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ジャン=ジャック・アノー「薔薇の名前」元町映画館 SCC、シマクマシネマクラブの第8回例会です。前回の第7回の「探偵マーロウ」も不評でした。主宰者(?)としては「今度こそは!」 という気持ちを込めての提案でした。 原作がウンベルト・エーコの評判の作品で、テレビでも放映されたこともある「傑作!且つ、名作!」、ジャン=ジャック・アノー監督の「薔薇の名前」です。昨年秋からのシリーズ企画「12か月のシネマリレー」で見ている1本だということも安心材料でした。 で、結果は?「暗いですねえ。」「えっ?アカンかった?」「ただのミステリーやないうことはわかるんですが、何をやっているのかがようわかりませんね。」「ウンベルト・エーコという作家はご存じないですか?」 ウーン、ご存知ないようなので、ちょとだけ、解説ふうに、まず、ウンベルト・エーコという原作者についてです。 今となっては古い話なのですが、だいたい、1980年代くらいですね、所謂、記号論ブームというのがありましたが、ボクにとっても、そのころ「記号学Ⅰ・Ⅱ」(岩波現代選書)という本で出合ったのがエーコですね。まあ、なにが書かれていたのかほとんど覚えていませんが、記号をめぐる意味作用の発生におけるコードの重要性を論じた人ですね。コードというのは、まあ、個々の暗号解読のための暗号台帳のようなものですね。 当時、丸山圭三郎という言語学者の「ソシュールの思想」(岩波書店)という、まあ、結構、難しい本が話題になって、シニフィエ、シニフィアンというソシュールの用語が流行言葉になりましたが、その同じころ、記号的な表象(言語、絵画、映像なんか)がシニフィアン(意味内容)としてコノテイト(内包)する、複数の、あるいは、多層的な意味の可能性の読み取りに際して、複数のコードの重要性を説いたのがエーコの記号論だったというのがボクの大雑把な理解です。記号表現は表現主体の主観的な意図を越えた重層的な意味を内包するというところが肝ですね。まあ、40年ほど昔に読んだことなので出鱈目かもしれません(笑)。 で、「薔薇の名前(上・下)」(東京創元社)という長編小説では、エーコがその理論を実践して見せたという印象の作品でした。 原作小説は中世イタリアの修道院で起こった殺人事件の記録というミステリー仕立てですが、ギリシア文化、イスラム文化、キリスト教文化という、現代ヨーロッパ文化の底に、それぞれがぶつかり合い,捻じれあいながら流れ込んでいる重層的な価値観について、博学多識の権化のようなの歴史的ネタをちりばめた作品で、それだけでも、一筋縄では読み切れないのですが、たとえば、主人公で探偵役のバスカビルのウィリアムスは「バスカビルの犬」のシャーロック・ホームズと「オッカムのカミソリ」の哲学者ウィリアム・オッカムを想起させるとか、盲目の図書館長は、「バベルの図書館」のボルヘスがモデルだとかという小ネタで読者を笑わせ翻弄しながら、記録が書き残した「薔薇」とは結局、何の比喩だったのかと悩ませて終わるという、小説だけでも、まあ、大変なのです。で、映画では、エーコをどう料理するのか? 興味は、ひとまずそこなのですが、異端と正統というコードで「中世キリスト教」のわからなさを腑分けする方法を選んだところが卓見ですね。 ギリシア文化がヨーロッパ哲学の原理として君臨する以前の中世の闇の一面を、書物、あるいは、アリストテレスの「笑い」をめぐるミステリーとして描くことで、原作の複雑怪奇な多層性を要約して見せた力業といっていいと思います。 原作でホームズとウィリアム・オッカムを想起させる主人公を、007のショーン・コネリーにやらせたのも笑えましたね。 まあ、要するに趣味の映画といってしまえば、それまでなのですが、ボクは好きですね。あの図書館に並んでいる本は、全部、羊皮紙製で、ホントに焼けてしまったんかな? そういうことにドキドキする作品でしたが、「薔薇の名前」って、映画では語り手で、ワトソン役のアドソくんの初体験(?)の相手のことになるのですが、それって、小説の最後の謎は説いていませんよね(笑)。まあ、しようがないのですが。 というわけで、SCC第7回もシマクマ君だけよろこぶ結果だったようですね。次回はどうしようか、マジ、悩みますが、まあ、映画であれ、小説であれ、好き好きは大切です。しようがないですね(笑)。監督 ジャン=ジャック・アノー原作 ウンベルト・エーコ脚本アンドリュー・バーキン ジェラール・ブラッシュ ハワード・フランクリン アラン・ゴダール撮影 トニーノ・デリ・コリ美術 ダンテ・フェレッティ衣装 ガブリエラ・ペスクッチ編集 ジェーン・ザイツ音楽 ジェームズ・ホーナーキャストショーン・コネリー(バスカヴィルのウィリアム)F・マーレイ・エイブラハム(異端審問官ベルナール・ギー)フェオドール・シャリアピン・Jr.(盲目の師ブルゴスのホルヘ)マイケル・ロンズデール(修道院長アッボーネ)ロン・パールマン(異端者サルヴァトーレ)エリヤ・バスキン(セヴェリナス)クリスチャン・スレイター(弟子メルクのアドソ:語り手)バレンティナ・バルガス(農民の少女)1986年・132分・フランス・イタリア・西ドイツ合作原題「The Name of the Rose」日本初公開1987年12月11日2023・07・10・no87・元町映画館no183・SCC第8回
2023.07.31
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クリストファー・マッカリー「ミッション・インポッシブル デッドレコニング PART ONE」 109シネマズ・ハットno31ハハハハ、ミチャイマシタヨ! クリストファー・マッカリー監督の「ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE」です。なんだか、長い題名ですが、要するに60歳を超えたトム・クルーズ君の「ミッション・インポッシブル」最新作です。テレビでは、何本か見ていると思いますが、劇場で見るのは初めてです。今年のはじめだったか、昨年だったか「トップ・ガン:マーベリック」を見て以来、男前には敵意しか感じなかったはずのシマクマ君は男前のトム・クルーズ君のファンです。「なあ、ミッション・インポッシブル見に行けへん?」「わたし、トム・クルーズとかファンちゃうし。」「ハリソン・フォードはええけど、トム・クルーズはあかんの?」「ハリソン・フォードは80歳やし、長い付き合いやん。最後まで見たげなあかんやん。」「トム・クルーズも60歳越えたらしいで。」「そんなン、わたしより若いやん。そんなことより、トム・クルーズって森山未來に似てへん?」「はあー????」「ピーチ姫に言うたら、ハアー?って言うとったけど(笑)」「ホンナラ、まあ、それ確かめに行くいうことで、一緒に行こ。」 というわけで、同伴鑑賞です。トム・クルーズは誰に似ているのか? これが今回の鑑賞のテーマです(笑)。まあ、そんなことを確かめるために、この映画を見にやってきたアベックは、世界中で、きっと一組だけでしょうね(笑)。 で、結論はこうでした。「やっぱり、森山未來くんとは違うわ。あれはスグルちゃんやん。」「誰やねん、スグルちゃんて?」「何いうてんの、岩崎優ちゃんやん。毎晩、見てるやないの。」「ヒエーッ?、阪神キャッツの抑えの切り札のか?トム・クルーズって二重ちゃうの?」「でも、まあ、わたし、パート・ツーは、もう、ええわ。なんか、めんどくさい。」「そうなん、でも、オートバイで空飛んだり、頑張ってたやん。ところで、この映画ってスパイ大作戦なん?」「そうやで、子どものころよう見たやん、テープレコーダが煙を上げて、若山弦蔵いう人ちゃった?声が消えるんやんか。知らんかったん?」「うん。初めて見たんやもん。まあ、ボクは、パート・ツーも見るで。そん時、また誘うわ(笑)。」 というわけで、結論は「岩崎優投手」でした(笑)。もちろん、シマクマ君はパート・ツーも見ますが、チッチキ夫人の結論も、まあ、アリかなという気分でした(笑) 老骨に鞭打って空を飛んだり、列車の屋上走り回ったり、まあ、ご苦労様なこと限りなしだったトム・クルーズくんに拍手!でした。監督 クリストファー・マッカリー原作 ブルース・ゲラー脚本 クリストファー・マッカリー エリック・ジェンドレセン撮影 フレイザー・タガート美術 ゲイリー・フリーマン衣装 ジル・テイラー編集 エディ・ハミルトン音楽 ローン・バルフェテーマ曲 ラロ・シフリンキャストトム・クルーズ(イーサン・ハント)ヘイリー・アトウェル(グレース)ビング・レイム(スルーサー・スティッケル)サイモン・ペッグ(ベンジー・ダン)レベッカ・ファーガソン(イルサ・ファウスト)バネッサ・カービー(ホワイト・ウィドウ)イーサイ・モラレス(ガブリエル)ポム・クレメンティエフ(パリス)マリエラ・ガリガヘンリー・ツェーニー(ユージーン・キットリッジ)シェー・ウィガムグレッグ・ターザン・デイビスチャールズ・パーネルフレデリック・シュミットケイリー・エルウィズマーク・ゲイティスインディラ・バルマロブ・ディレイニー2023年・164分・G・アメリカ原題:Mission: Impossible - Dead Reckoning Part One2023・07・25・no94・109シネマズ・ハットno31
2023.07.30
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「姫路駅そば」 徘徊日記 2023年7月28日(金)猛暑の青春18 2023年7月28日(金)の夕方7時過ぎのJR姫路駅で、久しぶりに「駅ぞば」を食べました。普段なら、この時刻に外食をすることはありません。 朝の5時45分に自宅を出発して、市バスで舞子駅、舞子駅を6時20分過ぎの山陽本線加古川行の普通電車に乗って、加古川で乗り継ぎ、姫路で播但線に乗り換えて和田山です。着いたのが9時20分でした。3時間30分の所要時間でしたが、到着は自己最早です。 コロナ騒ぎで滞っていた実家の片付けが目的の帰郷ですが、まあ、暑くて暑くて(笑)但馬は暑い! で、帰りは夕方5時に和田山駅から播但線で、万緑の中の生野峠では、土砂降りの夕立を車窓に眺めながら、姫路駅、午後7時到着でした。ちょうど12時間前に通過した駅のホームで、ふと、浮かんできました。「腹が減ったな・・・!?」 目の前にありました(笑)。ほぼ、10年ぶりの駅そばです。孤独にスープをすすっていると浮かんでくるのは30年前の愉快な仲間たちの顔です。 神戸の自宅に帰り着くと阪神キャッツの面々が鯉のアライで乾杯していました。完勝のカンパイでっせ(笑) もちろん、シマクマ君も氷をたっぷり入れたグラスで缶ビールです。乾杯! 青春18はつかれる!(笑)ボタン押してね!
2023.07.29
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パトリス・ルコント「メグレと若い女の死」 三カ月ほど前にシネ・リーブルでポスターを見て思ったったんです。「そうそう、この探偵、この探偵!この探偵が見たい!」 で、なにを、どう勘違いしたのかリーアム・ニーソンのフィリップ・マーロウを見たのです。で、なんか、勘違いしていることに気づかないまま、その映画のフィリップ・マーロウにも、今一納得がいかないままだったのですが、パルシネマの予定表を見ながら思い出しました。「こっち!こっち!」 レイモンド・チャンドラーのマーロウにはまっていた40年ほど前、こちらは早川ミステリー文庫だけじゃなくて、河出文庫とかからもたくさん出ていて、読みました。 ジョルジュ・シムノンのメグレです。 身長180cm、体重100kgの大男、常に3本のパイプをいじっているパイプ・フェチ。お酒が好きで、食いしん坊、料理好きの奥さんは名前がルイーズ。たしか娘がいたんですが、幼い頃に亡くなっていて、どことなくなくさみしい二人暮らし。 まあ、そういう男なのですが、名探偵の常で、もちろん、偏屈もの。フランスではテレビドラマの人気者らしいのですが、ポスターの黒い影は、優男のマーロウとちがって、メグレは武骨でデカい、全くの別人なわけで、ボクは一体何を勘違いしていたんでしょうね(笑)。 で、やってきたのがジョルジュ・シムノン原作で監督がパトリス・スコットの新作、「Maigret」でした。邦題は「メグレと若い女の死」です。 納得でした(笑)。ジュール・メグレというベテラン警視のキャラクターを丁寧に描いている印象で、ジェラール・ドパルデューという巨漢の俳優も奥さんのルイーズを演じているアン・ロワレという女優さんもとてもいい味の作品でした。 幼くしてなくした娘さんと、目の前の事件で亡くなったり、田舎から出て来て壊れかけている、二人の若い女性が、武骨なメグレの中で重なっている様子が、実に哀切で優しく伝わってくる物語でした。パイプやビールに対するこだわりや、めんどくさい亭主を愛している奥さんの何気ない言葉もよかったですね。 メグレとルーズの夫婦に拍手!です。で、思ったのですが、この作品の監督は、かなりな手練れですね。テンポと人物描写が自然でリアルでした。拍手!ですね。 で、この日パルシネマで見たもう一本が「幻滅」というフランス映画だったのですが、その映画にジェラール・ドパルデューという俳優さんは出ていらっしゃったんですね。帰り道で、チラシやネットをいじりながらようやく気付くという迂闊さなのですが、イヤ、ホント、役者というのはやるもんですねえ。思えば、「幻滅」でもいいお芝居をしていらっしゃったんですが、、まあ、当たり前すぎるバカなことをいいますが、全く別人でした(笑)。 それから拍手したパトリス・ルコントという監督さん、「仕立て屋の恋」という作品で有名らしいのですが、ずーっと昔に見たことがあるような気がするのですが、気になります。 で、パルシネマは「夜パル」とかいう、終わるのが午後10時を過ぎるプログラムで、その映画をやっているんですね。最近、そういう夜遊びが億劫なので、決心がつかないのですが、たぶん、見るんじゃないかと思いますが、どうなることやらですね(笑)。監督 パトリス・ルコント製作 ジャン=ルイ・リビ原作 ジョルジュ・シムノン脚本 パトリス・ルコント ジェローム・トネール撮影 イブ・アンジェロ美術 ロイック・シャバノン衣装 アニー・ペリエ編集 ジョエル・アッシュ音楽 ブリュノ・クーレキャストジェラール・ドパルデュー(メグレ)アン・ロワレ(メグレの妻)クララ・アントゥーン(ルイーズ・ルヴィエール:死体の女性)ジャド・ラベスト(ベティ:万引きの女性)ピエール・モウレ(ローラン:ヴァロア夫人の息子)メラニー・ベルニエ(ジャニーヌ:ローランの婚約者)オーロール・クレマン(ヴァロア夫人)アンドレ・ウィルム(老人)エルベ・ピエール(解剖医)ベルトラン・ポンセ(メグレの主治医)エリザベート・ブールジーヌ(ダレスのレンタル屋)フィリップ・ドゥ・ジャネラン(裁判官)2022年・89分・G・フランス原題「Maigret」2023・07・26・no96・パルシネマno62
2023.07.28
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ヤン・ヨンヒ「ディア・ピョンヤン」元町映画館no190 「スープとイデオロギー」というドキュメントで忘れられない監督になったヤン・ヨンヒ監督の特集「映画監督ヤンヨンヒと家族の肖像」を元町映画館がやっています。 上映されるのは「ディア・ピョンヤン」(2005)、「愛しきソナ」(2009)、「スープとイデオロギー」(2021)の三作品です。 今日(2023年7月27日)にボクが見たのは、三部作(?)ともいうべき「家族の肖像シリーズ」の第1作、「ディア・ピョンヤン」です。 2021年に作られた「スープとイデオロギー」が、いわば「母の肖像」であったわけですが、「ディア・ピョンヤン」は、ほぼ、同じ方法論で撮られている「父の肖像」でした。 映画が撮られた2004年当時、健在だった父を、監督自らがカメラを回しながらインタビューし、ナレーションしながら、父と母、ピョンヤンに暮らす兄たちの家族の姿を映像化した作品でした。いってみれば「ホーム・ビデオ」なのですが、これが胸を打ちます。「父ちゃんの映画作ってんねん」「アホちゃうか!」 もらって帰ってきたチラシの中にあった文句です。帰って来て、この言葉のやり取りを見つけて、涙が出ました。お父さん、お嬢さんはアホちゃいまっせ!監督・脚本・撮影 ヤン・ヨンヒ 梁英姫プロデューサー 稲葉敏也編集 中牛あかねサウンド 犬丸正博翻訳・字幕 赤松立太2005年・107分・日本配給 シネカノン2023・07・27・no97・元町映画館no190
2023.07.27
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グザビエ・ジャノリ「幻滅」 この日はパルシネマで二本立てです。見たのはグザビエ・ジャノリという監督の「幻滅」です。一月ほど前にシネリーブルでやっていて、ちょっと気になっていましたが、なんとなくパスした一本です。 まあ、バルザックって苦手なんですね。冗長というか、作品によるのですが、ダルくなって読み続けられないんですね。原作の「幻滅」は20年ほど前に藤原書店が出した「バルザック・セレクション」で、鹿島茂とかの新訳の1冊、まあ、上・下本ですが、で出ていて、チャレンジした記憶はありますが、内容は全く覚えていません。 さて、映画です。原作がバルザックですから、まあ、映画も人間喜劇ということですね。始まった物語の舞台ですが、時代は19世紀の前半、日本だと江戸時代の末期、フランスなので、まあ、思いっきり大雑把に言えばナポレオンのあとですね。ようするに「近代社会」、「国民国家」の始まりの時代というわけです。 田舎町の印刷工の青年が、年老いた夫との満たされない生活をしている貴族の女性と禁断の恋に落ちます。 一応、時代劇なわけで、映し出される衣装とかの生活風俗、印刷技術なんか、結構面白いですね。平民の文学青年が「詩」を献上して貴族の女性と恋に落ちるなんていうのも、時代劇ならではなのでしょうね。 で、バルザックですからね、駆け落ちして、舞台がパリに移ります。二人が迷い込む世界は「貴族のサロン」、「劇場」、「新聞社」です。で、その三つの世界が「新聞」が報道する「記事」をめぐって、まあ、今風に言えばどんなふうに「炎上」するのかという展開で、「サロン」=旧来の政治権力、「劇場」=金権社会、「新聞記事」=フェイク情報と読み替えれば、映画は、そのままリアル現代劇の様相です。 「新聞」という新しいメディアをネタに小説を書いたバルザックが、旧来の価値観の底が抜けた新たな社会の到来のインチキを見破る慧眼の持ち主であったことに異論はありません。そこから現代という時代を批評的に描こうという、この映画のグザビエ・ジャノリ監督の意図のようなものも納得です。 ただ、なんとなく見ながら浮かんできたんです。 現在の眼から見れば、あの頃からの繰り返しの連続で、そこで失われたのが「純愛」とか「文学」とかだったと言われてもなあ・・・・。 時代という意味では、とても面白い舞台で、描かれている社会相は文学史のみならず、近代社会の成立ということを振り返る上でも興味深かった作品ですが、物語としては、まあ、そんな感想でしたね(笑)。 で、インチキ・ジャーナリズムの親玉役で、この日見た、もう1本で主役のメグレをやっているジェラール・ドパルデューが、打って変わって暑苦しい金の亡者のような役を好演していたのですが、メグレを見ながら、同じ俳優だとは気づきませんでしたね(笑)監督 グザビエ・ジャノリ原作 オノレ・ド・バルザック脚本 グザビエ・ジャノリ ジャック・フィエスキ撮影 クリストフ・ボーカルヌ美術 リトン・デュピール=クレモン衣装 ピエール=ジャン・ラロック編集 シリル・ナカシュキャストバンジャマン・ボワザン(リュシアン・ド・リュバンプレ)セシル・ドゥ・フランス(ルイーズ・ド・バルジュトン)バンサン・ラコスト(エティエンヌ・ルストー)グザビエ・ドラン(ナタン)サロメ・ドゥワルス(コラリー)ジャンヌ・バリバール(デスパール侯爵夫人)ジェラール・ドパルデュー(ドリア)アンドレ・マルコン(デュ・シャトレ男爵)2021年・149分・R15+・フランス原題「Illusions perdues」2023・07・26・no95・パルシネマno61
2023.07.26
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宮崎駿「君たちはどう生きるか」 見ました。82歳の宮崎駿の、おそらく、最後の作品だろうという思いで見ました。「君たちはどう生きるか」です。ボクにとって、宮崎駿は、なんといっても腐海の果て、風の谷に降臨した少女ナウシカの人なのですが、その宮崎駿が、繰り返しですが、最後の仕事で主人公に何を言わせるのだろうというという、まあ、高齢とはいえ、元気に大きな仕事をなさっている方に、失礼極まりない興味でやってきた109シネマズ・ハットです。 で、物語の終盤、冥界に迷い込み、世界の崩壊を目の当たりにした主人公真人の叫びを聞きながら、涙が出ました。「ぼくは、あっちの世界で、ともだちのアオサギと生きていく!」 物語は敗色漂う1940年代の日本を舞台にしています。主人公は物語の序盤、病院の火災のために母を失ってしまう小学生の牧真人君です。作品全体に、ある種の終末観が漂い続けていて、決して明るく夢のある物語とは言えないと思いましたが、1945年、敗戦の結果、軍需工場の経営者であった牧一家が疎開先のお屋敷から東京に帰る、その日に、お屋敷の玄関で両親に手を引かれて、腹違いの兄の真人を待っている幼い少年の姿が描かれていました。作品全体のなにげないラストシーンです。「あっ、この子、宮崎自身や!」 時代を画したアニメーション作家が、おそらく生涯最後となるであろう、長編作品の題名として選んだのが「君たちはどう生きるか」です。いったい誰に問いかけているのか定かではありません。しかし、作品を見れば感じるのではないでしょうか? 問いかけられているのは、今、この作品を見ているボク自身でした。「ボクはこう生きてきた。君たちはどう生きるか?」 この作品について、あれこれ言う気は全くありません。ボクは納得でした。今更、どう生きるかと問われても困るのですが、なにはともあれ、見てよかった。やっぱり宮崎駿に拍手!です。どうか、長生きして、あれこれ、つべこべ、文句を言い続けてほしいものです(笑)。監督 宮崎駿原作 宮崎駿脚本 宮崎駿主題歌 米津玄師製作 スタジオジブリ2023年・124分・G・日本2023・07・24・no93・109シネマズ・ハットno30追記2024・03・25 アメリカのアカデミー賞で長編アニメ賞とからしいですね。よかった!よかった! まあ、そういう感じですが、この映画って、他所の国の人、わかるんですかね?ボクは、現代日本の20代30代の人だって・・・という気がしたんですが、まずは好評でらしいですからね。よかった!よかった!でした(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2023.07.25
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ルーカス・ドン「CLOSE」シネ・リーブル神戸 映画館に飾ってあるポスターの写真の少年の眼差しが気になってみました。ルーカス・ドンという監督の「CLOSE」です。2022年のカンヌ映画祭でグランプリ、ですから二等賞だった作品です。 多分、中学校の1年生くらいの年頃の二人の少年のお話でした。自転車での疾走、広がる花畑、教室の子どもたちの会話、熱中するクラブ活動、クラリネットとかアイスホッケーとか、そういうシーンが印象に残りました。 二人の少年は幼なじみで、名前はレオとレミです。映画の最後にはレオは一人ぼっちになります。あんなに仲良しだったレミも、レミの家族もレオの前から消えてしまいます。 チラシの写真で、こっちを見ている少年がレオです。背中がレミです。ボクが、この写真を見て気になったのはレオの眼差しに、なんというか、ケンというのでしょうか、何か尖ったものがあると思ったからです。 で、見終えて思い出したのが、いまから50年以上も前のことです。ボク自身が中3だった時に、子どものころから仲良しだったM君という友達がグレてしまった時のことです。それまで、よくできていた勉強とかにも興味を失って、新しい友達と連れ立って、まあ、タバコを吸ったりし始めたときに、気を揉んだ先生の一人がボクに声をかけてきました。「S君、M君は親友やろ?M君あんなんなってるけど、放っておいてええんか?」 しかし、ボクは何もしませんでした。結果、それぞれ別の高校に進学し、そのまま、音信もとだえ、今に至っています。廊下かどこかですれ違った時、彼がボクに気づいて目を伏せたシーンが、なんとなく記憶に残っています。 レミがレオを見るシーンが印象深い映画でした。チラシのレオの眼差しにあるのはイノセンスではありません。しかし、イノセンスを捨てることでしかたどり着けない場所があって、そこでしか人は生きることができない、人間という存在の不条理に対する怒りであることは間違いないように思いました。 しかし、ね、レオ君、その怒りというか、戸惑いというかはね、結局、終わらないまま、心のどこかでわだかまり続けるんだよね。それでも、今、君が失ったものは、もう二度と帰ってこないよね。 凛々しいレオを演じたエデン・ダンブリン君に拍手!でした。 で、まあ、ただの思い付きというか、思い浮かんだだけで、根拠はないのですが、今年「怪物」という作品を発表した是枝監督は、「怪物」を撮る前に、この映画を見たんじゃないかと思いました。 二つの映画はともに、少年たちの友情を描いていますが、両方とも、所謂、同性愛の萌芽を描いているなんていうのは眉唾ですね。少年というのは、まあ、少女のことはわかりませんが、あんなものです(笑)。監督 ルーカス・ドン製作ミヒール・ドン ディルク・インペンス脚本 ルーカス・ドン アンジェロ・タイセンス撮影 フランク・バン・デン・エーデン編集 アラン・デソバージュ美術 イブ・マルタン衣装 マニュ・フェルシューレン音楽 バランタン・アジャジキャストエデン・ダンブリン(レオ)グスタフ・ドゥ・ワエル(レミ)エミリー・ドゥケンヌ(ソフィ:レミの母)レア・ドリュッケール(ナタリー:レオの母)イゴール・ファン・デッセル(チャーリー:レオの兄)ケビン・ヤンセンス(ピーター:レミの父)2022年・104分・G・ベルギー・フランス・オランダ合作原題「Close」2023・07・18・no90・シネ・リーブル神戸no200
2023.07.24
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伊藤比呂美訳・下田昌克画「今日」(福音館書店) 谷川俊太郎が詩を書いている「ハダカだから」という絵本の挿絵で気に入った下田昌克という画家を探していて、この本に行き当たりました。 普段はそういうことをあまりしないのですが、市民図書館で予約して借りてきました。その本を手にしたチッチキ夫人がいいました。「わたし、やっぱり、この本買うわ。」「ああ、伊藤比呂美やしなあ。」「うん、まあ、それもあるけど。」 伊藤比呂美訳・下田昌克画「今日」(福音館書店)です。全部で55ページ、新書版の小さな詩集・絵本です。 下田昌克の絵をお見せしたくて、そのままにした腰巻のせいで見えませんが、淡い水色の布装の表紙に「Today」と少し大きめの題と詩の全部が金色で印字されています。 TodayToday I left. some dishes dirty,The bed got made about two-thirty.The nappies soaked a little longer,The odour got a little stronger.The crumbs I spilt the day beforeWere staring at me from the floor.The art streaks on those window panesWill still be there next time it rains.“For shame,oh lazy one,” you say,And "just what did you do today?"I nursed a baby while she slept,I held a toddler while he wept.I played a game of hide'n'seek,I squeezed a toy so it would squeak.I pushed a swing,I sang a song,I taught a child what's right and wrong.What did I do this whole day though?Not much that shows,I guess it's true.Unless you think that what I've doneMight be important to someoneWith bright blue eyes-soft blond hair.If that is true,I've done my share. ページを開くと ニュージーランドの子育て支援施設に伝わる詩より と記されています。壁に貼ってあって、誰の詩だかわからないらしいのですが、それを伊藤比呂美さんが、10分ほどで、さらさらと訳してネットで公開すると評判になったので、本にしたそうです。 ボクは子育てお任せ亭主で、エラそうなことは言えないのですがが、「わたしはちゃんとやったわけだ。」 という最後の行の日本語訳まで読んで、涙が出ました。 7ページ、最初の見開きの右のページから、日本語に翻訳された詩が始まります。 今日、 で、その次のページがこれです。わたしはお皿を洗わなかった 右側に下田昌克の挿絵があります。 訳者の伊藤比呂美さんは「おなか ほっぺ おしり」(中公文庫)の詩人です。ぼくたちと同世代で、チッチキ夫人のお気に入りです。その伊藤比呂美さんが「訳者あとがき」でこんなことをおっしゃっています。 むかし、わたしが子育てをはじめた頃に、あんまり性格がきまじめの几帳面だったものですから、考えつめすぎてぜったいつまづくだろうと思って作り出した呪文があります。「ずぼら、がさつ、ぐうたら」というのです。 すぼら、がさつ、ぐうたら ずぼら、がさつ、ぐうたら口に出して唱えておりましたら、あんなにきまじめで几帳面だったわたしが、ほんとに、ずぼらで、がさつで、ぐうたらな女になってしまいまして、効き目におどろいております。(P51) ずぼらでがさつでぐうたらでいいんだよ! 教育パパかもしれないのあなた、そんなふうに、あなたの隣で赤ちゃんにおっぱいをあげている女性に言えますか?この詩集・絵本をお読みになれば、あなたがその女性にとってどんな存在なのかお気づきになるような気がしますよ。69歳になって、4人の子供たちがみんな出て行ってしまった家で気づいても、まあ、もう遅いのです。 巻末には、同じく伊藤さんの訳された「虹の橋」という詩が添えられています。そのうち、載せたいと思います。
2023.07.23
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オレシア・モルグレッツ=イサイェンコ「キャロル・オブ・ザ・ベル」 ウクライナ生まれのオレシア・モルグレッツ=イサイェンコという監督の「キャロル・オブ・ザ・ベル」という作品を見ました。 1939年1月、当時、ポーランド領内にあったスタニスワヴフという町が舞台でした。ユダヤ人の一家が大家さんであるアパートに、ウクライナ人の音楽家一家とポーランド人の軍人の家族が引越ししてくるところから映画は始まりました。 ウクライナ人一家の娘で、歌の好きな少女が、ことあるごとに歌うのがウクライナの民謡「シェドリック」=「キャロル・オブ・ザ・ベル」で、それが映画の題名になっています。 三つの家族が暮らすスタニスワヴフという町は、当時はポーランド領ですが、現在ではスタニスワヴフイヴァーノ=フランキーウシクという、ウクライナ領の町です。 1920年代から2020年代までの約100年間、だいたい1世紀という時間の幅で考えてみると、間に、この町を現れた、よその国の軍隊は帝政ロシア軍、赤軍、ナチスドイツ軍、ソビエト軍。で、ソビエト崩壊があって、20世紀のロシア軍がすぐに思い浮かびますね。まったく素人の興味本位ですから、ポーランド、ウクライナの国境問題まではよくわかりませんが、あっちから、こっちから、ろくでもないことの繰り返しだったことは間違いありませんね。で、映画は1939年、その町に暮らしていた三つの家族の3人の少女の、1978年だったと思いますが、40年後の再会の物語でした。 赤軍によるポーランド人の迫害、ナチスによるユダヤ人の迫害、ソビエト軍によるドイツ人、ソビエト共産党の反共産主義者・ウクライナ民族主義者に対する迫害。構図としてすぐに思いうかぶ激動のなかを、「キャロル・オブ・ザ・ベル」をお守りのように歌う少女の半生が振り返えられる作品でした。 登場する子供たちのイノセンスなまっすぐさが胸を打ちました。作品は2021年、今回のロシアのウクライナ侵攻以前に制作されたもので、反ロシア的ナショナリズムのプロパガンダ映画というわけではありませんが、ウクライナという国家というか、民族というかに対する「愛」の表現が少々図式的なのが、ボクには残念でした。監督 オレシア・モルグレッツ=イサイェンコ脚本 クセニア・ザスタフスカ撮影 エフゲニー・キレイ美術 ブラドレン・オドゥデンコ編集 ロマン・シンチュク音楽 ホセイン・ミルザゴリキャストヤナ・コロリョーバ(ソフィア・ミコライウナ)アンドリー・モストレーンコ(ミハイロ・ミコライウナ)ヨアンナ・オポズダ(ワンダ・カリノフスカ)ミロスワフ・ハニシェフ(スキヴァツワフ・カリノフスカ)ポリナ・グロモバ(ヤロスラワ・ミコライウナ)フルィスティーナ・オレヒブナ・ウシーツカ(テレサ・カリノフスカ)アラ・ビニェイエバ(ベルタ・ハーシュコウィッツ)トマシュ・ソブチャク(イサク・ハーシュコウィッツ)エウゲニア・ソロドブニク(ディナ・ハーシュコウィッツ)2021年・122分・G・ウクライナ・ポーランド合作原題「Carol of the Bells」2023・07・21・no92・シネ・リーブル神戸no202
2023.07.22
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丸谷才一「猫のつもりが虎」(文春文庫) 表紙の絵が、なかなかいいとお思いになりませんか?丸谷才一のエッセイ集、「猫のつもりが虎」(文春文庫)ですが、もともとは「ジャパン・アヴェニュー」という、どこかの会社の広告誌に連載されていたエッセイを、マガジンハウスが2004年に書籍化した本で、文春文庫になったのは2009年ですね。 表紙をご覧になれば、すぐにお気づきだと思いますが、1章で1話、章ごとに和田誠のイラストの表紙絵と挿絵があって、400字の原稿用紙にして12枚程度、5000字弱の一話完結のエッセイが、全部で18作収められています。イラスト一つに原稿用紙6枚という釣り合いのようですが、これが、某所のお供にぴったりなんですね(笑)。 で、表紙は、本書の前口上というか、はじめにに当たるエッセイの挿絵です。 虎を描いて猫に堕す、とおぼえてゐたけれど、本当は、虎を描いてお犬に類す、らしい。とにかく絵が下手なことの喩へ。でもそれなら、ネコを描いたのに虎に見えたら、これは名人なのか。やはり下手なんでせうね。 しかしわたしの友達に言はせると、江戸時代は日本に虎はゐなかつたから、圓山應擧の虎の絵は自分の家の飼猫を見て写生したにちがひないさうである。そのせいで、猛獣でありながらどこか優しい風情があつてよろしいとのことであつた。 本当かしら。 今更いうのも気が引けますが、うまいものですね。こういうウィットというか、ユーモアというかが丸谷エッセイの持ち味ですが、一つだけ注意事項をあげれば、旧仮名遣いなのです。英文学、ジェームス・ジョイスの研究あたりから出発した、結構、バタ臭い世界の人なのですが、2012年に87歳で亡くなるまで、日本語表記に関しては、最後まで旧仮名遣い、歴史的仮名遣いを貫いた人なのですね。まあ、そこを、めんどくさいと感じる方もいらっしゃるかもしれませんね(笑)。 でも、まあ、お読みになれば慣れてしまうものです。試しに、最後に収められている「日本デザイン論序説」を引用してみますね。 和田誠さんとお話してゐて、わたしが、日本美には単純美とゴチャゴチャ美と二種類あるらしい、といふことを言つた。 その典型的なものは、能の舞台面の単純簡素と、歌舞伎のそれの複雑繚乱ですね。まるで違ふ。殊に対立が顕著なのは、能の橋かかりがすつきりしてゐるのに対して、歌舞伎の花道は役者(何人もの役者の場合もある)の向うに見物席があつて、そのまた向うに一段高く桟敷があつて、見物の女の人たちが着飾つてゐて、その上には桜の枝や赤い提燈と、じつににぎやかなことである。 すると和田さんが、思ひがけないことを言ひだした。 その対立を最も極端な形で示すのは家紋だ、といふのですね。一方には黒い丸を一つなんて、無愛想なくらゐあつけないものがある。他方には竹藪のなかに雀が二羽なんてものがある。さう言つたんです。 なるほど。いい着眼だなあ。 まあ、ここまでが枕ですね。ここからのうんちくの展開が丸谷才一ですね。 事典で調べてみますと、たとへば井伊家の井筒なんてのは井の字を太く書いたけ。まことにそつけない。加藤家の一蛇目は黒丸のまんなかが 抜いてある、ただそれだけ。毛利家の一本矢羽なんてのも、黒い輪のなかに黒く塗りつぶした矢羽が一つ。御存じ島津家の十文字は丸に十。黒い丸といふのは黒田家のその名も黒餅でした。 得意の展開です。まず単純な家紋が出てきましたから、当然、複雑な方は?と気になります。で、お好きな方は、ネット上に「家紋一覧」とかいうサイトがないか探し始めて、見つけ出します。 ああ、一蛇目って、こういうのだ。 とかなんとか寄り道しながら、次に進むとこんな感じです。 そしてこれに対するものは、まづ伊達家の竹の丸に二羽雀。二本の竹の輪のなかで雀たちも窮屈さうだし、笹の葉をたくさん描き添えなくちやならないからじつに厄介だ。鳥居家の二本竹に宿り雀といふのも面倒ですね。でも、こっちのほうが雀がのんびりしているか。 こうなると、「こっちが伊達でしょう。」「で、こっちが鳥居ですね」としばし夢中ですね(笑)。 で、読んでいた本のほうでは、話が家紋から、社会全般に進んで結論に向かうようです。単純と複雑が対比して並べられます。笑えます。伊勢神宮 対 日光東照宮小津安二郎の後期の映画に出てくる山の手の邸の室内 対 帰ってきた寅さんが訪ねる柴又の家の室内日本橋榛原の封筒 対 三条新京極さくら井屋の封筒五十円や八十円の普通の切手 対 日本画の名作を使った記念切手「週刊朝日」「週刊文春」の表紙 対 女性週刊誌の表紙 いろんな分野のデザインに表れている、単純と複雑、棲み分けの妙ですね。丸谷さん、お暇ですね。でも、ナルホド、ナルホド、で、面白いでしょ。 でね、棲み分けられないデザインが一つあるんですね。なんだと思います?どっちか一つに決めなければならない場合ですね、困るのは。 で、最後のうんちくは「日の丸」です。 まあ、ボクは、日の丸を見ると、ちょっとうんざりするタイプなのですが、金屏風からクリムトの例の絵まで持ち出して語る丸谷才一の結論(?)には、ちょっと、笑いましたね。気になるでしょ。お暇な方にはピッタリの「遊び時間」になりますよ。
2023.07.21
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アリス・ディオップ「サントメール ある被告」 予告編で興味を惹かれて見ました。アリス・ディオップという監督の「サントメール ある被告」という裁判・法廷映画でした。 生後15か月の赤ん坊を潮が満ちてくる海岸に置き去りにして、殺人の罪を問われているアフリカ系の移民の女性ロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)の裁判の成り行きを描いた作品でした。 ボク自身の中にある「男性性」というか、無意識なのですが、「女性」や「未開社会」に対する、無知や差別性ということを、意識の深いところから揺さぶられる印象の作品でした。 サント・メールというのはフランスの地名だそうですが、フランス語の音としては「聖なる母」という響きとして聞こえることばだそうです。 ヨーロッパ社会全体、あるいはカトリックのフランスにおいては、まあ、「聖なる母」というのは、もちろんマリアのことだと思いますが、この映画ではアフリカからの移民の女性、被告であるロランス・コリー、裁判を傍聴する小説家であるラマという、二人のアフリカ系移民の、一世、ないしは、二世の女性を中心に描くことで、まあ、おおざっぱに言えば、アフリカを離れ、「ヨーロッパ的キリスト教文明」を肯定して暮らすアフリカ系の人々の精神の奥にある、まず「植民地的な忍従の歴史」、そして、その、また、奥にある「アフリカ的文明」の根っこのようなものが、妊娠する、出産する、育てるという、人間の生きものとしての原初的な体験をする中で、ヨーロッパで暮らす彼女たちに揺さぶりをかけるとでもいう映画だと思いました。 裁判は、ヨーロッパ的な「聖なる母」を肯定する検事やロランスの愛人である白人男性。あたかも文化人類学者のようにロランスを問い続ける、白人の女性判事。ロランスを徹底的に擁護する白人の女性弁護士。自らの妊娠に不安を感じながら傍聴をやめられないアフリカ系の女性小説家という登場人物たちの取り合わせで進行します。 ここまで、分かったような調子で書いていますが、実は、映画が描こうとしている、この裁判で争われている眼目は一体何なのかということについて分かったわけではありません。ただ、この映画の製作者、まあ、監督が見ている人間にとって「わかりやすい」かもしれない図式的な描き方を避けて、登場人物それぞれの発言の内容や、行為のシーンの意味について、聞き、見ることを求めている映画の作り方なのだということは強く感じました。で、考え込んだわけです。 あたかも、ドキュメンタリーのように進行しますが、映像の組み合わせとか、判事役、弁護士役の描き方は、ドラマそのものです。で、そこが、とても面白いのですが、差し出された問いかけの深さには、唸るばかりでしたね(笑) 帰宅してチッチキ夫人に、そのままいうと、彼女は翌日出かけて見てきたようです。「パンフレット買っちゃった(笑)。」「えー、で、面白かった?」「うん、面白かったけど、よくわからなかった。で、パンフレットが欲しくなっちゃった(笑)。もう一度行こうかなあ。」監督 アリス・ディオップ製作 トゥフィク・アヤディ クリストフ・バラル脚本 アリス・ディオップ アムリタ・ダビッド マリー・ンディアイ撮影 クレール・マトン美術 アナ・ル・ムエル衣装 アニー・メルザ・ティブルス編集 アムリタ・ダビッドキャストカイジ・カガメ(ラマ:傍聴する小説家)ガスラジー・マランダ(ロランス・コリー:被告)バレリー・ドレビル(裁判官)オレリア・プティ(ヴォード)グザビエ・マリー(リュック・デュモンテ)ロベール・カンタレラ(検察官)サリマタ・カマテ(オディール・ディアッタ)トマ・ドゥ・プルケリ(アドリアン)アダマ・ディアロ・タンバ(ラマの母親)マリアム・ディオップ(ラマの姉妹)ダド・ディオップ(ラマの姉妹)2022年・123分・G・フランス原題「Saint Omer」2023・07・19・no91・シネ・リーブル神戸no201
2023.07.20
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菅野昭正編「書物の達人 丸谷才一」(集英社新書) 大文学者とかいうのは、なんか気が引けます。まあ、最後の文人とでも呼ぶのがふさわしい丸谷才一ですが、2012年に亡くなった翌年の2013年、世田谷文学館というところで「書物の達人 丸谷才一」と題されて開催された「連続講演会」が書籍化されて2014年に出版されたのがこの本「書物の達人 丸谷才一」(集英社新書)です。 市民図書館の新刊の棚にありましたが、新刊ではありません。目次はじめに 丸谷才一の小説を素描する 菅野昭正第1章 昭和史における丸谷才一(川本三郎)第2章 書評の意味―本の共同体を求めて(湯川豊)第3章 快談・俳諧・墓誌(岡野弘彦)第4章 官能的なものへの寛容な知識人(鹿島茂)第5章 『忠臣蔵とは何か』について(関容子)あとがき 菅野昭正 この目次によれば、講演者が5人ですが、実はフランス文学の菅野昭正の「はじめに」はかなり気合の入った丸谷才一論です。特に、初期の代表作「エホバの顔を避けて」、「笹まくら」という二つの作品を俎上にあげ、中期の「たった一人の反乱」以後への、丸谷流モダニズム小説の変遷をその英国文学体験から語り始める展開は、なかなか読みごたえを感じました。 残りの五人の論者も、それぞれ、「戦争体験と永井荷風」(川本三郎)、「新聞書評と英国文学」(湯川豊)、「国学院と折口信夫」(岡野弘彦)、「モダニズムと官能論」(鹿島茂)、「中村勘三郎と歌舞伎」(関容子)という具合に焦点化した視点で語られていて、丸谷才一という多面体が、5人の論者によって多面的なエピソードが持ち出され、ほぼ全面展開している様相で語られていて飽きません。 まあ、そういう奇特な方がいるのかいないのかはわかりませんが、文人丸谷才一を相手に「遊び時間」を過ごしてみようかという方には、うってつけの入門書かもしれません。 まあ、ボクにとってはですが、これは!というようなものすごい話がいくつかあったのですが、その中から一つ、案内してみます。 第三章の講演者、岡野弘彦という方のお話の中からです。岡野弘彦と言えば、三重県だったかの神社の跡取りで、折口信夫の弟子です。で、國學院大學で丸谷才一とは同僚だった歌人です。その岡野弘彦が「忠臣蔵とは何か」(講談社文芸文庫)という丸谷才一の評論を取り上げて、日本人の信仰の形について語っている一節があるのですが、そこでこんなことをおっしゃっています。 これを言うのに少し勇気がいるけれども、丸谷さんをしのぶ会で柔(やわ)なことを言ったら、丸谷さんはきっと怒るだろう。丸谷さんの魂もまだ鎮まってないでしょうから(笑)。大事な問題だから言っておきます。 日本人は近代になって、革命と言ってもいいような明治維新を遂げたわけですけれどども、その時、多くの死者が出た。そして、その死者の魂の鎮めの問題は今でも続いています。幕末の維新が遂げられて、近代国家へと歩み始めた直後は無理だったでしょうけれども、一〇年、三〇年と経過していくうちに、例えば、佐幕派の東北諸藩の死者たちをなぜあのお社に合祀してやらなかったのか、あるいは、幕府の遺臣たちの中で命を縮めていった人たち、江戸を守ろうとして死んだ人たちをなぜ祀ってやらなかったのか。あるいは、あの八甲田山の演習の死者たちをなぜ祀ってやらなかったのか。 明治、大正、昭和の三代は日本が近代国家になるために外国と戦いをいくつもした。そして、敵、味方の多くの人が亡くなりました。特に今度の戦いの後、昭和天皇はA級戦犯を靖国に祀ることに絶対に反対であった。それを宮司さんが代わって、福井藩士の松平春嶽のお孫さんで海軍の高級将校であった人が宮司になった途端にA級戦犯を合祀した。それは昭和天皇の与り知らないことであったわけです。そのときから昭和天皇は靖国神社へ参拝なさらなくなった。今の天皇もそれを継いでおられます。 今の天皇は明治、大正、昭和の天皇とは違っております。先の三代はあんなふうにいくつも戦いがあって、我々の先輩たち、祖先たちは戦い抜いて、そして、この近代国家、日本ができたわけです。しかし、同時にその戦いの相手の国、あるいは、東洋の近隣の諸国にいろいろな被害を及ぼした。そのことを、敵も味方もへだてなくその魂を鎮めるということに専念していられるのが今の天皇です。そして、昭和天皇よりもさらに細やかに地方を回られ、戦跡を訪ねて、敵、味方の魂を鎮めるためにあんなに敬虔に祈られる天皇と皇后というのは歴史の上にも前例がないほどです。 だから、そういうことを考えると、今の政治家たちの発言の不用意さというものが、私には嘆かわしいことだという気がします。領土問題について中国の政治家が「昔の人たちは非常に聡明だったから解決法もあっただろう。しかし、我々はそれほど聡明にはなり得ていないから、これは保留にしておこう。やがて、聡明な我々の子孫たちが自然に解決する時が来るだろう」と言ったと伝えられています。孔子、孟子の国の政治家が言う言葉ですよね。それなのに前の東京都知事なんかが、大変粗略なことを、然もアメリカに行って申しました。(P114) ちょっと、トンボ切れなのですが、近代日本という国家の成立過程で、見捨てられた荒魂に対する「魂鎮め」、「御霊信仰」をめぐって、「王」として天皇について、穏やかですが、本質的にはラジカルなことをおっしゃっていますね。国家における祭祀の王の役割の意味は、まあ、現代ではタブー視されていて、平成帝の戦跡や災害地訪問は「やさしさ」のエピソード・ニュースとしてしか扱われないわけですが、さすが、折口信夫の一番弟子という視点ですね。 まあ、こういう調子で、最後まで飽きさせません。いかがでしょう、古本屋さんの100円均一の平台でも時々見かけます。文人丸谷才一、この本あたりから「遊び時間」を始めてみませんか?
2023.07.19
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ホン・サンス「小説家の映画」 ホン・サンスという監督の映画を、なんとなく見続けています。毎日通勤する仕事をやめて、まあ、映画でも見ようか、という気分で映画館通いを始めて6年ほどが経過します。 で、最初に見た韓国の監督の映画で、わけがわからなくて感想が書けなかった思い出の監督がホン・サンスという人です。にもかかわらず、なんとなく見続けている人です(笑)。いつも同じ女優さんが出てきます。今回も同じでした。で、何が伝えたいのかわかりません。今回もわかりませんでした。見たのは「小説家の映画」という作品でした。 中年の女流作家(イ・ヘヨン)が、偶然会った女優(キム・ミニ)と意気投合して、映画を作るというお話でした。 今も、現役の作家である中年の女性が、もともとは作家であったらしいのですが、今は身を隠して、書店を営んでいるらしい昔の知人を訪ねて来て、店に入ると店員が叱られているらしい、かなり激しい口調の叱声が聞こえてきます。 見ているこっちがハッ!?とします。そんなシーンから始まりました。画面はモノクロです。画面上の作家の行動は、偶然から偶然へと連鎖して、何人かの人と会うシーンが、まあ、何の必然性もないままくりひろげられます。やってきたのがどこの町なのか、作家が住んでいるらしいソウルから遠いのか近いのか、まあ、そういうことは見ているボクにはわからないのですが、やってきた町のどこかにある展望台で出合う映画監督の夫婦。そこから、遠くの公園でウォーキングしてる人が見えて、展望台から公園に行くと、さっき見えていたのは有名な女優だったようで、初対面のその女優と映画監督の夫婦が仲立ちするかのの様子で知り合いになって、4人の立ち話が始まります。で、監督が、まあ、お愛想のようにいうのです。「映画に出ないのはもったいないですね。」 すると小説家がキレていいかえします。「もったいないってなによ、この人の人生でしょ。」 まあ、正確な記憶ではないのですが、とか、なんとか、なのですが、見ているこっちは、ポカン? ですね。気色ばむというのでしょうか、ムキになるというのでしょうか、女優の、その雰囲気に????ですね(笑)。 気まずくなったのでしょうか監督夫婦は去って、女優の甥だかなんだか、映画の勉強をしている青年が新しく登場して、それから小説家と女優は食堂のテーブルで向かい合って座り食事をするシーンが始まりますが、それを窓の外から見ている少女がいます。上のチラシの写真のシーンです。少女が何者なのか、何故、そこに立って二人を覗いているのか、見ながら気に掛かるのですが、まったくわかりません(笑)。 それから、女優が参加しているという、地域の集まりにいっしょに行くことになって、そこには最初の書店の店主と店員の女性と、新たに、詩人ということですが、おしゃべりな老人とがいて、ちょっと狭いテーブルにはマッコリの空き瓶が並んでいます。やがて、酔いつぶれたように(全然、そうはみえませんが)女優はテーブルに俯せて寝込んでしまって、残りの四人の、なんだか、やっぱりお愛想めいた会話が続いて、いつ目覚めたのか覚えていませんが、店を出た小説家と女優は映画を撮ることを約束して別れます。 音のない、カラーの画面で笑顔の女優が花を抱えているシーンがいきなり映ります。小説家と女優が作った映画のシーンなのでしょうね。これは、たしかに、美しい! でも、浮かんでくるのは、「小説家の映画」という、この映画を作っているホン・サンスという人に対する、共感がないわけではないようなのですが、やはり、困惑というべき気分です。なんなんですかね、これは? 見終えて、はっきり記憶に残ったのは、最初の罵声と、遠くから見えた歩いている女優の姿、小説家の怒りの発言、窓の外の少女の姿、老詩人との過去をにおわせる囁き、そして、いきなり映った花の画像です。 新しい作品が公開されたら、やっぱり見に来るのでしょうかねえ。毎回、毎回、ちっともわからないし、納得も行かないまま、ボンヤリ眺めているだけなのに、こりませんねえ(笑)。監督 ホン・サンス脚本 ホン・サンス撮影 ホン・サンス編集 ホン・サンス音楽 ホン・サンスキャストイ・ヘヨン(ジュニ 小説家)キム・ミニ(ギル 女優)ソ・ヨンファ(書店の店主)パク・ミソ(ヒョヌ)クォン・ヘヒョ(ヒョジン)チョ・ユニ(ヤンンジュ)ハ・ソングクキ・ジュボン(詩人)イ・ユンミ2022年・92分・G・韓国原題「The Novelist's Film」2023・06・30・no79・シネ・リーブル神戸no196
2023.07.18
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「オヤ、ここは福知山!」徘徊日記 2023年7月17日(月)炎暑の丹波あたり「海の日」とかで、世間もお休みの7月17日(月)、三宮から朝の10時に高速バスに乗って一路丹波路です。車窓の風景は丹波篠山あたりですが、緑の山々と青空、そして夏の雲です。 到着したのは福知山です。バスを降りると、肌ではっきり感じられる炎暑でした。多分、38度を超えています。駅前では、こんなふうに踊っていらっしゃる方もあったのですが、ボク自身は着なれない喪服に、黒い革靴です。そりゃあ、暑いですね! 今日は、99歳の往生を遂げた伯父さんの葬儀なのです。ボクの母親はすでに亡くなっていますが、母を入れて八人の兄妹だった最後のお一人です。但馬の田舎から、満州、旅順の師範学校に進学し、卒業と同時に満州防衛隊として徴集され、3カ月余りの従軍の結果ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を体験した方でした。 帰国して学校の教員をなさっていましたが、80歳を過ぎたころお出会いすると、手作りのチラシを差し出しながらおしゃいました。「あんなあ、Tっちゃん、わしな、仕残してることがあるんや。二十歳のころのシベリアの話や。あれはなあ、死ぬ前に、みんなに語っておきたいんや。」 その後、伯父さんは言葉通り、90歳を過ぎるまでシベリア抑留体験の語り部として暮らされた方です。 時節柄もあり、家族で営まれる葬儀だったのですが、なにはともあれ、お線香を!という気持ちでやって来ましたが暑い! ご家族と、数人の甥っ子たちが集まった穏やかな葬儀でした。無事、お線香を手向け、お顔を拝見し、儀式を終えました。霊柩車を見送りながら、昭和元年に生まれ、昭和、平成、令和を生きた方の人生を思い浮かべました。 再び、福知山駅あたりです。青い空と白い雲、夏ですねえ(笑)。駅のあたりに、人影はほとんどありません。 駅前広場の木陰で涼んでいて、目の前に気になるお店を見つけました。東京スタイル?、何のご商売なのか見当がつきません。建物も新しいので見当違いなのですが、なんか、昭和のあの頃を感じる田舎ぶりですね(笑)。 帰りのバスの窓から見えた丹波の夏の空です。ボンヤリ、時の流れを感じさせる風景でした。それにしても、少々お腹がすきましたね。バスに乗って、ようやく気付きました。慌てて出発した朝から、何にも食べていない一日でした(笑)。ボタン押してね!
2023.07.17
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野上彌生子「森」(新潮社) 読み終えたという、ただ、それだけで自慢したくなる作品というものがありますが、1885年5月6日に生まれ、1985年3月30日に亡くなった女流作家野上弥生子の遺作、「森」(新潮社)を読み終えました。ちょっと、自慢したい気分です(笑)。 100歳の誕生日を目前にした99歳の逝去ですが、あとに残されたのが、一般には完成間近と考えられているものの、500ページを越えて全15章の大作「森」の絶筆原稿だったわけです。 未完成とはいいながら、「秀吉と利休」(新潮文庫)、「迷路」(岩波文庫)の作家の遺稿です。亡くなったその年、1985年のうちに新潮社から単行本として出版され、のちに文庫化されています。ボクが読んだのは昭和60年(1985年)に出版された単行本で、巻末に篠田一士の解説がついていました。 10年がかりの労作ということで、書き出しこんな様子ですが、80代の終わりの文章です。第一章 入学 ある日。 中年のやせた洋服の男が、上野からの汽車にいっしょに乗った。銘仙の袷に緋繻子の帯をまだ貝の口ふうに締めた、身なりだけはまともでも一瞥(ひとめ)で田舎ものとわかる小娘をつれて王子で降りた。 期日をはっきりさせれば、明治三十三年、そのころ流行語になりかけたハイカラなるいい方に従えば、一九〇〇年の春が四月にはいったばかりの午前であった。 ふたりは飛鳥山の花見客でざわめきはじめている大通りをぬけ、裏のたんぼ道へでた。右も左も麦畑である。しっかりした株つきで列になって伸びた濃緑の厚ぼったい拡がりが、初々しい穂波で、青い入江のさざ波のように時おり白っぽく揺れた。ほとんど屈折なくつづく道は、人力車ならすれ違えないほどである。でも、そんなものには出逢わず、人通りもなかった。 野菜畑は、隣に伸びた麦の背丈だけ陥没したような低い区劃になって、くろぐろとしている。菜の花畑もあらわれた。道ばたの池ともいえぬ水溜まりでは農婦がにんじんを洗っていた。土から抜いたばかりなのを藁のたわしでごしごしやって、しゃがんだ足もとの竹ざるに放りこむ。麗日といった、春だけがもつ言葉にぴったりのお天気であった。一羽の鳶(とんび)が、ほんとうは凧で、ぴいろろと鳴る笛の仕掛けがしてあるのを、どこかで誰かが上手にたぐっているかのように、うらうらとした空をいつまでも旋回した。田舎には生まれても町屋育ちの小娘には、学校の遠足ぐらいでしか眼にしない田舎風景は珍しかった。にんじんのところでは、薄紅いろの鼻緒の重ね草履でたちどまり、竹ざるのみずみずした朱のやまをのぞいたりした。 でも正直なところは、この時の小娘の気持は、のびやかな外界とはおおよそかけ離れたものであった。これから入学しようとするのは一体どんな学校であろう。どんな先生たちや学生たちがいるのであろう。これらで胸いっぱいのうえに、どことも見当のつかない田舎につれて来られたのに驚いていたのである。(P7~P8) 見事なものですとか何とか言えば落ち着くのですが、この文章を読み始めて、ボクがフト思い出したのはチッチキ人の祖母のことでした。 もう、10年以上も前に80幾つで亡くなったのですが、寝たきりになった数年間、最初は、当時話題になっていた橋本治の「窯変源氏」だったのですが、どうもそれでは飽き足らなかったと見えて「源氏物語」そのものを枕元に置いての日々を過ごしていたことです。 彼女は昭和の始めころに、当時の女学校に通った人だったのですが、思い出が「源氏物語」だったようなのですね。当時、祖母がどんなふうに源氏を読んでいるのか不思議でしたが、本書の作家の書きぶりを眺めながら、どこか共通するものを感じたのです。 野上弥生子が女学校に通ったのは、日清戦争の直後、明治40年代、1900年ころのことですが、この小説「森」では、およそ80年の昔の記憶を種にして、青春時代の思い出を、自分自身の家族や友人にとどまらず、彼女が学校や街角で出合った無名の使用人たちの生活の素顔、空を飛ぶトンビの鳴き声、通りすがりの溝川で洗われている人参の赤い輝きにいたるまで、物語のリアルなシーンとして描き出されていきます。 通った女学校で、現実に出合った人々だったとはいえ、歴史に名を遺した学者、詩人、画家などに至っては、その思想を幹としながらも、日々の生活の記憶から紡ぎだされたと思わせるそれぞれの人間の人柄を彷彿とさせる描写が、書いている人の脳内の過程の生々しさを思わせずにはいません。 枝葉の記憶が物語のシーンとして描き出され、章を追うにしたがって巨大な「森」へと構築されていくのは、90歳を超えた作家の技の冴えの見事さというべきでしょうが、物語が、入学から3年後の卒業で終えられようとしながら絶筆となった最終章として書き残された断片がこれです。 こうして、後にして思えば思うほど奇妙な入学をした十六の菊池加根は、三年目に普通科を終えると、そのまま高等科に進むことを望んだ。それはもう三年の延長だ。いっぽう卒業を婚期と結びつける一般的な考え方からも、郷里の家ではかんたんには許しえないものでもあった。とにかく逢って、委しい話を聞いた上でのことにしよう。春の休みは暑中休暇ほど長くはないにしろ、長兄の本祝いが催される折から、加根の卒業もみんなから悦ばれるだろう。 まだ山陽線などない頃で、瀬戸内海の船旅が運わるくしけたりで、神戸からの乗り換えに遅れると、東京までまたそれだけ遅れる、なんとも不便な往来に、暑中休暇に較べれば三分の一もない春休みまであえて帰ろうとしなかったのだ。しかし今度は異なっていた。加根の考え方からすれば、普通科の卒業なるものも、白いステージの階下のいままでの教室から、二階のそっくり同じ部屋へ移るのを意味するに外ならず、いよいよその資格を(註・以下欠)―未完―(P502~P503) 作家の99年の生涯を支えてきた10代後半の体験の意味の大きさに目を瞠る思いで読み終えました。傑作とか、名作というような評価を越えた、とんでもない作品だと思いました。読み終えるには、結構、辛抱がいりますが、ぜひ、お読みください。自慢できますよ(笑)。
2023.07.16
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パオロ・タヴィアーノ「遺灰は語る」 タヴィアーニ兄弟というイタリアで映画を作ってきた兄弟がいて、兄のヴィト―リオが2018年に90歳でなくなり、弟のパオロが2022年、88歳で作られた作品だそうです。50年ほど前に「父 パードレ・パドローネ」という映画を見た記憶がありますが、内容は何も覚えていません。 今回は予告編を見ていて、「ウン?」 という気分になってやって来ました。 パオロ・タヴィアーニ監督の「遺灰は語る」です。 ピランデッロという、戦前のイタリア文学の巨匠、ムッソリーニを支持したファシスト作家で、ノーベル賞、光文社古典新訳シリーズの最初のころ、「月を見つけたチャウラ」(光文社文庫)という本が出て読んだような、読まなかったような、まあ、そういう、あやふやな記憶の人物がストックホルムでノーベル賞の授賞式に出ているシーンから映画は始まりました。 白黒の画面で、どうも実写のニュースフィルムのようですが、その作家の臨終のシーンあたりから独特の、まあ、そういうしか言い方がわかりません(笑)、映像が展開し始めます。 病室は、なんだかSF調ですし、その後の展開は、懐かしい、あのリアリズム! って言いたい感じなのですが、ほとんどコメディです。 遺骨の搬送を命じられたシチリアからの特使の真面目くさった様子が笑えます。いっしょに飛行機に乗るのは縁起が悪いと言っておりてしまう乗客とか、ギリシアの壺は拝めないとごねる神父とか、新しい容器に移し替えようとするとあふれてしまう遺灰とか、子供用の棺の行進とそれを笑う市民とか、なんだかしみじみと可笑しいのです。で、移し替えるときに余ってしまった遺灰をどうするのかと思っていると、画面がフルカラーにかわって、真っ青な海に撒かれるシーンで遺灰の旅が終わりました。すごいなあ・・・ まあ、なにがスゴイのだか、説明できないのですが、とりあえずスゴイわけで、ボーっと浸っていると、第2部「釘」が始まりました。こちらは色が印象的な作品で、こちらも凄いのですが、やっぱり説明するのが難しいのですね。 移民の父が営む酒場で楽しく踊っていたはずの少年が天から落ちてきた釘に人生を翻弄されるのですが、その少年の眼というか表情がすばらしくて見ってしまいます。終わってみると、どうも墓守の話だったようで、再び唸ってしまいました。 邦題は「遺灰は語る」ですが、イタリアでの題は「Leonora addio」、訳せば、「さらばレオノーラ」ということになるそうで、タヴィアーニ監督が兄弟で撮ろうとしていて撮れなかった作品の題らしいのですが、兄に先立たれて、残された弟、パオロ・タヴィアーニという88歳の監督が何を伝えようとして、この映画を撮ったのか、そう考えると、遺灰がシチリアの青い海に撒かれたシーンや、殺してしまった少女の墓の前に立つ、老いた少年の姿が浮かんできますね。 やっぱり、タヴィアーニ兄弟で撮った作品、できれば見てみたいものですね。なにはともあれ、パオロ・タヴィアーニという老監督に拍手!でした。監督 パオロ・タヴィアーニ製作 ドナテッラ・パレルモ脚本 パオロ・タヴィアーニ撮影 パオロ・カルネラ シモーネ・ザンパーニ美術 エミータ・フリガート衣装 リーナ・ネルリ・タヴィアーニ編集 ロベルト・ペルピニャーニ音楽 ニコラ・ピオバーニキャストファブリツィオ・フェラカーネ(シチリア島アグリジェント市の特使)マッテオ・ピッティルーティ(バスティアネッド)ロベルト・ヘルリッカ(ピランデッロの声)2022年・90分・PG12・イタリア原題「Leonora addio」2023・07・11・no89・シネ・リーブル神戸no200
2023.07.15
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ニール・ジョーダン「探偵マーロウ」 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)第7弾!です。最近お気に入りのリーアム・ニーソンが、あのフィリップ・マーロウを演じるというわけで、シマクマ君はかなり自信をもって提案したのがニール・ジョーダン監督の「探偵マーロウ」でした。 ところが、ところが、見終えて劇場を出て、M氏の最初の一言で、がっくりでした。「チャンドラーのマーロウって、あんなふうにマッッチョというか、ドンパチやる探偵なのですかねえ?」「・・・・・・」 グウの音も出ないとはこういうことをいうのでしょうね。 我々の世代なら知っている人が多いと思うの野ですが、フィリップ・マーロウって下に貼りましたが、こういうことを口にする探偵なんですね。 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. まあ、いろんな訳があるらしいのですが、ボクでも知っているのが、推理作家の生島治郎訳です。タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。 いかがです、聞いたことあるでしょ。訥弁でブッキラボウなんだけど、語りの人なんですよね。チャンドラーの「長いお別れ」とかお読みになるとわかるのですが、事件のありさまや現場について語って聞かせる探偵なんですよね、フィリップ・マーロウって。だから、シマクマ君はリーアム・ニーソンに期待して、提案したのです。 映画は出だしから、その渋いマーロウと1930年代のハリウッドというか、ロサンゼルスというか、まあ、ニューヨークじゃない感じ、裏がありそうな成金趣味の美人、ヒスパニック(メキシコ)や黒人に対する隠然たる差別、ギムレットとかマティーニとかのお酒の飲み方、それぞれ、なかなか味のある展開なのですが、とどのつまりに、なんだか妙にマッチョな結末が待っていたわけなんですね。なんだかなあ???? まあ、そんなふうに思っていると、先程の一言でガックリでした。それにしても、M氏も鋭いですね。推理小説的謎解きの筋運びで描くと、なんか、マーロウのキャラが薄っぺらくなっちゃって、どこがいいのか分らないものだから、どうせならすっきりした結末を! とか、なんとかという感じで、わかりやすくマッチョなキャラにしちゃったんじゃないかっていう気がしていたのですが、どうも、そのあたりを見破っていらっしゃったようですね。 ネット上のレビューとか見ると、結構、好評なようで、ようするに意固地なこだわりなのかもしれませんが、仕方がないですね。 「あのー、あたりってなかなかないんですね。」 M氏のその日のお別れのセリフなのですが、いやはや、こういう場合はなんとお答えしていいのか、ボクが責任感じてもしようがないのですが、やっぱり責任感じちゃいますね(笑)。監督 ニール・ジョーダン原作 ジョン・バンビル脚本 ウィリアム・モナハン ニール・ジョーダン撮影 シャビ・ヒメネス美術 ジョン・ベアード衣装 ベッツィ・ハイマン編集 ミック・マホン音楽 デビッド・ホームズキャストリーアム・ニーソン(フィリップ・マーロウ)ダイアン・クルーガー(クレア・キャヴェンディッシュ)ジェシカ・ラング(ドロシー・クインキャノン)アドウェール・アキノエ=アグバエ(セドリック)ダニー・ヒューストン(フロイド・ハンソン)アラン・カミング(ルー・ヘンドリックス)コルム・ミーニー(バーニー・オールズ)フランソワ・アルノー(ニコ・ピーターソン)ダニエラ・メルヒオール(リン・ピーターソン)イアン・ハートサーナ・カーズレイク2022年・109分・PG12・アメリカ・アイルランド・フランス合作原題「Marlowe」2023・06・26・no78」・シネ・リーブル神戸no197・SCC第7回
2023.07.14
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ウベルト・パゾリーニ「いつか君にもわかること」 封切で見損ねて、うーんと思っているとパルシネマが2本立てで並べてくれて、まあ、一日に2本見るのがしんどい歳ではあるのですが、「生きる」と、予告編から気になっていた本作、ウベルト・パゾリーニ監督の「いつか君にもわかること」なら仕方がないですね。 で、見終えて思いました。二本とも「父子もの」でしたね。「生きる」を「父子もの」と感じるのは、ボクの年齢のなせる業だと思いますが、こちらはどなたがご覧になっても、純然たる「父子もの」でした。 余命を宣告された30代半ばの父親がまだ幼い息子をこの世に一人残すとなったらどうするのかというお話です。 母親は存命ですが、出産後、夫と子供を置いてロシアだったかに帰ってしまっていて、乳児のときから父親が一人で子育てをしてきた、文字通りシングル・ファーザーです。お仕事は、窓とかの清掃作業で、個人事業で請け負っているようです。名前はジョンです。 子どもは4歳で、名前はマイケルです。まあ、チラシを見ていただくだけでもおわかりいただけると思うのですが、なんというか、とてつもなくカワイイ! まあ、それだけで、泣けてしまいますが、映画は、パパがいなくなった後の、みなしごになってしまう、幼いマイケルの養子先をさがすというのが本筋でした。 市の福祉センターのソーシャル・ワーカーの人たちと父子の関係や、候補として登場する養子縁組を希望する人たちと父子の出会いのシーンが現代社会の姿を映し出すエピソードとして描かれています。 ジョンの34歳の誕生日に35本目のろうそくをマイケルが渡すところとか、ソーシャル・ワーカーのショーナという女性の献身的な仕事ぶりとか、いよいよ「死」についてマイケルに語り掛けるジョンの姿とか、印象的なシーンは山盛りです。いつもなら、涙もろい徘徊老人はハンカチぐちょぐちょのはずですが、泣きませんでした。(まあ、ホントはこぼれましたけど(笑)) というのは、徘徊老人が気をとられたのが清掃作業員の父親ジョンが、毎日出かける仕事場のシーンだったからです。 ジョンが梯子を上り、建物の外壁の汚れた窓を洗剤で洗います。モップでその泡を吹きとると透き通ったガラス窓の向こうに、それぞれの建物の室内が映るシーンが繰り返し映るのです。いろんな室内があります。で、泡をモップがぬぐうと、その内部が見えてきますが、ジョンと室内は、当然ですが、見事に透き通ったガラスで遮られています。このシーンが、なぜ、印象に残ったのかはよくわかりません。しかし、美しく透き通ったガラスにさえぎられた「二つの世界」を、毎日作り出すことを仕事にしながら生きてきたこの男が、本当のところ、ガラスの向こうの側の世界に幼い息子を住まわせたいと心配しているとは思えなかったのです。 35歳を迎えられなかったこの男のプライドは、透き通ったガラスの外で輝いていて、それを伝えきれない「父」としての姿が丁寧に描かれている作品だと思いました。で、それは、胸を打つのですが、涙することではないというのがボクの実感でした。 なにはともあれ、マイケルとジョンの父子に拍手!本気で仕事をしていたショーナとマイケルを引き取ってくれた独身の女性に拍手!でした。監督 ウベルト・パゾリー脚本 ウベルト・パゾリーニ撮影 マリウス・パンドゥル美術 パトリック・クレイトン衣装 マギー・ドネリー編集 マサヒロ・ヒラクボ サスカ・シンプソン音楽 アンドリュー・サイモン・マカリスターキャストジェームズ・ノートン(ジョン)ダニエル・ラモント(マイケル)アイリーン・オイヒギンス(ショーナ)2020年・95分・G・イタリア・ルーマニア・イギリス合作原題「Nowhere Special」2023・07・03・no82・パルシネマno60
2023.07.13
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ナーサ・ニ・キアナン デクラン・マッグラ「ぼくたちの哲学教室」 今、話題の作品です。映画のあとで、倫理社会とか哲学とかの高校の先生とか大学の先生がお話しなさる会なんかも催されて、盛り上がっているようです。ボクは、そういうのは苦手なので、一人で観ましたが、日ごろ出会うことのある大学生の方に、まあ、とりあえず見たらいいんじゃないかと紹介したりしました。 北アイルランドの小学校のドキュメンタリーで、ナーサ・ニ・キアナンという人と デクラン・マッグラという二人が監督だという「ぼくたちの哲学教室」です。 見ながら、揺さぶられるような気持になりました。なにが、どういいのかと問われると、ちょっと困るのですが、「考える」ということをしている子供、しはじめた子供は、なんともいえないいい顔をするということを素直に感じることができたことです。 ドキュメントされている舞台が北アイルランドのベルファストだとか、男子小学校だとか、子どもたちがカメラがあるところで喧嘩を始めるとか、小学校に哲学の時間があるとか、哲学を担当する校長先生が好きなのはプレスリーだとか、面白がるところは満載です。 でもね、なによりも、子どもたちが、例えば「暴力」というようなもっとも根底的な倫理の根っ子を、自分の中に探し始めるんですね。別の言い方をすれば、自分の言葉で自分の意識や頭を自分のものにするということですね。するとね、子供たちの表情が変わるんです。 それは、例えば、学校の校庭や校舎に「やる気・本気・根気」とか「いじめダメ!」とかいう看板を掲げて、子供に見せたり、唱えさせたりすることが当たり前だと思っている社会で暮らしてきた69歳の老人をドキッ! とさせたんです。 今も紛争のただ中の社会だからとか、考える方法論はとか、まあ、あれこれ理屈を持ち出してわかったつもりになりそうです。でも、ボクたちのまわりに、たとえば、友達に殴り掛かったあと、何故、哀しいのか。何故、楽しくないのか。仲直りするためにどうしたらいいのか。そんなふうに、自分に問いかけている子供がいるでしょうか? それは、ひょっとしたら、たとえば教員だったり父親だったりしたボク自身が、子どもたちのあの表情を忘れてしまっていたからじゃないか? 次から次へと問いが浮かぶ帰り道でした。映画を作った監督と教員の皆さん、校長先生に拍手!でした。そして、誰よりも、考え始めたこもどもたちに拍手!です。 監督 ナーサ・ニ・キアナン デクラン・マッグラ製作 デビッド・レイン撮影 ナーサ・ニ・キアナン編集 フィリップ・ラボエ レト・スタム音楽 デビッド・ポルトロックキャストケビン・マカリービージャン・マリー・リール2021年・102分・G・アイルランド・イギリス・ベルギー・フランス合作原題「Young Plato」2023・07・11・no88・元町映画館no189
2023.07.12
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100days100bookcovers no92 92日目 小田嶋隆 その2 『災間の唄』小田嶋隆=著 武田砂鉄=撰 出版 (サイゾー CYZO) この書物、小田嶋隆が2011年6月から2020年8月までのtwitterにおけるツイートを掲載したもの。 [撰]となっているのは、文字通り、10年分の小田嶋隆のツイートから本書に掲載するツイートを選んだのが本人ではなく、武田砂鉄だということだ。ちなみに武田砂鉄も、小田嶋隆と同じようなコラムニストというかフリーライターである。 どうして本人が選ばなかったのかは、武田砂鉄の「序文」でも巻末に掲載された武田による小田嶋へのオンラインインタビューでも触れられていない。他者の目を通したほうが妙味があるという判断もあったのだろうが、体調のすぐれない小田嶋の事情もあったのではないかと思う。 そして巻末の小田嶋の「あとがき」にもあるように、これがおもしろいのだ、ほんとうに。往時から時間が経っていても。 ただ、万人向けではない。癖もあれば個性もある。それはむろんこの書物に限らない。コラムニストで万人向きということは、ふつうないだろうけれど。 各年毎に、その年に起きた「主な出来事」、その中からピックアップされた出来事やそれに対する小田嶋隆のツイートについての武田砂鉄の「解説」、最後に日付を付けた小田嶋隆のツイート、という構成で1セット。年によってページ数にはいくぶんばらつきはあるが、これが10年分繰り返されるのが本編。本編以外には、武田砂鉄の序文、先に触れたオンラインインタビュー、そして小田嶋隆のあとがき。 ちなみに「災間」の含意は説明不要だろうが、念のため。表立っては、2011年の東日本大震災と2020年の新型コロナウイルス感染症の蔓延に挟まれた期間、さらにいえばそこに含まれる、2012年から2020年まで続いた安倍内閣も、言ってみれば十分に「災難」だろう。小田嶋のツイートも安倍内閣に関するものが少なくない。 では、小田嶋のツイートをいくつか紹介してみる。とりあえず、最初の2年と最後の2年の4年から選んでみる。「/」の箇所は書籍ではツイッターのマークが付されていて、たぶん「文脈」の切れ目ぐらいの意味だろうが、実際のところは不明。2011年6.15 モラリストを自認する人々が政治に期待することは、「自分がどうありたいか」ではなくて、「隣人にどうあってほしいか」だったりする。彼らはそれが、「余計なお世話」だということを、決して理解しない。 7.10 「お花畑」という言葉をやたらと使いたがるのは、長いものに巻かれながら大人ぶっている人たちなのだろうな。/アタマの中にお花畑がある人を嘲笑する人のアタマの中にはたぶん肥溜めがある。/アタマの中に肥溜めを持つ者は、肥料がないと作物は育たないと思っている。が、そもそも花が咲かないと実はできない。/実を結ばない花の存在(つまり蜂を呼び寄せるに足る花の集合)が、実を結ぶ花の営為を支えている。8.12. レッドテールキャットフィッシュは、口に入り切らない獲物を丸呑みにしようとして窒息して死ぬことがあるということをディスカバリーチャンネルで学んだ。すべての生き物がいつも賢いわけではない。そう思うと生きる意欲がわいてくる。8.15. 「終戦の日」という言い方には、「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ」のニュアンスがありますね。9.18 自慢と愚痴は控えて、非難や攻撃は自粛して、ほのめかしやひけらかしは抑制しようと決意したらつぶやくことはひとつもなくなってしまった。なので、全部解禁。ちなみにこれは愚痴気味の非難を含んだひけらかし。2012年2.11 放射能の恐怖について「被害の実態を科学的に伝えていない情報発信は控えるべきだ」という意見は一見もっともに見える。が、恐怖の核心は「よくわからない」ところにある。被害の実態も、科学的に確定するには数十年かかる。と、彼らの主張は事実上「50年黙ってろ」という話になる。2.14 新聞や雑誌の人たちは時々「ほら、ハンマー貸してやるからあいつの後頭部叩いて来いよ」みたいな仕事を寄越しますね。人権感覚が麻痺してるんだと思います。4.24 情報の受け手がメディアリテラシーを身に付けるべきであることは当然ですが、情報の送り手がこの言葉を強調するのは筋違いです。説教強盗ですよ。「あんたの戸締りが甘いから泥棒にはいられるんだ」って、泥棒に言われるのは心外です。5.22 ツイッターの間違った使い方を百個並べることはできるが、それを見たからといって正しい使い方がわかるわけではない。/ツイッターにうんざりするということは、人間にうんざりしていることで、つまりこの世界にうんざりしたということでもある。でも、そう思うとあの人たちの思うツボだからそう思わないことにしようと思う。/「オレはあんたを無視してるぞ」ということを伝えるための、単なる無言とは別次元の、より強力なメッセージを孕んだ言葉が案出されなければならない。8.19 重要だからこそ放置せねばならない問題がある。たとえば虫さされがそれだ。痒いからといって掻けばよけいに痒くなるし、掻き壊すと大事になる。ムヒを塗って無視。領土問題も同じだよ。9.11 民主党による政権交代がもたらした最大の悲劇は、マニフェストが反古にされたことでも、政治家が官僚にねじふせられたことでもなく、自民党がネトウヨ野党に変貌したことです。10.17 ながいあいだ、自分は「やればできる男」だと思っていたのだが、最近になって気づいたのは、オレはどちらかといえば「できればやる男」だったということです。関係者のみなさん。おわびしますすんません。10.30 実生活でもネット上でも、われわれは思っていることの半分しか言葉にできないわけだが、別の見方をすれば、言えない半分を背負っているからこそ、言葉は重さを持っている。そういう意味で、言いたいことを全部言えてしまう環境の中から発せられる匿名の言葉を、私は、本当の言葉だと思わない。/口から外に出る言葉よりも、口に出せずにのみこんでしまった言葉の方がずっと切実だってことだよ。オレの未遂ツイートがどれほど豊穣であるのかについては、死後、誰かが発掘したうえで検証してくれ。たのむ。11.6 教育機関に課されている大切な役割のひとつに、子供を子供らしく過ごさせるということがあると思います。子供を改変可能な資源ないしは投資先であると考える無慈悲な人々の手から、子供たちの子供時代を防衛できるのは、実は学校だけだったりしますから。12.1 若い頃は、自分がおっさんになる頃には、お歳暮みたいな退嬰的な習慣は消滅すると思っていた。で、実際に50歳を超えてみると、同世代の多くが「義理を欠かない→気が利く→空気が読める→行く届いた」人間を目指していたりする。この国はあと二千年はかわらないだろうね。12.2 感謝と賞賛以外のツイートはしない決意を固めたんだけど、考えてみたら二つとも大嫌いだった。ってことは、ツイートするほどどんどん世間が狭くなるわけだけどこんなことでいいのかオレ。12.10 安倍さんのテレビCM見た。滑舌の悪さに驚愕。「日本を取り乱す」に聞こえるのは私が取り乱しているからなのか。それとも安倍さんが取り乱し気味だからなのか。それにしてもあれでOKを出した撮影監督は大丈夫な人間なんだろうか。12.28 若いヤツがシニシズムを振り回しているのを見ると微妙にイライラする。かといって、やたらと前向きな若者もそれはそれで腹が立つ。もしかして私は若い人たち全般が嫌いなのかもしれません。なんということでしょうか。2019年1.13 平成という時代は、結局のところ「笑いのわからないヤツ」だと思われることを誰もが死ぬほど恐れているどうにも不愉快な時代だった。オレは仏頂面のまま、まるで笑うことなくこの時代の終わりを迎えようと思っている。4.9 で、「視野の左上が見えないぞ」とつぶやいたところ、「すぐに検査を」「急いで病院へ」というありがたいアドバイスをいくつかいただいて、おかげで、脳梗塞を早期発見することができた。ツイッターと、素晴らしいフォロワーの皆さんと、クソリプに救われた一日だった。5.1 自身の賛否とは別に「皆が祝っていること」や「多数派が支持する決まり事」に逆らうことは、現状では常識外の逸脱と見なされる。私個人は、窮屈さを感じている。が、この社会で生まれ育った若い人たちは、逸脱者が登場しにくいこのレギュレーションを歓迎しているのかもそれない。/そういう意味では「場の空気をかき乱さないこと」を絶対の徳目とする人々が多数を占めたことが、平成という時代の一番の特徴だったのだと思う。令和の社会がどんなふうに展開することになるかはまだわからない。ただ、個人的には、平成の空気がよろ先鋭化する気がしている。5.11 結果には必ず原因があるはずだという因果律の考え方と自己責任論が結びつくと、病人には逃げ場がなくなる。「世界を動かしているものはなんだろう?」と問われた時、「偶然だよ」と答えた20歳の時のオレは賢かった。神がいないのであれば、偶然が腕をふるわなければならない。5.27 なんというのか「オレはすごいんだぞ」というセリフを聞かされて、「なるほどあの人はすごいんんだな」と思う日本人の比率が増えている。判断や評価の基準よりは、マナーの問題なのだろうな。6.2 様々な側面から総合的に判断して、日本のおばあさんたちは、日本のおじいさんたちに比べて10倍は上品だと思う。あるいはうちの國の社会には、男性が下品にふるまうことにインセンティブを与える何かが介在しているのかもしれない。6.11 この5年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「反政府的」という意味でのみ使用され、解釈され、警戒され、忌避されるようになった。政権に対して親和的な態度は「政治的」とは見なされず、単に「公共的」な態度として扱われている。なんとも薄気味の悪い時代になったものだ。7.19 投票日が近づくと「いつになく真面目」なツイートをする人が増えるわけだが、問題は、それ以上に「なんでそんなに必死なんすか?」てな調子で「真剣な発言を嘲笑する」ツイートが多投されることだ。この30年ほど、うちの国を衰退にむかわせたのは、この「真面目さを笑う態度」だったと思っている。7.23 投票に行ったからといって、すぐに世の中が変わるわけじゃないというのは、たぶんおっしゃる通りだ。とはいえ、投票に行くことで、少なくとも、投票に行った人間の気持ちは変わる。ということはつまり、投票によって気持ちが入れ替わる人間が増えれば、世の中だって、多少は変わるんではなかろうか。8.3 他者の尊厳を踏みにじった歴史に直面することが、自国民の尊厳を踏みにじると考える人たちの自尊心は、他者の尊厳を踏みにじることによってしか防衛できない何かなんだろうか。/「アートに政治を持ち込むな」とか「音楽に政治を持ち込むな」てなことを言ってる人たちに言いたいのは、持ち込むとか持ち込まない以前に、あらゆる表現は、余儀なく政治的だということです。だって、人間が自由でありたいと願うこと自体が、すでにして政治的なわけだし。/自由が制限されている国家において「自由」は政治的な言葉になるし、「表現」が抑圧されている場所では、「表現」という行為そのものが政治的な意味を獲得せざるを得ない。/ということはつまり「音楽やアートの政治を持ち込むな」てなことを言っている人たちの真意は「オレたちの政治的主張にそぐわないアートや音楽は全力で弾圧するぞ」ということに過ぎないわけだよね。8.3 政治家は、選挙で選ばれたことを理由に批判を回避できるのではありません。むしろ選挙で選ばれているからこそ、批判に対して責任を負わなければなりません。8.4 挑戦したことでつまづいた人間に対して、挑むことすらしなかった人間が、つまづいたことの責任を問うている姿を傍観しながら、とてもいやな気持ちになっている。/表現の自由は、失敗した表現にかかわった人間を遠巻きに囲む群衆が嘲笑するその笑い声の中で、少しずつ失われて行くものなのだろうな。/「抗議と脅迫と非難と罵声でボロボロにされる覚悟をあらかじめ固めている人間だけが、自由な表現を貫く資格を持っている」ような社会が、仮に存在しているのだとしたら、その社会は、とてもじゃないけど表現の自由が保障されている社会とは言えないと思う。/「命がけで表現に取り組む者だけが、本当の表現の自由を手に入れられる」みたいなマッチョイズムが、心の底から大嫌いなので、「生半可な気持ちで原稿を書き飛ばしていたり、思いつきで絵を描いている人間にも等しく保障されているのが表現の自由ってやつなんだぜ」と言い張ることにしている。10.2 「自己責任」なる言葉の機能は「あらゆる他者の責任を免除する」ところにあって、実質的には「責任」という概念自体の無効化である。確かに、死の責任を死者に帰することが可能なら、貧困は貧者の、病気は病者の責任になるのだろうし、飢餓はパンの代わりにケーキを食べない人間の責任てな話になる。10.4 まわりくどい言い方でないと伝わらないことを理解しない人間は、たぶん端的に言われたことをろくに理解していない。10.25 自発的な意思や動作を含む活用語尾のすべてに「させていただく」を付加しているあなたはもしかして誰かの召使いなのか?11.29 「いつもニコニコしていること」を自分自身の心情として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。/「怒り」という感情を、理性の敗北ないしは欠如としか考えない人々は、怒りを表明している人間が何に対して憤っているのかまるで問題にしない。その代わりに彼らが選ぶ態度は、怒っている人間の狭量さや余裕のなさを憐れんだり嘲笑することで、結果として現体制を擁護することだったりする。12.15 迷ったときに立ち止まれる人はそんなに多くない。引き返すことのできる人間はさらに少ない。多くの日本人は、迷ったまま惰性で前に進んで、でもって、垂直落下する。2020年2.7 誰かの文章を読んで「何を言いたいのかわからない」という感想を言ってくる人は「文章は何か言いたいことがあるから書くものだ」という思い込みを持っているのだろうね。「この文章の主題はなにか」「作者は何を言いたかったのか」式の試験問題に解答し続けてきた人たちの読み方なのかな。/ 個人的には「主題なんかねえよ」というスタンスで書かれる文章がたくさんあるということを、ぜひ若い人たちに知ってほしいと思っています。3.12 マトモな社会人として穏当な社会生活を営んで行く上で一番大切なのは、たぶん、余計なことを言わないことだと思うのだが、コラムニストにとって最も不可欠な日常業務は、余計なことを言うことだったりする。なので、原稿を書く人間が真人間として他人と付き合うのは大変むずかしい。3.14 新型コロナウイルスがこれほど世間を萎縮させているのは、個々人が自己責任において感染を忌避しているからではなくて、「感染することで所属先に迷惑をかけること」を強烈に恐れているからだと思う。われわれは所属組織の巨大な看板を背負って生きてるヤドカリみたいな生き物なのだな。3.18 「類は友を呼ぶ」を、官邸用語に翻訳すると「適材適所」になる。これ豆知識な。4.8 生存が危ぶまれるレベルの貧困層であることを自ら証明できた人間だけが現金の給付を受けられる国があるのだとしたら、その国で医療サービスを享受できる患者は、自身が手遅れの重症であることを証明できた人間に限られるのだろうな。4.14 教養とは、一人で時間をツブすためのネタを自分のアタマの中にどれだけ蓄えているのかを示す指標でもある。その意味で、このたびの強制引きこもり期間は、わたくしども国民一人ひとりが、教養に試されている機会でもある……とかなんとか、こういう根拠のない与太を飛ばすのもまた教養の作用だぬ。5.15 断酒して25年になるが、かつてアルコール依存症であったことを告知して以来、「ある中」「脳萎縮」と中傷してくる人間が常に突撃してくる。ネットはあらゆるスティグマを永遠に固定する。私刑趣味者たちに攻撃の契機を与えてはならない。なので、現在闘病中なのだが、病名は絶対に明かさない。5.20 安倍と無知の政治。5.22 維新の支持者あたりによくあるのは「欲望が存在する」ということと「欲望を全面的に肯定すべきだ」ということをいとも簡単に結びつけてしまう「本音第一主義」論法で、これによると、「欲望は誰にでもある」→「欲望がある以上それを否定すべきではない」→「欲望は全面肯定されるべきだ」になる。/彼らの態度は「偏見」「差別」についても同様で、「人間である以上誰であれ多かれ少なかれ偏見や差別意識を持っている」というあたりまえな観察を、いきなり「誰もが持っている差別や偏見を直視して、それを否定すべきではない」→「差別や偏見に沿った社会を作るべきだ」てな話になる。5.29 「素直」であることと「無批判」であることの区別がついていない大人がたくさんいることを知ったのが今日の収穫でした。「気づき」という気持ちの悪い言葉を使わなかった私をほめてください。7.23 たとえば自動車修理工が「新品を買っても100万円しない軽自動車を、200万円かけて修理するのは無駄だよね?」と言うのは、まだ許せるのだとして、仮にも医療にかかわる人間が「ほうっておいても5年で死ぬ人間の命を何百万円かけて延命する意味がありますか?」と言うのを許してはいけないと思うよ。8.4 イソジン・ゼアズ・ノー・ヘブン。8.5 一緒に都々逸を嗜んだ友人は、先週の金曜日に死んでしまった。これは笑いごとではない。もちろん、ジョークでもないしネタでもない。オレが受けとめきれてないだけで、正真正銘の現実だよ。8.28 ひとつ言えるのは、病気をネタに誰かを非難する態度と、病気を理由に批判を封じようとする姿勢は、いずれも、卑劣さにおいて選ぶところがないということかな。/これからしばらくの間、私達は、礼儀正しく別れの言葉を伝えることと、罪を免責するのは別のことだということを、しっかり肝に銘じておかないといけないと思っている。8.29 ごぞんじなかったらお教えしてさしあげておきますが、コラムニストの主要な業務のひとつはバカなものをバカにすることです。もちろんバカな人たちを怒らせるリスクは覚悟の上です。おわかりいただけましたか? 数えてみたら丁度50ツイート。いくぶん多すぎたかもしれない。読んでいるうちに絞れなくなってしまった。 ご存知のとおり、twitterには1ツイートにつき140字という制限があり、それもあってツイートではなかなかまとまった説明がしにくく(「連続ツイート」という方法もあるが)、説明不足になる部分もある。それを小田嶋が逆に利用した部分もあるだろうが、やはりいくぶん舌足らずになっているところもある。実際、巻末のオンラインインタビューで、「140文字っていうのは、不親切に断言する時にちょうどいい文字数で」と言っていたりする。また、コラムを書く際にツイートを「創作メモみたいな役割」として利用することがある等も。 さらに、小田嶋は巻末の、選者である武田砂鉄とのオンライン対談で、『ピックアップしてもらったからでしょうけど、「なんだ、読み物として成立してるじゃないか」って自分で思いましたけどね。』と言い、「ただし、これ日常を見ているのとは違う景色だと思いますよ。」とも言う。 つまり、個々のツイートには、ツイートされた具体的なタイミングや状況(世間・社会の状況、あるいはtwitterでの状況、さらにいえば小田嶋のタイムラインに現れた状況)や小田嶋自身の感情や思惑があったわけだが、それがこうしてピックアップされた並べられるとわからなくなるということだ。これは他の「コラム」にもある程度あてはまるが、twitterではそうした「生もの」感が一層強いということである。 だから、書籍にまとめられたツイートは、素材は同じでも環境がまったく異なるということを理解しておく必要がある。 でも、やっぱりおもしろい。おもしろいだけでなく、改めて昨今のSNSや引いては「世間」の様々な「傾向」や「問題」について考えるきっかけを与えてくれる。 記事を書いてから、改めて何度か触れた巻末のオンラインインタビュー30ページを読み直してみたら、こちらもおもしろい。いくつか書き加えたくなったが、また長くなるのでやめておく。twitterのツイートはむろんコラムニストの仕事としてに文筆活動とは性格が異なる。そちらに興味がある向きには、とりあえず先述した中で『ア・ピース・オブ・警句 5年間の「空気の研究」2015-2019』(日経BP)をお薦めしておく。 Webでなら、こちらである程度読める。 https://business.nikkei.com/article/life/20081022/174784/ そしてこちらが小田嶋隆のtwitterアカウント。 https://twitter.com/tako_ashi 小田嶋の死後、ミシマ社から出た「遺稿集」は『コラムの向こう側』(未読)という。これは小田嶋自身の提案で決まったタイトルだと版元の三島社長自ら語っている。 「向こう側」にはおそらくいくつかの意味が含められている。その中には、自らの立ち位置の表明という意味も含まれていたのではないかと思う。 何だか、まとまらないというか、「おもしろい」としか言っていない、ほぼ引用しただけの記事になってしまった。しかし、惜しい人を亡くしてしまったものだと改めて思う。では、次回、DEGUTIさん、お願いいたします。2023・02・06・T・KOBAYASI追記2024・04・05 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2023.07.11
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荻上直子「カモメ食堂」夙東市民会館 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)の第6回例会は会場が夙東市民会館という、西宮の香櫨園という、実に瀟洒な住宅地の中にあるこんな公民館でした。「うちの近所で、こんな映画会するようなのですが、いかがです?第6回で?」「へぇー、なんか面白そうですね。行ってみますか?」 というわけでやってきたのが阪神香櫨園です。 M氏の出迎えを受けて、いざ、夙東市民会館へ出発です。瀟洒な街並みの中のこじんまりとした公民館でした。会場は2階で、会費は100円です。長机に椅子がセットされていて20人くらい座れるようです。正面にプロジェクター用のスクリーンがぶら下がっています。世話人らしいおじさんがあいさつされて、上映が始まりました。映画は荻上直子監督の「カモメ食堂」です。20年前の作品です。 窓には暗幕のカーテンが引かれていますが、光はあちらこちらから漏れていて、上映が始まっても、一人、二人と遅れて入場してくる人もいます。その場で見始めている人も、後から来る人も、皆さん、ぼくよりお年寄りで、どちらかというと、そういう方の椅子係をしたほうがいいのかなあと思いながら傾いたスクリーンを見ていましたが、なかなか楽しい雰囲気です。 画面では、小林聡美さんと片桐はいりさんが、フィンランドの町で食堂のおばさんとおねーさんをやっていらっしゃって、まあ、わかったようなわからないような話が展開しています。 小林さんがスイミングで泳ぐシーンと、新しくできた食堂らしきものの内部を、通りから窓ごしにじっと覗いているフィンランドのおばさんたちのシーンが記憶に残りました。 会場では、時々笑い声が起こったり、まだまだ遅れてやってくる方に椅子をすすめる小声が聞こえたりするのですが、突如、隣に座っているおじさんのスマホの呼び出し音が高らかに鳴り響いて、おじさんが慌てながら、まあ、困惑していらっしゃる雰囲気に、思わず笑いそうになる一幕もありました。 井上陽水のクレイジー・ラブが鳴り響いて映画は終わりましたが、突如のスマホの呼び出し音なんのそので最高でしたね。粋で悲しいクレイジーラブ ♪愛されていても私ひとりが幸せを胸に飾るだけなの ♪ さっき、片桐はいりのトンチンカンに高らかにお笑いだった方とか、一緒に歌い始める方が?と期待しましたが、突如の陽水に気押されたのか、実に静かな終幕でした。 思い起こせば、村の公民館での市川歌右衛門の呵々大笑が、ボクの映画体験の始まりなのですね。で、久しぶりの公民館映画体験でした。ああ、映画を見るって、こういうことなんだよなあ。 まあ、そんな感じで楽しかったのですが、なんか、一番大切なことを思い出させてくれた気がしますね。映画館の世話役の人たちに拍手!でした。 頑張って、続けてくださいね、また来ますよ。SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)の第6回は記憶に残りそうですね。監督 荻上直子原作 群ようこ脚本 荻上直子撮影 トゥオモ・ヴィルタネン美術 アンニカ・ビョルクマン編集 普嶋信一音楽 近藤達郎エンディングテーマ 井上陽水キャスト小林聡美(サチエ)片桐はいり(ミドリ)もたいまさこ(マサコ)ヤルッコ・ニエミタリア・マルクス2005年・102分・日本2023・06・20 ・no73・夙東市民会館
2023.07.10
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セバスティアン・マイゼ「大いなる自由」 「希望の灯り」という、数年前に見たドイツの映画で主役をしていたフランツ・ロゴフスキという俳優が主役らしいというので、見に来ました。 セバスティアン・マイゼという監督の「大いなる自由」という作品です。見終えて、ボンヤリ振り返っていて、最初から最後まで、画面上に女性が一人も出てこなかったんじゃあなかったかということに気づいて唖然としました。 映画の舞台は1945年、1957年、1969年の西ドイツの刑務所でした。 1945年、ドイツ第三帝国の崩壊直後、解放軍であった連合国によって管理されていた刑務所で、偶然、同房になったハンスとマッチョの権化のようなヴィクトールの出会いです。「オレに触るな!変態!」 象徴的なセリフで映画が動き始めました。どうなるんだろう、この二人? 山積みされたナチスの軍服から鍵十字のワッペンを剥ぎ取り、黙々と仕立て直しの作業に従事する主人公ハンスが映ります。 で、ヴィクトールが、毛嫌いしていたはずのハンスの腕に彫られた収容番号の入れ墨に気づくところから、一気に輪郭が見え始めました。 ハンスの腕をつかんだヴィクトールがいいました。「消してやろうか?」 隠し持った刺青の道具で番号が消されていきます。 第三帝国のドイツで「同性愛者」が「反社会分子」とみなされて、ユダヤ人、共産主義者、精神病者などとともに強制収容所への「収容」の対象であったことはボクでも知っていますが、戦後の東西ドイツに男性同性愛を禁じる刑法175条という法律があったことは知りませんでした。刑務所ではナチス時代に刑務官だった人間たちが戦後も同じ職業に在職し、いかにも官僚的な無表情で情け容赦のない暴力をふるっています。 1957年、二人が出会った日から10年以上たった、同じ刑務所です。再び収監されたハンスと、服役を続けているヴィクトールの再会です。 ヴィクトールに恩赦のチャンスが巡ってきますが、出所直前のある日、不安に駆られたヴィクトールは隠し持っていたヘロインを自ら注射して気を失い、恩赦を逃します。再び同房になった二人ですが、今度はハンスが薬物依存のヴィクトールを献身的に看病し、東ドイツへの逃亡をささやきます。「どこにも逃げていくことはできない!」 ヴィクトールは、そう叫びながら、戦地から帰った家で、知らない男と寝ていた妻を発見し、男と妻を殺した経緯を語ります。話を聞き終えたハンスはヴィクトールを抱きしめます。 実は、この年、東ドイツでは175条が失効していたのを見終えた後で知りました。 1969年、刑務所の娯楽室で月面着陸のテレビ放送をみているハンスとヴィクトールをはじめとした囚人たちのシーンが映ります。ハンスは娯楽室のテーブルに刑法175条の失効を大見出しにした週刊誌を発見します。1940年、ナチス時代の収容所収監に始まって以来、繰り返し罰され続けてきたハンスの「罪」が無くなったのです。 ハンスの二の腕には、収容番号の入れ墨を消すためにヴィクトールが彫ってくれた、まあ、ボクには意味の分からない大きな青黒い刺青が見えます。「たばこの差し入れをよろしく頼むよ。」 ヴィクトールからの三度目の別れの言葉に送られて出所するハンスに行くところはあるのでしょうか。 たった今、ガラスをぶち割ったショー・ウィンドウの薄明かりに照らされて真夜中の路上に座り込んでいる暗い影でしかないハンスが映っています。世界の真相のただ中で哀しく座り込んでいる人間の姿です。 その姿を見ながら思い浮かんできたのは、長い同房生活で、一度だけ愛の行為に及ぶハンスとヴィクトールですが、翌朝、中庭での散歩の時間のシーンです。「俺は、ホントは違うんだ。」「わかっている。」 ヴィクトールが恥ずかしそうに言葉をかけ、ハンスが一言答えて、二人は抱き合います。チラシの抱擁のシーンです。 ハンス・ホフマンを演じたフランツ・ロゴフスキ、刑務所で老いていくマッチョのヴィクトールを演じたゲオルク・フリードリヒ、二人ともいい俳優ですね。拍手! タバコに火をつけるシーンが、実に印象に残る哀しい作品でした。拍手!監督 セバスティアン・マイゼ脚本 トーマス・ライダー セバスティアン・マイゼ撮影 クリステル・フォルニエ美術 ミヒャエル・ランデル衣装 ターニャ・ハウスナー アンドレア・ヘルツル編集 ジョアナ・スクリンツィ音楽 ニルス・ペッター・モルベル ペーター・ブロッツマンキャストフランツ・ロゴフスキ(ハンス・ホフマン)ゲオルク・フリードリヒ(ヴィクトール)アントン・フォン・ルケ(レオ)トーマス・プレン(オスカー)2021年・116分・R15+・オーストリア・ドイツ合作原題「Great Freedom」2023・07・07・no85・シネ・リーブル神戸no199
2023.07.09
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養老孟司・宮崎駿「虫眼とアニ眼」(新潮文庫) 棚から落ちて来て、拾い上げてみると養老孟司・宮崎駿「虫眼とアニ眼」(新潮文庫)でした。そのまま、某所に持ち込んで、座り込んで読み始めて、やめられなくなりました。 宮崎 仕事柄どうしても。子どもたちはどうなんだろうということを、いつも思い浮かべて生きているものですから、親から「うちの子どもはトトロが大好きで。もう100回くらい見てます」なんて手紙が来ると、そのたびにこれはヤバイなあと、心底思うんですね。誕生日に一回見せればいいのにって(笑)。 結局、子どもたちのことについて、なにも考えてない。だって結果として、養老さんが言うところの脳化社会にぴったり適応するような脳みそ人間だけを育てようとしているでしょう。 トトロの映画を一回見ただけだったら、ドングリでも拾いに行きたくなるけど、ずっと見続けたらドングリ拾いには行かないですよ。なんで、そこがわからないんだろうと思うんだけど。いっそビデオの箱に書きたいですね、「見るのは年に一回にしてください」って。(P43)養老 ぼくが子どものことを考えるようになったのは、ごく最近なんですね。自分の子どもも含めて、それこそ教育なんて関係ないやって世間任せにしていたら、いくらなんでもおかしいんじゃないのって感じることが多くなった(笑)。 最近一番おかしいかったのは、文部省が毎年行っている新任の先生方の研修に呼ばれたんですね。これが四〇〇名の先生が船に乗せられて一〇日間海を旅するっていうプログラムなんですが、どの先生も「忙しくて海なんか見てる暇ないです」って言う。 で、最後の一〇日目にね、二〇人くらいのグループに分かれて討論の発表するんです。ぼくもつき合って聞いていたんだけど、なんとその話題が、いじめをなくすとか、落ちこぼれを作らないとか、全部人間関係に終始している。 ぼくが期待していたのは全然違う話で、山登りの好きな先生が摩周湖で妙な石ころをを拾ってきたとして、それを教室の真ん中に置いてどういう教材にするとか、ヒヨコからニワトリ育てて、親になったら首を絞めてスープにして調理実習の食材に使うのはどうだろう、みたいな話だったんですけどね(笑)、そんなの一つもなかった。 だって四〇〇人は自由に討論したんですよ。その結論が全部人間関係についてなんだから、いま職員室で先生たちがどんな話をしているのかおのずとわかってしまうわけ。要するに、先生方の社会なんだ。つまり、自分たちの住んでいる社会をどうするかにについて話をしてるんであって、子どもについてじゃない。 別の言い方をすれば、子どもは完全に置いてけぼりなんだけど、それがおいてけぼりだってことにも一切気づいていない。 それはそうでしょう。だって船に乗ってて海も見ないんですから。波なんて見たってしようがないと思っている。 でも、その波こそが世の中そのもので、無意味に動いているものでしょう。ところが本来そういうものだという感覚からしてもうないんです。いかにこの社会に子どもを適応させるかって、せいぜい善意で考えているわけです。(P69~P70) 太字はぼくの勝手でそうしていますが、まあ、こんな感じです。 で、怖ろしいのは、この会話が20年前の出来事で、話題になっている子供たちが今や30歳を過ぎていて、ここで話題になっている親や先生になっているということです。話しているお二人は80歳を越えていらっしゃって、当時、「トトロ」を見せていた親で、なおかつ教員だったボクは70歳になろうとしながら、この話を読んで、思わず叫んでいます。ワッチャー! 2002年に本になった養老孟司と宮崎駿の出会いの本です。ジブリから出ていた本が新潮文庫になったのは2008年です。下に貼った「目次」をご覧になればわかりますが、1997年、1998年、2001年に行われた三回にわたる対談の記録です。 養老孟司が「バカの壁」(新潮新書)で世間から大うけしたのは、確か、2003年で、今からちょうど20年前ですが、1990年代の始めくらいからちくま文庫で文庫化されて出ていた「~の見方」三部作(?)、「ヒトの見方-形態学の目から」(1991年)、「脳の見方」(1993年)、「からだの見方」(1994年)が ボクにとっては養老孟司との出会いの3冊でした。 宮崎駿の1997年といえば「もののけ姫」で、2001年といえば「千と千尋の神隠し」のアカデミー賞騒ぎのころです。 勝手にまとめれば、対談の眼目は「見る」ことの見直しです。おしゃべりな解剖学者と人に見せるのクリエーターが「見えるもの」のとらえ方の見直しを促す語り合いです。「見る」、「見せる」のプロ二人が語りあっている眼目が最近案内した「生きもののおきて」(ちくま文庫)の写真家岩合光昭の視力の話と、ピタリと一致していることも驚きでしたが、本書が見ているのがアフリカの野生動物ではなくて、我々が暮らしている社会だというところが、まあ、よりスリリングなわけです。 老人のぼくがいうのも変ですが、まったく古びていません。お若い方に読んでほしい語り合いです。ヤバイ! 読み始めて、そう感じない人は、かなりヤバイ!と思います(笑)。目次養老さんと話して、ぼくが思ったこと 宮崎駿『もののけ姫』の向こうに見えるもの対談1 1997・対談2 1998『千と千尋の神隠し』をめぐって対談3 2001見えない時代を生き抜く 宮崎アニメ私論 養老孟司文庫版あとがき 宮崎駿
2023.07.08
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オリバー・ハーマナス「生きる」 話題の「生きる」、英語の題は「Living」、黒澤明の「生きる」をノーベル文学賞のカズオ・イシグロの脚本でリメイクして、志村喬の役を、ボクでも知っている老優ビル・ナイが演るというわけですから、まあ、評判になりますよね、そう思って余裕を持ていたら封切館の上映が終わってしまいました。「えっ?話題じゃないの?流行ってないの?」 同居人のチッチキ夫人は、いつの間にかチャッカリ見てきたようで、余裕です。「ブランコにのって歌うたうの?」「歌うけど、ちょっと違う気もしたわ。」「やっぱり、イギリスやし、スコットランド民謡?蛍の光とか?」「あほかいな、そんなんちゃう。知らん歌やったわよ。」 そんな、おしゃべりをしながら、結局、気になったのは、原作(?)のあの歌のシーンでした。 で、パルシネマが、ほんの一月遅れで二本立てで見せてくれるというのですから見逃すわけにはいきません(笑)。 オリバー・ハーマナス監督の「生きる」=「Living」です。 今更、筋立てについてあれこれいうつもりは毛頭ありません。ビル・ナイという実力派の俳優が志村僑の役を演じているのですが、リメイクのイギリス版を見ながら、ああ、そんな話だったなあとか考えているのもイマイチだなあとか思いながら映画は始まりました。 いかにもイギリスという感じ紳士の皆さんやの田園風景を蒸気機関車が走るのを、フムフムという気分で眺めていたのですが、主人公の課長さんが自分の病気のことを息子に伝えることができないシーンを見ていてハッとしました。 息子の妻の態度とか、夫婦関係とか関係ありません。大人になった息子に、父親である自分の内情を伝えることができないのです。「そうなんだよな。結局、そこのところをどうしていいかわからないんだよな、この年になってみると。」 そこから、すっかり主人公に入れ込んで見ることができたのですが、山場に差し掛かって、もう一度、ハッとするシーンがありました。 見る前から気になっていた、問題のあのシーン、主人公が歌う場面です。「ナナカマドの木」というスコットランドの歌でした。まあ、絶唱するわけですが、問題は歌詞でした。もちろん、あてずっぽうなのですが、聞き間違いでなければ、故郷の美しい風景と、その風景の中で母親が子供を見ているシーンを歌う歌だったと思います。 ボクは、その歌から聞こえてくる「マザー」という歌詞にひいてしまったのでした。自分が、その言葉を聞いて冷めていくのを実感しながら、冷めていく自分にも驚きました。 原作(?)で歌われるのは「ゴンドラの唄」でした。ブランコの志村僑はボソボソ歌っていたと記憶しているのですが、歌詞がいいのです。いのち短し 恋せよ乙女あかき唇 褪せぬ間に熱き血潮の 冷えぬ間に明日の月日は ないものを この歌が歌っているのは、今、この時を生きることへの励ましでした。思い出の故郷や、そこに重ねられた母の眼差しではありません。 ボクはカズオ・イシグロという作家の中途半端なファンです。で、たとえば、初期の「遠い山なみの光」(早川文庫)=「女たちの遠い夏」(ちくま文庫)であれ、評判をよんだ「わたしを話さないで」(早川文庫)であれ、故郷を失った、あるいは、はなからそんなものはない人間の孤独な姿を描く作家だと思い込んでいたのですが、ここでビル・ナイに歌わせたのは故郷?!、母?! という驚きと落胆でした。 エンドロールを眺めながら、別の映画を思い浮かべるというのも変ですが、ボクは、あの、朴訥の権化のような厚い唇の志村僑に、ボクが生まれる2年前、今から70年前に、あの歌をうたわせた黒澤明という監督を思い浮かべて、チョット身震いする気分でした。 このイギリス版の「生きる」も、決してつまらなくはないのですが、結局、亡くなった後も孤独だった黒澤版に比べると、主人公に歌わせる歌の違いの中にカズオ・イシグロの人の好さのようなものが表れて凡庸な結末を描いてしまったと、ボクは思いました。 言わずもがななのでしょうが、黒澤は、やはり、スゴイですね(笑)。監督 オリバー・ハーマナス原作 黒澤明 橋本忍 小国英雄脚本 カズオ・イシグロ撮影 ジェイミー・D・ラムジー美術 ヘレン・スコット衣装 サンディ・パウエル編集 クリス・ワイアット音楽 エミリー・レビネイズ=ファルーシュキャストビル・ナイ(ウィリアムズ)エイミー・ルー・ウッド(マーガレット)アレックス・シャープ(ピーター)トム・バーク(サザーランド)2022年・103分・G・イギリス原題「Living」2023・07・03-no81・パルシネマno59
2023.07.07
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ジェームズ・マンゴールド「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」 ハハハハハ、見ちゃいました。チッチキ夫人とJR灘駅で待ち合わせて、雨の中、109シネマズ・ハットまで歩いて、「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」です。監督はジェームズ・マンゴールドという人だそうで、ちょっと不満ですが、スピルバーグとルーカスは製作総指揮だそうです。 インディー・ジョーンズのシリーズはチッチキ夫人のお気に入りです。チラシを見つけて以来落ち着きません(笑)。この半月程は、テレビで総復習をしていたようで、満を持しての同伴鑑賞でした。 見終えた帰り道、春日野道の大安亭市場目指して雨上がりのトボトボ歩きの会話です。「最初のほう、ハリソン・フォードがエライ若かったけど、あれって、作り物?」「わからんなあ。今時、どうにでも作れるんちゃうの?そんなことより、なんか罪のない人がよおけ死なはるのが、チョットちゃうなあって。」「そうそう、なんか、あのへんいややったわ。ナチス、ナチスってうるさいし。」「そうそう、あのな、あの悪役のロケット博士おったやろ。」「フォンなんちゃらいう人?」「そうそう、あの人な、フォン・ブラウンいう実在の科学者が、きっと、モデルやねん。」「有名な人なん?」「うん、一部の人には。」「一部て?」「あんな、ボクな、中学生の時、宇宙少年やってん。ほんで、アポロやってん。そん時、ロケットの父とか言うて、フォン・ブラウンいう人の伝記読んで、ボクには英雄やねんけど、なんか、めちゃくちゃ悪役やったなあ。」「インディ・ジョーンズはナチスの人いつも悪役やん。」「イギリス攻撃したV2ロケットって知ってるか?ナチス・ドイツの。まあ、ミサイルやねんけど、それを作ったひとやねんけど、ボクは宇宙ロケット作りたいとかいうてゲシュタポに狙われて、アメリカに逃げた学者やねん。」「原爆作った人も逃げてきた人ちゃうん?」「うん、そうやけど、アインシュタインとかは、ユダヤ人いうこともあるねんけど、フォン・ブラウンはアーリア人、ドイツ人やねんな。ホンでな、いつの間にか、アポロ計画のロケット作るひとになってん。そやから、この映画、1969年で、CIAかなんか、最初あいつの味方やったやろ。」「そんなん、全然知らんわ。ハリソン・フォードが、あいつはナチやナチや、いうてた人やろ。」「そうそう。顔も似てると思ったで。」「アンティキティラのなんちゃらいう秘宝は?」「あっ、あれも実在やって。スマホで出てくる。大昔の羅針儀いうかやな。」「時空を飛べるの?」「わけなやろ。だいたい、タイムマシンやとしても、後ろの飛行機も一緒に時間を飛べるのおかしいやん。」「あっ、それは私もおかしい思った。」「ほんで、なんで、帰ってこれるねん?」「やんなあ。でもええねん、馬にも乗ったし、洞窟にも海底にも行ったし。」「あんた、インディが帰らへんいうたとこで涙出たやろ(笑)」「そやねん、ああ、これで、ハリソン・フォードも見納めやなあって。」「なんでやねん。他の映画にはまだ出てるで。お父さん、90歳まで生きてたやん。でも、まあ、あそこ、しみじみするなア。」「お父さんって、ジェームスボンド?」「ショーン・コネリー。」「75歳くらいで引退したんちゃうの。ハリソン・フォード80歳やろ。」「まだ、やめるいうてないやん。でも、まあ、40年やからなあ。」「変なとこいっぱいやったけど、まあ、ええねん(笑)。最後にマリオンも帰って来てたし。ああー、でもな、エンド・ロールの時、音楽ならんかったのが残念やったわ。待っててんよ。ジャッジャジャージャーン、ジャジャジャジャジャン!で終わってほしかったわ。最後やのに!」 イヤハヤ、久しぶりに鼻歌歩きのチッチキ夫人でした。 ええっと、それから大安亭市場ではチャンジャとナムルの盛り合わせ、それからスモモを買いました。 監督 ジェームズ・マンゴールド製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ ジョージ・ルーカス脚本:ジェズ・バターワース ジョン=ヘンリー・バターワース デヴィッド・コープ ジェームズ・マンゴールド撮影 フェドン・パパマイケル衣装デザイン ジョアンナ・ジョンストン編集 マイケル・マカスカー アンドリュー・バックランド ダーク・ウェスターヴェルト音楽 ジョン・ウィリアムズキャストハリソン・フォード(インディアナ・ジョーンズ)カレン・アレン(マリオン・レイヴンウッド:妻)トビー・ジョーンズ(バジル・ショー:旧友・イギリスの考古学者)フィービー・ウォーラー=ブリッジ(ヘレナ・ショー:バジルの娘・インディが名付け親)イーサン・イシドール(テディ:ヘレナの相棒の少年)アントニオ・バンデラス(レナルド・旧友・潜水士)ジョン・リス=デイヴィス(サラー:旧友エジプトの発掘屋)マッツ・ミケルセン(ユルゲン・フォラー:元ナチスのロケット科学者)ボイド・ホルブルック(クレーバー:ナチスの残党)トーマス・クレッチマン(ウェーバー大佐:ナチス)シャウネット・レネー・ウィルソン(メイソン:CIA捜査官)オリヴィエ・リヒタース(ハウケ:フォラーの部下)マーク・キリーン(ポンティマス:紀元前の兵士)ナセル・メマルツィア(アルキメデス)2023年・154分・G・アメリカ原題「Indiana Jones and the Dial of Destiny」2023・07・05・no84・109シネマズ・ハットno29
2023.07.06
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「朝顔日記 その2」 ベランダだより 2023年7月4日(火)「三つめかなあ?」「四つめよ。昨日も咲いたの。」「ええーっ?知らんかった。アッ、ホンマ、しぼんだ蕾がある。今年の朝顔は白ばっかりなん?」「そんなことないはずよ。いろんなの蒔いたし。蔓も1本だけとちがうし。」「そのうち色違いも咲くんかな?」「咲くと思うけど。」「隣のタンゲ丸くん、小さい子分のほうにも花芽がついてる。もすぐいっぱい咲くな(笑)」「ちょっと、こっちの角度から写っとこ。」「チョット、チョット、カメラ貸して!」「なに?」「カマキリよ、カマキリ!」「どこよ、どこ?」「カシテ、カシテ!」「アカンは、ピント合わへん。」「チョット貸してみ。」「これで撮れてるで。」「なんか、まだあかちゃんやな。」「透き通ってるやん。」「こっちもとっとこ。これなっていう名前?雑草?」「なにゆうてんの、なんとか水仙やないの。」「なんとかって?」「うーん、忘れた。そうや、ナツズイセン。いま、いっぱい咲いてるやん。」 あいかわらずの、ベランダだよりでした(笑) お天気は、夏本番の火曜日の朝です。ボタン押してね!
2023.07.05
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福永壮志「山女」元町映画館 このチラシの写真と、チラシのこの一行に釣られてやって来ました。「遠野物語」に着想を得た、唯一無二の物語」 結構込み合っていました。見終えて思いました。監督でも、脚本家でもいいですが、本当に柳田国男の「遠野物語」とやらを読まれたのでしょうか?もしも読まれたうえで、こういう時代背景で、こういうセリフ回しで、こういう演技で、こういう物語設定で、こういう映画(ボクは「映画」と呼ぶことに抵抗を感じますが)をお作りになったとしたら、作っている人や、広告を書いている人とボクとの間には、まあ、不可知の海が広がっているという気がしましたね。 いやはや、いろんな映画があるものですね。書くことがないので、青空文庫で読める柳田国男の「山の人生」の最初のお話を貼っておきます。有名な話ですが、これだけで、まともな作り手であれば「映画」が一作撮れると思うのですがねえ。 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。 この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。 柳田国男にインスピレーションを得たというのであれば、柳田国男が書き残した世界に対する敬意を感じさせる映像にしていただきたいですね。文化庁だかNHKだか知りませんが、出鱈目は不愉快ですね。監督 福永壮志脚本 福永壮志 長田育恵撮影 ダニエル・サティノフ編集 クリストファー・マコト・ヨギ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャスト山田杏奈(凛)森山未來(山男)二ノ宮隆太郎(泰蔵)三浦透子(春)山中崇(寅吉)川瀬陽太(角松)赤堀雅秋(親方)白川和子(巫女のお婆)品川徹(村長)でんでん(治五郎)永瀬正敏(伊兵衛)2022年・100分・G・日本・アメリカ合作2023・07・04-no83・元町映画館no177追記2023・07・08 感想とも言えない感想を綴って投稿しましたが、案外多くの方の反応があって驚いています。元町映画館では、この作品が結構たくさんの方に見られているようです。めでたいことです。 ちょっと、誤解されているようなので追記しますが、ボクにはこの作品のなかに柳田国男の論考を基礎にして作られた痕跡がまったく見つけられなかったのですが、にもかかわらず、チラシの宣伝文では、あたかも、柳田民俗学の世界を描いているかのような煽り方をしていたことに呆れた結果を感想にもならない感想として書いただけです。 若い映画製作者や宣伝担当者が、たとえば柳田国男を読んでいないことを批判しているのではありません。そんなことは、はなから期待していません。ただ、自分が知らないことをネタに、知らない人のイイネを煽るのは出鱈目です。入場料を払って見に行っている人間もいるのですから出鱈目はやめていただきたい。そう思ったことを書いただけですよ(笑)。
2023.07.04
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岩合光昭「生きもののおきて」(ちくまプリマーブックス133) 岩合光昭の「虎」という写真集がおもしろくて、新たに図書館で借りだしてきたのが「生きもののおきて」(ちくまプリマ―ブックス133)でした。ちくまプリマ―ブックスというシリーズは2004年くらいだったでしょうか、ちくまプリマ―新書というシリーズの発刊とともに終刊になりましたが、もともとはちくま少年図書館というシリーズが1986年に100巻で終刊したのを受け継いでいて、中学校とか高校の図書館の棚には必ず並んでいたのですが、さて、今はどうのでしょうね。 高校生・中学生に任せておくのは惜しい内容の本がずらりとありましたが、今回は1999年に発行された、写真家岩合光昭の写真エッセイ(?)です。 古びた本ですが、ページを開くとこんな言葉に出合います。 ぼくは一九八二年八月から一九八四年三月までの一年半、家族(妻と当時四歳の娘)とともに、タンザニアのセレンゲティ国立公園に滞在した。そこは、日本人が抱くサバンナのイメージの、原風景のようなところだろうか。「セレンゲティ」とはマサイ族の言葉で「果てしなく続く平原」。(P7) で、ページを繰るとこの風景でした。サバンナでは、あなたの視力が試される。 」読み終えて、この写真のページを広げて、キャプションを読み直しながら、本書を通じて、若き日の岩合光昭というカメラマンが「見ること」、「写すこと」によって育ててきた「視力」とは何か、「見る」とは何かという問いを、繰り返し問いかけ続けていたのだとようやく気付きました。 たくさんの面白いエピソードが記されていますが、まず思い浮かんでくるのがこの一節でした。 娘が小学校三年の時、オーストラリア・カンガルー島の牧場で九か月ほど住んだ。そのとき、ヒツジが日がな一日草を食んでいるので、ぼくは彼女に「ヒツジさんて、なに考えてるんだろうね」と尋ねた。すると娘は「草だよ。草しか見てないよ。」確かに動物は食べることしか考えていないに違いない。ぼくは思わず「深いな」と感心してしまった。(P120) で、続けて浮かんだのが、こちらです。 やはり娘が四歳のときのこと、チータがトムソンガゼルの幼獣を襲うのを目撃した。チータは三〇分とかからず、瞬く間にそれを食べて、後には骨と皮だけが、まるで抜け殻のように残った。ぼくは車を降りて、娘に「ほら、皮だけだよ。コムソンガゼルのお母さん、まだあそこで見てるよ。かわいそうだね。」彼女は「かわいそうだね。でもまた産みゃいいさ。」 ぼくは目が点になった。 そうか、また産みゃいいのか・・・・(P88) 本書の最後の見開き写真です。草原のトムソンガゼルの母子でしょうか?セレンゲティは滅びず。 幼いお嬢さんの言葉に驚く、見ることのプロ!カメラマンの岩合光昭の様子が、とても印象的で、納得でした。アフリカの野生動物やオーストラリアのヒツジを見ているお嬢さんとお父さんの「見方」の違いが、わかった気になって世界を見ている自分に気づかせてくれます。 生まれたばかりの赤ん坊に見えていた世界を、どんどん失いながら「賢くなっていっている」と思い込んで、結局、「見たいもの」や「わかること」しか見ることができない、ジコ満足の「愚か者」に自分がなっていることに、「そういえば・・・」、という思い当たる節があれこれあります。 写真家岩合光昭の「猫の写真」の面白さの理由の一つは、どうもこの辺りにあるようですね。ナルホド!ナルホド!
2023.07.03
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デビッド・バーナード「Eric Clapton Across 24 Nights」シネ・リーブル神戸 今日はチッチキ夫人と同伴鑑賞です。なんか、こういうふうに映画館に出かけることがふえそうです(笑)。金曜日とはいえ、夕方の5時過ぎからのプログラムで、毎日お仕事があったころには「しんどいから、イヤ!」 だったのですが・・・「阪神するけど、まあ、いいわ。クラプトンやろ。見たかったし。」「ボク、3時からのホン・サンス見るけど、そっちは?」「ええー? 海岸で寝転んで、それからとかいう人の映画やろ。」「うーん、まあ、そういうシーンもあったわな(笑)。」「わけわからんから、イヤ。」「ホンナラ、ボクは先に出て、見てから合流やで。」「わかった、シネ・リーブルに5時でええんやろ。」 というわけでホン・サンスの「小説家の映画」を見て出てくるとネット予約のチケット交換を済ませて待っていました。同じホールの同じ席です(笑) 二人で観たのはデビッド・バーナードという監督の「Eric Clapton Across 24 Nights」という映画でした。 まあ、ようするに、1990年から1991年にかけてロイヤル・アルバートホールというところでエリック・クラプトンがやったコンサートの名場面集でした。30年前のクラプトン!です。 クラプトンのギター・ソロの独演会風なシーンから始まって、「クロス・ロード」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」、「ホワイトルーム」と続き、「いとしのレイラ」、「サンシャイン・オブ・ユア。ラブ」まで17曲、1曲1曲、始まりから終わりまで見せて、聴かせるところがミソなのでしょうね。しっかりヒタレます。「ヨカッタワぁー、納得やわ。」「ホールの音響が上品すぎひんかった?ボク、もっと大きい音のほうがよかったわ。」「ううん、あれでええわよ。オーケストラとかあんまり大きい音になるのイヤヤし。バディ・ガイとか、何とかコリンズとか、めちゃカッコよかったやん。なんか、久しぶりにギターの音きいた気がするわ。」「アンナ、この前見たクラプトンの伝記みたいなん思い出してんけどな、クスリとかアルコールとか、しんどい頃のとこがあって、それがよかったんやけど、今日のはミュージックビデオやったな(笑)」「子供さん、亡くしはってんやろ。」「うん、このコンサートのあとちゃうかな?」「おなかすいたわ。なんか食べて帰ろう。」 というわけで、二人で夜の元町商店街をフラフラ歩き、ラーメンなどをいただいて、無事、帰宅しました。2023年、水無月、最後の金曜日、雨模様でしたが平和でした(笑)。帰ってテレビをつけると阪神キャッツがサヨナラ負けを喫していました。トホッ。監督 デビッド・バーナード編集 マシュー・ロングフェロー デビッド・バーナード ベニー・トリケットキャストエリック・クラプトンマイケル・ケイメンフィル・コリンズアルバート・コリンズバディ・ガイ2023年・115分・G・イギリス原題「Eric Clapton Across 24 Nights」2023・06・30-no80 デビッド・バーナード・シネ・リーブル神戸no198
2023.07.02
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「朝顔日記 その1」 ベランダだより 2023年7月1日(土) 今日は2023年の7月1日、土曜日です。昔風に言えば文月の朔日(ついたち)です。季節は昔風なら、秋ですが、今風というか、現実にはというか、いよいよ夏本番です。 というわけで、団地のわが家のベランダでは、今年も朝顔が咲き始めました。隣で咲いているのは、6月の半ばから咲き始めたカラーです。 実は、一昨日、6月29日(木)に最初の花が咲いたのですが、写真を撮り損じていたのです(笑)。今日咲いた朝顔の下に散った花が落ちているのが見えますね。 朝顔の隣に写っているのは、たくさんの花芽をつけて、次の開花の日にそなえているサボテンのタンゲ丸くんです。 今年の朝顔は、今のところ白い花ですが、鉢植えの世話をしているチッチキ夫人によれば夕顔ではないそうです。要するに白い花の朝顔です。 シマクマ君は、白い花の朝顔を見るのは初めてです。二日間で二輪の花が咲きましたが、同じ鉢の蔓から違う色がついた花は咲くのでしょうか? ちょっと、カメラの角度変えてみましたが、ピンボケですね(笑)。下に落ちているのはたばこの吸い殻ではありません。昨日散った朝顔です。 というわけで、ベランダだよりですが、今年も「朝顔日記」をはじめます。去年は、毎日の変化とかを記録したいという思い付きで苦労したので、今年は思いついた日だけの日記です。覗いてくださいね(笑)。 今日は、長い夏の始まりの日でした。いかにもな梅雨空でしたが、ひいきの阪神キャッツも大山くんの1発で、昨日のうっ憤を晴らしてくれたので、ヨキ一日でした(笑)。ボタン押してね!
2023.07.01
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