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2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。関ケ原の戦い(1600)を描いたこの回では、今までの戦国ドラマで描かれた関ケ原とはどんな点が変わるのか、私はその部分に注目して見ていました。松本 潤さんが徳川家康を演じるこのドラマでは、開戦当初は石田三成(中村七之助さん)方の西軍がやや優勢のような感じで、でもそれが家康が仕掛けておいた調略によって、その後はジワジワと三成にとって想定外の展開になっていた感じでした。逆にこれは出なかったのかと思ったのが、井伊直政(板垣李光人さん)の娘婿殿。直政はやがて徳川第2代将軍となる秀忠の弟(お愛の次男)の忠吉に娘を嫁がせているし、忠吉は子役の時代に少し登場しているので、この関ケ原でも登場するかと思っていました。ちょっと残念。とはいえ、別のアングルで、石田三成が捕縛された後に家康に、天下取りのためにこの先も、きれいごとでは済まない、避けては通れない道を示した、というのが興味深いものでした。いろいろな人物の描き方があって、面白いですね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長5年(1600)9月14日、徳川家康(松本 潤さん)は美濃の赤坂(現在の大垣市)に陣を構えて、大垣城にいる石田三成(中村七之助さん)の動向を見ていました。(大垣城と赤坂の直線距離は約4km)福島正則はすぐに大垣城を囲んで攻撃をと主張しますが、藤堂高虎は今いる兵では足らないと言い、内心では豊臣恩顧の武将たちに手柄を全部持っていかれては困る井伊直政は、徳川秀忠の本隊を待つのがいいと家康に進言しました。その秀忠は信濃の上田で真田によって足止めをくらってしまい、家康のいる赤坂に向けて急ぎ進軍しているところでした。ただ本軍が到着しないのは敵の三成方も同じである、しかし毛利が三成につけばこの戦は危ういと本多忠勝(山田裕貴さん)は考えました。家康は黒田長政(阿部進之助さん)に毛利調略の状況を尋ね、長政は既に内応を約束している吉川広家を通じて小早川秀秋と毛利輝元に調略を繰り返していると家康に答えました。家康は井伊直政(板垣李光人さん)に小早川に何枚も文を書くよう命じ、さらに各陣所に小早川は既に家康に内応していると言いふらすよう命じました。家康が流した噂は大垣城にいる三成方の西軍の諸将らに動揺を与えました。しかしそれでも三成は、毛利の軍が秀頼を頂いて戦場に来ると信じていました。家康は秀忠の到着を待たずに、そして大垣城を放って出陣すると決めました。家康は自分が関ケ原に向かえば三成たちが後を追ってきて、徳川が得意の野戦に持ち込めると計算、しかし直政は三成に後ろを塞がれて大坂から本軍が来て前を塞がれたら危ないと進言しました。それでも家康は三成が大軍勢を率いるのは容易ではないと考えていました。家康らが出陣した報が三成方の西軍にもたらされ、三成は先回りすべく関ケ原に向けて急ぎ進軍を開始しました。翌9月15日の早朝、家康ら東軍は関ケ原に着き、桃配山に陣を張りました。関ケ原では家康は周囲をぐるりと西軍に囲まれましたが不思議に落ち着いていて、長年自分と共に歩んできて、先に逝った者たちや今は遠くにいる者たちに思いを馳せ、その者たちの思いが今ここに集まっていると感じていました。やがて霧が晴れていよいよ決戦の出陣となり、直政はこの戦の先陣は絶対に徳川でなければならぬと考えていて、家康も直政に先陣を命じました。そして井伊直政勢がいきなり攻撃を仕掛け、井伊勢の抜け駆けに怒った福島正則や藤堂高虎らが一斉に動き出し、双方の大軍が入り乱れての戦いになりました。初めは地の利のある西軍が有利でしたが、三成は小早川が動かぬことに苛立っていて、その小早川は松尾山の上から双方の成り行きを眺めていました。三成の側近の嶋左近は、毛利家重臣の吉川広家(井上賢嗣さん)が家康の背後を突けば小早川も動くと考えていました。徳川勢も自分たちの背後に陣取る南宮山の毛利勢が攻撃してきたら危ないと考えていましたが、家康は毛利家は小早川秀秋も吉川広家らの家臣もまとめきれていないと読んでいて、調略の進展を待っていました。その吉川は南宮山の麓に陣取っていましたが、兵たちには飯をゆっくり食べるよう命じていて、長宗我部から出陣の矢の催促が来ても動く気配はありませんでした。吉川が動かないため、その奥にいる毛利秀元も動けなくなっていました。大坂城にいる毛利輝元は吉川や小早川が家康に内通していると知り、秀頼を頂いて出陣などとはうかつにできない状態でした。我が子・秀頼が出陣すれば西軍の士気が上がって家康に勝てると考える茶々(北川景子さん)は、大坂城にいる輝元が出陣しないことに苛立っていました。そこへ家康の側室の阿茶(松本若菜さん)が北政所・寧々の使いとして茶々の前に現れました。阿茶はこれは北政所も同じ考えとして茶々に、秀頼はこの戦には関わらないほうがよい、徳川の調略はかなり深く進んでいて間もなく勝負が決着するだろう、毛利が出陣しないのはその証、我が殿・家康は秀頼を守る、と伝えました。阿茶の言葉に茶々は激怒し、すぐに自分を抑えましたが、阿茶に二度と自分の前に現れぬよう言って退室させました。小早川と吉川が動いていないことを確認した家康は、桃配山を下りて前進し、今この時を逃さず一気に勝負をかけると決め、徳川軍2万の出陣を命じました。戦場の真ん中に出てきた家康を見て、三成は西軍の総掛かりを命じました。総大将・家康が戦場にいることで味方は士気が上がって西軍を押し、そして家康はもうこれで様子見をしている小早川秀秋(嘉島 陸さん)も動くと読んでいました。その狙いどおり秀秋は、一気に山を下りて大谷吉継の陣を襲撃するよう家臣に命じ、小早川勢のまさかの裏切りで大谷勢は壊滅し、吉継はその場で自害しました。東軍の勢いで西軍は総崩れとなり、兵たちは戦場から一斉に逃げ出しました。忠勝は家康に戦勝の祝いを述べ、家康も皆をねぎらいました。その時、西軍の島津勢が徳川勢に向かっていると報が入り、家康は島津がここから逃げるためだから放っておくようにと命じました。しかし井伊直政が徳川の目の前を通すまいと島津に向かっていって、井伊勢は再び戦闘状態になり、直政は銃弾を浴びて重傷を負いました。午後になり、開戦から半日もたたぬうちに東軍が勝利して西軍が敗れた報が毛利輝元(吹越 満さん)の元に届きました。あまりの予想外の展開に輝元は狼狽し、茶々と秀頼の前では声を大にして三成の非を訴えていましたが、茶々は輝元を許さず扇子で打ち据え退室を命じました。その後、毛利輝元は大坂退去で減封、宇喜多秀家は改易で配流に、上杉景勝は減封で移封に、真田昌幸は高野山配流から紀伊九度山に蟄居、小西行長は処刑と西軍諸将らの仕置きが決まり、嶋左近は行方知れずでした。島津を追って重傷を負って気絶した井伊直政は、徳川の陣に運ばれて家康から手当を受けていました。気が付いた直政は起き上がり、殿・家康の名を傷つけたくなかったと、そして改めて家康のほうを向いて喜びの笑顔で戦勝祝いを述べました。天下人となった家康を想像して「これから先が楽しみだ。」と直政は嬉しそうに語り、家康もそんな直政に優しい笑顔を向けていました。関ケ原の決戦から7日たった9月22日、戦場から敗走していた三成が捕まって、近江大津城で家康の前に引き出されていました。家康が三成に、戦無き世に出会えたなら互いに無二の友となれたはず、と語ると三成はそうではないと言い、自分は豊臣に忠誠を誓った、全ては豊臣のため、その志は微塵も揺らいでいないと家康に返しました。家康が、ならばなぜ死者が8千を超えるこのような無益な戦を引き起こしたのか、何がそなたを変えたのかと怒りを込めて問うと、三成は少し笑って「思い上がりも甚だしい!」と家康に強い口調で返しました。そして三成は「自分の中にも戦乱を求むる火種が確かにあった。それは誰の心にもある。この悲惨な戦を引き起こしたのは自分であり、あなただ。そしてその乱世を生き延びるあなたこそ、戦乱を求むる者!」と家康を見据えて言いました。「まやかしの夢を語るな!」ーー死を覚悟している三成の心の底の言葉を家康は受け止め、「それでも、やらねばならぬ。」と静かに告げて去っていきました。石田三成はその後、京の三条河原で処刑されました。
November 15, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。学校の歴史の教科書で徳川家康の名前が最初に出てくる 1600年 関ケ原の戦い がいよいよ近づいてきました。若い頃は何かあるたびにオロオロと「どうする?」状態だった徳川家康(松本 潤さん)も、この関ケ原の戦いでは60手前の歳です。人生経験をいっぱい積んで、すっかり老獪になりました。若い頃から命をかけて自分に仕えてくれてきた家臣たちが、一人、また一人と去っていき、この回では音尾琢真さんが演じる鳥居元忠が「ようやく自分の番だ。」と家康を支え守ってきた誇りを胸に、戦って旅立っていきました。元忠本人は納得して喜んでの討ち死にでしょうが、負ける(=死ぬ)とわかっていても徳川のためにそれを命じた殿・家康の胸中は、あの時代の武将たちはさぞや複雑な思いだっただろうと想像しています。そして知恵者といえば真田昌幸(佐藤浩市さん)です。2016年の『真田丸』を見ていた人なら、草刈正雄さんが演じた昌幸がどういうことをやってきたのかわかっているので、「乱世を泳ぐは愉快なもの」というセリフを聞いて思わずニヤリとしたでしょう。でも佐藤浩市さんのちょっとした表情の変化などの演技で、初めて真田昌幸という人物を知った人でも、セリフの意味をなんとなく感じたのではないかと思っています。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長5年(1600)6月18日、徳川家康は会津の上杉征伐のために伏見城を鳥居元忠に託して出立、そして約1カ月後の7月17日に石田三成が家康を逆賊として討つために大坂城で決起し、城に残る大名の妻子を人質として捕らえていました。また三成が家康を断罪する書状を諸国に送っていることなど、大坂の動きは下野の小山に布陣する家康の元に次々と知らされ、いったいどれだけの大名が徳川の味方となるのか、家康も側近たちも計りかねていました。大坂城に残る家康の側室の阿茶(松本若菜さん)も兵たちに囲まれていました。しかしそれは阿茶を城から逃がすために北政所の寧々(和久井映見さん)が送った兵たちで、寧々は家康の頼みをきいてくれていたのでした。家康は今は徳川の味方をしているものの福島・黒田・藤堂らの豊臣家臣と、そして真田昌幸(佐藤浩市さん)の動向が危ういと考えていました。家康に同行している福島らを懐柔する策を本多正信に任せ、家康は諸将たちを明朝集めるよう命じました。夜になり真田信幸が小山に到着、しかし父・昌幸と弟の真田信繁(日向 亘さん)は豊臣方について信濃・上田に引き返していったことを確認しました。信幸の城である上野の沼田城に着いた昌幸と信繁は開門を要求、しかし信幸の妻で本多忠勝の娘である稲(鳴海 唯さん)は昌幸の考えを見抜いて開門を拒否。昌幸は、せめて孫に会いたいと頼み、稲は柵越しに離れて会うことを認めました。子供たちの「じいじ!」と叫ぶ声を背中で聴いて、昌幸は去っていきました。7月25日、これからどうするのか小山にて評定が開かれました。徳川家康(松本 潤さん)は諸将らに、三成が挙兵したこと、これから上杉征伐をやめて大坂に向かうことを伝えつつも、豊臣恩顧の諸将らには妻子を人質にとられているからここから去ってもよいと、そして乱世に逆戻りさせないためにも自分は孤立無援となっても三成たちと戦うと力強く訴えました。諸将たちが迷いながらも家康の考えに従うべきだと気持ちが傾いてきたとき、本多正信(松山ケンイチさん)が福島正則(深水元基さん)をちらりと見て促しました。正則は立ち上がって皆に「内府殿と共に!」と家康に味方するよう力強く呼びかけ、諸将らもそれに応じて、秀頼のために家康の味方になる決意を固めました。ここにいる諸将らの気持ちが一つになったことを確認した家康は三男の徳川秀忠(森崎ウィンさん)に、本多正信と榊原康政(杉野遥亮さん)と3万の兵と共に信濃に向かって真田を従わせることを命じました。「取りかかれーっ!」ーー家康の号令の元、諸将らは自らの意思で動き出しました。しかし上方では、7月19日には鳥居元忠(音尾琢真さん)が守る伏見城が豊臣方の総攻撃を受け、元忠は奮戦すれど多勢に無勢で、城は落ちようとしていました。かつては武田の忍びだった千代(古川琴音さん)だけど元忠に大事にしてもらって女子の心を取り戻し、大将・元忠の奥方として共に果てる覚悟でした。元忠は「数えきれん仲間が先に逝った。ようやくわしの番がきた。」と家康を守るために散っていった者たちを思い、どこかうれしさを感じていました。主君・家康が力を持つまでの時代は皆まだ貧しくて、元忠や側近たちは藁の具足で戦いに出陣していて、でも今は立派な具足をつけて天下の伏見城を枕に討ち死にができる、こんな幸せなことはないと一同は満足気でした。「殿、お別れだわ。浄土で待っとるわ。」ーー8月1日、伏見城は落城しました。下野の小山からいったん江戸城に入っていた家康は、渡辺守綱(木村 昴さん)から伏見城が落ちたとの報告を受けました。盛綱は家康に、直ちに西に向かって元忠の仇を!と意見しますが、本多忠勝(山田裕貴さん)は「今は、誰がどちらに付き、どう動くかを見定めるとき。」と静かに言い、自分が先に出て井伊直政と落ち合い西に進むと申し出ました。そして家康には、全国の諸大名たちを味方につけるために1通でも多く書状を!と進言し、家康も伏見城で討ち死にした者たちを思い「腕が折れるまで書く。」と。忠勝は家康に一礼して、西に向かうために退室していきました。この戦はより多くの者を味方につけたほうが勝つーー家康だけでなく三成も同じことを考えていて、家康は江戸で、三成は美濃・大垣城で、双方は連日連夜書状を書いては諸大名に送り、数百通が日の本全土を飛び交いました。双方の書状を受け取った大名の中には、どちらに付くべきか悩む者もいましたが、豊臣方に参陣して伊勢に布陣している小早川秀秋のように、立場的には三成につくけど戦上手は徳川だから「どちらにも転べるようにしておけ。」と家臣に命じておく者もいました。徳川方の先陣を切っていた福島正則や黒田長政らは怒涛の勢いで西に進撃を続け、8月25日には犬山城と岐阜城を落としていました。その勢いは同行している井伊直政(板垣李光人さん)と本多忠勝が驚くばかりで、正則は自分の手柄を家康に伝えるよう直政に言い、戦勝祝いの酒でご機嫌でした。ただ豊臣恩顧の諸将たちの働きが凄まじすぎて、これでは三成との決戦が早まってしまうと直政と忠勝は危惧し、それは家康も同じ考えで、自分と秀忠の本軍なしで戦が終わってしまうと、手柄が全て持っていかれるという思いでした。とはいえこれは福島と黒田が徳川と共に戦うと世に知らしめたことであり、家康はこの時を逃すまいと徳川の出陣を決めました。家康は信濃にいる秀忠に、真田にはかまわず急ぎ西に向かうよう、9月9日までに美濃・赤坂に着くように伝えよ、と家臣に命じました。3万8千の秀忠の軍勢は真田昌幸と信繫に迫っていて、昌幸は降伏の使者を秀忠に送るよう家臣に命じました。真田・降伏の書状を受け取った秀忠は「これで父上に任された役目っが果たせた。」と気分良く笑っていましたが、本多正信と榊原康政は真田の降伏を疑っていました。正信は真田信幸(吉村界人さん)に、父・昌幸に直ちに城を明け渡してここに来るよう伝えるように言いました。しかし昌幸は、降伏を申し出たものの信繫と上田城にこもったまま出ることなく、秀忠は話が違うと苛立っていました。ただ百戦錬磨の正信と康政は真田親子のやり方を「敵味方に分かれてどちらかが生き残る。これも戦国の世を生きる術。」とわりきっていました。苛立つ秀忠に正信は「稲を刈ろう(相手の食糧を奪おう)」と進言、康政が「そうすれば相手は城から出てくる」と補足し、秀忠は稲刈りを命じました。予想通り、稲を守るために真田が城から出てきて、ここは信繁の勝ち。城に戻った信繫に昌幸は「これで(豊臣に対する)自分の役目も十分果たした。あとは家康と三成、どちらの才が上回るかだ。どちらにしても真田は生き残る。」としみじみと言いました。父の言葉に信繫は複雑な思いもしましたが、「乱世を泳ぐは愉快なものよ。」と知恵を巡らせて生き抜き真田を守ってきた昌幸らしい言葉を語りました。9月8日、家康の使者として大久保忠益(吉家章人さん)がボロボロの姿になって秀忠の陣に到着しました。書状には「決戦が早まるので、真田のことは捨て置き西へ急げ。美濃赤坂に9日までに。」とあり、それは明日のことでした。忠益は利根川で書状を奪われ昨夜やっと取り返せたと遅参した理由を涙ながらに伝え、責任をとって切腹しようとまでしました。正信はこれを真田の忍びの仕業と考え、康政が真田の狙いは我らをここに足止めするためと補足し、秀忠は激しく悔しがりました。美濃赤坂にいる家康は、秀忠の本軍がまだ到着していないと報を受けました。秀忠を足止めするのは三成の策で、これで家康は本軍なしでの戦いになり、自分たちが秀頼と毛利を本軍として迎えれば兵力の差は歴然ともくろんでいました。三成はさらに家康を、大垣ではなく関ケ原に誘い出して討つつもりでいて、ただ家康もそれを見抜いていて、その誘いに乗ってやろうと考えていました。「これは天下分け目の大戦じゃ。」ーー家康は三成との決戦を覚悟しました。
November 8, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、徳川家康(松本 潤さん)と石田三成(中村七之助さん)の対立が決定的なものになり、家康が会津征伐で大坂を出てから3カ月後に起こる"関ケ原の戦い"への序章となった回でした。対立といっても、三成が「我こそが正義!」の思考で、家康のことをどんどん悪い方に考えて、三成の頭の中で「自分が正しい」を強化していったように思えました。これは勤勉で生真面目なのは認めるけど、自分の流儀を通すことがなにより大事で、かつ度量が小さくて自分が認めないものは受け入れられない人・・なのでしょうか。家康は逆で、泣き虫で弱虫な大将だったけど度量は並み以上にあったと思うし、織田信長やさまざまな人に鍛えられ、我慢や妥協を学びながら、強運も手伝って大きく強い大将になっていきました。そして家臣団にも恵まれていました。家康を支え、時に命懸けの諫言をしてくれた石川数正や酒井忠次のような年長の忠臣がいて、同年代や若い忠臣がいて、わりと遠慮なく物が言える風通しのよい家風の中で、女も含めて家臣団の団結がありました。三成には彼を理解する大谷吉継という友や、嶋左近という忠臣はいたけど、他の大名や武将たちとは利害関係の結びつきだけだったように感じました。そして伏見城での鳥居元忠(音尾琢真さん)との、2人で酒を酌み交わすシーン。今生の別れを家康も元忠も互いに覚悟し、それを視聴者に感じさせるのに十分な、美しい西日の風景でした。来週の伏見城がどう描かれるのか、楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長4年(1599)9月、徳川家康(松本 潤さん)は大坂城の西の丸に入り、大坂で内府として政務をとることになりました。しかしこれを快く思わない浅野長政(濱津隆之さん)と土方雄久(水野智則さん)と大野治長(玉山鉄二さん)そして前田利長の4名が家康の暗殺を企ててそれが露見し、家康の仕置きを待っていました。家康は、長政は隠居のうえ蟄居、雄久と治長は流罪としました。(利長は生母のまつを江戸に人質として送る仕置きとしました)家康の側近の本多正信(松山ケンイチさん)は、他にも毛利・宇喜多・上杉など油断がならない者たちがいる、厳しく取り締まるしかないと進言しつつ、家康の苦労を理解してねぎらっていました。慶長5年(1600)、失脚した石田三成は隠居して佐和山城にいました。ある日、大谷吉継が佐和山を訪ねてきて大坂での出来事を三成に話していました。吉継は家康のことを、自分を慕う者はとこと可愛がって豊臣家中を掌握し、今や何もかも思いのまま政務を行っている、世間は天下殿と呼んでいると三成に報告、しかし三成は家康の力で天下が静謐ならばと冷静に受け止めていました。また吉継は大坂城の家康には、三成が穏やかに暮らしていると報告していました。春になり、家康は豊後の臼杵に漂着したイングランド人のウイリアム・アダムス(村雨辰剛さん)に会いました。アダムスに興味を持った家康は2代目・茶屋四郎次郎の清忠(中村勘九郎さん)を通訳とし、世界地図を広げてどこからどうやって来たのかとかを問いました。またアダムスは家康に、バテレンどもの話に耳を貸してはいけないと忠告し、自分たちはただ商いをするためだけにやって来たと訴えました。商いで皆が豊かになる世の中を願う茶屋はアダムスの話を聞いてつい興奮し、途中から自説を熱く語り始めました。でも家康も茶屋の考えには賛同で、日ノ本の揉め事をさっさと片付けないと異国の文明に置いていかれると感じていました。家康はアダムスにもっと話を聞かせて欲しいと言い、アダムスも喜んでいました。(その前に、早く手枷と縄を解いて、互いのためにも風呂に入れてやってほしい)しかしこの頃、会津の上杉景勝は新たに城を築き、橋や道を改修し、牢人や武具を集めるなど、不穏な動きを見せていました。本多忠勝は、これは戦支度と疑いをかけるには十分と考えましたが、家康はまずは事を荒立てないよう、武をもって物事を鎮めることはしたくないと考えていました。上杉の件を家康は秀頼と生母の茶々(北川景子さん)に報告、景勝が上洛をずっと拒否していることもあり、茶々は小田原征伐のようにしてはと意見しました。もう一度、景勝に上洛を促すと言う家康に茶々は不安がるので西笑承兌(でんでんさん)は自分が書状を送ると言い、その場を収めました。承兌からの書状を景勝は無礼と受け取り、景勝の側近の直江兼続は家康は狸だから全く信用ならない、家康が前田家をも服従させていつ戦になるかわからない時世に戦の備えは当然のこと、と進言しました。景勝はその意見を家康に言い返してやれと命じ、兼続は家康に書状を送りました。直江が送ってきた長い長い書状の文言を読んで、阿茶(松本若菜さん)はこれは殿・家康への侮辱であると怒り、戦をけしかけていると考えました。また正信も、上杉は自分が挙兵すれば他の大名たちも後に続くとふんでいる、ただ上杉相手に下手な戦をすれば国を揺るがす大戦となる、と考えていました。家康は自分が出陣せねばと言い、そう聞いた阿茶は大坂の留守は自分が守ると言い、あとは京を誰に託すかと家康は悩んでいました。6月15日、家康は秀頼と茶々に謁見し、上杉征伐には自分が会津に向かうと報告、家康が求めていた黄金2万両と兵糧米2万石を秀頼から受け取りました。大坂城を出陣した家康は17日に伏見城に入り、次男の結城秀康(岐洲 匠さん)と合流、そして徳川家重臣の本多忠勝(山田裕貴さん)、榊原康政(杉野遥亮さん)、井伊直政(板垣李光人さん)らの軍勢も続々と伏見城に集結しました。家康は戦場に出るために皆とこうして再び顔を合わせたことを感慨深く思い、皆もまた「我らの殿がついに天下を取る時が来た!」と意気込んでいました。一同との顔合わせの後、家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)を別室に呼びました。酒を酌み交わしながら雑談した後、そして家康は改まって元忠に、この伏見城を任せたいと言いました。家康は自分が上方を留守にすれば石田三成が味方をつけて挙兵するかもしれない、この伏見城は要の城、逃げることは許されない、最も信用できる者に任せたい、必ず守り通せと、死を覚悟の命でした。「謹んでお預かりいたします。」と一礼する元忠に、家康は「すまぬ。」と言うのが精一杯で、兵は元忠が要るだけと言いました。しかし元忠は「3千でいい。伏見城は秀吉が造った堅牢な城だから簡単には落ちない。」と、さらに「自分は腕も立たないし知恵もない。だが殿への忠義の心は誰にも負けない。」と言い、家康に己の覚悟のほどを示しました。そして家康に仕えた50年のことをしみじみと振り返り、家康に「宿願の戦なき世を」と最後の思いを伝え、家康もそれにうなずいて応えました。伏見を出た家康の軍勢は7月2日に江戸城に入り、3男の徳川秀忠と平岩親吉の軍勢と合流、21日に会津に向けて進軍を開始しました。一方、佐和山で石田三成(中村七之助さん)は挙兵の決心を固め、やめよと言う大谷吉継(忍成修吾さん)には家康の行状を全て悪いほうに解釈した声明を発し、「家康を野放しにすれば豊臣家はいずれ滅ぼされる。故・太閤の遺言だった政を行うのが我が志。」と吉継に迫りました。自分たちでは太刀打ちできないと吉継が言うと、嶋左近(高橋 務さん)は床下にある大量の金塊を見せ、これで奉行衆と大老たちを味方にできると言いました。家康が伏見を発ってひと月後の7月17日、大坂城に毛利他いくつもの軍勢が集結し、大坂城に残っていた阿茶はどこかの兵に取り囲まれていました。そして大軍勢が大坂城に入ったとの知らせを受けた伏見城の元忠と千代(古川琴音さん)は、家臣たちに急ぎ戦支度をするよう命じました。大坂城に大老の毛利輝元に石田三成・宇喜多秀家ら奉行衆が集結して秀頼と茶々に謁見し、家康の不行状の数々を訴えました。総大将は毛利輝元で、決起した自分たちの元に家康を討つために諸国の大名や武将たちがことごとく集まってくるものと予測し、それを聞いた茶々は皆と戦勝を祈願する杯を用意させ、かわらけを割った茶々は笑みを浮かべて満足気でした。大坂の動きを知らせる文が早馬で次々と下野の小山の家康の本陣に届きました。大坂城に残る阿茶や伏見城の元忠はどうなるのかと皆が案じていると、今度は茶々から家康宛てに文が届きました。その内容は、三成が勝手なことをして怖くてたまらないからなんとかして欲しいというもので、それを読んだ家康はなぜか笑いがこみあげてきました。そして正信は、この戦がとんでもない大戦になると考えました。
November 1, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、若い頃は強い者に従って徳川家を守るためにただ真っすぐに進んできた徳川家康(松本 潤さん)が、この先の厄介事や苦難を覚悟のうえで、天下泰平のために自分が天下人になる決意を固めた回でした。対照的に描かれたのが石田三成(中村七之助さん)でした。確かに亡き秀吉の思いを実現させようと、豊臣家の、秀吉の第一の忠臣を自負して三成なりに奮闘はしていました。でも朝鮮出兵では国内にいたから帰国した者たちの思いがわからずに激怒させるし、どこまでも「自分は正しい」にこだわって譲歩ができなくて事態をややこしくします。そこにもってきて随所で三成に家康を疑うようにささやく者がでてきて、最後はそちらを受け入れます。まあこれも、家康にしたら自分の若い頃の姿の一部だから、三成の考えや行動が読めてしまうのでしょうが。さて、家康の知恵袋の本多正信(松山ケンイチさん)の存在感が大きくなってきました。ある課題をクリアするのに、正信のいい意味でのズルさや要領の良さが家康を助けています。私は要領が悪い人間なので、ドラマでどんな正信の知恵がでてくるのか、楽しみでもあります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長3年(1598)秋、豊臣秀吉は朝鮮出兵を収束させることなく死去し、その後の国内を統制するために徳川家康(松本 潤さん)ら大きな力を持つ大大名を五大老、豊臣政権の実務を担う石田三成(中村七之助さん)らを五奉行として新たな政の体制が整い、伏見城に集まりました。秀吉の遺児・秀頼が成長するまでは五大老と五奉行が協力して政務を行い秀頼を支えていくことを、互いに確認し合いました。しかしこの話合いの後、毛利輝元(吹越 満さん)と上杉景勝(津田寛治さん)は三成に、合議制であっても格別な力を持つ者がいればその者が全てを決めてしまうと家康を暗に批判し、家康のことを信用しないよう忠告していました。屋敷に戻った家康に、側近たちはそれぞれに思うところを意見しました。阿茶(松本若菜さん)は三成がうまくやればと言い、本多忠勝(山田裕貴さん)は天下は力のある者の持ち回りだから次は家康が天下人になればよいと言いました。しかし家康はまだその時ではないと考えていて、本多正信(松山ケンイチさん)も泥沼化した朝鮮出兵の後始末を買って出ずに今は息を潜めているほうがいいと言い、家康も同じ考えでした。秀吉の死後3ヶ月ほどたってから、諸将たちは朝鮮半島から撤退を開始しました。食糧の補給もなく多くの死傷者を出した壮絶な戦いからやっとの思いで戻ってきた諸将らに三成は、秀吉の死去は明言を避け、そして「しくじりの責めは不問にする」と心無い言葉を発し、さらに「後日京で茶会でも」と飢えとも戦ってきた者たちをいたわることのない無神経な事を言ったため、諸将らは怒り心頭になりました。自分への怒号が飛び交い狼狽する三成に、加藤清正は腹立ちで涙を流しながら「皆にはわしが粥を振る舞う。」と言って皆を引き連れて退室、去り際に諸将らは三成を侮蔑の目で睨んでいきました。京に戻った諸将らは家康と前田利家に、朝鮮出兵では三成が自分に都合のいいよう秀吉に報告していた、自分たちの名誉が傷ついたと訴えていました。三成に対する敵意むき出しの諸将らを家康と利家はなだめて軽挙妄動せぬよう釘をさし、三成もまた豊臣家中をしっかりまとめるようにと寧々から叱られていました。しかし三成は自分の何が悪いと納得せず、諸将らと対立が深まっていました。一方、諸国の動きを探らせていた家康は正信から、伊達政宗など不穏な動きをする者もいる、裏から首ねっこを抑えておいてはどうかと進言がありました。そこで家康は自分の子や縁者と伊達・福島・蜂須賀などと密かに婚姻を結び、徳川とのつながりができた大名たちもまんざらでもなさそうでした。しかし家康のこの行動は五大老・五奉行の合議で許されないものとなり、家康の予想通り直ちに糾問の使者がやってきました。家康はうっかりしていたととぼけ、正信は秀吉亡き後は許可は必要ないと思っていたと言い訳し、家康も行き違いだったから後で皆に詫びると言いました。しかしそんなわけにはと使者が言うと、正信が「本多忠勝、榊原康政、井伊直政」と徳川の猛将たちの名をあげ、家康の身に何かあればこの者たちが軍勢を率いて駆けつけ大戦になるかもと匂わせました。話がこじれたら戦も辞さない家康と、家康の行動は許されないと怒る三成を前田利家(宅麻 伸さん)は「道理だけで政はできぬ。」と叱りました。そして家康もまた三成を密かに呼び出し、二人だけで話し合いをもちました。家康は自分の浅慮を詫び、そして自分は三成の味方だと言い、三成の五奉行としての働きぶりを評価しました。ただ率直に言って、今の形で政を続けるのは困難で、まずは皆の不満を鎮めることが大事だから一時自分が政務を預かりたいと家康は言いました。しかし三成は家康のそれを天下簒奪の野心と解釈し、怒って退席していきました。家康は病床の利家を見舞い、そして自分は天下泰平のために動ているけど皆には理解してもらえないと相談しました。そんな家康に利家は「この40年、今川・織田・武田・秀吉と渡り合ってきた貴公が怖いから仕方がない。貴公は強くなり過ぎた。」と言いました。そして改めて「腹をくくれ(天下人になれ)」と言って病床に伏しました。慶長4年(1599)3月、利家が病死すると三成に対する怒りが爆発した福島正則(深水元基さん)や加藤清正(淵上泰史さん)らが三成の屋敷を襲撃、三成がすでに逃げて京の伏見城にいると知った諸将らは武装して手勢を連れて伏見城を取り囲み、三成に口々に罵声をあびせていました。正信は「このまま放置して、もし三成を助けるために毛利と上杉が軍勢を率いて出てくれば大戦になる。」と家康に進言、そして忠勝が城門の前に行き、深夜に大騒ぎをする諸将らを鎮め、家康は話を聞くために皆を屋敷に入れました。家康の屋敷で落ち着いた諸将らは、三成を襲撃する気は毛頭なかったが、奴が話し合いに応じないのでやむなくこうなったと釈明しました。彼らが帰った後、正信は家康に「ここらが潮時かも」と言い、忠勝も「(殿が)表舞台に立つときかと。」と、それぞれに家康が立つことを促しました。後日、騒ぎの元となった三成への処分が合議で決まり、家康は三成と二人で話し合う場をもってそれを伝えました。三成は「全ては自分が至らなさゆえ。処分を慎んで受ける。全ての政務から身をひいて所領の近江・佐和山に隠居する。」と言いましたが、あくまで三成はこの処分に納得はしていなくて、自分は誰よりも秀吉の忠実な臣下だと言いました。その後、三成は家康の次男の結城秀康の警護を受けて佐和山に移りました。秀吉が昨年の夏に死去し、11月に朝鮮出兵から諸将らが引き上げて帰国し、そして三成との対立が激しくなってこの襲撃事件が起こり、その間のことを家康はいろいろと考えていました。「やるからには後戻りはできぬ。修羅の道になるかもしれぬ。」ーー家康の決意に忠勝は「どこまでもつきあいまする。」と静かに答えました。家康が一人で薬をひいていると、これまでの人生を導き支えてくれた人たちの顔が次々とふとうかんできました。今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、そして何より自分と生死と苦楽を共にしてきた家臣たちと、自分に「天下をとりなされ!」と遺した酒井忠次が。家康は一人薬湯をすすりながら静かに天下取りの決意を固めました。家康は大坂城に五大老をはじめとした諸将らを集め、これより我らが一丸となって豊臣家と秀頼のために力の限り励む、天下の泰平を乱す者あれば自分は放ってはおかぬと宣言し、一同もそれを了承しました。このことは幼い秀頼に報告され、秀頼の母の淀殿(茶々)も満足気でした。
October 25, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)の家老・酒井忠次(大森南朋さん)と、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の二人の老人が天寿を迎える回でした。ドラマの前半とラストの忠次@大森南朋さんの演技は鳥肌の感動で涙ウルウルの圧巻でした。特にラストで松潤が流した涙は、演じている本人も感動した、自然の涙だったと思います。主演は松潤だけど、この回は本当に大森さんが全部もっていった、そんな感じさえしています。そしてこのドラマでの忠次と秀吉の二人の絶命の瞬間の描かれ方は、あまりにも対照的でした。幼い頃から仕え守ってきた大好きな殿・家康に、死期が近いことを悟った自分の最後の思いを伝えることができ、そして最期は聞こえるはずのない殿の出陣の命を聞き、絶え絶えの息で具足を揃え、妻・登与(猫背椿さん)の手を借りて支度が整ったら、主・家康を思いながら忠次は静かに息を引き取りました。それは己が蒔いた種とはいえ、心安らかに旅立つことができなかった秀吉とはあまりに違っていました。若い頃は貧乏で底辺で生きてきた秀吉だから、民の幸せを願う気持ちもあったでしょう。ただ秀吉は、出世してから身内はこの上なく大事にしたけど、家康と家臣団のように心を許せる他人はいなかったように思えました。だから家康が自分に本気で進言してくれて、その言葉の中に「猿!」とか「秀吉!」とかあっても、それは友のような温かみを感じて、どこか嬉しかったのかも、とも思えました。ドラマもいよいよあと2カ月でおしまいです。これからは大戦が2つと、その間に徳川の中でややこしい問題が起こるので、どう描かれるか楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 文禄2年(1593)5月、明との戦を休戦させた豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の元に、側室の茶々(北川景子さん)から子ができたという知らせがあり、秀吉は大喜びで大坂城に戻ってきました。秀吉は「拾」と名付けた我が子と対面して拾を抱こうと手を伸ばしたとき、ふと自分がこの手で多くの者を殺めてきて汚れているのではと思いました。そして周囲にいる家臣たちを手で振り払って「汚れた者を近づけるな。」と命じ、寧々(和久井映見さん)と茶々に「拾に粗相した者がおれば誰であろうと成敗してよい。」と命じました。秀吉の言葉に「はい。」と快く返事をする茶々に寧々は驚きを隠せませんでした。秀吉は明との和議の条件で、明の皇女を天皇の妃とすることなど明側がとうてい受け入れないであろう七か条をつくり、その内容で必ず交渉をまとめるように石田三成(中村七之助さん)らに言い渡しました。徳川家康(松本 潤さん)のところに相談にきた三成は困り果て、その様子を見た家康の側室の阿茶(松本若菜さん)は「耄碌しても天下人。難儀なことで。」と皆が内心思うけど口にしないことを言い、家康にたしなめられていました。家康はこの機会だからと、三成が考える新たな政の仕組みについて問いました。三成は力ではなく知恵で、合議制でと夢を語り、本多忠勝(山田裕貴さん)と阿茶はそれを秀吉に伝えてみてはと言い、家康も三成を後押ししました。文禄4年(1595)秋、家康は嫡男の徳川秀忠(森崎ウィンさん)を伴って、京の酒井忠次(大森南朋さん)の屋敷を訪ねていました。秀忠は茶々の妹の江を正室に迎えていましたが、これは秀吉の強い要望によるもので、秀吉は豊臣と徳川の結びつきを強固にしようとしていました。さて秀忠は、忠次を訪ねたからには忠次の十八番の「えびすくい」を見たいと所望し、目を患って隠居している忠次でしたが、可愛い若殿・秀忠のたっての要望に老いた身体がスッと立ち上がり、古女房の登与(猫背椿さん)と一緒に縁側で踊り始めました。すると秀忠は踊りを見ているだけでは我慢できなくなり、父・家康や井伊直政(板垣李光人さん)を巻き込んで踊って、楽しいひと時となりました。後で家康と二人きりになった忠次は、政の状況を家康に訊ねました。家康はかつて織田信長が言っていた「安寧な世を治めるは、乱世を鎮めるよりはるかに難しい。」という言葉を思い出しました。すると忠次はやにわに家康に近寄って家康を抱擁し、幼い頃からこれまでずっと家康が辛いことや苦しいことをよくぞ乗り越えてきたと思いを伝えました。そして家康も、忠次がいてくれたからと思いを伝え、そんな家康に忠次は「殿があまたの困難を辛抱強く乗り越えたから、我ら徳川は生き延びられた。」と言い、一つだけ願いを言い残したいと家康に正対しました。「天下をお取りなされ。秀吉を見限って、殿がおやりなされ。」それから3か月後の小雪の舞う冬の日、忠次は一人縁側で息も絶え絶えになりながら具足を身に着けていました。何をしているのかと登与が声をかけると忠次は「殿から出陣の陣触れがあった。参らねば。」と言って、よろけた身体が庭に崩れ落ちました。夫・忠次の最期のときを察した登与は笑顔で優しく具足をつける手助けをしていたのですが、全てが整ったとき忠次は静かに息を引き取っていました。「ご苦労さまでございました。」ーーもう届かない声を登与は夫・忠次にかけ、深く一礼をしました。文禄5年(1596)9月1日、大坂城にて秀吉は明国との講和で皇帝の返事を受け取り、自分が出した条件が通ったと満足していました。しかしこれは戦を終わらせるために小西行長らが作った偽物でやがてそれが発覚、秀吉は怒り狂い、再び明国との戦を決意しました。秀吉をなだめるために間に入った家康に対し秀吉は、今のままでは文禄の役で何一つ得ていない、何かを得るには今一度、戦をするしかない、と言いました。それは危うい賭け、徳川の軍勢は出さないと進言する家康に秀吉は長久手の戦(1584)のことを出し、あのときは徳川に負けた、しかし戦は勝てなくても利を出す術はいくらでもある、自分に任せておけと言い、そして秀吉は三成に朝鮮攻めにとりかかるよう命じました。慶長2年(1597)6月、第二次朝鮮出兵が始まりました。またこの頃は日本国内でも戦乱の火種があり、家康の側近の本多正信はこの状況を「内も外もめちゃくちゃ」と考えていました。一方、秀吉の子・秀頼(拾・改め)はすくすくと育ち、その成長を周囲の者は温かく見守っていたのですが、そんな時に秀吉が突然、病で倒れました。幼い秀頼の行く末を案じる秀吉は三成を呼び、政についての考えを問いました。三成は合議制の考えを述べ、秀吉は三成に「やってみよ。」と言いました。三成は秀吉から了承をもらったことを家康と前田利家(宅麻 伸さん)に報告し、二人には自分たち五奉行への助力を求めました。特に利家は秀吉とは信長の家臣時代からの友で、若い頃から秀吉という男を見てきているので、秀吉が天下人らしい考えをするのを喜んでいました。そして家康も、気力が快癒した秀吉なら、自分が始めた明国との戦をうまく収めるだろうと期待していました。しかし秀吉の容態は悪化していき、家康と二人きりで話がしたかった秀吉は病床に家康を呼びました。秀吉は家康に、我が子の秀頼に家康の孫娘の千姫を嫁がせるよう頼みました。ただ家康は、幼子たちの婚儀よりも秀吉には(存命のうちに)まず明国との戦を終わらせて欲しいと考えていました。「世の安寧、民の幸せを願うならば、最後まで天下人の役目を全うされよ。」ーー家康は訴えましたが秀吉は、そんなものどうでもいい、秀頼が安泰ならそれでいい、と考えていました。さらに秀吉は、三成が考える合議制などうまくいくはずがない、豊臣の天下は自分一代で終わると言い、その言葉に家康は「だから世をめちゃくちゃにしたまま天下人の役目を放り出すのか?」と怒りを露わにしました。そして秀吉が「そうだ、ぜ~んぶ放り投げる。」と笑いながら言うので家康は真剣に怒り「まだ死なさんぞ!秀吉!」と声を荒げました。人をくったような態度の秀吉でしたが、亡き信長は自分の後継者を家康と思っていただろうと言い、そう聞いた家康は秀吉を「天下を引き継いだのはそなた。まことに見事であった。」とねぎらいました。秀吉は家康に「すまん。」と詫び、その思いを受けた家康は「二度と戦乱の世には戻さぬ。あとは、任せよ。」と伝え、退室していきました。ほどなくして秀吉に最期の時が近づき、その枕元には茶々がいました。寧々を呼ぼうとした?秀吉から茶々は呼び鈴を遠ざけ、苦しみにあえぐ秀吉に「秀頼は私の子。天下は渡さぬ。猿!」と言い放ち、あれだけこよなく愛したはずの茶々からの言葉に、秀吉は悲しみのまま絶命していきました。家康は忠次から「天下人になれ」と言われたときのことを振り返っていました。「天下人など嫌われるばかりだ。信長にも、秀吉にもできなかったことがこの自分にできようか。」と忠次に自信のなさを打ち明けていました。主・家康の思いを受けた忠次は優しい目で「殿だからできるのです。戦が嫌いな殿だからこそ。嫌われなされ。天下を取りなされ!」と家康を励ましました。幼い頃から自分を傍で支え命をかけて仕えてきてくれた忠次の最後の願いを胸に刻み、家康は自分が天下人になる決意をしました。
October 18, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、国内を統一して天下人となってますます強大な権力を持った豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に、このままではいけないと考える徳川家康(松本 潤さん)が、初めは命をかけた進言をし、次は秀吉とは違った形で人生経験を重ねて成長した家康だからこそ言える、強烈な諫言が見どころとなった回でした。特に後半の、家康が秀吉の脅しをさらりと受け流し、秀吉を太閤ではなく「秀吉」と呼び、果ては「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」とまで言ったあのシーンはぞくぞくしました。秀吉が織田信長に仕え、皆に蹴飛ばされていたあの若い頃から知っている、秀吉が信用できるのは信長と自分だけだとわかっている家康だからこそできる、あの言葉でした。松潤@家康の成長がいいですね。信長に対しては、とにかく怖くて仕方がなかったけど、終盤では信長を「お前」と呼んで意見できるようになりました。そして秀吉に対しては、臣従する前でさえ言わなかった「猿」呼ばわりをして秀吉を諫めました。家康なりに人生経験を重ね、もう若い頃の「言われっぱなし・やられっぱなし」じゃない、強運だけでなく真の実力もついた天下人になっていく姿を想像すると楽しみになります。そしてもう一つ、別の戦いというか対立ができました。家康の側室・阿茶(松本若菜さん)と秀吉の死後に豊臣家の権力を握る淀の方の茶々(北川景子さん)。特にこの阿茶が、後に豊臣家の女たちを相手にどんな交渉を繰り広げていくのか、これもまた楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正20年(1592)5月、朝鮮への出兵を決めた豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は肥前の名護屋(現在の佐賀県唐津市)に巨大な城を建造し、全国各地から大名を集結させて10万を超える軍勢を朝鮮に送り込みました。開戦してからの日本軍は快進撃を続け、名護屋城に残る徳川家康(松本 潤さん)ら大名たちの間で宴が開かれることもありました。またこの頃、秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自らは太閤と称していました。(この宴のシーンは2016年の『真田丸』を見ていた人は、すぐに第26回放送の『瓜売』の「やつしくらべ」が頭に浮かんだと思います。同じシーンを描くのでも音曲の囃子を入れて皆でニギヤカに歌うと印象が全く違ってくるのですね。)日本勢は朝鮮に上陸して1カ月余で半島をほぼ制圧し、名護屋城での軍議ではいよいよ秀吉本人が唐入りする準備が進められていました。勢いづく秀吉は諸将らに、自分の唐入り後は大唐の都に天皇を移す、さらには天竺(インド)や南蛮も手に入れる、“褒美”は無限と皆を鼓舞しました。(まず褒美を念頭に置くあたり、いかにも秀吉らしいと思います。)秀吉の話に一同が歓喜にわく中で、家康ともう一人そう思えなかった武将がいて、浅野長政(濱津隆之さん)が「どうかしておる!正気の沙汰とは思えない。」と声をあげました。「殿下は狐にとりつかれている。殿下はもう昔の殿下じゃない!」ーー自分への批判が許せなかった秀吉は長政をその場で手討にしようとしましたが、そのとき家康が間に入り、長政にはよく言って聞かす、自分に預けてほしいと秀吉に願い出て、その場はなんとか収まりました。しかし快進撃を続けていると思われていた日本勢は、実は藤堂高虎の水軍が敵にやられていたという噂を他所の陣で服部半蔵(山田孝之さん)が耳にし、すぐに家康に報告しました。家康はそんな話は聞いていないと言い、本多忠勝(山田裕貴さん)もこの噂がもし真なら本当の事は自分たちには伝えられていないという事だから仔細を探らねばと考え、半蔵のほうを一瞥し、家康も同様でした。半蔵は、今は自分たちは忍びではなく武士である、今さら忍び働きはと言いつつも、結局は大鼠らとともに仔細の探りに動き出しました。家康はまずはこの噂を秀吉が知っているのかと石田三成(中村七之助さん)を訪ね、三成に訊くと「この戦の取り計らいは我らに一任されている。何を伝えて何を伝えないかは我らの裁量。」と答えました。忠勝が「水軍がやられたら補給路が断たれて一大事。皆かの地で食糧も援軍もなく、勝ち進んで戦場が広がるほど苦しくなる。」と説明し、家康も「この戦は難しい。やるべきであったのか。」と本音で意見しました。さらに家康は秀吉と諸将らの間に立つ三成の立場を理解しつつも、秀吉が間違ったことをすれば自分が止めると言ったのでは?と三成に言いました。早く唐入りしたくてたまらない秀吉に、家康と三成は進言しに行きました。三成は天候を理由に今はやめたほうがいいと伝え、家康はもし秀吉に万一のことがあれば天下がまた乱れるから考え直してほしいと伝えました。そのとき茶々が現れ、秀吉に早く唐入りするよう催促していました。しかし家康の態度を見て秀吉は茶々を下がらせました。家康は秀吉と茶々の間に生まれた鶴松が夭折したことに触れて進言したら、秀吉は「茶々は関係ない。日ノ本と朝鮮の民のためだ!と怒りながら立ち上がりました。退室しようとする秀吉を三成が、自分たちが先に朝鮮に渡って準備をしておくからと止めようとすると、三成は足蹴にされました。しかし家康が、どうしても唐入りするのなら自分がこの場で切腹すると短刀を差し出して対峙すると、秀吉は気が鎮まってそのまま去っていきました。7月、肥前にいる秀吉の元に大政所で母の仲(高畑淳子さん)が危篤だと知らせが入り、秀吉は急ぎ大坂に戻りました。しかし時遅く、秀吉は母の臨終に間にい合いませんでした。寧々(和久井映見さん)は仲の最期の様子を夫・秀吉に語りました。「息子が皆に迷惑をかけた。自分のせいだ。貧しくて何も与えてやれんかった。秀吉は自分でもわからんようになっとる。自分が本当は何が欲しかったのか。」ーー仲の言葉を伝えた後、寧々は秀吉に「これ以上、何が欲しい。何が足らん。この世の果てまでも手に入れるつもりか。身の程をわきまえなされ。」と。寧々の厳しい言葉に秀吉は怒りの顔を向けたけど、寧々はかまわず「かか様の代わりに言っている!」と夫を叱り、秀吉もその言葉を考えていました。秀吉は茶々(北川景子さん)に、自分がいない間は前田利家に相談するようにと言っていましたが、茶々は家康のところに来ていました。茶々は父・浅井長政と母・市のことを語りながら、初めは離れて座っていたけど気持ちの高ぶりとともにだんだん家康に近寄っていきました。そしてしまいには家康の手を取り、自分を守って欲しいと情をこめて訴えました。家康は冷静に「私にできることがあれば、なんなりと。」と返しましたが、その光景は傍から見たら家康が誤解されるようなものでした。するとそこへ家康が同道させている側室の阿茶(松本若菜さん)が来て、二人の間に割って入りました。阿茶が主の家康に狐が憑いたら退治すると例え話をしたら、茶々は阿茶に狐退治に励むようにと言い、退室していきました。冬が来て小雪が舞う季節になった頃、朝鮮で戦っている武将たちの様子を書き記したものを捜して忍び働きをしていた服部党が、その証拠となるものを持って家康に差し出しました。それには、朝鮮攻めが滞っている、敵に明国の大軍勢が援軍がついた、兵糧は尽き民衆も進軍してくる日本勢に激しく抗っている、朝鮮の冬の寒さはこちらの比ではない、などとありました。やがて秀吉が大坂から名護屋に戻り、家康はまず茶々を遠ざけるよう秀吉に進言したのですが、それが癇に障った秀吉は怒りを露わにして家康に「図に乗るな。徳川くらい潰せるぞ。」と家康に迫りました。しかし家康は動じることなく「かつての底知れぬ怖さがあった秀吉なら、そんなことは口にしない。」と返し、自分の胸倉を掴んでいた秀吉の手を掴んで外し、「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」と言い放って秀吉を畳の上に転がしました。家康と秀吉がそんな状態のとき、かつて織田信長に室町幕府の将軍職を追放され(1573)、今では秀吉の庇護を受けて名護屋城に来ていた足利義昭(古田新太さん)が勝手に部屋に入ってきました。義昭は「一杯やろう」と手酌で酒をつぎ、将軍だった頃の話を始めました。「将軍だった頃は、この世の一番高い山の頂上に立ってて、下々がよく見えた。何もかもがわかってた。・・・と思い込んでいた。だっが実は何もかも逆で霞がかかって何も見えてなかった。周りがいいことしか言わないから。自分はそうならんと思っていても、なるんじゃ。遠慮なく厳しいことを言ってくれる者がおって、どれだけ助かったか。信用する者を間違えてはならんの。」と。昔語りと称して秀吉にそう言うと、義昭は退室していきました。義昭の言葉が胸に響き、母・仲の言葉を思い出したとき、秀吉は家康に自分を見捨てないで欲しいと思いを伝えました。秀吉は茶々に肥前・名護屋から京の淀城に帰るよう命じました。翌・文禄2年(1593)5月、秀吉は明との戦を休止させました。三成らは秀吉が望む成果が出せなかったことを詫びましたが、前田利家(宅麻 伸さん)のとりなしもあり、秀吉は三成らをねぎらいました。秀吉は家康と利家に明国の使いを丁重にもてなすよう命じ、諸将らが退室しようとした時、淀城の茶々からの文が届きました。文を見た秀吉は言葉にならない声をあげ、皆が何事かと思ったらなんと、茶々がまた身ごもって秀吉との間の子ができた、とのことでした。
October 11, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はタイトルが「さらば三河家臣団」とあり、視聴する前は、北条征伐後に徳川から誰かっが去るのかな?そんな人いたかな?と思っていました。でも実際は、秀吉の関東移封の命で父祖伝来の地の三河は手放すけど、重臣たちが城持ち大名になって、今までのように城の近くに屋敷を構える暮らしから、一つの領国のまさにお殿様になる、という意味でした。ドラマ終盤の、徳川家康(松本 潤さん)と、家康と苦楽を共にしてきた重臣たちとの場面は良いものでした。たしかに、この乱世で生き延びているだけでもラッキー、スタートは弱小国で貧しかったけど、次々とくる難題を主従の皆で力を合わせて乗り越えて、徳川家として出世してそれぞれに立派に豊かになってもっとラッキー、といったところでしょうか。そして家康の若い頃の弱さや頼りなさを知っているだけに、いや、弱くても他者の言葉を受け入れる、そういう殿だったからこそ家臣団は主君・家康に遠慮なくものを言ってきて、主従が互いに相手を見放すことなく絆を深めてきたのかな、と感じる場面でした。現代では、この江戸入りの頃を思うと信じられないくらい発展している東京ですが、逆にこの時代の地政学を調べて想像してみるのも面白いかと思いました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正17年(1589)5月、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は側室の茶々との間に初の我が子・鶴松を授かり、喜びの絶頂にありました。秀吉はその勢いのままに関東の北条征伐を決定したのですが、北条家の嫡男・氏直には徳川家康(松本 潤さん)の娘・おふうが嫁いでいました。家康は当主・北条氏政に対し秀吉に臣従するよう説得しているのであと少しの猶予をと秀吉に乞いますが、秀吉は家康に「早く軍勢を整えて北条に向かえ、北条を滅ぼせばその領国は全てくれてやる。成敗後はそのまま関東を治めよ。」と言うだけで、そのまま退室しようとしました。家康は秀吉を引き留め、褒美は断る、北条には領地を安堵して速やかに戦を終らせるので4カ月待って欲しいと乞いましたが、秀吉は3カ月で北条征伐を終らせよと言って出ていきました。家康は京を発つ前に病気で伏せっている正室の旭を見舞いました。一緒にいた秀吉の正室・寧々も、鶴松が誕生して以来、秀吉は自分の話に耳を貸さなくなった、弟の秀長も病に伏せって誰も秀吉にものが言えなくなった、秀吉にものが言えるのは家康と(秀吉の妹の)旭だけと言っていました。駿府城に戻った家康は重臣たちに、秀吉より北条攻めの命が下った、3か月で終わらせる、戦の仔細は皆に任せると言って退室していきました。家康はこの戦の後には国替えを命じられるだろう、これまで故郷・三河を守るために多くの犠牲を払って戦い続けてきた皆には言えない、と悩んでいました。そんな話の後で、今や家康の知恵袋となった本多正信(松山ケンイチさん)は軍議中の皆のところに行き、大久保忠世(小手伸也さん)を外に呼んで密かに何やら伝えていました。天正18年(1590)2月、北条征伐のために駿府より徳川勢が出陣、続いて3月に京より秀吉の軍勢が出陣、各所から総勢20万の大軍勢が小田原に向けて進軍し、周辺の城を落としながら北条の領地を取り囲みました。しかし北条氏政(駿河太郎さん)はかたくなに籠城を続けていて、重臣たちも籠城か降参かで議論がまとまらないままでした。そんな時、笠懸山に城が現れたと注進があり、一同が何事かと山の方を見たら、昨日まではたしかに山だったところに城ができていました。この小田原城の様子が丸見えになる場所に、一夜にして城が。秀吉の力を見せつけられた一同は、ただ呆然とするばかりでした。もうこれで北条は降参してくると読んだ秀吉は、これで天下一統の総仕上げとなった、亡き主君・織田信長も喜んでいるだろう、と上機嫌でした。家康は秀吉に、北条に少しだけ領国を与えて降伏を促してはと進言しましたが秀吉は耳を貸さず、ちょうどそこへ側室の茶々(北川景子さん)が来たため、秀吉は家康に「北条領はそのままやる。今治めている領国は他の者に。家康は武蔵の江戸に入れ。徳川の重臣たちにも領国を与えて城持ち大名にしてやれ。」と言って茶々と奥に入っていってしまいました。その話を正信は「江戸に町を作らせ、財を失わせ、ついでに徳川家臣団を分裂させて我らの力をとことんまでそぐもの。」と分析していました。一夜城出現より9日後の7月5日、家康の娘婿の氏直が降伏して家康の元に来て、7月10日、家康は小田原城の引き渡しで入城しました。家康は氏政に、氏直は助命されるが氏政は切腹と秀吉の命を伝え、北条領を家康が治めると考えた氏政は「我が民を頼む。」と言って去っていきました。陣地に戻った家康は、秀吉のやり方に腹が立ちながらもこの先のことを考えていると、そこへ石田三成(中村七之助さん)が訪問してきました。家康の気持ちを察している三成は、秀吉から国替えを命じられた織田信雄が不服を言ったら改易にされたと話し、家康に「今は辛抱を」と伝えました。しかし、秀吉の判断は今までに一度として間違ったことになってない、自分は戦なき世を目指す家康と同じ星を見ているとも言い、去っていきました。「江戸からも同じ星が見える。」ーー正信の言葉に家康は決心がつきました。夜になり、家康は重臣たちを集め、秀吉の命で徳川は関東移封になった、今の領国は徳川のものでなくなると伝えました。重臣たちの猛反発を予想していた家康でしたが、いちばん異を唱えると思った本多忠勝(山田裕貴さん)の口から「関東も良いところに相違ない。」と。続けて榊原康政(杉野遥亮さん)が「我らはとっくに覚悟ができている。」と、井伊直政(板垣李光人さん)も「新たな領国を治めるのもやりがいがある。」と、このことをそれぞれがもう知っていたようでした。鳥居元忠(音尾琢真さん)は「もう故郷には別れを告げてきた。」と言い、家康が不思議に思うと平岩親吉(岡部 大さん)から「実は国を発つ前に忠世から話を聞かされていた。」と真相を聞かされました。その忠世は、実はあの軍議の時に正信から「国替えのことを皆にうまく伝えておいて欲しい。」と頼まれたとのことでした。まあ話をした時は怒り狂った皆が文句を言いながら忠世に突っかかっていって乱闘になったけど、ひとしきり暴れて悔し泣きしたら皆それぞれ気が済んで、故郷の山河に別れを告げてこれたと納得の表情になっていました。それでも家康は、表に出さない皆の悔しさや無念さを思い詫びました。しかし家臣の皆は、今川や武田が滅び、織田が力を失ったこの乱世をこうして生き延びてきた、それで十分と言い、そして家康は、こんな自分によくついてきてくれた、支えてくれた、皆のおかげだ、と皆に礼を言いました。その後は、直政は上野箕輪に、康政は上野館林に、忠勝は上総万喜に、元忠は下総矢作に、親吉は上野厩橋にと次々と領国が正信から言い渡され、そして相模小田原は、忠世がこの家臣団をまとめあげてくれていた礼とともに家康が直々に忠世に言い渡しました。家康は正信と服部半蔵(山田孝之さん)を連れて江戸に入り、今は荒地の江戸だけど大坂をしのぐ街にしてみせる、今の粗末な城も造り直す、と皆の前で意気込みを語りました。「次に集まるときは江戸!」「我らは離れ離れになっても心は一つ!」ーー皆は笑って別れの盃をかわしました。そんな頃、大坂では病に伏していた秀長が兄・秀吉が天下一統を成したと聞き、心から喜んでいましたが、同時に「これ以上の欲は張らないで欲しい」と兄のいる方角を見つめて祈っていました。その秀吉は、ようやく授かった我が子の鶴松が病になり、天正19年(1591)8月、鶴松は夭折してしまいました。最愛の我が子・鶴松を失った悲しみで秀吉は「次は何を・・」と秀長が願う方向とは逆の方に進もうとしていました。一方、江戸に入った家康は街の造営に励んでいました。普請奉行に伊奈忠次(なだぎ武さん)を据え、丘陵部の先端に江戸城を築き、土地を増やすために神田山を削ってその土で日比谷入江を埋めるなど、人を集めて豊かな街にする構想を練って進めていました。そんな折の天正20年(1592)正月、秀吉から朱印状が家康に届き、そこには朝鮮に出兵する旨が書かれていました。
October 4, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は歴史的に大きな出来事はなかったものの、この先ドラマの中で起こるであろう歴史的な大事の伏線が各所に張られた回でした。徳川家康(松本 潤さん)の側室・於愛(広瀬アリスさん)の生き様が家康をはじめとした周囲の人々の気持ちをほぐし、考え方や見方を変えて事が丸く収まっていきました。ところで今回、私がなるほどと思ったのは「側室の地位」。大名家の奥を束ねるのは殿の正室で、殿の代わりに外交して、家中で事が起これば当事者から話を聞き、女たちのことは正室が裁定を下していたようです。そして正室が不在(または空席)のときは、側室が正室に代ってその役割を果たしていたのですね。このドラマでは過去の回でも、家康は出陣や上洛で自分が城から出るときは、於愛に「奥を頼む。」と言ってました。やるべき事の全体を考え、城勤めをする使用人たちに指示を出して主君のメンツを保つエキスパートで、人柄も良くて皆がついてきました。今、家康には正室の旭(山田真歩さん)がいるけど、今回の鳥居元忠(音尾琢真さん)が起こした事件に関しては、旭は不在でちょうどよかったと思います。旭は立場は一番上だけど、徳川家の家臣たちのそれぞれの実績や性格や細かい内情などはよくわからないでしょう。そんなんでは自分が家臣たちの話を聞いたところで、家康にどうつないだらいいのかわからなくて困ったと思います。でもその旭は、於愛の亡き後は、正室として徳川の嫡男・長松の後盾になって長松を守ってくれるでしょう。徳川家の正室ともなれば前夫のときとは比較にならないほど大きな役割があるでしょうが、不器用だけど家康の優しさに一生懸命に応えて務めを果たしていく旭だと想像します。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 徳川家康の側室の於愛の方(広瀬アリスさん)は日記から過去を振り返りました。元亀3年(1572)10月に於愛の夫だった西郷義勝は、武田信玄が奥三河に侵攻してきたときに戦死し、於愛はその後は城務めをするようになりました。夫を失った悲しみがつい顔に出てしまう於愛に、先に家康の側室となっていたお葉(北 香那さん)からは「嘘でもいいから笑っているように。」と助言された於愛。懸命に城務めをこなし、そして天正4年(1576)5月、家康の側室となりました。豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従して豊臣政権を支える立場となった徳川家康(松本 潤さん)は、上洛して聚楽第に来ていました。秀吉はいまだに自分に臣従しない関東の北条に苛立っていて、家康に早く北条を攻めるよう促していました。家康は北条氏政の嫡子・氏直には家康の姫・おふうが嫁いでいて北条父子を説得していると伝え、酒井忠次(大森南朋さん)も北条が上洛しない理由の真田との領地の問題も近いうちに解決するからもう少し時間の猶予をと乞い、また家康は本多忠勝の娘を自分の養女として真田に輿入れさせるとも秀吉に伝えていました。その本多忠勝(山田裕貴さん)と娘の稲(鳴海 唯さん)ですが、稲は真田は好きではないと輿入れを拒み、父・忠勝は忠勝でこの娘ではかえって真田との関係が悪くなると言い、果ては於愛の前で親子喧嘩をしていました。於愛は稲に、北条家に嫁いだおふうのことを引き合いにだして、嫁ぐ(政略結婚)ということは好き嫌い関係なく、両家が戦にならぬよう働くこともあり、稲にも同様の働きが求められていると説得しました。この上洛では家康は正室で秀吉の妹の旭(山田真歩さん)を伴っていました。家康は旭に、自分たちは駿府に戻るけど旭はこのまま京にいて母の大政所の傍にいればよい、旭を今さら人質とは思っていない、我が正室として京での務めを支えてくれたらよい、と優しく言いました。旭は涙を浮かべて家康に礼を言い、その様子を見ていた寧々(和久井映見さん)は旭が家康のもとで幸せあると実感していました。しかしその寧々はというと、夫の秀吉が新しい側室に夢中で忙しいことを、嫉妬というより半ば呆れて「周りの者の生気を吸い取って、自分だけ血気盛んになるもののけのよう。あの男は何でも欲しがる病だ。」と皮肉を言っていました。家康が駿府城を留守にしている頃、城では大問題が起きていました。家康はかつて武田の間者だった千代という女を探すよう大久保忠世と鳥居元忠(音尾琢真さん)に命じていたのですが、その千代がなんと元忠の屋敷にいて、しかも元忠と千代は互いに思い人になっているようでした。そして二人の光景を見た渡辺守綱が城内で言い触らし、その話を聞いた忠勝は、元忠が(武田の家臣だった)真田の罠にかかった、真田の手先となた元忠は稲を真田に輿入れさせようと執拗だった、と激怒していました。そして忠勝は家来を引き連れて元忠の屋敷に押しかけ、大乱闘となりました。どちらも引かない大乱闘を「双方厳しく罰せられるぞ!」と大久保忠世が諫め、家康が不在なので元忠と千代(古川琴音さん)は側室の於愛に申し開きをすることになりました。元忠は実は半年前に千代を見つけていて、それからずっと自分の屋敷に置いていた、千代は徳川で恨まれているだろうから引き渡せなかったと。そして元忠は、千代は今はもう忍びではない、ひっそりと暮らしたがっている、殿の命でも従えないことがある、と言いました。そんな元忠を忠勝は、徳川の重臣が真田の忍びに操られていると非難しました。於愛が千代に何か言い分はあるかと問うと千代は、自分の言葉に(周囲からの)信用はない、元忠を慕う気持ちもわからない、と言いましたが、於愛は千代に殿・家康の裁定を待つように命じました。家康が駿府城に戻ってきて、元忠たちの裁定が始まりました。家康は元忠の不忠を言語道断と厳しく言い、元忠は自分は切腹の覚悟があると言いつつ千代だけは許して欲しいと乞いました。そんな元忠に家康は、なぜ千代を妻にしたいと素直に言わなかったのかと問い、元忠は千代の過去を思うととても言えなかったと言いました。また家康も、千代を探させたのは何かに利用するためではなく、ただその身を案じていたからでした。家康は千代に過去を捨てて元忠の妻になればよいと言い、千代はそれを情けは無用にと断りましたが、家康は「幸せになることは生き残った者の務めであると思う。元忠を支えよ。これは我が命である。」と優しく言いました。主君・家康の命に感謝して平伏する二人に、これは於愛の助言だったと家康は言い、於愛も互いに思い合うなら大事にすべきと自分の思いを述べました。この騒動の行方を、稲は父・忠勝に同席して聴いていました。家康が忠勝にこの裁定で良いかと問うと、忠勝はまだ真田への疑いが晴れていないと納得していませんでした。「万が一、徳川の重臣が忍びに操られ寝首をかかれた一大事。」とまで忠勝は言いましたが、そのとき稲が「ならば私が。」と発言しました。稲は父の方を向き、自分が真田に入りこんで真田を操る、元忠がやられた事は自分がやり返すと言いました。そして家康の前に進み出て、夫婦をなすのも女子の戦と思い知ったと言い、「真田家、我が戦場として申し分なし。」ときっぱりと言い、迷いのない眼で家康にこの縁談を進めるよう申し出ました。(この十余年後に、諸事情により義父と義弟を門前払いにする奥方が誕生しました)裁定が終って自室に戻った家康は於愛に礼を言い、ここのところ胸を患っている於愛のために薬湯を煎じました。そして家康が、於愛がいてくれたからこれまでに幾度も心が救われたと思いを語ると於愛は、自分のほうこそ殿にお仕えしていて心が救われた、もう無理に笑顔を作ることがなくなっていた、と思いを述べました。於愛は改まって家康に、亡き瀬名と信康のことを聞かせて欲しいと言い、最愛だった二人のことがもう過去のことになっている家康は、二人の思い出の中で愉快だったことだけが思い出されて、笑いながら於愛に語っていました。その後、間もなくして於愛はは亡くなり、貧しき弱き民たちに施しをしていた於愛の死を悼んで葬儀には多くの民が集まりました。天正17年(1589)、稲が真田に輿入れしたことにより北条氏政は秀吉に対抗する力が弱まり、弟の氏規を上洛させました。しかし秀吉は沼田の領地問題に介入し、さらに北条が当主の氏政が上洛していないことをあげ、自分の裁定に不服なら北条を滅ぼすと言いました。井伊直政(板垣李光人さん)が豊臣秀長(佐藤隆太さん)に、秀吉は初めから戦をするつもりだったのかと問うと秀長は、兄・秀吉はますます思いのままに生きるようになった、周りには秀吉の機嫌をとって唆す者ばかり、厳しく意見できるのは北政所(寧々)と家康のみ、秀吉に取り入る者の中には危うい者もいると言い、他の者には言えない秀吉の現状を密かに教えてくれました。家康と秀長がそんな話をしていると、1発の銃声が響きました。すると奥から秀吉の側室らしき女性が笑いながら出てきて、それは亡き織田信長の妹・お市の遺子の茶々(北川景子さん)でした。茶々が愛おしくてたまらない秀吉は茶々が家康や自分に銃を向けて撃つマネをする無礼をしても笑って許していました。越前・北ノ庄城の落城(1583)後、秀吉の庇護のもとに大事に育てられたとは思えないほど狂気じみた笑いを浮かべる茶々に、家康はただ驚くばかりでした。
September 27, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、長らく続くむごい戦乱の世を終らせるために徳川家康(松本 潤さん)が豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従する決意をし、家康が上洛したことで生じた大坂と岡崎の出来事が話の中心になりました。このドラマでは前半は出番がなかった秀吉の正妻・寧々(和久井映見さん)でしたが、ここにきていよいよその存在感を出してきました。会見前夜の豊臣秀長(佐藤隆太さん)邸での宴会のシーン。秀吉は寧々の手を引いて徳川の重臣たちを次々と寧々に紹介していくのですが、今や天下人となった秀吉は誰に対しても言葉を選ぶことなく言いたい放題です。そんな夫をフォローしながら回る寧々は女性であっても「豊臣にはこの人あり」と思わせる存在でしょう。寧々の才覚や性格はあの織田信長も気に入っていたし、秀吉子飼いの武将たちも寧々が育てて、年齢は秀吉より一回りくらい下でも、秀吉が頭が上がらない唯一の人であったと十分に想像できます。その秀吉ですが、この勢いのまま天下一統を成し遂げた後は、家康が望む「戦のない世」は不可能だとばかりに大陸へ進出する野望を抱いています。ただこれは、戦がなくなったら武士たちをどうやって養っていくのかという秀吉の考えがあり、もしかしたら育ちの良い家康には気がつかない視点かもしれません。子供の頃から貧しくて身分が低かったゆえに、人は豊かでないとどうなるかをたくさん見てきました。出自の低さでこれまでさんざん人に馬鹿にされてきて、その反動での権力欲もあるでしょうが、天下人として民のことを、国全体を考える面もあったのだと、このドラマからは感じました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正14年(1586)、家康に臣従を迫る豊臣秀吉は妹の旭(山田真歩さん)を家康の正室として嫁がせ、さらに10月には自分の母親の大政所・仲(高畑淳子さん)を旭のいる岡崎に送ってきたため、家康は「この世を浄土にする」ために、秀吉に臣従する決意をして上洛していきました。岡崎城では大久保忠世(小手伸也さん)が仲を出迎え、仲は到着したときは娘の旭に会えて喜びつつも長旅で疲れた文句を言ってましたが、そこにいた井伊直政(板垣李光人さん)を一目で気に入り、旅の疲れを忘れたようでした。大坂に到着した徳川家康(松本 潤さん)は豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の弟の秀長の屋敷に入ったと思ったら、そこに突然、秀吉がやってきました。秀吉は妻の寧々(和久井映見さん)ともてなしの女たちや囃子方を連れてきていて、早々にニギヤカな宴会が始まりました。秀吉は寧々の手を引いて徳川の家臣たちを紹介して回り、互いに挨拶する際に寧々は言葉足らずの夫・秀吉を上手に補佐していました。2年前の小牧・長久手の戦では敵として高札に秀吉の悪口を書いた榊原康政(杉野遥亮さん)に秀吉が嫌味を並べそうになれば、寧々は夫と康政の間に入って康政をかばい夫を引き離していきました。秀吉は家康に、姻戚関係を結んだ豊臣と徳川はもう一つの家だ、互いに身内だと上機嫌にはしゃいでいました。宴会もお開きになり、ご機嫌に酔った秀吉は座敷で寝てしまいました。寧々は夫がここまでハメを外したのは久しぶりと家康に言い、また豊臣秀長(佐藤隆太さん)は「人を知るには下から見上げるべし。人は自分より下だと思う相手と対する時、本性が現れる。」と兄・秀吉の生き方を語りました。そこに寧々が「信用できるのは2人だけ。裏表がない信長様と徳川殿と言っていた。」と付け加え、秀長も「だから兄は徳川殿が来てくれて心の底から嬉しかった。」と秀吉の思いを伝えました。そして天下一統したいという思いは秀吉も同じだから末永く支えて欲しいと、秀長と寧々は家康に頭を下げました。さて、前夜の宴の後で家康が「もう殿下(秀吉)に陣羽織は着させぬ覚悟。」と言ったことが気に入った秀吉は家康に、大坂城で諸侯が居並ぶ場でその言葉を言って欲しいと言い、ご丁寧に台詞の紙まで渡しました。家康は秀吉に臣従する挨拶をし、その後は互いに視線をチラチラ送り合いつつ「陣羽織」の芝居を演じ、どこかぎこちない2人のやりとりだけど諸侯も感心したようで、家康はなんとか役割を果たしました。さて家康の帰りを待つ岡崎城では、仲は超お気に入りの直政をそばに置いて、時にはまるで息子のようにかいがいしく世話を焼いて喜んでいました。そんな直政だけど、大坂で万一、主君・家康の身に何かあれば仲を焼き殺すと言って、庭に薪や柴を用意させていました。三河に戻る前夜、家康は秀長から、秀吉の養子として出した我が子の於義伊が秀吉にたいそう気に入られていると聞いて安堵しました。そして家康は、豊臣家臣の変わり者と呼ばれる石田三成(中村七之助さん)と出会い、星を観察している三成といろいろな話をしました。知識欲旺盛な三成の話はとても興味深く、三成はまた「政も新たなるやり方や考え方が必要」とも言い、家康は三成と尽きることなく話をしていました。そんな家康を見て、家康の傍でずっと仕えてきた酒井忠次ら徳川の重臣たちは、家康は戦の話ではなくああいう話がしたかったのだとしみじみと思い、学問の話で盛り上がる二人を見て、戦なき世がそこまできているとさえ思いました。翌朝、大坂を出る前に家康は秀吉に挨拶をし、この上洛が良い時間になったと秀吉に礼を言いました。そして家康が、信長の妹・市が遺した3人の姫たちの近況を訊ねると、秀吉は姫たちは健やかに麗しく育っていると嬉しそうに語り、特に長女の茶々には目をかけているようで、「もうじき茶々と」と嬉しくてたまらない様子で言いかけたところで秀長に口止めされました。秀吉はこれから九州平定に向かうので家康には関東の北条を従わせるよう言い、その前に家康がなんとかしなければならない信濃の真田昌幸については、秀長は真田が徳川に赴くよう言うので説き伏せるようにと言いました。11月半ば、家康と秀吉の会見も無事に終わり、人質の役目も終えて間もなく大坂に戻れる仲でしたが、仲はなぜか帰りたくないと言い出しました。少し前に仲は、周りは自分を天下人の息子を持って幸せと言うけど、秀吉が出世するまでは貧しい百姓で朝から晩まで働きづめながらも自分らしく生きていた、なのに今はすることもなく窮屈な生活だと愚痴をこぼしていました。大久保忠世が「ご自慢の息子・関白が待っている」となだめても仲は、「あれは私の息子なのか?私はあれのことを何も知らん。十で家を出たあれが今や関白?あれは何者だ?私はとんでもない化け物を生んでしまった。恐ろしい。誰かが力づくで首根っこを押さえたらんとエライことになるだろう。」とおびえながら話し、そう家康に伝えるよう忠世に頼みました。12月、家康は16年暮らした浜松を離れて駿府城に移ることになりました。そこで家康は浜松の民たちに別れの挨拶をしようと思い、町に出て餅や握り飯を人々に振舞っていました。殿様からの振る舞いを皆は喜んでいましたが、その中にどうしても受け取れないという老婆(柴田理恵さん)がいました。聞けばその老婆は家康が浜松に来た折に、餅に石を入れる意地悪をしたり、思い込みの悪口をさんざん言い触らしていたと言います。そして老婆が土下座をすると何人かの者たちが次々と集まって家康に土下座をし、自分も殿の悪口を吹聴したと謝っていました。でも家康は今はもうそんなことは全く気にしていなくて、それどころか存分に語り継いで自分を笑えばいいと、笑って彼らを許しました。家康が駿府城に移って程なくして、真田昌幸(佐藤浩市さん)が嫡男の真田信幸(吉村界人さん)を連れてやってきました。沼田領のことで徳川と揉めている昌幸は終始不機嫌で家康に対して皮肉も言い、しかし昌幸のほうが話の筋が通っているので、家康も沼田のことは自分の落ち度と認めざるを得ませんでした。そこで家康は代替地を与えるから沼田を渡すようにと言いますが、昌幸は家康を信用していないと言い、逆に嫡男・信幸の嫁に徳川の姫を欲しいと言いました。酒井忠次(大森南朋さん)が殿にはあいにく年頃の姫がいないと言うと、昌幸はならば重臣の姫を家康の養女にしてという形でもよいと言いました。家康と昌幸の間でそのような話が進んでいる頃、於愛の方(広瀬アリスさん)は城で仕える娘たちに生け花の稽古をつけていました。その中の一人の稲(鳴海 唯さん)は稽古に集中できないようで、理由は重臣で父の本多忠勝(山田裕貴さん)が稲の稽古を窓越しに見張っていたからでした。「このままでは輿入れ先がない!」ーー忠勝はお転婆でたしなみのできていない娘の稲を案じて、一層厳しくしつけるよう於愛に頼んでいました。
September 20, 2023
もう9月の半ばだというのに、今日はまだ8月が続いているのか?と思うような暑さでした。どうやら京都~滋賀~岐阜~愛知にかけて熱がたまったようで、このエリアでは各所で最高気温が36℃前後という、9月とは思えない暑さになりました。7・8月のようなしつこい暑さはないけど、太陽高度が下がった分、陽光を全身に浴びるような感じがします。ただ逆に水道水は、真夏の頃は「まるでお湯」が出てきたけど、だいぶ水温が下がった感じです。さて、先月の終わりですが、愛知県にある航空自衛隊の小牧基地で「サマーフェスタ2023」が開催されました。自衛隊の基地や駐屯地は、ふだんは一般人が入れない場所なので、ちょっと見てきました。今回のは航空祭とは違って、特設ステージが用意されて高校生や大学生小牧基地の軽音楽部による音楽の演奏やダンスが披露されるといったものです。15:00~20:00の開催で、暑いのが苦手な私は夕方に基地に入って、イベントを見学してきました。格納庫を開放して小牧基地にある機材で作った特設ステージです。背景に自衛隊機が配置され、自衛隊ファンには最高のステージです。C-130H型輸送機が見学用に一般公開されていました。任務でたくさんの物資を世界各地に運ぶ輸送機の中は、こうなっています。長時間のフライトに備え、簡易トイレもついています。C-130Hの後姿です。後部の扉は物資を出し入れするときのスロープになってます。陸上自衛隊第10師団から、軽装甲機動車(LAV)が来ていました。コンサートを盛り上げるなんともニギヤカな集団がいました。てっきり大学の友人たちかと思ったら、自衛隊の救難隊の皆さんでした。小牧基地太鼓部の皆さんによる太鼓の演奏がありました。日没後、ちょうどC-130Hの後ろに満月がでてきました。先ほど見たC-130Hは、見学時間は修了していました。でも機内の照明が金属に反射して、美しく映えていました。この日は特別ゲストでタンバリンマスターのゴンゾーさんが来ていました。私はこの日は用があって19:00頃に基地を出たので、ゴンゾーさんのラストステージは見られなかったのですが、かなり盛り上がったようです。航空祭のときは明るい時間に終了して基地を出ることになるので、夜の基地が見られるこのイベントを、また来年もやって欲しいです。
September 16, 2023
10日ほど前ですが、ちょっと岡崎に行ってきました。今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で、主演が松本潤さんということもあって、今やすっかり知名度が上がった岡崎です。私は大河ドラマ館が県内にあるので年間パスポートを作ったものの、なかなか行くことができなかったので、その消化も兼ねて思い立ったまま岡崎に行ってきました。岡崎城のほうに出るのは、JRだと少し駅から遠いので、名鉄(名古屋本線)の「岡崎公園前」か愛知環状鉄道の「中岡崎」になります。今、愛知環状鉄道では一日のうち何本か『どうする家康』のラッピング電車が走っているのでそれを狙いたいところでしたが、今回は別の目的があったので、名鉄で若干遠い「東岡崎」で下りました。東岡崎駅の階段は、今年はこのように気合が入っています。今回はこの「桜城橋」に来たかったので、東岡崎で下りました。この橋は3年前の3月に完成していたのですが、私、全然知りませんでした。木製の洒落た橋で、車両通行禁止となっています。乙川にかかる橋はこんな感じで、日よけの屋根と腰掛けて休憩してもいい感じの、段差のある通路ができています。橋の向こうのほうに目的のものが見えてきました。今回の目的はコレ、桜城橋とともに完成したという徳川四天王像です。橋から国道1号線に向かってできた公園の中にあります。徳川四天王の中でも一番人気は、やはり本多忠勝公でしょうか。橋のすぐそばに、戦いのさなかを思わせる勇ましい姿で設置されています。像の下には、ぞれぞれの武将を説明したボードが設置されています。こちらは酒井忠次公の像です。三方ヶ原の戦い(1572)のときに、武田に敗れなおも追撃されている徳川方の兵を鼓舞するために、浜松城の城門を開けてかがり火を焚いて明るくし、太鼓を打ちならしたときの雄姿を現しています。さて、四天王像のうち2つは見たけどあとの2つがどこにあるかわからなかったので、とりあえず大河ドラマ館に向かいました。ドラマ館の前ではちょうど、岡崎の武将隊の『グレート家康公「葵」武将隊』が演武を行っていました。平日で観光バスもきていなかったので少な目の見物客ですが、最前線の方々は武将隊の熱心なファンのようで、写真をバシバシ撮っていました。では、大河ドラマ館へ。入り口からすぐのところにある撮影OKのところでは、主演の松本潤さんが着た衣裳と、その場面の説明がありました。前回、春に来たときとは衣装が変わっていました。“薄梅鼠色地むら染め麻小袖に 藍鼠麻小袖小紋弓懸 綿地篠籠手 行縢“ です。十数人のメインキャストがパネルで紹介されています。ただ時代はそれぞれバラバラのようです。ちょうど夏休み明けの平日で、館内には人はすごく少なかったけど、この場所はなかなか人が切れませんでした。展示は全体的に前回とあまり変わらなかったので、簡単に見て外に出ました。その後はお土産コーナーのある観光案内所に行き、徳川四天王像の場所を確認したら、先ほどの場所から国道1号線をわたったところにあったのでした。そして四天王像を目指し、今度はお城から国道1号線のほうに出ました。そして桜城橋の延長にある公園の続きを見つけました。榊原康政公の像では、小牧・長久手の戦(1584)で羽柴秀吉を非難する高札と筆を持ったスタイルになっています。康政公は知略の将のイメージのようですね。そして井伊直政公の像です。徳川四天王の中では最も若いけど、赤備えの精鋭部隊を率いて戦場を駆け巡る勇猛果敢な姿が再現されています。さて、この後はまた東岡崎駅に出て帰路についたのですが、私、大事なことをすっかり忘れていました。肝心の主君・徳川家康公の像のことを。東岡崎駅から少し歩いたところにあって、なかなかカッコ良くできているらしいのですが、この時はまったく気がつきませんでした。なので次回、岡崎に行ったときは忘れないようにします。
September 11, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)が今や天下人となった豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従するために上洛するか否かで、家康と秀吉の駆け引きが、秀吉の妹・旭(山田真歩さん)を巻き込んでの展開となった回でした。私はこれまでいろいろな戦国ドラマを見てきて、その中で旭の話は本当に印象が薄いものでした。これまででは家康は旭を正室として粗略に扱うことはないものの、妻としての情を感じることはありませんでした。でもこの『どうする家康』では、山田真歩さん演じる旭という人物と、旭に対する家康の心情の変化ととった行動がとても印象的でした。女人としての色香には程遠い自分が、兄・秀吉に言いつけられた役割をなんとか果たそうと、前夫との辛い別れのことは徳川家では微塵も感じさせず、努めて明るく振舞い周囲にとけこもうとしました。そんな旭のけなげさや相手への思いやりは、計算ではなく、於大(松嶋菜々子さん)と於愛(広瀬アリスさん)らの女たちの心を動かし、旭の味方となりました家康を唯一、遠慮することなく叱れる於大や、側室だけど家康に対して何でも追従じゃなく、自分の思うところをけっこう言ってしまう於愛の存在がいいですね。そしてラストで、旭の身の上や立場を思いやることなく今まで冷たい態度をとってしまったことを家康が詫び、「そなたはわしの大事な妻じゃ。」と旭にハッキリ言い、旭が嬉しくて泣いてしまうシーンは感動でした。そんな旭だから家康は、正妻として愛おしく思い、またそんな於愛だから家康は、自分の協力者であり奥の差配を任せる女人として頼りにでき、側室として愛おしく思うのかなと感じていました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正13年(1585)11月、徳川家の家老だった石川数正は一族郎党を連れて敵対する豊臣秀吉のもとに出奔し、徳川の家中は大きな衝撃を受けました。徳川家の全てを知る数正が秀吉についたから今度こそ秀吉は徳川を攻めてくるだろうと本多正信(松山ケンイチさん)は進言し、徳川家康(松本 潤さん)はすぐに守りを固めるよう井伊直政(板垣李光人さん)に命じました。数正が自分に相談もせずに去っていったことを酒井忠次(大森南朋さん)は寂しく思い、また家康は数正を思い出すことを不快に思うばかりでした。その家康は上洛して秀吉に臣従か秀吉と戦か、選択を迫られていました。11月末、天正大地震が発生し(現在の)近畿・北陸・東海(地方)にかけて壊滅的な被害をもたらしました。家康の領国も大きな被害を受け、於愛(広瀬アリスさん)が城の奥の片付けをしていたときに、数正が残していったけど家康に命じられても処分できなかった木彫りの仏と木箱を見つけました。家康が見回りに出るときに声をかけられた於愛はとっさにその木仏を隠したけど見つかってしまい、家康は不快感をあらわにしましたがそのまま出ていきました。そしてこの大地震は秀吉の治める畿内周辺の被害が甚大で、家康との戦に備えていた大垣城も焼け落ちてしまいました。寧々は秀吉に、もはや戦どころではない、領国内の立て直しが急務と進言し、もちろんそれを十分にわかっている秀吉は、家康という男の運の強さをいまいましく思っていました。そんな頃、前年の小牧・長久手の戦(1584)では徳川と同盟を結んだもののその後に秀吉の側についた織田信雄(浜野謙太さん)が岡崎城を訪れ、秀吉はまさに兵を差し向ける寸前であったけど大地震で中断し、家康は命拾いをしたのだ、早く上洛を、と話をしました。さらに仲介役で張りきるような顔で家康に、負けを認めるべき、天下は秀吉のもの、数正は賢かったと言葉を並べるので、家康もたまらず信雄が勝手に秀吉と和睦をせいでと言い返しました。忠次は冷静に、徳川は秀吉を信用していない、上洛すれば殺されるかもしれないと思いを伝えました。そう聞いた信雄は、ならば秀吉の方から人質を出せば家康は上洛するのだと考え、そのまま秀吉に話を伝えてしまいました。徳川に出す人質として秀吉は、妹の旭(山田真歩さん)を家康の正室にすればいいと考え、夫のいる旭を無理やり離縁させて岡崎に送ることにしました。もう正室は置かないと決めていた家康は不承知でしたが、秀吉の妹ならば大いに利用する価値はある、上洛はまた別のこと、と正信に進言され話を承諾しました。天正14年(1586)5月、旭は家康に輿入れして浜松に到着しました。披露宴の席では、今や関白の妹という地位になっても言葉や振る舞いは変わらず尾張の百姓のままという旭に、家康も家臣一同も驚きを隠せませんでした。そんな旭は、家康は自分に興味がないこともわかっていて、形ばかりの夫婦だ、自分みたいなので申し訳ない、と家康に思いを伝えていました。兄・秀吉から「徳川でうまくやれ。でないと次はかか様が人質に行くことになる。これくらい役にたて。」と言いつけられてた旭でしたが、姑の於大の方(松嶋菜々子さん)や家康の側室の於愛にも気さくに明るく接していて、於大も於愛も自分を飾らず偉ぶらない旭に好感を抱いていました。大坂や京の土産で話が盛り上がり、旭の周りにはいつも女たちの笑い声が響いて楽しそうでした。一方、大坂に行った数正のことを探った正信によると、数正は特にこれといった働きもしてなくて、与えられた屋敷で静かに暮らしているとのことでした。家康は数正のことを考えないでおこうとしていましたが、一人になると「私はどこまでも殿と一緒。」と言った数正の最後の言葉が脳裏をよぎっていました。妹を嫁がせても一向に上洛する様子がなく自分に臣従しない家康に、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は業を煮やしていました。そこで秀吉はいよいよ大政所の自分の母親を岡崎に人質として送る事を決めたのですが、ただし、かか様が着いたその日に家康が上洛しなければ、今度こそ天下こぞっての大軍を送って戦になる、これが最後通牒だと家康に伝えるよう、弟の豊臣秀長(佐藤隆太さん)に命じました。そして母・大政所が岡崎に来ると於愛から知らせを受けた旭は兄の言葉を思い出して一瞬顔が曇り、でもすぐにいつもの笑い話にしてごまかしていました。ただ旭の様子は何かおかしいと、於大と於愛はすぐに気がつきました。於大と於愛は家康のところに行き、上洛についての家康の考えを確かめました。あくまでも上洛を拒む家康に於愛は「あちらは妹君に加えて老いたる母君まで差し出すのに。」と言い、さらに旭の身の上が不憫であると家康に進言しました。それでも「旭は猿の妹。正室は瀬名一人。」と言って自分の考えを通そうとする家康を見て母・於大はたまらず「人を思いやれるところがそなたの取り得だと思っていたが。」と家康をたしなめました。そして乱世にほんろうされた於大だからこそ、ないがしろにされる者を思いやるよう、息子・家康に言いました。家康は女二人の言葉には返事をせずに評定に出ていったのですが、その途中で一人泣き崩れる旭の姿を見てしまいました。評定になり、秀吉の使者がこちらに向かっているから上洛するか否かの決断が迫られていることを、家臣たちも承知していました。本多忠勝(山田裕貴さん)ら若い重臣たちは相変わらず主戦論者で何年でも戦を続けると強気でしたが、家老の酒井忠次は彼らに「秀吉を相手に本気で戦えると思っているのか。どんな勝ち筋があるのか。」と考えを問いました。そして家康にも「本当は我らは負けたとわかっているはず。でもそれを認めないのは、亡き人(瀬名・信康)に心をとらわれているから。」と言い、その思いは忠勝と榊原康政(杉野遥亮さん)も同じでした。その時、評定のさなかとわかっていても於愛は中に入ってきて、自分には難しいことはわからないけどと言いつつ、(亡き瀬名が目指した)戦無き世は他の人がつくってもよいのではと進言しました。続けて忠次が、数正は自分が出奔すれば徳川はもう戦ができなくなり、それが殿と皆と徳川を守ることになるのだとわかっていたのだと言い、さらに正信がだから数正は己一人が間者となって罪を一人で背負ったと考えを述べました。そして於愛は数正が置いていった木仏と木箱を出し、中の押し花を広げました。それはかつて瀬名がいた築山に咲いていた花で、家康はすぐに気がつきました。於愛は、数正は言葉には出さなかったけど亡き瀬名と信康にいつも思いを馳せていたのではと言い、押し花と共に誰もが亡き二人に思いを寄せました。家康は忠勝と康政に、自分が天下人となることを諦めてもよいかと問い、さらに皆に秀吉にひざまずいてもよいかと涙を浮かべて問いました。忠勝が「数正のせいじゃ。」と言いだし、続けて皆も口々に「数正のせいで戦えなくなった。やむを得ん。」「やつのせいで。責めるなら数正だ。」と悔し涙を流しながら、でも心のどこかでは「数正、あっぱれ。」と思いつつ、今ここにはいない数正をののしりました。家康はようやく上洛して秀吉に臣従する決意ができました。一方、その石川数正(松重 豊さん)は大坂では変わらず仕事を与えられることもなく、妻の鍋(木村多江さん)と静かに暮らしていました。鍋は夫・数正のことをちゃんと理解していました。出奔すればこのような処遇に遭うとわかっていたけど出奔した、でもそれは殿・家康が大好きで殿と徳川を守るためだったと。鍋の言葉を数正は遮って「あほたわけ」と言ったけど、言葉とは裏腹の通じ合う優しい思いに二人は笑っていました。評定の後、家康は旭の部屋に立ち寄りました。家康が来て慌てて涙をふき、いつものように明るく、母が来ればまたやかましくなると家康を思いやりました。そんな旭に家康は「もうお道化なくてよい。辛い気持ちを押し隠し、両家の間を取りもとうと懸命に明るく振舞ってくれていた。なのに老いた母君まで来させる事になり、まことに申し訳ない。」と言って頭を下げました。そして上洛する決定を伝え、旭のおかげで家中が少し明るくなったと礼を言い、「そなたはわしの大事な妻じゃ。」と旭に優しく微笑みました。前夫と離縁させられた辛さや、兄・秀吉のために自分なりに懸命に徳川で努めてきた思いなどが一気にあふれだし、旭は嬉し涙が止まりませんでした。家康は旭を優しくいたわり、そして瀬名への思いを象徴する木彫りの兎を封印し、天正14年(1586)10月、大坂に向けて出立していきました。心の中では「自分が秀吉を操ってこの世を浄土にする。」と誓って。
September 6, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)の幼い頃より傍で仕え、家康を守り導いてきた家老の石川数正(松重 豊さん)が出奔し、よりによって敵対する羽柴秀吉(ムロツヨシさん)の家臣となってしまう回でした。私は史実としてこれを知っていたので『どうする家康』で石川数正の配役が松重 豊さんと知ったとき、松重さんがこの場面をどうやって演技するのか興味津々でした。小牧・長久手の戦(1584)で秀吉に勝ったことですっかり強気になってしまい、主戦論者であふれる徳川方。一方、数正はあの織田信長を超えたとさえ思う秀吉の持つ「力」を知るがゆえに、この小牧・長久手の戦は局地戦に勝っただけにすぎないことをわかっていて、このまま秀吉に臣従しないと徳川家が潰されると予想しています。現段階での実力がまるで違う秀吉を相手に徳川家では到底かなわないのに、本多忠勝・榊原康政・井伊直政といった若い重臣たちは希望的観測と精神力だけで徳川がまた勝つと言い、しまいには数正を裏切り者呼ばわりします。そして秀吉にはどうしても屈したくない主君・家康です。徳川家を守るために「今は」我慢して秀吉に従うべきだと訴えても、家康は受け入れません。しかしドラマの終盤、家康と数正が二人だけで話をして、そのとき数正は主君・家康を天下人にするのだと改めて決意し、その思いを力強く声に出して家康に伝えます。そしてとった行動は、まず家康を守るために(秀吉と戦をさせないために)一族郎党を引き連れての出奔でした。数正が力強く宣言したあの場面は、観ていて私も感動でじ~んときたし、家康役の松本潤さんも松重さんの演技に本当に泣いていたと思います。数正の思いを感じる、想像以上に感動した神回でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正12年(1584)小牧・長久手の戦で徳川家康(松本 潤さん)は羽柴秀吉に勝利しましたが、秀吉はまず家康と共に戦っていた織田信雄を臣従させ、次は家康を臣従させるために家康の子を誰か、人質ではなく自分の養子として手元に置く、それが嫌なら徳川を滅ぼすと考えていました。その旨の書状が家康に届けられ、家康や若い重臣たちは徳川が勝利したのになぜこちらが養子(人質)を差し出すのかと怒りを露わにしていました。筆頭家老の酒井忠次(大森南朋さん)は「総大将の信雄が和睦したのだから」と若い衆をなだめ、まずは秀吉と話をと石川数正(松重 豊さん)が大坂の秀吉の元に使者に立つことになりました。大坂から戻った数正は主君・家康の望む成果でなかったことを詫び、秀吉に押し付けられた金を家康に差し出しました。ただ養子には側室のお万(松井玲奈さん)が産んだ於義伊(岩田琉聖くん)を行かせることに決めました。お万は於義伊を秀吉の元に行かせることを快諾し、万一また徳川と羽柴が事を構えることがあった折には於義伊の事を気にかけなくてもいいと言い、於義伊も自分の事は捨て殺しにしてもいいと気丈に答えました。そして於義伊の供として数正の子・勝千代が行くことになりました。天正13年(1583)5月、秀吉は徳川との交渉を進める一方で弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)を信州に遣わし、真田昌幸(佐藤浩市さん)を取り込もうと画策していました。昌幸は領地の沼田のことで徳川には不快感があり、また越後の上杉と手を組んだものの上手くいかなかったこともあり、間もなく関白になるという秀吉の側にあっさりと寝返りしました。そして7月、秀吉は公家の最高職である関白に任官され、名実ともに亡き織田信長を超えたことに家康は驚きを隠せませんでした。数正は再び大坂に使者にたち、関白となって姓を羽柴から豊臣と改めた秀吉(ムロツヨシさん)と談判しました。秀吉は壮大な大坂城や城下町の繁栄を数正に示し、そして数正の器量を認めて自分の家臣になるよう言いました。もちろん数正は我が主は徳川三河守とその話を固辞しましたが、秀吉は自分は関白であり日ノ本全土の大名は我が家臣と同様、家康も自分に従うべきと今度は圧力をかけるように数正に言いました。それでも数正が、徳川は和睦しただけで臣下の礼はとっていないと反論すると秀吉は自分の軍事力を示し、家康には直ちに臣下の礼をとって人質をもう一人差し出すよう、さもなくば家康の領地は焼け野原だと数正に言いました。しかしその時、正妻の寧々(和久井映見さん)が出て秀吉の物言いをたしなめ、秀吉は態度を改めて日ノ本を平和にして繁栄させたいのだと数正に伝えました。真田昌幸が秀吉に寝返ったことを知った家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)、平岩親吉、大久保忠世らを信州の上田城に送り、合戦となりました。しかし元忠らは予想外の敗北を喫し、真田の背後には秀吉があると考えました。破竹の勢いで四国と北国を制した秀吉は次々と大名の「国替え」を行っていて、秀吉にひれ伏せば徳川も三河を追いやられるだろうと考えたとき、本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)と井伊直政(板垣李光人さん)はそれは絶対に認められない、2年3年籠城して決戦あるのみと息巻いていました。家康もこれ以上人質を送る気はなく秀吉と決戦をする考えでした。しかし数正に意見を求めたとき数正は「徳川は秀吉に臣従すべき。秀吉は名実ともに信長を超えた。大坂の町は富にあふれ、大坂城は安土城を超えた巨大さと美しさ。もはや秀吉の天下は崩れぬ。戦となればこの岡崎が焼け野原となる。」と言い、直政ら若い重臣たちは数正が秀吉に寝返ったとののしりました。徳川の多くの者は小牧・長久手の戦で秀吉に勝ったから自分たちは戦になっても秀吉には勝てると思い込んでいて家康も同じでした。家康が自分は秀吉には劣るのかと数正に問うと、秀吉の人の心を掴んでいく様や欲しいものを手に入れるために手段を選ばないことをあげ、秀吉は化け物だから殿はかなわないと数正は答えました。それでも家康が秀吉との決戦を言うので数正は「岡崎城代としてお断り申す!」と強く反論し、数正は家康に岡崎城代の任を解かれてしまいました。退席して家に帰った数正を酒井忠次が訪ねました。忠次は数正が調略されたとかではなく殿と皆を思ってのことだとわかっていると言い、ただそれでも今まで苦労して手に入れた国は失いたくないと言いました。数正は秀吉が天下一統すれば日ノ本全てが秀吉のものになり国はなくなると言い、これは秀吉の手腕を見てきた数正にしかわからないものがあるのだろうと思った忠次は、数正に家康と二人きりで話すように勧めました。参上した数正に家康は先日のときの怒りはなく、むしろ自分は幼い頃から数正に叱られてばかりだった、でもそのおかげで今の自分がある、数正が自分をここまで連れてきてくれたと、しみじみと感謝の思いを伝えました。そして数正の言い分もわかっているつもりだと。家康はそれでも、秀吉に屈するわけにはいかない、勝つ手立てが必ずあるはずだと言い、(先日は怒りの勢いで岡崎城代を解任してしまったが)そなたがいなければできないと思いを伝えました。家康にそう言われて、数正も静かに胸の内を語りました。「これまで数え切れないほど戦をして実に多くの仲間を失った。今もよく夢に出る。あの弱く優しかった殿が、かほどに強く勇ましくなられるとは。さぞやお苦しい事でしょう。」としかしそう言われた家康は「戦なき世を作る。この世を浄土にすると決めてきた。苦しくなどない。」と否定し、立ち上がって語気を強め「王道をもって覇道を制す!わしにはできぬと申すか!」と数正に問いました。家康のその姿を見て数正は少しだけ笑みを浮かべ「秀吉にひれ伏すなどと申したらこの国を守るために死んでいった者たちが化けて出る。危うく忘れるところだった。殿を天下人にすることこそ我が夢であると。」と。そして背筋を伸ばして家康に向かい「覚悟を決め申した!もう一たび、この老体に鞭打って大暴れいたしましょう!」と力強く言いました。そして手をついて家康の目を見て「私は、どこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、すっと立ち上がって「羽柴秀吉、何するものぞ!我らの国を守り抜き、我らの殿を天下人にいたしまする!」と腹の底から声を出して宣言したかと思うと、ニヤリと笑って退室していきました。しかし廊下で今一度立ち止まり、家康に背を向けたまま「殿、決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、数正は去っていきました。数正は妻子と家臣たちを引き連れ、闇夜に紛れて岡崎を出ていきました。そう、数正の“覚悟”とは、徳川を守るために自分が出奔して、秀吉のところに行くことだったのでした。大坂城に挨拶に来た数正と妻の鍋を、秀吉と寧々は歓待しました。主従の固めの盃をかわした数正に秀吉は、今日からは「石川出雲守吉輝」と名を改めさせ、数正も謹んでそれを受けました。数正が出奔した報を受け、家康は急ぎ数正の家に入りました。あのとき「どこまでも殿と一緒」と繰り返し言っていた数正。なのに数正の覚悟とは出奔することだったのかと、「関白殿下、是天下人也」と書かれた置手紙を見て、家康は呆然としていました。
August 30, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」の後半で、ドラマでは主役の徳川家康(松本 潤さん)よりも、家康の周りを固める榊原康政(杉野遥亮さん)ら若い大将たちの活躍や思いがより深く描かれた回でした。大河ドラマで2回にわたってやるから、康政のあの悪口の立札が出てくるかと思ったら、出てきました。でも発案が本多正信(松山ケンイチさん)で、悪口のネタを皆で考えたという展開がいいですね。あと「三河中入り」の作戦を正信が見抜き、軍議の場にいた皆がハッと気づき、人夫に突貫工事を命じて、時間が惜しい最後は若い大将たちも一緒に泥だらけになって働いた姿は、皆で一丸となって困難を乗り越えてきた徳川方らしい描写に思えました。ただ一つ、私が残念に思ったのは後半で「岩崎城の戦い」のことがナレーションもなく終わったことでした。岩崎城は長久手古戦場よりほぼ南に約3kmの位置にあり、三河中入りの池田恒興が岡崎に向かう途中にありました。この岩崎城を守る丹羽氏次は徳川方で、この時は弟の氏重が守る、兵の数は300ほどの小城でした。氏重と城兵たちは岡崎に向かうであろう池田勢をくい止めるために、全員打ち死に覚悟で7000の敵兵に挑んでいきました。そして丹羽勢は全滅してしまったのですが、ここで先発隊の恒興の進軍が止まった間に、最後尾にいた秀吉の甥・秀次に小牧山城を出た徳川方が追いついて、恒興が引き返していくことになったので、大きな意義のある戦いとなりました。だから少しでもこのドラマの中に組み込んでほしかったな~と思うばかりであります。※岩崎城のHPです ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正12年(1584)3月、羽柴秀吉との決戦のために徳川家康(松本 潤さん)は秀吉が陣を構える楽田城より南に1里半にある小牧山城を堅固な要塞に作り替え、そこを本陣として対峙しました。しかし両軍とも膠着状態のまま日が過ぎるばかりなので、本多正信が秀吉の悪口を書き連ねてそこら中に立札を立てて相手を挑発してはどうかと発案。榊原康政(杉野遥亮さん)もそれに賛同し、皆がそれぞれに秀吉をののしる言葉を考え、字が上手い康政が清書してあちこちに立札を立ててきました。それらの立札を池田恒興(徳重 聡さん)が集めて羽柴秀吉(ムロツヨシさん)に報告し、内容を読みあげました。あまりの内容に弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)は途中で読むのをやめさせました。でも秀吉は、この罵詈雑言の立札は康政が自分を怒らせようとしているのだと見ぬいていて、さらに自分はこれまでにもっと酷いことを言われ続けてきたのだと言って、こんなのは可愛いもんだと平然としていました。(たしかに秀吉は出世するまでは、さんざん武士たちから侮辱され時には蹴飛ばされて、人としての尊厳を踏みにじられても我慢し続けてきましたからね。)そして「この卑しき野人の子に家康はひざまずくのだ。」と笑い、同時に恒興の態度が大きいことへの苛立ちを密かに弟・秀長には漏らしていました。そろそろ秀吉が動き出すであろうと考える徳川方では軍議が開かれ、家康は本多正信(松山ケンイチさん)に意見を求めました。正信は自分が秀吉ならばここを攻めると机の外に石を落としました。本多忠勝(山田裕貴さん)は最初は「ふざけたことを!」と怒ったけどすぐに正信の言わんとしていることに気がつきました。それは絵図面の外、つまり秀吉は岡崎を狙うだろうという意味で、その意図を家康も康政も他の重臣たちもすぐに理解しました。康政は翌日から、堀と土塁を作る人夫たちに修正した図面を渡してこのように作るよう命じ、忠勝も人夫たちに急ぐよう命じました。徳川方がひたすら堀を作っているのを見た秀吉たちは、家康は小牧山城にこもるつもりだと考えていました。そこへ恒興と娘婿の森 長可(織田信長の小姓・森蘭丸の兄;城田 優さん)が来て、家康を引っ張り出す策があると言いました。それは家康の本領の三河を攻めるというもので、恒興の軍勢が密かに出陣して岡崎城を狙い、それを聞けば家康もすぐに出てくるというものでした。秀吉は「三河中入り」は気乗りしませんでしたが、恒興が自分がいるから織田家臣たちが付いてくる、ここは自分に従えと強気でした。秀吉は一晩考えると言い、恒興たちが去った後で、そんなのは自分もとっくに考えてたけどやるなら密かにやりたかった、恒興は己の手柄にするためにもう兵たちに言いふらしているだろうと、不快感をあらわにしていました。堀作りを急ぐため、忠勝や康政たちも人夫と一緒に作業していました。その折に井伊直政は本多正信かつて殿・家康の命を狙ったことがあるのかと問い、実は自分もそうだったと打ち明けました。直政は「なぜ殿は自分たちを赦し信じてくれるのか。戦なき世を作るのはそういうお方だ。」と言い、そして「ご恩に報いてみせる。」と自分に固く誓いました。また若い頃は自分の傘下にいた康政が(出世し、加えて)こんな見事な図面を描くようになっていたのかと、忠勝は思いを康政に伝えました。康政は「お主に追いつき追い越すのが望みだった。でも戦場ではかなわないから、おつむを鍛えた。」と言いました。そんな忠勝は「殿を天下人にするまでは死ぬわけにはいかん。」と決意を康政に伝え、作業に戻っていきました。秀吉は三河中入りを決定し、総大将を甥の羽柴秀次にして池田恒興と森 長可と堀 秀政に出陣を命じ、その軍勢は3万となりました。羽柴方出陣の報を聞いた家康は、あとは堀の仕上がりを待つのみでした。夜になり、康政から堀ができたと報を受け、中入り勢を叩く出陣となりました。一大決戦となる出陣に向けて家康は改めて皆に思いを伝えました。「弱く臆病だったこのわしがここまでやってこられたのは、今川義元に学び、織田信長に鍛えられ、武田信玄に兵法を学んだから。そしてなにより良き家臣たちに恵まれたからにほかならぬ。礼を申す。」そして力をこめて「この戦を我らの最後の大戦とせねばならぬ!今こそ我らの手で天下をつかむときぞ!」と家臣たちを鼓舞し、出陣していきました。夜陰に紛れて密かに小牧山城を出陣した徳川方は、羽柴方に気づかれることなく進軍し、榊原康政ら先発隊は白山林(現在の愛知県尾張旭市、長久手古戦場より北西に約4km)で羽柴方の最後尾の秀次勢をとらえました。「悪逆非道の秀吉に思い知らせてやれー!」ーー康政は皆を鼓舞し、徳川方の進軍に気づかず油断していた羽柴方に容赦なく襲い掛かりました。(このとき羽柴方で岡崎に向けて先発していた池田恒興と森 長可と堀 秀政は秀次のところに急ぎ引き返しています。)家康から旧武田の兵を任され、この一大決戦に向けてまとめ上げた井伊直政(板垣李光人さん)は出陣にあたり、徳川への仕官を決めたときに母・ひよから言われた「徳川様を天下一のお殿様になされ。井伊家の再興はそなたにかかっておる。」という言葉を思い出していました。「やってみせますぞ、母上。」ーー直政は今一度心に固く誓い、真に自分の家臣となった旧武田の兵たちを率いて出陣していきました。家康自身が戦場に出てきたと知った池田隊と森隊が襲い掛かってきましたが、直政隊はそれを壊滅させ家康を守りました。家康がいつの間にか小牧山城を出て、長久手周辺で三河中入り隊を叩いていると知った秀吉は、自身も3万の本軍を率いて出陣しました。その秀吉が龍泉寺城(長久手古戦場より北西に約8km)に来たとき、本多忠勝勢がわずか500の兵で立ちはだかりました。忠勝は名乗りをあげ「こっから先は一歩も通さん!」と羽柴勢に立ち向かい、鬼神の働きで秀吉の進軍を妨害しました。家康は色金山(長久手古戦場より北に1.5km)に陣を構えて総指揮をとり、長久手で池田恒興と森 長可を討ち取り、三河中入り勢を壊滅させました。その後で家康はすぐに小幡城(秀吉のいた龍泉寺城より南西に約2.5km)に引き上げ、さらにその翌日には小牧山城に引き上げていきました。秀吉はその報を聞き、すぐに引き上げを決めて西に戻っていきました。小牧山城に戻った家康は、堀や土塁の突貫工事からこの勝利の帰還までずっと働き続けた家臣の皆と、勝鬨で喜びを分かち合いました。一方、陣に戻った秀吉はこの敗北をなんとも思っていなくて、むしろこれで自分に対して偉そうな態度をとっていた池田恒興がいなくなってよかった、とまで言っていました。さらに弟・秀長と子飼いの武将の加藤清正と福島正則に「これは策ではない。三河中入りは池田恒興が無理強いしてきた策だ。わしの言うことを聞かないからこうなったと言い回れ。」と命じていました。そして亡き織田信長によって鍛えられ強くなった家康の力を認めつつも、この戦の総大将は信雄だから何も案ずることはない、と笑みを浮かべていました。小牧山城では徳川の皆で酒を飲んで歌って踊って、勝利を味わっていました。そんな中でただ一人、石川数正(松重 豊さん)だけは浮かない顔をして、宴の場から離れて考えにふけっていました。家康が数正を気遣い声をかけると数正は、会心の勝利と喜んでいる、忠勝ら若い大将たちは見事だった、されど秀吉には勝てないと思う、と。家康がその意味を問うと「一つ戦を制しただけのこと。秀吉は我らの弱みにつけ、そこにつけこんでくるだろう。」と数正は言い、その言葉が気になった家康はこれで我らの天下だと宴に浮かれる皆のほうを見て考えてしまいました。
August 23, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はいよいよ天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに突入しました。豊臣秀吉や徳川家康を扱う長編ドラマでも、なぜかこの小牧・長久手の戦いは軽めに流されてしまうことが多くて、信長・秀吉・家康の3英傑を出した愛知県人の私としては少々残念に思っていました。でもこの『どうする家康』では、小牧・長久手の戦いが1回で終わっても満足なのに、がっつり2週にわたってやってくれるようです。舞台は愛知県西部の濃尾平野で、ドラマで出てくる地名の場所や距離感がだいたいわかる尾張の地元民としては、たまらなく嬉しいことであります。今週は羽柴秀吉(ムロツヨシさん)との戦いに挑む前に、徳川家康(松本 潤さん)が苦楽を共にしてきた家臣団のそれぞれと思いを語り合い、互いに決意を固めていくのがストーリーの中心で、それぞれに面白いものでした。天下一統への勢いのまま、家康の存在を認めるがゆえに家康を潰しにくる秀吉と、強大な秀吉に勝てる確信はないけど戦わねば秀吉のいいようにされてしまうのでそれは防がなければならない家康の意地と誇りがぶつかります。今回出てきた犬山城、小牧山城、おそらく来週出てくるであろう龍泉寺城、岩崎城などは高台になっていて、眼下には平地が見渡せて、現代の建物がなかった戦国の当時なら敵の進軍が良く見えたと思います。アクセスは良くない場所が多いですが、ご興味があれば、機会があれば、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正11年(1583)織田信長が亡き後の覇権争いで柴田勝家を破った羽柴秀吉(ムロツヨシさん)は天下人への階段を駆け上がっていました。秀吉の力を恐れる公家や僧や戦国大名たちは皆こぞって貢物を持って秀吉の元に祝いの挨拶に行き、いつか秀吉を倒すと考える徳川家康も筋を通しておくために、石川数正(松重 豊さん)を秀吉のいる大坂に向かわせました。秀吉は数正から戦勝祝いの言葉を受けたとたん、堅苦しいのは無しと相好を崩し、親し気に数正に近寄って数正の器量を褒めたたえました。家康が数正に持たせたのは信長から下賜された初花肩衝で、秀吉は自分のような卑しい身分の者にこのような高価なものを勿体ないと感涙しましたが、内心は家康自身が挨拶に来ないことを不満に思っていました。秀吉はまた、信長亡き後に焼失した安土城を造り直し自分が信長の後継者であるとして住もうとしている織田信雄(浜野謙太さん)を軍事力で追い出し、信雄には二度と天下人の夢をみないよう釘を刺しました。(三男・織田信孝は兄・信雄の命により野間大坊(現在の愛知県知多郡美浜町)で自害。この野間大坊は源義朝(源頼朝の父)の最期となった場所でもあります。)その後での信雄の動きは秀吉の読みどおり、信雄は徳川家康(松本 潤さん)を尾張の清須城に呼び、秀吉から天下を取り返して欲しいと泣きつきました。家康は、織田と徳川は何を措いても助け合うと亡き信長と盟約を結んだと信雄に言いつつ、しばらく時が欲しいと言って清須を出ました。清須に同席した石川数正と清須での信雄との話を聞いた酒井忠次は、主・家康が無謀な戦をするつもりはないと言いつつも、秀吉と一戦交えるつもりだと感じていて、その時は自分たちの最後の戦にすると覚悟していました。家康は家臣たちの考えが聞きたくて、それぞれのところに出向いていました。召し抱えた旧武田の家臣の大将となった井伊直政(板垣李光人さん)は、自分の強さを見せないと従ってくれないからと、激しい稽古で全身傷だらけでした。直政は彼らを率いるのは自分でよいのかと悩んでいました。でも家康は、本多忠勝と榊原康政では武田に恨みがある、最強の兵をてなずけられるのは負けず嫌いで人たらしのお主しかいない、と直政を励ましました。そして直政に、もし近いうちに大戦となったら彼らを思いのまま動かせるかと問い、家康の思いを察した直政は「必ずや。」と答え、決意しました。家康は次に榊原康政(杉野遥亮さん)のところに行きました。家康は康政に、秀吉と戦になったら勝算はあると思うかと問いました。康政は冷静に「敵は寄せ集めの大軍。我らはいくつもの戦をくぐり抜けてきた、小さいながらも固い固い一丸。なぜ負けましょうや。」と。家康が今度こそは死ぬかもしれないと言うと、家柄のよからぬ武家の次男坊である自分がここまで出世し長生きできるとは思ってなかった、何の悔いもない、と迷いなくきっぱりと答えました。そんな康政を見て家康は「お主の知恵を頼りにしておる。」と、秀吉との戦場になるであろう尾張一帯の絵図面を渡して退室していきました。そして本多忠勝(山田裕貴さん)のところに行くと忠勝は、家康が直政や康政と話していたことを聞いていたのか、家康が何も言わないのに「俺に聞くまでもないこと。やるべし。」と力強く言いました。そして忠勝は「天下の覇権をめぐって戦えること、この上ない喜び。」と言い、桶狭間の戦(1960)のときの家康との思い出を語り、今もまだ家康を主君と認めてないとまで言うので、家康は一瞬戸惑いました。でも「天下をとったら考えてもよい。」と言って、三方ヶ原の戦(1573)のときに武田と戦って討ち死にした叔父・本多忠真の形見となった瓢箪の水筒を家康に差し出しました。水筒を眺め忠勝の思いを悟った家康は、その水をゴクリと飲みました。秀吉と戦う決意をした家康に家臣たちもそれぞれに決意を固めました。軍議が開かれ、本多正信が秀吉方の池田恒興を調略すれば丹羽長秀や前田利家らも寝返り秀吉を取り囲む日の本全土の戦になる、と意見しました。家康は皆に「何も持たず皆に蔑まれていた百姓の秀吉がここまで上がってきた。そういう男は欲に果てがない。もし秀吉にひざまずけば、我らのこの国もやつに奪われる。わしは身に染みてよくわかっている。力がなければ何も守れん。強くなければ奪われるだけだと。」語り、そして「乱世を鎮め、安寧の世をもたらすのは、このわしの役目と心得ておる!」と力強く言いました。「秀吉に勝負を挑みたい。」ーー家康の決意に家臣一同「異存なし!」と迷いなく力強い返事をしました。年が明けた天正12年(1584)2月、家康は清須の信雄に徳川家が味方すると報告しに行きましたが、信雄の横に控える三家老が気になり人払いさせました。家康は信雄に池田恒興を調略するよう強く言い、また同行した数正は秀吉への内通者のことをほのめかしたので、後日信雄は三家老を誅殺しました。そしてこの三家老のことは、家康と秀吉の開戦のきっかけとなりました。大戦を控えた家康は於愛の方(広瀬アリスさん)と二人の子たちの様子を見に、会いに行きました。家康は家を取り仕切る於愛の苦労をねぎらい、於愛もまた家康の思いを理解し、手習いの稽古に疲れた二人の子たちの寝顔を愛おしく眺めていました。秀吉との決戦に出陣するために、徳川の一同は岡崎城に集結しました。酒井忠次(大森南朋さん)は背後の守りを大久保忠世(小手伸也さん)と鳥居元忠(音尾琢真さん)と平岩親吉(岡部 大さん)に命じ、特に真田からは目を離すなと念を押しました。そして家康は皆に、ここまでよくついてきてくれたと礼を言い、続けて「この戦は未だかつてない日の本を二分する大戦となる。機は熟せり。今こそ我らが天下を取るときぞ!」と力強く鼓舞し、家臣一同もそれに応えました。決戦が始まり、信雄が調略したかと思われた池田恒興は褒美の大きさで秀吉につき、進軍を開始した池田軍は尾張北部の犬山城を落城させました。その池田軍がさらに進軍を続け、今度は楽田に向かうと予想され、敵が攻めてくる恐怖に戦に慣れない信雄は大声を出してただうろたえるだけでした。そんな信雄を家康が一喝、その後は穏やかに「総大将がうろたえるな。信長の息子だろ。しっかりせい。」と言い、信雄は「はい。」と返事しました。そして家康は、秀吉の本軍が来る前に池田勢を足止めして時を稼ごうと考え、その足止めを自分たちがやると酒井忠次が名乗り出ました。忠次の後で「いや、それは自分が。」と数正や忠勝ら若い大将が名乗りをあげましたが、忠次は若い者たちには次に来る秀吉に備えよと命じました。出陣にあたり忠次は家康に、自分は当初は秀吉に勝てないと思っていた、でも今はそれを恥じていると言い、殿・家康がすっかり逞しくなったし若い大将たちもいる今なら勝てる気がすると語りました。そして忠勝ら若い者たちに「後は頼んだぞ。」と言い、家康からは「生きて帰ってこい!」と言葉をもらい、家臣たちを引き連れて出陣していきました。そして羽黒にて池田恒興の娘婿の森長可(織田信長の小姓だった森乱の兄)との戦いが始まりました。忠次は敵の側面をついて攻撃して勝利し、森勢を退散させました。秀吉の本隊との戦いに備え、榊原康政が策を出しました。それはかつて信長が築城して17年前に廃城にした小牧山城に二重の土塁と空堀を巡らせ、難攻不落の要害としてそこを本陣とする、というものでした。工事に10日かかるという康政に家康は5日でやるよう命じました。一方、動き出した秀吉の本隊は3月29日に楽田城を制圧し、小牧山城とは1里半の位置に対峙しました。
August 15, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)自身に何かあったというより、今後起こっていく一大事の種を自分で蒔いてしまった、あるいはやむを得ず?芽が出てしまった、といった感じの回に思えました。母・市(北川景子さん)を助けに来なかったと家康を恨むようになった茶々(白鳥玉季さん)。家康だってまず徳川を守らなければいけないし、市も仕方のない事と理解しているけど、まだ若くて物事を総合的に見られない茶々は、母を失う悲しみを家康にぶつける方向にもっていってしまいます。まあ茶々の場合、父・浅井長政のことも覚えている分、妹たちよりも余計に敗者が味わう悲しみや辛さを知っていて、負けないように自分が頂上にいたいという思いが強いかもしれませんが。でも家康自身も、長い間、信長をただ恐れ、信康事件以降は信長を勝手に恨んでいましたからね。今度はその信長の姪に、どうしようもないことで逆恨みされる番ということでしょうか。市が語った「織田家は死なぬ。その血と誇りは我が娘たちがしかと残していくであろう。」の言葉。この先の歴史を知る者から見たら、代々の受け継いでいった方々は本当に成し遂げてしまっているのだと、あらためてそのすごさを感じました。そしてこれから台頭してくる羽柴秀吉(ムロツヨシさん)。元々知恵者だけど世の中を渡り歩いて織田家に入ってからも苦労してつけた秀吉の知恵には、正統派の家康や徳川家臣団ではかなわないでしょう。でもそこに、やはり元々知恵者で世の中を渡り歩いてきた本多正信(松山ケンイチさん)が出てきました。秀吉と正信の知恵比べがどうなるのか、今後が楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)6月2日に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の後、すぐさま備中から京に戻って光秀を討った羽柴秀吉(ムロツヨシさん)は、周囲には自分が信長の仇を討ったと触れ回り、そして6月27日には信長の後継者を決める清須会議では、その勢いのまま主導権を握って話を進めていました。信長の三男・信孝を推す柴田勝家(吉原光夫さん)は信長の次男・信雄と信孝はどうするのかと問うと、秀吉は信雄と信孝の争いを避けるためにも嫡孫の三法師を立てて自分たち重臣が補佐して政務を執り行っていくと決めてしまい、池田恒興(徳重 聡さん)や丹羽長秀(福澤 朗さん)もそれに同意なので、勝家は何かと面白くありませんでした。会議は思い通りに進めた秀吉でしたが、その後で信長の妹の市(北川景子さん)が勝家と再婚するという想定外の話を聞かされました。驚きつつも市に挨拶に行った秀吉は思いっきり市と勝家を祝福する言葉を並べましたが、言葉とは裏腹に祝意は全く感じられないものでした。浅井長政と市の間できた三人の姫たちも秀吉の祝意は嬉しくなく、特に長女の茶々(白鳥玉季さん)は秀吉に侮蔑の視線を送っていました。市と勝家の再婚の話は徳川家康(松本 潤さん)にも伝わり、家康はそれを市が秀吉の好きにさせないためと読んでいて、徳川家臣たちもそうなるといずれは羽柴勢と柴田勢がぶつかるだろうから、そのときは徳川はどちらにとつくのかと考えていました。さて先ほどから本多忠勝(山田裕貴さん)が不満をあらわにしていて、家康がどうしたのかと聞くと、伊賀から戻ってすぐに出陣すれば徳川が明智を討っていたのになぜそうしなかったのかと怒っていました。家康は徳川が急ぎ成すべきことは、主のいなくなった旧武田領の甲斐・信濃・上野を鎮めて北条より先に手に入れることだと説明しました。納得した忠勝は家康の命を遮る勢いで他の重臣たちに出陣を呼びかけ、皆を引き連れて出陣の支度のために退室していきました。旧武田領を取るために家康は出陣し、甲斐の新府城に布陣しました。しかし北条も徳川と同じことを考えていて2万の大軍で出陣していて、兵の数が3千と圧倒的に少ない徳川勢はどうしたものかと考えていました。そこに伊賀で再会した後に再び徳川に仕官することになった本多正信(松山ケンイチさん)が来て、味方の数が少ないときの戦法を提案しました。家康がそれを受け入れたとき井伊直政(板垣李光人さん)は反対しましたが、家康は直政を「一軍の将になるからには正信のずる賢さも学ぶがいい。」とたしなめ、召し抱えた武田の兵を直政に預けると言いました。家康の小姓だった自分が一軍の将へーー直政は感激で言葉も出ませんでした。一方、織田家では秀吉が擁立する次男の織田信雄と勝家と市が擁立する織田信孝(吉田朋弘さん)の2派に分かれて対立が深まっていました。秀吉のところから三法師を連れてきた信孝に叔母の市は、織田家の天下を決して秀吉に渡さぬよう強く言い聞かせ、亡き信長に恩義のある丹羽・池田・滝川・佐々らは自分たちに付き、そして家康もまた味方するであろうと考えていました。10月、北条との和睦を図っていた家康は北条から和睦に応じる返事を受けました。その内容は、上野一国さえもらえば甲斐・信濃からは手を引くという事でしたが、上野にある沼田領は真田昌幸のもので、真田はひと月ほど前に北条から離反して徳川についたばかりでした。沼田領を勝手に北条に渡せば真田に恨まれると分かっていたけど、家康はそれを承知で上野を北条に渡すことにしました。もう一つ北条が出してきた条件に家康の姫を北条氏直の妻にとあり、家康は側室・お葉の産んだおふうを輿入れさせることにしました。12月になり家康は、羽柴秀吉と柴田勝家との間で戦が始まった、秀吉は織田信雄と手を組んで勝家方の近江・長浜城を攻め込んだ、勝家は越前・北ノ庄城にいて雪のため動けない、岐阜城も落ちたとと酒井忠次から報を受けました。そこへ直政が年の瀬の贈り物が届いたと2つの物を持ってきました。1つは勝家からの市が選んだであろう美しい綿布で、皆は市の品格や事実上の織田の将としての気概を称えていました。もう1つは秀吉からの砂金で、皆は秀吉の品のなさを笑っていました。年が明けて天正11年(1583)4月、勝家と秀吉は近江の賤ケ岳で激突。しかし秀吉が柴田勢の武将たちを調略していて裏切りが相次いだため柴田勢は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城まで撤退していました。秀吉勢に取り囲まれた北ノ庄城は絶え間なく鉄砲が撃ち込まれて罵声が飛び交い、勝家たちは追い込まれていました。市は心のどこかでは家康が救援にくることを願い、本多忠勝ら徳川の一部の家臣たちも市のために出陣すべきだと主張しました。その軍議の場に後から来た本多正信は、柴田方の将たちが秀吉に調略された事実を述べ、人の心をつかむ天才とまで思える秀吉という男の才覚を説明し、人は美しい綿布よりも下品な金が好きなのだと、徳川の家風にはあまりない価値観を話しました。そして「これはあくまで織田家中の争い。我らはただ静観して、勝った方に祝意を述べに行くのが上策。」と家康に進言しました。今の秀吉は明智に続いて柴田を破ろうとしている破竹の勢い、今の秀吉と戦をするのは時期尚早だと石川数正は考え、酒井忠次も今は甲斐・信濃を固めることが肝要と家康に進言し、家康は様子を見ると結論を出しました。そして北ノ庄城では落城を悟った市が三人の姫たちだけは助けようと秀吉に文をしたためていました。一方、秀吉は自分は今までさんざん周囲から出自が卑しいと馬鹿にされてきたけど、織田家の血筋があればそれを言う者はいなくなるだろうと考えていて、市を自分の妻に迎える気満々でした。徳川が救援に来なかったことを茶々は非難し、市が戦とはそのようなたやすいものではないとたしなめても、茶々は家康を恨んでしまいました。やがて秀吉の使いが来て、勝頼は市と三人の姫たちに城を出るよう命じました。しかし市は、自分は後から行くと言って姫たちだけを先に行かせました。市は生き恥をさらす気はなく勝家と共に自害して果てるつもりで、茶々だけが母・市の覚悟を見抜いていました。しばらくしてまた戻ってきた茶々は母に抱きつき、母上の無念は茶々が晴らす、茶々が天下をとると言って、母・市と今生の別れをしました。秀吉のもとには姫たちと文だけが来て、市が城に残ったことを知った秀吉は市を愚かと言いつつも、目にはかすかに涙を浮かべていました。弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)から織田家の血筋のことを言われたとき、秀吉はふと目の前にいる茶々のことに気づき近寄りました。秀吉が茶々に触れたとき、茶々は怖がるどころか微笑んで、自分から秀吉の手を取って秀吉に熱い視線を送り、かと思うとパッと手を離して踵を返して立ち去り、小娘と思っていた茶々に秀吉はほんろうされ狼狽していました。そして北ノ庄城が落城して勝家と市が自害したことを知った家康は、市を救ってやれなかった悔しさと共に、秀吉は自分が倒すと決意しました。
August 9, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)が堺から脱出して領地の三河に戻るまで、まさに生きるか死ぬかの行軍となった、あの伊賀越えでした。家康が百地丹波(嶋田久作さん)を頭領とする伊賀者に捕まって、あわやその首が!というときに、かつて三河を追放され、流れ流れて伊賀に来た本多正信(松山ケンイチさん)が現れました。百地が刀を構えて振り下ろそうとするたびに正信が何か言い出して、百地は正信を一応軍師として迎えているからかそのたびにいちいち正信の話を聞いて、ちょっと考えて、百地の手が止まります。これはもう口が達者な正信が、口先では家康の首を打てと言いながら、でも家康を助けるために絶妙なタイミングで百地の邪魔をしているんですよね。嶋田さんと松山さん、見事な掛け合いでした。でも最後に家康を救ったのは、家康がふだんから服部半蔵(山田孝之さん)率いる服部党の働きを認めて人並に扱ってきた優しさと、家康自身があの土壇場で百地に交渉できるようになった強さでしょうか。伊勢の白子浜に着いたとき、多羅尾光俊(きたろうさん)は実はただのいい人だったなんてオチもありました。でもあの伊賀での窮地のおかげで家康は、半蔵率いる伊賀者と信頼関係がより深くなり、百地率いる伊賀との繋がりが持て、正信が帰参するきっかけが持てました。まさに『塞翁が馬』の展開だったと思います。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)6月2日、堺にいた徳川家康は茶屋四郎次郎から京の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたとの知らせを受けました。光秀は瞬く間に京を制圧して次なる天下人は自分であると自負し、さらに家康の首を持ってきた者には褒美に糸目をつけないと日ノ本中に触れ回っていました。家康は急ぎ領地に戻る決意をし、自分を狙って次々と襲ってくる者たちと戦いながら三河への道を進んでいました。道の途中では徳川家康(松本 潤さん)を慕う民たちの助けもあったものの、その者たちに褒美として金を与えたり、あるいは自分たちを通してもらう代わりに野伏りに金を置いていったりして、家康たちは金も食糧も底をついていました。京にいた服部半蔵と一党は家康の一行に追いつき、家康を守って敵と戦ったり食糧をどこかから確保してきたりなど、家康のために懸命に働いていました。そんな彼らを家康は有難く思い、食糧も同じように分けて大事に扱っていました。小川城(現在の滋賀県甲賀市)の手前で服部半蔵(山田孝之さん)は家康に、この先は道のりが短い伊賀を超えたらどうかと進言しました。伊賀の地は亡き織田信長が制圧のために手荒なことをしていて、信長に与していた自分たち徳川が通るのは危険なのではと酒井忠次(大森南朋さん)や石川数正(松重 豊さん)は案じていました。しかし半蔵は、伊賀は自分たちの親や祖父母の故郷なので安心だろうと考え、この先は別の道を進むことになった忠次と数正から「(殿を守ってこの危機を脱するのは)服部党、一世一代の大仕事と心得よ。」「やり遂げれば末代までの誉れとなろう。」と檄を飛ばされていました。家康は伊賀に行く途中にある近江の小川城を頼ることにし、忠次と数正とは伊勢の白子の浜で落ち合うことを約束して出発しました。小川城の城主の多羅尾光俊(きたろうさん)は家康一行が立ち寄ることを想定していたのか、赤飯その他ごちそうを用意して皆でニギヤカに囃し立て、家康一行が近くに来たことを察すると大声で呼びかけて城に誘っていました。しかし伴与七郎(新田健太さん)もごちそうを見せびらかしながら大っぴらに誘うので、もしやこれは罠ではと疑心暗鬼に。そこで半蔵と大鼠が毒見に出て、その様子を見て大丈夫と判断し、皆も空腹と疲れが限界だったので、家康は城に入る決断をしました。城では多羅尾が次から次へとごちそうを振舞ってくれ、家康たちはようやくひと時の休息を得ることができました。家康がこの先は伊賀を抜けていくと言うと多羅尾は、伊賀は織田を心底憎んでいるし腕利きの軍師を雇って戦に備えているから危険だ、と言いました。半蔵が伊賀者は我が殿に恩があると言うと、多羅尾はそんなものは通用しないと言い、自分たちが守るから信楽から抜けるよう助言しました。しかし家康は多羅尾の言葉を信用することができず、三河に着いてから褒美を出すと約束した置手紙をして、夜明け前に密かに小川城を出ていきました。6月4日、家康一行は伊賀との境にある御斎峠に着き、600を超す砦が建ち並ぶ伊賀の地を見下ろしてここを抜けるのはまさに命がけだと誰もがが感じ、家康も天が生かしてくれるかは自分に徳があるかどうかだと覚悟しました。しかし伊賀者たちは白煙を上げて襲ってきて、半蔵が名乗りをあげても誰も耳を貸さず、家康は逃げようとしましたが捕らえられてしまいました。家康一行は捕らえられ、伊賀の音羽郷の牢に入れられました。伊賀の頭領の百地丹波(嶋田久作さん)は家康の首を明智光秀に持っていくと言い、大鼠(松本まりかさん)が家康は織田に攻められてここから逃げた者を大勢かくまっている(恩がある)、家康は自分たちを人並に扱ってくれていると訴えても百地は耳を貸さず、家康を牢から引きずり出しました。「さぞ、いい銭になるだろう。」と百地が家康の首を打とうと刀を振り上げて構えたとき、半蔵は「やめい!」と叫んで自分が家康だと言い、捕らわれている他の伊賀者たちも次々と自分が家康だと叫びました。この土壇場で自分をかばおうとする皆を見て家康は、自分の首をやるから他の者たちは見逃すよう百地に言いました。百地がそれの返事もせずに再び刀を振り上げたとき、雇われ軍師が現れました。その者はかつて三河にいて追放された本多正信(松山ケンイチさん)で、正信は百地に「やれ!(首を打て)」と言いながら、信長が生きているかもしれないという噂があると言いました。噂が気になった百地は「万一、信長が生きていたらどうなる?」と正信に問うと正信は「そうなると明智はすぐに信長に滅ぼされる。そこに家康の首が届いたら、信長は今度こそ伊賀を滅ぼすだろう。」と言い百地は手を止めました。正信は続けて「逆にここで家康を助ければ、信長はもう伊賀には二度と手出しはしないどころか手厚く守るだろう。」と言いました。百地は家康に信長の死をどう思うか問い、家康は「信長はもう死んでいると思う。が、今ここでわしを逃がして恩を売れ、それがお主にとって最も利となる。」と百地を相手に交渉してみました。百地は家康を賢い物言いと評し、正信が家康に惚れ込んでいて実はこの場で助けたいということも見抜いていて、刀を振り下ろして家康の縄を切ってやりました。「その口車に乗った!お主に賭ける。」そう言って家康たちを解放しました。家康たちはその後も危機はあったものの無事に伊勢の白子の浜にたどり着き、忠次と数正と落ち合うことができました。家康と分かれた忠次と数正は意外にもすんなり進めたとのことで伊賀越えを提案した半蔵はバツが悪そうでした。正信は家康の元に帰参したいとは素直には言わず、自分は三河は追放されたけど殿は今は浜松にいるのだからと、妙な言い回しで帰参の希望を匂わせました。家康もそれに応え、正信に「気が向いたらいつでも浜松に来い。」と言い、そう聞いて正信は家康に一礼して去っていきました。そして家康は半蔵を呼び、「此度この難を乗りきれたのは何より服部党のおかげ。皆に褒美を取らす。」と約束しました。地元の漁師に船を出してもらって伊勢湾を渡り、堺を出立して3日後に家康はなんとか三河に戻ることができました。家康は浜松に戻り、於愛の方や長丸・福松の子たちと、そして留守居をしていた皆とも再会を果たしました。その後で大久保忠世(小手伸也さん)は改まって、家康とは別行動をとった穴山梅雪が討たれた、梅雪は「我こそは徳川家康!」と名乗っていたと報告しました。忠次は梅雪のおかげで我らは助かった(明智を混乱させて時間稼ぎになった)のかもと思い、数正は我らが明智を討たねばならないと家康に進言しました。一方、山陽道では羽柴秀吉の軍勢が大急ぎで京に引き返して移動し、光秀の軍を山崎の戦(現在の京都府乙訓郡)で破っていました。光秀は逃げたものの山城の小栗栖(現在の京都市伏見区)で落ち武者狩に遭って、その首は秀吉に検分されていました。
August 1, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はいよいよ天正10年(1582)の本能寺の変で、徳川家康(松本 潤さん)が想像だにしていなかった形で織田信長(岡田准一さん)と永遠の別れを迎えることとなり、心の中でそれぞれの思いが交錯した回でした。家康が信長を恨んだまま本能寺の変で別れてしまうのかと思ったけど、あまりにも突然の別れと、そして自分が襲われて必死に戦うことによって、信長が自分に授けてくれたもの(戦う力、生き抜く心構え)を家康がやっと理解できて、信長に感謝の思いが持てました。見ていて正直、ホッとした場面でした。家康の子役・竹千代をやった川口和空くんは収録当時は13歳(中学1年)なので、信長役の岡田准一さんに立ち向かっていく体力はそこそこありましたが、史実的には、家康が織田家の人質だったのは年齢が6~7歳で、その年齢の子が大人の男に立ち向かうのは無理です。でもまあ、それが家康と信長の結びつきを作り、今生の別れの場面で意味のあるものになったのなら、他の作品ではどう思うかはわかりませんが、今作ではそれも悪くないかなと思いました。それにしても、本能寺の変はやはり大きな見せ場ですね。岡田准一さんは織田信長としてこれまで、頂上に立つ者としての恐さ、強さ、決断、隙のなさ、唯一心を許した家康への見せかけじゃない実のある優しさなど、随所で存分に魅せてくれた、実に魅力的な織田信長でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)5月29日、織田信長はわずかな手勢で本能寺に入りました。徳川家康(松本 潤さん)は京で信長を討って自分が天下を取る決意をして、家臣たちも一旦はそれに従ったものの、やはりその先のことを案じていました。6月1日、家康はその先の戦に備えて堺に入り、そこで多くの有力者たちと親交を深めていたら、町中で市(信長の妹;北川景子さん)と出会いました。再会を懐かしみつつ市は家康に、兄を恨んでいるだろう、でも兄は決して貴方には手を出さない、たった一人の友だから、と語りました。さらに市は、兄は孤独で貴方にも恨まれて哀れ、兄の人生で楽しかったのは貴方が人質として織田にいたあの頃だけ、兄は常に周りに誰かいて支えてくれる貴方が羨ましいのだと家康に語り、隣室で控えていた家臣たちも市の話を聞いていました。本能寺に入った織田信長(岡田准一さん)は、ふと父・織田信秀(藤岡弘、さん)がまだ生きていたときのことを思い出していました。幼い頃から織田家の次期当主として父や傅役の平手政秀に厳し過ぎる教育を受け、我慢の限界を超えて初めて反抗したあの日は父にはまだかなわなくて、それから城を飛び出して父をしのぐ力をつけて戻ってきたあの日。自分の死期を悟っていた信秀は信長に家督を継げと、そして孤独が耐え難ければ心を許す者を一人だけ持てと信長に心構えを授けていました。明けて6月2日未明、眠っていた信長は鎧武者が近づく気配で目が覚め、襲撃を受けて応戦しましたが、背中から刺されて深手を負いました。しかしその後も信長は敵襲に気がついた家臣たちと共に、獅子奮迅の戦いをして多勢を相手に応戦を続けました。(槍で3人を一度に串刺し!)「上様をお守りしろー!」ーー寝込みを襲われた織田家の家臣たちは防具を付ける暇もなく敵に立ち向かい、信長を守るために必死に戦いました。そしてただ一人、家康になら討たれてもいいと思っていた信長は、深手を負って朦朧とする意識の中で、このどこかに家康がいないかと探し、庭から建物の中に入っていきました。一方、堺にいる家康は、あれほど信康を討つと決めてここまで来たのに、市から言われたことや亡き妻・瀬名のことが頭をよぎり、迷いが生じていました。そして今の自分には到底成し遂げられない、無謀なことで家臣の皆を危険にさらすわけにはいかないと結論が出て計画を取りやめ、自分の未熟さを皆に詫びました。そんな家康を石川数正(松重 豊さん)は「今はまだその時ではないということ。」と言い、他の者たちも口々に「いずれ必ず!」と言葉を続けました。「いずれ必ず、天下を取りましょうぞ!」ーー本多忠勝(山田裕貴さん)は力強く言い、家康も皆も次節の到来を待とうと決意を新たにしました。家康は京を通って浜松に帰ることにし、その道中で穴山梅雪(田辺誠一さん)と会い別れの挨拶をかわしていました。するとそこへ茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)が火急の知らせだと、息を切らして駆け込んできました。茶屋の報告によると、本能寺に明智光秀の軍勢が押し入り信長は討ち死に、光秀は家康の首を取るよう号令を出しているから名を上げたい兵や浪人や褒美目当ての民百姓たちが家康を狙っている、早く逃げるように!とのことでした。前々からいつか家康を亡き者にと考えていた明智光秀(酒向 芳さん)だったけど、鯉の刺身の件では(家康の別の意図でたまたま)家康に万座の中で大恥をかかされたので、恨み骨髄になってます。(その仕返しで、こんなことが思いつくとは・・)そのころ備中にいた羽柴秀吉は、弟の秀長から信長が光秀に討たれたとの報を受け、突然逝った信長を嘆き悲しんだ後、自分が仇を討つと決め、急ぎ毛利と講和を結ぶよう、秀長に命じました。(何かとストレスのたまる上司だったけど、百姓だった自分をここまで引き立ててくれた人だし、信長の才に秀吉自身も男惚れしていたと思います。)そして明智の包囲網をかいくぐって堺から領国の三河を目指していた家康でしたが、途中で何度も野武士や農民たちに襲われて命からがら逃げていました。燃え盛る本能寺の中を、信長はすでに戦う力もなく意識朦朧としながら家康を求めて姿を探していました。そして庭に面した障子を開けたときに目の前に現れたのは、最期に一目でも会いたかった家康ではなくて明智光秀。信長は心底がっかりしました。光秀は「貴公は乱世を鎮めるまでのお方。平穏なる世では無用の長物!そろそろお役御免で。」と自分の正統性を口上で述べました。それを聞いて頭にきた信長は再び力をこめて「お前に俺の代わりがやれるのか!」と言い返しました。(信長、今生の最期の悪口で光秀に置き土産です。)光秀がいよいよ全軍に信長の首を取るよう命じたので、明智軍が一斉に信長に襲い掛かってきました。主君・信長の首を敵に取られないよう、信長が自害できる時間を作るために、信長の家臣たちも最後の力を振り絞って明智勢をくい止めていました。小姓の森 乱(大西利空さん)は自分の槍を信長に渡し、槍を受け取った信長は自分と運命を共にする家臣たちの戦う姿を見渡して、炎に包まれた建物の中に入っていきました。そして家康は自分に襲い掛かってくる敵と必死に戦いながら、心の中では幾度も信長の名を呼び、信長との日々を思い返していました。今まで心を許すことなんて到底できなくて常に警戒して、一時は殺すことまで考えた信長だったけど、家康は「あなたがいたから。あなたに地獄を見せられ、あなたに食らいつき、あなたを乗り越えねばと・・。弱く臆病なわしがここまで生きてこられたのは、あなたがいたからじゃ。」と気持ちが変わっていました。『弱ければ死ぬだけじゃ。地獄を生き抜け。』ーー信長の教えを胸に、家康は皆に「皆の者、誰も死ぬな。生き延びるぞ!」と命じました。家康は今一度、信長がいた本能寺のほうを向き、心の中で「さらば・・、狼。」と、そして「ありがとう。」と礼を述べ、再び三河への道を急ぎました。
July 26, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、歴史が大きく動いた天正10年(1582)の本能寺に向けて、徳川家康(松本 潤さん)や織田信長(岡田准一さん)が動いた回でした。家康が信長を討つ決意をした動機については、私には私怨に思えて無理があるのでスルーします。ただ家康が心の内を隠して面従腹背してきたつもりでいても信長には見破られていて、信長に核心の部分を突かれたときに感情が爆発し、信長を「お主」と呼んで互いに心の内をぶつけ合いました。その信長自身も、父・織田信秀(藤岡弘、さん)から「身内も家臣も誰も信じるな。信じられるのは己一人。」と言い聞かされ、それは織田家の当主となるための父の愛だったのだろうけど、心を捨ててしまうほど、厳しく育てられてきました。そんな信長が、幼い家康が人質として自分の手元に来たときに、家康の中に心を許せる何かを感じたのでしょうか。信長は自分がされてきたように、一方的でかなり乱暴なやり方だったけど、家康を可愛がり守ってきました。桶狭間の戦い以降に再会しても、なんだかんだと家康を外から守ってきました。親と子。育てた者と育てられた者。育てた者の根底に筋の通った愛があれば、育てられた者は何かで反発しても、心の底ではその愛を受け取っていて、切羽詰まったときの生きる力になるかもしれませんね。そして、その信長の家康への思いを、家康の面従腹背の態度で見誤ったのが明智光秀(酒向 芳さん)でした。家康を軽く見たために万座の中で家康を下げる失言をし、その前では家康を亡き者にと信長に密かに相談をして、家康が可愛い信長には許せないことばかりでした。信長・光秀・家康の感情と行動がどう絡み合うのか。来週の展開が楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)3月、織田・徳川の連合軍は武田を滅ぼし、その戦勝祝いで徳川家康は織田信長を富士の遊覧で厚くもてなしました。信長はその返礼にと5月に家康を安土に招くのですが、信長に臣従しているかのように見えた家康は心の中では信長を激しく憎んでいて、安土に行った折に京で信長を討つ決心をしていて、その準備も進めていました。家康の家臣たちの中では榊原康政(杉野遥亮さん)のように、信長が討たれたら世は乱世に逆戻りすると家康の考えを危惧する者と、主君・家康の考えに従ってただついていこうと考える者に分かれました。石川数正(松重 豊さん)がやはり家康を止めなければと動こうとすると酒井忠次(大森南朋さん)が立ちはだかり、殿(家康)は心が壊れた、信長を討つと決めてなんとか心を保ってきた、殿に委ねようと言い、数正を止めました。安土に向かう前に徳川家康(松本 潤さん)は側室の於愛の方(広瀬アリスさん)と二人の子たち(長丸と福松)の顔を見ていきました。家康が兎と狼について問うと於愛は「狼が強いに決まっている。でも狼は数が少なくて兎はたくさんいる。ならば勝ち残っているのは兎。案外、兎のほうが逞しいのかもしれない。」と屈託のない笑顔で答えました。(信長への復讐心で煮詰まって思考が固まっていた家康だったけど、このときの於愛の言葉が心の底に残っていて、小さな灯になっていたと想像しました。)家康の一行がまもなく安土に到着という頃、明智光秀は密かに主君・織田信長(岡田准一さん)にもてなしの料理に薬を入れようかと相談していました。そして家康一行は安土城に入り、信長が誇るあまりにも荘厳華麗な城を間近で目にして、誰もが言葉を失って見入っていました。宴が始まり、信長は小姓たちに幸若舞をさせ、豪華な馳走を次々と出して家康たちをもてなしました。(信長の小姓たちは有能ぞろいで、若くても武芸に秀でて戦闘能力が高かっただけでなく、学問もできて舞などの文化的教養も高かったでしょうね。)信長は家康の家臣たちにも「遠慮なく食されよ。作法など気にするな。」と優しい言葉をかけてくれますが、家臣たちは主君・家康の心の内のことや、もしかしてこの料理はと考えると箸が進みませんでした。ただ一人、家康小姓の井伊直政(板垣李光人さん)だけは出される料理を美味しそうにバクバクと頂いていましたが。(この食べるそぶりが可愛いし、若いながら大物ぶりを感じさせます。ネタバレですがこの18年後の関ケ原の戦いでは、直政は戦場で娘婿殿に手柄を取らせるために𠮟咤激励して・・・)膳が進んで次に鯉の刺身が出たときに、家康は魚の臭いが気になってしまい、鯉には手をつけずに箸を置き、家康の家臣たちもそれにならいました。それを見た明智光秀(酒向 芳さん)は上物の鯉だからと勧めましたが、家康は「贅沢なものは食べ慣れていない」と言って食べませんでした。(事前に信長が光秀から怪しげな相談を受けていたからか?)無理に食べなくてもよいと信長が家康に言い家康が箸を置くと、光秀はつい「徳川殿は高貴な料理に馴染みがない。」と失言してしまいました。その発言に怒った信長は膳をひっくり返して・・光秀のほうに近寄っていき「申し開きはあるか。」と問い、光秀が自分は万全の支度をしたと答えると、怒りの収まらない信長はもてなしの万座の中で光秀を何度も打擲(ちょうちゃく:打ちたたくこと。なぐること。)しました。しかしさらに光秀が「私は何の細工も。上様のお申しつけどおり、何も。」と家康たちから妙な疑いをもたれかねない言葉を続けたので、信長は全ての膳を下げさせ、光秀には退室を命じました。光秀は家康の前に行って睨みつけ、「三河のくそ田舎者が!」と吐き捨てて退室していきました。しかしこの料理の件は、実は光秀を信長から遠ざける家康の芝居でした。家康は一旦、安土山麓の徳川邸に戻りましたが再度、二人だけで話がしたいと信長から呼び出されました。家康が光秀の処分を寛大にと願い出ると信長は家康の考えの甘さを指摘、でも家康は、自分は一人では何もできない、周りの助けがあったからこれまで生き延びられたと言い、話を変えて退室しようとしました。すると信長が「京で俺を討つつもりか。」と言い、家康は本心を表に出さないようにしていたけど信長はちゃんと見抜いていました。そして信長が瀬名と信康のことに触れて笑い「くだらん。」と言うと、家康はついに抑えていた感情が爆発しました。家康は信長を以前のように「お主」と呼び、ずっとこらえていたものを信長にぶつけ、信長もそれに応えて「感情を捨てきれない、やられた相手の痛みを受け止める覚悟のないお前に、俺の代わりは無理なんだ!」と返しました。「大変なのはこれから。戦無き世の政は乱世を鎮めるよりはるかに困難だろう。やらねばならぬことが多すぎる。俺を恨んでも憎んでもいいから、傍にいて俺を支えろ。」ーー信長の孤独と怖れと覚悟と、そして自分への思いの激白を聞いた家康の頬に一筋の涙がこぼれました。家康は「たしかにわしは弱いが、弱ければこそできることがあると信じる。」と言い、信長の言葉を受け入れませんでした。信長が家康に「京に入るときはわずかな手勢だ。その後のことの全ての覚悟があるなら俺を討て。」と言うと、家康は去っていきました。家康が自分のことを何でもできる人だと言ったことで、信長はふと織田家の後継者として学問や武術に励んでいた幼い日々のことを思い出しました。傅役だった平手政秀(マキノノゾミさん)は幼い信長(三浦綺羅くん)にも容赦のない指導をし、父・織田信秀(藤岡弘、さん)から「誰よりも、強く賢くなれ。周りは全て敵ぞ。身内も家臣も誰も信じるな。信じられるのは己一人。」と言いきかされていた、あの日々のことを。京に移動した家康は、信長が宿所とする本能寺の近くにある茶屋四郎次郎邸に立ち寄り、信長を討つための首尾を確認していました。茶屋邸には武具が揃い、信長に深い恨みをもつ伊賀者をてなずけて配下にした服部半蔵(山田孝之さん)からは、本能寺の周辺には500の伊賀者を潜ませていることを確認、そして本能寺の見取り図も用意されてました。そして信長は家康に言ったとおり、100ほどの少ない手勢で京に向けて安土を出立していました。さて、そのころ羽柴秀吉(ムロツヨシさん)はどうしていたかと言うと、備中高松城を水攻めにして、長期戦のつもりで備中に布陣していました。酒を呑んで皆が寝静まったころ秀吉は、そろそろ(上様に)いなくなってほしいと、弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)にだけは本音を漏らしていました。でも秀吉は「やった奴がバカを見る。自分はやらない。」と言い、秀長には撤退の準備だけはしておくように命じていました。
July 18, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は織田・徳川連合軍が甲州征伐(1581)を終えて武田を滅ぼした後で、徳川家康(松本 潤さん)が安土に帰る前の織田信長(岡田准一さん)を手厚くもてなした『富士遊覧』がメインの回でした。そしてこの回から、松潤@家康が月代になりました。個人的には、松潤は総髪のままでいいじゃないかな~と思っていたのですが、月代もイケますね。顔の土台が良いとどんなスタイルになってもほとんどが似合う、そんな印象でした。さすがは松潤ですね。その松潤、この回では歌と踊りも披露しました。彼は日本舞踊もやっているそうですが、「海老すくい」を舞ったときの身体の向きやブレのないターンなど舞全体の美しさ、そして目線の決め方。“嵐”の20年でステージで鍛えたものが自然と身についていて、それを存分に魅せてくれたと思っています。(もっとも嵐ファンの中には、潤殿の歌とダンスがやっと見られたと思ったら「海老すくい」か・・。という嘆きも聞かれましたが。)本職といえば、茶屋四郎次郎を演じる中村勘九郎さんも、歌舞伎の口上のようなセリフや動作が、さすがですね。2018年の『西郷どん』で、長州力さんが「禁門の変」の戦闘シーンでラリアットを入れたりして、ときどき本職の持ち味が出てくるのって、けっこう好きです。その茶屋とか、服部半蔵(山田孝之さん)率いる伊賀衆とか、この後に起こる大事件のときに活躍するであろう人々がチラチラ出てきました。どのような形で登場するのか、楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正9年(1581)春、天正元年以来ずっと武田方に奪われたままだった高天神城を徳川家康(松本 潤さん)はようやく取り返すところまできました。武田方の大将・岡部元信からは開城と自分の首と引き換えに城兵の助命を求めてきて、徳川の家臣たちは家康がそうするものだと思っていました。しかし家康は、降伏は受け入れない、上様(織田信長)から言われている、高天神の城兵たちが無残に死ねば武田勝頼の信用がなくなり武田は崩れる、と考えていました。本多忠勝(山田裕貴さん)は、それは侍の道にもとる!と家康に強く進言しましたが、家康は無表情で「上様の命じゃ。」と決定を変えることはありませんでした。そして高天神城は落城、徳川の家臣たちは家康の変貌ぶりにただ驚くばかりでした。信長の命ずるままに動くだけの家康を家臣たちは歯がゆく感じて苛立っていましたが、大久保忠世(小手伸也さん)は信長に服従しない伊賀者が根絶やしにされかけていることをあげ、今は信長に従うしかないと皆に説いていました。天正10年(1582)2月、武田勝頼を滅ぼすために織田軍は信長の長男の信忠を大将として信濃から、徳川軍は駿河からそれぞれ甲斐に向かいました。そして浜松城では、酒井忠次(大森南朋さん)と大久保忠世と井伊直政(板垣李光人さん)が留守居を命じられ、家康の側室・於愛の方(広瀬アリスさん)も含め失敗の許されない格別な密命を家康から受けていました。3月、織田・徳川の大軍の前にはなすすべもなく武田の兵たちは次々と戦線を離脱し、武田勝頼はわずかに残った兵とともに甲斐の天目山麓まで落ち延びていました。勝頼は兵たち逃げよと言い、ここまで自分について来てくれたことに礼を言い頭を下げましたが、兵たちは勝頼と最期を共にすると決めていてついていきました。一方、家康は徳川方に付いた穴山梅雪(田辺誠一さん)の案内で甲斐の躑躅ヶ崎館に入っていて、そこで勝頼が信忠に討たれたとの報を受けました。勝頼の加護を諏訪大社に願った思いもむなしくかつての主の訃報に触れた梅雪はただ涙し、家康は不動明王像にそっと手を合わせて冥福を祈りました。しかし家康がどこまでも織田に気を遣うことに、家臣たちは強く腹立っていました。家康は諏訪法華寺に本陣を構える織田信長(岡田准一さん)に戦勝祝いを述べに行き、そこで勝頼の首級と対面しました。「死ねば皆、仏。勝頼を恨んではいない。」と言う家康に信長が「では誰を恨んでいるのか」と水を向けましたが、家康は何のことかわからないと答えました。場の流れを変えるように石川数正(松重 豊さん)が信長に今後の予定を訊ね、武田亡き今は織田の天下で対抗する者はいない、慌てて帰ることはないから徳川が用意している戦勝祝いのもてなしを受けて欲しいと願い出ました。信長から「やぶさかではない」と返事をもらい、ならば我らはすぐに支度にかかると言って家康たちは本陣を後にしていきました。家康が富士の浅間神社の様子を見に行くと、御座所では家康から密命を受けた酒井忠次らが突貫工事で作業を進めていました。時間や人手だけでなく金も足りないので忠次は、元は三河武士で今は京で商いをしている茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)に金策の助けを求めました。手伝えと言われても事情を全く聞かされていない鳥居元忠(音尾琢真さん)と本多忠勝と榊原康政(杉野遥亮さん)に、家康は「富士をしかと見たことがない上様を街道の要所要所でおもてなしをする。」と説明しました。信長のご機嫌とりをまだやるのかと忠勝は腹立ちを露わにして家康と対立したので、とっさに於愛は自分が作った手引書を家康に見せて場を収めました。なぜここまで信長をもてなさなければいけないのか納得がいかない康政や忠勝らに、忠次は「このお役目を甘く見るな。これは戦事より難しいぞ。」と注意しました。家康は街道を広げて徹底して整備し、お休み所を各地に設け、信長を連日連夜、酒と肴でもてなして極上の旅を提供しました。湖に「逆さ富士」が映る富士見の名所に来たときは、信長だけでなく同行している明智光秀(酒向 芳さん)もその美しさに思わず感嘆の声をあげて喜びました。そのころ次の予定地の「信玄の隠し湯」では、鳥居元忠と平岩親吉が急ぎの準備に大わらわしていましたが、信長の気が進まず取りやめとなり、逆に急に信長が来ることになった浅間神社ではさらに慌ただしい準備となりました。信長にこびへつらうかのような主君・家康の態度に忠勝は我慢がならず作業場から出ていってしまい、康政もそうしようと帰ろうとしたら忠世に引き止められました。康政が「お二人(瀬名と信康)のことを思うと・・」と言うと、家康を間近で見ている於愛から「殿がどんな気持ちで上様をもてなしているのか、わかるのか。」と言われ、さらに年長の忠次からも「殿には深い考えがあるのだと信じている。」と言われ、康政は思い直して忠勝を呼びに行きました。ところがその信長は徳川家の旗印の「厭離穢土 欣求浄土」を小馬鹿にして笑い、徳川家を「田舎くさい」と評し、家康が「駿河を(徳川家の客将の)今川氏真に任せたい」と許可を求めると氏真は無能だと認めず、徳川家と家康をどこまでも見下したような態度で、徳川の家臣たちは己を抑えるのに精一杯でした。そして信長の言葉に続いて光秀が家康に、世を乱す伊賀者を必ず根絶やしにするよう念を押し、家康もそれを了承しました。場の空気が重たくなったのを察した於愛が笛を吹き始め、忠世が忠次に十八番の「海老すくい」の披露を勧めると、家康が自分が出ると忠次を止めました。そして信長に三河のめでたき舞を披露すると言って舞台に出ていきました。固唾をのんで見守る徳川家臣たちをよそに家康は舞い始め、それに合わせて笛や鼓の拍子が入り、さらに家康は途中で歌詞を信長を称賛する言葉に変えました。家康の「海老すくい」で信長は愉快そうに上機嫌に笑い、織田家の家臣たちも一緒になって笑いました。その光景は徳川の家臣にとっては笑えないものでしたが、一緒に場を盛り上げようと於愛と茶屋が舞台に上がり、忠次と数正の呼びかけで徳川の家臣たちも舞台に上がって信長を称える家康の舞を盛り上げていきました。富士遊覧の最終日、信長はしばしの間は家康と二人の時間を過ごしたかったのか、人払いをして家康と二人で富士の裾野の遠駆けを楽しみました。そして茶席に戻り、信長は富士を眺めながら家康がたてたお茶を飲んで「良い時を過ごした。」と家康に礼を言いました。そして返礼で、今度は自分がもてなすから安土に来るよう、家康に言いました。その饗応役をやると光秀が挨拶し、信長は「またすぐに会おうぞ。」と家康に約束して、安土に帰っていきました。しかし信長は家康の、自分に対して妙に従順で明るいけれど感情を押し殺したような態度や表情がずっと気になっていました。信長が帰った後で、家康は服部半蔵(山田孝之さん)から(信長が根絶やしを命じていた)伊賀国から逃れてきた伊賀者を100名ほどかくまっている、皆信長を深く恨んでいる、いつでも動けるよう彼らを手なずけておく、といった報告を密かに受けました。そのころ羽柴秀吉は毛利攻めのために備中(現在の岡山県)にいましたが、弟の羽柴秀長から武田が滅亡したことや、家康が信長をもてなしたことなどの情報がすでに入っていました。ある晩、家康が一人でいると重臣たちが皆で部屋に入ってきました。殿が信長の機嫌を取り続ける今の状態が続くなら自分たちはもうついていけない、本心を聞かせてほしいと訴えると、家康自身もそう思っていたと。そして茶を一口飲んだ家康の口から出た言葉は「信長を殺す。」でした。思いもよらぬ家康の言葉に皆が言葉を失っていると、家康は「わしは、天下を取る。」と静かに語りました。
July 11, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康の生涯の中でも最大の悲劇となった、1579年の「築山殿・信康事件」でした。いろいろな説があるこの事件で、ドラマではこれまでにない解釈がされました。ただ私としては、本当の瀬名(有村架純さん)は悪女ではなかったまではOKだったのですが、瀬名が素晴らしい女性であったという部分に重きを置きすぎて、その分、徳川家康(松本 潤さん)が身贔屓でいい加減で頼りない大将になってしまった感じを受けました。ドラマ終盤で瀬名との別れとなるシーン。瀬名が大事なのはいいけど、「国なんぞどうでもいい!知ったことか!」と家康が言ったのは嫌でしたね。1560年の桶狭間の戦いの後、今川から離れるとき、駿府に残る家康(当時は元康)の家臣の妻子たちが、家康の離反の見せしめに処刑されてます。家康の妻子は無事に人質交換が成立し、そこは回想シーンでも出てきて感動的に描かれたけど、それはあの者たちの犠牲があってこそのことだと思います。家康はそういったことを忘れて、家臣たちの痛みに思いが至らない大将なのか?とも思える描写でした。そして徳川信康(細田佳央太さん)の方は、このドラマでは戦場に出てはじめのうちは気分が高揚していたけど、あるときからトラウマなのか戦が恐くなってしまいました。今までに伝え聞く信康は、武勇の誉れが高いだけでなく、家康の側室・お万の産んだ男子を家康は周囲をはばかって遠ざけていたのですが、信康が「我が弟と呼びたい」と父・家康に認知させた優しさも持っています。だから岡崎衆は信康を慕っていて、ドラマでも信康が岡崎を出るシーンでは別れがつらい家臣たちが涙していました。二俣城での最期も、感動的ないいシーンでした。他には、例えば山岡荘八の『徳川家康』では、信康が自刃した後に、後追いで信康の小姓が切腹したともありました。今回のドラマ終盤では、瀬名と家康のシーンが回想も含めてかなり長く続いたので、それよりも「信康を慕って小姓が後追い切腹」なんてシーンを、小姓役をジャニーズの若手がやってくれてたらなあ、とか思ってしまいました。早いもので、ドラマが始まってもう半年が過ぎたのですね。あと半年、どんな展開になるか楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正7年(1579)、正妻の瀬名が構想した経済で東国を治める案に乗り、武田とは互いに戦を避けてきた徳川家康(松本 潤さん)でしたが、それはやがて織田信長(岡田准一さん)に徳川は武田と内通していると伝わり、家康は鷹狩りと称して出てきた信長に詫びを入れ、その後の指示を仰ぎました。織田の重臣の佐久間信盛(立川談春さん)は、内通の噂は虚説であろうと家康をかばってくれましたが家康は何も弁明できず、そして信長は「徳川の家中のことだから自分で決めろ」と言って去っていきました。その帰り道に家康は瀬名のいる築山に立ち寄りました。瀬名はこの騒動の元である自分と信康が責めを負う覚悟をし、五徳には実家の父・信長に自分たちの悪行を書いた書状を送るよう命じました。そして家康は「瀬名と信康は責めを負って自害したことにして二人を逃がす」と決め、側近たちとともにその手配に動きました。五徳の書状を持って信長のいる安土城に赴いた酒井忠次(大森南朋さん)は、書状の内容のまま瀬名と信康の悪行の数々を信長の前で読み上げ、瀬名と信康は自害と主君・家康は決定を下したと信長に伝えました。一方、家康の命を受けて瀬名と信康を逃がすよう動いていた服部半蔵は、二人の身代わりとなる者を見つけた、二人が岡崎を出た後にその者たちとすり替えて逃がす、しばらくは名を変えて別人として密かに生きて、世が変わればまた元のように、と計画を家康に報告していました。8月に入り、信康が岡崎を出ていくとき、城主だった信康を慕って仕えていた多くの家臣たちが涙しました。(このときすでに逃げるつもりはなく自害を覚悟していた)信康は別れ際に妻・五徳(久保史緒里さん)に「いつでも織田に戻るがよい。」と言いました。しかし(計画どおりいずれ信康が戻ってくると信じていたのか)五徳は「自分はこの先も『岡崎殿』と呼ばれたい。」と言って笑顔で夫・信康を見送りました。ただ山田八蔵(米本学仁さん)はじめほとんどの家臣たちは、武家の世の習いで主君・信康は二度と帰ってこないだろうと考え、辛い別れとなりました。(ここで一つ疑問が。そもそも信康がこうなったのは五徳の書状が原因だと考え、五徳を恨む家臣もいたと思うのだけど、そういう描写は無し。山岡荘八の『徳川家康』では、五徳の愚痴手紙はかなり前のことで一時の感情で書いてしまった、五徳が家臣団の前で信康の助命を家康に直訴して家臣団が五徳を見直したとあり、このほうが流れが自然に思えました。)家康は信康が半蔵たちの計画どおりに動いて、堀江城に入る前に逃げたと思っていましたが、信康は堀江城に入ってしまいました。家康は苛立って半蔵を叱りましたが、半蔵は信康自身にその気がなかったと。そこで家康はもう一度、大久保忠世のいる二俣城に移すと決め、今度こそ信康を必ず逃がすよう半蔵に命じました。しかしそれでも信康は二俣城に入ってしまいました。そして8月末、瀬名(有村架純さん)は築山を出立し、三河領を出た後は小舟で佐鳴湖を渡って冨塚に着きました。大鼠(松本まりかさん)は瀬名に、藪の中にいる瀬名の身代わりの女と早く入れ替わるよう促しましたが、瀬名はその女を逃がしました。瀬名の覚悟を悟った大鼠が瀬名の介錯の態勢をとると鳥居元忠(音尾琢真さん)がそれを阻止、そうこうしていると霧の中から小舟で家康たちがこちらに向かってくるのが見えました。9月15日、二俣城で謹慎を続ける徳川信康(細田佳央太さん)に、守役の平岩親吉(岡部 大さん)は早く逃げるよう再度促し、大久保忠世(小手伸也さん)は力ずくでも逃がすよう殿(家康)から命を受けていると説得しました。母・瀬名が無事に逃げた後にと考える信康は半蔵に訊ね、半蔵の返事からそれが嘘だと感じた信康は、皆の言うことを聞くフリをしました。そして隙をついて親吉の刀を奪い、その勢いのまま刀を自分の腹へ。あれだけ存命を願った若殿・信康の突然の自刃に親吉と忠世は激しく狼狽、でもこの傷ではもう助からないとわかると、守役として岡崎で信康に愛情を注いできた親吉は信康の体を抱きかかえてただ泣き叫ぶばかりでした。絶え絶えの息で信康は親吉に「我が首を、しかと信長に届けよ。」と命じました。そして「信康は見事、務めを果たしたと父上に・・。」と最期の力を振り絞って言伝を続けるけど、もう楽にしてやりたいと考えた服部半蔵(山田孝之さん)は信康の介錯をするから離れるよう親吉に言いました。信康が可愛くて信康から離れない親吉を忠世が力ずくで引き離し、信康が半蔵に視線を送って介錯を頼むと、半蔵は「御免!」と刀を振り下ろしました。(切腹してからの信康は、痛くて苦しいけど言伝を皆に伝えたい思いと、苦しいけど自分を愛してくれた親吉が自分を離さないのをどこか嬉しく思う気持ちと、でも苦しいから早く介錯をと望む気もちがあったのかなと想像しました。)浜松に戻っていた家康は、このふた月ほどの間のことで憔悴しきっていて、於愛の方(広瀬アリスさん)が家康に寄り添っていました。しかし小姓の井伊万千代(板垣李光人さん)から信康が自害したとの報を受けると、家康の疲労は限界を超えて倒れてしまいました。床に伏しても眠れない中で家康の脳裏に幾度も浮かぶのは、佐鳴湖を渡って瀬名を富塚まで迎えにいったあの時のことでした。自害を決意した瀬名を、家康は生きるよう必死で説得していました。しかし瀬名は、こうなったからには信康は生きていまい、だから自分も共にと。「(この騒動の)全てを背負わせてくださいませ。」ーー瀬名の言葉に家康は、「世の者どもはそなたを悪辣な妻と語り継ぐぞ。」と悲しさや悔しさが交錯した思いで涙ながらに伝えましたが瀬名は「平気です」と。そして家康の胸に自分の手をあて、「本当の私は、あなたの心におります。」と言った時、家康はこの世から永遠に去ろうとする瀬名を抱き寄せました。でも瀬名は「ここにいてはいけない」と家康に早く城に戻るよう促し、家康の供をしてきた本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)に家康を連れて行くように命じました。死出の旅立ちを決めた瀬名に悲しみの涙が止まらない家康でした。瀬名はそんな家康に「ずっと、ずっと見守っております。」と言葉と共に最期の微笑みを送り、家康もなんとか少し笑ってそれに応え、自ら小舟に行きました。家康を乗せた小舟が岸を離れ、家康がもう一度岸辺の瀬名を見たとき、やっぱり瀬名を死なせたくない家康は舟を戻せと命じました。暴れる家康を「ご覚悟を!」と必死で抑える忠勝と康政と、そして自分のためにここまでしてくれた家康を見て、もう思い残すことはないと瀬名は微笑み、首に懐剣を当ててひと思いに引きました。大鼠が瀬名の介錯をし、大鼠は瀬名の亡骸に土下座して別れを告げました。
July 4, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。今回は次回の「築山殿事件」の原因となる流れを描いたようでしたが、私の正直な感想では、瀬名(有村架純さん)を悪者にしないために、加えて瀬名を素晴らしい考えを持った女性とするために、かなり無理やりな感じがありました。それは同時に、徳川家康(松本 潤さん)を、瀬名には弱い、なんとも頼りない武将にしてしまった感じです。(家康は亀姫や信康から“情”で訴えられると、結局は子たちの言うことを聞いてしまう場面もこれまでにありましたが。)家康が戦国乱世の中で家臣たちと共に戦いを続けているのは、民を守り国を豊かにするために「まず自分たちが強くなって、戦乱の世を終わらせる」という考えがあったと思うのですが、家康はそれを忘れて瀬名の夢が素晴らしく思え(正直、甘い)考えに流されてしまいました。瀬名のプランがうまくいくと思い込んでいれば家康は考えが甘いし、瀬名のプランがリスク大だと分かっていて決行したなら家臣や領民を守る気はあるのかと思えます。家康さん、どういうつもりだったのでしょうか。築山に来た者は瀬名の考えに誰もかれもが感心し賛同・協力するというシーンを見ていると、この方々はモノの価値とか人と人の利害関係とか欲とか、何も考えていないのかとさえ思うような感じでした。どうしても瀬名と武田を結び付けるなら、例えば「信康の病を治す薬が欲しくて武田と~」とかにしておけば、無理のない展開だったのかなとも。他にもイロイロあり、今回の感想は私が知る当時の歴史的な背景も考えた、疑問だらけになってしまいました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 徳川家康(松本 潤さん)の嫡男で岡崎城主である信康が、近頃は母・瀬名のいる築山に入り浸っている、その築山には正妻の五徳も守役の平岩親吉も入れなくて中の様子がわからない、さらには築山からあちこちに密書が飛んでいて連日身元のわからない者たちが築山に来ている、といった報告を浜松にいる家康は受けました。石川数正(松重 豊さん)ら重臣たちは岡崎の離反とその先にある身内同士の戦を案じ、鷹狩りと称して岡崎のことを家康に忠告しに来た織田信長の様子から、酒井忠次(大森南朋さん)はすぐにも手を打つべきと家康に進言しました。さて、武田の館に忍んで瀕死の重傷を負った大鼠(松本まりかさん)でしたが、その後なんとか生き延びたようでした。療養を続ける大鼠は様子を見に来た服部半蔵(山田孝之さん)にそろそろ仕事をくれと頼みましたが、半蔵は忍び働きはもうやめて誰ぞの嫁になれと意見しました。でも「おめぇをもらってくれる男はいないし、自分の命じた仕事で怪我して・・」と口下手な半蔵なりに大鼠に求愛をしていたようですが、大鼠の返事は・・・(笑)信康の他、築山に誰かが来るときは、必ず人払いがありました。半蔵は忍びの者を庭師として築山に送り込み、大鼠もひと月ほど床下に潜んで中の様子をずっと探っていました。半蔵が大鼠から受けた報告は「築山には減敬と名乗る武田の重臣、於大(家康の母)とその夫・久松、今川氏真とその妻・糸らが来ている。今朝も茶や菓子が運びこまれているから明日にでもまた誰かが。」と。家康は3人に兵を集めるよう命じ、瀬名と信康に知られぬよう築山に乗り込むことを決め、大樹寺に移動しました。築山に減敬らしき者が入ったと報を受けた家康は、石川数正と酒井忠次を伴って築山に乗り込みました。すると瀬名(有村架純さん)と徳川信康(細田佳央太さん)は家康を待っていたと言い、武田の重臣・穴山信君と面識がある数正と忠次はすぐに減敬は穴山だと気がつきました。穴山は丸腰でここにいると言い、瀬名は自分の話を聞いて欲しいと強く言うので、家康は話を聞くことにしました。瀬名は、この戦乱の世を「奪い合うから与え合うにしたい」と言います。一緒に話を聞いている忠次は「仰せになることはわかるけどそれは理屈、実際はうまくいかない。」と、そして数正も「少なくとも徳川と武田がそのように結ぶことはない。」と瀬名に進言しました。瀬名は自分の理想を実現するために、氏真と久松から誓書を取ってある、どちらも自分の考えに賛同で協力を約束している、東国をまとめ上げ、共通の銭を使って一つの経済圏ができれば、それは織田に対抗する大きな力となる、と信康と共に瀬名は目を輝かせて語りました。そして瀬名は自分と同じ夢を見てくれと、家康たちに懇願しました。(要するに、戦をせずに交易で互いの利を得て共存していこうということだと思いますが、それは以前から行商の者たちが個々でやっているし、双方の持っているモノの価値の差が大きいと、国同士という大きな単位での物々交換はそれを生産する者には不満となり、分配でも簡単にはいかないでしょう。民たちが戦のときに苦しくても高い年貢や労働力を出すのは、我らがお殿様が勝てば後が安定するからであり、瀬名は働いてやっと得たものを持っていかれる苦しさがわからないから、簡単に夢を描くのだと思います。誰もが瀬名の考えを讃え、賛同してしまう中で、数正と忠次がマトモでよかったと思いました。)家臣たちは家康が決めたことに従うのみ、と決めていました。そして家康は瀬名の考えを受け入れてしまい、同時に武田の重臣の穴山は「戦い続ければ先に力尽きるのは武田。我らが生き残るためにも!」と主君・勝頼を必死に説得し、勝頼もそれに乗ることにしました。浜松城では忠次と数正が重臣たちを集め、徳川と武田の密約が成立した、今後は戦をするフリを続ける旨を伝えました。忠次は、織田に知られないよう、そして瀬名の目指す東国の夢を必ず成し遂げると強く皆に伝えました。(とはいえ、忠次と数正は万一のときは、家康や瀬名の代わりに自分たち二人が責任を取る覚悟だったと想像しています。)徳川と武田は、戦場で相対しても空砲を撃ち合うなどして、しばらくの間は互いに戦のフリを続けました。(戦のフリというのは『真田丸』でも1回出てきました。しかしずっとこれが続けられるとういのはやはり無理に思えます。時間がたてば商人たちが、徳川も武田も鉄砲の火薬を買ってくれないとか、遺体がないから地元の農民たちが甲冑や武器をもらっていけないとか、何か変だとそれぞれが感じるでしょう。そして村人の世間話から行商人に伝わり、すぐに信長に伝わっていくと思います。信長が楽市楽座をさせたのも、行商人や忍びを使って諸国の情報を集めたり、逆に都合のいい噂を広めさせるためだったのですから。)天正7年(1579)、安土城に移っていた織田信長(岡田准一さん)は徳川が未だ高天神城を落とせぬことに苛立っていました。信長は徳川の目付の佐久間信盛(立川談春さん)を叱りつけ、そして「家康に何かあれば責めを負うのはお前だぞ。」と佐久間に忠告していました。(やっぱり家康が可愛い信長がいると、どこか安心してしまいます。)武田勝頼(眞栄田郷敦さん)は穴山信君(田辺誠一さん)と千代(古川琴音さん)を呼び、徳川との戦の状況を聞きました。戦のフリでうまく信長の目をくらませていると聞いた勝頼は、逆に全てを明るみに出す良い頃合いと考え、二人に「徳川は織田を騙し、武田と裏で結んでいると噂をふりまけ。信長の耳に入れてやれ。信長と家康の仲を壊せ。あの二人に戦をさせ、わしは織田・徳川もろとも滅ぼす!築山の謀略、世にぶちまけよ!」と命じました。その噂はたちどころに広まり信長の耳に、そして信長が知ったことが岡崎の瀬名と信康に、浜松の家康たちにも伝わりました。
June 27, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は歴史の教科書にも載る 1575年の長篠の戦いの後、織田信長の命で(あってもなくても)武田に奪われた領地奪還のために徳川家康(松本 潤さん)は戦続きの状態にあり、そこから2つの展開がありました。1つは、心身共に疲れ果てていた家康の心に、出来が良いどころかどこか抜けてるけど、勘違いの偶然から始まって飛び込んできたお愛(広瀬アリスさん)。心が疲れているときに、インパクトのある出会いがあって、何かをやらせてみたら失敗だらけで、でもたまたま相性が良かったのかそれが意表を突いて心に残る結果となった、そんな感じに思えました。お愛の方は徳川2代将軍・秀忠の生母です。もしかしたらそのうち出てくる秀忠は、母譲りのおおらかでどこか抜けてる、そんなキャラクターなのでしょうか。そしてもう1つは、家康の正室・瀬名(有村架純さん)がいよいよ動き出してしまったことです。ただこれ、タイトルでは「瀬名、覚醒」とあるけど、嫡男の徳川信康(細田佳央太さん)を伴って、どうして武田と通じようと考えたのか、私にはよくわからないのですよね。自分が家康の知らないところで勝手なことをすれば、仮に織田信長に知られることがなかったとしても、後で家康を混乱させて迷惑をかけることは必至です。晩年の家康が「自分が側室に命じて」対外交渉をさせたのは納得だけど、徳川が盤石じゃない今、瀬名はどうしてこんなことをしてしまったのか。そして同時に家康は、瀬名の身辺の変化を聞いても、特に疑うそぶりは見せませんでした。家康は瀬名を、疑いたくなかった、都合の悪い部分を見たくなかった、受け入れたくなかった、そんな弱さだったのか。あるいは言葉では否定しても何かを薄々感づいていたのか。今後の展開を待つことにします。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正3年(1575)5月、長篠の戦いで武田勝頼が率いる武田軍に壊滅的な被害を与えて撤退させた織田・徳川連合軍でしたが、その後も徳川家康(松本 潤さん)は武田に奪われた三河・遠江の領地の奪還のために休む暇なく戦が続いていました。戦場に出ると気分が高揚するようになった嫡男・徳川信康(細田佳央太さん)は時々、このあたりで撤退すると考える父・家康と意見が対立するようになりました。大久保忠世(小手伸也さん)に諫められても勝手に戦場に出てしまい、石川数正も「血気盛んなのは悪くないが近頃は気が荒ぶるのを抑えられないようだ。」と若殿・信康のことを案じていました。岡崎城では家臣たちが信康の武勇を称賛していましたが、母・瀬名は総大将の父・家康に従わない信康をやはり案じていました。戦続きで疲れが取れない家康は、ふと甘いものが欲しくなって厨房に行きました。干したイチジクを美味しそうにつまんでいたら、いきなり背後から使用人のお愛(広瀬アリスさん)に尻を思いっきり叩かれました。そのうえ「どうせまた若い女子をかどわかしに来たんじゃろ。この女たらし。」とまでお愛に言われ、家康がわけがわからずにいるとお葉(北 香那さん)が急ぎお愛に(こちらは)殿だと説明し、お愛はやっと理解しました。土下座して無礼を詫び、家康の小姓の万千代(井伊虎松)と間違えたと釈明するお愛を家康は咎めることなく、万千代を叱らねばと言って退室していきました。そのころ岡崎の築山では家康の正室の瀬名(有村架純さん)が武田の間者でもある歩き巫女の千代(古川琴音さん)を密かに招いていました。長篠の戦いで武田が多くの家臣を失ったことを理由に和議を提案する瀬名に対し、千代は「大敗はしたけど武田はびくともしない、むしろ戦続きで困っているのは徳川では。」と反論しました。さらに千代は「いつまで織田の手先となっているのか。岡崎と信康を救えるのは貴女だけ。」と瀬名を煽り、武田への内通をさりげなく誘っていました。しかしそういった話を聞いていた門番の男は、実は信康の正室で織田信長の娘の五徳につながっていて、男は密かに五徳に報告していました。父・信長より徳川を見張るよう命じられている五徳はなぜか涙ながらに筆をとり、このことを文にしたためて岐阜にいる父・信長に報告しました。五徳からの文を見た織田信長(岡田准一さん)は「裏で武田とこそこそやっているやつを見逃すわけにはいかん。」と言いつつ文は燃やし、佐久間信盛(立川談春さん)に命じて水野信元(寺島 進さん)を呼び出しました。信元には岩村城の武田勢にこっそりと兵糧を送っている嫌疑がかけられていて、もちろん信元はそれを否定しましたが、信長は信元に領地の刈谷ではなく岡崎で沙汰を待つよう命じました。佐久間から信元を成敗せよという信長の命を伝えられた家康が急ぎ岡崎城に入って、伯父・信元の様子を聞くと、勝手に大樹寺に移ったとのことでした。信長の命に従って信元の成敗に動く家康を信康は「父上は信長の言いなり。情けない。臆病で卑怯。」と激しく非難しました。家臣や領民を守るために耐えて信長に従っている自分の苦労も考えずに言いたい放題の信康に怒りが爆発した家康は、信康につかみかかるところでした。しかしやることがある家康は信元のいる大樹寺へ行き信元と庭で対面しました。信元はなぜ自分だけがこんな目にと考えたとき、これは信長から家康への警告だと気づき、身に覚えが全くない家康に「ならばお前の身内の誰かだ。信長は全てお見通しだ、気を付けろよ。」と忠告しました。信元は妹・於大の夫の久松長家(リリー・フランキーさん)を人質にとって抵抗しましたが、平岩親吉(岡部 大さん)によってその場で討たれました。武田との戦続きに加えて信康との対立に伯父の粛清。浜松に戻っても疲れが取れない様子の家康を見て、お葉は家康の癒しになればと笛が得意というお愛を連れてきました。しかしそのお愛、途中から音が外れるようになり、吹いたのは久しぶりだからと笑ってごまかして退室しようとしました。でも家康は、どこかちょっと抜けたようなそんなお愛がなぜか憎めなくて、傍に来て笛を続けるよう命じました。やっぱり音を外す愛だけど、家康はどこか愛に安らぎを感じて笑いました。そんな二人を見て、お葉はそっと座を外していきました。天正4年(1576)春、家康と瀬名の間に生まれた亀姫は、長篠城主の奥平信昌の元に嫁ぐ支度を整えていました。またその頃、鳥居元忠(音尾琢真さん)に連れられてお葉とお愛が築山の瀬名の元に挨拶に来ました。正室の瀬名の前でひたすら恐縮するお愛でしたが、嘘のつけない正直者のお愛の人柄を瀬名は気に入り、お愛に自分の好みを問いました。お愛はこれまた正直に食べることと寝ることが好きと言い、あと「源氏物語」を読むのが好きだと答えました。すると瀬名は自分も「源氏物語」が好きだと言い、気が合った瀬名につい気が緩んだお愛は前のめりになって夢中で話しだしました。明るくおおらかなこのお愛なら夫・家康を任せてもよいと感じた瀬名は、お愛を側室として認め、「これで安心じゃ。」と何かを考える表情で言いました。夫・家康のことはこれで心配ないとホッとしたのも束の間、瀬名の元に山田八蔵(米本学仁さん)が一大事だと駆け込んできました。何事かと言うと、愛息の信康が鷹狩りに出て罪のない僧侶を殺めてしまったと。僧侶が自分に呪いをかけたから成敗したとまるで罪の意識のない信康に、傅役の平岩親吉が「かような狼藉は城主としての信頼を失う。」と心からの思いで諫めましたが信康はそれも気に入らず、親吉に刃を向けました。自分に逆らう者は斬る!と興奮が収まらない信康は妻の五徳でも抑えることができず、母の瀬名が信康の前に進み出てようやく信康の怒りが収まりました。(親への礼節が絶対のこの時代、さすがに母には刃を向けませんでした)自分の在り方に悩む信康に瀬名は「誰にも知られてはならぬ、畏れ多い謀を、もしそなたがやると言うなら、母は全てをかけてそれを成す覚悟ができている。」と謎めいた事を告げました。それからすぐに瀬名は、築山の門番や侍女たちを全て入れ替え、甲斐の歩き巫女の千代を呼んで、大事な話ができる上の者をこの築山に呼んでくるよう言いました。瀬名の身辺の変化を石川数正(松重 豊さん)はさりげなく家康に伝えました。しかし家康はたいしたことではないと考え(あるいは何かを感づいていたかもしれないけど)数正の言葉を遮りました。後日、築山の瀬名の元に千代が減敬と名乗る唐の国の医師を連れてきました。減敬は実は武田勝頼の重臣の穴山信君(田辺誠一さん)で、瀬名は恐れ多いとまで思う自分の謀に賛同させたのか、息子で岡崎城主の信康を伴っていました。
June 20, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は小学校の歴史の教科書にも出てくる1575年の「長篠の戦い」の回でした。最近の研究では、長篠の戦いで従来言われてきたことが少しずつ変わってきています。先月の半ばですが、NHK総合で毎週水曜の午後10時から放送される『歴史探偵』という番組で、この長篠の戦いの新しい解釈の話をやっていました。明日6月14日(水)午後4時15分より、NHK総合の名古屋放送局の予定になりますが、この『長篠の戦い』の再放送があります。 ⇒ こちら とても参考になる番組ですので、見逃した方は是非♪さてドラマに戻って、ふと思いました。徳川家康(松本 潤さん)はこの設楽原の戦で織田信長(岡田准一さん)の新しい戦法にただ驚くばかりだったのですが、長篠に出陣する前に岡崎城での軍議で信長が「これより我が策を示す」と言っていたのに、柵や鉄砲といった具体的なことは家康に言わなかったのかと。大量の鉄砲による対武田の戦術のことをふつうに家康に伝えていれば、柵で陣を製作中とか雨の中だから出撃を控えているとか、家康も余計な苛立ちはなかったのかと。まあ信長が家康に衝撃的なものを見せつけて、その後で自分の臣下にさせるためだったと言えばそうかもですが。ただこの回の中で、酒井忠次(大森南朋さん)による鳶ヶ巣山砦の攻撃が描かれて興味深いものでした。砦を攻撃するシーンそのものは無くても、出撃前の家臣団の思いや、砦を落とした後の長篠城の救援など、今まで見たことがなかったシーンが面白かったです。まさかあそこで「海老すくい」が出てくるとは。でもあれで忠次の士気が一気に上がって、私としては大好きなシーンでした。(*^o^*)こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正3年(1575)5月、武田領との境に近い奥三河の長篠城は武田軍に包囲され、長篠城を救うために徳川家康(松本 潤さん)は織田信長に援軍を要請したものの織田軍はなかなか到着せず、城は落城寸前の状態にありました。ようやく織田軍が岡崎に到着し、織田・徳川の両軍3万で出陣して長篠の設楽原に布陣、しかしそれでも信長はすぐには出撃せず、武田の騎馬隊に備える馬防策を延々と作らせているだけでした。信長の考えがわからなくてしびれを切らした徳川信康(細田佳央太さん)は信長に進言することを父・家康に提案、家康と信康に酒井忠次(大森南朋さん)が同行して信長の本陣に向かいました。陣では織田信長(岡田准一さん)は急ぐ様子もなく羽柴秀吉(ムロツヨシさん)と囲碁を打っていました。その姿に苛立った家康は信長に直ちに討って出るよう強く言いましたが、信長はこちらからは攻撃しないと言い、さらに秀吉が「向こうから攻めたててこさせる手立てがあれば」と主・信長の言葉を補いました。その時、酒井忠次が長篠城の背後にあって今は武田が押さえている鳶ヶ巣山砦を落とせば、武田勝頼の本隊が攻撃に動き出すのでは、と提案しました。しかし夜道を遠回りして密かに進軍するのはかなり危険な役割でした。信長は「そんなことを俺の大事な家臣にはさせられぬ」と言い、案を言い出した徳川方がこれをやることになりました。信長の姑息さに怒る家康を石川数正(松重 豊さん)が「その役目は我らがやる他はない。」となだめました。そうなると互いを思い合う徳川家臣団は、本多忠勝(山田裕貴さん)、榊原康政(杉野遥亮さん)、大久保忠世(小手伸也さん)と次々に自分がやると名乗りをあげましたが、「夜の行軍はこの土地をよく知っている者でなければできない。これは(吉田城城主で三河東部を統制する)自分の役目。」と言って酒井忠次が引き受けました。ただ家康の今川人質時代から一致団結して家康と岡崎を守ってきた皆は、忠次のことが心配でならず、家康をはじめ皆が死なないで欲しいと「死」を連呼するので、だんだん忠次も重苦しい気分に。そのとき数正が暗い声だけど忠次の十八番の「海老すくい」を唄いだし、皆も「それがあったか!」と合わせて唄い、忠次も扇子を広げて気分が乗ってきて、皆で踊って忠次は士気を上げて、大雨の中を出陣していきました。忠次の別働隊が鳶ヶ巣山に向かっていることは、武田軍も把握していました。武田勝頼は鳶ヶ巣山砦が落ちれば自分たちは3万の織田・徳川軍が千挺の鉄砲を構えて待つ設楽原に出るしかないと分かっていましたが、撤退はしませんでした。一方、織田・徳川の大軍は確認したもののその後もなかなか救援が来ず、食糧も底をついて戦う体力すらなくしていた長篠城の兵たちでしたが、味方が鳶ヶ巣山砦を攻撃しているのを見て、希望がわいてきました。鳶ヶ巣山砦が落ちたことを知った穴山信君は、主・武田勝頼(眞栄田郷敦さん)にすぐに引き上げの下知をするよう進言しました。山県昌景も父上の信玄公なら十分な勝ち目のない戦はしないと勝頼に進言したのですが、勝頼は「だから父は天下をとれなかった」と戦うことを決意しました。兵たちの前に進み出た勝頼は、敵は3万の大軍で千挺を超える鉄砲が待ち構えると伝え、逃げたい者は戦場から離脱してもよいとまで言いました。しかし「目の前に信長と家康がいるこのような舞台は二度とない。戦場に死して名を残したい者には今日よりふさわしい日はない!我が最強の兵どもよ!信長と家康の首を取ってみせよ!」と兵たちを鼓舞しました。勝頼の言葉で兵たちが一気に戦う気になってしまったのを見た山県昌景は自ら先陣を名乗り出て、そして勝頼は「御旗 楯無 ご照覧あれ」と叫んで出陣を命じ、武田軍は一斉に設楽原に飛び出していきました。織田・徳川の陣地を目指して突撃してくる武田軍を見て、家康と信康が驚きを隠せずにいたとき、信長が家康の陣地にやってきました。家康は「見ものが始まる」という秀吉の言葉がわからないままでした。一方、鳶ヶ巣山砦を落とした酒井忠次の別動隊はそのまま長篠城に入り、城主・奥平信昌(白洲 迅さん)をはじめ城兵の皆の苦労をねぎらいました。「もう安心じゃぞ!」ーー鳥居強右衛門が自らの命を犠牲にして城兵に与えてくれた気力も尽きかけていたけど、忠次の言葉に城兵は心から安堵しました。勝頼に鼓舞され戦場に散る覚悟をもった武田軍が、騎馬隊・槍隊他総がかりで織田・徳川の陣地に全力で突進してきました。織田信長は娘婿の信康に「よう見ておれ。これからの戦を。」と言い、信長が合図をするとほら貝が響き、織田の鉄砲隊が構えの姿勢をとりました。そして先頭を駆ける騎馬隊が十分に柵に近づいた時に鉄砲が一斉に火を噴き、その後も間断なく続く鉄砲射撃に武田軍の兵たちは次々と倒れていきました。なんとか柵までたどり着いた兵がいても、すぐに槍や鉄砲の的となり、武田の兵は馬防柵を超えることができませんでした。家康は驚愕しつつ「一体、何挺の鉄砲を。」と問うと秀吉が「3000。もはや戦に強いだけでは勝てない。銭持っている者が勝つ。」と得意げに答えました。銃弾の雨の前に次々と倒れていく武田の兵たちを見て、秀吉は愉快と嘲笑うので、信長は「最強のつわものたちの最期を慎んで見届けよ。」とたしなめました。そして撤退せずに戦に挑んできた武田勝頼を「見事なり。」と称賛しました。山県昌景(橋本さとしさん)は自らも銃弾を浴びながらも、兵たちを鼓舞して指揮していましたが、ついに力尽きて戦場に散りました。信長が見せた新しい戦法に家康は言葉もでず、ただ戦場を見ていました。秀吉は信長と共に徳川の陣を去る際に、家康に「本当に(信長の)臣下とならなくてよいのか。」と念を押していきました。設楽原に散った無数の兵たちの亡骸を見届け、勝頼は撤退していきました。そして家康はこの戦で自分と信長との力量の差を見せつけられました。今までは徳川と織田は親類で対等であり、徳川は織田の臣下ではない、と常々自分に言い聞かせてきましたが、これだけの差がある今はもう信長には逆らえず臣下となるしかありませんでした。徳川家臣団の皆も同じ思いで、信長は自分たちよりはるか先を行っているのを認めざるを得ない、今は信長にひれ伏す他はないという考えでした。それでも自分たちはこれまで通り殿(家康)に仕えるのみで、自分たちは何も変わらない、自分たちの殿は殿だけ、という思いは皆同じでした。家康と信康は信長に臣下の礼をとり、信長もそれを認めました。「武田勝頼を決して侮るな。あるいは信玄を超える器量ぞ。息の音を止めろ。」ーー信長の考えの元、家康と信康はまずは武田に奪われた領地の奪還に励み、二俣城を攻略していました。信康は自分が先陣を切って敵を蹴散らして手柄を立てていったことを誇らしげに家族に語り、父・家康も信康を褒めていました。瀬名(有村架純さん)は戦働きをする息子・信康の成長を嬉しく思いつつも、人が変わってしまったようになった信康を案じていました。そして信康自身も、戦場では勇猛に戦いつつも長篠の戦で武田の兵たちが無残にやられていった光景が頭から離れず、夜中に悪夢で目が覚めることもありました。ある夜、夜中に目が覚めて眠れなくなった信康は岡崎城を抜け出して母・瀬名がいる築山を訪れてしまいました。寝ずの番をする侍女に起こされた瀬名は信康の元へ。しかし一方で信長は、信康に嫁がせた娘の五徳に「今後、我らにとって最も恐るべき相手は徳川。この家の連中をよく見張れ。決して見逃すな。」と命じていて、夜中に夫・信康が起きてどこかに行ったことも気がついていました。
June 13, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、いつも一方的な織田信長(岡田准一さん)のやり方にキレた徳川家康(松本 潤さん)が後先を考えずに言い過ぎてしまい、心底怒った信長を相手に引くに引けない窮地に立たされていました。後先を考えずと言えば嫡男・徳川信康(細田佳央太さん)も同じで、政略結婚の意味も考えずに亀姫(當真あみさん)の婚儀に口を挟んで事を悪化させました。しかし、いよいよこれで徳川は織田と決裂かとなったとき、帰ろうとする信長を亀姫が引き止めて自分の幼さを詫び、怒りを静めてくれるよう懇願し、瀬名(有村架純さん)が信長と夫・家康の両者をうまく取り持ちました。信長は勇気と知恵のある女たちの顔を立てたのでしょうか。機嫌を直して亀姫を安心させ、長篠城の救援を約束しました。この一件がある前と後で亀姫の表情がまるで違ってますね。嫁ぐのを嫌がった幼い顔から、この婚儀に意味があることを知って覚悟を決めた大人の顔へ。いろいろな役者さんたちの表情の変化も興味深いものです。そして長篠城といえば、鳥居強右衛門(岡崎体育さん)。今風に言えば、戦国版「走れメロス」とか、バイク無しの戦国版トライアスロンとか言われてますが、まさにそう。このドラマの設定は、強右衛門を人から悪口を言われるダメ人間からスタートさせて、彼自身も自分がダメ人間とわかってて、でも最後は自分を信じてくれた殿と亀姫と、悪口を言いながらも自分に一縷の望みを託してくれた城の皆のために、命を懸けて散りました。今までのドラマにはないストーリーで感動でした。その「長篠ーー岡崎ルート」を地図のゼンリンさんが紹介してくださってます。 ⇒ ⇒ こちら 当時は山の中を抜けて少し違うかもしれないけど、位置はこのようになってます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正3年(1575)5月、武田領との境にあり徳川方の奥平信昌(白洲 迅さん)が守る長篠城(現在の愛知県新城市)は武田勝頼が率いる大軍に包囲され、籠城して徳川家康の援軍を待ちながら必死に守ってはいるものの食糧も尽きてしまい、城はもはや落城寸前の状態でした。信昌の家臣・鳥居強右衛門(岡崎体育さん)は「逃げてばかりのろくでなし」と皆からそしりを受けるような男でしたが、そんな強右衛門が「自分が岡崎に行って、食糧がない、早く救援を!と訴えてくる。」と城主・信昌に志願しました。落城寸前で精神的に追い詰められている他の家臣たちは、強右衛門に非難の言葉をあびせるだけでしたが、信昌は強右衛門を信じて送り出すことにしました。急ぎ岡崎城に入った徳川家康(松本 潤さん)はどうやって長篠を救援すべきか重臣たちと軍議をした結果、やはり徳川の軍勢だけでは武田の大軍には太刀打ちできないから、織田の援軍を待つしかないとなりました。翌日、織田信長の使者として水野信元(寺島 進さん)と佐久間信盛(立川談春さん)が岡崎に来ましたが、二人からは援軍がいつ、どのぐらい来るのか明確な返事は聞けず、家康は苛立っていました。家康は怒りの勢いで「今すぐ援軍に来なければ織田と手を切る。武田と組んで信長を攻める。そう伝えよ!」と使者に強く言いきってしまいました。その後すぐに織田信長(岡田准一さん)が大軍を率いて岡崎にやってきました。自分の強気の発言が効いたと喜んだ家康でしたが、対面した信長がいきなり膝をついて援軍が遅れたことを詫び、家康も慌てて膝をついて信長に対しましたが、今までとあまりに違う信長の振る舞いに家康は戸惑っていました。それから信長は出迎えの場にいる家康の家族に順に声をかけ、亀姫には「長篠が落城せずに持ちこたえているのは姫のおかげ。戦が終ればすぐに輿入れを。」と亀姫自身が知らない縁談のことを話しました。それから軍議が始まったのですが、信長は総大将の座には家康を座らせ、家康が困惑するほど信長は下手に出るばかりでした。信長は膳も断るつもりでしたが、家康が女どもの顔を立ててやってほしいと頼み、信長は仕方なくそれに応じました。食事の後、家康の嫡男・徳川信康(細田佳央太さん)が妹・亀姫と奥平家との婚儀を無しにしてほしいと信長に直訴し、家康もそれを補うことを言いました。すると信長は、ならばこれを機に清須以来の織田・徳川の盟約を無しにしよう、この天下のもの全て、徳川も織田信長の臣下になる、臣下にならなければ敵となる、という旨のことを羽柴秀吉(ムロツヨシさん)に話させました。信長の一方的な考えに家康は怒り、今まで織田が徳川に何をしてくれたのか、自分は桶狭間以来、多くの犠牲を払ってこの手で我が国を守ってきた、今さらお前(信長)の家臣にはならん!と強気で言い返しました。家康の意思を確認した信長が信康に嫁がせた娘の五徳を連れて尾張に帰ろうとしたとき、庭にいた鳥居強右衛門が信長の前に進み出てきました。強右衛門は信長に、どうか帰らずに長篠を救って欲しいと必死に訴えました。信長が強右衛門に、徳川が長篠を見捨てたと主に伝えよと言って去ろうとしたとき、亀姫が信長の前に飛び出してきました。亀姫は「お怒りをお静めくださいませ!亀のせいでこのようなことになり申し訳ございませぬ!」と信長に懇願した後、父・家康と信長の両者を見ながら、「もう我儘を申しませぬゆえ、どうか仲直りしてください!亀は奥平殿の元へ喜んで参ります!」と必死に訴えました。父・家康と信長の対立を見て徳川家の先を案じた亀姫(當真あみさん)が必死に訴える姿を見て、今度は瀬名(有村架純さん)が信長の前に進み出てきました。瀬名は信長に、我が夫(家康)は織田家の臣下になることを拒んではいない、ただ家臣一同に関わることゆえ話し合う猶予が欲しい、今は長篠を救うことを先にしてはどうかと柔らかく進言しました。自分の前に進み出てきた女たちの勇気と知恵に感服したのか、信長は亀姫に「怒っていない、ほんの余興だ。」と言い、「むろん長篠は助ける。」と明言して去っていきました。強右衛門は去っていく信長に、泣きながら幾度も礼を言いました。亀姫はそんな強右衛門の手を取り、「奥平殿にお伝えを。どうか持ちこたえるよう、そして嫁ぐのを楽しみにしていると。」と言いました。強右衛門は嬉しくてむせび泣きしながらも、救援を一刻も早く皆に伝えたいと亀姫に言って、岡崎城を飛び出していきました。皆が待つ長篠への夜道を、強右衛門はひた走りして、武田の見張りを突破して、川にもぐって泳いで、ひたすら進んでいきました。しかし城まであと少しという所で強右衛門は武田軍に捕まってしまいました。自分の前に引き出された強右衛門を勝頼は忠義者と褒め、そして強右衛門に「助けは来ぬ。徳川は長篠を見捨てた。城を武田に明け渡せと皆に伝えよ。その後は武田で召し抱える。」と言いました。長篠城を目の前にした川向うの武田の陣地に立たされた強右衛門は、勝頼から言われた通り援軍は来ぬと叫びました。援軍を今か今かと待っていた城内の皆は絶望に泣き崩れました。務めを果たした強右衛門が武田方に一緒に来るよう促されたとき、強右衛門は受け取った金子を落として地面にばら撒いてしまいました。武田の者から「ろくでなし。あさましい。」と蔑まれて金子を拾う強右衛門の脳裏に、別れ際に自分を信じて送ってくれた亀姫の笑顔が浮かびました。何のために岡崎まで走ったのか、このままではいけないと思い直した強右衛門は武田の兵たちの隙をついて先ほどの崖の上まで駆け出しました。そして城の皆に向かって「嘘じゃあ~!徳川様はすぐに参る!織田様の大軍勢と一緒じゃ!もう少しの辛抱じゃ!持ちこたえろ~!」と叫びました。希望が持てた城内は喜びの大歓声にわきました。しかしそれは強右衛門の死を意味することであり、強右衛門は城の皆から見える場所に磔にされました。処刑される寸前、強右衛門は殿・奥平信昌に亀姫の素晴らしさを叫びました。そして勝頼の命が下り、槍が強右衛門の体を貫いてその生涯を閉じました。皆からろくでなしと呼ばれていた強右衛門が命をかけて大きな手柄を立てた頃、岡崎城では以前のように信長を総大将とした軍議が開かれていました。絵図面と陣地の碁石を無用とばかりに払いのけた信長には、家康たちには思いもよらぬような秘策があるようでした。
June 6, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。今回は主役の徳川家康(松本 潤さん)は重病ということで出番は少しでしたが、家康の正妻の瀬名(有村架純さん)が大きな存在感を見せました。ただドラマの中で、この時代の価値観はどうだったのだろうと思う箇所はありました。序盤で岡崎を守る徳川信康(細田佳央太さん)は、いよいよ武田が攻めてくるとなってナーバスになってて、そこに正妻で織田信長の娘である五徳(久保史緒里さん)から嫌味を言われ、面白くなくて互いに言い合いとなった場面。家臣たちのいる前で、互いに政治的な意味合いを持つ発言をする夫婦喧嘩はしてもよかったのか。あるいは足助城での戦から戻ってきた負傷兵を、城主・信康の母である瀬名は率先してやってたけど、五徳は何も手伝わないどころか兵を汚いとまで言い、それを瀬名が皆の前で五徳を叱りつけた場面。命を懸けて戦う兵たちのためにも五徳をびしっと叱ってやる瀬名が正しかったのか、あるいは五徳を奥に入れて家臣たちにはわからないように叱ってやるべきだったのか。どちらが好ましいかを考えるまでもなく、双方が思うままに言動をしてしまったので、これらが後々に与えるであろう影響が気になるところです。ただ面白いと思ったのがネットでの反応です。私は五徳の言動を、年齢がたとえ今でいう高校1年ぐらいであったとしても、城主の妻となったからには家臣を傷つけるような言動はどうか、と考えました。しかしネットでは「五徳ちゃん」でトレンド入りするほど、多方面の意見が寄せられていました。そういう考えもあるのかと思いました。 ⇒ ⇒ こちら それにしても、主役の家康を演じる松本 潤さんをはじめ徳川家臣団の皆さま、回を重ねるごとに殺陣がだんだんと様になってきているように感じました。前回の松本さんの素振りのシーンもカッコ良く決まっていましたが、今週の室内での殺陣でも、本多忠勝役の山田裕貴さんや榊原康政役の杉野遥亮さん、そして井伊虎松の板垣李光人さんが魅せ場を作ってくれました。若い役者の皆さまも時代劇にふさわしいように、見えない所で和装での所作や剣術の稽古に励んでいるのでしょう。こういった部分もこのドラマ楽しみの一つであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正元年(1573)、武田信玄の死を確信した徳川家康(松本 潤さん)は武田に奪われた所領を取り返すために家臣も一丸となって懸命に動き回っていました。しかし信玄亡き後、武田を継いだのは織田信長もその才覚を恐れる武田勝頼で、翌天正2年には家康はさらに武田に領土を奪われ高天神城も落城していました。天正3年(1575)、父・信玄の3回忌を終えた勝頼は、これからは自分の思うようにやると宣言し、家康の所領の岡崎に狙いを定めました。その岡崎では、家康の治世に不満を持つ家臣たちが武田の調略に乗り、家康に反旗を翻そうとしていました。武田勝頼が動き出して足助城とその先の岡崎城に向かっている、との知らせを受けた家康でしたが、重い病にかかり浜松から動けなくなりました。その岡崎の城主は家康の嫡男・徳川信康(細田佳央太さん)で、武田との戦に備えてかなり緊張していました。そんな中で正妻の五徳(久保史緒里さん)から父・家康に対する嫌味を言われ、信康もつい五徳の父・信長を批判、五徳もまた負けじと言い返して家臣たちの前で二人の口論が止まらないので、瀬名(有村架純さん)が二人を諫めました。そして信康は岡崎の留守居を大岡弥四郎に任せ、武田に奪われた足助城を勝頼が入る前に奪い返すために、信康が自ら総大将となって出陣していきました。ところが徳川勢は予想した以上に武田にやられ、多くの兵たちが深手を負って岡崎城に逃げ帰ってきました。城主・信康の母である瀬名は先頭にたって負傷兵の手当に働き、兵たちの血や汗にまみれた体にためらうことなく手で直に薬を塗ってやり、兵たちに労りの言葉をかけていました。でも正妻の五徳はそんな兵たちの有様を離れた場所で見ているだけでした。瀬名は五徳に手当を手伝うよう促しましたが、五徳は拒否とともに「このような汚い男どもに触れることはできない」とまで言いました。五徳の言葉に怒りが湧いた瀬名は思わず「汚いとは何事か!三河のために戦っている者たちぞ!」と皆の前で声を荒げてしまいました。皆の前で叱られた五徳は反省するどころか「私は織田信長の娘じゃ!無礼者!」と姑の瀬名に言い返して奥に入ってしまいました。その後で信康や石川数正らが瀬名のところに来て、こちらの動き武田に読まれているようだから籠城戦にすると瀬名に報告、同行していた大岡弥四郎はこの城なら心配ないと瀬名に伝えていました。その頃、浜松ではまだ家康の病状は回復せずに家老の酒井忠次が家康の代わりを務め、忠次は本多忠勝と榊原康政の手勢と、そして二人に井伊虎松をくっつけて岡崎の応援に送り込んでいました。夜になり、岡崎では昼間瀬名に手当を受けた山田八蔵(米本学仁さん)が庭で作業をしている瀬名を離れてじっと見ていました。瀬名が八蔵に近づき何用かと訊ねても「何も。」と言って笑顔を向けてその場を去っていったのですが、瀬名は八蔵の様子が気になっていました。そして寅の刻になり、勝頼の指示を受けた大岡弥四郎を首謀者とする反乱者の一味は二手に別れ、信康と瀬名の寝所に襲いかかりました。しかし被り物をして寝ていたのは、瀬名及び亀姫と入れ替わっていた榊原康政(杉野遥亮さん)と井伊虎松(板垣李光人さん)でした。反乱者たちを捕らえるために康政たちは大乱闘となり、虎松が危うく内通者でこちらの味方である八蔵までも斬りかけて康政に叱られていましたが、無事に一味を取り押さえました。(杉野さんの殺陣、カッコイイですね~。李光人さんもスピーディーで蹴り技とかキレのある動きで、でも小柄だから杉野さんの後ろでブン回されていたのはたぶん李光人さんだと思います。)一方、信康のほうも実は石川数正(松重 豊さん)と本多忠勝(山田裕貴さん)たちが武装して隠れて待機していて、寝込みを襲撃してきた大岡弥四郎(毎熊克哉さん)とその一味を次々と捕らえていきました。もうこれまでと弥四郎は自害しかけましたが、その刀を忠勝が槍の柄で止めて弥四郎を生け捕りにしました。(山田さんの殺陣は、強い本多忠勝らしい堂々とした動きですね。)実はこの襲撃の前に、八蔵の様子に何かを感じた瀬名が八蔵から計画を聞き取り、皆で襲撃に備えていたのでした。岡崎町奉行として重用していた大岡弥四郎が武田に通じていて、こちら側の内情や計画が武田方に漏れていたことを八蔵からの話で知り、足助城での戦で自分たちの戦略が武田に読まれていたことにも合点がいきました。平岩親吉(岡部 大さん)は先に成敗するためにも一味の名を言うよう八蔵に命じましたが、八蔵にはそれはできませんでした。なので一味に決行をさせ、その現場で取り押さえることにしました。捕らえた大岡弥四郎とその一味の尋問が始まりました。弥四郎は初めは反省の弁を述べていましたが、途中からふてぶてしい態度になり、沈む船に居続けるのは愚かと言って本音を語り出しました。「浜松の殿(家康)の才と武田勝頼の才を比べればおのずと。殿はずっと戦をしておる。織田信長にしっぽを振って我らを戦わせている。」と。しかし弥四郎が「信長に追従する限り、戦いは永遠に終わらん無間地獄じゃ!ならばほんのひと時でも欲にまみれて満足したい。」と言いたい放題になった時、五徳が薙刀の柄で弥四郎の腹を一突きして弥四郎を黙らせました。そして「このことは我が父(信長)に仔細漏れなく伝えます。この者たちをしかと、この上なくむごいやり方で処罰なされ。」と言って去っていきました。家康は病状が回復し、岡崎での出来事とその顛末を忠勝と康政から報告を受けて、そして彼らに同行させた虎松のことを訊ねました。武芸には秀でているようだけど小生意気な虎松なので、二人は返事に窮しました。家康は虎松を呼び、なぜ自分に仕えたいと思ったのかを問いました。虎松は「我が家と郷里を立て直すため。民は殿の話で愉快そうに笑うけど、民を恐れさせる殿よりは、民を笑顔にさせる殿様のほうがずっといい。みんな幸せに違いない。」と瞳を輝かせて家康に言いました。そして「殿にこの国を守っていただきたい。心の底では皆そう願っていると思う。それに武田に行ったら自分は出世できないけど、こっちなら・・。井伊家の自分のように由緒ある家臣がいたほうがいいでしょ?」と思うままに述べました。(そう、この家臣が思うままに主君に話をしてしまう、これが徳川家というか、家康の強みだと思います。)そんな虎松に家康は「これより勝頼を叩きに行く。」と言って刀を与え、自分のそばにつくよう命じました。弥四郎による計画は失敗したものの、岡崎を取るのは急がないとした武田勝頼は、進路を南に向けて酒井忠次(大森南朋さん)が守る吉田城を攻撃していました。吉田城付近での両軍の激しい攻防の後、武田勢は突如引き上げていきました。家康も忠次もそれは撤退ではなく自分たちを誘い出すためのものと考えていて、このまま北上して長篠に向かうと読んでいました。一方、岡崎の瀬名は、何かを決意したように八蔵に使いを頼み、武田の間者で歩き巫女の千代(古川琴音さん)を呼び寄せました。瀬名直々の誘いに応じた千代は築山に現れ、瀬名は千代に「昔、お寺で楽しい踊りを。」と11年前の三河一向一揆のことをほのめかして笑いました。そして此度の弥四郎のことも千代の仕業と考えていると伝え、「家臣に手出しされるくらいなら私がお相手する。二人だけで話をしよう。」と言い、瀬名は千代にお茶を点て始めました。
May 30, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、その生涯の中で多くの側室と子供たちをもった徳川家康(松本 潤さん)が、正室の瀬名(有村架純さん)健在の中で下女のお万(松井玲奈さん)に手を付けて子供までもうけて(後の結城秀康)しまったという回でした。前回とは違って全体的に軽めの話で役者さんたちの演技にけっこう笑えたのですが、領主が側室と子を持つときに正室があらかじめ認めていないと大騒動になりかねない、という歴史の裏話を知ったような回でした。お万が登場して、初めは単に殿の風呂での役割を代ったぐらいだったのが、だんだんしぐさが大胆になってきて、果ては紙人形をわざと忘れて(マーキング)、これはもう「いつか自分が」という機会をうかがっていて、そして家康を陥落させたのがわかる流れでした。ただ終盤でお万が「戦のない世にするために政は女子がやればよい」と言ったセリフには違和感がありました。その時の気分である一面だけを見て「この人がいい!」と思っても、本当に統治する能力と覚悟がある人なら男女問わずいいけど、そうでなければ大勢の人が集まる大きな組織は率いていけないと思っています。現代でもですが、地位や知名度があって本人が少し政治に興味があったりすると、何かと利用されやすいのです。このドラマの中で、もしお万の言葉で瀬名がその気になり、後の事件につながってしまうことがなければいいのですが。晩年の家康は多くの側室を持ち、仕事ができると見込んだ側室には難しい外交も任せていました。でも女性の能力を高く評価し大事にしても、トップとして全体をまとめていたのは家康でしたから。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀3年(1572)12月末に遠江の三方ヶ原の戦で徳川軍を壊滅状態にまでさせた武田信玄(阿部 寛さん)は京を目指して進軍を続け、年が明けた元亀4年(1573)には家康の領地の東三河の野田城(現在の愛知県新城市)まで攻略しました。しかし4月になって進路を急に領地の甲府に向けて撤退を開始し、信玄の動きを家康と織田信長は注視していました。そして4月12日、信州の駒場に入ったところで己の命の終わりを悟った信玄は愛息の武田勝頼(眞栄田郷敦さん)を呼び寄せ、3年は自分の死を秘すことなどを命じ、そして自分の器量をはるかにしのぐと認める勝頼に武田の後を託し、静かに息を引き取りました。信玄は世間には自分は生きていて進軍を続けていると言うように家臣たちに命じていましたが、武田の動きから家康も織田信長(岡田准一さん)も信玄の死は間違いないと考えていました。将軍・足利義昭(古田新太さん)にはこれでもう用はないと考えた信長は、義昭を京から追放することにし、義昭は頼みとした明智光秀(酒向 芳さん)にも見放され、信玄の死から3か月後の7月、義昭は京を追放されました。また出世して木下藤吉郎から名を変えた羽柴秀吉(ムロツヨシさん)は8月の朝倉・浅井との戦いでも力量を発揮し、陥落した小谷城に信長の妹・市とその姫たちを迎えに行ったときには、市に対して強気の態度で出ていました。この頃、徳川家康(松本 潤さん)と家臣団はこの機に乗じて武田に奪われた所領を取り返すために奔走していました。しかし家康はこの武田との戦で、自分は助かったものの命を落とした多くの家臣たちのことが頭から離れず、精神的に参っていました。そんな家康が風呂に入るとき、ある日から風呂場での世話係が下男から急に下女のお万(松井玲奈さん)に代わり、それ以後はずっとお万が来るようになりました。お万は家康に対して心を込めて仕えてくれるのですが、時折り必要以上に接近してくるので、家康もそんな時はお万を下げさせていました。最近は家康が風呂に入るときには必ずお万が世話をするという話は、岡崎城を守る嫡男・徳川信康(細田佳央太さん)とその妻・五徳(久保史緒里さん)の耳にもそれとなく入っていました。信康と五徳は母・瀬名に父・家康のいる浜松に移ってはどうかと進言しました。しかし瀬名は自分がこの岡崎にいては息子夫婦にとって邪魔なのかと考え、五徳に正直に申せと問いかけました。なので五徳も、瀬名が傍にいると信康の甘さが抜けない、自分は信康を父・信長にも劣らぬ強い大将にしたいと、正直な思いを伝えました。そして家康をずっと一人にしておくのはよくない、早く傍に行った方良い、とも瀬名に伝えましたが、瀬名は全く案じていないようでした。日がたつにつれ、浜松では家康の風呂の世話はお万が当たり前のようにするようになり、そしてある日ついに、家康はお万に“陥落”してしまいました。やがてお万の体調に変化が現れ、服部半蔵(山田孝之さん)に命じてお万を医師に診させたところ、やはり家康の子を身ごもっていました。領主・家康の子が増えることはめでたいことながら、これは正妻・瀬名のあずかり知らぬことであり、実は大騒動にもなりかねないことでした。主君・家康の失態に笑いをこらえるのに必死な半蔵に、家康は誰にも言うなと釘を刺しましたが、半蔵は退室したとたん笑いが止まりませんでした。冬が来てお万のおなかが目立ってきた頃、瀬名が浜松に来ると知らせがありました。瀬名が来ると聞いて何か態度がぎこちない主君・家康を見て、老臣の石川数正と酒井忠次(大森南朋さん)は、「言うなら今ですぞ。」「楽になりなされ。」と優しく誘いの言葉を投げかけました。この二人がそう言ってくれるならと、家康は「実は」と二人に打ち明けました。家康の話を聞いて最初は軽く笑っていた二人でしたが・・・石川数正(松重 豊さん)は「何を考えておられるんじゃー!」と烈火のごとく怒り、忠次も「信長が敵を蹴散らしてる時に、殿は風呂で何をしておられたのか!」と主君の情けなさに怒りを隠せませんでした。家康は半蔵には固く口止めしてたけど、二人の口から瀬名には「仔細もれなく」、そして家中の皆にも話があっという間に広まってしまいました。家康は家臣たちから「やっちまったな。」と笑われ、岡崎では信康に呆れられる羽目になりました。浜松に着いた瀬名(有村架純さん)は家康に怒り心頭でした。「殿のお子が増えることは喜ばしいこと。されど自分のあずかり知らぬこととあっては正室としての立場がない。相手構わずお子を作られたらお家はどうなるのか!殿は私と信康と亀をないがしろにした!」と厳しく家康を追及しました。お万と二人で話がしたいと考えた瀬名はお万のところに出向きました。瀬名が来るとわかってお万は仲間にわざと自分を木にしばってもらい、自分を気のすむまで折檻してくれと懇願しました。しかし瀬名はお万のそれを体を張った芝居だと見破り、縄をほどきながらそこまでできるお万を「才ある子じゃ。」と苦笑いしながら感心していました。そして家康から金子をふんだんに取ってその金でこの子を立派に育てよ、社も再建すればよいと助言し、瀬名はお万のやったことを「それも女子の生きる術。嫌いではない。」と許してくれました。そんな瀬名にお万は「殿は戦で心が疲れ切っていた。それをお慰めした。」と思いを伝え、「男は欲しいものを戦って手に入れる。女は人に尽くして癒しと安らぎで手に入れる。」と自分の考えを述べました。そしてお万は、もうここに来ることはないけど、この子は立派に育てると言って瀬名の前から去っていきました。家康は瀬名と和解してひと段落でしたが、忠次と数正から「気を緩めるゆとりなどない。この遠江の民は殿を馬鹿にして楽しんでいる。」と進言されました。実際、民たちは適当に作り話を広めて家康をあざけり笑って喜んでいました。また「信玄が身まかったとはいえ武田の力は強大。徳川はまだ半死半生で武田に奪われた所領を取り返すのも困難だ。」とも進言されました。徳川が必死に立ち直りを図る中、武田勝頼は三河を取ることに狙いを定めました。そのために岡崎の城主・信康とその母・築山殿(瀬名)を篭絡するよう、忍びの千代(古川琴音さん)に命じました。
May 23, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。「真・三方ヶ原合戦」とタイトルにしたこの回は、まさに新しい解釈の三方ヶ原の合戦で、感動の回でした。史実として本多忠真と夏目広次が戦死することは知っていましたが、どのように描かれるのか興味津々でした。まず、本多忠真(波岡一喜さん)。父・忠豊、兄・忠高を戦で亡くした後、まだ乳飲み子だった兄の子・本多忠勝(山田裕貴さん)を引き取って、親代わりとして忠勝を養育してきました。父・忠豊の代から主人を守るために命を賭してきた本多家の生き様を、甥の忠勝が受け継いでいます。こんなとこで忠勝を死なせちゃいかんと、忠勝を去らせて自らは武田軍に立ち向かっていくシーン。ありふれているかもしれないけど、感動でした。そして夏目広次(甲本雅裕さん)。家康が広次の名を何度も間違えていたのは、実は家康の中にすっかり忘れていたけど幼い頃の記憶があって、広次の名に違和感があったというか、受け入れられなかったのですね。いつか家康に恩返しをしたい一念で名を変えて生きてきて、留守居をしていた城から出て、おそらく最初から身代わりになるつもりで戦場に家康を迎えに行ったであろう広次。そしていよいよ自分が死地に向かうときになって、やっと家康が自分のことを気づいてくれて、もう思い残すことなく広次は「徳川家康」を名乗って敵軍に突入していきました。甲本雅裕さん、感動の演技でした。甲本さんは先日行われた「浜松まつり」のパレードに出演していたのですが、もしこの放送の後だったら、観衆からひときわ大きな声援が上がっていたでしょうね。そしてもう一つ、興味深い存在だったのが、死を覚悟した夏目広次と共に武田軍に突入していった二人の家臣たちです。あの時代だからどんな時でも、生死でさえ主人と共にするものだったのかもしれないけど、何の迷いもなく多勢の敵に向かっていった姿が印象的でした。もし彼らがこのドラマで描かれた夏目に傍で仕えていたら、夏目の日頃の優しさを知ってて、主人・夏目が大好きで、一緒に死ぬのもためらいがなかったのかなと。役名がなくてどの俳優さんかはわかりませんが、彼らの演技が印象に残った人は多かったようです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀3年(1572)10月、徳川家康の所領である三河・遠江の侵攻を開始した甲斐の武田信玄は、恐ろしい勢いで家康の領地にある城を次々と落城させていき、12月には家康の居城である浜松城のすぐ近くまで迫ってきました。家康は籠城から野戦に切り替え、久松長家と夏目広次を浜松城の留守居に残して武田軍を追いましたが、武田軍は三方ヶ原で先に布陣して待ち構えていました。家康は鳥居元忠の進言に従い全軍に退却を命じましたが武田軍の攻撃は凄まじく、酒井忠次(大森南朋さん)や石川数正らも戦いながら家来たちに、己の身は己で守りながら城へ引くよう指示していました。そして徳川方の敗走の状況は城で留守居をする久松と夏目にも続々と知らされ、主君・家康の安否も不明だと報告されました。本多勢を率いて出陣した本多忠勝(山田裕貴さん)でしたが、体調の悪い叔父の本多忠真(波岡一喜さん)には城に残って欲しいと頼んでいました。しかし忠勝の幼い頃より親代わりとして育てた忠真は「お前に戦い方を教えたのはこのわしじゃ。」と言って出陣していきました。混沌とする戦場で見失ってしまった主君・家康を探しながら戦っていた忠勝と榊原康政(杉野遥亮さん)は、多くの敵兵に囲まれて危うくなりかけましたが、その忠真の援護によって救われました。一方、徳川の援軍として織田方から3千の兵とともに浜松に来ていた水野信元と佐久間信盛でしたが、あまりに強い武田軍を見て、参戦することなく信長のいる岐阜に戻っていってしまいました。忠真の援護で一時は難を逃れた忠勝と康政でしたが、武田の兵はまたすぐそこに来ていて、家康をはじめ手柄首となる徳川の兵を探していました。若い二人を逃がすために敵兵の前に出る覚悟を決め忠真は「おめえらは行け~!」と命じ、康政は「遠慮なく!」と立ち去っていきました。しかし忠勝は叔父・忠真を一人残していけず前に出て戦おうとしました。そのとき忠真が「お前の死に場所はそこじゃない!お前の夢は主君(=家康)を守って死ぬことじゃろが!」と諭し、それでも戦おうとする忠勝を張り飛ばして「殿を守れ。お前の大好きな殿を。」と優しく笑って忠勝を抱擁しました。いつにない叔父・忠真の態度にその覚悟を悟った忠勝は、泣き叫びながら叔父を振り返ることなくその場を後にしました。そして忠真は最期の酒をあおって、敵兵の中に向かっていきました。武田の兵が執拗に追ってくる中、徳川家康(松本 潤さん)はまだ城に戻れず、鳥居元忠(音尾琢真さん)らと共に逃げ延びていました。そこへ榊原康政と本多忠勝が合流したものの潜んだ場所から動けずにいたら、城から夏目広次(甲本雅裕さん)が駆けつけ、家康を探し出してくれました。広次は家来に周囲を見張るよう命じ、そして家康には具足を脱ぐよう言いました。広次が殿・家康の身代わりになるつもりだと瞬時に理解した康政と忠勝と元忠は家康を押さえつけて具足を脱がし始めました。自分の身代わりになどと家康は抵抗しましたが4人がかりで家康を押さえつけて家康の具足を全て取り外しました。そして忠勝が身代わりになろうとしたとき、広次は忠勝を蹴飛ばして「お主はまだ先じゃ。」と言って急いで家康の具足を付け始めました。そのとき家康はふと、幼い頃に今川に人質として送られようとしていたあの時のことを思い出し、そして確信しました。この広次は、あの時不安がる自分を励ましてくれた「夏目吉信」だったのだと。「では、御免。」と言って去ろうとする広次に家康は「やめろ!夏目吉信!」と叫ぶと、広次は死地に向かおうとする覚悟の中に一瞬の喜びが蘇り、涙しそうになるのを必死でこらえていました広次は家康に背を向けたまま「一度ならず二度までも殿のお命を危うくした、この不忠者をここまで取り立ててくださった!これしきの恩返しでは足りませぬ!」と思いを語りました。今川行きの失態は家康の父・広忠に許され、三河一向一揆での反乱は家康自身に許された、広次の胸には主君の親子2代にわたる恩義があったのです。そして家康のほうを振り返って膝をつき「今度こそ、殿をお守りいたします。」と言い、皆には「殿を頼みますぞ。」と言って出ようとしました。追いすがろうとする家康に広次は「殿が死ななければ徳川は滅びませぬ。殿が生きてさえいれば。」と言い、そして「殿は、きっと大丈夫。」と優しい目であの日の言葉を家康に送りました。そして我が身をおとりとすべく敵兵の中に家来を連れて飛びこんでいきました。絶命の間際に広次の脳裏に浮かんだのは、家康が幼き日の記憶から自分のことを思い出してくれたあの瞬間のことでした。そのころ浜松城には、命からがら戦場から逃げ帰ったものの酷い手傷を負った兵があふれかえっていて、満足に戦える者はほとんどいませんでした。そこへ武田勝頼が大将となった武田の大軍が攻め寄せてくるのが見え、徳川勢は城を枕に討ち死にの覚悟をしました。とはいえ気力はあっても身体が思うように動かぬ者ばかりなので、酒井忠次は石川数正(松重 豊さん)に『兵法三十六計』を提案しました。数正も他に手はないと考え城兵たちに門を開けるよう命じ、城を明け渡すのかと戸惑い、その意味がわからない皆に忠次が重ねて、城門を開けかがり火をたいて息を潜めるよう命じました。開門されかがり火に明るく照らされる静まり返った浜松城を見た勝頼は、これは何かの罠だと考え、攻撃するのをやめて引き返していきました。一夜が明け、武田勝頼(眞栄田郷敦さん)は昨夜の浜松城のことを父・武田信玄(阿部 寛さん)に報告しました。側近の山県昌景(橋本さとしさん)は勝頼にそれは『空城の計』と言い穴山信君(田辺誠一さん)がその意味を勝頼に説明しました。それを聞いた勝頼は怒って直ちに浜松城を攻め落とすと息巻きましたが、信玄は「浜松城は完膚なきまでに叩いたからもういい。十分じゃ。捨てて西へ行く。」と言って勝頼を止めました。そして「我らの敵は都に巣くう魔物。その仕事をそなたの代に残していく。時が惜しい。」と勝頼に言い、三方ヶ原を見下ろす高台から浜松の夜明けの美しさを感慨深く眺めて、全軍に西に向かうよう命じました。夏目広次の身代わりもあってなんとか浜松城に逃げ帰れた家康でしたが、広次だけでなく多くの家臣の命を失わせてしまい、弱い大将である自分の不甲斐なさに涙が止まらず何もできませんでした。そんな家康を見て、忠次と数正は、武田勢が陣を引き払い西に向かった、ひとまず難をしのいだと報告し、そして今は家臣たちは軍勢を立て直したり少数で城周辺の敵を追い払ったりと、皆がそれぞれに自分ができることを精一杯やっていると伝え、家康を励ましました。家康も「わかっている。皆に生かされた。」と言って起き上り、「決して無駄にはせぬ!必ず立て直すぞ!」と決意を新たにしました。そして二人に「家康は生きておる。そう言い触らせ!」と力強く命じました。信玄が再び西への進軍を開始し、間もなく織田領に入ってくることを受け、織田信長(岡田准一さん)は重臣たちを集めて皆に言いました。「俺はお主たちに勝てとは言わぬ。数々の死地を超えてきたお主たちに言うことは一つ。ただ己の成すべきことを全て成せ。」と、うつけと呼ばれた若い頃からも含めて、これまで自分を信じてついてきてくれた皆に告げました。そして信長が「さすればあとは天が、この信長か信玄か、どちらを選ぶかじゃ。」と話していたら、木下藤吉郎の配下の者から急ぎの知らせが入りました。藤吉郎は「天はもう選んでまったのかもしれない。」とニヤリと笑いました。武田軍が浜松城から西に向かったということは、次は岡崎城でした。城主・徳川信康はまだ若くて戦の経験もないので、守役の平岩親吉が戦に備えて皆に指図をして慌ただしくしていたら、そこへ信じ難い一報が。「何故かはわからないけど、西に向かっていた武田勢が進路を変え、甲斐に引き返している。」ーーこの知らせに浜松城の皆も驚きを隠せませんでした。
May 16, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康が本当に生死をかけた最大の試練の一つの「三方ヶ原の戦(1572)」の前半でした。徳川家康(松本 潤さん)と徳川家臣団にとっては、最強と言われる甲斐の武田信玄(阿部 寛さん)率いる武田軍に我が領地を狙われていて、これは他国に出陣しての戦とは意味が全然違ってきます。支配されて理不尽な扱いを受けても耐えて生きる、それが嫌なら生死をかけて戦うしかないのです。時代の転換期には大きな戦いがあり、それを描いたドラマでは戦闘シーンは大きな見どころの一つです。でも今回のように、派手な戦闘シーンはなくても、そこに至るまでの主人公やその周囲の人々の葛藤を描いたものも、けっこう面白いものだと感じました。家康が織田信長(岡田准一さん)と二人きりで会ったシーン。あり得るかどうかはともかく、いい場面でした。家康は織田との同盟をビジネス的に「一蓮托生」と言ったと思うのですが、不安が顔に出ている家康をまず「そんな顔をした大将には誰もついてこない」と叱り、そして信長は心のつながりで「一心同体、ずっとだ」と返してくれました。幼い頃の強烈な体験で、信長は自分に対しては強圧的で恐いとしか思えない存在だったけど、このとき初めて、信長が自分を本当に“弟”のように思ってくれているのだと、家康は感じたのではないでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀3年(1572)10月3日、甲斐の武田信玄は遠江侵攻のために2万超の大軍を率いて徳川家康のいる浜松を目指して出陣しました。恐ろしく強い武田軍が自分たちに向かってくる戦なので、徳川軍の皆は今度こそ生きて帰れないかもしれない覚悟を胸に、それぞれの出立をしていました。吉田城(現在の愛知県豊橋市)城主の酒井忠次(大森南朋さん)は、長年連れ添った妻の登与(猫背椿さん)から弁当を受け取って出ようとしたとき、わざとらしい理由で登与を呼び寄せその体を抱きしめました。いつにない夫・忠次の行動に登与は何かを感じながらも、登与は笑っていつものように夫を見送りました。徳川家康(松本 潤さん)は我が領地を守り抜く決意をし、家臣たちも同じ気持ちでしたが、武田軍が甲斐を出てわずか7日後には信濃の国境に近い奥三河の作手・田峯・長篠の城が、そして遠江の信濃に近い犬居・只来の城が落とされ、各方面から一斉に動く侵攻の速さに徳川軍はなすすべがありませんでした。そして10月21日には高天神城も落城、その次は浜松城のすぐそばの見附城になることは明らかで、家康たちは見附に物見に向かっている本多勢の報告を待つしかありませんでした。見附に物見に出た本多忠勝(山田裕貴さん)と叔父の本多忠真(波岡一喜さん)は見附近くの一言坂で武田軍の先鋒で武田最強と言われる山県昌景とぶつかり、激しい戦闘となりました。疲弊して血まみれになって家康のところに戻ってきた忠勝と忠真の姿は武田の恐ろしさを物語っていました。(忠勝の血は敵の返り血だったけど、それでも忠勝が崩れ落ちるほどの死闘だったのでした。)11月7日には見附・匂坂の城が落ち、敵は二俣城に向かっているところで、浜松城の周辺の城はほとんど包囲されました。もう頼みの綱は織田の援軍しかなく、織田信長の使者で来た水野信元(家康の伯父)に5千の援軍を頼みましたが信長もまた各方面に敵を抱えていて、兵を割ける状態ではありませんでした。家康は織田信長(岡田准一さん)と二人きりで話さなければと、伯父・信元に「共に2日だけ抜け出して鷹狩りをしよう。」と信長への言伝を頼みました。信長が自分のために動くのか家康は半信半疑でしたが、信長は来ました。家康が「策は『桶狭間』、餌は『家康(=自分自身)』、それしか手はない。」と言うと、信長も同じ考えだと言いました。しかし織田からの援軍は3千と言われ、なんとかしたい家康は「徳川と織田は一蓮托生であることをどうかお忘れなく。」と信長に食い下がりました。家康の切羽詰まった顔を見た信長はまず「死にそうな顔をした大将にはだれもついてこんぞ。」と喝を入れ、そして家康の手を取ってその手を自分の肩にかけ、家康をしっかり見据えて「俺とお前は一心同体。」と告げ、優しい目をして「ずっとそう思っておる。」と言葉を続けました。「信玄を止めろ。俺は必ず行く。」ーー不安に押しつぶされそうだった家康を力強く鼓舞して、信長は去っていきました。信長は援軍として佐久間信盛と水野信元の手勢3千を浜松に送りました。信玄の遠江・三河侵攻は恐ろしい早さで進み、周辺の城を次々と落としてあとは家康のいるこの浜松城のみとなりました。こうなるとあとは浜松城で籠城してひと月持ちこたえて信長本隊の援軍を待ち、徳川と織田の総がかりで武田を討つしかなく、一同はそれに賭けていました。「この城とわしの首は信玄に食いつかせるための餌じゃ。一撃必殺。天と地をひっくり返す。」ーー総大将の家康は己の決意を改めて家臣一同に伝えました。12月22日、武田軍は天竜川付近に現れ、いよいよこの浜松に武田が攻めてくると知った民たちは皆、大慌てで避難を始めました。そんな中、井伊虎松(板垣李光人さん)は、徳川と武田がどのような戦をするのだろうと戦見物を決め込んでいて、逃げようとしませんでした。浜松城では籠城の準備を大急ぎで進めていて、家康たちはいよいよ眼前に現れた武田軍の動きを注視していました。浜松城の眼の前に来た武田信玄(阿部 寛さん)は自分の後を継がせる武田勝頼(眞栄田郷敦さん)に戦の仕方を教えていました。信玄は家康をひ弱で臆病と言いつつ「己の弱さを知る賢い若造」と評していて、敵の大将を見下すことはせず、勝頼に相手の心の内を想像するよう言いました。そして采配を振って進軍の合図をし、武田軍は動き出しました。それを城から見ていた徳川軍は各自の持ち場に着こうとしましたが、武田軍の動きがおかしいことに気づいた家康が皆を止めました。武田軍は浜松城には向かってこずに素通りして西の方に移動していきます。自分を餌にして武田をおびき寄せて籠城する家康の策が狂ってしまいました。信玄は自分が浜松城に向かわないことで何が起こるかを読んでいました。徳川方の中で武田にどう対応するかで内輪もめが起こること、遠江の民が家康を民を守れない弱い大将だと思うことなどを。また同時に浜松に間者を放って家康の頼りなさを民衆に流布していました。城内では、このまま武田を素通りさせたら民が自分たちに従わなくなると案じ、石川数正(松重 豊さん)は武田をこのまま西に行かせたら自分たちの所領である三河・岡崎があることを言いました。信玄は岡崎城を簡単に落とすと考えたとき、重臣たちは口々に野戦に出ることを主張しましたが、唯一、武田の強さを知る本多忠勝だけはこのまま打って出れば負けるから勝てる策を考えねばと冷静に意見しました。籠城か野戦か、皆が喧々囂々となったとき数正が「殿のお考えの邪魔をするな!」と一喝して、やっと静まりました。この後どうするのか、迷って決断が下せない家康の脳裏に「弱き大将は害悪なり。滅ぶが民のためなり。」と言った信玄からの言伝が思い浮かびました。そんな中、家康は自分たちにはこの浜松の地の利があることに気がつきました。夏目広次が絵図面を広げ、武田軍はこの先は祝田の細い崖路に入ると言い、皆はここで背後からつけば勝機があると考えました。家康はようやく決断できました。「戦の勝ち負けは多勢無勢で決まるものではない!天が決めるんじゃ!」そして直ちに武田を追って武田を追い落とす命を力強く下し、徳川勢は留守居を残して一斉に浜松城から出陣していきました。徳川勢は駆けに駆けて信玄を追いました。そしてようやく三方ヶ原まで追いかけたとき、その先に行っていると思っていた武田勢が「魚鱗の陣」を構えて布陣しているという徳川勢が想定してなかった光景があり、家康も家臣一同も立ちすくんでしまいました。「かかれ~!」と信玄の采配が振るわれ、徳川と武田の戦闘が始まりました。雪が舞う中、戦がどうなったのか気になり夜になってから三方ヶ原に駆けつけた虎松は、そこで累々と横たわる徳川方の死体を目にしました。そして武田勢が勝鬨をあげ、家康が着用していた金陀美具足の遺体と兜首を兵たちが喜々として運んでいくのを目にしました。その様子は岡崎にいる妻の瀬名や嫡男の信康にも知らされ、家康が武田に討たれてしまったと、一同は愕然としました。
May 9, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、天下安寧を志として京に上ることを決意した武田信玄(阿部 寛さん)が、いよいよ徳川家康(松本 潤さん)に牙を向け始め、強大過ぎる相手に家康がどう対峙していくのかが興味深い回でした。武田軍の恐ろしさを人質として甲斐に行っていた弟の松平源三郎勝俊(長尾謙杜さん)から聞いて、家康は弱気になって迷います。片や人質なんかおってもおらんでもどっちでもいいと、戦には自信に持つ信玄です。徳川家がここまで安定するために苦楽を共にしてきた家臣たちを、十中八九負けるとわかっている戦に行けとは言えない家康でした。でも苦楽を共にしてきたからこそ、主君・家康のことをよく知る家臣たちは、この最大の危機を前にして家康を支える決意をし、団結しました。家康を演じる松本 潤さん。このときは困難な仕事に対する思いが十分に想像ができ、演技に思いがこもって、自分を支える皆の心意気に感動して泣けてきたと思ってます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀元年(1570)6月の姉川の戦いの後、徳川家康(松本 潤さん)は居城を岡崎から遠江の引馬を整備して浜松と改名した地に移しました。浜松城は旧今川領であったため家康一行は民衆の冷ややかな視線を受けながらの浜松入りとなりましたが、唯一、少女たちの舞の歓迎を受けました。ところがその中に家康を恨む井伊虎松(板垣李光人さん)が混じっていて家康を急襲、その後で逃げた虎松を本多忠勝(山田裕貴さん)が生け捕りにしました。虎松がまだ子供だからと家康が穏やかにものを問うのに暴言を吐き続ける虎松。鳥居元忠(音尾琢真さん)が切れて虎松を懲らしめようとしましたが、家康は「この者は遠江の民の姿。次に会ったときにどう変わるかは、これからの我らの行い次第。」と言って放免を命じました。家康はあのとき虎松が言った「徳川家康は疫病神の裏切り者と皆が恨んでいる。襲ったのは自分一人の考え。」という言葉を重く受け止めていました。それは石川数正(松重 豊さん)の言う「考えそのものを武田に仕込まれている」ことであり、大久保忠世(小手伸也さん)の情報の「武田の遠江の調略は各地で進んでいる」ということでした。家康は、自分は信玄に何が及ばないか足りないかを皆に問いました。言いにくそうな酒井忠次(大森南朋さん)に対して数正は一言「全て」と。内心落胆する主君・家康に忠世は「地道に民の信用を。」と、そして夏目広次(甲本雅裕さん)は「信玄だけは怒らせるなと織田信長からキツク言われていることをお忘れなく。」と念を押しました。やがて冬になり、服部半蔵(山田孝之さん)突如、家康の生母・於大の夫・久松長家が城代を務める三河の上ノ郷城に呼び出されました。理由は武田に人質として預けている二人の間の次男・松平源三郎勝俊のことが気にかかる、武田に忍び入って源三郎を救い出して欲しいというものでした。とはいえ半蔵は主君・家康の許しなく人質を連れ出すことはできません。そこでまず源三郎の様子を見に武田に忍び入り、源三郎が酷い仕打ちを受けて心身共に弱って病んでいることを家康に報告しました。家康は半蔵に、母・於大には書状の通り息災だったと伝えるよう命じました。家康は義弟の松平源三郎勝俊(長尾謙杜さん)のことを思い出していました。自分が三河の領主となって母の子供たちと初めて会ったときに「兄上のようになりたい」と源三郎が輝くような眼で自分を見つめて言ったあの日を、そして甲斐に人質としていくことを快諾してくれたあの時を。一方、信玄は三河侵略の準備を着実に進めており、武田領との境になる奥三河の作手・田峰・長篠の城主はすでに武田方に付いていました。そこで家康は越後の上杉謙信に書状を送ってはどうかと考え、夏目広次は信玄を怒らせると危険性を説きましたが、家康は断行しました。ところが密偵に持たせたその書状はすぐに信玄の手に渡ってしまい、徳川のほうから手を切ったと考えた信玄は家康をなじる書状を各所に送りつけていました。信玄は初めから遠江を切り取るつもりであり、ただ機会をうかがっているだけだと考えた家康は信玄の機嫌を考えることをやめ、甲斐にいる源三郎を奪還してくるよう半蔵に命じました。半蔵は大鼠(松本まりかさん)を連れて甲斐に潜入し、自分で動けない源三郎を背負ってなんとか信玄館を脱出して家康の元へ。しかし大鼠は乱闘の際に負傷してはぐれてしまい、安否がわからずでした。そして信玄は、実はこの源三郎の奪還のことを事前に知っていて、源三郎が館を出た後は追っ手をかけぬようあらかじめ命じていたようでした。家康の元に帰ってきた源三郎は、命は無事でも床から起き上がれない状態でした。人質の役目を果たせず恥じ入る源三郎に、家康は人質にこのような仕打ちをする武田家に憤り、そして弟に詫びました。ところが源三郎は、そうではないと兄・家康に伝えました。甲斐の若い侍は皆この荒っぽい鍛錬を受けていて、信玄は人質の自分を皆と同じように扱ったまで、むしろ自分は一番優しく扱われた、中でも信玄の息子(武田四郎勝頼)は誰よりも厳しく激しく鍛えられていると。源三郎は怯えた声で「甲斐の侍は化け物だ。あれと戦って勝てる者などいない。」と甲斐での様子を家康に報告しました。そして信玄から兄・家康に言伝を受けたと言って、家康に伝えました。一方、戦闘中にはぐれて大鼠の安否がわからない半蔵は、源三郎を家康の元に送り届けた後、再び甲斐に戻って彼女が来るのを待ってました。全身傷だらけになり這うようにして半蔵の前に現れた大鼠は、半蔵の顔を見るなり安堵して気絶してしまいました。家康は側近たちを集め、信玄から得た言伝を皆に伝えました。「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ、我が家臣となれ。手を差し伸べるは一度きりだ。」ーーその信玄の言葉に続けて、家康は「わしの独断では決められぬ。お主らには妻子がおり、家来がおり所領もある。各々で決めてよい。」と皆に告げました。皆がどう返事をすべきか言葉を選んでいたら酒井忠次が「皆の衆、どうする。」と口火を切り「うちの殿はこのように頼りないぞ。」と言葉を続けました。すると本多忠勝が「勝ってみせるからついてこい!と言えんとは。情けなや。」石川数正が「情けない殿の家臣よりは、武田の家臣の家臣のほうがマシかもしれんのう。」とそれぞれが思うまま次々と言い出し、鳥居元忠は「何もかも信玄にくれてやって、信玄のもとで惨めに生きていきましょうぞ!」と泣きながら家康に訴えました。(主君にも包まず申すのが徳川の家風だろうけど、この皮肉の言いたい放題。織田家や武田家ではありえない光景でしょうね。)家康だって、皮肉の言葉の裏にある皆の思いは十分に察することはできるけど、「戦っても、十に九は負けるんじゃぞ。」ーーこれが現実なのです。でもその時、忠勝が「十に一つは勝てる。その一つを信長は桶狭間でやった。」と力を込めて、家康を見据えて言いました。家康が「わしは何一つ、信玄に及ばぬ。」と力無く返すと夏目広次(甲本雅裕さん)が「その代わりに、殿にはこの家臣一同がおります。一同で力を合わせ、知恵を出し合えば、きっと信玄に及ぶものと。」と思いを込めて伝えました。こんな弱い自分のために家臣たちが力と知恵を集結して自分を支えてくれる。家康は涙があふれて言葉になりませんでした。徳川と織田をつぶす決意をした武田信玄(阿部 寛さん)は、出陣の支度が整うまで御堂にこもって待っていました。四郎勝頼が呼びにきた時、信玄は勝頼に「この山々に囲まれた地に生まれた自分をよう恨んだ。もっと田畑があれば、国力があれば、わしは瞬く間に世を平らかにしたものを。」と言いました。そして後継者として期待して鍛えぬいた勝頼に「四郎、それをそなたに残す。これが我が生涯、最大の戦となろう。」と言い、家臣たちの前に出てきました。「時は今、天下を鎮め世に安寧をもたらすために京へ向かう。敵は織田信長!まずはその路上に転がっている小石をどかさねばな。これより浜松をめざし、徳川家康を討つ!いざ、風の如く進め!」ーー信玄は軍勢を鼓舞し、皆は力強く鬨の声をあげてそれに応えました。武田勢は恐ろしいまでに強いとわかっているけど、徳川勢の皆もそれを迎え討つ覚悟ができて、一同が集結しました。12年前に今川から岡崎を取り返したあの時とは違って、今では家康の側近たちそれぞれが所領と家族と家来を持ち、侍にふさわしい立派な具足を揃え、侍としての暮らしができるようになりました。今川に支配されていた頃のように誰かに支配される惨めな暮らしはもう御免です。「この地を守り抜き、武田信玄に勝つ!今こそ、我らが桶狭間を成す時ぞ!」主君・家康の迷いのない決意に、一同も力強く鬨の声をあげて応えました。
May 2, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、元亀元年(1570)4月の金ヶ崎の戦いを軽くすっ飛ばした代わりに、同年6月末の姉川の戦いを徳川家康(松本 潤さん)の葛藤と共に丁寧に描いた回でした。岡崎の領主となった頃にくらべたらうんとしっかりしてきた家康だけど、まだまだ苦労知らずの世間知らずで、理想を思い描いて判断しようとする甘さがあります。そんな頼りない主君を年上の石川数正(松重 豊さん)と酒井忠次(大森南朋さん)が見事に支えています。家康が信長や将軍など、重要人物と会うときは必ず同行して主君の言葉をフォローし、情に流されやすい主君を諫め、時には叱り、でもいざという時は主君が決断したことに命をかけて従う覚悟を持ってます。今回は特に、忠次@大森南朋さんの演技に見入りました。織田家のようなピリピリした空気じゃない、年長者から若者まで家臣でも主君・家康に対して忌憚のない意見が言える「チーム徳川」。この先まだまだ歴史的に大きな出来事に出会っていく徳川家だけど、どう対応していくのか、楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つために織田信長(岡田准一さん)とともに出陣した徳川家康でしたが、味方であるはずの信長の義弟である浅井長政の裏切りによって窮地に立たされました。28日、信長を京へ逃がすために敦賀の金ヶ崎で木下藤吉郎(ムロツヨシさん)と共に殿(しんがり)を務めて、やっとのことで家康も京に戻ってこれました。ところが藤吉郎は、家康を危険な殿をせざるを得ないように仕向けただけでなく、信長へはわざとらしい怪我の演出をして「自分だけが殿をやった」と家康の働きをなかったことにして、大袈裟な報告で手柄を独り占めまでしていました。呆気にとられて何も言い返せない家康でしたが、信長はちゃんと家康の殿の働きを知っていたのでしょう。藤吉郎には思いきり蹴飛ばしてから「よくやった」と褒めていました。そして家康には(おそらく褒美の)コンフェイトを4粒、土産に渡していました。(あの蹴りは、鎧の上からでも痛いと思います)徳川家康(松本 潤さん)は一旦は岡崎に戻ったものの、浅井・朝倉の両軍と戦うために6月にはすぐに出陣となり、岡崎の留守居を大久保忠世に任せて北近江の姉川に織田軍と共に布陣しました。軍議の後は徳川が新たに切り取った遠江の話になり、今普請している見附城には酒井忠次(大森南朋さん)が城代として入ることを信長に報告しました。ところがそれを聞いた信長は、遠江を治め武田を抑えるために、見附城ではなく引馬城に家康が自らが入るよう、そして引馬城の名も変えるよう命じました。家康は岡崎城があるからと反論しましたが、信長は岡崎は息子の信康に任せよ(信康の嫁は信長の娘)と強く言うので、家康と信長が険悪な雰囲気に。柴田勝家が家康に陣で備えるよう促して場を収めたのですが、家康の去り際に信長はさらに、この戦いの先陣を切るよう命じました。徳川の陣に戻った家康でしたが、このところの信長の強圧的な物言いや絶対的な命令を思い返していて、無性に腹が立っていました。鳥居元忠(音尾琢真さん)は家康をなだめ、また本多忠勝(山田裕貴さん)は「徳川は織田の家臣ではない、指図される覚えはない。」とそれぞれに家康に共感していたら家康の怒りが増大して信長を大声で批判するようになりました。忠次が家康を諫めていたら、そこへ敵・浅井長政からの文が届きました。文には「信長の戦いに義はない。共に信長を討とう。」と家康に寝返るように書かれ、側近たちにも緊張が走りました。そうこうしているうちに姉川の対岸に1万の浅井・朝倉軍が布陣し、いよいよ決戦の時が近づいてきました。(6月28日)姉川を挟んだ徳川勢の前には朝倉勢が布陣しました。家康の動向が気になる信長は藤吉郎に徳川勢の動きを見張るよう命じました。一方、徳川の陣では主君・家康が浅井長政からの文で気持ちが揺らいでいるのが誰の目にもわかるし、浅井から文を受け取ったと信長に知れたら大事になります。忠次はその文を早く燃やしてしまうよう石川数正(松重 豊さん)に言い、数正が文を火にくべようとしたのですが、家康はその文を取り返してしまいました。家康の迷いと動揺が強くなって陣幕の中に入ってしまったので、数正は平岩親吉(岡部 大さん)に誰も中に入れないよう見張りを命じました。そして家康が出した結論は、浅井に味方して信長を討つ、ということでした。若い側近たちが家康に同意して信長を討つ士気が上がると忠次が皆をたしなめたのですが、家康は「信長に義はない」と忠次に言いました。それでも忠次は「義とは何か?殿は、皆はわかっておるのか?義なんてきれい事。これは我らと織田勢を引き裂くための浅井の策略。乗ってはいけない!」と強く進言し、すぐに冷静になった榊原康政(杉野遥亮さん)も「我らが織田に矛先を向けたとたん朝倉に背後から討たれる。」と考えを改めました。しかしこうして迷っているうちに朝倉が動きだし、攻撃を始めない徳川勢に対し信長はほら貝で催促を、さらに鉄砲まで撃ち込んで出撃を催促してきました。主君・家康がまだ浅井に付くことを望むので、忠次はその理由を訊ねました。家康は浅井長政の人柄が好きだからと言い、側近たちは呆気にとられ、忠次は「一度会っただけで何がわかるか!」と語気強く主君を叱りました。しかし家康の胸中には信長や将軍・足利義昭への怒りがあり納得できません。では織田勢に攻めかかるか?と腹をくくった忠次が家康に問い、続けて数正が「今なら信長を倒せる。しかし倒した後、信長亡き後、天下は?三河と周辺国との関係は?桶狭間の後のぐちゃぐちゃをもう一度やるのか?もう一度やって生き延びられるとお思いか?」と問いました。そしていよいよ朝倉軍が川の中ほどまで迫ってきて、家康はようやく「敵は、浅井・朝倉!」と決断し、長政からの文を破り捨てました。徳川勢が動き出したことで織田勢も動き出して総攻撃になり、両軍の総勢3万が戦ったこの合戦では織田・徳川の大勝利となりました。しかし敵将・浅井長政を取り逃がしていて信長は不機嫌であり、明智光秀から徳川勢の出撃が遅かったのではと指摘をされました。信長は、敵を引き付けていたからという家康と忠次の理由を受け入れたものの、いつもの“信長流”の荒っぽい可愛がりで「これからも判断を間違えるな。」と家康に釘をさしていました。(ジャニーズの先輩でなければできない荒業)姉川から逃げ帰った浅井長政(大貫勇輔さん)が小谷城に戻ると、そこには出陣前に織田に戻ってもよいと自由の身とした妻の市(北川景子さん)がいました。兄・信長の性格をよく知る市は「兄は一度裏切った者を決して許さない。私も覚悟を決めた。兄を、織田信長を討ち取りなされ。」と夫・長政に告げました。一方この戦の後の甲斐では、武田信玄が側近たちと軍議を開いていて、徳川が切り取ったばかりの遠江を混乱に陥れるための攻略を仕掛け始めました。さて家康は岡崎城から遠江の引馬城に入ることになり、嫡男・信康(寺嶋眞秀くん)を呼んで、今日からは信康が岡崎城の主であることを伝えました。妻の五徳(松岡夏輝さん)と共に、母・築山殿の言うことをよく聞いて勤めに励むよう二人に言い聞かせました。信康の守役として岡崎に残る平岩親吉は、駿府時代も一緒だった主・家康と離れ離れになるのが悲しくて涙していました。そして家康もまた、妻の瀬名と離れ離れになるのが寂しくて涙していましたが、瀬名は引馬の新しい名前「浜松」を手土産にして家康を送ってくれました。そして家康は改名して「浜松」となった地に移りました。しかし信玄の裏工作もあってか家康は遠江の民たちには歓迎されておらず、家臣たちも気が休まりませんでした。そんな中、新たな領主となった家康の入城を祝って土地の子供たちが祝いの舞を披露したいという申し出があり、家康も喜んで受け入れました。家康の前に着飾った娘たちが現れて、賑やかな音楽とともに明るく華やかな舞が始まり、戦続きや移動で忙しかった家康も疲れを忘れて楽しんでいました。しかし突然、その中の一人の娘(に扮した井伊虎松;板垣李光人さん)が家康をめがけて襲い掛かってきて、家康は寸でのところでかわして取り押さえました。
April 25, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、元亀元年(1570)の金ヶ崎の戦を軸にして、あの弱々しかった徳川家康(松本 潤さん)が家臣たちに迷いなく堂々と命が下せるほど強くなった姿を見ました。いえ、それ以上に、家康が子供の頃からあれほど恐がった織田信長(岡田准一さん)に対して、自分の思うところを語気を荒げて、果ては「あほたわけ!」とまで言い返せるほどに成長したのだと感心いたしました。今までは恐いだけの信長だったけど、家康もようやく心のどこかで、実はこれまで何度も信長が自分を助けてくれていたことを、信長なりに自分を可愛がってくれていたのだと気づいたのでしょうか。権力者だけどこの人は信頼がおけると思えなければ、やれ「お前」だの「あほたわけ」だの、言えませんからね。そして家康と大げんかして信長が流した涙。信長は若い頃は「うつけ」のフリをしてそう呼ぶ者もいたけど、織田家の当主となってからは力を持って、周囲からただ恐れられる存在になりました。自分には誰も本気で諫言してくれないけど、心の弟・家康が真正面から、自分の身を案じて諫言してくれた。信長と家康。互いに確かな絆を感じていたのではないでしょうか。さて、戦国版「走れメロス」と言われる鳥居強右衛門はこの5年後に登場するのですが、先に阿月(伊東 蒼さん)がこの回でボロボロになって走り抜きました。子供の頃から自分を大事にしてくれる人なんてなかったけど、素性の知れない自分を拾って、人間として大事にしてくれた主・お市のために、阿月はひたすら走りました。「器量よしじゃ。」このシーンに感動した方が多かったのではないでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 元亀元年(1570)4月、京に上洛した徳川家康はそのまま織田信長に同行して越前の朝倉義景を攻めることになり、京から出陣していきました。琵琶湖の西岸を通って敦賀に到着した徳川勢は金ヶ崎に陣を張りました。鳥居元忠(音尾琢真さん)と平岩親吉(岡部 大さん)と渡辺守綱(木村 昴さん)は地元の村人がもてなしてくれるカニ料理を美味しくいただいて喜んでいましたが、当主の家康は金ヶ崎城で信長のもてなしを受けていて、演じる余興が信長や配下の武将たちに受けるのかどうかとか気になって仕方がない緊張の時間でした。翌4月27日、予定外に越前まで駆り出されたこの戦に何の意味があるのかと、本多忠勝(山田裕貴さん)や榊原康政(杉野遥亮さん)は朝餉を取りながら不満を漏らしていました。若者たちの思いを聞いて石川数正(松重 豊さん)は「これは幕府再興、天下静謐のため。」と説明し、酒井忠次(大森南朋さん)は「浅井勢が加われば大軍となり、すぐに戦は終わって帰れる。」となだめていました。徳川家康(松本 潤さん)は家臣たちのやり取りを聞きながら、信長が将軍・足利義昭を高く評価していることや、自分が天下一統すると心に決めていることを思いだしつつも、何か納得がいかないものを感じていました。一乗谷の朝倉を攻撃する軍議を開いていた織田信長(岡田准一さん)の元に、浅井長政が1万の兵を率いて小谷城を出たという知らせが入りました。義弟・長政を信頼しきっているは信長は、織田・浅井・徳川の総がかりで朝倉を攻めるつもりでいました。信長は、この戦は将軍・義昭の威光を世に示す意味もあるので、世の人々が震え上がるほどに勝つよう皆に命じていました。そこへ朝倉義景が1万5千の兵を率いて一乗谷を出てこちらに向かっている、という知らせが入りました。織田方の武将たちは「朝倉、血迷ったか。」と笑っていましたが、家康は直感で何か不穏なものを感じていました。朝倉の動きが何かおかしいのはもちろん、浅井も朝倉に呼応しているかのように感じて仕方がない家康は家臣たちに相談しました。家臣たちも同じように感じていて、もし朝倉と浅井が裏で結んでいて、今ここで朝倉・浅井に攻められたら逃げ場がなくてひとたまりもないと誰もが考えました。そして、ではなぜ長政が信長を裏切ったのかを考えたとき、数正は「世を治める器量のない将軍を持ち上げるのは、神輿は軽いほうがよくて扱いやすいから。将軍を使って天下を我が物にしようとしている信長の本心を長政が見抜いたからでは。」と想像しました。実際、長政は「信長は自分に逆らった者は全て滅ぼすつもりだ。我らとて同じ。恐ろしい。」と感じていました。そのころ近江の小谷城にいる市(浅井長政の妻、織田信長の妹)は夫が朝倉方に付いたことを、なんとか兄・信長や家康に知らせたかったのですが、監視の目が厳しくてままなりませんでした。どうにか言伝を忍びに持たせたものの見つかって失敗、そこで市のそばで仕える阿月(伊東 蒼さん)が自分が走って金ヶ崎に行くと申し出ました。市は女子の脚で10里(約40km)は無理と言いますが、(足達者な)自分なら行ける、金ヶ崎あたりは自分の故郷だから道もわかると強く申し出ました。市は「その気持ちだけで十分。」と阿月に優しく微笑みました。しかしどうしても市の役にたちたい阿月は、市がうたた寝をしている隙に密かに部屋を抜け出し、所用だと言って城外に出ました。浅井長政は進軍して敦賀の疋田城に入り、朝倉は浅水に入りました。確証こそないけれど浅井が裏切っている恐れがあると考えた家康は急いで信長を訪ね、この地にいるのは危険だから陣を引いてはどうか、と信長に進言しました。信長をはじめ織田方の武将たちは一笑に付すだけで、家康に同行した石川数正と酒井忠次も主の言葉に添えて信長に訴えましたが、信長は聞く耳もたずでした。それでも家康が長政の裏切りの可能性を訴えると、信長はいよいよ怒って家康に「俺がやろうとしていることに義がない、とでも言いたいのか。」と迫りました。その後も信長が畳み掛けるように家康に言葉をぶつけてくるので、家康もついに我慢できなくなり「お主を信じられん者もおる!」と言い返しました。あわや取っ組み合いになろうとしたので双方の家臣が二人の間に入りました。そして信長が「お前も俺を信じぬのか!」と問うたときに家康が「お前の心のうちなどわかるもんか!」と言い返したので、信長は家康に退室を命じました。さらに家康の去り際に「朝倉の次はお前だ。俺に逆らうとはそういうことだ。」とまで言うので家康も勢いで「ふざけるな!あほたわけ!」言い返してしまいました。主君が信長を「お前」呼ばわりするわ「あほたわけ」と言うわで、これ以上ここにいたらまずいと数正と忠次は強引に家康を引きずって連れ帰りました。でも廊下から家康の「わしは身を案じているだけじゃ!」と叫ぶ声が聞こえると、信長も何かを感じたのか目に涙を浮かべていました。家康は陣に戻ってから、さすがに言い過ぎた、どうしようと悩んでいました。するとそこへ柴田勝家が来て信長の本音を伝え、引き続きの同行を願い出ました。家康も明日朝一番で信長に詫びることにしました。小谷城を抜け出した阿月でしたが、履き物から遠くに行こうとしているのがばれてしまい、途中で見張りの兵たちにつかまり崖から川に落とされてしまいました。それでもなんとか生き延びた阿月は金ヶ崎に向けて野山を駆け抜けました。走り疲れて体が動かなくなったときにふと思い起こしたのは、幼い頃から女であるというだけでまともには認められず、立ち居振る舞いを厳しくしつけられ、果ては父親によって人買いに売り飛ばされた自分の人生でした。奉公先が辛くて命からがら逃げだし、たまたま小谷城に入ってしまってそこで殿の奥方である市に拾われ、湯あみして綺麗な着物を与えられ、生まれて初めて優しくしてもらって、その後は市のそばでずっと仕えることができたこの数年間でした。もう体が動かない、だけど先ほど(4月28日夜半)浅井軍は疋田城を出立して夜明けには金ヶ崎に着いてしまうから、大好きなお市様のために走らなければ。阿月は死力をふりしぼって再び走り出しました。そして夜明け前、山の上から懐かしい故郷の海が見えて波の音が聞こえてきたとき、阿月は涙が止まりませんでした。下の浜辺に下りてフラフラになってたどり着いた先は徳川の陣でした。力尽きて倒れこんだ阿月を平岩親吉が抱きかかえて家康の元に連れていきました。家康は市の侍女の阿月だとすぐにわかり、家康を確認した阿月は絶え絶えの声で「お引き…候え…。」と市の言伝を伝え、そして帰らぬ人となりました。徳川の陣に信長がやってきました。家康は信長に、市の侍女が言伝のために小谷から命がけで10里以上走りぬいてここで力尽きたことを伝えました。幼い頃から自分に付いてまわった可愛い妹・市の言伝であり、また浅井・朝倉軍が夜明けとともに進軍しているとの報が入ったので、信長は迷いました。決断の遅い信長に家康は思わず「逃げんか、あほたわけ!」と声を荒げました。信長もようやく逃げる決断ができ、木下藤吉郎に殿(しんがり)を命じ、家康には好きにせよと言って金ヶ崎を後にしていきました。退陣の殿はまさに命がけの危険な役割なので、藤吉郎は初めは半狂乱になりました。しかし冷静になったとき家康に向かって一緒に殿をやろうと言い出し、もし一緒に殿をやらなかったら徳川は織田を裏切って浅井・朝倉に付いたと言いふらしてやるとまで言いました。藤吉郎の狡猾さに家康は「クズじゃな、お前は。」と吐き捨てるのが精一杯でした。ともあれ退陣と殿が決まったので、すぐに行動しなければいけません。家康は平岩親吉に阿月を手厚く葬るように命じて、「この金ヶ崎で浅井・朝倉を迎え撃ち、信長殿が逃げる時を稼ぐ! 後、退き戦に移る!皆で三河に帰るぞ!」と家臣たちを鼓舞しました。やがて浅井・朝倉勢が金ヶ崎に到着し、先鋒の武将の情報も入ってきました。徳川方は迎撃態勢を整えて両軍の襲来に備えていました。
April 18, 2023
先月3月5日の日曜日のことでしたが、航空自衛隊 小牧基地(愛知県春日井市)で開催されたオープンベースに行ってきました。3年ぶりの一般開放となったこの日、小牧基地には地元や近隣県だけでなく遠方からも、たくさんの来場者がありました。こうしたイベントでなければ入れない自衛隊の基地です。ふだんは空を見上げて見る航空機が目の前にあります。それを思うだけでテンションが上がります。滑走路の最前列を確保しようと思ったら、開門のかなり前から並ばなければいけません。私は今回はそれはやめて、のんびり行きました。基地の最寄りの駅に向かう名鉄小牧線の電車は、かなり混雑していました。たぶん皆さん目的地が同じかなと思っていたら、はい、「牛山」の駅で一斉に降りていきました。小牧基地までの細い路地は人であふれかえっているので、ゆっくりの行進となりました。体温チェックと荷物チェックを受けて基地の中に入りました。滑走路の前は幾重にも人がいる状態なので、展示されているものをゆっくり見ることにしました。遠くに今回の目玉の?大型機が見えました。千歳空港から飛んできた日本国政府専用機です。(ボーイング777ー300ER)白い機体に流れる赤のラインがすっきりしていて、日の丸が美しく映えます。小牧基地に入ると、お隣の県営名古屋空港の飛行機も見ることができます。逆に、この小牧基地のイベントを名古屋空港側から見る人もあるそうです。ブルーインパルスの展示飛行もありました。昨年秋からのこの地方の自衛隊のイベントでは、前日まで快晴の青空なのに、この日に限って曇りや雨という日が続いていて(岐阜基地航空祭、愛知県政150周年記念、自衛艦の蒲郡寄港)、今回も残念ながら曇りでした。滑走路の前は人だかりでしたが、政府専用機の前はブルーが飛ぶ1時間ほど前までは仕切りロープの前にスペースがあり、この政府専用機の足元の空間から機体が見えたらと思ってスタンバイしてました。展示飛行に出発するときはブルーの機体が見えませんでしたが、終わって戻るときには私たちがいる遠くのほうまで来てくれました。(政府専用機のおなかの下の空間からこれが撮れました。)この姿が目の前で見られただけでも幸せです。パイロットの皆さま、スタッフの皆さま、お疲れさまでした。駐機場に到着し、パイロットが降りてきて、ファンに挨拶です。この方が何をやっているのか後でお訊ねしたら、3番機のパイロットの方のデビューのお祝いとのことでした。航空機の展示飛行は全て終了したので、再びゆっくりと展示機を見ています。大型輸送ヘリコプターのCHー47J(愛称:チヌーク)です。入間基地から飛んできた、力持ちのヘリとして人気です。昨年秋、岐阜基地の航空祭で見てすっかりファンになったF-ー15戦闘機です。目の前で見られて大感激です。海洋における救難飛行艇のUSー2で、岩国基地から飛んできました。日本は本土から遠く離れた南西諸島や小笠原諸島などの離島も多くあります。救難実績はグアム島のあたりまであります。基地の露店で少し買い物をして、1時半頃に基地を出ました。しかしものすごい人混みで、行きに降りた牛山駅は大混雑のために入場制限が。そこで少し遠回りだけど「間内駅」まで歩いて帰ってきました。(さらに下車駅から車を停めた場所まで1.5km歩きです。航空祭のときは駅に近い駐車場は早朝すぐに満車になりますから。)飛行場はどこも広いし、航空祭では〇万人と大勢の人が来場するので、歩けるうちに行くのが良いと実感しました。
April 11, 2023
先月末の3月26日の日曜日ですが、陸上自衛隊の春日井駐屯地(愛知県春日井市)で創立56周年の記念行事が行われました。久しぶりに一般の見学がOKになった行事です。我が家から近いところにあるので、私は何日も前からずっと楽しみにしていました。ところがこの日は朝から大雨。昨日まで快晴だったのに、なんでこの日に限って?(もっと言うなら翌日も快晴だったので、この日がピンポイントで大雨でした)この大雨ならさすがに雨天順延かと思い、でも一応、雨具とカメラを用意して春日井駐屯地に行ってみました。8時半に車で駐屯地前を通ったら、門の前にはすでに徒歩で来た方々が大雨の中を並んでいるではないですか。ということは、雨天決行ということです。雲の画像を見たらこの先ますます雨が強くなるけれど、やるということなのですね。はい、ならばその気概を我々も心して拝見しようではないですか。車が入れるのは8時45分からなので、私は周辺で時間調整して駐屯地に入っていきました。車から降りるときも強い雨だったので、車の中でレインコートを着て、持っていくカバンにもポリ袋をかけて雨が入らないようにして、会場に向かいました。式典を見学する観覧席も用意してくださってます。ただこの日は雨で席が濡れているので、レインコートを持っていない人は座れない状態で、傘をさして立って見てました。来場者が少なめだったので、前の人の傘で見づらかったら見やすい場所に移動して見て(撮って)ました。第10音楽隊の方々です。楽器が濡れるからてっきりテントの下にいるのかと思ったら違ってました。(この式典の次の週、名古屋の守山駐屯地でお花見イベントに行って、音楽隊の方々にこの日のことをお訊きしました。そしたらやはり、金属楽器の中に雨がだーだーに入っていたとのことでした。)春日井駐屯地にある車両の展示です。降り続く大雨でグラウンドもドロドロです。訓練展示が始まりました。泥の中で偵察のオートバイも操作がいつもより大変だったと思います。式典の最中、ホントに大雨でレインコートだけでは雨が防げず、左手で傘をさしていたので、今回は私は両手でカメラを構えることができなくて、片手で動画を撮るのが精一杯でした。なのでここにUPした画像も、動画からの切り取りです。こんな天候なので、訓練展示も規模を縮小して行われました。5名の隊員の方が、泥の中を匍匐前進していきます。敵が作った障害物を破壊した後、次の部隊が前進できるようバケットローダーが片付けて道を整備していきました。突撃部隊が攻撃を開始しました。大雨の音も含めてホントは動画でご紹介したかったのですが、雨の中で画面がゆらゆら揺れていて、見てて気分が悪くなりそうなので、静止画像にしました。訓練展示が終った頃に、やっと小雨になりました。こちらは銃の展示で、この大きいのは「12.7mm重機関銃」です。説明には「比較的重量は大きいが操作は容易」とありますが、それでも脚なしの本体のみで38.1kgあるので、戦場で人力で運ぶのは大変だと思います。
April 9, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)が京に上洛したことで、今まで見えなかった多くのものを見ることになりました。京の町、京の人々、そして尊い存在と思い描き、謁見に胸を膨らませていた第15代将軍の足利義昭(古田新太さん)がどういう人物であったかを知りました。一方で、今までただ恐ろしいとしか思わなかった織田信長(岡田准一さん)が、今の戦乱の世を無くして日ノ本を一統するという高い志を持っていることを知りました。家康にしたら自分を「弟」と呼んで協力を求め、己の天命と決意した大きな仕事を成し遂げようとする信長のことを、やっぱり恐いけれどこれからは、今までとは違った意識で見るようになるのではないでしょうか。さて、家康が京に来てあれだけ苦労してやっと手に入れたコンフェイトは、悲しい形で失われてしまいました。でも見方を変えれば、あれだけ高価で少ししか買えなくて、日頃の労苦を共にして自分を支えてくれる家臣やその家族たちにも分けてやれないほどのものならば、いっそのことなくなってもよかったのかな、とも思いました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄12年(1569)初夏、甲斐の武田と三河の徳川の攻撃を受けて今川家は滅亡、しかし徳川家康(松本 潤さん)が今川氏真を助けて北条に逃がしたことを知った武田信玄は約定破りと激怒しました。そして武田が徳川に攻めてくる可能性もあり、家康は北条と手を組むことも考えましたが、このときは酒井忠次(大森南朋さん)に信玄に詫びるよう頼みました。翌永禄13年(1570)春、将軍・足利義昭の命により家康は上洛することになり、初めて行く京の都に同行する家臣たちも楽しみで浮き立っていました。なにより家康自身が、将軍様はどんなお方かと期待に胸を膨らませていました。家康は上洛することを瀬名(有村架純さん)に知らせに行ったのですが、瀬名は夫の晴れがましい上洛のことよりも、嫡男・信康が織田家から嫁に迎えた五徳(久保史緒里さん)と喧嘩ばかりしていることが気になっていました。夫婦といってもまだ供に11歳の信康と五徳なので互いに言いたい放題で、また五徳は舅・家康が父・信長に頭が上がらないことを知っているので、思い通りにならないと父・信長のことを引き合いに出していました。(しぐさとか表情とか、子供は親のやることを見ていて、それがどこかで出てしまうのですね)瀬名は五徳のそういう部分をたしなめますが、肝心の家康が信長を恐れて五徳の機嫌をとってしまうのでした。でもこのときは、家康が京の土産として珍しい菓子を買ってくるということで二人の機嫌が直って仲直りし、瀬名や亀にも楽しみができました。京に到着した家康一行は、市に行って早速コンフェイトを探しました。京の市は華やかで賑やかで珍しくて、家康たちの想像をはるかに超えていました。しかし宿に着いたらすぐに身支度を整えて、京での挨拶廻りが始まりました。京都奉行の木下藤吉郎、公家衆、高僧その他、そして将軍・足利義昭の家臣である明智光秀など、家康は疲れて具合が悪くなっていました。石川数正(松重 豊さん)と酒井忠次はそんな家康を気遣いますが、この者だけは会って欲しいと、茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)を引き合わせました。(この瞬間、脳裏に「スッスッハッハッ!」「失敬!失敬!」が浮かんだ人多し)以前は出来の悪い三河の家臣だった茶屋は今では商人として成功していて、主君・家康と京で会えることを楽しみにしていました。家康は茶屋に早速コンフェイトを求めるよう頼みましたが、実はコンフェイトはびっくりするほど高価な菓子で、簡単には手に入らないものでした。でも茶屋は自分が必ずコンフェイトを手に入れると約束し、そして別件で家康に、徳川の家臣たちはあまり市中を出歩かないほうがいいと進言しました。その理由は、織田信長(岡田准一さん)が京に来てからは町の治安や風紀を乱すことは許されず、揉め事を起こせば厳しく罰せられるとのことでした。実際に鳥居元忠と平岩親吉が町を歩いていたら、どこかの家中の者が女子に無理強いをしようとしていて、信長に見つかって目の前で切り捨てられました。そして信長に見つかった元忠と親吉は信長から「ほったらかしておいてすまぬ。近々宴席を設ける。主にそう伝えよ。」と家康への言伝を頼まれました。元忠と親吉は宿舎に戻り、昼間にあったことを家康に報告しました。家康が京にいる間は揉め事を起こさぬためにも家臣たちには宿から出ぬよう命じようとしたけど時遅し、本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)が北近江の浅井長政の家臣たちと昼間すでにやりあってました。忠勝は自分のことならまだしも主君・家康への罵詈雑言はどうしても許せなくて、相手が刀を抜こうとしたのを押さえて康政と一緒に素手(脚?額?)でやりあったのですが喧嘩は喧嘩。長政は信長が大事にしている義弟でもあるので、信長に知られて大事になる前になんとか浅井家と話をつけようと家康は考えました。ところがその前に、信長から呼び出しを受けてしまいました。家康が信長の元に出向いたら、理由はやはり昼間の喧嘩のことで、これは信長や将軍の顔に泥を塗ったと同じと言われ、家康は深く詫びました。明智光秀(酒向 芳さん)の追求は厳しくて、喧嘩をした家臣の名を語気を強めて訊いてきましたが、家康は忠勝と康政の名を言おうとはしませんでした。そのとき浅井長政(大貫勇輔さん)が到着し、家康と長政は対面しました。長政は「我が家臣が武勇の誉れ高き本多殿に戦場での戦い方の指南を受けた。」と意外にも家康に礼を述べ、光秀がそれは自分が聞いた話と違うと言うと「よくあるかすり傷。喧嘩ではない。」と言い、家康に相槌を求めました。長政の機転と寛大さに救われた家康はその厚意を受け、信長も了承しました。これで話がついたと木下藤吉郎(ムロツヨシさん)は酒を持ってこさせ、光秀に退出を促して一緒に出ていきました。信長は家康・長政と3人になったところで南蛮人からもらった地球儀を見せ、この世は丸くて日ノ本は小さな島であると示しました。長政は「南蛮人は我らよりもはるかに様々なことを知っている。この小さな島の中でいさかいをしていては日ノ本そのものが南蛮に取られてしまう。」と考えを述べ、それを受けて信長は「天子様の元、我ら武家がこの世を治め、その武家を束ねるのが将軍様。それこそがこの日ノ本のあるべき姿…ありすがたじゃ。この乱れた世を本来のありすがたに戻す。」と己の決意を述べました。そして信長は将軍・義昭公は立派なお方、自分はその手足となってそれを成すと言い「それこそが俺の天命だと信ずる。我が二人の弟よ、力を貸せ。」と家康と長政の手を取ってこれからの協力を頼みました。信長のところから帰り道、家康は長政に礼を述べ、長政もまた家康のこれまでの苦労を偲び我が身の糧としてきた、一度腹を割って話し合いたかったと思いを伝え、去っていきました。さて、いよいよ将軍に謁見する日を迎えました。家康の供をする数正と忠次も身支度を整え、皆で晴れがましい気持ちでいたら、ちょうどその時、茶屋がコンフェイトを格安で手に入れたと駆けつけてきました。この小さな粒の菓子を数個手に入れるのにこんなにも苦労したのだから、家康は無くさないようにしなければと袋を大事に懐に入れました。すると今度は別の客人が家康を訪ねてきて、その客人とは・・・夫・浅井長政に同行して京にきていた市(北川景子さん)でした。優しい夫に愛されて幸せと言い切る市を見て、家康も安堵していました。(桜舞う中で茶々を抱っこする家康の絵が本当に美しいのですが、この45年後には「あのときの姫が・・」となるのかと思うと複雑な思いです。)その時ふと家康は先ほど手に入れたコンフェイトを思い出し、2粒どうぞと市に差し出しました。市は高価なものだからと遠慮したのですが、思い直して1粒だけもらい、それをしばらく眺めた後で、日頃よく仕えてくれる褒美と言って茶々を抱くお付きの阿月(伊東 蒼さん)の口に入れてあげました。こんな高価なものを自分だけにくれた市の優しさに、そして言葉を忘れるほどの甘さと美味しさに、阿月は微笑んで礼を伝えるのが精一杯でした。そうこうしていると明智光秀が迎えに来たので、家康は市に別れを告げ、将軍のいる二条御所へ向かいました。家康の前に現れた室町幕府第15代将軍・足利義昭(古田新太さん)は、品格や威厳が感じられない、家康が想像していた人物とは違っていました。家康が挨拶を済ませた後、義昭からは忠誠を尽くすよう言葉をもらったものの、義昭は家康のことを「松平」で呼び、果ては官位と「徳川」を金で買った田舎者とまで言いました。そして義昭は自分に献上する貢ぎ物を催促し、徳川方が用意した駿馬は拒否して、なぜか家康の懐にある物を要求しました。家康の懐にある物といえば、やっと手に入れた貴重なコンフェイト。義昭はそれを出させ、全ての粒を一口で頬張り、満足して退室していきました。家康は信長が義昭のどこを立派だと評価しているのかわからず、義昭との謁見は気持ちをさんざんに踏みにじられただけの時間でした。京での用事は全て終わり、家康は信長に挨拶して岡崎に帰るつもりでした。ところが信長は「まだ三河には帰れない。」と言って絵図面を広げさせ、続けて藤吉郎が「明後日には出陣。」と言いました。家康がどことの戦かと問うと光秀が「まずは若狭、そして越前の朝倉義景。幕府への反逆ありとみなした。」と説明しました。ただ家康はこの京へは手勢を500しか連れてきていないので一旦三河に戻ってと言おうとしたら藤吉郎が「織田勢、将軍の軍勢、浅井の軍勢で4万を超える大軍勢。」と笑い、信長はこの出陣は北国見物と余裕の表情でした。信長は自分と将軍に従わぬ者は全て滅ぼし「天下を一統する」と固い決意でした。しかしそのころ小谷では浅井長政が深刻な顔をして市に話があると言い、それは義兄・信長を裏切って討つということでした。
April 4, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、滅びゆく今川家を目の前にして、徳川家康(松本 潤さん)と今川氏真(溝端淳平さん)の関係が強く描かれていました。私は時系列がバラバラなのは気になりませんでした。ただ徳川と名を変え、名実ともに三河国の領主となった家康が私情で氏真の元に出向き、氏真と対峙して槍での勝負をして、いまだに氏真を自分の上に仰いだりとかは、殺陣はカッコ良かったけど設定に無理を感じてました。たしかに昔の人間関係が、互いに立場が逆転してもなおも続くというのは現代でもあります。とはいえ、領主として家臣や領民を守らなければいけない立場の家康が「もう一度、氏真さまに仕えたい。」とまで言うのはどうかと。家康は織田での人質時代に信長から厳しくされ過ぎたため、今川に来て良い待遇を受けて、今川は甘美な世界でした。(信長は家康に乱世を生き抜く術を伝えてくれたのですが)しかし義元の時代から岡崎の民たちは苦しめられ、岡崎の重臣たちは妻子を氏真に処刑されました。一方家康は駿府では華やかな世界に触れ、貧しい苦しさを知らず、妻子も無事でした。家康は家臣や領民に比べて「やられた側の痛み」が軽い分、どうしても今川を美化してしまうのかと感じました。糸(志田未来さん)が義父・今川義元(野村萬斎さん)から氏真への思いを聞く場面は、本当にいい場面でした。だからこそ、家康と氏真が対峙する場面やセリフは無理のない設定であってほしかったと思ってます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄は同盟を破って駿河への侵攻を開始し、あっという間に駿府を制圧してしまいました。重臣たちが信玄によってあらかじめ調略されていたことを知らなかった今川氏真(溝端淳平さん)はこの時ようやくそれを知って愕然としていました。側近の岡部元信(田中美央さん)は氏真に、信玄が来る前に自害するよう促し、介錯の態勢をとりました。しかし氏真は、亡き父・義元が尾張に出陣する前に言った「そなたに将としての才はない。」という言葉をふと思い出し、自刃を思いとどまってしまいました。そして今川館に入った信玄は氏真が逃亡したことを確認し、氏真を見つけ出して首をはねるよう家臣に命じていました。一方、引間城に入って遠江の侵攻を進めていた徳川家康(松本 潤さん)は軍議を開いて、誰がどこを攻めるかなどを決めて家臣たちは士気が上がっていましたが、氏真の安否が気にかかる家康は軍議に身が入りませんでした。相模の北条は姫を氏真に嫁がせているので信玄の駿府侵攻を怒っている、北条は今川の味方だという話を石川数正(松重 豊さん)がすると、家康の供をして幼い頃から駿府で暮らした鳥居元忠(音尾琢真さん)は家康の心中を察して、氏真が北条の領地に逃げ込んだら武田も徳川も手出しできないと言いました。そう言われて家康も、言葉では口惜しいと言いつつも氏真に助かって欲しいのが態度に出てしまっていて、今川に未練を残す主君・家康を数正と酒井忠次(大森南朋さん)は用心していました。また氏真の動向を探るよう命じられていた服部半蔵(山田孝之さん)でしたが、空腹が先だってまだ仕事ができていませんでした。(家臣たちの主君・家康に対するこの垣根の低さ。これが徳川家ですね。)その頃、氏真は妻の糸(志田未来さん)と近習を連れて武田の追っ手から逃げるために山中をさまよっていましたが、脚が悪くて進むのが遅く足手まといになる糸を苦々しく思っていました。思い起こせば14年前、氏真は今では家康の妻となっている瀬名を我が妻にと父・義元に願い出ていましたが、今川家の嫡男である自分は同盟で北条の姫を娶るとすでに決められていて、それに従うしかありませんでした。氏真は心には瀬名がいて、政略結婚で迎えた糸には粗略な扱いはしていないけど、まだ愛情がもてないまま時が流れていました。(この時は夫婦の距離を描いただけと思われたこのシーンでしたが、後で重要な意味を持っているのがわかりました。)後日、服部半蔵から今川氏真が生きていて懸川城にいるとの報がありました。(浜松城~掛川城は「すぐそこ」といっても約30km)そこへ石川数正が武田信玄からの文を持ってきて、文には「速やかに氏真を討ち取り首を届けよ。さもなくば武田がやる。」とありました。家康は信玄の物言いに反発を感じたものの、懸川城は遠江の東部にあって武田が制圧している駿府領に近く、氏真の命だけは助けてやりたい家康は急がなければと、引間城の守りを数正と酒井忠次に任せて自らは出陣することにしました。そのころ懸川城では今川氏真が軍議を開いて城の守りを固めていました。妻の糸は氏真に、戦をやめて自分の実家の北条に身を寄せればと訴えました。しかし自分の意地を貫きたい氏真は逃げることはあり得ぬと、糸の申し出を受け入れませんでした。一方、出陣を決めたもののやはり今川への義理が残る家康はまだ迷いの中にいて、それを察した鳥居元忠と平岩親吉(岡部 大さん)は家康に、氏真が三河衆にした仕打ちを思いだすよう進言しました。家康は「氏真は憎き敵」と自分に言い聞かせ、外で支度を調えて待つ家臣たちに「懸川城を10日で落とす。今川氏真の首級を上げよ!」と命じ出陣しました。家康の家臣たちは果敢に懸川城を攻めていましたが、城の守りは想像以上に固くて4カ月たってもまだ落とせないままでした。一方、駿河に留まる武田信玄(阿部 寛さん)は首実検をしながら、時の移ろいを感じていました。(亡骸から出る腐敗臭を「臭い」と言わず、「夏のにおい」と表現するあたり、仏門に入った信玄らしい言葉でいいですね。)側近の穴山信君(田辺誠一さん)はまだ氏真を討ち取れない家康を非難し、山県昌景(橋本さとしさん)は氏真も前線に出て戦い、その気迫に徳川が押されているという噂を話しました。信玄は、氏真が追い詰められてやっと覚醒したかと氏真を見直していました。しかしこの様子では氏真が北条に逃げてしまうことも考え、遠江で手薄になっている箇所を調べてつつくよう昌景に命じ、すぐさま信濃と遠江の国境に武田の兵が集結しました。本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政はそれぞれの持ち場での役目を終えた後、家康の命で手勢を連れて懸川城に来ていました。大久保忠世から武田軍が信濃と遠江の国境に布陣しているとの報を受け、家康はこれは自分と氏真との戦だと言い鳥居元忠と平岩親吉を伴い懸川城向かいました。戦場に来た忠勝はそこで氏真を見つけ、氏真から放たれた矢をかわして反撃して氏真に深手を負わせました。(こういうスカッとする場面があるといいですね)城に戻って傷の手当を受けた氏真は糸に、今すぐ女どもを連れて抜け穴から出て北条に逃げるよう、そして氏真は立派に戦って討ち死にしたと伝えるよう命じ、一緒に逃げることを願う糸に早く行けと促しました。しかし城から脱出した糸たちは康政の兵に見つかり捕らえられてしまいました。家康は元忠と親吉を連れて懸川城内に入り、氏真と対峙しました。「父上も、誰も自分を認めない。」と自暴自棄になって自害しようとする氏真を家康は全力で止め、「死んで欲しくない。今でも兄と思っている。」と思いを伝えましたが、それでも氏真は刀を首元から離しませんでした。しかし城内に再び戻ってきた糸が「お義父上は真意を私にお話しくださった。」と言って、尾張に出陣する前の今川義元(野村萬斎さん)の思いを語りました。義元は嫡男・氏真を「大将の器ではない。」と言いつつも、氏真が夜明けから夜半まで、学問に武芸に誰よりも励んでいることを知っていて「己を鍛えあげることを惜しまぬ者はいずれ必ず天賦の才ある者をしのぐ。そして才を秘めたる家康と手を取り合い、今川をますます栄えさせる。」と嫁の糸に伝えていました。糸は義元にそのことを氏真に直に伝えて欲しいと願い出ましたが、その後は義元は駿府に戻ることはなく時が過ぎていたのでした。「お義父上様は貴方をずっと見ていて、ずっとお認めでございました!」ーー妻・糸の言葉に氏真は涙ながらにようやく刀を下ろしました。そして家康も、恩ある義元の思いに背くことになり申し訳なかったと手をついて涙ながらに氏真に詫びました。糸は夫・氏真に、もう十分戦ってきたと労り、楽になろうと北条に行くことを促し、氏真もそれを受け入れて家康に北条に行くための力添えを頼みました。父・義元の愛を知り、ずっと黙って耐えていた糸の愛を知った氏真はようやく自分自身を認めることができ、そしてまた糸も氏真の妻として認められた瞬間でした。しかし家康が氏真を助けた上に身柄を北条に渡したことで、信玄は激怒でした。このことで徳川は武田を裏切り北条と手を組んだと解釈した信玄は、家康が自分に喧嘩を売っていると考え、岡崎に怒りの文を送りました。信玄からの文を見た数正は信玄が攻めてくるかもしれないと考え、忠次は自分が詫びの使者に立つと申し出ましたが、家康は断りました。忠勝は武田と戦になるなら北条と手を組めば勝てるかもしれないと考えましたが、家康はすぐには決断できませんでした。
March 28, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、松平家康がいよいよ徳川家康(松本 潤さん)となり、そして甲斐の武田信玄(阿部 寛さん)が今川を裏切った駿河侵攻によって、家康は信玄から諜報活動の重要性と信玄自身の恐ろしさを学んだ回でした。信玄の諜報活動は相手の政治・軍事・経済だけでなく、全体の人間関係やメインの人物の好みや癖の他に、その人物に大きな影響を与える人物のあれこれまでもを調べつくすものでした。こういうのって、どうやってやるんでしょうね。さりげなくその場にいるだけでも難しい時があるのに、私みたいに話を聞き出すのが下手な人の場合、相手に「なんか探ってるの?」ってモロバレだし。そして情報を集めた後の情報の整理。現代でも話す相手がたくさんいる人の場合、この話題は誰のことだったかを間違えること、ありますよね。失敗したときにごまかすのが上手い人ならいいけど。まあもちろん、人それぞれ向き不向きがあります。だから仕事を命令する方は、それを考慮してやっているとは思いますが。それにしても現段階の家康さん。信玄のことは何も知らないわ、難しい仕事はベテランの部下に丸投げだわ、つい情に流されて流れを止めるわで、まだまだ頼りない小国の領主さまのようです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄9年(1566)、三河平定を成し遂げた松平家康は正式に三河国の主(三河守)に任官されることになりました。ただそのためには家康が源氏の流れをくむ者であることが必要で、松平家の菩提寺の大樹寺では住職の登譽上人(里見浩太朗さん)たち寺の僧だけでなく、松平家の家臣も出てきて、皆で必死に家系図を探していました。その甲斐あって家系図の巻物が出てきて、つなぎの紙で飛んで(←?)、「得川」という源氏の流れをくむ名にたどりつきました。そして登譽上人から家康は源氏の末流と思われると言葉をもらい、金はかかったけど家康はめでたく「従五位下 徳川三河守 藤原家康 朝臣」と任ぜられました。源氏の名が欲しかった家康は若干不本意でしたが、このときはやむを得ませんでした。そしてこの頃、引間城(現在の静岡県浜松市)の城主・飯尾連龍が誅殺された後に妻の田鶴は女城主となり、今川氏真に忠誠を誓って徳川と対立していました。そんな折に徳川家康(松本 潤さん)は織田信長(岡田准一さん)から予告なしの鷹狩りの誘いを受け、また鷹狩りと称した軍議かと思い、大急ぎで甲冑を着けて信長の待つ場所に向かいました。結局はただの鷹狩りでしたが、このとき家康は信長から上洛するという話を聞かされ、木下藤吉郎(ムロツヨシさん)が京の事情を補足説明しました。これは先の将軍・足利義輝の弟・義昭からの誘いであり、我が殿(信長)が義昭を将軍にして天下に静謐をもたらす、難題だけど我が殿は必ずやり遂げるであろう、上洛には徳川から兵を借りたい、とのことでした。話が終った信長は去り際に家康に、武田信玄が今川氏真を見限った、今川侵攻の前に信玄に会って今川領の切り取りを談判せよ、一歩も退くな、信玄に渡すな、と言って尾張に帰っていきました。当時、今川は武田と北条の間で三国同盟を結んでいて、互いに侵攻はしないよう取り決めがあったので、家康は田鶴が守る遠江まで武田信玄(阿部 寛さん)に取られないよう、そのことを信玄に強く言うつもりでした。ところがこの時にはもう信玄は氏真の臣下の武将たちを次々と調略して武田の側に寝返らせていて、いつでも駿府を攻め落とせる態勢にありました。そこへ織田信長からの文が届き、今川侵攻の前に家康に会って欲しいとありました。信玄はここは信長の顔を立ててやろうと考え、家康に会うことにしました。後日、信濃と三河の国境あたりの寺で武田と徳川の会談となりました。信玄と対峙する自信のない家康は、信玄がいつ来るのかと落ち着かなかったけど、知らせで信玄が来ないとわかるとホッと一安心、ならば自分が武田側の使者の山県昌景(橋本さとしさん)と穴山信君(田辺誠一さん)に会うこともないと、対応を石川数正(松重 豊さん)と酒井忠次(大森南朋さん)に任せることにしました。(この場面、手前のお二方の数正と昌景は両者厳しいにらみ合い、奥のお二方は寺の探りをいれようとする信君とそれを防ごうとする忠次の攻防でした。)数正と忠次が知略の攻防を繰り広げている間、家康は本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)を連れて辺りを散策していました。途中、栗がすでに採られたイガを見て、忠勝には叔父・忠間の病状を訊ね、信玄のことを「甲斐の虎どころか猫」と小馬鹿にした話をして3人で笑っていました。するとそこへ4人分の茶を用意した僧が現れて、家康たちと一緒に茶を飲みながら「酒で弱った肝の臓には野ブドウが効く。」と先ほどの3人の会話に触れました。そして僧が「猫は嫌いではない。」と言ったときに3人は信玄についての話に何故この男がと思い、男が「非礼は詫びる。堅苦しい場は好きでない。このように肩肘張らず会った方が相手のことがよくわかる。」と言ったとき、3人はようやくこの男が武田信玄本人なのだとわかりました。この男が信玄とわかり、家康は思わず刀に手をかけましたが、辺りの林の中には信玄を護衛する忍びが幾人も潜んでいるのを察知した忠勝が家康を止めました。信玄は「駿河からは武田が、遠江からは徳川が、互いに切り取り次第でいかがか。ようござるな。」と話しながら団子を家康に食べさせ、有無を言わさず一方的に話を決めてしまいました。そして去り際に「奥方様へ。」と言って家康に紙包みを渡し、中には瀬名の好物である栗が入っていました。それは信玄が自分の妻の好みまで情報を得ているということであり、逆に自分は信玄に関することはほとんど知らなくて、家康は先ほど数正と忠次が言っていた“(大将としての)格”とはこういうことなのかと思い知り恐くなりました。永禄11年(1568)12月6日、武田軍は駿河への侵攻を開始し、それに呼応するように徳川軍も遠江への侵攻を開始しました。瀬名(有村架純さん)は田鶴に、飯尾家のために徳川につくよう、そして今川の世はもう終わったと文を送りましたが、田鶴からの返事はないままでした。12月10日、徳川軍は引間城を包囲しました。引間攻めの大将の鳥居元忠(音尾琢真さん)は女城主の田鶴に「飯尾家の所領は安堵するので開門して徳川に降伏を・・」と呼びかけました。しかしそれに対して田鶴は鉄砲を射かけることで拒否の姿勢を示しました。忠次が応戦で鉄砲組を前に出そうとしたとき、家康は説得のための時はまだあるから陣を下げるように命じ、忠次はやむなくそれに従いました。ただ、妻・瀬名のためなのか今川への義理なのか、戦で情に流されて矛先が鈍る主君の家康に、数正は苛立ちを感じていました。一方、駿府では武田軍が容赦のない攻撃を加えていて、12月13日には武田軍は全くの無傷で駿府を制圧していました。あの強大で繁栄を誇った駿府がこうもやすやすと攻め落とされてしまったのを知った徳川の誰もが武田軍の恐ろしさを実感し、これは急がなければ遠江まで武田に持っていかれると数正は危惧しました。そして「もはや猶予はない。夜明けまでに降伏せねば総がかりで攻め落とすと引間城に伝える。よろしいですな。」と家康に確認しました。一方、城にこもる田鶴(関水 渚さん)は瀬名への返事をしたためていましたが、岡崎の民への仕打ちを知らない田鶴にとって過ちは徳川であり、今川全盛期の美しい思い出だけが心にあったのでした。(この回の少女時代の回想シーンで、田鶴が実は氏真を想っている部分があり、第1回の放送を確認したら、庭先での武術の稽古でやはり田鶴が氏真を想っているシーンがありました。親友・瀬名の駿府脱出の密告、夫・飯尾連龍が家康と通じていることの密告。田鶴にとって氏真は、連龍に嫁してもなお想い人であり、今川は絶対的なものだったのですね。)総攻撃の期限となった夜明けを迎え、田鶴は甲冑に身を包みました。城と運命を共にする覚悟をした家臣たちに城に火を放つように命じて、田鶴は侍女たちを従えて門まで向かいました。鳥居元忠は総攻撃の態勢を整え、家康も総攻撃の下知を出そうとしていたとき、門が開いたと報が入ったので家康は陣幕の中から飛び出していきました。説得に間に合ったと考えて攻撃をやめさせる家康に、田鶴は「かかれ~!」と皆に攻撃を命じました。徳川の家臣たちは家康をかばって盾となり、正面から突撃してくる田鶴たちに防戦して銃弾を放ちました。ただ生き長らえるよりも己の信念のままに死ぬことを選んだ田鶴は銃弾に倒れ、家康の目の前でその生涯を閉じました。
March 21, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。今回は松平家康(松本 潤さん)の側室選びということで、あのニギヤカな三河家臣団はほぼお休みでした。でもさりげなく、当時の様子が描かれました。お家存続のために子はたくさん、そのために殿が側室を持つのもやむなし、でも家の奥を束ねるのは正室の役割だから側室は正室が認める者を、といった部分でした。ただ今回のお葉(北 香那さん)の展開については、私はこのパターンは好まないものです。鵜殿の分家ではあるけど、上ノ郷攻めのときに討ち死にした鵜殿長照の縁者であるお葉は、後に西郡局と呼ばれ、お葉の産んだ督姫も父・家康の勢力拡大に大きな役割を果たすことになります。歴史上の人物を、現代の感覚に無理やり合わせる感じがあるのはどうかな?というのが正直な思いです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄7年(1564)春に三河の一向一揆を鎮めた松平家康(松本 潤さん)は三河の領内の支配を一気に強め、駿河の今川方への調略も徐々に進めていました。家康は酒井忠次(大森南朋さん)を伴って遠江の引間城を訪れ、城主の飯尾連龍(渡部豪太さん)と会談していました。家康は今川と戦をしたいわけではないと考えを伝え、連龍も自分が松平と今川の間をうまく取り持ちたいと家康に思いを語っていました。ただ連龍の妻は上ノ郷城攻めで家康が自害させてしまった鵜殿長照の妹・田鶴であり、家康はそのことを気にかけていました。またこのころの瀬名(有村架純さん)は岡崎城下の築山に居を構えて、誰でも気軽に立ち寄れる場所として民たちのさまざまな悩みや願いを聞いていました。ある日、家康の生母の於大の方(松嶋菜々子さん)が訪ねてきて、家康と瀬名に領土の拡大や他家との縁組で松平家を盤石なものにするためにももっと子を持つよう、果ては家康に側室を持つよう言ってきました。瀬名は姑・於大の話に最初は激怒しましたが、於大の話ももっともだと思い直し、家康の側室選びに自分も加えて欲しいと願い出ました。家康の側室候補には身分を問わず広く募集がかかり、城下からたくさんの女たちが我こそはと城に集まりました。側室選びには於大と瀬名に重臣の酒井忠次(大森南朋さん)とその妻・登与(猫背椿さん)も同席して面接が始まりました。まあほとんどが殿の寵愛を受けて女として出世を狙う、あるいは今より良い生活がしたい人たちでしょうが、中には適齢期でない年端もいかぬ娘や老婆が、あるいは子だくさんの女や自身の出世を狙って女房(娘?)を差し出す者もいました。(これ、お笑いの場面だろうけど、家康はこの先この者たちではないけど、後家や歳の離れた娘を何人も側室にしていくので、家康の今後を示してると思いました。)最初の頃こそ、母・於大や妻・瀬名に半ば強引に事を進められた感じのあった家康の側室選びでしたが、いざ始まってみるとけっこう興味をそそられる女もいたりして、家康さん、乗り気になってきました。ただ残念なことに今回の募集では家康以外の皆が認める者はおらず仕切り直しに。そんな折、下女たちの中で男でも恐れるイノシシを仕留めてさばいてしまうお葉という者の名があがり、仕事ぶりも人柄も評判が良くて於大は興味を持ちました。於大はお葉(北 香那さん)をすっかり気に入りました。お葉は今川家の重臣だった鵜殿長照の縁者でしたが家康に対する恨みは特になく、岡崎城で城勤めができることを有難く思っていました。それでもお葉は家康の側室になることは固辞していて、正室の瀬名からどうしてもと懇願されて頭を下げられ、お葉は断れなくなり引き受けることにしました。自分の側室なのに母や妻が勝手にお葉に決めてしまい、さらに初めてお葉を迎えた夜の出来事が強烈すぎて、家康はお葉から逃げてしまいました。そんなある日、行商人に扮した尾張の木下藤吉郎(ムロツヨシさん)が瀬名のいる築山に来ていて、瀬名と談笑していました。藤吉郎がどうしても家康に伝えたかったと、主君・織田信長の妹の市が近江の浅井長政に嫁いだことを報告しました。藤吉郎は長政を大人物とみていて、さらに「西の浅井様、東の松平様、このお二人がしっかりとお役目をはたしてくださりゃ(殿は)どえらいことができる!」と家康に謎めいた言葉を残して去っていきました。家康はしばらくお葉と距離を置いていましたが、お葉は気の利くことをさりげなくできる女で、家康はお葉を見直し側室に迎えることにしました。そして10カ月後、お葉は姫を産み岡崎城は喜びにわいていました。でも、その後も何かとお葉のことを褒め、苦手な薬湯も精がつくと喜んで飲んでお葉のところに行きたがる家康に、瀬名は複雑な思いを抱いていました。ところが、ある日お葉は突然、家康に「好きな人がいる。側室のつとめを終わりにして欲しい。」といとま願いを出しました。ところが、お葉が言う好きな人とは・・。家康も仕方なく認めてやり、お葉を姫の母として城内においておきました。永禄8年(1565)5月、尾張の織田信長(岡田准一さん)は京で将軍の足利義輝が殺害されたと側近の柴田勝家(吉原光夫さん)から急報を受けました。信長がこれでまた世の流れが変わると感じたように、甲斐の武田信玄も越後の上杉との戦いに見切りをつけ、次の狙いを駿河の今川氏真に向けました。信玄は側近の穴山信君と山県昌景と千代に氏真の家臣をことごとく調略するように命じ、東海の都・駿府(と海)を手に入れる野望を描いていました。そんな頃、今川氏真は引間城主の飯尾連龍が家康と通じていると謀反の疑いをもち、連龍を手討にしてしまいました。一方、その今川への狙いを定めた信玄はその前に三河の領主・家康に会おうと考え、家康に密書を送りました。でも信玄にどう対応したらいいのかわからない家康は、またもや混乱の渦の中に。
March 14, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。徳川家康を扱ったドラマではナレーションで軽く紹介があるかどうかの三河一向一揆を、この『どうする家康』では3話かけて丁寧に描かれました。定番の大きな出来事だけでなくて、たまにはこういった話をじっくり見るのも面白いものでした。思いおこせば昨年の3月に、主役の徳川家康を演じる松本 潤さんが、NHKの『どうする松本潤?徳川家康の大冒険』という番組で、こちら愛知県の家康ゆかりの地を巡る企画がありました。桶狭間の戦の後に家康たちは尾張領の大高から岡崎城に入る前にいったん三河領の安城市に入っていて、その時に松本さんは現在の安城歴史博物館がある場所から岡崎城に向かって自転車で移動していました。残念ながらこの本證寺には訪れていなかったようですが、ドラマのために愛知県の各所を実際に訪れて、いろいろ体感されたようです。さて今回のテーマとなった三河一向一揆で、このドラマの時代考証を務める歴史家の平山優先生が、興味深い解説をされていたので紹介します。※寺内町 ⇒ ⇒ こちら ※「三河一揆」という題名について ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄6年(1563)、三河では領主の松平家康が不入の権を破って一向宗からも年貢を取り立てたことを発端に、一向一揆が起こりました。家康と側近たちは一揆の鎮圧に動きますが一向宗徒の抵抗はすさまじく、また松平の家臣の中にも一向宗に味方する者も多数出て、さらに吉良義昭などの家康に敵対する勢力も一揆側に加勢して、鎮圧は思うように進みませんでした。そして一揆側の軍師として本多正信がついていたことを知った家康は、また自分を裏切る者が出るのではとすっかり疑心暗鬼になり、戦の場から逃げて妻子のいる奥にこもってしまいました。主君が戦意喪失すれば家臣も士気が上がらず、戦続きで皆疲れきっていました。本多忠勝(山田裕貴さん)は酒井忠次(大森南朋さん)に、戦に勝つ道筋を示してもらえないと自分たちはこれ以上戦えないと訴えました。その話を聞いていた長老の鳥居忠吉はすっと軍議の場から離れ・・・奥の私室に引きこもっている主君・松平家康(松本 潤さん)のところに行き、家康におかまいなしに鳥居忠吉(イッセー尾形さん)は中に入っていきました。無礼を怒るものの、忠吉は家康がこの事態にどう対処したらいいのか判断できないのがわかるので、口うるさい隠居の最後の小言と思って聞いて欲しいと家康に強く言い、「道は二つに一つ。」と助言を始めました。「(その昔、家康の)祖父君と父君を家臣の裏切りによって亡くした。どうすればお救いすることができたかと考えたが、これは避けることができないことだった。主君は家臣を信じるほかない。主君が家臣を信じなければ、家臣は主君を信じない。」家康は忠吉に「信じて、裏切られたらどうする。もう一つの道は。」と問いました。すると忠吉は「謀反の疑いのある者をことごとく殺すこと。片っ端から。」と。そして「殺すことにお決めなら、まずわしから。」と言って退室していきました。忠吉の助言で家臣を信じるほうに決めた家康は、戦の身支度を整えて皆が集まる場に行き、皆にどうやって言おうか迷いつつ、でも力強く言い放ちました。「わしについてこいとは言わん!主君を選ぶのはお前たちじゃ。好きな主を選ぶがよい!わしは、お前たちを信じる!」主君・家康のこの言葉に偽りはない、心の底からの思いだと皆は受け止めました。そして家康が「供をしたい者だけ参れ!」と力強く号令をかけると、その場にいた皆は次々と立ち上がり、家康の後を追ってついていきました。そして敵対する吉良義昭からの寝返りの誘いの文をまだ持っていた石川数正と酒井忠次は、もうこんなものは不要とばかりに、笑って文を破り捨てました。迷いのなくなった家康と家臣たちは次々と敵を制圧していき、一揆側はだんだんと追い詰められていきました。本證寺に突入してきた家康に本多正信は「我ら一向宗徒は永遠に戦い続ける。殿に勝ち目はない。」と言って、家康に銃口を向けました。しかしそのとき、かつては正信と共に盗賊退治で戦った大久保忠世が脇から正信を撃ち、家康は難を逃れました。その後、家康は伯父で織田信長の家臣の水野信元(寺島 進さん)の訪問を受け、「三河の内乱がまだ収まらないことを信長が怒っている。戦が長引けば三河の国が衰えていき、勝ってもボロボロになる。方便で寺と和睦せよ。」と言われました。伯父・信元の助言を受け入れた家康は、一揆側に和睦を申し入れをしました。寺は元通り、一揆側についた松平の家臣もお咎めなしと書状にはあるけど、正信はそれを罠だと考え、騙されないよう本證寺の空誓(市川右團次さん)に伝えました。しかし「死ねば極楽浄土」と唱えて戦って多くの者が死傷した現実を見て空誓は、自分は皆にもうこれ以上戦えとは言えない、皆の暮らしを守りたかったと言って、「この空誓、どえらい過ちを犯した。」と皆に手をついて詫びました。そう、御仏に仕える身である自分が、僧兵でもないただ御仏にすがってきた弱き民たちを煽動して死なせてしまったことを、空誓自身も悔いていたのでした。空誓は和睦を受け入れることにし、岡崎城に赴きました。証文に血判する前に空誓は家康に「拙僧はこんな紙切れ信じとらん。お殿様の心を信じたい。わしの目を見て寺は必ず元通りにすると、おっしゃってくださらんか。」と語りかけ、今一度、家康の真意を問いました。そして家康は、少し間をおき空誓の目を見て「寺は、元通りに、いたす。」と言葉少なにゆっくりと返答しました。家康の表情や声に迷いや偽りを感じて、これはおそらくただの紙切れになるだろうと思いつつも、もうこうするしかないと悟った空誓は血判を押しました。永禄7年(1564)2月28日、三河一向一揆は終結しました。その後、反乱に加担したものたちへの処罰が始まりました。以前はあれだけ名前を間違えていた夏目広次の名を家康ははっきりと呼び、多くの家臣から助命嘆願が出ていると伝え、謀反の罪は不問とすると言い渡しました。死を覚悟していた広次は思いもよらぬ寛大な処置にただただむせび泣きました。そして一揆側の軍師であり家康の命を二度も狙った本多正信(松山ケンイチさん)の処罰のために、家康は本證寺に出向きました。正信は家康が方便も使えるようになったと感心し、家康が反乱を悔いた家臣たちを許しているのは家康ば三河がもたないからと言い、さらに過ちを犯したのは家康だとまで言いました。その意味を家康が訊ねると正信は、貧しくて飢えて虐げられて生きる弱い者たちが寺に助けを求める思いが殿にはわからないのだと。「殿が、民たちを楽にしてやれるのなら、だ~れも仏にすがらずに済むんじゃ。そのために民はお前に米をたらふく食わせているんじゃ。己はそれを成さずして、民から救いの場を奪うとは何事じゃ。この大たわけが!悔いなければならぬのは殿でござる。」ーー正信の批判は家康の胸に痛烈に響きました。家康はその言葉に対して「わしはずっと悔いておる。だがこの国を立て直さねばならぬ。そのために過ちを全て引き受け、わしは前へ進む!」と返しました。家康の思いを知った正信は自分の処罰を願い出ました。しかし家康は縛られていた正信の縄を切ってやり、三河からの追放を命じました。正信は座を正して家康に礼を述べ、別れ際に家康が寺と交わした「元に戻す」という約定は大丈夫かと訊ねました。案の定、家康はそれに困っていたので正信はしばし考え「寺があった場所は元の元は野っ原なり。元の野っ原に戻~す!」と知恵の置き土産をしていきました。戦後処理も終わり、ようやく三河に平穏が訪れました。家臣たちは三河家臣団の結束が固まったと喜び合い、『厭離穢土 欣求浄土』の御旗を掲げて、厨でささやかな酒宴を開いて祝っていました。しかしこの三河の争乱で、弱き民たちの気持ちに思いが至らず、半ば同士討ちのような形を招いて多くの家臣や民の命を落とさせた己の愚かさを痛感した家康は、皆と共に祝う気持ちになれずに退席していきました。自分の後を追ってきた妻の瀬名(有村架純さん)に家康は「きれいごとにしてはならん。わしが守るべきものは、民と家臣たちであったというのに…!」と胸の奥の思いを吐露しました。そんな家康に瀬名は「ならばこれから成し遂げましょう。厭離穢土 欣求浄土。汚れたこの世を浄土に」と夫を励まし寄り添いました。二人がいる庭には、家臣たちが踊る「海老すくい」の歌が聞こえてきました。ところで、本證寺で空誓に仕え、反乱軍の松平昌久とつながって一揆を煽動していて、いつの間にか姿を消した歩き巫女の千代(古川琴音さん)は実は、甲斐の武田信玄(阿部 寛さん)に仕える望月千代という女でした。「松平家康という将をどう見た?」と家康の器量を信玄に問われた千代は「才は織田信長に遠く及ばず、これまで見た将の中でも最も肝の小さいお方かと。」千代の批評に信玄が驚くと「ただし、そのことを己自身が誰よりもよくわかっておられるとお見受けしました。」と話を続け、信玄は「面白い。」と家康という男に興味深げでした。
March 7, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。物事が思ったようにうまくいかないときは、自分にも何か原因があるとはよく言われますが、今回の放送では、松平家康(松本 潤さん)の人間として、領主としての未熟ぶりが随所に描かれていました。一向一揆を起こした門徒たちがなぜ領主である自分の言うことをきかないのか、なぜ岡崎の一部の家臣たちは一揆側に行ってしまうのか。その理由に思いが至らない家康は、襲撃されていよいよ己の命に危機が迫ったときに、かつて駿府で人質時代だったときに今川義元(野村萬斎さん)が教えてくれたことを思い出しました。天下の主は「民」であると。ただこの場面で思ったこと。義元は元康(家康)にはこのように教えを授けて、駿府では元康に良くしてやっても、岡崎の民たちには重税を課して苦しめてきたのですよね。だから総合的な説得力には欠けるのかと。でも考えたら義元は「民に見放されたときこそ、我らは死ぬのじゃ。」とも言っていて、この言葉が偶然だけどそのまま桶狭間での討ち死にになっているのかと。もし義元が岡崎の民にも良い治世を行っていたら、岡崎の民たちは「自分にとっての良い領主様を守るために」、もしかしたら織田方の動きを義元に知らせたりとか、何か行動を起こしていたかもしれないですから。それにしても家康、ホントに悪気ないダメ領主でした。例えば名前の間違いは、家康には相手を軽んじる気持ちはなくても本人や周囲にはそう思われてしまってました。また家臣たちが自分を裏切るはずがないというのも、独りよがりで物事の見方が浅い現れでした。そんな家康を支える古参の重臣たちは、まだ家康が大きくなる前とはいえ、遠慮なく家康に意見し、ときには怒りを露わにして叱り飛ばします。家臣たちからガミガミ言われる殿様も大変だし、頼りない殿様を支える家臣たちも大変です。でもこれが「三河家臣団」として団結して、この先にある幾たびもの危機を乗り越えていく力になるのですね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄6年(1563)夏、三河の領主の松平家康(松本 潤さん)が一向宗に認めていた「不入の権」をやぶって一向宗の寺から兵糧を徴収したことに腹を立てた宗徒たちが武器を持って刃向かった一向一揆が起こったのですが、まずは回想シーンから。家康が駿府で人質として暮らしていた頃、庭で論語の学問に励んでいたらの今川義元(野村萬斎さん)が通りがかり、家康に問いかけました。「この国の主でもあり、この天下の主でもある者は誰ぞ?」ーー義元のこの問いへの答えはこのときはまだ出てませんが、論語の教えと後でわかる義元の答えは、この先家康という人間をつくっていく大事なものになっていくと思います。(中学生や高校生の人たちはこの場面を使って、漢文の返り点や送り仮名をつける練習をするといいかも。)もみ米の奪い合いで本證寺の僧兵が家康の使者を斬ってしまい、僧兵は住職の空誓に助けを求め、空誓もそれに応じて皆に呼びかけました。「ここは誰でも救われる場所。それを踏みにじる者はたとえ殿さんであろうと仏敵。」と門徒たちを煽り、武器を持って集まった門徒たちは歌って踊って互いに気持ちを鼓舞し、家康との戦いに備えて団結していました。そのころ家康は重臣たちから、自分たちの忠告を無視して命を下して一向宗との戦の原因をつくったと思いっきり怒られ、さらに本證寺、上宮寺、勝鬘寺などに各地から門徒が武具を手にどんどん集結しているとの報を受けました。どう対処したらいいのか判断に迷う家康に酒井忠次(大森南朋さん)は、すぐに三か寺に軍勢を差し向け速やかに鎮めるほかはないと助言しました。しかしそこへ土屋重治(田村健太郎さん)が、城下のたくさんの家来衆が寺に向かっていると注進に来たので、家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)らに、すぐに皆を引き留めるようにと命じました。元忠たちの説得もむなしく蜂屋貞次や渡辺守綱らの家臣たちが、あるいは本多や酒井の一族の一部の者たちや下女たちが次々と、寺に行ってしまいました。鎮圧に向かった寺はいずれも深い堀と高い塀を備え、周囲はぬかるみで容易に攻められる構造ではなく、命じられた武将たちも自分の身内や家臣には攻撃をしにくいし、寺を攻撃すればバチが当たると思う者もたくさんいました。あまりに士気の上がらない状態を危惧した石川数正(松重 豊さん)が「方々、これはやらねばならぬことじゃ。寺方についた家臣たちは不忠者。ためらわず成敗すべし!さもなくばもっと面倒なことになる。」と皆を説得しました。家康側と一向宗徒との全面戦争が始まりました。寺は堅固なつくりなので大久保忠世(小手伸也さん)らは用心して向かったのですが、寺側は想定以上に鉄砲を持ち、子供でさえ投石で参戦してくるので、家康側は思うように鎮圧できない状態でした。勝気の本多忠勝(山田裕貴さん)でさえ「寺の者たちは死ぬことを恐れないし、それどころか極楽に行けると喜んでいる。手柄や俸禄のために戦うやつとはわけが違う。」と、いつもと勝手が違う戦に戸惑っていました。そして戦で寺側についた身内を自死させてしまった夏目広次(甲本雅裕さん)は家康に、以前のまま寺の特権を認めて欲しいと訴えました。しかしそれをすれば家康が空誓に屈したことになり三河統一ができなくなると数正が泣く広次を諭し、忠次も明日以降も引き続き寺を攻める、心してかかるようにと皆に伝えました。戦いかたを知っているかのような寺側の動きに、家康は寺には誰か軍師がついているのではないかと考えていました。ところが寺には軍師のみならず、かつて家康を討とうとした大草の松平昌久(角田晃広さん)や、家康が織田との同盟のためにやむなく敵対した吉良義昭(矢島健一さん)が味方についていて、好機到来と喜んでいました。さらにこの二人に呼応して岡崎を取り囲む上野の酒井忠尚、八ツ面の荒川義広、桜井の松平家次らが次々と謀反を起こし、三河は大きな内乱状態になりました。空誓は門徒たちに「阿弥陀様は常にわしらと共にいらして必ずお救いくださる。極楽浄土にお迎えくださる。」と呼びかけて煽っていました。次々と出る離反者に家康はすっかり疑心暗鬼になっていて、服部半蔵に家臣たちを見張るように命じました。またそのころ同時に寺側の者たちが家康の家来たちに個々に接触し、吉良側につくよう本多忠勝や榊原康政にも密書を渡していました。主だった家来たちは一瞬は迷ってもほとんどそれに応じませんでしたが、夏目広次は誘いの手に落ちて離反してしまいました。家康は広次の裏切りを信じられませんでしたが、家康が広次を軽んじていると「本人及び周囲が感じている」と、数正は家康の落ち度を指摘しました。そして酒井忠次が来て城内に調略の文が飛び交っていることを報告しました。激しく動揺してうろたえる家康に忠次は、とにかく残る家臣たちをまとめるのが肝要と助言していたら、そこに服部半蔵が現れました。服部党を引き連れた半蔵を見て数正は思いつき「一向宗徒は所詮は烏合の衆。中に潜入しやすい。もはや手段を選んでおられぬ。」と家康に進言しました。そして家康は半蔵に「本證寺に潜り、住職 空誓と軍師を亡き者にせよ。」と密命を出し、半蔵は女大鼠(松本まりかさん)たちと共に寺に潜入しました。半蔵たちは空誓と軍師の暗殺の機会を狙っていましたが失敗、しかし謎の軍師が本多正信であることをつきとめました。しかし家康側は相変わらず劣勢で、ついには手勢が足りなくなる事態に。そこで家康は自らが出陣して、寺の側についた家臣たちに自分への忠義を改めて問おうと考え、具足をつけて危険を覚悟で出ていきました。寺側のことをよく知る土屋重治(田村健太郎さん)から、北側から攻めれば敵は手薄と聞いた家康はそれを受け入れ、攻撃を開始しました。家康が現れると寺にいる松平の家臣たちは、さすがに我が殿は斬れないと慌てて逃げていきましたが、寺の中に入ると銃で家康を待ち構えていた者がいました。兜に銃弾を受けて倒れこんで意識がもうろうとする中、家康の脳裏を巡っていたのは、かつて駿府で今川義元から問われたことでした。「この天下の主であるは誰ぞ?」ーーその答えとして義元は「あの者じゃ。あの女じゃ。あの子供じゃ。」と次々と民衆の一人一人を指していきました。そして義元は力を込めて言いました。「よいか。あの者たちが汗水たらして得た米と銭で我らは生きておるのじゃ。我らは民に生かしてもらっているのじゃ。民に見放されたときこそ、我らは死ぬのじゃ。」と。家康がそのことを思い出していると気がつけば武器を持った門徒たちに囲まれていて、門徒たちは家康に一斉に襲い掛かってきました。家康がもうダメかと思ったとき、土屋重治が自分をかばって刃を受けていました。それから意識を失った家康は家臣たちに助けられ、城に戻っていました。自分をかばった重治のことが気になり様子を見にいくと重治は瀕死の状態でした。重治は最後の力をふりしぼって、自分は殿を罠にはめたと詫び、裏切り者がまだ近しい家臣にいると言い、息絶えました。重治が残した言葉に動揺した家康は再び疑心暗鬼となり、さらなる裏切り者がこの中にいるのかと不安になって、瀬名の手を引いて自室に戻っていきました。瀬名を部屋に閉じ込めた後、庭に服部半蔵がいることに気がつき、命じたことの進捗を訊ねました。空誓の暗殺は失敗、そして軍師は本多正信であると半蔵の報告を受けました。
February 28, 2023
先日の水曜日、この日は仕事も休みで、外を見れば真っ青な空で寒さも和らいできていて、こんな日は家にいるのがもったいない気分でした。そこで前々から気になっていた岡崎の 大河ドラマ館 に行くことにしました。思い立ったのが昼前だったけど、週末は混むだろうから平日に行けるならそのほうがいいですよね。そこで高蔵寺駅(愛知県春日井市)から愛知環状鉄道に乗って、岡崎に行ってきました。中岡崎駅で下車して10分ほど歩けば岡崎城です。そして国道1号沿いの「三河武士のやかた家康館」が現在、大河ドラマ館となっています。チケットは建物の横にある案内所で買います。最初はふつうに800円払って買うつもりでした。でも「年間パスポート」という声が耳に入り、金額は2000円でした。私には、せっかくの県内開催の一大年間イベントです。これはもう年間パスポートのほうがいいと思い、係の方にその旨を伝えたら「マスクを取った顔写真が要ります。」とのことでした。この瞬間、迷いました。というのもこの日は超寝不足で、いつもなら車で行く岡崎を、危ないと思って電車にしたくらいです。この恐ろしい顔でパスポートを作るのか・・。係の人も私の顔を見て、私の気持ちをわかってくれたようでした。( ← )でも、ここで作らなければ800円+この先の回数になるし、たぶん3・4回は行くと思うので、恐ろしい顔だけどこれでパスポートを作ってきました。平日で入場待ちもなく中に入れました。それでも中はそこそこ混雑していて、主役の家康を演じる松本潤さんの知名度を実感いたしました。※ここでUPした写真は全て撮影OKの場所のものです。入り口を入るとすぐに、松本潤さんのウエルカムVTRがあります。それを見て次の部屋に行くと、『どうする家康』のドラマの概要を説明した展示があり、この人形が立ってます。(パネルは撮影禁止だけど、人形は撮影OKです。)次の順路は階段を下りていきます。パネルに近づくと本多忠勝を演じる山田裕貴さんの声が迎えてくれます。地下全体が「徳川家康の一生と三河武士」のゾーンになっています。このゾーンで撮影のOKの一つの「金陀美塗黒糸威二枚胴具足(きんだみぬりくろいとおどしにまいどうぐそく)」ですこれまでは甲冑はマニアぐらいしか見なかっただろうけど、この『どうする家康』ですっかりおなじみとなったと思います。もう一つ、撮影OKな展示の甲冑「鳩胸薄浅黄糸威具足(はとむねうすあさぎいとおどしぐそく)」です。家康のものではなさそうですが、兎耳がポイントです。このゾーンでは三河一向一揆や関ヶ原合戦など、歴史上有名な出来事がパネルとVTRとジオラマ等で説明されています。このゾーンを抜けると次は『どうする家康』のドラマの、あの有名な場面をアニメ化したコーナーがありました。イラストも役者さんたちによく似ていて、映像の演出もなかなか面白いものでした。スクリーンを見た後は、階段を上がってこのコーナーに出ます。(階段が無理な方にはエレベーターがあるようです。)ドラマのメインキャストたちが来場者を出迎えてくれます。役者さんたちの実物大パネルです。横に立って一緒に記念撮影していく人がいっぱいで、松本潤さんの横は老若男女問わず次々と人が来ていました。(平日だから流れが切れたけど、混んでいる日は他所の人が入ってしまうでしょう。嵐が、そして松潤が、老若男女誰でも知ってるいかにスーパーアイドルかを実感しました。)織田信長を演じる岡田准一さんのファンの女性も熱量がありました。ドラマに出てくる本多忠勝の衣装です。本多忠勝はこの岡崎では、家康公と並んで大人気です。家康が竹千代のときに尾張の織田信長に「可愛がって」もらってたときの衣装です。戦乱の世を生き抜くために必要なことを信長が教えてくれてたってことを、家康はいつの日か気がつくといいですね。そして大人気のコーナー「デジタル等身大パネル」です。3人ずつ並んだメインキャストの映像が15秒おきに変わります。(どこに誰がでてくるのかはボードで紹介されてます。パネルと並んで記念撮影する人多しでした。)この先は撮影禁止ですが、なかなか興味深い時間でした。
February 25, 2023
先月の終わりに久しぶりに名古屋の中心地の栄に出て、ぶらりと見てきたときの話です。栄にあるNHKの名古屋放送局に今年の大河ドラマ 『どうする家康』 をより楽しめる展示があると聞き、矢場町の名古屋パルコで「マツケン」の期間限定企画を見た後に、NHKに移動して見てきました。名古屋放送局のB1階に NHK大河ドラマプラザ というスペースができ、無料で見学することができます。期間もたぶん、今年いっぱいあると思います。上記リンクの画像のほうが圧倒的に綺麗ですが、こんな感じの会場だったということで、UPしました。大河ドラマプラザに向かうのに私は地下鉄で行ったので、オアシス21の地下通路のほうから入っていきました。建物の中に入ると大河ドラマのメインビジュアルの松本潤さんのポスターがドドーンと迎えてくれます。会場に着きました。間違いなくココだとよくわかります。こちらのお三方はガラス越しに会うことになります。物語の流れや主な登場人物が紹介されてます。こちらはドラマの美術デザインに関する紹介です。こういった考えで、こうやっているのか、と思って見ていました。主人公の松本 潤さんが着ている、徳川家康の若い頃の衣装です。 織田信長役の岡田准一さんが着ている衣装です。近くで見ると布地やボタンなど、こだわりを感じます。こちらはやがて家康の四天王となる本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)の等身大パネルです。帰りの地下鉄の中で、興味深い広告を見つけました。JR東海が企画する 『どこ行く家康』 です。家康が生涯にわたって縁の深かった場所は、ほとんどが東海道の沿線沿いです。ふだんマイカーを使わない方や遠方の方は、こういうプランを利用するのもいいでしょうね。出口の前には、やはり主人公の徳川家康(松本 潤さん)です。たとえパネルであっても、なんかワクワクしてきます。大河ドラマプラザのHPに「今後のドラマの進展にあわせて展示の更新も予定しています」とあります。家康や徳川家臣団の地位が上がってきたら、また変わるかもしれませんね。
February 23, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では今川から離れた松平元康(松本 潤さん)は名を「家康」に改名し(徳川になるのはもう少し先)、なんかいい感じで三河の統一を進めているような始まりでした。しかし織田信長(岡田准一さん)が鷹狩りと称して勝手に三河領に入ってきて、信長に誘われた(=呼びつけられた)家康が行ってみると、そこには家康に帰属したフリをして実は家康の命を狙っていた反乱分子がいたことを知りました。信長は単に言葉だけの忠告ではなく、わざわざその者たちを捕らえて家康に見せ、家康の考えが甘いことを教えて叱ってくれたのでした。家康は信長を恐がるけど、なんだかんだ言って信長は昔から家康のためになることをしてくれてます。やっぱ信長は家康が可愛いんですね。そしてもう一つ、家康にとって最大の試練の一つとなる三河一向一揆が勃発します。三河の領主としての覚悟がやっとできて、家康なりに領主としてあるべき姿を頑張って実行しようとしています。でも今川で良い待遇を受け、空腹や貧しさを知らない家康の「正論」では、不入の権を使って寺を極楽のような場所にし、「情」で人々を動かす一向宗の空誓(市川右團次さん)は、対抗できないものでした。それにしても、話上手の空誓、恐ろしいですね。皆の前で他人には言えない己の秘密を話させ、互いに秘密を共有して強烈な連帯感をつくり、宗教の教えでそれは仕方がないことなのだと慰めて気持ちをラクにしてやる。そして空誓の話を聞いた後で、自分が救われたような気がして気分が良くなった宗徒たちを楽しい踊りに誘導していくあれは、私は心理学の専門ではありませんが、たぶん集団トランスの状態にしていると思います。気分が高揚してて頭カラッポで踊ってて、宗教の師が言うことだけを信じてこの先行動していくように。そんなものを想像しました。戦国時代でのドラマや歴史番組で徳川家康を扱ったものは多々あれど、三河一向一揆のことはなかなかやらなくて、特にドラマではこれに時間をかけるなどほとんどなかったので、興味深く見ています。ところで今回の放送ですが、三河一向一揆の舞台となった本證寺(愛知県安城市)では、パブリックビューイングが開催されたようです。 ⇒ ⇒ こちら 画像を見た感じ、たぶん檀家さんまたは安城市民限定だと思われますが、第2回放送時の岡崎の大樹寺のときと同様、なかなかない企画で面白いと思いました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 永禄6年(1563)夏、松平元康は今川で人質となっていた瀬名(有村架純さん)と我が子を取り戻し、三河の平定に励んでいました。また同盟を結んだ尾張の織田信長からは名前の元康の「元」の字を変えるようにと言われていて、どんな名前にしようかと元康は悩んでいました。一方、瀬名は姑の於大からは三河の女にふさわしくなるよう家事を仕込まれているのですが、殿の奥方であることを鼻にかけない瀬名は家臣たちからも慕われていて、酒井忠次(大森南朋さん)や鳥居元忠(音尾琢真さん)たちが家で採れた野菜や卵などを次々とおすそ分けでもってきていました。瀬名の周りに流れる空気は温かく、そしてなにより瀬名自身が三河を「一つの家。自分も早くこの家の一人になりたい。」と考えていて、その光景を見ていた元康の心には「家」の字が刻まれ、名を「家康」と改めることに決めました。名を「家康」と改めたことを織田信長(岡田准一さん)に報告した後日、信長の使者として木下藤吉郎(ムロツヨシさん)が岡崎城に来て、松平家康(松本 潤さん)は「鷹狩りをやる。今すぐ西尾に来るように。」と言われました。西尾は自分の領土なのに信長が勝手に入ってと不満に思いつつ、家康が支度をして現地に行くと、信長は「獲物がたくさん取れた。」と言って縛りあげた数人の男を家康の前に突き出しました。それらは東条・吉良の者、大草・松平の者、上野の酒井など、岡崎の家康に謀反を企てていた者たちで、家康はその情報を全くつかんでいませんでした。そう、信長は鷹狩りと称して三河の不穏分子の存在を家康に知らせ、領主としての認識が甘い家康にもっとしっかりするよう叱りに来たのでした。(岡田准一さんと松潤が対峙したこの場面を見てふと、『軍師・官兵衛』のときに同じく岡田准一さんと生田斗真さんが対峙した場面を思い出しました。イケメンの俳優なんて数多いるけど、複数人集まったときに画面がぱあ~っと明るくなるのはジャニーズ特有の“華”だと思ってます。)上野の酒井だけでなく他にもいくつかの小豪族たちが蜂起を企てていて、その者たちを帰属させるために家康は大忙しの日々でした。そしてこの3年、戦続きのために岡崎は財政難になっていて、戦も政もままならぬ状態であり、無理な取り立てをされる民たちにも不満がたまっていました。知恵者の本多正信に意見を聞くと、正信は裕福な尾張から銭を借りればよいと言いますが、信長に借りを作りたくない家康にはそれは無理でした。そんな頃、三河では岡崎の南にある安祥にある一向宗の寺の本證寺に人々が集まり、「賑やかで楽しい。僧の話が面白い。食べ物も豊富。」と評判になっていました。城の女たちの話を聞いて興味を持った瀬名は自分も行ってみたくなりました。本證寺に行くことを瀬名から相談されたとき家康は、寺は不入の権を盾にして銭をたんまり持っていることに気がつきました。ならば寺から銭を取ればよいと考えた家康は石川数正(松重 豊さん)や鳥居忠吉(イッセー尾形さん)ら宿老たちに相談、しかし誰もが一向宗には触らぬほうが良いと言うばかりです。三河にあるならば領主である自分の言うことを聞くべきだと考える家康は納得がいきませんでした。そこで家康は、本證寺の不入の権をこのまま認めるべきかを自分で確かめようと考え、本多忠勝と榊原康政を供にして農民の姿に扮し寺に潜り込みました。ただその頃、同時に瀬名も登与たち城の女と共に本證寺に行ったのでした。家康たちは土屋重治(田村健太郎さん)の案内で本證寺に入りました。そこは周囲を堀や土塁に守られ、寺を中心につくられた堅牢な城下町のようであり、内部は特別な市が開催されているのかと思うほど人々で賑わっていました。重治が言うには、ここには盗人もいない、外からも攻められない、侍・百姓・罪人・遊び女など、どんな人も皆同じだと。そうこうしていると音曲とともに歩き巫女たちが舞を始めて見物する人々は熱狂、そして巫女の中心の千代が、空誓が来るから皆お堂に集まるよう人々に伝えると、人々は歓声をあげさらに興奮して一斉にお堂のほうに移動していきました。それを目の当たりにした家康は、ただただ驚くばかりでした。お堂に集まり今か今かと登場を待つ人々の前に空誓(市川右團次さん)が現れ、歓声をあげる人々を慈しむように空誓は声をかけていきました。空誓(蓮如のひ孫で本證寺の住職)は身近な出来事をわかりやすい言葉で語り、笑いや涙を誘って人々の心の中に入っていきました。そして貧しい暮らしは戦ばかりやっているあほう(侍)どものせいであると世を非難して不作の年にさらに人々を暗い気持ちにさせたかと思うと、今度はこの寺には蓄えがあるからと安心させ、人々の心をつかむものでした。さらに人々に皆の前で己の犯した罪を語るように誘導し、罪悪感に苦しむ人々に「悪業を仏さんがお救いくださる。現世の罪は現世限りじゃ!」と説き、空誓の言葉に救われた(酔った)人々は「南無阿弥陀仏」と唱えながら踊りだしました。老若男女が我を忘れて踊り浮かれる姿を、家康は唖然として見るだけでした。寺には蓄えがあるという空誓の言葉に人々は歓喜しますが、しかしそれは為政者の家康にとっては、納めるべき年貢を寺が納めていないからできたものです。家康は千代に頼んで空誓と2人で話をしました。なぜ一向宗だけは城に年貢を納めないのかと家康が問うと、百姓らしからぬその問いにいぶかしがりながらも空誓は「政をする連中があほうだからだ。あほうは戦にしか金を使わん。死に金じゃ。」と答えました。家康はそれに「戦をしたくてしているわけじゃない!…と思う。国を、民を守るため。少しでも豊かな暮らしをさせるために、皆命がけで。」と返しました。そして「戦をしてはならぬのなら一体どうすれば。」と空誓に問いました。しかし空誓は「知らん。」と言い放ち、「生きとる世界が違う。苦しみを与える側と救う側。」と答えにならない答えを言って、立ち去っていきました。話を終えた家康は踊る群衆の中に妻の瀬名を見つけ、内緒でここに来てあまりに楽しそうに踊っていたことに腹が立ち、瀬名の手を引いて城に帰ろうとしました。そこに先ほど人混みではぐれた本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)が合流し、家康一行は寺を後にしていきました。百姓らしからぬ家康を怪しんだ千代(古川琴音さん)は家康の動きを追っていて、家康の家臣の渡辺守綱と共に岡崎城主の松平家康であることを確認しました。城に戻った家康は一向宗の寺からも年貢を徴収するよう家臣に命じ、家臣たちは少々乱暴なやり方も含めて寺にあった米をみんな無理やり持っていってしまいました。寺から年貢を無理やり取ったことを瀬名は危惧しますが、家康は「あのような不浄な寺を仏門とは認めぬ」と気にしていませんでした。そこへ土屋重治が進注で駆けこんできて、米が門徒たちに奪い返されたと。家康はすぐに本證寺に使者を送り、城の米を奪った者どもともみ米を差し出すよう命じましたが、寺側がそれに応じるはずはありません。屈強な僧兵たちの反撃を受け、重治たちは這う這うの体で逃げ帰ってきました。三河の領主である家康が無理やり寺の米を持っていったことで空誓は怒り心頭、「誰もが救われるこの場所を踏みにじる者は、たとえ殿さんであろうと御仏の敵。仏敵じゃ!わしら皆の暮らしはわしらで守るんじゃ!」と宗徒たちを煽りました。そして千代が皆を、「仲間の門徒衆におのおの戦道具を持って寺に集まるよう触れ回れ!進む者は往生極楽!、引く者は無間地獄!」とさらに煽りました。そして1カ月後、一向門徒衆は武器を持って領主・家康に一揆を起こしました。
February 21, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、今川から離反した松平元康(松本 潤さん)が、駿府で人質となっている妻子を取り返すまでのことが、テンポよく話が展開していきました。全体として印象深かったのは、主君の元康は家臣たちに命令を下した後は、進捗状況の報が入るまでは気をもみながらただ待つしかない、ということでした。まあ自分の妻子に関わることだから心配や不安が強いのかもしれないし、松平はまだ弱小国だから悠然と構えていることができないのもかもしれないですが。そしてドラマ的に面白かったのが、今川と人質を交換する交渉で石川数正が出たときに、これですんなり交渉成立かと思ったらそうではなく、今川氏真(溝端淳平さん)を説き伏せたのは瀬名の父母の関口氏純(渡部篤郎さん)と巴(真矢ミキさん)だったという展開でした。特に巴は前回、自分の浅慮で事態が悪い方に向かったということもあり、その巴が、誰も進言できない氏真に対し叱り、諫言して、自分と夫が元康離反の責めを負うからどうか娘と孫たちはと懇願して氏真を納得させたシーンは、感動で泣けた視聴者も多かったと想像します。一方、氏真は父と自分がどれだけ松平に良くしてやったかと裏切りに怒り心頭ですが、厚遇されたのは駿府の元康だけで、岡崎の皆は今川の支配で苦しんでいて、松平の独立を心から願っていたことを知らないのですよね。もっともこれは、元康でさえ岡崎のことや皆の思いは全くわからなかったので、ましてや氏真には知る由もないことだからしかたがないことなのですが。ところで、これまでの戦国ドラマではほとんど描かれることがなかった上ノ郷城に関して、蒲郡市博物館HPにとてもわかりやすい記載がありました。これは一読の価値があります。 ↓ ↓ 上ノ郷城跡(かみのごうじょうあと)ってなに? こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 永禄5年(1562)2月、松平元康は駿府の今川氏真の元で人質となっている妻の瀬名と2人の子を救うため、今川方の城主の鵜殿長照が守る上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市)を攻めて、長照とその2人の息子を人質にとるという本多正信と服部半蔵の策を取り入れることにしました。戦を控え半蔵が使う伊賀衆の様子を見にいくと、なんとも頼りない感じでした。しかも正信は伴与七郎ら甲賀衆の者たちを勝手に引き入れていて、半蔵は誰を信頼してよいのかわからなくなりました。一方、元康の生母の於大の方(松嶋菜々子さん)は、戦に備えての飯の支度をする厨で「戦に勝つよう念じながら握るのだ。」と皆を鼓舞していました。(今までの戦国ドラマでは、於大の方は賢夫人で何事にも控えめという描き方ばかりだったので、家臣の前にも出てくる楽観的で強気ででノリの良い於大の方というのは初めてで、これもまた面白いと思いました。)松平元康(松本 潤さん)は酒井忠次(大森南朋さん)と本多忠真(波岡一喜さん)に岡崎城の留守居を命じ、自らの出陣の支度を調えていました。そこにこの戦を初陣にしたいと元康の小姓の榊原康政(杉野遥亮さん)が、友よりもらい受けたものを集めた具足を身に着けて飛びこんできました。達者な口で調子のいいことをあれこれ言う康政は皆から怒られていましたが、早く手柄を立てて出世したいと強く思っていました。(出陣を控えた主君の前でもつい酒を飲んでしまう“のんべえ殿”の忠真、自分の仕官先に気軽に文句を言う康政、元康の何倍も怒りまくり家臣たちを叱りまくる数正など、元康の周りはいつもニギヤカです。元康に男惚れする人、主君だけど元康がどこか頼りなくて放っておけない人など、でもいざとなったら元康に身命を賭して仕える人たちばかりです。)上ノ郷城は三河湾を背にした断崖絶壁の上に築かれた堅牢な山城であり、松平勢はその北西にある名取山に本陣を敷きました。総大将・元康の「かかれ~!」の号令で松平勢の攻撃が始まりましたが、断崖をなんとか登ろうとする兵たちめがけて鵜殿勢は崖の上から容赦なく、矢をあびせ鉄砲を撃ち石を落として、松平勢を寄せ付けませんでした。母・於大の方の強い推挙(というか勢い)で、岡崎衆の微妙な空気の中で攻め手の大将となった於大の夫の久松長家(リリー・フランキーさん)でしたが、味方の損害が増える一方で全く前進できないので、兵に退却を命じました。(兵を無駄死にさせないのも大将の役目の一つですね。)そのころ駿府では、牢に入れられていた瀬名(有村架純さん)たちが縄で縛られて今川氏真の前に引き出されていました。氏真は上ノ郷に救援に向かう兵たちを出陣させた後、瀬名たちに一緒に上ノ郷までついてくるように命じました。手を縛られたままの移動で幼子にも歩けという酷な命で母の巴(真矢ミキさん)は思わず泣き崩れました。しかしやはりそれは酷だと思ったのか岡部元信(田中美央さん)が3人の手の縄を独断で切ってやり、竹千代は父・関口氏純(渡部篤郎さん)が抱っこし亀は瀬名がおぶっての移動となりました。(駿府から上ノ郷まで、約135kmあります。軟禁生活と受牢で脚がなえているから男の氏純でもきついし、女子ならなおさら厳しい行軍だと思います。)上ノ郷城の攻略が一向に進まず苛立つ元康のもとに、今川の本軍が吉田城(現在の愛知県豊橋市、上ノ郷から東南東に約18km)に入ったとの報がありました。本軍が上ノ郷城に入ったらもうどうにもならないので攻め入る機会は今宵限りという中で、半蔵たち忍びが何をやっているのか正信にもつかめてませんでしたが、鵜殿勢が寝静まった頃に忍びたちが動きだしました。見張りを襲って変装して半蔵たちが中に入りこみ、崖下で死体のフリをしていた手下の忍びに合図、そして忍びたちが一斉に崖を上ってきました。そしてようやく、上ノ郷城から合図の花火が打ち上げられました。「よし、総ががりじゃ。前と後ろから挟め~!」ーー元康の命が下りました。山側だけでなく海側からも続々と船が押し寄せて兵が城内になだれ込んできます。先陣を切って城内に一番乗りをした本多忠勝(山田裕貴さん)が「かかれ~!」と配下に命を下している隙に、どうしても手柄が欲しい榊原康政がちゃっかりと一番乗りを叫んで城内へ。忠勝はそんな康政を小面憎いと思いつつも、危ないときは助けてやってました。そして搦手(裏門)を破った服部党は本丸に入り、大将・鵜殿長照の眼前へ。長照を生け捕ろうとしたときに甲賀衆の伴与七郎らが現れて手柄は譲ることに、と思ったときに忍びを虫けらと蔑む長照は自害してしまいました。そして2人の息子の鵜殿氏長(寄川歌太さん)と鵜殿氏次(石田星空くん)は父の後を追って自害を図ったものの、服部党に捕まって生け捕りにされ、人質交換に使う駒となりました。(このアクション、高校生と中学生の男子なら耐えられますね。)鵜殿の人質を2人確保した手柄で服部党は元康お抱えの忍びとなりました。服部半蔵(山田孝之さん)は握り飯を持って皆に報告と忍び働きのねぎらいをし、そして今まで自分が皆を嫌っていた、でも今は・・と内心を吐露していました。でもそこには人の話もロクに聞かずにいつの間にか握り飯を取って頬張るだけの、いつもの彼らがいました。半蔵は言葉では「嫌いじゃ~。」と言いつつも、女大鼠(松本まりかさん)や配下の者たちをそれなりに理解して信頼できる気持ちもわいてきました。松平勢が忍びを使って上ノ郷城を落としたことに怒った今川氏真は、連行してきた瀬名たちを処刑しようとしていました。しかし刀が振り下ろされる寸でのところで川の対岸に元康が現れたと氏真に報が入り、氏真は引き出された鵜殿の2人の息子たちを確認しました。同時に人質交換の使者として石川数正が氏真の前に来ましたが、5人と2人では数が合わないと数正を一蹴。数正が忠義の者の子たちを見殺しにしたとあれば氏真の名に傷がつくと訴えても氏真は耳を貸さず、数正も斬れと岡部元信に命じました。しかしこの岡部をはじめ今川の家来衆の心が氏真から離れつつあると読んでいた数正はひるまず「今も今川に忠義を尽くすご家来衆がどう思うか!」と訴え、氏真はようやく自分の周りで起こっていることに気が付きました。怒り狂った氏真は、自分や父・義元がどれだけ元康や三河衆に良くしてやってきたか、この恩知らずがとわめいて暴れました。そして氏真自ら数正を斬ろうとしたとき、巴が「みっともない。」と氏真を呼びとめて立ち上がり「気持ちが高ぶると抑えられずにわめき散らす。私がお守りをしていた幼い頃より少しも変わらぬ。だから皆離れていく。」と諫言しました。それに怒った氏真が巴から殺してやると刀を振り上げると、巴は「是非そうして欲しい。私と夫(氏純)は(娘婿・元康離反の)責めを負う。」と言い、氏純も進み出て、我ら夫婦を成敗すれば氏真の面目も立つから、どうか娘と孫を助けて欲しいと氏真に懇願しました。氏純はさらに、「前途のある若い鵜殿兄弟を助けて欲しい。」と、そして巴は「父・義元公ならそうした。」と氏真に強く訴えました。数正の交渉はどうなったのかと元康が気をもんでいると、対岸に氏真が現れました。交渉は成立して人質交換が行われ、双方が互いに川を渡りはじめました。瀬名と子たちがあと少しで元康のところに着くというとき、鉄砲を準備させていた兵たちに氏真は采配を振るおうとしました。しかしそのとき元康を見た竹千代が嬉しそうにいくども「父上!父上!」と叫び、その声を聞いた氏真は采配を思いとどまりました。瀬名母子の無事に安堵する元康と岡崎衆でしたが、関口夫妻がいないことに気がついた本多正信(松山ケンイチさん)が問うと、数正は事の次第を話しました。元康と氏真はしばらく対峙して互いに引き払いましたが、氏真は駿府に戻ると父・義元の形見の甲冑の前で自問自答を繰り返していました。
February 14, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回から、本多正信(松山ケンイチさん)と服部半蔵(山田孝之さん)という、これからの徳川家にとって、家康にとって、大きな力となる2人が加わりました。正信は頭の回転がとにかく早く、時にはずる賢くて家中から嫌われている、いわばクセ者です。この2年後にやらかすことも含めて、ケンイチ@正信がどんな演技をするのか楽しみです。そして半蔵は、服部家が没落して極貧の暮らしが続く中、心は誇り高き武士のまま、だけど配下の者たちを思うとやっぱり銭は必要、みたいに揺れ動きながら、服部家のお家再興を賭けて難題をやってみることにしました。ところでふと思ったのですが、半蔵の配下の荒くれどもの風体(衣装、メイク)や浜辺に作った一味の砦らしきもの、あるいは仕事にかかる前に酒盛りしてやってることなど、映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』みたいだなと。洋の東西を問わず、あの時代はああだったのでしょうか。そして主役の松平元康(松本 潤さん)です。 今川での人質生活から抜け出た頃は、家臣たちへの指図の一つにも自信がなく戸惑いがありました。でも各所で鍛えられ、少しずつ主君らしくなってきました。服部党がどんなに最底辺で生きていたとしても、働くのは銭のためだけの卑しい心根であったとしても、今この瞬間は自分のために必死で働いていることを理解しています。彼らを嘲笑う家臣たちを「命賭けで働いている者を笑うな!」と厳しく𠮟り飛ばしたシーンでは、胸が熱くなった視聴者が多いと思います。松潤@松平元康、まだまだ頼りない主君だけど、人間力でカバーして一族を率いている感じです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 永禄4年(1560)9月、尾張の織田信長と同盟を結んで岡崎に戻った松平元康(松本 潤さん)は、生母の於大の方(松嶋菜々子さん)が再嫁した夫・久松長家(リリー・フランキーさん)とその間にできた子たち(異父弟や異父妹たち)を母と共に岡崎に呼び寄せていました。子供たちが心のままに、大きな岡崎城を「父上のお城とは大違い。」と言ったり、元康に「兄上様は父上よりも偉いのですか。」と言ったりしても、長家は優しく笑って「父が元康殿にお仕えいたすのじゃ。」とハッキリ言い、子供たちは義兄・元康を尊敬の眼差しで見つめます。長家は義息子の家臣になることを快諾できる寛大な人物であると想像できます。そして母・於大は早く今川領を攻めて領土の切り取りをとせかしますが、駿府に妻子を人質として残している元康は、簡単には結論が出せませんでした。駿府に残る妻の瀬名と我が子たちをどうやって奪還しようか、元康は石川数正(松重 豊さん)や酒井忠次(大森南朋さん)ら重臣を集めて軍議を開きました。ところが誰からも良い案が出ず、ならば力攻めをと本多忠勝(山田裕貴さん)は考えますが、駿府は遠いしそれまでの間に名だたる猛将がいる城々を攻め落とすのは無理があると数正は考えます。そんなとき大久保忠世(小手伸也さん)が本多正信という男のことを思い出しますが、正信は家中ではとても評判が悪く、他の皆は一斉に正信だけは駄目だと猛反対しました。それでも元康は、誰もが思いつかないことを考えるその本多正信(松山ケンイチさん)という男が気になり、忠世に命じて正信を連れてこさせました。正信は自分なら瀬名と子たちを奪還できると言い、その方法は万一策が漏れることがないよう元康だけに伝えたい、事実この岡崎では先代も先々代も家臣に裏切られている、人払いをと言うので元康はそれに応じました。そして正信が考える策とは、服部の一党を使って瀬名と子供たちを盗み出すというもので、そのために銭が要ると言われた元康は正信に銭を渡しました。その服部半蔵(山田孝之さん)とは、かつて父親が元康の祖父と父に仕えていたけど失脚し、半蔵は父の後を継いだものの今や百姓同様でした。半蔵の配下の者たちもどうなっているのかわからない状態で、元康は正信に金をだまし取られたようなものだと数正と忠次は言いました。一方、正信はこの話を半蔵に持っていき、服部党を甦らせて父の汚名をそそぐ好機だと半蔵を説得していました。しかし半蔵は、服部家は武家、忍びはやらない、銭のために働くのではない、貧しくとも誇りはあると言って、正信の話を断りました。とはいえ、ここで簡単には引き下がりたくない正信は、あの手この手で半蔵にこの仕事を引き受けさせました。そのころ駿府では、瀬名と子たちと関口の父母は無事ではあるのもの罪人同様の扱いを受け、今川氏真の厳しい監視下に置かれていました。そして桶狭間の合戦のときに大高城の城代を務めていた鵜殿長照(野間口徹さん)が息子の鵜殿氏長(寄川歌太さん)と鵜殿氏次(石田星空くん)を伴って駿府に来ていて、氏長と氏次は武術の腕前を氏真に披露していました。氏長と氏次は氏真に今川家のために命を賭して働くと誓っていました。また長照の妹である田鶴は氏真から何か密命を受けて動いているようでした。永禄5年(1562)の年が明けてまだ冬の寒さが厳しい中、服部一党と本多正信が瀬名母子奪還のために駿府に入りました。半蔵配下の大鼠(千葉哲也さん)は物売りに扮して市場を巡り、瀬名の侍女のたねにこっそり元康からの言伝の紙片を渡し、その紙片は瀬名に渡りました。覚悟を決めた瀬名は夜中に両親の元へ行き、計画を打ち明けました。そして両親に一緒に岡崎に行くよう懇願すると母は嫌がりましたが、父は現状と今川家の先を考え、義息子の元康に仕えて娘と孫たちを助けて生きていこうと、駿府を出る決意をしました。(義母は今川の誇りを捨てきれませんが、ここにも一人、元康の下座について元康を助けようとする優しい義父殿がいました。)救い出す人数が急に増えたことで半蔵は無茶だと考えましたが正信は「今川の一門の関口氏純を岡崎に連れていけば大手柄になる。」と半蔵を説得しました。半蔵の配下たちは服部家が没落した後は、戦場に出向いて盗みをするぐらいしか収入のない最底辺で生きる者たちで、半蔵自身も彼らを哀れに思っていました。そんな彼らでしたが、命じられたことはできる・できないは関係なくただやるのみ、という信念は持っていました。元康が仕事の息抜きで厨に来てみると、鳥居元忠(音尾琢真さん)と平岩親吉(岡部 大さん)が正信と服部党のことを「鼻つまみ者同士お似合いだ。」とか「このまま逃げ出して帰ってこないかも。」と悪口を並べたてあざ笑っているのが目にとまりました。元康は「何がおかしい。」と言って2人に近寄り、怒りを露わにして「わしはやつらに賭けたんじゃ!やつらなら必ずやり遂げる!わしはそう信じておる!命賭けで働いている者を笑うな!」と厳しく𠮟り飛ばしました。そして作戦決行の夜を迎え、服部党が動きだしました。しかし関口家の警備は手薄だと思っていたら館には鵜殿長照の兵が待ち構えていて、服部党の者たちは次々と討ち取られていきました。大鼠は我が身を盾にして矢から半蔵を守って館に入り込みましたが、もうこれ以上の戦闘は無理であると悟り、半蔵に逃げるよう言いました。大鼠は、自分はここで死ぬ、半蔵は生きて帰って自分や仲間たちの妻子に銭を渡してほしい、服部党は我らの子や孫がまだまだいる、仕事をやり遂げて銭をた~んとくれてやって欲しい、と言い半蔵を逃がすための囮となって兵たちの前に出ていき、討ち取られていきました。作戦は失敗、正信が待つ浜辺に戻った半蔵は急ぎ舟を出して逃げていきました。そして逃亡を悟られもう身動きがとれなくなった瀬名(有村架純さん)たちのところに田鶴が来て、巴(真矢ミキさん)からこの話を聞いたと言いました。そう、田鶴は瀬名たちにおかしな動きはないか探っていたのでした。巴の浅慮で計画が台無しになり(半蔵にとっては多くの配下を失い)、瀬名と関口氏純(渡部篤郎さん)は巴を見て言葉がありませんでした。瀬名たちは受牢となり、田鶴は氏真に関口家の寛大な処分を願い出ました。しかしそれは聞き入れられず一同は死罪が決まり、長照には直ちに上ノ郷城に戻って松平との戦に備えるよう、氏真の命が下りました。正信と半蔵は奪還失敗の報告のために元康の前にいました。正信は、自分はいかなる責めも追うと言いつつも、次の策があるからいま一度働きたいと元康に願い出ていました。石川数正と酒井忠次の二人の側近からさんざん否定されても戦働きをしたいと正信が強く訴えるので、元康は話を聞いてやることにしました。半蔵の策とは、戦のどさくさに紛れて上の郷城に忍び込み、鵜殿長照と息子の氏長と氏次を生け捕りにしてくる、というものでした。
February 7, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は主人公の松平元康(松本 潤さん)が長年支配を受けてきた今川から離脱することを決め、尾張の織田信長(岡田准一さん)と同盟を結ぶために清須に行き、清須で過ごした時間の中で精神的に少し成長した回でした。松潤@元康と岡田@信長の、このドラマでしか見られないであろう昔風の相撲にも目を見張ったのですが、正直一番インパクトがあったのは、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を演じるムロツヨシさんでした。私の中で一番印象深かった秀吉は、『真田丸』のときの小日向文世さんでした。どんなに柔和な顔をしていてもよく見ると目だけは笑っていない、内面の恐さを表したあの演技でした。でも今回のムロツヨシさんも、下位にある今は周囲から侮辱されても理由なく蹴飛ばされてもヘラヘラ笑っているけど、やっぱり目が笑っていなくて、これは後に藤吉郎が出世したときに何かが起こると予感させるものでした。これからもムロツヨシさんの演技に注目です。ただ今回は、史実とかはこのドラマではさほど気にしない私が二つの点で「んー、これは。」と思うのがありました。一つは、妻子と関口家一族が人質に取られた元康の怒りと迷いはわかるのですが、先に処刑された重臣の妻子たちのことがドラマの中では感じられませんでした。いくら殿の奥方や若がまだ無事でも、自分の家族を失った重臣たちももっと感情をだしてもいいと思うのですが。そしてもう一つは、市(北川景子さん)が元康を山の上に連れていって清須の城下を見せたとき。このシーン、私は尾張の地元民として言いたい。清須城下の南側に高さ86mの小牧山を見下ろせる山は、たぶんこの時代でも存在しないです。こんな山があったら後の「小牧・長久手の戦い」の流れがややこしくなると思います。濃尾平野を囲む山は、清須から東に16km行けばあり、北側の山は岐阜県になります。スミマセン、地元なのでつい気になりました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館は3月18日にオープンします。 ⇒ ⇒ こちら 永禄4年(1561)秋、三河の領民のためにも今川氏真から離反することを決意した松平元康(松本 潤さん)は、尾張の織田信長(岡田准一さん)と対等な同盟を結ぶために、信長の居城である清須城(現在の愛知県清須市)に入りました。岡崎を発つ前に信長に気をのまれないよう稽古した元康でしたが、いざ信長と対面してみるとやはり信長の威圧感に負けてしまう元康でした。信長と対面の後、数日清州に留まることになった元康と石川数正(松重 豊さん)ら家臣たちは柴田勝家に宿所に案内され、そこには元康たちの身の回りの世話をする「猿」と呼ばれる木下藤吉郎(ムロツヨシさん)という男がいました。自分を猿呼ばわりされても平気で、勝家が去り際に理由なく自分の尻を蹴飛ばしていっても藤吉郎はなぜか喜んでいて、それを見た本多忠勝(山田裕貴さん)は思わず「ここ(清須)はどうかしているな」と声に出し、岡崎の皆は戸惑うばかりでした。そしてひと息ついた頃、藤吉郎が元康を呼びにきました。元康は案内された中庭で信長と相撲の手合わせをすることになりました。元康も大人になった今、信長は手加減無しで向かってくるので元康も必死に戦いましたが、信長の強さにはまだまだかないませんでした。(それにしても顔が命のアイドル松潤だから、相撲の張り手じゃなく顎の絶妙な位置で岡田さんが肘打ちを入れてますね。それでも同じジャニーズの先輩の岡田さんだからできる演技です。)信長との一番がやっと終わったと思ったらもう一人、面をかぶった者と手合わせをやるように言われ、元康はやむなく応じました。恐ろしく身軽で強いその者を力で抑えこんだら面が外れ、それは女子でした。無礼を詫びる元康をどこか嬉しそうに見つめるその女子は、信長の妹の市でした。兄・信長から元康を清州を案内するよう命じられた市(北川景子さん)は喜んで引き受け、馬を駆って元康を清須の城下が見渡せる高台に連れていきました。想像以上に栄える清須の城下に目を見張る元康に市は誇らしげに「兄はこの数年で何もかもを作りかえられた。特に桶狭間より後は人も富も勝手に集まってくる。かの小牧山城から美濃を攻める。美濃を手に入れたら次は西へ向かう。」と言い、さらに続けて「乱世とは、まこと愉快な世であることよ。」と言いました。乱世が愉快と言う言葉に耳を疑った元康が訊ねると市は「力さえあれば何でも手に入る。力さえあればどんなに大きな夢も描ける。ただし、男であればな。」と。市の「乱世は愉快。男であれば。」という言葉から、元康は織田に預られていた15年前のことをふと思い出していました。来る日も来る日も信長や近習たちから武術や水練の厳しい稽古を受け、少年・元康なりに精一杯あらがっていたときに、兄・信長から「女は相撲や水練はならん」と言われていても市は兄の後を追っていました。「道なき道を進むのが戦ぞ!戦で敵は待ってくれんぞ。」ーーお側衆を鍛える信長の言うことはもっともなのですが、鎧もつけた水練は元康にはやはり恐くて尻込みしてしまい、その姿を市は情けないと思っていました。織田と松平の同盟が成され国境もすんなり決まり、元康はあとは今川にどう対処したらいいのか悩んでいました。元康が今川は大国だからと言うけど本音はかつての恩と妻子を残したことにあると見抜いている信長は、元康の頬を張って「情で自らを滅ぼすな。いまだ白兎か。」と言い、そして「今川は滅ぼせ。」と要求しました。さらに信長は、両家の結びつきを確かなものにするために市を妻にするよう元康に命じましたが、さすがにそれは受け入れられません。元康は手酌の酒をあおって勢いをつけ、信長に自分は織田の軍門に下ったわけではない、先の戦では丸根砦を落としている。大高城を巡る戦で勝ったのは自分だと反論し、信長はそれに「物の見方とはいろいろじゃ。」と応えました。二人のやりとりを聞いていた藤吉郎が、こういう見方はどうかと進み出てきました。藤吉郎は庭にある道具を使いながら「殿(信長)ははなから大高城を力攻めしなかった。周りに砦を築き大高城をじわじわ苦しめ、でも落とすなと命じた。大高救援に動いた松平はそこそこあしらって通すよう命じた。大高がよみがえり今川義元は動いて罠にはまった。」と元康が考えもしなかった見方を説明しました。自分たちの力で織田に勝ったと思い込んでいた元康は、全てが罠だったと聞いて激しく動揺して「そんな芸当ができるのは戦神ぐらいのものじゃ!」と言い返しましたが、「戦神」の言葉を信長は満足そうに聞いていました。元康と市の婚儀の話が進み、まずは二人で話をしていました。そして藤吉郎は元康に同行してきた三河の重臣たちに清須城内を案内しながら、美しく聡明で気丈な市に憧れるたくさんの男どもが二人の光景を複雑な面もちで盗み見している様子を、陰から愉快そうに笑って見ていました。(おしゃべりが得意な藤吉郎は片っ端から情報収集して仕事に役立てていると思います。)元康が市の気持ちを確かめたとき、市は「兄はふだんは誰も寄せ付けない。元康殿を気に入っている。自分は貴方を助けて、兄をもしのぐほどの強い強い大将にすると心に決めた。」と元康の目を真っすぐに見て思いを伝えました。そのころ駿府では今川氏真が元康の妻・瀬名に対し、元康が裏切ったから関口一族を処刑する、それが嫌なら自分のものになれと要求していました。自分の身で一族の皆が助かるならと瀬名は意を決して氏真の夜伽に入りましたが、瀬名が手にしていた元康のお守りで氏真は嫉妬して激怒しました。氏真からの文で元康は駿府で起きている出来事を知り、そして瀬名が書かされた血文字の文を見て激しく動揺して、どうしたらいいのかわからない悔しさで床を拳で何度も叩いていました。その光景を見た市は元康の瀬名への思いを悟り、元康が婚儀取り消しを申し出る前に自分から婚儀を断りました。「かよわい男は嫌いじゃ。」と言いつつ市は元康の前に来て座り「この世は力。欲しいものは力で奪い取るのです。」と元康を𠮟咤激励しました。市の後押しを受けて元康は、瀬名と我が子を自分の力で取り戻す決意を固めました。そして信長のところに行き、信長に差し向けられた刀を握り返して己の血を流しながら、「私は信長殿を我が兄と存じております。ただただ兄上と結びし約定をしっかり果たすまで、今川領をことごとく切り取り、今川を滅ぼし、我が妻子をこの手で取り返しまする。ご異存おありでしょうや。」と決意を伝えました。そんな元康に信長は何も言いませんでしたが、ついさっきまで白兎と思っていた(実は可愛い)弟分の成長を認めているようでした。織田との同盟も決まり、今川との戦いのために岡崎に戻ろうとする元康の姿を見て、信長は市に「恋焦がれた男に振られた気持ちはどうだ。」と声をかけました。兄にそう言われたとき、市はふと元康が織田にいたときのことを思い出しました。男に負けまいと一人で勇気を振り絞って川に飛び込んでみたけれど、鎧と着物が重たくて危うく溺れかけたときに竹千代(元康;川口和空くん)が自分を助けてくれたあの日のことを。川から上がって濡れた身体を火で温めながら、竹千代は市(上村結羽ちゃん)の気持ちを察して「このことは誰にも言いませぬ。でもこれからもし水練をしたくなったらこっそり竹千代をお呼びください。」と言い、そして救助の時についた手の傷をさっと隠して「お市様のことは、この竹千代が必ずお助けします。」とあのとき言ってくれたのでした。信長は失恋した妹・市に「望むなら元康を殺してやってもいいぞ。」と言ってやりましたが、市は気丈に「そんなことをすれば武田や北条と兄上が相対さなければならなくなる。やっかい事は白兎殿に。」と応えました。しかしそう言いつつも市は「大切になさいませ。兄上が心から信を置けるお方はあの方お一人かも。」と元康は信頼に足る人物であると兄・信長に伝えました。いよいよ今川との大戦が始まると元康の一行は岡崎に向けて清須を発ち、一方、駿府でも氏真が、父・義元亡き後の今川の再興を決意して、裏切った松平を討ち果たすよう家臣たちを鼓舞していました。
January 31, 2023
昨日の土曜日ですが、名古屋の栄にある名古屋パルコで今や “マツケンサンバ” ですっかりおなじみの松平健さんの「マツケンサンバ POP UP SHOP」ができたという情報を見て、しかも期間限定で今日(1/29)までとあったので、急ぎ行ってきました。松平健さんは、こちら愛知県出身の大スターです。昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では平清盛の役で出演されていて、年齢を重ねての風格と変わらぬカッコ良さを惚れ惚れしながら見ていました。ということで、車を名古屋市内の地下鉄の駅近くのに停め、この日は栄と名古屋駅の両方に行きたかったので地下鉄の乗り降り自由の休日用の1日乗車券(ドニチエコきっぷ・620円)を買い、まずはパルコがある「矢場町」に行きました。パルコに10時半に着いたら、オープンは11時からでした。周辺を少し散策して、11時半頃にショップに入りました。入り口にはこの開運の神社が。たくさんのファンの方が「チビケン絵馬(715円)」を飾っていました。ショップ自体は小さなスペースですが、床はこの模様で、天井にはミラーボールがあって、お土産の種類もたくさんあり、ガチャの機械もいくつかありました。松平健さんが舞台公演の第2部の歌謡ショーのときに来ていた衣装です。説明書きによると、マツケンシリーズは1984年の「松健音頭」から始まり、何曲か経て1994年に「マツケンサンバ2」が製作され、2004年にリリースされて大ヒットしてこの衣装も広く世間に知られることになった、とあります。履物もちゃんと金色で統一です。「上様」の呼び名が似合う松平健さんだからこその衣装ですね。海外で仕入れてきた煌びやかな生地を目の前で見てきました。この衣装にステージのライトが当たり、バックで腰元ダンサーズが一斉に踊ると、本当に華やかで楽しそうでしょうね。こうやっていろいろ書いていたら、『マツケンサンバ』が見たくなってきました。こちらは公式の動画です(音に注意ください) ↓ ↓コスプレ 着物 キラキラ着流し ゴールド 仮装衣装 スパーク着流し マツケンサンバ会場の出口のところには、松平健さんの「オ・レッ!」決めポーズのパネルが。たくさんのファンの方が入れ替わって一緒に記念写真を撮っていました。
January 29, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は松本 潤さん演じる松平元康が今川から離反するまでのことが、三河平定の始まりと共に、元康にとってと家臣たちにとっての、双方の思いとして描かれました。まあ元康にしたら、織田にいた幼い頃の2年間でさんざん恐い思いをしてきたから、今川に来て優しくされたら今川贔屓になるでしょう。しかしその間、今川に支配を受けてきた岡崎の者たちにとっては、搾取され続け、着る物はもちろん食べる物すら満足にない、苦しい生活を強いられてきました。そしてそのことを、元康は知らなかったようです。いえ、たとえ耳にしていても、自分が常に持っていかれる側でどん底の暮らしでひもじい思いを実際にしなければ、その苦労は実感としてわかないことでしょう。また母・於大の方(松嶋菜々子さん)に対しても、幼いときに離れて記憶すらない存在だから、多感な少年時代を共に過ごしてきた駿府の人たちに情が深くなるのも仕方がないことなのです。そして元康が駿府を思って嬉しそうにしていると、家臣の石川数正(松重 豊さん)や酒井忠次(大森南朋さん)が思わず表情が曇るのですが、元康は気がつきません。家臣や領民たちの思いがやっとわかったけど、居心地よく愛しい妻子もいる駿府から離れるのは、一人の男として元康には辛いことでしょう。結局、最後は「君主として」家臣や民を守るために織田につくことにしたけど、それは駿府に残る人質のことも含めて、元康にとって大きな決断だったと思います。ところで、ドラマでは矢島健一さん演じる吉良義昭が出てきましたが、吉良氏とは約140年後に “赤穂事件” でよく名前を聞くようになるあの吉良氏です。私も2年前の春に東条城に行ってました。東条城(愛知県西尾市吉良町) ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 大河ドラマ館、愛知県岡崎市で開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 永禄3年(1560)6月、桶狭間の戦いの後に松平元康(松本 潤さん)は松平の城である岡崎城に入ったものの気持ちは駿府にあり、いずれは駿府に戻って今川氏真の側近になることを思い描いていました。しかしその前に三河を松平勢だけで平定する(=戦)という大仕事がありました。岡崎の留守を守っていた老臣の鳥居忠吉(イッセー尾形さん)は元康をある洞窟に案内したのですが、その奥には銭や武器が山と積まれていました。それは忠吉が今川から来ていた城代の目を盗んでコツコツと貯めたもので、いつか元康が岡崎に戻ってきたときにすぐ戦に出られるようにとの思いからでした。(忠吉がいくら勘定方であったとはいえ、銭をごまかして隠していたのがバレたらどれほどの罰を受けるかと思うと、元康に対するまさに命がけの忠義だと思います。ただ残念ながら元康にはその苦労や意味はまだ実感できないようですが。)織田信長は今川義元を討った後、今川の支配下にある三河への攻勢を強めていて、元康はその最前線で織田勢と戦わなければいけませんでした。目下の敵は刈谷城の水野信元で、信元は元康が生き別れとなっている母の於大の方の兄にあたる人物でした。「わしらの殿の戦いだ」ーー岡崎では兵糧の準備や兵集めなど、織田との戦いに備えて領民たちは自ら駆けつけて士気高く働きだしました。ところが肝心の元康は駿府にいる妻の瀬名や子たちのことが気がかりで、忙しく働く皆をよそに文を書いて駿府に送ったりしていました。そして7月下旬、松平軍による刈谷城への攻撃が始まりました。「名を上げたい者は我に続け~!」ーー先陣を承った本多忠勝(山田裕貴さん)の働きは目覚ましいものでした。元康はこれなら松平の勝利ですぐに戦は終わると思っていたのですが、背後から織田勢が迫っていることを知り、急ぎ撤退を命じました。結局は松平軍の惨敗となってしまったこの戦いでは多くの兵が亡くなったり行方知れずとなり、松平の本陣ではその者たちの確認で大わらわで、戦死者の中には本多忠勝の名もあり、取りまとめをする夏目広次は耳を疑いました。(この時代はこんな感じで作業をしていたのですね)そして兵たちの死体があちらこちらに散らばる戦場では、戦いの後で農民たちが死体から武具の略奪を始めていたのですが、農民たちが忠勝に群がって武具を持っていこうとしたとき、忠勝は気がついて起き上がりました。忠勝は実は気絶していただけで、戦死者の名簿から忠勝は無事?訂正されました。水野信元の背後にいる織田信長の存在を見誤り苦しい戦を強いられている元康は、駿府の今川氏真(溝端淳平さん)に援軍を要請しました。瀬名の父(元康の舅)の関口氏純(渡部篤郎さん)は元康のために氏真に必死に援軍のことを頼みましたが、他のことで頭がいっぱいで苛立っている氏真は氏純の話に耳を貸そうともしませんでした。氏真は「後で必ず援軍を送る、それまでこらえよ。」と元康に伝えるよう氏純に言い、さらに「我が元には元康の妻子と家来たちがいることを忘れるな。」と付け加え、氏真の言葉に氏純はやりきれない思いを抱えました。今川の援軍が来ずに苦しい戦が続く松平勢の中には、今川は援軍を出さぬのではと疑いを持つ者も出始め、鳥居元忠はその者たちを𠮟り飛ばしていました。そんな中、今川方の武将で東条城(現:愛知県西尾市)を守る吉良義昭(矢島健一さん)が松平の援軍に駆けつけました。しかしその後の松平・吉良の連合軍での戦も敗北し、元康側は戦死者が増える一方で、軍議でも良い案が浮かばず元康も重臣たちも苛立っていました。戦況が不利な中、苛立っていたのは下の者たちも同じでした。大事な軍議を中断させるほどの大喧嘩が始まり、やっと収まったところで酒井忠次(大森南朋さん)がその理由を訊ねました。すると「今川の助けは来ない。織田につくべきだ。このままだと皆死ぬ。」と言い出す者が出てきて、考えが対立したのが喧嘩の原因でした。不利な戦が続く疲れと緊張で、少し気に入らないとすぐに激しい言い合いになるので、石川数正(松重 豊さん)は皆に言動を慎むよう命じました。皆が思うことは元康も同じでしたが、織田につけば駿府にいる松平の者たちがどうなるかを考えると、元康はどうしていいのかわかりませんでした。酒井忠次は元康に、甲斐の武田信玄に助力を頼んではどうかと提案し、信玄に内々に会うよう頼む文を送りました。しかし信玄は、三河の領主でもない元康とは話ができないと言い、文を送り返してきました。(でもまだ話を聞かなかったことにしてくれて優しいと思う)、そんな松平の内情を見計らった刈谷の水野信元(寺島 進さん)が内々にと元康を訪ねてきて、「甥っ子、信長様に頭を下げろ。」と言いました。そして話の流れの中で信元は伴って来た坂部城(現:愛知県知多郡)城主の久松長家(リリー・フランキーさん)とその奥方を呼び入れて元康に紹介しました。その奥方は元康が幼い頃に生き別れとなった母・於大の方(松嶋菜々子さん)で、元康にとっては18年ぶりの再会でした。信元は酒井忠次と石川数正に気を利かせて退室するよう促し、元康は母・於大と母子水入らずの時を過ごしました。於大は岡崎の城を懐かしみながら思いつくままに語り、元康も会えない母を心の中でただ慕っていた日々のことを伝えました。「そなたを思わぬ日はなかった。」と言う於大は元康に「今川と手を切るように。今川はもうおしまい。そなたは信長様には勝てない。」と。それは自分は今川の家臣であると考える元康にとって衝撃的なことであり、さらに於大は「信長様は(松平を織田の家臣としてではなく)松平と対等に結び、三河をそなたに任せてくださるという。この上ない有難いお話。」と続けました。妻子を駿府に残す元康にとってそれは受け入れられない話であり、母にそのことを言うと母は「それが何だと言うのです。主君たる者、家臣と国のためならば、己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ!」と語気を強めて元康に言いました。母の言葉に動揺した元康は母に出ていくように言い、母は「今、味方している吉良義昭を攻めて所領を切り取られよ。それが信長様への返事になる。」と元康に助言して退室していきました。家臣の中にも今川から離れたほうがいいと考える者もいる、母・於大は同じことをさらに強く言う、自分が考えてもいなかった状況に困惑する元康のところに、駿府から瀬名(有村架純さん)の便りが届きました。文には(松平の人質として駿府にいる)富(鯉沼トキさん)たちと縫物をして時を過ごしている、子たちもすくすくと育っていることなどが書いてありました。早く駿府に帰りたい気持ちがますますつのる元康に、忠次と数正はどうしても申し上げたいことがあると言って、元康を外に連れ出しました。外に出ると百姓たちが生き生きと稲の刈り取りをしていました。百姓たちが張りきって収穫に励むその理由を忠次が元康に語りました。「我らの殿が岡崎に帰ってきた。もう今川の支配下ではない。今川の重税に苦しまなくて済む。たらふく飯が食える。」という喜びだと。忠次は元康に、自分が勝手に兵や百姓どもにそう言った、長年苦しめられた今川のために兵は集まらない、殿が三河一国を切り取ると信ずるからこそ皆は槍を持って戦に出張ると語り、元康の前に下座して「三河衆は皆、どうの昔に今川を見捨てている。」と今まで元康に言えなかった本心を吐露しました。そして土下座して「松平のため、岡崎のために今川を切るご決心を!どうか!」と迫り、自分を手討にしてほしいと刀を差しだし、数正も同じくと土下座しました。2人の重臣が土下座し、自分たちが手討になってもいいから「どうか、ご決心を!」と迫り、でも元康は大事な重臣たちを手討になどできるはずもなく「嫌じゃ!」と言って彼もまた泣き崩れました。その光景を遠くから見ていた鳥居忠吉は一人黙って、深く土下座していました。果たして吉良義昭を攻める決断を下した元康は、夜空に燃え盛る東条城を割り切れない思いを抱えて見ていましたが、水野信元は「甥っ子、尾張・清州へ行こう。俺たちの殿様に会いに。」と満足気でした。そして元康の離反を知った駿府では、怒った今川氏真がすぐに松平の人質(重臣の妻)たちを処刑し、瀬名親子はどこかに連れ去られていきました。
January 24, 2023
風は冷たかったけどよく晴れた昨日の土曜日、前々から気になりつつもなかなか行くことができなかった、愛知県春日井市にある勝川大弘法に行ってみました。 こちら JR中央線の勝川駅から歩いて数分の駅前商店街に大きな像があると、以前から聞いていました。昨日は毎月第3土曜日に開催される商店街の勝川弘法市と重なっていたので混雑が予想され、車は駅近くのコインパーキングに停めました。大きな像といっても駅前のマンションが立ち並ぶ狭い通りでは見つけることができず、道々訊いて歩き到着しました。やっとたどり着きました。たしかに大きな像です。この地方では一般的には「勝川大弘法」の名で知られていますが、正しくは高野山真言宗 持明院別院 勝満山 崇彦寺(しょうまんざん しゅうげんじ)とパンフレットにありました。高野山ですからこの方は弘法大師(空海)さまです。こちらがお寺に入る細い路地と本堂です。本堂の前には浄財箱とテーブルが置いてあり、テーブルの上にはここのご住職が書かれた本と正月のおさがりらしきビニルパック入りのお餅があり、「ご自由にお持ちください」とありました。なので私も、浄財を入れて本をいただいてきました。入り口にある小さなお地蔵様で「居眠り地蔵さま」です。説明には「何でも聞いてくださる」と。たぶん心がけが良ければ、だと思いますが。弘法大師さまです。私たちを見守ってくださってます。お寺の方の話によると、この像は昭和の戦前に作られ、この像が建て直して3回めになるとのことです。今のような大きなマンションが建ち並ぶ前は、大師さまは鉄道の駅(勝川駅)から見ることができたそうです。またこの像は、幹線道路の国道19号に近いのでそこから見えそうな気もしますが、いつも車の運転中ばかりなのでわかりませんでした。本堂の右手にある「びんずる尊者さま」です。撫で仏さまで、自分が患っている同じ個所を尊者さまで撫でてお願いすると治してくださる、有難い仏さまだそうです。参拝が済んだので、市で賑わう商店街を抜けて駐車場に戻ります。イベントコーナーにあった円空仏さま、どうしてこれが?と思ったら・・すぐ近くに「新・円空仏工房」がありました。この商店街に古くからある建物のたたずまいと円空仏が、いい感じです。この日は自衛隊愛知地方協力本部 小牧分駐所の方々が広報活動に来ていました。今回も白ヤギさんと黒ヤギさんが自衛隊と一緒に来ていました。エサやり体験もOKで、草をもらって喜んでいました。ああ、「白ヤギさんからお手紙ついた、黒ヤギさんったら読まずに食べた・・・」またこのメロディーが私の頭の中を流れる・・。
January 22, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回で印象深かったのは、ラストで弱気な大将だった松平元康(松本 潤さん)が覚醒して自信を持ち、その姿に本多忠勝(山田裕貴さん)もようやく元康を主君を認めた部分もあったのですが、なにより織田信長(岡田准一さん)率いるヒャッハー軍団がインパクト抜群でした。このドラマではいかにも荒くれでヤンチャな印象ですが、彼らは家を継げない武家の次男坊や三男坊らで、信長が集めて傍に置いて鍛えた子飼いの若侍たちです。その中に前田利家や佐々成政もいるんですよね。で、ドラマでは竹千代役の川口和空くん。武芸の稽古で信長流に可愛がってもらっているとはいえ、ブン投げられたり地面に転がされたりで、まあ大変です。彼は実年齢が14歳で多少は筋力があるから耐えられるだろうけど、もし当時の家康と同じ7歳の子役だったら危なくてあんなことはできないですね。また当時7歳の家康があれと同じ目に遭っていたら、もう信長の存在が思いっきりトラウマになって、恐怖の記憶しか残らないでしょう川口和空くん、信長役の岡田准一さんが何度も付き合ってくれて、技を丁寧に教えてくれたと喜んでいました。良い心がけです。これを機に武術の稽古にも熱が入って、いつか「あのとき岡田さんが~~」とかあったらいいですね。そして大樹寺の登譽上人として登場した里見浩太朗さん。時代劇の大御所ではあるけど、このドラマとSNSを見る世代の方々はあまり関心がないかなと思いきや、お名前がトレンドに上がるほどの大反響でした。(失礼しました)私は里見浩太朗さんは『水戸黄門』の助さん時代は記憶にないけど黄門様時代は大好きで何度も見ていたし、大型時代劇の『白虎隊』や『田原坂』も大好きでした。時代劇は衰退気味であると言われるけど、一つの時代を作ってきた大御所たちはやはり、そこにいるだけで別格の華があるのだと感じました。ところで、その舞台となった大樹寺(愛知県岡崎市)では、パブリックビューイング第2弾が本堂で行われたそうです。粋な計らいですね。 ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 大河ドラマ館、愛知県岡崎市で1月21日オープンです。 ⇒ ⇒ こちら 永禄3年(1560)5月、今川方の兵として大高城(現在の名古屋市緑区)に兵糧を運び込んだ松平元康でしたが、この戦いで今川義元が織田信長(岡田准一さん)に討たれたことを知り、戦いの最前線にいる元康たち松平勢はどう動いたらいいのか、織田勢が大高城を取り囲む中、判断がつきかねていました。そして信長も大高城を取り囲むだけで、攻めてくる様子はありませんでした。元康が信長を前にしておびえていると本多忠勝がその理由を問いました。「お前にはわからぬ。」と答えた元康は、織田方の人質として信長の元で暮らした12年前のことを思い出していました。今から12年前の天文16年(1547)の夏、当時6歳だった竹千代(元康の幼名)は人質として駿府の今川家に送られることになっていましたが、戸田宗光の裏切りで尾張の織田信秀(藤岡弘、さん)の元に送られてしまいました。今川につくと決めた父・松平広忠は信秀に「竹千代のことは勝手にせよ。」と伝えたため竹千代は処刑されるところでしたが、それを信長が止めました。ただ信長のおかげで命拾いしたとはいえ、織田家での信長やその配下の若侍たちがつけてくれる戦の稽古は、幼い竹千代にはあまりに荒っぽくて厳しいものでした。思わず「地獄」という言葉を口にする竹千代を信長は笑っているだけでした。元康が信長とのことを思い出していると、大高城を取り囲んでいた信長がなぜか突然引き上げて大高城を後にしていきました。今川が負けた以上ここにこもっていても仕方がないから駿府に戻ろうと元康は考え、家臣たちもとりあえずそれを受け入れました。しかしその後で岡崎から城代の山田新右衛門が討ち死にした、今川の家来衆も急ぎ岡崎を出て駿府に戻っていったと知らせが入りました。老臣の鳥居忠吉(イッセー尾形さん)は、それならば松田勢は駿府ではなく岡崎に戻るべきだと進言し、他の家臣たちもそれに賛同しました。でも駿府での暮らしにすっかり馴染んでいる元康は、とにかく駿府に戻ると主張し、今川の重税に耐えながら必死に岡崎を守ってきた家臣たちと対立してしまいました。松平元康(松本 潤さん)は家臣たちと意見がまとまらないので、三河領に入ったら各々が行きたい所に行くとして移動を開始しました。矢作川を超えて三河領に入り岡崎に帰りたい家臣たちが去ろうとしたとき前方に軍団が現れ、それは大草の国衆の松平昌久でした。昌久は元康を迎えに来たと言い、昌久の腹黒さを知っている石川数正や鳥居忠吉は元康に信じてはいけないと進言しますが、元康は昌久を信じることにしました。ところが元康が前に進み出たとき数正が危惧した通り昌久が裏切り、元康めがけて大草松平勢が攻撃を開始し、万一に備えて元康をかばって前に出ていた忠吉が銃で撃たれて深手を負ってしまいました。忠吉をはじめ多くの岡崎の松平勢が負傷し、這う這うの体で大樹寺にたどり着いてそこで手当を受けていました。自分が判断を誤ったために味方の多くが負傷し、元康は自分を責めていました。そして寺の外には元康を追ってきた昌久の軍勢がヤジを飛ばして挑発して構えているので、住職の登譽上人(里見浩太朗さん)はその者たちを寺の中に入れないようにしていましたが、昌久勢は勢いづいたままでした。自分の首さえ出せば皆が助かるのかーーそう思った元康は住職に「父祖の墓前で一人静かに考えたい。」と言って奥に入っていきました。戦場の恐ろしさと、戦場で主君たる自分が決断をして命を下すことの難しさと恐ろしさを知り、そして自分のために多くの兵が死傷してしまった。ならばせめて自分の死をもって家臣たちを守ろうと考えた元康は父祖の墓の前で自害しようと思い、そこへ本多忠勝(山田裕貴さん)が来て、自害するなら介錯をしてやると言いました。ただ元康は忠勝が主君たる自分に偉そうな物言いをするのがどうしても気になっていたのでそのことを問うと、忠勝は言いました。「俺の命を捨てるだけの値打ちがあるお方を主君と仰ぎ、いつの日かお主を主君と仰ぎ(父や祖父のように)お主を守って死にたい。」忠勝の言葉を聞き、今の自分は主君の器量ではないと痛感した元康は、自分を恥じて泣きながら腹に刀をあて、そして忠勝は介錯のために刀を振り上げました。でもそのときふと「厭離穢土 欣求浄土」の言葉とともに、尾張にいた頃に信長や近習たちにしごかれていたときのことを、そして信長の言葉を思い出しました。「この世は地獄。俺たちは地獄を生き抜くんじゃ!周りは全て敵ぞ!弱ければ死ぬだけじゃ。かかってこい!ほら、白兎、どうした!」ーーそして必死に信長に抵抗しながらも、そう言われたときに「違う!竹千代は兎ではない!竹千代は寅じゃ!寅なんじゃぞ!」と言って信長に技を返していたあの時のことを。信長に必死にくらいついたあの時、信長は「そうじゃ、その目じゃ!その目だけは忘れるな。」と初めて自分に優しい笑みを見せてくれました。今川にいて目立たぬようひっそりと生きてきた間にすっかり忘れていた、このまま敗者で終わりたくないという心の奥底の思いが、元康の中によみがえってきました。元康の心境の変化に気づいた忠勝は介錯の刀を下げ、この成り行きを見守っていた石川数正(松重 豊さん)と酒井忠次(大森南朋さん)、そして隠れて見ていた寺の榊原康政(杉野遥亮さん)が出てきました。忠次から「いね(去れ)。」と言われ康政はその場を去ろうとしましたが、元康の思い違いがどうしても気になり、恐れながらと進言しました。「厭離穢土 欣求浄土とは、汚れたこの世こそ浄土にすることを目指せ。かような意味と登譽上人様に教えてもらいました。様々な解釈があるけど領主さまならこう解釈するのが良いかと。」ーー康政の言葉が元康の胸に響きました。この乱世の中で松平の当主である自分が志すものが見えてきた元康は意を決して、門を開けて大樹寺の僧兵たちとともに松平昌久の前に出てきました。そして名乗りを上げ昌久の兵たちを見据えて「我らこれから、本領の岡崎へ入る。我が首を取れば、岡崎で我が帰りを待つ1,000の兵たちが怒りの業火となって、貴殿の所領に攻め入るであろうから、しかと覚悟せよ!」と。そしてさらに力を込めて「また今川は新当主・氏真様の力で早晩立ち直るは必定!その今川と我らを一度に相手できるならばやってみよ!」と言って昌久に詰め寄り、侮っていた元康のあまりの迫力に、昌久は驚いて腰を抜かしてしまいました。「三河は我が父祖が切り取った国じゃ。必ずやこの元康が今一度平定し、いかなる敵からも守ってみせる!織田からも、武田からも守ってみせる!」ーー元康が迷いなく昌久勢に言った後、今度は岡崎勢のほうを向いてさらに力強く「わしは寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた、武神の生まれ変わりじゃ!そなたたちのことは、このわしが守る!わしが守るんじゃぁ!」と決意を表明しました。つい先ほどまでとは別人のような君主・元康の姿に、家臣一同は胸を打たれました。忠勝は元康を見直し、康政も(元康についていくと)自分の進むべき道を見つけたようで、登譽上人は安堵したように康政を見ていました。気迫で昌久を圧した元康は、昌久勢に「道を空けい!」と力強く命じました。岡崎勢の家臣たちも口々に「道を空けよ!」と連呼、そして忠勝は昌久勢をにらみ据えてひときわ大きな声で「道を空けい!」と命じました。忠勝が元康に代わってものを命じるその姿は、元康を我が主君と認めた証でした。元康たちは昌久勢の中を威風堂々と進み、岡崎へ帰っていきました。元康が無事に岡崎に入ったとの知らせを受け、駿府では妻の瀬名だけでなく今川氏真も安堵して喜んでいました。またその頃、甲斐の武田信玄は松平の若大将(元康)のことを調べ上げるよう、飯富昌景に命じていました。今川が去った岡崎城では、元康が岡崎の皆に「案ずることはない。今川様は必ずよみがえる。そしてこの元康は寅の化身じゃ。いかなる敵も恐るるに足らず!織田信長など蹴散らしてくれようぞ!」と自信を込めて伝えていました。士気の上がった家臣たちからは口々に「殿~!」と声が上がり、元康自身も皆の期待に応えなければと決意を新たにした・・・のですが、障子を閉めて皆の顔が見えなくなったら、ちょっと大風呂敷を広げ過ぎたのかと悩んでいました。一方、元康が生き延びて岡崎に入城したことを聞いた信長は「いよいよ食らいに行くか。白兎を。」と何か考えているようでした。
January 17, 2023
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