全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()
Seigfried Wenzel, The Sin of Sloth. Acedia in Medieval Thought and Literature, The University of North Carolina Press, 1960 著者のウェンゼル(1928-)は、ペンシルヴァニア大学名誉教授で、中世後期の説教や、悪徳に関する研究を多く発表されています。 私の手元には、本書のほかに、次の2冊があります。 ・Medieval Artes Praedicandi. A Synthesis of Scholastic Sermon Structure (Toronto, 2015) ・The Sermons of William Peraldus (Turnhout, 2017) なお前者については、『西洋中世研究』8、2016、291頁に渡部武士氏による紹介文が掲載されています。 さて本書は、ウェンゼルによる主要な研究テーマのうち、悪徳、中でも怠惰acediaを扱った一冊です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― 前書き 第1章 起源 第2章 変容 第3章 スコラ学的分析 第4章 民衆的イメージ 第5章 悪徳の図像 第6章 詩人たち 第7章 怠惰acediaの衰退 附録 A.怠惰acediaと気質 B.ギョーム・ペローによる怠惰acediaの扱い C.怠惰acediaに関する問題 D.怠惰acediaに関する告解 E.ダンテ『地獄篇』の第五の輪 文献略号表 注 刊行史料一覧 被引用写本一覧 主題索引 著者及び著作名索引 ――― 第1章では、七大罪の図式の創始者とされるエウァグリオス・ポンティコスが、怠惰acediaについて最初に十全な説明をしたとし、彼の経歴やacediaの語の歴史をたどります。もともとは砂漠の隠修士にとっての「白昼の悪魔」(白昼夢?)であり、修道士を苦しめる悪徳ということで、修道制との関連が強調されます。(以前紹介した『美徳悪徳大全』でも、大全はもともと修道制との関わりの中で発展したことが強調されていました。)また、大罪の図式を西方に導入したヨハネス・カッシアヌスにより、手仕事とacediaのつながりも論じられ、いわゆる「怠惰」の意味を持つようになります。 第2章は、グレゴリウス大教皇の図式の中にはacediaの代わりにtristitia[悲嘆]があることについて、グレゴリウスは修道的枠組みを超えた一般的なキリスト教社会に関心を有していたのではないか、という興味深い指摘をした後、acediaが眠りや怠惰といった肉体的な罪から、12世紀頃に霊的弱さといった霊的な罪に変容すること、また修道士のみならず俗人にも適用される悪徳となることなどを論じます。 第3章は、神学的な議論の中でacediaがどう論じられていたかを示します。私にはややとっつにくかったですが、acediaに対する美徳として、剛毅や喜びが挙げられること(悲嘆としてのacediaなら喜びが対、怠惰としてなら剛毅が対)、7大罪と7惑星や十戒の対立などについての議論を興味深く読みました。 第4章は、悔悛と悪徳の関係、『聴罪手引書』や説教集などから、acediaの民衆的なイメージを分析します。いろいろ面白い指摘があり、たとえば15世紀のある史料では、「美徳や悪徳についての本が多すぎて、非常に短い人の一生はそれらを読み終える前に終わってしまう」と書かれていることとか、信徒の告解を聴く聴罪司祭は全ての罪を知らなければならないとされていたとか、興味深く読みました。またacediaの特徴として、教会に行きたくない、教会などで無駄話をする、聴罪司祭の助言に従わない、巡礼をしない、家長のacediaとして子育てをきちんとしないなど、いろいろなイメージが紹介されているのも興味深いです。 第5章も同様に面白く読みました。章題はIconographyですが、図版はなく、文献史料に現れるacediaの様々なイメージを分析しています。たとえば、acediaに結びつけられる動物(ロバ、クマ、ブタなど)、病(まひ、足痛風など)、ふるまい(礼拝中に眠る、仕事しない)が紹介されたり、acediaに関する寓意として美徳と悪徳の戦い、悪魔の9人の娘の寓意、巡礼などが指摘されたりと、関心のあるテーマでした。 第6章は流しましたが、ダンテの『神曲』や、『農夫ピアズの夢』などの作品に見られるacediaを分析します。 第7章は、悪徳を分類する様々な図式(肉体・世俗・悪魔の3分法、肉体と霊の2分法など)との関わりを論じたのち、ふたたびこれまで論じてきた流れを通史的に整理し、さらに1500年以降のacediaの運命を略述します。こちらも私の直接の関心テーマではないので、やや流し読みしました。 本書は、悪徳に関する研究書ではほぼ参照されている重要文献ということもあり、いつか読みたいと思っていました。 今回、流し読みした部分もありますが、目を通すことができて良かったです。・西洋史関連(洋書)一覧へ
2018.05.26
コメント(0)
![]()
麻耶雄嵩『貴族探偵対女探偵』 ~集英社文庫、2016年~ 『貴族探偵』の続編の短編集です。高名な探偵の弟子にして、師匠の死後に独り立ちして奮闘している高徳愛香さんが、あの貴族探偵と対決します。5編の短編が収録されています。 それでは、簡単に内容紹介と感想を。 ――― 「白きを見れば」財宝が隠されているという井戸がある、友人の平野紗知のペンションを訪れた愛香だが、件の井戸を見に行ったところ、そこには宿泊者の死体があった…。ペンションへの道で事故があり、警察の到着が遅れる中、愛香は真相を推理することになるが…。 「色に出でにけり」多くの恋人と同時に付き合う玉村依子のもとに、3人の恋人たちが集まった。学者の男は趣味の占いを披露するが、依子の父と再婚した母の間に生まれた子供の占いのとき、男は動揺し、場の空気が変わってしまう。その後、占いをした男が、部屋で死んでいるのが見つかる。アリバイのない恋人の一人に疑いの目が向けられる。 「むべ山風を」愛香が大学での事件を解決した直後、訪問していた研究室の学生が殺されているのが発見された。研究室には帰属探偵も居合わせ、愛香に解決を依頼する。 「幣もとりあへず」愛香は、座敷童子が出るという宿に平野紗知とともに訪れた。願いを叶えたいという男女3人ずつだけが、閉ざされた別館の中で夜を過ごす。翌朝、メンバーの一人が殺されているのが発見された。 「なほあまりある」何者かの依頼により、愛香は富豪が所有する島の別荘を訪れる。そこにはまた貴族探偵がおり、あの玉村依子も滞在していた。そしてそこでも事件は起こる。一夜に、二人が殺されていたのだった。 ――― これは面白かったです。愛香さんの推理に対して、貴族探偵(の使用人たち)が繰り広げる推理ということで、いわゆるどんでん返しがいくつも用意されていて、読み応えがあります。 特に「幣もとりあへず」は印象的でした。こういう趣向は大好きです。 ・ま行の作家一覧へ
2018.05.23
コメント(0)
![]()
佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ―中世の騎士修道会と托鉢修道会―』 ~中公新書、2017年~ 『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』に続く、佐藤彰一先生による修道制の通史の第3巻です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― はじめに 第一章 十字軍遠征と騎士 第二章 騎士修道会の戒律 第三章 国際金融と所領経営―テンプルとホスピタル騎士修道会 第四章 国家としての騎士修道会―ドイツ騎士修道会 第五章 レコンキスタの旗の下に―イベリア半島の騎士修道会 第六章 ヨーロッパの都市化と富の行方―托鉢修道会の出現 第七章 聖フランチェスコの革新 第八章 異端告発と学識者―ドミニコ修道会の役割 第九章 修道院の外で―ベギン派が映すもの おわりに あとがき 参考文献 事項索引 人名索引 ――― 前2作同様、最新の研究成果を踏まえた概説書です。 細かい内容については省略しますが、興味深かった点のみメモしておきます。 騎士修道会、托鉢修道会について、それぞれの内容に入る前に、背景として、前者は十字軍の状況などを、後者は都市の状況などを論じており、きれいな構成だと感じました。特に第六章では、拙ブログでも紹介したアンリ・ピレンヌ(佐々木克巳訳)『中世都市-社会経済史試論-』(創文社、1970年)と、私は未見ですがフルヒュルスト(森本芳樹他訳)『中世都市の形成―北西ヨーロッパ―』(岩波書店、2001年)を比較し、中世都市についての研究の進展が示されており、興味深く読みました。(ピレンヌは「都市の復活」を唱えたのに対し、後者はむしろ連続的な発展を指摘している、といいます。) また、第五章で、イベリア半島の騎士修道会に一章が割かれているのも興味深かったです。良質な修道院(修道会)の概説として、P・ディンツェルバッハー/J・L・ホッグ編(朝倉文市監訳)『修道院文化史事典』(八坂書房、2008年)がありますが、この『事典』でも、イベリア半島の騎士修道会にはほとんどふれられていません。 本書前半は騎士修道会を扱っていますが、参考文献一覧に橋口倫介『騎士団』(近藤出版社、1971年)が挙げられていないのが意外でした。だいぶ古い文献であり、注もない概説書であることが原因でしょうか…。ただ、騎士修道会についての概要をつかむには、『騎士団』は便利な一冊だと思います。 繰り返しになりますが、最新の研究が踏まえられており、参考文献一覧を眺めるだけでも勉強になります。 と、とりとめのないメモになってしまいましたが、このあたりで。 ・西洋史関連(邦語文献)一覧へ
2018.05.19
コメント(0)
![]()
麻耶雄嵩『螢』 ~幻冬舎文庫、2007年~ 麻耶雄嵩さんによるノンシリーズの長編です。 それでは、簡単に内容紹介と感想を。 ――― オカルトスポットなどをめぐるサークル「アキリーズ・クラブ」のメンバー6名が、合宿のため、OBの佐世保の別荘「ファイアフライ館」を訪れる。 この建物は、かつて、有名な作曲家にしてヴァイオリニストの加賀螢司が主であったが、彼が10年前にメンバーの演奏家を殺した場所だった。 クラブの一人、諫早は、恋人のつぐみをジョージという連続殺人犯に殺されていた。その悲しみも癒えない中、合宿に参加するが、その最中に事件が発生する。 館主の佐世保が、何者かに殺害されていた。そして、電話線は切断され、豪雨により帰路も断たれてしまっていた。肝試しの中、第三者の女が存在しているのではないかとの疑いも生じてきたが、クラブのリーダー平戸と、一年生の島原の間では、外部犯と内部犯との意見の食い違いが起こる。 果たして真相は。 ――― これは面白かったです。 若者たちが館を訪れ、クローズド・サークルの中で事件が発生する、という状況設定はよくあるかもしれませんが、とにかく色んな趣向が凝らされています。 読後に(私はネタバレサイトも参考にさせてもらいましたが、真相が分かってから)再読すると、伏線の妙にうならされます。 麻耶雄嵩さんの作品をいろいろと読んできて良かったと、あらためて思いました。 ・ま行の作家一覧へ
2018.05.16
コメント(0)
堀米庸三『ヨーロッパ中世世界の構造』 ~岩波書店、1976年~ 以前紹介した『正統と異端』の著者、堀米庸三先生による、これまた有名な論文集です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― I 一 中世国家の構造 二 マックス・ウェーバーにおける前近代的支配―封建制と家産制― 三 西洋における封建制と国家 II 四 古ゲルマン農制をめぐる諸問題 五 封建制の最盛期とはいつか 六 中世後期における国家権力の形成 七 戦争の意味と目的 八 自由と保護―ランスフリーデ研究の一序論― III 九 グレゴリウス改革と叙任権闘争 一〇 中世秘蹟論争の一争点―ORDINATIO IRRITAの解釈をめぐって― 十一 皇帝権と法王権―カノッサ事件の一考察― あとがきにかえて(石川武・平城照介) ――― 第一部は中世における国家とは何かという理論的考察、第二部は第一部を受けて、その具体的な構造を考察、第三部は聖俗の権力関係を考察する、という構成です。 専門用語をドイツ語などのまま記載し、邦語が当てられていないなど、正直、今の私には理解が難しい部分が多く、大した紹介はできません。(最近は、なるべく日本語を当てるのが主流になってきていると思いますが。) いくつかメモしておきます。 ・「私の家臣の家臣は私の家臣ではない」という言葉がありますが、これはルイ9世治下のフランスにおいて、ギョーム・デュランという人物の法書に見られるということ。 ・「神の面前にあるとの確信こそ中世における裁判の核心をなすものであり、この確信のある限り権利闘争が実力=暴力を以て行われようと平和的方法で行われようと、法的意味における差別も価値の上下も全く存在しえない」との指摘(268頁)。 ・教皇文書において、レオ9世(位1049-1054)にいたるまで、「その紀年をキリスト紀元によらず、ローマ帝国の慣習のままに、専ら皇帝治世年によっていた」との指摘(311頁)。これは意外でした。 ・グレゴリウス大教皇(位590-604)以来、教皇が、自らを「神の僕の中の僕」と表現する言葉があります。これは従来「謙譲による精神的優越」を示すものと一般に理解されてきましたが、なぜへりくだるものが優越しえるのか、という興味深い問題提起がなされます(312頁)。これに対して、中世における自由の観念についての分析を通じて、著者は、「神により近くあるということは、他方、神キリストの本質である無償の愛の実践と同義であり、自由であることは、転じて愛の奉仕となる。キリストにおいてよく人に仕えるものは神に近いものであり、従って自由なのである。「神の僕の中の僕」とはかくて、神に最も近きもの、従ってこの回想の頂点に立つものとなる。」との回答を示しています(315頁)。 単なる個人的なメモとなってしまいましたが、このあたりで。 難解でしたが、なんとか目を通すことができて、良い経験になりました。 ・西洋史関連(邦語文献)一覧へ
2018.05.12
コメント(0)

リン・ハント編(筒井清忠訳)『文化の新しい歴史学』~岩波書店、2000年[1993年]~(Lynn Hunt (ed.), The New Cultural History, University of Carifornia Press, 1989) 文化史の新しい潮流に関する方法論4編と、新しい潮流に棹さす具体的な研究4編が収録された論文集です。 本書の構成は次のとおりです。―――謝辞序論 歴史・文化・テクスト(リン・ハント)第一部 文化史のモデル 第一章 ミシェル・フーコーの文化史(パトリシア・オブライエン) 第二章 E・P・トムスンとナタリー・デーヴィスの著作における群衆・共同体・儀礼(スザンヌ・デザン) 第三章 ローカル・ノレッジ、ローカル・ヒストリー―ギアーツとその後(アレッタ・ビアサック) 第四章 文学・批評・歴史的想像力―ヘイドン・ホワイトとドミニク・ラカプラの文学的挑戦(ロイド・S・クレーマー)第二部 新しいアプローチ 第五章 アメリカのパレード―19世紀における社会秩序の表象(メアリー・ライアン) 第六章 テクスト・印刷物・読書(ロジェ・シャルチエ) 第七章 身体・細部描写・人道主義的物語(トマス・W・ラカー) 第八章 ルネサンス君主の部屋における視覚文化(ランドルフ・スターン)――― 序論は、19世紀末頃から歴史学が社会史に関心を寄せる過程を描き、また本書の概要を示します。ハントによれば、社会史に関心を寄せる二つの大きな流れとして、アナール学派とマルクス主義があります。そして近年の、文化史的アプローチが紹介されます。 第一章は、ミシェル・フーコーの諸著作の概要と、それが研究者にいかに受けとめられてきたか、またその意義を論じます。フーコーにとって、国家、身体、社会などは確固たる対象ではなく、それらは言説である、彼の権力研究では言説が方法論の中心をなしているというあたりを興味深く読みました。 第二章は、二人の著名な歴史家を取り上げ、民衆の歴史へのアプローチを論じます。とりわけ、標題にある儀礼を重視する方法が紹介されます。 第三章は、人類学的アプローチについて。 第四章は、文学批評の観点から、歴史学の叙述のあり方に挑戦する二人の研究者の業績を紹介します。これは今の私には理解できませんでした。 第二部は具体的研究なので、第一部よりとっつきやすいです。 第五章は、近代アメリカのパレードについて、その構成や意味するもの(またその変化)を描きます。時代も地域も私の関心とは異なりますが、興味深く読みました。 第六章は、読書の歴史で有名なロジェ・シャルティエによる論考。従来、テクスト(著者)と読者の直接の関係が研究されていましたが、その間に、出版社や編集者の意向が入る点にも注意する必要がある、という指摘が興味深かったです。一口に「読書の歴史」といっても、多様な問題に配慮すべきことが示されます。 第七章は、特に興味深く読みました。死者たちの身体の状況を丹念に描写し、彼らへの同情を引き起こす「人道主義的物語」が、18-19世紀初頭に生まれる過程を、小説、検屍記録、法廷記録などから、丹念に描いています。また、「自分の指がひっかかれるよりも全世界が崩壊したほうがましだと考えることは理性に反しては」いない、というヒュームの言葉が紹介されていますが、戦争などでの多くの人の死を悼む一方、その中に自分の知り合いがいないことに安堵するという心理を、作家の言葉から明らかにするところも印象的でした。 第八章は、ある城の「夫妻の間」又は「婚礼の間」として知られる部屋の絵画を取り上げ、それらがその部屋でもった効果について論じますが、いまの私には理解が困難で、流し読みしてしまいました。 十分に理解できたとはいえませんが、以前紹介したピーター・バーク編『ニュー・ヒストリーの現在-歴史叙述の新しい展望』とあわせて、いわゆる「新しい歴史学」の様々な方法論にふれられました。 ・西洋史関連(邦訳書)一覧へ
2018.05.02
コメント(2)
全6件 (6件中 1-6件目)
1