全30件 (30件中 1-30件目)
1
クロニクル トルーマン(米大統領)の爆弾発言1950(昭和25)年11月30日62年前のことです。この日、トルーマン米国大統領は、戦争中の朝鮮半島で原子爆弾を使用する可能性について、「原爆の使用もありうる」と発言しました。当時の朝鮮戦争の戦局は、10月に中国義勇軍が参戦したこともあって、韓国側優勢の状況から再度転換、38度戦を巡る攻防へと移りつつある矢先のことでした。このトルーマン発言は国際的な波紋を呼びました。「米国の核兵器使用は、核爆発を成功させているソ連の核兵器使用を招き、大変なことになる」と、欧州諸国をはじめ、国際的な批判を浴びました。その上米国内でも反対の声が強まり、結局大統領は、使用を断念せざるを得ませんでした。。
2012.11.30
コメント(14)
クロニクル 足利銀行一時国有化2003(平成15)年11月29日9年前のことです。この日金融庁は、足利銀行を債務超過と認定し、一時国有化する旨を発表、即日実施しました。地方銀行の一時国有化ははじめてのケースでした。金融庁は4月に、極度の経営不振に陥っているりそな銀行への、公的資金の投入を決め、5月に同行に対し、2兆円の公的資金を投入しています。竹中平蔵金融大臣は、りそな銀行に対しては、経営責任を問うことなく、りそなの債務超過説を一蹴、あくまで健全行に対する資本注入スキームによる公的資金の投入であるとの、立場を崩しませんでした。それに対し、経営規模が小さく、営業基盤が主として栃木県内に限られ、影響力が限定的な足利銀行には、破綻処理を実行するという、どうみても二重基準としか思えない処理策が実行されました。影響力の大きいりそなは救済する。今後は大手行は潰さず、資本不足と認定したら、貸し渋りを防ぐために、経営責任は問わない事で、経営者の抵抗を防ぎながら、積極的に公的資金を投入するという決意を、間接的に表明したに等しい行為でした。このメッセージを積極的に受けとめた外資は、長かった日本の金融不況も、ようやく脱出の糸口を掴んだと評価し、13年振りに、積極的な日本株買いスタンスをとるようになりました。ここに株価は底打ちし、折からの中国市場の急速な成長にも助けられて、日本経済はようやく、バブルの後遺症から抜け出すきっかけを掴みました。
2012.11.29
コメント(16)
クロニクル ローハイド放映開始1959(昭和34)年11月28日53年前のことです。この日「ローレン ローレン ローレン……」と、土曜日の夜10時、テレビ朝日(当時はNET)の画面から、フランシス・レイの歌う「ローハイド」のテーマ曲が流れてきました。年配の方なら覚えていらっしゃるでしょう。西部の牛追い、カウボーイたちの物語。「ローハイド」です。テキサスの牧場主から預かった牛を東部へ送るために、最寄の鉄道駅までの長い距離を運ぶ、ロングドライヴの話です。隊長のフェイバーさん、ロディ(若い日のクリント・イーストウッドでしたね)にピート、そして料理番のウィッシュボーンじいさん。懐かしいですねぇ。女子学生にはフェイバーさんファンが多かったですが、私はウィッシュボーン爺さんが好きでした。このローハイド、実は53年前の今日から放映が始まったのです。放映は59年から65年まで、全217話が放映されました。番組スポンサーは洋酒の寿屋、現在のサントリーです。
2012.11.28
コメント(16)
クロニクル ミッチーブーム1958(昭和33)年11月27日それは、平成天皇の皇太子時代のことでした。もう54年前になるのですね。そうなんです。54年前の今日、宮内庁は明仁皇太子と正田美智子さんの婚約が整ったことを発表しました。当日の夕刊に写真が載ったことを覚えています。今や見かけなくなった清楚な美人といった雰囲気の令嬢でした。初めての皇族と平民との結婚でした(今までは旧華族から選ばれていました)が、宮内庁の賭けは大当たりでした。あっという間に広まったミッチーブームでした。お2人のご結婚は、翌年1959年の4月10日のことでした。
2012.11.27
コメント(20)
クロニクル 日本ペンクラブ発足1935(昭和10)年11月26日77年前の出来事です、この日国際ペンクラブの日本センターという位置づけで、日本ペンクラブが発足、設立総会で初代会長に島崎藤村が選ばれました(現在の会長は第16代の浅田次郎氏)。ペンクラブは、文筆業に従事する人々の組織で、言論・出版・表現の自由を守るために活動し、同時に国際間の文化交流の推進を計ること目的に、活動を続けています。
2012.11.26
コメント(16)
クロニクル 共同募金始まる1947(昭和22)年11月25日65年前のことです。この日、初めての共同募金の募金活動がスタートしました。当時で総額6億円近くが集ったと記録されています。戦後の混乱期、いまだ食糧不足が続く中でのことです。戦争で親や兄弟を亡くした戦争孤児も多かった時代です。貧しいながらも気持の温かい人々の浄財が集まったのでしょう。共同募金のスタートは、翌年からは10月1日となり、同時に赤い羽根も使われるようになりました。
2012.11.25
コメント(22)
クロニクル 東京初空襲1944(昭和19)年11月24日68年前です。この日、マリアナ基地より飛来した80機の米軍機(B29爆撃機)によって、中島飛行機武蔵野工場が爆撃されました。米軍機による、初めての東京空襲でした。 米軍機による本土爆撃は、同年6月16日の北九州爆撃を皮切りに、11月までに8回行なわれましたが、いずれも中国四川省の成都基地から発したB29爆撃機によるものでした。マリアナ基地からのそして首都東京への爆撃は,この日が初めてでした。B29爆撃機は、高度1万メートルの高高度からの爆撃が可能で、この日以降、名古屋や川崎の航空機工場が次々と爆撃を受けました。 しかし、高高度からの爆撃は正確さを欠き、米軍にとっても成果は不満足なものだったらしく、日本の高射砲の到達高度を見切った翌45年3月以降は、低空での焼夷弾による無差別爆撃に切り替えられました。こうした無差別爆撃は、広島・長崎への原爆投下を待つまでもなく、非軍事的目標や市民に対する故意の攻撃でしたから、既にして明確に当時の国際法に違反する行為でした。
2012.11.24
コメント(20)
クロニクル ウィンドウズ95日本語版発売1995(平成7)年11月23日17年になるのですね。この日、米マイクロソフト社は、自社製品「ウィンドウズ95」の日本語版を発売しました。ここに日本でも、本格的なパソコン時代が到来することになりました。従来使われていたオフコンに比べ、安価な費用で、ワークステーション方式でパソコンを繋いでいく方法は、急速に普及し、小規模事業所などでも、パソコンが使用されることになりました。また個人用、家庭用としても急速に普及を遂げ、今日のパソコン時代の幕を開きました。同社社長のビル・ゲイツ氏の名が、日本中に知られるようになったのも、この頃のことでした。
2012.11.23
コメント(20)
クロニクル カイロ会談始まる1943(昭和18)年11月22日69年前のこの日、エジプトのカイロで、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中華民国総統蒋介石の3国首脳によるカイロ会談が始まりました。会談の目的は、対日講和方針の摺り合わせでした。この年9月8日には、イタリアが降伏しており、対独、対日戦線でも、連合国の優勢がはっきりしてきた時期でした。すでに10月末には、対独講和方針が米・英・ソ3国外相によって協議されていました。カイロ会談は、27日まで行なわれ、最終日の27日に3首脳は「カイロ宣言」に調印、調印後ただちに、「宣言」の全文が発表されました。カイロ宣言は、日本に対し日清戦争で清国から獲得した、台湾・澎湖島の返還を指示していますが、尖閣諸島については、一言一句も言及していません。即ち、中華民国は蒋介石を含めて、尖閣諸島を中華民国領と認識していなかったことが、ここに示されています。
2012.11.22
コメント(27)
クロニクル カーネル小父さん登場1970(昭和45)年11月21日42年前のことです。この日、名古屋市西区のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に、ケンタンキーフライドチキンの第1号店がオープンしました。運営は三菱商事と米国の本家KFCコーポレーションが、合弁で設立した日本ケンタッキー・フライド・チキンがあたりました。同社は、当時の日本では、まだ馴染みの薄かったフライドチキンそのものと、フライドチキンを販売するケンタッキーの名に親しんでもらおうと考え、カナダで考案されたものの、そのまま放置されていた、創業者カーネル・サンダースの立像を譲り受け、1号店となった名西店の店頭に設置したのです。名西店そのものは、売れ行き不振で半年で操業停止に追い込まれましたが、子ども達にカーネル小父さんと親しまれた、カーネル・サンダースの立像は、ケンタッキーの店舗の増加と共に、日本各地へ広まり、さらには世界各地にも広まって行きました。
2012.11.21
コメント(18)
クロニクル 川治プリンスホテルの火災1980(昭和55)年11月20日32年前のことです。この日午後3時頃、川治プリンスホテル雅苑から出火し、死者45名を出す大惨事となりました。この日は、東京の杉並区から2組の老人クラブが訪れていました。1組は2泊の予定で滞在中、もう1組は到着したばかりでした。客の大部分が老人だったこと、ホテルが増築に次ぐ増築で、避難路が迷路のように複雑だったこと、新建材から出る有毒ガスに巻かれたことなどが重なっての被害でした。ホテル側が、火災報知器が作動したにも関わらず、訓練と勘違いして、何らの対応も取らず、初動が遅れたことも被害を大きくした原因に数えられます。結局宿泊客40名、従業員3名、バスガイド1名、添乗員1名の45名の犠牲者がでました。事件後、女将には実刑判決が下され、ホテルは取り壊されました。日本の商業建築物火災としては、1972年の大阪千日デパート火災(死者118名)と1973年の熊本大洋デパート火災(死者104名)に次ぐ3番目の犠牲者となりました。
2012.11.20
コメント(12)
クロニクル 戦後初の赤字国債発行1965(昭和40)年11月19日47年前のことです。この日、佐藤内閣は閣議を開き、戦後初となる赤字国債発行を含む、補正予算案を閣議決定しました。前年10月の東京オリンピックの開会に先立ち、オリンピック特需による、行き過ぎた景気過熱がピークアウトし、経済成長率の鈍化からオリンピック不況の到来がささやかれていたところへ、この年5月山一証券の危機が発覚して証券不況の名が付けられました。山一は、日銀特融の実施によって、救済されたのですが、ここに、景気刺激のための補正予算の編成が求められました。補正の実施には、歳出を賄うための歳入の確保が必要ですが、不況で歳入を増やす道は、国債の発行によるしかなかったのです。こうして戦後初の赤字国債が発行されました。当初は僅かな額でしたが、その後雪ダルマ式に膨らんで、今日に至っています。
2012.11.19
コメント(18)
クロニクル 官営八幡製鉄所本格操業開始1901(明治34)年11月18日八幡製鉄所の操業開始は、一般的には同じ1901年の2月5日とされます。第1溶鉱炉に火が入り、操業を開始したのは2月8日と社史にも記されています。しかし、勇んで生産を開始してみたものの、その後の道は平坦ではありませんでした。産みの苦しみとでもいうのでしょうか、次々と発生するトラブルの解決に追われ、日産160トンの生産能力(それまでの日本の製鉄業では、釜石製鉄所の日産25トンが最高でしたから、その6倍強の規模でした)を生かすには、ほど遠い状態でした。技術陣は試練に耐えながら、懸命に試行錯誤を繰り返し、遂に111年前の今日、日産100トンの大台を達成したのです。溶鉱炉に火を入れ、生産を開始して9ヶ月半近く、ようやく第1関門を突破して、本格操業に漕ぎ着けたのが、今日だったのです。しかし八幡製鉄所の挑戦は、これで終ったわけではありません。八幡製鉄所は、銑鉄の生産から製鋼・圧延までの一貫生産を目指していましたから、製鉄一貫工程の完成に向けての第2、第3の関門への挑戦が待っていたのです。全ての難問が解決し、一貫生産が軌道に乗るのは、1904年の日露開戦の直前でした。
2012.11.18
コメント(14)
クロニクル 公明党結党大会開催1964(昭和39)年11月17日48年前のこの日、公明党の結党大会が開かれ、原島宏治委員長、北条浩書記長を選任しました。公明党は創価学会を母体として結成された、日本ではじめての宗教政党です。この日の結党大会以前に、既に1959年の参議院議員選挙に6名の候補者を立候補させ、全員の当選を果たして、信仰票の威力を見せつけ。3年後の1962年の参院選では、公明政治連盟という団体を結成して、9名の立候補者全員を当選させました。その結果参議院の議員は計15名を数え、当時の自民・社会両党に続く、参院での第3勢力にのし上がっていたのです。余勢をかって、衆議院への進出を目指し、この日の政党結成となったのです。衆議院への初進出は、黒い霧解散後の1967年1月の総選挙になりましたが、いきなり25名を当選させて、自民、社会、民社の3党に続く、第4党の地位を掴んだのです。
2012.11.17
コメント(16)
クロニクル 石油緊急対策要綱決定1973(昭和48)年11月16日39年前になります。この日政府は、石油危機対策として、石油緊急対策要綱を閣議決定しました。第4次中東戦争に端を発した、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略によって、原油の生産が大きく削減されたため、各国は石油不足に陥り、特に工業生産への影響は大きく、消費生活もまた脅かされていました。日本でも、石油製品や石油化学製品の不足が目立ち、洗剤やトイレットペーパーの買い溜め騒動も起き、一種のパニック状態に陥っていました。そのため、政府としても何らかの指針を発表して、危機乗り切りに向けて、国民の協力を得る必要があったのです。こうして発表された緊急対策で、1、マイカーの自粛2、石油及び電力消費の10%削減などが企業や国民に呼びかけられました。ここから、暖房は22度、冷房は28度に設定することや、都市部のネオンサインは、夜10時を持って、電源を落とすことなどがまとめられ、危機脱却まで継続することになりました。昨年の原発事故での節電要請よりも厳しいですね。
2012.11.16
コメント(14)
クロニクル シンザン三冠馬となる1964(昭和39)年11月15日64年は東京オリンピックの年、1ヶ月前の10月15日は、五輪の熱戦の最中でした。そんな48年前のこの日は日曜日でした。この日、京都競馬場で開かれた第25回菊花賞で、栗田勝騎手が騎乗したシンザンが、1着でゴールインしました。皐月賞、ダービーに続いて、4歳馬のクラシックレース三冠を達成した瞬間でした。追いすがるライバル達をかわして、2着に2馬身半もの差をつけての圧勝でした。三冠達成は、セントライト以来、23年振り,史上2頭目という快挙でした。しかし、シンザンの強さは、その後もさらに勝ち続けたことにあります。翌年は天皇賞と有馬記念を制し、生涯通産成績は19戦15勝、敗れた4回はいずれも2着と、3着以下に敗れ去ったことが1度もなかったのです。そんな脅威的な成績を残して引退しました。まさに幻の名馬と称された所以ですね。
2012.11.15
コメント(14)
クロニクル 浜口首相狙撃さる1930(昭和5)年11月14日82年前のことです。この日、岡山で行なわれる陸軍の大演習を視察する目的で、東京駅9時発の特急「ツバメ」に乗車しようと、東京駅の4番ホームを歩いていた浜口雄幸首相が、右翼団体に所属する男に、拳銃で腹部を撃たれ重症を負いました。首相は秘書官らの手で、貴賓室に運ばれましたが、偶然、新任の広田弘毅駐ソ大使を見送るために、東京駅に来ていた幣原喜重郎外相が見舞いにかけつけると、首相は「これぞ男子の本懐なり」と語りかけたと言われます。この話を幣原外相から聞いたマスコミ各紙が取り上げ、「男子の本懐」は瞬く間に、大流行語になりました。さしづめ今なら、流行語大賞間違いなしだったでしょう。さて、浜口首相は奇跡的に一命を取りとめましたが、この時の傷がもとで、翌年8月26日に62才で死去します。満州事変が始まる23日前のことでした。
2012.11.14
コメント(10)
クロニクル 反タリバン勢力カヴール占領2001(平成13)年11月13日11年前のこの日、アフガニスタンで、反タリバン勢力の北部同盟が、首都カヴールを制圧しました。アフガニスタンでは、1988年のソ連軍撤退後、各地に割拠した軍閥勢力による争いが絶えず、内戦状態が続きましたが、この状態に終止符を打ち、内戦を終らせて治安を回復したのが、イスラム神学生を中核としたイスラム原理主義勢力のタリバンでした。9・11事件後、米国はアフガニスタンのタリバン勢力への報復を決意、10月7日から同国への空爆を開始、北部同盟などタリバンとの戦いに敗れて武装解除されていた、各地の軍閥に武器を供与して、タリバンとの戦いの先兵に仕立てたました。しかし,アメリカのこの行動は、時計の針を逆戻りさせ、折角誕生したタリバン政府の、治安回復の努力を否定して、軍閥割拠状態に戻してしまったことにつきます。結果はどうなったか。再び内戦状態に逆戻りしてしまって、今日にいたっています。
2012.11.13
コメント(16)
クロニクル さよなら燈台守2006(平成18)年11月12日「おいら岬の 燈台守は 妻と2人で 沖行く船の 無事を祈って 灯を灯す灯を灯す…」佐田啓二と高峰秀子が主演した映画『喜びと悲しみも幾歳月』の主題歌、御存知の方も多いと思います。三島由紀夫の『潮騒』にも、燈台守の御夫妻と娘さんが脇役で登場しますね。この燈台守ですが、灯台信号の自動化の進行に連れて、次第に無人灯台に置き換えられて、オートメ化に職を奪われていきました。こうして、6年前の今日がやってきます。この日、長崎県の五島列島、五島市に属する男女群島の一つ、女島の灯台が自動化されました。この女島の灯台は、日本各地の灯台の中で、最後まで自動化されずに残っていた最後の灯台だったのです。ここに、国内の灯台全ての自動化が完了し、燈台守は姿を消すことになったのです。女島の灯台守氏は、この日をもって点灯業務を終えましたが、なおしばし、残務整理に日を費やし、12月5日に全ての業務を終え、灯台を離れました。
2012.11.12
コメント(20)
クロニクル 第1次世界大戦の終る1918(大正7)年11月11日94年前になります。この日、ドイツ革命によって成立したドイツ臨時政府は、連合諸国との休戦条約に調印、ここに1914年7月28日に始まった第1次世界大戦は、4年3ヶ月余の長期戦の果てに、ようやく終結しました。第1次世界大戦は、戦争末期の1917年11月(ロシア暦10月)には、戦時体制を維持する政治的・経済的耐久力を持ち得なかったロシアでは、国内の反戦・平和の世論の盛り上がりによって、社会主義政権が誕生する一幕があり、同じく18年には戦場を中心にスペイン風邪が大流行して、敵対する双の陣営で、多数の兵士が病死するなど、戦場以外でも多くの死者を出した戦争でした。戦死者・戦病死者の合計は相方合わせて850万人、負傷者は同じく2,100万人強と推計されています。敗れたドイツでは、1100万人の動員兵力に対し、死傷者は600万人に近いと推計されています。ドイツの総人口およそ6000万人と言われていましたから、国民の1割が傷つくか戦死したことになります。
2012.11.11
コメント(12)
クロニクル 紀元は2600年の祭典1940(昭和15)年11月10日72年前になります。時あたかも日中戦争が政府の度重なる不拡大方針の表明にも関わらず、統帥権の独立を楯にとった軍部の横車が幅を利かせて、拡大の一途を続けていた時期です。この日、皇居前広場を主会場として、政府主催の紀元2600年記念式典が、盛大に催されました。式典は天皇・皇后両陛下を初め、皇族・首相以下の閣僚・軍人・官僚・各国大使から、全国各地の代表者など、5万人が参加したと報じられています。この年、1940年は、『日本書紀』の記す神武天皇の即位日から、丁度2600年目にあたるとされ、年頭から各地で奉祝行事が相次いで行われており、重苦しい戦時下でありながら、奉祝ムードがなかば意図的に、盛り上げられていました。2600年記念式典は、その総仕上げでした。式典当日のこの日から、14日までの5日間、戦時下で禁止されていた神輿・山車・提灯行列などが特別に許され、祭り期間は昼酒も解禁されるなど、お祭り気分が大いに盛り上げられたのです。しかし、祭りの終わった15日には、大政翼賛会の名で、「祝ひ終わった、さあ働こう!」のスローガンが発表され、束の間の息抜きを楽しんだ国民は、終わりの見えない戦争への協力を強いられてゆきます。
2012.11.10
コメント(22)
クロニクル 日中LT貿易開始1962(昭和37)年11月9日ちょうど50年になるのですね。50年前のこの日、日本側代表高崎達之助氏と、中国側代表廖承志氏の間で、日中総合貿易に関する覚え書きが調印されました。2人のイニシアルをとってLT貿易と略されます。それから10年後の田中首相の訪中による、日中国交回復まで、日中間は近くて遠い国の状態が続くのですが、日中関係の改善をライフワークとする民間、財界、政界関係者らによる、様々な努力が、日中関係を止ぎらせることなく、細々ながら繋ぎ続けました。その中核に位置したのがLT貿易でした。日本側では、高崎氏の外に、政界の長老松村謙三氏、全日空の岡崎嘉平太氏らの名を、忘れることは出来ません。彼等は、現在の日中関係をどのように見ていらっしゃるのでしょうね。機会があれば、伺ってみたい気がします。
2012.11.09
コメント(12)
クロニクル 安保理、イラク査察要求決議2002(平成4)年11月8日ちょうど10年前のことです。この日国連安全保障理事会は、イラクの大量破壊兵器査察の完全実施を求める決議を採択しました。イラクは、5日後の13日に、決議受諾を表明、査察は4年振りに再開されました。この査察要求は、核拡散防止条約に添ったものでしたが、既に核兵器を保有する国々は、不問に付して問題としないのですから、査察を要求される国からすると、納得しがたい要求でした。ところで、決議を突きつけられたイラクの対応です。前年2001年9月11日に、米国で起きた同時多発テロ後、米国はアフガニスタン、イラン、イラクなど反米諸国への攻撃姿勢を強め、既にアフガニスタンへの攻撃に踏み切っていました。イラクは、米国の攻撃を避けようと考えたのでしょう。、国連の査察要求を受け入れたのです。しかし米国は、この査察結果に難癖をつけ、安保理の反対を無視して、翌2003年3月20日に、イラク侵攻に踏み切りました。「無理が通れば,道理引っ込む」式の米国のやり方は、国際的な顰蹙を買い、国連の権威は大きく傷つきました。査察で、核兵器などないことを確認した米軍の攻撃に晒されたイラクがどうなったかは、御存知の通りです。そして、米軍のイラク攻撃を目の当りにした「北朝鮮」は、イラクの二の舞となることを警戒して、核兵器並びに核兵器の製造の場を、なんとしても守ろうとする姿勢をとり続けるようになりました。
2012.11.08
コメント(12)
クロニクル 第二次征長命令下る1865(慶応元)年11月7日147年前になります。この日幕府は、諸藩に対し第二次長州征伐のための出兵を命じました。同時に、芸州口、石州口、上関口、下関口、萩口の5方面からの進撃路を示し、従軍32藩の担当部署も発表しました。この時、薩摩藩では、長州征伐反対が藩論の多数派となり、西郷隆盛らの主張通り、幕府の出兵命令を拒絶しました。この行動が1つの呼び水となって、翌年1月の、薩長同盟の密約に繋がって行きます。
2012.11.07
コメント(10)
クロニクル GHQ財閥解体を勧告1945(昭和20)年11月6日67年前のこの日、GHQ(連合国日本占領軍司令部)は、持ち株会社の解体に関する覚え書きを日本政府に交付しました。当時の日本で、持ち株会社と言えば、誰もが財閥本社を連想しましたから、この覚え書きは、財閥解体の勧告であることを意味していました。GHQの狙いは、日本経済の民主化と非軍事化にありました。日本の軍需産業の大半は、財閥の支配下にありましたから、日本経済の非軍事化を強力に進めるには、財閥解体が欠かせないと、GHQは判断したのです。また、財閥解体に、独占禁止法を組み合わせることで、産業界のガリヴァー型企業を分割させることで、日本の経済を根底から民主化できると、考えていたのです。
2012.11.06
コメント(16)
クロニクル 宮沢内閣誕生1991(平成3)年11月5日21年前のこの日、鳩山首相より連続して続いてきた第15代目の自民党首相となる宮沢喜一首相が誕生しました。徳川将軍家も15代慶喜で終了したので、もしかしたらと噂されたのですが、政界再編気運の高まり、自民党の分裂などから、宮沢自民党は93年総選挙で多数派を構成できずに、野に下ることになり、細川連立政権に、政権を渡すこととなりました。その最後となった宮沢政権が誕生したのが、ちょうど21年前の今日でした。この時は、社会党との自社連立、社会党首相の容認というウルトラCを繰り出し、政権に復帰しましたが、2009年選挙では、記録的な大敗北で再び政権を失いました。それから3年余、民主党政権の失策で、次回選挙で三度政権に復帰するかのように見られていますが、さてどうなりますか。
2012.11.05
コメント(16)
クロニクル イランの大学生米国大使館を占拠1979(昭和54)年11月4日 もう33年も前のことになったのですね。この日テヘランの駐イラン米国大使館が、イランの最高指導者ホメイニ師を支持する学生たちによって占拠され、外交官とその家族を含む70人近くの米国人が人質とされました。イランでは、同年1月16日に高まる一方の革命運動におされ、国王パフレビーが国外に退去、2月1日には、革命運動の精神的支柱のホメイニ師が亡命先のパリから帰国、革命の勝利はここに決定し的となりました。パフレヴィーの王位は剥奪され、新政府を組織した革命派は、パフレヴィー前国王を裁判にかけることを決定、流浪の前国王の逮捕協力を関係各国に依頼したのです。やがて前国王は病気治療を理由にアメリカへ入国しました。アメリカは人道的見地から滞在を認め、イラン政府の引渡し要請を無視し続けたのです。学生による米大使館占拠は、このような状況の中で起こったのです。学生等は人質解放の条件として、前国王の引渡しを要求、即時解放を求めるアメリカと対立し続けました。ホメイニ師が学生たちを庇う姿勢を見せたためもあって、米大使館の占拠は1年以上も続き、ここにアメリカとイランの対立は決定的となって行きました。この情勢が翌年9月のイラクのイラン攻撃(イラン・イラク戦争)に繋がり、さらにイラン・イラク戦争が第2次オイルショックの因となっていくのです。
2012.11.04
コメント(16)
クロニクル 三洋証券倒産1997(平成9)年11月3日15年前のことです。三洋証券は、当時の野村、日興、大和、山一の4大証券は勿論、新日本証券のような準大手証券に比べても小ぶりな、中堅証券の1社でした。その三洋証券の倒産劇が、バブル崩壊のツケに苦しむ、日本の金融危機の深刻さを、一挙に明るみに出し、日本経済を金融恐慌の一歩手前に追い込んだのです。三洋証券が危機的状況にあることを知りながら、大蔵省の肝いりで救済されると信じ込んでいた地方の小さな金融機関(群馬中央信用金庫)が、10月31日金曜日のコール市場(超短期で金融機関同士が資金を融通しあう市場)で、三洋に対し10億円を無担保コール翌日物(3連休になりますので、返済予定は4日になります)として貸し付けたのです。コール市場は、プロ同士が超短期の資金を融通しあう、絶対にデフォルトすることのない、必ず返済されることを前提に、成り立っている市場でした。ですから、大蔵省が三洋証券の倒産を4日の火曜日まで延ばし、このコール市場での借金を返済させてから、会社更生法を申請させていれば、その後の嵐のような連鎖倒産劇は起きずに済んだのです。しかし、影響を軽く見た大蔵省は、コール市場での借金を踏み倒す形での倒産を選んだのです。少額のデフォルトなので、市場はそう気にしないであろうと甘く考えたのでしょう。しかし、これは大甘の観測でした。不渡りはないはずのコール市場での不渡りの発生は市場を凍りつかせました。誰もコール市場に資金を提供しなくなったのです。当時危ないと囁かれる金融機関はかなりの数にのぼったからです。市場で資金が取れなければ、支払い不能で倒産するしかありません。拓銀と山一の倒産は、まさしく三洋証券の倒産が引き起こした連鎖倒産でした。ここに日本の金融危機は、一挙にクライマックスを迎え、翌年の長銀と日債銀の破綻に連なってゆきました。長銀、日債銀の破綻から10年後、米国ではリーマンブラザーズが倒産し、10年前の日本と同じような金融危機が生じました。ただ、日本と米国の経済規模の違い、世界経済に占めるウェートと影響力の違いから、リーマンショックは世界経済を揺さぶり、ユーロ圏の危機に連鎖して、現在なお世界を揺さぶっていることは、御存知の通りです。
2012.11.03
コメント(14)
クロニクル 水俣病顕在化1959(昭和34)年11月2日53年前のこの日、水俣病に苦しむ不知火海の漁民等、約1500人が、新日本チッソの水俣工場に抗議のために押しかけ、工場内への立ち入りを拒む会社側と対立、怒った漁民達が工場内に乱入して、警官隊と衝突、双方に怪我人が出る騒ぎとなりました。足尾鉱毒事件に続く、広くかつ悲惨な公害病となった水俣病の存在が、世に知られるきっかけとなった事件でした。その後水俣病については、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を始めとする,優れた作品群によって全国に紹介され、次第に世の注目を集めるようになってゆきます。静かな内海、不知火海を公害の海に変えたのは、チッソの水俣工場が垂れ流した水銀でしたが、当時ようやく高度成長期にさしかかりつつあった日本経済の腰折れを懸念した政府は、企業を守りたい通産省の立場に配慮して、チッソの工場を擁護する姿勢に終始し、チッソの廃棄水銀との有為な関係の立証責任を漁民側に押し付けるなど、企業よりの姿勢に終始しました。
2012.11.02
コメント(14)
クロニクル 新千円札発行1963(昭和38)年11月1日新千円札と言っても、現在の野口英世像のものでも、その前の夏目漱石像のものでもありません。日本憲政史上、初代の首相となった伊藤博文の肖像を刷り込んだ2代目の千円札のことです。初代の千円札は、1950(昭和25)年1月7日に発行された、聖徳太子像の千円札でした。13年と10ヶ月使われました。49年前の今日、お目見えした2代目千円札の発行は、前年62年から急増した偽千円札への対応として決定したもので、偽札製造技術の進歩に背中を押される形で、新印刷技術の粋を集めて、簡単には偽札を製造できないように、いくつもの工夫を凝らしたものでした。この千円札は1984(昭和59)年の新札発行で、夏目漱石の新千円札に代わるまで21年間使用され、2004(平成16)年には更新され、丁度20年振りに野口英世の千円札に変えられました。
2012.11.01
コメント(10)
全30件 (30件中 1-30件目)
1