全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()
高橋英光『言葉のしくみ―認知言語学のはなし―』 ~北海道大学出版会、2010年~ 言語学関係の本に初挑戦しました。 著者の高橋先生は北海道大学大学院文学研究科教授で、認知言語学や英語学を専門にされています(本書刊行当時)。 本書は、大学での講義をもとに、認知言語学について一般向けに分かりやすく紹介してくれる一冊です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― はじめに 1章 言語についての神話 2章 記号を使う生物 3章 意味とはどこにあるのか 4章 「明けの明星」と「宵の明星」と「金星」 5章 カテゴリー 6章 メタファー 7章 メトニミーとシネクドキー 8章 動詞(だけ)の絵は描けない 9章 文は舞台である。主語、目的語は役者である。 10章 語順と文法 11章 談話の首尾一貫性 あとがき 参考文献 索引 ――― 興味深かった点を中心にメモしておきます。 1章では、「日本語はむずかしい」「世界には文法のない言語がある」などの「神話」について、回答を示します。例示した後者については、正解は×。文法がないということは、語彙をどのように使っても「誤り」がない、ということになり、「麻美は優しい猫が好き」と言いたいときに「好きだ麻美猫優しい」と言っても通じることになります。文法のない言語はありえない、というのですね。ちなみに、世界には約6900の言語があるそうです。 2章では、言語は記号の一種であり、「語彙と文法」からなること、文法はある程度恣意的ですが、「子供たちが家に戻った」は良くても「子供が家に戻ったたち」はダメなように、「たち」は子供とくっついている必要があるという、ある程度の隣接性の原則があることなどが示されます。 3章は、伝統的な言語学に対して、意味とは心理現象であるという、認知言語学のアプローチからの知見を示します。 4章は、金星は宵の明星とも言いますが、宇宙空間でその星を「宵の明星」と表現するのはおかしい、つまりほぼ同じ対象を指すのに言い方ができるけれど、それはフレームによる必要がある、といいます。フレームとは、「ある言葉が依存する背景的知識構造」です。たとえば同じ時間を一日の始まりを見るか終わりと見るかで、「明日は0時から山に登る」と「今日は24時までバイトだ」と使い分ける、というのですね。 5章は、言葉の2つの機能(外面機能=他者とのコミュニケーション、内面機能=世界認識など)のうち、内面機能に関わるカテゴリー化に焦点をあてます。柴犬もチワワも「犬」とカテゴリーして認識する、ということです。人の認知機能は限られているので、多様なモノを分類する必要がある、といいます。一方、それは個々の個性を無視する認知作業でもあります。「人間という語彙のおかげで、わたちたちは個々の人を詳細に観察しないともいえる」というのですね。またカテゴリーには典型があり、たとえば「鳥」という言葉から連想しやすいスズメなどは典型、ダチョウは非典型的だといいます。 6章、7章では、比喩表現を扱います。ある認知領域から他の認知領域に意味を転移するのがメタファー(例:「芸術は爆発だ」。芸術は爆発ではないが、類似性がある。「芸術」と「爆発」は異なる認知領域にある。)、隣接に基づく意味の転移(やかんが沸いている)、部分から全体への意味の転移(頭を下げる=お辞儀する)、全体から部分への意味の転移(電話をとる=受話器をとる)の3つがメトニミー(換喩法)、上位概念から下位概念、または下位概念から上位概念への意味の転移(花見をする=桜を見る、ご飯を食べる=食事する)がシネクドキー(提喩法)です。 8章は名詞と動詞の定義、9章は主語と目的語についての分析です。9章では、「日本語はあらゆる場面で主語を省略できる」という誤解を指摘し、「復元不可能な項を省いてはならない」という大原則を指摘します。つまり、「言わないと分からないことは言わないといけない」は全ての言語にあてはまり、「言わなくても分かることは省略できる」は全ての言語にあてはまるわけではない、といいます。前者については、「誰がこんなこと考えたの?」に対して、主語を省略して「考えた」と答えると奇妙です。後者については、「好きだ」と言えば話者が相手を好きなのが分かりますが、英語では「Like」だけでは通じず、「I like you」と言わないといけない、ということです。なお、本書では「主語なし文は物事を曖昧にする日本人の国民性の表れ」という説を上記の説明から批判しますが、逆に、日本語という言語が、日本人の国民性に影響を与えているとはいえないのか、という点には触れられておらず、気になるところです。(もっとも、主語なし文が可能な韓国語と比較し、韓国の人々は曖昧さを好む人々ではないことが指摘されていますが。) 10章では、日本語のようなSOV型も、英語のようなSVO型も、世界の言語からいえば標準的な語順であること、それぞれの型により後置詞型か前置詞型になりやすい、といったことなどが指摘されます。 11章は、複数の文からなる「談話」に必要な首尾一貫性が指摘されます。無秩序な文の羅列は意味をなさない、というのですね。 以上、ごく簡単にメモしましたが、とても面白かったです。例も豊富で(単純に笑える例も多くありました)、分かりやすい文章で、ふだん馴染みのない分野ですが楽しく最後まで読めました。 良い読書体験でした。 ・その他教養一覧へ
2018.11.23
コメント(2)
Jussi Hanska, Strategies of Sanity and Survival. Religious Responses to Natural Disasters in the Middle Ages, Finnish Literature Society, Helsinki, 2002. 以前紹介したJussi Hanska, “And the Rich Man also died; and He was buried in Hell” The Social Ethos in Mendicant Sermons, Helsinki, 1997に続く、ジュシ・ハンスカの単著です。(英語で刊行されている単著としては、現時点でおそらくこの2冊のみです。)ハンスカのごく簡単な略歴やその他の論文については、上記著作についての記事をご参照ください。 本書は、中世説教を専門に研究する著者が、その他の史料も駆使しながら、中世の人々がいかに自然災害に向き合ったかを論じた興味深い一冊です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― 謝辞 序論 第1章 背景 第2章 神の保護を求めて 第3章 災禍のとき 第4章 余波―自然災害への説明と生存― 第5章 エピローグ―長い中世― 結論 付録1 付録2 参考文献 人名・地名索引 事項索引 ――― 序論は(1)本書の目的、(2)(本書での)災害の定義、(3)3つの課題とアプローチ、(4)本書の構成を示します。(1)本書の目的は、中世の人々が自然災害と戦い、それを生き延び、またそれを説明するための手段として宗教をいかに用いたかを明らかにすることです。(2)ペストについては多くの研究がなされていますが、ヨーロッパ全体をおそった災害だけでなく、特定の地域に局所的にあった様々な自然災害(地震、洪水、干ばつなど)を対象にします。(3)主要な三つの問題は、災害から身を守るための方法、切迫した危険への対応方法、自然災害後にいかに生き延びるか、の三点です。これらについて、本書では集団的対応と個人的対応の、大きく二つの観点から分析します。 第1章は、研究史、中世全体での災害の状況の概観などを示します。興味深い点をメモしておきます。まず、こんにち、我々が(ニュースなどで)災害を眼にするのは、重大な災害が主ですが、経済的損失や人命に関わる災害は、日々(どこかで)発生している、ということが確認されます(p.15)。また、中世において[現代にも通じるかもしれませんが]、人々の全ての世代が、少なくとも一度は重大な自然災害を経験していることが確認されます(p.18)。本章は、先行研究がペスト研究に重点を置きすぎており、その他の自然災害に十分な注意を払っていないことを強調します。これに関連し、史料の中の「過去最悪の災害」という表現は、こんにち的意味ではなく、記述者の記憶の範囲での「過去最悪」であるという興味深い指摘がなされます(p.21)。また、心性史家にとっては、災害が実際にどうであったかということより、それがいかに解釈され、いかなる反応を起こしたかの方が重要であることも指摘されます(p.22)。 本書で用いられる主な史料は、年代記、災害説教catastrophe sermon、典礼などであることも本章で示され、それらの性格が簡単に紹介されます。本書の特徴は、先行研究のない災害説教を主な史料として用いていることで、それらは実際の災害に際して作られたものと、そうではないが範例説教model sermonとして使えるように作られたものがあることなども示されます。 第2章は大きく3節からなります。第1節は、災害を防ぐために行われた様々な儀礼(魔術、行列、作物を守るため畑に十字架を設ける儀礼など)を紹介します。第2節は、守護聖人の重要性を示します。第3節は、中世にも自然災害に対する理性的な見方はあったことを示します。とはいえ、中世において強調されるのは霊的、超自然的な見方(手段)でした。 第3章は、災害の最中になされた対応として、大きく集団的対応と個人的対応を示します。前者として、行列、災害説教、随意ミサの三つ、後者として悔悛などがあります。行列は、初期中世から近世まで、自然災害への対抗手段として用いられました。災害説教については、説教の史料論にも踏み込みながら、詳細な分析がなされます。説教一般については、著名な説教師が招かれることもありますが、災害説教については、緊急の対応が必要なため、地方の聖職者が担ったといいます。また、災害説教として残されている史料は少ないですが、同一の主題や内容をもつ祈願祭説教(こちらは範例説教として多く残されています)も、災害説教として使用可能であったことなど、興味深い指摘がなされます。随意ミサについてはメモを省略します。個人的対応としては、逃げる、施しを行う、祈りを唱えたり守護聖人の保護を求めたりする、などの方法が紹介されます。 第4章は、災害後に、災害についてどのような説明がなされたか、また人々がどのような行動をとったかを示します。説明は、(1)スケープゴート・政治的説明、(2)科学的説明(しかし、同時に神の怒りといった説明もなされることが多い)、(3)黙示的説明、(4)神の仲介という説明(神からの罰という見方の一方、神からの慈悲=来世での救済といった見方も)の、大きく4つに分類されます。また、聖職者による司牧とその効果についての分析もなされます。 第5章のエピローグは、ル・ゴフの提唱する「長い中世」概念をもとに、中世以降の自然災害への対応を概観し、近世にも、中世的説明が続いていたことを示します。すなわち、自然災害に対する心性については、「長い中世」概念が妥当することが示されます。 結論は、本書の内容の整理となっています。 付録では、災害説教について、時代ごとの数の分布や修道会ごとの数の分布などの統計が示され、さらに災害説教のサンプル(ラテン語のため現時点では読むのは省略しました)も紹介されており、充実しています。 たいへん興味深い内容の一冊でした。・西洋史関連(洋書)一覧へ
2018.11.18
コメント(0)
![]()
ミシェル・パストゥロー(蔵持不三也・城谷民世訳)『赤の歴史文化図鑑』 ~原書房、2018年~ (Michel Pastoureau, Rouge. Histoire d’une couleur, Éditions du Seuil, Paris, 2016) ミシェル・パストゥローの、青、黒、緑に続く「色の歴史」シリーズ第4弾です。黒と緑は邦訳は未完で英訳で読みましたが、赤は英訳にとりかかる前に邦訳が出たので、邦訳版で読みました。 本書の構成は次のとおりです。(章番号はのぽねこ補足、節見出しは省略。) ――― 序文 [第1章]原初の色(始原から古代末期まで) [第2章]好まれる色(6-14世紀) [第3章]異議を申し立てられた色(14-17世紀) [第4章]危険な色?(18-21世紀) 原注 参考文献 謝辞 訳者あとがき ――― 火と血のイメージをもつ赤は、まずその強烈さで他の色にぬきんでいること、枢機卿や教皇もまとう高貴な色である一方、地獄を想起させる邪悪な色であり、たとえば裏切り者のユダが赤毛で描かれること、日常生活では化粧などの中で重要な役割を担っていることなど、原初から現代までの赤の歴史を、本書はその多面性や他の色との関係性から論じます。 面白かった点をメモしておきます。 プレスター・ジョン(池上俊一『狼男伝説』、逸名作家(池上俊一訳)『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』の記事を参照)の想像上の紋章が紹介されていること。金の地に赤いフタコブラクダです(76頁)。 7つの大罪と色彩の結びつきが指摘されていること。赤は、高慢、憤怒、色欲、ときに貪欲と、4つの大罪に結びつけられている、といいます。貪欲は緑、嫉妬は黄色、残る怠惰には特定の色は結びつけられなかった(赤、黄色、まれに青)そうです。(98頁) レンブラントの有名な絵画、「夜警」(訳注によれば、本来の題名は「フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊」)は、「ビチュームの透明絵の具が変色して黒ずんだため、夜の情景を描いたと信じられていたが、本当はそうではなく、じつは昼間の情景だった」(114-115頁)との指摘。ウィキペディアでもそのように説明されているので、あるいは有名なことなのかもしれませんが、私は初耳でした。せっかく面白い指摘なのに、典拠がないのが残念。 さいごに、ミシェル・パストゥローの近刊として、Qu’est ce que la couleur? Trois essais en quete d’une definition[『色とは何か?定義に関する三つの試論』:のぽねこ拙訳]という著作が予定されているとのこと。(198頁注1) 本訳書の残念だったところは、まず邦題。本書は、「図鑑」からイメージされる書物ではないような気がします。青が筑摩書房から『青の歴史』のタイトルで刊行されているので、あえて『赤の歴史』としなかったのだろうと想像しますが…。 また、訳者あとがきに著者の多くの著作リスト(邦訳がないものも、原題、出版社、出版年、タイトルの試訳を示す。ただし全ての著作は網羅していません)があってとても有用なのですが、一点、Pierre n’a plus peur du noirが『石はもはや黒を恐れない』と訳されてしまっていること。これは、2018年に『ピエールくんは黒がすき!』のタイトルで邦訳も刊行されているパストゥローによる初の絵本です。ですので、Pierreは一般名詞の「石」ではなく、固有名詞の「ピエール」とするのが正しいですね。 この著作リストについていえば、邦訳が刊行されている著作については邦訳のタイトル、訳者、出版社、出版年も示してくれていてとても便利なのですが、一点、邦訳があるにもかかわらず示されていない著作があります。(Le petit livres des couleurs:松村恵理/松村剛訳『色をめぐる対話』柊風舎、2007年)。 一方、本訳書の素晴らしいところは、『青の歴史』(筑摩書房)とは異なり、全ての図版がカラーであること。色彩を扱う書籍ということで、これは重要な点と思います。原著は未見ですが、少なくともレイアウトは英訳と同様で、本文と関連する図版がそばに配置されているのもありがたいです。 固有名詞など、適宜訳注が挿入されていて、理解も助けられます。 全体として読みやすく、丁寧に作られている邦訳書だと思います。個人的には英訳ではなく日本語で読めたので、圧倒的に読書時間が短縮できたのもありがたかったです。 ・西洋史関連(邦訳文献)一覧へ
2018.11.13
コメント(0)
![]()
ミシェル・パストゥロー(文)/ローランス・ル・ショー(絵)(松村恵理訳)『ピエールくんは黒がすき!』 ~白水社、2018年~ (Michel Pastoureau, Laurence Le Chau, Pierre n’a plus peur du noir, Éditions Privat, 2016) このブログで何度も紹介している、ミシェル・パストゥローによる初の絵本(の邦訳)です。 我が国でも、池上俊一先生が絵本を2冊刊行されています(『カエサルくんとカレンダー―2月はどうしてみじかいの?―』と、『カエサルくんと本のおはなし』)が、このように研究対象や知見を子どもたちにも分かりやすく、あるいは子どものうちからふれさせられるのはとてもありがたいことと思います。 本書は、紋章、色彩、動植物などの歴史を専門に研究しているミシェル・パストゥローが、色をテーマに取り上げた絵本です。 黒が苦手なピエールくんですが、授業で青髭の話を聞いたり、おじいちゃんとカラスを見たり、お父さんとピエール・スーラージュの展覧会を観に行ったりする中で、次第に思いが変わっていく…というお話。(原題を直訳すれば、『ピエールくんは、黒はもう怖くない』です。) 面白いのは、その心変わりは決して大人から押しつけられたものではない、ということ。ピエールくんは黒が大嫌いで、お母さんにもお父さんにも強く主張し、反抗もしていました。「黒がすき!」になるのは、自分でいろんなものにふれ、自分で考えた結果なのです。中でも、おじいちゃんとカラスを見るシーンは印象的でした。 ル・ショーの絵もかわいく、素敵です。 訳者の松村恵理先生は、すでに何冊かのミシェル・パストゥローの邦訳書に携わっていらっしゃり、本書の訳もとても読みやすいです。 松村先生もあとがきでふれられていますが、本書の原著は人気になったようで、赤をテーマにした続編も刊行されています。フランスアマゾンで検索したところ、2018年9月には青をテーマにした3作目の絵本も刊行されるようです。2作目以降も邦訳が刊行されることを祈ります。 ・西洋史関連(邦訳書)一覧へ
2018.11.07
コメント(0)
![]()
二宮宏之・樺山紘一・福井憲彦編『叢書・歴史を拓く―『アナール』論文選4 都市空間の解剖(新版)』 ~藤原書店、2011年~ 『アナール』論文選第4巻、シリーズ最終巻です。 本書の構成は次のとおりです。 ――― 新版刊行に寄せて(福井憲彦) 解説 近代生成史から都市空間の解剖へ(福井憲彦) Ⅰ.都市をみる眼(フランソワーズ・ショエ、福井憲彦訳) Ⅱ.中世フランスにおける托鉢修道会と都市化(ジャック・ル=ゴフ、江川温訳) Ⅲ.十八世紀における社会関係と都市(ジャン=クロード・ペロー、工藤光一・二宮宏之訳) Ⅳ.十八世紀パリにおける暴力の舞台(アルレット・ファルジュ/アンドレ・ズィスベール、福井憲彦訳) Ⅴ.パリの読書クラブ(フランソワーズ・パラン、山田登世子訳) コメント 十八世紀、江戸の都市空間 文献目録 図版出典一覧 ――― 解説では、過去には「近代性の母体としての都市、およびそういうものとしての都市の起源・変遷」として研究されてきた都市史への、新しい研究アプローチを、本書所収の論文も位置づけながら整理しており、有益です。都市は一般的定義は不可能な、ポリエードル(多面体)である、という点を明確にし、地域的ネットワークや社会集団などのキーワードから整理していきます。 第一論文は、都市計画と歴史の関係を探ります。この論文で興味深かったのは、1867年に『都市化の一般理論』という著作を刊行したイルデフォンソ・セルダという人物の思想です。マドリードの橋梁技師で、バルセローナ拡大の計画立案・実行者として知られる彼は、「産業革命によって導入された急激な変容のグローバルな性格を感じとり、その他の社会諸構造との共時的関係のなかで都市空間を考える必要性を、感じ取っている。……都市構造と交通の構造との相関関係をうちたてた、最初の人」であり、「まさにこの直感的な知覚から…都市計画の方法のなかに歴史をくみこんで」いった人物と評価されています(44-45頁)。 第二論文は、著名な中世史家ジャック・ル・ゴフの、有名な論文の一つで、中世都市の都市化の判定基準として、都市を志向した托鉢修道会の修道院の設置状況を設定してはどうか、という試みです。フランシスコ会のボナヴェントゥラは、都市を志向する理由として、「人間の教化」、「食物の乏しさ」、「防護」の3つを挙げます。またドミニコ会のアンベール・ド・ロマンは、「都市人口の多さから都市で説教をすることが効率的」、「都市の道徳観念が相対的に低下していることから都市での説教の必要性が高い」、「都市を通じて農村に影響を与えられる」、という3つの理由を挙げます。また本論は、これらの理由から都市に進出した托鉢修道会の修道院の分布状況を丹念に分析し、フランシスコ会とドミニコ会の都市選択の基準の相違などを指摘します。 第三論文は、都市内の多様な社会集団とその関係を論じます。 第四論文は、18世紀パリにおける暴力の諸相を描きます。冒頭から、裁判記録の中で、殺人・暴力の件数はどんどん減少し、18世紀には窃盗や詐欺の件数の割合が増加する、「流血の犯罪から所有の犯罪へ、という移行」があったとの興味深い指摘がなされます。その理由として、パリの警察機構の発達が挙げられ(裁判になる前に警察が介入して解決する)、そこで警察機構による人々への暴力、逆に民衆から警察機構への暴力といったテーマが論じられます。さらに、家庭内の暴力、居酒屋での暴力など、いろんな場所・場面や関係性ごとの暴力を論じます。パリにおける暴力の発生場所や、被害者、加害者の家を示した地図も掲載されており、興味深いです。 第五論文は、パリの読書クラブについて、その場所や、場所ごとの性格の相違などを論じており、こちらも個人的にはなじみのないテーマでしたが興味深く読みました。・西洋史関連(邦語文献)一覧へ
2018.11.02
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1


