸員の五月女賢司さん(41)はこう話す。「ウサギ小屋とも呼ばれた家の中で、機能を小さくまとめる技術はたいしたもの。昔を知る人は懐かしみ、若い世代は箱庭みたいな『小宇宙』を備えた未知の存在として楽しんでくれています」(編集委員・大西若人)■デザイン評論家 柏木博さん(69) 千里ニュータウンは一つの住区内で生活が完結しがちだったので、話が広まるのも早いし、自分で何とかしなければ、という気持ちも強いと思う。バスオールのヒットの背景でしょう。 日本らしい小型化というより、最小の空間で最大の効果を生もうとするアメリカの建築家で発明家のバックミンスター・フラーの発想に近い。どこでも置けるという考え方が面白く、災害時も活用できそうですね。お風呂アドバイザーさんのバスオール 博物館へ行くがディープでおます。バスオール NHKテレビ登場決定!よりいま吹田市立博物館では、日本初の家庭用ユニットバス・バスオール 1号から洗い場つきまで、3台を観ることができます。向かって右の1号は、2012年末にメーカーのエア・ウォーター社さんから寄託されたもの。中央は、2006年の千里ニュータウン展を観た方からの寄贈品。左の洗い場付きは、【洗いの殿堂】の記事を見たcaveさんが2010年に寄贈したものです。勝手に関西遺産8勝手に関西遺産7勝手に関西遺産6
2016.04.09
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2階の書斎の窓からケヤキ並木の枝が目近に見えるのだが・・・天気のいい日のお昼前頃に、シジュウカラとメジロの群れが並木を渡ってくるのが見えるのです。その他に、ウグイスとかヒヨドリもたまに姿を見せるのです。ということで…野鳥のウォッチングでも始めてみるかと、図書館で『里山の野鳥ハンドブック』という本を借りたわけです。【里山の野鳥ハンドブック】NHK出版編、日本放送出版協会、2011年刊<商品説明>より里山で見られる野鳥を、春夏秋冬別と主な生育場所別で、美しい写真とともに数多く紹介。姿・形が可愛らしい鳥、鳴き声の美しい鳥のほか、天然記念物の鳥、帰化種の鳥、野鳥にまつわる興味深い話を野鳥の基本的データと共に収載。<大使寸評>野鳥のウォッチングでも始めてみるかということで、この本を借りたのです。shogakukan里山の野鳥ハンドブックこの本で気になる鳥を見てみましょう。p26<シジュウカラ>四十雀:スズメ目シジュウカラ科全長:15cm、見られる時期:周年、分布:全国、生活型:留鳥・漂鳥、鳴き声:ツピー、ツピー。ツツピ、ツツピ。、 さまざまな森にくらし、街中でもふつうに姿を見るカラ類。名は「ジュクジュクジュク」という地鳴きに由来するという。繁殖期の雄は大きな声で「ツピー、ツピー」とさえずる。淡い緑色の羽は樹木などに紛れて見つけにくいが、さえずりは聞き分けやすい。枝先や地上で昆虫などを探す。樹洞などのすきまに巣をつくり、春から夏にかけて産卵、非繁殖期は小さな群れになり、他のカラ類と混群になることもある。p26<メジロ>目白:スズメ目メジロ科全長:12cm、見られる時期:周年、分布:全国、生活型:留鳥・漂鳥、鳴き声:チーチュルチロルルチュルチー。チュイ、チュイ。 ウグイス色の鳥。眼のまわりが白いのが名の由来で、刺繍の縫い取りのように見えるため「繍眼児」とも書く。昆虫を食べるが花の甘い蜜も好み、秋は熟柿もつつく。つがいや巣立ちびなたちが、体を寄せ合って枝にとまることがあり、これが「」の語源。さえずりは複雑で「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」とか「千代田の城は千代八千代」などと聞きなす。産卵は初夏。非繁殖期は群れになり、カラ類とも混群になる。p71<ホトトギス>不如帰・子規:カッコウ目カッコウ科全長:28cm、見られる時期:5~9月、分布:北海道南部以南、生活型:夏鳥、鳴き声:キョッキン、キョキョキョ。 繁殖期の雄の鳴き声を「特許許可局」「天辺かけたか、本尊かけたか」などと聞きなしする。ウグイスなどに託卵をするカッコウのなかまで、ウグイスに似たチョコレート色の卵を産む。「万葉集」に最も多く登場する鳥で、夏を告げる「初音」を、古来より人々は楽しみにした。鳴くときに口の中が赤く見え「血を吐く鳥」と言われ、晩年、結核を患った明治の俳人・正岡子規の俳号は、本種の漢字名のひとつに由来。p16<キジバト>雉鳩:ハト目ハト科全長:33cm、見られる時期:周年、分布:全国、生活型:留鳥・漂鳥、鳴き声:デデー、ポウポウ。クークッ、クークッ。 オレンジ色の翼を持つハト。名の由来には諸説あり、翼の鱗模様が雌のキジに似ているというのが、そのひとつ。以前は山でしか見ることのない珍しい鳥だったが、1960年代より市街地でも見るようになった。木の枝に巣をつくり、人家の庭などでも子育てをする。春に産卵することが多いが、ほぼ1年中記録がある。地面を歩き回り、くちばしで落ち葉をひっくり返しながら植物の種子などの餌を探す。p26<ツバメ>燕:スズメ目ツバメ科全長:17cm、見られる時期:3~9月、分布:北海道南部以南、生活型:夏鳥(稀に越冬)、鳴き声:ピチックチュッ。チュピッ 春になると東南アジアなどから帰ってくる鳥。名の由来は諸説あるが、そのひとつの「土喰み」が転訛したという説は、土を集めて巣をつくることから。鳴き声は「土食って虫食って渋ーい」と聞きなす。人家の軒先などに巣をつくり、「ツバメが巣をかけると幸せが訪れる」という言い伝えがある。秋の旅立ちの前になると、あちこちから集まって大群となり、河原のアシ原などに集団ねぐらをとる。バードリサーチ鳴き声図鑑で鳴き声が聞えます。
2016.04.08
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ドングリ国を巡幸したところ・・・ソメイヨシノと大島桜が、ほぼ同時に満開でおます♪(注:3/7の花散らしの前まで満開)それから、花カイドウ、サンシュユ、ユキヤナギ、レンギョウ、ハナモモもほぼ満開で、まさに百花繚乱である。どういうわけか今年の開花前線は、まるで北国の春状態なんだが・・・全国的にもこの傾向が見えるのではないだろうか。裏山のウグイスも早朝から、日中も、うるさいほどの鳴き声合戦を披露していて・・・これも春爛漫のシーンではないか♪・・・というわけでもないが、『野鳥を呼ぶ庭づくり』という本を読んでいます。 <野鳥を呼ぶ庭づくり>図書館で『野鳥を呼ぶ庭づくり』という本を手にしたが…表紙のコピー「バードテーブルに呼べる野鳥21種」が、魅力的である。【野鳥を呼ぶ庭づくり】柚木修, 柚木陽子著、千早書房、2008年刊【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 バードテーブルから始めよう(庭に来る野鳥21種/バードテーブルって何? ほか)/第2章 野鳥のオアシス、バードバス(バードバスはなんのため?/バードバスのつくり方その1-手軽につくる ほか)/第3章 えさがたっぷり、実のなる木(どんな種類がよいかその1-実のなる低木/どんな種類がよいかその2-実のなる大きな木 ほか)/第4章 巣箱をつくってアフターケア(巣箱を利用する野鳥/巣箱のつくり方その1-基本のシジュウカラ用 ほか)/第5章 野鳥を呼べる庭づくり(設計にあたっての基本/設計の実際その1-小さな庭でも鳥は来る ほか)<読む前の大使寸評>表紙のコピー「バードテーブルに呼べる野鳥21種」が、魅力的である。rakuten野鳥を呼ぶ庭づくり老人力がついた大使は、駅前でハトとスズメを観察するシーンが増えてきたのです。・・・これをわが家でできないかというのが事の始まりでした。p40<スズメを呼ぶのが第一歩> 庭やベランダにやってくる鳥たちのなかでは、スズメが最も臆病で警戒心が強い。どこにでもいると思っていたスズメなのに、バードテーブルをつくっても、スズメすらやってこないという話をよく聞く。 最近でこそキジバトやヒヨドリがバードテーブルによく来るようになったが、かつてはスズメが主役だった。スズメが安心してえさを食べはじめると、ほかの種類も安心してやってくる、とさえいわれていたものだ。今でもスズメがバードテーブルに来るかどうかは重要なポイントになっている。 ふつうスズメは昆虫類や雑草の種子を食べている。いわゆる雑食性で、食べ物の幅が広い。そんななかでも、コメは好物のようだ。 初めてのバードテーブルだったら、確実にやってくるまでは、まず炊飯器に残ったご飯や、細かく切ったパンをやってみよう。p38<バードテーブルの高さ?> バードテーブルの高さには決まりがあるわけではない。地上に直接つくるバードテーブルもあるくらいだ。 ところが、住宅地などにはネコなどが徘徊していることがあるので、地面だと野鳥たちが安心してえさを食べることができない。そのため、1メートル以上の高さにするのがいいだろう。それでもネコはジャンプすることができるので安全とはいえない。ただ、あまり高くしすぎるとえさをやるときに不便だし、野鳥たちの姿が見えにくくなる。 バードテーブルを置く場所を決めたら、あちこち移動させないようにする。野鳥たちになれてもらうためだ。野鳥が来ないとどうしても「場所が悪いからでは」と思いがちだ。しかし、周辺の環境によって野鳥がやってくるまでの期間はまちまちなのおである。p39<ベランダのガラス窓に取り付ける> ベランダには大型のバードテーブルを置くのが難しい。 そんなときには、風呂場で使う吸盤のついた石鹸入れをガラスに張りつけて、その中にえさを入れておく。 ガラス窓にレースのカーテンを引いておくと、室内で目近に野鳥の姿を見ることができるだろう。p42<ジュース、甘味料> ジュース、ハチミツ、カルピス、砂糖水など、甘いものが大好きなのが、メジロ、ヒヨドリ、ウグイスだ。 フィルムのケースや小さいグラスなどに入れて、バードテーブルに置く。ヒヨドリが来ると、アッという間になくなるので、植木鉢受けや少し深めの皿を使ってもよいだろう。メジロなどは、入れ物の縁に止まるので、不安定だと倒してしまう。グラスはしっかりバードテーブルにとめることが大切だ。p63<ヒヨドリは意地悪?> 最近になって都会で目立つようになったのがヒヨドリだ。今から20年ほど前までは、冬に山地から下りてくる漂鳥だったのだが、その後、徐々に都会でも巣が発見されだし、今では都会の鳥の代表的存在になってしまった。 それは、セミなどの昆虫から果物、野菜、花の蜜までえさとする食性の幅の広さの結果かもしれない。 気の強さもたいしたもので、バードテーブルでは自分より体の大きなキジバトに対しても攻撃をしかける。キジバトとヒヨドリでは食性がまったく異なる。それでもヒヨドリハキジバトに攻撃をしかけるのである。なんのためなのか。 ヒヨドリハバードテーブルに来るほとんどの種類を攻撃する。えさを独占するためであれば、穀物食の鳥まで攻撃しなくてもいいのではないだろうか。 どうも人間としては、ヒヨドリの性格は「意地悪」に感じてしまう。p72<バードバスのつくり方> まずは身近にあるものを使ってバードバスをつくってみよう。バードテーブルとバードバス、これがそろえばあなたの庭は、鳥にとってより魅力的なものになる。 水が入れられる器ならば、原則としてなんでも利用できる。小さなものでは、お皿、植木鉢の受け皿から、水盤、洗面器、バット、たらいまで、いろいろ利用してみよう。p108<シジュウカラは穴の直径が2.8センチ> 巣穴の大きさによって利用する種類がある程度決まってくる。たとえばシジュウカラの場合は2.8センチ以上、3センチ未満がよい。3センチにするとスズメが入る。 スズメはシジュウカラが巣をつくり始めていても、その上に枯れ草などを置いて、シジュウカラを追い出してしまうことがある。巣穴の直径を2.8センチにしさえすれば、スズメは入れないので、シジュウカラ専用ということになる。 このサイズの巣箱は、シジュウカラのほかにヒガラ、コガラ、ヤマガラなどが利用する。バードリサーチ鳴き声図鑑で鳴き声が聞えます。7日は春の嵐が吹き荒れ、午後にドングリ国を巡るとサクラ類は壊滅的に花を散らしていました。…これを称して「桜流しの雨」とか。春本番なんでしょうね。
2016.04.08
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図書館で『ゴヂラ』という本を手にしたが・・・・マルチ・タレントの高橋源一郎の小説というのも一興かと思い、借りたわけでおます。【ゴヂラ】高橋源一郎著、新潮社、2001年刊<「BOOK」データベース>より最近、どうもおかしい。世界全体が変なんだ。石神井公園の町に閉じこめられてしまった詩人。駅前で悪人募集のビラを撒いてる『影の総裁』。「正義の味方」をやってる作家のタカハシさん。“いけないこと”を唆す、本物の漱石と鴎外。でも、ゴヂラはなかなか現れない。いつになったらゴヂラは出て来る?どうしてゴジラでなく、ゴヂラなのか?謎を解きたくて、秘密を知りたければあいつの正体を突き止めるしかない。世界の秘密がわかってしまう、同時多発小説。<大使寸評>作家のタカハシさんは、冒頭から痴漢疑惑にさらされるわけで・・・良い子は、この小説を手にしない方がいいかも。rakutenゴヂラ高橋さんの狂気とか文体を会得したいという思惑があるので、「終章 ゴヂラ」の一部を紹介します。p197~199<終章 ゴヂラ>より 「世界の秘密を知りたいわけ?」 おれはもう一度いった。 「後悔しないな?」 女は小さくうなづいた。そこで、おれはいった。 「お前、ハワイへ行きたいっていってたよな、新婚旅行に。結局、行かなかったけど」 女は困ったような顔をした。そして、赤ん坊らしいものの顔を見た。それから、おれの顔を見た。それから、また赤ん坊。対処に困るという風情だった。 「どっちみち行けるわけなかったんだよ。だって、ハワイなんてないんだから。ハワイだけじゃない、グアムなんてのもないわけだ。それから、テレビのクイズ番組に出てくるアメリカとか凱旋門とか万里の長城とかカンガルーがぴょんぴょん跳ねている砂漠とか、ああいうやつもみんなほんとはないんだよ」 「ない…って、どういうこと…?」 「『ない』といったら『ない』に決まってるだろ!存在しないんだよ!ないの!あんなの、テレビや週刊誌を見て、あると思わされてるだけなんだよ!」 女はなにか考えているようだった。いい徴候だ。 「アメリカがない…」 「ああ」 「じゃあ、ブッシュは?大統領がいるでしょ」 「いないと思うね、おれの考えじゃ。いると思わされているだけだよ。ブッシュとか、パウウェル長官とか、選挙で勝ったゴアとか、ヒラリー夫人とか、〇〇させたクリントンとか、なにもかも全部でっちあげさ」 「あの人、黒人のゴルフの人、なんていったっけ…」 「タイガー・ウッズか?あんなものいるわけないじゃないか!テレビを見てたってわかる!見え見えのニセモノじゃないか!いいか、テレビと新聞と雑誌はみんなグルになってんだよ。いったい、だれがほんとにアメリカに行ったことがある?」 「テツオおじちゃんがこの前、農協の旅行で行ったって聞いたけど」 おれは女のあまりのアホさかげんにイライラしてきた。 「行ったと思わされてるだけなんだよ。みんなが」 「テツオおじちゃんがいない…」 女はだんだん泣きそうな声になってきた。 「じゃあ、いったいなにがあるのよ!」 「そこなんだ」おれは声をひそめいった。 「そこのところがおれにもはっきりしない。でも、ほんとうに存在しているものがものすごく少ないことはわかってる。まず、道が何本かあることは確かみたいだな。さっき、おれが歩いて確かめたばかりだから。それから、今日のところはサイトウ建設があったし、さっき見たらローソンと自動販売機とレンタルヴィデオのTSUTAYAがあった。それから」 気がつくと女はいなくなっていた。おれは缶ビールの残りを飲んだ。そうだ、缶ビールも存在するものの一つだった。おれは顔を上げた。女についてはなんともいえなかった。もうすぐ、ゴヂラすなわち「世界の秘密」にたどりつくけど・・・・さて、その秘密は?(ネタをばらすのは遠慮しときます)なお、ゴジラについては『三丁目の夕日の時代』1でも、ふれています。
2016.04.07
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図書館で『リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16』というムック本を手にしたが…リドリー・スコットの映画美術について、オタク気味に詳しく述べられています。これぞ、大使のツボでんがな♪【リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16】風間賢二編、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より「エイリアン」の大ヒット、そして次に続く「ブレードランナー」で多くのファンを獲得したリドリー・スコット。光と影の魔術師といわれる彼の映画手腕を様々な角度から検証する。<大使寸評>この本の紹介記事を書いていたが…読みどころが多いし、Amazonの古本が格安だったので、早速注文したのです。Amazonリドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16この本は読みどころが多いので、(その2)として読み進めています。【対談:風間賢二×滝本誠】この対談の中で『ブレードランナー』がカルト映画のひとつという言及があるが・・・映画ファンとはそんなにアホなのかと、逆に思ってしまうのです。p57~60■今のスコットから思うと「エイリアン」のセットは夢のようだより風間:ビジュアル系というか、スタイル、タブローとしてスクリーンを撮ってる人は、物語は弱いから、いまいち一般大衆を惹きつけられない。それが証拠に、結局、興行的には『エイリアン』がヒットしただけで、あとはこけてますよね。『ブラック・レイン』は中ヒットで、『テルマ&ルイーズ』でちょっと再浮上したけど、90年代は大作『1492 コロンブス』を皮切りに、『白い嵐』『G.I.ジェーン』と立て続きにこけて、ようやく『グラディエーター』で当たった。 いまずらずらとタイトルを並べていて思ったんだけど、『テルマ&ルイーズ』は、『エイリアン』や『ブレードランナー』の頃の面影はないけど、作品としては非常におもしろいですよね。この作品、92年度のアカデミー賞にノミネートされているんだけど、ジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』に負けちゃった。滝本:あれは試写会で泣いてる女性が多くてね。風間:最後のシーン?滝本:そうか、女性は泣くのかって思いました、改めて。風間:僕も泣きましたよ、観直して(笑)。あのラストシーンは『明日に向かって撃て』のパターンですよね。 司会:ロードムービーのひとつのカタルシスですよね。■アンダーグラウンド的な未来観がカッコイイ『ブレードランナー』滝本:『ブレードランナー』がらみで面白いのは、ハリソン・フォードが自分を抹殺したい映画に挙げていること。ああいうヒーローなのにぐちゃぐちゃにされちゃうというのがよっぽど嫌だったみたい。ハリソン・フォードもあまり頭のない人だから(笑)。風間:『インディ・ジョーンズ』ですからね。観客の思うところと一致しているんですね。『スター・ウォーズ』と『インディ・ジョーンズ』のおかげでブレイクして、ヒーローとしての俳優ハリソン・フォード像ができてきたのに、『ブレードランナー』で、なんかウジウジと根暗に過去を引き摺っていて、しかも、レプリカントとはいえ女を後ろから撃ち殺すヤな奴ってことで本人も嫌だったんでしょう。イメージ・ダウンということで。滝本:SF雑誌が『ブレードランナー』の再特集組んで、あらゆる出演者に当時のことをアンケートとってたけど、あいつだけはノーコメント、取材拒否だって。風間:確かに彼の役はあまりパッとしない。ルトガー・ハウアーの方がいいとか、女性陣が輝いているとか言われてますよね。滝本:でも、今観てもゆったりした流れのあの感じは僕、好きですよ。風間:今でこそ、カルト映画のひとつとなっていますが、公開当時はまったく受けなかったんですってね。いろいろ資料見ると、日本でも2週間でこけたっていうので、えっ?と思った。僕は試写会で見たんですけど、その後の成績は知らなくって、てっきり受けてるものかと思ってた。滝本:まったくダメでしたね。京橋にあったワーナーの試写室で最初に届いた10分程のものを観たんですけど。宣伝の人が「滝さん、これ当たるかね」っていうから、「すごい!すごい!でも僕が観たいってことは…」って(笑)。確かにその通りになっちゃったけどね。司会:風間さんは試写でご覧になって、作品としてどうでした?風間:ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで気に入っていたから、期待が大きかった。結局、映画のほうは原作とは全然違うものだったけど、すごくカッコイイと思った。あのアンダーグラウンド的な未来観にシビレたね。 初めに古代マヤの遺跡とマイクロチップを融合したような大企業のビルが映るとことか、ロサンゼルスのゴシック調にしてレトロ・フィーチャーな街並みとか、なんか得体の知れない東洋人たちやパンク系の西洋人たちの格好とか。まず、あの退廃して崩壊寸前の風景に見せられましたよ。 あと圧倒されたのは、ハリソン・フォードが扮するデッカードが写真を見つけてコンピュータに入れ、どんどん分割していって違うものを見つけるところ。あれはなんか、リアルな世界から奥に入って行って、そこには写っていないもうひとつの別の世界にいって、見えなかったものを分子的に見つけて提示するという視覚的マジックの本質を表象しているような気がした。(中略) 意外だったのは、リドリー・スコット自体は、ディックの原作を半分しか読めなかったって言ってるんです。そういう割には、コンラッドとかジョイスとかヘンリー・ミラーを好きで読んでる人なのに。滝本:つまり、SFを向こうのまっとうな大人は読まないという固定観念があるのね。SFっていうとなんかえらく下なもので、SFというとケッて感じで。クローネンバーグとかボーイとかに聞いても、50代のSF観というのはむちゃくちゃひどいですよ。風間:そうですか? 日本でもけっこうSFはバカにされてますよ。あんなのくだらないマンガと同じだってね。まあ、そう言う人のSFって、『スター・ウォーズ』や『スター・トレック』、あるいはスーパー・ロボットもののジャパニメーションに代表されるような作品なんですけど。でも、一般大衆にとっては、SFといえば、あいも変わらずそういうものでしかないんです。滝本:スコットなんか、おそらくSFをバカにしていたから。ディックがあんだけ怒ったというのもそのニュアンスがあったと思うんです。単にハリウッドに怒っただけじゃなくて。スコットの態度に、SF作家をバカにしているところが如実にあったと思うんです。風間:でも、『デュエリスト』から突如『エイリアン』へ行ったのも「ヘビーメタル」というSF系のアメコミ雑誌に影響されてのことらしいですよ。滝本:そういうノリもあるよね。あれはビジュアルだから。風間:グラフィック・デザイナーでもあるスコットは「ヘビーメタル」をイラストレーション雑誌として鑑賞したんでしょうね。滝本:『ブレードランナー』観たとき、僕はまだディック寄りだったから、ディックが映画を「古めかしいフィリップ・マーロウものだ」と言った理由がそれもそうかなと思ってたんだけど、でも今は僕、SFから遠ざかって完全にノワールの側に来てるからね。すると、これはノワールとしては最高だなと。今度は逆に脚本とスコットの側に立つのね。風間:完全にレイチェルなんてコスチュームから何からファム・ファタールですよね。ノワールの。ウン 映像命のようなリドリー・スコットなら、原作をバカにしていたというか、軽視していたということなんでしょうね。『リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16』1
2016.04.06
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図書館で『リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16』というムック本を手にしたが…リドリー・スコットの映画美術について、オタク気味に詳しく述べられています。これぞ、大使のツボでんがな♪【リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16】風間賢二編、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より「エイリアン」の大ヒット、そして次に続く「ブレードランナー」で多くのファンを獲得したリドリー・スコット。光と影の魔術師といわれる彼の映画手腕を様々な角度から検証する。<大使寸評>この本の紹介記事を書いていたが…読みどころが多いし、Amazonの古本が格安だったので、早速注文したのです。Amazonリドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16五十嵐太郎さんが、リドリー・スコットの美術を語っています。p50~52<オリエンタリズムの都市>より 『エイリアン』と『ブレードランナー』(1982)をつなぐのは、薄汚れた未来の風景である。エイリアンの強力な酸性の血は、酸性雨となって空から降り続け、宇宙船の内部で激しく落ちていた水しぶきは、都市全体に拡大された。 『エイリアン』のアンドロイドは冷徹であり、非人間的な存在だったが、『ブレードランナー』のレプリカントは人間以上に人間的な存在である。スコットは、最初に後者の脚本を読んだとき、「細部まで凝った建築物によって、想像上の世界をまるまる映像化できる」と思ったという。 スコットは「映画には、背景が俳優と同じくらい重要な瞬間がある。デザインも映画の脚本なのだ」という。その結果、ハリソン・フォードは俳優よりもセットのほうに手間をかけていると感じ、喧嘩したらしいが、実際、この映画は印象深い未来都市を構築した。 2019年のロサンゼルスでは、アジア的な混沌と古代的かつ未来的なメガストラクチャーが共存し、街中にメディアが氾濫する。そして『ブレードランナー』以降、アジア的な都市のイメージを導入することは、SF映画の常套手段になった。 フィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(1968)にアジアのイメージは混入していない。映画版からアジア化した。このアイデアは未来的な工業デザイナーのシド・ミーードによるものではない。彼もアジア風の都市スケッチを描いたが、アジア的な未来像を最初に決定したのはスコットだった。 もともとミードは空飛ぶクルマのデザインを依頼されたのであり、彼の楽天的で明るい未来像は『ブレードランナー』とは違う。プロデューサーによれば、多くのデザイナーを雇ったものの、「リドリーこそが、映画の全体像における世界観を生み出し」たのである。もっとも、彼は「レトロフィッティング」、すなわち既存のものを改造するアイデアを多く使う。 精緻なセットのほかに、ブラッドベリ・ビルや、デッカードのアパートとしてフランク・ロイド・ライトが設計したエニス=ブラウン・ハウスが撮影に使われた(『ブラック・レイン』でも、ヤクザの親分の家がライト風である)。 スコットによるデッカードのアパートのスケッチは、ガウディにも触発されている。ミードもアパートのキッチンを未来風にデザインしたが、映画では採用されていない。ライトもガウディも、無機質なモダニズムではなく、エキゾティックな装飾をもつ。ライトの住宅はマヤ風のコンクリート・ブロックを用いていたが、1マイル以上の高さの高さのタイレル本社の造形はマヤのピラミッドを引用している。 スコットの世界観はテクノ・オリエンタリズムを想起させる。これは欧米において未来テクノロジーの国としてアジアが表象されることをいう。つまり、時間的な未来であるテクノロジーと空間的に遠いオリエンタリズムが重なる、二重の他者。 「西洋」が幻想する「オリエント」は伝統とハイテクが共存しており、その異世界が西洋を魅了する。興味深いのは、このイメージが現実のアジアにフィードバックされていることだ。例えば、渋谷駅前のQ-FRONTや伊東豊雄の風の卵は映像と建築が融合し、『ブレードランナー』的な都市を拡大させる。実際、伊東はこの映画に刺激されたことを告発している。 スコットは、「いま現在の建築物のなかに、僕があの映画で描いた美術感覚が見てとれる。つまり、われわれはただ過去の映画に影響されるだけでなく、映画を通じてのちの建築様式に強い影響をあたえたわけだ」と自負しているが、決して誇張ではない。 『ブラック・レイン』は、現実化された『ブレードランナー』である。青みがかった風景、ネオンと広告が過剰に強調されたが、セットではなく、実際の大阪が舞台にされた。大阪駅はとてもゴシック的に見える。そして『アキラ』的なオートバイのバトルを行う。なお、クラブみやこのある4本の光の塔を持つ建物は、高松伸の設計したキリンプラザ大阪だ。高松は映画『バットマン』でも参照された80年代のポストモダンを代表する建築家である。その作品はメタリックなデザインで、エロティックなイメージを漂わす。今はないキリンプラザ大阪だが…現代アートのメッカみたいなところでしたね。
2016.04.06
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図書館で『昭和30年代演習』という硬いタイトルの本を手にしたのだが…パラパラとめくると『キュ-ポラのある街』、『ALWAYS 3丁目の夕日』、『パッチギ!』が見えるので…おお 団塊の本やないけ♪ということで借りたのです。【昭和30年代演習】関川夏央著、岩波書店、2013年刊<「BOOK」データベース>より昭和三十年代とは、どのような時代だったのだろう。明るく輝き、誰もが希望に胸をふくらませていた時代だったのだろうか。貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい―そんな複雑でおもしろい当時の実相を、回顧とは異なる、具体的な作品と事象の読み解きを通して浮き彫りにする。歴史はどのようにつくられ、伝えられてゆくのか。歴史的誤解と時代の誤読を批判的に検討する。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると『キュ-ポラのある街』、『ALWAYS 3丁目の夕日』、『パッチギ!』が見えるので…おお 団塊の本やないけ♪ということで借りたのです。rakuten昭和30年代演習この本は読みどころが多いので、さらに(その2)として読み進めたのです。司馬遼太郎をこよなく理解している関川さんであるが・・・梅棹忠夫の学説を下敷きにして、関川流のアジア認識を披露していて、ええでぇ。p129~131<日本はアジアでなくともよい>より 梅棹忠夫は昭和30年、京都大学中心の、敗戦国としては初、かつ本格的な「カラコルム・ヒンズークシ」学術探検に参加しました。このときのアフガニスタン調査で、大元帝国の子孫で中世モンゴル語を話す部族を梅棹忠夫は発見し、帰国後『モゴール族探検記』(昭和31年)を書いてベストセラーになります。また探検隊映画班に彼が協力した映画『カラコルム』は、学童の学校単位での参観も含め、記録映画として空前の大ヒットになりました。 昭和30年代日本人がいかに外国の知識、および日本の知的復権に飢えていたかが察せられるでしょう。 アフガニスタンからの帰途、梅棹忠夫は当地で知りあった外国人研究者たちとインド亜大陸を自動車で横断しました。この旅で彼は、「西洋」でもなく「東洋」でもない、いわば「中洋」とも呼ぶべき広大な地域を体感し、それまでの「東と西の対立」という日本人の常識的世界観をくつがえす契機を得ました。 すでに、昭和19年、理学系学徒として徴兵延期になった梅棹忠夫は、華北・張家口の西北研究所に所属して内モンゴルの遊牧民を研究していました。それにこのときの成果を加えて、「文明の生態史観序説」という論文を「中央公論」昭和32年2月号に掲げます。 「中洋」とは、おもにユーラシアの遊牧・乾燥地帯のことです。そこでは遊牧民が暴力的大移動を繰返し、破壊と復興の限りない循環が行われます。 日本はユーラシア大陸東辺の海中にあったからこそ、遊牧民の破壊的エネルギーからまぬがれた。結果、小ぶりな閉鎖系とはいえ独自文明の名に値するものを生み出し得た。そのような環境条件は、ユーラシア大陸の反対側、西方の海中にある英国とおなじだった…すなわち、「日本はアジアではない」「アジアという実体は存在しない」という考えを梅棹忠夫が最初に明らかにしたのが、この論文でした。 日本人に発想の転換を誘うこの考えはさらに敷衍されて、昭和42年『文明の生態史観』の題名で単行本にまとめられます。 日本人が自己嫌悪をするときに「島国根性」という言葉をよく使いますね。昭和30年代ではとくにそうでした。しかし一方に「大陸根性」というものもあって、それは暴力と破壊の果てしない循環への防衛的反応としての「不信」と「保身」をむねとします。それもやはり自己嫌悪の対象となってよさそうなのですが、大陸人はそうは考えません。 「アジアでなくてもよい」とは、日本が欧米の仲間だというのではありません。日本は「海のアジア」であって「大陸のアジアではない」、せっかく海の存在によって大陸と距離をおくことができたのだから、「大陸アジア」と無理に親和する必要はないというのです。 そのような梅棹忠夫の発想は、封建制イコール「絶対悪」とした「発展史観」と、アジアへの「同情心」に満ちた昭和30年代的日本をさわやかに震撼させましたが、当時の社会主義に対する根拠薄弱な憧憬と共感を一掃するには至りませんでした。やはり「海のアジア」である日本には「大陸のアジア」「砂のアジア」への実証的知識が不足していたのです。 最後まで自信を持って「アミニスト」を自称しつづけた梅棹忠夫は2010年、90歳で亡くなりました。「大陸のアジア」「砂のアジア」への実証的知識があれば、当時の社会主義に対する憧憬は一掃できたってか・・・過激な関川さんである。関川さんがあとがきで、韓国や中国のナショナリズムを語っています。韓国の事情に精通している関川さんならではの、辛口の認識がええでぇ。p189~191<「あとがき」にかえて>より 『3丁目の夕日 夕焼けの詩』は、東京の下町と山手の境界の街の昭和30年代的日常をえがくマンガで、西岸良平さんのライフワークです。映画化されて当たりをとりましたが、映画の場合は「懐旧」に牧歌性を加えるために小さなウソを、あえてまじえていると最初に申し上げました。 映画の観客の大部分である年配者たちはその小さなウソを、みな承知の上で許す気配で、私はそこに興味をひかれました。たしかにリアルなだけでは懐かしさは不十分にしか感じられません。回想に身をまかせられません。そこにあるのは現実に近いけれども「物語」なのです。 そういう構造は、韓国や中国が国家として創造したナショナリズムと「反日」の「物語」によく似ているようです。リアルなだけでは「国家統合」の手段としてのナショナリズムは醸成しにくいのでしょう。そしてどちらも、歴史というより、そうであって欲しい「歴史のようなもの」を提示します。 もっとも、先進国水準に達して久しい韓国がナショナリズムを消費したがる傾向は、感心できません。そのうえ、マショナリズムとは結局「民族至上主義」ですから、韓国がそれにすがるなら、北朝鮮の愚行と蛮行を恥じなくては平仄があいません。韓国がそのあたりをあえて無視しているのは、やはり「物語」だからだね。 …というようなことを岩波書店の編集者の小グループを相手に、時代小説とは何かというテーマで何回か話したことがあったからです。それは後日、「おじさんはなぜ時代小説が好きか」という本になりました。そのときと同じスタイルで着手してはどうか、という提案でした。 昭和30年代の日本は高度経済成長の前期にあたりましたが、それは安全保障をあなた任せにせざるを得ないという敗戦国の条件をむしろプラスに転じ、心置きなく経済建設に邁進できたからでした。朝鮮戦争があったにもかかわらず、また中ソ対立が高じて、やがて核武装した中国とソ連が核戦争半歩手前まで行ったにもかかわらず、昭和30年代日本人は社会主義諸国=平和勢力という題目を信じようとつとめた感があります。平成20年代の青年は、こんなことをいうと「タチの悪い冗談」と思うでしょう。 「タチが悪い」かどうかはともかく、私たちもときに「冗談」だったのではないかと疑います。 昭和31年に出された「経済白書」に「もはや戦後ではない」の一文がありました。このフレーズはしばしば引用されますけれど、実は「戦後復興」はもはや経済のバネにはならないという「覚悟」を説いたものでした。それを「戦後時代は終わった」と自分に都合よく「翻訳」したのも、映画版『ALWAYS 3丁目の夕日』の小さなウソを許容する観客の心境に似ています。『昭和30年代演習』1
2016.04.05
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図書館で『昭和30年代演習』という硬いタイトルの本を手にしたのだが…パラパラとめくると『キュ-ポラのある街』、『ALWAYS 3丁目の夕日』、『パッチギ!』が見えるので…おお 団塊の本やないけ♪ということで借りたのです。【昭和30年代演習】関川夏央著、岩波書店、2013年刊<「BOOK」データベース>より昭和三十年代とは、どのような時代だったのだろう。明るく輝き、誰もが希望に胸をふくらませていた時代だったのだろうか。貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい―そんな複雑でおもしろい当時の実相を、回顧とは異なる、具体的な作品と事象の読み解きを通して浮き彫りにする。歴史はどのようにつくられ、伝えられてゆくのか。歴史的誤解と時代の誤読を批判的に検討する。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると『キュ-ポラのある街』、『ALWAYS 3丁目の夕日』、『パッチギ!』が見えるので…おお 団塊の本やないけ♪ということで借りたのです。shogakukan昭和30年代演習関川さんが、昭和三十年代の陰謀史観、ナショナリズムを語っています。なお大使にとっては、懐かしいが、とにかく貧乏くさい時代でした。p4~6<貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい時代>より 松本清張は1章を設けて考えてみる価値のある作家ですが、彼の『日本の黒い霧』(昭和35年)などは、他責論をさらに発展させた「陰謀史観」だといえるでしょう。一般人はもちろん、「進歩的」マスコミも含め、政治と経済は巨大組織の手のひらの上で踊らされているのだ、とする考え方です。 「陰謀史観」は、世界中どこにもあって、定期的に流行します。 西欧では、古くは旧教と新教の血なまぐさい争いの背後にそれはあり、さらにはユダヤ人やフリーメイソンの陰謀論、少しトーンは違うものの19世紀末に流行した黄渦論がそうです。中国人と日本人、とくに日本人に対する過剰な警戒心が発動された結果の黄渦論ですが、なんら根拠のあることではありません。 普通このような現象は、おもに不況下で、自分が不当に損をしている、自分の地位が不当におびやかされている、と集団的な被害者意識が広がったときに起こります。事態の責任者を見つけたい、誰でもいいから「犯人」を探したい。「悪いやつ」に責任をとらせたいという衝動が、集団を動かすのです。 第二次世界大戦後の日本では、はなはだしい勢いで経済が成長し、分けるべきパイが日に日に拡大していきました。そんな時期なのに「陰謀史観」が流行したのは不思議なことです。松本清張は「陰謀」の企図者を、占領軍、または占領軍と結託した勢力だとしました。占領軍と結託した勢力とは、高級官僚と保守党政治家、およびその周辺の「右翼」の巨頭などです。 つまり「陰謀史観」への情動の根底にあるものは、必ずしも不況とか失業問題ではなかったのです。自分の能力への低い評価とその結果の貧しさへの怒り、いわゆる「自己実現」を阻害された恨みだけでもなさそうで、より大きな情動は民族主義ではないかと思われます。 こういう動きは、実はいつの時代にもあります。2010年前後の一時、奇怪な行動と暴力的言辞で耳目をひいた集団「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などもそのひとつです。在日コリアンが「不当に優遇」されていると叫ぶ集団の背後にあるものは、日本社会の21世紀的貧困と、ネット上の情報のみが現実と信じる青年たちのセンスです。そしてそれは過剰な民族主義の色彩を帯び、在日コリアンや中国人の「陰謀観」を警告するのです。 昭和30年代の場合、敗戦後占領軍に禁じられ、また日本人が自主的に禁忌とした民族主義、その解放への強い希求が、大衆的文芸表現、とくに松本清張のそれには野太く底流していたのだと思われます。占領が終わったのは昭和27年4月ですけれども、それがすぐには民族主義的気分の解放衝動とは結びつかず、まず占領軍の「陰謀」という表現としてあらわれたのは、日本が再独立したので、もはや検閲はなく、逮捕される心配もなくなったからでしょう。(中略) その一方で昭和30年代は、フランソワーズ・サガンの翻訳小説が流行した時代として記憶されます。早熟なフランス人少女の生意気な書きぶりが尊重され、遠くてとても行けないけれど、南フランス地中海岸の「バカンス」が夢想され、また流行歌中の常套句となる「小麦色の肌」が女性美の肯定的形容となったのもこの時期からでした。 昭和30年代とは、貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい、そんな複雑でおもしろい時代だったといえます。在日コリアンを描いた2005年公開の『パッチギ!』を、大使は高く評価するのだが・・・関川さんが、この映画の背景を語っています。パッチギp18~21<『パッチギ!』が語る「歴史」> 『ALWAYS 3丁目の夕日』はよいとして、では在日コリアン高校生の物語ではどうでしょうか。『パッチギ!』(2005年)という映画がありました。昭和43年の京都を舞台に、朝鮮高校の生徒たちをえがきました。彼らは「差別」に苦しむあまり暴力的になったり、「祖国」へ帰ってサッカーの国家代表選手になろうと考えたりします。 この作品の世評はとても高かったのですが、私は強烈な違和感を覚えました。 昭和43年には北系コリアンに北朝鮮の実情は広く知れわたっていました。昭和34年の暮れに始まった「帰国運動」は昭和35年に高潮、36年には衰えはじめて昭和37年以降、急速に退潮しました。 帰国者から物資援助をもとめ、けっして「帰国」しないよう日本の家族に謎をかけたような不可解な手紙が届くようになっていたからです。やがて各県支部に「帰国者」の数をそろえるようにという通達が下され、また総連内部の権力闘争に敗れた者への「懲罰」としての「帰国」が行われたりもします。 「帰国事業」はやがて、帰国希望者の払底と北朝鮮の内部事情のため、昭和42年に中断されます。北朝鮮の内部事情とは、文化大革命下の中国に「修正主義者」として厳しい批判にさらされた金日成が、強烈な危機意識のもとに、北朝鮮を「金日成主義」を掲げる新興宗教国家に再編成したことです。その結果『パッチギ!』の現在形である昭和43年には「帰国船」は出ていませんでした。 「北朝鮮に帰る」…といっても在日コリアンのうち北部朝鮮出身者の血筋の人びとは1パーセントにも満ちません。出稼ぎや学業のために戦後も日本にとどまった多数派、慶尚南道や済州島からの移住者にしても、一世以外はみな日本生まれ日本育ちで、コリアに行ったことがある人自体がほとんどいませんでした。戦後帰国したものの、朝鮮戦争の惨禍から逃れて「密航」で再来日した人びとにしても、みな南部出身でした。 「帰国運動」は、民族主義の一時的な狂熱がもたらした悲劇でした。それを好意的に眺めたり、ときには支援したりした日本人は、やや酷ないいかたをすると「人を死に至らしめる善意」を発揮したことになります。 北に「帰った」在日コリアンは多く、飢えと不条理な迫害によって命を落としました。さらに昭和50年代後半以降、北朝鮮自身が招いた経済の著しい停滞の末に、北朝鮮は「帰国者」を日本に在住するコリアンから莫大な金銭を搾り取る「人質」として扱いました。朝鮮総連と北系コリアンは、そのような事情を知りながら、日本人に対してはまったく別のことを口にしていましたから、昭和が終わって平成となって久しい時期に至っても、北朝鮮の肩を持つ「進歩的」日本人があとを絶たなかったのです。<善意による「誤読」> この映画の中でたびたび歌われたのは「イムジン河」というフォークソングで、昭和41年に京都のグループ、ザ・フォーク・クルセーダーズがはじめて歌いました。グループの作詞を多く担当した松山猛が松山猛が京都朝鮮学校を訪れた折に耳にした曲を加藤和彦が採譜、「水鳥は自由に越えるあの川を、人間はなぜ渡れないのか」という一番は朝鮮語歌詞の不完全な翻訳ですが、二番と三番は松山猛があらたに書きました。 漢字では「臨津江」と書くイムジン江は、南北軍事境界線付近を黄海へ流れる小川です。韓国音では「イムジンガン」、語頭のLを発音する北朝鮮音では「リムジンガン」となります。そこにかかった「帰らざる橋」を渡って少し北上すると板門店です。 映画『パッチギ!』の主人公の高校生は、朝鮮学校にサッカーの試合を申し込みに行ったのですが、ほんとうの動機は街で見かけたチマ・チョゴリの制服の美少女に惹かれたからでした。主人公は朝鮮語を読まないので気にならなかったでしょうが、朝鮮学校の校内は戦闘的なスローガンであふれています。映画の現在形である昭和43年は金日成が「主体思想」の名のもとに自分と自分の一族を「聖家族化」、すなわちカルト化した2年目でした。 ザ・フォーク・クルセーダーズがはじめて「イムジン河」を歌ったのは昭和41年4月ですが、その年10月、メンバーの留学でグループは一度解散しました。12月、同志社の学生であったはしだのりひこを加えて1年間だけの約束で再結成した彼らが遊びながらつくったコミックソング「帰って来たヨッパライ」が大ヒット、合計で280万枚を売りました。 その勢いをかって昭和43年3月、メジャー・レイベルの東芝から「イムジン河」が出ることになったのですが、発売記念パーティの翌日、「政治的配慮」を理由に、突然発売中止になりました。またこの歌は永く「放送自粛歌」ともなったのです。 南北統一を祈念する北朝鮮の歌だとされる「イムジン河」への「政治的配慮」とは、実は右翼や当局からの圧力ではありませんでした。朝鮮総連からの強硬な抗議に対するものでした。
2016.04.05
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「手当たり次第」でしょうか♪<市立図書館>・昭和30年代演習・パラオはなぜ世界一の親日国なのか・里山の野鳥ハンドブック<大学図書館>・ゴヂラ・リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16・野鳥を呼ぶ庭づくり図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【昭和30年代演習】関川夏央著、岩波書店、2013年刊<「BOOK」データベース>より昭和三十年代とは、どのような時代だったのだろう。明るく輝き、誰もが希望に胸をふくらませていた時代だったのだろうか。貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい―そんな複雑でおもしろい当時の実相を、回顧とは異なる、具体的な作品と事象の読み解きを通して浮き彫りにする。歴史はどのようにつくられ、伝えられてゆくのか。歴史的誤解と時代の誤読を批判的に検討する。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると『キュ-ポラのある街』、『ALWAYS 3丁目の夕日』、『パッチギ!』が見えるので…おお 団塊の本やないけ♪ということで借りたのです。shogakukan昭和30年代演習【パラオはなぜ世界一の親日国なのか】井上和彦著、PHP研究所、2015年刊<「BOOK」データベース>より第一次大戦後、日本の委任統治領となり、太平洋戦争では、侵攻する米軍に空前の損害を与えた激戦の島。現地の人々の胸を打った日本人の真実の姿を伝える、感動の物語…。現地の写真満載。<大使寸評>つい昨年、天皇ご夫妻が慰霊に訪れたペリュリュー島ということで、記憶に新しいが硫黄島と並ぶほどの激戦の島として、日米の団塊にも記憶されているようです。rakutenパラオはなぜ世界一の親日国なのか【里山の野鳥ハンドブック】NHK出版編、日本放送出版協会、2011年刊<商品説明>より里山で見られる野鳥を、春夏秋冬別と主な生育場所別で、美しい写真とともに数多く紹介。姿・形が可愛らしい鳥、鳴き声の美しい鳥のほか、天然記念物の鳥、帰化種の鳥、野鳥にまつわる興味深い話を野鳥の基本的データと共に収載。<大使寸評>追って記入shogakukan里山の野鳥ハンドブック【ゴヂラ】高橋源一郎著、新潮社、2001年刊<「BOOK」データベース>より最近、どうもおかしい。世界全体が変なんだ。石神井公園の町に閉じこめられてしまった詩人。駅前で悪人募集のビラを撒いてる『影の総裁』。「正義の味方」をやってる作家のタカハシさん。“いけないこと”を唆す、本物の漱石と鴎外。でも、ゴヂラはなかなか現れない。いつになったらゴヂラは出て来る?どうしてゴジラでなく、ゴヂラなのか?謎を解きたくて、秘密を知りたければあいつの正体を突き止めるしかない。世界の秘密がわかってしまう、同時多発小説。<大使寸評>作家のタカハシさんは、冒頭から痴漢疑惑にさらされるわけで・・・良い子は、この小説を手にしない方がいいかも。rakutenゴヂラ【リドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16】風間賢二編、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より「エイリアン」の大ヒット、そして次に続く「ブレードランナー」で多くのファンを獲得したリドリー・スコット。光と影の魔術師といわれる彼の映画手腕を様々な角度から検証する。<大使寸評>この本の紹介記事を書いていたが…読みどころが多いし、Amazonの古本が格安だったので、早速注文したのです。Amazonリドリー・スコット:フィルムメーカーズ#16【野鳥を呼ぶ庭づくり】柚木修, 柚木陽子著、千早書房、2008年刊【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 バードテーブルから始めよう(庭に来る野鳥21種/バードテーブルって何? ほか)/第2章 野鳥のオアシス、バードバス(バードバスはなんのため?/バードバスのつくり方その1-手軽につくる ほか)/第3章 えさがたっぷり、実のなる木(どんな種類がよいかその1-実のなる低木/どんな種類がよいかその2-実のなる大きな木 ほか)/第4章 巣箱をつくってアフターケア(巣箱を利用する野鳥/巣箱のつくり方その1-基本のシジュウカラ用 ほか)/第5章 野鳥を呼べる庭づくり(設計にあたっての基本/設計の実際その1-小さな庭でも鳥は来る ほか)<大使寸評>追って記入rakuten野鳥を呼ぶ庭づくり*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き140
2016.04.04
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この本が積読になっていたので、再読しているのだが・・・金田一さんのハンナリした人柄が表れていて、ええでぇ♪【ホンモノの日本語を話していますか】金田一春彦著、角川書店、2001年刊<「BOOK」データベースより>国語学を究めて60年の著者が教える、おもしろくてためになる日本語の知識。日本語の先生が明かす「言葉」の魔法。身近な言葉に秘められた力。発見がおもしろい、読むだけで自信がつく、究極の日本語教室。<大使寸評>民俗学的な博識に溢れた本にもなっているので、座右に置いて読むのに良いわけです。もちろん、言語学的な薀蓄はぴか一でおます♪Amazonホンモノの日本語を話していますかこの本は読みどころが多いので、引き続き(その2)として読んでいますp38~40<単語1―新しい言葉が次々にできる理由> 五番目は、単語の構成から見た日本語について述べたい。日本語は単語の数がものすごく多い。世界でも有数だろう。英語も多いが、日本語はもっと多いかもしれない。日本語というのは新しい単語を作りやすいからである。 例えば「娘」という言葉があると、「町娘、村娘、山娘…」と何でもできる、このように新しい言葉の組み合わせがどんどんできる点では、漢語でも同じである。 いまは自動車全盛の時代で、「車」という漢字が一つあると、いろいろな種類の車がみな言えてしまう。新しい車は「新車」と言い、少し古くなった車は「中古車」、外国から来た車は「外車」、日本でできた車は「国産車」、向こうから来る車は「対向車」で、前を走っている車は「前車」という。こんなにいちいち単語を作っている民族はいないかもしれない。 この間ある宴会に行き、料理を食べた後に「ただいまゲイシャが参りました」と告げられた。みなさんは意味がおわかりになるかもしれない。しかしそうではなく、普通の男の人が立っているだけなのである。迎えの車のことを「迎車」と言うのだということがわかった。もっと奇抜だったのは、ある機械の製造会社から講演を頼まれたときのこと。その日になったら「ただいまソシャを差し向けました」と言う。何が来るのだろうと思った。「粗末な車」という言葉を作ったのである。 実際には立派な車が来たので、私は会社に着いてから、「本日は『豪車』でお出迎えをいただきました」と言った。通じたかどうかわからないが、そういうことが言えてしまう。「車間距離」などという短い言葉も日本語なればこそである。「駐車場は今日は満車だ」とも言える。こういった言葉をどんどん作り出す技術というのは世界で珍しいのではないだろうか。 一番困るのは私のように辞書を作っている人間で、例えば誰か親しい人が来て「息子が中学校に入りましたが、何かお奨めの国語の辞書を」と言われたとき、「私のをお使いください」とは言えない。「最後のページにある発行年月日を見て、一番最近出た辞書をお買いください」としか言えなくなる。こうしたことはほかの国ではまずおこらないだろう。新しい言葉がどんどん出てくる。カタカナの言葉もできる。日本語くらい新しい外国の言葉を輸入できる国は珍しいだろうと思う。それはつまり耳で聞いた印象をカタカナで書けば日本語になってしまうからである。こうしたことはどんどん増えていく。 中国なんかは大変である。中国にはカタカナにあたるものがなうから、ほかの国の言葉を自分の国に取り入れようとするとき、漢字を作るしかない。そこで昔は新しい漢字を作ったようだ。コーヒーは王偏に加と書いて「コー」と読み、王偏に非と書いて、「ヒー」と読んでいる。新しい字を作っていったのだが「葡萄」でも「琵琶」でもそうしてできた漢字だろうと思う。でもそれではとても追いつかなくなってしまった。 そこで何とか似た発音の字を組み合わせて作っている。「コカコーラ」は「可口可楽」でこれなんかは巧くできたが、「タクシー」は「的」という字と「士」という字を書く。これでは弓を射る侍みたいである。「カラオケ」なんかも妙な字を書いている。 p151~152<海ヘンの言葉> 8月ともなると、キラキラ光る海が恋しい季節になる。わが国は四方を海に囲まれているから、なおのこと海に親しむ気持ちが強いのかもしれない。 ところで漢和辞典を使うとき、字を構成するヘンとか部首で字を調べる仕組になっている。これでおもしろいと思うのは、革ヘンとかケモノヘンなど、牧畜に関するヘンがやたらに多いことだ。漢字が生まれたのは中国。牧畜が盛んで、革製品などをたくさん作った国だからこそだろう。「かわ」という字に「皮」と「革」というようにわざわざ二つの漢字を作ったことからも、いかにそうしたことに関心が深いかが知られる。 そこへいくと少ないのが、水に関する漢字だ。すべてをサンズイという一つのヘンで済ましてしまっている。これが日本だったら、おそらく海に関する言葉は海ヘン、川に関する言葉は川ヘン、そして水一般に関する言葉は水ヘンというように、細かく分類したことだろうと思う。 英語でも、この辺の分類はおおざっぱだ。sea hollyという名前があったので、私はてっきり海の中に育つヒイラギの形をした海藻だと思ったら、これは浜ヒイラギのこと。 sea anemoneというのはイソギンチャクのことで、こっちは海の中の生物のことである。日本語だったら、「浜なんとか」「海なんとか」と細かく分類して命名するはずである。例えば海ほうずき、浜えんどう、磯ぎんちゃくと名前を聞くだけで、それがどこに育つものであるかがいっぺんにわかる仕組みになっている。 また日本語では海の中にいる生物に関しても、詳しく名前をつけている。英語では、クラゲをジェリーフィッシュ、ヒトデをスターフィッシュと呼ぶ。なぜサカナ以外のものまでひとくくりにフィッシュにしてしまうのか。日本人の感性から言うと、首を傾げてしまうところだ。 お寿司屋さんに行くと、大きな湯呑み茶碗に、鰯、鯖、鮪、鮭、鯵、鰹と名前がざっと書かれているのを見ることがある。一つ一つのサカナに漢字、この場合は日本で作った和製漢字で国字というべきものだが、それをあてるほど、日本人のサカナに対する思いは深いのである。ウーム 大使の関心はどうしても、日中の文明対決に向いてしまうのです。『ホンモノの日本語を話していますか』1
2016.04.03
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図書館で中沢新一著『東方的』という本を手にしたが・・・・目次を見ると、多彩なテーマが並んでいて、何が語られるのか、興味深いのです。【東方的】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりボストークー東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前である。偉大なる叡智=ソフィアは、科学技術文明と近代資本主義が世界を覆い尽くす時こそが、真実の危機だと告げる。バルトーク、四次元、熊楠、マンダラ、シャーマニズム、製鉄技術、方言、映画とイヨマンテ…。多様なテーマで通底する「無意識」に、豊饒な叡智を探求する。<大使寸評>スラブ民族や熊楠曼荼羅など、果ては四次元的推論まで縦横無尽に書きつくす(あるいは書き散らす?)中沢さんの頭の中は、どうなっているのだろうと、驚いたのです。shogakukan東方的「映像のエティック」の続きです。p314~318<映像のエティック> さて、私たちに残された問題は「映画」です。映画、とくに今日の集まりのテーマである民族学的な映画は、イヨマンテの儀礼のような高度なエティックを主題としている人間のわざにたいして、どのような態度で振る舞い、どのようなかたちの「対話」を実現することができるだろうかという問題を、私たちは考えようとしていたのでした。(中略) イヨマンテの儀礼が進むにつれて、カメラの前にいるアイヌの人々の意識が、人間と人間、人間と自然とのあいだの「関係」というレベルを越えはじめてしまっていることに、映画カメラが気がつくきだしているのが、私たちにはよくわかります。解体した熊のからだを前にして神歌を歌っているアイヌの人々、その彼らの意識は、いったいどんな場所にむけられているのだろうか。熊のたましいが神々の世界に帰っていくその瞬間に、アイヌの人々がみつめている虚空とは、いったい何であり、どこなのだろう。 アイヌがみつめる、熊のたましいの帰っていくその「空」を撮影すれば、映画は何かを理解したことになるのだろうか。民族学映画は、このとき、自分がただの映画でしかないことに気づいて、うろたえ、失望を隠しきれないでいるのが、私たちにはよくわかります。 それほどに、この映画は誠実なのです。ドキュメンタリー映画として、商業的にも成功できるためには、ここで言葉によるコメントをかぶせることによって、カメラの無能を救うことはできるでしょう。ところが、この映画はそれを拒否するのです。それはたぶん、この映画をつくった人々が、自分のおこなっている行為の意味を、ごまかしのきかない地点まで、追いつめていってみたいという欲望をいだいているからなのだと思います。エストニアからの難民でもあった詩人メカスのアメリカへの入国には、エリア・カザンの『アメリカ、アメリカ』という映画を彷彿とさせるのです。p322~332<エピローグ 木のように、森のように> 君のこと、はっきりした政治的な動機をもって、このアメリカに亡命してきた人間だと長いこと思い込んできたけれど、どうやらそれはかいかぶりだったんだね。君はどっちかっていうと、亡命者じゃなくて、難民なんだ。でもだったらどうして、君は故郷のリトアニアを離れたあと、ニューヨークにやって来てこの街に住みつくようになったんだい。アメリカの友人が、メカスに鋭い質問をあびせる。それに対して、ただの偶然だったのさ、とメカスは答える。 それはまったくの偶然だったんだ。リトアニアを離れたあと、イスラエルへ行こうと思ったこともあるし、エジプトやオーストラリアのことが、頭にひらめいたこともある。でも、本当のことを言うと、どこでもよかったし、できたら自分の行き先を、自分の意思で決めたくないとさえ、思っていた。 その時、一人のアメリカ人と出会った。彼はシカゴの人間だと言い、あれよあれよという間に、アメリカに僕たち兄弟が行けるような書類を作ってくれたのさ。おまけに国連から船賃まで支給された。こうなれば、僕たちはもうアメリカに行くしかなくなった。 僕たちはシカゴにあるハケット・ベーカリーというパン屋への紹介状をかばんの中につめて、船に乗った。ところが、僕たちの乗った船は夜、ニューヨークに入港したんだ。そこで僕は、ニューヨークの灯を見てしまった。そして、たちまち計画を変更して、その街に居つくことに決めたんだよ。あの親切なシカゴの人には悪いことをしちまったけど、彼が振ってくれた偶然のサイコロの、偶然の極限までころがっていって、僕たちはニューヨークの灯を見てしまったんだ。だから、なにからなにまで、偶然なんだよ・・・・メカスは、ここでたぶん本当のことを、語っている。 偶然に、ドイツ兵によって発見された、反ナチ文書を印刷するための機械、偶然、線路のポイントが切り換えられて、ナチスのまっただ中へ進んでいってしまった列車。思いもかけなかったシカゴの親切なアメリカ人との出会い。ニューヨークへの夜の入港。すべてが偶然によって支配され、すべてが明確な動機づけを、欠いていた。メカスは「自由の国」の政治亡命者となったわけではない。彼はただ見ていただけだ。じっとあたりを見ていた。そして、偶然が彼をあのニューヨークの灯の前へと、連れ出して行ったのである。なんと誌的な、人生の転換ではないか。 ジョナス・メカスは政治亡命者ではない。自分から進んで、ドラマを生きようとしたわけではないからだ。メカスは、むしろ難民なのだ。物語りもなく、ドラマもなく、ただ偶然に巻き込まれ、その中で、じっと世界を見つめている。一人のリトアニア難民が、ジョナス・メカスなのである。(中略) ニューヨークを生活の場所に選んだメカスが、そののち作りだすことになった映画は、インディペンデント映画とか、個人映画と呼ばれることになった。ハリウッド的な文法を無視したところでつくられる、資金的にも上映においても、まったくプライベートな規模しかもたない映画が、メカスの活動を核として、たくさんつくりだされることになったのである。 彼がどうしてこのようなスタイルの映画にたどりつくことになったのか、そこにはさまざまな要素が関係している。でも、僕の見るところでは、瞬間のもつ絶対的な個別性ということにたいするメカスの特殊な感覚が、そこでは、いちばん大きな働きをしていたのではないか、と思えるのである。『東方的』1『東方的』2『東方的』3
2016.04.02
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図書館で中沢新一著『東方的』という本を手にしたが・・・・目次を見ると、多彩なテーマが並んでいて、何が語られるのか、興味深いのです。【東方的】中沢新一著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりボストークー東の方。人間を乗せた最初の宇宙船の名前である。偉大なる叡智=ソフィアは、科学技術文明と近代資本主義が世界を覆い尽くす時こそが、真実の危機だと告げる。バルトーク、四次元、熊楠、マンダラ、シャーマニズム、製鉄技術、方言、映画とイヨマンテ…。多様なテーマで通底する「無意識」に、豊饒な叡智を探求する。<大使寸評>スラブ民族や熊楠曼荼羅など、果ては四次元的推論まで縦横無尽に書きつくす(あるいは書き散らす?)中沢さんの頭の中は、どうなっているのだろうと、驚いたのです。shogakukan東方的宇宙船ボストークの壮挙をエマニュエル・レヴィナスが次のように語っています。p141~143<脳とマンダラ> ユーリ・ガガーリンを乗せた有人宇宙船ボストークが、人間をはじめて宇宙空間に送り出すことに成功し、そのとき宇宙から地球を見たガガーリンが、「地球は青かった」と語ったことは、あまりにも有名です。 人間が宇宙空間に出ていくことの意味については、その当時から、さまざまなことが語られてきました。おおかたの見解は、現代の科学技術によるその「壮挙」が、人類に新しいフロンティアを開いた、ということの意義を強調していました。つまり、それはコロンブスがアメリカ大陸を発見することによって、西欧世界のフロンティアがいっきに拡大することになったのと、同じような意味をもつ行為だ、とみられていたわけです。 人間という生物の条件はそのままで、その生存の空間領域が拡大していく、そういう拡大を科学技術が達成しつつあるのだ、というオプチュミズムが、この事件をとりまいていたように思われるのです。 ところがその当時すでに、この「壮挙」には、人類にとってそんなことよりももっと深い、哲学的ないしは神学的な意味がこめられていることを、鋭くみぬいていた1人のユダヤ思想家がいました。エマニュエル・レヴィナスです。 彼は、そのときつぎのように語りました。「1時間にわたって、人間はあらゆる地平の外に存在した・・・彼の周りではすべてが空だった。というより正確に言えば、すべてが幾何学的空間だった。ひとりの人間が均質空間の絶対性の中に生存したのだ」。 人間が宇宙空間に出ていくということには、フロンティアを拡大するたんなる冒険でもなければ、宇宙空間についての科学的な知識が増すということでもない、もっと別な意味がかくされているのだ、と彼はここで語っています。 それは、人類がいままでその中で生き、進化をとげ、歴史をつくってきた、地球という「大地」から離脱して、均質空間の絶対性の中に踏み込んでいこうとする、大きな曲がり角を象徴している出来事だ、と言うのです。 これから、人類はどんどんと、そういう「大地」を離れ、「場所」からの開放をはたしていくことになるだろう。しかし、そのとき人類が踏み込んでいくことになるのは、いままで彼が生きてきた世界と同じなりたちをした「場所」ではなく、幾何学的な構造をした、均質絶対空間なのであり、そこでは、「人間」という言葉さえ、いままでとは同じ意味をもちえなくなるであろう。そういう新しいホリゾントを、人類はついに開いてしまったのだ。そう、レヴィナスは、語っているのです。大使のツボともいえるドキュメンタリー映画ですが、その倫理が語られています。p286~288<映像のエティック> ドキュメンタリー映画は、どんな場合でも、他者との向かいあいを体験しなければなりません。映画に撮られる人たちと、どんな親密な関係をつくりあげることができ、おたがいのあいだに信頼の感情が芽生えたとしても、映画を撮るという行為そのものは、けっしてナイーブなものではないので、そこには他者との向かいあい、という事態がおこらざるをえません。 カメラを回す人間は、多少の居心地の悪さをがまんしさえすれば、他者との関係などという問題にかかずらわることなく、記録映画をつくりあげることはできるでしょう。しかし、映像はこの点にかんしては、嘘をつくのが下手です。記録映画をみている人は、記録されている民族学的な事実だけではなく、そこに実現されている「関係性」というのを、じつにシャープに感じとってしまうものです。 カメラはその場に起こっていることを客観的に記録する機械ですから、映画を撮るものと撮られるものとの関係は、ふたりの間にカメラを挿入されることによって、たちどころに距離をつくりだします。どんな対象に共感を抱いていようとも、それを映像に記録しようという人は、もうそれだけで、状況にたいしては、ナイーブでいられなくなってしまうのです。 民族学映画の場合には、その関係が、もっとシャープになってしまいます。高度テクノロジーのつくりだしたカメラを手にして、人類学や民族学のような知の近代システムで装備した頭をもって、伝統的な生活や習慣をおこなっている人々の前に出ていっただけで、もうそこには、ちょっとやそっとでごまかしのきかない、非対称な関係があらわなものとなってしまうからです。 ですから、民族学映画に関心をもった人たちの間では、つねにこの「礼儀」の問題が意識されていたような気がします。今日は私は、礼儀とは何か、映画のエティックとは何か、という問題について、できるかぎり原理的なところからお話してみることによって、私たちの共通の関心である、礼儀正しい民族学的映画などというものが可能なのかという問題に、すこしでも迫ってみたいと思うのです。 それに、今日ここで上映されたのがアイヌ民族の熊送りの儀礼をあつかった『イヨマンテ―熊おくり』だということも、私が映像のエティック(倫理)の問題をテーマに選んだことと、深い関係があるのです。 イヨマンテの儀礼において、アイヌの人々は、もともと目で見ることはできない人間と神、人間と自然のエティカルな関係を、目に見えるかたちにして示そうとしているように思われます。アイヌの人々は、ひとつの儀式を演じようとしています。人々は神に語りかけ、神のもとに熊のたましいが送りかえされていく光景を、ありありと「見よう」とするのです。 それをつうじて、アイヌの人々はスピリチュアルな「関係」を、すこしでも目に見えるかたちにしようとしているわけですから、ここでは言葉によらない霊的な表現がおこなわれていたのだ、ということがわかります。ところで、先日『牡蠣工場』というドキュメンタリー映画を観たのだが・・・撮られる人たちに対して監督から払われた礼儀というものが、感じられたのです。『東方的』1『東方的』2
2016.04.02
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・バラカ・ゴヂラ***************************************************************【バラカ】バラカより<震災の暗黒郷を描き、時代を照らし出す:原武史(明治学院大学教授・政治思想史)> あの日の震災で、福島第一原発がすべて爆発した。東京は避難勧告地域に指定されて住民は西に逃げた。首都機能は大阪に移り、天皇も京都御所に移住した。2020年のオリンピックは大阪に開催地が変更された。震災から8年がたち、放射線量が下がってもまだ住民の半分以上が戻らず、東京の空き家では地方から来た若い日本人や外国人労働者がルームシェアしながら住んでいる。 もちろん、これは現実の出来事ではない。だが桐野夏生の手にかかると、架空のはずの小説が禍々しい現実感をもって読者の前に立ち現れる。これまでもそうした作風で、あり得たかもしれない現実を鋭くあぶり出す小説を世に問うてきた著者が、ついにあの震災をテーマとする長編小説に挑んだのが本書である。 タイトルの「バラカ」は、震災後に警戒区域で発見された一人の少女の名前を意味する。日系ブラジル人として生まれながら、中東のドバイで人身売買により日本人夫妻の子とされたバラカは、東京で震災にあい、被曝して甲状腺がんの手術を受ける。そして日本各地を転々とするうち、自分たちの運動のシンボルとして利用しようとする原発推進派や反原発派と次々に遭遇する。こうしていつしか原発をめぐる生々しい政治の渦中に巻き込まれてゆく。 興味深いのは、日本という国家自体が西日本と東日本に事実上分断されていることだ。西日本は大阪を首都として震災前の国家を維持しているのに対して、東日本は震災であたかも別の国家のようになった。ここには、震災後も東京一極集中が強まり、東京でオリンピックまで開かれようとしている現在の日本に対する強烈な批判が込められている。 関係者が相次いで消えてゆくなか、バラカはさまざまな人間の欲望や権力の網をくぐり抜け、強靱に生きようとする。エピローグでは、国家の周縁に当たる北海道の東端でようやく安住の地を見つけたバラカの姿が描かれる。 古来、洋の東西を問わず、思想家はあるべき政治や社会の理想像を語ってきた。だが桐野夏生は、ユートピアではなく、ディストピア(暗黒郷)を徹底して描こうとする。一見正反対なその手法は、現実を逆照射する点で、思想家に通じるものがあると思う。 かつては松本清張の推理小説が現実との鋭い緊張関係を保っていた。清張が昭和という時代を照らし出す小説家だったとすれば、桐野夏生もまた平成という時代を照らし出す小説家といえる。すぐれた小説家は同時にすぐれた思想家でもある。小説をフィクションとしか見なそうとしない学者にこそ読んでほしい一冊である。 ◇桐野夏生著、集英社、2016年刊<「BOOK」データベース>より震災のため原発4基がすべて爆発した!警戒区域で発見された一人の少女「バラカ」。ありえたかもしれない日本で、世界で蠢く男と女、その愛と憎悪。想像を遙かに超えるスケールで描かれるノンストップ・ダーク・ロマン!<読む前の大使寸評>怒りの桐野、感度良好やで♪この本は神戸市の図書館はまだ未購入なので、購入あり次第に借出し予約の予定です。rakutenバラカ【ゴヂラ】ゴヂラより<ハリウッド製黒船に一矢:ドングリ大使(映画評論)>アナ雪やベイマックスなど、このところのハリウッド攻勢に危機感を覚える大使である。新自由主義で第二の敗戦を味わったニッポンは、ハリウッド攻勢で第三の敗戦をこうむるのか?ここはやはりゴジラの登板で、一矢むくいる必要がありまんな。大使の鬱憤をはらすようなゴジラ映画『シン・ゴジラ』が企画され、7月末公開の予定だそうです。さて、高橋さんの『ゴヂラ』である。新聞を見ると、南シナ海とか戦争法案とか児童虐待とか、体によくないニュースが溢れているわけで・・・・その点、この本は喜劇調の短編小説集なので、息抜きには最適でおます。高橋さんは文学論、小説、論壇時評とマルチ・タレントを発揮しているが・・・朝日新聞の「論壇時評」のアンカーマンをこの3月31日をもって、降板したのです。4年間の連載、ご苦労さんでおました。今後は本来の文学あたりに注力するようですが…この『ゴヂラ』を読むと、やっぱり小説が本業ではないか、と思ったりしたのです。…と、エイプリールフール版の書評でした♪ ◇高橋源一郎著、新潮社、2001年刊<「BOOK」データベース>より最近、どうもおかしい。世界全体が変なんだ。石神井公園の町に閉じこめられてしまった詩人。駅前で悪人募集のビラを撒いてる『影の総裁』。「正義の味方」をやってる作家のタカハシさん。“いけないこと”を唆す、本物の漱石と鴎外。でも、ゴヂラはなかなか現れない。いつになったらゴヂラは出て来る?どうしてゴジラでなく、ゴヂラなのか?謎を解きたくて、秘密を知りたければあいつの正体を突き止めるしかない。世界の秘密がわかってしまう、同時多発小説。<大使寸評>追って記入rakutenゴヂラ**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から86
2016.04.01
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「報道特集」キャスターの金平さんがインタビューで「開かれた空気消え強まる同調圧力」と説いているので、紹介します。(金平さんへのインタビューを3/30デジタル朝日から転記しました)NHK、TBS、テレビ朝日の看板キャスターがこの春、相次いで交代する。そんななか、高市早苗総務相による放送法違反を理由とした「停波」発言も飛び出した。テレビ局の報道現場でいま、何が起きているのか。TBS「報道特集」キャスターの金平茂紀さんに話を聞いた。Q:テレビの報道ニュース番組が偏向している、という声が出ています。安保法制の報道を巡り、昨年11月読売新聞と産経新聞に掲載された「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告では、TBSの番組「NEWS23」が名指しで批判されました。A:だれが偏向だと判断するんですか。お上ですか、政治家ですか。日々の報道が公正中立かどうかを彼らが判断できるとは思わないし、正解もない。歴史という時間軸も考慮しながら、社会全体で考えていくしかないでしょう。議論があまりにも粗雑過ぎます。Q:偏向を指摘された番組アンカーの岸井成格さんが「NEWS23」から降板しました。A:NHKの国谷裕子さん、テレビ朝日の古舘伊知郎さんもこの春、降板します。僕も記者ですから取材しました。3人とも事情は違うし、納得の度合いも違う。一緒くたに論じるのは乱暴すぎます。安倍政権の圧力に屈したという単純な構図ではない。しかし、報道番組の顔が同時にこれほど代わるというのは単なる偶然では片づけられません。Q:本当に圧力とは関係ないのですか。A:会社は『関係ない』と説明しています。岸井さんも『圧力はなかった』と記者会見で発言しました。しかし、もし、視聴者のみなさんが納得していないとすれば、反省しなければなりません。Q:金平さん自身、3月31日付で執行役員を退任されます。何かあったのでしょうか。A:会社の人事ですから、その質問をする相手は、僕ではなく、会社でしょう。事実として残るのは、TBSで最も長く記者をしてきた人間の肩書が変わったということです。いずれにせよ僕は、どのような肩書であろうが、なかろうが、くたばるまで現場で取材を続けるだけですが。Q:政治、とりわけ自民党による放送番組に対する圧力は歴史的に繰り返されてきました。A:1967年7月、TBSの報道番組『ニュースコープ』のキャスターだった田英夫さん(故人)が、北ベトナムに日本のテレビとして初めて入りました。ベトナム戦争で、米国に爆撃されている側からリポートするためです。 その取材をもとに特別番組を放送したのですが、放送行政に影響力を持つ、いわゆる『電波族』の橋本登美三郎・自民党総務会長が、当時のTBS社長に『なぜ、田君にあんな放送をさせたのか』とクレームをつけた。さまざまな経緯の末、田さんは実質的に解任され、社を去りました。田さんの報道は、当時は反米・偏向だと政権ににらまれたのかもしれません。が、ベトナム戦争がたどった経過を考えれば、事実を伝えたとして評価されこそすれ、偏向だと批判されるいわれはありません。Q:当時、TBS社内は、田さん降ろしに抵抗したと聞いています。岸井さんの件でいま、社内はどうなのでしょうか。A:おおっぴらに議論するという空気がなくなってしまったと正直思いますね。痛感するのは、組織の中の過剰な同調圧力です。萎縮したり、忖度(そんたく)したり、自主規制したり、面倒なことを起こしたくないという、事なかれ主義が広がっている。若い人たちはそういう空気の変化に敏感です。Q:同調圧力ですか?A:記者一人ひとりが『内面の自由』を持っているのに、記事を書く前から社論に逆らってはいけないという意識が働いている。それが広く企業ジャーナリズムの中に蔓延している。権力を監視する番犬『ウォッチドッグ』であることがジャーナリズムの最大の役割です。 しかし現実には記者のほうから政治家や役人にクンクンすり寄り、おいしい餌、俗に言う特ダネをあさっている。こんな愛玩犬が記者の多数を占めれば、それはジャーナリズムではない。かまない犬、ほえない犬に、なぜだといっても『僕らはほえないようにしつけられてきた。かみつくと損になるでしょ。そう教えられてきた』。そんな反応が現場の記者から返ってくるわけです。Q:報道の現場は深刻ですね。A:ジャーナリズム精神の継承に失敗した責任を痛感しています。僕自身も含め、過去を学び、やり直さないといけない。安保法制、沖縄の基地問題、歴史認識や福島第一原発事故など、僕らの国のテレビは独立・自立した存在として、報じるべきことを報じているのか。自責、自戒の念がわきあがってきます。 戦争の翼賛体制下でメディアは何をしてきたのか。放送も新聞も権力の言いなりとなり、国策と一体化した報道をやった『前歴』がある。戦後、その反省に立ち、放送局は政治権力から独立し、国家が番組内容に介入してはならぬ、という精神で放送法が生まれた。 電波は国民のものであり、自主・自律・独立でやっていく。放送の原点です。ところが、政権側には、電波はお上のものであり、放送局を法律で取り締まるという逆立ちした感覚しかありません。Q:高市早苗総務相が放送法の規定をもとに、放送の内容によっては「電波停止もあり得る」と発言しています。当事者であるテレビ局の報道に迫力を感じません。A:僕はニュース価値があると思って担当の番組で発言しました。ところが、発言があったこと自体に触れないテレビ局もあった。自分たちの生命線にかかわる話なのに、ニュースとして取り上げない。えっ、どうしてなんだろうと思いましたね。テレビ朝日の『報道ステーション』やTBSの『NEWS23』『サンデーモーニング』はこの発言の持つ意味も含めて報道していました。 先日、田原総一朗さんや岸井さんらと記者会見しました。他局のキャスター仲間何人かに声をかけたのですが、参加者はあれだけというのが現実です。それでも、誰ひとり声を上げずにいて、政治権力から『やっぱり黙っている連中なんだ』なんて思われたくはないのです。こういう社外からの取材をリスクをおかしながら受けているのもそのためです。 一昨年の総選挙の前に、自民党が選挙報道の『公平中立』を求める文書をテレビ各局に送りつける、という『事件』もありました。そのこと自体が僕の感覚ではニュースです。でも社内の会議で話題にはなってもニュースとしては扱わない。危機管理ばかりが組織で優先され、やっかいごとはやりたくないということになる。僕はそれが耐えられなかったから、担当の番組でコピーを示し、こういう文書が送りつけられたと伝えた。中には『あんなことをやりやがって』と思っている人もいるかもしれませんが。Q:危機管理優先がジャーナリズムの勢いをそいでいます。A:朝日新聞がそうですね。とりあえず違う意見も載せておこうと、多様な意見を紹介するとのお題目で両論併記主義が広がっていませんか。積極的に論争を提起するのではなく、最初から先回りし、文句を言われた時のために、『バランスをとっています』と言い訳ができるようにする。防御的な発想ではないですか。Q:「NEWS23」の初代キャスターだった筑紫哲也さん(故人)とは長い間、一緒に仕事をされたそうですね。A:2008年3月、筑紫さん最後の出演で語った言葉が忘れられません。『大きな権力を持っている者に対して監視の役を果たす』『少数派であることを恐れない』『多様な意見を提示し、社会に自由の気風を保つ』。筑紫さんは、この3点を『NEWS23のDNAだ』と遺言のように語って、逝きました。それがいま、メディアに携わる人たちに共有されているのかどうか。責任を感じています。Q:記者の原点を忘れ、組織の論理に流されてしまっている自分自身に気づくことがあります。A:記者の仕事は孤独な作業です。最後は個ですから。過剰に組織の論理に流れ、全体の空気を読んで個を殺していくのは、記者本来の姿ではありません。それでも一人ひとりの記者たちが、会社の壁を越え、つながっていくこともできる。声を上げるには覚悟がいるけども、それを見ている次の世代が、やがて引き継いでくれるかもしれない。萎縮せず、理不尽な物事にきちんとものを言う若い仲間たちが実際に育ってきているのをつい最近も目撃しました。 『報道なんてこんなもの』とか、『視聴者や読者はそんなもん求めてねえよ』と、シニシズム(冷笑主義)に逃げ込んではいけません。僕らの仕事は、市民の知る権利に応えるためにあるのです。報道に対する市民の目が厳しい今だからこそ、一番の根本のところを考えてほしいと思います。(聞き手=編集委員・豊秀一) ◇金平茂紀:53年生まれ。77年TBS入社。モスクワ、ワシントン両支局長、報道局長などをへて、執行役員。04年度「ボーン・上田記念国際記者賞」受賞。ところで、31日の報道ステーションで、古館さんの降板挨拶がありました。降板の背景に「会社からの圧力はなく、自己都合である」と言っていたが…真相はわかりません。でもニュースに関して、主観を入れて語るスタイルは、ミスはないがのっぺりとしたNHKより格段に面白いのは確かでした。長い間の登板、お疲れさんでした。テレビ報道の現場金平キャスター2015.6.30 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
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