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年が明けて2022年になりました。そしてあっという間にもう1月3日ではありませんか。今年もまたこんな調子で私は時間がどんどん過ぎてしまうのかと思うと、恐ろしいものであります。さて約1カ月前の昨年12月に、愛知県春日井市の高蔵寺にあるショッピングセンターに自衛隊が来て、ちょっとした展示があるとのことで行ってきました。この日に来てたのは、陸上自衛隊第10師団の春日井駐屯地の方々と、航空自衛隊小牧基地の警備犬担当の方々でした。ホントにささやかなイベントですが、この2年間は自衛隊の駐屯地や基地でのイベントがほとんどない状況なので、数少なくても実物が見られるというのは楽しみなものであります。ランフラットタイヤ仕様の高機動車です。定員10名となってます。高機動車の後ろです。以前のイベントで見たトラックは椅子が板状のものだったので、説明の自衛官の方に思わず「こちらはクッションがついているのですね?」と訊いてしまいました。こちらは多目的に使用される 1/2tトラック(通称:パジェロ)です。訓練で野営(キャンプ)するときに使用する 6人用天幕です。総重量はナント50kg、頑丈で台風でも耐えられる(=どんな悪天候でも訓練する)と説明にありました。レンジャー訓練では50kgくらいの荷物を背負って移動があるので、これも訓練の時に人力で運ぶのかとお訊ねしたら、通常の訓練では車で運ぶ(もちろんストーブや簡易ベッドなども)とのことでした。隊員の皆さんが背負うバックパックの中身です。飯盒や水筒の他に、折り畳み式の携帯ショベルなどがありました。こちらは今の時代の携行食(コンバットレーション)です。加熱材を使ってご飯やおかずを火を使わずに温めることができます。また野外演習時には炊事訓練を兼ねて炊事車で調理をすることもあります。偵察時に使うバイクです。悪路走行時に飛び石でライトのガラスが割れないよう、網のガードがついてます。こちらは航空自衛隊小牧基地から来た警備犬の訓練展示です。担当の自衛官の方と一心同体になっている働くワンコたちです。大規模な災害があったときは捜索活動で出動します。話は変わりますが、陸上自衛隊第10音楽隊によるコンサートが、11月末に名古屋市守山区のホールで開催されたので、私も行ってきました。陸上自衛隊ならではと期待した『陸軍分列行進曲』が聴けなかったのは残念でしたが、美しい音色に包まれた優しい時間でした。コンサートが始まる前、第10音楽隊の隊旗が素敵だったので、許可を得て撮影&UPしました。ポールの一番上にある桜のマークは3方向についています。近くでじっくり見ると、金糸の刺繍や金糸の編み込みがとても見事です。
January 3, 2022
2021年がまた、あっという間に過ぎてしまいました。自分でもよく頑張ったとか、学んで何かを習得した等のこともなく、毎年?どうやらただ無駄に歳をとっていくだけの自分を反省しています。2021年ラストの日にあたり、この1年を振り返ってみたら、半分以上は母に関することばかりでした。今年に入ってから週の半分は片道1時間強の名古屋の実家を往復し、8月末に旅立ち、その後は諸々の手続きやら実家の片付けやらで、2カ月以上かかりました。親が亡くなると、身近にいた者は悲しいとかよりも、やらなければならないことが多すぎて、とにかく大変であることがわかりました。興味がある方は 家族が亡くなった後の『手続き地獄』早わかりカレンダー で検索してみてください。うちもほぼこの状態でした。私の場合はまだ、母の介護も諸手続きも兄が半分やってくれたから助かりました。それでもぐったり疲れましたが。そして実家の片付けが、これまたスゴイことでした。昭和の人らしく、買うときに高級な物を買って長く使うということを長年続けてきた母でした。棚もタンスもテーブルも、一つ一つがとにかく重たい。男2人でないと運べない重さです。棚2つと和ダンス1つは私と甥っ子2人が使うことで家に運びましたが、それ以外は粗大ごみでした。姉の長男が会社から3tトラックを借りてくれて、それにほぼいっぱい、実家の家具が入りました。トラックが少し離れたところにしか停められなかったので、男4人が幾度も大型家具を運んで往復しました。女4人は手で運べる荷物を運んで往復しました。クリーンセンターに運んで処分した量がナント、400kg。会計で数字を聞いたとき、たまげました。それ以外にも、書類やアルバムなど中味をチェックしたいものや未使用の座布団や布団など、彼らにはこれまた大量にこの家に運んでもらいました。(部屋が1つ実家からの荷物で埋まった)甥っ子3人衆、重労働を本当にありがとう。まだ他にも、実家で捨てたものが、皿、本(約300冊)、衣類、その他、たぶん200kgはあったと思います。片付けのはじめのほうこそ、これはどうしようかと考える余裕はありましたが、そのうち面倒になり思考がストップして、もうなんでもゴミ袋・資源袋にポイポイでした。伊万里焼きとかの日本各地の高級な焼き物の大皿とか花瓶とか、いくら高級でも趣味が合わないから、身内のだれも欲しい人はいませんでした。なのでこれらも燃やせないゴミ袋に。でも誰かが持っていく可能性を考えて、見栄えよく丁寧にゴミ袋に入れておきましたが・・・。でもこれだけ大量にモノを捨てる体験をすると、私自身に捨てることに「勢い」がついてしまいました。おかげで秋以降、この家にある私が捨てるのをためらっていたものが、次々と捨てられていきました。あれやこれやと棚にぎっしりあった物が減り、どことなく部屋がすっきりして風通しが良くなった感じです。今月のはじめ、会計を処理して(そのためにまた区役所と銀行に走ったけど)姉と兄に了承をもらって、やっとひと段落つくことができました。ああ、もうあと1時間ちょっとで新しい年ですね。故郷に帰省して、どこかの親戚の家で集まって、家で一人静かに、あるいは運送業や交代勤務でお仕事の方、etc・・皆さまそれぞれに、どうぞ良いお年をお迎えください。母のことが落ち着いた12月から、私の仕事にご依頼が増えて、おかげさまで忙しくしています。母があの世から仕事を私に回してくれているのかな。
December 31, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回で最終回となりました。このドラマが始まった当初は、歴史の教科書の中ではそれほど重要とされてない渋沢栄一が主人公で、1年間物語ができるのかと疑問でした。でもいざ動き出したら、脚本の大森美香氏が朝ドラの『あさが来た』で見せてくれたテンポの良さと、若干は予想していた感動ポイントを超える、思いがけないところでの感動など、回を追うごとに面白くなっていきました。主演の吉沢 亮さんの演技を通して、渋沢栄一氏の偉業を十分に理解できました。できれば洋装が似合う吉沢亮さんの栄一が活躍を始める明治時代以降のほうで時間をもっととって欲しかった、という希望はありましたが。その栄一と共にドラマを盛り上げてくれたのが、栄一の従兄弟の渋沢喜作を演じた高良健吾さんでした。失礼ながら私には朝ドラでは印象の薄かったお二人が、このドラマでは実に活き活きと、骨太の男っぽさ全開で画面の中を駆け巡っていたように感じました。その対極で、動きは静でもドラマ内の各所で視聴者に強烈な存在感を見せてくれたのが、草彅 剛さん演じる徳川慶喜でした。 徳川最後の将軍・慶喜というと、今までの幕末ドラマでは「大坂城から逃げた」部分しか描かれませんでした。でも今作では、思慮深く先を見る目があった慶喜でした。戦争のさなかに大将である自分が一人戦線を離脱したのは、日本が内戦によって国力を失い、それに乗じた列強に乗っ取られないよう、日本を守るために世のそしりを覚悟して身を引いた、世間の批判を甘んじて受けた、そんな慶喜を見事に演じきってくれました。大河ドラマ館は、埼玉県深谷市では、年明けの1月10日までやっています。 ⇒ こちら 東京都北区の大河ドラマ館は、12月26日をもって終了となりました。 ⇒ こちら #青天を衝け には、様々な感想や意見がありました。ドラマ内のことを解説してくれた #青天ナビ は、とても参考になりました。地図のゼンリン社が、関連資料を毎回作ってくれました。改めて見直すと感慨深いものです。#地的に愉しむ青天を衝け ⇒ ⇒ こちら オープニングの音楽もはじめのほうこそ物足りない感がありましたが、だんだん馴染んできて気がつけば好きになっていました。登場人物はどの役の方もそれぞれに味わいがありました。新しい時代を作っていった、幕末から明治の名の知れた方々はどなたも魅力的でした。また主人公側と敵対する役の方でも、後になれば栄一が理解したように、それぞれに信念や思いがあるのだと感じられるドラマでした。『青天を衝け』は心に残る良いドラマでした。出演された皆さま、脚本家やスタッフの皆さま、1年間お疲れ様でした。ありがとうございました。大正8年(1919)、ドイツの降伏で第一次世界大戦は終結し、日本は戦後処理のために開かれたパリ講和会議で、人種差別の撤廃を求める一方で中国の山東半島におけるドイツの権益を要求したため、各国の日本に対する警戒感が強まっていました。この頃には渋沢栄一(吉沢 亮さん)は実業界から完全に引退していましたが、規則正しい生活は変わらず、毎日朝の7時頃から来客が続々と詰めかけ、日に15時間は働いていました。この日は医学博士の北里柴三郎(八十田勇一さん)が来ていて、栄一に「感染症予防にはマスクが一番」と公衆衛生の話をしていました。栄一の最初の内孫で後継者となった渋沢敬三(笠松 将さん)は、やりたかった生物学をあきらめて東京帝国大学経済学部に進学し、学業の傍ら栄一の仕事を手伝っていました。ある日ふと本棚から手にとった本に祖父・栄一の若い頃の写真を見つけ、敬三は急に栄一の人生に興味がわいてきました。栄一は悪化する一方だった日米関係を民のレベルで改善しようと活動を続けていました。(日米有志協議会)そのため敬三がアメリカからの客を家でもてなすことが多く、敬三は栄一から「自分の目で確かめるように」と言われたように、手洗いの掃除や紙の準備も自分で行っていました。大正10年(1921)、敬三は大学を卒業して横浜正金銀行に就職しました。そのころ体調を崩していた大隈重信(大倉孝二さん)を栄一は見舞い、互いの存在を知って50年になる日々を懐かしんでいました。栄一も体調が思わしくなかったのですが、ワシントンでの軍縮会議がどうしても気になり、自分が若い頃に攘夷に走った経験をふまえ、渡米の決意を大隈に語りました。大隈は栄一に、81歳の身体でやめておけと言いつつ、今は民の立場で栄一がうまく調整してくれることに期待するしかなかったのでした。※大隈重信のメロンに関するエピソードは ⇒ こちら ワシントンでは海軍大臣の加藤友三郎が記者団のインタビューを受けていましたが、栄一が到着すると記者団は加藤をそっちのけで栄一のほうに駆け寄ってきました。そして栄一が政府の思惑とは違う自分の考えを記者団に述べるので、駐米大使の幣原喜重郎(近藤芳正さん)は慌てて栄一を記者団から離し部屋に入りました。移民問題の解決を望む栄一に幣原は、移民問題が出れば会議は紛糾する、アメリカが日英同盟の破棄を裏でイギリスと交渉していると伝え、さらに日本で首相の原 敬が暗殺されたことを伝えました。栄一は「国と国との関係が結局は人と人との関係である」と強く訴えましたが、軍縮会議では移民問題は取り上げられることなく終わりました。大正12年(1923)9月1日、関東大震災が人々を襲いました。震災のときは兜町の事務所にいた栄一はなんとか飛鳥山の邸宅まで帰宅しましたが ⇒ こちら 、その後で兜町の事務所は全焼してしまい、栄一にとって思い出深い、二度と手に入らない品々がことごとく灰燼と化しました。 ⇒ こちら 栄一は激しく落胆しましたが、そのとき勘当した長男の渋沢篤二(泉澤祐希さん)が身内の皆の安否を心配して飛鳥山に。震災の混乱の中で篤二の姿を見たとき栄一はそれまでのわだかまりが瞬時に消え、涙ながらに篤二を抱き寄せて「よかった」と何度もつぶやきました。栄一は避難生活をする人々のために家にある物はなんでも提供し、さらに政府のトップや東京府知事、東京市長、警視庁に対して渋沢が避難者の救護所を作ると伝えるよう、娘婿の阪谷芳郎(内野謙太さん)に頼みました。「自分のような老人はこんなときに働いてこそ生きる申し訳が立つ」ーーそれが栄一の信念で、息子たちは老いた父が心配だけど父を見守ることにしました。そして栄一の呼びかけで、交流のある海外の友人たちからは続々と義援金や救援物資が大量に栄一の元に届きました。 ⇒ ⇒ こちら 昭和6年(1931)91歳になった栄一は孫たちに囲まれて、やすらぎのひと時を過ごしていました。孫娘が朗読する話は幕末に活躍した新選組の話で、英雄・土方歳三の名が出たときに子どもたちからは歓声があがり、栄一はふとその当時のことを思い出しました。「土方歳三は私の友だ。その土方と共に戦った。」と言う栄一おじい様の言葉に子どもたちはさらに興奮し、昔語りを聞かせて欲しいと皆でせがみました。(これは・・栄一おじい様が話を盛ってますね・笑。土方歳三に函館まで同行して最後まで一緒に戦った戦友だったのは親戚の故・渋沢喜作おじい様。栄一おじい様は土方と心を通わせた友というのが正しいかと思われます。)その年の夏、中国では異常な長雨で大水害が起こり、日本から義援金を送るために東京商工会議所、日華実業協会、赤十字社は手を組んで中華民国水災同情会を設立し、栄一は91歳にしてその会長に就任しました。会では募金活動に力を入れているものの世間では今一つ機運の盛り上がりに欠けるため、栄一がラジオで全国民に呼びかけることになりました。しかし体調の悪化で栄一は家を出ることができないため、ラジオ放送の器材を家に持ち込んで行うこととなり、栄一は久しぶりに胸が高鳴ってきました。「中華民国の水災を救うために皆さんの力をお借りしたい。中華民国と我が国は長年親しく交わってきた。罹災者は1000万人に及ぶという。関東大震災のときは反日運動のさなかだったのに、中華民国の人々はたちどころに多くの義援金を我が国に贈ってくれた。人は互いを思いやる心を当たり前に持っている。皆で手を取り合おう。みんなが嬉しいのが一番。どうか切にお願い申し上げます。」栄一の心をこめた呼びかけに街頭のラジオの前に集まった人々は胸を打たれ、全国のラジオの前では自然と拍手が湧き起こり、募金は驚くほど集まりました。しかし関東軍が引き起こした満州事変のために、救援物資は中華民国側に受け取ってもらえないままとなりました。その後、栄一の体調はいよいよ悪化して起き上がれなくなりました。昭和6年(1931)11月11日、渋沢栄一は家族の皆に見守られながら安らかな顔で永遠の眠りに。享年91歳でした。栄一の死後に追悼式が開かれ、壇上に立った敬三は集まった人々に語ります。「祖父・渋沢栄一は世間では偉人のように語られるけど、私にとっての祖父は、よく食べ、よくしゃべり、時には自分勝手で、時には子供のように涙した。祖父は常に力を惜しむことなく、もっと国を良くしたい、もっと人を守りたいと考えて生きてきた。しかしどれだけ力を尽くしても棒ほど願って針ほど叶うことばかりだった。皆さんには祖父・渋沢栄一を失敗も叶わなかったことも全て含めて、お疲れさん、よく励んだと。」これは要約すると、世間では偉人の祖父も自分には活発過ぎるふつうのおじいさん、でも一つの成功の陰には山のような失敗があった、ということだと思います。さらに敬三は栄一から託された手紙を読み上げ、「自分が死んだ後も皆さんの事業や健康をお守りするつもりでいる」と栄一の思いを聴衆に伝え、栄一を偲びました。
December 29, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、前半が渋沢栄一(吉沢 亮さん)のアメリカでの物語で、後半は栄一が長年行動を共にして一緒に新しい時代をつくり続けてきた渋沢喜作・徳川慶喜・伊藤博文・井上馨といった人々が死去してドラマ退場となりました。そして後半の、栄一の人生最大の決断であったであろう、我が嫡男・篤二(泉澤祐希さん)の廃嫡問題。篤二が女を囲って家を出る出来事の前に、何気ない会話から栄一と篤二の親子の絆を改めて考える場面がありました。父・栄一はパリに随行した徳川昭武の水練の供をしたことを嬉しそうに語るけど、篤二にとってそんな時間はなかった。徳川慶喜に問われ、篤二はとっさに「畳水練」とごまかす。父の期待に応えられる器量のない自分だけど、皆の前で父が恥をかくようなことは避けたかったのか、自分を卑下してごまかす篤二は、彼なりに父を愛していたのでしょう。(先週、栄一の異変にすぐ気が付いたのも篤二だった)そんな篤二の苦悩を渋沢喜作(高良健吾さん)察していて、バラバラになりかけた栄一家族を陰でつないでくれました。栄一がよく言う「世の中のみんなが幸せに」と考え、さらにそのための仕事ができてしまう人って、広い視野で俯瞰はできるけど、逆に近すぎるところは見えてなかった、なんてことがままあると思います。あるいは仕事に関係なく「あの人なら自分の思いや事情をわかってくれるだろう」の部分が “度を超えた自分優先” の甘えは、誰にでも起こりうると思います。栄一も後で気づいて反省したようですが、こういうときにホント、篤二の実母の千代が生きていたら、なんですよね。継母も良くしてくれるし義弟たちも可愛い。でも実母の千代が大好きだった篤二にとっては、まったく同じではないのですから。ああ、そういえば、渋沢喜作を演じた高良健吾さんがドラマ退場となりましたね。このドラマでの高良さん、男っぽくて好きだったなあ。さて、地図のゼンリン社の資料です。※伊藤博文さんのお宅は #神奈川県大磯町 にある「滄浪閣」です。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治42年(1909)、渋沢栄一(吉沢 亮さん)は第一銀行と銀行集会所以外の61社の役員を辞任することを決め、実業界を引退しました。栄一は大磯の邸にいる伊藤博文(山崎育三郎さん)を訪ね、アメリカに移民として渡った日本人が排斥問題に直面して苦労しているから自分がアメリカに渡って日本人を理解してもらうことに努めたいと、アメリカ行きを報告しました。伊藤は栄一の民間外交に期待し「アメリカを頼んだぞ」と言葉を送りました。栄一たち渡米実業団はアメリカの実業家たちが用意した特別列車で91日かけてアメリカ大陸を横断し、全米60の都市を訪問する旅となりました。栄一は妻の渋沢兼子(大島優子さん)と兼子の姪の高梨孝子(土居志央梨さん)と秘書兼通訳の八十田明太郎(ヒロ ウエノさん)を伴ってアメリカ入りをしました。栄一はアメリカ接待委員のロジャー・グリーン(スティーブ・ワイリーさん)から全米各地で日本の実業団を歓迎していると聞いて安堵しましたが、一方で排斥運動を受けているアメリカ西海岸の日本人移民のことも気がかりでした。ミネソタのラファイエットクラブで栄一は日本に対して友好的なアメリカ大統領のウイリアム・タフト(ニール・ギャリソンさん)に面会できました。栄一はタフトに、元来おしゃべりな自分が感謝の思いを英語で伝えられないのが残念と語り、タフトは栄一の人柄を褒めつつ日本女性が表に出て主張しないことが不満であると栄一に伝えました。さらにタフトは「これで移民問題も解決する、アメリカは日本に商売の戦争を挑む」と栄一に言い、「ニッポン、バンザイ!」と叫んで皆も唱和してくれました。栄一がアメリカでの移動を続けているさなかの10月の末、共に新しい世をつくってきた伊藤博文がハルビンで暗殺されたとの報が入りました。そして日本人の排斥運動が最も激しいカリフォルニア州に入った栄一。サンフランシスコでの講演では初めは原稿の通りにスピーチしてたけど、途中から突如原稿を読むのをやめ自分の言葉で思いを伝え始めました。「互いに相手を知らなかった。知っていても考え方の違いを理解しようとしなかった。相手をきちんと知ろうとする心があれば無益な憎しみ合いや悲劇は免れる。日本人を排除しようとするアメリカ西海岸もしかり。」ーー栄一の率直な意見に通訳の八十田は戸惑いましたが、続行しました。そして「自分はアメリカの各地で多大な親切を頂いた。発展を見て大いに学ばせて頂いた。」「アメリカ人の愛情はペリー提督の昔よりさらに深まり、その多大なる愛情を我が国に注いでくださっていることを確信している。日本人は敵ではない。我々はあなた方の友だ。日本人移民はアメリカから何かを奪いに来たのではない。この地で役に立ちたいという覚悟をもってはるばるやって来た。どうか憎まないでほしい。みんなが幸せになる世をつくる、私はこれを世界の信条にしたい。ノー・ウォーだ!」ーー栄一のスピーチは聴衆の心に響き、万雷の拍手が湧き起こりました。室内の様子は廊下にも聞こえ、掃除をしていた使用人の彼(セルジオ・エリアスさん)も嬉しそうでした。栄一は帰国し、徳川慶喜(草彅 剛さん)の話を聞くために集まった日のことでした。慶喜の水練の話から、栄一がパリで昭武(慶喜の弟)の水練のお供をしたと嬉しそうに語り、そう聞いた慶喜は栄一に息子の渋沢篤二(泉澤祐希さん)には水練を教えたのか、という話になりました。仕事が忙しくて篤二とはそういった父子の時間がもてず、またウソがつけない栄一は言葉に詰まり、それを見た篤二はとっさに「私は専ら畳水練で」と話をごまかしました。そんな篤二の様子を渋沢喜作(高良健吾さん)は篤二の思いを察しながら見ていました。しかしその1か月後、篤二は芸者の玉蝶に入れあげて家を出てしまいました。栄一は篤二の廃嫡を決断し、正式に言葉を残すために遺言書を作成し、一族を集めて同意を得ました。 ⇒ ⇒ こちら そして栄一は今更ながら、自分が篤二と触れ合う時間がほとんどなくて、一番身近な篤二のことを何もわかってやってなかったことに気づいたのでした。篤二のことで渋沢家のだれもが複雑な思いを抱えていたそんなある日、喜作は栄一の孫の渋沢敬三(笠松 将さん)のところにやってきました。喜作は敬三に「お前の母上は何も悪くない。篤二だって…。人には向き・不向きがある。例えば自分は、商売は向いてなかったが、幕臣だったときは戊辰戦争で函館まで行って戦った。お前の親父もがんばったが向いてなかった。栄一は偉大だが近くにいる者にしたら引け目ばかり感じさせる腹立たしい男だ。」とそんな話をし、父・篤二のことをどう受け止めたらいいのかわからなかった敬三は心が少し軽くなりました。明治天皇が崩御して時代は大正になり(1912)、栄一と喜作は二人で久方ぶりに故郷の血洗島を訪れていました。齢70を超えてもまだ励み足りないと言う栄一に、喜作は「少しは諦める心も覚えろ。誰もがお前みたいに前ばかり向いて生きられるわけじゃない。」と諫めつつ、二人で共に笑い合いました。折しも村の祭りのときで、二人の心には幼い頃からのことが走馬灯のようによみがえり、そしてこの後、喜作は74歳の生涯を終えました。そして大正2年(1913)、自伝の校正を進めていた慶喜の元を栄一が訪れ、高く積まれた稿本を栄一は受け取りました。「これでようやく御前様のことを、幕末の世の真相を世間に知らしめることができる」と栄一は安堵し、慶喜はパリから送られた昭武の直書(戊辰戦争時に慶喜が兵を置いて大坂城から逃げたこと)への答えにもなったであろうと言いました。さらに慶喜は、あれからずっと自分はいつ死ぬべきかを自問していた、でも今は生きていてよかったと言い、さらに栄一に「楽しかったなぁ。尽未来際、共にいてくれて感謝しておる」と思いを伝え、初めて出会ったあの遠掛けの日のことを思い出していました。「快なり!快なりじゃ!」そう叫んで笑った慶喜は、77歳の天寿を全うしました。その後、世界情勢はさらに悪化していきヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、日本は日英同盟のよしみで東洋で参戦するので実業界には大いに協力してもらいたい、と総理大臣となった大隈重信(大倉孝二さん)から栄一に話がありました。しかし栄一は、この機会に大陸に進出しようと図る政府の思惑を見抜いていて、戦争が起こるとせっかく育てた経済が打撃を受ける、民も苦しむと意見しました。さらに栄一は、反論すれば政府は力でねじ伏せようとする、平気でうそをつくと続けるので外務大臣の加藤高明(天田 暦さん)は激怒、大隈は「日本のみ友愛を唱えれば戦争で一気に潰される。参戦やむなし」という考えでした。ある日、敬三が自室にいると祖父・栄一が紋付袴の正装で入ってきました。栄一は敬三の進路のことを尋ねたかと思うと正座して姿勢を正すので敬三もそれに倣い正座して祖父と対峙すると、栄一は敬三に、どうか農科ではなく法科に進んで自分の跡を継いでもらえないだろうか、と言います。敬三は断りましたがそれでも栄一は両手をついて頭をさげ、敬三に「どうかお頼みする。実業界から日本を支えることを己の使命として欲しい。」と懇願しました。尊敬する偉大な祖父が正装して自分に深々と頭を下げている。敬三は迷いました。
December 22, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、日露戦争の時代を背景にしてドラマが進む中で、序盤・中盤・ラストで徳川慶喜を演じる草彅 剛さんのセリフに感動しました。序盤では慶喜が尾高惇忠(田辺誠一さん)の生きざまを「尊い」とまで言ってくれ、惇忠は生き長らえてきたこれまでの思いがようやく報われ涙しました。中盤で渋沢栄一(吉沢 亮さん)が重い病になり生死の境をさまよっていたときに慶喜が見舞いに来てくれ、「 ”尽未来際” 、生きてくれ!」と栄一に言葉を送り、その後の栄一はみるみる回復していきました。 ”尽未来際” は慶喜が全幅の信頼を置いて心を通わせた亡き平岡円四郎が自分に向けてくれた言葉で、円四郎が亡き後は、いつしか栄一が慶喜の心を通わせる相手になっていたのでしょう。でも慶喜の言葉でイキナリ復活のエネルギーがぐんぐん湧いてくるなんて、やはり「推しは尊い」。この一言に尽きるようです。そして終盤の、35分50秒から40分まで続く慶喜の語りは圧巻の一言でした現代でも、国と国との戦争というレベルでなくても、ふだんの人間関係の中でも大きな意義をもつ言葉だったので、ここに書き留めておきたいと思います。人は誰が何を言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。欲望は道徳や倫理よりずっと強い。ひとたび敵と思えば、いくらでも憎み残酷にもなれる。人は好むと好まざるとにかかわらずその力に引かれ、栄光か破滅か、運命の導くままにひきずられていく。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治33年(1900)、尾高惇忠(田辺誠一さん)と渋沢喜作(高良健吾さん)は渋沢栄一(吉沢 亮さん)を介して、徳川最後の将軍となった徳川慶喜(草彅 剛さん)に会う機会がもてました。慶喜は喜作のことを成一郎と幕臣のときの名で呼び、惇忠のことは「尾高さん」と呼び、惇忠の弟・平九郎のことも惇忠の富岡製糸場での働きも知っていました。慶喜は「長く生きて国に尽くされ言葉もない。残され生き続けることがどれほど苦であったことか。私はねぎらう立場にないが、尊いことと感服している。」遠い昔に行商先で遠くから見たあの利発な若様がやがて将軍となり、そのお方が自分の生きざまを認めてくれている。言葉をかけられた惇忠は喜びに打ち震え、感涙して平伏していました。明治35年(1902)、アメリカを視察した栄一は首都・ワシントンで大統領のセオドア・ルーズベルト(ガイタノ・トタロさん)と会談しました。栄一は日本の発展に大きく関わってくれたアメリカに感謝を伝え、ルーズベルトもまた日本の目覚ましい発展と軍事力の向上を称えてくれました。ただ実業家の栄一にとっては日本の商工業の名声が低いことが不満であり、今後自分はますます商工業の発展に精進していくとルーズベルトに誓いました。栄一が世界で活動するようになると、それまで放蕩を重ねてきた嫡男の渋沢篤二(泉澤祐希さん)は父・栄一の仕事を手伝うようになりました。そしてこの頃の栄一は、韓国での銀行の仕事や養育院の増設、新たに作る女子大学校のことまで関わっていて、家を空けることが多い多忙な日々を過ごしていました。そんな栄一不在の渋沢家に慶喜を客として迎えたある日、篤二は父から聞いた慶喜の決断が日本を救ったこととそれへの感謝の話をし、さらには自分は父よりよほど慶喜の生き方(現在の世間から見える、趣味を極める部分?)に憧れるとまで言いました。栄一がアメリカから帰国した頃、ロシアが朝鮮半島を狙う南下政策を進めていました。ロシアは朝鮮半島全体の権利を要求してきて、それは日本の国防に脅威を与えました。井上 馨(福士誠治さん)は、このままでは対馬海峡までがロシアの勢力下となり日本の国防が崩れると言い、陸軍参謀次長の児玉源太郎(荻野谷幸三さん)は、今やすっかり世論は主戦論になっている、金も兵もない日本がロシアと戦うためには財界のさらなる緊密な協力が必要、財界にも主戦論を掲げて欲しいと栄一に頼みました。「今は危急存亡の時、ロシアが朝鮮半島に入れば次は日本が危ない」ーー児玉と井上の説得を受け、栄一は不本意ながらも商工業者向けの講演会を開きました。栄一は戦費を集めるために「仁義の戦であったなら戦後必ずその国は繁盛する」と聴衆に国債の購入を呼びかけ、会場にいた聴衆は栄一の演説に賛同、「大日本帝国、万歳!」と唱和して戦争への機運が高まっていきました。しかし講演の後、栄一は過労と心労が限界を超え、倒れてしまいました。体調は悪化して危篤となり、栄一は自分の死後のことを嫡男の篤二に頼みますが、父がつくり上げた渋沢家はあまりにも大きく、篤二が抱えられるものではありませんでした。また周囲も内心は篤二では頼りないというもので、篤二は重圧に耐えきれず半狂乱に。そのとき栄一を見舞うために渋沢家に来た慶喜と居合わせ、篤二はつい先日「あなたの生き方に憧れる」と言った慶喜に向かって「僕も逃げたい!あなたは日本を全て捨てて逃げた。なのに今も平然と・・」と言葉を投げつけ、走り去っていきました。朦朧とする意識の中で栄一は枕元に、自分の生涯の主君である慶喜がいることに気が付き、無理やり身体を起こしました。慶喜は栄一に「今は死なぬほうがよい。私もまたそなたに何も心を尽くせてはおらぬ。そなただけは、どうか尽未来際・・生きてくれ!なんでも話す。そなたともっと話がしたいのだ。だから死なないでくれ。」と、強く思いを伝えました。慶喜の言葉が励みとなり、栄一はその後みるみる回復していきました。明治38年(1905)5月の終わり、栄一はまだ病床にありましたが、日露戦争のほうは海軍大将・東郷平八郎が率いる艦隊が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破し、翌6月半ばに講和となり、日露戦争は日本側の勝利で終わりました。この結果を見たアメリカは、日本海軍の戦力はあなどれないと判断し、ルーズベルトは「万が一に備えアメリカ海軍を強大にしておかねば」と今後の方針を決めました。「日露戦争は日本が勝利した」ーーこの部分だけしか知らない国民は勝利に酔いました。講和条約に向かう外務大臣の小村寿太郎(半海一晃さん)を民衆は新橋駅で熱狂的に見送り、8月、小村はアメリカのポーツマスで交渉に臨みました。しかしこの戦争で国力を使い過ぎた日本は、英米の支援でなんとかロシアと講和できなければ国が破滅するという厳しい状況にあり、栄一も初めてその事実を知りました。そして9月、日本とロシアの間でポーツマス条約が調印。しかし国家予算の6倍もの戦費負担を国民に強いたのに、ロシアから賠償金が取れず、国民の怒りは爆発して各地で暴動が起こり、小村や栄一に怒りが向けられました。世情は未だ落ち着かない中、慶喜の伝記の編纂のために歴史学者や昔を知る人たちが集められ、渋沢喜作や猪飼勝三郎(遠山俊也さん)などかつての幕臣たちも久しぶりに互いの顔を見て、再会を喜び合っていました。そして慶喜が登場し、一同は緊張と喜びの中で司会の栄一の変わらぬ多弁ぶりを笑っていましたが、慶喜が大坂城を抜け出たあの時の話が始まると、語る慶喜も聞く一同も真剣な面持ちになりました。「事実、自分は逃げたのだ。大坂城内の家来の暴発を制止できない状況になった。人は誰が何を言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。(中略)私は抵抗することができなかった。ついにどうにでも勝手にせよと言い放ったことで、鳥羽伏見の戦が始まった。失策であった。後悔している。戦いを収めねばと思った。しかしその後も言葉が足りず、いくつも失策を重ねた。」「多くの命が失われ、この先は何としても己が戦の種になることだけは避けたいと思い、光を消して余生を送ってきた。」ずっと黙して語らなかった慶喜の心の内を初めて知った一同は、何も言えませんでした。猪飼が「そこまでのお覚悟が・・。」と、そして喜作が「それはただ逃げたのとは違いましょう。あれほど数々のそしりを受け、なにもあえて口を閉ざさずとも・・。」と己を責め続ける慶喜を思い言葉を返すと、それでも慶喜は己に厳しい言葉を続けます。「人には生まれついての役割がある。隠遁は私の最後の役割だったのかもしれない。」ーー「自分の役割」。この言葉は栄一と篤二の中に深く刻み込まれました。
December 14, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。いよいよ終盤に入った今回は、SNSでは徳川慶喜を演じる草彅 剛さんの演技が絶賛されていました。しかし私は今回のタイトルにもなった渋沢篤二(泉澤祐希さん)のほうを、「こんな子、いるよな~」という思いで見てしまいました。父・渋沢栄一(吉沢 亮さん)が社会的地位の高い人で、自分はその嫡男であるがゆえに、周囲からの期待が重圧となって自分にのしかかる。父・栄一もまた裕福な家で育ったが、父の場合は藍農家として幼い頃から父親(篤二の祖父)と共に仕事をしていたし、同年代の従兄弟も近くにいて寂しさはなかった。でも篤二の場合、父が世を動かす実業家になってて子供の自分が手伝える仕事ではなかったし、同年代の従兄弟がいなければ学友と競い合って上を目指す性格でもない。家が貧しければ遊ぶ間なんかなく家の手伝いをし、進学するとなれば生活費を切り詰めて自分を学校に行かせてくれる親や他のきょうだいの思いを受けて必死に勉強する。でも篤二は裕福な家庭で切羽詰まったものがない。目の前にある楽しいことや興味惹かれるほうに流されてしまう元来の性格もあるし、寂しさや重圧から逃げたいという思いを快楽に向ける生活の余裕がある。篤二は勉強や仕事は苦手で父の期待に応えられないけど、小さい子たちからは好かれる優しさがある。義弟たちを可愛がり、義弟たちからも慕われる優しい兄。嫌なことに直面すると我慢できずにすぐ逃げてしまう。そんな自分の弱さやふがいなさやをわかっている。でも自分の勉強や進路のことをうるさく言わない親戚のおじさんやおばさんには素直になれる。もしかしたらですが、篤二が血洗島のほうの家に生まれていたら、親戚に囲まれて、皆で一緒に農作業をして、また違った人に成長していたでしょうか。ところで、番組ラストの「青天を衝け紀行」のBGMが今回から小学生の鼓笛隊が演奏したものになるようです。メイキングの動画を見ましたが、小学生が使うあの楽器で見事に演奏されてて、本当に感動で胸熱でした。深谷市立常盤小学校鼓笛隊の演奏でお届けします! ⇒ ⇒ こちら こちらは地図のゼンリン社の資料です。【栄一さん襲われる】 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治22年(1889)夏、上野で徳川家康が江戸城に入って300年の節目を祝う「東京開市三百年祭」が、旧幕臣たちの企画で開かれました。旧幕臣たちは小栗忠順や井伊直弼をもっと評価されるべきだと偲び、彼らの主君で徳川の最後の将軍となった徳川慶喜の父である徳川斉昭を偲んでいました。そこへ渋沢栄一(吉沢 亮さん)が渡欧で随行した徳川昭武(板垣李光人さん)が現れ、永井尚志の「徳川、万歳」の声をきっかけに渋沢喜作が大きな声で音頭を取り、旧幕臣が集まったその会場には「徳川、万歳!」と唱和する声が幾度も響き渡りました。明治時代の半ばになると、栄一は銀行業を中心に製紙・紡績・鉄鋼・建築・食品・鉄道・鉱山・電力・造船など多くの産業に関わり多忙を極めていました。また他にも国際化に対応できる女子育成のための学校や病院や養育院など、教育施設や福祉施設の充実にも力を注いでいました。東京養育院が主催の慈善会(バザー)が開かれ、栄一の妻の兼子(大島優子さん)の他、政財界の名士の奥方や娘たちが集まり、張りきって声掛けをしていました。そしてバザーを盛り上げるべくまず栄一が大金を出して買い求めると、井上 馨(福士誠治さん)ら会場にいる名士たちも「ならば自分も」と次々と夫人たちの言い値のまま快く大金を出して、慈善事業に貢献していました。しかし一方で、栄一の嫡男で渋沢家の後継者でもある渋沢篤二(泉澤祐希さん)は学業に身が入らず、かといって父の仕事にも興味がわく様子もなく、偉大な父と立派な義兄たち(穂積陳重、阪谷芳郎)の名声に気圧され、遊興にふけっていました。姉の穂積歌子は子どもの頃に母・千代を亡くした篤二を厳しく見守っていて、この日も店の外で待ち構えていて、頼りない弟を説教でした。明治23年(1890)、国会の開設に向けて第一回衆議院議員選挙が行われ、任命となる貴族院議員に栄一が不本意ながら任命されました。そして篤二は、一度東京を離れてみてはどうかと考える穂積陳重の提案で、熊本の第五高等中学校に行くことになり、出発の時間を迎えました。篤二に懐いている義弟の武之助(加藤櫻華くん)と正雄(番家天嵩くん)。遊び呆けていつも姉の歌子に叱られてばかりの篤二だけど、義母の兼子には素直に従い、義弟たちには優しい良い兄さまだったようです。心機一転、熊本で寮生活を送っているはずの篤二でしたが、途中で嫌になってしまい女子を連れて大阪まで脱走してしまいました。東京に戻った篤二は飛鳥山の邸宅で謹慎、今度は穂積歌子(小野莉奈さん)と阪谷琴子(池田朱那さん)の二人の姉からの説教でした。篤二は自分が父・栄一に迷惑をかけてばかりのことを反省し、姉たちにお詫びを伝えていたら、そこに血洗島の叔母・渋沢てい(藤野涼子さん)が野菜を持って現れました。ていは明るく3人の気持ちをほぐしてくれ、篤二も思わず笑みがこぼれました。兄・栄一から相談を受けていたていは、篤二を血洗島に連れて帰りました。ていは篤二に父・栄一の子どもの頃の話をしてくれ、それを聞いた篤二も自分が10歳のときに母が病になり忙しい父が一緒にいてくれたことが嬉しかった、でも母が旅立った夏は今でも苦手だと、ていに語りました。ていは篤二に農作業を手伝わせ、ふだんろくに体を使っていない篤二には少々きつい作業でしたが、皆と一緒に体を使って働くことに篤二はふだんにはない喜びを感じていました。血洗島で謹慎の後、東京に戻った篤二は華族の娘・敦子と結婚することになりました。ところがそんな頃、栄一の乗った馬車が移動の途中で暴漢に襲われました。栄一を襲った喜十郎(岡元次郎さん)は栄一には深手を負わせずすぐに外に出て警官を相手に暴れまわり、そのまま逮捕されました。心配して駆けつけた喜作に栄一は、水道管のことで対立した者が人を使って脅してきたのだろうと説明し、亡き妻・千代を奪ったコレラが再び蔓延することのないよう衛生には特に気を配りたいという思いを語りました。 ※栄一を襲ったのは・・ ⇒ こちら 明治27年(1894)夏、徳川慶喜(草彅 剛さん)の妻・美賀子が亡くなり、その話を高松凌雲から聞いた栄一は慶喜も東京で暮らせば、と思いを寄せます。しかし慶喜に対する世間の風当たりは、まだまだ慶喜には厳しいものでした。栄一は慶喜こそが歴史の流れを変えた人物であることを世間の人が知らないことに強く憤っていて、静岡にいる慶喜を訪ねた折に「世の中が次の世代に移ってすっかり変わってしまう前に貴方様の伝記を作りたい、戊辰戦争時に逃げた暗君ではない、貴方様の考えを、偉業を後世に残させて欲しい」と強く訴えました。慶喜は自分は世間からどう思われてもいいと、このときは取り合ってくれませんでした。明治28年(1895)3月、日清戦争が日本の勝利で終結しました。世間の民衆たちは戦争の勝利に酔い、街の至る所で人々は「万歳!」と叫んで軍歌を歌い勝利の喜びを分かち合っていましたが、篤二は一人冷めた思いで街を歩いていました。後日、総理大臣(第二次伊藤内閣)の伊藤博文(山崎育三郎さん)を訪ねた栄一は伊藤から、戦争で清国に勝った日本はもはやアジアの三等国ではない、明治の世になってわずか30年で今や日本は西洋列強と並ぶ文明国になろうとしてる、この先はイギリスを味方につけ一刻も早く一等国の仲間入りをせねば、という話を聞きました。そう聞いた栄一が真っ先に頭に浮かべたのは、ならば徳川慶喜が東京に戻っても差し支えないであろうということで、まだ昔の主君をと伊藤は呆れましたが、栄一は「御前様なくして今の日本はない!」と強く主張しました。2年後の明治30年(1897)、慶喜は静岡から東京に戻ってきました。 こちら 栄一は妻の兼子と篤二夫妻を伴って慶喜の元に挨拶に赴きましたが、篤二は隠居謹慎の間に趣味を極めた慶喜が持つ道具類に興味津々のようでした。
December 7, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。この回は、ビジネスの面では共同運輸と三菱が海運業で生き残りをかけた熾烈な競争でヒートアップし、双方のトップの渋沢栄一(吉沢 亮さん)と岩崎弥太郎(中村芝翫さん)が互いに意地を張って譲らず、かなり無茶をやっていたのだと感じました。「刺し違えてでも!」なんて、いえ、貴方はいいけど下の者たちは困るのですが。そして家庭内では、栄一の後妻で入った伊藤兼子(大島優子さん)には、あらゆる面でのタイミングが悪過ぎて、「仕方がなかった」のかなと。社会的な役割や体裁もあって紹介で迎える妻であっても、幼い頃から知っていた千代とは違い、身上書ぐらいでしか知らない女性の兼子。精神的に余裕があれば相手のいろいろな面を知って情がわくだろうけど、栄一は三菱との熾烈な競争の真っ只中で忙しいどうしようもない時期でそれどころじゃない。一方、篤二は大好きな母・千代を失って、急に新しい母ができても千代への思慕が募り、兼子には馴染めない。どれだけ心をくだいても篤二が自分と距離をつくる。兼子だって栄一が多忙で、精神的にも全く余裕がないのは承知しているが、栄一と篤二の二人の心にいるのは千代で、虚しさと寂しさがつのる。でも兼子はついには離縁を決意するけど、栄一が精神的に落ち着く時期をちゃんと待ってたんですよね。そして栄一は家では兼子と、子供たちのことや社交のことぐらいしかやりとりしてなかっただろうけど、そんな中で兼子がしっかり者であることは感じていたのでしょう。兼子に今までのことを詫び「自分を叱って欲しい」と。栄一が兼子と第二の人生を歩み始めたこの回は、岩倉具視(山内圭哉さん)、岩崎弥太郎(中村芝翫さん)、そして五代友厚(ディーン・フジオカさん)と、個性の強かった方々が退場した回でした。地図のゼンリン社の資料です。五代友厚さん生誕地碑は、大阪の発展に貢献したことから大阪商工会議所の方を向いているとか ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治15年(1882)、渋沢栄一は最愛の妻・千代を病で亡くして気持ちを立て直すことができない日々が続いていましたが、栄一は「今や日本経済の要」とまで言われるほど重要な存在でした。三菱に対抗する共同運輸会社の設立をはじめ、千代への思いにふける間もなく慌ただしい時間が流れていました。大隈重信と三菱の岩崎弥太郎は栄一たちの動きを阻もうとしましたが、当時の世論は共同運輸の味方で、街では大隈や岩崎を非難する声が上がっていました。そんな世間の非難も政府の支援がないのもものともしない岩崎の三菱と、栄一たちの共同運輸会社との間で、海運業界の生き残りをかけた熾烈な争いが始まりました。特に横浜ー神戸間は客の奪い合いとなり、値下げ競争を始め株主優待や船内でのサービス向上、さらに船の速度を上げるなど、互いに次々と採算度外視の競争になりました。2社の争いの様子は新聞の記事になり、講談師の神田伯山(六代目 神田伯山さん)らが新聞の内容を街角で語って人々の耳目を集めていました。三菱との争いで多忙を極め精神をすり減らしていた渋沢栄一(吉沢 亮さん)でしたが、栄一には後添えが必要と考える井上馨や平岡やすの世話で、数年前に没落した豪商の娘・伊藤兼子(大島優子さん)を後妻に迎えることになりました。しかしまだ後妻を迎えるつもりのなかった栄一は、兼子に挨拶をした後は、家のことやまだ幼い篤二のこと、財界や政府の要人たちとの社交をうまくやって欲しい、さらには先々のために子が多く欲しいと淡々と兼子に伝えただけでした。千代を失ってからというもの、何を見ても心が動かない栄一でしたが、結婚した娘の歌子(小野莉奈さん)が初孫を出産したときだけは別でした。渋沢喜作(高良健吾さん)と一緒に歌子の元に駆けつけ、初孫の喜びをかみしめられるかと思ったのですが、心に浮かんだのは孫を待ち望んでいた亡き千代のことでした。栄一は初孫を抱くこともなく退室していき、兼子はそんな栄一をそっと見守りました。明治16年(1883)の夏の盛り、病の床に伏していた岩倉具視は、井上馨に天皇を中心とした国をつくるよう厳命してこの世を去りました。そして共同運輸と三菱の熾烈な争いはさらに激化していきました。力ずくでの積み荷の奪い合いや船員の引き抜きまで起こり、栄一は値下げ競争で減った利益の中から船員の給金加増まで行いました。一方、三菱の岩崎も栄一に負けないよう意地になっていて、ついには栄一の共同運輸の会社の株を買うという奥の手まで出してきました。この共同運輸と三菱の争いは、双方にとって多大な損失を招いているだけでした。それを見かねた五代友厚が仲裁に入りましたが、栄一は聞く耳を持ちません。果ては伊藤博文(山崎育三郎さん)のところにまで出向いて、三菱への非難を怒りのままに並べ立て、自分の正当性を主張して伊藤の力を借りようとしました。そんな栄一を伊藤は、敵の悪口をあれこれ言いふらすのは卑怯だと穏やかにたしなめ、かく言う自分も大隈を追いやったがと言いつつ、自分は日本独自の憲法制定のために1年半もかけて調べてきたと資料を栄一に見せました。そして「ようやくここからが新しい日本のスタートだ」と言い、栄一は伊藤の考えの柔軟さと、全体を俯瞰して先を見て努力している姿勢に感銘を受けました。明治18年(1885)2月、病の岩崎弥太郎は「日本を一等国に、日本に繁栄を!」と弟の岩崎弥之助に後を託してこの世を去りました。その後、やはり病でもう先は長くないという五代友厚(ディーン・フジオカさん)が仲介して共同運輸と三菱との間で話し合いがもたれ、このまま不毛な争いを続けても勝っても満身創痍で、次は外国の汽船会社に持っていかれると誰もが納得しました。双方のために両社が合併するしかないと悟った栄一は岩崎弥之助(忍成修吾さん)に握手を求め、岩崎もそれに応じ、2年半に及ぶ戦いは終わりました。栄一は五代に礼を述べ、そして共に進めてきた電話や馬車鉄道の事業がまだ道半ばであるから、早く良くなって欲しいと五代に言います。しかし死期を悟った五代は「自分が死んでも自分の作ったものは残る。ただ商いで日本が変わっていくところをこの目で見たかった。」と。そして栄一に「日本を頼んだぞ。」と後を託してこの世を去りました。三菱との戦いが終わってひと段落した栄一は、兼子から離縁の申し出を受けました。兼子は、栄一の心が今も亡き千代にあって自分に対しては情がない、篤二も心は亡き母・千代にあり自分に懐いてくれないと、離縁の理由を伝えました。栄一は仕事と千代のことで頭がいっぱいで、一人寂しい思いに耐えていた兼子のことを考えてこなかったことにやっと気が付きました。栄一は反省し「許して欲しい、(そばにいて)自分を叱ってほしい、力を貸してほしい」と兼子に頭を下げ、もう一度やり直すことを乞いました。栄一は兼子と第二の人生を歩み始めました。府議会で経費の打ち切りが決まり廃止の危機にあった東京養育院は、兼子と協力して栄一が自ら経営することにしました。栄一が養育院の経営が厳しいことを語ったとき、兼子が鹿鳴館で聞いたバザーの話をすると栄一はパリでのことを思い出し、自分たちもバザーをやろうと決めました。帰り際に養育院の一室を見たとき、栄一はそこに千代がいたときのことを思い出し、あの世から自分を見ていてくれと千代に誓いました。明治18年(1885)12月、日本に内閣制度が発足し、明治天皇(犬飼直紀さん)は伊藤博文を初代内閣総理大臣に任命しました。明治22年(1889)2月には大日本帝国憲法が発布され、天皇を国の元首としつつも、伊藤たち元老が政治の主導権を握ることとなりました。そのころの栄一には兼子との間に2人の子もでき、仕事は相変わらず忙しいけど落ち着いた温かい家庭がありました。しかしそんな父と継母と弟たちの様子を、遠くから冷ややかな目で見る17歳の篤二(泉澤祐希さん)がいました。
November 30, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、前半は政治・経済での対立やせめぎ合いの間に、渋沢栄一(吉沢 亮さん)の娘・歌子(小野莉奈さん)の見合い話が入ってほのぼのとした空気が流れました。それが後半は、自分の生き方に悩む栄一を妻の千代(橋本 愛さん)がフォローして栄一が気を取り直したと思ったら、突然の永遠の別れになりました。私としてはできれば「明治十四年の政変」のほうをもう少しやって欲しかったのですが、いくつかの感想サイトを見ると、千代のシーンで感動だった方が多い感じでした。まあ私も若い頃ならラストの10分はボロ泣きだったかな。今回私の心に残ったのは「栄一は欲深い男」という言葉。たしかに、良い意味でそうだと思います。たぶん誰でも、例えば「〇〇大学に入りたい」、「〇〇を手に入れたい」などの “欲” が出たときから、それを成し遂げるために自分を奮い立たせて頑張ると思いますから。私は渋沢栄一氏は、世の中を良くしたいという欲をもち、それに向かって前進し続けることができる「頭脳、体力、親の財産、人の和」など持って生まれたものがあって、そして幾度も危機を乗り越えたり、幕末の動乱期に渡欧できて国内の危機に遭遇せずに済んだなど、そういった強運は渋沢氏の志の高さと信念に天が味方してくれたのか、なんて思いました。さて、地図のゼンリン社の資料です。開拓長官 黒田清隆さん。ちゃんと後世に続く事業も築いています。 ⇒ ⇒ こちら 谷中霊園には、青天を衝けに登場した人物のお墓がたくさんあります。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治14年(1881)、海運業を独占する三菱の岩崎弥太郎に対抗するために、渋沢栄一(吉沢 亮さん)は海運業者の合本組織となる東京風帆船会社を設立しました。しかしそれを良く思わない岩崎は、栄一が事業に失敗して自殺したとかの悪い風説をあちこちに流布し、それを耳にした渋沢喜作(高良健吾さん)が驚いて慌てて栄一のところに噂の真相を確かめに来たでのした。この岩崎の策略により栄一の風帆船会社は開業前から暗礁に乗り上げ、同時に岩崎は他の商売人たちに三菱と手を組むよう呼びかけ、三菱の事業を拡大していきました。またこの頃、栄一が院長を務める東京養育院では物価の上昇や収容人数の増加でさらに経営難に陥っていて、栄一の妻の千代たちも院の仕事を手伝って経費を削減するために頑張っていましたが、たいした成果にはなりませんでした。東京府会での意見の多くは、税収が少ない今は養育院のために税を使うべきではない、貧民が慈善家や誰かに頼るようになったら惰民になる、という主張でした。 こちら しかし栄一は、国が一番守らねばならぬのは人であり救済は必要だと主張します。議会では互いに「あなたの意見が間違っている(意訳)」と激しく言い合うだけでした。(ここの部分のややこしい言い方の応酬は私の頭では理解不能でした)そんな頃、栄一の長女・うた(小野莉奈さん)は伊達宗城の仲立ちで旧・宇和島藩士の穂積陳重(田村健太郎さん)とお見合いをしていました。はじめは乗り気でなかったうたでしたが、穂積から「あなたの父上と母上はどのような方ですか」と問われたとき、うたは思いつくまま様々なことをしゃべっていました。次から次へと父母のことを話すうたは、穂積に心を許していたのでしょう。穂積もそんなうたを愛おし気に見つめていました。そしてうたが、ところで私のことは尋ねないのかと聞いたとき穂積は、「あなたのことも知りたい、僕のことも知って欲しい」と力強く言い、うたも「はい、是非!」と明るい笑顔で返しました。(=縁談が成立)一方この頃、北海道開拓使の官営工場が薩摩の五代友厚に不当に安く払い下げられると新聞に書き立てられ、政府を悪者にしようとするでたらめな記事に、伊藤博文(山崎育三郎さん)と井上馨は怒りをあらわにしていました。伊藤と井上は、北海道を狙っている岩崎に大隈重信(大倉孝二さん)が便宜を図ろうとしていることを知っていて、この機に乗じて大隈を排斥しようと考えました。そこで大隈が不在のまま臨時で御前会議を開くように事を運び、伊藤は会議後の夜中に大隈邸を訪れ、今すぐ辞表を出すよう大隈に迫って、大隈を政府から追い出しました。『明治十四年の政変』について ⇒ ⇒ こちら 大隈の失脚は五代友厚(ディーン・フジオカさん)にとってとんだとばっちりでした。五代は、自分は汚い商いはしていない、新聞の内容もでたらめばかりだが自分が反論したら大隈がさらに叩かれる、北海道の仕事を失ったがまた別のことをすると。そして「名誉や金よりも大切なのは目的、皆が協力一致して豊かな日本をつくることこそ正義だと自分は信じている。商売人としては岩崎のほうが優れている。」と言い、栄一に向かって「君は欲深き男だ」と付け加えました。春になり、歌子は穂積陳重と結婚し、身内のみでの披露宴を行いました。でも渋沢喜作が「結婚とは夫婦が苦楽を共にし、偕老同穴を互いに誓い合うものだ。楽しみも苦労も~~・・」と話が続くので、妻のよし(成海璃子さん)から「長ぇ」と声がかかり一同から笑いが。(身内だけの集まりだから、こういうのも有りかな)娘・歌子の結婚式も済み、夜になって二人で落ち着いたときに栄一は「自分こそが日本を変えてやるという欲に満ちている」と五代から言われたことがずっと気になっていて、千代(橋本 愛さん)にそのことを話しました。「若い頃は自分が正しいと思う方向に真っすぐ突き進んでいったが、今の自分は~~」と栄一が語ると千代は「お前様の若い頃は正しいと思うままどこへでも行って、お金も使って、生きる方向を突然変えて、何を考えているのかわからなかった。寂しい思いもした。」とこれまで秘めていた思いを夫・栄一に伝えました。でもその後に「お前様の心が、誰よりも純粋で温かいことも知っている。いろいろなものを背負うようになった今も堂々と仕事をしていて、心の根っこは変わっていない。」と栄一の本質の部分の良さを伝えました。千代の言葉で心が軽くなった栄一は、己の信ずる道を進む決意を新たにしました。ところがほどなくして、千代が突然病に倒れました。千代はコレラに罹ってしまい、医師からは子どもたちを近づけないようにと強く言われ、子どもたちは母を遠巻きに見舞うことすら許されませんでした。 ⇒ ⇒ こちら 千代がいないと自分は生きていけないと取り乱す夫・栄一に千代は、苦しい絶え絶えの息で「生きて。必ず、あなたの道を」と伝え、そして力尽きてあの世に旅立ちました。「お千代、逝くな!」ーー父の涙ながらの叫びが聞こえて母の死を悟った歌子とこと(森 美理愛さん)は母の傍に行こうとしますが、陳重と医師に力づくで止められました。感染症となった千代の遺体はすぐに火葬され、最愛の妻を失った栄一は千代が焼かれる炎の前でただ茫然と立ちすくむばかりでした。千代の死を、関わりの深かった大人たちはそれぞれの立場で受け止めていました。千代の従兄弟であり、千代が初恋の女性でもあった渋沢喜作。知らせを聞いて群馬の富岡から急ぎ駆け付けた千代の兄・尾高惇忠(田辺誠一さん)は長七郎、平九郎、そして千代と3人の弟妹が自分より先に旅立ってしまいました。栄一の妾であっても母娘で渋沢邸で一緒に暮らして千代に良くしてもらってた大内くに(仁村紗和さん)は、亡き千代への思いにふける栄一を遠くから静かに見守りました。そして栄一は千代が最期を迎えた場所を振り返って、千代と過ごした時間にさまざまな思いを馳せていました。
November 23, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は主人公の渋沢栄一(吉沢 亮さん)の活躍はさほど目立たなかったのですが、その代わりに妻の千代(橋本 愛さん)及び栄一が仕事で関わる人々の夫人たちが各所で活躍した、歓迎会の風景も合わせて見た目にも明るい回でした。世の流れをつくり外を動かすのは男たちです。でも内を治めて動かし、男たちがつくった世界の価値をより高いものにするのは女たちでした。奥ゆかしい千代は初めての歓迎会で社交に出たときは、女も変わらなければと言い聞かせて臨んでいました。しかし次に、グラント将軍一行をこの渋沢家に迎えるという女主人の立場になったときは、接待のために家の者たちを総動員して内装や料理など必要なことをどんどん差配していき、自ら生き生きと動きました。千代だけでなく渋沢喜作の妻・よしも、他の夫人たちも娘たちも、日本が一等国となろうとしていたこの時代にそれぞれが陰で、学問や教養や立ち居振る舞いの努力を重ねて、夫や父の評判が落ちないように努めていたのであろうと想像しています。そんな女たちの頑張りを男たちもちゃんと認めてくれていた、いい回でした。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治12年(1879)春、夫たち(渋沢栄一、渋沢喜作)から3か月後に来日するアメリカのグラント将軍一行をもてなすために、妻の自分たちも公の場に出て働くよう言われた渋沢千代(橋本 愛さん)と渋沢よし(成海璃子さん)。挨拶のために大隈邸に赴くと、大隈重信の妻の綾子(朝倉あきさん)から井上馨の妻・武子(愛希れいかさん)と大倉喜八郎の妻・徳子徳子(菅野莉央さん)と益田孝の妻・栄子(呉城久美さん)を紹介されました。夫人たちは夫・井上とともに欧米を廻ってきた武子から西洋式の流儀を教わっていたのですが、流れからいつのまにか女子会トークで盛り上がってしまいました。グラント将軍をもてなしたときに、日本が西洋から見て見劣りのないように振舞おうと夫人たちが流儀の習得に励む一方、渋沢栄一や福地源一郎や益田 孝ら男たちは、将軍のもてなしには陸軍が競馬や流鏑馬を披露したり、芸能では歌舞伎を演じたりはどうかと打ち合わせが盛り上がっていました。しかし東京府民の中には栄一らが府民を代表して歓迎行事を進めることに不満を持つ者もいて、沼間守一(オレノグラフィティさん)のように街頭で栄一らの批判を演説して世に訴える者もあらわれました。そして7月、横浜港にアメリカ合衆国前大統領ユリシーズ・グラント(フレデリック・ベノリエルさん)が家族とともに到着しました。渋沢栄一(吉沢 亮さん)が歓迎文を読み上げ、グラントが礼を述べて栄一と握手を交わしたとき、岩倉具視(山内圭哉さん)はすっと立ち上がって拍手をし、伊藤博文(山崎育三郎さん)ら欧米経験者もそれに続き、拍手とスタンディングオベーションという西洋の流儀をそこにいる皆に促しました。そしていよいよ夫人たちが表に出る夜会の日がきました。大隈綾子は宮廷装束を身にまとい、井上武子と娘の末子(駒井 蓮さん)は踊りやすいようにドレス姿で現れました。よしは藍農家の出で蚕を育ててきたせいか、自分が着飾ることよりも武子のドレスに使われた上質な絹や縫製が気になってしまいました。グラント将軍一行を歓迎する夜会が開催されました。グラントが入場すると大きな拍手で出迎え、夫人が入場したときに女性たちが事前に練習した笑顔で出迎えると夫人はたいそう嬉しそうでした。楽団が演奏する中で西洋人とワルツを踊り、英語で会話を交わし、その姿を見た男たちは臆することなく人前に出て社交するワイフたちの姿に感心していました。さて夜会も無事に終わり、次の歓迎会をどうするかとなったときに、グラント将軍から西洋風に個人の家に招かれたいとリクエストがあり、栄一の家に来ることになりました。とはいえそれは明後日のことで、この家ではとてもできないし飛鳥山の家はまだ建ったばかりで内装も外装もできていなくて、栄一は困り果てました。ところがそのとき千代が「これは僥倖。こんな光栄なことはない。とにかくあと2日であの邸を仕上げてご降臨を仰ぎましょう!」と奮い立ちました。そしてすぐさま皆に指図をして飛鳥山の邸宅の準備が始まりました。人手をかき集め千代が指揮をとり、なんとかグラント将軍一行を迎える準備が整いました。庭では日舞や武術や相撲が披露され、将軍はことのほか相撲が気に入ったようでした。飛鳥山でのグラントのもてなしは、日本初の民間人による国賓接待でした ⇒ こちらただ伊藤博文は、前大統領で今では大きな権限をもたないグラント将軍をここまでしてもてなす必要があるのかと考え、また英・仏・独・露はこの一連の歓迎行事を快く思っていないということを、栄一に密かにこぼしていました。 栄一と伊藤がそんな話をしていたら、渋沢喜作(高良健吾さん)とよしが前掛けをして現れ、故郷・血洗島名物の煮ぼうとうを用意して食するよう皆に勧めました。行く先々で豪華な料理ばかり食べているからかえってこれが美味しいだろうと想像した喜作の読みどおり、グラント家族は日本の家庭料理の味に舌鼓をうっていました。皆の喜ぶ顔を見て安堵して自分もまた喜ぶ千代。栄一はホステス(女主人)として生き生きと働く千代の姿をまぶしそうに見ていました。煮ぼうとうで人心地ついた後、グラントが自分がオハイオの農場で育った話などして、共に農家の出であることなどに栄一と喜作は親近感を感じました。そしてグラントは栄一たちに、各国を廻る旅で気が付いたことを話してくれました。「今アジアではヨーロッパの影響が強く、アジア人は軽んじられ権利を無視されている。今日本は欧米に肩を並べようとしているが、欧米人は日本が対等になることを望んではいない。日本が独立を守り成長するのは大変なことだ。」と。しかし最後に日本語で皆に「それが成功することを願っている」と励ましてくれました。そして話の後でグラントは栄一に「自分も相撲がしたい」とリクエストし、初老ながらアメリカ軍人の意地で力の入った取り組みをして日本での思い出にしました。グラント一行は飛鳥山でのもてなしの後、上野公園での歓迎会には明治天皇の行幸もあり、一連の行事は大成功に終わりました。その成功の裏には、自分の想像以上に肝が据わっていた千代の内助の功があり、栄一は千代に「お千代は世界に冠たる女子だ」と誇りに思うことを伝え、改めて感謝しました。2か月の滞在を終えてグラントは帰国、そして日本が国力を高めることに力を注ぐ中、政府の保護の元に三菱の岩崎弥太郎(中村芝翫さん)は海運業を独占しました。岩崎は大隈重信(大倉孝二さん)との話で、黒田清隆が10年かけても開発できない北海道を自分に預けて欲しいと頼みます。 ⇒ ⇒ こちら しかし政府の御用商人ばかりが優遇され利益を得る世の中を人々は不満に思い、この頃から自由民権運動が盛んになっていきました。 ⇒ ⇒ こちら また政府の中でも伊藤・井上が大隈と対立し、二人は大隈を排斥しようといました。機に乗じて三菱が海運業を独占したため三井は海運会社を潰され、さらに船賃まで値上げされて物産業までやられているので、益田 孝(安井順平さん)は栄一のところに助けを求めてきました。三菱の独り勝ちは日本の国のためにも良くないから打破しなければと栄一は考え、自分たちも合本による船会社をつくろうと提案しました。
November 16, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、メインは渋沢栄一(吉沢 亮さん)が岩崎弥太郎(中村芝翫さん)と激しく対立する中で、危うく自分の在り方を失いかけたところに、恩人の平岡円四郎の妻・やす(木村佳乃さん)が現れて、かつて円四郎に言われた言葉を思い出して自分を取り戻したところでしょうか。しかし私は、今回は栄一の妻・千代を演じる橋本 愛さんの存在がいいなあと思って見ていました。文明開化で気が緩んでしまった書生たちを、今の世を作るために命をかけた先人を忘れるなと叱ります。逆に大人たちからの愛情に飢えた子供たちには、優しく接しながら、身の周りのことを教えていました。ところでこの書生というのはいつごろからいたのかと思ったら、学制(1872)ができてからなのですね。地方から都会に出てきて勉学に励む姿は、ドラマの『坂の上の雲』や『いだてん』で出てきましたね。文明開化を学問の面で感じる部分です。さて、地図のゼンリン社の資料です。史実では、岩崎弥太郎さんがいたのは墨田区向島。このとき栄一さんは、・・ ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治11年(1878)、大隈重信による積極財政で景気は一時的に良くなり、この機に乗じて銀行を作りたいと願う人々が渋沢栄一(吉沢 亮さん)の元に集まるようになり、その人たちが持ってくる高級な手土産を子どもたちは単純に喜んでいました。妻の千代(橋本 愛さん)は子どもたちを贅沢に浮かれないようたしなめたり、夜は本を読んでやったりと、躾や教育に常に気を配っていました。西南戦争で莫大な戦費を使った明治政府は、幕末に諸外国と結んだ不平等条約の改正が急務となり、これは世論だと伊藤博文(山崎育三郎さん)はイギリス公使のパークスに訴えましたが、日本は世論を知るすべもなく馬鹿げていると返されました。そこで伊藤は文明国の第一歩として世論を集めるべく、栄一らに商人たちで会議所を作るよう依頼、栄一は今こそ商人が力を合わせる時、これがうまくいけば官ではなく民であっても日本の代表として声を上げることができる、と話を引き受けました。渋沢家には栄一を慕い学ぼうとする若者たちが書生として住んでいました。あるとき、栄一のことを誤解した悪い噂が流れていて暴漢がこの屋敷を襲ってくるかもしれないという話になり、ならばそのときにどうするのかと千代(橋本 愛さん)は書生たちに問いました。小野田(坂口湧人さん)も守山(川野快晴さん)も水野(黒住尚生さん)も皆「警察を呼べばいい、自分が戦って死ぬなんて文明開化を知らぬ時勢遅れだ」と笑うだけです。千代はそんな彼らを「自分が何もせずに文句だけを声高に叫んで満足するとは情けない、命をかけて今の世をつくってくださった先人を軽蔑するとは!」と真剣に叱りました。金持ちが一流の芸者を集めるお座敷の風景。時代劇ならではの見どころだと思います。東京では栄一が、大阪では五代友厚が商法会議所を開くべく準備を進めていました。ある日、栄一は三菱の岩崎弥太郎(中村芝翫さん)に招かれ、二人で語り合いました。初めのうちは、共に百姓の出であることや若い頃は役人の理不尽に悲憤慷慨したこと、また故郷を出るときに山に登って志を果たすことを誓ったこと、現政府への不満など、互いによく似た部分があって、栄一は岩崎に親しみを感じました。しかし話が進むと二人は「この国を強くする、豊かにする、一等国にする」という目的は同じであっても、そのための手段が違っていました。岩崎は「強い人者が上に立って皆を動かす」と言い、栄一は「多くの民から金を集めて大きな流れを作り、利益を皆で分けて多くを潤す」と言います。岩崎は栄一の考えを綺麗ごとだと言い、自分たちが手を組めばこの国の実業を思い通りに動かすことができると栄一を引き込もうとしますが、栄一は「事業は国利民福を目指すもの」と意見は激しく対立し、岩崎の誘いを断固拒否しました。栄一は帰ろうとしましたが、なんとしても栄一を説得したい岩崎に引き止められどうしたものかと思っていたら、廊下の向こうから平岡やす(木村佳乃さん)が手招きしてくれ、栄一は厠に立つと言って座敷を出ました。やすが「あんたは自分の道を行きな」と言ったとき栄一は、百姓だった自分を武士に取り立ててくれた恩人の平岡円四郎のことを思い出し、自信を取り戻しました。「きっと、いい世にしておくれよ。あの人のためにも」と言うやすに、栄一は粉骨砕身することを誓ってその場を後にしました。栄一から以前、養育院の子供たちが厳し過ぎる境遇にあると聞いた千代は、一度自分も養育院を訪ねてみたいと栄一に頼んでいました。栄一が大人たちの要望を聞いている間、千代は子供たちの様子を見に来ていました。子供たちは食と住は与えられるものの、貰い物の破れた古着を繕うことも知りません。千代はマツ(田中千空さん)の着物を縫ってあげ、千代のやることを他の子たちも傍で興味深げに見ていました。たいていの人は幼い頃に、親や祖父母や兄姉といった年長者のやることを見て、その人に習って、生活に必要なことを学んでいくと思います。親の都合で養育院で暮らすことになった子供たちは裁縫を知らなかったので、千代は皆の分の裁縫道具を借りて裁縫を教えてあげました。子供たちは千代に優しく教えてもらって、上手だねと褒めてもらって、怪我をしたら手当してもらって、我慢せずに泣いて甘えて、いつもと違うひと時を過ごしました。その光景を見た栄一は千代に、毎月ここの子たちの顔を見にこよう、何かは変えられるはずだと提案し、千代はその後頻繁に養育院を訪れるようになりました。また栄一は、ガスや電気など人々の暮らしに役立つ事業を発展させていきました。他にも、製紙、生糸、造船、印刷などの事業にも関わっていたようです。 ⇒ こちら 栄一が事業の発展に忙しくしているさなか、岩倉具視(山内圭哉さん)からアメリカの前大統領のグラント将軍が来日するという話を内々に聞かされました。これは日本が一等国として認められる好機であり、20年来の不平等条約を改正するきっかけとなる千載一遇の好機なので、政府は国の威信をかけてもてなしたいと。しかし欧米では国の賓客を迎えるとき、王室や政府の他にその土地の市民の歓迎が必要。そこで東京商法会議所の皆に、民の代表としてグラント将軍を盛大にもてなしてほしい、と伊藤博文(山崎育三郎さん)から頼まれました。栄一は「新しい日本の力を外国に示そう!」とこの役割を引き受けました。帰宅して栄一と渋沢喜作(高良健吾さん)から、自分たちおなごもグラント将軍一行をもてなすことになったと聞かされ、よし(成海璃子さん)は気が引けました。しかし千代が「おなごの私たちも大事な仕事を頂いた。頑張ろう!」とよしを鼓舞して気持ちは前向きになりましたが、何から準備したらいいのか悩むことになりました。
November 9, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は後半での、外国の商人たちが仕掛けた経済の戦で、栄一たちが見事に返り討ちにした、蚕卵紙の焼き払いが痛快で印象に残りました。幕末のときから共に働くなど渋沢栄一(吉沢 亮さん)とどこかで交流を持った人々が、輸出の激減で国としても大ピンチとなったときに、それぞれ職業や地位の立場を変えて集まり、力を合わせて乗り越えていきました。それは渋沢喜作(高良健吾さん)の言う「10年越しの焼き討ち」でもあり、栗本鋤雲(池内万作さん)の言う「パリで新聞に泣かされつつ学んだことでの見返し」でもありました。武器を持った戦ではなく経済での戦であり、蚕卵紙を燃やして立ちのぼった炎は、先に命を散らした真田や長七郎や平九郎への鎮魂だったと感じました。それにしても西南戦争で西郷隆盛が亡くなったことを視聴者に伝えるのに、場面ナシのナレーションで伝える「ナレ死」どころか、新聞の文字を画面に映すだけの「新聞死」で終わりました。「新聞死」・・私はこの言葉がなんか笑えて、しみじみ思うはずの場面がブッ飛んでしまいました。さて毎度ですが、地図のゼンリンさんが作る地図資料です。男気溢れる古河市兵衛さん、ご自宅は現在の日本橋室町 ⇒ ⇒ こちら 西郷隆盛さんの最後の戦い ⇒ ⇒ こちら 大久保利通さんは、自宅から赤坂御用地に向かう途中 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治7年(1874)、渋沢栄一(吉沢 亮さん)が総監役に就任した第一国立銀行は、政府から急に預け金全額の担保を申し付けられ、経営の危機に陥りました。栄一は大隈重信(大倉孝二さん)を訪ねてこのことに抗議しますが、政府は佐賀の乱や台湾出兵で出費がかさみ大変なときであると大隈は取り合わず、帰るようと促しました。話合いができないので栄一も売り言葉に買い言葉で「もう結構!」と出ていきました。夫・大隈は何かあるとすぐ怒り出すので妻の綾子(朝倉あきさん)は、五代友厚が大隈の短所を諫めた文を持ってきて夫を叱りました。この大隈の奥方、良い感じで出てきて可愛いですね~。三井組はなんとかなるけど小野組はこれまでの放漫経営で担保になるものはなく、小野善右衛門(小倉久寛さん)は栄一に助けて欲しいと懇願します。しかし栄一は、これからの日本の経済の発展のためにも第一国立銀行をつぶすわけにはいかない、それは無理だと伝えました。小野組番頭の古河市兵衛(小須田康人さん)は、政府に取られるよりは栄一の恩に報いたい、出せる資産は全て出すと言い、小野組の犠牲で栄一はこの危機を乗り切りました。大蔵省は第一国立銀行に紙幣頭附属書記官のシャンドを派遣し、日本で初めてとなる本格的な西洋式銀行検査を行いました。その結果、小野組の破綻により回収できない貸付が71万円あったが、様々な努力で1万9千円に抑えられ、これは評価できると。しかし大口の貸付が三井組のみになされているのは良くない、大蔵省は三井組への特権をはく奪、栄一には監査役から第一国立銀行の頭取になることを命じました。そしてシャンドは帰り際に栄一に、銀行を大事に育てるようエールをくれました。そのころ大阪の五代友厚(ディーン・フジオカさん)は「碁の会」を開いていて、五代邸には大久保利通(石丸幹二さん)や木戸孝允らが集まっていました。囲碁をしながら、このところの経済情勢や国際情勢など情報交換がされていました。そして五代は大久保に、自分の弱みを顧みよ、時には弱みを見せたほうが人は動く、自分の目指す日本を作るにはもっと多くの味方がいるなどさりげなくアドバイスをし、大久保もまた五代の言葉を有難く受け入れていました。仕事が少し落ち着いた栄一は、静岡の徳川慶喜(草彅 剛さん)の元を訪れました。栄一を出迎えた猪飼勝三郎は、今この邸は懐具合が厳しいとか、慶喜はかつての徳川家臣とはほとんど会わないけど栄一だけは歓迎しているとか近況を話してくれました。そして久しぶりに会った慶喜はすっかり洋装になり、狩りや絵画や写真などの趣味に没頭しながら、妻の美賀子や子どもたちと静かに暮らしていました。栄一は静岡で奥方の美賀子から、先日故・平岡円四郎の妻・やすが来て、戊辰戦争やその後の明治政府の対応の悪さから巷には無職の侍や病人や親のない子が溢れていて、これでは戦で死んでいった者たちが浮かばれない、と訴えていたことを聞きました。東京に戻った栄一は、尊王攘夷運動で中断していた学問の「論語」を再び読み始め、その内容を改めて胸に刻んでいました。そしてふと、フランスで見たご婦人方の福祉活動と母・ゑいのことを思い出し、妻の千代(橋本 愛さん)に、この先は自分が養育院の面倒を見たい、大事なのは民だ、今のままでは先人たちに胸を張れない、と語りました。 ⇒ こちら 明治7年(1874)、ただでさえ機械類や綿織物の輸入超過で日本の金貨や銀貨が大量に外国に流れていたとき、夏が過ぎた頃から日本の大事な輸出品である蚕卵紙を外国人が一斉に買わなくなって輸出ができなくなっていました。これは国家としても危機であり、大久保はこの対策を栄一に頼むことにしました。しかしこれは大仕事であり、銀行業が大変な栄一は初めは断りましたが、大久保が「自分は経済のことはわからない。国を助けると思って味方になってほしい」と本音を話したので、栄一も問題解決のために政府の資金を使うことを条件に引き受けました。栄一は横浜の渋沢商会に渋沢喜作(高良健吾さん)や尾高惇忠(田辺誠一さん)ら、生糸を生業とする人々を集め、計画を説明します。政府が内々に用意した金で売れずに困っている蚕卵紙を全て買い上げる、それを全て燃やして売り控えをする、その旨を新聞に載せて世間に広く報じる、というものでした。広告は長い内容でしたが、郵便報新聞の主筆になっていた栗本鋤雲(池内万作さん)は、「徳川はパリでは新聞に泣かされたが、新聞は世論を動かし、世論は政府をも動かすとわかった。今度は外国を見返す番だ。」と自分の社が引き受けると言い、それを聞いた東京日日新聞の主筆の福地源一郎(犬飼貴丈さん)も自分たちも掲載すると言いました。日本の産業=日本の国を守るために、皆が力を合わせて動きはじめました。「焼き討ちだい。10年越の…俺たちの横浜焼き討ちだい!」喜作が感慨深げに言うと、あのとき攘夷を目指して共に計画を企てた栄一と惇忠は深くうなずき、蚕卵紙の買い付けと焼却と世論への訴えは実行に移されました。日本人の本気を知って慌てふためく外国商人たち。天に向かって燃え盛る炎を見て、惇忠と喜作と栄一はあの世にいる長七郎や平九郎のことを思い浮かべました。 ⇒ ⇒ こちら 年が明け、栄一は自宅に喜作や五代らを招き、鍋を囲んで語りあっていました。西の方ではいよいよ今の政府に反感をもつ士族たちが戦を起こそうとしていて、戦に金を使っている場合ではないと栄一は言うけど、三井物産の益田 孝(安井順平さん)などは「戦は商人にとって好機」とも言います。そんなとき喜作が栄一の机の上にある論語の本を見つけ懐かしがりました。栄一は論語を座右の書にして、その教えを胸に商いの世を戦うと決めていました。この日はまた三野村利左衛門(イッセー尾形さん)も栄一の家を訪問していました。栄一は千代から、三野村が明治の世になってすぐ処刑された小栗忠順の子を育てていると聞いて、三野村への見方が少し変わっていました。その三野村は、今の世がすっかり金中心になったことをやや危惧しつつ、明治10年(1877)この世を去りました。そしてこの明治10年には戦費に4200万円(国の税収4800万円)を費やした西南戦争が起こり、西郷隆盛を失いました。
November 2, 2021
愛知県犬山市にある 博物館明治村 のご紹介です。先日、 海上保安庁 からのお知らせで、11月1日が「灯台記念日」なので明治村の3丁目にある品川燈台でイベントが行われるとのことでした。私の場合、ちょうど年間パスポートの更新もあったので、久しぶりに明治村に行ってきました。( ↑ ここ数年は年パスを使う回数がホントに少なくてちょっともったいない感じだけど、やっぱり更新しています)この品川燈台はふだんは中に入れなくて、隣の資料館だけ見学することになってます。 ⇒ ⇒ こちら でも年に一度、灯台記念日前後の週末だけは燈台の中を見学できることになっているようです。なかなかない機会なので私も見学してきました。 ⇒ ⇒ こちら 私は昨日の金曜日に行ってきました。時期的に遠足のシーズンということもあり、村内はいろいろな学校の学生たちで混雑していました。でもこちらの燈台に興味がある学生はあまりいませんでした。燈台は一人ずつの見学なので皆さん並んで待っています。私の順番が次なので、前に人がいないうちにまず全体をパシャリお天気は快晴で、青空に万国旗が映えてラッキーでした。品川燈台の内部は、このように人が一人やっと通れる幅です。燈台のてっぺんのガラス部から外を眺めています。明治村の、この日だけの特別なアングルです。真っ黒な海に光を遠くまで届けるレンズ部です。これがどのような光を出していたのか、ちょっと気になります。内部を見学して下りてきたら、私の次に順番を待っていたどこかの学生たちが、記念撮影をしていました。カメラマンをしているのは先生です(とても若い)この後、常設展示の資料館を見学しました。カーテンで仕切られた暗い部屋に入ると、人感センサーでレンズが回転を始めます。説明には「水銀槽式回転機械」とあり、昭和2年に神島灯台に設置されたものです。30秒ごとに3回光がきらめく回転灯とあります。資料館の外では海上保安庁の皆さんがペーパークラフトやバッジを用意していて、今日の記念にくださるとのことでした。私もペーパークラフトをいくつかとバッジと海上保安庁のパンフをいただきました。
October 30, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。人の価値観は、生まれ育ちと大人になってからの人生で大きく変わるものだと、岩崎弥太郎(中村芝翫さん)の登場で実感した回でした。裕福な農家育ちの渋沢栄一(吉沢 亮さん)と、そこそこの武家の出である井上 馨(福士誠治さん)は、もちろん親のまっすぐに生きよという教育もあるでしょうが、ドラマの中では自分の意見を大事にできる立場が多いようです。対照的に岩崎弥太郎は下級武士出身ゆえか、人に頭を下げて下げて生きてきて、自分の主義主張よりも金を儲けて権力を持つことの重要性を優先して、都合がいい話には機を逃さず乗じて、富と権力を作っているように思えました。そしてもう一つ、私が興味をそそられたのが「筆算vs算盤の対決」でした。筆算では、てっきり5・6段をまとめて計算するかと思ったけど、あれは2つずつ計算を進めていくのでしょうか?また算盤では、ドラマの中では読み手がいましたが、算盤を習った人ならたいてい、左手で伝票をめくりながら計算するのを練習しているから、読み手はいなくてもできるものかと思っていました。算盤は計算の答えが珠の形ででているのがいいですね。また算盤もふつうの計算も同じですが、何度も繰り返し練習すると、例えば「5+8=13」のように計算を記憶してしまい、それが計算の速さにもつながります。なんにせよ昔の人が言う「読み・書き・そろばん」は学問の基礎であることに変わりないと思っています。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治6年(1873)5月、渋沢栄一(吉沢 亮さん)は井上 馨とともに官を辞しました。栄一は自分を引き留める三条実美(金井勇太さん)や玉乃世履(高木 渉さん)に、「役人が偉くて商人が卑しいという考えこそなくしたい。商人こそ志が必要。産業が発展しなければ国に金が生まれない。自分はその民の魁となりたい。」と迷うことなく考えを述べ、政府を去りました。その後、栄一は民間資本による日本初の銀行となる第一国立銀行の総監役に就任し、出納は従来の帳面ではなく西洋式の簿記を習得するよう皆に言います。授業に先立ち、簿記を教える紙幣頭附属書記官のアラン・シャンド(リカルド・バリツァリさん)は、西洋数学には筆算があるから算盤は必要ないと言って皆から算盤を没収しようとしますが、栄一はそれに反論し佐々木勇之助(長村航希さん)が代表で出てシャンドと計算の対決をすることになりました。結果は算盤の勝ちで、シャンドは算盤を使うことを渋々認めました。栄一が総監役となった銀行は開業しましたが、まだまだ問題が山積みでした。まずは働く者たちが銀行というものをわかっていない、株主も貸出先も三井と小野の関連ばかり、三井と小野が双方で張り合って揉め事が絶えないというありさま。栄一は、思い起こせばパリでも話が合わない人たちの仲介ばかりしていたと、栄一を訪ねてきた五代友厚に愚痴をもらしました。そんな栄一を五代友厚(ディーン・フジオカさん)は、そうやって手を結ばせることがカンパニーだと励まし、自分も今は西でカンパニーをしていると語ります。そして栄一が、五代が途中で投げ出した政府の仕事を自分はやれる限りやってきた自負があると言うと、五代は「先に民に下った自分からアドバイスがある。商いは魑魅魍魎が跋扈している。」と栄一に伝えました。井上と栄一は政府を去ったときに、新聞社を通じて政府の内情を暴露する投稿をしていて、このことを三菱商会の岩崎弥太郎(中村芝翫さん)「(いくら正論でも)元いた場所をけなすのは一文の得もない。」と批判しました。そして井上と渋沢が辞めた後の大蔵省にこれから自分が行ってやると不敵に笑いました。冬になり、栄一の母・ゑい(和久井映見さん)が体調をひどく崩したので、東京の良い医者に診てもらおうと栄一は母を呼び寄せました。栄一の妾のくに(仁村紗和さん)とその子の存在を栄一の姉のなか(村川絵梨さん)は快く思っていませんでしたが、ゑいにとっては栄一の子であることに変わりなく、孫のふみを愛おしく感じていました。しかしゑいは、ただ栄一の妻の千代(橋本 愛さん)にだけは、妾のくにのことを含めいろいろ申し訳ないと思っていました。そんなころ渋沢喜作(高良健吾さん)がイタリアから帰国し、栄一を訪ねてきました。喜作は、今の政府は西郷隆盛と江藤新平が出ていって岩倉具視と大久保利通が牛耳る状態で面白くない、自分も辞めて出ていく、横浜で生糸の商いをすると言います。折しも、従兄弟の尾高惇忠が監督を務める富岡製糸場で作った生糸がウィーンの万国博覧会で二等進歩賞を受賞し、製糸業が盛んになりつつありました。 ⇒ こちら 栄一は忙しいけど富岡と徳川慶喜のいる静岡に行ってくると言い、喜作を誘いますが、喜作は慶喜に合わせる顔がないと言って栄一の誘いを断りました。母・ゑいは栄一が役人の仕事を辞めたことを案じていましたが、栄一は商人の今の仕事のほうがよほどやりがいがあると母に答え、そして今進めている銀行の券を母に見せて、これを今はアメリカに頼んでいるがいずれは日本で作りたい、紙幣・切手・土地の証書などの元になる洋紙が日本で作れれば「みんなが便利になる」と母に語りました。世の中が良くなる夢を語る栄一にゑいは一言だけ「近くにいる者を大事にするのを忘れてはいけないよ」と念を押しました。栄一の娘・うたが学校から帰宅し、皇后様が蚕に手ずから桑の葉を与えているという話になり、皆でお蚕さまの歌を歌っていました。その歌声は離れた部屋にいるくににも聞こえてきました。妾という立場ではあっても、栄一の世話を受けることができて生活は安泰。本妻の千代は自分に辛く当たったりしないどころか、むしろ優しい。それでも、自分はあの声の輪の中に入ってはいけない。いつも一歩控えてそれで十分だけど、どこか寂しさを感じたときでした。そして、ゑいの最期のときがきました。医師が家族を皆集めるように言ったとき、千代は別室のくに母娘も連れてきました。千代はくにに部屋の中に入るよう勧めますが、くには遠慮して廊下に座りました。朦朧とする意識の中でゑいは「栄一、寒くないか?、ごはんは食べたか?」とすっかり立派にな大人になった息子の身を案じ、嫁の千代には「ありがとうね」と言葉を残して息をひきとり、あの世に旅立っていきました。年が明けた明治7年(1874)1月、岩倉具視(山内圭哉さん)は西郷隆盛を慕う不平士族に襲撃され、岩倉の命は助かりましたが、その後も江藤新平が佐賀で乱を起こすなど西日本の各地で不平士族たちが不穏な動きを見せていました。大久保利通は士族たちの不満をそらすために台湾出兵を考えていました。しか出兵となると人員や物資を運ぶ輸送手段が必要となります。アメリカの海運会社は中立を理由に拒否、三井は返事をはぐらかして動かず。業を煮やした大久保利通(石丸幹二さん)と大隈重信(大倉孝二さん)は、政府の言うことを素直に聞く商人を求め、三菱商会の岩崎弥太郎に兵と物資の輸送を命じました。これを好機ととらえた岩崎は政府の命令を快諾すると同時に、三井と小野のこれまでの優遇をやめるよう大隈に進言し、放漫経営の小野が危機に陥りました。これは小野に大金を貸し付けている第一国立銀行が破産する危機でもありました。
October 26, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は最初にまず、渋沢成一郎(高良健吾さん)が釈放されて、名前を喜作に戻して復帰しました。私はこの作品では高良健吾さんがすごく目に留まっていたので、喜作が髪も短く断髪して明治の男となって出てきたのは嬉しかったですね。また尾高惇忠(田辺誠一さん)の官営富岡製糸場では、工場の操業までにさまざまな苦労がありました。長さの単位やレンガの作り方や地元の人々の反発など、そしてトンデモナイ悪い噂など想定外も含め、本当にいろいろなことがあったとドラマを通じて知りました。そして吉沢 亮さん演じる渋沢栄一の心情の変化。現代でもよく子供が親の、あるいは組織で部下が上司のやり方に反発を覚えつつ渋々従っていて、でも歳とってその立場になったときに、気が付いたらあのときの親/上司と同じことをしていた、というのがあると思います。問題はその先で、気が付いた時点からどうするのか。安泰のために仕方のないことと同じことを繰り返すのか、あるいはこれではいけないと方向転換するのか。渋沢栄一氏は英断できたけど、凡人にはなかなか簡単にできない難しいことだと思います。さて、毎度の地図のゼンリンさんの地図資料です。第一国立銀行は、1873年日本橋兜町に設立されました ⇒ ⇒ こちら 三野村利左衛門さんのお宅は深川、現在の #江東区清澄 にありました ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治4年(1871)の晩秋に渋沢栄一(吉沢 亮さん)の父・市郎右衛門が他界、血洗島の実家は従兄弟の須永才三郎が妹・ていの婿となって継ぐことになって一安心でしたが、栄一の身には思いもよらぬことが進展していました。大阪に出張した折に、情にほだされて手を出してしまった女中のくに(仁村紗和さん)に子ができていたのです。栄一は身よりのないくにを東京に呼び寄せ、千代(橋本 愛さん)に土下座して詫びます。放っておいてもどのみち栄一が他の場所で囲うだけだし、千代はくにに「ここで一緒に暮らせばよい」と伝え、やりきれぬ思いを必死で抑えていました。函館戦争(1869)の後に投獄されていた渋沢成一郎(高良健吾さん)は、栄一が身元引受人となって釈放され、喜作と名を戻して栄一の家に来ていました。この数年間で大きく道が違ってしまった二人。戦争で地獄を見た喜作は新政府の官僚となって出世した栄一に嫌味を言いますが、幼い頃より共に過ごしてきた栄一は遠慮なく喜作に言い返し、喜作もまた言い返します。戦争で味わった辛い思いを涙ながらに腹の底からぶちまける喜作に栄一は「死なないでよかった。生きていればこうして文句も言い合える」と。そう言われて喜作は「うるせぇ。」と言いつつも心はわだかまりがとけて、互いに再び昔からの一番の友に戻りました。その後で喜作は妻のよしとも再会し、互いの無事を喜び合いました。岩倉使節団が外遊に出た後、井上 馨(福士誠治さん)は今のうちに経済と税制を立て直そうとし、井上の下で働く栄一も奔走していました。抜け目のない大久保利通は「使節団派遣の間は新規の改正をするべからず」と言い渡していきましたが、栄一はそれを「廃藩置県のためのことなら大いにやれ」と解釈し、今後の日本の経済の発展のためにバンクの設立を強く訴えていました。ある夜、大隈重信(大倉孝二さん)の屋敷に集ったときに、栄一がなぜ大隈が使節団に加わらなかったのかを訊ねたら、大隈の性格が大久保に疎まれていて、その部分は親友の五代友厚からも忠告された、とのことでした。上記リンクの#青天ナビによると、 ⇒ ⇒ こちら 日本初の国立銀行の設立に向けて動き出した栄一は、商人の力をもっと大きくするためにも三井組と小野組が協力して合本でやるように言います。しかし三野村利左衛門(イッセー尾形さん)も小野善右衛門(小倉久寛さん)もどちらも自分たちが一番にと譲らず、話がまとまりません。そこで栄一は、「この話が遅れれば国の損失となる、できないなら三井組と小野組の官金取り扱いをやめる」と言い渡し、三井と小野を強引に動かしました。栄一の推薦で明治政府で働くことになった喜作は、官営工場として稼働に向けて動いている富岡製糸場に派遣され、すでに日本側の責任者として働いている従兄弟の尾高惇忠(田辺誠一さん)や指導にあたるフランス人のブリュナ(マッシモ・ビオンディさん)たちの仕事ぶりを間近で見ていました。喜作はこの場所にこんな立派な工場ができることに驚き、かつて攘夷を唱えていた惇忠が異人と一緒に働いていることに驚き、世の中の変貌を実感していました。そして喜作はつい惇忠に、栄一の変わりようと栄一との境遇の差をぼやきますが、惇忠は「生き残った以上、自分たちも前に進もう」と喜作を鼓舞しました。明治5年(1872)夏、東京の兜町に清水喜助が設計施工した三井組ハウスが完成し、洋風建築の洒落た建物を井上 馨は大いに気に入りました。初めは井上を歓待した三野村でしたが、井上が「ここが日本初の銀行となる。両替店ではもったいない」と言ったことで、三野村は慌てて事の真相を確かめました。すると三井組ハウスを合同銀行にしようとしているのは、井上の意をくんで動く栄一だったことがわかり、栄一は三野村に「今から合同銀行を新規に普請しても、時も費用ももったいない。三井一門は政府を敵にしても断るのか。」と強気な態度に出ます。しかし若造の官僚にそう言われてまでおとなしく引き下がる三野村ではなく、承知したと伝えた去り際に「(栄一が)あれほど『商人の力』と言ってても、しょせん商人はお上の顔色をうかがって地面に這いつくばるのみ。徳川の世と変わらない」と栄一に残します。この言葉は栄一が血洗島で百姓だった頃のことを思い出させ、栄一の胸に刺さりました。富岡製糸場の建設が進み建物は完成したものの、若い娘の生き血をとるとかの悪いでまかせが村々で噂として流れ、いくら説得しても工女が一人も集まりませんでした。そこで尾高惇忠は娘のゆう(畑 芽育さん)に伝習工女になってほしいと頼みます。どうしたらと迷うゆうに一緒に話を聞いていた祖母のやへ(手塚理美さん)が「今まで惇忠をはじめ男たちは考えや外での行動を何も言わなかった。でも今、惇忠が娘に頭を下げて助けてくれと頼んでいる。うれしいじゃないか。行っておやりよ。」と。祖母・やへの口添えもあり、ゆうは父の下で富岡製糸場の伝習工女となりました。ゆうの決心のおかげで悪い噂は消えて近代化された工場には工女たちが次々と集まり、翌年には工女は500人を越え、富岡製糸場は女性の社会進出の先駆けとなりました。ちなみに、明治時代の製糸工場というと『女工哀史』にあるような、劣悪な環境の中で貧しい少女たちが長時間労働させられる姿を想像してしまうのですが、官営のこの富岡製糸場では恵まれた労働環境だったそうです。 ⇒ ⇒ こちら 製糸工場で生き生きと働く女子たちを見た喜作は、工女たちを「国を支える立派な富岡工女だ」と讃え、自分ももっと気張らねばと言います。そんな喜作は、政府の募集に応じてイタリアで製糸の商いを学んでくると言い、そこには若い頃に自分と切磋琢磨しあった喜作の姿があって、栄一は嬉しくなりました。この頃、予算を握る大蔵省と各省の間で対立が激しくなり、議論をしても堂々巡りで西郷隆盛(博多華丸さん)は嫌気がさし、ふらりと栄一の家を訪ねてきました。西郷は「今までこの国が良くなるよう無我夢中で働いてきたが、あれでよかったのか」と語り、栄一も実は自分も同じ思いだと答えます。さらに西郷は「あんな時分に将軍になった慶喜公は、重荷をものともせずに徳川を立て直した化け物だった。自分と大久保はそれが恐くて必死で潰した。今のままでは慶喜公に申し訳が立たん。」と本音を語ります。そして栄一に「いろんな道がある。後悔せんように」と言い、今の自分の位置が自分に合っていないと感じる栄一は、妻の千代に大蔵省を辞めると告げました。
October 19, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回の見どころは、「実は一大事だった廃藩置県」でした。「1871年、廃藩置県、全国の藩を廃止して国直轄の県としたこと」といった具合に、学校の歴史の教科書では暗記事項として年号と語句とざっくりした内容だけを覚えました。でも実は、明治天皇が廃藩置県の詔を出すまでにこんなにも大変なことがあって、これを成し遂げたことが欧米諸国では日本の無血革命とニュースで伝えられるほどの一大事だったなんて、今日まで知りませんでした。この先も文明開化で次々と変革が成されていく明治時代。次回はいよいよ富岡製糸場が出てくるし、こうしてドラマでその中身を知ることができると、より面白いですよね。それにしても主役の渋沢栄一を演じる吉沢 亮さん。新政府の役人となり洋装になってからカッコ良さにますます磨きがかかったようで、つい見惚れてしまいます。年齢的にもご自身が27歳で、演じる渋沢栄一はアラサー。ちょうど同じ年代での活躍だから、より自然ですよね。でもこの時代の方々は、20代30代で国を動かし、この国を発展させて強くすることを考え、国の行く末を決める大きな決断を幾度もしていて、今の時代から見ると本当にすごいことをやってたのだと思うばかりです。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治維新の後、渋沢栄一(吉沢 亮さん)が統率する改正掛は一丸となって目覚ましい働きをしていましたが新政府の首脳部は一丸となれず、軍を束ねる西郷隆盛の力を必要としていました。明治4年(1871)栄一は大阪の造幣局に出張していて、そこで幕末期にフランスで苦汁をなめさせられた五代友厚(ディーン・フジオカさん)と再会します。栄一の思いを知らない五代ですが、皆との雑談の中で「国のためを思うならまちっと大きな目で仲良くやらなければ」と考えを述べました。その夜は三井組番頭の三野村利左衛門が主催する宴があり、栄一も参加しました。宴の途中で中座したとき五代から声をかけられ、二人だけで話をしました。共に渡欧して先進国を見てきたもの同士の話が進む中で元幕臣の栄一は、徳川はパリの博覧会で五代の策略ですでに負けていたと恨み言のように言います。しかしそれを聞いた五代は自分の働きをわかってくれて嬉しいと、さらに日本も変わらなければならないのに進まない、自分は日本にカンパニーを作って商業の基礎を作りたいと言い、栄一もその考えには賛同でした。料亭の女中の大内くに(仁村紗和さん)は栄一を一目見た瞬間から、戊辰戦争に駆り出されたまま帰ってこない夫によく似ていると気になっていました。栄一も戦争で家も失ったというくにがどことなく気になり、くにが栄一の繕い物を部屋に持ってきたときについ・・というか、栄一、魔がさした瞬間でした。渋沢栄一氏にお妾さんがいたという史実をこの大河ドラマではどう扱うのか・描くのかと思っていたら、「呼び止めて、部屋から手だけが出てきて、部屋に引っ張り込む。そして音楽が止まる」~~こういうのもあるのですね。明治4年(1871)7月、政府の首脳部は相変わらずまとまりがなくて方針も定まらず、業を煮やした西郷隆盛は「戦じゃ!」と言って一人退席していきました。西郷の言葉の真意を計りかねる栄一と杉浦 譲に井上 馨(福士誠治さん)が内密で、あれは戦覚悟で廃藩置県をやれということだと話してくれました。しかし藩をなくすと士族たちは禄を失い暴動が起こる、各藩の負債や藩札はどうなる、各藩の藩札の価値の違いはどうしたら、無駄な争いを避けるために金のことは明確にしなければと栄一は進言します。それを聞いた井上は大いに納得し、その手筈を改正掛がつけるよう栄一に命じました。栄一の進言は認められたものの、全国の藩札の相場・発行高、負債の総額を調べ上げ、租税の方法や種々の事業の後始末などの全ての算段をつけるということは全くもって容易なことではありませんでした。しかもそれをあと4日でやれと言う井上。栄一はあまりにも無理だと反論しましたが、井上は、内密に支度して布告するにはそれしかない、やはり無理なのかと嘆きました。しかし言いたいことを言ったら闘志がわいてきたのか、栄一はやってやろうという気になり、皆に呼びかけます。「あと4日でこの作業を終えることができなければ、日本は必ずまた戦になる。」それを聞いた杉浦 譲(志尊 淳さん)が「逆に終わることができれば、明治になって初めて新政府の基礎ができるんだな?」と問うと、「真に強い日本をつくるためだ!やるしかねぇ!」と栄一は力強く返答しました。そして玉乃世履(高木 渉さん)も「やり遂げよう!」と続き、皆も賛同してここに改正掛は一致団結してこの大仕事に取り掛かっていきました。改正掛はここから4日間、寝る間も休む間もなく働きに働きました。藩札をなくするにあたり人々が生活を維持するためには、いくら保証すればよいかーー全ての藩について洗い出しました。そして明治4年(1871)7月14日、明治天皇より廃藩置県の詔が出されました。全国に260あった藩は廃止され、かわって府と県が置かれると周知されました。この廃藩置県は世界に類を見ない無血革命として、驚きをもって伝えられました。「諸藩の藩主がログインしました」「オンライン廃藩置県」「ZOOM廃藩置県」etc..今の時代ならではの画面に視聴者のコメントがいっぱいありました。私はそれよりも、16×16=256 の画像を見て、256人の俳優さんを集めてカツラを付けて撮ったとは思えず、小さい画面の方は着物と背景を変えて兼任しているのでは?と思ってしまいました。活躍が認められ、栄一は大蔵大丞に出世しました。改正掛の仕事場に大久保利通(石丸幹二さん)がやってきて、廃藩置県によって税が入るから、陸軍の歳費を800万円、海軍の歳費を250万円に定むことになったがどう思うか?と栄一に問います。栄一は「国にまだ金がない中で巨額な支出を決めるのは甚だ危険。民の税は打ち出の小槌と同じにされては困る。せめて1年後の国の歳入額がわかってから」と訴えます。栄一の反論が気に食わなかったのか、大久保は改正掛の解散を命じました。そして大久保は、自分たちも西洋を直に見て学ぶ必要があると岩倉具視に進言し、その年の11月に岩倉使節団はアメリカに向けて出発しました。岩倉使節団が日本を出てしばらくして、栄一の元に血洗島にいる父・渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)が病で危篤との知らせをうけ、栄一は急ぎ駆け付けました。少し持ち直した市郎右衛門は栄一が来たことに気が付き、身体を起こして家のことを栄一にいろいろ話しました。そして「もう心残りはない。俺はこの渋沢栄一の父だ。こんな田舎で生まれ育った己の息子が天子様の朝臣になると誰が思うもんか。お前を誇りに思っている。ありがとう。」絶え絶えな息で市郎右衛門は栄一に全ての思いを伝えました。その2日後、市郎右衛門は家族に看取られながら息をひきとりました。働き者で村の発展に尽力した市郎右衛門の野辺送りには多くの村人が集まり、皆で静かに手を合わせて棺を見送りました。父の葬儀が終わって家に戻った栄一は、父が懸命に働いてきた証の「藍玉通」の帳面を眺めながら、厳しかったけど優しかった父との思い出を偲んでいました。「なんと美しい生き方だ」ーー父は栄一の誇りでした。うまい役者さんは相手にその感情を出させると言うけど、父・市郎右衛門との最後の会話で栄一役の吉沢 亮さんが「役者人生で初めて無意識で 涙が出てきた」と語るほど、小林 薫さんのとっさまはお見事でした。
October 12, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は渋沢栄一(吉沢 亮さん)が取りまとめになって「改正掛」が発足し、いよいよ明治新政府による数々の改革が始まりました。学校の歴史の教科書に出てくる版籍奉還・廃藩置県、五箇条の御誓文・五榜の掲示、徴兵令、地租改正といったものの他にも、改正掛での日本が統一国家になるために急ぎ整備しなければいけないことの意見交換では、租税・貨幣・測量・駅逓・戸籍・殖産興業・電信といった言葉が次々と出てきて熱い議論が交わされました。先を行く西洋諸国に追いつくために日本は新しく生まれ変わらなければならず、当時の人々が「自分は〇〇の父となる!」と志を持って粉骨砕身していたのかと思うと、胸が熱くなるものでした。今回は特に大きな感動の場面はなかったものの、改正掛の役者さんたちの演技のエネルギーに引き込まれました。さて、今回のゼンリンさんの地図資料です。明治2年当時の栄一邸を、文献から推定してみました ⇒ ⇒ こちら 明治4年 郵便制度発足 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治2年(1869)11月、これからの日本に必要な物事を考え決定事項をすぐに実行できる組織が要ると考えた渋沢栄一(吉沢 亮さん)は、大隈重信や伊藤博文の賛同を得て「改正掛」を発足させました。各方面から人材が集まり、日本が統一国家になるために急ぎ入用なものの意見交換では、租税・貨幣・測量・駅逓・戸籍・殖産興業・電信など、それぞれが第一と考える意見が次々と出て、活発な議論がなされました。しかし中には旧倒幕側の玉乃世履(高木 渉さん)のように、改正掛を取りまとめるのが旧幕臣の栄一であることに強く不満を抱く者もあり、玉乃たちは栄一の下で働きたくないと大隈重信(大倉孝二さん)にかけあっていました。そういった声は栄一の耳にも届いていましたが、新しい国をつくるためにやることが山ほどある栄一は玉乃たちを気にすることなく仕事を進めていました。藩札・測量・鉄道そして改正掛の仕事部屋の件を大隈から太政官に進言してもらうよう頼んで、忙し過ぎる栄一は足早にその場を去っていきました。栄一は東京で元旗本の屋敷を譲り受けて住まいとし、改正掛では皆のアイデアを次々と立案して実行していきました。改正掛の皆はそれぞれが自分の仕事に邁進し、栄一だけでなく誰もが「時が足りん!」と思うほど忙しく、その働きぶりに大隈も大満足でした。改正掛の皆は夜は築地の大隈邸に集まり、ここでも意見交換をしました。大隈が、日本の生糸の品質が諸外国に評判が悪い、早く日本にも製糸工場をつくるよう催促されていると話をしたとき、大隈も杉浦 譲(志尊 淳さん)も、生糸がどのようにしてつくられるのかを知らないことに栄一は驚きました。そこで栄一が「お蚕様」のこと一から説明するとその話を皆も耳を傾けて聞き、大隈の妻の綾子にいたっては小さな虫からこのように美しいものがと感心していました。そして養蚕に関することは栄一に任されることになりました。幕末に西洋の進んだ技術をしっかり見聞きして勉強してきた旧幕臣たちの働きぶりは目覚ましいもので、改正掛に旧幕臣たちを登用したことに大隈は満足していました。しかしそこに大隈の上役の大久保利通(石丸幹二さん)が入ってきて、改正掛の一連の改革が太政官に十分な説明がなされていない、改正掛が出過ぎたまねをして政府の和を乱していると怒り心頭でした。ただそう言われて黙っている栄一ではなく、政府に金がないのは事実、建武の中興のようにならないよう自分たちは粉骨砕身していると、大久保に反論しました。明治3年(1870)春、血洗島から栄一の父・渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)と母・ゑい(和久井映見さん)が、東京の栄一の家を訪ねてきました。信じられないほど大きな屋敷を構え、新政府の仕事を担うという自分にはもう手の届かないところまで大出世した息子に、百姓の自分が今まで通りの物言いをしてはいけないと考えた市郎右衛門は、嫁の千代(橋本 愛さん)を奥様と、栄一を殿様と呼びました。自分に敬語を使う父に落ち着かないながらも栄一は父から、従兄弟の尾高惇忠が生糸で国を富ませたいと志をもち、研究を重ねている話を聞きました。改正掛の仕事は多難の中で着々と進み、前島 密(三浦誠己さん) は飛脚便制度の案がまとまって皆に公表しました。政府は東京ー京都間の信書のやりとりのために飛脚問屋に大金を支払っているが、この金額を費やせば東京ー大阪間に、毎日一定の時刻に各一便の政府の飛脚便を仕立てることができ、さらに一般の通信も取り扱えば送達料を取ることができる。浮いた金はそのまま他の線路を拡張する基金に回すことができ、やがて日本中に配達の道を広げられる、というものでした。前島の案は建議書となって出され、岩倉具視は快く思いませんでしたが、大隈が「西洋では政府が飛脚の権を持っている」とうまく補足し、その案は承認されました。栄一らはこれを実現させるための方法を考え、新事業の名前を「郵便」とつけました。前島が「私は日本の郵便の父になる!」と立ち上がって叫ぶと、「なら私は戸籍の父になる!」「私は測量の父だ!」「造船の父!」「海軍だ!」と次々と宣言し、日本を西洋に負けない国にしようと意気込む皆の士気はますます高まっていきました。しかしその数日後に前島は鐡道借款の処理を命じられてイギリスに渡ることになり、郵便事業のことは杉浦に託しました。さらに、これまで改正掛のことを擁護してくれていた大隈が民部省から追い出され、後ろ盾がなくなった栄一は今後の活動に不安を感じました。そんなある日、栄一が帰宅すると尾高惇忠(田辺誠一さん)が家に来ていました。知識も人の上に立つ才覚もある惇忠に栄一は新政府への出仕を求めますが、新政府に弟の平九郎を無残に殺された惇忠には受け入れられない話でした。そんな惇忠に栄一は、自分たちだって異人を焼き殺そうとした、戦は人を狂気にする、新しい世をつくるんだ、己の手で国を救えるならなんだってやると思いを伝えました。そして年が明けた明治4年(1871)、いよいよ郵便事業が動き出しました。東京郵便役所に集められた書状の行き先を調べ、貼られた切手に検印の版を押します。うまく行けば3日後に弟から返事が来る杉浦はその時を心待ちにしていました。果たして杉浦の元には弟からの返事が届き、切手もはがれずにちゃんと届いた手紙を見て、改正掛の皆は歓喜にわきました。そして一つの事業の成功は、次の事業を進める意欲となっていきました。ある日、栄一のところに玉乃が怒鳴りこむようにやってきました。何事かと思ったら「認めたくはないが」と話を切り出して、栄一に対し「貴公は仕事の早さにしろ気概にしろ、実に得難い徳川秘蔵の臣だ。今までの無礼を謝りに来た」と。そして「これからは力を合わせたい」と気持ちよく申し出たと思ったら「貴公の親族である尾高殿も才も学もあり、登用するにふさわしいお方」と言い、玉乃が視線を向けた先には惇忠がいました。惇忠は新政府へのわだかまりを捨て、新しい国をつくる一員となることを選びました。富岡製糸場顧問のポール・ブリュナ(マッシモ・ビオンディさん)を栄一に紹介され、ブリュナから握手を求められたときに少しためらいましたが固い握手を交わしました。一方、静岡にいる徳川慶喜のところには栄一からの手紙が届き、そこには日本を新しく生まれ変わらせるために粉骨砕身するという、栄一の決意がしたためられていました。
October 6, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回の見どころはドラマの中盤での、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)と大隈重信(大倉孝二さん)の舌戦でした。弁が立つのには自信があった篤太夫でしたが、その上をいく大隈の口達者に負け、そして真に日本の先々を思う志と、新しい世をつくりたくはないのかという呼びかけに、篤太夫の心が共鳴したという感じでしょうか。それにしてもこの「ああ言えばこう言う」を考え、しかもそれが感動になる脚本を書く大森美香氏は、すごいですね。そしてその後で、拝謁に来た篤太夫に「最後の命」を下す徳川慶喜(草彅 剛さん)の場面は本当に感動でした。篤太夫は実は東京に行きたいのだと感じとり、こうでも言わないと自分から離れないと考えて命令しました。自分の心の奥底の思いをくんでくれた慶喜に応えるためにも、篤太夫は名を渋沢栄一に戻します。そして「某は渋沢栄一でございます!」と名乗りながら慶喜の馬を追いかけたあの場面。これがあったか!という思いで感動が倍増でした。さて、こちらは地図のゼンリンさんの地図資料です。この当時(明治2年)の大隈重信さん邸は築地、現在の ⇒ ⇒ こちら 大隈さんは佐賀市出身、生誕地には大隈重信記念館が ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治2年(1869)夏、版籍奉還が行われ、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)のいる駿府藩は静岡藩となり、コンパニーの仕事も順調に進んでいました。このとき篤太夫は平岡 準から遠州中泉奉行の前島 密(三浦誠己さん)を紹介され、ペルリを直に見て日の本の先に危機を抱き国を救おうと海防を学んだものの結局は役にたてなかったという前島の話に、篤太夫は自分と似たものを感じました。このあたりからいよいよ教科書にも載る明治維新の有名人たちが続々と出てくるのでドラマの展開が楽しみです。そして秋になり、徳川慶喜は謹慎を解かれて宝台院を出て静岡藩内の屋敷に移住し、東京から正室の美賀君も呼び寄せました。一方、篤太夫は大久保一翁から、新政府が自分に出仕を求めているから東京に行くよう言われ、最初は新政府に仕える気はないと断りました。しかしこれは主君・徳川慶喜の勧めでもあるということで、篤太夫は東京に行くことに。出立前に田辺太一(山中 聡さん)や向山一履(岡森 諦さん)から新政府の内情を聞き、皆で新政府の批判をして盛り上がり、篤太夫はこの話は断ると意気込んでいました。篤太夫は東京に向かいましたが、その途中の箱根宿で思いがけない再会がありました。かつての上司の猪飼勝三郎(遠山俊也さん)が静岡に向かう美賀君の供をしていて同行していて、猪飼が篤太夫を見つけてくれたのでした。癒し系で人気の猪飼様の登場に視聴者は大喜び。ヽ(*^。^*)ノ それにしても「みたらし」という小道具一つで猪飼様の人物像を強調してしまうなんてすごい演出だなあ。皇城(旧江戸城)に着いた篤太夫は伊藤博文(山崎育三郎さん)の案内でこれから話をする大蔵大輔の大隈重信のところに向かいます。そしてその折に新政府への出仕を断る理由の一つとして「自分は洋行前には異人館の焼き討ちを企てた」と言ったところ、伊藤は呆れるどころか篤太夫の話に乗ってきて「自分は品川の御殿山のエゲレス公使館を焼き討ちにした」と嬉しそうに武勇伝を語ります。でも伊藤はそんなことをしながらエゲレスに留学し、今やすっかり異国びいきに。頭は柔軟に生きなければ、というのが伊藤の考えでした。伊藤に築地の大隈邸に案内された篤太夫は、いよいよ大隈重信(大倉孝二さん)と直に対面して話し合い出仕を断るつもりでしたが、大隈は予想以上に口達者な男でした。篤太夫が「自分は新政府のことは何も知らないし、元幕臣の自分は新政府には勤められない」と言えば大隈は「日の本の中も世界もこれだけ変わった。その中で新しいことを始めるのだからやり方を知る者など一人もいない」と言い返します。その返答に篤太夫が「そんなありさまで御維新をしたのか、薩長は徳川憎しと幕府を潰したのか」と語気を強めて問い返せば大隈は「それば長崎にいた自分の預かり知らぬところ。勝手に戦が始まっていた」とやり返します。しまいには「とにもかくにも、いろいろあって王政は復古した」と。「古い世が壊れ新しい世になった。君は新し世を作りたいと思ったことはないか?」大隈にそう問われた瞬間、篤太夫の脳裏には幼き頃の高島秋帆との出会いや主君・徳川慶喜に訴えた思い、そして渡欧したときに銀行家のエラールに語った熱い思いなどが次々とよみがえってきて、篤太夫は言葉に詰まりました。さらに大隈は「今国は荒れ外国公使たちからの信用もない。でも国を一つにまとめるのはこれから。西洋に負けない制度を作らなければならない。そのためにも諸外国の事情に通じた優秀な者を集め、それぞれが非常の奮励努力をして協力同心するほかない」と。そしてそれは「日本中から日本を思う八百万の神々が集まり思案することである」と。真に新しい世を作りたい。そのためにも自分にできることを精一杯やって世のために働きたい。そして今はまさにその時。大隈が自分と同じ志をもっていたことを知り、篤太夫は感動して胸がぐるぐるしてきました。静岡に戻った篤太夫は徳川慶喜(草彅 剛さん)に拝謁し、東京で見聞きした新政府のことをほとんど批判的に報告しました。しかし慶喜は、篤太夫は新政府の悪口を並べつつもその実は新政府の中で働きたいのだと感じ取っていて、主君として篤太夫に最後の命を下します。「とやかく言わず東京に行け。私のことは忘れよ。この先は日本のために尽くせ」ーー慶喜の思いに応えるべく篤太夫は、士分となった際に平岡円四郎がつけてくれたこの名を返上して、元の名の「渋沢栄一」に戻ると伝えました。その名を聞いた慶喜は「某は渋沢栄一でございます!」と叫びながら自分の馬を追いかけてきたあのときの若者の姿を、ふと思い出していました。篤太夫改め栄一が東京に引っ越すことになり、商法會所の皆に挨拶をしていたら、平岡 準が「渋沢がいないと困る!」と血相を変えて飛んできました。しかしそれを見た川村恵十郎(波岡一喜さん)がすっと立ち上がって進み出て「何が困る、もうここは立派なコンパニーだ」と言い、萩原四郎兵衛(田中要次さん)が「さよう、これからも我々が静岡を盛り上げていこう」と皆に呼びかけました。栄一が心おきなく東京に旅立てるよう、元上司の川村からの最高のはなむけでした。明治2年(1869)11月に栄一が東京に着いた頃、明治政府の高官たちは薩摩や長州の騒動や(渋沢成一郎がいる)榎本らの処分に頭を悩ませていました。そこに洋装となって出仕した栄一が現れたかと思うと挨拶もそこそこに、自分が見て回った皇城の各所の体たらくをいきなり声高に言いだしました。挙句の果てに「このままでは新政府はあっという間に破綻する」とまで。栄一の言葉を選ばない強烈な政府批判に公家出身の三条実美(金井勇太さん)や岩倉具視(山内圭哉さん)は狼狽し、大久保利通(石丸幹二さん)はキレかけ、どこの誰だと問われた栄一は一橋家に仕えていた渋沢栄一だと名乗ります。その後も臆することなくこれからの政に対する自分の考えをとうとうと述べる、突然現れた男(栄一)の話を高官たちはとりあえずは聞いてくれました。しかしそこに伊藤博文が栄一を探して来て「ここは大蔵省じゃないぞ!」と。とんでもない場所で思いっきり新政府批判をしてしまった栄一は土下座して詫び、大隈や伊藤とともに大慌てで退出していきました。とにもかくにも新政府での渋沢栄一の日々が始まりました。
September 28, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、行き場のなくなった大勢の旧幕臣たちが江戸から押し寄せたために酷い財政難になっている駿府藩の財政立て直しを、結局はすることになった渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)の話が中心でした。人はそれを経験していると、その状況や相手の気持ちが自分なりに理解できて、より良い解決策が出るものです。この大仕事は、農業と商売と武士と渡欧の経験があり、それぞれの場所で学んで知識と技術をもっていて、さらに人をまとめられる篤太夫ならではの事でした。仕官を求める侍たちの中に川村恵十郎(波岡一喜さん)がいたので、この人はきっと篤太夫のために何か助けになることをやってくれると予想していました。そしてその場面になると、わかっていてもやはり感動です。篤太夫にごねる侍たちの中から、何かを得心したかのようにすっと前に進み出て「何から始めればよいのか、教えよ」と言い方は命令形であっても、皆が動き出す先駆けとなってくれた川村に感動でした。そしてもう一つ、見逃せなかったのが、町田啓太さん演じる土方歳三の最期でした。榎本武揚とかの大人たちのやりとりをせず、土方を敬愛する小姓の市村鉄之助(吉成翔太郎さん)に自分の遺品を託して実家に届けるよう命ずる場面を持ってきました。正直、こちらのほがぐっときましたね。町田さんの土方は、今作では出番は本当に少なかったのに視聴者へのインパクトは抜群でした。俳優さんの中にはカッコイイ人なんていくらでもいるけど、町田さんは容貌も演技も本当に土方にピッタリでした。スピンオフが待望されるのもうなずけます。さて毎度の、地図のゼンリンさんの資料です。土方歳三さま聖地巡礼マップです ⇒ ⇒ こちら 函館市には、箱館戦争ゆかりの人物由来の地名があります ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治元年(1868)年末、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は主君・徳川慶喜が謹慎生活を送る駿府に行き、そこで駿府藩中老の大久保一翁(木場勝己さん)から勘定組頭を命ぜられましたが、今は水戸にいる徳川昭武(慶喜の弟)の使いで来ていてもう一度水戸に戻らなければいけないからと、仕官の話を断りました。ところが平岡 準(大竹 直さん)から水戸に戻る必要ないと言われ、その理由は水戸では天狗党の乱の後に起こった内部争いが収束していなくて篤太夫が戻るのは危険であると考えた慶喜の配慮によるものだ、と大久保から聞かされました。篤太夫は、自分は駿府に留まるがそれでも仕官の話は断ると大久保に伝えました。大久保がそのことを宝台院に行って慶喜に伝えると、慶喜の表情は和らいで「やはりおかしろき男だ」と。慶喜の気持ちを和らげる渋沢篤太夫という男に、大久保もどこか興味を持ちました。篤太夫は勘定組頭の話を断ったものの、平岡 準から新政府が出している太政官札の話を聞き、このまま役人たちが何も知らずにこの官札(=借金)を使い続けると駿府藩は破産してしまうので、駿府藩を立て直すために結局は勘定組頭を引き受けました。篤太夫は勘定方の藩士たちや商人たちに、今後は西洋流のコンパニーを作って資本を集めて利益を生んで還元していく仕組みで経済を回していく、と方針を話します。しかし旧幕臣たちは商人と一緒に仕事をすることに反発が強く、篤太夫は説得を続けながら明治2年(1869)1月、銀行と商社を兼ね備えた商法會所を設立しました。篤太夫は藩が手をつけてなかった残りの25万両分の官札を預かり、そのうち1万両を正金に換えようと東京の三野村利左衛門(イッセー尾形さん)のところに行きました。三井は新政府のためにこれまでに莫大な金を使い続けていて、もう新政府には倒れてもらっちゃ困るほどの一蓮托生の間柄になっていました。そして篤太夫が持参した正金は札の額面より2割も安くされましたが、三野村は「今はこれが相場、いつかは三井と渋沢様は商売敵になる」と言って退出していきました。篤太夫は正金を元手に利益になる作物を作ろうと市場に行き、肥料の買い付けなどを須永虎之助らに頼んで、一人で市場の中を見ていました。すると良い肥料がわからない五代才助(ディーン・フジオカさん)に助けを求められ、篤太夫は親切に目利きをして良いのを選んであげました。そのときに五代は洋髪になった篤太夫を見て「この辺りは官軍崩れが多い、新政府が官軍の兵に禄を与えず商人や町人へのゆすりやたかりを黙認している」と注意を促し、「新政府が国を富ませる新しい世を作ると思っていた」と失望を語りました。五代が去った後に篤太夫は、今のがパリで自分たち幕府側を妨害した薩摩の五代だとわかり後を追いましたが、五代は人混みの中に消えていました。そのころ血洗島では、千代とうたは篤太夫のいる駿府に向かう準備が進み、千代は義両親からも「よく仕えてくれた」と深く感謝されました。しかし一方、夫・渋沢成一郎がまだ旧幕府軍として新政府軍と戦っているよし(成海璃子さん)は、我が子は村でいじめられ、夫・成一郎の思いも安否もわからず、辛く悲しい日々を過ごしていました。四苦八苦しながらも篤太夫が開いた商法會所の仕事は進んでいましたが、やはり旧幕臣と商人が共に仕事をするのは難しく、特に旧幕臣たちは仕事に不要な腰の刀を外そうともせず、商人たちとも交わろうともせず、篤太夫に反発していました。しかしここで商人の萩原四郎兵衛(田中要次さん)が、駿府にやってきた旧幕臣たちのために大金を払わされた商人たちの腹立ちと、そしてそれでも合本がうまくいってこの駿府が日の本の他藩の見本になればという矜持があると本音を語りました。それを聞いた篤太夫のかつての上司であった川村恵十郎(波岡一喜さん)は自分の刀を篤太夫に差し出し、机に向かって「何から始めればよいのか、教えよ」と。川村の行動を見た他の侍たちは現実をやっと受け入れたのか、次々と川村に倣って刀を外して席に着き、商人たちから仕事を教わり始めました。「我ら駿府が新しき商いの先駆けとなりましょう!」篤太夫の声が響きました。やがて商法會所の仕事は軌道に乗り、利益を出すようになりました。昔の侍も商人も関係なく、共に力を合わせて進む新しい社会がここにできていました。明治2年(1869)4月になると函館の五稜郭を本陣とする土方歳三(町田啓太さん)たちへの新政府軍の反撃が始まり、5月には函館への総攻撃となりました。各方面軍が破られ、いよいよ最期のときを悟った土方は、自分の遺影と遺髪を日野の実家に届けて欲しいと小姓の市村鉄之助(吉成翔太郎さん)に頼みました。承知はしたものの土方から離れがたい市村に、土方は強い口調で「急げ。行け!」と最後の命令を下しました。(大好きな土方のために函館から日野まで戦地を潜り抜けて駆けた市村を思うと胸熱)土方は、せめて最後は新選組の名に恥じぬよう潔く散ってあの世の友と会いたいという思いがあり、ならば自分も最期を共にと渋沢成一郎(高良健吾さん)は言います。しかし土方は「お主の友(篤太夫)は生きると言った、お主は生のにおいがする」と。さらに「生きて日の本の行く末を見届けろ!そのほうがよほど辛いかもしれぬが。」と成一郎に言って土方は別れを告げました。これまでの戦ってきた時間や平九郎のことを思いながら、成一郎は戦場を去りました。その数日後に五稜郭は開城し、ここに徳川のすべての戦いが終わりました。函館降伏の報を聞いた篤太夫は一人で仕事をしていた川村のところに行き、戦った徳川の皆はどうなるのかと、川村の考えを訊ねました。それに対し川村は「最後まで忠義を貫いたのであれば本望だろう」と。その言葉の奥には、平岡円四郎を暴漢から守れず、戦でも死にぞこない、徳川に命を捧げることなくここに来た、それは旧幕臣の皆も同じだ、という思いがありました。徳川のために自分は何かできないか、川村は今もそれを探していました。築地の大隈邸には伊藤博文(山崎育三郎さん)や五代才助ら新政府の要人たちが集っていて、函館陥落=自分たちが正統な日本政府であることに安堵していました。その折にフランス政府からの費用に関する報告書と駿府の報告書のことが話題になり、2つの書類にでてくる莫大な利益を出した「シブサワ」「渋沢」という人物が同じ男なのかと、そこにいる皆の関心は一気に高まりました。
September 22, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は故郷に帰ってきた渋沢栄一(吉沢 亮さん)が、一方では村の人々から英雄視されつつ、一方では村を出てから6年の間に起きた不幸な出来事の関係者と会うたびにその思いを知り、互いに涙する回でした。ただ私としては、前半の登場人物それぞれの悲しみや後悔の場面では、さほど感動はありませんでした。でも後半から、この脚本家さん、やってくれました。父・市郎右衛門(小林 薫さん)から嫁の千代(橋本 愛さん)への、思いがけない感謝の褒美のところと、ラストの徳川慶喜(草彅 剛さん)が篤太夫の労苦を労り礼を述べるところです。脚本の大森美香氏は朝ドラの『あさが来た』のときもそうでしたが、意外なところで感動を作ります。まあ私個人が、苦しみや悲しみの場面よりも、苦悩や忍耐の後に喜びや先が開ける場面の感動のほうが好き、という好みもあるかもしれませんが。そしてラストで、篤太夫から鳥羽伏見の戦いのことを訊かれた慶喜が、一切を語らなかったこと。慶喜の身辺には常に新政府の監視があったので自分のことは何も言わなかったとよく聞きます。まあ、あにぃ(田辺誠一さん)が他局でやってる歴史番組では、本当に晩年になって "あのとき" のことを語ったということでした。何か月か先のドラマの終盤で、そのあたりがどのように描かれるのかが楽しみんです。さて毎度の、地図のゼンリンさんの地図資料です。高松凌雲先生、パリで学んだことを箱館で実践! ⇒ ⇒ こちら 「土方歳三嘆きの松」 ⇒ ⇒ こちら 舞台となった宝台院は、駿府城から直線で約1kmほど ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治元年(1868)11月、渋沢栄一(篤太夫)はフランスから帰国し、翌年の春(1869)故郷の血洗島に6年ぶりに戻ってきました。自分の生き方に迷いがある栄一でしたが、血洗島では旧幕府の役人となって渡欧までした栄一が帰ってくるということで、村の人々は今か今かと待ちわびていました。世の中が変わっても変わらない故郷の風景に思いを馳せる栄一、大出世した栄一の帰りを喜び勇んで出迎える家族や村の人々、6年ぶりの父母や妻子との再会。栄一にとって心安らぐ時間が流れました。しかしただ一人、渋沢てい(藤野涼子さん)だけは兄・栄一(篤太夫;吉沢 亮さん)の帰りを心から喜んで出迎えることができませんでした。ていの夫・平九郎は戊辰戦争で壮絶な最期を遂げていて、渡欧前に兄・栄一が平九郎を見立て養子にさえしなければという思いがあったからでした。平九郎のことは栄一にとっても辛く悲しいことでしたが、英雄となった自分を求める村の人々の前では努めて明るく振舞っていました。栄一が6年間村を離れていた間に、村の生活も変化していました。伯父の渋沢宗助は横浜に出て異人を相手に生糸を上手に売りさばいたと得意げでした。でも皆がいちばん聞きたいのは栄一のヨーロッパでの話です。栄一は「何棟にも連なった長屋に車輪がついて蒸気機関の力で鉄の道を進む。壁一面に透き通ったガラスがはめ込んである」鉄道の話や、「大箱に閉じ込められたと思ったらふわりと浮かんだ」エレベーターの話などをして、皆は大盛り上がりでした。妹のていも兄・栄一の顔を見た最初はやりきれない思いをぶつけていましたが、でも心の中では兄のせいではないと分かっていて、兄の土産話を笑顔で聞いていました。しかし平九郎のことは誰の心にも重くのしかかっていて、宴の後で栄一が千代(橋本 愛さん)と二人なったとき、千代は弟・平九郎を亡くした辛い胸の内を語りました。千代は平九郎を𠮟咤激励した自分のせいだと言い、栄一は「平九郎が幕臣となることの意味があのときわからなかった自分のせいだ」と悔やみ千代を慰めました。そして翌朝、牢から出た後に病で亡くなっていた千代の兄・長七郎の墓を伝蔵(虎之助;萩原 護さん)と共に3人で墓参りをしました。するとそこに渋沢成一郎(喜作)の妻のよしが来て、栄一に喜作の情報を求めました。そのころ渋沢成一郎(高良健吾さん)は土方歳三(町田啓太さん)らと箱館にいて、新政府軍との戦いの真っ只中でした。土方らの旧幕府軍は五稜郭を攻め落とし、その夜は蝦夷地平定の祝賀会が開かれるということでしたが、医師の高松凌雲(細田善彦さん)は「戦で負傷者が増えるばかり、自分は祝賀会には行かない」と言います。凌雲は味方だけでなく敵の負傷兵も手当していて、それは「怪我人に敵も味方も、富豪も貧乏人もない。それをもう一人の渋沢(栄一)とパリで学んだ」という考えからでした。後で栄一が尾高惇忠(千代と平九郎と長七郎の兄)を訪ねたとき、惇忠は栄一に会わせる顔がないと、栄一を避けていました。しかし栄一こそ、村を出て銃や剣を手にして戦うよりも、この村で皆と一緒に藍を作って売って働くことが自分の戦いだったとパリまで行ってようやく気が付いた、家族の皆には辛い思いをさせたと自分を恥じていて、その思いを惇忠にぶつけました。それでも栄一の心の底には前に進みたい気持ちがあり、夢の中で亡き長七郎(満島真之介さん)に「この先こそがお主の励み時だ」と励まされた栄一は「自分が新しい世のためにできることはきっとある」と気持ちを立て直しました。栄一は父・渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)に、先のことはまだ決まらないけど、まずは駿府で謹慎している前将軍・徳川慶喜に会ってくると伝え、その折に自分が6年前に村を出るときに父が持たせてくれた100両を父に返し、父母に礼を伝えました。渋沢市郎右衛門は「道理を踏み外さず誠を貫いてくれ」と言って送り出した自分の言葉を忠実に守ってきた息子・栄一を褒め、100両の金子も受け取りました。ただ「受け取ったからには自分のもの、好きに使う」と言った市郎右衛門は。そのお金をそのまま嫁の千代に渡しました。この6年間、千代の実家の尾高家は不幸・不運続きで、そんな辛い中でも千代がこの家のために尽くしてくれたことを市郎右衛門は嬉しく思っていて、ゑい(和久井映見さん)も同じ気持ちで、褒美として受け取って欲しいということでした。栄一(篤太夫)は「先が定まったら今度こそ一緒に暮らそう」と千代とうたに約束し、慶喜のいる駿府にやってきました。旧幕府の直轄領だった駿府には幕臣たちがたくさんいて、駿府藩庁に入った篤太夫は民部公子のパリ留学における報告書と余り金1万両を駿府藩中老の大久保一翁に提出し、また民部公子から兄・慶喜への手紙を渡し必ず返事が欲しい旨を伝えました。その数日後に篤太夫は慶喜のいる宝台院に呼ばれ行ってみると、寒々とした古びた畳の部屋に通され、そこに質素な身なりの徳川慶喜(草彅 剛さん)が現れました。篤太夫ははじめは慶喜に、鳥羽伏見の戦いでなぜ逃げたのかを問いましたが、慶喜は「今さら過ぎ去ったこと」と固く口を閉ざしました。そして篤太夫に弟・昭武(民部公子)のフランスでの様子を聞きたいと要望し、慶喜の思いを悟った篤太夫は民部公子の様子を事細かに話し始めました。話が進むごとに語り口がだんだんと熱くなっていく篤太夫に、慶喜の気持ちも表情も徐々に和らいでいきました。だって、目の前でこんな調子で話しているのですから(笑)やっと少しだけ笑ってくれた慶喜に篤太夫は安堵し、ヨーロッパでは何から何まで目新しくて、何も知らなかった己がちっぽけに思えたと感想を述べました。こうして貴重な経験が積めて視野が広がった(もっと言うなら戊辰戦争の渦中から逃れられた)のも、民部公子のお供として慶喜が自分を選んでくれたから、ですものね。そんな篤太夫に慶喜は「万里の異国で公儀の瓦解に遭い、さぞや苦労したであろう。昭武が無事に帰国できたのも、ひとえにそなたのおかげだ。」と礼を述べ、篤太夫に丁寧に頭を下げて静かに立って去ろうとしました。やっと会えた慶喜なのに渡欧の話ばかりで肝心なことを言ってないと気づいた篤太夫は「上様!」と慌てて慶喜を呼び止めます。「どんなにご無念だったことでございましょう」と一言だけ伝えましたが、慶喜は何も言わず去っていきました。
September 15, 2021
8月の末に母が他界してから、あれよあれよという間に時間が過ぎて、もう10日が経ちました。価値観がまさに「ザ・昭和の(前半の)女」であった母だからでしょうか。高くても良い物を買って長く使う、簡単には捨てない・捨てられない人でした。だから実家には大型の棚が2つと上物のタンスが2つあって、さらに収納スペースも含めて、そこには物がぎっしりと入っていました。私・姉・兄と3人がそれぞれ都合のいいときに実家に行って、適当に片付けを進めています。タンス2つは捨てるのに惜しいので私がもらうことにし、そのために今この家にあるタンスの中味を出してカラにしつつ、実家のタンスの中味も出しているところです。昨日、姉と一緒にタンスの中味をチェックしていました。私は母の着物姿なんて見たことがなかったから、てっきり着物は冠婚葬祭用のしかないだろうと思っていました。ところがタンスから着物が出るわ出るわ・・。計20着くらいあったと思います。ただ残念ながら今いる私たちは誰も使わないし要らないので、このまま処分となりそうです。いくら値打ちのある着物でも、取っておいてもどうしようもないのです。でもこの帯は綺麗だし、それほどかさばらないものなので、私がもらいました。さて、物を入れ替えるとなると、いったん収納しておく物がまた必要となります。近くのホームセンターでケースを3つ買ってきましたが、畳まずに吊るして保管したい服もあるので、とりあえずこれを買いました。 ↓ ↓組み立て式のラックで、埃よけのカバーが付いたものです。ラック自体もとても軽いです。(よくぞこれでできたと思うほど)ハンガーラック ワードローブ WR-G001収納 ラック パイプハンガー クローゼット 収納 洋服 衣類収納 カバー付き 結局、着物は母のいわばコレクションだった感じですが、お洒落が好きだった母は服をけっこう買い替えていたので、洋服のほうは記憶にあるものばかりでした。ただ、改めて服を並べてみると、年代相応の色やデザインばかりで、特に茶系の色が多いことに気が付きました。私の家の近所は細い道の両脇に昔から住んでいる方たちの家が立ち並び、家の前の草取りとかをときおり道端に出て、しゃがんでやっています。ただ茶系やグレー系の服を着た老婦人というのは、周囲の側溝のふたや石垣や植木に同化したような感じがあって、さらにこの歳の方々は作業しててもほとんど動かないので、運転しているとホント気が付きにくいのです。対向車がはみ出してきて慌ててハンドルを左に切ったらそこに人がいた!なんてことにならないよう、この界隈は慎重にゆっくりと運転しています。話はそれましたが、母の洋服には私の好む色やデザインがないし、姉も要らないと言っているので、ほとんど処分になりそうですが、大丈夫。ちゃんと礼服はもらいましたから。この帯もコレクションとして私がもらいました。実家で見たときは金色が綺麗だったのに、なんかくすんでいるなあ、と思ったら・・見たときの光の角度が違ってました。日光が当たると金色がもっと綺麗です。
September 9, 2021
一昨日の朝、実家の母があの世に旅立っていきました。若くして旅立った父のときは私は高校卒業直後で若くて、何がなんだかわからないまま時間が過ぎていきました。でも母は年齢的には十分生きたし、私自身の年齢や今の時代ならではの情報で事前にいろいろ考えることができ、比較的冷静に受けとめています。思い起こせば10年ほど前に母が大病で入院してからは、月1回の通院は私が付き添い、その帰り道はどこかで母の食べたいものを食べて、穏やかに過ごしていました。補聴器のことで名古屋駅に行くときは、その帰りには名駅の百貨店でちょっとリッチな食事もしました。でも1年前から入退院を繰り返すようになり、そのころから母が自力で動くのが難儀になって生活介助が増えていき、春には介護を考えなければいけなくなりました。私はいわゆる介護地獄は経験せずにすみました。ただ母の性格上、精神的にはかなりヤラレたし、介護の事業所に何か所か相談に行って話を聞いたり電話で打ちあわせをしたり、母の入院中はコロナで面会はできないけど洗濯物とか身の回りのことで週3回は片道1時間強の病院を往復したりで、けっこう忙しい時間でした。それでもまだ、私には姉と兄がいて助かりました。姉には愚痴を聞いてもらい、定年退職をした兄は比較的時間に融通が利いたので、母の入退院とかで荷物の多いときは兄に頼み、GW以降は兄が6割くらい母の世話を引き受けてくれました。私一人だったら、精神的にも肉体的にも潰れてましたわ。ホントに。その後7月初めに入院してからは母の状態が酷くなり、お盆過ぎには医師から「コロナで面会禁止ではあるけど、いよいよのときは」と話がありました。そして1週間前、病院から「来てください」と電話が。こういうときこそ冷静にと、家を出るときは火の用心と戸締りを厳重にチェック、車の運転は慎重にしました。でもこのときは一旦回復し、私もとりあえず帰宅。5日前も再度病院から連絡がきたけど、また持ち直したので帰宅しました。この間、姉も兄も私も、神経が高ぶってしまい夜も昼もほとんど眠ることができませんでした。これが死が近い親への感情というものでしょうか。そして一昨日の3度めの連絡で、心肺停止を聞きました。この瞬間、私の心臓はしばらくバクバク状態でした。病院に着いたら皆が徐々に集まってきて、さて、この後があちこちの葬儀会社に電話して見積りを訊いたり、あれやこれや手続きの説明を受けたりとかでバタバタで、なんか母の死を悼むとか、そんな状態ではなくなりました。葬儀会社も決まり、いよいよ通夜・告別式です。でもコロナ禍の今なので、葬儀は身内だけで速やかに。ホントは親しい親戚や友人にも送られたかったでしょうがやむを得ないことでした。慌ただしかった葬儀もラストの初七日法要になり、お経の後でお坊様が故人への思いに関する説教をなさいました。でも、ごめんなさい。私、眠たくてお話が断片的にしか覚えてなくて・・。こんなときに頼りになるのが甥っ子姪っ子たちだったと、つくづく実感しました。母の闘病中は医療関係の甥っ子がいろいろ教えてくれ、数社の葬儀会社に問い合わせての調整は電話応対が上手な姪っ子が引き受けてまとめてくれました。葬儀場との往復は車の運転が得意な子が、・・・etcみんな、ちゃんと社会人をやっているんだよね。ありがとう。この1週間、いつ病院から電話が入るのかと気になって、どんなに疲れて眠くても、なかなか眠れませんでした。でも、やっとなにもかも終わった昨日は、久しぶりに夜ぐっすり眠ることができました。亡き母は物を捨てることができなくて、実家には食器・本・装飾品・布団類・その他生活用品と、遺された物が本当にたくさんあります。昔の人らしく、家具類も高級品を買って長く使うタイプだったので、棚も大型のものばかりです。これからは山のようにある遺品を片付けながら、母のことを思い出していくことでしょう。ただ財産だけは、上手に綺麗に使い切ってくれました。財産がある人はいろんな手続きとか大変らしいですね。ウチはその部分だけは煩わしくないようです。この10年間、母が入院するたびにこの子たちは私がこの家に連れてきていました。母が他界する半年くらい前に2匹とも虹の橋に旅立っていました。このアイ子さん、最盛期には体重が8kgもあり、実家は駐車場までが遠くて、この子をキャリーに入れて歩くときは大変でした。母の棺には実家で過ごした猫たちの写真を何枚か入れて一緒に送りました。
September 1, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。この回は中盤までが、フランスから帰国した渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)が、不在時に日本で起こった話を聞くという形で描き、後半はその時の篤太夫の身辺のことと、函館にいる渋沢成一郎(高良健吾さん)のことでした。篤太夫が養子にした平九郎(岡田健史さん)の無残な最期の話を聞いて、激しく慟哭しました。自分に関わったために、と思うとそうなるでしょう。ただ平九郎にしてみたら、たしかに自分の死後の扱いは惨めなものでしたが、どんな下っ端でもいいから自分も武士になりたいと人一倍憧れていた平九郎です。だから絶命する最期の瞬間に、「御旗本、渋沢篤太夫が嫡男・渋谷平九郎!」と名乗れたことは、彼にとって誇らしかったのではないか、とも思いました。地図のゼンリンさんが歴史マップを作ってくれました。平九郎敗走ルートまとめです ⇒ ⇒ こちら そしてラスト2分の函館戦争。明るい勇壮な音楽に変わり、洋装になった高良健吾さんもカッコ良くて暴れっぷりもなかなかなものでしたが、それ以上に土方歳三を演じる町田啓太さんがすごかった。いやあ~もう、ホント、素敵です。パッと現れた瞬間、ドラマのそれまでの重苦しい雰囲気が一気に変わって気分が高揚してきました。もちろんドラマを作るにはいろいろな役の人が必要なのはわかっていますが、華があるのはいいですね。視聴者の間から「町田さんの土方歳三でドラマを!」と声が上がるのも十分うなずけます。(私も見たい)大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治元年(1868)、徳川の世は終わり薩長による新政府が始まったものの、新政府は金もなく日本は内外に課題を山積みにしていました。そして10月、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)たちはヨーロッパから横浜に帰ってきて、新政府の役人から厳しい検閲を受けていました。その後、篤太夫たちは横浜の宿に入り、文で断片的に知るだけだった日本での出来事を、外国奉行の福地源一郎と田辺太一から聞くことになりました。鳥羽伏見の戦いのときに徳川慶喜が突如、自分だけ大坂から江戸に戻ってきたこと、慶喜が静寛院宮(和宮)に拝謁を願ったが拒否されたこと、慶喜が天璋院に大坂から逃げたことを「断じて朝廷には刃向かわぬため」と釈明するも、天璋院からは厳しい言葉しか返ってこなかったことなどでした。しかし一方、それぞれの立場で徳川の行く末を守るべく、静寛院宮は朝廷の岩倉具視に、天璋院は薩摩軍の西郷吉之助(博多華丸さん)に「徳川家が潰れたら自分たちは生きていられない(意訳)」と文を書き、徳川家の存続を嘆願していました。慶喜は上野の寛永寺に謹慎し、江戸城は戦もなく薩長軍に明け渡しに。そして小栗忠順は罷免された後に官軍総督府を名乗る者たちに捕らえられ、水沼川原(群馬県)にて斬首、篤太夫(渋沢栄一)の恩人である平岡円四郎の上司で隠居していた川路聖謨は短銃で自害し、その最期は妻の佐登(坪井木の実さん)とご機嫌伺いに来ていた平岡やす(木村佳乃さん)に見届けられました。翌日、須永虎之助が篤太夫の元を訪れ、血洗島出身の皆のことを話しました。篤太夫の従兄弟の渋沢成一郎(高良健吾さん)は、鳥羽伏見の戦いで慶喜が去った後の兵をまとめて大坂を出て江戸に戻り、主君・慶喜の無念を晴らすべく、まだ戦いを続ると主張する幕臣たちと共に、浅草の本願寺で「彰義隊」として決起しました。ところが慶喜が江戸を出て水戸で謹慎すると彰義隊は分裂して、成一郎や篤太夫の養子となった平九郎らは振武軍を結成して秩父の山中へ。新政府軍の追っ手と戦いながら進軍を続けていたけど、途中で敵に狙撃され多くの者が死傷、そのときに平九郎(岡田健史さん)は皆とはぐれて一人で別の道を進みました。そのときに運良く以前は一橋家の領地だった場所に逃げ込み、負傷した平九郎を老夫婦(山口常左衛門;五頭岳夫さん、たへ;中澤敦子さん)が助けてくれました。しかし自分のせいで老夫婦に何かあってはと、平九郎は早々にそこを出ていきました。故郷の血洗島に帰ろうとしたのか平九郎は中山道を目指して進みましたが、途中で新政府軍の追っ手に見つかり、激しく抵抗したもののもう逃れられない状況に。瀕死の体でたどり着いた岩の上で「御旗本、渋沢篤太夫が嫡男・渋谷平九郎!」と叫び最期は自刃して果てました。しかし名乗った平九郎の首は名札もなく越生宿にさらされるという惨めな末路に。聞くに堪えない話で篤太夫は嘆きましたが、一緒にいた川村恵十郎に「成一郎と惇忠は横手村に落ち延びて逃げた」と一喝され、さらに虎之助から成一郎が函館に移って今も戦っていると話を聞きました。年が明けて梅が咲く頃、篤太夫は小石川の水戸藩邸にいる徳川昭武(板垣李光人さん)を訪ね、昭武が水戸に入る手土産にとスナイドル銃を渡しました。昭武は天皇から、函館にいる榎本軍(旧幕府軍)との戦いに兵を出すよう命令を受けていて、かつての忠臣たちを成敗しなければならないことに心を痛めていました。昭武はフランスに同行した篤太夫をとても信頼していて、この先も水戸で自分を支えて欲しいと頼みますが、篤太夫はまずは駿府で謹慎している主君・慶喜に意向を伺いたいとやんわりと返事を延ばし、そして昭武も今や朝敵となった兄・慶喜には会いたくても会えないから文を書く、返事を届けて欲しいと篤太夫に再会を約束しました。それから篤太夫は数カ月かけて旅の残務整理をしていました。そのとき大黒屋六兵衛が持っていた紙幣のようなものが気になり見ていると、奥にいた三井の番頭の三野村利左衛門(イッセー尾形さん)が声をかけてきました。これは新政府が出した太政官札、しかし金もないのに新政府は一新をしたから信用が無い、大坂では鴻池や加島屋が酷い目にあっている、ということでした。しかし三野村は、自分たち商人の戦いはこれからだと強気で、篤太夫も圧倒されました。函館に移った渋沢成一郎は、新選組の土方歳三らと共に必死で戦っていました。(函館戦争から成一郎も洋装になりました。似合ってます。)篤太夫からの文には「無事に帰国と聞いて自分も嬉しい、自分は命に代えて慶喜と徳川を守るために全てをかけて戦っている、朝敵の汚名を雪がなければ生きていけない(意訳)、もう会うことはない、さらばだ!」と返事をしたためました。次々と押し寄せてくる新政府軍に成一郎が「あわや!」となったとき・・(成一郎が振り上げた刀の柄をハイキックで落とすなんて初めて見た)助けてくれたのは、やっぱりこの方、新選組副長の土方歳三(町田啓太さん)でした。成一郎が土方の銃の腕を褒めると、土方も成一郎の剣の腕前を褒めました。そして成一郎が「せっかく鍛えた腕も銃にはかなわぬ」と謙遜すると土方は・・「俺は潔く旧来の戦い方は捨てた。行くぞ、同志よ!」ーーかつて土方は剣で生きることを目指しましたが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の銃や大砲の威力を身をもって知り、考えを改めました。時代の流れに合わせて方向転換できる柔軟性が土方の強さでしょうか。
August 23, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。オリンピック関連で今年の大河ドラマは3週間放送が空き、久しぶりにオープニングのテーマ曲を聴きました。最初のころは印象が薄かったテーマ曲ではありましたが、ドラマの回が進む毎に耳に馴染んできて、近代化していく日本を作っていく渋沢栄一に相応しい、前向きで明るいいい曲だなと思うようになりました。NHK交響楽団によるテーマ音楽を指揮する尾高忠明氏は、渋沢栄一と尾高惇忠の曾孫だそうですね。曾祖父たちの足跡を元にした大河ドラマの音楽の指揮ができるなんて、さぞや感慨深いであろうと想像いたします。今回のドラマの見どころは、中盤で自信過剰で文句ばかり言う甘ったれた留学生たちにキレた渋沢栄一(篤太夫)が一喝したところと、帰国を前にして自分の探し求めるもの(株式)を見つけて、思い描く未来ができて嬉しくて胸が躍る篤太夫の姿だと思います。日本を発展させる志を持った若者(渋沢栄一)に、経済を回すという大事なことを教えてくれた銀行家のエラールさん、本当にありがとうございましたパリ滞在中の篤太夫に大きな影響を与えたのが、銀行家のエラールです。 ⇒ ⇒ こちら そしてお馴染み、地図のゼンリンさんが歴史のマップを今回もちゃんと作ってくれました。昭武公ご一行の帰国ルートを整理しました ⇒ ⇒ こちら 鳥羽・伏見の戦い は小枝橋付近にて勃発しました ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 慶応3年(1867)の年の瀬、パリから一足先に帰国した外国奉行の杉浦愛蔵が、篤太夫(渋沢栄一)の文などを持って、血洗島の渋沢家を訪れました。杉浦が持ってきた民部公子のホトガラフを皆はありがたがって拝んでいました。でも洋装になった栄一の姿を映したホトガラフには、皆は珍しがって見ていたのに、妻の千代(橋本 愛さん)だけは夫の姿を快く思えず「あさましい」とさえ感じました。そんな千代に父・市郎右衛門は「姿形は違っても栄一は大和魂をなくしたりはしない」と言い、他の家族や村人たちも市郎右衛門と同じ気持ちでした。そして慶応4年(1868)の年が明けたパリでは民部公子(徳川昭武;板垣李光人さん)を囲んでシャンパンで新年を祝っていましたが、そこへ日本から御用状が届きました。文には昭武の兄で将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上したとあり、パリにいる一同にはにわかに信じられない思いでした。昭武は、政権が朝廷に移って自分はどうなるのか、まだパリで学びを続けたいと不安を抱え、また会計を管理している渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は留学費用が心配でした。そんな篤太夫のところに銀行家のエラールが来て、篤太夫を証券に誘ってくれました。ちなみに昭武は、留学先のパリでは猛勉強だったそうです。 ⇒ こちら 2月になると、日本の状況を知らせる御用状がまた江戸からパリに届きました。そこには慶喜が京から大坂城に引き上げ大坂城には公儀の兵が集結とあり、栗本鋤雲(池内万作さん)は「その報は信じられぬ!」と強く否定しました。(この時代、文が届くのに京から江戸まで早馬で3日、日本からパリまでは1カ月ほどかかったと想定して、この文の内容は鳥羽伏見の戦いが始まる直前と想像しました)そして日本からは篤太夫あての文もいくつか届きました。篤太夫の見立て養子となった平九郎から、従兄弟の尾高惇忠からは長七郎が罪を赦され牢を出て家に戻ったことが、母からは家族の近況と篤太夫の身を案じる思いが、そして一番楽しみにしていた妻の千代からは「あなたの姿に激しく失望した(意訳)」と。てっきり千代は自分の姿を喜んでくれると思っていた篤太夫には残念な内容でしたが、それでも篤太夫は千代に会いたい思いがただ募るばかりでした。そして3月、日本の近況を知らせる次の御用状がパリに届きました。それによると、慶喜は天皇の傍にいる悪者を取り除くため兵を率いて上京、しかし正月2日に鳥羽伏見で薩摩と開戦になり、7日まで戦うも全軍敗戦となり守口まで撤退、そしてなんと6日には慶喜が密かに大坂城を出て幕府の軍艦の開陽丸で江戸に戻ったと。さらに朝廷は慶喜を朝敵として関東征討の勅命を出し兵を率いて江戸に向かう、という風説まであり、あまりの展開に一同は激しい衝撃を受けました。昭武の元には兄・慶喜から直書が届いていて、それには「日本は内輪で騒動をしている場合ではない、それゆえこのようにした。昭武はそのまま留学を続けよ」とありました。どうしたらよいのかわからぬという昭武に篤太夫は文で慶喜を諫めることを提言します。「政権を朝廷に返上したのになぜ兵を動かしたのか、なぜ戦を途中でやめたのか、この先臆病・暗愚と罵られると分かっていてなぜ兵を置き去りにして江戸に戻ったのか、江戸幕府をこのように終わらせ東照大権現様になんと申し開きをするのか」と。そして4月、栗本や高松凌雲らが一足先に帰国していき、閏4月には鳥羽伏見の戦いに加わっていた従兄弟の渋沢成一郎から篤太夫の元に文が届きました。文には、上様(慶喜)は上野の寛永寺で蟄居しているが命の保証はない、尊王の大義に背いたことがない上様のために自分は同志と戦うとあり、篤太夫は涙があふれました。そんなとき欧州各国に留学していた若者たちが日本に急遽戻ることになって、篤太夫はその者たちが無事に帰国できるよう世話をしていたのですが、彼らは狭いとかベッドがないとか待遇が悪いとか文句ばかり言い立てます。彼らのあまりの態度の悪さに我慢できなくなった篤太夫は黙っていられなくなりーー「一体お主らは今の日本の状況がわかっているのか。自分はお主らが荷物扱いで帰国することがないよう取り計らってやった。それはお主らのためではなく国の名誉のため。こちらは今ある大事な金で取り計らったのにその苦労も意味も察することができない、ただ知識が多くあれば偉いと思うのか?公儀はこんな奴らを育てるために苦しい懐から留学させたのか?ならば自分は公儀のために嘆く。ここで嫌ならすぐさま出てけ!!お国が戦というこの一大事、どんな柔らかい床で寝ても臥薪嘗胆の心があって然るべきじゃないか!!」ーー篤太夫は留学生たちを激しく叱り飛ばしました。留学生たちは慌てて土下座して詫び、その様を見ていた菊池平八郎(町田悠宇さん)は篤太夫という人間を見直したようでした。5月になると新政府から昭武に帰国命令が出ましたが、昭武はすぐには動かずまだパリに留まったままでした。そして7月には水戸の徳川慶篤(昭武の長兄)が亡くなり、さらに昭武が水戸藩を継ぐよう新政府が決めたという報が入りました。しかし日本がどうなっているか全くわからず判断しかねていると前駐日公使のロッシュがフランスに戻ってきて昭武に、帰国命令は無視して学問を続ければよい、今は会津が新政府軍と戦っているから帰国すると危ないと助言をくれました。しかし昭武はもう帰国の覚悟を決めていて、フランスの皆に深く礼を言いました。篤太夫が住んでいた館をあらかた片付けたときエラールが入ってきました。篤太夫はエラールに館の後始末を頼み、そして先日連れてってくれた証券会社で行った投資で大きな利益を得たことに礼を言いました。そして何より、エラールは篤太夫にもっと大事な社会の仕組みを教えてくれていました。“Capital Social”ーー上下水道や鉄道もそう、志はよくても一人では出来そうにないことが、多くの人から少しずつ「金」を集めることで可能になる。小さな金が集まって大きな資本となる。貸すほうだって事業がうまくいけば配当金をもらえる。ーーこの話を聞いた篤太夫は、「一人が嬉しいのではなく皆が幸せになる。一人一人の力で世の中を変えることができる。俺が探し求めていたのは、これだ!」と、日の本を発展させるために自分は何をしたらいいのかを見つけて、胸を躍らせていました。帰国してから学んだことが活かせる自信はないけど、「どんなことになってもこの手で日本のために尽くす」とフリュリ・エラール(グレッグ・デールさん)に誓い、そんな篤太夫にエラールは日本語で「期待してます」とエールをくれました。そして慶応4年(1868)8月末、昭武の一行がいよいよパリを去る日がきました。篤太夫はいろいろ世話になったアパートの家族に別れを告げ、昭武はフランスでの教師だった陸軍中佐のヴィレット(サンシモンさん)からインモルテル(=Immortelle、フランス語で「不滅」の意味)の花束をもらい、互いに別れを惜しみました。そして一行は、混沌とした政情の日本へと帰国の途につきました。
August 17, 2021
今日はこちら東海地方は朝からすごい雨です。朝の愛犬ちゃんの散歩のときもかなり降ってました。その後はしばらく小降りになったけど、午後3時過ぎからまた大雨になり、夕方には土砂降りになりました。愛犬ちゃんのお散歩。今朝は近くの公園まで車で行きましたが、土砂降りだった夕方は車に乗せるのも大変なので近所を歩くだけにしたのですが、なにせこの大雨。犬も外を歩くのを嫌がり、家の前の道を20mほど歩いて引き返してきました。これも線状降水帯と言っていいのかわかりませんが、名古屋の中心部から北部にかけて強い雨雲(赤い色)が東に移動しながら1時間くらいずっとかかってました。この時間は風も強く、私は2階のベランダに吊るしてある日よけが風にあおられて雨どいが壊れるのではと心配で、土砂降りの中で日よけを外していました。ほんの2・3分外にいただけで全身びしょ濡れになりました。でも今回の雨は九州北部から広島にかけて、特に長崎が本当に大変なことになってます。 ⇒ こちら こういうとき気象予報士の忠告は有難いです。 荒木さん 、 河津さん 、ありがとうございます。さて、約1カ月半前の話ですが、 群馬地方協力本部 のプレゼント企画に応募したら当選しました。これが郵送で届いた日、私は何かの理由で精神的に疲れ果てていました。でも帰宅してポストにこの封筒を見たとき、嬉しくて疲れが吹き飛びました。群馬地方協力本部さま、いろんな種類の品をたくさん、ありがとうございます。QRコードのついた海上自衛隊のこのカードはいろんな自衛艦の種類があって、どこで手に入るかわかりませんが、ファンにはかなり人気だそうです。日本は自然災害が多い国で、大規模災害のときはいつも自衛隊が出動してくれてます。7月の約1カ月間はあの暑さの中、熱海の災害に早朝から連日出動してくださいました。今も第5普通科連隊が青森に出動しているし、今回の大雨でも、いつでも出動できるよう態勢をつくって備えていてくださってます。ふだんはそれぞれに訓練を重ね、いざという時は私たちを守ってくださる自衛隊・警察・消防・海上保安庁の皆様、インフラ整備の皆様、ありがとうございます。ペーパークラフトもきちんと作ると、けっこういい飾りになります。この大雨、今もこの地域は激しく降り続いていますが、西日本全体はまだ明日もずっと強い雨が降り続きそうです。警戒が必要な地域の皆様は、どうぞ気をつけてお過ごしください。
August 13, 2021
真夏の熱波、今日はこちら東海地方にきました。名古屋は38℃で収まりましたが、愛知県の県境の山を越えた岐阜県の多治見市では40℃超えをしました。まあ今日はまだ風が吹いているので、熱風ではあるけど体感の暑さは若干はマシな気もしますが。さて連日の熱戦が続いた東京オリンピックも、今日の夜にいよいよ閉会式を迎えます。開会前はどうなるかと思ったけど、選手にとって最高の舞台が失われずに済んでよかったと思います。さて、その選手たちにとって意外なほど好評だったのが、日本流のおもてなしが満載の選手村でした。各部屋も選手村の中も綺麗で、特にトイレが最高!食堂は24時間OKで、いろんな種類の食事が用意されていてどれも美味しい、スタッフの対応も親切。コンビニも品ぞろえ豊富、・・・etcとまあこんな感じで、日本にやってきた選手たちにとって嬉しい誤算だったのか、画像をつけて楽しそうにSNSに発信してくれてます。中でも食事は本当に好評で、体重制限のある選手は自分の出る試合が終わるまでは我慢の日々だったと思います。【2020東京オリンピックの選手村の食堂が凄すぎると大絶賛!!】【世界のみなさんの反応】※音声に配慮が必要な方はご注意ください食事はどれも無料で好きなだけ食べてOK、ドリンクは水もお茶もコーラもなんでも飲み放題、パンやスイーツも美味しい。特に小袋のお菓子が山積みになっているコーナーでは、元フェンシングの選手で金メダリストの太田雄貴氏によると、「日本のお菓子が大人気。最初はパッケージの日本語が読めないので、恐る恐る手に取る。その後は噂が噂を呼ぶ。食堂は原則持ち出し禁止なのですが、帰りにポッケが膨れてる選手もいました。」ということでした。果汁グミ各種やアポロチョコレートが人気で、部屋に持ってかえって後でゆっくり食べるのか、もしかしたらトランクに入れて母国のお土産にするのかとか想像しました。これだけウケたら、スポンサー企業も冥利ですよね。太田氏はツイッターでいろいろ紹介してくれていて、他にも選手村の思い出として「アイスコーナー」をUPしてます。 ⇒ ⇒ こちら お菓子やアイスは選手たちが次々と持っていくだろうから、補充も忙しかったでしょうね。でも喜んでもらえたのは本当によかったです。8月に入ってから熱がこもるような暑さを感じます。なのでなるべくニャンズと一緒にいるようにしてエアコンをかけてます。フクちゃんはタオル地が好きなのか、私のタオルを枕にしています。マロン君は基本1階で過ごすのですが、今はあまりにも暑いので、私が家にいるときだけ、マロン君も2階のニャンズの部屋に入れてます。冷たい空気が気持ちよさそうです。
August 8, 2021
今日はたまらなく暑い日でした。このエリアは35℃くらいでしたが、気象庁のデータで体温超えをしている数値を見るとぞっといたします。でもまあ、これが日本の8月なんですよね。ただ週末から来週のはじめにかけて台風が接近してくるので、天気への影響に注意が必要なようです。さて、前回の日記の続きで、潮見坂平和公園のハスをご紹介いたします。ここはハスの名所なのでカメラを持った人がよく来るのですが、手持ちのスマホやミラーレス一眼で気軽に撮る人もいればでっかいレンズをつけて撮る人もいます。ここなら目の前で花が見られるのに、でっかいレンズを付けるのはどうしてかな?と思い、私もふだんは面倒で使っていない大きいレンズを付けて撮ってみました。前の日に梅雨明け後の光が差した花が撮れたからもういいかなと思ったのですが、大きいレンズを使うとどうなるのかと思いもう一度来てみました。7月の第3週、朝の6時過ぎ、もうすでに何人かの人が来ていました。大きいレンズを付けて撮ってみました。少し離れた位置でもピントがばっちり合って、これはいい感じです。背景がうまくボケてくれて、なるほどこれなら皆さんが使うはずだなと納得です。そこに居合わせた方にお話を伺ったら、でっかいレンズで狙っているのは、ハチとかトンボとかの生き物だそうです。通路より1mほど下にある水面の花は、ふつうのレンズではどうしてもぼやけてしまいますが、大きいレンズだとクリアに撮れます。私のカメラは SONY α6100 の望遠レンズなので、55-210mmです。これだけクリアに撮れるなら、少々バッグが重くなってもいいので、これからはこの望遠も持ち歩くことにしました。夏の強い朝の日差しが横から差し込んで、花が輝いています。逆光に透ける花びらが好きなので、つい撮ってしまいます。
August 4, 2021
8月に入りました。太陽高度が7月のころより少し下がって建物や樹木の日陰が増えたとはいえ、空気の暑さはこれから3週間は覚悟がいるでしょう。さて、我が家からほど近いところに潮見坂霊園という墓地があるのですが、ここは春日井インターを出て国道19号側から入ってすぐのところに池と公園があります。その池にはハスがあり、毎年この時期になるとピンクの大輪の花を魅せてくれます。最近の私はニャンズに起こされたりその他で朝早くから目が覚めることが多く、どうせ目が覚めたならと思ってハスの花を見に行ってました。6月の終わり頃の様子です。ここのハスは他のところよりも早く咲く感じなのでもう咲いているかなと思ったらまだまだでした。(駐車場から池に向かうところに、アジサイが少しだけ植えられています)ほとんどはまだ固いツボミでした。この池では通路の柵の隙間から花が目の前で撮れます。まだ見ごろではないし天気も良くないので帰ることにしました。仕方がないので駐車場の雑草を。小さな花でも集合すると綺麗です。7月の第1週。お天気は曇り。こちらは白い小さなハスが咲くエリアです。今年は梅雨が長かったせいか、ほとんど咲いてませんでした。7月の第2週。やっと梅雨があけ、陽の光が差し込んできました。ピンクの大きなハスがだんだんと咲いてきていました。7月の第3週。朝の6時過ぎくらいです。真夏の強い光が横から差し込んでいました。陽が高くなる前の、横から差し込む光と柵の影で光の道ができました。花にはやっぱり、晴れた青空がいいな♪白い小さなハスのほうは水面の上に花があるけど、ピンクの大きなほうは、茎を伸ばして通路の高さまで花を持ち上げてくれます。だから目の前で見られるのです。
August 2, 2021
東京オリンピック2020。競技がどんどん進行しています。日本はメダルラッシュといってもいいほど、各競技の選手たちが素晴らしい活躍を魅せてくれています。まあ中には世界ランク上位でメダルは確実と思われていた選手が予選で敗退とか残念な結果もあったりします。でもそれ以上にいろんな選手がメダルを獲ってくるので、日本人として嬉しいものであります。さて開会式の話の続きで、もう一つ、多くの人の心に深く残ったプログラムがありました。式典のときに国立競技場の上空に光を放ち、美しい地球をはじめいろんな形を作った1824機のドローンです。あのとき競技場の外にいた人たちが上空を見上げながら、あるいは競技場から少し離れた高層マンションに住んでいて競技場と上空のドローンを一緒に撮ったという方々の画像がSNSにUPされていました。あのときTVに映らなかった部分はこうだったのですね。こちらは離れた場所から国立競技場の全体を撮った映像で、ドローンと花火の光が本当に綺麗でした。※音声に配慮が必要な方はご注意くださいそしてこちらは、開会式の2日前にリハーサルがあってそのときに撮ったという、話題になった画像です。役目を果たした後、明治神宮野球場に帰っていくドローンを置いておきます(2日前)映像を撮影したのは2021年7月21日です。リハーサル時の映像としてお楽しみください。 ⇒ ⇒ こちら この東京オリンピックは開催までに、本当にありえないくらい紆余曲折がありました。それでも、生き生きと競技に挑む選手たちがいて、その勝敗をドキドキワクワクしながらTVを見る日本国民及び全世界の人がいるのかと思うと、たとえ無観客であってもオリンピックを開催してよかった、そう思うばかりです。世界の国からも、この状況で開催できた日本は素晴らしい!というコメントが出ています。ちなみにカナダでは、カナダの番組では、このオリンピックを金継ぎで喩えてる。壊れていても美しく修復できると ⇒ ⇒ こちら さて番外編の話題です。オリンピック取材で日本に来ている海外メディアの方が、初めて手にする日本のある物をどうやって食べたらいいのかわからなくて、ツイッターに助けを求めました。助けてください #Tokyo2020 ⇒ ⇒ こちら このツイートを発見した親切な皆さんが、ある人は手書きの画像を送り、ある人は自分もおにぎりを買って方法を動画で撮って彼女に送ってあげました。思いは互いに通じて、彼女はコンビニおにぎりのフィルムを綺麗に取る方法をマスターし、美味しく食べていました。女子水泳で金メダル2つという快挙を成し遂げた大橋悠依選手に、昨日の夜のNHKデイリーハイライトの番組内で、嵐の櫻井君を通じて大野君からお祝いのメッセージが届きました。まさか大野君から・・!という展開に大橋選手は「一番嬉しいかも」と言いながら、顔が少し赤くなってました。乙女心というやつかな。可愛かったです。
July 29, 2021
先週の金曜日に開会式が行われた東京オリンピックも日程がどんどん進んで、メダルのかかった競技がもう今日で4日目となりました。無観客であるのはやはり寂しいし、この日本で世界のトップアスリートの競い合いを目の前で見る機会がない状態は、なんとももったいないと感じます。まあ仕方がないことではありますが。さて先日の開会式ですが、これまでの日本では考えられなかったような発想を随所で感じる楽しいものでした。まず開会式での選手入場の行進曲。今回はゲームで人気の曲が使われたのですね。私は家庭用ゲーム機を持ってないので知らないのですが、1番目のギリシャが入場のときの音楽は聞き覚えがあり、勇壮なメロディーに感動していました。日本のアニメや漫画は世界でも人気で、翻訳されたのを見て真剣にファンになった人もたくさんいるし、ゲームも同じで日本のゲームを楽しむ人は世界にたくさんいます。ゲームの音楽をBGMにしてのオリンピック入場。1964年の東京オリンピックのときのような選手が緊張した面持ちで整列しての入場ではなく、今回はリラックスした笑顔で列も気にせずの入場で、時代の流れを感じました。※使われた曲の一覧は ⇒ ⇒ こちら そして入場してくる各国の選手たちの姿も見どころでした。国旗の色や自国の象徴的な色や光景をデザインしたスーツやユニフォームで、あるいは開催国への敬意を示す民族衣装で。さらには開催国の日本に敬意を示した、意識したと思われる衣装や小道具やパフォーマンスも多々ありました。日本の桜や富士山の絵とかTOKYOの文字が衣装にある国が、オリンピック用に特注した扇子やうちわを持ってくる国が、さらには日本流にお辞儀をして入ってくる国も。この心遣いが嬉しいですね~ ⇒ こちら さて、選手入場の後で開会式での様々なパフォーマンスが進んでいくのですが、中でも大人気だったピクトグラム。3人のパフォーマーが全身で形を作っていました。舞台で全身で表現できない部分はカメラの向きを変えたり、あらかじめスタジオで撮ったのを交えたり、指先でつくった形を大きくしたりと、まあアイデアがいろいろです。こうして50個の形を次々と作っていきました。 ↓ ↓ ( YouTubeで見る をクリックすれば見られます)※音声に配慮が必要な方はご注意くださいなんか書いていたらけっこう長くなりました。もう少しある話題は、また次回にすることにします。厳しい練習を積み重ねてきた選手たちの花が開いています。今回は特に1年ずれた分、身体の調整もモチベーションの維持も大変だったと思います。
July 27, 2021
東京オリンピック2020が開幕しました。 この開催にたどり着くまで、まあホントいろんなことが ありましたが、それでもなんとか動き出しました。 あとはこの日のために世界中から集まった選手たちが、 存分に力を発揮して競い合ってくれればと思います。 開幕した一昨日の昼に、日本が誇る航空自衛隊のブルー インパルスがオリンピックの開幕を祝って東京の上空を 展示飛行しました。 You Tube で「東京オリンピック ブルーインパルス」 で検索するといくつか出てきます。 でもその中で日本テレビが出した映像が、キャスターの 現場中継が話しがわかりやすくてよく伝わるものだった ので、こちらをUPしました。 ※音声に配慮が必要な方はご注意ください 航空自衛隊のツイッターの公式サイトでは展示飛行後の 無事着陸の報告があり、多くの方が感動のお礼とともに 自分で撮った画像をUPしています。 ⇒ こちら いいですね~ 私も東京近郊に住んでいたら、どこかでLIVE飛行を 見て(撮って)いたかな この大会では、10年前の東日本大震災のときに世界中 から日本に送られた支援や心遣いに対して、徐々に復興 しつつある今の被災地の姿を世界に伝えることも、大きな テーマになっています。 福島は本当に大きな風評被害を受けました。 特に食べ物は、だからこそ徹底した検査をして、むしろ 安全であるとさえ思うのに、いったん思い込んだ人の心 というものはなかなか方向転換できないものでした。 今回、大会で来日した選手や関係者のほとんどの方々は 日本の食事を楽しんでくださっていますが、そんな中で さらに嬉しいニュースが。 ソフトボールのアメリカとオーストラリアの両監督が、 「ずば抜けている!」と福島の桃を絶賛でした。 開幕前にソフトボールの試合が行われて福島を訪れた際、 福島の人々が協力的であることや景観の美しさをいたく 気に入った両監督は、記者会見で桃が美味しかったことも 触れてくださったのです。 ⇒ こちら 他での話ですが、アメリカのエクセリン監督はホテルで 食べた桃がよほど美味しかったらしく、ついつい6個も 召し上がったそうです そして一昨日の夜に行われた開会式。 こちらでも私の気がつかなかった・知らなかった話が いろいろあったので、また次回ご紹介することにします。 オリンピックにふさわしい画像は何かないかと探したけどどれもイマイチなので、 6月初めに我が家の庭に咲いたユリをUPしました。
July 25, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。前回はパリ万博に行った渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)たちのあちらでの様子がメインでしたが、今回は大政奉還という江戸幕府の終焉に一人で立ち向かった15代将軍・徳川慶喜(草彅 剛さん)の話がメインでした。欧米の列強からこの日の本を守るためにも、政権は天皇に返し、自分が天皇を支え、日の本を一つにまとめなければならないと語る慶喜の話を聞いて、私はふと五箇条の御誓文(明治の世になってから明治天皇が示した政府の基本方針)を思い出しました。その1つ目と2つ目の、・広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ・上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシこの先の回のどこかで、なにか関連が出るのでしょうか。さて、地図のゼンリンさんのマップ資料のご紹介です。京都での #青天を衝け 聖地巡礼マップとして活用して下さい! ⇒ ⇒ こちら 庄内藩らに攻撃された薩摩藩邸は現在の三田付近 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 将軍・徳川慶喜の弟の徳川昭武に随行してパリ万博(1867)に来ていた幕府の一行には、フランスから600万ドルの借款をするというもう一つの目的がありました。しかし薩摩の策略により借款の話がなくなってヨーロッパでの当面の費用も問題に。それを昭武の名で為替を発行して他の国から費用を調達し、なんとかしのぎました。そこへ日本から栗本鋤雲(池内万作さん)が日本の信用を取り戻し公儀の命運を握る借款をやり直すために、慶喜からの書簡を持参してはるばる渡欧して来ました。栗本は杉浦愛蔵(志尊 淳さん)に先に帰国するよう命じ、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)には小栗忠順がなんとか用意した為替を渡して簡素に旅を続けるよう命じました。そのころ日本の京では、政の実権を朝廷が取り戻すだけでなく徳川を一掃して真の王政復古を図るべく、岩倉具視(山内圭哉さん)が計略を進めていました。岩倉はまず豪華な錦の御旗を作るよう皆に言い、大久保利通(石丸幹二さん)は薩摩・長州・芸州(広島藩)は倒幕の意思が固いが土佐などは内部でもめているので帝から倒幕の宣旨を早く受けるようにと岩倉に伝えました。そして同時に伏見の薩摩藩邸では、西郷吉之助が戦の準備を着々と進めていました。薩摩の動きをつかんでいた将軍・徳川慶喜(草彅 剛さん)は一人で碁盤に向かい、「未だ借款が叶わず十分な軍備のない幕府が薩摩と戦になれば負け戦になる、いっそ先に政権を朝廷に返上しよう、今の朝廷ならまだ力がないから公儀に見込みはある」と一人で自問自答していました。そう、平岡円四郎の後に側近だった原市之進も夏に幕臣に暗殺され、慶喜が心を許せる側近が今はだれもいない状態なのでした。そして慶応3年(1867)10月、慶喜は二条城の二之丸御殿大広間に重臣たちを集め、政権を帝に返上すると決意したことを皆に伝えました。神君・家康公が受けた征夷大将軍の職を徳川の子孫が受け継ぎそれを自分が頂いた、しかし自分の徳の薄さで今のようになったのを恥じ入る、外国との交際が盛んになる中で日本を守り治めるために政権を一つにしなければいけない、ゆえに政権を朝廷に返上し、広く公平な議論をして帝に決断を仰ぎ同心協力してこの国を護りたい、天下安寧は神君・家康公の願い、それを自分がやるしかない(意訳)と。慶喜の固い決意に重臣たちは言葉もなく、ただ涙に打ち震えるばかりでした。しかし大政奉還により公儀の滅亡が早まるのは公儀にとって未曽有の危機。政を一刻も早く取り戻すのが急務であり、そのために江戸より速やかに軍を上京させ、薩摩・長州・土佐・芸州など公儀に歯向かうものに兵站を開かせ、その機に乗じて帝の周囲からやつらを一掃すべし、と小栗忠順(武田真治さん)が主張し、皆も同意でした。慶喜が大政奉還を宣言したことで江戸城内が大荒れになっていると聞いた松平春嶽(要 潤さん)は、なぜ急に決めたのかを慶喜に尋ね、慶喜は迷いなく答えました。薩摩の動きからもあのときすぐに行わなければ今頃この京は戦場になっていた、自分はこの先は帝の下で諸侯が心を合わせて国を一つにする手伝いをしたい、と。その言葉を聞いた春嶽は慶喜を疑ったことを恥じたと言い、そしてまた慶喜も今までは周囲に心を開けなかった、これからは越前殿(春嶽)をはじめ皆の力を借りたいと語り、新しい日本をつくろうと二人の心は通じ合いました。さてパリでは、各国の歴訪を終えた昭武たちが留学生活に入りました。そして昭武の師となるフランス陸軍中佐のヴィレットから日本人に言い渡されたのが、髷を落とし刀を外し洋服を着ることでした。篤太夫はほとんど抵抗なく(むしろ楽しそうに)髷を切って洋装になったのですが、メンドクサかったのが水戸藩士のこの方たちでした。「髷は武士の魂、それを捨てろとな!」と抵抗したけど、結局は従ったようです。菊池平八郎(町田悠宇さん)は髷を切るなら自らの手で、ということなのでしょうが、菊池にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの一大決心であり、涙目になっていました。(この場面で涙目に・・役者さんはスゴイなあ)菊池が髪を切った瞬間、泣き叫ぶ水戸藩士たちでした。(ここは笑った。というか、これが笑える場面になるとは)髷を切って洋装になった篤太夫たちは、日本人同志のやり取りでもできるだけフランス語を使うようにして、現地に馴染んでいました。あるときフリュリ・エラール(グレッグ・デールさん)がヴィレットと親し気に会話をしている姿を見た篤太夫は、身分のことを訪ねました。するとフランスでも他のヨーロッパの国でも、身分に関係なく互いに自分の考えを述べ合うと聞き、篤太夫は皆が国のために力を活かして働いていることに気が付きました。日本のこれからの在り方がわかった篤太夫に、エラールはエールを送りました。篤太夫とエラールが成長する日本の未来を語っていたら、そこへ水戸藩士の井坂泉太郎(林 雄大さん)が半狂乱で入ってきました。井坂たちは髷を切った後に精神的に病んでしまった、自分たちはもう日の本に帰る!と。栗本いわく、滞在費がなくて倹約しなければならないので人数が減るのは助かる、ということで水戸藩士3人は帰国していきました。慶応3年12月(1868年1月)、薩摩の西郷らが朝廷を一気に支配下に置こうと動きだし、突如、王政復古が宣言され天皇中心の新政府が樹立しました。その夜、小御所会議が開かれ、土佐の山内容堂(水上竜士さん)は、新政府ができたことには賛同するものの、今この場に、日の本のために将軍職を返上した徳川慶喜がいないことへの強い不満を言い、それは越前の松平春嶽や尾張の徳川慶勝(稲荷卓央さん)も同じ考えで、3人とも慶喜を擁護しました。慶喜は頭は切れるが人徳はないと思っていた朝廷側にとっては大きな誤算でした。小御所会議での流れをみて薩摩の西郷吉之助は、もう徳川と戦をするしかないと考え、江戸城の二之丸に放火して徳川を挑発しました。急ぎ知らせに来た渋沢成一郎(高良健吾さん)に、これは戦をさせるための罠だから動いてはならぬ、と慶喜は言いましたが時遅し。さらに三田の庄内屯所が銃撃を受けたこともあって、奸賊・薩摩を討つべしと老中の命を受けた兵たちが出陣して薩摩屋敷を砲撃し、開戦となりました。そして大坂城にいる家臣たちは皆、慶喜に「薩摩を討つべし!」と強く訴えました。そのことはパリにいる篤太夫たちには電信で知らされました。テレガラフなら文より新しい情報が入ると一同は喜んでいましたが、「新しい政権の形を決めることとなった」という内容に、日の本でいったい何が起こっているのかと、皆は想像することもできず不安になりました。
July 21, 2021
先日ふとネットのニュースを見たら「亀石征一郎さん死去」と出ていました。芸能人のことをあまり知らない私が見たことがある名前だったので見てみたら、やはり時代劇の『水戸黄門』でよく悪役で出演されていた方でした。私は『水戸黄門』は、里見浩太朗さんが黄門様で助さん・格さんが原田さんと合田さんのときが一番好きなので、再放送があったときはじっくり見ていました。若い頃は原田さんや合田さんのカッコ良さのほうに目がいってましたが、何度か再放送があって見直すうちに、今度はだんだんと脇を固めるバイプレーヤーの皆さんの演技に見入るようになりました。長年時代劇を務めているだけあって、着物の着こなしや所作が、これはふだんの姿ではと思うほど自然です。衣装でだいたいの身分はわかりますが、姿勢や動きを見ているとその身分であることを感じます。亀石さんの訃報で関連して調べたら、福本清三さんのことは知っていましたが内田勝正さんも昨年の1月にお亡くなりになっていました。当時、悪役を務めた皆さんは今は年齢的におじいさんになっているので、今度は悪役じゃなくて好々爺になってどこかの時代劇出てくれないかな~、なんて思っていたので、訃報を聞いてただただ残念に思っています。そこでお三方への敬意と追悼の意を表して、方々が出演されていた回のほんの一部ですが、今一度振り返って在りし日を懐かしむことにしました。第32部の第1話で、加賀藩の勘定方の大橋典膳を演じる亀石征一郎さんです。ドラマのラストで黄門様一行と大立ち回りがあるときに、悪役の親玉が家臣たちに「ええい、かまわぬ、切り捨てぇい!」とか命じていますよね。第34部の第12話で、蝦夷・松前藩の次席家老の奥野相模を演じています。悪だくみをしているのが見ていてもよくわかる笑いです。第36部の第5話で、富山藩の家老の時村将監を演じています。思うように事が運ばず苛立っています。第34部の第7話で、遠野の代官の長部小十郎を演じる内田勝正さんです。身分の高い悪役さんによくあるお座敷のシーンで、芸者は来たものの気に入る女子がいなくて不機嫌になり、お代官様を皆が取りなしているところです。同じく第34部の第7話で、河原で素晴らしい馬を連れた美しい娘・お菊を見つけ、馬もお菊も一目で気に入り喜ぶ長部です。同じ喜びの表情でも爽やかな笑顔ではなく、馬も娘もなんとかして我がものにしようとたくらむ身勝手でよこしまな笑いです。第34部の第20話で、宇都宮の家老・関山の下で働く梶川紋三郎を演じています。ご老公を亡き者にしようとたくらむ関山は吊り天井の茶室を職人たちに作らせていて、梶川には手段を選ばず工期を急ぐように命じ、梶川が職人たちを脅しているところです。さて福本さんは、毎度の悪役側の斬られ役ではなく、珍しく良い役のほうでご紹介を。第36部の第16話、ご老公一行が広島藩の厳島に立ち寄ったとき、福本清三さんは元藩主の浅野光晟の護衛の役をしていて、酒蔵見学をする光晟に同行していました。主人と客人の邪魔をしないよう主人を護衛する立ち位置が絶妙だと感じました。光晟に付いて城下を歩いていたら、突然何者かに襲われました。福本さん、今回は正義側で立ち回りします。でもやっぱり斬られ役の福本さん、今回もちょっぴり斬られちゃいました。手傷を負い多勢に無勢であわや!と思ったとき、ご老公一行の忍びであるアキと鬼若が通りがかって助けてくれました。福本さんは15歳で東映京都撮影所に入社してから時代劇の斬られ役一筋で(第36部、2006年段階で)47年で、鬼若に礼を言うときの姿勢が実に自然でした。
July 18, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は民部公子に随行してパリ万博に行った渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)の道中記がメインで、当時のフランスの雰囲気を味わえる楽しい回でした。食事の作法も何も知らな篤太夫だけど、渡欧経験のある杉浦愛蔵(志尊 淳さん)のやることを見よう見真似での初めての洋食で、バターやコーヒーの味わいが特に気に入ったようでした。醤油や味噌の味わいしか知らない日本人には、バターやバターを使った菓子はさぞかし美味だったでしょうね。そして海外ロケができない今、パリ万博の模様などをVFXの技術を駆使して作り上げました。でも私の目には、本当に現地で撮影してきたとしか思えないんですよね。 ⇒ こちら 万博でのセットも含めて、作り上げるのにどれぐらいの時間と労力を要したかはわかりませんが、すごい技術です。さて、いつもドラマ内の地図解説をUPしてくださる地図のゼンリンさんが、今回は海外のことで自社に地図がない、ということでした。でもそれを、世界地図を持つ帝国書院さんとコラボして今回もちゃんと作ってくれました。栄一はじめての海外出張 パリまでの航路はこちら! ⇒ ⇒ こちら 栄一一行のパリ滞在マップ! ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 慶応3年(1867)1月、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は徳川昭武の渡欧に随行するために横浜港を出港し、船の中から早速さまざまな西洋の流儀に触れることになりました。(渡欧中の出来事に関してはこの文献を資料にしたとのことです。⇒ こちら )篤太夫たちの乗った船はアジア各地に寄港してスエズ運河(建設中)まで行き、一部陸路で地中海に抜け、55日目にパリに到着しました。パリに到着した一行はそのままエッフェル塔に行き、長い階段を上がって塔の上に出てパリ市内を一望し、日の本とは何もかも違う風景に圧倒されていました。その後一行はカピュシン街のグランドホテルに投宿し、日本総領事の挨拶を受けましたが、幕府の一行にイギリス人のシーボルトが通訳として同行していることにフランス側から疑問と不快感を持たれました。そして西洋の言葉も流儀も知らず、特に徳川昭武の傍で護衛をする水戸藩士たちは日本にいるときと同じ感覚で事に当たるので、どこに行ってもトラブルの種になりました。万国博覧会の見学に出かけた篤太夫たちは、船や鉄道を動かす大掛かりな蒸気機関の仕組みや世界中から集まる最新の機械を目の前で見て、驚きと興奮を隠せませんでした。そして人々が中に入っていく鉄柵の囲いに篤太夫が医師の高松凌雲と一緒に入ったら扉が閉まって中に閉じ込められ、機械の力で囲いごとつり上げられていきました。それはエレベーターで会場の最上階に着いたら扉が開き、篤太夫は興奮した勢いのまま頭上から光がさす階段を駆け上がっていきました。階段の先は万博会場の屋根の上になっていて、篤太夫と高松凌雲(細田善彦さん)は眼下にパリ市内を見下ろしながら、二人ともなぜか笑えてきました。博覧会で先進諸国が展示している最新の技術を集めた品々はどれも、今の日本では到底作ることができないものばかりで、何日かけても見切れない、自分は言葉もわからない、その品々を見定める目も考える頭すらない、夢の中にいるみたいだ。ーー西洋の力を思い知った篤太夫は「参った!」と言いつつも、その瞳は輝いていました。見学の一行は日本の出展区画に着き、その見事さに最初は感嘆の声をあげていました。しかし隣りの区画に「LIOU-KIOU」と書かれた看板と薩摩藩の旗があるのを見つけ、中に入ると薩摩藩の物産が日本とは区切る形で展示されていました。それはフランス人伯爵モンブランと薩摩の五代才助が仕組んだことで、その後の幕府側と薩摩側で話し合いが持たれましたが、言葉の解釈の違いを利用したモンブランは、日本は連邦国家であり将軍はその中の有力な大名にすぎないと新聞記事に載せてしまいました。公儀を貶めるこの策略の裏には、幕府側に通訳として同行するシーボルトがいました。こうした中、民部公子の徳川昭武(板垣李光人さん)は、ナポレオン三世と謁見する儀式のためにテュイルリー宮殿に入りました。これは徳川将軍の権威を世界に示すまたとない機会で「日本国皇太子 徳川昭武殿下」と紹介された昭武は兄・徳川慶喜の代理として親書を読み上げ、皇帝ナポレオン三世からは歓迎するとの言葉を賜り、一同から万雷の拍手で迎えられました。そのころ日本では、将軍・徳川慶喜(草彅 剛さん)が列強の大使たちを相手に、オランダには間もなく兵庫を開港することを、フランスには大坂に市場が開かれることを、そしてイギリスには日本が貴国とともに発展することを願う、と各国の言葉で話しました。イギリス公使パークス(イアン・ムーアさん)はパリでシーボルトが暗躍していることを確認しつつ、しかし慶喜は今までの将軍とは違うと警戒を強めていました。慶喜は次々と改革を進めていきましたが、それに対して島津久光(池田成志さん)は政治の主導権を慶喜から奪うべく、かつての朝議参与の諸侯を京の二条城に集めました。しかし話し合いは島津の思い通りにはならず、さらに慶喜は「せっかくの集まり」ということで庭にホトガラフを用意し、興味をそそられた越前の松平春嶽(要 潤さん) と土佐の山内容堂(水上竜士さん)と宇和島の伊達宗城(菅原大吉さん)は慶喜の計略に流されてしまい、島津には面白くない展開となりました。しかしこの日を境に、薩摩は倒幕へと急速に舵を切っていきました。一方、篤太夫の故郷の血洗島では、親戚の尾高平九郎(岡田健史さん)を篤太夫の見立て養子(公儀で働く者が異国に出る際には跡を継ぐ者を先に決めておくこと)にする話が進んでいて、それを聞かされた平九郎は驚きを隠せませんでした。母・やへ(手塚理美さん)は武士になりたい平九郎の気持ちもわかっているし、これまで尾高の家で平九郎が十分に頑張ってきたことも認めていました。確かに武士にはなりたかったけど、農民の自分が武士の中でも幕府の家来である直参に。平九郎の胸は高鳴りました。さらにこの件は栄一(篤太夫)の父・渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)や平九郎の姉であり栄一の妻である千代(橋本 愛さん)からも頭を下げて頼まれたことでした。さて、そのころパリでは使節団は経費節約の必要に迫られていました。皆ホテルを出て、篤太夫たちは自炊でアパルトマン暮らしに。民部公子(昭武)にも相応の住まいを用意しましたが、昭武のお付きの者たちは、武士は家賃の値下げ交渉なんかできぬとか、この部屋では~とか文句ばかりつけます。しかし昭武は、質素倹約を旨とした亡き父・徳川斉昭の教えに倣い、ここは将軍である兄・慶喜の住まいよりよほど立派である、自分にはもったいないと考える人でした。昭武はここに住むことに決め、篤太夫の労をねぎらいました。篤太夫たちは忙しい公務の合間を縫ってパリの街を見物に出かけました。中でも廃兵院の在り方は篤太夫や医師の高松凌雲に大きな感銘を与えました。また夜に開催される舞踏会は篤太夫には心が躍る場所で、淑女たちが美しいドレスを身にまとって舞い踊る姿には思わず見惚れてしまいました。そしてこの舞踏会というのは見合いの相手を探すいい仕組みだとも、篤太夫は考えました。ただ杉浦愛蔵(志尊 淳さん)によると日本からの金が届かず、篤太夫も不安になりました。そのころ薩摩では、パリではモンブランの働きで幕府とフランス政府との結びつきは切れた、これで幕府のコンパニーも潰れるだろう、と五代才助(ディーン・フジオカさん)は大久保利通(石丸幹二さん)に語っていました。大久保は慶喜は頭が切れると楽観視してませんが、五代は「頭はあっても金がなければ政は動かない」と先を読んでいました。また江戸城では、パリでは徳川将軍は日の本の中の一大名に過ぎないという風聞がたっていて、このままでは600万ドルの借款が下りないと小栗や栗本は危惧していました。果たしてその不安は的中し、借款が消滅したとパリの篤太夫に知らせが入りました。
July 13, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回も心に残る場面がいくつかありました。前半は、第15代将軍となった徳川慶喜(草彅 剛さん)に渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)が拝謁した場面でした。人払いをして二人きりになったとき、徳川の世はもう長く続かないだろうと思いつつも自分がこの重荷を受けるしかなく、それでも弟の昭武に後を託すために公儀を簡単には潰させないという、弱音と決意を篤太夫に語りました。それを聞いた篤太夫は、神君・家康公の遺訓を唱え始め、慶喜は遺訓を思い出して気力がよみがえったのか自分も唱え始め、やがて二人で唱和する場面は本当に感動でした。そして後半は、篤太夫が小栗忠順(武田真治さん)と語り合って、篤太夫の過去を知る小栗を初めこそ警戒していたけど、西洋文明の素晴らしさと国力の違いを知る小栗が、日の本の発展と徳川への忠義を語る場面がありました。あと篤太夫が、従兄弟であり無二の友である渋沢成一郎(高良健吾さん)とも、先はどうなるか分からないけどそれぞれの場所で自分たちがこの国を良くしていこうと、二人で決意している場面がありました。小栗がフランスに行く篤太夫に語った言葉。「無事に戻れば、共に励もうぞ」史実として小栗のこの先を知っているので、感動の言葉なのだけど、よけいに辛いものがありました。さて今回の地図のゼンリンさんの解説です。慶喜公の弟君の昭武さん・・清水家は、現在の北の丸公園付近にお屋敷がありました ⇒ ⇒ こちら この当時(1867年)横浜港には、幕府の機関として・・ ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ慶応2年(1866)夏、第14代将軍・徳川家茂が死去した後に徳川慶喜が徳川宗家を継ぎ、ちょうどそのころフランスの公使・ロッシュからパリ万博の誘いがありました。フランスからは王族級の人物が参列するよう要望があり、慶喜は弟の昭武を行かせることにして、その同行で渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)に命が下りました。慶喜の側近・原 市之進(尾上寛之さん)は篤太夫に、俗事や会計を務めながら異人に反感を持つ水戸藩士を見張るという重大任務である、よく考えよと念を押しました。しかし篤太夫は「これは僥倖」と目は輝き、心はもうすでにパリに飛んでいました。しかし日の本を離れ遠い異国に行くとなると、それなりに準備や心構えがいります。大目付の永井尚志(中村靖日さん)は篤太夫に、異国に行くための金は公儀から出るからの収支を後で報告することや、異国での買い物には通訳がつくから心配ないこと、医師や髪結いも同行することを伝え、あと見立て養子はどうするかと訊ねました。篤太夫はそこまで考えてなく、無二の友(渋沢成一郎)に相談してからと答えました。その年の冬、孝明天皇(尾上右近さん)の強い希望もあって慶喜は将軍宣下を受け、徳川第15代将軍の座に就きました。その孝明天皇は体調が良くないのに、神事は疎かにできないと国の安寧を祈るために、4時間以上にも及ぶ内侍所の御神楽に参列しました。その無理がよくなかったのか、孝明天皇は数日後に崩御しました。孝明天皇の後は祐宮が天皇の位に就くのですが、祐宮の後ろ盾は公儀に反感をもつ公家ばかりで、隠遁生活を送る岩倉具視は自分が表に出て幼帝を守り、王政復古を果たして今度こそ帝の世を作ると決意しました。慶応3年(1867)、パリに出立する日が近づき、篤太夫は二条城で慶喜に拝謁しました。慶喜はフランス皇帝ナポレオン三世から送られたというフランス式の軍服に身を包んで現れ、篤太夫に弟の昭武(板垣李光人さん)を紹介しました。慶喜は昭武に、日の本の代表として世界の表舞台に立つことのへの心得を説きました。1.博覧会の後は日本が条約を結んでいる各国を訪問してその地の王に挨拶をすること2.その後はさらにフランスにて3年~5年は学問を修めること3.学んでいる間は師を必ず重んじよ4.もし日の本に常ならぬ事態が起きたと聞いても決してみだりに動かぬこと5.この度の渡欧の一行は常に一和に円満に努めること弟・昭武に心得を伝えた後、慶喜は篤太夫を残して人払いをしました。篤太夫を前に慶喜は、内外多難な今は将軍は重荷でありもはや自分の力は及ばないのはわかりきっている、と他の者には言えぬ胸の内を明かしました。しかし慶喜には、次の将軍には欧州で広い世界を直に見てきた昭武に継がせたい、そのためにも自分が公儀を潰されないようにする、という考えがありました。それを聞いた篤太夫は神君・家康公の遺訓を唱え始め、慶喜も一緒に唱えました。人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし心に望み起こらば困窮したるときを思い出すべし堪忍は無事長久のもとい怒りは敵と思え勝事ばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る己を責めて人を責むるな及ばざるは過ぎたるよりまされり二人で家康公の遺訓を唱え、心は通じ合っているとわかり笑い合った後、慶喜は篤太夫に弟・昭武を頼むと言い、篤太夫も民部公子(昭武)をお支えすると慶喜に誓いました。その翌日、昭武の一行は京を出発して船で横浜に到着し、神奈川奉行所にて小栗上野介ら幕府の要人たちやフランス公使・ロッシュの挨拶を受けました。その後で篤太夫は外国方の杉浦愛蔵(志尊 淳さん)に福地源一郎(犬飼貴丈さん)と福沢諭吉(中村萬太郎さん)を紹介され、フランスに行ったらモンブランという人物に気をつけろ、向こうには薩摩も行っていると注意を促されました。公儀の異国との貿易や税の交渉などを一手に引き受けている小栗忠順(武田真治さん)はフランスに行く一同に対して、現地での注意事項を伝えるとともに、今回の渡欧のもう一つの目的である600万ドル(約450万両)借款のことを伝えました。篤太夫と二人きりになった小栗は、篤太夫が一橋家に仕える前に攘夷運動をやっていたことや、その後の篤太夫の一橋家での働きぶりを知っていると語りました。そして小栗は自分が6年前にアメリカに行ったときに見た蒸気機関の仕組みの凄さを、大型建造物を作るときにネジを使いそのネジも機械で大量生産しているのを見て、我が国は西洋諸国に何も勝てないと痛感していました。でも心意気だけは負けるわけにはいかぬ、公儀があと何年もつかわからないけど、今日の本の近代化の基礎を作っておいて、何年か後に「徳川のおかげで」と言われればお家の名誉という思いを持っていました。旅立つ直前になり、篤太夫はどうしても渋沢成一郎(高良健吾さん)に会って話がしたくなり、急いで江戸に来ていました。成一郎はもう江戸を出たと聞いて落胆した篤太夫でしたが、投獄されている従兄弟の尾高長七郎にも会いたくて小石川代官所に来たら、思いがけず成一郎に会えました。時には喧嘩もするけど互いに深い絆で結ばれている二人です。お役目が別々になって以来なかなか会えなかったので、互いの顔を見た瞬間、役人の前でもお構いなしにどちらも大はしゃぎでした。(この二人が子犬のようにじゃれ合っている姿は癒しのシーンだと思ってます)篤太夫は成一郎にあさってフランスに行くことを告げ、この先のことはわからないとぼやきましたが、子供のころからずっと一緒の成一郎には篤太夫が口ではそう言いつつどこかワクワクしてるのが見えていました。夜、二人で屋台の蕎麦をすすりながら篤太夫は悩んでいた見立て養子のことを成一郎に相談し、従兄弟の尾高平九郎で考えていると話しました。成一郎は賛成し、実は自分もあにい(尾高惇忠)や平九郎を徳川に呼びたいと思っていたと篤太夫に話し、篤太夫が渡欧の間に自分が話すと言いました。篤太夫は成一郎と話しながら、自分が帰国したときには日の本はどうなっているのかとふと思い、わからないけど今よりは良い世になっていると願うと言い、成一郎は自分たちが良くしていくのだと、そして負けられないと二人で決意していました。幕府の陸軍附調役である成一郎はフランス式の軍事訓練の指揮を執って兵を鍛えていて、その様子を将軍・徳川慶喜は見守っていました。慶応3年(1867)1月11日、篤太夫は民部公子に随行して横浜からアルフェー号に乗船し、一路フランスを目指して出航しました。篤太夫はふと「このままではこの国は終わる」と言った高島秋帆の言葉を思い出し、少年だったあの日に「自分がこの国を守る」と答えたことを思い出していました。大海原を見つめる篤太夫の胸には、何もわからない異国への不安よりも、その何倍もワクワクする思いがありました。
July 6, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第7週の部分的な感想です。SNSの感想サイトを見ていると、セリフがいちいち説教くさいという意見をよく見ます。たしかにそうかもしれません。でもモネ(永浦百音;清原果耶さん)はまだ社会人の2年目で、一般常識も含め社会人として知らないことは多々あるし、その知らないことを一つ一つ、皆から実に丁寧に優しく教えてもらっています。そう思えば、話が少々長いくら別にいいかと思います。今週はストーリー的には正直さほど感動とかはなかったのですが、気象を中心に科学的な話や地理的な話が出てきて、私としてはそれを楽しんでいる感じです。このドラマに関して、林野庁から解説のための特設ページが出ています。 「おかえりモネ」解説ページ 気象予報士になる勉強を続けているモネ(永浦百音;清原果耶さん)でしたが、最近は仕事が忙しいし充実していることもあり、菅波がずっと厚意で教えてくれているのに気象の勉強に今一つ身が入らない状態でした。ある日、東京の気象キャスターの朝岡 覚(西島秀俊さん)と一緒に来た大学教授の中本(若尾義昭さん)は樹木年輪を用いた年輪気候学が専門で、この辺りの300年超えの木からは天明の大飢饉(1782--1788)天保の大飢饉(1835--1837)の情報が得られるので、年輪の輪切りを分けて欲しいと新田サヤカ(夏木マリさん)に頼んでいました。年輪から見る気候変動の話は、モネの心にいくらかの刺激を与えていました。朝岡に同行してきた部下の内田 衛(清水尋也さん)と野坂 碧(森田望智さん)はそれぞれ自分の研究を持っていて、山にフィールドワークで入っていました。防災に興味がある野坂はレーザースキャナでスギの表面積と本数と地形を計測して山の保水能力を調べていて、また酷い花粉症の内田は花粉症の警報アプリを作りたいと考え、花粉計測器を使って調査していました。モネにとってのごくふつうの暮らしの中で、気象が思いがけない形で関連していました。その夜、朝岡たちの歓迎会が開かれ、登米の美味しい米を使った料理や酒が振舞われ、東京の三ツ星シェフも絶賛であるとか、森林組合の皆のプチ自慢もありました。会がお開きになった後、診療所の医師の中村信弘(平山祐介さん)と朝岡は実はあの3.11の大震災のときからの知り合いであることをモネは知りました。朝岡は救援ヘリが使う気象データを取るために観測機を沿岸部の各所に設置していて、中村は災害派遣の医者としてここにきていて、そしてサヤカはその復興支援をする人たちに周辺の建物を提供していたのでした。(実際に登米市には世界の何か国かの災害救助チームが入っていたそうです)一方、島の永浦家では妹・未知(蒔田彩珠さん)のことで父・耕治(内野聖陽さん)と揉めていて、でもモネの応援もあって結局は父が折れ未知は自分の希望を通しました。モネの誕生日の日に実家からは成人のお祝にと日本酒が送られてきて、モネはサヤカと共に祝い、そして実家の皆からは電話で「おめでとう」の声が届きました。銘柄の「別品」は気仙沼の銘酒「別格」をアレンジした名前だけど、父・耕治の嬉しそうな顔を見ると、器量良し(別嬪)の娘を持った父の自慢かな?なんて思いました。9月21日の朝、出勤してきた皆が口々に「昨日はすごかった」と興奮しながら言っていて、それは前日の深夜に行われたラグビーの試合のことでした。そしてこの試合には野坂と内田の会社が関わっているとのことで、スタジアムに観測器を持ち込んで試合当日までの天候をデータ化し、当日の気温・湿度・風向風速を予測して先発メンバーや戦略を決めるのに使ったりするという話でした。いろいろな話から気象のことに次々と関心を持ってしまうモネでしたが、試験の結果は勉強不足もあり、やはり不合格でした。森林組合ではいよいよ樹齢300年のヒバの伐採計画が動き出しました。能舞台の床の張替えに10年、全体の修復には50年かかるという大事業です。『国づくりとは、樹木で山々を埋めることである』ーー伊達政宗公が偉いお坊さんに教えられたという標語を皆で改めて考えていました。森林組合の仕事は楽しいしサヤカのためにも頑張りたい、でも気象予報士にもなりたい、モネは自分の抱えた思いを菅波光太朗(坂口健太郎さん)に話してみました。菅沼は、まずは資格をとること、そのためにも専門家に教えてもらのがいい、仙台で週1のスクーリングを受けると良い、そして自分が本当にやりたい仕事が東京でしかできないならば東京に行くべきとアドバイスをし、モネの気持ちは固まりました。モネと菅波の話を陰で聞いていたサヤカは、モネが近いうちにここを去ることを悟り、3月10日に伐採が決まったヒバの木に会いに来ていました。「いいじゃないの。また一人でも。こういう人生よ。」ーーサヤカはヒバの木に、胸の内にしまっておいた思いをぶつけました。そのころ仙台のスクーリングに通いだしたモネは迷いがなくなったせいか、気象の勉強がどんどんとわかるようになっていました。菅波が丁寧に作ってくれた基礎の土台のおかげだと思います。
July 4, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。この回は前半は、14代将軍・徳川家茂の死去によってにわかに慶喜の周辺の動きが慌ただしくなり、その動きに巻き込まれるかのように吉沢 亮さん演ずる渋沢篤太夫の身辺や心情が動いていきました。そして後半は、幕末といえばこの方、町田啓太さん演じる新選組の副長・土方歳三が存分に魅せてくれました。新選組の土方といえば、写真に残る洋装になったご本人の男前ぶりに相応しいイケメンの役者さんが適役です。今までの中では大河ドラマ『新選組!』の山本耕史さんが最高にカッコイイと私は思ってます。でも町田啓太さんの土方も、いやあ~もう、素敵ですね。篤太夫の吉沢 亮さんと並んで、そして二人の会話の場面で少しだけ入った渋沢成一郎(高良健吾さん)がいて、これでは武州という地は男前揃いなのかと錯覚するくらいです。この先の戊辰戦争のときに、町田啓太さんの土方歳三と高良健吾さんの渋沢成一郎が絡む場面があるといいなと勝手に期待しております。さて地図のゼンリンさんが、武州に関する地図のデータをUPしてくれました。※土方さんと篤太夫さんが同じ出身地「武州」・・・武州 めちゃくちゃ広くないですか? ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 慶応2年(1866)7月、第14代将軍・徳川家茂は第二次長州征伐に出陣したものの、大坂城で病に倒れてそのまま死去しました。その急報はすぐに京の一橋邸にいる側用人の猪飼勝三郎(遠山俊也さん)の元へ。ところがそんな重要度の高い情報を、知らせを聞いた猪飼が驚いてつい「何?、上様が身罷られた!?」と声を大にして言ってしまったので、秘するはずのその情報は結局、瞬時に下々まで知れ渡ってしまいました。渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は猪飼の話を聞こうと近寄り、そして次の将軍はもう我が殿(徳川慶喜)しかないという推測になり、家臣一同は話に聞き耳をたてていました。しかし今の日の本で将軍になるということは、火中の栗を拾うようなもの。我が殿の徳川慶喜(草彅 剛さん)の身を案じた篤太夫は、殿が屋敷にいるうちに進言をと思い、上役たちの制止を振り切って慶喜の元に駆け寄りました。今のご公儀はもうもたない、そうなれば国中の非難は殿に集まる、かつての自分のような血の気の多い者が殿の命を狙う、そんな危ない将軍になる理由なない、どうか一橋に残り自分に殿を支えさせて欲しい、と思いをこめて必死に慶喜に訴えました。しかし慶喜は静かに「言いたいことはそれだけか」とだけ言って、立ち去っていきました。亡き家茂は江戸城を出るときに、自分になにかあったら次の将軍は田安家の亀之助にしてほしいと天璋院に頼んであり、天璋院もその遺命を果たそうとしていました。しかし幕臣や慶喜寄りの親藩は、時期将軍は慶喜しかいないと強く主張し、慶喜が徳川の世は滅亡するだろうと語ると、永井尚志(中村靖日さん)は前に進み出て、家茂は病の中次の将軍は慶喜に頼みたいと言ったと偽りを言いました。慶喜に話の真偽を訊かれた板倉勝静(永井秀樹さん)が肯定したので慶喜は何かを悟り、もしその言がまことならばとした上で、「自分はこの先思うまま徳川の世に大鉈をふるうかもしれないが、それでよいのだな?」と皆に念押しをし、一同も同意しました。慶喜は徳川宗家を相続し、次の将軍になることが事実上決まりました。我が殿が将軍になる、自分たちは直参になると一橋家の家臣たちは喜びにわきましたが、それは同時に今も続いている長州征伐に行くということでした。側近の原 市之進から部署の割り当てがあり、篤太夫は御用人手附として本営に入ることとなり、殿・慶喜に言いたい放題言ったのに重用してもらえるということでした。篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)は出陣しましたが、幕府側の小倉城が陥落して幕府の敗北は決定的となり、その知らせを大坂城で聞いた慶喜は撤退を決めました。攘夷も慶喜による長州征伐もうまくいかず、思うように事が運ばない孝明天皇はふと、洛北の村で蟄居生活を送る岩倉具視(山内圭哉さん)のことを思い出しました。その岩倉の元に薩摩の大久保利通(石丸幹二さん)が訪ねてきていて、自分は徳川を利用して天子様の力を大きくしたいのに公家たちの頭が古くて~と岩倉は愚痴を言ってました。しかし大久保から、薩摩も長州も徳川を捨て天子様を戴く世を作りたいと考えている、と聞かされると岩倉は急に元気になり、長く続いた武家の世を終わらせ天子様が王政復古を果たす好機が到来!とがぜん意欲がわいてきました。慶喜が徳川宗家を継いだことで一橋家の家臣の一部は将軍家に召し抱えられることになり、篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)は一橋家を離れることになりました。篤太夫が仕事の引継ぎをしていると猪飼が来て、猪飼は江戸の一橋家に戻ると言います。篤太夫たちが京に来て一橋家の家臣となってからずっと、篤太夫たちの世話を焼いてくれ、子だくさんで金がないと言いながら金を貸してくれ、人集めで岡部に戻った時は代官から篤太夫と成一郎を守ってくれた猪飼でした。猪飼や今は亡き平岡円四郎に可愛がってもらえた篤太夫には、離れがたい一橋家でした。篤太夫と成一郎は大坂の幕府陸軍奉行所に配属され、書記官として働いていました。御家人となったものの、一橋家にいたころのように自分の考えを殿・慶喜に提言したり、お家のために自分の考えを生かして働くということはなく、上司から言われたことをただやるだけで、身分は上がっても彼らには退屈な日々でした。二人とも精神的にイライラがつのってて、この先はどうするという話になったとき、話のはずみで取っ組み合いの喧嘩となりました。(この二人のワチャワチャは見てて楽しい)幼い頃からずっと共にいる二人だからイライラ解消に互いにちょうど良かったのですが、周囲にはそのように映らずちょっとした騒ぎになりました。そんな篤太夫に臨時の仕事として、謀反の疑いがある大沢源次郎を捕らえよとの命が下り、護衛に新選組の土方歳三(町田啓太さん)らが来ました。多少は剣に腕の覚えがある篤太夫だったので、初めは土方の護衛を断りました。しかし多勢に無勢の状態になり、あわやこれまでかと思ったら土方が助けに来ました。ところが大沢の配下らを倒した後で土方はなぜか篤太夫に刃を向け・・・土方は剣を横に一振りし、篤太夫は悲鳴をあげて身体を引いたものの、てっきり自分がやられた!・・・かと思ったら、土方が狙ったのは押し入れに潜んでいた大沢でした。(このあたりは篤太夫と違って幾度も実践を重ねてきた土方ですね)こうして大沢の一味は捕らえられ、篤太夫は役目を果たせました。大沢の捕縛の後で何とはなしに二人で話が始まり、篤太夫は幕臣でありながら今の幕府に対する批判や今の心境など、思うところを土方に語っていました。そんな篤太夫に土方は驚きつつもさらに話が進むと、実は二人はどちらも武州の百姓であったことがわかり、互いに妙な親近感がわいてきました。百姓から武士になったことへの今の思いはそれぞれ違うけど、どちらも日の本のために命を懸けて働く、この日の本を守りたい、その思いは同じでした。そして、いつかまた会ったときに互いに恥じぬようにと約束をして別れました。(この後で土方が渋沢成一郎と顔を合わせた場面も、この先のことを思うと胸熱でした)朝廷から慶喜への将軍宣下はまだでしたが、それはもう決まったようなもので、小栗忠順(武田真治さん)は今後は慶喜を盾にして公儀を守ろうと考えていました。そんなときフランスの公使ロッシュからパリ万博の出展をどうするのか、公儀から誰を送るのかを決めて欲しいと催促がきていました。小栗から相談の書状を受け取った慶喜は、ふと篤太夫のことを思い出しました。
June 29, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第6週の部分的な感想です。第6週ではモネ(永浦百音;清原果耶さん)の両親の昔話やジャズ喫茶のマスター田中の話とかありましたが、私はそちらのほうには心が動きませんでした。でもその分、医師の菅波光太朗(坂口健太郎さん)がモネとの関わりの中でいろいろといいことを言ってくれていたので、そちらをメインにした感想にしました。医師の菅波がなぜ気象の話を教えられるのか、みたいな話題もありますが、医師になろうと思ったらものすごくハイレベルな理系の勉強をしているし、文章を読み解く国語力も必要ですからね。今モネに教えている程度の気象の話は、本を読めば十分に理解できると思います。難関試験を突破してきた菅波先生の言葉は、進学の受験や何かの資格試験を控えた方には、役にたつと思います。このドラマに関して、林野庁から解説のための特設ページが出ています。 ⇒ 「おかえりモネ」解説ページ ある日、熊谷(山本 亨さん)たちが森林で作業していたら天気が急変して雷雲が山に近づいてきたので、心配したモネ(永浦百音;清原果耶さん)は熊谷たちに早く作業を切り上げるよう2度電話を入れました。しかしそんなことをいちいちモネに言われなくても、この山のことを一番よく知っているのは長年ここで働いてきた熊谷たちです。雨に濡れて戻ってきた熊谷たちにモネがまた天気のことでワーワー言ってきたので熊谷もさすがに黙っていられなくなって、モネを叱りました。モネにしてみたら登米に来てから天気の急変で自分が大変な目にあった経験もあり、つい出過ぎたことをしてしまったのでしょうが、その土地のことはやはり長年そこで生活する土地の人が知っていると思います。(逆にモネは海で育って、そのことに気がつかなかったのかな? それと外で働く男の人ならこれぐらいは雨に濡れたっていいから作業続行、みたいな感覚もあるし)課長の佐々木に諭されたモネは反省して熊谷たちに謝りました。その後で「資格はなんだって持ってたほうがいい」という話になり、皆それぞれ自分が持っている資格証を出し合って、微妙に自慢大会みたいになって笑い合いました。菅波光太朗(坂口健太郎さん)はモネに、気象予報士試験に合格することが目標であることを確認し、ならばとスケジュールを作ろうと考えました。しかし当の本人は試験日すらわかっていないありさまなので、菅波はモネの本を見て3回目の試験で合格することを目標にすると決めました。勉強しなければいけないことは山ほどあるのに、第1回めの試験が近づいてもモネは難関試験の意味がわからないのかまだ気持ちが緩いままです。なので菅波はモネに年末年始の宿題を出して東京に戻っていきました。(なにかとごまかしの言葉ばかり並べるモネは、この時点ではかなり自分に甘い人かな)正月休みも終わり登米に戻ってきたモネに、菅波は勉強の進み具合を確認しました。試験まであと5日だというのに勉強が不十分なモネを注意すると、「やってもできない人の気持ちは先生にはわからない」と文句を言いました。そんなモネに菅波は「自分の怠惰の言い訳にしないように」とたしなめました。そうこうしているうちに試験日となり、モネの出来ははかばかしくなかったでしょう。(菅波が戻ってきたモネに出来具合を聞いたときのモネの言動は、菅波に対して「ああ言えばこう言う」状態なので、菅波の気をのんでいるように感じました)森林組合に併設している診療所には、先がもう長くないかもしれない患者の田中がいて、その田中がオーダーしたテーブルを急にキャンセルしてきた件で、モネは田中に会いに行き、いろいろと話をして田中の抱える思いを聞いてきました。モネは菅波に田中を助けて欲しいと訴えますが、実際に命に向き合っている本人や医療関係者たちに対するモネの考えが軽く感じた菅波は、珍しく声を荒げてモネに反論し、そして自分の挫折のことを言いかけて去っていきました。その後から来た新田サヤカ(夏木マリさん)にモネは、何も知らないのに菅波に無神経なことを言ってしまったと反省し、そんなモネにサヤカは「余裕で生きているように見える大人も、本当はじたばたもがきながら生きて、傷ついるし必死だ」と教えました。しかし、モネに言われたことがどこか気にかかっていた菅波は田中知久(塚本晋也さん)のことがやはり放っておけず、田中の店を訪れました。菅波は田中に、人間の気持ちなんて毎日くるくる変わることもある、自分の生死に対してだってそう、ただそうやって考えが変わるなら結論を先延ばしにする治療を続けてみて、迷う時間を作ってはどうかと提案し、田中もそれを受け入れました。菅波と話して気持ちが落ち着いたのか、田中は中途半端に終わっていたモネの両親のなれそめ話の続きをしてくれました。永浦耕治(内野聖陽さん)の奏でる明るい音は好きな亜哉子(鈴木京香さん)だけど、田中はどこか影や傷を背負ってないと音に色気が出ないと考えていました。でも亜哉子は自信を持って二人に「正しくて明るくてポジティブで前向きであることが魅力にならない世界なんてくそです!」と主張し「どこまでも明るいこの人(耕治)は最高に素敵です!」と耕治に笑顔を向けました。耕治の中で亜哉子の存在がどんどん大きくなっていった瞬間でした。この第6週の視聴者の一番人気のシーン。モネが聞いてきた息子夫婦(モネ両親)のなれそめ話を未知が聞いていて、孫娘二人でキャーキャー言ってて、気になる話なのでそれを傍で編み物をしながら耳をそばだてて聞いているおじいちゃんの永浦龍己(藤 竜也さん)でした。
June 27, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今までの幕末ドラマでは、徳川慶喜という人物が場面でいくら登場してもとても印象が薄かったのですが、このドラマでは草彅 剛さん演じる徳川慶喜が本当に魅力的で思わず見入る場面が多々あります。今回も勅許のことで朝臣たちに掛け合って、徳川を侮ることをすると各々方は後で大変なことになるであろうと真剣に忠告し、だんだんと態度が大きくなってくる朝臣たちに釘をさす場面には思わず見入りました。そして慶喜と吉沢 亮さん演ずる渋沢篤太夫との関わり。吉沢さん、多弁な篤太夫の役なので、毎回すごいセリフの量で、しかもそれを聞く側に飽きさせない表情や身振りの演技が素晴らしいですね。今回も後半で、誰にも会いたくないほど疲れきっていた慶喜が、廊下で猪飼に元気に話しかけている篤太夫の姿を見て、なんとなく篤太夫の話が聞きたくなりました。そして自室に呼び、篤太夫が先々の利を考えて生き生きと仕事に励んでしゃべる姿にどこか癒され、ふと気が付けば自分も気鬱が晴れていました。何かで自分の精神的エネルギーが下がって自分の気合では上げられないときに、愛しく思う者や心が通い合う者が楽しそうに元気に活動する姿を見ると、なんとなく元気になった気がすると思います。今風に言うなら、疲れ果てたときに推しのアーティストのお気に入りコンサート映像でも見るような感じでしょうか。さて、地図のゼンリンさんが今回も興味深い地図解説を作ってUPしてくれました。播磨国の一橋領は、印南郡(加古川、高砂)を中心に加西、多可などに点在していました。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 主君・徳川慶喜に提言し、ならばやってみよと言われた渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は、大坂の米市場では入れ札で米を高値で売り、備中では火薬の製造に力を入れて、慶喜に約束したように一橋家の懐を少しずつ豊かにしていきました。また播磨では、木綿を高く売るためにも皆からいったん一橋家が今までよりも高く買い、一橋家の名で売るとよいと百姓たちを説得しましたが、篤太夫の言葉を疑う者もいて、こちらはうまくいきませんでした。そして幕府にも、幕府を強くするためにも懐を潤してフランスから軍艦を買おうと考える勘定奉行の小栗忠順(武田真治さん)がいました。幕府は2年後にパリで開催される万国博覧会への出展をフランスから誘われていました。財政が火の車の幕府が交易によって利を得るためにも、世界に日の本の優れた産物を見せつける好機なのでもちろん参加であると小栗は考えていました。さらに交易で異国に侮られぬためにも幕府にコンパニーが必要だとも考えていました。慶応元年(1865)、イギリスの公使パークスが安政の五か国条約(1858)で決めた開港を急ぐように強く言ってきました。帝の勅許が得られないことに苦慮する将軍・徳川家茂(磯村勇斗さん)に対し、勅許なしで公儀の判断で事を進めればよい、と言いだす幕臣も出てきました。そこに遅れて入ってきた徳川慶喜(草彅 剛さん)は、公儀の専断による条約は不可であり国の根源が崩れると強く主張し、その後で帝に勅許を求めに参内しました。慶喜が参内すると、老中の阿部と松前が勅許なしで開港すればよいと発言したことがすでに朝廷内に伝わっていて、正親町三条実愛(置鮎龍太郎さん)はこれはお上への侮辱であるから両名をすぐに罷免するようにと言ってきました。将軍・家茂は自分の力不足を嘆き将軍を辞して後は慶喜に任すとまで言いだしたので、慶喜は急ぎ家茂に会い、自分が命をかけて今度こそ勅許を得てくると約束しました。再び参内した慶喜は、勅許を得られないならば自分は切腹する、ただしその後で自分の家臣たちが各々方に何をしでかすかはわからない、と朝臣らに忠告しました。孝明天皇(尾上右近さん)は人払いをし、慶喜を信じて勅許を出しました。篤太夫は殿・慶喜に提言したいことがあって京の一橋邸に戻ってきました。猪飼勝三郎(遠山俊也さん)から、殿が京・大坂での勤めで大変疲れて寝込んでいると聞き、篤太夫は代わりに猪飼に話を聞いてもらおうと一生懸命にしゃべりました。しかし商売などしたことがない猪飼には篤太夫の長い話がなんだかよくわからず、篤太夫はさらに論語に例えて説明しようとしていました。するとそこへ慶喜が通りがかり、慶喜は疲れていたけど篤太夫に話の続きを命じました。殿・慶喜に話を聞いてもらえることになり、篤太夫は年貢米と硝石は順調だけれど木綿がうまくいかないという現状を報告し、そこで木綿から利益を得るために一橋の銀札を造りたい、と慶喜に提言しました。今銀札は西のほうでよく使われている、銭を持ち歩くのは重たい、しかし今ある銀札は価値が低い、一橋の名がついた銀札なら信用ができて商人も百姓も使うようになる、等思うところを喜々として慶喜に身振り手振りを交えペラペラとしゃべりまくりました。しかし自分の話に慶喜の反応がないことに気づき、慶喜に確認したら・・・こういうことでした。でも篤太夫が嬉しそうに生き生きと語るのを見て、心が疲れ果てていた慶喜は気鬱が消えていき、慶喜の顔にみるみる生気が宿ってきました。「仁をもって成す」ーー篤太夫がまことに信用のできる札をつくり、それで民をも喜ばせることができるのなら是非見てみたいと、慶喜から了承が出ました。篤太夫は早速、職人に無理を言って細かい彫の格調高い版を作ってもらい、さらにそのできあがりを3分割して、3つ揃わないと使えないように工夫しました。こうして篤太夫は半年をかけて銀札引換所を設立しました。こんな紙切れが本当に銭になるのか、自分たちの木綿を一橋家は高い値で買ってくれるのか、半信半疑だった村人たちでしたが全て本当のことでした。これでもっと働けると皆は大喜びで、当初この話に反対をした多呂作(土平ドンペイさん)は篤太夫が自分の働きを認めて礼まで言ってくれることにとまどいましたが、あの時の非礼を詫びてこれからももっと働くことを村人たちと誓い合いました。篤太夫の誠実な行いで一橋家の信用は高まり、財政も豊かになってきたので、慶喜は篤太夫に褒美をとらせ一橋家の勘定組頭に抜擢しました。領民たちは物産所と銀札の制度にも慣れ、篤太夫はさらなる精進を慶喜に誓いました。経済に才覚ある者として幕府内では小栗上野介の名が世に響いていましたが、一方、薩摩には五代才助(ディーン・フジオカさん)がいて彼は留学から帰国していました。慶応2年(1866)1月、薩摩と長州は手を結び、長州は第二次長州征伐の幕府軍と戦うためにイギリスの武器が欲しくて、薩摩にその仲介を頼んでいました。五代は早速グラバーなどから大量の武器を調達し、大久保利通(石丸幹二さん)も京に行って要人と会ってくると言いました。大久保が会いに行ったその要人とは、このお方。文久2年(1862)に失脚して洛北の村で侘し過ぎる蟄居生活を送って心が荒んでいる岩倉具視(山内圭哉さん)のことでした。慶応2年(1866)6月、幕府による第二次長州征伐が始まりましたが、津和野・岩国・小倉すべての地で大軍を擁した幕府軍が苦戦していました。将軍・家茂がその理由を問うと、長州側は身軽な大勢の農兵が最新式の銃を持って自由に動き回る新しい戦法を取り入れているとのことでした。家茂がミニエー銃のことだと気づき、その入手先は薩摩であり、今や薩長が幕府の敵となったと知った家茂は、心労もあって大坂城で倒れてしまいました。このころ渋沢成一郎(高良健吾さん)は軍制所調役組頭に昇進していて、それまで共に暮らしていた長屋を出て篤太夫とは別々に暮らすようになっていました。篤太夫が勘定組頭として財政を整え、成一郎は軍制所調役組頭として兵たちを統率して鍛え上げ、二人はそれぞれに一橋家のために懸命に働いていました。
June 23, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第5週では、主に気象と林業という2つのテーマで話が進みました。前回の日記の続きで、今回は森林組合の話のまとめです。日本は国土の7割が山の国ですが、実際に林業ではどんな仕事をするのかとか、多くの人は知らないと思います。この第5週は、天気の解説とともに林業ではどんな仕事をするのかといったことが出てきて、これは現在高校生の皆に見てほしい部分だなと思いました。高校を出て、進学するにしても就職するにしても、じきに自分で決めた社会と関わることになります。自分が社会人となって大人と関わるようになったらどんなことをするのか、自分が世の中で何をして生きたいかなど、イメージするヒントになるのかなと思いました。このドラマに出てくる内容に関して、林野庁から補足説明が書かれた特設ページが出ています。森林の役割、山での安全確保、木材の乾燥の話などドラマの内容がよくわかることもありますが、私たちのふだんの生活でも役にたつ話がいろいろUPされてます。 ⇒ 「おかえりモネ」解説ページ ちなみにドラマの中で、夏木マリさん演ずる新田サヤカが温室内の作業で「干物になる」と言ってましたが、あれは大袈裟ではないです。外がまだ暑い季節に温室やビニルハウス内で作業をすると、換気用に窓が開いて風通しがよい場所でないと、暑いです。ドラマではガラス張りの建物で風通しもないようで、次期は9月後半でまだ残暑があるので、昼間はかなりの温度になるのでは?と想像しました。モネ(永浦百音;清原果耶さん)はお盆休みの帰省から登米に戻り、実家で祖父が育てた牡蠣を森林組合の皆にふるまって、だれもがが美味しいと喜んでました。その牡蠣は「3年もの」で、あの大震災の後でちゃんと育った復興の証でもありました。新田サヤカ(夏木マリさん)は「海の人も山の人も頑張っている、山が綺麗な水と空気を作っているから海もちゃんと戻る」と満足気でした。しかしそれに対して川久保博史(でんでんさん)は、「世の中の人は山の偉大さ、林業の大切さをわかっていない、水と空気はタダじゃない!」と不満そうでした。その理由は、40年間森を守って育てた木が悲しいほどに安く買い叩かれるからでした。川久保の愚痴にサヤカは「山の人間も知恵をしぼって金を稼がなきゃ林業は本当に消える」と意見し、モネに広葉樹が大量消費できる使い道を考えるよう命じました。そんな中、前に林間学校で登米に来た小学校から図書室の本棚を組手什で作るという話がきて、モネたちは材料を持って小学校に行きました。着いたら早速、子供たちも一緒に手伝っての作業が始まって立派な本棚が出来上がり、子供たちは皆とても喜んでいました。モネは学校で使う机を使い道の課題となっている広葉樹で作ったらどうかと考え、上司の佐々木翔洋(浜野謙太さん)に相談したら、佐々木は教育委員会から机の入れ替えを予定しているとの情報を得ました。川久保は学校で使う机は大手メーカーが押さえていて無理だと言いましたが、佐々木が「今は公共の建物や設備は地元の木材を使うよう推奨されていて補助金も出る」と話すと川久保はならば可能性があると考え、まずはサンプルを作ることになりました。職人技が集まった木製の机はとても美しくて立派でしたが、熊谷(山本 亨さん)からこれは重いと意見があり、改良を重ねて軽くて低価格の机を作ることができました。いい机ができたと喜び勇んで登米市役所にサンプルを持っていったら、市役所の担当者も物が良くて予算も問題ないとのことで、モネたちも一安心でした。しかしその後で「これを4200セット、納期は半年で」と聞き、ひと月で30台しか作れないと伝えると、担当者からは公共事業は予算と納期は絶対だから再度検討を、と言われてしまいました。入札に参加してくる東京の大手メーカーは安く早く納入できるけど地元の木を使わないので、これでは登米の林業は衰退していくばかりだ、あんなに美しい木が安く買い叩かれ粉々にされるしかない、と川久保はつぶやき激しく落胆しました。大量の机を作るのに大きな問題となっている木材の乾燥をどうしたらいいのか。モネは洗濯物を干しながら菅波からもらった参考書を復習していて、ふと木材の乾燥にビニルハウスが使えるのではと思いつき、大急ぎでサヤカに相談に行きました。サヤカはちょうど温室内で作業をしていて汗だくの全身がカラカラな状態でした。温室を出て冷たい物を飲んでひと息ついたサヤカにモネが机のことでサヤカの意見を求めようとすると、「安易に年長者の判断に乗っからない、素人がバカなふりして突っ込んでいくからブレイクスルーは起きる」とモネを突き放しました。でも「みんなのためになることを考えれば人は動く」と大事なアドバイスをくれました。「みんなのためになること」というのを頭に置いて、モネはなんとか学童机の受注がとれないかと、乾燥に使うビニルハウスがどこにあるか調べたり人手のことを考えたりして資料を作り、組合の皆に再度提案してみました。ビニルハウスを使った際の運搬費や乾燥室を使ったときの燃料費の問題はなんとかなりそうで、あとは職人の人手の問題でした。今いる高齢の職人たちに激務をさせたらバタバタ倒れる!と心配の声が上がったとき・・「じいさんばっかでももっと数がいればなんとかなるんでないか?」と声がして、入り口には席を外していた川久保が高齢のたくさんの職人を連れてきていました。「もう一度、木の仕事をやりたい」、そんな思いで木工界のレジェンドたちが集まり、寝食も忘れて仕事に打ち込み、見事な熟練技を惜しみなく披露してくれました。そして学童机はなんとか納期に間に合い、各学校に納入されました。いい匂いのする新しい綺麗な木の机に、子供たちはもちろん大喜びでした。モネたちが帰るときに2階のベランダから笑顔で手を振る子供たちを見て川久保は、自分たちがやっている森林の保全は、あの子たちに水と空気を作ってやっているんだ、林業は生き残っていかなければいけない、としみじみ思い笑顔を見せるのでした。
June 21, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第5週では、主に気象と林業という2つのテーマで話が進みました。もちろん登場する人々の複雑な内面を描いたシーンや、思わずツッコミたくなる場面(モネが帰省の大荷物を持って、さらに殻付きカキがどっさり入った発泡スチロールの容器を軽々と持ってけっこうな距離を歩くシーン)とかありましたが、今回は気象のほうの話のみをまとめました。ちょうど中学や高校の理科で出てくる話です。なので、これは中高生は見るとわかりやすくて役にたつ週かなと思って見ていました。トコトンやさしい気象の本 (B&Tブックス) [ 入田央 ]空のふしぎがすべてわかる! すごすぎる天気の図鑑 [ 荒木健太郎 ]林業の衰退を憂うサヤカの話の流れから、新商品の開発を担当することになったモネ(永浦百音;清原果耶さん)は、登米市の学童机を作ることを提案します。そこでまずサンプルの机を作ることになり、上司の佐々木翔洋(浜野謙太さん)と共に木を伐り出す山の現場に入りました。そのときモネは山番頭の熊谷(山本 亨さん)から、ここのように「山や谷がある複雑な地形では天気は場所によって違う、山の雲は下から来る」ということを教わりました。気象の勉強を始めたモネでしたが、最初に買った本は難しすぎたので、小学生向けの天気の絵本を買ってきて、閉店後のカフェで一人で読んでました。それでも、雲ができる理由や風が吹く理由など、解説がわかりそうでわからなくて勉強をあきらめかけたとき、忘れ物を取りにきた診療所の医師の菅波光太朗(坂口健太郎さん)が入ってきました。わからないことだらけのモネに菅波は、あの手この手で丁寧に教えてくれました。モネは仕事が終わってから菅波に勉強を教えてもらうようになりました。この日は「なぜ雲ができるのか」というテーマで、「蒸発は液体がその表面から気化すること、気温が上がれば飽和水蒸気量が増えるので気化する量も増える、空気を循環させれば蒸発はさらに早く進む」という解説を聞き、今自分が気になっている大量の木材の乾燥のヒントが浮かびました。9月半ばのある日、モネが勉強する教材に難易度の開きがあり過ぎると思い、気象の勉強に役立つ中学の理科の参考書をプレゼントしてくれました。菅波はそれを誕生日プレゼントだと言い、どうしてモネの誕生日がわかったのかというと、以前の会話でモネが大型台風の満月の日に生まれたと聞き、それを調べてほぼ特定できた、ということでした。「知識は武器、持っているだけでは何の意味もないし使い方も難しい、でも持っているにこしたことはない」ーー確かに菅波の知識はモネへの好意を意識しているのかどうかわからないけどモネと関わる時間をつくっているようです。そんな菅波の不思議な優しさを、モネは戸惑いつつも受け止めていました。とはいえ、ここは都会のマンションとかではなく、小さなコミュニティです。二人がよく一緒にいる姿は、地元のおばちゃんたちには格好の興味対象でした。菅波にもらった本で勉強を読み進めていくと、モネは今度は「太陽の熱がまず地面を温め、地面の熱が空気を温める」ということがどうしてもイメージできず、なぜ太陽は上からさしているのに先に地面を温めるのか?と菅波に質問しました。そこで菅波は自分の顔を本で隠し、本がなければ自分の顔が見える、すなわち「空気は透明、透明だから太陽の光はほとんど通り抜ける、地面は透明じゃないので太陽の光を通過させずにぶつかって熱を吸収する、だから地面のほうが先に温まる」と説明し、モネはようやく納得できました。「熱は高温から低温に伝わり、接している物体と均一な温度になろうとする、だから地面から空気に熱が移動して下から空気も温まる」と菅波がさらに説明を続け、モネも一旦は納得したのですが、今度は「接してい物体はなぜ均一な温度になろうとするのか」と思いついた疑問をぶつけました。ただそれの説明は飽和水蒸気量と同じく、かなりレベルの高い説明になるので、菅波はとりあえずそういうものと思ってほしいと話を切りました。(その後の出来事は略)
June 20, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今話で私の印象に残ったのは前半の、尊王攘夷を掲げて挙兵した天狗党の、あまりに惨めな末路でした。自分の実家である水戸藩の藩士たちだから、徳川慶喜(草彅 剛さん)は彼らを引き取って、せめて武士らしく切腹させてやりたかったでしょう。しかし天狗党がそれまでに進軍途中の村々で行ってきた数々の略奪・放火・殺戮などは、天狗党征伐総督の田沼意尊には到底許せるものではありませんでした。実際にはドラマ以上の過酷な処罰がなされました。ドラマではあれでもかなり抑えて表現したようです。そんな重たい空気が後半の渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)の奮闘話で一変したように感じました。篤太夫が自分から主君・慶喜に願い出て歩兵取立御用掛として備中に出向いたものの思うように事は進まず、でもそれが見事な流れで展開していきました。失敗→反省→方針転換、時間をかけて人間関係の構築→突破口ができ、それを活用することを思いつく→邪魔者と対峙して排除→大成功といった感じでしょうか。血洗島にいた若いころは幾度も代官の利根に苦汁をなめさせられ、一橋家の家臣になっても自分の力では利根に対抗できなかった篤太夫でした。でも逆に、自分がさんざんやられてきたその悔しい思いがあったからこそ、場所と相手を違えて、代官を黙らせ思い通りに動かす、といったことができたのでしょう。「江戸の敵を長崎で討つ」ということですね。多くの人にあると思うけど、「あの時の苦い・辛い経験が役に立った」、そんなストーリーだと思いました。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 元治元年(1864)11月、武田耕雲斎(津田寛治さん)率いる天狗党・約1000名は京にいる徳川慶喜を頼ろうと中山道を進軍していましたが、慶喜は天狗党の受け入れを拒否、12月には自らの手で討つべく弟の昭徳とともに京を出発しました。慶喜の密命を受けた渋沢成一郎(高良健吾さん)は天狗党の軍勢がいる越前の敦賀に入り、耕雲斎と藤田小四郎(藤原季節さん)に慶喜からの密書を渡します。天狗党は幕府の追討軍との戦いで疲弊しきっていて、耕雲斎は降伏を決意しました。天狗党の降伏により渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)たちは戦うことなく戻りました。成一郎と一緒に単身赴任生活を送る篤太夫は妻の千代に文をしたため、出世したこと、夜は上役の接待によく同行すること、布を送るから足袋を仕立てて送り返して欲しい、娘を大切に育てて欲しいなどを文に書いて、しばしのやすらぎを感じていました。京の二条城に天狗党征伐総督の田沼意尊(田中美央さん)が来て、天狗党の処罰について徳川慶喜(草彅 剛さん)との話し合いが持たれました。慶喜は耕雲斎らを引き取りたいと要望を出しますが田沼はそれを拒否、公平な処置をするということで自分の側に天狗党を引き取ります。これまでの戦いで天狗党の狼藉や破壊を見てきた田沼の怒りは凄まじく、彼らを劣悪な環境に監禁し、耕雲斎以下352名を斬首という過酷な裁きを下しました。将軍家も諸藩も攘夷は無謀であると悟り、諸外国の力を利用しようと考えました。薩摩や長州はイギリスと手を組み、将軍家はフランスと手を組んで、造船所や製鉄所を建設する準備に入っていました。勘定奉行の小栗忠順(武田真治さん)は、将軍家を強くするためには軍事だけでなく財政や経済が重要だといち早く気づき、将軍・徳川家茂(磯村勇斗さん)にフランス式陸軍を作ってはどうかと、さらには軍備調達のためにコンパニー設立を提言しました。薩摩や公儀に侮られぬよう歩兵隊を作りたいと考えた篤太夫は主君・慶喜に提言し、軍制御用掛・歩兵取立御用掛の任をもらって備中の一橋領に入りました。代官の稲垣練造に兵備充実の旨を伝えて領内の次男三男を集めさせ、入隊して日の本のために尽くすことへの意義を熱く語りました。しかし忙しい中を無理やり呼び出された彼らは、突然やってきたどこぞの若造の話に耳を傾けることもなくさっさっと帰ってしまい、志願者は一人もいませんでした。伝蔵との話し合いで「皆それぞれ大変なのだ」と気が付いて反省した篤太夫は方針を変え、寺戸村にある阪谷朗廬(山崎 一さん)の塾に入り、何日も通って塾生たちと共に学び、剣術の稽古をし、山や海にも一緒に出かけ、交流を深めました。さらに篤太夫は阪谷から「互いの利」という開国の意義を学びました。京に戻る日が近づいたある夜、皆で酒を酌み交わしていたら篤太夫の元に、自分も京に行って一橋家で奉公をしたいと申し出る者が現れました。何かを思いついた篤太夫は、彼らにそれを書面にするよう頼みました。後日、篤太夫は阪谷の塾生たちが書いてくれた志願書を持って庄屋たちを呼びつけ、この界隈で志願者が誰もいないのはなぜだ?と庄屋たちを問い詰めました。するとそれは代官の稲垣練造(おかやまはじめさん)のせいだとわかりました。篤太夫は稲垣を呼びつけ、自分は殿のお役にたてなければ命がないと言い、続けて篤太夫が「所領の村人に殿の志を薫陶すらできぬ器の代官も同罪」と言って扇子で稲垣の首が飛ぶしぐさをすると、稲垣の顔色が変わりました。そして翌日、篤太夫の元に志願書を持った若者たちが続々と集まってきました。慶応元年(1865)横浜にイギリス公使のハリー・パークスが来日し、日本での覇権を狙うイギリスは長州と手を組んで幕府を倒そうと考えていました。将軍・家茂は第二次長州征伐のために出陣することとなり、御台・和宮には京の土産に西陣織を約束し、天璋院(上白石萌音さん)のところに挨拶に来ました。家茂は「万一自分になにかあったときは」と天璋院に耳打ちして退室していきました。備中から大勢の若者を連れて戻った篤太夫は殿・慶喜から褒美をもらい、そして篤太夫も慶喜に備中で得たいくつかの土産を披露しました。篤太夫は、兵が増えた分だけ兵を賄う金も入用になる、それを公儀から賄うのではなく自分たちで金を作る手立てが必要、天狗党はそれを怠ったからあのような結果を招いた、志と懐は両方必要、自分は備中を廻って利を得る道を見つけた、と慶喜に提言しました。篤太夫はさらに慶喜に、自分は実は最初は腰掛のつもりで仕官をしていた、しかし今この壊れかけた日の本を再建できるのは殿しかいない、だからこの一橋家をもっと強くしたい、自分は軍事よりも財政の土台をつくるほうが得意である、と訴えました。そんな篤太夫の話を聞いて慶喜は父・斉昭も似たような考えであったと父を思い出し、斉昭が百姓を「お百姓さま」と呼んで尊んでいたと言いました。意外な話に篤太夫は思わず斉昭のことを「石頭の風神雷神のようなお方と思っていた」と口がすべったものだから・・篤太夫の二度もの失言に、殿の側近であるこのお二方・黒川嘉兵衛(みのすけさん)と猪飼勝三郎(遠山俊也さん)も慌てふためき、篤太夫をたしなめましたが・・慶喜はそれがなぜか可笑しくてしかたがなくて、笑いがこみあげてきました。平岡円四郎を失い、天狗党のこともあった慶喜の、久方ぶりの笑い声でした。そして慶喜は、篤太夫が今は本気で一橋家のために働くことを確認し「ならばやってみよ、お主の腕を見せてみよ」と提言を受け入れました。この瞬間、篤太夫の脳裏には「おめえはおめえのまま生き抜け、必ずだ」と助言をくれた亡き円四郎の言葉がよみがえりました。
June 16, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第4週で特に印象に残った2つの部分的な感想です。この週は牡蠣の研究に没頭する永浦家の次女のみーちゃん(未知;蒔田彩珠さん)の奮闘ぶりが話の中心になるかと思ったら、実際は意固地なまでに自分の考えに固執するみーちゃんと、周囲の大人たちのやりとりの話でした。おじいちゃんの龍己を演じる藤 竜也さん、失礼ながら若い頃は渋くてカッコイイ役者さんという印象しかなかったのですが、老齢となった今では永浦家のおじいちゃんとして、とても印象に残る演技だなと思って見ています。一方で、及川家の父・新次を演じる浅野忠信さん。主人公・モネ(永浦百音;清原果耶さん)の友人の及川 亮(永瀬 廉さん)の父で、あの震災で職を失ってからというもの呑んだくれの厄介者になって~と思ったら、第1回の最初に、台風の大しけの中で船を出してくれた人だったとやっと気がつきました。そして永浦家と及川家と、寺の後藤家をつないでいるのがモネの父・耕治を演じる内野聖陽さんです。銀行員として、綺麗ごとや感情論ではなく、丁寧に相手の話を聞いて丁寧に現実を伝えるのだけど、現段階では娘の未知には噛みつかれ、モネが産まれるときに助けてくれた新次の力にもなれない、なんともやるせないものを感じる演技が心に残ります。こちらでは様々な意見が出ていて、とても参考になります。 #おかえりモネ 永浦耕治(内野聖陽さん)の妻・亜哉子が産気づいたとき、外は台風で海が大しけになっていて、ふつうなら島からは出られない状態でした。それを耕治の幼なじみの及川新次(浅野忠信さん)が船を出してくれて病院のある本土に着くことができ、無事にモネが産まれたのでした。新次は言わば、永浦家とモネにとっての大恩人でした。しかしその新次はあの大震災によって仕事を失い、3年たっても仕事に就けず、毎日あびるように酒を呑んで酔いつぶれていました。新次はなまじっか誰もが認める凄腕の漁師だったゆえに今さら誰かの船で雇われて働く気にもなれず、銀行員の耕治からは融資が受けられなくて新しい船も買えず、自暴自棄の日々を過ごすだけでした。父親がそんな状態の亮(永瀬 廉さん)は、学校を出たらすぐに漁師になるしか道はなく、父親のことで周囲に頭を下げながら生きていました。気持ちの上ではまだ親を頼りたい年なのにしっかりせざるを得ない息子と、自分のプライドを捨てられずしっかり者の息子に甘える父親、という構図でしょうか。モネの祖母・雅代の初盆も終わり、送り盆をするシーンです。東北地方では「盆船奉納」という行事があり、藁で作った船をお寺に納める・川や海に流す・野焼きにする、といったことをするそうです。さて、永浦家の出来事はというと、話は17話に戻って。未知(蒔田彩珠さん)が周りも驚くほど熱心に牡蠣のことを研究しています。TVで天気予報を見て夜は大雨になると予測した祖父の永浦龍己(藤 竜也さん)は、未知に牡蠣の原盤を早めに海から引き上げるようアドバイスをします。しかし未知は「これは私の研究だから」と少しの時間のことでも自分の考えを貫こうとし、夕方大雨が降ってきて「明るいうちに」という龍己の忠告も拒否しました。そして夜、孫の未知は危ないからと陸に残し、大雨の中を龍己は一人で海に行って牡蠣の原盤を引き上げてきました。龍己は無事に帰ってきたものの足に怪我をし、母・亜哉子(鈴木京香さん)は未知に穏やかに説教をし、龍己も孫の未知をかばいました。しかし龍己の「たかが高校生の」という言葉にカチンときた未知は自分の研究の意義をとうとうと訴え、龍己は未知に地形や人手や設置費用など現実のことを教えます。二人をなだめようとそこに耕治が割って入り、未知の考えを尊重しつつ現実を優しく諭しますが、未知は今度は耕治に対して及川家のことで食って掛かりました。(このシーン、私は現実派なので、未知が学校に行って研究に没頭できるのも、親が働いて稼いで安定した生活が送れているからなんだよなーと思ってしまいました)百音(清原果耶さん)が登米に戻る前の日に、永浦家では今度はご近所さんも呼んでバーベキューをやり、話題は自然と未知の種牡蠣のことになりました。ご近所さんが地場採苗は採算が取れないから無理と声を揃えるので、モネが未知を援護して皆に説明し、龍己も方法はあるかもしれないと言うと、2人の孫娘が地元の発展に一生懸命な姿を見てご近所さんは「龍己さん、幸せだな」と。龍己も未知に、自分が死ぬ前に実現してくれと言って、どこか嬉しそうでした。そして登米に戻る日、龍己はモネに「栄養分を含んだ登米の山の水は北上川を下って石巻に着き、海の栄養になる」と言い、さらに「漁業は天気が読めれば稼げる、モネが天気を読めるなら大勝負のときはモネに相談する(=気象予報は役に立つ)」とも。本土に向かう船の中でモネは気象予報士の朝岡の「山は水を介して海とつながっている、空のことも知るべき」という言葉を思い出し、自分の目指す道が見えた気がしました。
June 14, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回の見どころは、堤 真一さん演ずる平岡円四郎の手紙という声も多かったのですが、私としては終盤の、遠山俊也さん演ずる猪飼勝三郎が、岡部の代官から篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)を守ったシーンでした。もう猪飼さま、株爆上げ!です。感動した、涙が出た、猪飼さまカッコイイ、そんな声が感想で多数あがりました。猪飼はかつて自分の粗相で主君・徳川慶喜に二度までも流血の怪我をさせ、厳しい藩だったら最悪切腹?という事態だったのを、どちらも慶喜が自分をかばって寛大に許してくれました。そのとき猪飼は、慶喜に終生命がけでお仕えすることを自分に誓いました。そして今、篤太夫と成一郎の危機に、岡部の代官・利根の前に立ちはだかり、力をこめた言葉ではっきりと「一橋家としては到底承服しかねることゆえ、お断りいたす。」(意訳=どうしてもと言うなら一橋家が相手だよ?)と二人を守りました。小藩・岡部の代官が、御三卿・一橋家を怒らせたりしたら、下手すれば自分が切腹ものですよね。かつて身分の差で利根に苦しめられ気持ちを踏みにじられた栄一は、今度はその身分の差で自分たちが守られました。やっと一矢報いることができた。それは平岡円四郎が自分たちを拾ってくれたから。栄一にしたらあのとき悔しかった分、嬉しさと円四郎への感謝で、泣けますよね。さて、地図のゼンリンさんが、今回も禁門の変について興味深い資料を作ってくれました。※ 蛤御門周辺の動きまとめです ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 元治元年(1864)6月、渋沢篤太夫(栄一)と渋沢成一郎(喜作)は関東で一橋家のために集めた人々を連れて、江戸に向かっていました。一方、江戸の平岡円四郎の屋敷には一橋家から川路聖謨(平田 満さん)らが妻・やす(木村佳乃さん)のところに使者として訪ねてきて、円四郎の訃報を伝えました。やすにとってはにわかには信じがたいことでしたが、川路の表情からそれは本当の事なのだと受け入れるしかありませんでした。またそのころ下関の沖合では、前年の報復として四か国艦隊が長州を砲撃すると通告があり、留学先のイギリスから急遽帰国した伊藤俊輔(山崎育三郎さん)と井上聞多(福士誠治さん)は砲撃を回避させるべく必死に訴えていました。しかし決定は覆らず、この後で長州は連合艦隊から手痛い攻撃を受けることになります。江戸城の一橋邸に到着した渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)と成一郎(高良健吾さん)は猪飼勝三郎(遠山俊也さん)が「見舞いの品」を整えているのを見て、これらの品が平岡円四郎の屋敷に運ばれると聞き、このときようやく円四郎のことを知りました。さらに猪飼から、円四郎が水戸の過激な攘夷派に襲われたと聞き、篤太夫も成一郎もただ茫然とするばかりでした。7月19日、京にいる徳川慶喜の元に長州の兵が桂川を越えて進軍しているとの報が入り、慶喜は急遽参内して孝明天皇から長州征伐の勅命を受けました。帝への影響力を一気に強めようとする長州が御所に突入してきて、江戸幕府開府以来初めての京を舞台にした大きな内戦となる禁門の変が始まりました。(戦闘が始まるといきなり人が横から飛んできた!、『西郷どん』の禁門の変ではラリアットが、今作では飛び蹴りのこの方が禁門の変を全部もっていったような…)戦闘開始から長州軍の勢いは凄まじく、慶喜は藩士たちに檄を飛ばして鼓舞しました。慶喜は「御所に筒先を向けるとは何が尊王だ!」と激しく怒りました。しかし薩摩軍が参戦すると形勢は一気に逆転し、長州軍は壊滅して幕府軍の勝利に。ただこの内戦により、京の町は焼け野原となってしまいました。※ゼンリンさんの地図解説です。 #禁門の変 ・・北は丸太町、南は七条、東は寺町、 西は東堀川にまで ⇒ こちら 禁門の変の数日後には、下関の沖にいた四国連合艦隊が予告どおり長州の砲台を攻撃して砲台を占拠し、長州はようやく攘夷をあきらめました。しかし徳川14代将軍・徳川家茂(磯村勇斗さん)が攘夷をするという約束で降嫁した和宮(深川麻衣さん)は、約束が果たせず苦悩する家茂に心を痛めていました。このままでは終わらないと誓う家茂は天璋院(上白石萌音さん)に、幕府はフランスと手を組んでこの国をまとめると伝えました。禁門の変によって長州は逆賊となり、江戸では大勢の町火消や鳶職たちが長州の上屋敷を叩き壊すという事態まで起きていました。円四郎の妻・やすはこの屋敷を出ようと荷物を整理していたら、掛け軸から円四郎が生前に書いて隠してあった文を見つけました。文には円四郎がやすを思いやりつつも、「殿(慶喜)にお仕えできている自分は幸せだ、苦労も多いが張り合いがある、人と人との縁はまことに不思議、お前に出会えたのも然り、我が殿はきっとこの先新しい日本を作ってくれる、お前と一緒に新しい日本を見る日が今から楽しみでならない」とあり、やすは庭先に円四郎の面影を見ていました。篤太夫と成一郎は集めた兵を率いて中山道から京に戻る道を急ぎます。途中、岡部藩の深谷宿で泊まったとき、血洗島に残してきた妻・よし(成海璃子さん)が密かに成一郎に会いに来てくれました。千代(橋本 愛さん)も篤太夫に会いに来て、本当は家族の皆で会いに行きたかったが、目立つといけないので父・市郎右衛門が自分とよしだけをよこしてくれたとのことでした。篤太夫(栄一)達が千代と対面したのは宿根でした ⇒ こちら 翌日、篤太夫たち一行が岡部の領内を抜けようとしたとき、岡部藩代官の利根吉春(酒向 芳さん)が一行の行くてを阻み、篤太夫と成一郎を連行しようとしました。篤太夫が前に出ようとしたとき、猪飼勝三郎がすっと前に出て利根と対峙しました。そして「渋沢両人は縁あって当家に入り、今となってはかけがえなき家中の者。一橋家としては到底承服しかねることゆえ、お断りいたす。」ときっぱりと拒否。猪飼の言葉に引き下がるしかなく頭を下げて一行を通す利根の姿を見て、篤太夫は胸のすく思いと、猪飼が自分たちを守ってくれたことの嬉しさで思わず感涙していました。京に戻り、篤太夫と成一郎は徳川慶喜(草彅 剛さん)に帰京の挨拶をします。慶喜は二人に、円四郎は(攘夷派の)父が自分に遣わせた、円四郎は自分の身代わりとなって水戸の過激な尊攘派に殺された、尊王攘夷は呪いの言葉になり果てたと語ります。そして円四郎を失った悲しみは深く、円四郎を思い出した慶喜は力なく退席。悲しみはそこにいた皆も同様で、黒川嘉兵衛(みのすけさん)は改めて二人に、一橋家になんらゆかりもなく浮浪していたのを円四郎に拾ってもらった、亡き円四郎のためにもこれからは一層一橋家のために励め、と思いをこめて伝えました。武田耕雲斎(津田寛治さん)は藤田小四郎(藤原季節さん)らに乞われて天狗党の党首となっていて、水戸で幕府の追討軍や水戸藩内で対立する諸生党と戦っていました。しかしこのまま水戸にいても志は遂げられない、民をこれ以上巻き込みたくない、京に上り天子様に我らの思いを伝えよう、と京を目指して進軍を開始しました。その報を聞いた慶喜は、自分は天狗党を擁護できない、自分の手で天狗党を討伐すると決意し、原 市之進からその旨を聞いた篤太夫はいよいよ戦に出ることに緊張が走りました。
June 9, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 の第15話の部分的な感想です。この週は百音(清原果耶さん)のお盆休みの里帰りの話で、お盆の風習や島の人々や幼なじみの皆との再会によって、皆でわちゃわちゃやってる感じだったので、特に感想はないかなと思っていました。しかしSNSに上がった3.11を体験された方の話を読んで、ドラマの流れが「なるほど、そうだったのか」と思い、その部分だけをまとめてみました。こちらにUPされたお話のごく一部を私なりにまとめたものですがご紹介します。 ⇒ ⇒ #おかえりモネ 震災当時は島の中学生が各所で頑張って働いてくれた。・大人たちは気仙沼に働きに行っている・島に高校がなく、高校生たちは本土に行っていた・体力のある大人は行方不明者捜索と瓦礫の片付けなどに 出ていた。そもそも遠洋漁業などで男性不在世帯も多い ⇒ ⇒ こちら ドラマの舞台について・「亀島」は架空の島で、実際の舞台は気仙沼大島・大津波は太平洋側と気仙沼湾側から同時に島を襲い、 陸地が中央で分断されるほどの甚大な被害を受けた・港湾が破壊された島に本格的な支援が入ったのは実に 2週間後、「トモダチ作戦」の米海兵隊 ⇒ ⇒ こちら 浜辺のシーンに映ってた錆びた船・ドラマ用に作られたものではなく、気仙沼湾の火災で 燃えた船が数十キロ離れた気仙沼大島に津波で流されて きたもので実際にある ⇒ ⇒ こちら 寺を継ぐのを嫌がる三生の気持ち・寺の息子ということは三生はあの頃おびただしい数の 魂を父と一緒に弔ったのだろう。多感な時期に この子たちは震災という心に大きな傷を負っている ⇒ ⇒ こちら 以下は私の個人的な感想です。大地震が起きたとき、百音は父の永浦耕治(内野聖陽さん)と一緒に、仙台まで高校の合格発表を見に行ってました。主人公に好感を持っているせいか、非常時に父と一緒だったことにホッと安心でした。震災によってインフラが壊滅状態になり、ガソリンスタンドは停電のために店の人が必死に人力で自家発電をしていました。島に帰れる船もなく、百音と父・耕治は高台に上がって島の様子を確認したら、あまりの惨状に二人は茫然とするばかりでした。船を出してくれる人がいて数日後にやっと島に戻ることができ、百音は家族や仲間の皆と再会に安堵しましたが、惨状の中にいた島の皆のショックは相当なものでした。震災から3年後、お盆で集まった日に皆は百音の家に泊まりました。翌朝、早くに目が覚めたので皆で浜辺に行って、思い出話に花が咲きました。学校行事でやったサンドアートを思い出し、三生は一人で大はしゃぎして亀を作りに波打ち際に駆け出しました。そんな三生を見てりょーちん(及川 亮;永瀬 廉さん)は、三生は寺の息子であるがゆえに誰よりもキツイ思いをしたのだろうと彼を思いやっていました。自分の家は1120年の歴史を持つ由緒ある寺。でも今の自分はそれを継ぐ気にはなれなくて、後藤三生(前田航基さん)は不安定な気持ちをごまかすかのようにはしゃぎまくっていました。そんな三生の呼びかけに応じ、皆も一緒にサンドアートをすることにしました。浜にいたら明日美の帽子が風で飛んでしまい、皆で追いかけていきました。残った百音(清原果耶さん)にりょーちんは、この後の天気の変化を予想します。りょーちんが言った「海風」という言葉であの本にあったことを思い出し、そしてなぜ天気が予測できるのかを彼に尋ねます。「漁師は風向きと天気、必須だから」ーーりょーちんの答えは百音を気象予報士の勉強に導くきっかけとなりそうです。
June 7, 2021
新型コロナウイルス、なかなか収束しませんね。東京や大阪など9都道府県に出されている緊急事態宣言は今月20日まで期間延長となりました。そんな中、You Tube のほうで はたらく細胞「新型コロナウイルス編」 が来年2022年3月31日までの期間限定ですが、公開されています。コロナについて少しでも知るのに役立つと思います。 ※音声が出るのでご注意ください私はこれを今回初めて知ったのですが、元は2015年から出されている漫画なのですね。私の高校時代は生物で人体の細かいことをたくさん覚えるのに必死になっていましたが、こういうイメージしやすい漫画があったらもっとラクに覚えられただろうな~なんて思ったりもしました。本当に、このコロナ禍のためにこの春も人を集めないよう、地方で行われる祭りやイベントはほとんど中止です。大相撲や野球や講演会など、組織が大きくて間隔をとった座席が指定できるところでは、人数を制限して感染予防に細心の注意を払ってなんとかできる感じでしょうか。そんな中ですが、高知県の宿毛新港に海上自衛隊の輸送艦『おおすみ』が寄港して、ちょっとした注目になってます。当初は人数を限定しての艦内の見学も予定されていたようですが、それは残念ながら中止に。結局は埠頭から艦を眺めるだけのイベントになりましたが、自衛隊の皆さんがそこに行けば見ているだけでも楽しめるサービスをしてくださっているようです。明日も宿毛新港に行けば何かありそうです。お近くの方は行ってみてはいかがでしょう。 ⇒ こちら また自衛隊高知地方協力本部HPの案内によると、来月の7月3日と4日に、高知新港に、護衛艦『あけぼの』が寄港するとあります。こちらも艦内の見学は難しいと思われますが、それでもふだん見られない護衛艦が見られるだけでもちょっとした思い出ができるかも♪、ですね。 ⇒ ⇒ こちらかく言う私も変化や刺激のない生活が続いています。実家の親の世話で名古屋に行ってもただ往復するだけで、駐車料金とか考えると名古屋駅や栄(名古屋の中心地)に行くのも面倒になりました。でも先週、実家には寄らず名古屋駅に用事があったので、久しぶりに名古屋駅を味わいたくなりました。途中の地下鉄の駅のコインに車を停めて地下鉄で移動し、用事を済ませた後は特にあてもなく2時間ほど名古屋駅をぶらぶらしていました。駅前のビルも新しく次々と建設されています。洒落た感じの高層ビルが街路樹とマッチしていたので、スマホで撮りました。地下鉄の桜通線と名城線を利用して、乗り換えのときにこれを見つけました。名古屋の栄の地下構造の模型です。私には珍しかったので思わずパチリ♪車じゃない、歩いての繁華街の移動は、いい刺激になりました。
June 5, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回、私の印象に残った場面。前半は、渋沢家と尾高家で大きく分かれた人の運命というものでした。天狗党の挙兵により関わりがあると疑いをかけられた尾高家では長男・惇忠と三男・平九郎が、そして別の事件で次男の長七郎が入牢となり、3人の息子が一度に役人に捕まった状態になったとき、手塚理美さん演じる母のやへはただ泣き叫ぶばかりでした。そして周囲の出来事を見て、栄一と喜作の危機を察した小林 薫さん演じる渋沢市郎右衛門はすぐさま、二人に帰郷しないよう文をしたため、その文が二人が宿を出る前に届いて間に合いました。もし栄一が帰ると知らせてなかったら、もし市郎右衛門が危機を察して文を書かなかったら、もしその文が二人に届かず何も知らずに二人がのこのこ帰郷していたら。ほんの少しの行動とタイミングで運命が変わってしまっていたかもと思うと、栄一と喜作は運が強い人だったのかと思ってしまいました。そして後半は、堤 真一さん演じる平岡円四郎があまりにも突然に迎えてしまった死でした。私は円四郎が登場した最初の頃はそれほど印象はありませんでしたが、回を増すごとに草彅 剛さん演じる徳川慶喜との関わりの中で、円四郎の存在がどんどん大きくなりました。慶喜は円四郎のことを、家臣ではあるけど少し年上の、心を許せる友のような存在だったのではと、このドラマの中ではそのように感じました。堤さん、いい演技をありがとうございました。さて、地図のゼンリンさんが、円四郎が襲撃された場所を地図で紹介してくださってます。 ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 元治元年(1864)初夏、渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)と渋沢成一郎(高良健吾さん)は平岡円四郎(堤 真一さん)から人選御用の命を受け、関東に旅立ちました。二人にもう少し言いたいことがあった円四郎は散歩と称して二人を追いかけ、茶屋で江戸にいる妻・やすへの言伝と、思想よりもまずは一途に国を思いまっとうに生きている者を探してくるよう念を押し、さらに篤太夫には「お前はお前のまま生き抜け」と言葉を残して二人を見送りました。栄一(篤太夫)からの文が兄・尾高惇忠の元に届き、妻の千代(橋本 愛さん)は急ぎそれを受け取ってきました。仔細はわからないが出奔した栄一と喜作(成一郎)がなぜか御三卿の一橋家の家臣になっていて、渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)をはじめ渋沢家の皆は安堵しました。そして文には、関東に来るから家に寄れるかもとあり、家族は喜んでいました。そのころ水戸藩では藤田小四郎(藤原季節さん)ら尊王攘夷を唱える者たちが筑波山で挙兵し(天狗党)、周辺の村々に加勢と軍資金の提供を求めていました。しかし思うように兵も軍資金も集まらないため、小四郎は「手立ては問わぬ」とまで言って集めさせていました。この挙兵を藩主の徳川慶篤は暴挙とし、市川三左衛門に鎮圧を命じていました。この挙兵での軍資金集めのために元塾生が尾高惇忠の家に来ました。しかし惇忠は、この挙兵は水戸の主君が不承知のことであり大義名分もない、近隣の村で兵が強奪をしたと聞いた、自分は賛同できないと言い、いくらか資金だけ渡しました。その後で、尾高家は挙兵に何か関わりがあるのではと疑われ、惇忠は陣屋に呼び出されて取り調べのために入牢となり、弟の平九郎も疑いがあるとのことで連行されました。長七郎は人を殺めて入牢の身であり、息子が3人とも捕まってしまったことで母の やへ(手塚理美さん)は半狂乱になり、水戸を激しく憎みました。またこのころ京では池田屋事件が起こり、尊王攘夷派の志士たちが新選組によって多数死傷し、この黒幕は一橋(徳川)慶喜であるという落書きがされました。これを見た水戸藩士の林忠五郎と江幡広光は激しく憤慨し、慶喜が悪く言われるのは側近の平岡円四郎のせいだと思い込み、藩士の怨嗟は円四郎に向かっていきました。血洗島の尾高家の出来事も京での事件も知らない篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)は江戸の平岡邸に行き、妻のやす(木村佳乃さん)に円四郎の近況を報告、二人の話を聞いてやすも明るく笑っていました。やすへの挨拶も済ませ、篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)は関東にある一橋家の所領を手広く回り、儒学者・剣術家・才能ある農民など人材を探し回りました。そして何も知らずに真田範之助(板橋駿谷さん)の元を訪ねたとき、皆はこれから筑波山に行って天狗党に合流する準備をしているところでした。栄一と喜作が一橋家(=徳川)に仕官し、さらに自分たちも仕官しろと言うことに真田は怒り二人を激しく罵倒します。栄一と喜作は皆に丁寧に説明をしますが誰も聞く耳を持たず、ついには二人に刃を向けてきたのでもう説得はあきらめました。こんな形での別れになるとはと、栄一の目には悔し涙が浮かびました。陣屋に連行された平九郎はまだ疑いが晴れず、手枷をつけられての帰宅となりました。惇忠もまだ入牢したままであり、こんなときにいくら一橋家の家臣になったとはいえ村を出奔した栄一と喜作が戻ってきたら一大事になると父・市郎右衛門は考え、急いで栄一に文を書き、今は故郷に立ち寄らないよう注意を促しました。二人がそろそろ血洗島に行こうかとなったときに宿に文が届きました。二人は皆に会いたいけれど、市郎右衛門の忠告に従い宿にとどまりました。徳川慶喜(草彅 剛さん)は円四郎に「自分は親や家ゆえか輝きが過ぎて皆から思いもよらぬ寵愛や期待を受ける、しかし自分にはそんな輝きはない」と語ります。しかし円四郎は「その輝きはこの先も決して消えることはない、殿がつくる新しい世を自分は心待ちにしている、自分は尽未来際どこまでもお供を」と熱く返しました。慶喜は自分に男惚れをして仕えてくれる円四郎に、思わず笑みがこぼれるのでした。水戸藩主の徳川慶篤から天狗党の追討命令が出され、市川三左衛門は諸生党の藩士たちに「水戸の恥は水戸の手で雪ぐ」と檄を飛ばし出陣しました。藤田小四郎をなんとか説得したかった武田耕雲斎(津田寛治さん)でしたがこれは上意であり、耕雲斎にとって気の重い出陣となりました。いつもと変わらぬ京の町を川村恵十郎とともに歩いていた円四郎でしたが、川村が円四郎から離れて一人になったときに水戸の藩士に襲われました。すぐに戻った川村も必死に応戦しましたが時遅しで、円四郎は主君・慶喜の未来を思い描きながら、そして最期に妻・やすの名を呼んで絶命しました。亡骸となって戻ってきた円四郎に慶喜は「尽未来際と申したではないか」と語りかけますが円四郎から言葉は返ることはなく、慶喜はただ泣き崩れるばかりでした。関東での人選御用の任を終えた篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)は採用した者たちを連れて京への道を進んでいました。二人が円四郎の死を知るのは半月先のことでした。
June 1, 2021
NHK連続テレビ小説 『おかえりモネ』 が2週間前の5月17日から始まりました。昔からやってる朝ドラは、私は最初ちょっと見てみて途中からもう見なくなることが多く、これまで最終回まできっちり見たのは5作ぐらいでしょうか。でも今作はどうやら、私の好みな感じです。主人公の生涯をただ追っていって情に訴えるタイプのドラマはあまり好まないのですが、今作は気象や自然に関することが途中でもりこまれていて、ふだんの生活の中でもなかなか役に立つ話が出てきます。そして主人公の永浦百音を演ずる清原果耶さん。2015年の朝ドラ『あさが来た』の中で女中のふゆ役で出演したときも好評でしたが、今19歳になって本当に美人だなと感じるし、何より、声が甲高くてやかましい人が苦手な私にとって、清原さんの声はカンに障らないけど聞き取りやすい声なのが嬉しいです。この『おかえりモネ』のおかげ、最近の私は再び気象のことに興味が持てました。以前買ったままだった荒木健太郎さん著の『雲を愛する技術』の本を引っ張り出してまた読んでいます。雲を愛する技術 [ 荒木健太郎 ] ↑ ↑ この本はイラストの可愛さからは予想外だったのですが、内容がやや難しい感じです。なのでまず天気の入門なら、こちらがいいかも。 ↓ ↓せきらんうんのいっしょう [ 荒木健太郎 ]ドラマがどう展開していくのかはわかりませんが、これを機会に気象のことを豆知識で知っておけたらと思います。で、特に印象深かった第2週後半をご紹介します。永浦百音(清原果耶さん)が勤める森林組合主催の林間学校に集まった子供たちは現場の見学で森の中に来ていました。森林を保護するために間伐をしなければいけない理由や、間伐で切った木がその後どのように利用されて私たちの身近なものになるか、という話がありました。またどこかの回では、森が栄養豊かな水をつくり、それが作物や海の生き物の栄養になる、山と海はつながっている、という話もありました。しかし山の天気というのはよく急変するものです。雷雨になりそうだから早く避難しなければ、というときに参加者の一人の福本圭輔(阿久津慶人くん)が不注意から勝手な行動をしてさらに怪我までしてしまいました。他の子たちは移動するので圭輔は百音が付きそうことになりました。上司の佐々木が電話で「雷に打たれないよう、木から離れる、足を閉じてしゃがむ、二人は固まらないように離れる」と指示し、百音も「手は地面に付かない、頭を低く耳を覆って」と圭輔に注意を促しました。この激しい雷雨の中でどうしたらいいのか全くわからなかった百音でしたが、以前話をした気象予報士の朝岡 覚(西島秀俊さん)のことを思い出し、なんとか朝岡に電話がつながればとかけたら運よく朝岡につながりました。百音から事情を聞いた朝岡は大急ぎで気象データを調べ、まずは高木から離れて低い茂みのところに移動するように、この後ほんの少しの間は雷雨が収まるからその間に避難小屋に移動するように、など百音に電話で指示をしました。朝岡が言ったように雨が上がる瞬間がきたので、百音は圭輔をおぶって急いで移動し、なんとか避難小屋にたどりつきました。そして救助を待っていたら、診療所の医師の菅波から百音に電話が。何が起こったのかを周囲の話から把握していた菅波は、子供が寝ていたら低体温症の意識混濁かもしれない、心停止する可能性もある、濡れた服を脱がせて身体を温めて、身体の末端の手足を温めて、声掛けして意識の回復を、意識が回復したら寝かせないように、と百音に指示を出し充電が切れたらいけないからと電話を切りました。夜になって救助された百音と圭輔はみんなのところに帰ってきました。医師の菅波光太朗(坂口健太郎さん)は救急隊員に患者の症状を伝えます。そして圭輔の父(猪俣三四郎さん)は百音に「あなたのおかげで助かりました」と礼を言ってくれ、安堵とともに内心嬉しかった百音でしたが、・・・菅波は「あなたのおかげで~」の言葉は麻薬だから真に受けてはいけない、百音は知り合いの気象予報士と医師の知識と判断に助けられただけと釘をさしました。さらに菅波は百音に、正式採用されたここで自分はやりたいことを探していると公言するのはここの人たちに失礼で甘えだ、と百音の浮かれかけた気持ちを戒めました。(このドラマはこういうところがいいですね)反省した百音でしたが、その夜朝岡から電話が入り、朝岡と話していたらやはり気象のことが気になる自分がいて、翌日本屋で気象予報士の本を手にとっていました。
May 30, 2021
愛知県西尾市の東部にある黄金堤のご紹介です。この春の吉良町めぐりの最後の記事で、2つ前の日記の続きになります。元禄14年(1701)3月に赤穂事件が起こり、その後は江戸時代の仮名手本忠臣蔵をはじめ数々の舞台や映画やTVドラマの『忠臣蔵』のおかげですっかり世間に悪役が定着してしまった吉良義央公。でも地元の愛知県西尾市吉良町では、領民思いのお殿様で領地をよく治めた名君として慕われています。4月の初めに西尾市の東部に行き、花岳寺や華蔵寺などを見学しての帰り道、国道23号線を目指して移動していたとき、ふと左手に「黄金堤」という文字が目に入りました。駐車場もあって入りやすかったので、これは何だろうと思いちょっと寄ってみました。駐車場に車を停めてあたりを見渡すと、馬にまたがる吉良義央公の像がありました。このときやっと、黄金堤は吉良公の関連で聞いたことがあるのを思い出しました。銅像の右手には、黄金堤についての説明書きが2つありました。どちらも吉良公がつくったことの紹介ですが、小さいほうの内容を下に記します。 1605年に矢作新川の開削が始まり、その後、矢作古川は 広田川へ接続され、西尾市花蔵寺町周辺では洪水対策を 余儀なくされたため、輪中堤を築堤しました。 そのためほとんどの洪水が花蔵寺南の瀬戸(寄名山)と 岡山(皆撫山)の狭間へ抜けてくるため、「黄金堤」の 築堤強化を余儀なくされ、1686年に吉良義央が築いた といわれます。 ~「吉良家ゆかりの地を行く」より階段を上がって堤の上に出てみました。当時の川の形のようです。堤の両わきは桜並木になっていました。これは開花の時期に来たかったな~。後で調べたら、ここは西尾の桜の名所になっていました。ちなみにここは「鎧ヶ淵古戦場」でもあります。(帰るときに気がついた)史跡の紹介文です。愛知県東部のこの地は戦国時代は織田と今川の境で、桶狭間の戦い(1560)の後に松平元康(後の徳川家康)が今川を離れて織田信長のほうに付き、元康の三河平定の戦いが数年間続く中での、吉良義昭との戦いがこの鎧ヶでの戦いです。話を吉良氏に戻します。堤の上から別の階段で下りてきました。これは本当に、桜が満開になると素晴らしい景色になりますね。この馬にまたがる吉良義央公の銅像は、西尾市の東部のあちらこちらで見かけます。とんでもなく不名誉な話が300年以上も広まり続けてしまったけど、領民思いのお殿様のことは地域の人に「我が町のお殿様」として語り継がれ、長い時間をかけて名誉回復の動きになっていったのだと思いました。
May 29, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回、見せ場を作ってくれたのは何と言っても薩摩藩の折田要蔵を演じた徳井 優さんでしょう。徳井さんは小柄な方ですが、事あるごとに絞り出すような独特の節回しの声で「摂海防禦御台場築造御用用係」と己の肩書をつけ、全国から生徒が集まっていようがお構いなしに薩摩弁そのまんまで教鞭をとり、周囲を混乱させる場面はおおいに笑わせてもらいました。またセリフのない演技でも、西郷吉之助との喧嘩の場面でカメラのピントは西郷にあたっていて折田はピンボケ状態ですが、徳井さんの表情がくるくる変わって、私はそちらのほうが気になっていました。もお~インパクト抜群。徳井さんが出てくる場面は全部、徳井さんがもっていったとさえ思うような見事な演技でした。さて地図のゼンリンさんが、1864年頃に外国勢の侵攻に備えて台場を作っていた大阪湾周辺の場所を地図で示してくださってます。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 渋沢栄一(吉沢 亮さん)と渋沢喜作(高良健吾さん)は一橋家に仕えるようになってひと月がたち、お百姓の出である二人にとって初めての俸禄をもらいました。そして平岡円四郎の計らいで二人は正式に一橋家の家臣となり、円四郎は二人に武士にふさわしい名前があったいいと、二人に名前を付けてくれました。栄一には思いを込めて「篤太夫」と名付けましたが本人にはイマイチで、逆に喜作にはその場で思いついた「成一郎」と名付けたのに本人は気に入って大喜びでした。篤太夫(栄一)と成一郎(喜作)はお勤めの間に、皆の経歴を聞くことができました。原 市之進(尾上寛之さん)や川村恵十郎(波岡一喜さん)が初めは攘夷思想を持っていたことや、猪飼勝三郎(遠山俊也さん)が以前は徳川慶喜の小姓をしていて粗相で慶喜に二度も怪我をさせてしまったけど慶喜は自分のせいにして猪飼を咎めず許してくれたこと、農人形の話など、務めの長い上役たちが次から次へと話を広げていきます。二人の頭はもう話についていけなくなってました。長屋に戻った二人は食事の支度をしながら、今この一橋家では身分に関係なく有能な者を集めているようだとか、以前は攘夷思想だった上役たちは考えを変えたけど自分たちは攘夷の志を忘れないようにしよう、一橋家で働きながら世の動きをしっかりと見ておこう、あわよくば皆を巻き込んで攘夷に立ち上がろうと誓い合っていました。そして自炊生活も1カ月がたつと二人は飯炊きも上達して喜び合っていました。そのころ血洗島では、尾高惇忠(田辺誠一さん)は板橋宿にいる弟の長七郎にやっと会うことができましたが、長七郎はたやすくは許されないだろうと考えていました。また渋沢市郎右衛門(小林 薫さん)は栄一と喜作のことで陣屋から呼び出しを受けていて、代官は強い腹立ちで内容はわからないけど二人が無事なことがわかりました。平岡円四郎が岡部藩の殿様と話をつけておいてくれたのですがそのことは知らされず、ただ一橋家との絡みで二人は岡部の人間ではなくなったとだけわかりました。さて篤太夫(栄一)ですが円四郎に、大坂に行って御台場築造係で薩摩人の折田要蔵(徳井 優さん)という人物を調べてくるよう命じられて大坂に来ていました。折田のもとには薩摩からだけでなく幕府の役人や会津・土佐・備中など、台場作りを学ぶ多くの武士が出入りしていていました。ただ折田の生徒からの評判は今一つで、篤太夫はそちらの言葉を信じてしまってました。西郷吉之助(博多華丸さん)の目にとまり折田との酒の席に同席することになった篤太夫は、西郷からも「折田は大ぼら吹きだから信じたらいかん」と言われました。でも折田は負けじと、西郷が島流しされとる間に自分は幕府にも国父・島津久光にも重宝がられていて、国父と公家を結びつけられるのは自分だけだと言い返します。すると西郷は五代才助の話をし、篤太夫の耳に重要人物の名が次々と流れてきます。ただ西郷との話が盛り上がるのを見て、三島通庸や川村純義らは篤太夫は何かを探っていると疑いをもちました。篤太夫は数週間後にいったん京の平岡円四郎のところに戻ってきました。篤太夫は、折田はたいした人物ではないと円四郎に報告しますが、折田が山階宮のところに出入りしていると聞くと円四郎の表情が変わりました。薩摩は禁裏御守衛総督の座を狙っていて、薩摩が京での実権を握ると一大事なので円四郎と黒川嘉兵衛が公家衆にはたらきかけ、元治元年(1864)3月、徳川慶喜(草彅 剛さん)は将軍後見職を免じられ禁裏御守衛総督に任命されました。京での政治工作がうまくいかなかった島津久光は、国力を高め打倒・徳川に備えるために、京を離れて薩摩に戻っていきました。一方、慶喜は尊攘の志を貫くためにも一橋家では兵が不足していると考え、実家の水戸家の武田耕雲斎(津田寛治さん)に200~300の兵を連れて京に来てほしいと文を書き、耕雲斎は慶喜からの呼びかけに胸が熱くなっていました。しかしそんなところへ藤田小四郎以下64人が攘夷を唱えて筑波山で挙兵したとの知らせが入り、耕雲斎は愕然としました。篤太夫の大坂での任務は終わったので、京に帰ることになりました。篤太夫は折田要蔵に挨拶をし、折田のもとで学ぶ諸国の皆のために薩摩言葉を訳した一覧を置き土産にしていき、折田も皆も喜んでいました。しかし篤太夫を隠密と疑う三島や川村らは、篤太夫を暗殺しようと狙っていました。三島らの企てを知ってか知らずか、西郷は篤太夫が京に戻る前に食事に誘ってくれ、篤太夫はそのときは難を逃れました。食事をしながら西郷は篤太夫にいくつか問いかけ、篤太夫は答えます。自分は百姓から武士になったばかりなので何でも学びたかった、幕府はもう力がない、朝廷には兵力がない、徳川の代わりに誰かが治める、自分は一橋家がいいと思う、と。西郷に思うところを述べることができた篤太夫は気もちが落ち着き、豚鍋が美味しくてたまりませんでした。しかし西郷は篤太夫に最後に一言、智弁秀逸な平岡のような者は非業の死を遂げることが往々にしてあるから気をつけろ、とだけ警告しました。篤太夫と成一郎は平岡円四郎(堤 真一さん)に以前、草莽の自分が役にたったなら、他にも志のある者がいるから一橋家で雇って欲しいと建言していました。円四郎は「高い地位や俸禄を望まぬ者なら」と条件をつけ、それを慶喜が認めてくれたので、「身元確かで人物堅固なる者を召し抱えてこい」と二人に関東出張を命じました。久しぶりの関東入りに喜ぶ二人ですが、篤太夫は西郷の言葉が頭から離れませんでした。
May 25, 2021
愛知県西尾市にある華蔵寺のご紹介です。今回は「吉良上野介は悪い人じゃなかった」というテーマで。前回の日記の続きになります。吉良氏の領地は愛知県の東部にあるため、戦国時代は今川と織田と松平・徳川との関わりでいろいろとあったようです。それが江戸時代に入って、吉良義定の母が徳川家康の祖父の妹であるという関係で、江戸幕府に取り立てられました。そして江戸幕府ができて(1603)約100年後の元禄14年(1701年)3月、吉良義央が殿中で刃傷を受け、翌年の12月に吉良邸討ち入りがあり、義央の最期となりました。世間一般的にはドラマの『忠臣蔵』の出来事がまるで史実のように認識されてしまってますが、昨年末にBS-TBSの『にっぽん歴史鑑定』で「逆から見た忠臣蔵!吉良上野介の実像」というタイトルでこれが取り上げられました。 これまでの放送 2020年12月14日の放送そのときの内容はうろ覚えですが、刃傷事件に至った理由は吉良義央の嫌味もあっただろうけど、浅野内匠頭がその日は持病で具合が悪いところに役目の重さと緊張でストレスMax状態で刃傷に及んでしまったのでは?ということでした。この事件により断絶してしまった吉良家。お寺の方と少しお話をしましたが、断絶も残念だし、世間の吉良家への誤解がとても残念であるとおっしゃってました。本堂の向かって左手に吉良家のお墓があります。吉良義安公・義定公・義央公の木像が祀られている御影堂です。西尾市役所のHPに、華蔵寺御影堂に先祖義安、義定像と並んで祀られている 吉良義央の木像 が紹介されています。吉良家のお墓の入り口にある慰霊碑と、刃傷事件に対する思いが述べられた碑文です。光の反射で碑文の文字が見えにくいので、一部を抜粋しました。 真実を求めて 人を斬る刀はあっても時の流れを断ち切る刀はない、といわれるが如く、風習と観念は時代と共に変遷する。 元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を生じ、(中略)旧臣たちは(中略)吉良公を討ち取ったが、当時の学者と協議して赤穂浪士に切腹を命じた。 吉良公は治水等の功績が大で 評判の良い名君であったからである。 名君を暗殺したものを忠臣としたのでは武士道にも反し芝居にならないので、小説家、劇作家たちが興味本位にいろいろつくりごとをして吉良公を極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世に広めたのである。(中略) ここに吉良公の遺徳の一端を述べ、世の誤解を解き、霊の安らかならん事を心から希うものである。吉良家代々の皆様が眠るお墓です。右側が義央公のお墓で、左側が孫の義周公のお墓です。孫の義周公は、討ち入り事件後に高島藩の諏訪家にお預けとされ、もともと身体が弱い人だったらしく21歳の若さでこの世を去りました。義央公のお墓です。入り口にあった碑文に「本事件の犠牲となって亡くなられた吉良家家臣の五十余士の方々も誠に気の毒の極み」とあったように、家臣たちも義央公とともに命を落としているんですよね。お墓の案内図です。歴史的に名のある方のお墓にはたいてい案内がありますね。義央公が建立した経蔵です。大きさや造りは西尾市役所のHPに紹介されてます。 こちら 経蔵の案内文です。義央公は地元の名君だから「吉良さん」です。元禄時代の台座に平成の観音様がいらっしゃるようです。お墓への挨拶も済んだので、これから移動することにします。道の駅「にしお岡ノ山」で案内板を見て、何気に来てみた華蔵寺。今までの自分の思い込みが変わった、よい時間と空間でした。
May 23, 2021
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