F&B 腐向け転生パラレル二次創作小説:Rewrite The Stars 6
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻 10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士 2
天上の愛 地上の恋 転生現代パラレル二次創作小説:祝福の華 10
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ 5
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う 2
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法 7
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は 10
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁 12
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て 5
天上の愛地上の恋 大河転生パラレル二次創作小説:愛別離苦 0
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄 1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華 14
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁 1
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜 18
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊 1
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月 10
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫 20
天上の愛地上の恋 転生昼ドラパラレル二次創作小説:アイタイノエンド 6
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜 1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母 13
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん 6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥 7
天上の愛地上の恋 転生オメガバースパラレル二次創作小説:囚われの愛 8
天上の愛地上の恋 昼ドラ風時代パラレル二次創作小説:綾なして咲く華 2
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師 4
天愛×腐滅の刃クロスオーバーパラレル二次創作小説:夢幻の果て~soranji~ 0
ハリポタ×天上の愛地上の恋 クロスオーバー二次創作小説:光と闇の邂逅 2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国 1
天愛×火宵の月 異民族クロスオーバーパラレル二次創作小説:蒼と翠の邂逅 0
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている 3
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚 2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥 27
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計 9
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉 54
天上の愛地上の恋 昼ドラ転生パラレル二次創作小説:最愛~僕を見つけて~ 1
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~ 6
FLESH&BLOOD×黒執事 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧の器 1
腐滅の刃 平安風ファンタジーパラレル二次創作小説:鬼の花嫁~紅ノ絲~ 1
天愛×薄桜鬼×火宵の月 吸血鬼クロスオーバ―パラレル二次創作小説:金と黒 4
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師 1
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く 1
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら 2
PEACEMAKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で 9
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して 20
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達 1
天上の愛地上の恋 現代転生パラレル二次創作小説:愛唄〜君に伝えたいこと〜 1
天上の愛地上の恋 現代昼ドラ風パラレル二次創作小説:黒髪の天使~約束~ 3
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花 2
天上の愛 地上の恋 転生昼ドラ寄宿学校パラレル二次創作小説:天使の箱庭 5
天上の愛地上の恋 昼ドラ転生遊郭パラレル二次創作小説:蜜愛~ふたつの唇~ 0
天上の愛地上の恋 帝国昼ドラ転生パラレル二次創作小説:蒼穹の王 翠の天使 1
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~ 1
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔 6
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~ 3
天上の愛地上の恋 昼ドラ風パラレル二次創作小説:愛の炎~愛し君へ・・~ 1
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい 4
天愛×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー 2
魔道祖師×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想うは、あなたひとり 2
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華 0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~ 15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて 10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう 8
天上の愛地上の恋 現代昼ドラ転生パラレル二次創作小説:何度生まれ変わっても… 0
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう) 10
薄桜鬼×天上の愛地上の恋 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:玉響の夢 5
黒執事×天上の愛地上の恋 吸血鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:蒼に沈む 0
天上の愛地上の恋 現代転生ハーレクイン風パラレル二次創作小説:最高の片想い 4
バチ官×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:二人の天使 3
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇ 2
YOI×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:皇帝の愛しき真珠 6
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず 2
薔薇王の葬列×天上の愛地上の恋クロスオーバーパラレル二次創作小説:黒衣の聖母 3
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰 2
薄桜鬼×天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿 2
薄桜鬼×火宵の月 遊郭転生昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:不死鳥の花嫁 1
薄桜鬼×天上の愛地上の恋腐向け昼ドラクロスオーバー二次創作小説:元皇子の仕立屋 2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君~愛の果て~ 1
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師~嵐の果て~ 1
F&B×天愛 昼ドラハーレクインクロスオーバ―パラレル二次創作小説:金糸雀と獅子 1
F&B×天愛吸血鬼ハーレクインクロスオーバーパラレル二次創作小説:白銀の夜明け 2
天愛 異世界ハーレクイン転生ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女 氷の皇子 1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師 1
天愛×火宵の月陰陽師クロスオーバパラレル二次創作小説:雪月花~また、あの場所で~ 0
名探偵コナン×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧に融ける 0
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この日の夜、満韓楼を訪れた女性客の大半は、満州鉄道の社員の妻達だった。「土方様、こんな所で再び会えるなんて嬉しいですわ。」「薫子様。」 歳三が客達をもてなしていると、そこへかつての自分の縁談相手であった九条薫子がやって来た。「奥様の事、大変お気の毒でしたわね。」「お気遣い頂き、ありがとうございます。」「土方様、ではまた・・」 去り際、薫子はそう言って一枚のメモを歳三に手渡した。 そこには、“明朝10時、哈爾浜駅近くの喫茶店『ミツヤ』でお待ちしております。”とだけ書かれていた。「あ~、疲れた。」 店を閉めた後、歳三は執務室に入るとそう言って深い溜息を吐いた。『お疲れ様でした、トシゾウ様。』『支配人業っていうのは、大変なものなんだな。』『今夜いらしたお客様は、全て満鉄の方でしたね?』『あぁ。なぁユニョク、ここはあんまり男の使用人が多くねぇな。』『えぇ。ここは女所帯ですから、間違いが起きてはいけませんので、料理番をはじめとする妓楼内の使用人達は全て女性で纏められています。』『女同士だと、色々と積もる話が出来るからな。』『トシゾウ様、余り無理なさいませんように。』『あぁ、わかったよ。』『では、お休みなさいませ。』『あぁ、お休み。』 ユニョクが執務室から出ると、傍に居た妓生達が、彼の方へと駆け寄って来た。『ねぇユニョクさん、支配人はもう寝たの?』『それじゃぁ、あたしが添い寝してあげないと!』『抜け駆けは駄目よ!』そう言い合う妓生達の顔は、何処か色めき立っていた。『お前達、もう休め。』『はぁい。』歳三が来てからというものの、妓生達は彼の事を気にしているようだった。女所帯の中に突然、男―特に美男がやって来たのだから、彼女達の反応は当然のものだとユニョクは思っている。(何事も、起きなければいいが・・) 翌朝、歳三は薫子との約束の時間までまだ時間があるので、風呂に入る事にした。 脱衣所で夜着を脱いで裸になると、外から妓生達の歓声が聞こえて来た。『随分と立派だったわねぇ。』『朝からいいモノを拝ませてもらったわ!』(ユニョクが言っていた通りだな・・女所帯の中で暮らすってのは、こういうことか・・) 薫子より先に、『ミツヤ』に着いた歳三は、珈琲を飲みながら、そう思うと溜息を吐いた。「歳三様、お待たせしてしまいましたわね。」そう言って歳三の前に現れた薫子は、百合の刺繍が施されたチマチョゴリを着ていた。「薫子さん、その服は・・」「どんな服なのか、一度着てみましたの。お着物と違って、袖が邪魔にならなくていいですわね。」「えぇ、そうですね・・」「歳三様、何故妓楼の支配人に?てっきり家を継がれたものとばかり・・」「事情がありましてね。薫子様は、何故哈爾浜へ?」「父の仕事の都合でこちらに参りましたの。」薫子はそう言うと、歳三の手をそっと握った。「また、会って頂けるかしら?」「どうでしょう、今は仕事が忙しいので・・」「そうですか。」(何だ、この女?) いくら自分の縁談相手だったとはいえ、急に自分に対して馴れ馴れしい態度を取って来た薫子に、歳三は少し不快感を抱いた。「では、俺はこれで。」「えぇ、また。」 店の前で別れた歳三は、そのまま千代乃の元へと向かった。「まぁ、そんなことが・・」「まさか、女に覗かれるなんて思いもしなかったよ。女所帯は恐ろしいな。」「女ばかりですからね。歳三様のような美男は珍しいのでしょう。」千代乃は歳三の話を聞いた途端、そう言うと笑った。「お前ぇはこれからどうするんだ?置屋の皆が心配しているぞ?」「文を先程、置屋の皆さんに送りました。わたくしはもう、日本には戻りません。」「そうか・・俺も、あそこには戻らねぇ。元からあの家には、居場所などなかったからな。」「では・・」「俺の妻になってくれねぇか、千代乃?」「・・はい。」そう言った千代乃は、嬉しさの余り涙を流していた。 数日後、千代乃は無事退院し、満韓楼へと戻った。『女将さん、お帰りなさい!』『お帰りなさい!今日は女将さんの好物のクッパを作りましたよ!さ、熱いうちに召しあがって下さいな!』 久しぶりの主の帰還を満韓楼の妓生達が盛大に祝っていると、東京では土方家の者達が歳三の文を読んで困惑していた。「もう日本には戻らないだって!?あの子は一体何を考えているんだい!」にほんブログ村
2020年08月11日
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千代乃は何者かに拉致された後、哈爾浜(ハルビン)へと流れ着き、そこで妓楼の女将をしているという。(千代乃、やっとお前に会える・・) 歳三はそっと、首に提げているロケットを握り締めた。それは、千代乃と二人きりで自分の誕生日を祝った夜に、互いの髪を入れて贈り合ったものだった。『たとえどんなに俺達が離れていても、心は一緒だ。』『はい。』 千代乃は今も、このロケットを持っているのだろうか。「哈爾浜、哈爾浜~」 汽車が哈爾浜駅のホームに停まると、乗客は次々と降りてゆき、残ったのは歳三と武乃だけとなった。「降りないんですか?」「済まねぇ、今から降りる。」 二人は汽車から降りると、それぞれ目的地へと向かって歩き出した。「お客さん、哈爾浜は初めてで?」「あぁ。この町で一番大きな妓楼を知っているか?」「それなら、“満韓楼”ですよ。あそこは料理もサービスも最高なんですよ。前は朝鮮人の女将がやっていたんですが、今は日本人の女将がやっていますよ。」 気前良くお喋りなタクシー運転手は、そう言うと歳三に満韓楼の地図を渡してくれた。「あそこだ・・」タクシーから降りた歳三は、そのまま満韓楼へと向かった。 運転手が描いた地図は、正確だった。 朝鮮風の建物に、立派な“満韓楼”の看板が掲げられていた。 歳三が店の前に行くと、店はまだ準備中のようで、店の前では洋服姿の娘が水撒きをしていた。「すいません、まだお店は開いていないんです。」「女将に用があるんだが、女将は居るか?」「女将さんなら、怪我をして今入院中です。」「そうですか。わたしは、女将の知り合いです。女将に会いたいのだが・・」「あ、お待ちください、今女将さんが入院している病院の住所が書かれたメモをお渡し致します。」娘はそう言うと、慌てて店の中へと引っ込んでいった。 暫く歳三が外で待っていると、先程の娘がメモを持って来た。「お待たせ致しました、これが、女将さんが入院している病院の住所が書かれているメモです!」「ありがとう。」 歳三は娘に礼を言うと、千代乃が入院している病院へと向かった。「すいません、こちらに入院している千代乃さんの面会に来たんですが・・」「千代乃さんなら、204号室に入院していますよ。」「ありがとうございます。」 歳三が、千代乃が入院している病室へと向かうと、千代乃は本を読んでいた。「千代乃・・」「歳三様・・」歳三の姿を見た千代乃は、驚きの余り読んでいた本を落としてしまった」。「どうして、わたしがここに居るとわかったのですか?」「興信所で、お前の事を調べさせた。どうして入院なんかしているんだ?」「実は・・」 千代乃が歳三に入院するまでの経緯を話すと、歳三は渋面を浮かべた。「色々とあったんだな・・」「えぇ。歳三様、お元気そうで何よりです。」「いつ退院できるんだ?」「傷は大した事はないので、あと数日で退院出来ます。」「そうか。お前が留守にしている間、満韓楼の事は俺に任せておけ。」「わかりました。」 千代乃と病院で再会を果たした後、歳三は満韓楼に戻り、妓生達を居間に集めた。『あらぁ、良い男じゃないの。』『色男ねぇ。』妓生達がそんな話をしていると、歳三が突然朝鮮語で挨拶を始めた。『はじめまして、俺は女将の恋人で、女将が留守の間満韓楼の支配人を務める事になった土方歳三だ、よろしくな。』『えぇ、女将さんの恋人!?』『嘘でしょう!?』 ファヨンが思わずそう叫ぶと、彼女と目が合った歳三は、彼女にニッコリと微笑んだ。『トシゾウ様、少しよろしいですか?』『何だ、今忙しいんだが・・』『帳簿を確認しながらでもよろしいので、俺の話を聞いて下さい。トシゾウ様、先程のような事は二度となさらないで下さい。ここは女所帯です、変な揉め事を起こしてはなりませんから・・』『わかった。』『チヨノ様が入院中の間、わたしが僭越ながらトシゾウ様のお手伝いをさせて頂きます。』ユニョクはそう言うと、歳三に向かって頭を下げた。『これからよろしくお願い致します、トシゾウ様。』『あぁ、よろしくな、ユニョク。』『はじめに言っておきますが・・余り勝手な事をされては困ります。』『わかったよ・・』(何だか、口煩い奴だな・・)(本当にこの男に、チヨノ様の代わりが務まるのだろうか?) 歳三とユニョクの互いの第一印象は、最悪なものとなった。 その日の夜、満韓楼の支配人の顔見たさに、沢山の女性客がやって来た。『珍しいわね、こんなに女性客が来るなんて・・』『そうね。』にほんブログ村
2020年07月27日
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病院の廊下で偶然恋人と再会したファヨンは、彼と共に近くの喫茶店へと向かった。「コーヒーを二つ。」「かしこまりました。」 ファヨンはソファの上に腰を下ろすと、漸く恋人―ヨンイルの顔を見た。「まさか、あんな所で貴方に会えるなんて思いもしませんでした。」「俺もだよ。どうして病院なんかに居たんだ?」「わたし、今満韓楼っていう妓楼で働いているの。そこの女将さんが怪我をしてそのお見舞に・・ヨンイル様はどうして病院に?」「母が、あそこに入院しているんだ。」「お母様が・・」 恋人の話を聞きながら、ファヨンは彼の母親と初めて会った日の事を思い出した。 ファヨンは母親と共に恋人・ヨンイルの家で使用人として働いていた。 ある日ファヨンは、空腹の余り厨房に置かれてあったクッキーをつまみ食いしてしまった。 その事を知ったヨンイルの母は、幼いファヨンの身体を容赦なく鞭打った。“この泥棒娘!” ファヨンは、あの時見た彼女の顔が怖くて仕方なかった。「お母様、何処かお悪いのですか?」」「あぁ、母は精神を病んでしまったんだ。」「あの奥様が?」「母は数年前から、自分だけの世界の住人となってしまったんだ。」「そうですか・・」ファヨンはそう言うと、ヨンイルが自分を見つめている事に気づき、頬を赤く染めた。「ファヨン、結婚は?」「いいえ・・ヨンイル様は?」「いいや、まだしていない。出来れば、お前と結婚したいと思っている。」「ヨンイル様・・」「昔から、お前だけだ・・結婚したいと思った女は。」「嬉しい・・」ヨンファはそう言うと、ヨンイルと手を握り合った。 一方上海では、留こと武乃が厳しい修行を終えて“一本”の日を迎えていた。「女将さん、支度出来ました!」「そうかい。」「女将さん、失礼致します。」 女将の部屋に入って来た武乃は、美しい紋付の留袖に、加賀友禅の帯を締めていた。「あぁ、わたしが思った通りだ!武乃、そこへお座り。」「はい。」そう言って女将の前に座った武乃からは、あの粗末な紺の絣を着た貧しい少女の面影はとうに消えていた。「青森からあんたがここに来てからもう二年・・あたしはあんたが立派な芸妓になると信じていたよ。」「ありがとうございます。」「これからが気の引き締め時だよ。あんたはこのまま終わるような子じゃない。」「はい・・」「そこでだ、あんたには哈爾浜(ハルビン)へ行って貰う。そこで置屋を一軒、あんたに任せたいんだよ。」「わかりました。」「大丈夫、あんたなら出来る。」 こうして、武乃は哈爾浜へ行く事になった。「さぁ、気張って行っておいで!」「はい。」 駅で女将と仲間達に見送られながら哈爾浜行きの列車に飛び乗った武乃は、そこで黒髪紫眼の青年と出会った。「ここ、いいですか?」「どうぞ。」(あんれ、えれぇめんこい男だぁ!)武乃がそう思いながらその男に見惚れていると、その男―土方歳三は、興信所からの書類に目を通していた。 それは、千代乃の近況が書かれたものだった。にほんブログ村
2020年07月27日
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「女将さん、良かった、気が付いて!」 何者かに銃撃された千代乃が意識を取り戻したのは、事件から数日後のことだった。「ファヨンさん、一体何があったの?」「あいつが・・ジョンスが女将さんを逆恨みして、女将さんを殺して、みんなを殺そうとしていたんです。」「まぁ、そんな事が・・」 満韓楼を襲い、自分を撃った犯人がジョンスだとファヨンから知り、千代乃は驚きのあまり絶句した。「わたしは撃たれるような事をしたかしら?」「きっとあいつの逆恨みですよ。ほら、ジニ様の事で色々と揉めていたじゃないですか?」「でもあれはもう過ぎた事よ。」「それは女将さんが思っていらっしゃるだけで、向こうはそう思っていないのでは?」 ファヨンの言葉に、千代乃は溜息を吐いた。自分がジョンスとの間に起きた事を過去のものだと思っているが、ジョンスはそう思っていないのかもしれない。 だから、日に日に自分への憎しみを募らせ、彼は自分を殺そうとしたのだ。「わたし、今回の事で色々と考えてしまうわ。わたしは彼に恨まれるような事をしてしまったのかしらって。」「そんなに思い詰めることはないですよ、女将さん。今までジョンスは好き勝手な事をしていたけれど、今回で確実に刑務所に入りますね。あいつの顔をもう見なくて済むと思うと、せいせいします。」そう言ったファヨンは、千代乃の手をそっと握った。「女将さん、わたし達は女将さんの秘密を誰かに口外したりはしませんから、安心してください。」「ファヨンさん、貴方いつからわたしが男だという事に気づいていたの?」「ジョンスの家の使用人が女将さんのお風呂を覗いていた時からです。その時わたし、偶然女将さんの裸を見てしまったんです。」「そう。」「男でありながら今まで女として生きてきたという事は、女将さんは複雑な事情を抱えていらっしゃるのですよね?」ファヨンの問いに、千代乃は静かに頷いた。「ファヨンさん、貴方の他にわたしの秘密を知っている人は居るの?」「ええ。チェヨンやユソンも知っています。後、料理番のミジャも。みんな口が堅いので、安心してください。」「わかったわ。ファヨンさん、貴方はもう満韓楼に帰りなさい。」「はい。ではこれで失礼します。」 千代乃の病室から出たファヨンは、廊下で一人の男性と擦れ違った。その横顔をチラリと見た彼女は、彼と何処かで会ったような気がした。「すいません。」「はい、何でしょうか?」 男性がくるりと自分の方へと振り向くと、ファヨンは男性の顔をじっと見つめたまま両手で口を覆った。「貴方、生きていらっしゃったのですね?」「ファヨン・・もしかして、あの時のファヨンか?」男性はファヨンの方へ一歩近づくと、彼女を抱き締めた。「あの時、お前は死んだものだと思っていたのに・・こうしてお前と会えるなんて、嬉しいよ!」「わたしもです、ヨンイル様!」 病院の廊下で抱き合っている二人の姿を、通りかかった看護婦が怪訝そうな様子で見つめていた。「ここだと人目があるから、何処か静かな所で話さないか?」「ええ、わかりました。」 ユソンとミジャが病院へと千代乃を見舞いに行くと、ファヨンが見知らぬ男と共に病院から出て行く姿を見た。「あの男、一体誰だろうね?」「知らないよ、そんな事。ユソン、他人の色恋沙汰に首を突っ込むなんて野暮な事、するんじゃないよ。」にほんブログ村
2016年09月08日
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ファヨンと共に応接間に入った千代乃は、見知らぬ二人の外国人男性が窮屈そうに床に座っている事に気づいた。『満韓楼の女将の、千代乃と申します。あなた方は?』『はじめまして、千代乃さん。わたしはピョートルと申します。こちらはわたしの弟の、イヴァンです。』 金髪碧眼の男性がそう言って千代乃に自己紹介すると、彼の隣に座っていた男性も千代乃に会釈した。『ピョートルさん、何故こちらにいらしたのですか?』『実は、旦那様・・つまり貴方の母方の祖父に当たる方が、死ぬ前に一目貴方にお会いしたいとおおせなのです。』『わたしの、お祖父様ですか?』 今まで実の両親、そしてその親戚の事など知らなかった千代乃は、ピョートルの言葉を聞いて驚いた。『その様子だと、何もご存知ないようですね?』『わたしは赤ん坊の頃、養家の前で捨てられていたと、養母から聞きました。ですから・・』『そうですか。』ピョートルはそう言うと、一枚のメモを千代乃に手渡した。『そのメモにわたし達の滞在先であるホテルの住所が書かれています。お時間があれば、是非いらしてください。』『解りました。本日はお忙しい中、来て頂いて有難うございました。』 玄関までピョートルとイヴァンを送った千代乃が自室に戻ると、丁度ファヨンが昼食を持って来たところだった。『ファヨンさん、いつも有難う。』『いいえ。それよりも女将さん、さっきの方達はどなただったのですか?』『わたしも詳しくは知らないのだけれど・・母方の祖父の使いの方だと言っていたわ。』千代乃は昼食を一口食べると、そう言ってファヨンの方を見た。『ファヨンさん、貴方ご自分の両親の事をどれほど知っているの?』『うちの親の事なら何でも知ってますよ。どうしてそんな事を聞くんですか?』『わたしは、実の両親の顔を知らないの。赤ん坊の時に捨てられて、養母に育てられたから。だから、あの人達から母方の祖父に会ってくれと言われて、驚いてしまったわ。』『それは仕方ないですよ、今まで知らなかった母方のお祖父様から突然会いたいなんて言われたら、誰だって驚きますって。』『そうね・・』『それじゃぁ女将さん、お昼食べ終わったら呼んでください。』『えぇ、わかったわ。』ファヨンが部屋から出て行った後、千代乃はスープを一口飲んだ。 日本に居た頃養母が作ってくれた味噌汁の味を思い出し、千代乃は自然と涙を流していた。 この哈爾浜(ハルビン)に流れ着き、満韓楼の女将となってもうすぐ半年の歳月が経とうとしている。(おかあさんや置屋のみんなは元気かな?) 昼食を食べ終えた千代乃がそんな事を思いながらファヨンを呼ぼうと自室の襖を開けた時、中庭の方から突然銃声が聞こえた。『女将さん、あいつが来ました!』『どうしたの、あいつって誰?』『女将さん、逃げてください!』 チョンジャがそう叫んだ時、二発目の銃声が中庭に響いた。 千代乃は脇腹に刺すような痛みを感じると、そのまま意識を失った。にほんブログ村
2016年09月08日
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青年―ジュンスはそう執事を怒鳴りつけると、千代乃の方へと向き直った。『申し訳ないが、お引き取り願えませんか。わたしは、貴方に話す事など何もありません。』『貴方にはなくとも、わたしにはあります。チョンジャさんの件で・・』『あの女は告訴する。わたしに暴力を振るったのだから、それ相応の罰は受けて貰う。』『ジュンス様、話が違います!』『黙れ!』自分の父親と同年代の執事に向かって怒鳴るジュンスの姿に、千代乃は彼にこれ以上何を言っても無駄だと思った。『貴方とこれ以上話をするのは時間の無駄のようですね。では、これで失礼いたします。』『待て、お前の所の妓生がわたしに迷惑を掛けたんだ、詫びのひとつもないのか?』千代乃がそう言ってジュンスに頭を下げ、客間から出ようとすると、ソファから立ち上がったジュンスが千代乃の腕を掴んだ。『お詫び、と申しますと?』『解らないのか、金だよ、金。あの女に殴られた怪我の治療費と、わたしが受けた精神的苦痛への慰謝料だ。あの女がそれらを払えないのなら、上司であるお前が払うべきだろう。』『お言葉ですがジュンス様、先にチョンジャさんを殴った貴方が彼女に治療費と慰謝料を支払うべきなのではありませんか?』『何だと、妓生の癖に両班のわたしに口答えするのか!?』激昂したジュンスが千代乃の胸倉を掴んだ時、客間の扉が開いた。『ジュンス、何をしている?』『ち、父上・・』グレーの縞模様のスーツを着た紳士が鷹のような鋭い目でジュンスを睨みつけると、彼は慌てて千代乃の胸倉から手を離した。『旦那様、お帰りなさいませ。』『貴方が、チヨノさんですね?初めまして、わたしはチョンスと申します。』『初めまして、チョンス様。満韓楼の千代乃と申します。本日はジュンス様とチョンジャさんの件について話し合いの場を設けようと思ったのですが、ジュンス様はその必要はないとおっしゃったので・・』『ジュンス、後で話がある。ヨンハ、チヨノさんをわたしの部屋へ案内しろ。』千代乃の話を聞いたチョンスは息子を睨むと、淡々とした口調で執事にそう言って客間から出て行った。『父上、お待ちください!』客間から出て行く父親の後を追おうとしたジュンスだったが、無情にも客間の扉は彼の鼻先で閉ざされた。『先ほどは倅が貴方に対して無礼な振舞いをしてしまったことを、倅に代わって謝ります。チョンジャさんのご様子は、いかがですか?』『チョンジャさんとは先ほど会って来ましたが、元気そうです。早く留置場から出たいと言っておりました。』 チョンスの部屋に通され、彼からチョンジャの様子を尋ねられた千代乃がそう答えると、彼は少し唸って何かを考えているかのように目を閉じた。『今回の件は、完全にこちらに非があります。わたしは、跡継ぎであるジュンスを幼い頃から溺愛し、あいつの我儘を全て受け入れてきました。そのツケが、あいつが成人した今回ってきたのでしょうな。』 チョンスは溜息を吐くと、千代乃の手を握った。『チヨノさん、どうかチョンジャさんに悪い事をしてしまったとお伝えください。ジュンスはわたしが厳しく躾け直します。』『チョンス様、お忙しい中わたくしの為に時間を割いてくださって有難うございました。』 洋館から出た千代乃が満韓楼へと戻ると、ファヨンが何処か慌てた様子で千代乃の元へと駆けて来た。『女将さん、大変です!』『どうしたの、また何かあったの?』にほんブログ村
2016年08月11日
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チョンジャはその日、パーティーがあることをすっかり忘れてしまい、急いで身支度を済ませて満韓楼からホテルへと向かおうとした時、道端で偶然別れた男と会ったのだった。その男は、連れの女と一緒だった。『チョンジャ、俺にしつこく付き纏うなと言っただろう?』『あんたみたいな男に付き纏うほど、あたしは暇じゃないんだよ、さっさとあたしの前から消えな!』チョンジャがそう叫んで男を睨みつけると、彼にしなだれかかっていた女が笑った。『あんたが言っていた妓生って、この女なの、ジュンス?』『ああ。諦めの悪い女で、別れる時も別れたくないって言って騒いで揉めたのさ。』『嘘ばっかり言いやがって!別れるとき散々あたしに泣きついて捨てないでくれって泣き喚いていたのはあんたの方だっただろうが!』『うるさい!』最初に殴って来たのは男の方だった。『何するんだ、この野郎!』そのまま路上で男と殴り合いの喧嘩になったチョンジャは、駆けつけた警察官によって警察署へと連行されていったのだった。『まぁ、そんな事があったのね。』『女将さん、あたしは何も悪くないんです!』『解ったわ。チョンジャさん、貴方をここからすぐに出してあげますからね。』千代乃はそう言ってチョンジャの手を握ると、彼女の隣に立っていた警察官の方を見た。『先に彼女を殴った男は、何と言っているのですか?』『彼は先に彼女が自分を殴って来たと言っています。』『彼は今何処に?』『彼なら、既に署を出て帰宅しました。』(困った事になったわね・・)『女将さん?』『チョンジャさん、貴方と喧嘩した方の名前を教えてくださらない?』『解りました。何か書くものを用意して貰えませんか?』チョンジャは警察官に用意して貰ったメモ用紙と万年筆を受け取ると、そこに相手の男の名前と住所を書いて千代乃に渡した。翌日、千代乃はチョンジャから渡されたメモに記された住所を訪ねると、そこには美しい瀟洒(しょうしゃ)な洋館が建っていた。『失礼ですが、何か当家にご用でしょうか?』鉄扉の前で暫く千代乃が右往左往していると、洋館の中から燕尾服姿の執事がやって来た。『突然伺ってしまって申し訳ありません。わたくし、満韓楼の女将で・・』『チヨノ様、お待ちしておりました。どうぞ中へ。』執事に連れられ、千代乃は館の客間へと通された。暫く千代乃がソファに座りながら待っていると、そこへ先ほどの執事が飲み物を載せた盆を持って客間に入ってきた。『ジュンス様からお話は伺っております。路上で女性と口論となり、暴力を振るわれたとか・・』『ええ。ですが警察署で聞いた話によると、先にジュンス様を殴って来たのはうちのチョンジャだと主張していたとか・・』『チヨノ様、今回の事はジュンス様に責任を取らせますので、どうか他言無用に願います。』『解りました。』『有難うございます。』執事が千代乃に向かって頭を下げていると、客間のドアが乱暴に開かれ、中に背広姿の青年が入って来た。『ジュンス様、お帰りなさいませ。』『誰の許しを得て、その女を入れたんだ!』にほんブログ村
2016年08月11日
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満韓楼へと戻った千代乃が自室で読書をしていると、ファヨンがやって来た。『女将さん、こんな物がチョンジャの部屋から見つかりました。』そう言ってファヨンが千代乃に見せたものは、千代紙に包まれた阿片の粉末だった。『一体、どうしてこんな物がチョンジャの部屋に・・』『最近、チョンジャが誰にも行き先を言わずに夜中へ出掛けていることを知っています。』『そう・・ファヨンさん、良く知らせてくれたわね。この件は誰にも口外しないで。』『解りました。』ファヨンが部屋から去った後、千代乃は彼女から渡された阿片の粉末を見た。『ユニョク、居る?』『はい、女将。』 外に控えていたユニョクは、影のようにするりと部屋に入って来た。『少し調べて欲しい事があるのだけれど、いいかしら?』『はい。』『この阿片が何処から流れてきたのかを、調べて欲しいの。』『解りました。数日留守にする事になるかもしれませんが、構いませんか?』『構わないわ。』『女将、そろそろ支度をいたしませんと・・』『解ったわ。ユニョク、くれぐれも気を付けてね。』『はい。それでは、行って参ります。』 ユニョクが部屋から出て行った後、千代乃は湯浴みをする為に浴室へと向かった。 浴室から上がって千代乃が髪を乾かしていると、千代乃は外から強い視線を感じた。脱衣所の窓を開けて外を見たが、そこには誰も居なかった。(気の所為ね・・) その日の夜、哈爾浜市内のホテルで開かれたパーティーに出席した千代乃は、そこでジニの義母と会った。『あら、奇遇ね。貴方がこのような場所に居るなんて。』『まぁ奥様、お久しぶりでございます。』千代乃が愛想笑いを浮かべながらジニの義母に挨拶をすると、彼女は不快そうに鼻を鳴らして千代乃に背を向けた。『相変わらず、無愛想な女ね。』『女将さん、気にする事ないですよ。』『チョンジャは何処に行ったの?』会場にチョンジャの姿がない事に気づいた千代乃がそう言うと、妓生達は何処か気まずそうな様子で俯いた。『何かあったの?』『実は先ほど、チョンジャが警察に連行されました。何でも、別れた男と口論になって殴り合いの喧嘩をしたみたいで・・』『そう、彼女は今何処に居るの?』 パーティーが終わり、千代乃はファヨンと共にチョンジャが連行された警察署へと向かった。『女将さん!』警官に連れられたチョンジャの顔には、男に殴られた時に出来た青あざが残っていた。『チョンジャさん、一体何があったの?わたしに解るようにちゃんと説明して頂戴。』『わたしは何も悪くないんです、それなのにあの男が勝手にわたしを犯罪者扱いして留置場へぶち込んだんです!』 怒りで興奮したチョンジャは、警察署へ連行されるまでの経緯を千代乃に話し始めた。にほんブログ村
2016年08月04日
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『ウソンさん、こんにちは。』 千代乃がウソンに挨拶すると、彼女は口元を袖口で覆いながら千代乃に手招きした。『ねぇ、ジニさんが組合長を辞めた事はもうご存知?』『ええ。』『今日の会合は、新しい組合長を決める為に開かれるのですって。チヨノさん、貴方が選ばれるといいわね。』『わたしはまだ哈爾浜に来て日が浅いから、そんな重役が務まるかしら?』『チヨノさんならきっと出来るわよ!』 ウソンがそう言って千代乃を励ましていると、そこへ何かにつけて千代乃を目の敵にしているビョンレが現れた。『あらチヨノさん、お久しぶりね。』『お久しぶりです、ビョンレさん。』『ウソンさん、会合までまだ時間があるからホテルのティールームでお茶でも飲まないこと?チヨノさんもご一緒にいかが?』『有難うございます、ビョンレさん。』 ビョンレ達と共にホテルのティールームへと入った千代乃は、そこでジニの義母と友人達が談笑している姿に気づいた。『チヨノさん、どうかなさったの?』『いいえ、何でもないわ。』 幸い千代乃にジニの義母は気づいていなかったようで、彼女は友人達と共に賑やかな笑い声を上げながらティールームから出て行った。『チヨノさん、その簪素敵ね。』『有難う。この簪、ジニさんから頂いたのよ。何でも、ジニさんのお母様の形見なのですって。』『ジニさんのお母様って、朝鮮一の妓生と謳われていたお方なのでしょう?それなのに、どうしてあんな死に方をなさったのかしら?』『あんな死に方?』『あら、チヨノさんはまだご存知ないのね。ジニさんのお母様は、表向きは病死だって言われているけれど、噂では本妻に苛め抜かれて殺されたそうよ。』『まあ・・』 ビョンレの口からジニの母親の死に対する衝撃的な事実を知り、千代乃は驚きの余り絶句した。『わたしの母が、ジニさんのお母様の昔の妓生仲間でね、ジニさんのお母様があの男のお妾さんになった後も仲良くしていたのだけれど、うちに来る時、いつもジニさんのお母様はみすぼらしい格好をしていたわ。あの男の本妻に服も髪飾りも全部取り上げられたみたいでね。食事なんか家畜の餌同然のものを与えられていたそうよ。』『酷い・・同じ人間なのに、どうしてそんな事を・・』『チヨノさん、ひとつ教えてあげるわ。この哈爾浜でも、朝鮮でも言えることは、両班以外は人間扱いされないという事よ。わたし達は、あいつらの目から見たら獣同然の存在なんだから。』 会合の帰り、千代乃は満韓楼への帰路に着きながら、何度もビョンレの言葉を思い出していた。“わたし達は、あいつらの目から見たら獣同然の存在なんだから。”(まだ、この哈爾浜には・・いいえ、この世界には知らない事が沢山ある。わたしは、今まで日本で幸せに暮らしていたんだわ・・)そんな事を思いながら千代乃が道を歩いていると、突然目の前に一台の車が自分に向かって突っ込んで来ようとしていた。「危ない!」恐怖で身が竦み、動けなくなった千代乃を一人の男性が助けてくれた。「助けてくださり、有難うございます。」「何をしているんだ、貴方は!自殺するつもりなのか!?」千代乃の命を助けた男性は、そう千代乃を怒鳴りつけると、何処かへと行ってしまった。にほんブログ村
2016年08月04日
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千代乃に拳で顔を殴られたジョンスは派手な悲鳴を上げてのたうち回り、その隙にユソンは他の妓生達が居る部屋へと逃げ込んだ。『殴ったな、この俺を、下劣な妓生のお前が!』ジョンスは怒りに滾った目で千代乃を睨みつけ、美しく結い上げていた千代乃の髪を掴んで自分の方へと引き寄せると、両手で千代乃の首を絞め始めた。『殺してやる、お前なんか殺してやる!』千代乃は酸素を求めて苦しく喘ぎながら、自分の上に馬乗りになったジョンスの顔を爪で引っ掻いた。『このアマ、思い知らせてやる!』千代乃に顔を引っ掻かれて更に激昂したジョンスは、千代乃の首を絞める力を強めた。 その時、風が唸るような音とともに、ジョンスの姿が一瞬にして千代乃の視界から消え去った。何が起こったのかが解らず、千代乃が起き上がってチマについた砂を払っていると、そこへ一人の長髪の男が現れた。『大丈夫ですか、チヨノ様。』『ええ。貴方は、誰?』『自己紹介が遅れました。わたしは本日から満韓楼の用心棒を務めさせていただきます、ユニョクと申します。』 そう言って千代乃に自己紹介した男・ユニョクは、千代乃の背後で伸びているジョンスを見た。『この男を如何なさいますか、チヨノ様?』『そうね・・』 千代乃はユニョクの耳元で、ある事を囁いた。『さっきは助かったわ、有難う。』『いいえ。あの男とは、知り合いなのですか?』『ある意味そうだけれど、余り関わり合いたくない人ね。ねぇユニョクさん、貴方はどうして満韓楼の用心棒になったの?』『先ほどジニお嬢様から、貴方様宛の手紙を預かって参りました。』ユニョクはそう言うと、千代乃に一通の手紙を差し出した。 千代乃がその手紙に目を通すと、そこには万が一の時に満韓楼の用心棒として自分の友人であるユニョクを雇ってくれという内容がジニの流麗な字で書かれていた。『これから宜しくね、ユニョクさん。』『こちらこそ宜しくお願い致します、チヨノ様。』『そんなかしこまった言い方はしないで。女将さんと呼んでくださいな。』『解りました。女将さん、これからわたしは何をすればよろしいでしょうか?』『そうね。今から買い物に付き合ってくださらないこと?』『かしこまりました。』 満韓楼を出て市場へと買い物に向かった千代乃とユニョクは、広場に人だかりが出来ている事に気づいた。ちらりと横目で広場を見ると、そこには全裸で柱に縛り付けられているジョンスの姿があった。『誰か、助けてくれ~!』『さてと、行きましょうか。』午前中に買い物を終えた千代乃とユニョクが満韓楼へと戻ってくると、ユソンが二人の元へと駆け寄って来た。『女将さん、先程は助けて頂いて有難うございました。』『貴方、身体の方は大丈夫なの?さっきあの男に酷く殴られていたけれど・・』『ああ、それならさっき薬湯を飲んだので大丈夫です。それよりも女将さん、会合に行ってください。』『わたしが留守にしている間、余り無理をしないでね、ユソンさん。』『はい。』 満韓楼を出た千代乃とユニョクが花柳界組合の会合場所であるホテルへと到着したのは、12時過ぎの事だった。『あらチヨノさん、こんにちは。』ホテルのロビーでそう千代乃達に挨拶をしてきたのは、組合員の一人であるウソンだった。にほんブログ村
2016年07月22日
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『今お飲み物をお持ちしますね。』『ええ、頼むわ。』 ファヨンが席を外すのを見たジニは、ゆっくりと千代乃の前に腰を下ろした。『それで、わたくしに相談したい事とは何かしら、ジニさん?』『貴方は、わたくしと兄との関係の事をどこまでご存知なの?』ジニはそう言うと、千代乃を見た。『貴方のお兄様が貴方を愛していらっしゃることを聞いたわ。』千代乃がジニの質問に正直に答えると、ジニは安堵したような表情を浮かべた。『よかった、貴方は口が堅そうね。』ジニは少し身を乗り出すと、千代乃の耳元に何かを囁いた。『それは、確かなの?』『ええ。月のものが二月ほど遅れていたから、お医者様に診て貰ったの。そしたら、二ヶ月に入っているのですって。』ジニから妊娠を告げられた千代乃は、彼女を祝福した。『おめでとう。お腹の子の父親はどなたなの?』『兄の子ですわ。兄に知らせたら、是非産んで欲しいと言われましたの。でも・・』ジニの顔が急に曇った事に気づいた千代乃は、彼女が次の言葉を継ぐまで待った。『あの人達がこの事を知ったら、黙ってはいないと思うの。』 千代乃の脳裏に、ジニの義母とその息子の顔が浮かんだ。妾の子であるジニを子供の頃から虐げて来た彼らが、彼女の妊娠を知ったら何をしでかすのかわからない。『お兄様は何とおっしゃっているの?』『兄は英国に知り合いが居るの。その方に兄が相談したら、英国に来てくれとその方から言われて、わたくしも兄についていくつもりです。』『そう。いつ英国へ発つの?』『明朝です。だから、チヨノさんとお会いするのはこれで最後になりますわ。』ジニはそう言って千代乃に微笑むと、おもむろに髪に挿していた簪を抜き、千代乃に手渡した。『チヨノさん、貴方と知り合えて良かったわ。わたくしは、貴方の事を大事なお友達だと思っているの。だから、この簪を―母の形見を貴方に差し上げるわ。』『ジニさん、大切にするわ。お兄様と―ヨンス様と幸せになってね。』『有難う、幸せになるわ。』ジニと千代乃が互いの手を握り合った時、ファヨンが冷えた茶を持って部屋に入って来た。『じゃぁ、わたくしはここで失礼するわ。』 満韓楼の前でジニは車に乗ると、そう言って千代乃に向かって手を振った。『ジニさんのお話は何だったのですか?』『個人的なお話よ。ファヨンさん、午後の予定は何かあったかしら?』『1時から哈爾浜花柳界組合の会合があります。夜7時からは哈爾浜ホテルでパーティーが・・』『そうだったわね。午前中は何も予定がないから、お昼までゆっくりすることにするわ。』『何かありましたら、呼んでください。』『ええ、解ったわ。』 千代乃が自室に戻って読書をしていると、急に外が騒がしくなった。『何かあったの?』『女将さん、助けてください!』千代乃が自室から出て中庭の方を見ると、そこにはジョンスに髪を掴まれて殴られているユソンの姿があった。『うちの妓生に何をなさっているのですか、やめなさい!』『余所者が口を挟むな!生意気な女を懲らしめるのにはこうしたやり方が一番なんだ!』ジョンスはそう言って千代乃に唾を吐きかけると、ユソンの下腹を執拗に蹴り続けた。『やめなさいと言っているでしょう!』ジョンスの横暴な振舞いに堪忍袋の緒が切れた千代乃は、そう叫ぶなり彼の頬を拳で殴っていた。にほんブログ村
2016年07月15日
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『おはようございます。』『おはようございます、トシゾウ様。昨夜は良く眠られましたか?』 翌朝、歳三がアバーモフ伯爵邸のダイニングルームに入ると、ドミトリィが笑顔を浮かべながら彼に挨拶してきた。『ええ、まぁ・・それよりも、伯爵はどちらに?』『あぁ、父は朝の日課の散歩に出ています。暫くしたら戻る事でしょう。』ドミトリィはそう言って母・ヒルデの方を見たが、彼女は不機嫌な表情を浮かべながら紅茶を飲んだ後、そのままダイニングルームから出て行ってしまった。『何か奥様の気に障るような事を言ってしまいましたか?何せ露西亜語にはまだ疎いものですから・・』『母は時々気分の浮き沈みが激しくなるのです。トシゾウ様の所為ではありませんから、どうぞご安心ください。』ヒルデの退室が、自分の所為なのではないかと思っている歳三に、そう言って彼を安心させたドミトリィがコーヒーを飲んでいると、そこへ朝食のワゴンを押したアデリアが入って来た。『トシゾウ様、おはようございます。』アデリアはそう言うと、歳三に微笑んだ。『おはよう。』歳三が彼女に素っ気なく挨拶すると、彼女はそれが気に入らなかったようで、不快そうに顔を顰(しか)めた。「兄さん、僕はこれからドミトリィさんとウラジオストク市内を観光するよ。仕事で根詰めてばかりいると倒れてしまうからね。」「息抜きは必要だ。気を付けて行って来いよ。」「わかったよ。」朝食後、彬文とドミトリィを玄関ホールで見送った後、歳三が客室に戻ろうとすると、部屋の前にはアデリアが立っていた。『何か俺に用か?』『昨夜は余り乗り気ではありませんでしたね。』アデリアはそう言うと、歳三にしなだれかかった。彼女の身体から、芳しい薔薇の香りがした。『メイドの癖に香水をつけてるのか?』『旦那様はわたくし達に香水をつけるように義務付けていらっしゃるのです。それよりもトシゾウ様、今からわたくしと楽しい時間を過ごしませんか?』『こんな朝っぱらから盛る気はねえよ。俺の事は放っておいてくれ。』『まぁ、つれない方。』アデリアはクスクスと笑いながら、そう言うと歳三の元から離れた。『アデリア、またあんたあの日本人にちょっかいを出してるの?』『あらオルガ、盗み聞きしていたの?』アデリアは同僚のオルガの方を見ると、彼女は大袈裟な溜息を吐きながらアデリアを呆れ顔で見た。『ドミトリィ様から、あの方にはちょっかいを出すなって言われているじゃないの?どうして勝手な事をするのよ?』『あの方が気になって仕方がないの。それに、わたしがあの方の恋人に似ているのですって。でも、似ているのは顔だけみたい。』『へぇ、どんな人なのか気になるわね、あの方の恋人。』『こら、そこの二人!喋っている暇があったら仕事なさい!』廊下でアデリアとオルガそんな事を話していると、メイド長のユーリアが目敏く二人を見つけて厳しく彼女達を叱った。『さてと、仕事しないと。』『そうね。』 メイド服の裾を翻しながらアデリアはオルガと共に階下へと降りていった。 同じ頃、哈爾浜(ハルビン)の満韓楼では千代乃が自室の鏡台の前で化粧をしていた。『女将さん、今入っても宜しいでしょうか?』『いいわよ。』『失礼いたします。』 部屋の扉が開き、ファヨンと共に入って来たのは何処か思いつめたような顔をしたジニだった。『ごめんなさい、こんな朝早くに伺ってしまって。実は、貴方に相談したいことがあるの。』ジニはそう言うと、何処か落ち着かない様子でチョゴリの胸紐を指先で弄(いじく)り始めた。にほんブログ村
2016年07月08日
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『わたくしに何かご用ですか、トシゾウ様?』アデリアがそう言って歳三の方を見ると、彼は彼女の手首を掴んで自分の方へと引き寄せた。『俺がお前を呼んだ目的は、ただひとつ。それ以上は、言わなくても解るだろう?』『はい。お部屋に案内致します。』『ああ。』 シガレット・ルームから仲良く連れ立って二人が出て来る姿を、柱の陰から誰かが見ていた。『ここです。』『なかなかいい部屋じゃねぇか。使用人の部屋にしては調度品や家具は見た所高級品そうだし。』『わたくしの部屋ではありませんわ。お客様専用の部屋です。』アデリアはドアを閉め、内側から鍵を掛けた後、歳三にしなだれかかった。『お客様専用、というのは?』『旦那様は、わたくし達に夜伽をさせているのです。奥様やお子様達は、旦那様の趣味を知りながらも黙認しております。』『つまり、ここは主人公認の売春宿なんだな?』『そのような下衆な言葉は使わないでくださいませ。せめて、娼館とおっしゃってくださいな。』『言葉を変えても、意味は同じじゃねぇか。』アデリアは歳三の言葉に笑うと、彼を寝室へと案内した。『お喋りはもう止めましょう。』アデリアは歳三を寝台の上に押し倒すと、着ているワンピースのボタンを外し始めた。『随分と積極的だな?ご主人様にそう躾けられたのか?』『ええ。昼は旦那様が主導権を握っておりますが、夜はわたくしが主導権を握っております。』『そうか。俺の恋人とは大違いだ。』歳三はアデリアの豊満な乳房を揉みながら、千代乃との情事を思い出していた。 顔は似ていても、千代乃はアデリアのように自ら服を脱ぐような事はしなかった。『どうかなさいましたか?』『いや、何でもない。』『どうやら、貴方の恋人はわたくしとは違ってお淑やかな方だったのでしょうね。』アデリアはそう言ってクスリと笑った後、歳三の股間に顔を埋めた。彼のものが欲望に滾ったのを確認すると、アデリアは歳三の上に跨り、腰を揺らし始めた。久しぶりの情事だというのに、それは呆気なく終わった。『余り乗り気ではなかったようですわね。』アデリアが歳三にしなだれかかりながらそう言って彼を見ると、歳三は不機嫌そうな顔をして眉間に皺を寄せた。『少しここで休む。もうお前に用はない。』『かしこまりました。』 アデリアが部屋から出て行くと、廊下にはドミトリィの姿があった。『神出鬼没ですわね、ドミトリィ様。どうしてわたくしがこちらに居ると解ったのですか?』『とぼけるな、アデリア。お前がトシゾウ様に興味を抱いていることくらい知っている。』ドミトリィがそう言ってアデリアを睨むと、彼女は薄笑いを浮かべた。『何がおかしい?』『ドミトリィ様、わたくしのやり方に口を挟まないでくださいませ。』『僕はお前がどうしようが詮索するつもりも、邪魔するつもりもない。だが、トシゾウ様だけには手を出すな。』 ドミトリィはそうアデリアに吐き捨てるように言うと、彼女に背を向けて去っていった。(厄介な方ね・・)にほんブログ村
2016年07月01日
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千代乃に似たメイド・アデリアは、歳三を見つめた後、彼に優しく微笑んだ。『あなた様は、わたくしに誰かを重ねていらっしゃるのですね?』『どうして解ったんだ?』『何となくです。』(変な女だな・・)歳三がそんなことを思いながらアデリアを見ると、彼女は不敵な笑みを口元に浮かべ、バルコニーから去っていった。「兄さん、はいお水。」「有難う。」「お酒ばっかりじゃ、辛いでしょう?」 彬文の言葉に、歳三は思わず笑った。「どうしたの、何か僕おかしな事言った?」「いや・・お前ぇみてぇなのが結婚したら、相手は苦労するだろうなと思って。」「それ、どういう意味?」「お前は少し神経質だから、相手は似たような性格の女がいいな。」「失礼だな、兄さんは。まぁ、僕は当分結婚するつもりはないからね。今は学業と仕事が楽しいから、それが一段落したら考えてみようかな。」そう言う弟の横顔が、歳三には少し眩しく見えた。 自分もかつて、彼のように何かに情熱を燃やしていた頃があった。だが今は、淡々と仕事をこなすだけの生活を送っている。「そろそろ戻ろうか。いくら仕事の場でも、美しいお嬢さんと踊らないと彼女達に恨まれちゃうからね。」「ああ。」 歳三は月に背を向け、弟と共に喧騒に満ちた大広間へと戻っていった。『トシゾウ様、わたくしと踊ってくださいな。』『狡いわ、わたくしがトシゾウ様と最初に踊るのよ。』 大広間に戻った歳三を、色とりどりのドレスで着飾った令嬢達が群がった。『皆さん、そんなに慌てないでください。わたしは居なくなったりしませんから。』 歳三が笑顔を浮かべて令嬢達にそう言うと、彼女達は益々色めき立った。 喧騒に包まれた大広間から離れた邸の二階の奥―アバーモフ伯爵の寝室では、主であるアバーモフと、メイドのアデリアが寝台の上で睦み合っていた。『アデリア、さっきあの日本人と何を話していた?』『ただの世間話です。もしかして旦那様、あの方に嫉妬していらっしゃったのですか?』『馬鹿を言え。あんな若造、わたしの相手ではないわ。』アバーモフはそう言うと、アデリアの華奢な腰を掴んだ。『奥様がわたくし達の事を知ったら、どうなさるのでしょうね?』『あいつはお前がわたしの愛人だということを既に知っている。貴族が愛妾を抱えることは嗜(たしな)みのひとつだからな。』『まぁ・・』アデリアは主の上で腰を振りながら、クスクスと笑った。『それよりもアデリア、あの日本人の男が妙な真似をせぬように見張るのだぞ、わかったな?』『ええ。』 アバーモフはアデリアを抱いた後、そのままシーツの中で眠ってしまった。アデリアは素早く身支度をし、彼の寝室から出た。『アデリア、また父上とお楽しみだったのかい?』『ええ。ドミトリィ様、舞踏会に戻らなくても宜しいのですか?』『ああ。どうもああいう場所は苦手でね。そうだ、お前の事をトシゾウ様が探していたぞ。』『そうですか。では、わたくしはこれで失礼致します。』 アデリアはドミトリィに頭を下げると、大広間へと降りていった。『トシゾウ様、お呼びでしょうか?』 アデリアがシガレット・ルームに入ると、歳三が紫煙を燻(くゆ)らせながら彼女を見た。『本当に、来たんだな。』にほんブログ村
2015年10月14日
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千代乃が自分の前から姿を消して、もう半年になろうとしている。探偵を使って彼女の消息を捜しているが、一向に手掛かりが掴めずにいた。(千代乃、何処にいるんだ?) ふと歳三が空を見上げれば、そこには蒼い光を放つ満月が浮かんでいた。その月を眺めながら、彼は千代乃と出逢ったときのことを思い出していた。 歳三が初めて千代乃と会ったのは、知人に招待され、ある男爵の夜会に出席した時のことだった。アバーモフ伯爵家の舞踏会のような贅を尽くしたものではなかったが、結婚適齢期の男女が笑いさざめき合う姿は何処も似たようなものだった。『君が土方伯爵家の・・噂には聞いていたが、父親と全く似ていないな。』 歳三の出生に関する醜聞を知っていた男爵は、そう歳三に向かって軽口を叩くとそのまま何処かへ行ってしまった。 挨拶を済ませたので夜会から抜け出そうと、歳三が大広間から出ようとした時、この場には似つかわしくない和装姿の女が入って来た。歳三は彼女を見ただけで、彼女が花柳界に籍を置いている人間だとわかった。『男爵様・・』『また来たのか、しつこい女は嫌いだと言った筈だ。』『男爵様がうちの置屋に踏み倒した借金を全額お支払いするまで何度でも男爵様の元へ参ります。』そう言った女の蒼い瞳に射るように見つめられた男爵は、近くにいる執事に何かを命じた。 数分後、執事は男爵の元に戻り、札束が入った封筒を恭しい仕草で主に差し出した。『これで足りるか?』『有難うございます、またご贔屓に。』男爵から金を受け取った女は、彼に背を向けて大広間から去っていった。その時、女の髪から簪が一本、滑り落ちた。『忘れ物だぜ。』『有難うございます。わたくしは千代乃と申します。』『俺は土方歳三だ。縁があったらまた会おう。』 あの夜会の出逢いを経て、歳三は千代乃と恋仲になった。千代乃が男であることを知りながら、歳三は千代乃を愛することを止めなかった。 千代乃も、歳三の愛に応えた。この幸せはいつまでも続くと思っていた。しかし歳三の父が亡くなり、歳三は父の跡を継ぐ為、蕗子を娶(めと)った。結婚など形だけで、歳三の心はいつも千代乃にあった。 千代乃の事を知った蕗子は腹に宿していた小さな命を道連れに自ら命を絶った。“あなたは死神(しにがみ)よ!” もし千代乃が女であったのなら、自分の妻にして、末永く共に白髪が生えるまで二人で仲睦まじく暮らしていたのだろうか。(俺の所為で、千代乃は誰かに攫(さら)われた。) 自分は愛する者を不幸へと導く死神なのかもしれないと歳三がそう思いながら空に浮かぶ月から視線を外して大広間に戻ろうとした時、彼の前には千代乃と瓜二つの顔をしたメイドが立っていた。『俺に何か用か?』『いいえ。ただ、あなたが寂しそうだったので、声をお掛けしてしまいました。』そう言って歳三を見つめるメイドの瞳の色は、千代乃と同じ色をしていた。にほんブログ村
2015年10月14日
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千代乃が哈爾浜で満韓楼を切り盛りしている頃、歳三は仕事の関係で露西亜(ロシア)のウラジオストクへと来ていた。「寒ぃな・・」「そりゃぁ、露西亜だもの。日本の冬と比べるともっと寒いよ。場所によると、最低気温が零度四十度に下がるところがあるんだって。」「へえ、そんな所に住んでいる奴の気が知れねぇや。」 ウラジオストクの港に降り立った歳三は、寒さに震えながら隣に立っている彬文を見た。「お前ぇ、そんな薄着で大丈夫か?」「大丈夫だよ。僕よりも兄さん、そんなに着膨れするほど厚着しなくてもいいのに。」「これくらいしねぇと風邪ひくだろうが。」「厚着のし過ぎは、熱が籠って蒸発しにくくなって、風邪をひきやすくなるんだよ。」「この野郎、屁理屈ばかり言いやがって・・」そう言って歳三が彬文を睨みつけた時、一台の馬車が彼らの前に停まった。『失礼、あなたがトシゾウ=ヒジカタ様ですか?』 馬車の中から、金髪碧眼の青年が出て来た。『はい、そうですが・・あなたは?』『初めまして、わたしはドミトリィ=アバーモフと申します。そちらの方は?』『こいつは俺の弟の彬文です。』『彬文です、どうぞ宜しくお願いいたします。』『こんな寒い所で立ち話も何ですから、馬車の中へどうぞ。』『有難うございます。』ドミトリィとともに馬車に乗り込んだ歳三達は、彼が住む屋敷の客間に通された。『本日は遠路はるばるお越しくださいまして有難うございます。』『こちらこそ、こんな素敵なお屋敷に招いて頂いて有難うございます。』『若様、紅茶とクッキーをお持ちいたしました。』ドミトリィと歳三達が談笑していると、一人のメイドが客間に入って来た。彼女は、何処か千代乃に似ていた。『どうしました、わたしの顔に何かついていますか?』『いいえ、何でもありません。』『そうですか。では若様、わたくしはこれで失礼いたします。』メイドはちらりと歳三を見ると、客間から出て行った。『さっきのメイドは?』『アデリアといって、数ヶ月前に父が雇ったメイドですよ。彼女に何か?』『いいえ・・ただ、恋人に似ていたもので、少し驚いただけです。』『そうですか。』ドミトリィはそう言うと、口端を上げて笑った。 その日の夜、歳三と彬文はアバーモフ伯爵家主催の舞踏会に招待された。『トシゾウ様、アキフミ様、わたしの両親です。』『初めまして、トシゾウ=ヒジカタです。』『初めまして。ヒルデと申します。』 ワインレッドのドレスを纏った金髪の女性は、そう歳三に自己紹介して彼と握手を交わした。ヒルデの隣に立っている彼女の夫は、仏頂面をしながら歳三を睨んでいた。『あなた、どうなさったの?』『気分が少し優れないから、部屋で休むよ。』『あなた、お待ちになって、あなた!』『申し訳ありません、トシゾウ様。父は古い考えの人間なので・・』『いいえ、気にしていません。』 喧騒に満ちた大広間から人気のないバルコニーへ出た歳三は、溜息を吐きながらタイを緩めた。「兄さん、大丈夫?」「ああ。」にほんブログ村
2015年10月07日
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『ジョンス様に、噂の日本人の女将の裸をスケッチして来いと言われ、浴室を覗いたのです。』 妓生(きーせん)達に締め上げられ、蒼褪めた顔でそう白状した青年の名は、ヨンイルといった。彼はキム家の使用人で、ジョンスの我が儘(まま)に日頃振り回されているという。『なんだってあんな両班の坊ちゃんが、女将さんの裸なんかに興味がある訳?』『勉強のし過ぎで色々と溜まってるんじゃないの?』『それにしても、いい迷惑だわ。もう少しで警察に突き出すところだったわよ。』『本当に、申し訳ありません。』ヨンイルはそう言って項垂れた。『ヨンイルさん、あなたキム家の事には詳しいの?』『ええ。わたしは祖父の代からキム家の使用人をしておりますから、家の事情には詳しいです。』『そこの上のお坊ちゃまは、どんな方なのかしら?』千代乃がそう言ってヨンイルの方を見ると、彼は少しバツの悪そうな顔をしていた。 彼がしたことをもしジョンスに知られでもしたら、ジョンスは必ず彼を折檻するに違いない。そう思った千代乃は、彼を安心させる為にこう言った。『大丈夫よ、ヨンイル。この事は誰にも言わないわ。だから、わたしにジョンス様の事を教えて?』『わかりました・・お教え致します。ジョンス様は我が儘な方で、いつもわたし達使用人を顎でこき使っては、気に食わないことがあると折檻をしたりします。お優しいヨンス様とは大違いです。』ヨンイルはそう言うと、上着の袖を捲り上げた。彼の右腕には、火傷のような痕が残っていた。『これは、ジョンス様に火箸を押し付けられた痕です。わたしだけではありません、ジョンス様は機嫌が悪くなると、わたし達や奥様、それにヨンス様にも折檻をするのです。』『何て酷いことを。』『どうか今回の事は見逃してください。帰ったらジョンス様に何をされるのかわかりません。』蒼褪めた顔で何度も自分に許しを乞うヨンイルを、千代乃は見逃すことにした。『いいんですか、女将さん?警察を呼べば済むことなのに!』『警察を呼んだら、ヨンイルさんが酷い目に遭うわ。それに、彼はジョンス様に命じられて浴室を覗いていたのよ。本当に悪いのはジョンス様よ。』『そうですけれど・・これでジョンス様が諦めるのでしょうか?』『そう祈るしかないわ。』 千代乃は闇の中へと消えていくヨンイルの背中を静かに見送った。『なんだと、覗きに失敗した?』『申し訳ございません、ジョンス様・・逃げようとしたら、妓生達に捕まりました。』『お前、わたしに命じられた事を妓生達に話してはないだろうな?』ジョンスにそう尋ねられたヨンイルは、静かに頷いた。『ジョンス様、何故あの女将に興味を持たれるのです?』『それはお前には関係のないことだ。』『は、はい・・』『それで? わたしが頼んだ物は持って来たのか?』『はい、こちらに。』ヨンイルはそう言うと、ジョンスに一冊のスケッチブックを差し出した。ジョンスがスケッチブックを捲ると、最初のページには満韓楼の女将・千代乃の裸が描かれていた。『よくやった。下がっていいぞ。』『失礼します、坊ちゃん。』ヨンイルはスケッチブックを脇に抱え、ジョンスの気が変わらない内に彼の部屋から急いで出て行った。にほんブログ村
2015年10月07日
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『まぁ、そんなことがあったのですね。』『わたしが気づいた時には、ジニは妓生置屋の女将の元へ売り飛ばされそうになっているところでした。寸でのところで、わたしはジニを女将から助けました。』ヨンスは当時の事を思い出しながらそう言うと柚子茶をまた一口飲んだ。『ヨンスさん、ひとつお聞きしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?』『はい、何でもお聞きしても宜しいですよ。』『今まであなたのお話を伺うと、あなたとジニさんは仲の良い兄妹ではなく、恋人同士だとわたしは思ってしまったのですけれど・・あなたは、ジニさんの事を・・』『ええ、愛しています。妹ではなく、一人の女として。』 ヨンスの告白に、部屋に気まずい沈黙が流れた。『この事は、わたくし達だけの秘密に致しましょう。』『はい。』『女将さん、いらっしゃいますか?』 襖の向こうからファヨンの声がしたので、千代乃はそっと襖を開け部屋から出た。『お客様ですか?』『ええ。それよりもどうしたの、何かあった?』『実は、先ほど女将にお会いしたいという方がいらっしゃいまして・・』『わたしにお会いしたい方ですって?』『はい、一応名刺を預かりました。』 ファヨンは千代乃に一枚の名刺を手渡した。そこには、『日本帝国海軍少佐 櫻田義人』と印刷されていた。『女将さんのお知り合いですか?』『いいえ、知らないわ。』『そうですか・・女将さん、さっきの方はどなたです?』『ジニさんのお兄様の、キム=ヨンス様よ。ファヨンさん、知っているの?』『ええ。ヨンス様は、お兄様のジョンス様と違っていい方ですし、塾を開いて近所の子供達に勉強を教えていらっしゃるんですよ。』『まぁ、そうなの。』ファヨンと廊下で話した後、千代乃が部屋に戻ると、そこにはヨンスの姿がなかった。『ファヨンさん、ヨンス様を見かけなかった?』『ヨンス様なら、塾の方へ行くと先ほどお出かけになられましたよ。』『そう。』 その日の夜、千代乃が夕食を済ませて浴室に入ろうとした時、窓の方から視線を感じた。『女将さん、どうなさったのですか?』『さっき、窓の方から視線を感じたの。』『最近、覗き魔がこの付近で出没しているんですって。何かあったらわたしがやっつけますからね。』『有難う、でももう大丈夫よ。』千代乃はそう言って心配そうに自分を見つめるファヨンに微笑むと、服を脱いで浴室に入った。 結っていた髪を解いて千代乃がそれを洗っていると、浴室の窓から再び視線を感じた。『誰、誰かそこにいるの?』髪を洗うのを中断した千代乃が窓の方へと向かうと、近くにあった木によじ登りこちらを見つめている青年と目が合った。『こら、そこで何をしているの!』『覗き魔よ、誰か来てぇ~!』 青年は妓生達から逃れようとして慌てて木から降りようとしたが、誰かが投げた盥(たらい)が顔面に当たり、そのまま地面へと落下していった。『あんた、何で浴室の中を覗いていたのよ!』『さっさと白状なさい!』 数分後、妓生達に取り囲まれた青年は、ある人物に命じられて浴室を覗いていたことを白状した。にほんブログ村
2015年10月04日
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『あなた達、一体そこで何をしているのです?』『うるさいね、赤の他人があたし達のやり方に口出ししないでおくれ。』薄紅色のチマ=チョゴリを着た中年の女性は、そう言って千代乃を睨みつけた。彼女の背後には、打たれて赤くなった頬を擦るジニの姿があった。『この女は、庶子の癖にこんな晴れがましい場所に来て生意気だということを教えてやったのよ。』『力で訴えるなんて、両班(リャンバン)の奥様らしからぬ真似をするのですね。何て乱暴な・・』千代乃がそう言って女に向かって薄ら笑いを浮かべると、激昂した女は千代乃に向かって手を振り上げた。 だが彼女の手を、一人の青年が掴んだ。『いい加減にしてください、母上。公共の場所でジニを辱めないでください。』『離しなさい、ヨンス!』女性はそう言ってパジ=チョゴリ姿の青年を睨むと、彼も女性を睨み返した。『ジニ、今の内に逃げろ。』『はい、お兄様。助けていただいて、有難うございます。』ジニは青年に礼を言うと、待たせていた車に乗って劇場を後にした。『今後ジニを辱めたら、わたしが容赦しませんから。そのことを肝に銘じておいてください、母上。』『わかったわよ!』女性はそう言って青年に背を向け、車に乗り込んだ。『危ないところを助けていただき、有難うございます。』『いいえ。こちらこそ、妹を助けていただき、有難うございます。自己紹介が遅れました、わたしはキム=ヨンスという者です。』『キム=ヨンス様、ジニさんとはご兄妹でいらっしゃるのですね。』『ええ。とはいってもわたしとジニとは、母親が違う腹違いの兄妹です。さっき車に乗った人がわたしの実の母です。』『ジニさんを何故、あなたのお母様は目の敵にしていらっしゃるのですか?』『それはここでは言えません。』そう言ったヨンスの顔が、少し曇った。『そうですか。では明日の昼、わたしのお店にいらっしゃいませんか?そこで詳しくお話をお聞きいたします。』『解りました。』 翌日の昼、ジニの異母兄・ヨンスは満韓楼を訪ねて来た。『いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。』『満韓楼と聞いて伺ったのですが、あなたがここの女将だとは存じませんでした。』『こちらです、ヨンス様。』千代乃はヨンスを奥の部屋に通すと、そこには豪華な昼食が置かれてあった。『昨夜、お話しできなかったことをお話しくださいな。ここの者は皆、口が堅いのです。わたしも、あなたがここでお話しされた事を口外致しません。』『そうですか。では、お話しいたしましょう。ジニの母親が病死した後、彼女はまだ9歳でした。孤児になった妹を哀れに思ったわたしの父は、ジニを我が家に引き取りました。しかし、母上は妹を両班の令嬢として扱わず、使用人と同じ扱いをしました。彼女から見れば妹は、夫が浮気した妓生との間に出来た娘を、自分と同じ身分にさせたくはなかったのでしょう。』 ヨンスはそう言って溜息を吐き、柚子茶を一口飲んだ。『ジニさんは、今まで辛い思いをされてきたのですね。』『ジニだけではありません、わたしも母上から散々虐げられました。次男坊であるわたしが優秀な所為で、長男である兄を立てなかったので。』『まぁ、そんなことが・・』『日本人であるチヨノさんには解りづらいでしょうが、朝鮮では長男が家を継ぎ、次男以下は別の家の婿養子となるか、長男の補佐役をするかの選択肢しかありません。官職に就いたとしても、せいぜい下級官吏になるのが関の山です。』 ヨンスの話を、千代乃はただ黙って聞いていた。『一度、ジニと一緒に家を出ようとしたことがありました。何処か遠いところへ行こうとわたしから誘ったんです。しかしわたし達の家出は失敗に終わり、ジニは妓生置屋へ売られそうになりました。』にほんブログ村
2015年10月02日
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「それじゃぁ、行ってくるわね。」「女将さん、お気をつけて。」 その日の夜、華やかな振袖に身を包んだ千代乃は満韓楼から出て、車で劇場へと向かった。 劇場は柿落(こけらお)し公演初日とあって、劇場前は沢山の馬車や車でごった返していた。「チヨノさん、こっちよ!」 劇場に千代乃が入ると、ドレスで着飾ったジニが千代乃に向かって手を振った。「ジニさん、そのドレス、素敵ね。」「チヨノさんこそ、素敵な大振袖をお召しね。」「振袖を着るなんて、わたしの歳でははしたないでしょう?」「そんな事ないわ。」 千代乃とジニがそんな事をロビーで話していると、薄紅色のチマ=チョゴリに身を包んだ中年の女性が二人の方へとやって来た。『ジニ、お前のような身分の女が、どうしてこんな所に居るの?』『お義母様・・』女性の姿に気づいたジニが怯えたような表情を浮かべたのを千代乃は見逃さなかった。『失礼ですけれど、どちら様ですか?』『それはこっちの台詞よ。あたしはこの子に話があるのよ、退いて頂戴。』『初対面の方に随分とぞんざいな口の利き方をなさるのですね?』『それはあんたも一緒じゃない? 誰よあんた?』『自己紹介が申し遅れました。わたくし、満韓楼の女将をしております、千代乃と申します。』『あぁ、あんたがあの日本人女将ね。』女性は千代乃の顔を睨むと、蔑んだ目で千代乃を見つめた。『こちらの自己紹介は済みましたが、あなたの方はまだ済んでおりませんよね?』『あんたみたいなやつに、名乗る名はないよ!』『母上、こちらにいらっしゃったのですか!』女性と千代乃が睨み合っていると、パジ=チョゴリ姿の男性が二人の間に割って入って来た。『もうすぐ開演の時間ですよ、急ぎませんと。』『わかったわ。』女性は男性とともにホールへと向かう際、千代乃の足をさり気なく踏みつけた。「チヨノさん、さっきは助けてくださって有難う。」「いいのよ。さっきの方達はどなたなの?」「あれは、わたくしの父の正妻と、その息子よ。妾の子であるわたくしが、こんな所に来てはいけないってあの人達は思っているみたいね。」「あんな人達、無視すればいいのよ。あなたはここに居るべき方だわ。」「有難う、チヨノさん。そんなことを言ってくださるのは、あなただけよ。」 ホールの中へと二人が入ると、劇場の係員にロイヤルボックスへと案内された。「こんなに一番いい席を、どうやって取ったの?」「父にお願いしたの。父は、わたくしには甘いから。」「優しいお父様が居て、羨ましいわ。」 やがてホール内が暗くなり、真紅の緞帳(どんちょう)が上がった。 千代乃は、初めて観るオペラに感激し、いつの間にか涙を流していた。「ジニさん、お誘いしてくださって有難う。素晴らしい体験が出来たわ。」「お礼を言うのはこちらの方よ。それじゃぁまたお会いしましょうね。」「ええ、また。」 千代乃はそう言ってジニに手を振って車に乗り込もうとしたが、車の窓ガラス越しにあの女性がジニに平手打ちするのが見えた。「ジニさん、大丈夫?」「ええ・・」 千代乃はジニを守るように、女性とジニとの間に割って入った。にほんブログ村
2015年09月17日
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数日後、千代乃は手土産を持ってジニの自宅を訪問すると、そこは蔦が絡まった白亜の瀟洒(しょうしゃ)な洋館だった。「あの、わたくし満韓楼の千代乃と申しますが・・」「千代乃様ですね?お嬢様からお話は伺っております、こちらへどうぞ。」 洋館の中から燕尾服姿の男が出てきて、千代乃は彼とともに洋館の中へと入った。 玄関ホールは広々としていて、天井は吹き抜けとなっていた。「お嬢様、お客様がお見えになられました。」「通して頂戴。」 客間に通された千代乃は、一瞬自分がヴィクトリア朝時代の英国にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。そこにはチンツ張りの真紅のソファが中央に置いてあり、花柄の壁紙で飾られている室内は、さながら貴族の令嬢の部屋のようだった。「ジニさん、本日はお招き頂いて有難うございます。これ、つまらない物ですが、どうぞ。」「まぁ、何かしら?」 チンツ張りのソファから立ち上がったジニは、千代乃から薄紅色の風呂敷に包まれたクッキーの箱を受け取った。「ジニさんは、こちらのクッキーがお好きだと聞きましたので、こちらに伺う前日にお店の方に注文しておきました。」「まぁ、有難う。この店のクッキーは、なかなか食べられないのよ。わざわざわたくしの為にこんなことまでしてくださるなんて、チヨノさんは流石ね。」「いいえ、そんなことはありません。わたしは、どうやったらジニさんに喜んで貰えるのかを考えただけですから。」「イソン、お茶を淹れて来て。」「かしこまりました。」 燕尾服姿の男性が客間から出て行くと、ジニは千代乃に微笑んだ。「チヨノさん、あなたわたくしに聞きたいことがあるのでしょう?」「え、えぇ・・」「財閥のお嬢様であるわたくしが、何故哈爾浜(ハルビン)花柳界の組合長をなさっているのか、不思議なのでしょうね?」ジニがそう言って千代乃を見つめた時、燕尾服姿の男性が部屋に入って来た。「お茶が入りました、お嬢様。」「有難う、そこに置いておいて頂戴。」「では、失礼いたします。」「ジニさん、あの方は?」「あれは、わたくしの身の回りの世話をしてくれている執事のイソンよ。わたくしね、財閥のお嬢様と言っても、お父様が外の女との間に作った妾の子なのよ。お父様にはちゃんとした正妻とお子さんたちがいらっしゃるの。」「まぁ、込み入ったことを聞いてしまいましたね。」「いいえ、いいのよ。昔から妾の子だからと周りから虐められて、好奇の目に晒されてきたから、もう慣れているわ。わたくしが何故哈爾浜花柳界組合長をしているかというと、亡くなったわたくしの母が妓生だったからよ。」ジニはそう言うと、首に提げていたロケットを外し、千代乃に中に入っている写真を見せた。 そこには、鮮やかなチマ=チョゴリを着た女性が映っていた。「わたくしの母よ。わたくしが二歳の時に結核で亡くなってしまったの。だから、わたくしには母の記憶が無いの。チヨノさん、あなたは何故哈爾浜にいらしたの?」「それは、わたしにも解らないのです。」「そう。これから仲良くなれそうね、わたくし達。」「ええ。」「折角お近づきになったのだから、今夜一緒に観劇でも行きませんこと?」「はい、喜んで。」「では今夜七時に、ここでお待ちしておりますわ。」 ジニがそう言って千代乃に手渡したのは、最近新しく出来た劇場のこけら落とし公演のチケットだった。にほんブログ村
2015年09月17日
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『あなた、見ない顔ね。』『お初にお目に掛かります、わたくしは満韓楼の女将を代行している千代乃と申します。以後お見知りおきを。』『ああ、あなたがあの噂の方ね? 今度わたくしのお家にいらっしゃい。お茶でも頂きながらあなたのお話を聞きたいわ。』『はい、喜んで伺います。』千代乃とジニがそんな話をしていると、そこへ煙管を咥えていた女が二人の間に割って入った。『組合長さん、あんな人相手にしないほうがいいですよ。』『あら、どうして?』『日本人なんて、信用できませんよ。いくら遣り手の女将だからって、新参者に甘くするのは良くないですよ?』『それは、あなたのご意見? それとも、ここに皆さんのご意見なのかしら?』ジニがそう言って女に切り返すと、彼女はバツの悪そうな表情を浮かべた。『それは、その・・』『ビョンレさん、チヨノさんはまだ哈爾浜に来て日が浅いのよ。哈爾浜の花柳界の事を新入りの彼女に教えて差し上げることが、あなた達のお仕事ではなくて?』 ジニの言葉に、それまで部屋の隅で固まりビョンレの様子を窺っていた他の組合員達が慌てて彼女の方へと駆け寄って来た。『その通りですわ、組合長さん!』『わたくし達、チヨノさんにこれから哈爾浜花柳界の事を親切丁寧に教えてさしあげますわ!』『チヨノさんが日本人だからって、彼女を除け者にしませんわ!』『あなたもそう思うでしょう、ビョンレさん?』『えぇ、まぁ・・』突然組合員達に話を振られたビョンレは、そう言って俯いた。『わたくしはこれから人と会う約束があるから、失礼するわ。チヨノさん、わたくしといらっしゃい。あなたとお話したいことがあるのよ。』 ジニはそう言うと、千代乃に手招きした。『では皆さん、わたしも失礼いたします。』 ビョンレ達に頭を下げた千代乃は、慌ててジニの後を追いかけた。『ジニさん、お話ししたいことは何でしょうか?』『組合員の皆さんに、色々と嫌な事を言われたのでしょう? あの人達、根はいい人達ばかりなの。ただ、少し頭が固いだけなのよ、わたくしに免じて彼女達の事を許してやって頂戴。』ジニはそう言って千代乃に優しく微笑むと、千代乃の手を包み込むように握った。『奥様!』『それじゃぁ、またねチヨノさん。』 ジニは侍女と思しき若い女性とともに、黒塗りの車に乗り込んで何処かに行ってしまった。「ただいま。」「お帰りなさい、女将さん。会合はどうでしたか?」「組合長さんにお会いしたわ。」「組合長さんって、まさかあのハン=ジニさんとお会いしたのですか?」「ええそうよ、ファヨンさん、組合長さんの事をご存知なの?」「ハン=ジニさんは、哈爾浜では有名な方ですよ。お父様が、財閥の会長様だとか・・」「まぁ、そうなの。でも何故財閥のお嬢様が、花柳界組合の会長さんをなさっているのかしら?」「それは本人に直接お聞きになればよろしいのでは?」にほんブログ村
2015年09月03日
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―なぁ、聞いたかい? 最近満韓楼の女将が変わったって話・・―ああ、知っているとも。何でも遣り手の女将だそうじゃないか。―どんな女なのか、一度見てみたいものだねぇ・・ 哈爾浜(ハルビン)の街を歩いていたユソンは、通行人たちが千代乃の話をしているのを聞き、笑みを浮かべた。まだ妓楼内では千代乃に対する妓生達の反発はあるものの、ユソンやファヨンは千代乃の名を哈爾浜の街中で聞くたびに誇らしく思った。あたしはその遣り手の日本人女将の妓楼で働いているのよと、大きな声で自慢したくなった。「ただいま戻りました。」「お帰り。」「さっき百貨店の前の通りを歩いていたらさぁ、男達が女将さんのことを話してたよ。何だかあたし誇らしくってさぁ・・」「今や哈爾浜中では女将さんの事知らない人は居ないものねぇ。思わず女将さんの事を自慢したくなる気持ち、わかるわよ。」「あんた達、呑気な事を言っているのねぇ。」ファヨンとユソンが玄関先でそんな話をしていると、そこを通りかかったチェヨンが二人を馬鹿にしたような顔をしてそう言った。「女将さんがちやほやされているのは表向きだけよ。裏ではどんな事を言っているのか、わかりゃぁしないわよ。」「あんた、いつも女将さんの事を悪く言うのね。少しは女将さんの事を認めてあげたらどうなのよ?」「余所者の女将なんて、認めないわよ。」チェヨンはファヨンとユソンを睨みつけると、そのまま自分の部屋に入って行った。「チェヨンは相変わらずね。」「今に始まったことじゃないわよ、あの性格の悪さは。」ファヨンがそう言って溜息を吐くと、厨房の方からミジャの声が聞こえた。「もうすぐ昼飯だよ!」昼食の時間、妓生達はいつものように広間で昼食を取ったが、チェヨンの姿がないことに気づいたファヨンは、彼女の部屋へと向かった。「チェヨン、お昼ご飯食べないの?」「お昼なら部屋で食べるわ。それよりも女将さんは?」「女将さんなら、組合の会合へ行っているわ。」「大丈夫かしらねぇ、女将さん。組合員の人に、絡まれたりしないかしら。」「女将さんなら、きっと大丈夫でしょう。」 哈爾浜市内の料亭の一室で、哈爾浜花柳界組合の会合が行われ、千代乃は満韓楼の女将としてその会合に出席していた。『あなたが、満韓楼の女将さん?』 千代乃の隣に座っていた中年の女は、そう言うと千代乃を探るような目で見た。『はい、そうですが・・』『スヨンの代行をしていて、かなりの遣り手だってねぇ? でもスヨンが日本人のあんたに女将を任せるなんて、吃驚して言葉も出ないよ。』女は咥えていた煙管から煙を吐き出すと、千代乃を見てせせら笑った。彼女が自分に好意を持っていないことや、この場に居る全員が彼女と同じ気持ちであることに、千代乃は薄々と気づいていた。『皆さん、お待たせしてしまって申し訳ありません。』 険悪な空気が部屋に流れつつある中、部屋に藤色のチマ=チョゴリを着た女性が入って来た。『組合長さん、どうされたんですか?』『道が少し混んでしまってね・・皆さんにご迷惑をお掛けしてしまったわ。』 哈爾浜花柳界組合長のハン=ジニは、そう言うと千代乃の方を見て千代乃に優しく微笑んだ。にほんブログ村
2015年09月03日
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チェヨンの言葉を聞いた千代乃は、少し目を閉じた後チョンジュの方へと向き直った。『チョンジュさん、何故そう思ったの?』『おかしいじゃないの、朝鮮人の女将がやっている妓楼を、日本人の女将が代行するなんて!』 そう言ったチョンジュの目には、日本人の千代乃に対する反発が窺(うかが)えた。『わたしが日本人だから、この妓楼を経営していけないと?』『そうよ! あんた、向こうじゃ売れっ子の芸者をしていたか何だか知らないけれど、ここは満州よ! 満州と日本では、やり方が違うの!』『そうよ、日本人の女将に任せたら、ここが潰れてしまうわ!』『ここが潰れたら、あたし達死んじゃうわ!』チョンジュの言葉に賛同した他の妓生達が一斉にそう千代乃に捲し立てても、千代乃は静かに彼女達の言葉を聞いているだけだった。『あんた達、こんな所で油を売って何をしているの!?』 妓生部屋の騒ぎを聞きつけ、料理番のミジャが大きな身体を揺らしながら部屋に入って来た。『今夜は宴会が五つも入っているんだよ、さっさと支度をしてお客様を出迎える準備をしな!』 ミジャに叱りつけられたチョンジュ達は、渋々とした様子で化粧や身支度を始めた。『ミジャさん、さっきは有難うございました。』『勘違いしないでおくれ、あたしはあんたを助けた訳じゃないんだ。お客様の迷惑にならないようにあの子達を叱ってやっただけだ。』ミジャはそう言って千代乃を睨みつけると、厨房へと戻って行った。 日が暮れて夜が訪れると、満韓楼は常連客で賑わい、チョンジュ達妓生は宴席に引っ張りだこの状態で、女将である千代乃も目が回るほど忙しかった。「女将さん、大変です!」 千代乃が部屋で帳簿をつけていると、そこへファヨンが慌てふためいた様子で駆けこんできた。「今度は何があったの?」「ユソンさんが足を挫いてしまって、舞が出来なくなりました。どうしましょう、他の姐さん達は忙しくて・・」「じゃあ、わたしが出ましょう。お客様に一度ご挨拶をしようと思っていたところだから、丁度いいわ。」「女将さん、朝鮮の舞は出来るんですか?」「いいえ。でも、お客様をおもてなしすることは、満州でも出来るでしょう?」 チマ=チョゴリから着物に着替え、日本髪を結った千代乃は、ユソンが担当していた宴席へと向かった。『本日はようこそいらっしゃいました。わたくしが満韓楼の女将を務めます、千代乃と申します。』 襖を開き、そう言って朝鮮語で客達に向かって挨拶する千代乃の姿を、彼らは物珍しい目で見つめていた。『ユソンはどうした?』『ユソンは足を挫いてしまいまして、皆様を満足にもてなすことが出来なくなりましたので、代わりにわたくしが皆様をおもてなし致します。』 千代乃は廊下に控えさせていたファソンを呼び寄せ、彼女が奏でる三味線の音に合わせて日本の舞を舞った。『皆様をおもてなしするために本来は朝鮮の舞を披露したかったのですが、拙い舞を披露するのは恥ずかしく、慣れ親しんだ日本の舞を披露致しました。』 千代乃の挨拶が終わると、客達は千代乃に拍手を送った。『これからも宜しく頼むよ、女将。』『こちらこそ、今後ともうちを宜しくお願い致しますね。』 満韓楼に遣(や)り手の日本人の女将が居るーそんな噂は、あっという間に満州の花柳界に広がった。にほんブログ村
2015年08月25日
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「スヨンさん、お客様に殴られたとききましたが・・」「少し腕の骨を折ってしまったから、暫く入院することになったの。申し訳ないけれど千代乃さん、わたしの代わりに妓楼の女将をやってくれないかしら?」「わかりました。」 スヨンは客の男から殴られ、腕を骨折して入院することになった。 彼女が入院している間、千代乃が妓楼の女将を代行することとなった。「初めまして、わたしはファヨンと申します。スヨン様の妓楼で経理を担当しております。」「ファヨンさん、これから宜しくお願い致します。」「こちらこそ、宜しくお願い致します。」 スヨンが入院している病院を後にした千代乃は、ファヨンと共に彼女が経営する妓楼へと向かった。「ファヨンさん、こちらの方は?」「こちらの方は、スヨン様が退院するまで女将の代行を務めてくださることになった、千代乃さんです。」「初めまして、千代乃です。本日からスヨンさんの代わりに女将を代行することとなりました。皆様、どうぞ宜しくお願いいたします。」 千代乃がそう言って妓生(キーセン)達に挨拶すると、その中から背が高い妓生が千代乃の前に立った。「あたしはチェヨン。千代乃さん、これから宜しくね。」「チェヨンさん、こちらこそ宜しくお願いいたします。」 こうして、千代乃はスヨンが経営する妓楼・満韓楼を彼女が退院するまで女将として経営することになった。 チェヨン達妓生は、千代乃をはじめ歓迎しているように見えた。しかし、事件は千代乃が満韓楼の女将を代行してから三日目に起きた。「ファヨンさん、この数字、何処かおかしくない?」「何処ですか?」「昨夜のお酒の仕入れ値、誰かが直した跡があるのよ。」千代乃がそう言って指した帳簿の数字は、誰かがインクで書き直した跡がかすかにあった。「ここと取引している酒屋さんは?」「ああ、うちと取引をしている酒屋は、ファソン亭ですね。」「これからファソン亭さんの所に伺おうかと思うのだけれど・・」「千代乃さん、この時間帯に外出するのは危険です。明日にしましょう。」「わかったわ。」「千代乃さん、大変です!チェヨンさんとチョンジュさんが取っ組み合いの喧嘩をしています!」「何ですって!?」 千代乃が妓生達の部屋に入ると、中ではチェヨンとチョンジュが互いの髪を掴み合って殴り合いの喧嘩をしていた。「一体何をしているの、二人とも!」千代乃が喧嘩をしている二人の妓生を睨みつけると、彼女達は早口の朝鮮語で何かを捲し立てた。『二人とも、落ち着いて頂戴。同時に喋られると何を言っているのかわからないわ。』 千代乃が尚も取っ組み合いの喧嘩を再開しようとしている二人の間に割って入った時、千代乃の後頭部に硬い物が当たる感触がした。 痛みに気絶しそうになった千代乃が後頭部を押さえながら背後を振り向くと、茂みの中から子供が飛び出てきて何処かへ行ってしまった。「千代乃さん、大丈夫ですか?」「大丈夫よ。それよりも、さっき茂みから出てきた子は誰なの?」「わたし達も、あの子が何処の家の子なのかは知らないのです。」「そう・・」 千代乃は茂みから出てきた子供の事を気に掛けたが、チェヨンとチョンジュの方へと向き直り、彼女達に喧嘩の原因を聞いた。『チョンジュが、チヨノさんにはスヨン様の代わりは務まらないって言い出したんです。』にほんブログ村
2015年08月02日
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青森から豪華客船に揺られ、上海へとやって来た留(とめ)は、武乃(たけの)と名を変え、妓楼・柳楼で半玉(芸妓見習い)として三味線や日本舞踊などの稽古に打ち込んでいた。「あたしに何度言わせるんだい、武乃! お前の音は張りがない!」「申し訳ございません、お師匠さん。」初めて触れる三味線の稽古で、武乃は何度も師匠から撥(ばち)で顔を殴られた。部屋から追い出され、寒い外で練習をさせられた日もあった。だが、そんなことに武乃はめげたりしなかった。ここで逃げ出しても、自分にはどこも帰る場所がない。ならば、歯を食い縛ってでも一人前の芸妓となって、自分に辛く当たる師匠を見返してやるしかない。 踊りや三味線、茶道や華道などの稽古に、武乃は全力で取り組んだ。必ず上海一の芸妓になるーその夢が、武乃を日々成長させていった。芸が上達すると、先輩芸妓達から通りすがりに抓(つね)られたり、わざと肩をぶつけられたりした。 彼女達にとって、自分達を脅かす商売敵である武乃の存在が快くなかったのだろう。 わざと稽古のある日を間違えって教えられたり、稽古に使う道具類を隠されたりといった陰湿な嫌がらせを先輩達から受けた武乃だったが、そんな嫌がらせに屈するような彼女ではなかった。「武乃は逞しい子だね。姐さん達からの嫌がらせにも平気な顔をして稽古に出ているよ。流石あたしが見込んだ子だ。」「女将さん、あの調子だと武乃のお披露目を早くしないといけませんね。」「そうだね。上海に来てから5年、神様はあたしに素敵な贈り物をしてくれたようだね。」 上海で武乃が稽古に明け暮れている日々を送っている頃、満州では千代乃がスヨンの経営する妓楼を訪ねていた。「よく来てくれたわね。」 妓楼の前で千代乃を笑顔で出迎えたスヨンは、そう言うと千代乃を奥の私室に招いた。「スヨンさんが経営なさっている妓楼は、どんな事をされているのですか?」「あなた達日本の芸者と似たようなものだけれど、少し違うのは踊りかしら。」スヨンがそう言って千代乃と雑談をしながら茶を飲んでいると、部屋に一人の少女が入って来た。「スヨン様、お客様がいらしております。」「そう。千代乃さん、折角いらしてくださったのに、ごめんなさいね。」「いいえ。ではまた、伺いますね。」 千代乃は妓楼から立ち去ろうとしたとき、通りに見慣れない車が停まってあるのを見て不審に思った。(お客様って、一体誰なのだろう?) 帰宅した千代乃は、スヨンの部屋に歳三から贈られた扇子を置き忘れたことに気づき、日が暮れる前に慌ててスヨンの妓楼へと向かった。「スヨンさん、いらっしゃいますか?」 千代乃がそう言って妓楼の門を叩くと、中から昼間会った少女が出てきた。「あなたは、昼間お会いした・・」「スヨンさんはどちらに?」「スヨン様は、今病院にいらっしゃいます。」「病院?」「スヨン様は、お客様に殴られて怪我をされてしまったのです。」「病院の場所を教えて。」「わかりました、わたしが案内致します。」にほんブログ村
2015年07月27日
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スヨン達が舞う花冠舞は、今まで千代乃が数え切れぬ程踊った日本舞踊とは全く違うものだった。 華やかな衣装を身に纏い、白い布を時折翻しながら舞うスヨン達は、まるで天から舞い降りた天女達のようだった。やがてスヨン達の花冠舞が終わり、観客から拍手喝采を浴びながら、彼女達は舞台裏へと消えていった。「スヨンさん、素敵でしたよ。」「有難う。」 スヨン達が居る楽屋を訪れた千代乃は、彼女達に労いの言葉を掛けると、スヨンに花束を手渡した。「今まで見たことがない舞でした。」「千代乃さんにとっては新鮮だったでしょう?」「ええ。よろしければ、わたしにも教えて頂きたいです。」「そんなの、お安いご用よ。明日にでもここへいらっしゃい、待っているから。」「有難うございます、是非伺わせていただきます。」スヨンから妓楼の住所が書かれたメモを受け取った千代乃は、彼女に頭を下げると楽屋を後にした。 二日後、千代乃達を乗せた豪華客船は、上海の港に到着した。「満州へはここから列車で12時間以上かかる。列車に乗る前に、ここで一泊した方がいいだろう。」「そうですね。」 千代乃と桐生が一等船室専用のタラップから港へと降りるのと同じ頃、三等船室のタラップから千代乃がデッキで会った少女・留が女衒とともに降りてきた。「何も心配することねぇべ。女将さんには俺がよく言っておくから。」「はい・・」 女衒と少女を乗せた車は、上海一の繁華街・南京路の近くにある純和風の建物の前で止まった。「女将さん、いらっしゃいますか?」「定吉さん、待っていたよ。その子かい、青森からあんたが買って来た子っていうのは?」「はい。」 留の前に、煙管を咥えた中年の女が立っていた。「この人がここの女将さんだよ。ほら、ちゃんと挨拶しな。」「女将さん、初めまして。これからご指導ご鞭撻(べんたつ)、宜しくお頼み申します。」 留は三和土(たたき)の上に正座すると、上座の女将に向かって挨拶をし、深々と頭を下げた。「顔を上げな。」「はい・・」「ふぅん、なかなかの器量じゃないか。あんた、年は幾つだい?」「今年で十二になります。」「十二でこの芯の強さ、滲み出るような色気・・将来いい芸妓になるだろうよ。定吉さん、あんたいい子をうちに寄越してくれたねぇ。」 狐のような細い目をした女将は、そう言うと懐の下から金が入った分厚い封筒を女衒に差し出した。「あんた、名は何ていうんだい?」「留といいます。」「留なんて古臭い名前、芸妓には似合わないよ。武乃(たけの)という名の方が、あんたに良く似合う。どうだい?」「素敵な名を、有難うございます。おら、これから武乃として一人前の芸妓になる為に、精進しますだ。」「いい心意気だ、気に入ったよ。明日から半玉としてあたしが稽古をつけてやるから、今日は部屋でゆっくりと長旅の疲れを癒しな。」(この子はきっといい芸妓になる。あたしの勘は、間違っちゃいない。) 南京路一の妓楼・柳楼の女将・富士子は青森から来た田舎娘の背中を見つめながら内心ほくそ笑んだ。この娘はきっと上海一の売れっ子になる―彼女はそう確信した。にほんブログ村
2015年07月24日
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※動画はイメージです。 千代乃が男と共に船室に戻ると、テーブルの上には豪華な朝食が置かれていた。「今朝は随分と早起きだったな?」「ええ。あなたと同じ空気を吸うのが苦痛になってきまして。」「そうか。」千代乃の嫌味を聞いても、男は眉ひとつ動かすことなくそう返すと、少し冷めた珈琲を飲んだ。「わたしを何処へ連れて行くつもりですか?」「何回同じ質問ばかりすれば気が済むんだ?」「あなたがわたしの質問に答えてくださらないから、こうして何度も聞いているのです。」「可愛げのない奴だ。そんな性格でよく芸者が務まったものだな?」「可愛げがないのは、あなたの前だけです。」千代乃はそう言って男を無視すると、自分の前に置かれているスクランブルエッグを食べ始めた。「先ほど、満州で一旗揚げると言っていた女と会いました。」「ああ、奈津子か。」「お知り合いなのですか?」「まぁな。飯を食べたらホールへ来い。お前に会わせたい奴が居る。」 男はそう言うと、船室から出て行った。千代乃が朝食を済ませてホールへと向かうと、ソファに座っていた軍服姿の男がゆっくりと立ち上がり、千代乃の方へと歩いて来た。「お前が、千代乃か?」「はい、そうですが・・あなた様は?」「わたしがわからんのも無理はない・・お前は生まれてすぐに、新橋の置屋へ養子に出されたのだからな。」 軍服姿の男は桐生和哉と名乗り、千代乃の実父であることを千代乃に明かした。千代乃は、今自分の前に立っている桐生が自分の実父であるという衝撃的な事実を告げられても、何も感じることはなかった。 そもそも、自分に父親が居る事など知らずにいたし、藤子は千代乃に自分の父親について何も話してはくれなかった。「やはり驚いているのだろうな、突然実の父親が現れたのだから。」能面のような顔で自分の前に立っている千代乃を見た桐生は、そう言って溜息を吐くと千代乃を抱き締めた。「桐生さん、お久しぶりです。」二人が背後を振り向くと、そこには鮮やかなチマ=チョゴリを纏った数人の女性達の姿があった。「スヨン、久しいな。その格好はどうした?」「これから舞台で、花冠舞(ファンガンム)を踊るんです。そちらの方は?」女性達の中からリーダー格と思しき一人の女は、そう言うと桐生の隣に立っている千代乃を見た。「これは、わたしの子で千代乃という。千代乃、こちらはわたしが懇意にしているスヨンさんだ。」「初めまして、千代乃と申します。新橋で芸者をしておりました。スヨンさん、お仕事は何をされていらっしゃるのですか?」「あなたと同じような仕事をしているわ。わたしはね、朝鮮で妓楼を経営しているの。これから仲間と踊るのよ。あなたも良かったらわたし達の舞を見ていかない?」「喜んで拝見いたします。」「有難う。」どうやらこの女性とは気が合いそうだーそう思いながら千代乃は、桐生とともに劇場の中へと入った。 客席は満席状態で、開演まで観客達は雑談で盛り上がっていたが、開演のブザーと共に緞帳(どんちょう)が上がってスヨン達が舞台上に現れると、彼らは急に静まり返った。 やがて太鼓と笛の音が舞台上に響き、スヨン達の花冠舞が始まった。にほんブログ村
2015年07月16日
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これから自分はどうなるのかーそんなことを考えながら夜風に当たっていた千代乃は、粗末な紺の絣(かすり)を着た少女に目を留めた。 年の頃は10代前半といったところで、絣の所々には泥で汚れており、彼女が裕福な家の子供ではないことは確かだった。「お母ちゃん~!」少女はデッキに近寄ると、大きな声で海に向かって叫び始めた。「おら、お母ちゃんの為に立派な芸者になって帰ってくっから、それまで待ってろよ!」その叫びとは裏腹に、少女の目からは大粒の涙が流れていた。 最近新聞で、東北が深刻な米不足に陥り、年頃の娘達が口減らしの為に女郎屋に売られてゆくといった記事を何度か千代乃は目にしたことがあった。その少女も、そういった娘達と同じ境遇なのだろうと思うと、千代乃はいつの間にか彼女にハンカチを差し出していた。「これで涙を拭きなさい。」「ありがてぇ、おらに優しくしてくれたの、あんたが初めてだ。」「あなた、お名前は?」「おら、留(とめ)だ。おらん家は女ばっかで、おらが生まれた時お父ちゃんは男だと思ったけど、女だったからこれで終いって意味だって、お母ちゃんから聞いた。」「そう。」「あんた、名は?」「わたしは、千代乃というのですよ。前は東京の新橋で芸者をしていたの。」「芸者かぁ・・綺麗なべべ着て、踊る人だってお父ちゃんから聞いたべ。おらも、千代乃さんみてぇな芸者になりてぇなぁ。」「大丈夫、あなたならきっとなれるわよ。そのハンカチ、差し上げるわ。」「ありがてぇ。」少女―留は何度も千代乃に頭を下げると、レースのハンカチを握り締めながら船室へと戻っていった。「あんた、芸者だったのかい?」突然肩を叩かれ、千代乃が振り向くと、そこには派手なワンピースを着た女が立っていた。長い髪は服装に合わせて巻き毛にしていた。「あなたは・・」「ああ、あたしはあんたと同業者の女さ。これから満州で一旗揚げようと思ってね。」「一旗揚げる?」「あんた、知らないのかい? 満州の辺りじゃぁ、金になる鉱山が沢山あるんだとさ。日本で燻(くすぶ)るのはもうやめにして、満州で大きな賭けに出ようと思ってねぇ。」 派手な女は、そこから一方的に己の身の上を語り出した。自分は豪農の娘だったが、家が傾いて借金のカタに置屋へと売られ、そこで芸者となり良い旦那を捕まえ、その旦那と満州へ行くことにしたのだという。「今は女だって金の成る木を植えるしかない時代さ。生き残りたきゃぁ、死に物狂いでやらないと、やってられないのさ。」 その女の言葉を聞いた千代乃は、泥で汚れた絣を着た留の姿が脳裏に浮かんだ。 親に売られ、異国の女郎屋へと売られていく少女と、日本で燻るのが嫌で、異国で一旗揚げようとする女。どちらが不幸なのか、幸福なのか、千代乃にはわからなかった。千代乃は、再び祖国の土を踏めるのはいつの日の事だろうかと思いながら、水平線の向こうから太陽が顔を覗かせているのを見た。「千代乃、こんな所に居たのか。船室に戻るぞ。」「はい。」にほんブログ村
2015年07月14日
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「珈琲と卵サンドイッチのセットです、お待たせいたしました。」「有難う。」 雛乃と彩千代がカフェーで卵サンドイッチを頬張っていると、そこへ歳三が大鳥医師とともに店に入って来るのが見えた。「大鳥さん、こんな所に呼び出して、俺に何の用だ?」「土方君、今回の千代乃さんの失踪事件は、君に恨みを持つ人間がやったんじゃないかって、僕は睨んでいるんだよ。」「どういうことだ?」歳三は店員に珈琲を注文した後、大鳥を睨んだ。「君は、色々と商売をしているだろう? 商売敵の一人や二人いてもおかしくないと思うんだけど?」「そうだな。だが、相手が俺の事を恨んでいるのなら、直接俺に復讐すりゃぁいいじゃねぇか。何で千代乃を狙うんだ?」「本当に復讐したい相手本人ではなく、その相手の大切な者を傷つける方が、相手に大きなダメージを与える事が出来るって、以前心理学の本でそう書いていたよ。だから犯人は、千代乃さんを狙っていた。」「俺の所為で、千代乃は攫われたってことか?」歳三は深い溜息を吐くと、眉間を揉んだ。「今は下手に動かないほうがいい。それよりも、この記事を読んでくれ。」大鳥は歳三に、一冊の週刊誌を見せた。そこには、千代乃の実の親について書かれた記事が載ってあった。「千代乃の実の親が、軍のお偉いさんだって? この記事に書かれてあることは本当なのか?」「さぁ。出版社に問い合わせたのだけれど、この記事を書いた記者は今どこに居るのかわからないらしい。」「行方不明ってことか?」「千代乃さんとこの記者が失踪した時期が同じなんて、単なる偶然じゃないと思うけれど。」大鳥は運ばれてきた珈琲を一口飲み、そう言って歳三を見た。「そのお話、本当なんですか?」「雛乃ちゃん、さっきの話を聞いていたのか?」「土方様、千代乃姐さんのお父様は、軍の偉い方なのですか?」「落ち着きなよ、雛乃ちゃん。」彩千代にそう窘(たしな)められ、雛乃は歳三から離れた。「雛乃ちゃん、俺にも詳しいことはよくわからねぇんだ。」「そうですか。取り乱してしまって、申し訳ありません。」「いいんだ。」(千代乃、お前は今どこにいる?) 満州へと向かう豪華客船内にあるホールでは、美しく着飾っている客達がシャンデリアの眩い光を受けながら、楽団が奏でるワルツの調べに合わせて踊っていた。 その隅では、長椅子に座った千代乃が物憂げな表情を浮かべながらチョゴリの胸紐を弄っていた。「どうした、浮かない顔をして?」「わたしを何処に連れて行くつもりですか?」「お前の実の父親の元だ。俺は、お前の実の父親に命じられて、お前をこの船に乗せた。」千代乃は胸紐を弄るのをやめ、自分を攫った男を睨んだ。「あなたは一体何者なのですか?」「それはお前を実の父親に送り届けたら教えてやる。」「そうですか。」「飲み物を今から取って来るが、ここから動くんじゃないぞ。」 男がそう言って長椅子から離れた後、千代乃は男の目を盗んでホールから出て、甲板へと向かった。 目の前に広がるのは、暗い夜の海だけだった。(歳三様、会いたい・・) 千代乃の涙は、夜の潮風に運ばれて海に溶けて消えていった。にほんブログ村
2015年07月06日
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千代乃が突然失踪してから、一週間が過ぎた。千代乃の消息はまだ判らず、藤子と雛乃をはじめとする置屋の人間達は千代乃の帰りを指折り数えて待つ日々を送っていた。「おかあさん、舞のお稽古に行ってきます。」「気を付けて行っておいで。」そう言った藤子の背中が、雛乃には小さく見えた。「雛乃ちゃん、おはよう。」「おはようございます、彩千代姐さん。」 新橋演舞場に雛乃が入ると、千代乃と仲が良い彩千代が彼女に話しかけてきた。「千代乃のこと、聞いたよ。早く見つかるといいね。」「ええ。」「一体誰が、千代乃を攫ったんだろうねぇ?」「それが、見当がつかないんです。千代乃姐さんは、誰かに恨みを買われるような人じゃないし・・」「それは、あんたがそう思っているだけじゃないかい?」突然背後から冷たい声が聞こえ、雛乃と彩千代が振り向くと、そこには千代乃を何かと目の敵にしている鹿乃が立っていた。「あんた、千代乃の事を庇いたいっていう気持ちは解るけど、あんたの大好きな千代乃姐さんは、色々とあんたの知らない所で人の恨みを買っているんじゃないかい?」「何を根拠に、そんな出鱈目(でたらめ)な事を言っているんだい!」彩千代はそう言って鹿乃を睨みつけると、鹿乃はそれに臆することなく彩千代のことを睨み返した。「出鱈目かどうか、一度あんたの所のおかあさんに聞いてみたらどうだい?」「雛乃ちゃん、あんな人の言う事なんか信じるんじゃないよ。」「はい・・」 舞の稽古が終わり、雛乃は彩千代とともに最近開店したばかりのカフェーに入った。「いらっしゃいませ。」「珈琲をふたつ、貰えるかい? 後、この店でお勧めのメニューがあったら、それも貰いたいのだけれど、いいかね?」「この店の一番のお勧めは卵サンドイッチです。珈琲と卵サンドイッチのセットで宜しいですか?」「はい。」「ごゆっくり。」 店内には、昼食前ということもあってか、客は雛乃達と新聞を読んでいる背広姿の男だけだった。「何だか感じのいい店員さんでしたね。」「客商売をやっていて愛想が悪かったら、おしまいだね。」「そうですね。」彩千代と楽しく雑談をしながらも、雛乃は鹿乃から言われた事が気になって仕方がなかった。「彩千代姐さん、本当に千代乃姐さんは誰からも恨みを買っていないんでしょうか?」「あんた、まだ鹿乃に言われたことを気にしているのかい?」彩千代はそう言うと、雛乃の肩をそっと叩いた。「あんたは千代乃を信じて、帰りを待ってやればいいのさ。あんたに出来ることは、それだけなんだから。」「有難うございます、彩千代姐さん。」にほんブログ村
2015年07月06日
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「歳三さん、これからあなた、どうなさるつもりなの?」「それはどういう意味ですか、お義母さん?」「あなた、まさか再婚なんてするつもりはないのでしょう?」「ええ。」 歳三がそう言うと、美砂子は安堵の表情を浮かべた。「いくらうちが金満家だったとはいえ、娘をあなたの家に嫁がせたことを今更ながらに後悔しているのですよ。まぁ娘の事があるのですから、あなたの家には今後縁談など来やしないでしょうね。」強烈な嫌味を歳三に言い捨てて、美砂子は晴れ晴れとした表情を浮かべながら土方家から出て行った。「兄さん、大丈夫?」「大丈夫だ。彬文、俺は少し出かけてくると、母さんに言っておいてくれ。」「わかった。もう暗いから、気を付けてね。」「ああ、行ってくる。」 歳三は自宅を出ると、徒歩で千代乃の元へと向かった。その途中、彼は黒塗りの車と擦れ違った。 千代乃が居る置屋の前には、警察の車が停まっていた。「土方様!」「雛乃ちゃん、何かあったのか?」「姐さんが・・千代乃姐さんが、誰かに攫(さら)われたんです!」「それは本当か?」「はい。大鳥先生をお見送りするとさっき置屋から出た後に、千代乃姐さんは・・」「大鳥さんとは連絡がついたのか?」「大鳥先生は今からこちらにいらっしゃると・・」「雛乃さん、そちらの方は?」 雛乃と歳三の前に、長身を黒い縦縞のスーツに包んだ一人の刑事が現れた。「こちらは、千代乃姐さんのご贔屓筋の土方様です。土方様、こちらは新橋署の西崎刑事です。」「初めまして、土方殿。奥様の事はご愁傷様でございました。」「有難うございます。西崎刑事、千代乃を攫った者の正体はわかりませんか?」「未だ不明です。土方殿、こんなものが道端に落ちておりました。」そう言って西崎刑事が歳三に手渡したのは、歳三が千代乃に贈った真珠の簪だった。(一体どこへ消えちまったんだ、千代乃。)謎の男に突然拉致され、どれほどの時間が経ったのかわからなくなってきた千代乃は、汽笛の音でゆっくりと目を開けた。 どうやら自分は何処かの港にいるらしい。「起きたな。」突然目の前が急に眩しくなり、千代乃が目を細めると、目の前には揃いの軍服を着た数人の男達が立っていた。「ここは何処です?」「それは売られるお前が知らなくてもいい。」「売られるですって?」「これから貴様は、満州へ行くんだ。一生に一度しか味わえない豪華な船旅になるだろうから、そんなに硬い顔をするな。」 男達の中からリーダー格と思しき長身の男がそう言って千代乃に微笑むと、千代乃をエスコートして港に停泊している船に乗り込んだ。「海へ飛び込んで逃げようとしても無駄だ。この海域には鮫が沢山いるからな。」男と千代乃を乗せた船は、暫く経つと停泊していた港から離れ、紺碧の海の彼方へと消えていった。にほんブログ村
2015年07月06日
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(外に、誰か居る・・) 千代乃は日記を静かに閉じ、壁に立てかけてあった薙刀を手に取り、そっと部屋の襖を開けて廊下へと出た。その間も、誰かが玉砂利を踏む音が聞こえてきた。「曲者!」「ぎゃぁぁ~!」千代乃が侵入者に対して薙刀を振り上げようとすると、その侵入者は素っ頓狂な悲鳴を上げて地面に座り込んだ。 月光によって照らされたその顔に、千代乃は見覚えがあった。「大鳥先生、来るなら来ると、おっしゃってくださればよろしいのに、何故賊のような事をなさったのです?」「済まないね。ただ、君に土方君からの伝言があって来たんだ。」土方家と深い親交がある大鳥圭介医師は、そう言うと転んだ時に擦り剥(む)いた右手を千代乃に手当てされながら苦笑した。「土方様から、どのようなご伝言を預かってきたのですか?」「今、土方家は蕗子さんが自殺したことで大騒ぎになっていてね。暫くこちらには伺えないと、土方君がどうしても君に伝えて欲しいと言っていたよ。」「まぁ、そうですか。」「千代乃さん、僕は君が土方君と蕗子さんが結婚する前から深い仲だったことを知っているよ。土方君の為に、君が身を引いたことも知っている。」「何をおっしゃりたいのですか、大鳥先生?」「僕の妻になってくれないか。」急に大鳥から求婚され、千代乃は驚きのあまり目が点になった。「大鳥先生、わたしは誰とも結婚する気はありません。」「それは、土方君に操立てしているのかい?」「いいえ。わたしは自分が誰かと一緒になることが想像できないのです。今まで一人で生きてきましたから。」「千代乃さん・・」「大鳥先生、先ほどは乱暴な事をしてしまい、申し訳ありませんでした。」千代乃はそう言うと救急箱の蓋を閉じた。「最近、君の周りに何かあったんじゃないのかい?」「実は今日、藤崎家の使いを名乗る者が置屋に現れまして・・お母さんが藤崎家に連絡したところ、そのような者は居ないという返事がありまして・・」「そうか。千代乃さん、今日はこれで失礼するよ。結婚の事はまた日を改めて話すことにしよう。」「わかりました。」 大鳥を玄関先で見送った千代乃が置屋の中に戻ろうとしたとき、不意に背後から視線を感じて振り向くと、そこには見知らぬ男が立っていた。「どちら様でしょうか?」「貴様が、土方歳三の愛人か。」 男はそう言うと、白手袋を嵌めた手で千代乃の顎を持ち上げた。「今からわたしと一緒に来てもらうぞ。」「嫌だと言ったら?」「力ずくでお前を連れて行くしかないな。」男は不敵な笑みを口元で閃かせ、千代乃の手を掴んだ。千代乃は咄嗟に爪で男の手を引っ掻いたが、逆上した男に頬を張られ、抵抗する間もなく鳩尾を殴られ、気絶した。「手間をかけさせやがって。」そう言った男の声を最後に聞いた千代乃は、意識を失った。にほんブログ村
2015年07月06日
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「姐さん、ただいま戻りました。」「お帰り、雛乃ちゃん。舞のお稽古はどうだった?」「お師匠さんに初めて褒められました。」「そう、それは良かったわね。お昼、どうする? 何か取る?」「わたし、天丼が食べたいです!」「じゃぁ、わたしが今から頼むわね。」 布団から起き上がった千代乃は、電話で天丼を二人前注文すると、居間に戻った。「姐さん、貧血はもう大丈夫なんですか?」「もう大丈夫。この季節になるとよくなるから、心配しないで。」「はい。」「天丼が来たら、教えて。わたしは部屋で身支度をしてくるから。」 千代乃はそう言うと、自室に戻って鏡台の前に座り、軽く粉を叩き、口に紅をさした。髪は簡単に団子状にして、お気に入りの真珠の髪飾りをつけた。「姐さん、その髪飾り似合っていますね。」「有難う。この髪飾りは、わたしの一番のお気に入りなの。」 髪飾りを褒められて千代乃が上機嫌になった時、丁度天丼が届いた。「何だかこうして姐さんと一緒にお昼を食べるのは久しぶりですね。」「そうね。いつもお座敷やお稽古でいないから、たまにはこういうのもいいわね。」 千代乃と雛乃がそんな話をしながら天丼を食べていると、誰かが玄関の戸を叩く音がした。「おかあさんが帰って来たのかしら?」「まさか。会合は夕方までだから、違うと思うわよ。」「じゃぁ、誰かしら?」「わたしが見て来るから、雛乃ちゃんは座っていて。」 そう言った千代乃は居間を出て玄関先へと向かった。「すいません、どちら様でしょうか?」「その声は千代乃さまですね。わたくし、藤崎家の使いで参りました、新田と申します。少しお話ししたいことがありますので、外へ出てきてくださいませんか?」「申し訳ありませんが、今手が放せませんので・・」「わかりました。」男は千代乃の言葉に諦めたのか、玄関から立ち去った。「姐さん、誰だったのですか?」「藤崎家の使いの方だと仰っていたけれど、何だか怪しいから適当にごまかしておいたわ。」「何だか怖いですね。」 夕方、藤子が会合から帰宅したので、千代乃は昼間置屋に来た男の事を話した。「おかしいわねぇ、藤崎様からそんな話は一度も聞いていないわよ。」「そうですか。」「最近色々と物騒だから、戸締りはしっかりするんだよ。」「はい、わかりました。」 その日の夜、お座敷に行く雛乃を玄関先で見送った千代乃が自室に戻り日記を書こうとしたとき、庭の方から物音がした。(猫かな?) そう思いながら千代乃が羽根ペンの先にインクをつけようとしたとき、誰かが玉砂利を踏む音がした。にほんブログ村
2015年06月29日
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今年の梅雨は、まだ明けないようだーそんなことを思いながら千代乃が自室で読書をしていると、誰かが雛乃と置屋の玄関先で話をしている姿がガラス戸越しに見えた。「姐さん、大変です!」「どうしたの?」「土方様の奥様が、自殺されました!」「え・・」その言葉を聞いた瞬間、千代乃の世界が急に反転して暗くなった。「千代乃、気が付いたかい?」「おかあさん、わたしは・・」「あんた、急に倒れたんだよ。今日はお座敷を休みな。」「わかりました。おかあさん、土方様の奥様が自殺なさったって、本当ですか?」「ああ。」藤子はそう言うと、布団から起き上がろうとしている千代乃を手で制した。「土方様の家には行かないほうがいい。行ったらあんたが辛い思いをするだけだ。」「はい、おかあさん。」「それじゃぁあたしは会合に行ってくるから、留守を頼んだよ。」 ガラス戸が閉まり、藤子の姿が廊下から見えなくなった後、部屋に雛乃が入って来た。「姐さん、さっきは驚かせてしまってすいません。」「謝るのはわたしの方。急に倒れたりして、ごめんね。」「何か作りましょうか?」「大丈夫。」「それじゃぁわたし、踊りのお稽古に行ってきますね。」 雛乃は少し冷めた茶が入った湯呑を載せた盆を千代乃の前に置くと、踊りの稽古へと向かった。 広い置屋で一人になってしまった千代乃は、読書を再開しようとしたが、本を開いた途端少し眩暈がして読書を諦めて横になった。 布団の中で寝返りを打った時、一週間結っていた髪が解けて自分の上に金色の波が広がるのを千代乃は感じた。いつから、自分は髪を伸ばし始めていたのだろうか。 この置屋に引き取られる前からだったのか、それとも引き取られた後に髪を伸ばしていたのか、それすらも最近千代乃はわからなくなってきた。目を閉じると、千代乃の脳裏に浮かぶのは雨に打たれながら妻の葬儀で喪主としてすべてを取り仕切り、弔問客達に対して毅然な態度で接している歳三の姿だった。 歳三の妻・蕗子が突然土方邸の二階の踊り場から投身自殺を遂げたことは、瞬く間に社交界で広がった。土方家と親交が深い大鳥医師は、蕗子の自殺の原因は、“精神的な病”からくる発作の所為であると発表したが、彼女がその病を発症するに至った原因は、彼女が婚家で蔑ろにされたからではないのかという憶測が飛び交いつつあった。「まさか、こんな事になるとはね・・」「歳三、お前は蕗子さんの様子がおかしいことに気づかなかったのか?」「すいません・・」「あなた、わたくしは蕗子をこの家に嫁がせることに最初から反対していましたのよ! こんな家に嫁いだら、あの子は壊れてしまうって! 事実、そうなってしまったじゃありませんか!」 蕗子の母・美砂子は葬儀の席で娘を自殺に追いやった歳三を口汚く罵った。「兄さん、少し部屋で休んだ方がいい。」「わかった・・」 妻の両親が土方家から出て行った後、自室に戻った歳三は着替えもせずに寝台の上で大の字になって泥のように眠った。 外では、土砂降りの雨が降っていた。素材提供:MILKCAT様にほんブログ村
2015年06月29日
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「和泉、あいつが妊娠していることは確かなんだな?」「ええ。若奥様は、お腹の子の父親は歳三様だとおっしゃっております。」「少し、あいつと話をしてくる。」「今は誰とも・・特に、歳三様とはお会いしたくないと、若奥様は仰っております。」「そうか。」 蕗子と無理に話をするのを止めようと決めた歳三は、そのまま書斎から出て行こうとした。「また、あの千代乃とかいう芸者の元へ行かれるのですか?」「お前、何故千代乃を知っている?」「わたくしが何年、あなた様の運転手を務めてきたと思ったのです?」そう言って不敵な笑みを自分に浮かべる和泉を見た歳三は、無言で彼の傍を通り過ぎた。「歳三、朝帰りとは随分と良い御身分だな?」 会いたくない時に、歳三は自分を疎んじる長兄・貴文(たかふみ)と会ってしまった。「何のご用ですか、貴文さん。」「ふん、他人行儀な呼び方をしおって。」「俺があんたと初めて会ったとき、“兄上”と呼んだ時、あんたどういう反応をしたのか忘れたのか? まだ若いのに惚(ぼ)けるなんて、可哀想に・・」 わざと貴文の怒りを煽るような事を言った歳三は、徐々に怒りで顔を赤く染める彼の姿を横目で見ながら、そのまま彼の脇を通り過ぎた。「兄さん、帰っていたんだ。また千代乃さんの所に行っていたの?」「ああ。何処かに行くのか?」「何言っているの、これから大学に行くんだよ。」 歳三の弟・彬文(あきふみ)は学生帽を被りながら、そう言って歳三を見た。「彬文、お前蕗子が妊娠していることを知っていたのか?」「ああ。でも兄さんの子じゃないことは確かだよ。兄さん、義姉さんが本当に大切なら、義姉さんと別れてあげて。」「それは、俺が決める。」「そうだね。さてと、僕はもう行くよ。」 玄関ホールで彬文が黒の外套を着てドアを開けようとしたとき、蕗子が踊り場から顔を覗かせて自分の方を見ていることに気づいた。「義姉さん、何か僕に話したいことでもおありですか?」「あなたは、わたくしを嫌っているのでしょう?」自分の前でそう初めて喋った義姉の声は、氷のように冷たかった。「一体何を言って・・」「そんな風にとぼけていても、わたくし知っているのよ、あなたとお義母様がわたくしの事を悪く言っていることを。」 蕗子の華奢な細い身体は、今にも倒れそうだったが、その目には怒りの炎が宿っていた。「わたくしがこの家から居なくなったらいいのでしょう? 望み通り、居なくなってあげるわ。」 そう言った蕗子の身体が宙を舞い、ドスンという鈍い音を響かせて彬文の前に倒れた。「義姉さん?」 彬文が蕗子を助け起こそうと彼女に近づいたが、彼女の首は歪(いびつ)に捻じ曲がり、怒りの炎を先ほどまで宿していた両目は、汚れたガラスのように暗く濁っていた。「きゃぁぁ~!」 背後で起きた悲鳴に彬文が我に返ると、そこには一週間前に土方家に女中奉公に来たえみが立っていた。「えみ、お医者様を・・大鳥先生を呼んでくれ!」 えみはまるで金縛りに遭ったかのようにその場に動けずにいたが、彬文の言葉を聞いた後電話室へと駆けこみ、震える手で大鳥医師の自宅へと電話を掛けた。「もしもし、大鳥先生でございますか? わたくしは土方家で女中をしております、えみでございます。 至急、土方家においでいただきたいのです。」にほんブログ村
2015年06月26日
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「じゃぁ、また来る。」「お待ちしております。」 歳三が置屋の玄関先で千代乃に見送られながら外に出ると、外は土砂降りの雨だった。「歳三様、これを。」「有難う。」「いつでも返しに来ていらしてくださいね。」千代乃はそう言うと、歳三に微笑んだ。 そんな二人の姿を、置屋から少し離れている所に停めた車の中から蕗子は見ていた。(あれが、歳三様と付き合っていらした方・・) 時折義母が歳三と付き合っていた新橋の芸者の事を何度か聞いたことがあったが、蕗子はどうせ芸者なのだから大した女ではないのだろうと彼女の事を侮っていた。しかし、歳三に向かってさり気なく傘を差し出す芸者の優しさや仕草は、女の自分でも見惚れるほど美しかった。“あんな世間知らずのお嬢様よりも、あの芸者を歳三の嫁に迎えた方がよかったかもしれないねぇ。” 姑の嫌味が脳裏によみがえり、蕗子は惨めな気持ちになった。「若奥様、どうなさいますか?」「このまま出して頂戴。」「かしこまりました。」 歳三が帰宅してリビングルームに入ると、そこには蕗子の姿がなかった。「母さん、あいつはどうした?」「ああ、蕗子さんなら部屋に引き籠っているわ。あんたがあの子を抱いてやらないから、拗ねちまっているんだろうよ。」 歳三の母・恵津子(えつこ)はそう言いながら、息子の顔をじっと見た。「まぁ子供も居ない事だし、実家に帰してやった方があの子の為になるんじゃないかねぇ? ここに居ても、あんまり役に立たないし。」「考えておく。」「あんた、新橋の千代乃の所に行ってきたんだろう?」「ああ。」「千代乃の方が、どこぞの世間知らずのお嬢さんよりも聞き分けがいいから、助かるね。もし蕗子さんと別れると決めたのなら、千代乃を後妻に迎えてもいいよ。」「蕗子の様子を見てくる。」歳三は蕗子の部屋のドアをノックしたが、中から返事はなかった。「歳三様、お帰りなさいませ。」「和泉、居たのか。」「歳三様、少しお話ししたいことがございます。」「わかった。俺の部屋で聞こう。」 何処か思いつめた顔をしている土方家の運転手・和泉(いずみ)を自分の部屋に呼んだ歳三は、彼から衝撃的な話を聞くことになった。「何だって、もう一度言ってくれ。」「若奥様は、歳三様の子を身籠っておられます。」「そんなはずはねぇ。俺は半月以上もあいつを抱いていねぇぞ!」「そうですか。」 和泉は妻の妊娠に激しく動揺する歳三を見ながら、紅茶を一口飲んだ。 この男は、自分の妻の事を何ひとつわかっていない。にほんブログ村
2015年06月26日
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一晩中激しく愛し合った千代乃と歳三は、同じ褥の中で朝を迎えた。「女として生まれていれば、歳三様に家族を作って差し上げられたのに・・」千代乃はそう言うと、隣で眠っている歳三の額にかかっていた黒髪をそっと掻き上げた。「性別なんざ関係ねぇ。俺はお前自身に惹かれただけのことだ。」「そうですか。」「朝からそんな顔をするんじゃねぇよ、千代乃。」「すいません。」「さてと、寝起きついでにもう一発、やっておくか?」歳三が千代乃の内腿に手を這わせようとしたとき、襖の向こうから藤子の声が聞こえた。「千代乃、ご飯だよ。」「どうやら、お預けのようですね。」「クソッ、いいところを邪魔されたな。」 歳三と千代乃が広間に入ると、そこには少し気まずそうな顔をしている千代乃の妹分に当たる半玉・雛乃(ひなの)と、平静な表情を浮かべてお椀にご飯をよそおっている藤子の姿があった。「おはようございます、姐さん。」「雛乃ちゃん、おはよう。昨夜は良く眠れた?」「野暮な事を聞かないの。あんたら昨夜はえらく盛り上がっていたようじゃないか?」 藤子の言葉を聞いた千代乃の顔が、耳まで赤く染まった。「聞こえていらしたのですね。」「そりゃぁ、ここは狭いからね。まぁ、あたしみたいな年寄りにはいい刺激になったけれど。」 藤子はそう言って笑いながら、歳三を見た。「土方様、余り帰りが遅いと奥様が心配されますよ?」「あいつは少しの事で揺らぐ女じゃねぇ。それに、あいつとは余り上手くいってねぇんだ。」「まぁ、そうなのですか?」「すぐにでも別れて、お前と一緒になりたいが、色々と面倒な事が山積みで、暫くあいつと冷却期間を置くことにした。」千代乃は歳三と彼の新妻との関係が上手くいっていないことを知り、複雑な思いを抱いた。 一方、土方伯爵邸では、歳三の妻・蕗子(ふきこ)が鏡台の前に座り、寝不足で出来た目の下の隈を何度も見ては溜息を吐いていた。 昨夜も夫は帰って来なかった。またあの結婚前に付き合っていたという新橋の芸者の所に行っていたのだろうかー蕗子がそんなことを思いながら朝食を取ろうと寝室から出てダイニングルームに降りて行こうとしたとき、一階の踊り場の方から義母と義弟の声が聞こえてきた。「まったく、こんな時に蕗子の実家が破産するなんてね。とんだ疫病神をうちに入れたものだよ。」「母上、そのような事をおっしゃらないでください。蕗子さんの耳でも入ったら・・」「別に入っても構やしないよ。子供が居ないようだし、さっさと歳三と離縁させてここから追い出すしかないね。」二人の会話を聞いた蕗子は、元来た道を戻って寝室に入り、ドアの内側から鍵を掛けた。歳三とは、家同士の利害関係が一致した政略結婚で結ばれた、ただそれだけの事だ。華燭の典を挙げ、初夜で自分を抱いてから、歳三とは半月以上も同じベッドで寝ていない。歳三ともし離縁したとしても、会社が倒産した実家では、出戻った娘を温かく迎え入れる余裕などない。義理の家族からも、夫からも蔑(ないがし)ろにされ、蕗子のガラス細工のような心は折れそうだった。にほんブログ村
2015年06月19日
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「土方様の奥様のご実家ね、最近倒産されたそうだよ。」「それは、本当なのですか?」「ああ。この前お座敷で、土方様の知り合いに会ってね。」 竹乃から土方伯爵家の内情を知らされ、千代乃は歳三が何故自分に会いたいのかがわからなくなった。「只今戻りました。」「千代乃お帰り。」「美味しそうな匂いですね。」「今日はあんたが好きなキノコ鍋にしたよ。早く手を洗っておいで。」「わかりました。」 千代乃が手を洗って居間に戻ろうとした時、中から歳三の声が聞こえた。「土方さん、あんた千代乃とはもう終わったんじゃないのかい? それなのにどうして・・」「俺は千代乃とよりを戻すつもりはありません。ただ、俺の話をあいつに聞いて貰いたいのです。」「それは、奥様のご実家が倒産されたことと関係があるのですか?」 千代乃が部屋に入ると、女将の前に正座していた歳三が立ちあがった。「千代乃、それは誤解だ。誰が何を言ったのかは知らねぇが、俺はお前とよりを戻すつもりはねぇ。」「解っております、あなたはもうわたくしとは関係のない方です。ですから、このままお帰り下さい。」「それは出来ねぇ。」「千代乃、落ち着きなさい。食事前に喧嘩をしたら消化に悪いよ。」 藤子からそう窘(たしな)められ、千代乃は彼女の隣に座った。「土方様、こんな物しか出せませんが、どうぞお召し上がりください。」「有難うございます。」 着ていた背広を脱いだ歳三は、シャツの腕を捲り上げた。その時、彼の右腕に痛々しい火傷の痕が残っていることに千代乃は気づいた。「土方様、その火傷の痕はどうなさったのですか?」「少し厄介な事に巻き込まれちまってな。それよりも千代乃、お前は今付き合っている男は居るのか?」「いいえ。何故、そのような事を聞くのです?」「お前が最近、藤崎家の坊ちゃんと会っているって噂に聞いてな。あいつは表向きはいいところの坊ちゃんだが、裏ではかなりあくどい事をしているぞ。」「まぁ、そうなのですか。ご忠告として聞きましょう。」 夕飯の後、千代乃は歳三を部屋に呼んだ。「歳三様。」「久しぶりだな、お前に名前で呼んで貰えるのは。」歳三はそう言って千代乃に微笑むと、千代乃の帯紐を解き始めた。「いけません、こんなことをされては・・」「黙っておけば、大丈夫だ。」 歳三は熱と欲望で潤んだ紫紺の双眸で、千代乃を見つめた。「千代乃、お前はどうしたい?」「抱いてくださいませ、歳三様。」千代乃の言葉を聞いた歳三は、そのまま千代乃の身体を畳の上に倒して彼の白い首筋を強く吸った。「お母さん、本当にいいのですか?」「あたし達が口出しすることじゃない。男女の色恋なんざ、当人同士にしかわからないもんさ。」 藤子はそう言うと、少し冷めた茶を飲んだ。「ぬるいね・・まぁ、熱過ぎる茶よりも、あたしゃぁこっちの方が好きだけど。」にほんブログ村
2015年06月12日
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「まぁ彰浩様、またわたしに会いに来てくださったのですね。」 その日の夜、千代乃がお座敷に向かうと、そこには彰浩が友人達と酒を飲みながら談笑していた。「千代乃、お前にも色々と予定があるのに済まないな。」「いいえ。」「彰浩、この人がお前の嫁になるのか?」「そんな訳がないだろう、馬鹿だな。千代乃とは、いい友人同士なだけだ。」「何だ、つまらんな。」 癖のある長い髪を無造作に纏めた色黒の男は、そう言うと彰浩の肩を平手で強く叩いた。「彰浩様、そちらの方は?」「こいつは睦忠(むつただ)といってな、わたしの幼馴染兼悪友だ。」「初めまして、睦忠さま。千代乃と申します。」「こちらこそ宜しく、千代乃殿。いやぁ~、俺は何度か新橋で遊んだことはあるが、千代乃殿のような別嬪には一度もお目に掛かったことがないぞ。」「あら、それは残念でしたね。ですが、これからは彰浩様と一緒にお座敷にお呼びくださいな。」「ははは、是非そうしよう。」睦忠は豪快にそう言って笑うと、再び彰浩の肩を叩いた。「睦忠、お前相当酔っているな?」「酔ってなぞおらんぞ!」「さっさと家に帰って酔いを醒ましたらどうだ?」「折角お前と会って楽しみたいと思っているのに、つれなくするな!」「わたしはお前の為を思って言ってやっているのに、何だその言いぐさは!」 彰浩と睦忠との間に険悪な空気が流れようとしたとき、部屋の襖が開いて数人の芸者達が入って来た。「あらぁ、誰かと思ったら睦様じゃありませんか。お久しぶりです。」「誰だ、お前?」「やだぁ、あたいの顔を忘れちまうなんて、酷いわぁ!」 そう言って睦忠にしなだれかかった芸者と千代乃の目が一瞬合った。「今宵は楽しく、皆さんと一緒に遊びましょうか?」「そりゃぁ、いいねぇ!」 その夜のお座敷は、野球拳や金毘羅舟々といったお座敷遊びで盛り上がり、大層賑やかなものとなった。「俺はまだ帰らん、帰らんぞ~!」 すっかり泥酔して千鳥足の睦忠は、彰浩に肩を貸して貰いながら料亭の外に待たせていた車に乗り込んだ。「酔っ払いの相手をさせてしまって済まなかったな。」「いいえ、今夜は楽しかったです。お気をつけてお帰り下さい。」 千代乃が彰浩を見送った後、誰かに見られているような気がした。「只今帰りました。」「お帰り、千代乃。随分と遅かったじゃないか?」「ええ。彰浩様のお友達が馴染みのお姐様たちをお呼びしたので、抜けだせずにいました。」「そうかい。風呂はもう沸いているから、入って休みなよ。」「わかりました。」 自分の部屋で着物から夜着に着替え、脱衣所でそれを脱いで裸になった千代乃は、鏡に映る己の身体を見た。 華奢ではあるが、それは紛れもなく男の身体だった。 千代乃は、そっと己自身を指先で触った。 もし女であったのなら、歳三と夫婦(めおと)になっていたのだろうか。そんな虚しい幻想を抱きながら、千代乃は頭から湯船に浸かり、雑念を取り払った。「千代ちゃん、おはよう。」 翌朝、千代乃は舞の稽古を受けに新橋演舞場へと向かうと、そこには昨夜お座敷で会った竹乃が居た。「竹乃姐さん、昨夜は有難うございました。」「困ったらお互い様さ。それよりも千代ちゃん、土方様の奥様の事を聞いたかい?」にほんブログ村
2015年06月08日
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千代乃が待合茶屋から出ると、外は雨が降っていた。(ついていないな・・) 千代乃は溜息を吐き、傘を広げた。 雨の中を歩きながら、千代乃は一瞬雨の中に恋人の姿を見たような気がした。 しかし、それは幻だった。(いつまであの方のことを引きずっているのだろう・・) 彼は、もう新しい家族と楽しく過ごしている。『・・済まねぇ、お前ぇとはもう終わりにしてぇんだ。』 彼から一歩的に別れを告げられたのは、紫陽花が咲き誇る季節だった。 親から見合いを勧められ、相手は裕福な資産家の一人娘だという。 千代乃は彼を責めず、餞(はなむけ)の言葉を贈った。その時になって初めて、彼は自分とは住む世界が違うことに気づいた。彼は名のある伯爵家の人間で、自分は花柳界に身を置く、“卑しい”人間なのだ。 そんな彼と結ばれるなど、所詮甘い夢にしか過ぎなかったのだ。 彼の事はもう忘れようーそう思いながら千代乃が置屋の中に入ろうとしたとき、玄関先に男物の靴が置かれてあった。「姐さん、お帰りなさい。」「誰か来ているの?」「ええ。姐さんにお会いしたいという方が、女将さんと話しています。」「そう・・」 千代乃は女将の部屋の前に座り、女将と来客に向かって声を掛けた。「女将さん、千代乃です。」「千代乃、入っておいで。」「はい、失礼いたします。」 千代乃が襖を開けて部屋の中に入ると、そこには彼と同年代くらいのスーツ姿の男が女将と向かい合うような形で座っていた。「女将さん、そちらの方は?」「初めまして。わたくしは土方家の家令をしている、沼田と申す者です。」「土方家の家令の方が、何かわたしにご用でしょうか?」「千代乃様、今更差し出がましいお願いだと思いますが、若様に一度会っていただけないでしょうか?」「わたしがあの方とお会いする理由などありません、お帰り下さいませ。」「千代乃、少しはこの方の話を聞いておやり。」 女将の藤子はそう言って千代乃を窘(たしな)めると、沼田の方を見た。「沼田様、土方の若様に何かあったのですか?」「はい。ですが、この場では申し上げにくいことです。」「わかりました。ではわたしも若様にお会い致しましょう。それでよいですね?」「はい。」 沼田を玄関先まで見送った藤子は、自分の部屋で座布団の上に座ったまま険しい表情を浮かべている千代乃を見た。「何て顔してんだい、あんた。自分の面を鏡で見てみな。」「すいません・・」「そんな顔、お座敷で見せるんじゃないよ。あたし達は客商売なんだからね。」「わかりました。部屋で少し頭を冷やしてきます。」 千代乃はそう言って藤子の部屋から出て自分の部屋に戻ると、溜息を吐きながら襖を閉めた。にほんブログ村
2015年06月08日
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「お母様、お兄様、お帰りなさい!」「光良、ただいま。」「光良、ここには入ってきてはいけないと言っているだろう?」「ごめんなさい・・」 彰浩から叱られ、光良は俯いた。「母上、わたしはこれから新橋の料亭で人と会ってきます。」「そう。」「では、行って参ります。」「兄様、行ってらっしゃーい!」無邪気に自分に向かって手を振る弟に背を向け、家を出た彰浩は新橋の料亭『ぬかた』へと向かった。「あら藤崎の若様、いらっしゃいませ。」「女将、千代乃は居るか?」「ええ、間もなく来ると思いますよ。」 ぬかたの女将・里乃がそう言ったとき、襖が開いて鮮やかな着物と帯で着飾った二人の芸者が部屋に入って来た。「まぁ彰様、お久しぶりでございます。」「千代乃、元気にしていたか?」「ええ。お父様の事、お悔やみ申し上げます。」鮮やかな金色の髪を奴島田に結った千代乃は、そう言うと彰浩に向かって頭を下げた。「有難う。千代乃、これからお座敷が終わったら会わないか?」「ええ。」 千代乃はそう言うと、彰浩の手をそっと握った。「お父様が亡くなられたばかりだというのに、わたくしに会いに来ても宜しいのですか?」「いいさ。母上はわたしが芸者遊びをしている事を知っていても、何も言わないよ。」「そうですか。」 千代乃が寝返りを打つと、彰浩が彼女の薄い胸に腕を回した。「こんなことが知られたら、お前は花柳界に居られなくなるな。」「置屋の女将さんは、わたくしが男であることを知っておりますよ。」「男のお前が、何故芸者として生きているんだ?」「それは、内緒です。」千代乃は彰浩の唇に人差し指を押し当ててそう言って笑った。「また会いに来る。」「ええ、お待ちしております。」 彰浩が部屋から出て行った後、千代乃は窓から見える三日月を眺めながら溜息を吐いた。「歳三様・・」 千代乃は首に提げていたロケットを開くと、その中に入っている恋人の写真に口づけた。目を閉じると、彼の優しい笑顔が脳裏に浮かんだ。だがそれは、目を開けた途端すぐに消えてしまう。「どうしてわたくしの前からいなくなってしまわれたのですか、歳三様・・」 千代乃の頬を、静かに涙が伝った。「只今戻りました、母上。」「お帰りなさい、彰浩。光良はもうお部屋で寝ましたよ。」「そうですか。それにしても、あいつには困ったものです。あのままではわたし達が死んだら、あいつの面倒を誰が見てやれるのか・・」「そうねぇ。」 富子は息子の言葉を聞いて溜息を吐いた。「母上、父上が亡くなった今、わたしがこの藤崎家を守ります。」「有難う彰浩、あなたにそう言って貰えると心強いわ。」にほんブログ村
2015年06月05日
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その日は、朝から激しい雨が降っていた。「まさか、お義父様がこんなに早く亡くなられるなんて・・」「昨日まで元気でいらっしゃったのに・・」 藤崎家の家長・義正(よしまさ)が心臓発作で亡くなり、彼の葬儀が行われようとしているカトリック教会の信徒席に座る親族達は、彼亡き後の藤崎家のことを話し合っていた。「一体家督は誰が継ぐのかしら?」「順番からいえば、長男の彰浩(あきひろ)様でしょう。」「彰浩様は、大変優秀なお方でいらっしゃるから、義正様亡き後も、この家を守ってくれそうだな。」「そうね・・」祭壇の前に座る義正の嫡男・彰浩の姿を見つめながら、親族達はそんなことを話し合っていた。 漆黒のスーツに身を包み、ダークグレーのネクタイを締めた彰浩は、銀縁眼鏡越しに後方で遺産の事を考えているであろう親族達の顔を睨みつけた。(父上がお亡くなりになったというのに、あいつらは父上の金をどれだけ毟(むし)り取ろうかと考えているだけの薄汚いハイエナどもだ。あいつらには、この家の財産は渡さん!)「彰浩、そんな顔をしてはなりませんよ。」「はい、母上。」 喪服姿の母・富子(とみこ)は、最愛の息子が今何を考えているのかがわかっていた。「藤崎家の財産はあなたのものよ。あなたはこの家の総領息子なのですもの。」「わかっております、母上。」 富子の言葉に頷いた彰浩は、教会の扉が開き、一人の司祭が入って来るのを見た。 その司祭は、年は自分よりも数歳位若く、華奢な身体つきだった。「この度、藤崎義正様のご葬儀を執り行うことになりました、辻森慎吾と申します。では皆様、義正様のご冥福をお祈りいたしましょう。」 外は激しい嵐が吹き荒れていたが、教会の中では辻森司祭が唱えるラテン語の祈祷が朗々と響き渡り、静謐(せいひつ)で厳かな雰囲気が漂っていた。 教会でのミサが終わると、彰浩達は土砂降りの雨の中、義正の棺を墓地まで運んだ。 彰浩は、墓地の向かい側にある公園のベンチに座ってこちらを見ている少年の姿に気付いた。「彰浩、どうしたの?」「いいえ、何でもありません、母上。」「早く家に帰りましょう。こんな所に居ると、風邪をひいてしまうわ。」「はい。」 車に乗り込む前、彰浩はあの少年の姿を捜したが、彼の姿はもうどこにもなかった。「お帰りなさいませ、彰浩様。」「伯母さん達は?」「佐代子様達は、先ほどお帰りになられました。お食事の用意を致します。」「わかった。」 玄関ホールで彰浩と富子を出迎えた藤崎家の執事長・山岡がそう言って二人に向かって頭を下げ、厨房へと向かおうとすると、騒がしい足音が向こうから聞こえた。「山岡、お兄様達が帰って来たの?」「ええ、先ほどお帰りになられましたよ。ですが、お二人は今お忙しいようです。」「じゃぁ、二人にご挨拶して来る!」 藤崎家の次男・光良(みつよし)はお気に入りの熊の縫いぐるみを握り締め、母と兄がいるダイニングルームへと向かった。にほんブログ村
2015年05月29日
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