全31件 (31件中 1-31件目)
1
「でかいイグチが俺の孤島」と山なめくじ 出会ったときは妙齢のご婦人という印象しかなくこれがウスフジさんとは気付かなかった。この春先、ハルシメジと一緒に登場した兄弟分のウメウスフジフウセンタケCortinarius prunicolaとの関連もたちどころにつながらず、とにかくデートに忙しい一日であったので持ち帰ることにしケースに放り込んだのだった。しかし、一息ついて深夜眺めてみると「なーんだ」ということに。Cortinarius alboviolaceus ラテン名は白紫のフウセンタケさんといった意味だ。さほど頻繁に出会うこともないので、ついお見逸れってことになるきのこの1種だ。 今日は積乱雲が夕空高くそびえ、久々の洗濯日和だったので、主婦たちは喜んでいることだろう。アジサイも今を盛りと咲き誇っている。6月の最終日、まだまだ梅雨前線は消え失せそうにないが、一挙に夏をさきどりした一日であった。 冒頭句は ヤマドリタケモドキの傘の上にでんと座をしめて、てこでも動かないぞと意思表示をしている山蛞蝓に出会ったとき、ふと戦後の俳句史の中で、前衛俳句を標榜する「海程」を主宰、トリックスター的存在を貫き、なりふりかまわぬ作句活動を展開した金子兜太の若き頃の作品「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」を思い出し、「やまなめくじよ、おまえもか」といった感慨を抱いた際の直叙。
2010年06月30日
コメント(0)
老鶯の声降る谷にきのこ満ち この季節食用になるきのこたちとも出会うのだが、探訪会では、同行の誰それに食べ方や処理の仕方を教えても私自身はきのこを持ち帰ることはまずない。 ムックきのこクラブは観照のための観照に終始する会で、研究や、環境保全、エコといった「ためにする」活動が入り込む余地は全くない。ひたすら見続けること。「ものの見えたる光いまだ消えざるうちに」心にやきつけることだ。25年間飽きもせずにやってきたのはただそのためなのである。この中からさまざまな表現者が育ってきた。きのこのことはきのこに聞かなければ決して次のステップへは行きえない。 ギャラリーきのこのきのこ料理の会のために食材のためのきのこ採取へと出かける場合は、まったく異なる原理で行動するので個人で動く。年に1,2回のそのときは、観照はない。本命のきのこめざしてまっしぐらだ。 ただ、私はこの地球上で懸命に命を輝かせているいきものたちときのこを通してつき合い続けることは何よりも大切だと考えている。わたしたちが、ゲジゲジやきのこの上で一生を終えるタケ蚊などと比べても、なんら優越的な存在ではないことを実際に体感することは、人間が自身の明日を考える際にもっとも大切なことと思っているからだ。私たちは人間中心の考えかたから逃れられないにしても、中心というのは端あってこその中心であることを忘れないためである。 掲載句は久しぶりに聞き分けた三光鳥の声がうれしくて初五を三光鳥にしたが、声を降らせていたのは夏鶯でそのひまを縫って三光鳥が挿入していたのでより現実に即して老鶯のに改めた。 写真はヤマドリタケモドキ(Boletus edulis)。いわゆるポルチーニだ。日本産のそれはちょっと太めのおみ脚に全体がアミタイツなのだが、欧州のそれは傘と柄の付け根のあたりにのみ網目がつくことからポルチーニとは似て非なるものという意味でモドキを献呈されている。しかし、食味はまったく同じ。ただ、このきのこは品種が10数種と多く、それぞれの寄主となる樹種により味に優劣があり、ときたままずいポルチーニに出会うことがある。したがって多少なりともきのこ採りの心得のある人は形状と色などと採取した森の樹種を記録した上で試食すればより味わい深い人生が送られるかもしれない。
2010年06月29日
コメント(0)
人にまみれきのこにまみれ月涼し きのこの狂宴に立ち会った昨日は、同行した女性二人を伴い、伊丹のきのこ展へ。TさんもMさんも会場に来ており、M画伯のなつかしい顔もみえたので、ワークショップ終了後、当然地ビールで乾杯しようということになり「長寿蔵」へ。Mさんとは、こうしてゆっくりと語る時間を持てたのは本当に15年振りのことで、二人の女性もそれぞれとても鋭い感覚の持ち主で、当然、話は多岐に亘り8時近くまで語り合って別れた。M画伯とはこのきのこ展のおかげでまた新しいきのこつながりの展開が期待できそうだ。 そのあと、グルジアのチェリストを囲んでワインパーティーを開いているギャラリーきのこへ後かたずけのために神戸へ出向く。リーザさん、輿水さんらのおかげでさほど手伝うことはなかったが、Kさんとハバロフスクに一時帰国していたバロージャくんが待っていてくれて、しばし極東ロシアのホット・ニュースに耳傾ける機会を得た。 2週間ほど前に植えたジキタリスも多くのつぼみが下から上へと花を開きはじめ、愉しいことこの上ない。「アリス絵のジキタリス花咲きのぼり」 すべてを終えて車上の人となった深夜、雲間からはまどか月が恥ずかしそうに顔をのぞかせ微笑みかけてくる。人にまみれる人生、きのこにまみれる人生。大きく方向を転じながら、ますます人ときのこにまみれていく自分をじっくりとみつめながら家路をたどった。 写真はアカヤマドリLeccinum extremiorientale。大型のきのこで日本特産種。ゆうに30cmは越える個体がこの時期どかどか出てくる。まとまった雨のあと、イグチの仲間ではいち早く顔をのぞかせ登山客を驚かせる。食味もよいが、キノコバエの格好の住みかであること、煮たりいためたりすると黄色い汁が出てくるのではじめての人はびっくりする。黄色が気になる人はサフランご飯と思えばよろしいかと。
2010年06月28日
コメント(0)
秘すれば恋定家かづらの花こぼれ 昨日とうってかわってきのこ三昧の一日がようやく訪れた。この1年かけて出会う予定のきのこたちの80%を今日一日で見てしまったことになる。すさまじいまでのきのこが出迎えてくれた森の中で、時の経つのを忘れてきのこたちとの逢瀬をたのしんだ。 途中定家かづらの白い花が散り敷く谷筋を渡ったが今日は誰も気付かぬ様子。式子内親王の墓に恋の妄執ゆえに定家がかづらとなってまといつくという伝説をもつ白い十文字の花。かぐわしい香りをともなう。掲句は初五を「わが恋路」としたが、人ときのこに惚れた私の恋の路にテイカカズラがそこはかとなく花弁を散らしてくれているとの意だが、テイカカズラのありように通じることぱとしては、秘すればこその恋とするほうが内容的に数段まさるので上記に改めた。 写真は100種あまりのきのこたちとの出会いの中で首をかしげたダイダイガサのアルビノとしか思えないきのこ。
2010年06月27日
コメント(0)
結局、一日中降り続いた豪雨の中、野鳥の会の人たち13名ときのこ探訪に。ギャラリーきのこには『雨の日きのこは』という絵本があるが、こうしためったとない雨の日のきのこ探訪会は、いきもの世界の明日を考える人たちは買ってでも実施すべきで、いきものたちの本当の姿がみてとれる好機なのだ。こんな日でも約4時間の行動の間に私達一行は、15名の若者たちとすれ違い挨拶を交したので、自分たちと同じような若者がまだいるのだと思い、とてもうれしい気分で満たされた。彼らは全身ぬれそぼちながらひたすら歩き通してきた様子で、しかしそれがむしろ当然であるかのような面持ちだったことがとても印象的だった。我々の一行の中にも6歳未満の兄弟が2名参加していてとてもたのもしく感じた。「雨もまた愉しい」というのは恋する気分以外に考えられないことだが、今日行動をともにした人たちや、すれ違った人たちというのは、やはり自分の人生に恋している人たちなのであろう。私にとっても久々の雨に降り込められた探訪会ではあったが、とても満足感のある一日であった。ずぶ濡れのまま神戸へ出て居酒屋で安酒をあおりながら、環境行政の矛盾や、生物多様性ということの真の実現とはどうあるべきかについて身体が乾ききるまで語り合ったことも私にとっては大いなる収獲であった。 写真は水量の増した雨の布引の滝。
2010年06月26日
コメント(0)
転生のときなりまくなぎ払いつつ 昨日は夏至過ぎの空を訪ねてずいぶんと遠回りして帰ったが、本日は仕事にけりをつけるため残業。華の金曜日の夜汽車で森田一哉の『乳豚ロック』終章を読み切り、車中で目を閉じると昨日の夕映えの田の面が鮮明に立ちあがってくる。しかし、不思議とカエルもオタマジャクシも見えず、まくなぎのみが熱烈歓迎だったこと。もちろん遮光式土偶もびっくりの薄目の私には歯が立たぬと見えてあっさり退散したのだが、まだ近郊農は農薬づけの米づくりをしているのだろうか。 掲句は先般のぞいた「夜の顔俳句会」の三島由紀夫の小節にちなむ兼題「転生」に寄せた一句である。転生の時を迎えたのにめまといがまつわりつき、なんとなく恰好がつかないぜといった、ここぞと言う時に決まらない人物がかもしだす俳味を感じとって戴ければありがたい。 写真はウスキテングタケ
2010年06月25日
コメント(0)
夏至すぎの空遠からず低からず 夏至にはじまるこの1週間は、わたしにとって春でも秋でもない等身大の空がひろがり、8月7日の立秋へ向けての充実期の助走となる。久しぶりに抜けるような青空となった梅雨晴れ間の朝、深々と深呼吸して家を出た。 退社後は、列車1時間、一番遠回りの道を選んで徒歩2時間歩き住宅街の真中にひっそりと店を構えている新しいパンやさんを見つけ、一汗かいてとっぷりと日が暮れた頃帰宅した。
2010年06月24日
コメント(0)
梅雨ふかし夢のまたゆめ追い続け 伊丹で開かれている「愉しいきのこ大集合展」に合わせて一度、幻のきのこカルチャー・マガジン隔月刊MOOK本『きのこ』の執筆同人たちの初顔合わせをやろうということになり、1週間ほど前に急きょ呼びかけ、本夕15名ほどが集まることに。 夢追い人らの25年に亘る越し方を一瞥し、行く末を確認しあうまたとない機会となる本夕は、それぞれの世界で独自の夢を形にしてきた作家や冒険家やその応援者たちがお互いの差異と共通点を理解し、「すわ」というときには、また見事なきのこ(真の自然回帰を呼びかけるいきもの世界多様性実現のためのあらゆる表現)を立ち上げる新しい第一歩がスタートする。 きのこはすでにきのこでしかない世界から大きく逸脱し、私たち人類にとって明日の地球を語る上で欠かせないイメージ・シンボルとしての地位を獲得している。それが「MOOKきのこ」13巻の到達地点であった。単なる「きのこの時代」は、神戸の摩耶山のふもとに「ギャラリーきのこ」ができたときに過去のものとなり、今やきのこは人と自然との新しい関係性を見出そうとするすべての人たちの自然そのもののシンボルとなりつつある。この好機をしっかりとつかみ、きのこを通して透けて見える新しい世界を時代にさきがけて表現していく流れを着実に太らせていこうと思う。その意味で伊丹のきのこ展とこの同人の集いはあらゆる意味で辺境のそのまた境界面でのささやかな集いではあるが、大きな意味を持っている。 ユーミンの愛した「6月」もこの夕べをもって私の中では終わる。今年前半の新しいきのこたちとの出会いははたしてどんな形のきのことなるのか、今から楽しみである。 写真は21世紀のきのこ趣味世界のありようを暗示するもっともふさわしい形を示したMOOKきのこ最終13号の表紙。この全13巻の冊子には、きのこ趣味世界のお釈迦さまのてのひらのすべてが網羅されており、この基準を易々と超えるきのこ界の新星(孫悟空)の登場を待望している。それは、ここで述べたようにきのこを核としつつ、この地球上に生きとし生けるものすべてのいのちを掬い上げる新しい発想を持ちえた人であることはほぼまちがいない。地球はすでに、深く病んでいることをはっきりと認識するためには、まだまだ膨大な時間という発酵作用を経なければならないにしても、それぞれの立場で今できることを、エコなんていう安直な言葉とは無縁に成し遂げることこそが求められているのだ。
2010年06月23日
コメント(0)
風落ちて脱魄のとき栗の花 いよいよ栗の花ざかりの季節がやってきた。この前の日曜日のきのこ探訪の行き帰りも栗の花の林を電車が縫って行く感じで楽しいこと、この上ない気分だった。 独特な男臭いにおいを放つ栗の花のただ中で、ふと凪ぎが訪れた瞬間、魂が身体から抜けて行くような感覚に襲われる。そんな感覚を作品にしてきた。「かぜおちてだっぱくのときくりのはな」。 魂魄(こんぱく)という時のコンはたましい(かたちをとどめぬエーテルのようなもの)、ハクは形をとどめぬ魂などをふうじこめている形あるもの。ここでは私の身体だ。めまいに似た感覚を読み込んだもの。 写真は朴の実にとりつく子のう菌類の一種でホソツクシタケ(Xylaria carpophylla)。きのこたちの中でも、そのまた変わり者がいて昨年地上に落ちた柿の種子にのみ寄生するカキノミタケや楓(フウ=かえでの仲間)の実にのみ安住の地を見出すフウノミタケなど実に多彩である。
2010年06月22日
コメント(0)
霧流れおびただしきは梅雨きのこ 昼餉のおりにざっと激しく一降りきた雨は、10分ほどであがり、午後、行動を起こす頃には濃い霧が立ち込め始めた。とても神秘的な雰囲気の中、ふたたびきのこの森を訪ね歩く旅を再開する。その昔のつわものどもの墓で紅い小型のヘビ(ジムグリ)に遭遇、しばし見惚れて時を過ごす。目的のきのこたちはまだ土中で惰眠を貪っているようで、いきもの世界は2~3週間例年より遅い体内時計で巡っているようだ。 ややあって、霧が流れ始めると世界が一変する。到るところにおびただしい数のきのこたちが顔をのぞかせはじめ、その中に点々と背筋をのばしたツエタケが立ちつくしている。 里山とはいえ、ちょっと人の気配から遠ざかるとまったくの異界が広がっているが、霧がたちこめると一層その感が増す。きのこ探訪は「静かな狩り」とロシアの文筆家の今は亡きソロウ―ヒンがかってその著書の中で語っていたが、私たちの一行は正にその通りの行動をとりおのがじし、きのこたちとの逢瀬をたのしんでいるようだ。 写真はオオホウライタケ(Marasmius maximus)のかさの表面のパターン。このきのこは落ち葉を分解する可憐なハナオチバタケ、シロホウライタケ、アシグロホウライタケ、レイ・ブラッドベリィの小説の脇役となったシバフタケなどの仲間で、ホウライタケ・グループのボス的存在で、まるで紙細工でつくったようなテキスチャーで比較的長く原型をとどめる。かさの径20cm、高さも30cmぐらいにも達する中型きのこ。この時期落ち葉の堆積する場所には必ず散見する。
2010年06月21日
コメント(0)
梅雨きのこ曇りののちの空いかに 夏至を明日に控えて、いよいよきのこたちとの熱い逢瀬の日々がはじまった。微小なきのこたちのオンパレードの一日、しかし、コテングタケモドキ、オオイチョウタケなどの大型菌も混じってまずまずのすべりだし。本日出会った無数の美女たちの中でもとりわけ気がかりだった美女の一人、ツエタケさん(Oudimansiella radicata)の心のヒダはかくのごとくとても美しいものだった。
2010年06月20日
コメント(0)
「不思議の国のアリス」の作者、ルイスキャロルの謎を解くキー・ワードはムラサキであると中央大学教授の小山田義文は語っている。彼によればアリスの挿絵に執拗に繰り返し描かれる地中海原産の紫の花弁をもつジキタリス(Digitalis purpurea)、3月のウサギの頭に巻かれている穂麦は麦角菌(Clavipes purpurea)に冒されているとし(それぞれの学名の種小名のpurpureaはムラサキを意味する)、彼が21年間ずっと紫のインクを使い続けたことと関連づけている。きのこでも私の経験では紫のきのこはとても美しく「きのこの手帖」でも第一冊目はむらさきの巻とし、かるろうさんに日本産のむらさきのきのこの検索表をお願いして特集したくらいで、大好きなグループである。 写真は近年めっきり少なくなったウラムラサキ、アメジスト色のきれいなきのこであるが、1年歩き倒してこんなん貧弱な個体しか出会えないほどになってしまっている。
2010年06月19日
コメント(0)
本日はすっかり忘れていたきのこの話をする日だったので、急遽、現下のきのこ業界の「たかがきのこ」の部分を列挙して「されどきのこ」の内実について少し触れることにし、ジョニィ・デップの「不思議の国のアリス」映画にかこつけてルイス・キャロルのこと、アリスのモデルとなった少女にまつわる小話、アリスの挿絵に登場する催幻覚性植物、月桂樹やコカの木、青虫がスパスパやっているハシシやアヘンの話、そしてジキタリスときのこのこと、麦角菌のことなどを詳しく紹介し、旧世代のきのこ人たちの関心の中心にあるサイケデリック文化とテレンス・マッケンナまで引っ張り出していつものごとく与太話に終始しましたが、結論としては妖怪や日陰者のきのこに異様にスポットが当たること自体、戦争根絶の世紀であるべき21世紀が世界全面戦争の様相を呈してきたきわめて不幸な時代の証しであること。こんな毒の噴出する時代には、毒をもって毒を制する文化を伝える流れを次々と生み出し淡い連帯の輪を作っていく必要があるよねと結論づけました。今日は皿洗いもせず、いろいろきのこの質問攻めで楽しみましたのでスタッフの皆様には申し訳なくおもっています。しかし、愉しいことは良いことなので、毒は少ないけれど伊丹市立工芸センターの「愉快なきのこ大集合展」は一見に価しまっせと宣伝して乾杯となりました。 写真はルイスキャロルの生涯とその作品世界を彩るムラサキに通底するきのこ世界の優れた食用きのこのムラサキヤマドリタケの図像。
2010年06月18日
コメント(0)
芍薬の思案に暮れる紅さかな 顧客のカ―・オークションまでに少し間が空いたので、昨日花器に活けられた大輪の芍薬の花をしばらく眺めていて思いついた作品を取り急ぎメモしている。「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」といわれるだけあってあでやかなたたずまいには目を奪われる。よく見ると複雑な構造と色を持ち溜息を誘う。「芍薬の思案に暮れて立てりけり」とまず口を突いて出たが、挙句の果てに冒頭の形となった。
2010年06月17日
コメント(0)
俳句の季語と定型は実は日常生活そのものです。俳句の型からまったく自由であろうとする作家に生活破綻者が散見するのも、伝統俳句なんておおっぴらに口にする人たちの多くの作品がまったくつまらないのも、日常と作家の距離のとり方、その葛藤の色合いの違いにしかすぎません。人間は本来、非社会的動物なのですが、欲でつながっている社会と縁を切ることは、とてもむずかしい。したがって、その社会や関係性のしがらみと作家の距離感がその作家の個性とさえいえましょう。誰かがいいなと感じる作家の作品は、その作家の関係性のしがらみとの距離感にすがすがしいものをその誰かさんが感じているからではないでしょうか。 俳句作家はすぐ周りの作家の作品を評する際に類想句が多いなんていいますが、17音に季語という寸足らずで類似の素材を用いて類想句でないものをつくるなんて実は至難の技なのです。 そんなことにお構いなしに機関銃を撃つように作品を生み出しましょう。西鶴の時代には矢立興行といって一晩2万句吐くなんて見世物がはやっていたくらいですから。ただ、首まで日常にどっぷりと浸かりながら、そこから飛翔を夢見る自分を自覚すると句姿が同じ駄句の羅列でも少しずつ変化してきます。そこには型とのあらがい、あるいは日常との葛藤が有るかどうかだけのことなのですが、それがこの垂れ流し形式の17音詩のもっとも肝要なところなのです。 私のこのブログで展開している交通標語にももとる作品群も、多くを作って恥をさらしていくと見えてくるものがあります。それが私自身の奴隷の韻律の正体で、見えてはこわし、尻尾をつかんではひきちぎる毎日の葛藤が私を少しずつ異次元の世界へと運んでいってくれます。なにもマジック・マッシュルームを食わずとも人は容易にトリップできるのです。それがアートの効用だということもできます。私たちの目指すきのこアートとは、アートによるトリップを追及することなのかもしれません。そんな意味でも「愉しいきのこ大集合展」是非行ってね。 型は壊してみればわかりますが、壊すこと自体の中に、またあらたな気のふさぐような型が待ち構えていて無限のくりかえしにすぎません。「人生やめますか?、それとも・・・」という広告のキャッチがありましたが、人生やめるとき初めて私自身の奴隷の韻律から解放されるのかもしれません。どうあがいても人生ですが、自身のあがきが、使い古された型どおりであると知ることは無駄ではないと思っています。それは自己を対象化するほとんど唯一の方法だと私には思えます。自分を知るもっとも近道は、このお手軽な詩形をもちいて多作することです。見えたところでどうなるものでもありませんが、少なくとも退屈しのぎにはなる。これが生きるということの本質かもしれませんね。17音詩と親しんでいるとそんなことを感じます。 本日の図像はアイタケ。茶がすりもようがきれいなベニタケの仲間です。地温が徐々に上がってくるこれからの季節、出会いのチャンスがあります。一応食べても死にません。がきのこを見るとすぐ食べるに結びつける発想はけっして見上げたものではありません。「愛は奪うもの」と昔から言いますが、どんなにおいしそうな恋人でも、いずれは食い尽くすにしても、食べるまえにじっくりと付き合うべきではないでしょうか。「おいしいものは、くり返しあじわうべし」とも昔の人は言っています。
2010年06月16日
コメント(0)
花栗に雨しとどなり人を待ち 栗の花の季節がめぐってきた。この季節は何か期待に胸が膨らむのだ。よく考えれば私は生まれてこの方ずっと人を待ってきたような気がしている。普段なら独特な香を放つこの栗の花が雨にぬれそぼち立ち尽くしている。 MOOKきのこ執筆同人とこれからのきのこ趣味世界を背負って立つ人たちの初顔合わせを近々開くつもりだ。新しいきのこ人たち現われよとの思いもなきにしもあらずだ。 写真は同じ季節に神社の杜をかざるカンゾウタケ。
2010年06月15日
コメント(0)
転生のときなりまくなぎ払いつつ かっての悪ガキの俳句仲間からお誘いがかかり、超党派の俳句の会に足を運んだ。名づけて「夜の顔俳句会」というらしい。 本日の兼題は小説のタイトルにちなんだ18の題のそれぞれに趣向をこらした短詩を書くというもので、やはり年齢を反映して三島由紀夫、太宰治、松本清張、村上春樹、田辺聖子、などの作品からのものでみたされた。私はそれらを組み合わせてすべてを網羅して16句つくった。その作品のひとつがこれである。例によって毎日毎晩ごぜんさまの日々であるが、新しい出会いもあり、出たら出ただけのことはある。またぼちぼち旧友たちやムックきのこの短詩型に自身の明日を見出した人たちにも声をかけていこうと思っている。 この北条の五百羅漢像は夜の顔とはいかないが、たそがれのかんばせながら負けん気一杯のたくましいもので私はこよなく愛している。日本人ばなれしているところなど全くもってうれしい。たそがれの顔とはどうにも豹変できる過渡期の相。そんな私でありたい。
2010年06月14日
コメント(0)
アリス絵の謎ジキタリス買い帰る 「不思議な国のアリス」のジョン・テニエルの挿絵になる「青虫が教えてくれたこと」の章ではきのこともうひとつ不可解な植物が描かれている。私はずっと昔、それはホタルブクロだと思って別段気にかけていなかったが、それがジキタリスであることを最近になってようやく示唆され、アリスの世界全体の印象ががらりと変わってしまった。昔は割合よくみかけた花だが、最近はご近所の庭などでもほとんどみかけることはなくなった、ゴマノハグサ科の多年草植物だ。いきつけの園芸店でたまたま2種ならんでいるのを見つけてスノーシンバルと名づけられた小株を買い求めた。アリスのジキタリスはおそらく花弁が白いもののように見受けられるが、私の買い求めたものは、まだ花をつけていないが、咲くと黄色の花だと教えられた。黄色いジキタリスは見たことがないのでたのしみだ。キツネの手袋ともいわれるが、ルイス・キャロルはその俗称を自ら否定。「キツネがこんな手袋つけるか」と言い、別名を世の多くのアリスのための幼児向けの著書の中で注釈したと聞いている。暑さには弱いが夏の花である。 雨中幻視。きのこはハチノスタケの手ぶれ写真だが、この絵を見てマリリン・モンローを思い浮かべる人はおそらく昨今では少なくなっているだろう。私はとても気に入って大切にしまっていたのだが・・・。
2010年06月13日
コメント(0)
泰山木の白きわまれば花ひらく 伊丹のキノコ展開幕を明日に控えて、最終チェックに会場をたずねた。工芸センターの講師、生徒さんたちのキノコをテーマにしたコンペ作品も素晴らしい出来で、螺旋形に配置された展示台の上にところ狭しときのこアートの数々が並んでいるさまは圧巻であった。これから20日余り、おそらく会場を訪れた人たちは、きのこ世界の奥行きの深さに目を奪われることと思う。なによりも関係者一同がこんなに愉しく準備に関わった展覧会もめずらしい。すでに開催前日に所期の目的は充分に達成してしまった感があり、後は選挙と同じく来館者の数字の問題を残すのみとなった。私は早々と会場を後にしたが、センターの人たちはおそらく今夜遅くまで設営に余念がないことだろう。こうした縁の下の努力があってさわやかに明日開幕する。MOOKきのこ同人の1点もののコレクションをのぞき、すべて購入可能な作品ばかりで、きのこファンには垂涎の催しものである。ぜひ多くの人たちとこの感動を分かち合いたいものである。 泰山木の花と同じく、その祈りが純粋であればあるほど劇的に蕾はほどけはじめ金の蕊を掲げ始める。またひとつ、きのこ世界の新たな1ページが開かれた。 写真は伊丹工芸センターからすぐのところに太古の昔からあったであろう、いなべ物部氏の本拠地である格式の高い猪名野神社。大和、京への街道の首ねっこを押えて河内王権の軍事経済を支えてきた要衝の地である。
2010年06月12日
コメント(0)
亀鳴けりつける薬の無きわれに 泥亀がみどろの池に浮いていた。こっちを見てるようでもあり、見ていないようでもあり、「ふん」と言った表情でちらほら菱の葉がではじめた沼の沖で首を伸ばしたまま、フリーズ(凍結)していた。背を向けて立ち去ろうとしたとき、声ならぬ声が聞こえた。うそーッ。おぬし鳴くかよ。俳句では昔から亀が鳴くという季語があり、亀は鳴くはずはないのだがなんとなくありそうな気がするのだろう。この言葉は死語とはならずに季語集などに居座っている。 「アホにつける薬のなくて亀鳴けり」 最初こんな風な感慨が浮かんだが、自戒の句とはならず、誰かさんのことを吐き捨てるように言ったようにもとれるので掲句のように変えた。亀を鳴かすような人生。さてこれからどう展開していくか。しかし、この6月、新しい風が私を包みはじめている。この実感は大切にしたい。「ちょっと背伸び」の精神でアホなりの人生をつらぬこうと思う。 私の中では昨日すでに梅雨入りしちゃったのだが、今日も朝からピーカンの晴天。今朝早く資源ゴミを出しにいったら泰山木の花がほころびはじめていた。しかし、おそかれはやかれ梅雨前線が列島を支配しはじめることだろう。いよいよ名実ともにきのこの第一のピークがはじまる。写真は大好きなトウカエデの路樹に顔をのぞかせはじめた押しくら饅頭状態のヤナギマツタケ。
2010年06月12日
コメント(0)
飛行機雲生れぬ還暦過ぎの空 昨日は家路をバス通りにとりぶらぶら歩いていると、女性の声が。ふとたちどまって脇に止まった車をのぞくとわが町でもちょっと有名なきのこ写真家のSさんだった。しばし近況を話し別れたが、近くに住んではいても忙しくなかなか機会を得ず、お互い今日の日の偶然をよろこびあったことである。子離れしたようで、一段ときれいになっていた。 別れてからまたのらりくらり歩いていると大空にたった今軌跡を描き始めたジェット機をみとめた。ふと亡くなった娘の3倍以上生きてしまった自分に思いを致し、私の今日あることの意味をあらためてみつめなおしてみた。わたしは娘と同じ年の頃すでに晩年と思っていたが、ずいぶんと長い晩年をやりすごしてきたものだ。このあとの人生、まだなかなか暮れない夕べの空に尾を曳き始めた飛行機雲のごとく、私にご縁のあった人たちへの恩返しのためにどう生きるかを設計していかねばならない。とかなんとか思っちゃって、それから2ケ所、私の秘密のきのこスポットを覗いて「そろそろ起きろよ」と声かけて、すっかり日暮れてから帰宅した。 作品のよみは「ひこうきぐもあれぬかんれきすぎのそら」。写真は飛行機雲はありませんが、兵庫県三田市の羽束山(中央)、左はさいしょうやま、右は甚五郎山。この三つを総称してはつかやまとよんでいます。
2010年06月11日
コメント(1)
子マムシに側溝高し泳ぐなり ずいぶんと日が長くなってきたので、気が向けば退勤ののち最寄りの駅から家まで小一時間の道のりを毎日道を違えて歩くことにしている。昨日はきれいな庭造りをして道行く人たちの目を楽しませてくれる家々を辿って帰ったのだが、ドクダミの花の集落が見えたので住宅地と藪山の間の境界を成す側溝に沿った小道を覗いて、そのまま奥へ奥へと進んでいった。すると側溝の止水の中にうごめくものがあり、よく見てみるとマムシくんの子供がうっかりはまったのか、身体をくねらせて泳いでいた。私は長いものはあまり好きではないのだが、水面から30cmほどのコンクリートの側溝の壁は彼(いや私が気付いたくらいだから彼女)にはちと高すぎる。鱗の移動で前進するヘビちゃんにとって泳ぎは身体をSの字にくねらせるだけなのかどうか確かめるためしばし眺めてから、引き上げはせずに自力で這い上がることのできるルートを笹きれでそっと身体を押して教えてあげた。一生懸命健気に泳いでいるのはかわいいが、いずれ疲れてくるので私の指示した方向へちゃんと行けるかなと思いつつ別れを告げた。頑固でなければよいのだが・・・。 マムシ、キツネ、タヌキ、カヤネズミの類は近年とみに減少している。宅地造成で彼らの生活領域がどんどん分断されつづけているから気の毒なかぎりである。生活保護はネイティブたる彼らにも適応してあげなくてはと時々思う。 マムシの子には側溝が高すぎる。しばし思案の後、泳ぎを選んだという趣向にした。俳句は切れることでつながる不思議な言葉の遊びだ。また機会をみつけて切れ字のことをお話しよう。 写真はマムシとは無縁の柿の花。真中にポッチリとついたものがそうである。きのこの和名のツチガキはこの花の形状からきていることが一目瞭然である。地に落ちた柿の実あるいは柿の花。
2010年06月10日
コメント(0)
その昔は屋敷町なり夏小菊 「そのかみはやしきまちなりなつこぎく」 わが町は城下町、といっても城址も学校になっているようないわゆるお城のない町だ。しかし、方々に城下町であった痕跡は残っており、しばらく前までは旧市街を歩くと表札に平民・何々某と書かれていたりしてへェーと感心したものである。ちょっと臭いことにアイデンティティーを感じているニュータウンの住民たる私などはさしずめ屁民ってところだろうか。 昨日は、金星と天王星の接近のドラマが見られるというので、なかなか暮れてくれない夕方、時間つぶしに史跡保存地区を歩いていて、何々屋敷町址という区画へ迷い込んでしまった。そこには昔を偲ばせる白壁の土塀や格子窓が残っていたり風情のある建物もちらほら見かける。そして庭には夏の盛りというのに菊が丹精こめて作られていた。あらためて、駅前へもどってみると手作り市が始まっていて、きのこグッズを探して方々の店の職人さんたちと話し込んでしまい、金星のドラマはどこかへすっ飛んで遂に見られずじまいに終わってしまった。また寄り道してしまったってことか。 写真はバリ島みやげのサイケデリック・マッシュルーム・アート(染織)
2010年06月09日
コメント(0)
愉しいキノコ大集合展日ごろ各地にひそやかに存在する、キノコを愛する作家たちが大集合。それぞれのキノコへの想いを込めた作品を発表いたします。キノコづくしの世界をお楽しみください。写真展 「きのこ曼荼羅」 桝井亮 旧岡田家住宅にて同時開催。 イラストは毛利泰房会期:2010年6月13日(日)~7月4日(日) 午前10時~午後6時(入館午後5時30分までに) 但し月曜休館 会場:みやのまえ文化の郷 伊丹市立工芸センター 電話072-772-5557〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-28 協賛: ギャラリーきのこ ・ムックきのこクラブ
2010年06月08日
コメント(0)
混沌のとどのつまりは梅雨きのこ きのこたちの第一のピークがはじまる。きのこは螺旋のシンボル。この世界がすべて螺旋からできていることをそっと体現しているのがきのこである。そんなきのこたちの最初の饗宴がはじまる。カオスから秩序、そしてまた秩序からカオスへと繰り返す宇宙空間の中できのこはその過程のすべてを明滅の態でわたしたちに指し示している。このページもなるべくきのこに片寄らないように心がけているが圧倒的なシーズンを前にそれが約束できるかどうかいささか疑問に思っている。それほどちょっと意識して身のまわりをあらためて見回せば彼らの姿で溢れているのがおわかりいただけると思う。知ろうとしなければ全く見えず、ちょっとその気になればこれまでの人生が根底から覆されるほどの世界が開けてくる。それがきのこの魅力の全てだ。きのこの森をさまよううちに自身を見失う人も実に多い。それはきのこのささやきに耳をかさずに自分にこだわることからそうなってしまう。きのこの導くままに寄り道を繰り返していけば、尽きせぬ喜びを手に入れることができるのに実に残念だ。そんな人には是非『不思議の国のアリス』を虚心坦懐に読み直すことをお勧めする。特に幻覚や幻視体験のオンパレードのイモムシの章は、「私は誰?」というアリスの問いかけの部分を繰り返しひもとくことである。きのこという素晴らしい生物と出会ったそれぞれの私はこの章の意味をそれぞれに理解し、きのこの彼方へとそれぞれが旅立たねばならないと私は思う。自分というきのこがかき消えるときはじめて自分というものが理解されるというアイロニーもきのこの免許皆伝のうちに含まれていることを知ってほしいものである。 写真はまもなく足の踏む場もなく発生してくるわが家にほど近い雑木林のクサハツたち。
2010年06月08日
コメント(0)
玻璃一枚隔てしずもる五月闇 窓ガラス一枚隔てて緑の闇が迫ってくる。雨意こめて黝々と茂る緑はやがてうそ寒いものを感じるほどの存在感がある。いつしか身も心も緑一色に染まっていくような森々とした恐怖を覚える。 写真はとある深夜車を走らせながら緑の闇を突き抜けざまに撮った一齣。街灯の彼方に浮かぶはまどか月。
2010年06月07日
コメント(0)
夏河と言えど低きに流るかな 四季のうちでももっとも生命感あふれる夏がようやくめぐってきた。「賀茂川の流れと賽の目だけはどうにもならない」といにしえの昔、上皇が嘆いたことがあったが、多くのいのちをはぐくむ真夏の大河を前にして「河よ、お前はどうして低きに流れることに疑問を抱かないのか?」と問うてみた。春夏秋冬さまざまな表情を見せる河なれど、何だかんだ言ってもやっぱり高いところから低いところへ流れるだけではないか。つまんないな。と思ったのである。私の大好きな夏は、今年も私にありそうもない期待を抱かせて居座り始めたことである。しかし、そういう思いの積み重ねが私を遠くへ運んでいく。ありそうもないことこそが私にとって唯一の真実なのだから。 写真は裏六甲の登山道の脇で見つけたヤマドリタケモドキ。いよいよ彼らの季節もはじまる。
2010年06月06日
コメント(0)
白昼の揚羽の翅音響くなり 伊丹の「愉快なきのこ大集合」展の会場検分のため車で六甲を抜けたが、久々に景色が陰画めくほどの晴天が広がっていた。途中立ち寄った大学の構内に設けられたピカッとフラッシュアップしたような花壇の花々にしばし見とれていると揚羽がしずごころなく舞っていた。しばらくうっとりと眺めていると翅音が響いてくるような思いがした。夢かうつつかさだかならざる境にしばし入り込んでいたのかも知れない。ハタハタという翅音はその日一日中、心に響いていた。読みは「びゃくちゅうのあげはのはおとひびくなり」 写真は羊の刻に咲くというひつじぐさ、すなわち睡蓮。能勢の妙見の奥の地黄と呼ばれる地でみとめた。
2010年06月05日
コメント(1)
日を返す早苗田は見ず鳶の舞ふ 昨日はギャラリーで盛り上がり、ごぜんさまでこのページのノルマは果たせず。 今朝、田植えの終わった田や田植え最中の田を見ながらの出勤で、田の面をわたる風を感じつつ上空を見ると鳶がゆるく円を描いて回っている。そのときふと思ったのは鳶は私が感じている水田の矩形がもたらす爽快さとはおそらく無縁だろうということだった。彼が唯一見ているのは生産とは無縁の、いのちをつなぐための生き物・カエルやヘビであろうということだ。 鳶と同じ生物界から抜け出したヘルニア的存在の人間と他生物とのギャップはつねにこうした視点の相違にはじまる。環境問題の基本は人間という存在が生物界ではヘルニア(はみだしもの)だということの自覚から始まる。たまたまこのヘルニア的存在のパンツをはいた猿が、言葉という武器をもって生産手段を磨き、富の蓄積を手に入れ、優占種となったことから地球の汚染がはじまったことは事実で、富の分配システムを構築する際にそのもてる智慧を十分に生かせなかったことから今日的状況がはじまったのである。重商主義時代の経済学者が欲望の充足を神のおぼしめしと規定して以来のことである。 話は変わるが、目にみえる微生物・きのこやカビによってようやくこうした生命圏に普段はめだたないが、営々と生産者と非生産者の間のギャップを埋める大いなる存在があるということに意識が向き始めたのが前の世紀の80年代であった。きのこのブームはそれぞれの無意識のうちにそうした存在を希求しはじめた証左でもある。きのこ大好きを自任するアマチュアは、そんなきのこの彼方に実在する微生物の意味を繰り返し喚起させるようなアートや文学による啓蒙運動を高めていくべきときが来ているのではないだろうか。 写真は人っ子ひとりいないある日の公園。イモムシの遊具があり、アリスの芋虫には程遠いがしばらく腰掛けて遊んだ。
2010年06月04日
コメント(0)
どんくさい子燕も見え巣立ちかな 駅構内ツバメが巣立ちの時を迎えていた。 私たちのギャラリーきのこでも数年前からツバメが営巣するようになっているが、今年はまだ来ない。毎年巣作りをはじめながら途中放棄する数年が続き、二年前にようやく定着し子育てをはじめたが、巣立ち直前になってカラスに襲われて全員死亡。去年は初夏に来た第二波の飛燕が営巣したので、前年の非を繰り返さぬよう、巣立ち直前にひさしのところにカーテンをつけ上空から巣の存在を見えぬようにした結果、はじめて巣立ちに成功した。が全員ではなく一羽は母親の育児放棄にあって死亡。今年も営巣をはじめてしばらくして巣を放棄、そのあとよそで巣作りするツバメたちが巣の材料を掠め取っていったので巣は半分だけ残っている。 人間と共生することで繁殖する道を選んだツバメといえど実に微妙なスタンスで生きているようだ。昨年の例では巣の大きさに対して子供の数が定員オーバーしていたことが原因のようだ。全員タマゴから孵ったが、顔中を口にして親鳥の餌を待つツバメといえどやはり三羽以上集まるとドン臭いツバメ、がめついツバメが、とおのずと性格の違いから強い弱いができてくる。親鳥は最初の間こそまんべんなく餌を与え続ける努力をしているが、去年の場合、どんくさいツバメは成長に取り残され、更には、やがてあろうことか親鳥がそのドンくさいツバメの子育てを放棄するに至って完全に弱り切り、あげくのはては大きくなった兄弟に巣から押し出されて落下するという事件まで起こった。巣にもどしたが、われわれもその痛々しい子燕の明日は信じることができなくなっていた。案の定、その子は巣立ちの時を迎える直前にまた落下していたちの腹を満たすことになったのだと思う。 そんな数年の観察から、親がなくても子は育つとはよく言われては来たが、生まれた子供が全員成長するということは奇跡に近いことなんだとしみじみ思ったことである。ツバメでさえこうだから、いわんや人間社会ではもっとその淘汰圧にははげしいものがあろう。このどんくさいツバメの死の意味をどうやって私の残された人生に生かしていくことができるか。これも私の課題のひとつとなっている。そんな思いから、全員旅立ちの時を迎えた駅育ちのツバメくんたちにおもわず合掌してしまった。 写真は昨年春のギャラリーの軒下で育ったツバメたち。写真左端のつばめが最終的に巣立ちできなかったものだ。この時点では思いもしなかったことだ。
2010年06月02日
コメント(1)
新しき靴なじみ初む柿の花 柿の花はよく注意しないと見過ごしてしまう。柿若葉がとても自己主張が強いので尚のことである。春に新調した靴がようやく足になじみはじめたある日の朝、見初めた柿の花。日めくりもまたふりだしにもどっている。いつまでも寒いとかこっている間に季節は着々と新しい局面を指し示しはじめている。私たちの日々もいつもと変わらぬようでいて大いに変化をとげつつある。さてこの6月、どんな不思議が私を待ち受けているやら。今から楽しみである。写真は街路樹の中でもとりわけヤナギマツタケの大好きなトウカエデの新芽。都会のきのこの中でもトップランナークラスのヤナギマツタケの季節もまもなくはじまる。
2010年06月01日
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1


