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次に訪ねたのが「長樂寺」。平塚市札場町15−42。寺号標石「高野山 真言宗 海詠山 長樂寺」。側面には「高野山開創千二百記念 令和三年十二月吉日 智運 代」と記されていた。昨年、新装なった見事なそして巨大な白木造りの「楼門」。「楼門」とは二階造りの門。現在では、下層に屋根のある門を二重門と呼ぶのに対して、特に、下層に屋根のない二階造りの門を言う。上層は切妻造りの屋根をかけ、二階の縁には高欄が取り付く構造となっていた。「楼門」の扁額は青字で「長樂寺」。左右の「間」には、未だ何も安置されていなかったが、いずれは金剛力士立像等が安置されるのであろうか?「楼門」を潜り、境内に入ると正面にこれも新装なった「本堂」が。「長樂寺」のHPによると「第2次世界大戦末期の空襲による焼失後、長楽寺は伽藍再興の機会に恵まれないまま戦後60余年の時が過ぎました。しかし復興を望む檀信徒の熱意が実り、平成20年(2008)、本山•高野山の推挙により新住職を招聘。同時に「平成の大復興事業」に着手しました。新たな本堂である「金堂」、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」、住職の住居となる「庫裡」などの建設が進められ、ついに平成24年(2012)に完成しました。」と。「本堂」の扁額は山号「海詠山(かいえいさん)」。賽銭箱には「五三の桐紋」と「左三つ巴紋」が。内陣。本尊は「薬師瑠璃光如来像」。「本堂」の「海老虹梁」を見る。「海詠山長楽寺 縁起」。「海詠山長楽寺 ーーー 縁起海詠山長楽寺は、高野山真言宗の寺院であります。江戸時代後期に編纂された。「新編相模国風土記稿」によれば、長楽寺は紀伊国(和歌山県)高野山の直末寺であり、薬師瑠璃光如来を本尊とし真言宗寺院として大いに栄え、十三ヶ寺の末寺を配し三島神社の別当も務めたとされます。また、関東壇林の一つとして教学盛んな一大教場をなしたとされる相模国の古刹であります。かつて、真言密教の開祖弘法大師空海が関東、東北地方へ巡錫の旅に出られた際、伊豆国修善寺より船で相模川の下流地、須賀湊に上陸され現在の長楽寺の地に最初に滞在されたとの史記もあります。開山は文治元年(1185)頃、僧鎮海が草庵を建て海詠庵と称し住居したことに始まり、その後、建保三年(1216)に、僧朝秀が中興し庵号を海詠山としました。それより約八百年間、栄枯盛衰の年月を経て様々な出来事も多々あったと思われますが、昭和二十年の太平洋戦争による戦災で、塔堂伽藍を焼失したことが悔まれ、現在では、かつての面影は殆ど残されていません。境内には戦災を逃れた地蔵堂や貴重な石仏や石塔が残されています。正面の本堂や庫裏は、平成二十年より進められた、長楽寺平成の大復興計画の一環で、六十七年ぶりに建立されました。本堂の須弥壇には、薬師瑠璃光如来を本尊とし、脇侍に日光、月光菩薩と、それを守護する薬師十二神将が奉安されています。〇 長楽寺年中行事 一月七日 七草会 七草粥で人日(じんじつ)の節句を祝い、邪気をお払いいたします。 一月二十一日 初大師 護摩供養 弘法大師さまが御入定された三月二十一日にちなみ、新春最初の正当日を偲 び、御供養をいたします。 三月十七日 ~ 二十三日 春季彼岸会 春分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。 三月二十一日 弘法大師御影供 弘法大師さま御入定日で正御影供と称します。当山では御大師の遺徳を偲び 報恩を棒げ、御供養をいたします。 八月八日 施餓鬼供養 餓鬼道に苦しむ餓鬼や有縁無縁の仏、精霊など、三界万霊に施しの法要を修 します。 八月十三日 ~ 十六日 孟蘭盆会 衆僧は施主の七世父母や祖霊の為に法要を修し、功徳の力で、苦をお救いい たします。 九月十九日 ~ 二十五日 秋季彼岸会 秋分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。」「本堂」を斜めから。左手にあったのが、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」。境内の右側には、左に「三界萬霊塔」そしてその右には石碑群が。一番右の石碑・「山口福太郎君之碑」、明治三十九年五月。以下、くずし字の師匠・高校時代の学友女史が現地出向し、解読して下さいました。「藤田定五郎君之碑」、明治四十二年十月。明治四十一年韓国事變殉難者 陸軍歩兵二等卒勲八等旭日章 藤田定五郎氏の慰霊碑。線刻画・観音菩薩が刻まれた石碑。こちらも現地に駆けつけてくれた師匠から。「為田中八 重長女静 枝両霊菩 提奉刻観 世音菩薩 以弔其霊」田中八重、長女静枝両霊の菩提のため、観世音菩薩を奉刻し、以ってその霊を弔う。」と。「碑裏の記事によると、八重さん25歳、長女静枝ちゃん5歳。同日に亡くなったようです。昭和7年6月ですが、何があったんでしょう?」とも師匠から。庚申塔群。「三猿庚申塔」。不見不言不聞の三猿像が大きく刻まれた貞享4年(1687)造立の庚申塔。青面金剛をあらわす梵字「樺(ウーン)」を頂点に、三猿をピラミッド型に配置するなど、ニ段に三尊形式に浮彫されている市内唯一の庚申塔でとのこと。「六臂青面金剛像」。4基の庚申塔のうち、左端にある両脇にニ猿を従えた青面金剛庚申塔は、造立年代は不詳ですが、湘南地区における17世紀中葉の民間信仰のあり方と、青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として全国に定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石造物です。これと同じ像容の塔は、平塚2基、茅ヶ崎3基、寒川1基、藤沢1基とこの地域に限って計7基存在し、ほぼ同時期に造立されていることが確認されており、いすれも神奈川県指定重要文化財で全国的にも珍しい庚申塔であるとのこと。「六臂青面金剛像」。これが神奈川県指定有形民族文化財指定の「四臂青面金剛像」。「神奈川県指定有形民族文化財長楽寺の庚申塔 一基 平成十八年二月十四日指定この石塔は、光背型塔で刻像は四臂青面金剛と二猿で、青面金剛の四臂の持物は右上手に剣、右下手に宝棒、左上手に三叉戟、左下手に索を持ち、頭には三股冠とともに怒髪様のものを刻む。左右の二猿は両膝を立てて正面を向いて座り、右猿は手を膝の上におき、左猿は膝上で手を結ぶ。紀年銘は持たないが四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、神奈川県内に他に六基あり、市内大島の正福寺、寒川町大曲の下大曲神社、茅ヶ崎市甘沼の八幡大神、行谷の金山神社、十間坂の神明宮、藤沢市遠藤の御嶽大神に残っている。これらは承応二年(一六五三)から明暦四年(一六五八)に建立されていることから同時期に建立されたと考えられる。刻銘は台部にあって、「片倉[ ]母 為妙□逆修也」など、人名および「逆修也」の刻銘が並んでいる。このことから逆修供養の為に造立されたことがうかがえ、十七世紀には庚申信仰が死後救済の信仰と結びつき広がったと考えられる。神奈川県内にある四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、全国で青面金剛を刻像した最初期の石塔であり、特に金山神社の庚申塔は庚申供養と刻印された青面金剛像庚申塔では最古のものである。湘南地区における十七世紀中葉の民間信仰のあり方と、全国に青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石塔である。(台部右面) 片倉[ ]母 為妙□逆修也 (台部正面) □妙□逆修也 □鈴木[ ] □ 妙正逆修也 [ ] 妙[ ]修也 □神保 [ ] 為□逆修也 [ ] 為梅 [ ] [ ] [ ] 逆修也 [ ] 為妙□逆修也」 [ ](台部左面) 為妙□逆修□ [ ]逆修也 平成一九年一月 平塚市教育委員会]左端に立つ関東「大震災殃死者供養塔」は、当時の須馬村で亡くなられた方々の三回忌に当たって大正14年(1925)に造立されたもの。塔正面頂部には梵字で大日如来の報身真言と光明真言が、側面には亡くなられた75名の氏名が刻まれていた。石碑群を左側から見る。後列に配置されている2基の「大日如来坐像」。造立年代は不詳だが、何れも宝冠部に胎蔵界五仏を表す梵字が刻されており、金剛界を表す智拳印を結んでいる。先の大戦時に火を蒙ったのか、石肌が黒っぽく変色しているが、長年の風雨に耐えて今なお完全な姿を残しているのだ と。「三界萬霊塔」。永代供養墓 三界萬霊■ お墓の跡継ぎがいない方■ 先々のご供養が心配な方 当寺が永代にわたってご供養いたします。 詳細はお寺までお問い合わせ下さい。 長楽寺「三界萬霊」。三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すようです。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指す と。反対側は塔内への入口となっていた。八角形の台座には六地蔵が線刻されていた。仏教には六道(ろくどう・りくどう)という考えがあり、生きているときの善悪の行いによって地獄道、畜生道、餓鬼道、修羅道、人間道、天道の世界を輪廻転生するといわれています。そしてそれぞれの世界には衆生(しゅじょう)の救済をしてくれる地蔵菩薩がいらっしゃる反時計回りに「日光地蔵」・天道を救う。「除蓋障(じょがいしょう)地蔵」・人間道を救う。「持地(じじ)地蔵」・修羅道を救う。「宝印地蔵」・畜生道を救う。「宝珠地蔵」・餓鬼道を救う。「檀陀(だんだ)地蔵」・地獄道を救う。「金剛閣」の屋根には「宝珠」が。「宝珠」を得るとどんな願いもかない、欲しいと思っている宝物を作り出すといわれている。宝珠は、すべての海水と魚を飲みこんでしまうといわれるインドの伝説の怪魚マカラの体内や、龍神の脳から出たとも言われているのだと。「三界萬霊塔」の横・西にあった「護摩堂」。扁額「護摩堂」。「湘南ひらつか 七福神めぐり」案内。長楽寺・・・寿老尊(じゅろうそん) 寿老尊は星座の「カノーブス」という星が「寿星」と呼ばれていてその星が人格化したも のといわれています。 この星は地平線すれすれにあって、まれにしか見られないため、世の中が平和な時だけに 出現するおめでたい星として信じられています。無病息災・子孫繁栄・家業繁昌・交通安 全・心願成就などの様々な福徳を授けてくれる神様として信仰されています。七福神と秋の七草 秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴 朝貌(あさがお:ききょう)の花」という和歌を詠んだことから 生まれたとされています。 湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植栽・育成中です。長楽寺の七草 女郎花(おみなえし) オミナエシ科の多年草 花期 8~10月 「おみなえし」とは、名前の由来に諸説あり、オミナ(女)、ヘシ(圧)で美女を圧倒するという 意味と、黄色い花がアワに似ているため別名粟花(アワバナ)とも呼ぶ、粟の入ったご飯を 「女飯(オンナメシ)」と言い、それが変化したという説があります。 秋の初めには1mくらいの背丈に伸び、黄色の小さな花を咲かせると、風に乗ってゆらゆらと そよぐ姿がとても風流です。「湘南ひらつか 七福神 壽老尊」。お顔をズームして。内陣にも木造の壽老尊が鎮座。ズームして。「本堂」の裏には広大な墓地が拡がっていた。「本堂」の回廊から「金剛閣」を。「金剛閣」入口。再び「三界萬霊塔」とその右の石碑群を見る。「護摩堂」と「三界萬霊塔」。境内から「楼門」を見る。御朱印を頂きました。「軒丸瓦」にも「五三の桐紋」が。細い巴紋が囲んでいるようにも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.30
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次に訪ねたのは「経王南町稲荷」であったが、その途中右側にあったのが「長谷金本店」。平塚市千石河岸24−8。「花かつお製造元 長谷金本店」。店内を覗いて見た。花かつお製造元で、湘南ひらつか名産品「七夕ふりかけ」で知られる創業百余年・明治34年創業の老舗乾物店、長谷金本店。人気の「花かつお(花鰹)」。そして隣にあったのが「正一位經王南町稲荷」。社号標石「正一位經王南町稲荷」。この石碑には「道祖神」?と刻まれているようであった。「正一位經王南町稲荷」の社。内陣の祭壇の扉は閉まっていた。「正一位經王南町稲荷」を後にして、千石河岸の住宅街を北西に向かって進む。右手に次の目的地の「海宝寺」の山門が姿を現した。三本の筋塀(すじべい)に挟まれて山門の姿が。筋塀とは、古来の日本建築における土塀の一種で、定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀を指す。元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を引いたのが始まり。そこから、定規筋の数が寺の格式を示すようになり、5本線が最高格式を表すものとなった と。「山門」、その先の「本堂」を正面から。平塚市幸町26−21。寺号標石「常圓山 海寶寺」。山門の扁額は山号の「常圓山」。正面に大きなRC造りの「本堂」。浄土宗寺院の海寳寺は、常圓山智光院と号す。海寳寺は、天正7年(1579)に創建、城蓮社厳譽貞雲(慶長19年1614寂)が開山したと。明治維新後の明治7年には須賀小学校として供用されていた。相模新四国三十三観音霊場16番。左手には巨大な墓地が拡がっていた。山門を入り右側には「本堂」に向かって立つ「聖観音」像が。お顔をズームして。「聖観音延命十句観音経 觀世音 (かんぜおん)南無佛 (仏に南無したてまつる)與佛有因 (仏と因あり)與佛有縁 (仏と縁あり)佛法增縁 (仏法僧により)常楽我浄 (常・楽・我・浄の四徳を得ん)朝念觀世音 (朝な朝なに観世音を念じ)暮念觀世音 (夕な夕なに観世音を念じ)念々從心起 (念々、心より起こり)念々不離心 (念々、心を離れず)」上の十句から成り立っている観音経である。「無縁塔」であっただろうか?頂きには石仏が。地蔵菩薩像。「須賀小学校跡」碑。「港小学校のあゆみ明治 七年(1874) 五月 崇善館第一支校と称し、海寶寺本堂を仮校舎として開校。明治十五年(1882) 十一月 寺町に新校舎が完成。須賀村立須賀小学校と改称、大住郡内の 模範校として注目を浴びる。大正十年 (1921) 四月 校舎増築、工費全額村民の寄付で賄う。大正十二年(1923) 九月 関東大震災で校舎倒壊、三嶋神社境内にて授業を再開。大正十五年(1926) 九月 須賀千三百八十八番地に移転し、新校舎が落成。昭和七年 (1932) 四月 市制施行により平塚市平塚第二尋常小学校と改称。昭和十六年(1941) 四月 平塚市第二国民学校と改称。昭和二十年(1945) 七月 戦災により全校舎焼失、青空教室実施。 十月 元海軍分工場工員寮に移転。昭和二十二年(1947) 十月 平塚市立港小学校と改称。昭和二十五年(1950) 十月 現在地(夕日ケ丘二十二番一号)に新校舎落成、現在にいたる。 平塚市立港小学校開校百三十周年記念碑の建立にあわせ、この説明板を設置しました。 平成十七年(二〇〇五年)三月 平塚市」山門を入ると左側にも石仏が並んでいた。台座には「南無馬頭観世音」と。三面六臂の「南無馬頭観世音像」。左の地蔵菩薩像。右には青面金剛像が。一面四臂像、下部には三猿が。その右にあった碑には「太田貞市氏を偲びて大人(たいじん)の 遺徳さながら 伝ふ可(か)に 相模の海の 波音(なみおと)は冴ゆ 島津秋圃」と。太田貞市氏は日本電力㈱平塚営業所長を務めた人物か?日本電力㈱は、太平洋戦争前に存在した日本の電力会社。日本発送電が設立されるまでの五大電力会社(東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力)の一つだったとのことであるが。「要塞砲兵鳥海元次郎墓」と。要塞砲兵は陸軍の兵科区分の一種。各種の火砲を用いて敵を攻撃、制圧し,歩兵や戦車兵の戦闘を助ける役目を果す。砲兵は、戦闘場所を基準に野戦砲兵と要塞砲兵に、火砲の口径と用法によって山砲兵、野砲兵、重砲兵に、また特殊な用法を基準にして海岸砲兵、攻城砲兵、高射砲兵、対戦車砲兵などに区別される とネットから。この後訪ねた「三嶋神社」の「忠魂碑」の裏には「明治二十七八年日清戦役殉難者 陸軍砲兵二等卒 鳥海元次郎」とあったが、この方なのであろう。奥には扉のついた立派な小幡家の墓地。大きな五輪塔が。そして本堂手前の左側には、大きな石塔6基が並んでいた。これらはすべて関東大震災で倒壊し、一部は境内に仮置きされていたものを修復し、 石造物の各部を補修し 、刻銘も彫り直し、現在のような石塔群に整備されたのだと 。この石塔群の周囲は、低い壁で囲まれており、お盆にはここに水を張り灯籠流しが行われる と。「宝塔(年代不詳)」「常圓山 觀譽 十六?㔺」と。「万霊塔(明治4年・1871年)」諸上善人、倶会一處(しょうじょうぜんにん、くえいっしょ)善き者たちと極楽浄土の同一處において会うことができる と。「徳本名号塔(文化14年・1817年)」「南無阿弥陀佛」と。徳本上人独特の筆跡の名号と署名、花押が刻まれていると。『徳本行者全集』の中に、上人が同年10月26日海宝寺に宿泊され、翌朝名号塔に開眼供養したとの記述があるが、この塔のことであろう と。「阿弥陀三尊像(元禄4年・1691年)」。こちらも「名号塔(天和4年・1684年)」。「南無阿弥陀佛」と。「經塚(文政7年・1824年)」。振り返って。境内奥から山門方向を振り返る。再び「本堂」前から。海寳寺は、天正7年(1579)に創建、城蓮社厳譽貞雲(慶長19年1614寂)が開山したと。扁額「海宝寺」。本堂内。祭壇。御本尊は阿弥陀如来。見事な本堂内の装飾。賽銭箱には「三つ鱗紋」が。この寺の起源は天正七年(1579年)、小田原の北条氏出身の貞雲の開山と言われている。蟇股の装飾。天水桶にも三つ鱗紋が。境内にあった大きな「宝篋印塔」。「南無阿弥陀佛 寛永三年三月廿日 崇誉源四禅定門 化名清田右近」と刻まれていた。客殿か?寺務所か?御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.29
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相模川右岸堤防下に立つ案内板には「須賀湊の碑 70m」と。これから訪ねる「朝霞河畔緑地」を見下ろす。入口左にあった建物は「馬入橋水質観測所」であった。「馬入橋水質観測所この観測所では常時自動的に水位及び水質を測定しています。その結果はテレメーターにより送信されており、洪水時の水防警報及び水質の常時監視に役立てられております。相模川において重油の流出など水質異常を発見した場合は、下記に御連絡下さい。」「朝霞河畔緑地」の相模川寄りには石碑が。近づいて。「平塚八景 湘南潮来」碑。「相模川八景 湘南潮来と河口」碑。埋め込まれたステンレスプレートには写真や文章が昔はあったのだろうか?「平塚八景 湘南潮来山梨県の山中湖から発し忍野八海の湧水、そして流域の諸川を合わせた流程115キロメートルの相模川は、相模湾の河口に至り川幅は700メートルとなっている。この河口は海抜以下で海水が逆流し、満々と水をたたえていて、景観が水郷潮来に似ているので、湘南潮来と名づけられた。河畔には川釣り、魚釣りなどを案内する観光漁業が盛んで、また夏には花火大会が開催されている。」因みに相模川八景は1.みどりの中の相模湖2.津久井湖と津久井城址3.美しいアーチの小倉橋4.水郷田名と高田橋5.八景の棚と河岸段丘6.三川合流点と大山7.寒川宮山の富士8.湘南潮来と河口 の8ヶ所が選定されていると。さらに「朝霞河畔緑地」の奥を望む。右手の植栽の中にあった石には「舟繋石(ふなつなぎのいし)」と。千石船の繋留などに利用されたものなのであろう。その隣にも大きな石碑があった。「相州須賀湊の碑この地は相模川の河口に位置する自然港としてまた漁場としてはやくからひらけていたもののようで平安時代僧空海が伊豆の国から来航ししばらく庵をむすんでいたという伝説がのこっている。鎌倉時代には上流の森林地帯から伐り出した巨木を筏としてここにあつめ沿海地に送るということも行なわれたらしい。つづいて後北条氏時代の記録は穀物魚類などを各処に輸送したことをのせている。特に江戸時代には須賀の回船問屋が千石船をもって江戸表をはじめ各地と物資の交流を行なったため商業地として繫昌し、かたがた須賀のさかな売が奇智と勤勉とを以て販路を拡張したことは有名な話である。明治二十年七月平塚ステーション開駅以来一時衰微をみたが近来遠洋漁港としてまた健康な住宅地としてめざましい発展を続けているばかりでなく河海の雄大にして変化に富む眺望は湘南最高の観光地としてあまねく世人の知るところとなったことはよろこばしい。 昭和四十一年夏 平塚市長 加藤一太郎 題字 元市長 柿澤篤太郎 撰 竹 坪 田中正一郎 書」入口にあった「須賀湊の碑 70m ⇒」はこの碑のことであろう。裏面には「建碑寄附者芳名」と。「相州須賀湊の碑の建設企画を発表したところ、各方面特に須賀の方方から絶大な賛同を得たことは誠に喜びに堪えなかった。茲に協賛各位に心から感謝を捧げる相州須賀湊の碑建設期成会長 平塚市議会議長 富田藤太郎詩」と。「平塚八景 湘南潮来」その先に「トラスコ湘南大橋」を望む。「朝霞河畔緑地」の最奥にあった神社名は「??神社」。石の社。その横にも石祠の台座と屋根のみが。石鳥居の前には先代の鳥居の基礎のみが。先代の鳥居は金属製の朱の鳥居であったようだ。再び神社の裏から須賀港を見る。神社の裏から、石鳥居越しに「トラスコ湘南大橋」をこれでもかと!!最奥の神社前から「朝霞河畔緑地」を振り返る。平塚漁港周辺堤防の竣工の記念碑。「平塚漁港周囲堤防」碑。そして再び「須賀港」の堤防壁画を追う。右側には、土星の如き姿が。こちらには富士山の姿が。「豊かな川 相模川」と。こちらは相模湾の波であろうか?海鳥の姿も。「平塚市水産物地方卸売市場」の建物も見えた。そして「朝霞河畔緑地」まで戻ると、ここにも「堤防ゲート」が設置されていた。こちらのゲートは回転式ではなく横引式であった。「須賀周囲堤防ゲート設備竣工年月 1989年8月主材質 アルミニウム合金製型式 横引式ゲート(5号)純径間×有効高 3.00×2.50制作 日本軽金属株式会社」カルバートを潜り前方・上流方向を見る。「馬入橋水質観測所」の上階は「馬入橋水位観測所」になっていた。2階の入口には「馬入橋水位水質観測所」と。「馬入橋 水位観測所馬入橋 水質観測所 相模川水系 相模川< 水位観測 > 位置 :神奈川県平塚市千石海岸 河口から 1.80km 零点高 :T.P 0.00m 観測開始 :昭和58年9月 計画高水位:5.70m< 水質観測 > 観測開始 :昭和46年」そしてこちらが「朝霧公園」。平塚市札場町47−9。次に訪ねたのが、「朝霧公園」の北側にあった「横町稲荷神社」。住宅の間に鎮座する小さな神社。平塚市札場町46−6。奥には小さな社殿があった。社殿の脇には小さな境内社もあった。中には「道祖神」と刻まれた石碑が納められていた。近づいて。「庚申塔」文政6年(1823)2月山伏角柱月日(陰刻)・「庚申塔」・三猿右側面「癸 文政六歳 未 二月吉日」・3人の名左側面「横町 願主」・3人の名次の目的地に進んで行くと「入船屋青果店」横の駐車場の奥にも社が鎮座していた。内陣を覗く。垂れ幕には稲穂紋の如き紋が。石塔の如きものが鎮座。ヘビが巻き付いているようにも見えたが。そして「平塚市水産物地方卸売市場」を訪ねた。毎月第4金曜のお昼過ぎから魚の直売が行われていると。毎年6月には『湘南ひらつか魚まつり朝市』という大規模な朝市が開催。漁師鍋の配布やどじょうすくい、そしてマグロの解体ショーからセリ形式での販売……などコンテンツ盛りだくさんとのこと。もちろん既にこの日の市は終わっていた。トラックのみが残っていた。「平塚市 下水道 水準点」標柱。標高 ◯米.五三七 と記載されていたのであろう。以前は4個の石で囲まれていたのであろうが。「平塚都市計画下水道 NO.8 平塚市」と。その先の交差点の角にあったのが「相州須賀湊 札の辻蹟」。平塚市札場町17-22。昭和25年の平塚市町界町名改正原案では、「有明町」や「柳河岸」という名称が提案された。住民からの意見と各地区出身議員の協議会によって名称を「札場町」と定め、同40年7月に町名変更が実施されたのだと。「相州須賀湊 札の辻蹟」碑。「札の辻跡小田原北条氏の時代、須賀の地は交通・経済の要衝の地で、直轄地であったと思われる。その頃、今でいう区画整理が行われ、寺院はすべて西北の地に寄せ集め「寺町」と命名し、「川端町」「北町」「横町」「仲町」「南町」「西町」の町名を用いたと考えられている。そのほぼ中心に近い十字路に掟書の札をかけた掲示板のようなものを設け、ここを「札場」といい、その辻を「札の辻」とよんだ。須賀の商人が各地に向かった起点がここ、「札の辻」であった。 平塚市観光協会」札の辻から伸びる道の1つに、平塚新宿の東海道に向かう大道があり、東海道から起点となる八王子道、大山道、曾屋道に繋がる。もう1つはさかな道と呼ばれ、馬入や八幡、四之宮を経て、八王子道に合流する。ここ札の辻は明治20年の東海道鉄道開通以前、相模中央部における物資の一大集散地として栄え、須賀の商人は、案内板にもありように、この地を起点に各地へ向かったという。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.28
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相模川右岸堤防から再び「トラスコ湘南大橋」を振り返る。相模川河口が光る。その先に須賀の玄関口であった相模湾。伊豆や房総半島、江戸などと回船が往来していたのであった。釣り人の姿を追う。上流側にも。JR東海道線の橋梁、国道1号・馬入橋越しに遠く斜張橋構造の「湘南銀河大橋」も見えた。上空には厚木飛行場に着陸する航空自衛隊?の飛行機の姿が。風は強くなかったが、河口付近の水面はやや波立って。波立つ水面。3人組の釣り人が仲良く並んで。この場所は、ルアー釣りでシーバスを狙う人が多く、ウナギ狙いの投げ釣り師もいるとのこと。ウナギは夜釣りが多いと も。近づいて。男性ばかりで夫婦の姿はなく・・・。堤防下から坂を上ると、ここにも防潮ゲートが。左手の公衆トイレ越しに、この後訪ねた神社の朱の鳥居が見えた。電光掲示板、スピーカー、アンテナのついた鉄塔。城山ダムの放流時の増水を知らせる「放流警報設備」。この電光掲示板に「城山ダム 放流中 注意」と表示されるのであろう。ここにも「危ない!!(ダムの水をながし川の水がふえることがありますから気をつけて下さい)ダムの放流による増水に注意」そしてサイレンの吹鳴方法(なりかた)が。「この施設は、城山ダムから放流する時 危険を呼びかけるための施設です。」須賀港(平塚漁港)入口の堤防の先にも、この後訪ねた神社の石鳥居が見えた。ズームして。「須賀港(平塚漁港)」を見る。須賀港は江戸時代幕府公認の七つの湊の一つであり、相模の国の物流の集散地であり文化の入口でもあった。江戸時代人気のあった大山参拝の海の玄関口として多くの人で賑わった。天保年間には、平塚宿より須賀村の方が人口が多かったのだと。明治20年鉄道が開通すると船便は寂れ、漁船だけの港となった。昭和26(1951)年に完成した港。 開港当時の名称は須賀漁港であったが、後の昭和27年平塚漁港に改称。現在は釣り場としても人気で、ハゼ釣りの人気スポット。目の前にバス停、公衆トイレもあり、お薦めの釣り場。川沿いに南下すると、湘南大橋付近まで足元の良い釣り場が続き、のんびりとした釣りを楽しめるようだ。多くの漁船が朝の漁を終えて港に戻っていた。この堤防の先周辺が「湘南潮来」と呼ばれている場所のようであった。神社の裏側には銀杏の黄葉が。青空に黄葉が映える。更にズームして。そしてこちらが神社の入口。境内へは石段を上って。「河野洋平」の文字が。社号標石「港稲荷神社」。平塚市千石河岸64。石段を上ると、直ぐ左側にあったのが、相模川に向かって立つ「出世稲荷」。「出世稲荷」の社。内陣。その脇にも小さな境内社があった。中には石碑が鎮座。文字が刻まれているようであったが・・・。石鳥居の先に朱の鳥居が並ぶ。六基の朱の鳥居が並んでいた。手水場。「港稲荷神社」社殿。「狛狐」が迎えてくれた。台座の下にも。(右)。「狛狐」が迎えてくれた。台座の下にも。(左)。内陣御祭神:宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )祭礼 :2月11日 稲荷講(いなりこう) 5月第4日曜日 例大祭(れいたいさい)更にズームして。右手には「港稲荷神社」、「玉串道祖神」と書かれた御札が。「正一位稲荷利大明神 玉串道祖神」と刻まれた石碑。「稲荷利」??「神楽殿」。そして、「港稲荷神社」を後にして「須賀港(平塚新港)」を囲む堤防上を歩く。堤防の壁には多くの壁画が描かれていた。「鯨(クジラ)」。山の姿。須賀港を追う。須賀湊(すがみなと)は相模川が相模湾に注ぐ河口付近に位置する河岸 。自然の地形を生かした天然の港として早くから開けていた。この地には平安時代に伊豆から空海が来航し、庵を結んでいたという興味深い伝説も残っている。 須賀湊は元亀元(1570)年に北条氏から麦130表を熱海へ輸送することを命じられたり、相模川上流から運ばれた材木が集積され、海路で運び出されるなど、次第に水運の要所として発展して行った。江戸時代前期には、須賀湊の回船(沿岸を結ぶ荷船)は 鎌倉郡や高座郡など広範囲の幕領年貢米の輸送を一手に受け持っていた。また、相模湾を通ってやってくる回船からは砂糖や塩、肥料、ござや傘などの日用雑貨が運び込まれ、 須賀湊からは白炭や薪、杉板、米などを運び出していた。 回船の主な往来先は伊豆、江戸、房総半島だといわれている。かつて関東地方は河川水運の発達した地域であった。 その証として各地に残るのが河岸。相模川の舟運も盛んであった。相模川上流からは炭や薪、 米などが高瀬舟で運ばれた。帰りは肥料や塩、日用雑貨を積んで川を上ったのだと。相模川への出口方向を見る。須賀湊には湊の利用にあたり「湊口二十間余大船は入ら ず、四百石積の船を限度とす」という決まりがあった。 四百石積み以上の回船は湊口が狭く須賀湊に接岸できない ため、集められた物資は一度荷揚げ場(河岸場)に積み上げ、 後で沖に停泊した回船に小船で運んだと。逆に回船 から湊に運び込まれた物資は高瀬舟に積まれ、川上の村々へ運ばれていたのだ。 出入口の先に「トラスコ湘南大橋」も見えた。須賀湊を擁する須賀村は大いに栄えた。『新編相模国 風土記稿』によると、東海道の宿場町である平塚宿の家数が289軒なのに対し、須賀村の家数は一村で452軒。その繁栄 ぶりがうかがい知れるのだ。他国の船乗りも多く滞在し、湊には さまざまな地域の情報が集まっていたとのこと。堤防上をグルっと廻って。「須賀湊圖」。江戸時代に編さんされた『新編相模国風土記稿』(国立公文書館蔵)に収録されている「須賀湊圖」をネットから。隣の建物の壁にはツタの紅葉が。そして堤防の終点の横には小さな建物、その横に監視カメラが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.27
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国道134号に向かって坂道を上って行った。「龍宮社」を裏側から見る。次に訪ねたのが「海徳稲荷神社」。住宅街の一角で、ブロック塀に囲まれた敷地に位置して、西向きに鎮座。小さな境内は、良く管理されていた。平塚市千石河岸57−42。社殿も朱に塗られて。内陣には「正一位海徳稲荷神社」と刻まれた石碑が。大正四年十月記念〇〇人田中佐兵ヱとも刻まれていた。その先にあったのが「港友会 交通安全地蔵尊」。「港友会 交通安全地蔵尊」碑。一昔前、この134号線を頻繁に横断して行き来していた時代があり、その時何人も、この付近で交通事故、死亡事故が発生していたと。それを見かねて、地元でお地蔵さんをたて、無事故を祈ったのだと。お地蔵さんには生花が手向けられていた。穏やかなお顔の地蔵様。台座にも「為交通安全地蔵尊」と。お顔をズームして。その隣にも慰霊塔があった。中には一木造りの仏像が安置されていた。その先に「BILLABONG STORE OCEANSIDE 平塚」があった。自社ブランドのボードショーツや水着など、ビーチライフ用のファッションやアクセサリーを扱うサーフショップとのこと。道路際にあった植物は、開花前の「リュウゼツラン」ではなかろうか。「リュウゼツラン」は中南米原産の植物で、数十年に一度だけ、枯れる前に花を咲かせると言われているのだ。そして放射状に伸びる「リュウゼツラン」の葉。昨年、知人宅の近くで咲いたリュウゼツランです。ズームして。国道134号線の遊歩道を「トラスコ湘南大橋」に向かって東に進む。「トラスコ湘南大橋」の平塚側。ズームして。遠く「烏帽子岩」も見えた。ズームして。正式名称は「姥島(うばしま)」。茅ヶ崎市の沖合1,200m付近にある無人の岩礁群。乳母島とも記述され、古くは筆嶋とも称されたとのこと。更にズームして。下り車線の「トラスコ湘南大橋」の平塚側には石碑が立っていた。休憩用の椅子代わりの石には幾何学的な不思議な模様が。「湘南大橋の碑」。「湘南大橋の碑湘南海岸地域は日本の代表的な海浜レクリエーション地域であると共に、温暖で良好な環境に恵まれた住宅地として知られていますが、昭和の初めごろまでは何も変哲もない砂丘地帯でした。昭和6年、県はこの地域の発展のために、藤沢市片瀬から大磯町に至る海岸沿いに湘南遊歩道路の建設を始め、昭和11年秋、この事業最大の工事であった湘南大橋を完成させました。湘南大橋はその後半世紀もの間、東海道筋の重要な交通路としての役割を果してきましたが、老朽化のためこのたび架け替えを行いました。新しい湘南大橋は「人と人とのふれあい」をモチーフに設計し、幅の広い歩道と親柱やバルコニーの紋章に「ふれあい」の空間を表現しました。この橋を含め相模湾沿いの道路の整備は、二十一世紀の湘南海岸地域を展望した「湘南なぎさプラン」の主要な事業の一つとして位置づけております。この橋の完成により湘南海岸地域が生活とスポーツ、レクリエーションが融合した新しい出会いの場となるよう願っています。 一九八六年十月 神奈川県知事 長洲一二」「さがみがわ(相模川)」。「しょうなんおおはし(湘南大橋)」。「トラスコ湘南大橋」の下り線。引き返し再び「港友会 交通安全地蔵尊」、「BILLABONG STORE OCEANSIDE 平塚」を見る。「平塚漁港の食堂」。平塚市漁業協同組合と民間とのコラボ事業として農林水産省の6次産業認定を受けて誕生した食堂とのこと。そして「高浜台交差点」まで歩き、国道134号を渡る。そしてこちらは、以前に「デニーズ 平塚海岸店」を利用した時に訪ねた、近くにある「阿弥陀如来坐像」・「お阿弥陀様」と呼ばれているという石仏。平塚市高浜台28-17。中に入れる場所は見つからなかった。「阿弥陀如来坐像」は台石を含め4 m余の高さがある。台座正面に「海上安全」と刻まれ海を向いて建てられていた。ズームして。「お阿弥陀様お阿弥陀様の名で親しまれている阿弥陀仏石造は、海上安全を願ったり先祖供養の石仏として、現在も篤い信仰をうけている。石像は宝永年間(一七〇一~一七一〇)に海宝寺の覚誉(かくよ)上人によって建立されたが、その後蓮台や台座が砂に埋もれてしまい、弘化ニ年(一八四五)に再建された。台座を含めると四メートルほどの高さがあって、手は弥陀定印(みだじょういん)を結んで、海に向けて建立されている。元は、相模川河口に近い松林のなかにあったと伝えており、現在地にまつられるようになるまでに何回か移転している。八月十六日には、地元の漁業関係者が集まり、浜施餓鬼が行われ、さらに毎月十六日には念仏供養も行われている。 平塚市観光協会」「お阿弥陀様」の向かって右にあった2基の石碑。右手の石碑には「水陸幽顯法界舎識」と。上部には阿弥陀三尊、すなわち阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の梵字を掘り込んで本尊とし、その下には「水陸幽顯法界舎識」と陰刻されていた。「水陸幽顯法界舎識」の「幽顯」とは、今生きる現世と死後の世界を指す言葉、「法界」とは全宇宙からなるすべての世界をさしすのだと。水陸を含んだすべての霊魂に対する供養塔として、この石塔が建立されたのであろう と。亀の供養塔たくさんの供養塔と並んで、大正9年(1920)に建立された亀の供養塔があった。正面に「爲亀霊菩提」の文字と亀の姿が線刻されている。昔から亀は縁起のよい生き物と考えられ、浜に上がった亀を見つけると酒を飲ませ、放してやると後で大漁に恵まれるという言い伝えがあり、大漁の神、海上安全の神として漁業関係者から大切にされている と。次に訪ねたのが「西町稲荷神社」。社号標石には「正一位 稲荷山神社」と。「正一位 稲荷山神社御由緒社伝によると、今よりおよそ千二百年前、「僧空海(弘法大師)が伊豆の国より布教のため須賀湊に上陸され、此の地に留まりし時に勧請せし」と言われ、よって当社の創建はこの時代と思われる。御祭神は、京都伏見稲荷大社と同じ「宇賀御魂命」で五穀を司る神である。その後真言宗僧鎮海師、大師の足跡を慕ってこの地に草庵を結び「邑中鎮護のため稲荷大明神再建ありし由、稲荷山と申し候」と言う記録があり、平塚市最古の稲荷社でもある。昭和二十年七月の戦災以前は、現在の所が小山の頂きにて、お稲荷様の社殿が建ち、形の良い磯馴松が点在する中に真赤な鳥居が五、六十基立ち並び参道を形作り、周囲の麦畑と調和して一幅の絵の様な美観であった。古老の話によれば、海上の漁船より稲荷山の松の木が展望され、陸地の目印とされていたと言う。古きより稲荷山のお稲荷さんと親しまれ、家内安全、海上安全、商売繁昌を祈願する善男善女の参拝者が後を絶たず、毎年四月二十九日に例大祭が行なわれる。」一の鳥居を正面から。扁額「西町稲荷神社」。二の鳥居、そして数多くの朱の鳥居が並ぶ。手水舎。「金子長大 記念植樹」碑。奉納された数々の朱の鳥居に近づいて。鳥居の下から。狛狐(右)。狛狐(左)。拝殿正面に。西町稲荷神社は、平塚市高浜台にある神社。西町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大同年間(806-810)に弘法大師が相模国を巡錫、当地に滞在際に勧請したと伝えられ、文治元年(1185)頃には、僧鎮海が海詠山長楽寺を創建した際に稲荷大明神を再建し「稲荷山」と称したといいます。扁額「稲荷神社」と。左脇にあった社務所?斜めから朱の鳥居、拝殿を見る。「御造営記念誌」碑、「寄附者 米前本店 杉山茂殿 社地二百二十一坪」碑。杉山茂氏は神奈川県大住郡須馬村須賀(中郡須馬町、平塚町を経て現平塚市)で、醤油味噌醸造業・杉山善平の長男として生まれる。1910年(明治43年)明治学院を卒業した。家業に従事し、1923年(大正12年)コンクリート製のもろみタンクを考案。1924年(大正13年)家督を相続し、米善醸造を県下一の醸造会社に成長させた。1923年、須賀郵便局長に就任。1925年(大正14年)須馬町会議員に選出され平塚町との合併に尽力し、学務委員も務めた。合併実現後、同町会議員、平塚市会議員を務めた。議員退任後、神奈川県醤油工業理事、同県醤油統制会社社長、同県醤油工業協同組合理事長を務めた。その他、湘南鉄工所社長、駿河銀行監査役、相模鉄道監査役などを務めた。1946年(昭和21年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され同年9月20日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した人物 とウィキペディアより。様々な石碑が。先程、ここ「デニーズ 平塚海岸店」の駐車料金精算機を使用したのであった。「トラスコ湘南大橋」案内板。「「かながわの橋100選」のひとつである湘南大橋は、国道134号相模川河口部に架かり、湘南海岸地域における東西方向の交通を担う橋梁として昭和11年秋に開通いたしました。平成22年4月1日、企業メッセージに「がんばれ! !日本のモノづくり」を掲げる工場用副資材専門商社、トラスコ中山株式会社は日本のモノづくりを応援する企業として物流に欠かせない「橋」である湘南大橋のネーミングライツ(命名権)を取得いたしました。これにより「トラスコ湘南大橋」へと名称を変えた「湘南大橋」は茅ヶ崎市・平塚市を結ぶ重要な交通路として地域、そしてモノづくり現場の人々へのより一層の貢献を目指します。「がんばれ!!日本のモノづくり」。「トラスコ湘南大橋」。トラスコ中山のトラスコとは、「TRUST(信頼)+ COMPANY(企業):信頼を生む企業」の造語であるとのこと。そして国道134号の山側の小路沿いにあった「平塚灯台(須賀の灯台)跡地」を訪ねた。奥には「桜河岸公園」があった。平塚市千石河岸13-13。「平塚灯台(須賀の灯台)跡地平塚灯台(須賀の灯台)は昭和八年十一月、東京・大阪間に開設された航空路の安全航行を目的に、この地に設置されました。当時の高さは十六・九六メートル(頂部まで)で、五十キロメートル先からも光が見えたといわれます。その後、航空機の発達に伴って、昭和四十三年には廃止が決まりましたが、船舶の航路標識として、また「平塚空襲」でも戦災を免れたので、地域のシンボルとして残してほしいという要望により、昭和四十四年十二月一日に再スタートします。五十八年には鉄骨部分が建て替えられ、高さが約十メートル伸びて、二十六・ハ六メートルとなりました。この間、二十七年に発表された「なでしこ節」や、三十九年に制定された「港小学校校歌」にも歌われています。しかし、老朽化が進み、船舶も新湘南大橋の照明や人工衛星を使ったシステムなどを利用するようになったため、平成十二年十一月六日に消灯。六十七年の歴史に幕を下ろし、灯台は解体・撤去されました。灯ろう部などは現在、港小学校に展示され、多くの児童の成長を見守っています。 平成十六年(二〇〇四年)三月 平塚市」そしてこの後に訪ねた、平塚市立港小学校にあった「平塚灯台」の頭部。「平塚灯台(須賀の灯台)昭和八年(1933年)、東京と大阪間を飛ぶ飛行機の安全を確保する航空灯台として造られました。昭和四十三年に廃止が決まりましたが、市民の要望で海上灯台として働き続けました。その後、科学技術の進歩によりその役割を終え、平成十二年(2000年)の秋にとりこわされました。郷土いろはカルタに詠まれ、港小学校の校歌にも登場する灯台、市民に親しまれ思い出がたくさん詰まった灯台を地域に残したいという港地区住民の強い要望で、その頭部を港小学校に移して保存することになりました。みなさんの成長を見守っている須賀のシンボルを大切にしてください。 平成十八年(2006年)三月 平塚市」「桜河岸公園」を見る。「桜河岸公園」の敷地内には「千石河岸自治会 防災倉庫」が準備されていた。しかし、この場所は大きな津波が襲来すれば・・・・と。更に相模川右岸堤防に向かって進む。右手に国道134号下のボックスカルバート風の通路。国道134号からこの道路に下りる階段があったのだ。そして正面に「相模川右岸堤防」が現れた。「相模川右岸堤防」の上流側を見る。「相模川右岸堤防」上に上がる。再び「トラスコ湘南大橋」を見る。「千石河岸防潮ゲート設備」。城山ダムの放水や台風等の豪雨、津波等により相模川の水位が異常上昇した時に住宅街に河川水がこの場所から流入せぬようにこのゲートを完全閉鎖するのだ。「千石河岸防潮ゲート設備竣工年月 1990年7月主 材 質 アルミニウム合金製型 式 片開式ゲート純径間 × 有効高 3.00 × 1.607製 作 日本軽金属株式会社」反対側から「千石河岸防潮ゲート設備」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.26
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この日は11月22日(火)、平塚へ仕事の打ち合わせに車で向かう。新湘南バイパスを利用して、茅ヶ崎海岸ICを目指す。「湘南ベルブリッジ」を通過。「茅ヶ崎料金所」を通過。そして国道134号にて「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。箱根の山の姿は確認できたが、富士山の姿は雲に隠れていた。そして右手に見える「デニーズ平塚海岸店」で暫しの仕事の打ち合わせを行う。そして、打ち合わせ終了後、「平塚市田村地区から相模川の流れに沿って」のブログが東海道線の北側・(その19)までで、2022年8月29日で中断しているので、急遽この日に東海道線の南側地区・千石海岸、札場町、久領堤、夕陽ヶ丘、幸町、高浜地区を海側から東海道線方向に向かって巡ることを決断したのであった。よって相模川の流れに逆らって上流に向かって歩くことになった。既に、Googleマップに訪ねる場所はチェック済みであったので、スマホさえあれば、事前準備は不要なのであったのだ。「デニーズ平塚海岸店」を後にして、「ひらつかタマ三郎漁港」にある駐車場に向かい、車を駐めこの日の散策開始。「ひらつかタマ三郎漁港」の防波堤から遠く我が藤沢市の「江の島」を見る。ズームして。相模川対岸にある相模川左岸・「柳島水再生センター」が見えた。「柳島水再生センター」は、相模川河口の茅ヶ崎市側に位置し、昭和52年12月に処理を開始。現在は、一日に531,700m3 /日最大の下水を処理する水処理施設(9系列)や汚泥処理施設が稼動している。写真左側が下水処理設備、右側が汚泥焼却炉設備である。「ひらつかタマ三郎漁港」を見る。平塚市では、平成28年度から平塚漁港にネーミングライツを導入。「ひらつかタマ三郎」は、平塚の漁業のPRキャラクター。東海大学教養学部芸術学科デザイン課程の研究室と平塚市漁業協働組合とのコラボレーション企画で誕生したのだと。平塚の漁業をPRするキャラクター「ひらつかタマ三郎」。“タマ三郎”は「猫」とのこと。。そして荒くれ漁師をイメージしたことで「ワイルド」「酒が好き」「女好き」「意外とやさしい」「川柳好き」といった性格付けがなされていると。日を重ねるごとに少しずつだが、“タマ三郎”の素性が明らかになって来たと。「妻子がいた」「趣味はテニス」「チョコバナナが大好物」などなど・・・・と。反対側には、遠く平塚市・湘南平の旧展望台の姿が。「ひらつかタマ三郎漁港」には多くの釣人の姿が。「トラスコ湘南大橋」越しに「湘南ベルブリッジ」のアーチを見る。「トラスコ湘南大橋」。神奈川県平塚市の相模川に架かる国道134号の橋。相模川に架かる橋の中で最も河口側に存在している。全長698m。現在の橋は2代目。2010年4月1日より5年間の契約で機械工具卸のトラスコ中山が命名権を獲得し、「トラスコ湘南大橋」の愛称が付けられている。橋への命名権導入は全国初。再び「江の島」をズームして。相模川右岸の堤防上を「トラスコ湘南大橋」に向かって進む。波も比較的大きく満潮の時間のようであった。相模川河口には水上バイクの姿が。釣り船の「庄三郎丸」、「庄治郎丸」。「庄三郎丸」。「庄治郎丸」。オーナーの名前は「庄三郎丸」のオーナーと同じ後藤さんとのことであるが、血縁関係はないとのこと。「津波に注意●大地震があったら津波に用心、すぐに海岸からはなれる●地震のゆれが小さくても津波情報に注意●「津波注意報」であっても、海辺での遊びや釣りは危険、すぐ避難を●津波は-度だけではなく、くりかえしおそってきます●情報はラジオ・テレビ・広報無線・広報車・サイレンなどで正確な情報を く津波予報サイレン〉予報の種類 「津波注意報」 「津波警報」 「大津波警報」サイレン音 約10秒 約5秒 約3秒休みの間隔 約2秒休み 約6秒休み 約2秒休み」危ない!!(ダムの水をながし川の水がふえることがありますから気をつけて下さい)ダムの放流による増水に注意この川の上流三十七キロメートルのところに城山ダムがあり、ときどきダムに貯った水を流し、この川の水が急に増えることがありますから注意して下さいまた、ダムに貯った水を流すときは、左記のとおりサイレンやスビーカーなどで知らせますので、そのときには危険ですから河原に降りないで下さい。サイレンの吹鳴方法20秒サイレン➡5秒休止➡20秒サイレン➡5秒休止・・・・・・・・・・・・・👈リンク。「相模川」。相模川と本流沿川の市町村。山梨県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とする。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。相模湖と津久井湖(ともに相模原市)という2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き、ここ平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ1級河川。相模川の名前は相模国に由来する。上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)と呼ばれている。「トラスコ湘南大橋」の横の下方にあったのが「龍宮社」。水を司る龍神様は漁業の神として、豊漁祈願や水難除けとして地元漁師の信仰が深いと。平塚市千石河岸57−6。朱の鳥居には「龍宮社」の扁額が。朱の鳥居の柱には「平塚市漁業協同組合」と。「平成十八年五月吉日」と。狭い境内の奥に石祠、木祠、そして奉納塔が並ぶ。「龍宮社」の社は石祠。この「龍宮社」は1月、2月、9月に漁業関係者が近くの三嶋神社の宮司を招いて大祭を行うと。隣には木祠が。内陣を。紙垂の奥には「八大龍王神」と書かれた御札が。茅ヶ崎市には「八大龍王神」の社が数多くあったがここ平塚市にも。「一金百五拾圓也 寄附昭和二年十二月」と刻まれた「奉納塔」。「鰤大謀網(ぶりだいぼうあみ)」の奉納塔であると。こちらは「奉納 一金壱百圓也 大正十年五月」と刻まれていた。三島神社にある奉納塔と同じ年月に建てられていると。「大謀網」は天保大網とよく似た構造だが、魚群が入ると入り口の網を閉めて、魚群が逃げることを防ぐ。この網は大敷網に変わって導入され、神奈川県では大正11年から昭和10年頃までブリをたくさん獲り、相模湾の寒ブリとして全国的に有名になった。網の規模が大きく、網を揚げて魚を獲るのには150人ほどの人手を必要とした と。その隣の石碑には、「高雄山大権現」と刻まれていたが・・・。その隣にも石祠が。再び堤防に上がって「トラスコ湘南大橋」の下部近くまで歩く。この日は「大潮」で海水が上って。「トラスコ湘南大橋」のRC製の橋脚を見る。「トラスコ湘南大橋」の下には釣り人の姿が。滔滔(とうとう)と流れる相模川。下り車線の橋脚を見る。巨大なボルト・ナットで二重に固定されているようであった。下り車線の橋脚を見る。北側の堤防を望む。「トラスコ湘南大橋」の端部を見る。「塗装記録表」。6年半前の平成28年(2016年)3月が最終の塗装日と。塗装面積は約□43m。端部の基礎工事の仕様。1986年に橋脚の老朽化に伴い、2代目橋梁(現在の下り線橋梁)に架け替えたので1981年はその5年前ということになる。 ・・・つづく・・・
2022.11.25
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「白旗神社」の境内西側・国道467号沿いの石碑群を訪ねた。「江の島弁財天道標」が一番手前に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。「江の島弁財天道標」。正面に「(梵字)सु(ソ)ゑ能し満道(えのしま道)」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。その隣に多くの「庚申供養塔」。さらに奥にも。「一面六臂青面金剛像」。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申(1665年)供養塔」。近づいて。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないようにとの祈念から建てられたものとえられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「ゑのしま道」「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。石塔群を参道入口方向に向かって振り返る。「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 一般財団法人 藤沢青年会議所」と。藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。遊行寺のお参りをすませた人々が山門を出て橋を渡り、江ノ島弁天の鳥居をくぐろうとしている。奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって左。社殿。向かって右。社殿。そして200mほどの場所にある「伝源義経首洗井戸」を訪ねることに。「国道467号」の「白旗」交差点を左折する。直ぐ先にあった「伝源義経首洗井戸」案内柱。藤沢警察署 本町白旗交番。住宅街の小路を奥に進むと、突き当りの右手に「伝源義経首洗井戸」があった。「白旗神社」と向かい合う形、北向きに。「伝 義経首洗井戸源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています。この絵は、歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。ここからニ〇〇メートルほど北の白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、藤沢の御首と宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。また、常光寺南側の公園には、「弁慶塚」👈リンク と記された石碑が祀られています。」歌川国芳「本朝武優鏡 源義経」。「一指 源義経 寿永三年 筆者 弁慶」「義朝の第九の子にて頼朝の末弟なり。平治元年に誕生して二歳にて父にはなれ幼名牛若丸と云。 又舎那王といへり。幼少の時鞍馬山にて剣術を習ひ、成長して奥州へ下り、路次にて熊坂を討とり、又元服して源九郎冠者と名のつて、後頼朝義兵の時義経のはたらきにて平家の一ぞくを討ほろぼせり。 義経武勇すぐれ軍略に達し、讒言の為によつて頼朝の勘気を蒙りて二たび奥州へ下り、秀衡の館に暫らく止りて後に蝦夷の国へ渡るといふ」と。また「吾妻鏡」には「文治五年六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々」 とあると。【意訳】藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の使者・新田冠者高平(にった かじゃたかひら)が義経の首級を持参して腰越に到着。首実検のため、侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)と同所司の梶原景時(かじわら かげとき)らが派遣された。それぞれ直垂の上から鎧を身に着け、鎧兜の郎従20騎を連れていく。義経の首級は黒漆で塗られた櫃(ひつ)に収められ、中には腐り止めの酒が満たされている。高平の下人が天秤棒に担いで持って来た。果たして首級を見た者は、みな涙で両袖を濡らすほど泣いたそうな。井戸の脇には首塚が。「武蔵坊辨慶公之霊 九郎判官 源義經公之首塚」碑。亀井坊 伊勢坊 片岡坊 駿河坊 各霊」と。かつてはこの奧にある民家の辺りに盛土された義経公の首塚があったとされる。この碑はそこから運ばれてきたものなのであろう。「源義経史蹟 藤澤市」碑。「九郎尊神」碑。「首洗井戸」。「首洗井戸」を覗く。再び「伝源義経首洗井戸」、「源義經公之首塚」を見る。白旗神社に駐めた車に向かって戻る。市の花「フジ」を描いたカラーマンホール蓋。そして「白旗神社」交差点脇の見事な紅葉。ハゼノキ(櫨の木、黄櫨の木)であろうか?そして帰路の途中に善行にある「齋藤さんのざる菊畑」を訪ねた。藤沢市善行3丁目15−1近く。黄色、白色は満開、赤は既にエピローグに向かっていた。赤色のざる菊をズームして。赤と黄色のコラボ。黄色。敷地は約1200平方メートルで700株が植えられているとのこと。5月の連休明けから植え付けをして精魂込めて育てて来た模様。今年は直径0.8~1m近い丸い株が並び、赤、黄色、白の3色の花が咲き誇っていた。このアパートの住人はこの時期は我が家の菊花園に。白色もこの日が満開状態。ミカンも撓(たわわ)に!!この時期になると菊園に整列するように赤や白、黄色など色鮮やかな約700株の半球状に膨らんだざる菊が毎年楽しませてくれるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.24
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さらに藤沢・「白旗神社」の参道を進む。左手にあったのが「絵馬掛所(えまかけどころ)」。源義経・弁慶の絵馬。七五三詣の絵馬。「三夜燈」碑。旧暦23日の夜、すなわち二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。 三夜様とも三夜供養ともいい、月待行事のなかでも最も盛んに行われた と。参道左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「義経松」碑。しかし松の姿は見つからなかった。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」再び「白旗神社」の幟。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻は何度見ても見事。ズームして。ここ白旗神社に縁のある亀の姿が。柱の最下部にも。賽銭箱には「笹竜胆」の家紋が。「笹竜胆」といえば清和源氏、すなわち源義経の家系の家紋。天水桶にも、笹竜胆(ささりんどう)の家紋が。提灯にも笹竜胆。「拝殿」の扁額は「忠友殿」。「白旗神社頭中」板。白旗神社近隣の町の名前が書かれていた。頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分・木鼻部の彫刻。「海老虹梁」を右側から。左側から。「本殿」を右側から見る。ズームして。左側からズームして。白旗神社復興事業奉賛者名」の書かれた板。(右側)。左側にも。「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。この石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」「拝殿」前から欅の黄葉を。ズームして。「拝殿」前より参道を振り返る。参道から石鳥居を振り返る。参道脇の石段を下る。「神輿殿」。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵していると。場所を変えて。見上げて。さらに。七五三祝いの記念撮影用グッズも置かれていた。「御神札授与所・社務所」昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。様々な御札。御守も。様々な種類、模様の御守。御朱印帳。熊手。「弁慶松」碑。「弁慶松」はこれ?それともこれ?「白幡神社 社務所」「社務所」の前の藤棚・「義経藤」。今年、5月に訪ねた時の「義経藤」。「湯立神楽 舞台」。「藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽白旗神社 を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽 等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東 一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。」今年・令和四年の絵馬。今年の干支・虎と戯れる義経の姿を。そして早くも来年・令和五年の絵馬が既に。来年の干支・兎と戯れる義経の姿を。それとも桃太郎?そして「辨慶藤」の藤棚。近づいて。今年の4月28日に訪ねた時の見事な「辨慶藤」の写真。芭蕉の句碑。句碑に近づいて。「草臥て(くたびれて) 宿かる比(ころ)や 藤の花」「歩きつかれ、くたびれてきて、そろそろ宿をとるころ合いとなってきた。ふと気づくと藤の花が見事に咲いているよ。」と。この場の昨日の私も、同じ心境なのであったが。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、江戸の俳人の以足が建立。別号「牛文庵」。碑の裏には以足の句が刻まれていた。「東路や 華にくるまる 鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている。境内の欅の木の紅葉を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.23
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この日は11月17日(木)、大腸ポリープの切除手術(1泊2日)の予約の為に、藤沢市民病院に行く。手術日は12月23日(金)と決定し、帰路に。藤沢市民病院の隣り・「御殿辺(ごてんべ)公園」に立ち寄る。源義経が祭神として祀られていることで有名な白旗神社の隣に広がる「御殿辺公園」。藤沢市藤沢2丁目5。銀杏の黄葉見物が目的であったが、まだ1週間以上早いようであった。以下の4枚の写真は、昨年そして数年前に訪ねた時の写真です。そしてこの日の「御殿辺公園」の遊具場を見る。この野鳥は、尾が長いそして白い顔に目を通る細い黒線からハクセキレイであっただろう。この日の銀杏並木。この銀杏の上部は黄葉が始まっていたが。公園の白旗神社側の欅の木の紅葉は進んでいた。そして白旗川の堤防の手摺には、白旗川と書かれた、彫刻プレートが。義経の兜と花菖蒲が描かれていた。隣には藤沢市の鳥「かわせみ」の姿も。公園を振り返る。藤沢市の「フジロード」案内板。「フジロード」は、藤沢市の花「フジ」に対する市民の愛着を深め、市の名所づくりの一環として誕生した、市立公園を含むフジのあるポイントを巡って花を楽しむことができる散歩ルートである。「フジロード」には、引地川沿いに大庭城址などの歴史をたどりながらフジを観賞する「引地川・フジ史跡ロード」と、境川沿いに藤沢市役所などのフジを観賞する「境川・フジ水辺ロード」の2ルートがある。「白旗川」を渡る。「白旗川」。「人道橋」と。「白旗川」に沿って「白旗神社」に向かって進む。手前に「白旗神社」の「御典橋」とその奥に「鳥居」。「御典橋(みのりばし)」。「白旗神社」の御祭神は「寒川比古命」、「源義経公」。全国に80社ほどある白旗神社、その中でも義経公をお祀りしているのはここを含めわずかに8社(ほとんどは頼朝公)。有名なところでは「鶴岡八幡宮」の境内にある「白旗神社」👈リンク。鎌倉の「白旗神社」は頼朝公・実朝公をお祀りしているのである。ここの「白旗神社」が創建された年は不明。相模国一の宮の寒川比古命を勧請してかつては寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)岩手平泉の衣川館で義経公は31歳の若さで自害。義経公と弁慶の首級は鎌倉腰越の地で和田義盛・梶原景時により首実検(くびじっけん・本人かどうか確認すること)が行われた。その時の様子を見ていた地元の民が、「死んでもまた腰越の地で留め置かれるのか」と身の上を哀れんだといいます。首実検された後義経公と弁慶の首級(しゅきゅう)は無惨にも海に打ち捨てられました…。不思議なことに首級は金色の亀の背に乗って川を上り現在の白旗神社のあたりまで流れ着きました 。里の者が首を見つけ驚いていると側にいた少年が突如として次のように話し始めました「我は、源義経なり。薄命にして讒者(梶原景時)の毒舌にかかり身は奥州高舘の露と消えるのみならず首さえ捨てられ怨魂やるかたなし。汝等、よきに弔(とむら)いてくれよ。」と。里人たちは敬い畏れ首をきれいに洗い清め塚に埋葬したと伝えられています と。首実検が行われた6月13日を由緒日として毎年「源義経公鎮霊祭」が行われます。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。鳥居と黄色く色づいた銀杏の木を斜めから。社号標石「白旗神社」。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだと。「大御神灯」。慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。参道の左側の石庭の「みそぎ川」の奥には石祠があった。ズームして。「白旗辨財天」と。「みそぎ川」の清水はここから湧き出していた。「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」近づいて。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。大きな薙刀(なぎなた)を持つ武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。顔をズームして。反対側から。「白旗神社」の「拝殿」が鎮座する小山を見る。東海道からここ「白旗神社」の方を見ると、この北側の山が亀の甲羅に、「白旗神社」が頭の部分に見えたことから『亀形山・かめがたやま』と呼ばれ地域の方々に親しまれて来たのだと。欅の黄葉をズームして。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。「手水舎」の見事な彫刻。新しく置かれた縁の深い亀の姿が。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。スリムな狛犬(右)。こんなに小顔なのも珍しいのでは。一角の狛犬(左)。山岳信仰の石碑群。「御大典記念 永代御供米三俵」と刻まれた石碑。「八海山大神」碑。八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮として知られていたが、江戸時代後期に、木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。「御嶽大神」碑。昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。「三笠山大神」碑。御嶽山の前山である三笠山は王滝口独特の霊場で、その山容が御笠をふせて形からその名が付けられており、道中安全、交通安全の御神徳がある と。この石祠は?参道の石段を上り、「拝殿」に向かう。石灯籠、石段の先に「拝殿」が姿を表す。 ・・・つづく・・・
2022.11.22
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この日、11月6日(日)には私の住六会地区総合防災訓練が3年ぶりに実施されましたので参加して来まし。起震車体験、濃煙体験、ドローンによる上空からの監視体験、34mの高さまでのびる梯子車のデモンストレーション等々盛りだくさんの訓練でした。会 場 :消防防災訓練センター(旧北高等学校グラウンド)主 催 :六会地区防災リーダー連絡会 協力団体:防災政策課・危機管理課・藤沢市北消防署・消防六会出張所・ 藤沢市消防団藤沢第13・14・15・16消防分団・六会地区民生委員児童委員協議会・ FSV(藤沢災害救援ボランティアネットワーク)・藤沢市福祉団体連絡会 等々。住 所 :藤沢市石川3417-1「藤沢市消防防災訓練センター」は消防局内の研修や訓練の場、また他都道府県からの緊急消防援助隊を受け入れるための活動拠点になっている。正面に訓練用タワーが2基。右の訓練用タワーの高さは17m。そして藤沢市消防局の梯子車や地元の消防分団の消防自動車も到着し待機中。約25に及ぶ自治会が参加、総勢700名の防災訓練になりました。ドローンも上空を飛行。そして開会式前に梯子車による高所からの救出訓練のデモンストレーションが行われました。救助隊員1名が梯子車の先端に乗り込み、梯子が救助者のいる場所に延びる。そして救助される方が梯子車に乗り込む。そして地上に到着し、救助・避難完了。そして開会式が始まった。防災訓練本部のテントな並ぶ。六会地区防災リーダー連絡会 副会長の開催宣言。会長挨拶。軽トラックの荷台に乗って。鈴木恒夫藤沢市長の挨拶。手話通訳者も参加。消防団隊員も制服・ヘルメット姿で。藤沢市北消防署・消防六会出張所・藤沢市消防団藤沢第13・14・15・16消防分団の隊員が整列。関係団体の方々。開会式も終わり、防災訓練のスタート。再び梯子車のデモンストレーションが行われた。高層階からの救助活動や、高所からの放水活動が必要な場合に活躍。低所へはしごを伸ばすことが可能で、状況に応じて水難事故でも活躍。はしご部分には、人を乗せる機構としてバスケットやリフターがあり消防隊員を高所まで搬送したり、要救助者の救出をしたりすることができるのであった。南本署隊が運用する40m級はしご車、呼び出し名称「藤沢南はしご1」2014年からの運用で、いすゞ自動車GIGAベースの3軸車にドイツのマギルス社製はしごが艤装されている。伸縮水管や電動放水銃を備え、円滑な消火活動が可能になっている と。長さ:1,125cm 幅:249cm 高さ:367cm総重量:19,450kg梯子が青空に向かって伸びて行った。5段の伸縮梯子が最大に伸びて。一度だけ!!訓練で!!先端のバスケットに乗ってみたい気もしたが・・・。ここが40m級梯子車の操作パネル。そしてこちらが「起震車体験訓練」車震度1~7の震度別体験や阪神淡路大震災、新潟中越地震、関東大震災、宮城県沖地震等の震災時の揺れを体験することができるのであった。この後、この起震車の前には親子連れの長蛇の列がいつまでも。防災訓練の役目を終えた起震車の姿を。AEDの操作体験コーナーには、若い親子連れが沢山参加されていて防災意識の高い方がいることを実感しました。AED(自動体外式除細動器)とは、心臓がけいれんし血液を流すポンプ機能を失った状態(心室細動)になった心臓に対して、電気ショックを与え、正常なリズムに戻すための医療機器。2004年7月より医療従事者ではない一般市民でも使用できるようになり、病院や診療所、救急車はもちろんのこと、空港、駅、スポーツクラブ、学校、公共施設、企業等人が多く集まるところを中心に設置されているのだ。AEDは、操作方法を音声でガイドしてくれるため、簡単に使用することができる。心臓マッサージ(胸骨圧迫)を学ぶオバチャン。濃煙体験訓練に私も参加。実際の現場では恐らくパニックになる濃煙体験では、まったく前方が見えない状況を体験した。訓練とわかっていても煙で充満した部屋はとても怖く、繰り返しの訓練の重要さを実感したのであった。藤沢市消防団藤沢第13(石川・天神町地区)・14(西俣野地区)・15( 亀井野上地区)・16(亀井野下地区)消防分団の消防車が並んでいた。藤沢市消防団は1本部31個分団体制で、団本部員4人、1個分団15人を基本として、江の島を管轄する1個分団を30人、海岸に接する4個分団を20人で編成し、総員504人(条例定数)で消防団活動を実施している と。移動ポンプ車が手前に。手動伸縮の梯子も。住宅用火災警報器のコーナー。藤沢市の公式マスコットキャラクター「ふじキュン♡」も活躍中。定期的な点検も必要と。「電池式 ワイヤレス連動型」がオススメと。1ヵ所で検知すると家中にすばやぐ連動。あかり(白色LED )で夜問の避難をサポートする と。ドローンのコーナー。このドローンは重さは1.5kg、1回の充電で20分ほど飛行可能と。別のドローンも。いずれも中国製と。土嚢作り。そして消防分団による放水のデモンストレーションが。この後、丸められたホースを取り出し、路面に転がしホースを延ばす。放水準備完了。放水開始。そして閉会式では衆議院議員・星野つよし氏が挨拶。六会市民センター長の講評・挨拶。そして約2時間の防災訓練を終了し、解散したのであった。 ・・・END・・・
2022.11.21
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次に訪ねたのが「史跡勝坂遺跡公園」。縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされた。また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは我が国の考古学史上、極めて重要であると。 昭和48(1973)年の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区が49(1974)年に国の史跡として指定され、55(1980)年、59(1984)年、令和元(2019)年に追加指定を受け、D区の国指定面積は42,951平方メートルとなっている。D区の東方、谷を隔てた台地に位置する大山柏氏の調査地点、勝坂遺跡A区では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年令和元(2019)年に指定され保存された。勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然地形に、緑豊かな斜面樹林(段丘崖)、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残されている。平成21(2009)年度には「大自然の中の縄文時代」を体感できる遺跡公園として整備した。園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元している。また集落の終末期に登場する敷石住居の模造も屋外展示していた。公園内の管理棟には勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っている。「史跡勝坂遺跡公園 散策マップ」。「<国指定史跡> 史蹟 勝坂遺跡公園」パンフレット。案内に従い「くさはら広場」に向かって進む。案内に従い右方向に向かって進む。すれ違う人もなく。最初に訪ねたのが「敷石住居(30号住居)」「敷石住居(30号住居)縄文時代中期の終わりころになると、それまでの竪穴住居から構造が大きく変わり、柄鏡の形に石を敷いた住居(柄鏡形敷石住居)が登場します。この変化は、中期集落が遺跡の数・規模ともに減少していくことと歩調を合わせに現象です。その要因のひとつとして、気候の冷涼化という環境変動が考えられています。30号住居は土層観察の結果、実際には柄鏡形に掘られに竪穴の中に、敷石されていたことがわかりました。張出部と主体部との接続部には、敷居のような石が置かれています。この出入口部の張出は、出入口のニ重構造による、屋外の冷たい空気を入れない工夫とも考えられています。縄文時代の住居出入口部には土器を埋めた「埋甕」がよく発見されます。埋甕は、縄文人の再生観念による風習とみられ、土器の中に、再生・復活を願うものを入れていたようです。なかには幼児甕棺として骨が出土した事例もあります。」柄鏡の形に石を敷いた「住居(柄鏡形敷石住居)跡」。「埋没谷と縄文集落群」案内板勝坂遺跡は、鳩川流域沿いや湧水の流れる谷戸沿いにつくられた縄文集落群です。D区には、北と南に集落がつくられており、その間には、埋没谷が走っています。現況の地形でも谷状に窪んでいることがうかがえます。谷部などの水が流れる場所は、ドングリを水でさらすアク抜きなどに利用されることがありますがこの埋没谷は調査の結果、集落があったころにはほとんど埋まっていたことがわかりました。また、勝坂遺跡A区には集落を画す埋没谷が確認されています。「勝坂遺跡」配置図。「埋没谷の調査(平成16年)」。右手にあった「勝坂の照葉樹林」。「相模原市登録天然記念物 勝坂の照葉樹林この樹林は、シラカシを中心とする照葉樹林が二次的に回復したものです。低木層にはアオキ・ヒサカキ・シラカン・タブノキ等が見られ、草本層にはナガバジャノヒゲ・ヤブラン等が目立ちます。」前方に見えた「竪穴住居」に向かって進む。先程訪ねた「勝坂遺跡A区」、「旧中村家住宅」案内板。「竪穴住居(土葺)」、「竪穴住居(笹葺)」を見る。「竪穴住居(土葺)」。「竪穴住居(3号住居)竪穴住居はその名のとおり、半地下式の住居です。竪穴の周りには掘り出された土が積まれ、屋根の垂木を打ち込んだり、外からの雨水の流入を防ぐ周堤があったと考えられています。3号住居の場合、竪穴の掘削で出された土の量は、10 tダンプで約4台分にもなります。また、焼失した竪穴住居の調査事例や、中~北緯度の狩猟採集民による民族誌事例では、土葺きの竪穴住居が認められ、周堤以外に土を屋根に葺いて利用したことも考えられます。土葺住居は密閉された屋内空間をつくる特徴から、非常に保温性に優れた住居形態といわれています。3号住居には、石囲いの炉があり、家を暖めていたことでしよう。一方で、雨漏りや湿気のため、湿潤な時期に住むのには適さず」、寒い時期だけの「冬の家」とも考えられています。」「竪穴住居(3号住居)」跡の発掘状況。中央に「石囲炉」、外からの雨水の流入を防ぐ「周堤」、「発掘土器」。「竪穴住居(1号住居)」。「竪穴住居(1号住居)(笹葺)」を入口側から。「竪穴住居(1号住居)1号住居は埋甕と炉の位置関係から、入口が東側に向きます。屋根を支える柱は6本と考えられ、その配置は、炉とともに奥壁側に寄っています。また、炉のつくり替えや、柱穴、周溝が重なって複数あることから、住居の建替えが行われていたことがわかります。1号住居は他の2軒の住居と重複しています。構築の順序は2号→1号一3号の順で、いずれも古い住居か埋まった後につくられています。勝坂遺跡D区の南集落には50軒もの住居が発見されています。竪穴住居「跡」の数からは、大規模に見える集落てすが、集落の長きにわたる継続期間のなかで、住居の構築・建替・廃絶を繰り返した結果としての集落「跡」てあるのが実像です。」「竪穴住居(1号住居)」発掘状況。炉が奥壁側に寄っていること、住居の建替えが行われていたことが解るのであった。そして発掘された土器。入口の隙間から内部をカメラで覗く。往路と反対側を引き返して行くと、この先にも案内板が見えた。「廃絶住居の窪地 ー竪穴住居から竪穴住居「跡」へー竪穴住居の耐用年数は数年から10数年程度と考えられています。住居が使われなくなり廃絶された時から、半地下式の竪穴住居は土で埋まり始め、やがて窪地を形成します。このように、縄文集落の景観は数軒程度の住居とともに、廃絶住居の窪地がいくつもあったとみられています。竪穴住居を発掘調査していくと、住居の床面より高い位置の土の中から、土器や石器、石、炭化物などの遺物が大量に出土します。これらは、縄文人が日々の生活のなかで投け捨てたもので、竪穴住居「跡」となった窪地は、こみ捨て場として利用されていたようです。」「竪穴住居」跡の「窪地」。更に「くさはら広場」を北に向かって進む。ここが「くさはら公園」の東側の入口。「史蹟 勝坂遺跡公園案内図国指定史跡勝坂遺跡は、縄文時代中期(約4500 ~ 5000年前)の代表的な集落跡です。大正15年(1926)に発見された顔面把手付土器などの造形美豊かな土器は、この時代を代表するもので、「勝坂式土器」として広く知られています。この周辺には、起伏に富んに自然地形、緑豊かな斜面地の樹林、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が、今なお残されています。史跡勝坂遺跡公園で、「大自然の中の縄文時代」を感じてみてください。」「史蹟 勝坂遺跡公園」案内図がここにも。上空からの写真。更に北へと。「縄文生活林ー集落周辺の植生と植物利用ー」案内板。「縄文生活林ー集落周辺の植生と植物利用ー縄文人は生い茂った森を切り開き、集落をつくります。集落周辺では木の実や山菜などの採集、建築材や木製品の木材の伐採、薪燃料の確保など、さまざまな生業活動が行われ、自然環境を開発し、改変していきます。その結果、集落周辺には、日当たりのよい空間と土嬢が生まれ、縄文人にとって有用な植物が多く育つ「ニ次林」が生育していたとみられます。食料としては栄養価に富み、保存性の高いオニグルミやクリを採集しています。市域ではクルミの実を模した土製垂飾やクルミ形の土器、炭化したオニグルミの殻なども出土しています。建築材には、耐久性に優れたクリが非常に多く使われています。クリはうっそうとした深い森では多く生育できない木ですが、燃料材としても多用されていることから、集落周辺に多く生育し、人為的に管理されていたと考えられています。木製品では、石芹柄にナラ類やスダジイ、丸木弓にイヌカヤ、飾り弓にはマユミやミズメを使い、サクラの樹皮が巻かれます。丸木舟にはカヤやスギ、クリ、舟をこぐ櫂にケヤキ、ヤマグワ、ケンポナシ、容器にはケヤキ、トチノキが使われることが多く、材の特性に合わせて木材が選択されていたと考えられています。」残念がら、管理棟は閉まっているようであった。管理棟の利用、竪穴住居内の見学は、水~日曜日の9:00~16:00(月、火曜日が祝日等の場合は開放)とのこと。ネットから管理棟の展示品を。「勝坂式土器」。これを見たかったのだが。そして北側入口にあった案内版。駐車場に戻り、最後に「山王大権現」に立ち寄る事とする。背の低い石鳥居の先に大きな石碑が。2基の石碑。右側には「表忠碑」と。左側にも「表忠碑」。大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰碑のようであった。「表忠碑国敗れて山河ありとは古来哀誦の名句であるが国敗れて人の尊厳を見出したものが実に今次大戦の結果であった。我が国は日清、日露の両役を経て漸く其の力を海外に誇示し遂に第二次世界大戦まで発展して惨敗を喫した。この蔭に幾多の尊い人命と貴重な財産が犠牲に供された事を思う時この敗戦こそは肇国以来の痛恨事であった。然し乍らこの敗戦が民主主義を招来し得た事を思えば戦争の犠牲こそ民主日本建設の礎ともいうべきである。この尊い礎を築く為に日支事変以来新磯地区から従軍された至誠蓋忠の勇士を偲び此庭に顕彰の碑を建て全町民結集し感謝の意を表すると共に今後の精進を固く誓うものである。 昭和29年秋 石井 孝 撰文」前の道路は「八王子道」。「八王子道」碑。こちらが「山王大権現」の鳥居。相模原市南区磯部1938付近。「山王大権現」。そしてこの日の「相模原市南区磯部の歴史探訪スポット」の散策を終えて、大和駅ちかくまで戻り、国道467号を利用して帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.20
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次に訪ねたのが「曹洞宗 金澤山 勝源寺(しょうげんじ)」。「曹洞宗 金澤山 勝源寺」相模原市南区磯部2111。参道を進む。「法華経 石一字 供養塔」と。仏教の信仰形態の一つに「写経」がある。経文を心をこめて写すという行為によって功徳を得ようとするもので、在家の信者もこれを行うことによって祈願または供養の目的を果たすことができるという古来からの信仰習俗である。本来の写経は、紙または布に書写するものであるが、その経文を長く記しとどめるため経文を石または瓦に記すという風習が生まれたと思われ、その内でも小石に一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てたものが石一字供養塔と伝えられている。 「不許葷酒入山門」。その先に山門。「曹洞宗 勝源寺」。右手に「六地蔵」。近づいて(右)。近づいて(左)。石段の上に赤い屋根の「本堂」の姿が現れた。「金澤山 勝源寺」掲示板。「美しいものを 美しいと思う あなたの心が 美しい。」「食べものを 拝む 他の命を頂いているから いただきます。」と。右手には「鐘楼」があった。梵鐘には縦笛を奏でる飛天の姿が。正面に「本堂」、手前には黄色の「ザル菊」が。勝源寺は、磯部のバス停「勝坂入口」より東北へ500mにある曹洞宗の寺院。『風土記稿』によれば、竜鳳寺(厚木市小野)の末寺で、山号を金津山といい、千手観音を本尊としています。また同書では、開山を笑山充誾(寛永5年(1628)没)、開基を伊右衛門(寛永10年(1633) 没)としています。当寺には「六本庚申」と呼ばれる青面金剛像が安置されています。これは5代ほど前の住職が作ったものといわれ、明治から大正時代にかけては養蚕守護を願う参拝客で非常に賑わったといいます。特に4月の初庚申の日には露店も並ぴ、そこで売られる「お宝」(木の校に繭などを飾ったもの)を買うと養蚕が当るといわれていました。また、当時は1000体にも及ぶ小型の青面金剛像があり、養蚕農家ではこれを借り、春から秋にかけて各家に祀ったといいます。しかし、これは関東大震災によりことごとく壊れてしまい、現在では残されていません。この「六本庚申」の信仰は、養蚕がこの地の主要産業であったことを物語るものです。また、江戸時代には当寺でも寺小屋が開かれ、児童の教育の場として利用されていました。(平成さがみはら風土記稿より)扁額「勝源寺」。龍の見事な彫刻。「本堂」前の「聖観音」像。近づいて。更にお顔を。「勝源寺の大青面金剛王(六本庚申)」案内板。青面金剛尊(しょうめんこんごうそん) は、仏法の守護神として知られる帝釈天の使者とも言われ病魔・災難を除く神として、また、民間に盛行した「庚申信仰」の本尊として信仰されてきました。当山に祀られている青面金剛像は、「六本庚申」又「千体庚申」ともよばれ、養蚕に効験のある庚申様として広く信仰を集めました。現在、お像脇に納められている焼物のミニチュア像も、往時は千体あったと伝えられています。人々は、養蚕の始まる頃に参拝し、ミニチュアの像を借りて家に祀り、養蚕が終わるとお参りし、お像を納めました。四月の庚申の日あたりに行われたお祭りには、露店が出され、大神楽が行われるなど、近隣はもちろん遠方からも大勢の人が参拝に訪れ、賑わいました。ここ勝坂周辺には、庚申塔が数多く建てられており、六本庚申との深い関わりがあることがうかがわれます。」「青面金剛像」。現在、お像脇に納められている「焼物のミニチュア像」とあったが・・・??「本堂」左手の墓地内にあった歴代住職の墓地。「歴住諸大和尚品位」と。墓誌には未だ・・・・。その横の「石仏群」。「無縁塚」。大きな石碑が2基。右側の石碑。「慰霊碑」と。「今次大東亜戦争が勃発するや歓喜の声に送られて勇躍征衣上途した此等兵児は南に北に或いは海に或いは陸に或いは空に連戦連勝進軍・・・」と。左の石碑。「陸軍歩兵軍曹勲七等功七級中村光定碑」と。墓地の奥にも石仏が。そして駐車場のある「勝坂子供の広場」へと戻る。平日であったので、車の数は思いの外少なかった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.19
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「磯部のざる菊」展を後にして、その近くなった歴史探訪スポットへ足を延ばした。相模原市の雨水用マンホール蓋。市の花「アジサイ」を描いた雨水用マンホール蓋。下部に「さがみはら あめ」の文字。途中、掲示板にあった「令和5年 相模の大凧まつり」の「題字募集」ポスター。相模原市の歴史ある「相模の大凧まつり」を皆様により親しみ、楽しんでもらえるよう、相模の大凧まつり実行委員会では大凧に書く題字を広く募集している と。【相模の大凧について】(1)歴史凧の歴史は古く、天保年間(1830年頃)からといわれ、本格的に大凧行事として開催されるようになったのは明治中期からです。当初は、個人的に子供の誕生を祝って揚げられましたが、次第に豊作祈願、若者の意志や希望、国家的な意義を表徴するものとして地域的な風習となり、現在では観光行事として親しまれています。平成22年4月に相模原市指定無形民俗文化財に「相模の大凧揚げ」、それを継承する団体として「相模の大凧文化保存会」が指定されました。一般的に、凧には絵や文字が描かれますが、「相模の大凧」には、その時々の世相を反映したものが大凧の題字(大凧に書かれる文字)として書かれます。明治から昭和初期に至るまでの題字を知る手がかりは少なく、断片的にしか分かっていませんが、その題字を見ると当時の世相が伝わってきます。「相模の大凧揚げ」は、新磯地区を挙げて「相模の大凧まつり」として、相模川河川敷の新戸スポーツ広場等4箇所で行います。季節は大地に新緑の芽吹く頃、澄み渡った大空の下、春風に乗って、大凧が揚がる光景は圧巻です。 令和元年(2019)『令和』令和2年(2020)『輪風』令和3年(2021) 開催中止令和4年(2022)『命風』と。「相武台下駅前 イルミネーション」ポスター。2022年11/26(土)~2023年2/17(金)16:00~22:00 で開催 と。相模原市の汚水用マンホール蓋。市の木「ケヤキ」をデザインした汚水用マンホール蓋。下部に「さがみはら おすい」の文字。これぞ「鈴なり」!!最初に訪ねたのが「中村家住宅」。相模原市南区磯部1734−1。手前にあったのが「中村歯科」。その隣にあったのが「中村家住宅長屋門」。ここは相模原市の相模川に面した勝坂地区というところに位置しており、縄文時代から大集落を形成していたと言います。農業が中心の土地にあって旧中村家は豪農であったと推察できます。この長屋門は桁行約19mの長大なもので、主屋と同時期の慶応年間(1865~1868)に建設されたと推定されています。そして「長屋門」を潜り進むと正面にあったのが「中村家住宅主屋」。「国登録有形文化財中村家住宅主屋と長屋門中村家住宅主屋は、全国的に珍しい幕末期の和洋折衷住宅です。建築当初は三階建てでしたが、関東大震災後、三階部分は取り除かれ二階建てとなっています。建築を手がけたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、詳細な板図(いたず)が残されています。建物の特徴は、一階の外観は和風の要素でまとまっていますが、二階の外壁を海鼠(なまこ)壁とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、正面に縦長の窓を配しています。長屋門は、桁行(けたゆき)63尺(約19m)の長大なもので、主屋と同時期の慶応年間(1865〜1867)に建築されたと推定されています。長屋門としては一般的な形式ですが、通常は4寸(約12cm)角程度であるのに対して、この長屋門では5寸(約15cm)角の柱が使用されており、冠木も太く、創建当時は豪壮な趣を呈していたものと思われます。長屋門の外壁は朱色の漆を塗った形跡があります。」「中村家住宅主屋」を見る。青瓦と白のなまこ壁のコントラストが今も鮮やか。「旧中村家住宅の概要■登録年月日:平成18年3月2日■主屋:1棟 木造2階建 延べ床面積480m2(1階部分 334m2) (2階部分 86m2)■長屋門:木造平屋建 床面積 88m2■敷地:1筆 宅地 面積 1,869m2」中村家の主屋2階正面の窓は当時としては珍しい洋風の縦長窓。二階そして今はないが三階は大壁構造の海鼠壁に縦長のガラス窓を穿ち、屋根は瓦葺、軒蛇腹は白漆喰で固められていた。現在は青い瓦に改められているが、当初は 赤みがかったオレンジ色だった。瓦は近くに瓦窯を築いて焼いたという。主屋の完成まで10年の歳月を要した。慶応3年に主屋を建てるため、良質なケヤキ材を確保製材するには時間がかかり、また洋風建築の要素といえる海鼠壁が多用された時期を考えると、主屋の建築が数年早ければ、上質な従来の民家建築に、遅ければ擬洋風ではなく、より洋式建築に近い建物になっていた可能性もある。 一階部分には洋風の要素は全くない。柱上部や長押、垂木掛、土居桁にはうっすらと朱が残されている。長押より上の小壁は群青色の漆喰塗りであった。長押の出隅や土台には八双金具が打たれている。二階には四室あり、すべて和室。天井の高さは2.2メートルで、一階よりかなり低い。正面側(西面)には半間幅の窓が六か所あり、当初は観音開きの雨戸を設けていた。窓の内側上部には擬宝珠柱の断面のような形をした花頭形が入っている。玄関には新型コロナウイルス感染拡大防止のため臨時休館中で「本日は休館日です」と。よって「中村家住宅主屋」👈リンク の内部をネットから。以下の写真は頂いたパンフレットから。1階 「式台の間(奥)」。各階平面図。茶の間。そして再び「長屋門」を振り返る。次に訪ねたのが近くにあった「䂖楯尾神社(いわたておのじんじゃ)」。相模原市南区磯部2137。「䂖楯尾神社(いわたておじんじゃ)」碑。「勝坂コミュニティーセンター」もあった。参道右側にあった石仏。「延命地蔵尊」と台座には。「勝坂コミュニティーセンター」。さらに参道を奥に進んで行った。一の鳥居。左脇にあった境内社の社殿。前方に狛犬。狛犬(右)。狛犬(左)。更に急な長い石段が続いていた。更に121段の石段を上る。そして石段を登り終えると石灯籠(右)。やや背が低いが。石灯籠(左)。そして正面に「䂖楯尾神社」社殿。創建年代等は不詳ながら、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれ、羽黒権現社と称していたといいます。明治維新後に「䂖楯尾神社」と改称している と。祭神は「大己貴命( おおなむちのみこと )」。拝殿の内陣、奥に本殿が見えた。「本殿」を斜めから。磯部勝坂石楯尾神社の創建年代等は不詳ながら、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれ、羽黒権現社と称していたと。明治維新後に「」䂖楯尾神社と改称している と。これが石灯籠の一部であろう。手水場の「水盤」。参道の石段を上から望む。「勝坂遺跡(A区)」案内板。勝坂遺跡(A区)では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年、令和元(2019)年に指定され保存された。「勝坂遺跡(A区)」を見る。縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされた。また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは、我が国の考古学史上、極めて重要であるとのこと。 次に訪ねたのが「勝坂式土器発見の地」。相模原市南区磯部4780−1。「勝坂式土器発見の地「勝坂遺跡」は、縄文時代中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として今日では全国的にその名前が知られています。この土器は、大正15 ( 1926 )年10月3日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、初めて発見したものです。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にはわかっていませんが、地図に示した場所の近辺と推定されます。大山氏らの発掘調査はわずか一日だけでしたが、翌昭和2 ( 1927 )年に刊行された調査報告書は、今日的にみましても精緻極まる大変豊かな内容をもつものでした。その後、昭和3 ( 1928 )年には、考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として、「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。「勝坂式土器」は、今から約5.000年前の縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な文様に大きな特徴がみられ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形は他のいずれの土器型式にも例をみないものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.18
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この日は11月8日(火)、平塚駅近くでの仕事の打ち合わせを終えた後に、先日11月3日に旅友が訪ねブログアップしていた神奈川県相模原市南区磯部にある『磯部のざる菊』展に向かう。車で1時間弱でざる菊会場の臨時駐車場・「勝坂こどもの広場」に到着し、『磯部のざる菊』展会場に向かう。道路脇には「ざる菊花見会」と書かれた幟が並んでいた。そして5分ほど歩き『磯部のざる菊』展の会場に到着。入口には「花掛け」の掲示板が。寄付していただいた方のお名前と寄付金額を書いた紙を貼り付けた掲示板。最高金額は「壱万円也」であった。「ざる菊会場 新磯ざる菊愛好会」と。⻩・真紅・⽩・ピンクなどの約8種類、約1,300株が咲き誇っている と。「維持管理協力金 募金箱」。私も100円を。この日は、黄色、真紅は満開、白は7部咲き、ピンクは5~6部咲きであった。近隣住民有志で、ざる菊の栽培に取り組む「新磯(あらいそ)ざる菊愛好会」(藤曲和美(ふじまがりかずみ)会長)が主催しているとのこと。白の「ざる菊」で「平和」の文字を描いているとのことであったが、白は満開手前であり、地上からの角度ではよく判らなかったが。展望台、高台等が手前にあれば・・・・!!ざる菊の花見会は「新磯ざる菊愛好会」が発足した2009年に始まり、令和4年の今年で14回目となる。およそ750坪の段丘に、⻩・真紅・⽩・ピンクなど約8種類、約1,300株のざる菊が整然と並ぶ。会場では期間中、ざる菊の鉢植えや地元産野菜、石焼き芋などが販売されていたのであった。『磯部のざる菊』展は2022年10月30日から11月15日で行われていた。最奥・左側は真紅と黄色のざる菊が満開で見事な光景。「新磯ざる菊花見会」と書かれた掲示板。赤い「平和」の文字が確認できる写真があった。ドローンによる上空からの写真であろう。ズームして。「ざる菊会場周辺案内図」※ 歴史探訪スポット ※● 旧中村家住宅 幕末期の和洋折衷住宅(国登録有形文化財指定)● 石楯尾(いわだてお)神社 なだらかな参道を登り、121段の石段を登りきると本殿へたどり着きます。● 勝源寺「秋の新磯散策マップ」案内。タウンニュース11月3日掲載。「秋彩る「ざる菊」開花 勝坂歴史公園近く新磯地域の秋の風物詩「ざる菊」が今年も勝坂歴史公園近く(磯部4375付近)の農園で美しい花を咲かせている。ざる菊は近鱗住民で結成された「新磯ざる菊愛好会」が栽培したもので、例年訪れる人の目を楽しませている。今年は花の色の配置で「平和」の文字を表現している。新型コロナの影響により今年も花見会や式典は中止。しかし、同会のメンハーが会場を案内し、恒例の地場野菜や菊、焼き芋の販売などは行う。期間は11月15日(火)まで。」読売新聞11月3日朝刊掲載。「ざる菊出来上々 相模原相模原市南区磯部の畑で、直径約1メートル、高さ50センチほどのドーム状に成長する「ざる菊」の花見会が開かれ、多くの見物客が訪れている。約2970平方メートルの畑に植えられているのは、白や赤、黄色などの約1300株。地元住民らでつくる「新磯ざる菊愛好会」が2009年から毎年植栽し、花見会を開いている。同会の藤曲和美会長(77)は、「今年は上々の出来で、見頃のピークは今月中旬頃まで。花を見て気持ちを和ませてもらえればうれしい」と話している。花見会15日まで。入場無料。間い合わせは、同会の安原さん( 090・6516・7591 )へ。」奥に向かって。約1m径の黄色のざる菊。赤も2列に。赤も負けじと。ピンクはこれから。白もピーク間近。整列!!整列!!遠くの大山の姿が。振り返って。少し高い奥の場所から。階段を下りて。「祝 第23回全国花の町づくりコンクール奨励賞受賞JA相模原市は、新磯ざる菊愛好会の活動を応援しています JA相模原市」因みに第23回は、平成29年(2017)6月3日・4日の両日、福井県福井市で「全国花のまちづくり福井大会」が開催された大会であった。ざる菊、ザル菊、ポットマム、ヨーダマム、クッションマム、ぼさ菊、ボサ菊などと多くの名前ついているが、統一してもらいたいのであるが。スプレー菊(スプレーマム)であろうか。地元の採れたて野菜を販売。焼き芋も。仮設トイレもあった。嵯峨菊に似ていたが。スプレーマム(スプレー菊)であっただろうか。左に並んだ白の菊も仕立てたものであろうか。黄と赤が1本のザル菊の如くに。
2022.11.17
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皆既月食が続く。19:31暫く、皆既月食の姿を追う。皆既月食のときの月はどうして赤く見えるのでしょうか?これには夕陽を赤く見せるのと同じ「散乱」という現象が関係しています。太陽の光が地球の大気を通過するとき、波長の短い青い光は空気の粒によって散乱してしまいますが、波長の長い赤い光は空気の粒の影響を受けにくいため、光を弱めながらも通り抜けることができます。そして、地球の大気を通過した赤い光は大気でわずかに屈折するので、地球を回り込んで月を照らします。そのため皆既月食の月は赤く見えるのです。下記の如き説明もネットにありました。月が真っ暗にならない理由は、地球のまわりの大気がレンズのような役割を果たし、太陽光が屈折されて本影の内側に入り込むため。赤銅色に見える理由は、レイリー散乱という現象にあります。太陽光には青や赤などいくつもの光が含まれており、青い光は短い波長、赤い光は長い波長と、それぞれ異なる波長を持っています。そして、光には大気中の微細な分子にぶつかると散乱する、という特性があります。このとき、波長の短い光のほうが散乱されやすくなります。これが、レイリー散乱です。太陽光が地球のまわりの大気の中を通過する際、青い光は散乱されやすいため、大気をほとんど通過することができません。一方で赤い光は散乱されにくいため、光は弱められながらも大気を通過することができるのです。残念がら天王星の姿は我がカメラでは写りませんでした。時間は20:29に天王星が月に隠れる。テレビ画面を撮影。天王星は明るさが約6等級で「空が十分に暗い場所で目の良い人がやっと見えるほどの明るさ」(国立天文台)。天王星食は月が普段の明るさなら観察は難しいが、今回は皆既食によって月が暗くなるため、比較的観察しやすい状況。国立天文台は「はっきりと観察するには、双眼鏡や望遠鏡が必要」としている。天王星の潜入は、東京近辺より西の地域では皆既食の最中に、それより東の地域では皆既食が終わった後の部分食中に始まる。月の後ろから再び出てくる「出現」は、いずれの地域でも皆既食が終わった後の部分食中に起こる。潜入開始は、那覇で午後8時13分、京都で同31分、東京で同40分、札幌で同49分と予報されていると、テレビでは。20:42木星の姿を我がカメラで。そして20:42に皆既月食が終了。月の左側から光が射しだして来た。時間は20:45。そして月の灯りが刻一刻と大きくなって行くのをカメラで追った。21:02そして「赤銅色」の月は消えて。21:44。21:45。ズームして。そしてこの日の月食は終了し満月が姿を現したのであった。21:52。日本全国で見られる、次回の皆既月食は、およそ3年後の2025年9月8日の午前2時30分から午前3時53分に起こるとのこと。深夜から早朝にかけての時間帯になるので、観察・撮影するには寝不足にならないよう対策が必要になりそう。次の皆既月食もぜひ楽しみたいのだが更に、日本で次回、皆既食中に惑星食が起こるのは、322年後の2344年7月26日の土星食となる と。最後に、下の図は、日食と月食が起こる可能性がある範囲を表したもの。月食が起こるエリアのほうが小さいことわかります。地球全体で起こる日食と月食の回数を比較(2021年5月19日時点)すると、2050年までに日食は74回起きるのに対し、月食は49回(半影月食は除く)。月食の方が少ないとのことです。しかし、月食よりも日食の方が珍しいように思っている方も多いのではないでしょうか?そう言う私も。そこには観測できるエリアの広さが関係しているようです。月食は観測できるエリアが広い!日食は、地球よりも小さな月の影になった部分でしか観測できないために、観測できるエリアはかなり限定的となります。しかし、月食は月が昇っているエリアであればどこでも観測することが可能です。日食より頻度は少ないものの、観測がしやすいことから月食のほうが多いと思ってしまうようですね!!。次回は『あの世』でしか見ることが出来ない『皆既月食➕天王星食』👈リンク を楽しみ、今更ながらですが月食について大いに?学ぶことが出来たのでした。そして11月11日(金)の宵から12日の明け方、月齢17の明るい月と火星が大接近して見えたのであった。時間は22:30.月の姿。月齢16.7と。月齢とは、 朔 (さく) (新月)の時を零として数えた日数。1朔望月 (さくぼうげつ) (約29.5日)を周期として、月の満ち欠けの度合いを示す。満月はほぼ月齢14.8であると。火星。(やや手ブレ)、私のデジカメではこれが限界。 ・・・END・・・
2022.11.16
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月全体が地球の影に入る「皆既月食」が11月8日(火)の夜に起こったので、自宅の我が部屋からカメラで刻々と変わる月の姿、色の変化を追ったのであった。以下の「皆既月食のしくみ等」の「説明写真」はネットから転写させていただきました。11月8日(火)17:57の我が部屋からの東の空の「月食」開始前の満月。更にズームして。「月食のしくみ」。満月のとき、太陽、地球、月が一直線に並ぶと、月食がおきます。月が地球の影の中を通り過ぎるときに、満月がだんだん欠けていき、また満月に戻っていきます。地球の公転軌道に対して月の軌道が傾いているために、月食が起きるのは、満月でも地球の公転軌道面に近いところに月がいるときだけです。ただ満月は毎月訪れますが、そのたびに月食が起こるわけではありません。それは地球の公転軌道と月の公転軌道が5.1°程度傾いているためです。そのため太陽と地球と月が一直線上に並ぶのは約半年に1回となります。通常の満月は地球の影より北側や南側にそれたところを通過しているのです。太陽・地球・月が一直線に並ぶのは約半年に1回。よって月食も約半年に1回程度ということになります。ところで、月食で月が欠ける様子と、ふだん見ている月の満ち欠けは何が違うのでしょうか?月は、太陽の光を反射することで見えるようになるので、太陽の光が当たっていない(影になった)部分は、地球から見ることができません。月に当たる太陽の光は一定なので、地球に昼と夜ができるのと同じように、月も明るい部分と暗い部分にわかれます。月は約1ヶ月かけて地球の周りを公転しています。このとき、地球から月が見える方向が変化するため、明るい部分と暗い部分の形が変化するのです。これが月の満ち欠けです。全国で見られる皆既月食は2021年5月以来で、今回はこの日・8日午後6時9分から月の一部が欠ける「部分食」が始まり、皆既食は同7時16分から同8時42分まで86分間続くとのこと。同9時49分に部分食が終わる。この進行は、どこで見ても、同じ時刻であるとのこと。そしてこの日は「皆既月食」と「天王星食」が同時に起こったのであった。ところで「皆既月食」の「皆既」とは何なのか?「皆」は「みんな」だからいいとして「既」がわからない。みんな、既(すで)に、月食?広辞苑第五版によると、かいき【皆既】(「既」は尽きるの意)と。では「既」が「尽きる」という意味かというとこちらは漢字源によれば旡(キ)は、腹いっぱいになって、おくびの出るさま。既はもと「皀(ごちそう)+音符旡」で、ごちそうを食べて腹一杯になること。限度まで行ってしまう意から、「すでに」という意味を派生するのだとのことで、そもそも「尽きる」とか「尽くす」という意味だったものがあとから「すでに」になったのだと。因みに英語で「皆既月食」は「total lunar eclipse」であり「eclipse」とは、・光の消滅、光が遮られること、影を投げかけられること・〔名声などの〕輝き[光輝・光彩]を失うこと、失墜 とのことで日本語よりは解りやすいのである。日本で皆既食中に「惑星食」が起こるのは、安土桃山時代の1580年(天正8)7月26日(旧暦の6月15日)の「土星食」以来、約442年ぶりとのこと。1580年といえば織田信長の時代、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたのが1582年であるので本能寺の変の2年前である。織田信長:46歳、徳川家康:37歳、明智光秀:52歳の時である。皆既月食と天王星食で天文現象の「大谷二刀流」であると。 【https://livedoor.blogimg.jp/okayama00glocal/imgs/9/1/9197bd5e.jpg】よりそして18:09、部分食が始まりました。地球が丸いということを最初に唱えたのは、紀元前6世紀ごろ、ギリシャのピタゴラスとその学派の人たちであったとされています。この時代のことは、文献が残ってなくてよくわからないのですが、遠くの船は船体の下の部分が水平線の下に隠れ、マストだけが見えるということをきっかけに、古代ギリシャ人は地球が丸いことに気づいたという説があるのだと。ピタゴラスの時代から200年ほどが過ぎると、世界でもっとも偉大な哲学者の1人といわれるアリストテレスが現れます。ピタゴラスの場合、地球の形を球だとしたのは信仰のようなものですが、アリストテレスは地球が丸いという根拠をきちんと示しました。アリストテレスは、月食のとき月に黒い丸い影が映るのは、丸い地球の影が映っているからだと説明しました。彼は月食のことを当時から正しく理解していたのである と。じわじわと月面の黒い部分が大きくなって来ました。ウサギの脚の部分が隠れて来ました。時間は18:26。アリストテレスと同じく黒い影が丸いことが私にも判ったのです。テレビでは姫路城上空の月の姿を。こちらは京都・東寺の五重塔と共に。そして半分の月、18:47。カメラの設定を変更すると隠れた部分が赤く見えて来ました。19:0019:0619:1119:1119:1219:1319:1419:15そいて19:16を過ぎ、皆既食開始19:17。 ・・・つづく・・・
2022.11.15
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「雲昌寺」境内の「菊花園」を鑑賞した後は、久しぶりに「雲昌寺(うんしょうじ)」の見学を行った。神奈川県藤沢市亀井野1457。寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所四脚門の「山門」。山門に掲げられていた扁額には山号「光輝山」の白き文字が。山門を通り境内内部へそして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像塔が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像塔は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。「鐘楼」戦争で供出された鐘の音をもう一度亀井野の地にということで、富山県高岡市の老子製作所に発注し、昭和58年10月に火入れ式を行い、昭和60年に鐘楼堂が完成。移動して。「鐘」には「光輝山 雲昌寺」と。鐘は、総高さ1m76cm、総重量1,125Kg(300貫)とのこと。鐘は、平日の午前6時30分と、12月31日の除夜祭で撞かれており、その「除夜の鐘」👈リンクの音色が我が家にも届いているのである。そして「常香炉」とその先に「本堂」。徳川幕府から御朱印を賜ったということで、本堂の棟、この常香炉などに葵の紋が見られる。常香炉の脚には「夜叉」のお顔の如き姿が。珍しい装飾の石灯籠。「寺務所」。「本堂」。「本堂」手前にはボール状に仕立てた「ぼさ菊」が並んでいた。黄色の「ぼさ菊」。赤の「ぼさ菊」。「本堂」の扁額は「雲昌寺」。「内陣」。両脇の柱には「無影林中心月耀」、「不萌枝上徳蕐?」禅の言葉であろうが意味は?本尊は如意輪観音で、開基は今、『鎌倉殿の13人』の主人公の道済(北条義時)。創立は繰り返しになるが、建保年間(1213~19)頃で、もとは今田にあり瑞龍寺と号した。慶長元年(1596)災害に遭い、その頃住職宗順により亀井野に移り、寺号を雲昌寺と改めた。慶安元年(1648)徳川幕府より朱印九石を賜った と。「朱印九石を賜った」とは朱印状とともに九石の土地を頂いたと言うことか。一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当すると言われていますから、九石といえば九人を1年間食べさせることができる石高?「達磨大師像」。「釈迦如来像」であっただろうか。「本堂」内の大きな灯り。最近三代の住職の遺影。鳳凰が描かれた漆絵。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めのとき関東の主要な地域に「禁制」を出している。藤沢では今田、亀井野、村岡、江ノ島などに出されており、ここ雲昌寺にはその「禁制」が保存されているのだ。「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事項を周知させるために作成した文書である。のち木板に書かれ高札場に掲げられた。秀吉の出した禁制は三ヵ条からなっている。「相模国 禁制 今田 亀井野二ヶ所一 軍勢甲乙人等 濫妨狼藉の事、一 放火の事、一 寺家門前の輩に対し、非分の儀申し懸くる事、右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。もし違犯の輩においては、忽ち厳科に処せられるべき者なり。天正十八年四月日○ 秀吉朱印」と。解説書によるとその内容は、一、軍勢である兵士、従者が乱暴や狼藉をなす事 一、放火する事 一、庶民や百姓に対し、無理不当な事を要求する事 これに違犯した者は直ちに厳罰に処する。というものである。これは戦場となる村人に対しての宣撫工作、人々を安心させることにあったとされる。禁制が出された3か月後、北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に入ると、藤沢の諸村は徳川の直轄領、旗本領となった。禁制のオリジナルを一度見たいものだと思っていたが、禁制は本堂内に額に入れて展示されていた。400年以上もの文書とは思われない保存状態であった。天正十八年とは1590年、豊臣秀吉が関東地方を平定、徳川家康が江戸城に本拠を移動した年。甲冑と太鼓。装飾された和太鼓、雅楽の演奏に使用されたものであろうか。「本堂」を出て、境内を散策。木魚の上に座り眠る小坊主。肩にはネズミの姿が。ネズミは雪舟の逸話からか?「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。これは雪舟について最もよく知られた話である。」と。「道元禅師像」であっただろうか。 境内奥にあった「聖観世音菩薩像」。 お顔をズームして「聖観世音菩薩」と。親子?で顔を見合わせながら「なむなむ」と経を詠む姿。 「十三重石塔」。十二という数は、十二因縁、十二支を意味する。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んでいると。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。「稲荷大明神」。ここにも神仏混淆の跡が。「稲荷大明神」の社殿。「本堂」裏の墓地に向かう。立派な藤棚があった。位牌堂。それまでは本堂の一部の場所を占めていたが、平成13年に位牌堂として本堂の裏手に完成した。墓地の中から位牌堂そして本堂を見る。歴代住職の墓地。「歴住大和尚之墓」。歴代住職の名が刻まれていた。現在の住職は第二十ニ世か。そしてこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時「光輝院殿瑞龍道西大居士」と。歴代住職の墓地の一角にこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時の供養塔があった。「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていると。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。そして下の写真は今年2022年の2月に訪ねた伊豆・『北條寺』👈リンクにあった「北条義時夫妻の墓」。右が北条義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると。後妻というと昨日も「鎌倉殿の13人」にも登場した「伊賀の方」が有名なので、彼女じゃないところが興味深いのであった。「北条義時夫妻の墓北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父 時政 兄 宗時とともに従い大功があった。鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の姉の曽孫に当たる藤原頼経を迎えて自らわ執権となり勢威を極めた後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年(1221年)院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子 泰時、弟 時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃し後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世にいう承久の変である。義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓である。」北条義時の墓。『吾妻鏡』によれば、北条義時は、承久の変後3年、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。「鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという」👈リンク。ここ北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられていると。後妻佐伯氏娘(伊賀の方)の墓。北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られていた。藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称したと。「北条義時」像。「北条義時」は鎌倉幕府2代目執権であり、源頼朝の妻・北条政子の弟。初代将軍「源頼朝」の亡き後、2代目将軍「源頼家」や3代目将軍「源実朝」を支え、頼朝が実現しようとしていた鎌倉幕府の政治基盤を築く。政敵を徹底的に潰し、敵対するなら実父ですら失脚させるなど、冷酷な振る舞いをしていた義時は「権力のために他人を蹴落とす悪人」と呼ばれることもあった。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。その「六地蔵」が石灯籠の奥に。「六地蔵」。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.14
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今年も地元のお寺の雲昌寺で開かれていた菊花展に先日・11月5日・5回目のコロナワクチン接種の帰路に立ち寄って来ました。 雲昌寺は建保年間(1213年~1219年頃)に道済(北条義時)により開基。もとは瑞龍寺と称して現在の今田地区にあったとのこと。慶長元年(1596年)に水害で堂宇が流失したことから第4代の宗順によりこの地に移り、現山号の「光輝山 雲昌寺」に改めている。今年の「菊花展」の開催期間は10月30日(日)~11月8日(火)までの10日間。 境内の仮設展示場の下に苦心の豪華な菊がズラッと展示されていた。今年も自慢の厚物、管物の黄、白、紫の大菊が。1年間気の抜けない栽培育成に脱帽。厚物コーナー。黄色の花にも微妙な濃淡が。3本仕立ての厚物、管物。盆養とも言い、大菊の最も基本的な仕立て方であると。1本の苗を摘芯して3本の枝を伸ばし、後の1輪を花の2/3位高く、前の2輪は同じ高さに、三つの花を同時に、 同じ大きさに揃えて、出来るだけ巨大輪に咲かせ、茎・葉を含めた全体が調和を保つように育てるのだと。白が盛り上がって。「厚物」は、数百枚の花弁が花芯の中央一点に向けて鱗状に整然と高く盛り上がったものが良い花であると。「厚走り」は、厚物の花の下に袋状の真っ直ぐ長い走り弁が放射状に付いたものが良い花で、より大きく見えます と。下の写真のものは、どちらかといえば「厚走り」か?ピンクの「管物」に近づいて。「管物」は花弁が管状になるものの総称。太さにより、太管・間管・細管・針管などとよぶ。三本仕立ての「厚物」・「厚走り」。鮮やかな黄色の厚物。別の角度から。三本仕立ての管物コーナー。5本仕立ての厚物、管物コーナー。手前に5本仕立ての厚物。養蜂場のある私の農園の隣で農園をやられている農友の作品です。花弁の黄色の濃厚さとボリュームが見事。ズームして。奥にあるものは嵯峨菊であっただろうか。7本仕立ての管物。ズームして。黄色のポンポン菊であろうか?ズームして。振り返って。厚物を再び追う。手前はこれぞ純白。特に一番外側の花弁が長く突き出るものを厚物と区別して「厚走り」と呼んでいるとのこと。文字通り花弁が細長い管状になっています。見事な3本仕立て。 「本堂内にて菊の切り花はなぐも会によるいけ花展示してあります。ご自由にお入り下さい。」「本堂」内には厚物、管物の切り花を展示していた。厚物をカメラで追ったが、ピンボケ。そして管物。反対側から。 ・・・つづく・・・
2022.11.13
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「江の島弁財天仲見世通り」を「江の島弁天橋」に向かって下って行った。「旧岩本院 岩本楼」の入口。江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院であった。弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。ちなみに歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧は、岩本院の稚児がモデルであると言われているのだ。土産物屋の色鮮やかなフクロウがショーウィンドウ内に。人の数も大分少なくなった。「とびっちょ 江の島弁財天仲見世通り店」が左側に。「富士山の見える江の島天然温泉」と。「江の島アイランドスパENOSPA」の入口のショーウィンドウ。鮮魚の模型?が。こちらは海鮮ピザ。「磯料理 貝作」は営業中。再びドラゴン広場のハートのオブジェ。「江の島大橋」の袂、国道134号沿いの高層マンション群を見る。「江の島アイランドスパENOSPA」の上に見える「江の島シーキャンドル」を振り返る。片瀬西浜海岸も満潮に向かっていた。「江ノ島で見られる野鳥」案内板。「岩屋洞窟方面行き」船乗り場。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」(左)。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」(右)。そして国道134号の地下道広場の中央。壁にあった観光案内。浮世絵。「冨嶽三十六景」「相州江ノ島」。こちらは葛飾北斎の作品。片瀬浜から見た春の江ノ島。萌え出る若葉と江ノ島弁天にいたる参道、両岸の茶店や家並みが細かく描かれています。潮が引いて、江ノ島へ向かう人々の様子そして江ノ島弁天の三重塔の姿も。「相州江ノ嶋岩屋之図 」 歌川広重作江ノ島の南の海岸にある、岩の洞窟の「岩屋」の入口の画 。二代歌川広重 諸国名所百景 相州七里が浜。この「諸国名所百景」は安政6年~文久元年(1859-1861年)まで約3年間で100枚近くが出版され、二代歌川広重の代表的な作品となっている。この百景のうちに、武州関係では「武州横浜野毛」がある と。「相州江ノ島」 歌川広重作干潮時、江ノ島へ渡る人々の姿が描かれている江の島「案内図」。そして「境川」に架かる「弁天橋」を渡る。前方に小田急線「片瀬江ノ島」駅舎の赤い屋根が。「境川」上流を見る。左手には「江ノ島シーキャンドル」。国道134号「片瀬橋」。そして小田急電鉄江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。1929年以来、地元住民から“竜宮城の駅”として親しまれてきた片瀬江ノ島駅。1999年にはその個性的なたたずまいから「関東の駅100選」にも選ばれた。2020年のリニューアルでは“竜宮城の駅”のイメージはそのままに神社仏閣の造作技法を取り入れ、屋上にはイルカの像を設置するなど、江の島に古くから伝わる「五頭竜と天女の伝説」をモチーフにした品格と遊び心があふれるデザインを取り入れて。3社の路線(江ノ島電鉄線と湘南モノレールを含む)がある江の島地区の駅では唯一、東京都区部(新宿駅)への直通列車があったが、現在はロマンスカーを除き藤沢~片瀬江ノ島駅間を往復している。江ノ島(江の島)と名が付く駅(片瀬江ノ島駅、江ノ島駅、湘南江の島駅)の中でこの駅が最も江の島に近い。行楽地・観光地ということもあり、駅舎は竜宮城を模したユニークなデザインになっている。関東の駅百選認定駅。楼門の軒唐破風の下には妻壁が彫刻で飾られていた。軒上にも龍が。斜めから見上げて。波間から昇龍の姿、そしてその屋根には宝珠水煙が。右側。左側。イルカの像を鯱(しゃちほこ)の如くに。水面からジャンプしたかのようなポーズがかわいらしいのだ。金色に輝くイルカや竜は、塗装ではなく金箔仕上げ と。「潮風の当たる場所なので、どこもしっかりした造りにした」と。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。正面に向かって右側。正面に向かって左側。改札手前の新江ノ島水族館手前の天上の四方には亀の姿も。改札を入ったコンコースの天井を飾る幅約15mの堂々たる竜の彫刻は駅のシンボル。左から順番に。ケヤキを素材に1年半かけて彫刻家がつくりあげたという大作には、実は波間にタイやタコ、カメ、さらにはUFO?らしき物体などの「隠れキャラ」も潜んでいるのだと。そして藤沢駅行きの電車に乗り、藤沢駅から相模大野行きの電車に乗り換え帰宅したのであった。テレビのニュースでは、ウクライナ各地にロシアのミサイル攻撃があり、電力と水道の供給に多大な影響が出ていると。ロシア軍の攻撃は発電所や電力会社を直撃し、国内のエネルギーインフラの約30%に損害を与えたとも。そして、停電中のウクライナ国民は【ろうそく】と、携帯のライトだけで過ごしている と。1日も速い、電力復旧、そして一刻も早く平和が訪れることに想いを馳せながら、「湘南キャンドル2022」を鑑賞したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.12
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更に入口横のCandle群を追う。Candleグラスに蓋が付いているのは、終了後に灯を消すためのものなのであろうか?そして「LONCAFE 湘南江の島本店」方向に進む。「MIAMIBEACH AREA(マイアミビーチ広場)」と。江の島へ続く「江ノ島弁天橋」や「江ノ島大橋」、鎌倉市方面を中心とした夜景を眺めることが出来る場所・撮影スポット。場所を移動して、鎌倉方面への海岸線。「LONCAFE 湘南江の島本店」の店内を見る。「日本唯一のフレンチトースト専門店」の味を堪能しながら、キャンドル、夜景を眺めて楽しむカップルの姿が。再び「江の島シーキャンドル」を。ズームして。そして入苑チケットを係員に手渡し「サムエル・コッキング苑」で開催されていた「湘南キャンドル2022」を後にしたのであった。帰路も往路と同じルートを下って行った。エスカー3乗り場。「江島神社 中津宮」の扉は既に閉まっていた。「江の島ヨットハーバー」を見る。昨年・2021年、「東京2020オリンピック」のセーリング競技が開催されたのであった。「ヨットハウス」は江の島ヨットハーバーの管理事務所。1964年、2020年オリンピックのヨット・セーリング競技が開かれたことを示す「帆のモニュメント」がここ展望台に設置されていた。エスカー2乗り場。公衆トイレの壁には「観光情報誌 湘南江の島Walker」のポスターが。左手に安岡 正篤(やすおか まさひろ)の「感載碑」。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。右側に「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。 「結びの樹」。辺津宮の境内を出るところに、幹が二つで、根が一つになった「むすびの樹」と呼ばれる大銀杏の御神木が。しかしいつの間にか切られて。「むすびの樹」の周りには、良縁成就を願って奉納されたピンクの絵馬がたくさん掛かっていた。辺津宮の左側にあるのが、八角の「奉安殿」。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。「白龍王黄金浄水」。水源には徳力製の純金の小判が秘められてあり、この御霊水で金銭を洗うと、金運向上、財宝福徳のご利益が授かると。 近づいて。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神としても信仰を集めています。」弁財天の神使「白龍王」。「江島神社 辺津宮」。扁額「邊津宮」。「茅の輪くぐり」もこの日の役目を終えて。石段の途中から「江島神社 辺津宮」を振り返る。「御朱印」案内。江島神社「瑞心門」を見下ろす。脚長オジーサンの姿を。「弁財天・童子像」。「江島神社 大鳥居」が前方に。エスカー1乗り場。「江の島弁財天仲見世通り」を前方に見る。ここは県道305号線。「江島神社 大鳥居」、「江島神社 瑞心門」を振り返る。「江島神社 瑞心門」。「江島神社 大鳥居」前の狛犬(右)。「江島神社 大鳥居」前の狛犬(左)。「江島神社」の「制札・定」。「江島神社」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.11
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「江の島サムエル・コッキング苑」の入口方向に進む。左手奥にあったのが「LONCAFE 湘南江の島本店」。2003年に日本初のフレンチトースト専門店としてオープン。手前には白色の灯りが。竹筒灯籠に似て。そして入口付近の一番カラフルな灯りの場所へ。様々な色が混じって幻想的。そしてこの先はカップルの撮影スポットになっていた。色合い豊かなキャンドルに囲まれたベンチに座り記念撮影するカップルの姿が。別のカップルをズームして。灯りの奥には昆明広場の「騁碧亭(ていへきてい)」が。ライトアップされた「騁碧亭」。ズームして。再び「灯りのカオス」をカマラで追う。「湘南 Candle」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.10
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「江の島シーキャンドル」の階段を下りて、ウッドデッキを歩く。「THE SUNSET TERRACE」案内。「THE SUNSET TERRACE」は、シーキャンドルが営業している時間帯はいつも開放。椅子も置いてあり、自由に利用することができるのであった。「THE SUNSET TERRACE」はここ。「THE SUNSET TERRACE」を歩く。これも「湘南キャンドル2022」の展示であっただろうか。ズームして。「enoshima SEACANDLE」。少女とクラゲ。ウッドデッキから「江の島シーキャンドル」を見上げて。江の島らしく、網とガラス浮き球のコラボが。ガラス浮き球にもひとつづつキャンドルが入って火が灯って。流木とのコラボ。そして赤い絨毯が2本敷かれているが如き小路を進む。ライトアップされたヤシの木と月。ズームして。「江の島シーキャンドル」と「ヤシの木」のコラボ。別の場所から。素朴な白の灯りを。ミニ「江の島シーキャンドル」。月の姿を再び。別のミニ「江の島シーキャンドル」下の緑は「江の島」をイメージしたか。本物とのコラボ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.09
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「江の島サムエル・コッキング苑」手前にあった「江の島 Guide Map」。「湘南Candle 2022 入口」案内板。「17時以降「出場」の方は【イベント観覧券】が必要です。出口でスタッフがイベント観覧券を回収または確認いたしますイベント観覧券大人500円・小人250円」「湘南キャンドル2022」の只見(タダミ)は出来ません!!と・・・しっかりしています!!私もイベント観覧券を自販機で購入し、苑内に入る。「江の島サムエル・コッキング苑」案内図。黄色の部分がキャンドル配置エリア。赤がメインストリートである と。苑内に入ると右側に「湘南キャンドル 2022」が拡がっていた。「湘南Candle」と。「江の島サムエル・コッキング苑」内に約10,000基のキャンドルを設置。あたたかなロウソクの光が秋の夜を包み込みのであった。キャンドルもカラフルなガラスの瓶の中で温かく灯っていて、ロマンチックな雰囲気。EDのイルミネーションももちろん美しく味わいがあるが、ユラユラした温かみのあるロウソクはまた格別なのであった。この場所は帰路の最後にゆっくり鑑賞することとし、メインロードを「江の島シーキャンドル」に向かって進む。右手にあった昆明広場の「騁碧亭(ていへきてい)」を背景に。正面にライトアップした「江の島シーキャンドル」。オレンジ色をメインに緑と赤が散りばめられて。ズームして。木箱を利用して。「江の島シーキャンドル」は様々な色に刻々と変化して。灯りが様々なオブジェの中から。緑と白の灯りのざわめき。ヤシの木もライトアップされ緑が輝く。そしてフラスコに似たガラス細工が色とりどりの顔をしてぶら下がって。風に微妙に揺れながら。周囲を廻りながら様々な角度から。青色蛍光色にライトアップされたトランポリン遊具「ふわふわドーム」。子供たちがピョンピョンと。そしてチケットを購入し、「江の島シーキャンドル」の展望台へ上がる。海抜119.6mの展望室からは360度のパノラマを楽しめ、多くのカップルや家族連れが連日訪れる大人気の観光スポット。晴れた日には富士山や伊豆半島まで見渡すことができるのだ。「江の島シーキャンドル(展望灯台)」は2002年、江ノ電開業100周年事業の一環として建設された。当初はロケットのような外見であったが、2003年4月にリニューアルオープンし、キャンドルを模した現在の姿になったのだ。エレベータの中から。エレベーター横の階段を登り、屋外展望台へ。オープンエアの展望台ならではの開放感あふれる眺望は更に捨てがたいのであった。「江の島弁天橋」、「江の島大橋」そして国道134号を見る。ズームして。湘南海岸・西浜方向。ズームして。折しも月と木星の姿が。月をズームして。眼下の灯籠。平塚、小田原方面。帰路は階段で降りることに。眼下の灯りを楽しみながら階段を下る。再び「江の島弁天橋」、「江の島大橋」をズームして。美しい光の3原色・赤(Red)緑(Green)青(Blue)が並ぶ。「江の島シーキャンドル」のライトアップ用であろう。再びトランポリン遊具「ふわふわドーム」を。売店には長蛇の列が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.08
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歩行者専用の「江の島弁天橋」を渡る。左側は自動車専用の「江の島大橋」。「沿革この橋は明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島棧橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、その後、江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。昭和33年7月 神奈川県」長さは海上部分が389m と。この写真は昭和初期の頃のもので、当時この橋は「江の島桟橋」と呼ばれていたそうである。砂浜部は板が敷かれていたことが解る。 【https://hamarepo.com/story.php?story_id=1066】よりそして海上部は丸太が組まれ。幅は2m程度であろうか。 【https://hamarepo.com/story.php?story_id=1066】より「江の島弁天橋」から「江の島」を見る。「境川」河口の「片瀬漁港」先端にある「白灯台」。その奥に「烏帽子岩」。日帰り温泉施設「江の島アイランドスパENOSPA」。カップルでの撮影スポットにはハート型のキャンドルオブジェが。ラグジュアリースパリゾート「えのすぱ別館」入口の建物の壁にあった絵画タイル。牡丹、菊等が豪華に描かれていた。路面には天使の羽が生えた少女の姿が。歩いて来た「江の島弁天橋」を振り返る。ドラゴン広場のハートのオブジェを正面から。「青銅の鳥居」。江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめているのだと。この先の商店街の道も神奈川県道305号江の島線なのである。波をイメージした模様の灯籠が土産物屋の前に並んでいた。今年の花火大会(3分☓5日間)のポスターが貼られていた。こちらはこの日の目的の「湘南キャンドル2022」のポスター。右手に「創作ちりめん「布遊舎」江ノ島店」。そして「江島神社 大鳥居」。その先に「江島神社 瑞心門」。近づいて。7/23(土)〜8/31(水)開催された「江の島灯籠2022」のライトアップ。以下の3枚の写真は友人から送られて来たものです。昨年の江の島灯籠でも、夏の夜空に浮かぶ瑞心門を彩る光のインスタレーションは大変好評。2年目の今年はスケールアップ!瑞心門〜階段〜辺津宮まで広がったエリアで「天女と五頭龍の恋物語」をフィーチャーし、今年のモチーフ「花火」を加え、さらに華やかに“光の絵巻”を演出して江の島の夏の夜を彩ったもだと。 ここ瑞心門では「江ノ島誕生」 「五頭龍」 「天女降臨」 「天女と五頭龍の出会い」 「五頭龍の御加護」加え、新たに「花火」のモチーフによって厄災を祓う気持ちと現代の美しい江の島の夜を表現したのだと。門の両側には唐獅子画が。右側は青の唐獅子。左側は緑の唐獅子。「瑞心門唐獅子片岡華陽 筆中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し、定着していきました。以後、仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮謹を祈念する形代として飾られるようになりました。この瑞心門唐獅子は御祭神の守護と合わせてご参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。平成7年4月初巳日 江島神社奉納 東京 中村明」石段を上ると正面に「弁財天 童子像」。「弁財天 童子像 建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を迎へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり」「杉山検校の福石」そして「江島神社 辺津宮」。「江島弁財天」。「八坂神社」。「八坂神社御祭神 建遠須佐之男命例祭日 七月十四日旧称 天王社御祭神の建速須佐之男命は八岐大蛇退治で知られる日本神話の英雄で、神仏習合時は牛頭天王と呼ばれました。疫病を始めとするあらゆる災難からお守り下さる神様で、江島神社に祀られる三女神の父神でもあります」「藤沢市指定重要無形文化財江の島 天王祭令和ニ年(ニ〇ニ〇)四月一日指定八坂神社(江島神社境内社)の江戸時代以来の例祭。腰越で祀られていた神体(建速須佐之男命)が大波に流されたのを、江の島の大海士(素潜り漁師)が海中より、すくい上げて祀ったと伝わります。この伝承を再現したのが、今日では毎年七月第ニ日曜日に行われる神幸祭(神興の海上渡御・東浦祭典・小動神社渡御)です。その前後数日間の一連の祭礼が天王祭で、「かながわの祭り50選」に選ばれています。祭祀の始まりを再現する形態が、伝承通りに江の島島内の魚師を主体として伝えられていること、特殊神饌として調理した麦を供した後、参脂者に振る舞うことに特色があります。神興渡御の際に先導して奏でられる「江の島囃子」は、神奈川県の重要無形民俗文化財に指定されています。」「稲荷社・秋葉社」。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。「江の島ヨットハーバー」を左眼下に見る。海の先に「七里ヶ浜」。「中津宮」参道にあった江戸歌舞伎「中村座」が奉献した石灯籠。七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助親子の手形モニュメント。平成十一年(一九九九年)九月七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお練りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。「江島神社」の「中津宮」。853年(仁寿3年)、慈覚大師(円仁)による創建と伝えられている。1689年(元禄2年)に改築。1996年(平成8年)には、全面的な改修が行われ、元禄改修時の社殿が再現されている。江戸時代には、商人・芸人の信仰を集めた。祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。エスカー2出口。エスカー3乗り場。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.07
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この日は11月4日(金)、地元江の島で開催されている「湘南キャンドル2022」を観に行く。「湘南キャンドル2022」のポスター。期間は~11/6(日)までとのことで、比較的温かいこの日、そして土、日の最終日は混雑が予想されるのでこの日に行く事を決断したのであった。16時に出発し小田急線で片瀬江ノ島駅に。改札出口の正面には「江ノ島水族館」とコラボレーションした大型の「クラゲ水槽」が。「タコクラゲ」であろう。クラゲだが足(触手)が8本。だから「タコクラゲ」。傘の水玉模様も可愛いのであった。「タコに似た外見からその名がつけられ、体内に褐虫藻(かっちゅうそう)が共生する為に褐色になっている。褐虫藻はクラゲの体内で光合成を行い、その産物の一部をクラゲが利用する。傘に触手はないが、傘の下には八本の口腕がある。その口腕の先から、細長い棒状の付属器が伸びるのが特徴の一つで、これが形の上でタコの足に当たる。日本近海では関東以南の温暖な海域に生息し、傘径10cm程度になるが、20cmほどの個体もいる。夏から秋に、静かな湾内で見ることが多い。刺胞動物に分類されるが、毒が弱くほとんどの人は痛みを感じない。」とウィキペディアより。この「タコクラゲ」の足(触手)は6本?何かの理由で2本失い再生中か?いつまでも眺めていたい、水分95%の「タコクラゲ」の動きなのであった。そして改札を出た裏側にはウミガメがゆっくりと泳いでいた。片瀬江ノ島駅は、2020年2月28日に、神社仏閣の技法である竜宮造りを取り入れ、また屋根上にはイルカの像を設置したり「五頭竜と天女の伝説」をイメージした装飾を施すなど、品格と遊び心が共存する新駅舎として、一部供用を開始した のだ。まずは湘南海岸からの夕焼けを楽しみに、国道134号を渡り西浜に向かう。残念ながら、雲に覆われ夕日の姿はほとんど顔を見せなかったが周囲の雲は赤く染まっていた。「県立湘南海岸公園」案内図。この付近の鵠沼海岸は明治中期に海水浴場としてオープンして以来有名となり、夏の海水浴客をはじめ、多くの文化人に愛されてきた。都心からも程近く、その恵まれた眺望は今も湘南を代表する人気スポット。 湘南海岸公園は藤沢市の鵠沼海岸、片瀬海岸に沿って約2kmに渡り、面積は約 17.4ha で、公園内には噴水広場、ちびっこ広場、水の広場、海風のテラス、公園管理事務所であるサーフビレッジなどの公園施設がある。また、駐車場は片瀬海岸地下駐車場を含めると6箇所。園内には新江ノ島水族館、なぎさの体験学習館及びイタリアンレストラン等があるのだ。夕日と夕焼けを海岸からカメラで追うが・・・・。伊豆半島方向には山の端が見えたのだが。束の間であったが陽光が水面に射し込む。そしてオレンジ色の帯が水面に。そして再び黒い雲の中に姿を隠した。江の島の姿。まだ17時前であったので、「江の島シーキャンドル」は点灯前であった。平塚方面に曲線状に延びる湘南海岸の鵠沼海岸・辻堂海岸。親子連れ、カップルが岸辺に。雲の切れ目はオレンジ色に輝くのであったが。再び江の島の全貌を。雲の端は筋の如くに輝いていたが。そしてこの日の日没時間の16:42。雲の端の筋もジワジワと輝きを失って行った。この光景を見たかったのであったが。(2017年撮影)。そして茅ヶ崎海岸の沖の「えぼし岩」をズームして。 正式名称は「姥島(うばじま)。片瀬漁港裏の駐車場にあった「乃木大将像台座石ここにはかって、日露戦争時の陸軍司命宮として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明になり、台座だけが残されました。この石は、その台座石に使われていたものです。」昭和初期頃の写真であると、ネットから。日露戦争の英雄「乃木希典」(のぎまれすけ)。「乃木大将」・「乃木将軍」と呼ばれている。学習院院長も務めた乃木大将は、片瀬にあった学習院水泳訓練所で学生たちに水泳を教えていた。1937年(昭和12年)、片瀬の海岸に乃木の銅像が建てられたが、1946年(昭和21年)5月に、取り外され横たえられていたのが目撃されたのを最後に、どこにいったのかわからないのだという。そして片瀬漁港入口にあった石造を江の島を背景に。パブリックアートの親松英治作「海の詩」。江の島を背景に大きな鯛をかかえた青年がアクロバチックなポーズで異彩を放っていた。台座には2006年の片瀬漁港整備記念と。ヤシの木と江の島を背景に。「片瀬漁港」案内板。境川河口に隣接する漁港。湘南の名物のシラスは主にこの港から揚がるのであろう。今年の「ふじさわ江の島花火ウィーク」の「お知らせ」。開催期間:2022年11月14日(月)~18日(金) 雨天・荒天中止と。例年10月中旬に開催している「ふじさわ江の島花火大会」について、今年度は11月に「ふじさわ江の島花火ウィーク」と称し、平日の月曜日から金曜日までの連続した5日間、3分間の花火を打ち上げることを決定した と。打上時間:18時 ~ 18時3分(3分間)場 所:片瀬海岸西浜打上発数:各日150発(最大号数4号玉)。そして江の島に向かい「境川」に架かる「片瀬橋」を渡る。「片瀬橋」から「境川」の河口そして江の島を見る。「江の島弁天橋」のヤシの木の並木を見る。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が前方に。江の島は弁財天と五頭龍の伝説があります。この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から、数え1450年を記念に平成13年(2001年)に建てられたもの。江島神社御鎮座千四百五十年記念としてこの石灯籠(龍燈)を建立したと碑に説明されていた。江ノ島は天女と五頭龍の伝説で有名な島で、早くも弁天橋の手前で龍が迎えてくれたのであった。龍が石灯籠の台座に巻き付いた迫力ある一対のモニュメント。この先、島内で龍をモチーフとしたモニュメントが数多くあるのであった。右の石灯籠(龍燈)。左の石灯籠(龍燈)。「片瀬漁港」の船着き場を見る。そして「名勝及史蹟江ノ島」碑。ところで「江ノ島」と「江の島」とちらが正しい表記なのか?(以前にも書いた記憶があるが)現在、「江の島」や「江ノ島」なとと呼ばれているが、これは最近になってからのこと。1952年(昭和37年) 5月10日の住居表示では「江の島」になっていることから、法律的には「江の島」が正式となる。しかしながら、史跡や江ノ島電鉄(江ノ電)などの公共交通機関は「江ノ島」を使用し続けていることになる。我が藤沢市によると、昭和41年10月に新たに住居表示が施行され、この時に「江の島」を改めて正式名称とした模様。続く昭和44年1月にも、今度は藤沢市観光協会より表記を「江の島」で統一する運動が実施されていると。史跡や公共交通機閂が「江ノ島」を使い続ける理由とは、創立以来の自社ブランドを維持する上では仕方なく、といった一面があるのだろう。史跡に見える「江ノ島」表記としては、まさにここ、江の島への入口となる「江の島弁天橋」のたもとに立つ「名勝及史蹟江ノ島」と記された石標が該当するのだ。 ・・・つづく・・・
2022.11.06
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「グスクロード」を利用して次の目的地の「糸数城跡(いとかずじょうせき)」へ向けて進む。そして「糸数城跡」に到着。「糸数城跡」は、沖縄本島南部で最も高い位置にあって標高は190mと。「史跡 糸数城跡」碑。「昭和四十七年五月十五日 国指定」と。「史跡 糸数城跡 昭和47年5月15日 国指定この城跡は、現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、築城年代は不明ですが、玉城按司が次男を大城按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、 おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年の築城であろうと思われています。 城壁は野面積みと切石積みと両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、 この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。 構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。 城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。 また、「琉球国由来記」にも記載された「糸数城之殿」も城内の一角にあります。」琉球石灰岩を積み上げた野面積みの城壁(右側)城壁が圧巻。城門は東側に開いている。間口は2mほどで、城壁の規模からして意外にも狭く思えた。外敵防御のためだろう。城門から南側の断崖上にまで石積みの城壁が伸びていて、この上に物見台があったそうだ。上空からの案内図をネットから。城門から北側に延びるこの城壁は、所々崩れてはいるが、城内を取り囲むように曲折しながら延びている。北側に向かって野面積みの城壁(左側)が更につづく。先端に北のアザナ(物見台)が。「野面積み」の石垣をズームして。「大手門」を横から見る。頑丈に切石積みで出来た城門。「野面積み」(左)と「切石積み」(右)。城門の南側をズームして。更にズームして。城門から北側に延びる城壁は最初は緩やかに膨らんで。ズームして。所々はロープ等で立入禁止になっていた。切石積みの城壁は最大で約6mの高さがあり、その上からは太平洋や東シナ海を望むことができるとのこと。城跡には、がっちりとした切石積みの城門が残っていた。築城年代は不明で、三山(北山・中山・南山)時代に築かれたものだろうとされている。600~700年もの時空を経ながら、これほどまでに見事な石積みの城壁が残っているのは珍しいと思う。先の戦禍からは免れたようだ。城門上部には木造の櫓門が架けられていたとのこと。城門の中は発掘調査中の様で、ここも立ち入り禁止でブルーシートで覆われていた。城門の中から曲がりくねった石垣の姿を見たかったのであるが。そして次に訪ねたのが、「旧日本軍兵器展示広場」。南城市玉城糸数667。向かいには「糸数アブチラガマ券売所」があった。「旧日本海軍 93式発射魚雷」「旧日本海軍 93式発射魚雷全長 7.55メートル重量 約2000キログラム発見場所 佐敷字津波古1400-1発見日時 1991年5月12日魚雷は同所で8発、発見され、いずれも弾頭部・信管が装着されてなく無事撤去できた。1発は旧佐敷町が保管し、2発は県が保管することとなった。中央に「旧日本軍 89式 15センチカノン砲」。「旧日本軍 89式 15センチカノン砲1945年3月に旧日本軍陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に配置された二門のうちの一つで南城市大里地内の壕跡における遺骨収集作業の際に発見された。いわゆるクチャの丘陵を水平に掘り込んで形成された壕の入口付近で発見されており、沖縄戦でこの壕が崩壊した際にその土をそのまま被った状態であった為、比較的保存状態が良く、ほば完全形で取り出すこととなった。引き揚げは平成15年2月7日に行い、同8月8日より大里農村環境改善センター屋外に展示された。その後、平成28年3月にアブチラガマを含めた平和教育の資料としての活用を目的にここへ移設した。」マンホール蓋。グスク(城)の石垣と湧水をデザイン。上部に旧玉城村の村章、下部に「玉城第四」「おすい」の文字。「玉城那覇自転車道」案内板。一般県道玉城那覇自転車道線は、沖縄県南城市から那覇市までの約34kmの自転車道。通称「沖縄のみち自転車道」と呼ばれている。「南城市」案内図。平成18年1月1日に、1町3村(佐敷町・知念村・玉城村・大里村)の合併により誕生した南城市は、沖縄本島南部の東海岸、県都那覇市から南東へ約12㎞に位置し、静穏な中城湾と太平洋に面している。東西18㎞、南北8㎞の広がりを持ち、面積は49.94km2。那覇空港から40分圏内にある市域は、緑豊かな自然環境に囲まれ、離島である久高島は、神の島、琉球民族発祥の地として崇敬されている。南城市は、神の島久高島、世界遺産である「斎場御嶽(せーふぁうたき)」をはじめ深い歴史を刻んだ多くの「グスク」、東御廻り(あがりうまーい)の文化遺産など貴重な歴史・文化史跡を持っている。下部には「アブチラガマ入口」案内も。現在地周辺をズームして。「琉球王国のグスク及び関連遺産群2000年12月2日、オーストラリアのケアンズで開催された第24回世界遺産委員会において、日本政府から推薦されていた「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録されました。日本国内では11番目の世界遺産となるこれらの遺産群は、琉球が統一国家へ向けて動き始めた14世紀後半から王国が確立した後の18世紀末にかけて生み出されたもので、国の重要文化財(建造物)、史跡又は特別名勝に指定されている9か所からなります。この内南部地域には5か所があります。」「沖縄県の世界遺産」案内図をネットから。「石獅子(サーターヤー出口)」を私の写真はピンボケの為ネットから。火事を防ぐヒーゲーシ(火返し)の石獅子。「サーターヤー」とは黒砂糖工場のことのようだ。そして「糸数アブチラガマ」案内板。この「アブチラガマ」とは、「アブ」が深い縦の洞穴、「チラ」が崖、「ガマ」が洞窟やくぼみのこと、という沖縄の言葉で、「深い縦の洞穴や崖がある洞窟」を意味。「糸数アブチラガマのガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていた。地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者が置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。このガマで亡くなられた方々の遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって蒐集され、「魂魄塔」に合祀された。」「糸数アブチラガマ」の詳細図をネットから。「ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)」沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。沖縄県立第一高等女学校の前身は、1900年(明治33年)に設置された「私立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。1945年(昭和20年) 3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。4月中旬~下句、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され学徒たちも配置されました。5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への搬退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。26日に学徒は伊原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、伊原の壕へ分散配置されました。6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍の猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ感い、追い詰められ、多くの命が失われました。」「ひめゆり学徒隊足跡図」。1945年(昭和20)に入ると太平洋戦争はわが国の敗戦が色濃くなり、沖縄が米国の本土攻撃を一日でも遅らせるための橋頭保となった。第32軍が本土防衛隊として組織され軍のみならず沖縄県民も巻き込む戦いとなった。総員118,400名、内訳は陸軍86,400名、海10,000名、現地徴兵と学徒隊22,000名で構成された。一方米軍は183,000名が動員されたという。人員においても物資においても圧倒的に米軍が勝っていた。沖縄の女学校の生徒達は看護補助員として軍に組み込まれ大きな犠牲を払う結果となった。動員された内訳は、沖縄師範学校女子157名・県立第一高等女学校65名(ひめゆり)、同第二高等女学校46名(白梅)、同第三高等女学校10名(なごらん)、同首里高等女学校61名(瑞泉)、私立積徳高等女学校25名(積徳)、私立昭和高等女学校17名(梯梧)等である。特に話題となったのがひめゆり部隊1953年(昭和28)映画「ひめゆりの塔」で一躍名が知られるようになった(津島恵子、香川京子主演)。その後1968年あゝひめゆりの塔(吉永小百合、浜田光夫主演)、1995年ひめゆりの塔(沢口靖子、後藤久美子主演)が続いて製作されている。「糸数アブチラガマ入口」。「糸数アブチラガマ入口」案内板。「糸数アブチラガマ入口」、撮影禁止の表示板が。「糸数アブチラガマ」👈リンク を参照下さい。石獅子(アカグムヤー出口)。「アカグムヤー」とは??そしてこの日の観光を終了とし帰路に。西の空はこの日も海の上には雲が棚引いているようであった。黒い雨雲の端はオレンジ色の輝いてはいたが・・・。ズームして。「県道48号線」から「国道507号」・津嘉山バイパスに入る。「国道507号」を進み那覇市内に入り「国道329号」・「那覇バイパス」へ。この日の帰路も「とよみ大橋」を通過。沖縄都市モノレール「ゆいレール」の「壺川駅」下を通過。カメラもお疲れギミ。「那覇ふ頭 船客待合所」前を通過。そしてホテルに18:30到着。この日の走行ルート。距離は202kmと。そして、この日もホテルの部屋で、この日の「反省の宴」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.05
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昨日の夕方に、隣接市・綾瀬市にある行きつけのホームセンターへ畑用の肥料を買いに行った。ホームセンター駐車場からの夕日を、持参のカメラで追う。左手は「矢倉岳」であっただろうか?富士山も赤く染まって。夕日をズームして。買い物を手短に済ませて。そして山の端に沈む夕日。雲が見送るがごとくに。富士山は更に赤く染まって。そしてこの日のこの場所からの日没。時間は16:40。鉄塔越しに。ズームして。残照を追う。「紅富士」の如くに。ズームして。電柱、電線の姿はなく。南東方向には月の姿が。ズームして。「十三夜」手前の月。そして車に戻り帰路に。 ・・・END・・・
2022.11.04
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「国道331号」をひたすら南下すると前方に「斎場御嶽(セファウタキ) 0.4km」の案内板が現れた。ここ「斎場御嶽」👈リンク は2015年6月に訪ねているので今回はパスしたのであった。南城市知念久手堅から前方の「ニライ橋カナイ橋」の西側の山の端を見る。「国道331号」を右折して「県道86号線」・南風原知念線を進み「ニライ橋カナイ橋」に向かって進む。「カナイ橋」を渡って行くと、「ニライ橋」の姿が現れた。南城市知念吉富。高低差約80mの断崖の上下を結ぶ全長約660mの絶景スポット。ニライ、カナイの連続する2つの橋が、ヘアピンカーブを描くように連絡し、宙に浮くように架けられている、沖縄南部有数のドライブルート。「カナイ橋」から「ニライ橋」へ。平成14年8月に完成した「ニライカナイ橋」が、海岸台地と海岸沿いの国道との標高差(80mほど)をこの「ニライカナイ橋」が一気に解消しています。U字型に伸びた山側がニライ橋、海側がカナイ橋で、知念半島を分断していた交通網を繋ぐ重要な橋になっているのであった。「ニライカナイ」とは沖縄県や鹿児島県奄美群島に伝わる「理想郷」を意味する言葉。海のかなたや地底にある、常世国(とこよのくに)と信じられている聖なるところ、他界。とくに東の水平線のかなたにあるとされるのだと。本土に伝わる常世国(とこよのくに)の信仰と似たものであるとのこと。しばらくすすむとトンネルがあった。トンネルの先で車を空き地に駐め、しばしの散策開始。道路を渡り、道路脇の遊歩道をトンネルの上にあった「ニライカナイ橋展望台」まで歩く。展望台からU字形の「ニライカナイ橋」そしてその先の「太平洋」の絶景を楽しんだのであった。沖に浮かぶ久高島は「海の彼方の理想郷・ニライカナイ」につながる聖地との伝承があることが橋名の由来となっています。南城市知念。「ニライカナイ橋」の奥、左手に見えたのが「知念岬」。美しい曲線の先の「知念岬」をズームして。「知念岬」の奥に見えたのが「久高島」。「久高島」をズームして。「知念岬」の「知念岬公園」にある青い屋根の建物は「知念体育館」。知念の安座真港から久高島の徳仁港まで高速船で約15分、フェリーでは約25分で着くと。「久高島」は、沖縄に数ある島々の中でも、その存在そのものに深い意味を持つ。観光客はもとより、沖縄の人も特別な位置づけを持って接しているのだと。それというのも、ここは琉球が誕生したとされるきっかけの開闢の祖アマミキヨ(アマミク)が、天から舞い降りてきた島で、沖縄はこの島から始まったとされているから。そして、琉球王朝時代には聞得大君と一緒に国王も巡礼していた。後にノロという国王の代理人の祝女制度ができたのだが、彼女たち取り計らう12年に一度の秘祭「イザイホー」➡リンクもこの島だけの特別なもの。「イザイホー」に関しては厳しい決まりごとがあり、現在では継承できる人が島に不在で、1978年を最後に途絶えているのだと。帰路は反対側の遊歩道を戻る。前方には「佐敷風力発電所」の姿が。設備容量 1,980kW(990kW×2基)メーカー 三菱重工業(株)設置場所 沖縄県南城市佐敷手登根運転開始年月 平成16年4月そして遊歩道の北側にあったのが「航空自衛隊 知念分屯地(ちねんぶんとんち)」。右にあったのは、地対空誘導弾「パトリオット」(PAC3)の「レーダー装置」の「パトリオットのAN/MPQ-53レーダー」であっただろうか。「パトリオット」は、地上から航空機を撃墜するミサイル。「パトリオット」は、現存する地対空誘導弾のなかでは最も優れたシステムといわれており、それは湾岸戦争でも証明された と。「パトリオットのAN/MPQ-53レーダー」をネットから。上の丸いアンテナ・アレイがレーダー本体で、下に並んでいるのがその他の送受信用。回転はしないので、脅威の方に向けて据え付ける必要があるのだと。「地対空誘導弾パトリオット(PAC3)」もネットから。Googleマップから。上・北側が「航空自衛隊 知念分屯地(ちねんぶんとんち)」そして下・南側が「陸上自衛隊 知念分屯地」。自衛隊には、陸上・海上・航空の3自衛隊がある。 文字通り「陸上自衛隊」は我が国の国土を、「海上自衛隊」は我が国周辺海域と海上交通を、「航空自衛隊」は、我が国上空を守る任務についているのだ。そして道路を渡り車に戻る。先程訪ねた展望台、その下にトンネルの姿が「ニライカナイへの道」の前方に垣間見えた。そして遊歩道の入口には、油圧ショベルがいつの間にか置かれていた。夜間に、車での遊歩道への進入を防ぐ目的なのであろうか?進入防止でも「地対空誘導弾パトリオット(PAC3)」とのギャップが印象的であったのだ。南城市「Nバス」のバス停「ニライカナイ橋」。「県道86号線」・「ニライカナイの道」を西に進むと右手にも「風力発電設備」が。そしてその先左側にあったのが「沖縄刑務所」。「沖縄刑務所」の外れに車を止めた。振り返って。南城市市制施行前は日本で唯一村に所在する刑務所であった と。下部機関として八重山刑務支所、那覇拘置支所、宮古拘置支所を持つ。刑務所の壁。外国人・禁固刑受刑者・若年者・初犯者・再犯者・心身障害者と幅広い分類の受刑者が集まる男子刑務所である。ただし、アメリカ統治下にあった期間および日本復帰後間もないころには、女子も収容されていた。現在の収容人員は319人 であるとウィキペディアより。「沖縄刑務所」前から風力発電設備を振り返る。「沖縄刑務所」の入口方向を振り返る。そして次に訪ねたのが「玉城城跡(たまぐすくじょうせき)」。入口の左側にあった案内板。草の生える小さな広場に車を駐車する。「玉城城跡」の石碑と案内碑の前に来て。「国指定史跡 玉城城跡」碑。南城市玉城444。裏面には「沖縄県教育委員会 玉城村教育委員会」と。「玉城城跡」案内碑。「この城は、別名アマツヅ城とも称され、築城年代や歴代の城主についてはさだかではない。『島尻郡誌』では、「アマミキヨが築いた城であるとの伝説があって、城主はアマミキヨの子孫即ち、天孫子であったと伝う」と記述している。城跡は、一の郭、二の郭、三の郭の三つの郭からなる段階状の山城で天然の要害の地に築かれている。城壁は一の郭のみよく原型ををとどめていて、二の郭と三の郭の城壁は、戦後、米軍基地建設の骨材用として持ち去られ、現在根石がかろうじて残っているにすぎない。一の郭は、東北東に自然岩をくり抜いた城門を構え、城内には「天つぎあまつぎの御嶽」(神名「アガル御イベ、ツレル御イベ」)が祀られている。」駐車場前の広場の先に案内板があったので進んで行った。「玉城城跡 仮通路 ➡」と。広場を抜け林の中の道を進む。沖縄の城の多くは、小高い山の上に建てられていた。もともと沖縄の城は軍事拠点として建てられることが多いため、城に続く道は険しく、さらに自然の岩や巨石を積み上げて城壁を作っていた。そのため「天然の要塞」と呼ばれているのであった。前方には「一の郭城壁」が現れた。上部まで伸びる木製の階段。城跡までは木造の階段が設置されており、景色を眺めながらの上り下りが楽しめたのであった。北側には巨大ゴルフ場・「琉球ゴルフ倶楽部」が拡がっていた。さらに石段を登って行くと、この城跡を特徴付ける丸い石門が現れた。城門前から城壁を見上げた。城門を潜って。自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門。「御嶽(うたき)」の如き場所の奥にも石垣が。「城門」を振り返って。「城門」は見る角度によってハートの形に見えたのであった。本丸跡には琉球開闢の七岳の一つとされる「雨粒天次御嶽(あまつぎあまつぎうたき(雨つづ天つぎ とも)」があった。「雨粒天次御嶽」の御嶽以外にも拝所が数か所あり、玉城城跡全体が巨大な聖地になっているようであった。自然の美しさと荒々しさが味わえる印象的なグスクなのであった。本丸跡を臨む。本丸跡の城壁。場所を変えて。蝶の姿も。城門から「琉球ゴルフ倶楽部」ゴルフ場のグリーンを。「琉球ゴルフ倶楽部」ゴルフ場。先程近くを通った「沖縄刑務所」近くの風力発電設備。景色を楽しみながら木製階段を下って行った。眼下に「沖縄県立玉城青少年の家」。ここにも「拝所」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.04
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「沖縄成田山福泉寺」を後にして、県道146&77号線➡国道331号を南下する。次の目的地として「佐敷グスク」をカーナビにセットしひたすら走る。この先、国道331号を右折し石鳥居を潜って進むと「佐敷グスク」駐車場に到着。駐車場から山側に向かって右手には、「慰霊塔」があった。南城市佐敷字佐敷1155。こちらは支那事変や大東亜戦争の戦没者の碑のようであった。佐敷グスク(上グスク)」を見る。「佐敷グスク(上(うぃ)グスク)」案内板。佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志(しょうはし)とその父尚思招(しょうししょう)の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁、白磁のお碗や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱の穴のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクにみられるような石垣はまだ発見されていません。」「上グスク周辺の文化財案内図」。わかり易い地図をネットから。グスクは、 頂上の一ノ郭より下方に向かって段々上に平場を持つ連郭式のグスクとなっている。近年の重要遺跡確認調査で周囲の斜面は石張り、段々上の郭は石積みで区画されている事が分かって来ている。さらに範囲確認調査が進む事で佐敷グスクの縄張りが判明する事に期待が膨らんでいるのだ と。「グスク跡内に建てられた、「月代宮(つきしろのみや)」。「月代宮」碑。石段を上って行った。二の鳥居とその先に「月代宮」の拝殿。中城湾や勝連半島を一望できる、見晴らしのいい高台に位置しており、琉球の聖地巡礼である「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所の一つ。中城湾や勝連半島を一望する。「月代宮の拝殿」「佐敷上グスク」は東側から西側にかけて丘陵の斜面を削り出し、そこに石灰岩を貼り付けた石列(貼石状石列)が大きな特徴で、この造りは沖縄県内で唯一「佐敷上グスク」で発見されているのだと。さらに「尚巴志」が「中山(ちゅうざん)グスク」を滅ぼし、佐敷から首里に移り住む際に「佐敷上グスク」の城郭の石を全て首里城に移したと伝わっている と。古い石段が右隣に。「月代宮」に向かう参道の階段に沿うように古い石段が現在も残されていた。この石段は「月代宮」や現在の階段の参道が作られる以前からグスク頂上に通じる主要な石段であったと伝わる。グスク時代から使われていたと考えられる石段を登った先には、1922年(大正11)の11月に「沖縄史蹟保存會」により建立された石碑があり「尚巴志王遺蹟」と彫られていた。「月代宮本殿」。この本殿は1938年(昭和13)の「尚巴志500年祭」を記念して「つきしろ奉賛会」により建立され、第一尚氏王統の守護神である「つきしろ」に因んで命名されたと。さらに、1962年(昭和37)にはコンクリート製に建て替えられ、周囲には参道の階段などが整備された。「月代宮」の本殿には「尚巴志王/尚思紹王/鮫川大主/屋蔵大主/尚徳王/尚泰久王/尚金福王/尚思達王/尚忠王」の御魂が合祀されているのだと。現在でも「月代宮」には多くの参拝者が訪れ、本殿にはウコール(香炉)が祀られて献花が供えられており、さらに「國之主/佐敷世之主/御先神様」と彫られた霊石が鎮座していた。斜めから。「上グスク之嶽」。「上グスク之嶽拝所巡礼の「東御廻り」のコースの一つで『琉球国由来記』には祭神としてスデツカサノ御イベ、若ツカサノ御イベの二神が記されています。もともとこの場所にあったのかは、まだわかっていません。」「コスラヤシ」。「ユスラヤシ高さ20 ~ 25mになる高木。3 ~10月、垂れ下がった花軸にクリーム色の小花を多数つける。実は球形、9 ~12月に赤熟する。公園樹、街路樹に用いる。オーストラリヤ原産。ヤシ科」ヤシの木は真っ直ぐに。こちらは「上グスクのカマド跡」。「上グスクのカマド跡グスク時代のカマド跡といわれており、火の神を祀ったところと考えられています。また、このあたりは女官たちの働いていた場所といわれています。このようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。 」。石段の左奥にあった石碑には「佐敷ヌル殿内」と。佐敷ノロが居住していた屋敷跡であると。戦前は石柱、茅葺き屋根の祠であった。『由来記』の「佐敷巫火神」に相当するとされ、佐敷巫火神では佐敷ノロによる「麦穂祭」、「稲穂祭三日崇」、「毎年三・八月 四度御物参」、「年浴」、「年浴三日祟」、「麦初種子・ミヤタネ三日崇」、「麦初種子・ミヤタネ」が司祭されたのだ と。そして「佐敷グスク(上グスク)」を後にして「国道331号」まで戻る。出口にあった「月代宮」の「一の鳥居」を参道側から。左に「中城湾」を見ながら、次に訪ねたのが「慰霊之塔」。満州事変、支那事変、第二次大戦での戦没者の慰霊塔であった。南城市佐敷冨祖崎41。ここ冨祖崎は 仲伊保地区 の南に隣接する。 何れの集落も海沿いに位置するが、海は護岸や埋め立てにより隔てられ、海の幸よりも塩害から農地を守る様に、内陸に向けみどりのモザイクが続いている。この冨祖崎の「慰霊塔」は、その海沿いに立つ公民館の傍らに建てられていた。碑は「忠霊之塔」として昭和32年8月 自治会によって建立されていた。 当時は地区出身の戦没者42名が祭られ、うち33名が沖縄戦による戦没者と。一方でこの碑(塔)は現在、慰霊之塔と改められており、昭和の末から平成の初頭に改修されたものと思われる。また、台座に嵌められた戦没者刻銘版には、満州事変、支那(日華)事変での戦没軍人をはじめ、軍属、防衛隊の別で42の氏名が刻まれている。 更に最終行には「準軍属戦没者 七拾余名」と刻まれており、いわゆる「援護法」に基づき「九段で祀られた」方々と思われるのであった。その隣にあった「石祠」。「慰霊之塔」と「石祠」を振り返る。「佐敷干潟(さしきひがた)」を左側に見る。その先の路地の角にも何かがあったので近寄る。「冨祖崎の石獅子」と。この石獅子は、冨祖崎集落に入る道路がカーブを曲がった先に鎮座して、集落を守っているようであった。先端部が一回り大きな丸みを帯びた、かなり太い尻尾が、お尻の部分から背中中央部にかけて、背中にのっかっているのがユニーク。集落に侵入してくる車をにらみつけるような角度で、コンクリート製の台座の上に鎮座。道路脇には赤く塗られたガスボンベがぶら下がっていた。米軍が廃棄したボンベを利用した火事を知らせる「半鐘」として使われていたようであった。戦時中に、この鐘は米軍部隊に近い集落で使われ始め、夜毎集団で襲ってくる米兵の危険を集落の住民、特に女性へ知らせる為に打ち鳴らされた。 銃を手に襲い来る米兵に対する唯一の抵抗、自衛手段として鐘が打ち鳴らされたとネットには。その先にあった「冨祖崎公園」を訪ねた。「南城市 社会体育施設さしきスポ・レクセンター」の建物の前にあたのが「佐敷町平和祈念像」。こちらは、旧町時代に建てられたものであると。半球と2本の柱で構成される全景は佐敷町の地形を象徴するとともに、半球を2本の柱が支える形は両手で包み込む「和」を強調するとともに、中心に向かって祈念する求心性を表しているものだと。半球の中心に空いた穴は佐敷町の町花・テンニンカの輪郭を象っているとか。「佐敷町平和祈念像」案内碑。「佐敷町平和祈念像この像は、終戦50周年事業の中で、世界の恒久平和を願い、平和を希求する全町民統合の象徴として、町民はじめ内外の事業所、有志等多くの善意を結集して建立されたものである。平和を希求する立場から、思いや広がりなどを考え、佐敷町の地形や未来に向けての平和の発信地という位置づけを元に発想を展開させた。次に訪ねたのが500m程北にあった「仲伊保神社」祠の左側にあったのは、台座のような構造物のみ。南城市佐敷仲伊保186−1拝所に近づいて。祠の中には香炉が三基。祠の前面左下に「一班 二班 フンシ 二〇一三年八月十三日 修繕補修完了」と刻まれたプレートが設置されていた。風水のこと、方言でふんしー。琉球王府にはフンシミー(風水見)の役職があったという。風水は、もともとはちゃんとした学問で、紀元前の中国で発達したといわれる。占いや開運術的なものではなく、土地の吉凶を科学的に捉える評価法だった。現在の首里城が風水によって場所を選定されたことはよく知られているがほかにも、琉球王府の風水師によって数多くの集落移動が実施されたという。1708年11月から1710年6月まで王の命により福州府で地理学(風水学)を学んだ蔡温(さいおん)によって風水が、沖縄で本格的に導入されるようになったという。蔡温が土地の吉凶を判断する評価法として広めたフンシーと民間信仰の風水が長い年月の間に混同され、沖縄本島南部では、いつの間にか屋敷の神様のことを「フンシー」と呼ぶようになった。また本島北部では、お墓のことを「フンシー」と呼ぶ地域もある と。「旧暦年中行事●ハチウクシー 旧暦1月3日 初起し●アブシバレー 旧暦4月吉日 畦払い●カママーイ 旧暦10月1日釜回り●ウガンブトゥチ 旧暦12月24日御願解き」と。拝所の右側にも小さな祠があった。ブーゲンビリアの花。「国道331号」・ヤシ並木通りを北東に進む。「国道331号」を右折し「海野公民館」前で車を駐める。建物の前に海野集落のガイドマップ「海野ガイドマップ」が設置されていた。「海野の歴史と文化海野は1879年の廃琉置県前後に失業した首里・那覇の士族が知名村に移住してできたヤードゥイ(屋取)が起源です。知名村にはヌックヮサの他にタンザ、シナジ、イタンマ、クバマサ、クシバルの5か所のヤードゥイがありました。ヌックヮサは、知名から見て「ヌー(野原)」の「クサー(後)」にあることが語源といわれています。また別の言い伝えでは、北風が海野辺りで弱くなり知名崎より「ヌクサン(暖かい)」ので「ヌックヮサ」と呼ばれたともいわれています。1909年にヌックヮサ、クバマサ及びクシバルが知名から分離して知名ニ区となり、さらに1937年にヌックヮサが知名ニ区、クバマサとクシバルが知名三区となりました。その後、1947年2月に知名ニ区が字海野、知名三区が字久原となりました。「海野」という名称は、漁業と農業を生業とすることから命名されました。第ニ次世界大戦が終わり、本島北部の避難民収容所にいた人々は1945年末に帰還が許されましたが、家屋敷はブルドーザーで敷き均されて位置が判らなくなっていました。そのため、当時の先輩方は知恵とユイマール精神を発揮して、一戸あたり約80坪で土地を分け合い現在の碁盤目状の集落ができました。海野のみどころ■海野ハーリーとセリ市場海野ハーリーは1904年に始まりました。旧暦5月4日には御神屋ほか6か所の拝所(地図上の①~⑦)を巡って航海安全と豊漁を祈願し、午後からハーリー競漕をを行いました。1983年からは旧暦5月4日に祈願だけを行い、次の日曜日にハーリー競漕を行っています。青年たちが白と黒の龍が描かれた2艘のハーリー船を漕ぐ姿は勇壮で見応えがあります。また、漁港のセリ市場では新鮮で美味しいマクプ、ミーバイ、タマンや色鮮やかなイラブチャーの他、マグロやカジキなど100kgを超える大物が並びます。また、11月から翌年6月までは最大20kgにも成長するソディカが水揚げされます。」海野ハーリー時の拝所地図。拡大地図。「海野の集落資源①御神屋(うかみやー)海野集落の守護神である。旧暦の1日、15日に自治会長がお茶、お酒、水、米及び塩を供え、集落の繁栄や村人の健康と幸せを祈願する。②シーサーシーサーは火災や病気など村人に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けである。③東(あがり)ヌ神旧公民館近くの東側にあったニライ・カナイを拝むための拝所である。④ウードーヌ神ウードーヌ神はゴルフ場がある須久名森の東側斜面にある「ウードー」という天の神の祈願所を遥拝する拝所である。⑤村ガー先人が村ガーで命を繋いできたことから、祈願の対象になった。かつては旧暦1月1日の朝早く、男の子がその水を汲み、若水として親戚の家々を廻り、お年玉を貰う風習があった。⑥ウフバシガーニシンジャガーラ(川)のほとりにあるためウフバシガーは水量が豊富で、生活用水として人々に利用された。現在でもの下には川が流れており、その川は国道331号を横切って海野漁港に流れている。⑦龍宮の神海を司る神で航海安全と豊漁、人々の健康と幸せを祈願する。7つの拝所のうちで最後に拝む場所である。⑧邦守之塔第ニ次世界大戦で海軍、陸軍及び軍属で亡くなった海野出身の戦没者35名を祀る慰霊碑である。毎年、海野ハーリーが行われる前に遺族と目治会役員が中心となって慰霊祭が行われる。」「村ガー」。先人が村ガーで命を繋いできたことから、祈願の対象になった。かつては旧暦1月1日の朝早く、男の子がその水を汲み、若水として親戚の家々を廻り、お年玉を貰う風習があった。「村ガー」案内柱。道路の左側にも。「御神屋(うかみやー)」海野集落の守護神である。旧暦の1日、15日に自治会長がお茶、お酒、水、米及び塩を供え、集落の繁栄や村人の健康と幸せを祈願する。「シーサー」。シーサーは火災や病気など村人に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けである。近づいて。「東(あがり)ヌ神」旧公民館近くの東側にあったニライ・カナイを拝むための拝所である。「ウードーヌ神」ウードーヌ神はゴルフ場がある須久名森の東側斜面にある「ウードー」という天の神の祈願所を遥拝する拝所である。「邦守之塔」。第ニ次世界大戦で海軍、陸軍及び軍属で亡くなった海野出身の戦没者35名を祀る慰霊碑である。毎年、海野ハーリーが行われる前に遺族と目治会役員が中心となって慰霊祭が行われる。「大東亜戦争戦没者氏名」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.03
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「平安座海中大橋」を後にして県道37号線の海岸線を北に引き返し、途中左折して33号線➡85号線を利用して次の目的地・「泡瀬塩田跡」に向かってひたすら進む。そして「泡瀬塩田跡」に到着。沖縄市泡瀬3丁目32−1。「泡瀬塩田跡之碑」。「泡瀬塩田跡之碑一七六八(尚◯一七)年頃、無人の小島であった泡瀬に首里・那覇から移住者が入植し、農業のかたわら島の南西砂州に続く干潟を開拓し、「入浜式塩田(シンナー)」を作り製塩業を興した。廃藩置県(明治十二年)を境に「泡瀬」の製塩業は急速に発展し、一九〇五(明治三)年頃には、県内一の生産量を誇る。「アーシマース」は県下にその名を馳せた。製塩業と樽皮製造業は戦前の「泡瀬」の発展を支える二大基幹産業であった。戦後、一九四六(昭和二一)年には製塩業は復活し、一九五〇(昭和二五)年に沖縄製塩株式会社が設立された。一九五五(昭和三〇)年入浜式製塩法を改良、真空蒸発釜を導入、新工場を設立したが一九七二(昭和四七)年沖縄の本土復帰に際し、塩専売法の適用を受けて製造を停止、二百年に亘る製塩の歴史は幕を閉じた。広大な塩田地は、一九七三(昭和四八)年の干潟事業によって埋立てられ住宅地になった。本碑周辺は塩田跡地の一角である。」「泡瀬塩田風景」。泡瀬塩田は、18世紀中頃、高江洲義正という男が初めて移住し、干潟を利用して入浜式塩田による製塩をしたのが始まりとされていて、高江洲義正の製塩技術は首里勤務の時に那覇の泊りなどで修得したものと推測されている と。ネットから「泡瀬塩田風景」を2枚。石碑の「泡瀬塩田風景」は下の写真のようであった。「入浜式塩田」の光景。「入浜式塩田」は日本に近世初期から行われた製塩施設。遠浅海岸の満潮水位以下の場所に堤防を築き、その内側に砂層地盤の塩田を設けたもの。塩田は溝によって短冊形に仕切られ、潮が満ちてくると堤防に設けられた樋門を通って溝から海水が塩田に浸透する仕組みで、太陽熱で水分が蒸発すると塩田の砂に塩分が付く。それをかき集めて海水をかけて濃厚な塩水 (鹹水) をとり、釜で煮つめて製塩を行なった。干満差が大きく遠浅の瀬戸内海沿岸を中心に発達し、近世から昭和年代にいたるまで、長く日本における製塩の中心をなしたが、1950年代に流下式塩田に転換した と。「ハマトリ」のオバちゃんの姿。日本復帰当時の「泡瀬塩田」周辺の地図。旧「泡瀬集落」の北部に「ぐるくん公園」がありその中央に丘があったが。沖縄県の県魚、「ぐるくん(タカサゴ)」の名前を冠した公園。しかし、丘に登ってみても上の方には特に何もなくその向こう側に砂場とすべり台があるだけ。すべり台以外の遊具は特に無く、つまりは、「ぐるくん」と名前が付けられている理由は良くわからずじまいであったが・・・。次に近くにあった神社「泡瀬ビジュル」を訪ねた。「ビジュル」の語源は、<賓頭慮(ビンズル)――不動の意>。十六羅漢の中の第一の尊者で、その名前の意味は不動であるという。「ビジュル」とは、石神のことで、その石神を信仰する、いわゆる石体信仰の態容をなすもので、沖縄県下に91カ所あるといわれる。泡瀬の「ビジュル」の形態は、自然の陽石を思わせるもので、安置される場所は神社にならって神殿をつくり、扉の奥深くにビジュルを祀っている。御利益は無病息災、子安(子育て或いは子授け)、航海、交通の安全。上記の祈願をするので、住民は年中行事として、ビジュル物参りをする習俗があると。祭祀は専ら、男性司祭者にゆだねられており、その係を「ビジュルヒチ」といい、ここ泡瀬の場合は、義正翁の末裔にあたる高江洲義総氏がその役目を果たしているとのこと。沖縄市泡瀬2丁目1。「泡瀬ビジュル」の「一の鳥居」。「泡瀬ビジュルの由来」碑。「泡瀬ビジュルの由来泡瀬はその昔「あせ島 」「あわす小離 」と称され高原村より東へおよそ九町、隔海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西には広い干潟を有していた。一七六八年頃、読谷山間切の在番役を退役した樊氏高江洲 (筑登之親雲上 )義正は、初期の居住者としてこの地に入植し、広い砂州と干潟を開墾して、農耕のかたわら塩を焚き安住の地をここに定めた。ある日、漁猟に出た義正は海面に浮かぶ霊石をみつけてもちかえり霊験あらたかなるビジユル神 として、島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し、信心したのがビジュル神信仰 の始まりといい伝えられている。旧暦の九月九日にはビジュル参りの例祭があり、無病息災、子安、子授けなどの祈願に参詣者がたえない。一九三八年(昭和十三年)有志の尽力で旧石祠を改修して、社殿と二基の鳥居内外玉垣が建立され境内が整備された。一九八三年(昭和五十八年)泡瀬土地区画整理事業 にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上けして移設、一の燈籠を新設、玉垣を改築した。」「泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢」案内板。「泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢) 沖縄市指定文化財 平成21(2009)年3月27日指定泡瀬ビジュルの由来については、泡瀬の初期開拓者である高江洲義正が、海に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、ビジュルとして祀ったのがはじまりといわれている。現在のビジュルは、昭和13年に改修されたものである。ビジュル参詣(ビジュルムヌメー)は旧暦9月9日に行われ、祈願の内容は子安、子育て、旅の安全などである。現在でも各地からの参拝者がたえない。桁行1間(1,820㎜)、梁間1間半(2,800㎜)、高さ約12尺(3,940㎜)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造、人造石洗出し仕上げである。従来木造とすべき建物を鉄筋コンクリート造りとし、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げてある。昭和13(1938)年に旧石の祠を改修し、社殿と2基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリートで建立した。昭和58(1983)年、泡瀬土地区画整理事業にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上げして移設、一の灯籠を新設、玉垣を改修した。また、手水鉢は、昭和61(1986)年9月に竣工した。指定対象は、昭和13年に改修、建立された社殿と2基の鳥居、手水鉢である。それらは、当時の建築技術を知る上で貴重である。「二の鳥居と社殿」。「社殿」に近づいて。桁行1間(1,820㎜)、梁間1間半(2,800㎜)、高さ約12尺(3,940㎜)の一間社流造り。鉄筋コンクリート造りとし、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げてあった。「絵馬掛所」。「子宝祈願」。「安産祈願」。「泡瀬ビジュル」のお守りなどが販売されている社務所「千秋堂」。近づいて。「千秋堂無人の小島泡瀬の地に首里、那覇からの移住者が入植し、定住を始めたのが一七六八年頃と伝えられています。当時「泡瀬島」は美里間切高原村の属地でしたが、1903年(明治36年)に県令により高原村から分離され泡瀬村が創設されました。二〇〇三年(平成十五年)の泡瀬村設立一〇〇周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として泡瀬ビジュルの社務所・千秋堂を建立する。」表道に面した入口の横には、「泡瀬土地区画整理事業記念碑」が。「泡瀬土地区画整理事業記念碑中頭郡東部地域唯一の商工業地として、繁栄していた泡瀬は、第二次世界大戦の戦災により壊滅し、引き続き米軍の軍用地として接収された。昭和四十二年二月から昭和四十五年七月までに、この軍用地の大半が返還されると、地主組合による土地区画整理事業が計画され、認可申請はしたが施工するには至らなかった。そこで当時県会議員であった現衆議院議員、復興期成会会長 小渡三郎氏からの強い要請を受けた県当局によって、県の事業として推進されることになった。工事は県土木部都市計画課によって施工され、昭和五十三年に着工し、八年後の昭和六十一年三月に竣工した。総工費三十六億五千万円、施工面積は、戦前の泡瀬住宅地と塩田跡地、公有水面埋立地などを含む凡そ七十七ヘクタール(約二十三万坪)である。この泡瀬の区画整理地域は、快適な居住環境として蘇り、泡瀬繁栄の基盤は確立された。ここに画期的な事業の竣工を記念してこの碑を建立した。」沖縄市の「汚水マンホール蓋」。市の木・ビロウと市の花・ハイビスカスをデザイン。中央に沖縄市の市章、下部に「おきなわし」「おすい」の文字。 そして次に訪ねたのが「中村家住宅」。中頭郡北中城村大城106。石塀に囲まれた「中村家住宅」。中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物。沖縄本島内では、第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1972年(昭和47年)復帰と同時に日本政府によって国の重要文化財に指定された。約280年の歴史をもつ民家。約1500平方mの敷地にシーサーをのせた赤瓦屋根の母屋、高倉、豚舎など5棟が建っている。中村家は当時豪農だった。中村家の先祖である賀氏(がうじ)は、護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)から城を中城に移した際に、築城の師としてこの地に移り住んだと伝えられている。古い沖縄の民家の建築様式で、人々の生活の様子がしのばれるのであった。「国指定重要文化財 中村家住宅」。門扉は開いていたが、この日は休館日となっていた。中に人の姿があったので、入っていったが結婚式前の「前撮り」が行われていたのであった。そこへ係の女性が現れ、今日は休館日なのでご遠慮くださいと。やむなく外に出て。門を入った正面突き当たりには「ヒンプン(屏風)」と呼ばれる石積みの目隠塀があり、中国の屏風門(ぴんふぉんめん)の琉球化したものであると。わざわざ目隠しをすることからも、一般庶民の住宅にない手法がここでもよくわかったのだ。この日の午前中に訪ねた「屋部の久護家」にもあった「ヒンプン(屏風)」なのであった。「中村家住宅 👈リンク中村家住宅は沖終本島中部の豪農の屋敷跡で、国指定第要文化財に指定されています。屋数地内には高倉や畜舎、井戸などが備えられておリ、当時の上層農家の生活を知ることができます。」。「中村家住宅」を後にして、県道146号線を下る。眼下に見えたのが「沖縄電力(株) 吉の浦火力発電所」。ここは石炭火力発電所ではないようであった。新たな埋立が不要で、大型LNGタンカーの着岸が可能であることから、新日本石油(後のENEOS)沖縄油槽所跡地が選定された。沖縄電力初のLNG(液化天然ガス)火力であり、初のコンバインドサイクル発電方式を導入した発電所となる。天然ガスの一部は都市ガス用として、2013年~2014年度をめどに沖縄ガスに供給されることが2009年に公表され、2015年8月12日に沖縄ガスへの供給を開始した。2012年6月に1号機が試運転を開始し、同年11月27日に営業運転を開始。2013年5月23日には2号機が運転を開始した。LNGは化石燃料の中で単位発熱量あたりのCO2発生量が最も少ない燃料。また、コンバインドサイクル方式はガスタービンと蒸気タービン両方で発電機を回すことから、従来の汽力発電方式(蒸気タービンのみの発電)と比べて発電効率が高く、より少ない燃料で同じ量の電気を作ることができるのだ。これらの特性から、吉の浦火力発電所の発電電力量(kWh)あたりのCO2排出量は沖縄電力の火力発電所の中で最も少なく、地理的・地形的な特性から火力発電に頼らざるを得ない沖縄電力にとって、温暖化対策の要の発電所と言えるようだ。LNGを貯蔵するために容量14万kLのタンク2基と、LNG輸送船が接岸するためのバース、LNGを陸上に運ぶ配管橋など約1350mの設備も確認できたのであった。そして次に訪ねたのが「護佐丸公之御墓」。この西側には以前に訪ねた「中城城跡」👈リンク がある場所。中頭郡中城村泊886。「護佐丸公之御墓」碑。石段を上がって行くと、中城城跡近くの台グスクと呼ばれる丘の麓にあった。1458年勝連按司「阿麻和利」を総大将とする王府に攻められた護佐丸一族党が、三男盛親を残し中城城で無念の死をとげた。謀反の疑いも晴れ1686年にその子孫毛氏豊見城家八代目盛定によって、王府から拝領した土地に建てられたものである。「毛國鼎護佐丸之墓」と刻まれた石柱。護佐丸(生年不詳-1458年)」は恩納村出身の15世紀に活躍した琉球王国(中山)の按司。大和名は中城按司護佐丸盛春(なかぐすくあじごさまるせいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった「尚巴志」は二男「尚忠」を北山監守に任じ、「護佐丸」を読谷村の「座喜味城」に移して北山の統治体制を堅固にした。その後「護佐丸」は「座喜味城」に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えたのだと。次に訪ねたのが「沖縄成田山福泉寺」。最初に訪ねたのが「交通安全祈願の社」。中頭郡中城村伊舎堂617。「シーサー」(右)。「シーサー」(左)。「交通安全祈願所」の内陣。内陣には不動明王像が・・・。「参拝御案内成田山では、ご信徒の皆様の家内安全 商売繁盛 交通安全 開運厄除などのさまざまのお願いをすべて御護摩という法要儀式を通じご本尊≪不動明王≫に祈願しております。又、成田山のお守りはお不動様が御分体となって皆様方が災難にあわれるような時に皆様のみがわりになって災難をよけてくれますので「みがわりお守り」と言われております。」「水子地蔵尊」。「祖先霊供養 水子霊供養」と。「生目八幡大明神」近づいて。手前に「おかけ水」が。明神様のお顔に3度おかけし、自身や周りの人の目の健康をお祈りするとのこと。「人生の幸福は五体健全にして家庭円満なるに勝れるはなし 然るに種々の病に苦しむ人数知れず殊に生れながらにして明るい世界があたえられない者又不幸にして美しき両眼を失明され悲しみに暮れて居られる方あるいは眼悪く苦しみ淋しき人生を何の因縁因果か業かわからねど美観を感ぜず見る楽しみも出来ない方々多し 我が亡き母も其の類にもれず医術を尽くし種々の薬効の甲斐もなく遂に眼病治ゆすることなく遷化せり我もし力強く祈りて眼病治ゆせばとこゝに生目八幡大明神を建立し奉る 世の人々の不自由なる目に光明を授け賜らんことを祈ろう南無生目の神 影清く照らす生目の氷鏡 末の世までも曇らざりけり生前の母の目に捧げこゝに沖縄県民の目の不自由なる方々に生目の神の御利益があります様衷心より祈念する。」そして「沖縄成田山福泉寺」の「拝殿」が石段上に。成田山福泉寺は、沖縄県の中部、中頭郡中城村にある真言宗山派の大本山、成田山新勝寺(千葉県)を総府とした「成田山」の末寺です。交通安全、商売繁盛、学業成就、家内安全などの参詣はもちろんのこと、毎年、初詣でには多くの人が訪れる、沖縄中部で指折りの初詣スポットでもある と。再び「沖縄電力(株) 吉の浦火力発電所」。ズームして。左側に1号&2号ガスタービン建屋と煙突が。右側にLNGタンクが2基。LNG タンク概要・ 容 量:140,000kL・ 直 径:75.2m・ 側板高さ:31.8m PCLNGタンク方式が採用されている。従来の金属二重殻LNGタンクとPC (Prestressed Concrete)構造の防液堤を一体化している点が大きな特徴である と。「全景写真」をネットから。液化天然ガス(LNG:Liquefied Natural Gas)は、天然ガスを-162℃まで冷却し液化させたもの。液化すると体積が約600分の1になることで、タンクローリーや鉄道での輸送やタンクでの大量貯蔵が可能になる。なお、日本で供給されているLNGの大半は、海外から外航船で輸入されている。またLNGは、石炭や石油に比べて燃焼時のCO₂(二酸化炭素)や酸性雨や大気汚染の原因とされるNOx(窒素酸化物)の発生量が少なく、SOx(硫黄酸化物)とばいじんが発生しない、環境負荷の低いエネルギーとしても注目されているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.02
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石段を上り「本堂」の手前に。本堂手前左手にあったのが『浄行菩薩』。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。横顔を。反対側から。本堂前から「山門」方向を見下ろして。中央の参道には多くの人の姿が。本堂奥の「五重の塔」を見る。ズームして。本堂の中では「プラスアンサンブル 福腹富(ぷっぷくぷう」の金管3重奏のライブ演奏が行われていた。残念ながら、本堂内は撮影禁止。「本堂」に近寄って。龍ロ寺本堂ライプ・法要スケジュール。「日蓮大聖人像」。ズームして。左手には数珠と立正安国論の巻物を持っていた。三日月も雲間から姿を現した。「鐘楼」。四角和紙灯籠・「瀧の口 竹灯籠」。「大書院」前の高台から「山門」近くを見下ろす。「山門」を横から。境内を見下ろす。「妙見堂」前。そして「龍口会館」。玄関には五重塔が。「藤沢市消防団」も待機中。「江ノ島駅入口」交差点の角にあった「海産物 魚料理 舟善」。学生時代に、この場所にあった運送会社で夏休み中のアルバイトをしたのであった。交差点の反対側にあったのが湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ島電鉄の「江ノ島駅」手前の踏切。駅前の車止めのオブジェ。8羽の小鳥たちには服が着せられていた。左側の4羽。右側の4羽。最初は江ノ島駅売店に勤務していた方が作って着させてくれたそうで、これまでに1000着以上の服を作ってくれている と。「江ノ電 江ノ島駅」。改札口。「江ノ電開業 120th」。江ノ島電鉄は1902年9月1日に、いずれも藤沢市の藤沢駅から現在の江ノ島駅にあたる片瀬駅の間で開通し、今年の9月1日で開業120周年を迎えたとのこと。江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマが。石井彰英氏より寄贈された「ジオラマ」。このジオラマは、平成10年11月11日に江ノ島電鉄社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現を手伝った縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんの友人であった石井彰英氏から寄贈されたたもの と。残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士として今も活躍中。江ノ島駅、龍口寺廻りをズーム。別の角度から。七里ヶ浜の駅・鎌倉高校前駅の姿も。人物も詳細に配置されたジオラマ。「ぼくの小さなパラダイス昭和40年頃、両親・祖父母と何度も来た江の島。海で泳ぎあじさいの花を見た懐かしい情景をジオラマにしたくなり、当地を何度も取材しながら制作に費やした期間は約2年。静寂の中の極楽寺駅、明るい学生さんが乗り降りする鎌倉高校前駅、子ども達の笑顔がまぶしい江の島海岸、皆さんを乗せて元気に走る江ノ電。私の前に広がる風景は、当時の頃と何ら変化はありませんでした。皆様にこのジオラマを楽しんで頂けましたら、制作者としてはこれほど嬉しい事はございません。 2008年11月吉日 石井彰英氏より寄贈されました。」藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。「祝 江ノ島電鉄 鉄道開業120周年」と。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。名車303形の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの と。「貴賓室の扉」。「貴賓室の扉について明治3 5年の開業(藤沢一片瀬間の3 .42 k m )当時、全4両の車両のうち、半数の2両には、一般の3等席に加えて1等席が設けてありました。当時から、葉山の御用邸をはじめ鵠沼の秩父宮邸など、近隣には多くの高貴な方のお住まいがあったため、江ノ電(当時は江之島電気鉄道)は1等という特別列車を用意したのです。記録によると、1等と3等の合造車はこの扉を仕切りとして車内を3つに分け、個室を確保したようです。大正2年4月8日の『横浜貿易新報』によれば、大正2年4月6日に伏見宮博仁王ほか3殿下が、この特別仕立ての列車で片瀬(現江ノ島)ー長谷間を移動されたという記録が残っています。」江ノ島駅に鎌倉方面のホーム。そして藤沢駅行きに乗り、江ノ島電鉄・藤沢駅から小田急線に乗り換えて帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.01
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