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電子書籍のデビューが近づいてきた。6月20日に発売予定。タイトルは、「ライター ヤギ飼いになる!~やればできる! 六〇代からのチャレンジ」。ぼくはライターという仕事を40年やっている。主戦場は東京だった。60代になって、山梨へ移住してヤギを飼い、果樹栽培を始めた。田舎生活や農業にあこがれていたわけではない。でも、漠然とだが、都会生活への不安を感じていたのは間違いない。コロナ騒ぎがきっかけで、思い切った一歩を踏み出すことができた。そのいきさつを簡単にまとめた本だ。今まで本を出すというのは、けっこうハードルが高かった。特殊な体験をした人、大成功した人、発想力の豊かな人、文才のある人にしか門戸は開かれていないものだった。ぼくは、幸いにも人に恵まれ、少し時代の先を行くテーマをもっていたので、20数冊の本を出すことができた。これは貴重な体験と実績になったけれども、もっと簡単に本が出せるツールとして、これからは電子書籍が大事になると思っている。本来、人それぞれ、ドラマの中を生きているわけで、記録として残しておいてもいいではないか。小説が書きたければ、電子書籍で発表すればいい。小説家にはなれなくても(名乗ってもいいけれども)、小説を書いて出版するという夢はかなうわけだ。ぼくがなぜ電子書籍を出そうと思ったか。さっき言ったように、これまで20数冊の本を出してきたが、ぼくが企画を出したのは一冊もない。知り合いの編集者との雑談の中で、「それ面白いじゃないですか?」という展開があって、出版が決まってしまったのだ。本来、ぼくはプレゼンは苦手だし嫌いだ。自分自身や自分の企画を売り込むようなことができないタイプ。常に受け身の姿勢で生きてきた。ただ、お酒を飲みながらなら、あれこれ自分の体験や考えをしゃべることはできる。売り込むつもりなど毛頭ない。ただの酔っぱらいのおしゃべりだ。そんな席で、編集者が興味をもってくれたことが本になっている。山梨へ越して、編集者と話す機会がなくなった。編集者どころか、家族以外の人と話すことがあまりない。ぼくの話を面白がって聞いてくれる人がいないのだ。ブログは書いているが、ネットの発信も、ほとんどしない。60代70代と、これから何をするかと考えたとき、自分にできるのは文章を書くことだけと気づいた。それなら、死ぬまで書き続けるか。しかし、それなりに読んでもらえるものにしないと。ぼくの場合、ブログではなかなか「読んでもらおう」という気持ちになれない。それなら本にするしかない。と言っても、ぼくに興味をもってくれる出版社もない。出版社からの依頼は、この10年くらい、便利屋ライター程度の仕事だ。山梨へ来てから、便利屋はやめた。自分が発信したいことだけにすると決めた。となると、電子書籍はありがたい。プレゼンはしなくていいし、編集者の顔色をうかがうこともない。自分の意思を一番に書けばいいわけだ。そして、少しは収入にもなる。そんなわけで始めた電子書籍。すてきなアドバイザーにも恵まれ、長女がやり方を覚えてくれることになり、ぼくが原稿をまとめれば本になる、という仕組みが着々とできつつある。原稿を書くのが楽しみになってきた。
2024年05月31日
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若いころ、けっこうがんばったのは草ラグビーのチームを作って、10年ほどリーダーとして試合を組んだり、メンバーを集めたり、今振り返っても大したものだと思う。始まりは酔った勢いだった。ぼくは30歳くらい。20代の編集者3人と飲んだ。3人とも競馬とラグビーが好きで、酒がどんどん進む。だれが言い出したか、「ラグビーチームを作りませんか」「やろう! やろう!」どんどん盛り上がっていく。「チーム名はどうしようか」うーんとみんなが頭をひねる。一人が言った。「グリーングラスでどうですか?」「思い出のグリーングラス」という歌があるが、ぼくたちがイメージしたのは、1976年の菊花賞を勝った名馬だ。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3強がしのぎを削っていた時代だ。一番遅れて登場したのがグリーングラス。長距離が得意な玄人好みの馬だった。ぼくが初めて馬券を買ったのは、1979年の暮れの有馬記念。グリーングラスの引退レース。彼は見事に有終の美を飾った。ぼくは馬券を外した。そんな思い出の名馬をチーム名に決めた。大学時代の先輩後輩に声をかけ、さらには、その知り合いへとつながり、練習用のグランドを探し、人が集まったら、試合相手を見つけ、あのころは獅子奮迅の活躍だった。あの飲み会から数ヶ月で試合をしたのだから大したものだ。週に1度は多摩川の河川敷で練習をし、ちょっとしたコネを頼って試合を組んだ。東大の検見川にある施設を借りて合宿もやった。ぼくが出版社で働いていたこともあって、講談社や小学館、ラグビーマガジンといったチームと一緒に、出版社リーグを立ち上げ、最初は下位の方だったが、優勝争いをするまでいったこともあった。キャプテン、監督を10年やった。新日鉄釜石のV7の選手も何人かチームにスカウトして、試合に出てもらったこともある。ぼくは試合中に膝の骨折をして2ヶ月の入院生活。それを機に引退した。よくやったと思う。ゼロから何かを立ち上げていくのは好きだった。ラグビーの場合は10年も続いたが、大抵のことは、立ち上げて軌道に乗ったら身を引くのが、ぼくの常だった。組織を管理し継続させるのは、ぼくは苦手だった。この才能を生かして、イベントを開催したり、小笠原のドルフィンスイムツアーをやったりして、そこそこやれたと思う。ひょっとしたら、使い方によっては、もっとでかいことができるだけの能力だったのかなと、思ったりもする。今はもう、何か組織を立ち上げようとか、大きな運動をしようとは思わない。小さなことを、慎ましくやっていく。そこで、ちょっとした才能を使えたり、培ってきた体験を生かすことができるかもしれない。ぼくの数少ない能力のひとつが、草ラグビーのチーム作りということで、形になったわけだ。よくがんばったと思う。
2024年05月29日
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子どものときを振り返って、ぼくは何に興味があったのか考えてみた。スポーツかな。やるのは苦手だったが、見るのが好きだった。野球が一番だった。巨人のV9の時代。長島さん、王さんが大活躍していた。高校を卒業してすぐに大活躍した堀内さん。テレビで巨人の試合を見るのが楽しみだった。同時に、12チーム、チーム名は同じだったが、長島さんも王さんもいない、架空のチームがぼくの頭の中とノートの上で、妄想ペナントレースを繰り広げた。選手名簿を作り(架空の選手)、ドラフト会議やトレードもあった。もうひとつ、我が家はなぜか毎日新聞をとっていたので、夏になると都市対抗野球の話題がスポーツ欄をにぎわした。それをヒントに、ぼくは、プロとアマの間に、地域別のセミプロチームを作り、全国大会を開いたりしていた。考えてみると、今の独立リーグの原型を、ぼくは小学校のときに考えていたことになる。相撲も好きで、想像上の力士を並べて番付表にし、毎日、取り組みを決めて、星取表も作った。そんなことを部屋にこもってやっていた。親は、勉強していると思っただろう。安心していた。そう振り返ると、ぼくは、現実よりも妄想の中で生きるのが好きなタイプなのだろう。今で言うオタクの資質をもっていたのだと思う。そこに活路を見出していたら、もっと面白い存在になっていたかもしれない。高校、大学、社会人と、現実路線を選んで、けっこうしんどい思いをして、20代後半でやっと自分の道へと足を踏み入れた。それが文章を書くことだったが、それでも、思いっきり妄想の世界に飛べない。せっかく、スピリチュアルという、思いっきり妄想力を広げられる世界をテーマにしているのに、現実に足を引っ張られている自分が、68歳になってももがいているわけだ。今年のドラフトの目玉は〇〇高校の△△選手。どこの球団に指名されるか。くじ引きなんかも作って、ワクワクしていた。自分の頭の中だけの出来事なのに、あんなにも楽しめたのだ。現実は現実として置いといて、もっと妄想の世界で遊ぼうと思っている。
2024年05月28日
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長年、ひとつの道を歩み続けてきた人は、本当にすばらしいと思った。昨日、石井光(あきら)先生の内観海外普及45周年、中野節子先生の信州内観研修所開設25周年のパーティに参加した。100名近い方がお越しになっていた。石井先生は、青山学院大学法学部の教授として教鞭をとりながら、自分自身が大きく変化した内観法という、自分を見つめる修養法を指導し、広める活動をしてこられた。日本で生まれた内観法だが、今ではヨーロッパ各国、中国、台湾、韓国など、世界に広まっている。その原動力となったのが石井先生の精力的な活動だ。中野先生も内観に出あい、自らが大きく変わるとともに、人が幸せになるツールとして可能性を感じ取り、内観研修所を設立して、内観法を指導してきた。「この道を行く!」お二人ともぶれることはない。そして、その根底には、一人でも多くの人が幸せになってほしいという願いがある。損得ばかりを考えて、得をする方に動こうとする人間は、お金を儲けることはできても、薄っぺらな人にしかなれない。損得関係なく、自らが信じた道を淡々、粛々と歩んでいく人は、人間としての深みを得ることができる。人が集まってくる。やさしいお顔の裏には、たくさんのご苦労が隠れていることだろう。悩みや葛藤に心が折れそうになったこともあったはずだ。しかし、自分の進む道はこれしかないという、強い信念が、折れそうな心を支える。そうやって、何十年もひとつの道を歩み続けてきたのだ。石井先生も中野先生も、ぼくよりも年上だ。まだまだ隠居する気はないとは思ってがんばっているつもりだが、あの方たちのアグレッシブな生き方と比べると、何だか、芯がぶれているし、ふにゃふにゃしているなと思ってしまう。ぼくのまわりはすごい人ばかりだ。ぼくにもやることはいっぱいある。気合を入れて、前へ進んで行こう!いい刺激をいただいた。
2024年05月27日
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ぼくは、どちらかと言うと、「アンチ」の立場で生きてきた。始まりは医療。主流である西洋医学よりも代替療法を応援してきた。今は、適材適所で、西洋医学と代替療法が融合した医学が実現すればいいと思っている。農業もぼくの好きな分野。それも、いわゆる農薬や化学肥料を使う慣行農法ではなく、自然農、自然栽培を支持している。そしてエネルギー。原子力ではなく自然エネルギーが広がってほしいというのが、ぼくの願いだ。でも、ぼくの願う形にはなかなかならない。その原因のひとつが、アンチの人たちのセクショナリズム。方法論の違いで仲良くなれない。代替療法なら、〇〇式と××式とがいがみ合っていたりする。違いを強調して、手を組めないのだ。自然農でも同じ。自分の考案した〇〇式が一番で、ほかのやり方は受け容れないという人がけっこういる。エネルギー問題でもそうだ。「原子力をやめようよ」というが共通の思いなのだが、それで手をつなげばいいのに、「太陽光はパネルのリサイクルの技術が確立されていないから嫌いだ」「地球温暖化の原因は二酸化炭素ではない」といった、枝葉の部分で足並みがそろわなくなってしまっている。何が目的なのか。西洋医学がすべてではないよね。農薬や化学肥料は減らそうよ。原発は危険だからやめよう。どの分野にも、社会を変えようとがんばっている人はたくさんいるが、根幹部分に目を向けていかないと、代替療法も自然農も自然エネルギーも、マニアックなもので終わってしまう危険性もある。べったりとつながる必要はない。でも、世の中をより良くするためには、自己主張ばかりしないで、手を組むところは手を組まないと。ぼくがこんなことを言っても、遠吠えにもならないのだが。ぼくには大きなことはできないから、小さなところで、静かに物事を進めていこうと思っている。
2024年05月25日
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台風1号が発生したらしい。小笠原へ行っていたころは、台風情報にはピリピリしていた。小笠原丸が欠航になれば、予定が大きく狂う。20人くらいの大人数だったので、主催者としては、ハラハラどきどきだった。出航しても船が揺れるのは嫌だ。初めて小笠原へ行ったとき、沖縄方面に大きな台風があって、そのうねりで、船がひどく揺れた。船酔いはしなかったが、一晩中、船がふわっと浮かんでは、ばーんと叩きつけられるような中で過ごした。やっと着いたと思っても、高波で海の状態は最悪。イルカとあうことはできたが、海に入っても、波に上下にもてあそばれて、怖くてたまらなかった。何回目だったか、八丈島付近(半分くらいのところ)で急病人が出て、大島まで引返すというハプニングもあった。予定変更でバタバタだった。イルカと泳ぎに行った帰りの船の中で、仲間が急に倒れ、亡くなってしまったということもあった。最後の小笠原となった2019年は、台風が小笠原諸島に居座って、一度も海に出られなかった。しかし、快適な宿だったこともあって、みんなんで自炊したり、島の人を呼んで講義やワークショップをやってもらったりして、けっこう楽しめた。予定通りに進まない、何が起こるかわからないのが人生だということを教えてくれる、小笠原の旅だった。いい経験だった。でも、落ち着いたらまた行ってみたいと思っている。台風発生と聞くと、10回ほど行った、小笠原の旅を思い出す。
2024年05月25日
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すももと桃の摘果作業を終えた。今年はすももも桃もあまり手がかけられなかった。暑かったり寒かったり、天候不順もあって、今のところ順調に育っているが、これから病気が出たりするかもしれない。すももは今年が3年目。桃は山梨へ来て4年目だが、3回目の挑戦だ。桃の初年度。無農薬でやると決めて、毎日、桃の木に「ありがとう」と声がけした。微生物溶液を噴霧した。ヒーリングミュージックを聴かせた。「1個でも実ったら泣いてしまう」それくらいの思い入れがあった。実ったときのうれしかったこと。ひと口かじったときの感激。忘れられない。こんなおいしい桃は今まで食べたことがない、ほどだった。自分で育てたということもあるが、ほかの人に食べてもらっても、大感激されたので、間違いなくおいしかったのだと思う。同じ農園でとれた通常の方法で栽培された桃とはぜんぜん味が違ったから。すももは桃に比べるとやりやすかった。これもおいしかった。ある化学物質過敏症の女の子。スーパーで買った果物は口にできないのだが、ぼくが送ったスモモはばくばく食べたそうだ。すももは6月半ば、桃は7月、8月に収穫が始まる。今年もおいしい実を授けておくれ。↑去年のスモモ
2024年05月24日
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このゴールデンウイークは、けっこう大きなストレスがあって、気持ちが重い状態が続いていた。そんな中、「あれっ」と思ったことがある。この数年、非常に寝つきが悪かった。横になればすぐに眠れたのに、寝る時間になると目が冴えて、2時間も3時間も、布団の中で寝返りを打ちながら、時間を過ごしてきた。最初のうちは苦痛だった。「今日も眠れない」と思うと恐怖と不安が膨らむこともあった。しかし、途中から眠れないことを受け入れることにした。寝付くまで、布団の中でいろいろなことを考えることにしたのだ。これまでのことを振り返り、今後のことを考える。あるいは、自分がやりたいことをイメージする。こんな本が書きたいなと構想を練る。これは功を奏した。不安が少なくなった。寝付きが悪くても、朝まで眠れないわけではない。いつの間にか眠っているのだから、それでいいではないか、と考えられるようになった。睡眠時間は少なかったが、昼間、眠くてたまらないわけではない。昼寝もできる。そんな状態がずっと続いていたのだが、不思議なことに、ゴールデンウイーク中のストレスの間、昔のように、すっと眠りにつけたのだ。ストレスがあると眠れなくなるはずが、逆に、いい眠りになった。どういうことだろう?東日本大震災で津波に飲み込まれそうになったがんの患者さんの、全身に広がったがんが消えてしまったという話を思い出した。火事場の馬鹿力ではないが、窮地に追い込まれたとき、思わぬ力が出るのかもしれない。人体というのは、ピンチになると自然治癒力が最大限に働き始めて、体調が正常に戻るのではないか。大きなストレスから逃れさせるために、強制的に眠らせようとする力が働いたのかもしれない。あれ以来、数年前までの快適な眠りを取り戻している。まだ、心の中にはもやもやしたものが残っているが、峠は越えた。生命には、ぼくたちの考えの及ばない神秘がある。生命力を信じることだ。生きる上で悩みや苦しみは付き物だが、結果的には、すべてはうまくいくようにできているのだから。
2024年05月23日
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2025年、人類が滅亡するほどの出来事が起こる。あちこちで言われている。世界各地で天災が発生し、戦争もあって、感染症も怖い。その規模が大きくなれば、本当に危ないぞと思うのはぼくだけではないだろう。さらに、この間の太陽フレア。各地でオーロラが観測されたそうだが、きれいな空にうっとりしている場合ではない。来年はもっと大規模な磁気変動に見舞われるそうだ。通信が大きな影響を受ける。原発の再稼働が進められているが、原発をコントロールする機器に問題が発生したらどうなる?地震に津波に通信障害。日本列島を囲むように、原発が並んでいる。福島第一原発のような事故が起これば、もう日本には住めなくなる。大地震で日本が破壊される終末イメージをもっていたが、原発が、日本の運命を握っているのではないかと、このごろ思うのである。大地震だけだと、まだ日本に住むことができて、生き残った人による復活も期待できる。しかし、そこに原発事故が連動すれば、放射線量の高いところだと、助けに入ることもできない。日本は死の地帯として、だれも近づけなくなる。世界のあちこちの原発で事故が起こったら。もう地球上で住めるところは限られてくる。人類を滅ぼすのは放射能。その原因となるのは原発と核戦争。世界に400基以上ある原発。1万2000発を超える核弾頭。普通に考えれば、来年までに何とかなる数ではないが、あきらめるわけにはいかない。人の意識が変われば、流れも違ってくるはずだ。一歩ずつ進んでいくしかない。まずは原発のない日本から。「原発を止めた裁判長 原発を止める農家たち」という映画がある。原発問題を考えるきっかけにしてほしい。山梨でも上映会が開催されます。2024/6/29 山梨県甲府市 樋口英明氏トーク付き[バリアフリー]主催:山梨県弁護士会日時:2024年6月29日(土)13:00開場 13:40上映(1回上映)会場:山梨県立図書館 多目的ホール(甲府市北口2-8-1)定員:150名問合せ:山梨県弁護士会問合せ電話:055-235-7202問合せメール:yamaben@minos.ocn.ne.jp
2024年05月22日
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ご先祖様を大切にしろと、ずっと父親から言われてきた。 父親の言う大切にしろは、ご先祖様が残してくれた土地や家を大切にし、お墓を守っていくということだった。 あくまでも「守り」の姿勢だ。 ぼくは反発した。ご先祖様が一番喜ぶのは、子孫が思う存分生きていることだ。子孫が楽しく、生き生きしているのが先祖孝行だ。家を守るために縛られるというのは間違っている。よく父と議論したものだ。 ぼくは「攻め」の姿勢だったわけだ。 実は両方とも大事なのだと、今になってわかる。 ぼくは長男でありながら家を出た。やりたいことをやらせてもらって、これまでの人生にあまり悔いはない。 実家にときどき帰る。一時は空き家になるのを覚悟したが、次女が結婚して住み始めてからは、犬に猫にヤギににわとり。おかげさまでにぎやかな家になった。「ご先祖様喜んでいるな」と感じる。ほんとうにありがたいことだ。 縁のある人たちが集まる家になるといい。我が実家を拠点に、村が活性化すればいい。そうなれば、「守り」「攻め」の両方面からのご先祖様孝行が実現するわけだ。 ご先祖様は、ぼくに何を期待しているのかわからないが、いろいろ仕掛けてきている気がする。変化には痛みが伴う。痛みが消えたとき、大きな光に包まれることがある。どんなことが起こってくるのか、楽しみにしていたいと思う。↓実家を守ってくれているワンコたち
2024年05月20日
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5月18日。父親の7回忌、母親の3回忌。実家に親戚が10人ほど集まってくれて、小さな法要を執り行った。お勤めのあとも、故人との思い出話をしたりして、いい供養になったと思う。父はお人良しだったが、自分がこうしたいということは曲げなかった。昔の職人らしく口も悪かった。母は、極度の心配性。物事を悪い方、悪い方へと考える性格だった。しかし、職人だった父が独立を考え始めたころ、父はあれこれ迷っていたのに、母が父の背中を押した。父の方が臆病で、母の方が大胆だった部分もあったのだ。2人とも働き者だった。農業では生活できないので、父は手先の器用さを生かしてブロックの塀を作ったり、家の基礎工事をしたり、トイレやお風呂を作る仕事を始めた。見よう見まねで覚えて、人に負けない仕事ができるようになって、あちこちから依頼がきたのだから大したものだ。母は、いつも父の仕事の手伝いについていっていた。父は口が悪い。母の手際が悪いと、ぼろくそに言う。あんなにもひどく言われて、よくぞがまんしたものだと思う。とにかく、家族が食べるため、子どもを育てるために、必死になってがんばってきたのだと思う。決して裕福ではなかったのに、ぼくは、不自由や不足を感じたことはなかった。ぼくは長男だったから、父も母も、ぼくに夢をもっていたのだろう。大学を出して、いい会社へ就職させて、出世してほしい。両親の希望通りにはならなかったが、紆余曲折はあったけれども、68歳までいい人生を歩むことができたのだから、ありがたい親だった。そんなことを考えた一日だった。両親には感謝しかない。
2024年05月19日
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50年というと半世紀。長い年月だが、考えてみれば、50年前、ぼくはすでに18歳だった。1974年、昭和49年だ。この年の3月に高校を卒業して、大学に入学し、名古屋での生活が始まって間もないころだ。4畳半の古いアパート暮らし。田舎者が都会へ出て、刺激は大きかったが、戸惑うことも多かった。50年後なんてじっくりと考えたこともなかったが、大学を出て、大きな会社に就職して、そこそこ出世して、定年まで勤めて、あとは悠々自適に暮らすものだと思っていた。当時は、終身雇用、年功序列が当たり前で、「安泰」のレールが敷かれていたものだ。しかし、たった2年で、そのレールから外れてしまった。あのままだったらどういう人生だったかわからないが、ぼくは、レールを外れたおかげで、20代、30代、40代、50代、60代と、とてもダイナミックな50年を過ごせたと思っている。会社を辞めるときは悩んだし、親とも激論を交わしたし、将来が不安だった。でも、どうしてもこのまま5年が過ぎ、10年が過ぎていくことには耐えられなかった。両親は言った。「石の上にも3年や! もうちょっとがまんせえ」「違う。3年もすれば、石の上でもあきらめるということや。俺はあきらめたない」屁理屈を並べて、親の話に耳を貸さなかった。50年、いろいろなことがあった。本が売れて、調子に乗っていたことがあった。そしたら、ぱたっと売れなくなった。経済的にピンチだった時期もある。18歳までは親の庇護のもとでぬくぬく暮らすひよこで、巣立ったあとの半世紀は、つらいことはいくらでもあったけれども、いいことはもっとたくさんあった。これからも、何があるかわからない。油断はできないし、楽しみでもある。もう少し、人間として成長したいと思っている。
2024年05月16日
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人の心はネガティブな方向に引っ張られる傾向にあるようだ。どんどんネガティブになっていくことを、真氣光では、マイナスの氣の影響を受けるという言い方をしている。 マイナスの氣とは、いまだに暗い世界にいる魂のこと。死んでしまってなお、苦しみやかなしみ、悔しさ、恨み、未練を抱え、肉体を脱ぎ去ったあとに本来行くべきところへ行けていない。 そういった魂は、自分の苦しみ、つらさを知ってもらいたくて、同じような思いを、この世に残っている人たちに体験させると言う。特に、ご先祖様の影響は大きいようだ。 何かネガティブな出来事に遭遇して、悩んだり心配したり不安になったりしていると、エネルギーが低下する。 そこに、マイナスの氣はもぐりこんでくるのだ。テレビやラジオ、携帯と同じで、悩みの周波数を発していると、同じ周波数のエネルギーが集まってくる。 そのままにしておくと、小さな悩みや心配事が、雪だるまのように膨らんでしまう。 マイナスがマイナスを呼び込む悪循環に陥ってしまうのだ。悪循環から逃れるためにはどうするか?真氣光では「まずは氣をしっかり受けなさい」と言われる。ハイゲンキという氣を中継する機械がある。ヘッドと呼ばれる装置を体に当てるだけでいい。簡単に氣が受けられる。真氣光とは縁のない人は、自分のなりの方法を考えておくといいだろう。たとえば、ぼくは、帯津先生から教えられた「延命十句観音経」という短いお経を唱える。腹式呼吸を意識するといい。車で移動しているときには、大声で何度も唱える。ネガティブなことから気持ちが離れていく。エネルギーが充電される。呼吸法だったりいろいろな種類の気功だったり瞑想だったり、不安定になっている心が落ち着くようなものをもっているといい。茶道や華道などで気持ちを静める方もいるだろう。武術やスポーツもいいかもしれない。もうひとつは、信頼できる人に相談することだ。話すだけでもすっきりするし、アドバイスが心に染みることもある。とにかく、心はネガティブに傾きやすいものということを知っておくといい。いつも明るく前向きに生きるなど、心の性質から見ると、そう簡単にできるものではない。ちょっとしたことで必ず落ち込む。悩む。かなしくなる。それを知った上で、どうしたらポジティブな方向にもっていけるか、日ごろから考えておくといいだろう。そして、沈みっぱなしということはあり得ない。いつか浮かび上がる。そのことを知っておくのもいいだろう。ぼくも最近、心が不安定になることがあって、重いエネルギーに包まれていた。しかし、ここで言ったことを駆使して、かなり回復してきた。すべてのことには意味がある。すべてのことに感謝する。頭ではわかっていても、心はコントロールできない。落ち込むときには落ち込むがよかろう。ネガティブな出来事に遭遇したときこそ、自分の身の丈がはっきりと見えてくるものだ。意味があって、ネガティブな出来事も起こっている。しかしあくまでも、自分のエネルギーを向上させるためだということを忘れてはいけない。ネガをバネに成長すれば、マイナスの氣にもたくさんの光が届いて、彼らの苦痛も減少するのだ。振り回されてはいけない。マイナスの氣を上手に活用して、成長していくくらいのしたたかさが必要だ。
2024年05月15日
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ストレスフルな出来事があったとき、瞬間瞬間に振り回されると、いい判断ができなくなる。 流れをていねいに見る。つらい出来事があっても、それがあったことによって見つかる「いいこと」がある。 この間のボクシングの井上尚弥チャンピオンの試合。第一ラウンドでダウンを奪われた。人生初のダウンだそうだ。 見てる方もびっくりする衝撃的シーンだった。 無敵の王者がダウンした部分だけを見ると、「大変だ!」ということになるのだが、あのダウンがあって、チャンピオンの力みが消え、ネリ選手の動きを読み切り、あとは一方的な展開となって、6ラウンドのKO勝ちにつなげた。 なんて強いんだ。 あの偉大なチャンピオンと同じ強靭なメンタルは、ぼくのような凡人には手の届かないものだ。それでも、日々のささやかなプレッシャー、ストレスを乗り越える上で、参考にはしたい。 不都合なことが起こると、そのマイナス面にばかり目がいく。「ダメだ、ダメだ」とどんどん落ち込んでしまう。腹も立つ。イライラもする。 しかし、大きなダメージを受けたとしても、まずは落ち着いて状況を分析する。冷静になって、今、何が起こっていて、自分には何ができるのかを考える。そして、マイナス面ばかりにとらわれるのではなく、「この出来事にも必ず意味がある」と、自分に言い聞かせていると、ぱっとひらめくことがあったりする。だれかのいいアドバイスが心に響くこともある。そこに、自分の考え、判断を加えて、次の行動を決める。 渦中にいるときにはわからなくても、何日かたつと、あふれるマイナスの中の、小さなプラスに気がつくことがある。 たぶん、人が成長する上で、この小さなプラスに気づいて、感謝して喜ぶことが、もっとも大切なことかもしれない。 だからこそ、神様は人間をマイナスに引っ張られるように作ったのではないか。 順調なときには、自然に「ありがとう」が出てくる。逆境のときはどうだろう?「何がありがとうだ!」と言いたくなるものだ。 重苦しい思いをしっかりと受け止め、不安や恐怖も拒否しないで、その上で、マイナスだらけの隙間の中にある、小さなプラスを探す。 そういう癖をつけた人は、必ず幸運を呼び込める。 ピンチはチャンス!つらいときこそ、光を見つける絶好の機会だ。 暗闇の中に上がる花火。明るさばかりを望んでいると、まばゆいばかり光の芸術は体験できない。夜でも光があふれる都会では、無数の星々の輝きを見ることができない。 人はかなしみの大地に種をまいているのだそうだ。かなしみという土壌にどんな花が芽吹くのか。かなしみからはかなしみしか生まれないのか。それとも、かなしみが深ければ深いほど、大きな喜びの花が咲くのか。 氣と出会ってから、こんなことも考えられるようになった。ぼくにとっては、大きな進歩だと思う。 毎週木曜日19時半から。真氣光の中川雅仁会長と、小原田泰久・弘美が、ライブ動画を配信中。 ぼくたちが体験した氣の体験をお話ししています。参考になることもあると思うので、ぜひお聴きください。 視聴はこちらから。
2024年05月14日
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ぼくの師である真氣光の創始者・中川雅仁先生は、「一歩は進み過ぎ。半歩だけ進んだことをやれ」とおっしゃっていた。そう言う先生自身は、1986年には氣を中継する機械を完成させていた。夢で教えられた通りに作ったら、その機械を当てるだけで体調が良くなる人が続出。さらに、1988年には手から氣を出して、さまざまな難病を治癒させていた。「これって半歩?」ぼくには、半歩どころかはるか前を歩いているように思えた。今、先生のおっしゃった意味がわかった気がする。先生のおっしゃる「半歩」は、「世の中よりも半歩前を進む」ということではなく、「自分のキャパシティの半歩先」ということではなかったのか。人には才能、能力というものがある。もちろん、生れたときに決まっているものもあれば、経験を積むことで変化するものもある。老境に達したときにぱっと目覚める才能もあるだろう。まずは、今の自分のキャパシティ、身の丈をしっかりと把握すべきだ。高くも低くも見ない。正当に評価する。その上で、半歩先を歩く。そうすると、余裕もあるし、次の半歩も見えてきて、これまでできなかったこともができるようになったり、新しい才能に気づけたりするのだ。ぼくは、これまで一歩二歩先を見て動いてきた。いいこともあったけれども、足もとがおぼつかず、転んでしまって痛い目を見たりもした。まわりの人を巻き込んでしまって、いろいろ迷惑をかけた。かなしい結果になったこともある。五月末から、世の中の運気が大きく変わるのだそうだ。それを機に、「半歩」を意識して生きようと思う。身の丈を知り、少し背伸びしたり、落ちても大丈夫なくらいの脚立を使えば手が届くくらいの、高さを目指そうと思う。
2024年05月10日
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「寂寥感(せきりょうかん)」という言葉がある。もの悲しくてわびしいという意味だ。重みがあって、深みがあって、潤いがある。ぼくにはそう感じられる。この言葉、どうやって、できたのだろう。やっぱり、喜怒哀楽、さまざまな感情を味わった人間が、このやるせない気持ちをどう表現すればいいかと考え、「寂」とか「寥」という、心に染みる漢字が生まれたのかもしれない。楽しいだけでは重みのある人間にはなれない。さみしさやわびしさといった、やるせない感情をしっかり味わってこそ、心や魂は育っていくのだ。だいたい、楽しいだけで生きている人はだれもいない。だれもが、苦悩の海で、孤独感の嵐の中で、迷路をさまよいながら、一歩ずつ進んでいく。努力などしなくても、かなしみを背負うことができるように、人間はできている。大事なのは、その気持ちを、しんどい部分はあるけれども、ごまかさないで、しっかりと味わうこと。努力などしなくても、楽しい日々を取り返せるよう、また人間はできているから。どんなかなしみであっても、こわがらないで、しっかりと見つめながら歩いていくことが大事だ。ただ、自分がもう少し強い人間であったらと、ときどき思うこともある。まずは今日をすてきな日にして、明日は明日の風が吹く。
2024年05月03日
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ぼくが真氣光とかかわってきて、これは忘れてはいけないなと思っているのは、「一見良くないことが起こっても、それは自分の成長のもとになる」ということ。 先代の会長も、若いころは人にだまされたり、会社を倒産させたり、つらい思いをしてきた。発明した氣の機械が薬事法で摘発されて、留置所に2ヶ月近く入れられたこともあった。それを乗り越え、大きな志をもってぐいぐい前へ進み始めたとき、脳出血で倒れて、59歳という若さで亡くなった。 その後、今の会長にバトンタッチをするわけだが、一人のカリスマリーダーにたくさんの人が群がってくる状態から、リーダーを中心に多くの人がまとまって、氣の世界を広く伝えていくという形に移行した。今の時代に合う形に変わることができたのだ。 59歳で亡くなった先代は無念だったかもしれない。しかし、新しい会長になって、真氣光は進化することができた。 今の会長も、順風満帆な人生ではない。いきなり、あの強烈な求心力をもった父親から真氣光を引き継いだのだから、大変だったと思う。さまざまなつらい体験もしながら、氣とは何かを追求し続けてきた。 氣とは生命そのもので、平穏無事ではない人生を経験してこそ、わかることがたくさんあるのだ。 だいたい、平穏無事、順風満帆な人生などない。 多かれ少なかれ、だれしもが苦しみや悩みを抱えて生きている。 苦しみ、悩みの日々の中で、どうすれば幸せになれるのか、そこを考え、行動するのが、人としての修行なのだろう。 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず」 天下を取った徳川家康でさえもそう言っている。いや、重荷を背負って行くのが当たり前だと思っているからこそ、天下が取れたのかもしれない。 苦しみがない人生をだれもが望む。ぼくも同じだ。 でも、必ず苦しみはやってくる。 そのときにどう対処するか。人それぞれやり方があっていいのだが、苦しみ、悩みに埋没しないことは大切だと思う。 真氣光では氣を受けましょうと言っている。 氣のレベル、つまり生命力が落ちると、悪い方、悪い方へと考えがちになる。力を抜けば浮き上がれるのに、力んでしまって沈んでしまう。 少し自分自身から距離を置くことで、いかに自分が力んでいるかがわかり、どうしたら力が抜けるか見えているはずだ。 氣を受けたり、気功をやっていると、ふっと自分を外から見る瞬間がある。 その瞬間を大切にしたい。 自分にも言い聞かせていることだ。
2024年05月01日
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