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昨日の散歩の際、シラサギが近くを通り過ぎて、遠くの赤松に向かって飛んでゆくのを目撃しました。これがその時の写真です。大きな羽をばたつかせて、アカマツの木に迫っているところです。そして赤松に枝の先のほうに着地。棒のように立っていますね。横を向くと、顔がよくわかります。それを拡大すると・・・目まではっきりと写っていますね。かなり遠くの(おそらく100メートル以上離れた)赤松なのですが、コンパクトカメラでこんなにはっきり撮影できたのが驚きでした。最後はあっち見てホイ。まさに高みの見物ですね。
2022.06.30
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午前中に原稿を出版社に送ったので、午後は久しぶりに散歩に出かけました。しかし、温度計を見てびっくり。何と39・5度を指しています。灼熱の太陽が照り付けています。堪らず、日陰を探して散歩することに・・・ここなら何とかなりそうです。しばらく歩いて見つけたのが、こちら。蓮の花ですね。暑さにも負けず、力強く咲いておりました。ちなみに本日送った原稿は、『最古の文明シュメールの最終予言』です。秋山眞人氏が著者で、私は協力者という形になります。協力とは何かというと、秋山氏を私が聞き手として取材して、その聞き取った話の構成を練って章立てにして、事実関係を付け足すなどして議論を補強、編集して本に仕上げます。それをさらに出版社が編集し、加筆が必要であれば、私や秋山氏が加筆、その後全員で校正して出版するという手順です。私は共著者というより、ほとんど編集者として協力します。新聞の作業でいうと、取材(聞き手)、編集、校正を担当するようなものでしょうか。その出版社の編集作業は来週からはじまります。出版予定は8月23日となっています。人類が直面する、驚くべき未来とシュメールの警告が明らかになります。
2022.06.29
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6月24日のUFO記念日には、広角レンズの付いた別のカメラでも空を撮影しておりました。今日はそれをご紹介しましょう。何とも迫力のある雲ですね。烈しく蛇行する雲。夕陽と雲の競演。そのまとわりつく雲の中から・・・夕陽が顔を出した瞬間です。空が激しく変化する一日でした。本日迄にほぼ原稿が完成。明日には出版社に原稿を送れそうです。
2022.06.28
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昨日は原稿の最終的な打ち合わせで、東京へ。東京に行くと、空が狭いなと感じます。それでもビル群の狭間に富士山が見えました。私の実家も東京ですが、昔は庭から富士山が綺麗に見えていました。今は林立するビル群に埋没しています。ちょっと寂しいですね。原稿の仕上げまであと3~4日です。
2022.06.27
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昨日(6月24日)は空が賑やかでした。最初は、クジラの尾を付けたような巨大な雲が頭上を通って行きました。次に吊るし雲たち。結構、派手に雲が飛び回っています。そして、三角形のような雲が登場。これもよく見ると、3段の吊るし雲ですね。最後は、このような羽根もしくはブーメランのような雲も出てきます。見ていて飽きないUFO雲たち。そうそう、昨日はUFO記念日でした。あと3日ほどで脱稿となる見通しです。
2022.06.25
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6月11日。久しぶりに山に登って下界を見下ろしたら、白い花を咲かせた大木が目に留まります。こちらです。たぶんタイサンボク(泰山木)だと思われます。私の通っていた中学の校庭にもありました。原稿のほうは、いよいよ大詰めです。
2022.06.24
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今日も雲の写真です。出目金のような雲に見えます。執筆活動のほうも、ようやく目途が立ってきました。まだしばらくは忙しいですけどね。
2022.06.23
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いつの間にか夏至も過ぎてしまいました。6月10日のことですが、目の前に面白い形の雲が見えたので撮影しました。こういう雲の造形は見ていて飽きません。気分転換にもってこいです。まだまだ、執筆活動は続きます。
2022.06.22
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新装改訂文庫版の『シンクロニシティ』の表紙が決まったようです。タイトルも少し変わって、『偶然の魔力 シンクロニシティで願いは叶う』となりました。こちらです。2019年出版の単行本ソフトカバーの文庫本化に伴い、2019年の事例が主だったのを2022年版用に最新の事例に改訂しています。7月12日発売の予定。詳しくはアマゾンをご覧ください。こちらです。→シンクロ文庫本
2022.06.22
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こんなところに神社が・・・林の中を歩いていたら、いきなり現れました。山神社と書かれています。非常にいい場所に置かれたと思います。しばらくの間忙しいので、写真ブログとなります。
2022.06.21
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今日も忙しいので写真一枚だけです。その写真がこちら。まるで森の中にいるようですね。新緑と紅葉の混在が面白いです。私のお気に入りの「癒しの空間」。時々、こういう写真を見ては、自分で自分を癒しております。
2022.06.19
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我が家の赤い薔薇です。枝はまだ小さいのですが、大輪を咲かせてくれました。この薔薇が、こんなに大きな花をつけたのは初めてです。そして、こちらも赤。異様に赤い夕焼けです。6月16日に撮影しました。忙しいので、今日はこれだけ。
2022.06.18
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前回はピンクの薔薇をご紹介したと思いますが、今日は白い薔薇です。たぶんアルバローズの種類ですね。こちらも同様。ほかにも深紅のビロードのような薔薇も咲いていました。我が家の薔薇の紹介でした。
2022.06.17
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アイルランドでのヒッチハイクは、予想以上にうまく行きました。アイルランドの人は、旅行者や若者や弱者にやさしい人たちが多いなという印象を受けました。アイルランド人自体が長い事、イギリス人の支配下、圧政下にあり、苦汁をなめさせられてきたことと関係があるかもしれません。とにかく、私のような貧乏旅行者に対しても、とても親切な人が多かったです。 ある時、田舎をヒッチハイクしていると、カトリック神父が車に乗せてくれました。神父も「ヒッチハイカーを自分の車に乗せるのは初めてだが、この国ではほとんどアジア人を見かけないので乗せたのだ」と説明していました。確かに当時、日本人の旅行者はほとんどいませんでした。25日間にわたるアイルランド滞在中、一人の日本人にも会わなかったのです。神父も人生で初めて日本人に会ったと話していました。 おそらく、西に向かって移動して、最初に宿泊した場所は西部の都市ゴールウェイ(Galway)だったと思います。ゴールウェイ港がある大きな都市です。アラン諸島への玄関口になっています。 ところが、大きな都市にもかかわらず、ここにはユースホステルがありません。そこで街中の安宿を探します。ほどなく安宿を見つけましたが、相部屋しかないけどいいか、と言われます。背に腹は代えられませんから承諾すると、小さな部屋に赤ら顔で陽気なオッサンと相部屋になりました。話しをしたら、とてもいい人だったので、一安心。 何の問題もなく、のんびりと安宿で過ごすことができたことを覚えています。とにかく安かったです。一泊500~800円くらいだったでしょうか。 だけど、ちょっとリスキーですよね。たまたまいい人と相部屋だったから良かったですが、どんな人と相部屋になるかわかりません。翌日からは、なるべくユースホステルがある場所だけに泊まることにしました。 (続く)
2022.06.16
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7月5日の日曜日。夕方にはフェリーはダブリン港に到着したと思います。 私はこの日から、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の結婚式があった7月29日までの25日間、アイルランドを旅しておりました。29日まではロンドンが大混雑するだろうと思って、直前までアイルランドに滞在することにしたわけです。ただし、カメラは重たくてかさばるという理由でスーツケースの中に仕舞ったままで持っていなかったので、まったくアイルランドの写真がありません。今日のようにコンパクトデジカメがあったら、撮影しまくっていたと思いますが、コンパクトカメラ自体がまだあまり出回っていなかった時代です。重たい一眼レフカメラを持ち歩きたくなかったので、致し方ありませんね。写真を撮らなかったせいもあり、どこをどう回ったかは、詳らかには覚えておりません。わかる範囲で、ブログに書くことにいたしましょう。 たぶん初日は、ダブリンのユースホステルに泊まったと思います。 そして翌6日、首都ダブリンを流れるリフィー川に沿って歩いたことを覚えています。リフィー (Liffey) とはアイルランド語で生命を意味するそうです。川沿いに並ぶ家々がとてもカラフルで、楽しかったです。 私は都会よりも田舎が好きだったので、その日は西に移動することに決めていました。 いつものようにしばらく歩いて、郊外に出ます。 そしていつものようにヒッチハイクで、アイルランドの旅をスタートさせました。 (続く)
2022.06.15
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ウィンブルドンの男子決勝が行われた翌日(7月5日)、電車に乗ってウェールズに向かいました。ウェールズの北西端にあるアングルシーという港からアイルランドの首都ダブリンに渡ろうと思ったからです。 そのルートで印象深かったのは、ウェールズです。列車は途中、ウェールズの山間部(スノードン国立公園?)に差し掛かりました。そして、とある山の中の駅に停まったのですが、どこを見ても霧だらけ。非常に幻想的な雰囲気だったのを覚えています。 そこでは、蒸気機関車に乗ったようなおぼろげな記憶もあるのですが、場所も蒸気機関車に乗ったのかも定かにはなりませんでした。 そうこうするうちに、アングルシーに到着。そこからフェリーに乗って、ダブリンに向かいました。 (続く) ところで、アマゾンで次の本の告知がありました。8月23日発売予定で、タイトルは『最古の文明シュメールの大予言(仮) 』です。 最古の文明シュメールの大予言(仮)緊急出版ということで、今必死に書いているところです。ブログが短いのはそのためです。
2022.06.14
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B&Bでは、私と同じように考えた人が3人ほどいました。たぶん3人ともイギリス人。彼らと仲良く揃って、ウィンブルドンの男子決勝をテレビ観戦です。 試合が始まりました。たいていのイギリス人はボルグを応援していたように思います。マッケンローのあだ名は当時、「悪童」でしたからね。すぐ審判に悪態を付くので、特にイギリス人から嫌われていたようでした。 もちろん、アメリカ人はマッケンローを応援する人が多かったです。 試合はストローク戦やパッシングショットに強いボルグと、強烈なスライスサーブとボレーを武器にするマッケンローの息詰まるような応酬で始まりました。そして第一セットはボルグが6-4で取ります。 しかし、ここからマッケンローが驚異的な粘りを見せて、第二セット、第三セットをタイブレークの末に取り返し、逆転します。 いつものように、時々マッケンローは怒りをぶちまけますが、この試合では最後まで冷静さを保っているように見えました。集中を切らすことなく、第四セットを6-4で取って、4時間近くに及ぶ熱戦に勝利しました。マッケンローは全英オープン(ウィンブルドン選手権)初勝利。ボルグの6連覇を阻止したわけですね。時計はもう午後6時を過ぎていたと思います。 テレビ観戦を堪能した後は、街に繰り出して、軽く夕食を取りました。B&Bに戻ってきても、まだ日は高く、明るかったです。イギリスの夏は夜更けになっても、太陽が空に残っているのです。 (続く)
2022.06.13
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荷造りを終えて、寮に残っている友達に挨拶して、旅に出ました。たぶん6月30日のことだったのではないかと思います。何となく、2、3日ロンドンに宿泊したような気がしますが、どのように過ごしたかは覚えていません。 確実に覚えているのは、ちょうどテニスのウィンブルドン選手権が開催されていたので、7月3日にウィンブルドンの男子準決勝を見たことです。見たといっても、当日のみ有効の一日1ポンド(500円)の自由席券ですから、センターコートは混んでおり、中の立見席のスペースに入ることすらできませんでした。替わりにセンターコートの外の掲示板で、中で行われていたボルグ対コナーズの試合で、コナーズが二セットを連取したことが報じられていたのを見たというだけの話です。一番安いチケットだと、人気の組み合わせの試合はほとんど見ることができません。 比較的空いている場所を探したら、第一コートのジョン・マッケンローとピーターフレミング組の男子ダブルスの試合が空いていました。スタンドの高みにある自由席で彼らの試合を観戦。見たのは、たぶん準決勝だったと思いますが、この年、彼らのペアがウィンブルドンで優勝しています。ちなみに男子シングルス準決勝で6-0、6-4と二セットを先取したコナーズは、その後、3-6、0-6、4-6とボルグに取られて敗退。決勝はボルグ対マッケンローの試合になりました。 センターコートや第一コート以外は、選手たちのプレーを身近に見ることが出来ました。ジュニアの試合などもやっており、テニス好きには結構お得な当日券かもしれません。 この日は、おそらく近くの安宿に滞在したと思います。そして、翌日の決勝戦もチケットを求めてウィンブルドンの会場に行ったら、当日券は長蛇の列となっていました。この段階で、会場に入ることを断念。近くのB&Bに早めにチェックインして、B&Bのテレビで決勝戦を観戦することにしました。 幸い、会場からそれほど遠くないB&Bに空きがあって、ウィンブルドンをテレビで見られることが判明したのですぐにチェックイン。試合開始(午後2時)の10分前くらいでした。他の宿泊客とともに、居間でウィンブルドンの決勝を観戦しました。 (続く)
2022.06.12
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帰国までの約1カ月間。まだまだやることはたくさんあります。 事務的なことでは、まず大量に購入した本を日本に送らなければなりません。スーツケースには入りませんからね。箱をどこかから調達して、できるだけ重たい本を詰め込んで、船便で送ることにしました。ただし、大事な論文に絶対必要だと思われる本だけは、スーツケースにいれて持ち帰ります。 銀行口座を解約しなければいけません。当時預金金利は結構高かったですから、ちょっと銀行に預金しておくだけでもかなりの利子が付き、助かりました。銀行はキャンパスの中にあり、私はロンドンに本拠を置くナショナル・ウェストミンスター銀行を使っていた記憶があります。 身辺整理もしなければなりません。古くなったり要らなくなったりしたものは捨てます。日本から持ってきたラジカセは、ヘッドフォン付きで「For Sale」の張り紙をつけて掲示板に出したところ2、3日で売却出来ました。 このラジカセには助けられました。今でもラジオでいろいろな番組を聴いたことを思い出します。日本から持って行った、ご機嫌な音楽カセットテープ!(CDがない時代ですからね)も、青春の思い出です。疲れた心を随分と癒してくれました。 イギリス人ら外国人には、日本の音楽をこのラジカセで紹介しました。小林克也がDJを務めた音楽テープは、ヨーロッパの人には特に人気でした。たいていの人は、「日本人が完璧なアメリカ英語をしゃべっている!」と驚いていました。 身辺整理もほぼ済ませ、ジュリーと会う日を7月30~31日と、日本へ帰る直前に設定。荷物を詰めたスーツケースはケント大学のダーウィン・カレッジに預けて、出発直前の31日に取りに来ることにしました。 これで身軽になりました。後は旅行の計画を練るだけです。 (続く)
2022.06.11
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非常に厳しく、そして楽しかったケント大学での学生生活も6月25日木曜日で終わりです。その後、ケント大学の予定としては、7月中旬ごろに卒業式が予定されていました。何と場所は、カンタベリー大聖堂で開催されます。イアンたちは卒業ですね。私は一年間の留学だけですから、ケント大学から学位はもらっていませんが、履修単位はもらいました。ですから、今でも同窓会の会員になっています。 で、私のその後の選択肢としては、簡単にいうと二つありました。すぐに日本に帰国して、就職活動を始めるという選択肢が一つ。もう一つは、もう少しイギリスに滞在して、見聞を広めるという選択肢でした。 当然、私が選んだのは後者です。まだイギリスでやり残したことがあったからですね。スコットランド旅行の後、会いそびれたペンパルのジュリーに会うこともその一つでした。 しかし、それよりも、私には帰りの航空チケットがなかったので、ロンドンで格安航空チケットを買いに行かなければなりませんでした。その航空券がないことには、計画をたてることができません。学期期間中だったか、学期が終わってからだったかは忘れましたが、ロンドンにチケットを買いに行きました。確か、大学の寮には6月いっぱい滞在できるようにしていたと思いますから、ケント大学から日帰りでロンドンにチケットを購入しに行った可能性もあります。 当時、格安チケットはソ連のアエロフロートと香港のキャセイパシフィックの航空券しかありませんでした。行きはアエロフロートの北周りでした。北周りは今でこそ最短距離を通れば12~14時間が飛行時間ですが、当時は17時間かかりました。それでも最短時間です。 ロンドンのチケットショップでも、アエロフロートのチケットを買おうとしたのですが、20万円を超えることが判明。15万円くらいに抑えるために、キャセイパシフィックの南周りの航空チケットを購入しました。日にちは8月2日ごろだったように思います。空港もヒースロー空港ではなく、ガトウィック空港でした。これが、後で大変なルートであったことが判明します。 それはさておき、これで帰国まで一か月間の余裕が生まれたわけです。どこに行くかはもう決めてありました。ジェイムズ・ジョイスやサミュエル・ベケットの故国であるアイルランドです。卒論にも役立ちそうですからね。 (続く)
2022.06.09
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学期末は6月25日ですから、残り三週間を切っていました。現代ヨーロッパ演劇コースの不条理劇をテーマにした論文も最終局面。マン・ツー・マンの指導を4週間受けた後、これまで学んだことを生かしながら、既にドンドン執筆を続けておりました。 では、ほかのフランス文学と英文学の入門コースのほうはどうしたのかというと、ウェイク助教授から「あれは一年生向けのコースだから、卒論を書くために来ている君はこの論文に専念すればいいよ」とのアドバイスがあり、あえて他の二つのコースは試験を受けないことにしました。ですから、新学期が始まってから6~7週間、この論文のためだけに時間を使っていたんですね。 たぶん論文の提出日は6月12日ごろだったと思います。その約10日後の22~24日ごろ、ウェイク助教授の部屋でその論文についての面談がありました。結構緊張する瞬間です。自分の論文がどう評価されるかを知ることになるわけですからね。 緊張した面持ちのまま、ウェイク助教授の前に座ります。 開口一番、「非常によく書けていたよ」とウェイク助教授。「グレードはAマイナス。イギリス人の学生が書いた論文と比較しても、いい出来だった」 それを聞いて嬉しかったですね。努力が報われました。思えば、英文学入門コースの最初のエッセイでギリギリ合格の低評価を得てから、ずいぶんしごかれ、鍛えられたように思います。そして最後に褒められて、終わりよければすべてよし、です。随分と自信になりました。自分の論文がイギリスの大学でも評価されたわけですからね。 親身になって指導してくださったウェイク助教授には感謝の言葉しかありません。本当にありがとうございました。 ああ、それにしても、もうあと何日かで一年間の留学生活も終わってしまうわけですね。 (続く)
2022.06.08
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さて、ホームゲームということもあり、皆意気込んで試合に臨んだのですが、対戦相手のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのペアが非常に強かったです。 結果を先に言うと、たぶん3対6くらいで負けました。もしかしたら2対7だったかもしれません。イアンと私のペアは一勝もできず仕舞い。セットオールで第三セットにもつれ込んだ試合や、相手のNO1のペアに対してタイブレークまで粘って健闘した試合もありましたが、結果は三戦全敗でした。デイヴィッドたちのペアは大健闘して、1勝か2勝したかもしれませんが、ジョンたちのペアでさえ、相手のNO1には勝てませんでした。完敗ですね。スタジアムでの試合は夢、幻と化したわけです。 ケント大学の学生新聞にこの日の敗戦のことが記事になったことを覚えています。手元に現物はありませんが、「Mr. Yasukazu Fuseのエネルギッシュなボレーなどで奮闘したが、残念ながら敗れた」というようなことが書いてありました。どこかの資料に紛れ込んでいると思いますので、今度その記事を見つけたら、ご紹介しましょう。敗れて褒められても、虚しいものがありますね。 こうして私たちのチームの“甲子園の夢”は終わりました。 ほぼ1カ月半にわたる大学チームとしての活動はこれで終了しました。この後は、学期末にむけての「追い込み」で皆忙しくなりますから、テニスをすることも出会うこともほとんどなくなりました。私も学期論文を書いてウェイク助教授に提出しなければなりません。提出期限は一週間後くらいに迫っていました。(続く)
2022.06.07
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ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとの試合はおそらく6月6日の土曜日だったのではないかと思います。と、書いてカレンダーを見たら今日が6月6日だったので、多分当たっています。今からちょうど41年前の話です。 話は脱線しますが、今回のこの1980~81年ブログを書き始めてから、かなり頻繁にシンクロニシティが起きています。ユーゴスラビアを縦断したときの話を書いているときに、かつてのユーゴスラビア紛争と同じような、スラヴ系同士の紛争がウクライナで始まりましたからね。 違うのは南か北かというだけです。また、ドイツのフュッセンでナナハンに乗ったときのことを書いたその日に、女性ライダーの映像作家さんと出会ったり、別件(『シンクロニシティ』の文庫本化)で小松左京の小説の話を書いたその翌々日くらいに、小松左京の親族の方と出会ったり、結構せわしなくシンクロニシティが発生しています。サッカーのオシム監督のことを書いて間もなく、オシムさんが亡くなったということもありました。 さて、41年前の話に戻りましょう。 ロンドンとケントは日帰りの距離ですから、対戦相手が前日に一泊しなくても試合が十分に可能なわけですね。試合時間を午前10時に設定すれば十分に間に合う距離です。 対戦相手のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスは、ロンドン大学に属するカレッジです。いわばロンドン大学政治経済学部なのですが、ほとんど独立した大学だとみなされています。ロンドン大学のほかのカレッジも同様です。 同じ留学制度を使ってこちらにやってきた東京電力のTさんも、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのおそらく大学院生でした。 さあ、準々決勝の始まりです。こちらのホームゲームですから、珍しく20人くらいの学生が応援に来てくれました。デイヴィッドが言うには、この試合に勝てば、準決勝はロンドンのスタジアム(観客席付きのテニスコート)で開催されるとのこと。俄然やる気が出てきます。 (続く)
2022.06.06
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翌31日朝の日曜日。ほぼ快晴です。 簡単に朝食を取って、相手選手と一緒にコートに向かいます。何かピクニックに行くみたいな感じですね。別々に宿泊していた皆とダラム大学のテニスコートで再会します。 ここのテニスコートは、何と天然芝のコートでした。普通、天然芝のコートが使えるようになるのは、五月下旬から六月上旬にかけてですから、まさにオープンしたばかりの芝のコート。禿げたところもなく、まっさらです。既に前年の夏、芝のコートのテニスクラブで散々テニスをしていましたから、慣れています。 芝のコートの気持ちの良さは、やった人でないとわかりませんね。スーっとちょっと滑って、キュッと心地よい音と共に止まります。そしてパンと打ちます。ですから、スー、キュッ、パン、スー、キュッ、パンというリズムでテニスをすればいいわけですね。特にこの「キュッ」という音が、芝の感触と共に体に気持ちよく響きます。試合前の練習から、楽しくなってしまいました。 いつものように午前9時半か10時ごろ試合開始です。 ところが、さっきまで快晴だったと思った空が、急に陰ってきました。雲行きが怪しくなってきたんですね。3ゲームか4ゲームを終了したころでしょうか。突然、雨がポツポツと降ってきました。芝のコートは、雨でぬれると、今度は本当に滑りやすくなります。 ゲームはすぐに中断となります。止む様子もなかったので、コートを室内のハードコートに替えて、試合を続行することになりました。全く違う種類のコートでやるところが面白いですね。ウィンブルドンで始まった試合を全米オープンのハードコートで終えるようなものでしょうか。 でも条件は同じです。私は室内の球足の速いコートはそれほど得意ではありませんが、私たちのペアは何とか相手のNO3のペアを破り1勝を挙げ、ほかの2ペアが4勝を挙げたので、5対4で勝利しました。 今回も遠くまで遠征した甲斐がありました。私たちのチームは、バース大学とダラム大学に連勝したことにより、全英大学ベスト8に進出したんですね。つまり次が準々決勝ということになります。それを聞いて、元気になりました。 だけれども、のんびりしてはいられませんね。明日から授業の人もいますから、ケント大学にとんぼ返りしなければなりません。駅まで送ってもらって、同じルートを使って、夜までにはケント大学に戻りました。 デイヴィッドが大学テニス協会に連絡を取ってくれたところ、次の試合は次の週末に組まれました。今度は場所がケント大学のコートで、相手は経済学で欧州一の評価を得ているロンドン・スクール・オブ・エコノミクスと決まりました。その名門校をホームで迎え撃つわけです。 (続く)
2022.06.05
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試合の前日に対戦相手の家に宿泊するだけでもビックリなのですが、もっと驚いたのは、彼らが今でいうシェアハウスに住んでいたからです。シェアハウスとは、リヴィングやダイニング、バスルームは共有スペースで、各部屋に初対面の人たちが暮らすという居住方式です。しかもそこには男女問わず、6人ほどの若者が一緒に生活していました。 ケント大学でも経済的な理由から寮の一人部屋を二人でシェア(一人は寝袋で就寝)していた学生はいましたが、その寮でさえ、男女別の居住スペースに分かれていました。ですから、ここでは見知らぬ男女が一緒に暮らしているということになります。 さらに驚いたのは、その晩私が使わせてもらった部屋は、普段は若い女性が使っている部屋で、その日は不在だからという理由だったからです。とても綺麗な部屋でしたが、もちらん写真などの私物が机や壁に並べられていました。私としては、普段うら若き女性が寝起きしているベッドを使わせてもらうのは大変気が引けました。 でも当の対戦相手の学生はまったく気にする様子もなく、空いているときに使うのは当たり前という風でした。本人から了解も取っているとのことでした。シェアハウスで暮らす人は、あけっぴろげな人が多いのかもしれませんね。 私のダブルスパートナーのイアンも同じシェアハウスの空き部屋に宿泊、その晩はリヴィングやダイニングを使わせてもらって、何か出前でピザのようなモノを頼んで夕食を済ませたように記憶しています。食後のリヴィングでは、対戦相手の学生たちと夜10時くらいまでワイワイガヤガヤ話をして親交を深めました。 このような遠征試合も面白いですね。楽しい思い出となっております。 (続く)
2022.06.04
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ダラム大学との対抗戦は、5月の最終日である31日の日曜日に行われたと思われます。とにかく毎週末に試合が組まれていました。 対戦相手のダラム大学は1832年に議員立法により設立された大学で、イングランドに現存する大学ではオックスフォード大学、ケンブリッジ大学に次いで三番目に古い伝統をもつ大学として知られています。複数のカレッジが集まって一つの大学を形成するカレッジ制を採用する名門校ですね。世界遺産であるダラム城を大学(ユニバーシティ・カレッジ)の施設として使っています。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこの大学で一時学んでおりました(卒業せずに中退)。架空の人物ですが、ホームズの宿敵モリアーティは、ダラム大学の元数学教授という設定でした。 ダラムはイングランドの北の外れ、スコットランドのそばにありますから、やはり一泊二日の遠征の旅となりました。 今回は車では遠すぎるので、電車を乗り継ぐ旅となりました。前日の30日の朝、カンタベリー駅に集合して、六人だけで公共交通機関のみを使って遠征にでかけます。電車でロンドンまで行き、地下鉄を使って北の玄関口であるユーストン駅へ。そこからダラム行きの列車に乗り込みます。 その時のことで覚えているのは、地下鉄のチケットが領収書替わりになるので、ユーストン駅では改札口の駅員と交渉して、渡さずに済むようにしたことです。これは主務のデイヴィッドの指示で、交通費を請求する際、領収書がないと駄目だと言われたからだとか。結構、面倒臭いですね。遠征でかかった旅費は、デイヴィッドがすべて立て替えてくれて、後でちゃんと大学に請求するとのことでした。 ロンドンのユーストン駅からダラム駅までは、3時間半~4時間はかかったと思います。当然、着いたのは夕方近かったです。 駅には向こうの主務が迎えに来てくれて、二人一組でそれぞれの宿泊先に案内してくれました。私はてっきりB&Bに分宿するのかと思っていたのですが、相手選手が借りている寮や下宿先の部屋に分かれて宿泊すると聞いてびっくりします。試合の前日に、試合の対戦相手の家に泊まるわけですからね。結構なカルチャーショックです。 しかし衝撃はそれだけではありませんでした。 (続く)
2022.06.03
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翌24日の日曜日。バース大学との対抗戦が始まりました。たぶん午前9時半か10時のスタートだったように思います。試合は3セットマッチ。3ペア同士の総当たり戦ですから、NO1対NO1、NO2対NO2、NO3対NO3の試合をまず三試合して、次にNO1対NO2、NO2対NO3、NO3対NO1の三試合、最後にNO1対NO3,NO2対NO1、NO3対NO2が対戦、合計9試合で5勝したほうが勝ちということになります。 ただし、順番は実力通りでなくても構いませんから、どのペアがNO1をやってもいいわけです。最初にどの実力のペアと対戦するかは運次第。どっちみち総当たりですから、どの実力のペアとも対戦しなければなりません。言い換えると、対戦すれば自ずと相手の実力がわかります。私とイアンのペアは相手の実力NO1と試合をして負けて、実力NO3には勝ったように思います。実力NO2との対戦では勝ったのか負けたのか覚えていませんが、いずれにしても6勝3敗くらいでバース大学を破ったと記憶しています。バースまではるばる遠征してきた甲斐がありました。 みな明日からは勉強がありますから、観光地バースで観光などはせず、すぐに車に乗り込んでケント大学へ帰ります。3セットが3試合ですから、最小でも6セット、最大で9セット試合をすることになります。実力も接近していますから、これは結構、疲れます。 帰りの車の中では皆、はしゃぐこともなく、静かにしていたと思います。私も間違いなく眠っていました。 名前を忘れましたが、運転手をしてくれたイアンの友達に感謝です。夜8時ごろまでには無事にケント大学に着いたはずです。後日、デイヴィッドが大学のテニス連盟に試合結果を報告、次の対戦相手は、スコットランドとの国境に近いダラム大学と決まりました。 (続く)
2022.06.02
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バース大学との対抗戦は、学期が始まってから四週目くらいの時期でしたから、おそらく5月23,24日の週末を使って行われたと思われます。 この日も、イアンの友達が運転手となってバンを運転して、応援団も入れて合計9人くらいがバンに乗り込んで、土曜日の23日に西のバースを目指しました。9人ですから、もしかしたら乗用車に分乗して二台で遠征した可能性もありますが、よく覚えていません。車で遠征したのだけは間違いないです。 試合は24日に予定されていましたから、前日にバースに泊まって、翌日午前から対抗戦が始まるという段取りです。バースに行くのは、私は初めてでした。 昼過ぎにケント大学を出て、バースには夕方着いたと思います。所要時間は3時間半~4時間くらいだったでしょうか。着いたらすぐに予約したB&Bにチェックインします。その後、皆で街中に繰り出し、イタリアン・レストランの店で夕食を取りました。B&Bに戻って、食後のティータイムを経て、就寝します。 二人一部屋で、私はダブルスのパートナーのイアンと同じ部屋でした。このころから、宿や足の手配は、アメリカ人留学生のデイヴィッドの担当になっていました。日本でいえば主務ですね。 特にキャプテンは決まっていませんでした。でも、一番テニスが上手かったのは、イギリス人のジョンです。サーブもストロークもボレーも上手いオールラウンド・プレイヤーでした。ポーランド人でネットプレーの上手いマシューと組んで、実力的にはチームの3ペアの中で一番強く、ポイント・ゲッターでした。マシューは当時としては珍しかったプリンスの「デカラケ(当たる面が通常の1・5倍くらいあるラケット。今では皆当たり前のように使っています)」を使っていました。彼らが確実に2勝以上してくれるので、優位に立てたことが大きかったです。 次に強かったのは、フォア、バックともトップスピンをかけるデイヴィッドとロンドンの下町出身で左利きのグレアムのペア。二人ともストローク力がありました。イアンと私のペアは3ペアの中では一番弱く、相手チームのNO3ペアを破ればいいという役割を担っていました。 もちろん相手のNO2に勝てれば、それに越したことはないわけです。(続く)
2022.06.01
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