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昨日投開票の山形知事選挙。現職の吉村知事が5選を果たしたが、投票率は過去最低の39.67%だった。従来の最低は2001年の48.81%なので、だいぶ下がった形だ。前回(62.94)と比べると実に23ポイント以上も下回っている。もっとも、今回の選挙は事実上無風(メディア表現では信任投票)で、前回対立候補を擁した自民も含め、共産党までのオール与党体制。投票行動を駆り立てる要素がなかったこともあろう。それにしても、以前は連続して現職が敗れる結果が続き、吉村知事になって逆に無投票も続き、前回(令和元年)は久々の対立構造で投票率も盛り返した。・今回(2025年) 39.67(%、以下省略)・前回(2021年) 62.94 ←吉村400,374 大内りか160,081・2017年 無投票・2013年 無投票・2009年 65.51 ←吉村320,324 さいとう弘309.612・2005年 59.32 ←さいとう弘275,455 高橋和雄270,978 本間和也30,877宮城県知事選挙の投票率は、昭和27年の76.66%が最高。最低は平成25年(2013、村井三選)の36.58%で、その後2度の知事選は衆院と同期日もあって50%台だ。仙台市長選挙は平成25年(2013、奥山二選)に30.11%と当時最低を記録したが、令和3年(2021、郡二選)はついに30%を切り、29.09%となった。
2025.01.27
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山形県の機械工業の原点とされるミシン工業に技術的貢献を果たしたのが、原田好太郎である。■岩本由輝『東北開発人物史』刀水書房、1998年 から(適宜、当ジャーナルで要約・再構成しています。)1 職人から出てきた技術者原田好太郎の貢献は、地域の工業近代化を技術的に支えたことにあるが、大発明や大発見ということでなく、地域において江戸時代から内在的に蓄積された伝統的な技術を継承しながら、新たなものを加えて時々の地域経済を振興した意義がある。日本の各地にそうした人物がいたが、好太郎もそのひとりである。ただし、好太郎(明治28年山形市生まれ)は小学校を途中でやめて木工職人の徒弟となり、その技術をベースに独学で機械製造業への道を開拓した。少なくとも輸入技術の直接の影響はない。とかく日本の近代化は欧米由来の技術で進められたと思われるが、好太郎のように、高い水準の日本の伝統技術を持って、輸入技術を自分のものとして使いこなせる人間がいたことは見落とされてきた。2 独立するまで明治28年生まれ。原田家は山形城下鉄砲町にある天台宗の宝光院の寺侍を代々務めていた。しかし、維新後、寺は朱印状による禄高を失い、祖父が失業。貧しい時期であったようだ。好太郎は10歳で山形市立第二小学校に入学(実年齢では4年遅い)、明治40年に3年で中退し、すぐ山形市八日町の和田金蔵という木工織機製造の親方に徒弟奉公する。当時、若いほど技術が身につくとされ、12歳の徒弟は珍しくなかった。好太郎は、大正7年、23歳まで親方に奉公。大正8年から2年間兵役(歩兵32連隊)。大正11年東京に出て、はじめ徳岡という木型屋、間もなく中村という木型屋に勤めている。かつて職人は一人の親方の下で修業を終えて給料をもらう身になっても、さらに技術を身に着けるために旅修行をしたのだ。好太郎が木製織機製造の親方から独立して、木工の技術を生かせる木型屋に進んだことの意味は重要である。和田のところは織機を金属で作るには至らず未だ木製の段階だったが、当時の日本は機械を機械で作る段階に移行する時期だった。職人が親方から独立する場合、仕事を食い合わないよう別の土地でやるか仕事を別にすることが有るが、好太郎の場合は、そうした事情というよりは、木製織機を製造する仕事がすでに時代遅れと判断して、山形市の鋳造業界に習得した木工技術を生かして参入するつもりで、自ら積極的に木型屋を選択したのだろう。3 木型屋、東京進出、部品生産から完成品メーカーを目指す大正12年、父芳蔵が亡くなって好太郎は山形に戻り、宮町で木型屋を開設する。好太郎が参入したのは、鉄瓶などの伝統鋳物ではなく、汎用鋳物ともいわれる近代的な機械鋳物だった。昭和2年に弟健次郎とともに原田鋳物工場を開設して、米沢市の帝国人造絹糸製造株式会社(のちの帝人)の注文で人絹やステーブルファイバー(スフ)の製造機械を生産していた五百川鉄工所(山形市)の下請けとして、機械鋳物により製造機械の部品生産を行うことになる。しかし、金融恐慌で帝人の親会社である鈴木商店が倒産。米沢工場が撤収となったため、五百川鉄工所からの注文がなくなり、好太郎は東京市場からの部品注文によって、金融恐慌とそれに次ぐ世界恐慌の波を切り抜ける。原田鋳物工場の作る部品の評判は高く、昭和9年、好太郎は東京に進出を決意し、蒲田に旭鋳造所という鋳物工場を開設した。好太郎は、恐慌の経験により部品メーカーの危うさから、アセンブリー(加工組立)として完成品メーカーとなることを念願していたが、当面は部品メーカーから脱せないので、注文の多い東京に出るのが得策と判断したのだ。しかし、東京に出た結果、下請けながらミシン工業とつながりができた。旭鋳造所は、幸先よく、帝国ミシン株式会社(銘柄はパインミシン。のちの蛇の目ミシン)の協力工場として鋳物部品を供給できた。そして、昭和10年、旭鋳造所に機械工場を作る。昭和12年には経理顧問として平木信二(戦後にリッカー・ミシンを始めた人)を迎える。昭和13年になると、帝国ミシンからミシン・テーブルの注文を受けるが、木工職人として本格的な修行をした好太郎が一番得意にやれる仕事だったろう。まだミシン完成品メーカーではないが、ミシンの鋳造部品、機械部品、テーブルの生産を行ったことで、念願の完成品メーカーの見通しができたのではないだろうか。4 山形の地域経済を牽引この間、好太郎は山形市についてもおろそかにせず、昭和13年に山形電鋼株式会社の設立にかかわる。企業グループの形成を意図したと思われる。翌14年には山形市円応寺にあった昭和セメント株式会社を買収して、ブリキのスクラップを原料に再製鉄の生産を始める(のちに株式会社原田鋳造所)。昭和15年、帝国ミシンが旭鋳造所の鋳物工場と機械工場を買収する一方で、個人企業だった原田鋳物工場を帝国ミシンとの折半出資(資本金40万円)で株式会社原田製作所に改組した。原田製作所の社長には帝国ミシン専務の小瀬与作が就き、好太郎は専務となった。このとき、戦時統制下で株式会社設立に日銀の承認が必要で、はじめ資本金50万円の設立を申請して却下されたので、好太郎は山形県出身の日銀総裁結城豊太郎を動かして発足にこぎつけたといわれる。日米開戦後は平和産業のミシン製造から軍需生産に転換が求められたが、金属欠乏で海軍から命じられた木製プロペラで仕事は継続した。ミシンのテーブルづくりの技術の転用だが、好太郎の木工職人としての原点に関わるものだった。木製プロペラは横浜市の日本飛行機株式会社に納められたが、間もなく同社は山形市に疎開工場を作り、県内工場からプロペラのみならず機体全体の部品調達を行うようになる。木製飛行機が実際に飛んだかわからないが、木製のプロペラや機体を製造する技術が、敗戦後に山形県の木工家具生産の技術につながる副産物を生んだのだ。グッドデザイン賞などで著名な天童木工株式会社は、かつて日本飛行機に関係した技術者たちが戦後創設したものである。5 ハッピーグループの形成敗戦により日本飛行機のような軍需だけの会社はなくなり、疎開工場はほとんど山形から去っていく。好太郎は、原田製作所を軸にグループ再編成に向かうのだが、単なる再編ではなく、疎開工場で山形に残ろうとするものを含めて、それまでの部品メーカーから脱して完成品メーカー構築をめざしたのだった。昭和21年4月15日、原田製作所はついに完成品のミシン第1号を作り、ハッピーミシンの銘柄で売り出す。また同年には山形電鋼株式会社を再設立して、ミシン部品を供給させるグループに加えた。しかし、部品メーカーであったときの経験から、傘下の工場には、原田製作所だけに供給させず、積極的に他のメーカーにも納めさせた。競合ミシンメーカーだけでなく、ミシン以外のメーカーからの受注も促進させたのが特徴だが、そこには、五百川鉄工所から機械部品の注文を受け喜びも束の間、親会社倒産で注文が途切れた好太郎の苦い経験があったから、単用部品でなく汎用部品メーカーの方向を参加工場に勧めたのだった。こうして、ハッピーグループの部品メーカーは、全国の業界から「部品山形」の評判をとるほどに汎用部品製造の能力を発揮することとなった。6 ミシン市場ミシンは、タンス、長持ちに替わり欠かせない嫁入り道具とされ、重要な市場だったが、それまで部品メーカーで商品販売の経験がない原田製作所が、自社ブランドを消費者に買ってもらうのは困難であった。かつての納入先の帝国ミシン(蛇の目ミシン)、旭鋳造所で経理顧問をした平木信二(リッカーミシン)と、激しい競争となった。昭和21年5月、ハッピー・ミシン販売株式会社を設立。最初は特約店方式をとったが、特約店との関係が円滑でなかったようだ。蛇の目ミシンは直売方式で伝統的な月賦販売を採用しており、ハッピーもまもなくこの方式をとる。日本で長い歴史を持つ月賦販売で、いずれのミシンメーカーも大いに販売を伸ばしたのだった。好太郎は、こんどはミシンを使う人を作り出す必要を考え、昭和22年、原田高等洋裁学院を開設。他方で、敗戦国日本が本格的に貿易を行えるのは昭和24年だが、好太郎はそれ以前から米国にミシン輸出を行っており、これが日本のメーカーの中でハッピーの製品輸出率が高い背景である。安定的に米国市場に輸出するため、好太郎は昭和23年に東北精機株式会社をつくり、高質の部品を供給させるとともに、他社からも積極的に受注させ、「部品山形」の評価の大きな要因となった。しかし、昭和24年IMF加入(1ドル360円の固定レート)でフロアープライス(商品ごとのレートでミシンは500円程度)が撤廃された衝撃が大きく、経営の曲がり角を迎えた。7 労働争議と好太郎の晩年好太郎は経営引き締めで対応したが、それが原田騒動とも呼ばれる一大労働争議「ハッピー争議」を惹起する。山形県の労働運動史をみると、仁丹体温計株式会社山形工場、株式会社鉄興社、合名会社宮崎芸能社の映画館が、大争議とされるが、ハッピーもこれと並ぶものであった。しかし、根っからの職人である好太郎は労働運動をほとんど理解できないまま否応なしに対応し争議をこじらせた面もあった。このころ、原田製作所は都市対抗野球に強力なチームを出場させ、ストライキで野球どころではあるまいと取り沙汰されても、好太郎は野球だけなやめられないと頑張ったと伝えられている。とにかくストが多かった。昭和28年、原田製作所は社名をハッピー・ミシン製造株式会社(現ハッピー工業株式会社)とし、そのころから好太郎は体調を崩す。昭和29年7月に大手術、30年9月1日に満60歳で亡くなった。やり残したことが、いろいろと多かったであろう。(以下、おだずまジャーナル補足)ハッピージャパンのサイトの沿革を読むと、1953年(昭和28)ハッピーミシン製造株式会社と名称を変更。1978年台湾に現地会社を開設し、操業開始。1985年、ハッピー工業株式会社に変更。90年代はシンガーミシンのブランドで供給を開始し、2000年同社の国内独占販売権を取得して今日に至る。2014年には、東北精機工業株式会社、株式会社シンガーハッピージャパンと統合し、株式会社ハッピージャパンと称する。2017年タイ工場で量産開始。2021年には、20年ぶりの自社ブランドミシン(mycrie)を販売開始。2023年には創業100周年、とある。■関連する過去の記事(岩本由輝さん著作をもとにしたもの。他にもあったかも) 東北開発の具体像(2023年04月06日) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 仙台藩の経済と財政を考える(5) 升屋と中井(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(4) 藩財政の構造と御用商人(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日) 鮎川と鯨の歴史(2011年1月29日)
2025.01.25
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交通事故件数についてのニュースがあった。■警察庁報道発表資料(1月8日) 令和6年中の交通事故死者数について全国では交通事故発生件数が290,792件(速報値)ではじめて30万件を下回った。また、死者は2,663人で、前年より15人減少し、(1948年以降)過去3番目に少ない。死者のうち65歳以上が1,513人で6割弱に達するが、前年より47人増えており、2015年以来の増加である。宮城県では、事故数が3,785件で(現統計となった1965年以降で)過去最低。けが人は4,565人。件数、けが人数ともにこの10年間で半数以下に減った。死者数は47人で前年同数。死者のうち、高齢者(65歳以上)が26人、また車線はみだし20人であった。バイク事故は前年の倍の12人で、40代50代が目立ち、宮城県警察では、再び乗り始めた「リターンライダー」世代に自分の技量を確認して安全運転に努めてほしいとする。飲酒運転による死者は65年以降はじめてゼロになった。宮城県警察では事故数や死傷者数の減少傾向について、道路環境整備、車の安全性能向上、医療の発展などを挙げている。(以上、宮城県の部分は朝日新聞記事などから。)東北各県の交通事故死者数は次の通りだ。青森 43岩手 28宮城 47秋田 31山形 24福島 51■関連する過去の記事 歩行者いるのに止まらない車 マナーの悪い県はどこか(2016年10月19日) 女性ドライバーの少ない宮城(2015年12月1日) 東北6県の交通事故の比較(2013年4月23日) 減少傾向の交通事故死者数(10年1月3日) 冬タイヤ装着率について(09年12月3日) 山形県は全国トップレベル! シートベルト着用率比較(08年6月1日)(各県のデータ) 東北の交通事故死者数をみる(06年1月5日)
2025.01.09
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1.朝比奈三郎 朝比奈三郎が榛谷(はんがえ)四郎の頭を、入相の鐘の音に合わせて殴りつける場面。鐘がごんとなれば、「くはん」と握りこぶしで殴る。近松門左衛門『曾我会稽山』1718年。 くはん(かん)は、頭を殴る音にしては明る過ぎにも思え、現代語では「がん」がふさわしいが、江戸時代の本は濁点に厳密でないので、本当は「がん(ぐはん)」で濁点を付さないだけかもしれない。しかし、ここは鐘の重い「ごん」のあとに、鐘に即応して仏具の鉢が鳴るように頭は「かん」となる、と考えたほうが良い。2.宮沢賢治「があん」 鉄砲の音が響いたが熊は少しも倒れないようだった。「小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめん真っ青になった。」宮沢賢治『なめとこ山の熊』1934年頃。 音が感じられるようでもあるが、音より抽象的な衝撃のようでもある。擬音語か擬態語か一義的には決めがたい例であるが、他の用例のように、擬音語から擬態語への流れ(音の感覚から衝撃の感覚へ)にあるといえる。3.宮沢賢治「きりきり」 「その時風がざあっと吹いて(中略)玄関の前まで行くときりきりとまはって小さなつむじ風になって...」「まるで何と云ったらいゝかわからない変な気持がして歯をきりきり云はせました」宮沢賢治『風の又三郎』1934年。 「きりきり」が二種類の意味で用いられる。前の例は、風が巻き上がる様子で、きつく引き絞る様子の用例。後の例は、歯をきりきり言わせるのだから、こすれ合って立てるきしんだ音の意味である。 なお、近代の「きりきり舞い」は、片足で体をきつく引き絞るように回転する様子が、何者かによってなすすべなく回転させられているように見えることから生まれた言葉である。■小野正弘『感じる言葉 オノマトペ』角川選書561、2015年 から(おだずま要約)本の奥付によると著者の小野正弘さんは明治大学教授、1958年一関市の生まれで東北大学大学院文学研究科に居られたそうだ。オノマトペの使用例として、宮沢賢治の作品が何度も登場している。また、宮本百合子も何度か引用されている。「むかつく」の項では、石川啄木の酒の俳句と太宰治が用例として出ている。最初の朝比奈三郎は、宮城県人にとっては、七ツ森や品井沼を作った伝説上の大男だが、歴史上は鎌倉御家人で安房国朝夷郡を所領とした和田(朝比奈)秀義である。著者小野さんの著作は、日本文学史や国語史に基づくものであって、東北など地域別言語学の視点ではない。私(おだずま編集長)が、手にした本から勝手に「東北」を探しただけなのだ。しかし、著者が宮沢賢治はじめや故郷の文学に格別の思いを抱きながら研究を続けて来られたのではないか、などと拝察したのだった。■関連する過去の記事(宮沢賢治) めがね橋(2016年3月21日) 花巻と里川口(花巻川口町)(10年5月16日) 歴史秘話ヒストリア「宮澤賢治」の再放送予定(10年5月13日) サラリーマン宮澤賢治を描いた佐藤竜一先生がTV登場!(10年5月7日) 我が心の宮澤賢治(09年3月2日) 新宗教と東北(09年7月7日) 雨ニモマケズ(08年11月25日) 藤原嘉藤治を讃える(07年6月16日)(宮本百合子) 東北開発の具体像(2023年04月06日)=安積開墾の中条政恒の孫が宮本百合子(石川啄木・太宰治) 東北各県の三大名物集(07年5月8日)(石川啄木) 盛岡と豆腐(2012年10月6日) 岩手公園の名称問題を考える(06年7月12日)(太宰治) 千畳敷海岸(2013年5月26日)=文学碑 小泊地区と銘菓ごんげんざき(2013年6月8日)=津軽の像
2025.01.08
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下記の本にある一節。山手線の大塚駅周辺の町名は、線路を境に、豊島区北大塚と南大塚にくっきり分けられている。しかし、南大塚の南には、文京区大塚が接している。そもそも大塚駅の所在地は1969年まで豊島区西巣鴨二丁目だったものを、住居表示を機に、北大塚、南大塚とした。(概略引用は以上)■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年新町名を付する際、交通結節点として馴染んだ駅名を中心に表現するのは合理的発想だろう。ただ、大塚駅の名は、その昔まだ駅周辺の巣鴨あたりが畑地だったころに、山手線内側でより都市的集積の高かった場所(利用者の多かった場所)の地名を借用したのだろう(おだずま推測)。このように、名付けられた駅が、その駅名に採用された地域の中心の場所から多少ずれていたり、地域のまったく外に所在している事例がある。後者の地域の外に所在する駅名のケースは、例えば、鉄道が何らかの事情で市街地を離れて開通したときに、利用者の多い市街地の地名、あるいは駅周辺のブランド力を高めるという思惑、さらには政治的配慮から命名されるケースなどが考えられる。宮城県の実例でいうと、陸羽東線の中新田駅(現在の西古川駅)がある。■関連する過去の記事 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 仙台領飛び地の龍ケ崎と鉄道忌避伝説(2022年12月27日)もっとも、中新田駅の場合は、駅名が存続しなかったので現在は混乱はないが。今尾さんの著作で大塚の例を読んで、すぐ連想したのは仙台の中山、北中山、南中山だ。中山の場合は鉄道や駅は関係していない。青葉区中山(中山ニュータウン)は昭和30年代後半から開発された仙台では先駆的な郊外団地だ。公務員住宅、東北電力の施設、短大なども設置された。双葉総合開発が80年代からたしか「いずみ中山」として造成販売したのが、いまの北中山、南中山の町名の一帯だと思う。ニューワールドや観音様も関連していたはず。おだずま推測だが、「いずみ中山」の名で分譲したのは、仙台市中心部から決して遠くない(昭和の中山のあたりだよ)と思わせる意図があっただろう。その後に正式町名を決めるのは行政だが、「いずみ中山」に移住した人たちに「中山」は馴染んでいるし、他方で青葉区でなく泉区を冠するので、「いずみ中山何丁目」と難しい地名にする必要もない。そんな感覚で、シンプルに北(南)中山という町名になったのではないか。大塚の場合とは、違う点も多いが、共通点もある。その後、西中山や中山台という町名も登場した。■関連する過去の記事(中山に関して。また周辺の街道などに関して) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史。中山周辺に関して) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)■関連する過去の記事(今尾恵介さん関連) 方言漢字、地域文字(2025年01月03日) 山の呼び方(山、岳、森など)(2024年12月26日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 大船渡線の成り立ち(2022年12月22日) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日)
2025.01.07
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埼玉県八潮市に、垳(がけ)という地名があり、全国でここだけだという。江戸時代の文書に、垳村の名で登場するので当時の誰かが字を考えたものだろう。国字研究で知られる早稲田大学の笹原宏之教授(国語学)は、これらを方言漢字と名付けた。■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年■関連する過去の記事(方言漢字) 地域文字 霻霳(一関市)(2024年12月13日) 方言漢字を考える(2019年11月18日)■関連する過去の記事(今尾恵介さん関連) 山の呼び方(山、岳、森など)(2024年12月26日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 大船渡線の成り立ち(2022年12月22日) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日)
2025.01.03
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