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対外試合が二種類あると言っても、実は勉学も大詰めを迎えているため、レギュラー選手だけですべての試合に出るわけにいきません。戦略としては、ケント州だけの大会には準一軍のメンバーで臨み、全国大学選手権のほうは1軍メンバーで臨むことになりました。ただし、私も最初のころはケント州の大会にも出場しました。ピーター・モンローという米国留学生と組んで戦いましたが、結果は私たちのペアは2勝1敗だったでしょうか。対戦相手もよく覚えていません。 大学選手権のほうは、もっと鮮明に覚えています。最初にどこかの単科大学に簡単に勝利して、次にブライトンにあるサセックス大学と敵地のコートで当たったのですが、私たちのペアは1勝2敗で、全体でも3勝6敗か4勝5敗で負けてしまいました。覚えているのは、テニスコートが室内コートだったことです。風船のように空気をドームに入れて膨らませ、泡(バブル)の膜でとり囲むように、内部と外部を遮断することから、バブル方式のテニスコートと呼んでいました。ですから室内に入るときは二重扉を開けて入ります。慣れていない、球足の速いテニスコートだったこともあり、負けてしまいました。 だいたい試合があるのは土曜日か日曜日なのですが、ケント大学からサセックス大学まではイアンかだれかの友達がレンタルしたバンを運転して、送り迎えしてくれました。ちょっとしたハイキング気分で試合に出かけるわけですが、負けたときはがっかりして疲れてケント大学まで戻ってくるわけです。ケントからブライトンまでは近いので日帰りの遠征旅行でいた。 1敗を喫したことから、私たちは次の週から敗者復活戦の旅に出ることになりました。 次に当たる相手は、イギリス南西部の有名な観光地にあるバース大学です。温泉のローマ風呂の遺跡がある場所ですね。もちろん、もともと温泉風呂「バース」があるところに古代ローマ人もローマ風呂をつくったわけで、先住民のころから温泉保養地だったのだと思われます。バースはケントからは遠いので一泊二日の遠征の旅となりました。 (続く)
2022.05.31
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4月22日水曜日。最後の学期であるトリニティ・ターム(Trinity Term)が始まりました。6月25日までの約2か月間あります。実はこの2か月というのは、論文を書いたり、試験を受けたりする期間なんですね。今までのように、毎週リーディング・アサインメントがあって、講義やセミナーなどがあるという形式ではありません。 先生によってどのような形式にするかは異なりますが、ヨーロッパ演劇のコースで私の担当教官になってくれたクライヴ・ウェイク助教授は、私が書こうとしているサムエル・ベケットの作品の中から私が毎週一つ読みこなして、その作品についての分析をマン・ツー・マンで指導してくれることになりました。 これは非常に助かりました。ベケットの作品を一つ一つ深く掘り下げることができたからです。ウェイク助教授は本当に丁寧に教えてくれるので、私も次から次へとアイデアが浮かんできます。ベケットの作品全部を取り上げることはできませんでしたが、主だった戯曲は全部取り上げたように記憶しています。 その作品を読み解く作業が大体4週間続きます。そして、論文を書く時間を二週間もらって仕上げ、その一週間後にウェイク助教授に直接会って、論文を講評してもらいながらグレードをつけてもらうというのが一連の流れでした。 これまでの二学期は、毎週毎週、3コースのリーディング・アサインメントに追われ、四苦八苦していたのが実情でした。宿題が毎週きついので、「大学を卒業したらもう二度と勉強するものか」と思ったのも、最初の二学期でした。でも、最後の学期は、自分のペースで論文作成に集中できたので、非常に楽しかったです。 論文作成と同時に忙しかったのは、実は大学のテニス部の代表チームのメンバーとしてテニスの対外試合が次々と入ったことです。対外試合には二種類あって、ケント州の中だけの団体戦と、全国の大学チームの対抗戦・トーナメントです。 代表チームのメンバーは6人で、試合はダブルスだけで行われます。つまり双方3ペア同士の総当たり戦で9試合を一日で行い、一勝でも多く勝ったチームが勝ちとなります。つまり9試合中5勝以上したほうが勝つわけですね。我々の代表チームは、ジョンとマシューの英国・ポーランドのコンビ、デイヴィッドとグレアムの米国・英国のコンビ、私とイアンの日本・ウェールズのコンビという国際色豊かなチームで試合に臨みました。 (続く)
2022.05.30
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復活祭の夜は、“侵入者”に脅されることも邪魔されることもなく、翌20日の朝までぐっすりと眠ることができました。朝の陽射しを浴びると、昨夜の不気味さがまるで嘘であったかのように消失しておりました。さて、今日こそイギリスに戻ります。インターレイルのパスはもう使うことができませんから、切符を買って、フェリーの発着港があるカレーまで行かなければなりません。宿泊したアラスからカレーまでは1時間弱くらいだったでしょうか。金額的には大したことはありませんでした。 フェリー乗り場では嬉しい驚きが待っていました。何とエレンやマリ・ノエルといったフランス人留学生と一緒のフェリーだったんですね。一足早い、同窓会に遭遇したような気分です。皆、春休みは楽しく過ごしたようです。私だって、旅の最中は大変な思いをしていましたが、後になってから振り返ると、本当に楽しい旅だったと思います。 ドーヴァーまで彼女たちとおしゃべりをした後、別々にケント大学に向かおうとしたら、彼女たちもヒッチハイクをしてみたいと言い始めました。驚いたのは私です。確かに私は、パスの有効期限が切れたこともあり、ヒッチハイクで大学のあるカンタベリーまで行くつもりでしたが、若い女性にはあまりお勧めとは言えなかったからです。 街中では成功する可能性が低いので、とにかく町の外に出るのに一時間は歩くし、結局二時間くらい待つから大変だよと説明すると、納得して、彼女たちは電車を使うことになりました。 私は一人でヒッチハイクにでかけ、何回か車を乗り換えて、無事大学に着くことができました。もちろん彼女たちのほうが到着は早かったはずです。 今回は予め、大学の寮の予約をしてありました。新学期が始まるのが4月22日でしたから、20、21日と二日間早く入寮することになりました。 例によって、寮に辿り着くや否や爆睡状態。二日間は一か月の旅の疲れを取ることに専念したと記憶しています。 (続く)
2022.05.29
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あまり手入れする時間がないのですが、我が家の薔薇が良く咲いております。小さな赤い薔薇も咲いておりましたので、今度ご紹介いたしましょう。今日は忙しいのでこれだけです。
2022.05.28
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アラスのユースホステルに着いたのは、午後9時近かったと思います。 もう遅かったですが、何とかチェックインできました。 気づいたのは、町が異様に賑やかなことです。人であふれかえって、いろいろな屋台が出て、音楽が鳴り響いています。 どうやら1981年の4月19日はイースター、すなわち復活祭が町を上げて開催されているようでした。 復活祭は、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶するお祭りです。 多くのキリスト教においては最も重要とされる祭りとされているんですね。 道理で賑やかに盛り上がっているわけです。通常、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われます。 それに対してユースホステルの中はあまりにもガランとしているので、皆出かけているのかなと思って受付の人に聞いたら、何と宿泊者は私一人だとのこと。 前年12月31日のブリ―ヴよりも寂しい宿泊となりました。 とにかく急いで列車を乗り継いだりしたので、この日は夕食を何も取っていませんでした。 そこで、お祭り騒ぎの街中に一人で繰り出して、何か食べるものがないかどうか探すことにしました。屋台がたくさん出ていたので、食べ物を探すのに苦労はしませんでした。 何か焼き肉を挟んだサンドイッチのようなものを食べた記憶があります。 空腹が解消されたので、少しだけ街中を散歩します。 しかし、あまりの人の多さに疲れてしまい、すぐに宿に戻ることにしました。 私のほかに誰も宿泊客がいないユースホステル。 外が賑やかなだけに、人気のない異様な静けさの中にいると不気味な感じがします。 大ホールのように大きな部屋に一人だけで寝るのは、本当に気味が悪かったです。 というか、夜だれかが忍び込んできてもわからないような防犯上の問題点もありました。 そこで大部屋の入り口のドアが寝ている間に開かないように、あるいは開いても私がわかるように、私が寝る予定の二段ベッドをドアのそばまで移動させて、近くにあったロープでドアノブに括りつけてドアが開かないようにしました。 仮に誰かがドアを開けようとしても、私が寝ているベッドがドアに連動して動きますから、私が気づくはずです。 これで少し安心です。 後は誰も深夜に忍び込んでくることがないように祈って、眠りに就くだけです。 かくして、旅の最後の夜を、イースターで湧くアラスのユースホステルで、一人静かに過ごしました。 (続く)
2022.05.27
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インターレイル・パス有効期限の最終日となった4月19日の日曜日。 私はシェルブールからイギリスへ渡ろうと、サン・マロのユースホステルを出発しました。インターレイルの記録を見ると、サン・マロ駅ではなく、少し離れたディナンという駅から電車に乗ったことになっています。推測するに、ホステルで出会った人にディナンまで車で送ってもらったのだと思われます。ディナンからシェルブールまでは五時間くらいでした。 シェルブールといえば、1964年のフランス映画『シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)』でも有名な港町ですね。全編音楽のみで他の台詞が一切ないミュージカルで、カトリーヌ・ドヌーヴの出世作(ただし、歌は吹替)となりました。 地図を見ると、シェルブールからイギリス南部のポーツマス行きのフェリーが出ていることになっています。映画の舞台となった場所に一度行ってみたいと思っていたので、ほかに何も考えずに、単純にシェルブールを出発港に選んだわけです。 シェルブールに着いたのは、午後2時半頃でしょうか。余裕でフェリー乗り場へと向かいます。 ここに大いなる誤算がありました。チケット売り場でイギリスまでのフェリーのチケットを購入しようとしたら、何とその日はイギリス行きのフェリーは出ていないというんですね。私はてっきり、ドーバ―・カレー間と同様に一日に何本もフェリーが出ているのだと思い込んでいたわけです。しかも、一週間に2、3本しかポーツマス行きはなく、次の出発日まで3日ほど待たなければいけないと言われる始末。それでは新学期に間に合いません。旅の最後の日に大失敗です。 私はシェルブールからイギリスに戻るのは諦めて、カレーからのフェリー・ルートに急きょ変更。パスの有効期限が切れるこの日のうちになるべくカレーの近くまで行こうと決断しました。すぐにシェルブールの駅に引き返し、パリ行きの列車に乗り込みます。 パリまでは4時間ほどかかりますから、パリのセント・ラザール駅(St-Lazare)に着いたのは、午後7時頃でしょうか、すぐにパリの北駅(Paris Gare du Nord)に移動して、カレー行きの列車に飛び乗ります。 その時、既に午後8時くらいになっていたと思います。そのままカレーに行くこともできなくはありませんでしたが、午後10時を確実に過ぎてしまいます。午後10時から宿屋を探すよりも午後9時前に途中下車して、宿屋を探した方が楽なように思えました。正直、一か月の旅行で疲れ切っていましたから、とにかくなるべく早くベッドで横になりたいという気持ちはありました。 ユースホステルの地図で確認すると、パリとカレーの中間地点のアラス(Arras)という駅のそばにユースホステルがあることがわかりました。そこでとりあえず降りて、ユースホステルに泊めてもらうことにしました。 (続く)
2022.05.26
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アマゾンに告知されていますが、2019年に出版されたシンクロニシティが文庫化されます。2022年版となりますから、データを新しくして、2019年当時のシンクロニシティの実例も2022年バージョンに差し替える作業をしているところです。アマゾンの告知はこちら。7月12日発売予定だそうです。それとは別に新しいプロジェクトが現在進行中です。決まりましたら、告知いたします。
2022.05.26
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4月18日の土曜日。まだ日にち的に余裕があると勘違いしていた私は、この日もブルターニュ地方に滞在することにします。目指したのはサン・マロ(St. Malo)。同地方でも有数の海辺のリゾート地です。かつては海賊たちの基地であり、城壁を巡らせた要塞港としても使われ、第二次世界大戦中はドイツ軍によって重要拠点として占拠されていました。 そのサン・マロまでのラニヨンからの移動距離と時間は、電車で107キロ、3時間半ほどでした。一度レンヌまで南下して、それから北上しなければならなかったからですね。 ルート地図はこちら。 サン・マロから東に35キロほど離れたところには、有名なモンサンミシェルがあります。 イギリスを含めた地図はこちら。 ブルターニュ地方がイギリスのすぐ近くであることがわかりますね。 サン・マロはとてもいいところだったように思います。 その時は写真を撮りませんでしたが、30年近く経った2010年11月14日にサン・マロを再訪したとき、写真を撮影したので、そちらをご紹介しましょう。 綺麗な風景ですね。 遠くには要塞都市サン・マロが見えます。 やはりユースホステルに泊まったと記憶しています。 (続く)
2022.05.24
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「水曜どうでしょう」でサイコロの旅をさせられていた大泉洋氏を見ればわかると思いますが、車中泊は本当に疲れるものなのです。四週間弱という短期間で11泊した私も、翌17日朝、ブレストに着いたときには、精根尽き果てた状態に近かったのではないかと思われます。というのも、ブレストに着いたときの記憶がほとんどないからです。 ブレストは港湾都市で、フランス最大の軍港とされていますが、私の記憶庫からは一切の映像も印象もでてきません。インターレイルの記録ではブレストで下車していますから、市中を散策したと思います。ところが、ネットで写真を見ても、まったく覚えがありませんでした。きっと寝不足と疲労でフラフラの状態だったのでしょうね。 疲れてはいたものの、ここで旅を止めるわけにもいきません。この日は、再び電車に乗り込んで、ブルターニュ半島の最西端から東へと折り返します。泊まった場所はラニヨン(Lannion)です。ブレストからラニヨンまでは80キロほどしか離れていませんから、電車で2時間ほどだったでしょうか。 ユースホステルは駅から歩いてもすぐのところにありました。小奇麗な観光都市という感じだったと思います。そこではとにかく爆睡したと思われます。観光をしている余裕はなかったはずです。足を思いきり伸ばして横になって眠れるのは、本当にありがたいことです。 翌4月18日。インターレイルの有効期限もこの日を入れてあと二日だけになりました。このとき、私の頭の中では、イギリスに帰るのは、カレーからではなく、同じブルターニュ半島にあるシェルブールからでも帰ることができると思っていました。地図にはシェルブールとイギリスを結ぶ航路が書かれていたからです。だから、焦ってパリに戻る必要はない、と高を括っていたんですね。 この考えが間違っていたと気づくのは、19日の期限最終日でした。その話はまた明日。 (続く)
2022.05.23
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4月16日の記録を見ると、ルクセンブルグからパリに着いた後、ヴェルサイユに向かっています。そう、あのヴェルサイユ宮殿の見学に行ったんですね。 ヴェルサイユ宮殿は、パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにあります。 1682年にフランス王ルイ14世が建てたフランスの宮殿で、ヴェルサイユ城とも呼ばれますね。ヴェルサイユ城駅から500メートル。歩いて簡単に行けました。 ヴェルサイユ宮殿の印象は、とにかく広いということです。後で調べたら、遠近法を使っているので噴水庭園越しに見る風景は、実物よりもはるかに広大に見えるように設計されているとのことでした。「自然を圧倒するかのような王の偉大さを見よ!」ということでしょうか。 「王の偉大さ」に圧倒された後、再びパリに戻ります。そして、なんとこの日もパリのモンパルナス駅から夜行列車に乗るんですね。本当に懲りない若者です。26泊中、船を含めた乗り物内の宿泊はこれで11泊目になります。半分近くが乗り物泊です。いくら何でもやりすぎ感がありますが、確実に宿泊代は浮かしていますね。 で、この日の夜の列車で向かった先は、フランス北西部のブルターニュ。それもブルターニュ半島の最西端にあるブレストという町でした。 (続く)
2022.05.22
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早いモノで、春休みが始まった3月20日にイギリスを離れてから、ルクセンブルグに宿泊した4月14日まで26日が経過しました。インターレイルの有効期限は一か月ですから、4月19日までにはイギリスに帰らなければなりません。あと残すところ5泊6日ほどですね。一週間を切りました。 思えば今回も厳しい旅となりました。アルプスでスキーをしたり、“火薬庫”のバルカン半島を列車で縦断したり、ギリシャの島に渡ったり。そして何と言っても、25泊中、8泊が車中泊、2泊が船中泊でしたからね。五日に二回は移動しながらの泊まりだったことになります。疲れるはずです。若いからこそできた離れ業でしょうか。 その疲れもあったからだと思いますが、ルクセンブルグには4月14日から16日まで2連泊しました。例によってどこに泊まったかは全く覚えていません。ただ二日目に電車を使った日帰り旅行をしたことがインターレイルの記録からわかります。ドイツのトリア(Trier)、コブレンツ(Koblenz)を経由して西ドイツの首都ボンにも行っています。Niederrheinとも書かれていますから、ライン川やモーゼル川の流域をぐるりと回ってきた感じでしょうか。ボンでは下車して、街中を歩き回った記憶があります。そのとき活躍したのが、旅先でドイツ人に教えてもらったドイツ語です。 次の二つの文章を習いました。Ich möchte gern Kaffee trinken. Ich möchte gern zum Bahnhof fahren. 上が「コーヒーを戴きたいのですが」で、下が「駅に行きたいのですが」です。 何か食べ物や飲み物が欲しいときと、駅への道を知りたいときに使いました。 相手が言っているドイツ語はほとんど理解できませんでしたが、身振り手振りで何とか意思疎通しておりました。もっとも旅好きのドイツ人は英語も話せますから、どうしてもというときは英語を使いました。 こうしてルクセンブルグに二泊した後の4月16日木曜日。再びパリを目指しました。 (続く)
2022.05.21
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フュッセン駅で、私は他の仲間と別れて、一人旅を続けることにします。向かったのは、同じくバイエルン州で、ロマンチック街道にあるローテンブルグです。タウバー川沿いにある町です。移動時間は5時間ほどだったでしょうか。アンスバッハ(Ansbach)とスタイナッハ(Steinach)を経由したとインターレイルのパスに書かれています。記憶にありませんが、結構、乗り換えが面倒くさそうなルートに見えます。フュッセンから北に向かう旅でした。 ローテンブルグも観光名所で、非常にメルヘンチックな町でした。しかしどういう訳か、それ以外に全く覚えていません。ユースホステルに泊まったかどうかもわからないんですね。表面的には非常に綺麗な町だったことだけは覚えています。 翌4月14日は、ローテンブルグから西に進路を取り、ルクセンブルグへと国境を越えました。ルクセンブルグから来たという同年代の若者に高校生のときに出会ったことがありましたが、そのときルクセンブルグがどこにあるかわからず、悪いことをしてしまいました。その記憶があったので、一度ルクセンブルグを見てみたかったんですね。 ルクセンブルグは立憲君主国で、議員内閣制の大公国です。南はフランス、北西はベルギー、東はドイツに隣接しています。ベルギー、オランダの二ヶ国とあわせてベネルクス(Benelux)三国とも呼ばれていますね。 非常に洗練された都市でした。この日は、首都ルクセンブルグ市のユースホステルに宿泊したと思われます。 (続く)
2022.05.20
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一般的にドイツのユースホステルは綺麗だったとの印象があり、フュッセンのユースホステルも同様で、清潔で快適だったと記憶しています。 で、ここに宿泊した人のほとんどが当日か翌日に訪れるのが、かの有名なノイシュヴァンシュタイン城です。ぐっすりと休んだ翌4月13日、そこをユースホステルの仲間たちと一緒に訪れることにしました。 ノイシュヴァンシュタイン城は、バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀後半に(1869年から1886年にかけて)建築されたお城で、フュッセンの東南東約4キロの場所にあります。フュッセン駅までは歩き、そこからバスでお城の麓まで行きます。そのバス停から30分ほど山を登ったところにそのお城はありました。 ノイシュヴァンシュタインは、ドイツ語で「新白鳥石」という意味で 「古きドイツの騎士城の真の姿」を復活させたいというルートヴィヒ2世のコンセプトに基づいて建設されたとか。白鳥がモチーフになったというその佇まいは美しく、ディズニーランドのお城のモデルになったとされています。 ルートヴィヒ2世は、大のワグナー・ファンで、神話に魅了された、ある意味ロマンチストともいえる王でした。しかし、それが高じて建築と音楽に破滅的な浪費を繰り返したため、「狂王」の異名を付けられています。音楽家や芸術家に愛された一方、プロイセンに対して普墺戦争の損害賠償を抱えていたバイエルン政府は、王による多額の公債乱発に危機感を募らせ、ルートヴィヒ2世を精神病鑑定にかけ、1886年6月12日に統治不能としてベルク城に軟禁します。 そして、実はその軟禁した翌13日、王は主治医とともにシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げます。二人とも水死体で発見されたんですね。非常に怪しいです。王がノイシュヴァンシュタイン城に居住した期間は、わずかに172日間だったそうです。 ノイシュヴァンシュタイン城を見学してからのフュッセンへの帰り道。バスが出発した後だったので、ユースホステルから一緒に行った仲間と、駅まで歩いて帰ることにしました。たぶん私を入れて2,3人だったと思いますが、坂道を下って行く途中に我々の前に赤いスポーツカーが停まります。オープンカーで、運転手は眼鏡をかけた20代くらいのドイツ人とみられる男性でした。 余りにも遠い距離を歩こうとしている我々を見て同情したらしく、彼は我々に「駅まで乗せてくよ」と言ってくれます。確かに駅まで歩くと、1時間はかかるかもしれません。喜んで申し出を受け入れて、赤いスポーツカーに乗り込みます。 そして、またまた、風を切り裂くように道路を滑走して、あっという間にフュッセン駅の近くに到着。「ダンケ・シェーン(Danke schön)」とドイツ語でお礼を言うと、向こうは「ビテ(Bitte)、ビテ(Bitte)」と返していました。拙いドイツ語しか知らない私は、それまでビテは英語いうと「Please」と同じだと思っていたので、この使い方は新鮮でした。日本語で言うと「どうも、どうも」「どうってことないよ」という感じでしょうか。 赤いスポーツカーの男性は、そう告げると、颯爽と風の如く去って行きました。 (続く)
2022.05.19
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富士山が雲海に沈んでおりました。遠くにいるからわかりますが、近くの人には雲しか見えないのでしょうね。頂上付近だけが雲から顔を出しておりました。5月14日の撮影です。
2022.05.18
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ここでフュッセンの紋章についても触れておきましょう。 フュッセンの紋章は、三脚巴という珍しい紋様です。こちらがその紋章。 三脚巴紋は、3つの渦巻きの組み合わせか、膝を直角に曲げた足が3本、脚の付け根を中心とした風車のように配置、組み合わせられた図形です。奇妙奇天烈な形ですね。NHKの大河ドラマ「いだてん」でも使われました。 実はこの紋章、トリスケリオン、またはトリスケルと呼ばれる伝統的な紋様で、フランス・ブルターニュやイギリスのマン島、それにイタリアのシチリア島などでも使われているシンボルです。その起源は諸説ありますが、古代ヨーロッパに散ったケルト文化の影響を受けたのではないかとみられています。ただしそのケルト人たちは、さらに2000年以上古い「ダーナ神族」とケルト神話に語られている人々の影響を強く受けています。その神族が巨石に刻んだとされる文様がこちらです。 アイルランドのニューグレンジの巨石遺構に刻まれた三つの渦巻き紋様です。約5000年前の遺跡です。後にケルト人が使った渦巻き型三脚巴の原型であったとみられています。 それが巡り巡って、ドイツのフュッセンの紋章につながったのかもしれません。ちなみにフュッセンの三脚巴には次のような意味が込められています。 「勤勉、正直、親切。この3つがあればしっかり地に足をつけて立てる」 ドイツ語では足の複数形がフュッセンとのことですから、三つ足の町ということでしょうか。三つの足でバランスを取れということになりますね。 一方、三脚巴を「紋章のシンボル」に使っているマン島のモットーは、次の通りです。 QUOCUNQUE JECERIS STABIT 「投ぐればいずくにでも立たん」 これも三つの立場とバランスの関係を表わしているように思われます。 日本でも八咫烏の足が三本であることと、深い関係があります。日本神話でも、アマテラスの日向族とスサノオの出雲族という二つの立場とは異なる第三の立場を八咫烏(カモタケツノミ)が担っていると考えられますが、これはまた別の機会にお話ししましょう。 (続く)
2022.05.17
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フュッセン市の中心からユースホステルまでは、ほぼ一直線の道で結ばれています。延々と続く一本道の坂道をひたすら登ると、ユースホステルに到着するのですが、その途中の眺めはなかなか良かったです。 市内をドナウ川支流であるレヒ川が流れており、その川はレヒ渓谷を下り、アウクスブルクを経てドナウ川に合流します。ドナウ川はそのままオーストリア、ハンガリー、バルカン諸国を流れて黒海に流れ込みますね。 さて、15分ほどでユースホステルに到着しました。結構清潔で広かったという印象が残っています。ただし、夕食の提供はなかったようで、この日の食料を買い出しに行かなければならなくなりました。ところが、この日は日曜日で、お店は食料品店を含め閉まっています。市内のレストランで食事をとるしか方法はないようです。 「往復30分かけて食事をしに行くかな」と思案していると、宿泊者の一人の男性の若者が「私も市内に食べに行くから、一緒にバイクで行こう」と言います。「えっ、バイク?」と戸惑っていると、宿屋の前に置いてある大きなオートバイを指し示しています。 どうやら二人乗りのバイクで行こうということみたいですね。「ヘルメットは持っているの?」と聞くと、もちろん持っていると言います。距離も近いし、「ならば大丈夫かな」と思って、オートバイの後ろに乗せてもらって町に繰り出すことにしました。 そのバイクは、いわゆる750cc(ナナハン)と呼ばれる大型バイク。私は当時、既に運転免許を持っており、日本では乗用車や原付バイクを時々運転していましたが、大型バイクに乗るのは初めてでした。乗り方を簡単に教えてもらって、ヘルメットをかぶり、前の運転手の左の腰あたりを片手で軽くつかみ、右手はグラブバー(後部シートに沿うように取り付けられた握り棒)を握ります。 エンジンをかけて出発。 初めてのナナハンは、本当にびっくりしました。あの振動はまさにマシンという感じ。坂道の直線を一気にスピードを上げて下り降ります。その時の爽快だったこと。まさに「風と一つ」になります。バイク乗りの人たちは、この風とマシンとの一体感が好きなのでしょうね。妙に納得してしまいました。 歩いて15分の道もバイクでは1分ほどです。あっという間にフュッセンの街中に到着します。ナナハンの感動が強すぎて、その後、どこで何を食べたのかも忘れてしまいました。きっとフランクフルト・ソーセージを挟んだホットドッグのようなものを食べたのだと思います。食事後は再びナナハンに乗り込んで、あっという間にユースホステルに到着。 その後もしばらく、ナナハンの余韻は続いておりました。 (続く)
2022.05.15
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今から思うと、あの時のミュンヘンが、私の旅の中で一番危険が迫っていた時かもしれません。そもそも、いきなり私に話しかけてくるのも、変です。そのドイツ人中年男性は、私が日本人だとわかると、ますます親しげな様子を見せて、私をお茶に誘います。さらには家に泊まって行かないかとまで言う始末。本当に親切な人だった可能性もなくはありませんが、かなり怪しいです。もう泊まる所は決まっているからと言って、丁寧に断りました。 後から聞くと、ドイツ(ミュンヘン?)にはその手の人が多いとか。危機一髪、だったかも。触らぬ神に祟りなしですね。 もちろん、その日は泊まる所など決まっていませんでしたから、その後、のんびりと宿屋を探したのだと思います。どこに泊まったかは覚えていません。ミュンヘンにはユースホステル三件もありましたから、多分そのひとつに泊まったのではないかと思っています。 ミュンヘンでは何事もなく過ごして、翌4月12日の日曜日。都会ではなく、ドイツの綺麗な田舎の景色を見に行きたかったので、この日はフュッセン(Füssen)に向かいました。 フュッセンは、ミュンヘンから南西に100キロほど離れた場所にある、いわゆるロマンチック街道の南の終着点、つまり観光の拠点ですね。オーストリアとの国境からは1キロしか離れていません。ミュンヘンからは電車で3時間ほどでしょうか。 フュッセンは、綺麗な町でした。目指すユースホステルは、駅から1キロほど離れた高台にありました。つまり15分ほど登り道を歩くということです。 (続く)
2022.05.14
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私にとってミュンヘンが、生まれて初めてのドイツでした。 ミュンヘンはドイツ南部バイエルン州の州都です。ベルリン、ハンブルクに次いでドイツでは3番目に大きな都市で、ドイツを代表する世界都市の1つ。1972年にミュンヘンオリンピックが開催されたことで有名になりましたね。 旅先や大学で結構ドイツ人に会っているので、国の雰囲気にはそれほど違和感はありませんでした。ただ、9~11日にかけて車中二連泊の後ですから、疲れ切ってしまって、眠いこと眠いこと。電車が着いたのは朝でしたから、宿屋にチェックインすることも叶わず、公園かどこかで体を伸ばして昼寝することにしました。 駅で地図を見つけて、公園を探します。すると、近くに緑地帯の公園があることがわかり、そこに向かいます。 15分くらい歩いたでしょうか。そこには芝生が広がる大きな公園がありました。何人か寝転がっている人も見かけましたから、ここなら昼寝ができそうです。 いつものように、リュックを枕代わりにして、スキー用のジャケットを掛け布団代わりにして横になります。4月上旬のドイツは、少し肌寒さが残っていました。それでも春の太陽が燦燦と輝いていましたから、すぐに体はポカポカになり、夢心地に。目を閉じると、ほどなく眠りに落ちました。 一時間くらい昼寝したでしょうか。少し疲れが取れたので、芝生の上に座ったままドイツの人たちがどのように過ごしているかを観察します。すると、ドイツ人とみられる一人の中年男性が私の方に歩いてきて、話しかけてきました。 (続く)
2022.05.13
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ヤマタノオロチ?・・・もちろん違いますが、八岐大蛇と見紛うばかりの枝ぶり。箱根の一本桜こと、巨大な大島桜です。大島桜は伊豆半島に多く見られます。5本の苗木を寄せ植えして、五倍の速さで大きくしたということです。伊豆で決起した源氏の白旗は、この花のイメージからという説もあるそうです。4月22日に撮影しました。今日は「欧州旅のブログ」はお休みです。
2022.05.12
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4月8日水曜日。カラマータで出会ったアメリカ人とはそれきりで、別々に旅をつづけました。この日は移動日です。今度はペロポネソス半島を時計回りでアテネまで戻り、アテネで電車を乗り換えて北上、ユーゴスラビアとの国境に近いテッサロニキ(Thessaloníki)に向かいます。エーゲ海のテルメ湾に臨む港街です。 テッサロニキは、マケドニア王カッサンドロスにより紀元前315年頃に創建されました。カッサンドロスの妻テッサロニカの名にちなんでいます。テッサロニカは、あのアレクサンドロス大王の異母妹で、ピリッポス2世の娘でした。カッサンドロスは、大王に憎しみを抱いていたとされ、後に大王の遺族をほぼ根絶やしにしてマケドニアの王位を奪っています。しかし、そのカッサンドロス朝も王の死後、滅んでゆきます。 まあ、とにかく戦争ばかりやっていた時代ですね。 この日はテッサロニキに泊まりましたが、どこに泊まって、何をしたかは全く覚えていません。翌9日は、旅先のギリシャ人に「綺麗な所だよ」と教えてもらった、オリンポス山の麓にあるカテリニ(Katerini)という海辺の町に行きました。駅から海辺までは約4キロと遠かったのですが、歩いて海辺まで行って、戻ってきたのを覚えています。 何時ごろかは忘れましたが、このカテリニ駅から夜行列車に乗って、ドイツのミュンヘンに向かいました。もちろんユーゴスラビア経由の長い鉄道の旅となります。列車はベオグラードで途中止まりましたが、今回は外には出ずに、そのまま電車に乗り続けます。 4月10日の夜も車中泊で、ミュンヘンに着いのは、11日の朝となっていました。 (続く)
2022.05.11
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5月10日。見上げると、家人が夢で見た半月が出ていました。写真のほぼ中央に浮かんでいます。上弦の月ですね。夢で見たのは、下弦の月だったそうですから、併せると満月!?まだ、どういう意味があるのかはわかりません。秋山氏の事務所に取材に行っているときに撮影しました。
2022.05.10
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4月7日の火曜日。オリンピアの宿屋を出て、電車で向かったのは、カラマータ(Kalamáta)という、ペロポネソス半島の南にある港湾都市でした。オリーブやイチジクの生産でも有名です。 どうしてこの場所に行くことになったかは、覚えていません。おそらく前泊した宿泊施設で評判を聞いて出かけることにしたのだと思います。電車の移動距離は約80キロ。2~3時間ほどでカラマータに到着したように思います。 実際に着いてみると、確かに活気のある、良い感じの綺麗な港町でした。しばらく散策した後、宿泊施設を探しました。この町にはユースホステルはありません。にもかかわらず、探すのに苦労した記憶がありませんから、事前に誰かに宿屋を紹介してもらっていたか、適当に探したらすぐに見つかったかのどちらかです。 ここで覚えているのは、多分宿屋で一緒になったのだと思いますが、若い女性の二人組と夕食を一緒に食べたことです。アメリカからヨーロッパに来て旅行しているという、20代前半とみられるアメリカ人女性たちで、一人は非常に気さくで、すぐに私に話しかけてきました。そしてほとんど知らないうちに向こうのペースで、レストランで一緒に夕食を食べることになりました。 宿屋から少し歩いた場所のギリシャ食堂みたいなレストランに三人で入ります。ところが英語のメニューがなく、三人とも何を注文すればいいかわかりません。そこで、厨房を見せてほしいと頼んで、料理のメニューを選ぶことになりました。港町ですから、おそらく魚介料理を選んだと思います。ビールかワインを飲みながら、三人で楽しく食事をしました。最後はもちろん割り勘です。 話した内容はほとんど覚えていませんが、ギリシャでは「ヤンキー・ゴー・ホーム(アメリカ人は国へ帰れ)」という反米的なスローガンの落書きをたくさん見るという話をしたことだけは覚えています。ギリシャの60年代から70年代にかけて、ギリシャの軍事政権を支援した米国に対する反感が背景にあったように思われます。 当時のアメリカの外交政策は、反共でさえあれば、軍事独裁政権を積極的に支援することも厭わない、でしたからね。韓国やチリでも、アメリカのお墨付きを得た軍事政権や独裁政権が民主化運動を激しく弾圧しておりました。反米感情が高まったわけです。 世界に旅に出たアメリカ人は、このようにして世界がアメリカをどう見ているかを、身をもって知ることができるわけです。アメリカ人だけでなく、日本人にも同じことが言えますね。私たちは、可能な限り海外へと旅に出て、自分たちの国を別の視点から眺める作業を心掛けるべきかもしれませんね――当時、そのようなことを思った記憶があります。 (続く)
2022.05.09
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ペロポネソス半島は、アテネの西南に広がる半島で、コリント地峡で本土に接続しています。半島の形としては、九州を左右反転させたような「お猿さん」の姿をしています。いったいどのような半島なのでしょうか。こちらがペロポネソス半島の地図です。 右上にはアテネがあります。 そのペロポネソス半島に向かう車窓から風景を見ていると、奇妙な感じに襲われました。まるで日本に帰ってきたような気持になるんですね。どうしてかと考えたところ、どうもこのスモッグに覆われた空の色が、当時の公害大国日本の空に非常によく似ていたんですね。実はエーゲ海の島々と違って、ギリシャ本土、特にアテネは、大気汚染が東京並みにひどいのです。さすがに当時の東京のように光化学スモッグはなかったと思いますが、どこまでも青い空などアテネにはありません。車の排気ガスや工場からの汚染物質の排出による大気汚染は当時の日本並みにひどかったのです。 それでもコリント地峡を過ぎて、半島に入ると、少しスモッグも薄くなります。瀬戸内海に面したオレンジ畑を進むように、列車は地中海的なレモンなど柑橘類が並ぶ風景の中を走って行きます。 半島の北のエギオという駅を経由して、時計の反対回りに海岸線を西に進みます。目指すオリンピアは半島の西にあります。アテネからオリンピアまでの距離は約188キロで、6時間ほどかかります。それでも朝が早かったので、午後2時か午後3時ごろにはオリンピアに着いたように思います。 こちらがオリンピアの当時のパンフレット。 オリンピアの駅のそばでは、スブラキという、日本の焼き鳥のような串焼きを食べた記憶があります。そのまま、パンフレットにあるような古代オリンピック競技場跡を見学。古代のオリンピック競技に思いを馳せました。「兵どもが夢の跡」みたいな感じでした。 その時は知る由もなかったのですが、私の前世では古代ギリシャの競技者であった可能性があります。それはまた別のブログシリーズでお話しいたしましょう。 その日(4月6日)は、おそらくオリンピアのユースホステルに泊まっています。あるいはギリシャは宿泊代が安い(1000円くらい)ので、駅のそばの安宿に泊まったかもしれません。どのような所に泊まったかは、まったく記憶にありません。 (続く)
2022.05.08
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クノッソス宮殿でイルカの壁画を見たときは、まさか将来イルカとお友達になれるとは思っていませんでした。でも人生とは面白いモノで、社会人になってから、ちょっとしたきっかけがあって、スキューバ・ダイビングをやるようになりました。 1994年の2月か3月にオーストラリアのケアンズでPADIのオープンウォーター・ダイバーの認定証を取得。96年5月にはグアムでPADIのアドヴァンスト・オープンウォーター・ダイバーの認定証を得ています。 後はほとんどカリブ海やタヒチのクラブメッド(地中海クラブ)でダイビングのお得パッケージ(11回のダイビングで約1万2000円)を使って、技術を磨きました。アドヴァンスト(上級)の認定証を持っていると、カリブ海などでは自己責任でかなり自由に、かつ水深30メートルまで潜らせてくれます。こうして最初の50~60本まではすべて海外でダイビングをしていたのですが、2000年に初めて日本の海でも潜りました。それが拙著でもたびたび写真付きで紹介している与那国島の海底遺跡であったわけです。 さて、クノッソス宮殿を見た後は、クレタ島に別れを告げて、4月5日の夜のフェリーに乗って、ギリシャ本土のピレウスへ戻ることにしました。来たときと逆で、午後9時ごろイラクリオンの港を出航して、翌朝6時か6時半ごろピレウスに到着します。またしても、宿泊代の節約を兼ねて船で一泊したことになります。 ここからは再びインターレイル・パスの記録が記憶を補ってくれます。4月6日の朝ピレウスに到着した私は、再び鉄道に乗っています。向かった先は、ペロポネソス半島の北西部にあるオリンピアです。言わずと知れたオリンピック競技の発祥の地とされる都市ですね。 (続く)
2022.05.07
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今日は雲が赤く染まり、富士山の陰影が綺麗でした。久しぶりに富士山がよく見えています。富士山の手前には、線状の雲がたなびいていました。空は本当に真っ赤です。美しい照り返し。紫と赤の競演。幻想的なひと時でした。
2022.05.06
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私が最初に海でイルカに出会ったのは1997年。西インド諸島タークス・ケイコス諸島のジョジョという名のハンドウイルカでした。本当に人なつっこい野生のイルカで、ダイビングボートの後をつけてきたり、人間の周りで泳いで見せたりしていました。ジョジョにとっては、人間は友だちなんですね。 2001年4月には、モルジブ・バア環礁にある「ムサフシ・ドロップオフ」でイルカを目撃しました。小さな島の壁に沿って50分ほど潜り、水深5メートルの海中で安全停止(減圧症の予防のため、浮上前に水深5メートル位のところで3~5分停止し、体内に溶け込んだ窒素を排出してからエキジットすること)をしているときです。 何気に沖の方を見ると、ちょうど私たちと同じ水深のところに巨大な物体が浮かんでいるのが視界に入ってきたんですね。よく見ると、イルカでした。見た瞬間、結構大きく見えたので、最初は小型のクジラかと思ったほどでした。全部で5頭、私たちを横目で見て、くねくねと泳ぎながら沖の彼方へ消えてゆきました。後で調べたら、コビレゴンドウのようでした。 2002年12月のタヒチ・ツアモツ諸島のランギロアでは接近遭遇をしています。ランギロアのダイビングは豪快で、パス(リーフの切れ目などの流れの速い水路)を流れる強烈な潮の流れに乗ってジェットコースターのようにドリフトします。海中で流れに乗る際は、ガイドから離れたところにいると別の流れに乗ってあらぬ方角へ流されてしまいますから、ガイドから半径5メートル以内の場所に集まらなくてはなりません。ガイドの合図で、皆がいっせいにパスの流れに身を投じるわけです。 流れに身を任せたら、もうどうすることもできません。じたばたしても流れには逆らえないので、ひたすら流されます。しかも、かなりのスピードです。 イルカはその移動中に現われました。私が遠くを見ていると、後方からいきなり私の頭上1メートルぐらいのところを跳び越して前方にハンドウイルカが出現したんですね。ハンドウイルカは、水族館や映画などでもっとも頻繁に親しまれてきたイルカです。さらに2頭のハンドウイルカが私の足元から私を追い越して前方に現われ、計3頭になりました。 このような激しい流れであっても、3頭はまったく意に介さないようです。流されて遠ざかる私たちを尻目に、3頭はパスを自由自在に泳いでいました。 その二日後、今度はパスのそばにある珊瑚の棚の上でダイビングをしていると、再び3頭のハンドウイルカが現われます。私たちのすぐそばまで来て、これ見よがしに水中を駆け巡ります。スピンしながら垂直に上昇したり、猛スピードで回転してみせたりします。彼らのショータイム! 明らかに私たちを意識して遊んでいるようでした。3頭は一通りの芸を私たちに見せると、そのまま猛スピードで泳ぎ去ってゆきました。 前にも紹介していると思いますが、その時の写真がこちら。 今でも私の家に家宝として飾ってあります。ギリシャ神話で神の使いとしてイルカが重要な役割を演じているのも、よくわかります。 (続く)
2022.05.05
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ギリシャ神話でイルカは、海の神ポセイドンの忠実な僕のように描かれます。 一番単純な物語は、ポセイドンの結婚物語に登場するイルカでしょうか。海神ポセイドンは女神アンフィトリーテを后に迎えようとしましたが、女神はポセイドンを嫌って海の彼方に逃げてしまいました。そこでポセイドンはイルカを使者として派遣、言葉巧みに女神を口説き、連れ帰ることに成功しました。海神と女神は結婚。その功績を認められてイルカは空の星座に挙げられたというものです。 クレタ島と関係のあるイルカ神話もあります。ミノス王が、アテナイの王子テーセウスがポセイドンの子であると言ったことを疑い、自分の指輪を外して海に投げ入れ、「ポセイドンの子なら指を見つけることができるはずだ」と言って、探させます。テーセウスが海に潜ると、イルカがやってきて、彼をポセイドンの王宮に連れてゆきます。そこでポセイドンの后アンフィトリーテがテーセウスに、ミノス王の指輪と深紅の外套、花冠を授けたとされています。日本神話でいえば、山幸彦・海幸彦の話で、海に落とした釣り針を魚たちに探させた綿津見神の御姫様(トヨタマヒメ)がアンフィトリーテと重なりますね。ギリシャ神話のイルカはさしずめ、日本神話の亀でしょうか。 ギリシャ神話で最も有名なイルカの物語は、紀元前7世紀の吟遊詩人アリオンを助けたイルカの話でしょう。レスボス島生まれのアリオンがシチリア島などの音楽コンテストで優勝し、たくさんの賞品や報酬を手に入れました。海を渡って故郷に帰る際、船乗りたちが彼の報奨金に目がくらみ、強奪してアリオンを殺害しようとします。観念したアリオンは死ぬ前に琴を弾かせてほしいと船員たちに頼みます。願いはかなえられ、曲を弾き始めると、イルカたちが集まってきます。そのイルカたちは、曲を弾き終わって船から海に身を投げたアリオンを助け、陸地まで運んだということです。 ギリシャの人たちにとって、イルカは昔から本当に身近に存在した「神様の使い」みたいな存在だったんでしょうね。 さて、私とイルカとの出会いですが、水族館ではなく、自然界の海でも何度も遭遇しています。世界中の海でダイビングをしていましたから、船の上から見ることはもちろん、水の中でも出会っているんですね。 次回はその話をして、次に進みましょう。 (続く)
2022.05.04
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ところで、ミノタウロスとは本当に怪物だったのでしょうか。八岐大蛇は、八つの山と川を支配する越王(しかも、「正統竹内文書」によると、八つの国を統治する越の女王ヌナカワ)のことだったのではないかと考えられています。ミノタウロスも、ミノス王の娘の婿養子で、雄牛のように力の強い武将であった可能性はありますね。 神話のことですから、ミノア王やテーセウス王が実在したかはわかりません。でもトロイア遺跡の例もありますから、史実が反映されている可能性はかなり高いと思います。敵将を怪物にたとえるのはいつの時代でも同じ。日本でも米国(と英国)を鬼畜と呼んでいました。 さて、クレタ島を離れる当日かその前日、そのミノス王の迷宮と言われるクノッソス宮殿を訪ねました。印象的だったのは、北門付近の建物の壁面に赤く描かれた雄牛。クレタ島を攻めたミケーネ人にとっては、まさミノスの赤鬼に見えたに違いありませんね。紀元前約1450年にミノア文明が滅びた後も、クノッソス宮殿だけは紀元前1350年ころまでミケーネ人が使用し続けたそうです。 このほかに私の印象に残っているのは、イルカの壁画です。王妃の間の壁に描かれています。ギリシャでは、イルカは「国の動物」といえるほどよく話に登場します。同様にイルカは、その後の私の人生でもたびたび現れます。 昨年(2021年)9月30日に閉館した神奈川県三浦市の水族館「京急油壺マリンパーク」では、2009年ごろ水槽の下方の小さな窓に頭を付けて試しにテレパシーを使ってバンドウイルカを呼んだことがあります。すると、本当にすぐに飛ぶように駆けつけてくれました。 もっともこのイルカは「ジャンボ」という名の人気者で、普段は水槽でのんびりと泳いでいるそうですが、犬を見ると近くに駆けつけてジーッと眺めているということです。その記事はこちら。もしかしたら戌年生まれの私のことを犬だと勘違いした可能性はあります。 そこで今度は、人間で実験してみることにしました。鼎談を書いた後だと思いますから、おそらく2013年か14年ごろでしょうか。福島からわざわざ訪ねてきてくれた小学校の時の同級生ら三人に、テレパシー実験だとは言わずにテレパシーを送ってみました。すると、何とその場にいた三人が、送った内容を感じ取って、言い当てたんですね。これには送った本人が驚きました。ここでは詳しく説明しませんが、少なくとも、私が送ったエネルギーの性質が言葉を介さずに届いていたことは間違いありませんでした。ならば、イルカも私の気持ちを感じ取って、駆けつけてくれたのではないかと思っている次第です。 イルカの「ジャンボ」君には、テレパシーで何を送ったかと言うと「大好きだよ」という気持ちを送ったのです。それにすぐに反応してくれたのがうれしかったです。既にご紹介したように、ヒッチハイクでもこれに近いテクニックを使います。自分が悪い人間ではないこと、下心などもないこと、ただ純粋に乗せてくれたら本当にありがたいな、という謙虚で感謝に近い感情を常に送るように心がけます。すると、相手も不安がなくなり、「この人なら乗せてもいいかな」と感じるようになるわけです。 イルカも人間も同じです。テレパシーで交信することは可能なのです。そうした人間の心を理解するイルカは、ギリシャ神話にも登場しますね。 イルカの話はまだ続きます。 (続く)
2022.05.03
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クノッソス宮殿を有名にしたのは、ギリシャ神話です。 ギリシャ神話では、ミノス(ミノア)王はゼウスとエウロペの子として登場します。王位継承の証として立派な雄牛をくれるようにポセイドンに頼んだミノス王は、その雄牛を生贄に捧げると誓ったにもかかわらず、雄牛の美しさに目がくらみ、別の牛を生贄にしました。怒ったポセイドンは、ミノスの王妃が雄牛に恋情を抱くようにさせます。王妃は雄牛と通じて子供を産みましたが、その子供は何と人間の体に牛の頭が付いた怪物だったんですね。これが、ミノスの雄牛「ミノタウロス」です。 これを知ったミノス王は、発明家のダイダロスに命じて迷宮を造らせ、ミノタウロスを閉じ込めます。その迷宮こそクノッソス神殿であったというんですね。 ギリシャ神話のミノタウロスは、日本神話の八岐大蛇を髣髴とさせます。当時クレタ島のミノス王の支配下にあったアテナイ(アテネの古名)は、毎年怪物ミノタウロスへの生贄として7人の若者と7人の乙女を捧げさせられていました。8人の娘を毎年、八岐大蛇に生贄として捧げなければならなかった話と酷似していますね。 日本神話ではスサノオが登場しますが、ギリシャ神話で登場するのは、後にアテナイ王となる王子テーセウスでした。生贄の話を聞いて憤りを覚えたテーセウスは、自ら生贄の一人となってクレタ島に乗り込み、迷宮の怪物を倒そうとします。このとき、テーセウスに恋をしてしまったのが、クシナダヒメならぬ、ミノス王の娘アリアドネでした。その恋ゆえに、彼女はテーセウスにミノタウロスを殺す手段と迷宮からの脱出方法を教えて助けるんですね。怪物を退治したテーセウスは、アリアドネを妻にすると約束、彼女とともにクレタ島を脱出、アテナイに向かいます。 ところが、帰路の途中、ナクソス島に寄った際、テーセウスはアリアドネを置き去りにして、船を出航させてしまいます。その理由は二つ考えられていて、酒の神ディオニュソス(バッカス)がアリアドネに一目ぼれして、レームノス島にさらってしまったという説が一つ。もう一つは、テーセウスがアリアドネに飽きたから置き去りにしたという説です。どちらかはわかりませんが、後者だとしたら、出雲神話の大国主とヤガミヒメの話が連想されますね。日本神話を書いた人は、間違いなくギリシャ神話も知っていたと思います。 さて、アリアドネを置き去りにしたテーセウスは、無事にアテナイに戻ってきました。しかし、無事に戻って来たときには喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していたことをすっかり忘れて、黒い帆のまま帰還してしまいました。これを見たアイゲウス王は息子がミノタウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海に身を投げて死んでしまいます。その身投げした海は、父王の名にちなんでエーゲ海と呼ばれるようになったそうです。 少しこじつけ的に地名の由来が説明されるところも、日本神話とギリシャ神話に共通する特色の一つですね。 (続く)
2022.05.02
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クレタ島南海岸の宿屋で出された夕食は、魚介類の煮物料理で非常に美味しかったです。さすが漁師の村の食事です。この日は、この宿に泊まっていたのは私一人でした。シーズンはこれからなのでしょうね。そして何よりもここが気に入ったのは、イラクリオンの喧噪とは全く違って、周囲が静かなことです。 疲れていたので、夕食後は部屋に戻ります。その部屋も大きくて、素敵でした。何しろ部屋のすぐ下は海。窓からは地中海が眼下に広がっています。 歯磨きをして、すぐにベッドに横になります。ようやく大の字で眠ることが出来そうですね。すぐそばから聞こえてくる、寄せては返す波の音によって、身も心も癒されます。ああ、幸せ。久しぶりの安楽、久方振りの安寧です。 夢心地ならぬ波心地の中、すぐに深い眠りに落ちると、夢の中で波に揺られながら命の洗濯をいたしました。 翌4月4日。すっかり英気を養った私は、この素晴らしい漁港の村を後にして旅を続けることにしました。 実は、クレタ島ではこの漁師の村に滞在した印象が強すぎて、翌日はいったいどこに泊まったか、覚えていません。ただし、ヒッチハイクで北東の方角に向かったことだけは確かです。当時の地図を見ると、漁港の村レンタスから北東に50キロほど離れたカステリという町のそばの山岳・丘陵地帯が丸で囲ってありますから、そこを目指した可能性はあります。でもいかんせんヒッチハイクですから、必ずしもそこに行き着いたかどうかはわからないんですね。 このほかにわかっていることは、クノッソス宮殿を見学に行ったことと、翌4月5日の夜には、再び夜行フェリーに乗って、クレタ島のイラクリオン港からギリシャ本土のピレウス港に向けて出発していることだけです。 いずれにしても、クレタ島にはもう一泊だけして、4日か5日の昼間に、クノッソス宮殿を見ています。 クノッソス宮殿は、イラクリオンの中心からバスで30分ほど走った場所にある、「ミノス王の迷宮」と呼ばれる宮殿遺跡です。ミノア王は、ギリシャ本土に先立ちクレタ島で花開いたミノア文明の伝説の王で、ミノア文明はその王の名にちなみ名づけられました。 ミノア文明はクレタ文明とも呼ばれますが、クレタ島を中心に紀元前2000年ころから始まったとされています。ところが紀元前1780年ころ、クレタ島は大地震に見舞われ、その後衰退。紀元前1450年ころには、ギリシャ本土のミケーネ文明の侵攻を受け、ミノア文明は滅びてしまいます。栄華を誇ったミノア文明を代表する遺跡が、このクノッソス宮殿というわけですね。 (続く)
2022.05.01
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