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月曜日は東京。風の強い一日だった。 池袋で真氣光の中川会長の対談取材。今回のお相手は、みんな大好き、かっこちゃんこと、山元加津子さん。 実は、25年ほど前に、かっこちゃんのご自宅へおうかがいして、対談をしている。かっこちゃんは養護学校の先生だった。先日、甲府でかっこちゃんの講演会と映画「しあわせの森」の上映会があった。懇親会のときに、少しかっこちゃんとお話しする機会があった。 そのとき、「中川会長さんとお会いしたのはずいぶんと前ですよね。一度、ごあいさつしないとね」という話があった。そのことを中川会長に伝えたら、久々にお話をお聞きしたいなということになって、今回の対談が実現した。 中川会長は、村上和雄先生のサムシングレートの話にとても興味があって、先生とも2度対談している。かっこちゃんが、村上先生から、「かっこちゃんなりにサムシンググレートの話を伝えてほしい」と託されたことを知り、改めてお話をしたくなったようだ。 ぼくは、仕事柄、たくさんの方とお会いしてお話をお聞きしたが、お話をしていてとても気持ちのいい人と、何となく居心地が悪くて、早く終わらないかなと思う人がいる。 かっこちゃんは飛びっきりの前者だ。 自分なりの価値観をしっかりともっていて、それも、言ったもの勝ちの考えではなく、きちんと地に足のついた理由をもっている。 たとえば、ナスカの地上絵はだれが描いたのか?いろいろな説があるが、かっこちゃんは、古代の人間がかかとで描いた絵だという話をしてくれるわけ。 詳細は違っているかもしれないが、かっこちゃんならではの、「なぜなら」がある。これが「へえ~」とうならされるものだ。 どうして? と聞くと、かっこちゃんはこんな話をしてくれた。教室で何かを一生懸命に描いているお子さんがいて、何だろうと見てみた。一見するとよくわからないが、よく見ると、学校の周辺を上から眺めた状況を絵にしていたのだったそうだ。 地上にいながら、上からの視点で物を見れるという子がいるのだ。 そんな話を別の人からも聞いたことがある。と言うことは、鳥の視点で地上を見られる人は、何人もいるのだろう。 ほとんどの人が失ってしまった、人間の原始的な能力なのかもしれない。 そして、そういう子が、校庭にかかとで腺を引いていることがあって、何をしているのだろうと思って、あるとき、学校の屋上から見ると、きちんとした絵になっていたこともあると言う。 だから、ナスカの地上絵も、鳥の視点をもった人が、かかとで描いたのではないか。 かっこちゃんの推論だ。 答えはわからない。本当に宇宙人が描いた絵かもしれない。しかし、いきなり宇宙人の仕業だと飛躍するのではなくて、身のまわりをしっかりと観察して、そこから「ひょっとしたら、あれと同じなのではないか」とつなげていく。 地に足がついていて気持ちいい。 サムシンググレートは、宇宙の真理を、ぼくたちの身のまわりに用意してくれている。霊能者じゃなくても、チャネリングをしなくても、いろいろなことに好奇心をもって、まわりをていねいに観察していれば、サムシンググレートの存在に気づけるし、そこを深めていけば、サムシンググレートの意志も読み解けるはずだ。ぼくは、そういう見えない世界との付き合い方が好きで、かっこちゃんの話には、ぼくの理想がある。だから、いつまでも話がしていたい。中川会長も同じような考え方で目に見えない世界にアプローチしているから、すごく気持ちのいい対談になった。対談のあと、かっこちゃんを東京駅まで送って行く途中、地下鉄の中で、宮沢賢治さんの話もした。その話は次回に。
2024年02月29日
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競馬が好きで、よく馬券を買っていた時期があった。勝てないときがほとんどだったが、レースの前にスポーツ新聞を買ってきて、どの馬を軸にして買うか決めたり、スタート前の、ドキドキする感じが好きで、大きなレースがある週末は楽しみで仕方なかった。もちろん、予想が当たって、いくばくかの配当金が入れば、なおうれしいに決まっている。しかし、はずれても、競馬好きの仲間と、ああでもないこうでもないと話しているのは、自然に笑顔がこぼれる時間だった。ときどき、「競馬やってトータルで儲かっているのですか? 損をしているのですか?」と聞く無粋な奴がいた。ぼくは言い返した、「お前の人生、トータルして勝っているのか? 負けているのか?」こういうセリフ、寺山修二さんの競馬の本に出てきたのだと思う。東京へ出てきて間もないころ、給料日前にお金が底をついて、なけなしの1万円をもって府中競馬場へ行ったことがある。NHK杯というレースだった。1986年のこと。一番人気はアサヒエンペラーという大きな馬だった。ほとんどの人が、この馬を本命にしていた。ぼくも、馬券をはずすわけにはいかないから、本命はアサヒエンペラーだった。ところが、パドックを見に行くと、アサヒエンペラーが出てこない。どうしたんだろうと思っていると、ほか馬から遅れて姿を現した。そのときに、「この馬はこない」という直感があった。どういう理由だったか忘れたが、ラグビーボールとシンチェストという関西からきた馬を買った。当時は、関西馬は弱かったが、ぼくも西から来た人間だし、関西馬を応援していたというのもあったと思う。ゴール前はよく覚えている。ぼくが買った2頭が、絵に描いたように抜け出してきて、一着二着。歓喜の声を上げた。配当は1990円。19・9倍だった。5000円買っていたから、10万円弱が入ったのだ。40年近く前のことを、今でも夢中になって話せる。トータルしないからだ。あくまでも、あの状況の中で出あったエキサイトシーンなわけで、それまで100万円損をしているから、これで90万円の損になるという、そういう安ぽいものではないのだ。生きるということもそうだ。50歳まで悲惨なことばかりが起こったとしよう。でも、51歳のときに、ものすごくうれしいことがあった。そんなとき、これまでの人生とトータルして、あんなにマイナスだったのだから、こんなちっぽけなことに喜んでいられないと考えるなら、ああ、寂しい人だなと、ぼくは同情する。これまでの人生、どんなに負けていても、そんなの関係ない。瞬間を喜べばいい。数字にできない宝物を、ぼくたちはいつももらっている。トータルでは語れないし、語る必要もない。ぼくはそう思う。
2024年02月25日
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ネットの漫画で、「サラリーマン金太郎」を読んでいる。ああいうエネルギーが湧き上がってくるような漫画を読まないといけないな。こんなセリフがあった。金太郎ではなく、上司が語ったもの。「日本は病気にかかっている気がしませんか」 「病気とは?」 「サラリーマン病ですよ。サラリーマンとは集団の・・・組織の中にいるその組織の中に個人を埋没させ・・・集団という隠れ蓑の中に隠れ・・・個人の責任をなるべく取らないでいいように弱気に・・・周囲との協調ばかりをはかってきた・・・無難に 無難に社会の常識からはずれぬよう・・・マイナスポイントを持たぬよう・・・みんなが見るテレビは愚にもつかぬお笑いか・・・みんなでいじめられる材料を見つけて社会から はみ出た者を娯楽として集団で いじめる・・・役人も政治家もマスコミも個人として責任を取りたがらないサラリーマン病ですよ」サラリーマンであろうと、経営者であろうと、どんな職業であっても、志のない人間はつまらない。元気をもらった。
2024年02月24日
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だれしも、のんべんだらりと生きているわけではない。なにがしかの苦労をしつつ、懸命に前へ進んでいる。生きるというのはそういうこと。苦労を望んだり好む人はいないと思うが、多かれ少なかれ、つらいこと悩むこと苦しむことを体験させられるようにできている。ただ、苦労を実にするか毒にするかは自分次第。腐敗するか発酵するかの違いかな。ウジ虫がわくような生ごみになるか、味噌や納豆のようになるかは、考え方によって決まってくる。ぼく自身が戒めていること。「どうして自分だけが」と考えるのは腐敗への道。みんな苦労しているし悩んでいる。自分が苦労の王様なんてことはない。とげが刺さっても骨折しても痛いものは痛い。骨折の痛みを知っている人は、とげの痛みもわかるはず。「そんなの大したことないよ」と言えるのは、より大きな痛みを知っている人だけだ。苦労を乗り越えた人は、同じような苦労をしている人を助けることができる。末期のがんから生還した人は、その体験を語ることで、がんで悩む人の救いになる。言い訳も腐敗につながる。できないことは素直に認めて、「ごめんなさい」と謝って次につなげればいい。できない理由は探さなくていい。本当にそれがやりたいなら、できるようになるにはどうしたらいいか、そちらに目が向くはずだ。できない理由を探して、言い訳をしているなら、それは本当にしたいことではないわけで、ほかの道を探した方がいい。でも、どこかで言い訳をやめないと、いつまでも探し続けて終わってしまう。腐敗を発酵に代えるには、とにかくやってみることだ。成功、失敗なんていうのは、やってみないとわからない。成功すれば万々歳、失敗すればやり直せばいいだけのことだから。昔、今言ったような話を両親にしたものだ。いつも言われた。「お前の言うてることはきれいごとや。現実はそんな甘いもんと違う」気功の話も、無農薬のことも、脱原発も、両親の心には響かなかった。「あいつは何も知らんから」「経験がないから」で終わりだった。あれはかなしかったな。悔しかったな。だけど、それが今のぼくの行動の原動力にもなっている。志をもって生きようとすると、必ず足を引っ張る人が出てくる。しかし、それは大事な存在だと思っている。鉄下駄をはいてランニングするようなものだ。足腰が鍛えられる。ぼくは思った。「口だけじゃだめだ。実際にやってみよう」今の山梨での果樹栽培につながった。あのとき、両親が「お前はええこと言うな。偉いな」とほめてくれたら、そこで満足して、農業をやろうなんて思わなかった。口だけで満足してしまっていただろう。腐敗で終わっていた。今は発酵に向かっていると思う。行動していると味方、仲間、応援団も増えてくる。人が集まれば、きれいごとが現実になってくる。ぼくは、これからも「きれいごと」や「夢物語」を大切にしていきたいと思っている。
2024年02月23日
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来月には68歳になる。60代もあと数年。振り返ってみると、転機、転機、転機だった。還暦を迎えたのが2016年。父親の前立腺がんが見つかったのが2005年。少しずつ進行して、そのまま自然に任せておけば良かったのに、2016年くらいだっただろうか、検査数値が悪いことを気にして、きつい薬を処方してもらい、そこからガクッと体調は悪くなった。足もとがふらつき、玄関で転倒して背骨の圧迫骨折。一気に全身状態が悪くなった。2017年には入院し、2018年5月に88歳で他界した。もともとわがままな父親だ。入院をすすめてもウンと言わない。母や妹、弟は看病で大変だった。父が亡くなったあと、家中が嵐の中に放り込まれたような激動だった。この嵐に一人で立ち向かおうとしていた妹が、心身ともに限界だったのだろう、突然倒れて亡くなった。数ヵ月後、弟もあの世へと旅立った。2019年、ぼくは63歳。2度も腰が抜けるとはこういうことなのだという体験をしたのだ。表面上は平気な顔をしていたが、心は重くて、血圧も急上昇。いまでも、あのときのダメージは引きずっている。一人暮らしの母のことは気になったが、どうしても実家に帰る気にはなれなかった。共倒れになってしまう予感があった。ただ、あの状況の中で東京で暮らしてたら、ぼくが壊れてしまうというのが、妻の予感だった。変化が必要だった。そんなときに、次女の氣恵がキッチンカーを始め、よしこれからというときにコロナ禍。出店場所がことごとく閉鎖してしまったのだ。仕事を求めて、氣恵は山梨に移った。ぼくたちも何度か行くうち、山梨が気に入った。弘美の主導で、山梨への引っ越しが決まった。ヤギも飼うことになった。それが、ぼくが65歳のときだった。大きな変化であり、ぼくにとっては、これまで取材してきたことを、ここで実践するというチャレンジだった。ヤギのお世話をしながら、無農薬での果樹栽培をする、まったく新しい生活が始まった。この変化によって、ぼくは救われた気がする。そして、2022年には母が亡くなり、結婚した次女夫婦が、空き家になった実家に住んでくれることになった。実家の横の更地に、ソーラーシェアリングという太陽光発電施設を作った。このあと、キッチンカーに加えて、農業をやったり、竹炭を作るなど、次女夫婦が中心となって、事業化していく流れが始まっている。ぼくの中では、60代前半の、あのかなしみからは這い上がることができた。65歳からのダイナミックな変化が、心の空洞を埋めてくれたし、次のステップに背中を押してくれている。妻だったり、次女夫婦だったり、家族が助けてくれた。70歳を前に、もっと大きな波がくる予感がする。70代~80代には、なりたかった自分になっているのではないか。ぼくはお山の大将でいるのが心地いい。まわりの人たちが動いてくれて、勝手に物事が進んで行く。食もエネルギーも自給自足できるようになりたいと思えば、それが実現していく。障がい者雇用をしないといけないとつぶやけば、まわりの力で現実化する。それでいて、だれもが、小原田さんがいるからこうやって動いているんだと、ぼくの存在を認めてくれる。ぼくがいることで、まわりが幸せになっていけばいい。いわゆる長老というか、酋長みたいな存在。70代80代のぼくの理想だな。その前にやることはたくさんあるから、まだまだ動くけど。こうやって振り返ると、激動の60代だったし、それはすべて、70代80代に向けての大事な準備だったような気もする。両親にも、妹、弟にも、心から感謝しないといけない。
2024年02月22日
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ぼく自身、今はリズムが悪い。数日前、いい刺激があって、エネルギーがぐっと上がった。そこから沈み始めた。気力が霧散していく感じがする。こういうときは新しいことに手を出さない。やり残していることを片付けてしまう。せん定した枝を燃やさないといけない。ただ、雨だから、これはもっと後だな。原稿を進めないと。天気も悪いし、外へも出ないし、ちょうど仕事をするにはちょうどいい。あまり進まないかもしれないが、書いているうちに、徐々に本来のリズムに戻っていくことがある。読みたい本があるので、読書の時間に使うものいいだろう。この何ヵ月か、ずいぶんと本を買った。じっくりと本と過ごすのもありだな。リズムが悪いときには無理は禁物。いい結果が出るはずがない。がまんするときはがまんする。時間がたてば愉快な時間は戻るし、次はもっと軽快なリズムがくることも多い。天気も下り坂だし、ゆっくりしよう。
2024年02月21日
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節目のときには、一見してマイナスだと思える出来事が起こってくるものだ。体調が悪くなったり、経済的に苦しくなったり、人間関係が壊れたり、仕事で行き詰まったり。しかし、それが過ぎると、思わぬことから、ぱっと視界が開けてくることが多い。しかし、マイナスの出来事が起こったときに、そのエネルギーに引っ張られて、イライラしたり落ち込んだりすると、前へ進めなくなってしまう。何か自分に不都合なことが起こったら、節目だなと思えばいい。そして、しばらくは愉快ではない状況が続くかもしれないが、イライラせず、落ち込まずに、晴れ間が出るのを待つことだ。少しずつ明るくなって、雲が切れて、日が差し始める。これまでとは違う、いちだんと明るい日差しに照らされ、「よしやるぞ」と気持ちが高ぶってくる。よく言われるけれども、ジャンプするときには、一度膝を曲げて、体を沈める。体を沈めないと高く跳べない。志をもって生きている人間にはさまざまな試練がある。動き出した列車からは下りられない。仕方がない。あきらめて、そして改めて覚悟を決めて、自分の乗った列車の中で全力を出しきることだ。覚悟をもったあきらめ。それが肝心。
2024年02月20日
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ソーラーシェアリングフェスティバルに参加したことで、自分の足もとを見直すことができた。まだまだできるぞと、発破をかけられた気がした。まだ余生は早すぎる。自分に言い聞かせながら帰ってきた。ソーラーシェアリングの産みの親、長島先生は80歳だけれども、もっといいのを作ろうとがんばっている。ソーラーシェアリングに取り組んでいる若い人たちは、世の中に漂う違和感を何とかしようと、懸命にもがいている。「世界を変える」これが合言葉だ。世界を変える!一人でできることではない。でも、できないとあきらめるのではなく、自分なら何で世界を変えられるか考えないといけない。ちっちゃなことの重なりが大きな変化につながる。ぼくの場合、ひとつは文章を書くこと。この間、古い付き合いの編集者と会って、「もうひと花咲かせよう」という話で盛り上がった。30年も前のこと、ぼくも、イルカの本で、ひと花咲かせることができた。そのときの担当の編集者が彼だった。彼も管理職兼務になって、あと5年で退職。今年と来年。2人でいい本を作ろう!このままじゃいけないということを伝えよう。こんな道があるじゃないかと訴えよう。そんな話をしていたら、エネルギーが沸き立ってきた。その後、ソーラーシェアリングフェスティバルの仲間たちのパワーに触発されたわけだ。ぼくは、「家族」をテーマにしたい。世界を変えるには、家族の大切さに多くの人が気づかないといけない。家族で何ができるか。今のような、父親がサラリーマンで、母親がパートで、子どもたちもそれぞれ勤めているというばらばらの状態ではなく、昔の、家族が一緒になって米や野菜を作るような、そういう関係。家族がひとつの方向を向いて動く。血のつながった家族があり、そこに外からの血が加わり、さらに、その周辺に志を同じくする仲間が集まってくる。人が集まってくれば、確実に物事が動き出す。小さな動きが、徐々に大きな波紋となって、世の中に広がっていく。その核となるのが、ぼくの場合、妻、3人の娘、娘のパートナー。核さえしっかりしていれば、どんどん吸引力が高まってくる。まだまだ隠居爺にはならない。この数日で、気合が入ってきた自分を感じている。
2024年02月19日
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千葉県市川市にある千葉商科大学で、「第一回 ソーラーシェアリングフェスティバル」が開催された。行ってきた。まず会場となった千葉商大は面白い大学だ。100パーセント再生可能エネルギーで電力をまかなっている。そんな大学、ほかにはない。学長プロジェクトといって、原科学長主導のもと、電気を自給するだけでなく、ソーラーシェアリングの施設の下では、学生たちがブドウを栽培して、ワインにし、大学ブランドで販売もしているようだ。ほかの大学にも、その動きは広がりつつある。フェスティバルには200人ほどが集まった。2教室を使ってのトークステージがあって、ブースもたくさん出ていた。ソーラーシェアリングは、日本で生まれた技術。農業者を増やすことによって耕作放棄地を減らそうという目論見でのスタートだ。つまり、3~4メートルの支柱を立てて、上で発電、下では農業という、新しいスタイルの事業である。農業だけだと生活ができないため、農業従事者はどんどん減っている。畑や田んぼが放置されて、草だらけになってしまっているのが現状だ。農業をやっているのは高齢者ばかり。このままでは、日本の農業は壊滅する。今でも食料は海外からの輸入に頼り切っている。テレビではバカみたいにグルメ番組ばかりを流しているが、あんなのは砂上の楼閣。もし何かあって、食料が輸入できなくなったら、日本人は飢えてしまう。食べ物はいくらでもあるというのは、錯覚だということに気づかないといけない。だから、発電を行うことで、収入を増やそうというのがソーラーシェアリングのである。作ってしまえば、勝手にお金を産み出してくれる。この日本発祥の技術は、今では世界に広がっている。食とエネルギーというのは、どこの国でも一番の関心事なのだ。ところが、ソーラーシェアリングの日本での広がりは、世界から取り残されてしまっている。広がりを規制しようという動きもあると言うのだから、耳を疑ってしまう。食とエネルギーは、日本でも最大級の問題のはずだ。にもかかわらず、ピンチになれば、どこかの国が回してくれるだろうという根拠のない楽観論。校庭やゴルフ場で芋を作ればいいと、本気で考えている政治家もいるそうだから驚く。エネルギーは、原発を再稼働させようとか、耐用年数を伸ばすとか、気は確かですかと言いたくなるような流れがある。元旦の能登の地震。原発でもいろいろな被害が出た。福島と同じことが起こっても不思議ではなかったと思う。志賀原発の下には活断層があるとかないとか議論があって、ないということで落ち着いたのだったか、あってもなくても、あんな激しい揺れがくるところに原発が建っているということがおかしい。一番ひどく揺れた珠洲市には、原発が建っていたかもしれないという話にはぞっとした。揺れ続ける日本列島。「もう原発は止めようよ」と叫んでいるのだ。だったら電気はどうするの?というときに、ソーラーシェアリングが力を発揮する。みんながみんなやる必要がない。必要だと思った人が、自分の農地の上にソーラーシェアリングを建てる。そんな流れを作れば、電気は十分にまかなえる。日本中がソーラパネルに覆われるなんてことはない。山を崩して作るものでもない。食料と電気を自分たちで作り出そう。そういう動きを、一人ひとりがしないと、この国は変わらない。ぼくはそう思うし、フェスティバルに集まった人たちは、幕末の志士のような意気込みをもっていた。若い人たちが多かったのはうれしかった。ソーラーシェアリングは、もし、この世界が何かおかしいなと違和感をもっている人がいたら、世界を変える道具として、ソーラーシェアリングを考えてほしい。細かいところでは、まだまだ発展途上だ。でも、重箱の隅をほじっていても何も変わらない。やりながら、より良いものを作っていけばいい。我が家には、小さなソーラーシェアリングがある。ぼくは、作って良かったと思う。あれが、ちっちゃなところから世界を変えるという、ぼくの決意表明だから。
2024年02月18日
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ずっと健康で生きてこられた。強い体に産んでもらったのはありがたいことだ。しかし、60代後半になると、あちこち劣化してくる。目は前から悪い。耳が少し遠くなっている。歯は子どものころから弱かったが、ここ1年、ずっと歯医者さんに通っている。ただ、差し歯はあっても入れ歯はない。血圧は高目。小便も勢いよく出なくなった。坐骨神経がときどき痛む。ひざも少し痛い。寝付きが悪く、睡眠の質もあまり良くない。といったところかな。それでも、薬をまったく飲んでないのは大したものだ。健康のためにやっていることは。サプリメント一種類。簡単な気功。ゆっくり水素風呂に入る。最近、粉寒天をお湯に溶いて飲んでいる。いい便が出て気持ちいい。くらいかな。食べ物は適当だし、日々の農作業が運動だ。お酒は毎晩飲んでいる。ビールとウイスキーか焼酎。自家製の梅酒、スモモ酒をときどき飲む。健康にもいいと思う。自分で果実酒や酵素を作るのは好きみたいだ。あとは気持ちの問題。何かしていないと不安になってくるのは、長い間に洗脳されたものだと思う。のどかな村で、ぼんやりと一日を過ごすのは、悪いことではないが、何十年も動き回ってきた癖があって、罪悪感があったりする。余計な付き合いを削ったことで、ゆっくり生きられている。いいに決まっている。なのに、たくさんの人と会って、大したことでもないのに、あれこれ話していると安心するというのは、貧乏性からくるものなのか。いろいろ物事が順調に進んでいって、生活もきちんとできるし、あちこち動いているときよりも、もっといい働きができているのにもかかわらず、そこに目が向いていかない。ストレスの少ない生活がストレスの原因という、皮肉なことになっている。この部分の意識の転換が、ぼくにとって一番必要なことだ。自分ができることはやって、あとは人に任せるくらい鷹揚に構えてないと。
2024年02月16日
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池袋で帯津良一先生の米寿をお祝いした。帯津先生とも長いお付き合いだ。初めてお会いしたのは、1988年の上海。気功の学術大会だった。ぼくは、上海を旅行しているとき、何人かの気功師に会い、体が動くなどの体験をして、もっと気功のことが知りたくて、学術大会に出ることにしたのだ。ここに日本から発表者として参加していたのが帯津先生。がん治療に気功を取り入れているという帯津先生の話に、驚きと可能性を感じて、もっとこの先生に近づきたいと、名刺の交換をした。以来、たびたび川越にある帯津三敬病院を訪ね、病院の食堂で先生とお酒を飲みながら、いろいろお話をお聞きした。中国で474「787」というヘビの毒から作った抗がん漢方薬を見つけ、週刊ポストで紹介したとき、先生に上海まで同行してもらったこともある。さらにその後、先生に教えを請いながら、『ガンを治す大事典』(帯津良一編著 二見書房)という、がんの代替療法を集めた本を作ったのは、ぼくの勲章でもある。以来、30代、40代、50代、60代と、常にぼくは先生を師として生きてきた。肩の力を抜いて生きること。先生から学んだことだ。「これは譲れないということはそんなにないですね」淡々と我が道を歩む帯津先生。自己主張をして、自分の都合のいい方向に人を引っ張ろうとする人が多い中、先生の生き様は、さわやかで潔くてすてきだ。今は、月に一度、池袋でお話を聞いている。お酒もおいしい。ずいぶんと前だが、「先生が90歳でぼくが70歳になったとき、先生とはどんなお話をしながら飲むか楽しみです」と話したことがある。もうあと2年もすれば実現する。帯津先生とお会いできて、長くお付き合いさせてもらっていること。これがぼくの人生の一番の宝物だ。出会いによって、人は変わる。
2024年02月15日
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あと一年の命だと思って今を生きるという話を、昨日書いた。前から思っていたわけではない。帯津先生からは、「今日が最後の日だと思って生きる」と聞かされていた。いつかそういう心境になりたいと思っていたが、ぼくには無理そうなので、一年の命ならどうだろうとひらめいて書いたところ、けっこうたくさんの反響をもらった。よく、願を叶える方法として、「一年後の自分をイメージする」というのがある。一年後、年収1億円の自分をイメージすれば、実現するよという話が流行ったことがある。イメージの大切さはわかるが、いかにも西洋的なご都合主義に感じられて、ぼくはあまり好きになれない。だけど、一年の命と考えて今を生きるというのは、日本的な武士道に通じるものがあって、ぼくは気に入っている。やっぱり「死」を意識して生きてこそ、「生」の深みが増す。今年の元旦には、能登でたくさんの人が亡くなった。お正月をお祝いしている最中のことだ。そんなことだれも予想しなかったはずだ。もうすぐ、3月11日は、あの東日本大震災から13年目の悲しい思い出の日。ぼくたち人間の歴史は、「かなしみの積み重ね」だ。これも帯津先生の言葉だが、「人間の本質はかなしみにある。私たちは、かなしみの大地に花を咲かせる存在だ。かなしみが本質だと知っていると、ちょっとやそっとでは揺らがない」明るく前向きに生きないといけないと思っている人は、ちょっとしたかなしみに、心がずたずたになってしまう。落ち込んでしまう。ごう慢にもなりやすい。だから、人はかなしみを体験して、それを受け入れながら、少しずつ少しずつ、強くなっていくのだろう。そして、やさしくなれるのだ。
2024年02月14日
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尊敬する帯津良一先生は、「今日が最後の日」と思って生きておられる。だからこそ、充実した日々が送れるのだろう。ぼくも見習いたいと思っているが、頭では理解できても、本気でそうは思えないものだ。いつも、「明日があるさ」と今日を無駄に生きてしまう。ただ、どんな人でもいつかこの世からお別れするわけで、今生の自分を終える時がくる。今日かもしれないし、明日かもしれないし、10年後かもしれないし、わからないからのほほんと生きていられる。そこで考えたのが、「自分の命があと一年だと考えて生きる」ということ。あと一年の命と考えたとき、今日をどう生きるか。締切りがないと、いつまでも原稿は仕上がらない。この一年、こういうことをやろう! と決めて動き出すと、さまざまな変化が起こってくる。決めたことが実現しなくても、ほかのことが形になっていたりする。決めたからやらなければいけないとストイックになる必要はない。自分が決めたことよりも、もっと大事なことはいくらでもあるのだから。決めるというのは、単にきっかけに過ぎない。いつまでも生きられると思っているから何もできないまま、一年が過ぎ、二年が過ぎていく。帯津先生のように、今日が最後の日という生き方ができればいいが、凡人には無理なことなので、せめて、人生に締切りがあることを意識するようにすることだ。今日からやろうと決めた日が、余命一年を宣告された日。来年の今日、最後の一年をどんなふうに振り返ることができるだろうか。そして、次の最後の一年、どう生きると決めるのだろうか。ぼくは3月6日が誕生日だから、この日を節目にしよう。こんなの楽しいと思うけれどもどうだろうか?
2024年02月13日
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「えーっ!」何日か前のこと。妻が素っ頓狂な声を上げた。ネットのニュースを見てのことだ。「どうしたの?」「イトーヨーカ堂が北海道から撤退しちゃうんだって」北海道、東北、信越の店舗を閉鎖するのだそうだ。妻は札幌の生まれ。29歳でぼくと一緒になるまで札幌で暮らしていた。「私は一生、札幌から出ない」と言うほど、北海道愛にあふれた人だった。交通事故でひどいむち打ち症になって、どこへ行っても良くならなかったのが、中川雅仁先生の真氣光という氣功によって、ほんの15分で完治したことがきっかけで、中川先生の会社で働くことを決めた。札幌から東京へ出ることを決めたのだ。そして、ぼくとも縁があって、以来、埼玉、東京、そして山梨で暮らしている。札幌は遠く離れたところだけれども、彼女にとっては大事な故郷。そこで起こったことには敏感に反応する。まして、大好きな買い物だし、若いころはイトーヨーカ堂にはずいぶんとお世話になり、東京時代も近くに店舗があって、子どもたちを連れてよく行っていた。大型スーパーがあちこちに出店し始めたころ、どんどん小さなお店が閉店へと追い込まれた。先の見える人はこう言っていた。「大型スーパーが閉店したら大変なことになるよ。買い物する場所がなくなってしまう。買い物難民があふれるよ」大型店への依存は怖い。イトーヨーカ堂の場合は、地場のスーパーなどが、撤退後に入るそうだから、何とか庶民の買い物の場所は確保できつつあるみたいだ。しかし、高齢化がもっと進めば、遠くまで行けない人も増え、小さなお店を大切にしておけばよかったという話になっているのではないか。便利さ、安さばかりを求めて、先を考えずに選択をした結果だと言ってもいいかもしれない。買い物難民の問題は、田舎ではけっこう深刻になっている。ぼくが住んでいる地域は、若い人たちがいなくなり、残ったのは70代、80代のお年寄りばかり。昨日、畑で会った方は、85歳だった。一人で桃の木のせん定をしていた。「若い人はこんなことやらないから」桃の木もずいぶんと切って減らしたそうだ。車がないと暮らしていけないので、80代でも、車に乗っている人は多い。「ちょっと調子が悪くて」と手が震えているような人でも、一人暮らしだと、車を手放せない。危険だけれども、生活のためには運転せざるを得ない。週に一度、大型のバスを改装した移動スーパーがやってくるのが救いだが、決まったコースしか走ってないので、みんなが恩恵を受けるというわけにはいかない。こういう村は、全国に数えきれないほどあるはずだ。今の社会システムだと、山村が生き残る道はないのだろうか。便利さや安さもいいけれども、もっと日本全体を考えて、どうしたら持続可能か、真剣に考えていかないといけないな。年寄りは、健康のために毎日畑を耕して、自分で作った作物で生き延びていくというのも、ぼくはありかなとは思っているけれども。そうやって、自分の身は自分で守るという世の中に向かっているのかも。
2024年02月12日
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昨日は、突然、若いカップルが訪ねてきた。グーグルマップを見て、「ヤギに会える」ということでやって来たようだ。ちょうど、夕方のご飯をあげる時間だったので、準備をしながらお話をした。大学4年生で、4月から社会人。春休みを使って、羽を伸ばしているとのことだ。「サラリーマンが嫌になったら、田舎でヤギと暮らすのもいいよ」そんな話をして笑っていたが、彼らとしては、きっと就活もがんばって、希望に燃えている時期だから、余計なことだったかもしれない。あの年代でのぼくの人生設計だと、大手の企業で出世して、たくさん給料をもらい、貯金と退職金と年金で、悠々自適の生活だった。自分の目論見とはまったく違う67歳を生きている。何もかもが中途半端で、何かを成し遂げたということもなく、成り行き任せでたどり着いた現在。いばれることは何もないけれども、間違いないのは、今を楽しく生きているということ。そして、これからの人生も、何ができるかはわからないけれども、何もできないかもしれないけれども、ぼくはとても楽しみにしている。期待感というか、希望があって、日々、ときめきをもって暮らしている。いろいろあったけれども、ぼくは幸せだと思う。昨日の若者たちも、これからいろいろあると思う。何か行き詰まったときに、ふと、山梨の山里でヤギを飼っていた老夫婦を思い出してくれて、「ああいう生き方もあるな」と思ってくれるとうれしい。「桃の花が咲くころおいで。きれいだよ」「また来ます」「すももがなるころくるといいよ」「ハイ」「おっきくて甘い桃を食べさせてあげるよ」「楽しみにしています」「やぎにはまってしまいました」そう言って帰っていった。そう言って帰って行った2人。彼らの先がどうなるのか、今まで以上に予測のつかない時代になるだろうと思う。大変だとは思うが、幸せになってほしいと願っている。
2024年02月11日
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年末に、右上の奥歯のかぶせ物が取れた。治してもらったが、ご飯やうどんならいいが、もう少し固い、ピーナッツやかりんとうをかむと、しみるような痛みがある。何度かかみ合わせを調整してもらって、半分くらいの痛みになったけれども、右でかむのは苦痛で、抜くしかないのかと思ったりもした。そしたら、今度は左奥歯のかぶせ物がとれた。右でも左でもかめない。これは不自由だ。昨日、とれたかぶせ物をもってはめ直してもらった。そしたら、かみ合わせが微妙に変わったのだと思う。右の奥歯への負担が少なくなったのか、あの不愉快な痛みが、ゼロとは言わないが、激減した。こういうのを怪我の功名と言うのだろう。だから面白い。だれも予測できないことが起こってくる。歯医者さんだって、左の奥歯の治療をして、右の奥歯の痛みがなくなるなんて、思ってもみなかっただろう。でも、なぜ右の奥歯が痛むのか、聞いてみた。「神経をとったらいいのですか?」「神経の関係ではないと思います」「じゃあ、どうすればいいのですか?」「歯周病の影響があるかもしれません。ひどく進んだ歯周病ではないけれども、痛みが出るのかもしれません」これを聞いて、ぼくは「よしっ」と思った。「歯周病なら自分で治せるじゃん」そうひらめいたのだ。方法は、大したものじゃないので公表しないけれども、これでいける気がする。うまくいって、痛みが消えたら、公表することにしよう。病気とか病気治療とか、医学が発展するにつれて、どんどん難しくなる。寝ていれば治るものまで、病名がついて、薬が出されて、気持ちから病気にされていく。知り合いがこんなことを言っていた。「大昔、縄文時代くらいかな、病気はなかったんですよ」「みんな健康だったの?」「いや、病気という概念がなかった。だから、体調が悪くなれば、病気だ大変さと思わずに、静かに横になって、元気になるまで待っていた。中には、元気になれずに死ぬ人もいたけれども、それも自然の摂理だと受け入れていた。だけど、薬草や呪術で治そうという行為が出てきたことで、病気という概念が出てきて、病気になることは悪いことだから、治さないといけないと思い始めた。西洋医学が入ってきて、その傾向はさらに顕著になってきた」なるほどと思った。漢方も西洋医学も、ぼくたちが健康に生きるために貢献してくれている。しかし、あまりにも行き過ぎた健康志向は、逆に病的に思えてくることもある。簡単なことで治るなら、そっちを優先すればいい。自分で何とかできることはいくらでもある。それを、ちょっとしたことで病院に足を運ぶことで、余計にややこしくしている。昔の人の知恵を生かさない手はない。そんなふうに思っている。
2024年02月10日
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生体には、バランスが崩れれば、それを元に戻そうとする力が働く。いわゆる自然治癒力という不思議で偉大な力だ。同時に、生命体には、治す知恵がある。野生の動物が、体調が悪いときには、こういうものを食べればいいとか、何も食べずにじっとしているのがいいとか、だれかに教えられたわけではないのに、生き延びる知恵が備わっている。すごいと思う。子どものころを思い出した。風邪をひいて熱があって布団に入っているとき、退屈でたまらない。ぼくは何をしていたか。妄想していた。布団の中が秘密基地。そこには、鉄腕アトムとか鉄人28号とか、当時のヒーローたちが終結している。ぼくは司令官。ぼくを苦しめているばい菌たちを、ヒーローたちを出動させてやっつけるという、ゲームを頭の中でやっていたのだ。病気治療のことを取材するようになって、これってイメージ療法じゃないかと感心したことがある。テレビでツボ治療の効果について紹介していた。ハーバード大学とかスタンフォード大学が、ツボ刺激によって、脳からある種の脳内麻薬が分泌され、痛みを抑えたり、体温を上げたりするということが、最近になってわかったという話だった。芸人さんがモデルになって、ハリ治療をしたときの体温の変化を測定し、ハリ治療は効果があると盛り上がっていたわけだ。しかし、中国4000年の歴史というけれども、はるか昔から、そんなことはわかっていた。つまり、今の医学というのは、4000年も前の人間の知恵を後追いしているだけのこと。そんな遅れた科学を、ぼくたちは信望している。もちろん、ぼくたちの体験を医学的に証明していくことは無駄ではないが、数千年、ひょっとしたら数万年の遅れがあるということは認識しておく必要がある。ぼくのイメージ療法など、だれにも教わってないし、60年も前には、話題にすらならなかった。非科学的な話だ。それでも、イメージの力は、医学でも研究されて、証明もされているわけで、ぼくは、最新の医学よりも、60年も先を進んでいたことになる。それも、まだ小学生。天才じゃないかと思う。科学的な立証が優先されるばかりに、ぼくたちが本来もっている生きる知恵が生かされなくなっているのではないか。ふっと思ったこと、何気なくやっていること、そんな中に知恵が隠されている。直観とか予感とか、感じることを大切にしたいね。
2024年02月09日
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どういう生き方がしたいのか?ぼくは、ひと言で言えば、「質素で豊かな生活」。質素で豊かとはどういうことなのか。具体的に言うと、自然に即した生き方かな。都会よりも田舎の方が、質素で豊かに暮らしやすいと思う。たとえば、近くにある畑でとれた旬の野菜を食べるということ。それも、無農薬、無肥料で育てたものの方がいい。農作業は適度な運動になる。朝日とともに起きて、暗くなったら寝る。遠くに出かけなくても、家のまわりを散歩しながら、ていねいに観察すれば、いろいろな発見があるはず。そんな生活ができれば、お金もそんなにいらないし、電気やガスといったエネルギーもあまり使わずにすむ。そして、たまに「豪華で貧しい」どんちゃん騒ぎもしてみる。盆と正月くらいは羽目を外すのもいいじゃないか。決して難しい話ではない。「やりたければやればいい」そんな声が心の中から聴こえてくる。質素なだけではストレスになるが、そこに豊かさが加われば、楽しくて仕方ないはずだ。ただ、ぼくたちは、豊かさというと物質的なものを求めてしまいがちで、豊かさの本質に目を向けないといけない。それに、家族の調和というのもある。ぼくがいくら質素な生活を求めても、家族が物質的な豊かさの信奉者だったら、そこでいさかいが生じる。争えば争うほど、豊かさから遠ざかって、何のための質素な生活かわからなくなる。山梨にも、自分は田舎生活にあこがれているが、奥さんは都会から離れられないので、一人で移住してきている人がいる。自分の理想を貫くという面ではすてきだけれども、ぼくにはできない。家族がひとつの方向に目を向けたときにゴーだろうな。そういう面では我が家はけっこううまく行っている。田舎で生活する上で、一番ネックになるだろうと思われていた、都会で生まれ育った妻が、とても積極的に田舎生活を満喫しているのは意外だった。娘たちも、都会の生活よりも、田舎で暮らすことの楽しみを見つけているみたいで、先行きは明るい。まだまだぼくの理想とする「質素で豊か」な生活には遠いけれども、この方向で、いい形が出来上がると思っている。ヤギを飼ったは大きかった。動物たちは、人間と自然をつなぐ大事な役割りをしてくれているように思う。
2024年02月08日
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山梨では、月曜日が大雪。山間部にある我が家では25センチほどの積雪があった。山梨へ来て3年目でこれほどの雪は初めて。東京でも、こんなに積もったのはなかったかもしれない。ふと思ったのは、大人と子どもの違い。子どもだったら、「わー、雪だ。雪だるまを作ろう! 雪合戦ができるぞ!」と大喜びするはず。雪は天からのプレゼントだった。かつては、ぼくもそうだった。ところが、大人になると、「うわっ、雪かき大変だ」「出勤できるだろうか」そんなふうに考える。子どもは、今だけを見て楽しみ、大人は、明日を思ってうんざりする。大人になると、今に集中できなくなってしまう。未来を予測して準備をするのは大事なことだけど、遊び心、楽しみを減らすことでもある。今回も、雪だるまを作ろうとも思わなかったし、雪玉を作って投げることもしなかった。降り続ける雪を見てため息をつき、テレビやネットの天気予報に耳を傾け、車を出せるようにと、スコップで雪をかいていた。自然と共に生きるというのは、田舎に住むことではない。自然が織りなす、さまざまな現象に、感動し、畏敬の念をもつこと。そんな気がする。そういう意味で、鈍感になってしまった。無邪気に生きると、人生は楽しいことだらけなのに。
2024年02月07日
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一昨日は甲府市で山元加津子さん(かっこちゃん)のお話しと、かっこちゃんの作った映画『しあわせの森』の上映があった。かっこちゃんは、石川県小松市にお住いで、元旦の地震では大きな揺れがあったそうだ。久しぶりにお会いしたかっこちゃんは、相変わらず無邪気で素直で若々しくて賢くて楽しい人だった。ぼくがかっこちゃんを知ったのは、1995年か96年のこと。ぼくは東京に住んでいたのだが、故郷の三重県鈴鹿市に気の合う仲間ができて、けっこう大規模に映画『地球交響曲 ガイアシンフォニー 第二番』の上映会を開いた。出演者である佐藤初女先生にも青森から来ていただいて、講演会もやった。大きな施設を貸し切りにしたので、映画や講演会以外に、何人かに声をかけて、空いている部屋を使って、どんな活動をしているのか、展示をしてもらった。ぼくが直接知らない人も、仲間たちの縁で、展示に参加してくれた。そのうちの一人の女性が、かっこちゃんの活動を紹介する展示をしてくれた。ぼくはかっこちゃんのことをまるで知らなかった。かっこちゃんは、当時養護学校の先生で、教え子たちとの接し方がユニークで、子どもたちがとても生き生きと学校生活を送っているとのことだった。展示室には、かっこちゃんの著書や、かっこちゃんの教え子である原田大助くんの味のある文字で書かれた詩などが並んでいた。ぼくは興味をもって、部屋をゆっくりと見て回ったのだが、中でも、大助くんの詩は衝撃だった。さみしいのは心の風邪ですとか、地球のこと、戦争のことなど、心に響く言葉が並んでいた。僕が生まれたのには理由がある生まれるってことにはみんな理由があるんや読んでどきっとしたのを覚えている。あのころ、ぼくはに障がいある人たちのことを考えたことはなかった。まわりにはいなかったし(きっと、いても意識が向かなかった)、申し訳ないけれども、彼らに詩を書くというような知的な作業ができると思っていなかった。まして、こんな深いことを、彼らが考えているなんて、想像したこともなかった。いくつも詩が並んでいたが、どの詩も、ぼくの胸にどしんと突き刺さってきた。大助くんの詩を読みながら、かっこちゃんという先生に、会いたくなってきた。後日、この展示をしてくれた若い女性に、かっこちゃんの連絡先を教えてもらった。そして、かっこちゃんと連絡をとって、真氣光の機関誌の会長対談を依頼したのだ。かっこちゃんは快く引き受けてくれた。その対談をした場所が、小松市のかっこちゃんの自宅だった。昨日の懇親会でもそのときの話になった。「会長さん、あまりお話しされない人で、小原田さんとばっかり話していたわね」懐かしい話だ。中川会長は、まだ会長になったばかりのころだった。もともと物静かな方なので、ぼくも対談に加わりながら、いろんな話をした覚えがある。かっこちゃんのお話しが楽しくて、ぼくだけがおおはしゃぎして、会長を差し置いてしゃべっていたのも想像できる。「こんな人がいるんだ」ぼくは初対面のかっこちゃんにすっかり魅せられてしまった。教え子だけでなく、縁のあった方一人ひとりと、かけがえいのない友だちとして大切にかかわりうとする姿勢が、話を聞くうちに伝わってきた。ぼくも、会ったばかりなのに、「ああ、受け入れてもらっている」という、安心感、喜びでほっとするような感覚を味わった。大助くんが、あんなにも素晴らしい詩を書けるのは、かっこちゃんという存在があるからなのだろう。かっこちゃんは、その人がもっている本来の力や思いを引き出すきっかけをくれる人かもしれない。そう思った。彼女との出会いによって、ぼくは、障がい者と呼ばれる人たちへの目線が変わり始めた。ほんの少しだけれども、その方向に意識が向いた。2000年にぼくと妻との出産体験が『スピリチュアル・バース』というタイトルで出版された。そのとき、友だちが出版記念パーティを開いてくれたのだが、ぼくの希望で、かっこちゃんにゲストスピーカーとして来ていただいた。ちょうど、うちの三女の氣歩が生まれたばかりで、会場でかっこちゃんに抱っこしてもらった。氣歩にとって、かっこちゃんは運命の人。小学校のときにかっこちゃんの講演会に連れて行った。そのときから障がい者福祉の仕事をすると決めた。中学生になっても高校生になっても、かっこちゃんのような人になりたいと一途に思い続け、24歳の今、愛知県の障がい者施設でスタッフをしている。一昨日も、かっこちゃんと会うために愛知から山梨にやってきて、お話をして、写真を撮って、とてもうれしそうだった。かっこちゃんからこんなありがたい言葉をもらった。「氣歩ちゃんは、私にとっても似ていて、まるで分身みたいに思っているのよ」最高の言葉だった。昨日のお話しと映画では、すべてはつながっていて、いつかのいい日のためにあるということを、さまざまな形で伝えてくれた。30年近く前からの縁を振り返ると、まさに会うべき人と会ったのは間違いないし、それが娘にまで大きな影響を与えていると考えると、とんでもない奇跡だと思わずにいられない。今のぼくは、人生のラストシーンに向けて、とても大事な節目に立っていることを、すごく感じている。そんな中で、かっこちゃんと、また会えて、お話を聞けて、お話ができたのも、サムシンググレートの思し召しだな。昨日のイベントでは、かっこちゃんのお話し、映画、懐かしい東京の仲間たち、お世話になっている山梨の仲間たち、新しい知り合い、そして、妻と三女と、いろんなことが新鮮に映って、ぼくの中で、気持ちのいい化学反応が起こった。どんなことも、ベストのタイミングで起こることになっている。ありがたい一日だった。↓去年の春、かっこちゃんと
2024年02月06日
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鈴鹿に来ている。まずは、炭の窯出しをしているというので、炭焼きの山を訪ねた。70代の、もと山男が、「老後の遊びです」と言いながら、炭を焼き、山小屋を作り、優雅に暮している。彼らの師匠が、御年90歳の炭焼き名人。彼の指導で、立派な窯を作って、遊びと言いながら、本格的な炭焼きに取り組んでいるのだ。子どもたちがよく遊びに来るらしい。いい老後だ。そのあと、中学校時代の旧友2人と再会した。50年ぶりくらいになるかな。高校を卒業して、名古屋、富山、東京近辺で暮らしていたから、なかなか会うチャンスもなかった。一人は、実家のある村の人が、「やっさんの同級生がやっているお店があるよ」と教えてくれた。小さな食品店の店主だった。いきなりだけど、訪ねてみた。顔を見ただけではわからなかったが、名前を聞いてわかった。もう一人は、毎年、年賀状をくれている。家はだいたいわかっている。こちらもいきなり訪ねた。びっくりしていた。そりゃそうだろう。仕事は完全にリタイアして、今は、自治会の役員をしているくらいだと言っていた。あいつらも炭焼き、誘ってあげよう。4月には、我が家の裏やぶで、おいしいタケノコがとれる。タケノコを掘って、みんなで、料理をして、お酒を飲んで楽しもうと思う。日程は近々、決めるので、興味ある人は、鈴鹿までお越しいただきたい。ヤギちゃんも待っているよ。
2024年02月02日
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今、鈴鹿へ来ている。次女夫婦が飼っているネコのロゼが、急に血をはいて亡くなったそうだ。まだ2歳になってない。最初はなかなかなつかなかったけれども、行くたびに距離が近づき、ぼくのことも、友だちとして認識してくれるようになった。そんな矢先に旅立って行った。動物の命について、あまり考えたことはなかった。ペットロスになる人の気持ちもわからなかった。しかし、我が家でヤギを飼い、鈴鹿へ来れば、わんこやネコが歓迎してくれる。そんな生活をすると、ペットが家族同然という気持ちもわかってくるものだ。ロゼはやさしい表情で箱の中に入っていた。今日は、娘夫婦と一緒に、お墓を作って、みんなで見送ってあげようと思っている。
2024年02月01日
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