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虚舟とも言ったりします。舵も帆もなくただ漂い続ける舟のことを言います。 人の人生というのも似たようなものなのかもしれません。それは不安で恐ろしくて悲しいものだろうと思います。 虚舟に乗らないようにするにはまず目的地を決める事。自分の心の中に幸せになるという強い決意を刻むこと。そうすることで心の中の虚舟はしっかりとした舵と帆を持つことができるようになります。 紙に自分の一年後のこうありたいと思う姿を書いてみよう。ぼんやりとした航路の先がそうすることではっきりとした姿で見えるようになってくるはず。心の闇の中に強い光のサーチライトが照らし出す道ができるはず。 ただ漂っているだけではいけない。目的地を決めよう。それだけで人生の海は楽しいものに変わるはずだと思います。
2016年02月28日
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お不動さんが好きでどこへ行ってもお不動様が祀ってある寺院にはどうしても行きたくなります。 でもなかなか新しいお不動様には呼ばれることが少なくて、今のところ倶利伽羅不動尊と富山県の大岩不動尊にしか御呼ばれしていません。 どうもお不動様というのは力が強すぎて影響力が半端ないから読んでくださるのはよっぽど魂の波長が合ったスポットに限られているようです。 観世音菩薩さまや如来様などは門戸が広くて誰でも受け入れてくださる感じがあるのですが、それでも例えば観音様でも如意輪観世音様は独特の波長を持っておられるようでなかなか呼び寄せてはくださらないようです。 人の魂と神仏のスピリチュアルなものというのは独特の共振作用がないと合わないものなのかもしれません。そういう世界が視えてくるとそういう感じが何となくわかるようになってきました。
2016年02月26日
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黒や夜、闇に対する枕詞なのですが、なんとなく好きな言葉です。 調べてみると「ヒオウギ」という植物の種子の名詞でもあるのですが、現物は確かにとっても真っ黒でつやつやと光っていました。 漢字は「射干玉」と書きます。 漆黒の闇、なんだかそこには暖かさを感じます。現代社会ではそういう暗闇はなかなか存在しません。一度だけ体験したことがあります。長野県の善光寺さんの胎内巡りのときです。階段を下りて少し進むと全く光のない空間になりました。目を開けているのがわからないほどでした。その時に感じたのは「心細さ」と同時に変な「安らぎ感」でした。 私が「ぬばたまの」という言葉を目にしたのは万葉集の中の短歌の一首でした。万葉集が編まれたころの世の中にはまだこんな漆黒の闇があったのだろうと思いました。月の光なんていう淡いものがどんなに価値のあるものだったかと思います。 ぬばたまの闇を決して忘れてはいけないような気がします。それは現代では人の心の中に宿ることもあるように思います。
2016年02月24日
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開業して少し経ったころ、高校の時の友人で霊的な能力の高い人が当院を訪れて伝えてくれたことがありました。 「この場所は多くの人の安らいだ氣が満ちていてとても良いですよ。」と。それから意識して院内を視ていると本当にそういうお客様の氣が蓄積して「結界」を作っていることがわかるようになりました。 だから変な邪霊などが憑いている方はなかなか当院へ来ようと思っても来られなかったり、来ても院のすぐ外でいったん霊的なものは外れていたりすることがわかりました。私自身も守られているのだろうなぁと思います。ただ前述のように逃げて非難している雑霊については敏感に察知して祓って差し上げる必要があったりするようになりました。 パワースポットと呼ばれるような場所もこういうように訪れる人たちのそういう氣が醸成したり蓄積したりして強化・育成されている部分もあるのかもしれません。 時々柏手を打ちます。澄んだ音がすればOKですが、少しでも濁った音がすれば窓を全開にして外気を十分に入れ浄化するようにしています。安らぎの氣をまた少しでも醸成していけるように頑張りたいものです。
2016年02月22日
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母に言われて毎年二月になると緊急時保管用の飲料水を詰め替えます。 二月の水道水を母は「寒の水」と思っていて保存に良い水だと考えているようです。私はそれはどんな時期の水も同じなのではないかと思いつつも年長者の知恵というものもバカにするものでもあるまいと思いその通りにしています。 「寒」の時期というものもなにがしかの生産性があったり、人の生活に欠かせないものがあったりするものです。 風邪やインフルエンザのウィルスなどは逆に活発になったりしますが、昔の人は寒いからと言って病気になってばかりいたとは伝わっていませんから、寒いときにも寒稽古とか言って体を鍛えていた人たちは耐性を付ける良い時期とこういう「寒」の時期をとらえていたのかもしれませんね。
2016年02月20日
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心の中に空をつくる。時々やっています。そうしないと色々な想念が飛び込んできて苦しくなります。自覚することがなくても時々、空を作って宇宙から吹いてくる「氣」を自分の心の中に通さないと心が清浄でなくなるような気がします。 心に空っぽの部分があって、そこを見えない風が吹きすぎている。そうイメージすることにしています。最初は空っぽの部分を作ること自体がとても難しいです。ポカンとした心の状態を心の中で凝縮する・・・そんなイメージでしょうか。 一度作ってしまうとあとはどんどん勝手に浄化していってくれるようです。一度お試しください。
2016年02月18日
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NHKのスペシャル番組で司馬遼太郎さんの思索についての特集を放映していたのを見ました。 日本人とは・・というテーマでした。日本人の本質というのは「武士」だということでした。 「名こそ惜しけれ」そして「公意識」というものが日本人の行動や思想の原意識になっているという司馬さんの思いに強く共鳴しました。日本人の「恥」というものに対する繊細な感性と、常に社会に対して責任を感じているというまじめさというのは民族の特性として秀でたものだろうと思います。 東日本大震災のときの整然とした人々の避難風景、そしてサッカーワールドカップにおけるサポーターの方達の後片付けの風景、日本人としてなら当たり前かもしれないその美しい姿の中に日本人の静かな安逸ともいえる民族特質を感じます。 司馬さんは二度の大戦について軍部が持った「統帥権」というものが悲劇に結びついていったと非難していました。しかし、司馬さんの本当に言いたかったことは日本人の持つある落とし穴的な性質を非難したかったのではないかと私は思いました。 司馬さんは生涯にわたって「熱中・熱狂」ということをひどく嫌ったと言います。これを聞いたときに私は強く共鳴する部分を感じました。私が以前から「祭り」というものが大嫌いだったのは、そう人々の「熱中・熱狂」が大嫌いだったからです。日本人にとって熱中・熱狂というのは「個」というものを壊してしまう作用があります。「個」人というものが破壊され「群集」の中に飲み込まれたときに愚かな行為が始まるのだと思います。それが日本人の弱さ、完成されていない民族としての弱点なのだと思います。 個としての強さというか心の完成度を高めていくことをしないと日本民族は本当の成熟というものを得られないと司馬さんは語っておられましたが、私も同感です。 冷静に常に客観的に自らを見つめる視点をしっかりと持つこと、そこに「名こそ惜しけれ」の意識と「公」というものに対する責任感を伴った安定した認識が加われば強い民族というものが生まれるように思います。
2016年02月16日
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昨日は休日で娘と二人で野鳥観察のドライブでした。 最初に中能登の邑知潟へ白鳥を見に行きました。金沢からですと一時間弱で着きます。白鳥の里という看板が見えるとすぐに娘が「飛んでる、飛んでる」と大きな声を上げました。潟の背景にある山並みをバックに編隊を組んで飛翔するハクチョウたちの大きな群れが見えました。 北帰行です。潟の水面にはハクチョウたちが数百羽優雅に漂っていますが、その中から時折パタパタと水に濡れたダンボールを地面にたたきつけるような音を残して水面から多くの白鳥が飛び立っていきます。 中にはまだ首が灰色の幼鳥もいます。彼らも親鳥に引っ張られるようにして北への旅に飛び立っていきます。昨日は気温も暖かく風も弱くて北帰行にはもってこいのタイミングだったのかもしれません。まだ数百の白鳥が残っていましたが、彼らも暖かくなっていくにつれて北へ消えていくのだろうと思いました。 その後、七尾西湾の野鳥公園に移動。ハシピロガモやオナカガモ、ヒドリガモなどのカモたちがのんびりと水中の草を食べている姿を観察してきました。 去年来た時にはタゲリという冠羽根のついた緑色の美しい鳥の群れに出会ったのですが、今年はハシピロガモのドナルドダックのような顔が見れたのがハイライトでした。 静かな水面が両方の場所で広がっていて、こころがとても穏やかになる時間でした。金沢にはこの能登というゆったりと時間が流れている空間が隣り合っています。とてもありがたいことだと実感した一日でした。
2016年02月14日
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火星への探査が進んでいるようです。火星に人が到達するということも生きている間に見られるのかもしれません。 それにしてもなぜ月に恒久的な基地が建設されないのだろうと思います。月は唯一の衛星ですし、宇宙への橋頭保としては格好の位置にあると思うのですが。アポロ計画以降忘れられたかのようにひっそりとしています。噂では月の裏側に秘密の基地が作られているとかなんとか言われていますが、あくまでも憶測でしかありません。 月に基地を設置することは現代の科学技術ならそれほど難しいこととは思えないし、経済的な余裕が地球上の大国にないとしてもなにがしかの動きさえもないのは不思議です。 国際宇宙ステーションは常に話題になっていますが、衛星に科学施設を設置することのほうが重要なように思うのですが間違っているのでしょうか?
2016年02月12日
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この季節になると北海道に行きたくなります。 厳寒期の北海道は独特の美しさがあり、また丹頂鶴の群生は格別の美しさがあります。流氷の海も特別な広がりがあって一度見るともう一度必ず見たくなります。それは魂の記憶の中に厳寒の海洋を流氷の上を渡って大陸からこの国へやってきたときの記憶があるからなのでしょうか?そう思ってしまう感じもします。 学生のころに二期厳寒期の北海道を撮影旅行で列車で回りました。学割と周遊券を使うと四割引きで列車が利用できたのです。あの時の北海道をもう一度体験したいと思ってしまいます。 あの頃の青函連絡船には石川さゆりさんの津軽海峡冬景色が流れていました。全くあの歌の心象風景そのままの実景だったことも覚えています。霧の中から現れてくる函館の町の美しさも思い出します。 北陸の寒さとはまた別格に違う北海道の寒さが懐かしく思い出されます。
2016年02月10日
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これは大学の時に随分とお世話になった数学の定義の名前です。定義ではなくて周波数を変換するときに使う数学の公式のようなものと言えばいいでしょうか。 もともと文科系の頭しか持っていない私が理数系の大学の工学部などに潜り込んだものですから、こういう線形数学やら微積分には相当悩まされました。今でも時々夢の中で悩まされる時があります。 私が大学を卒業した当時は就職氷河期で、とんでもなく就職難で苦労したものです。こういう数学で悩まされましたが、今考えると工学部で学んだ勉強への取り組み方というのは一生役に立つものだったように思います。大学というのは「学ぶ方法」を学ぶ場所なのだなと思ったものでした。
2016年02月08日
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先日「氣素」というものについて書いてみました。ぼんやりと氣のことや霊界のことを考えているうちに何となく思っていたことを形にしてみようかなと思いました。 氣素というのは本質的には人が「存在感」として感じるもののように思いますが、「動き」というものはあまりないように思います。では生命を感じさせる「動き」というものは何が生じさせているのだろうと思うと「脈」というものが気になります。 地脈、水脈、血脈、そして霊脈・・・様々な流れを本質的に生じせしめているものは何なのか?私は「霊流子」という粒子性と波動性を持った電子のような存在があるのではないかと思います。これが氣素を動かすことでエネルギーや生命の流れとなり「脈」というものが生まれているのではないかと思ったのです。 霊流子は光子に近い存在なのではないかと思っています。神話の中で最初に生まれたものが「光」であったというのは霊流子の変化・・・つまり光子への変化を言ったのではないかと感じています。 氣科学とでも呼べるような体系的なお話になっていけば、なんだか新興宗教のようになるのであんまりこういう話は深く考えずにのんびりと感じていこうかと思っています。期待なさらずにお待ちください。
2016年02月06日
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カッパ大捜索などという企画が入ったテレビ番組を見ていて、そんなものが見つかるはずがないと思ってしまいました。 少なくともテレビカメラに映るようなものは決して本物の妖怪や幽霊ではないと思っています。それはそういう霊的な存在がすべて「氣素」とでも呼ぶようなもので出来ていると思っているからです。 氣というものを私は生命の素だと思っています。植物にも動物にも無機物にさえも氣というものは宿ります。存在感というようなものを感じるというのは人が「氣」というものを感じ取っているからだと思っています。存在感のようなものを感じ無くなればそれは「氣素」とでもいうようなものが抜けていった証だと考えています。 カッパや妖怪の類はその土地の持つ「氣素」が寄り集まったもの。どういう原因で寄り集まるかは気象条件やそのあたりに住んでいる人たちの群集心理の状態や土地が持つ独特の氣に対する条件などで決まるのだろうと思っています。 昔の人はそういう自然界の独特の氣の集合体を感じ取る力が強く鋭かったのだと思います。そしてそれを表現する力も強かった。それが妖怪や幽霊、そして霊場・聖地などを作っていったのだろうと思っています。 氣素の集合体・・・それは決してテレビカメラには映らないだろうと思っています。
2016年02月04日
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氣視をさせていただくようになって、神様とのご縁が強くなりました。その関係で氏神様の大切さや産土の神様の意味を知るようになりました。 氏神様というのは自分が住んでいる土地を支配しておられる土地神様のことを言うようですが、子の神様は元々自分と関係の深い神様の系列であることが多いようです。土地の上に暮らしている限りは地脈や地水とは深くかかわって生きているわけで、そこには独特の「縁」というものが生じてきます。 それが氏神様というスピリチュアル・シンボルとなって表れるわけで土地によって生かされていることの証ともなるように思います。 産土の神様は自分が生まれた時の土地の氏神様になるわけで、一説によればその人の生まれてきた役割を表す神様になると言われています。私の場合は八幡宮だったのですが、氣視をするようになってから改めて訪れたりして神様の眷属やらなにやらからその使命について説き聞かせていただくことができ、自分の生涯の役割というものが何となく理解できたものです。 目に見えない存在というのは見えなくて気にしなかったり、気づかない間は何物でもないものですが、気づくとそれはとても大きな深く広い世界を目の前に見せてくださるものなのだと知りました。 氏神様にも産土の神様にも深く感謝したいです。
2016年02月02日
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