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小沢さんが海江田さん支持を決めた理由は、代表選に勝てるかどうかが一番のものだと言われている。それは論理的には合理的な判断だと思う。しかし、それは理念を基準とする判断からは不合理だと僕は思っている。問題は権力闘争の勝ちを取るのか、それとも理念を取るかと言うことになる。理念を取ると言えば、何か青臭い主張のように見えるが、僕が小沢さんを評価してきたのは理念の政治家であるという点だった。その小沢さんが、理念ではなく権力闘争的な判断をしたというのが、小沢さんへの失望となっている。これでは普通の政治家と変わりがない。権力を握ることで理念を実現させることが出来る、という人もいるかもしれない。しかしそれは本末転倒な論理だと思う。権力を取ると言うことを、理念実現のための手段と考えるなら、その手段を執ることで理念を捨てるように見えるような行為をすべきではない。そのようなことをすれば、権力を取ることが手段ではなくて目的化していると見られてしまう。今までの小沢批判が、まさにそうだった・やはり当たっていたのだと言われても仕方がないような場面を作ることになる。理念を掲げて争ったときにそれに負けたとしても、それは理念をか掲げることが間違っていたのではない。その理念を理解しない大多数の政治家達の志が低いことを示しているだけなのである。もちろん、そのようなことを理解できない国民が多ければ、権力闘争に負けることは少数派への転落になる。だが、それは国民がその程度であるときには負けることが必然なのだ。国民の意識を高めることこそ努力をするべきだ。水準の低い判断で人気を取っても、理念のほとんどは実現出来ない。それが今の民主党の姿だ。理念の政治家である小沢さんが、この体たらくをこれからも続けていくのだろうか。馬淵さんと海江田さんは、それぞれ立候補に当たっての決意を語っている。これは、どう見ても馬淵さんの方が理念的に優れていると僕には思える。馬淵さんは「国民一人ひとりのため、私は逃げずに立ち向かう」http://mabuti-sumio.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-6d84.html海江田さんは「立候補にあたっての決意」http://ikko.typepad.jp/files/%E5%87%BA%E9%A6%AC%E8%A1%A8%E6%98%8E.pdfを公開している。これを比較検討して、理念を比べてみたい。馬淵さんは次の言葉で、民主党自らが行ってきたことの間違いを指摘し反省している。「今、国民一人ひとりが家族のようにお互いに身を寄せ合って、地域のみんなで協力しながら、逞しく、そして凛として復興に立ち上がろうとしているときに、わが国の政治の有様はどうでしょうか。こういうときこそ、前例や既成概念を超えて、思い切った対応を、スピード感を持って実行することが必要です。政治家は、逃げたり、あるいは行政のせいにするのではなく、全責任を背負う覚悟で仕事をすることが必要なのです。それが、私たちがあの2年前の暑い夏、全国で国民に訴えてきた「政治主導」の政権運営であり、「国民の生活が第一」ということであったのではないでしょうか。残念ながら今の私たちの政権運営は、政権交代の原点からかけ離れており、胸を張って国民に報告できるものではありません。」これに対し、海江田さんに反省の弁はあるだろうか。海江田さんは次のように書いている。「私は震災発災当初から今日に至るまで、福島第一原子力発電所の担当大臣であります。国民の皆さんから、政府の対応に必ずしもご納得いただけていないことは十分承知いたしております。原発事故発災当初は、正に修羅場でありました。そしていろいろな制度面での不備も痛感いたしました。原発事故の一連の経緯については、私自身、政府の対応について、内心忸怩たる想いがあることも事実であります。原発事故の被害者の皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。」馬淵さんは、「前例や既成概念を超えて、思い切った対応を、スピード感を持って実行すること」が必要だと語り、そうであるから、これまでの民主党の対応が不十分だったと言うことを語っている。具体的に何が足りなくて、何をしなければならないかを語っている。海江田さんはどうだろうか?「修羅場」「制度面の不備」というのは抽象的すぎるのではないだろうか。どうしてもっと具体的に語らないのだろうか。これでは同じ間違いを繰り返すのではないかという危惧がぬぐえない。またマニフェストについては馬淵さんは次のように語っている。「政権交代前の私たちがなぜ国民から期待されたのでしょうか。私たちは結党以来、常に、天下り、税金の無駄遣い、耐震偽装や道路整備の問題に見られる際限なき裁量行政、あるいは不作為の連鎖による無責任体制を地道に調査し、国会で質し、長きにわたる政権支配で腐敗しきってしまったこの国の権力構造を変えることを訴え、国民の皆さんから支持されてきました。そして、国民の皆さんにマニフェストを提示し、実現を約束して参りました。これまでマニフェストが実現できなかったのは、マニフェストが正しくなかったからではありません。マニフェストを実行するための政権運営体制を、旧政権下から大きく変えることができなかったからです。「政治を国民の手に取り戻す」ためには、この二年間の反省を踏まえて、民主党らしい「政権運営の型」を作り、規律・規範に基づいた、国民生活のための政治行政を実現しなければならないのです。」マニフェストが出来なかったのは、マニフェスト自体の責任ではなく、それを実行しようとした民主党政治の責任だと言うことを明言している。これは、高速道路無料化に取り組んできた馬淵さんらしい言葉だと思う。高速道路無料化は、その原案者である山崎養世さんの論理を聞けば、その整合性がよく分かり、それを推進する意味というのもよく分かる。俗っぽい財源論などで潰されてしまうようなつまらない提案ではないことが分かる。それが実現出来ないのは政治家の責任だという馬淵さんの真摯な言葉に僕は共感する。海江田さんはマニフェストについてどう言っているのだろうか。「私たちが立ち返らなければならない原点があります。それは2年前の8月31日に国民の皆さんとお約束をしたマニフェスト「国民の生活が第一」の姿勢です。 政権交代に掲げた理念・哲学を大切にしながら、政治と民主党に失われた信頼を取り戻し、誰もが安心を感じられる日本、一生涯生きがいを持って暮らせる日本、子供達が自分の夢にチャレンジできる日本を再構築するべく、身命を賭してまいります。」これは単に「マニフェスト」という言葉を入れて作文をしただけで、マニフェストに関しては何も語っていないことに等しい。マニフェストをいったいどうしたいのだろうか?マニフェストに続く文章も、耳障りのいい言葉を並べただけで、そのために何をするかという具体性は何もない。今までそうなっていないのに、どうして言葉だけでそう語れるのか?それは理念を持っていないからではないのか。馬淵さんの次の指摘、「私は、三十代前半で当時最年少の上場企業役員として働く機会を持ちました。企業経営では、社内で派閥争いをしていては、士気は上がりません。経営者がパフォーマンスばかりをやっていても、業績は上がりません。リーダーたる経営者は、高い意識を持って誰よりも困難な仕事に率先して取り組み、さらには社員が失敗を恐れずに全力で仕事に取り組める環境を作っていくことこそが最大の使命であるということを学びました。私は、民主党に足りないと指摘されるのはこうした「経営」実践であると思っています。」は、民主党の欠点を言い当てているのではないだろうか。今まで、反小沢というパフォーマンスで日本の政治を歪めてきた民主党現執行部の政治に対して、小沢さんのグループが同じようにパフォーマンスで人気を取りに行くというのは、どう見ても理念に反する。馬淵さんの締めくくりの言葉「当選回数の少ない私の挑戦は、永田町の常識からは外れているかもしれません。しかし、私は「新しい次代のリーダー」となるべく社会経験を積んできたつもりです。1998年に民主党が結党され、10余年で念願の政権交代を果たしました。会社でいえば、創業から上場に到ったところです。私は、これまでの代表経験者と違い民主党以外の政党に所属したこともなく、生粋の民主党の国会議員として政治活動をして参りました。そんな私は、諸先輩方の経験やご見識を最大限に生かし、党内をひとつにまとめて、民主党をそして日本の政治を立て直すことの先頭に立っていきたいと考えています。」の方が、僕にとっては信頼できる言葉のように心に響く。
2011.08.28
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小沢さんの理念というのは、一言で言えば「真の民主主義社会の確立」というものだ。宮台真司さんなども語っていたが、日本では一度も本当の意味での民主主義が確立したことはないという。だから、この理念がもしもポピュリズムになるとすれば、とっくに民主主義が確立しているはずなのだが、そうなっていないことに小沢さんの不人気というものもあるのだろうと思う。「真の民主主義社会の確立」のためには国民の自立というものが必要だ。小沢さんが上記の本の中でも語っているように、自分で考えて自分で判断し、その結果に自分で責任を持つという国民がいてこそ民主主義が機能する。だから、この理念の実現のためには、政治家として国民の自立に向けた活動を支援するというのが小沢さんの政治家としての基本姿勢と言うことになるだろう。小沢さん自身の言葉をまえがきから引用しておこう。真の民主主義社会の確立のために必要なものを次のように挙げている。「第一に、政治のリーダーシップを確立することである。それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある。 第二に、地方分権である。国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する。 第三に、規制の撤廃である。経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする。 これら3つの改革の根底にある、究極の目標は、個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。 個人の自立がなければ、真に自由な民主主義社会は生まれない。国家として自立することも出来ないのである。」小沢さんは、基本的に自由な社会で、その自由を駆使して正しく判断できる個人が社会を支えるというものを理想としている。だからこそ情報は可能な限り開示しなければならないという考えも出てくる。記者会見を最初にオープン化して情報開示に努めたのもこの理念からのものと言えるだろう。小沢さんが中心になって作成した政権交代時の民主党マニフェストについて、神保・宮台両氏はマル激の中で「お任せ民主主義から引き受ける民主主義へ」という理解を語っていた。今までの自民党政治における民主主義は、形式的には民主主義であったが、国民が直接参加するのではなく、政治家に任せて、その結果について文句を言うという民主主義だった。ところが、民主党のマニフェストは、理想的なことを掲げてはいるけれど、それは国民の支持と援助がなければ成功しないようなものでもあって、国民の参加がなければ失敗するようなものだった。だから、お任せではなく、引き受ける参加型民主主義でなければならないというのが、神保・宮台両氏の解釈だった。今振り返ると、我々国民は引き受けることに失敗して、今だにお任せの気持ちが強かったために、政権交代の成果を持続させられなかったと言えるだろう。国民も未熟だったが、民主党の政権担当政治家の未熟さもひどいものだったと言える。政治家自身のマニフェストの理解が浅はかだった。だから見直し論などが出てくるのだ。小沢さんは著書の中で5つの自由を掲げている。1 東京からの自由2 企業からの自由3 長時間労働からの自由4 年齢と性別からの自由5 規制からの自由この自由の重要性を主張するというのは、逆に言えば現状は、この規制の下に日本社会が動いていると言うことになるだろう。自由を制限された状態は、ある意味では奴隷状態にあるとも言えるのだが、この奴隷状態は、そこが居心地がいいものであれば、奴隷状態の方が安心するという心情を生む。そうなれば真の民主主義は絶対に生まれないだろう。実際には、小沢さんが挙げるものの他にも自由が必要なところがあると思う。たとえば、マスコミ情報からの自由なども大切なものだ。ただ、小沢さんは政治家なので、政治家として取り組める自由という意味で上の5つを挙げたのだろうと思う。小沢さんは著書の最後で、この自由を阻止するものとしての日本の教育の弊害を挙げている。この主張にはほぼ全面的に賛成だ。このことによって、どうして日本の学校優等生が、この自由を持てないのかと言うことの理由が納得出来る。引用しておこう。「あるアメリカの文化人類学者が日本の高校を調査したことがある。彼の目に映った日本の高校生は、受験制度を中心とする、動かしがたい現実によって足かせを嵌められていた。彼らの前にある道はまっすぐで狭く、家庭と学校に縛り付けられていた。そして、懸命に努力しないものは罰せられる。 彼らは、新しいことを試みるよりも現実への順応を重視するよう奨励され、自己の内部よりも外部を志向することを教えられる。そして、自己を否定し、環境に対して表面的にでも順応することが成熟することであると考えるようになる。彼らは自分の考えを表現することを学ばない。話したり書いたりすることは奨励されず、思考や論争についても教育されない。一つの問題にいろいろな解釈が成立することも学ばない。思考より暗記が最優先され、公式のカリキュラムでは人間性や芸術性は無視ないしは軽視されている、という。 私も全く同感である。現在の高校生は、知識を詰め込むことだけを強要される。 このことは、小学校や中学校でも同じだ。アメリカやイギリスの学校では、教師は、まず子供達の発言に対して賛成し、それから、その発言の理由や根拠を尋ねたり、反論したりするという。励ましながら、子供達の思考を促すのである。これに対して日本の授業は、教師が正解を持っていて、子供達にその正解を当てさせている。最初の子が言い当てると、その質問はそれで終わり、言い当てないと即座に他の子が指名される。コンピューター教育システムと全く同じ役割を、生身の人間である教師が行っている。 このようにしてみると、小学校から高校まで、子供達は正解だけをせっせと詰め込み、自分で考える習慣も能力も磨かれないままに大学へ送り込まれていることになる。 これでは、自立した人間が生まれるはずがない。私は、欧米が実践していることが正しく、日本がやっていることはすべて間違っているというわけではない。しかし、日本になぜ民主主義が根付いていないか。その原因を探るとき、教育における日本と欧米の違いを無視することは出来ない。」格調高い文章で深い見識が語られている。日本の教育は、雑多な知識を即答する能力を高めることに特化しており、深く考えるという訓練はしていない。そこでの優等生がどのような能力を持っているかは自ずと分かるし、ここで劣等生にされた人間は、民主主義を支えていくのだという気概を持たせると言うことなく自分に対する自信を失う。これでは、真の民主主義は実現しない。小沢さんが語る、これらの理念に対する信頼があるからこそ、単なる権力闘争から推測されるものを、僕は「下種の勘ぐり」ではないかと感じる。しかし、小沢さんが、その「下種の勘ぐり」に見える行動をもしするようなら、小沢さんの理念にも疑問符を付けなければならないだろう。その意味でも、この民主代表選はいろいろなものを考えさせてくれるものになる。期待に違わない判断を、小沢さん自らが語ることを期待している。
2011.08.25
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タイトルは疑問文の形を取っているが、これは反語的表現で、そんなものが愛国心を育てるはずがない、というのが率直な思いだ。それを論理的に説明できるかどうかを考えてみたい。参考にさせてもらうのは内田樹さんの1「国旗国歌と公民教育」http://blog.tatsuru.com/2011/05/17_1846.php2「国旗問題再論」http://blog.tatsuru.com/2011/05/31_0930.php3「教育基本条例について」http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.phpという3つの論説だ。1の論説には「だが、刻下の国旗国歌論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベルの議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的論件に言及することはまずない。」と書かれている。国旗・国家の押しつけを語る論調は、規則は守れという低レベルの論調であって、教育という複雑で困難な問題を解決するような、深い見識からの提言ではない。だから、こんなものでは愛国心は育たないという結論になるわけだ。内田さんは、同じく1の中で「国旗国歌は国民国家の国民的統合の象徴である。そうであるなら、ことの順番としては、まず「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」をどのようにして創り出してゆくか、ということが問題になるはずである。 (中略)とりあえず国民国家はある。ある以上、その制度が機能的に、気持ちよく、できるだけみんながハッピーになるように統御することは、私たちの喫緊の実践的課題である。だから、「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意をもつ国民」を組織的かつ継続的に送り出すことは必要である、と私は考えている。その任を担うのが、学校である。だから、国旗国歌について論じるとき、教師としては、何よりもまず国民国家という政治的装置の基盤をなす「公民意識」を子供たちにどう教え、いかにして彼らを成熟した市民に形成してゆくのかという教育の本質問題が論件の中心にならなければならない。」とも書いている。本来の愛国心教育は、このような理念の元に考えられるべきだろう。「自分が帰属する国民国家に対する、静かな、しかし深く根づいた敬意」はどのようにして育てられるか?国旗を拝んだり、君が代を歌うだけではこれは育たない。戦前の教育もひどい押しつけであったことは確かだが、人々の間に、いたわりの気持ちだとか、公正さだとか言うのは、おそらく今の時代よりも広く行き渡っていたと思う。もちろん、暴力的に押しつければ従うというような間違った教育観の持ち主による教育もあったと思うが、そのような教育をする教師はだいたい嫌われたし、本人が思うほどその教育効果が上がっていたとは思えない。それでは、かつての日本人はどのようにして、周りの人をいたわり、弱者に手をさしのべ、困ったときはお互い様というような高い社会意識で助け合って生きていけたのだろうか。これは学校教育の成果ではなく、むしろ社会がそのような包摂性(人々を暖かく包み込むような雰囲気)を持っていたからではないだろうか。もちろん、身内の人間だけにその温かさが限られていたかもしれないと言うことはあるが、今の時代よりもその温かさと、公正さ・気概というものを感じる。24時間テレビでは、あるタレントのエピソードとして、彼のおばあちゃんが自分の給料を袋のまま困っている同僚に渡していたというものが語られていた。そのおばあちゃんの心の優しさや、気っぷの良さに誰もが感動するだろう。だが、このおばあちゃんのような人が、当時でもごくわずかな特別の人だったかどうか。むしろそのようなことが出来る人が多かったので、身近な人の中にもそのような行為が出来た人がいたのだ、というエピソードが語られているのではないだろうか。このようなエピソードは、今の時代ではおそらく聞くことが出来ないだろう。それは、今の人がその心性として劣っているというのではないと思う。むしろ、そのような助け合いや優しさを発揮する余裕を、今の社会が個人には持たせてくれないという理解が正しいのではないかと思う。このような時代背景にあるときに、形式的に国旗を拝み・君が代を歌うことで、このような心性が育つと考える方が論理的には無理がある。むしろこのような心性を遙か遠くに押し流してしまうようになるのではないか。問題は国旗・国家への敬愛ではなく、疲弊した社会をどう立て直すかと言うことなのではないか。だいたい、学校教育で愛国心が涵養できるという発想が貧しい。愛国心は、日本社会全体ではぐくむものであって、尊敬できる立派な人々が、本当の意味の愛国心の持ち主であることによって、その社会で育つ人間が愛国心を育てられるのだと思う。愛国心を声高に語る人間が、どれもエゴイストで社会のことを考えていないような人間だったら、どうやってそのような社会で愛国心が育つだろうか。1の最後の部分は、ちょっと長い引用になるのだが、大阪の橋本知事が提出しているものに対する本質的な批判となっているので引用しておきたい。「だから、橋下知事が主張するような施策によって、子どもたちの公民意識が劇的に向上するという見通しが立つなら、私はそれに賛成してもよい。いや、ほんとうに。私はそういう点ではきわめてプラグマティックな、計算高い人間である。日本がそれで「住み易い国」になるという見通しが立つなら、私は誰とだって同盟するし、誰の靴だって舐める。けれども、残念ながら、橋下知事は国民国家の公民意識を涵養するために学校教育は何をなすべきかという論件には一片の関心も示していないし、それについてのアカウンタビリティも感じていないようである。橋下知事は着任以来、大阪府の教育関係者を、教育委員会も、現場の教職員もひとしく罵倒することで有権者のポピュラリティを獲得してきた。その結果、大阪府民の学校制度に対する信頼と期待はずいぶん低下したと思う。ある意味、これこそ知事の最大の功績と言ってもいいくらいである。知事の学校不信・教員軽視は有権者である大阪府民のうちにも拡がり、当然のことながら、大阪府の子どもたちにも深く根づいた。今の大阪府の子どもたちは、おそらく日本でもっとも学校の教師に対する信頼を傷つけられた集団であろう。それだけの否定的評価にふさわしい出来の悪い教師たちなのだから、彼らが子どもに侮られ、保護者に罵倒されるのは自業自得だ、と。そう知事は言いたいのかも知れない。なるほど。ほんとうに、そうなのかもしれない。現に、おそらく多くの府立学校の教師たちは、知事の期待通り、この条例が可決された後、ずるずると教委の指示に従って、不機嫌な顔で起立して、国歌を斉唱するようになるだろう。だが、子どもたちはそれを見てどう思うだろうか。おそらく彼らを「処罰の恫喝に怯えて、尻尾を巻いた、だらしのない大人」だとみなすだろう。たしかにそう言われても教師たちは反論できまい。だから、子どもがいっそう教師を侮る趨勢はとどめがたい。この条例がもたらすもっとも眼に見える教育的効果はそれだけである。だが、教師たちを脅え上がらせ、上司の顔色をおどおどと窺うだけの「イエスマン」教師を組織的に創り出すことを通じて、いったい知事は何を達成したいのか、それが私にはわからない。たしかに、教師たちをさらに無気力で従順な「羊の群れ」に変えることはできるだろう。そして、そのような教師を子どもたちが侮り、その指示を無視し、ますます教育崩壊を進行させることはできるだろう。私にわからないのは、それによって子どもたちは学校教育からいかなる「よきこと」を得るのか、それによって子どもたちの公民意識はどのように向上するのか、ということなのである。」橋本知事は、主観的には愛国心を育てたいと思っているのだろう。しかし、彼が提出している法律によって、教師への尊敬は全く壊れてしまう。そのような尊敬できない教師から、果たして子供達は真の愛国心を受け取り涵養されると言うことがあるだろうか。そんなことはほとんどあり得ないと思う。この論理矛盾を、橋本知事のように頭のいい人間がなぜ気づかないのか。この論理の不思議を感じるとともに、いつもながら内田さんの論理には感心する。引き続き2,3の論説についても考えていきたい。
2011.08.24
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久しぶりに日記を書きたい記事があった。全文を引用する。「<民主代表選>小沢元代表「2、3位連合」画策」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110821-00000007-mai-pol「菅直人首相の後継を選ぶ民主党代表選へ向け、小沢一郎元代表が今月中旬、藤井裕久元財務相(79)に出馬を打診し固辞されていたことが分かった。藤井氏は小沢元代表と長く行動をともにしてきたが、今は疎遠な関係にあり、自前候補を持たない小沢元代表の苦衷もにじむ。小沢元代表は独自候補の擁立を断念。複数の候補を支援し、代表選の1回目の投票で2位となった候補に3位以下の支援候補の票を集中させる「2、3位連合」を模索する方針を固めた。【須藤孝、朝日弘行】 「自前候補がいない以上、『敵』だけ決めておけば(支援候補は)だれでもいい。藤井先生に望みを残していたが、もう2、3位連合にかじを切った」 こう話す元代表周辺によると、藤井氏に出馬を打診したのはお盆前後。元代表自ら電話で出馬を求めた。 藤井氏は93年に元代表とともに自民党を離党した元側近だが、民主党と自由党の合併後、次第に疎遠となり、今は岡田克也幹事長や野田佳彦財務相ら主流派の後見人役を務める。そんな藤井氏の擁立に動いた元代表の狙いは、岡田氏ら主流派からの権力奪還だ。 今回の代表選で岡田氏は野田氏を支援する構え。主流派内には前原誠司前外相を推す動きもあるが、いずれが出ても元代表にとっては「敵」となる。藤井氏擁立の奇策によって主流派の結束を崩し、次期政権の主導権を握ろうと狙ったようだ。 元代表が17日に「経験と知識がある人がいい」と語った念頭には藤井氏への期待もあったとみられる。「藤井氏の経済理論は第1が景気、第2が財政健全化。マニフェスト重視でも小沢先生と一致する。隠し玉だった」(周辺)が、藤井氏は誘いに乗らなかった。 独自候補の擁立断念により、元代表に残された戦法が2、3位連合だ。小沢グループと鳩山由紀夫前首相のグループを合わせれば100人を大きく上回る。主流派の候補が最初の投票で1位になっても当選に必要な過半数の確保は微妙。上位2人が争う決選投票で小鳩陣営の票を一方に集中させる作戦だ。 小沢元代表が最初から特定の候補を支援すれば、「非小沢」対「親小沢」の対立構図を嫌う中間派の票が離れるジレンマもある。鹿野道彦農相の擁立を目指す議員は「小鳩の100票は喉から手が出るほど欲しい。でも今、こちらに乗られると、色がついて広がりがなくなる」と元代表との距離感に悩む。 2、3位連合なら、支援候補を絞らずにすむうえに「推薦人をばらまくことで『敵』以外の候補には小沢先生に対する恩義ができる仕組み」(周辺)にもなる。露骨な「勝ち馬戦術」の効果はすでに表れている。小鳩陣営の支援を期待する海江田万里経済産業相、馬淵澄夫前国土交通相、小沢鋭仁元環境相らが相次いで元代表の党員資格停止処分の見直しに言及した。 候補が乱立するほど小鳩側に有利な構図だ。出馬を固辞した藤井氏は20日、TBSの「時事放談」の収録で「自民党(政権)の最後の時に(総裁選に)5人出たことを『お祭り騒ぎなんかやる時じゃない』と民主党は批判した。与党は絶対にこういうことはやってはいけない」とけん制した。 一方、野田氏は20日、国会内で鳩山氏と会談し、東日本大震災の復興増税について「経済状況やタイミングをみて判断したい」と来年度からの実施にこだわらない考えを伝えた。「増税路線」の批判を払拭(ふっしょく)しようと躍起だ。それでも主流派内には、野田氏では中間派の支持を得られないとの危機感が広がり、出馬に慎重だった前原氏への待望論も高まる。 同日、仙谷由人代表代行が前原、岡田両氏とそれぞれ会談するなど主流派内の調整も加速。これに対し鳩山氏は小沢元代表と会談して連携を確認し、双方が臨戦態勢に入った。」この記事が語るようなことを、小沢さんが本当に考えているとしたら、小沢さんも理念の人ではなく、単なる権力闘争に長けた普通の政治家に成り下がったのか、と失望するだけだ。この記事が、事実ではなくて下種の勘ぐりで書かれた観測記事であることを望む。小沢さんに期待するのは、その姿勢にブレがなく、常に基本理念を中心において行動をしてきたからだ。その小沢さんが、自らの権力闘争に有利だからと言って、基本理念と関係なく、単に2番目だという理由で支持する人間を選ぶのなら、今までの理念も偽物だったと言うことになってしまうだろう。小沢さんは党員資格を停止されているので自らが代表選に立つことは出来ない。だから、誰かにその支持を委ねなければならないのだが、理念を持った候補が一人もいないのであれば。そのときこそ民主党に見切りを付けるときだろう。このような事態に至っても、小沢さんの理念を実現しようという人間が代表選に立たないのなら、民主党に何が期待できるだろうか。今度の代表選は、単なる権力闘争ではなく、理念の政治が生き残るかどうかの瀬戸際にあるのだと思う。小沢さんが理念を捨てて、権力闘争の勝利を選ぶなら、日本からは理念の政治がすべて死滅してしまうだろう。
2011.08.21
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