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この連休に鹿児島に観光でやってくる友人がいます。ラーメンを食べたいという友人です。ラーメンも食べたいという友人です。指名を受けたお店も含めておいしいラーメン店を列挙します。もちろんココだけがおいしいラーメン屋さんという訳ではありません。あくまでここもおいしいラーメン屋さんです。私個人の選定です。*鹿児島ラーメン豚とろ 山之口町9-41 099-222-5857*ざぼんラーメン 与次郎1-6-20 099-257-0605*和田屋本店 東千石町11-2 099-226-7773*くろいわラーメン 東千石町9-9 099-222-4808本日の報告は以上です。
2006年04月30日
かつては天文館のあたりまで堀があり。船がかなり奥まで入って来ていたということです。江戸時代には治水工事・埋め立ての工事が進んでほぼ現在の形に整備されました。県外の方にまで有名になった鹿児島のラーメンの中でも知る人ぞ知る名店とんとろラーメンです。それほど大きなお店ではありません。20人も入れば満員です。鹿児島の風景に東京のラーメンランキングのような行列はありません。美味しいお店はいくらでもありますから列なんかできたら他の店に流れます。本当にジビアな戦いです。向上を述べるマスターなんて見たことはありません。説教をするお店なんかありません。お客は説明を聞きにきているわけではないのですから。とんとろラーメンにははじめて入りました。お友だちのリクエストがあったからです。適当なお値段とそれを十分上回るおいしいラーメンでした。お店の方たちも明るく元気で一度入るとくせになりそうです。チャーシュー焼き豚が最高です。口の中でとろけます。このお店は古代には海だったところに立っています。
2006年04月28日
昨夜からlivedoorのネットは大騒ぎです。多くの使用者が旧社長のブログを見ようと集中してでもいるのでしょうか。ブログの更新もママなりません。私の技術のせいなのかも知れませんが。睡眠不足が続いたり運動不足が重なるとときどき体操をしにでかけます。本当に不規則に気がむいたら腹筋やストレッチをやりにでかけるのです。鹿児島アリーナは大きなコンサートホールも持っていますが。スポーツ施設運動機材も完備しているのです。やさしいインストラクターの方がメニューを作ってくれるのです。鹿児島アリーナに自体には門はありません。けれども国登録有形文化財に指定された石のモニュメントがあります。大きな石造りの門です。この施設は昔の鹿児島刑務所の跡地にできたものです。旧刑務所の門がそのまま残っているのです。たくさんの人が発言するのを聞きました。多くの人がコメントしていました。一昨年から去年そして年があける頃そして逮捕されてから私は発言を覚えておこうと思います。これから誰が何を言うのか。コメントを発することが発言したその人を測るための基準です。何をいつどのような形で発言しているのか私は覚えておこうと思います。私はしつこい性格なのです。今日も鹿児島は晴れ渡っています。少し運動をするだけで汗をいっぱいかきました。今日の運動の中身はちょっとだけハードでした。もちろんインストラクターの先生はやさしく指導してくださっているのです。25度今日も真夏日になりました。
2006年04月28日
我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山この歌を作ったのは薩摩=鹿児島の人ではありません。黒田藩藩士平野国臣(ひらのくにおみ)福岡の人です。鹿児島には三度訪れています。資料の上での話しですが。西郷隆盛と京都清水寺の住職月照が入水したとき船に同乗していた人物です。この歌は有名です。鹿児島では有名な歌なのです。かなり好きな歌です。夕陽の桜島を眺めているときだけにではなく。思いを秘めて何かを成し遂げなければならないときにいつも思い浮かべる歌です。鹿児島にいてそこに桜島が見えているときにという限定つきではありますが。一般的な話ではありません。私個人の話です。個人的な感傷です。
2006年04月25日
鹿児島中央駅の裏手に西郷屋敷跡があります。西南の役で亡くなるまで西郷はその家に住んでいました。下野して帰省後その家から川沿いの道を田上まで歩いて野良仕事に行きました。西郷家の畑があったからです。その道沿いに現在も田上小学校があります。思想信条の理由で在野に下ったとはいえ学校制度にも力を入れた西郷です。この小学校の門の表札は西郷隆盛が書いたものです。現在も校長室に保管されてあります。一度だけ見せてもらったことがあります。何の関係もありませんが。ないと思いますが。田上小学校から川を挟んで数十メートルのところに替え玉屋があります。鹿児島ではめずらしくラーメンにメニューがありました。ラーメンに種類があるのはこの街ではめずらしいことです。替え玉を名前に使っているのも替え玉というシステムが鹿児島ではめずらしいからだと思います。西郷隆盛はもちろんラーメンを食べたことはありません。ロンジンの時計は持っていましたけれども。
2006年04月23日
普通の人間が御神体になるなんて例外中の例外なのでしょうけれども照国神社の御神体は島津斉彬です。島津斉彬照国です。斉彬が薩摩七十七万石の正式な後継者と決められたのは四歳のときです。実際にその席についたとき彼は四十三歳になっていました。腹違いの弟島津久光とのその取り巻き同士の確執お家騒動の結果です。名君島津斉彬は五十で亡くなっています。実際に斉彬の遺志を継ぎ維新を実現させたのは弟久光でした。しかも彼は藩主の座には就いていません。斉彬は天才だったのかも知れません。久光は名君でした。久光の像は斉彬のそれと着かず離れず適度な距離を置いて立っています。久光の方がいい男だと私は思います。ただ顔の話です。照国神社には三体の像が立っています。
2006年04月22日
海岸線にそって天保山公園はあります。数百メートル南へ進めば与次郎と呼ばれる埋め立て地です。松林に囲まれた広い公園はのんびりとするには最適な場所です。鹿児島は数日風の強い日が続きました。昼間の暖かさはまもなく訪れる夏を早くも予感させるほどです。横になって大の字に両手を広げると深く落ちて行ってしまいそうな青空です。薩英戦争のときに使用された砲台の跡があります。この場所からの一撃が薩英戦争の火ぶたを切って落としたのです。幕末までこの地は演習地だったのです。島津斉彬はこの場所で兵の操練を行ったあと倒れて亡くなっています。1858年のできごとです。斉彬がここで亡くっていなければ歴史は変わっていたのかも知れません。歴史にもしもはありませんが楽しい空想は続いてしまいます。松の林を通りぬける風は心地よい音をたてていました。
2006年04月21日
雨がずいぶん続きました。風も強く吹いていました。ウチのポトスはずっと家の中に置いてあります。ずいぶん長く生きています。けれども少し元気がありません。お日さまにあててあげました。水もたくさんあげました。けれどもなんだか元気がありません。そもそもポトスの育て方を知りません。ほったらかしにしていたのです。それでも強く育っていました。最近ポトスに元気がありません。
2006年04月18日
しばらくすっきりしない天気が続いていました。激しい雨が続きました。強い風が続きました。どんよりとした雲が空に居座っていました。昨日からは快晴です。外の景色は一変しました。さくらはもう散ってしまいました。夕刻西に陽が沈む頃さくらじまを見ました。風はまだ冷たく。冬のしっぽを残していましたが。それでもとても爽やかな季節の変わり目です。この時刻の桜島も美しいと思います。
2006年04月17日
ライオンズ公園は大きな公園です。甲突川のすぐ横にある公園です。現在はココで春の木市が行われています。この公園で写生大会が開かれたことがあります。小学生の頃です。この公園の近くで写生して色までつけてしまうのです。川を描いた子もいました。堤の木を入れた風景や。町並みや。路面電車も人気でした。ライオンがのっかった噴水の周りにも人がいっぱい集まっていました。同級生の池田君の絵は少し変わっていました。みどり色のスプーンみたいなもの。あとは全面の青。写生大会の数日後の教室で池田君はずいぶん叱られていました。私はそのとき始めて彼のその絵を見たのでした。池田君はライオンのしっぽを描いたと主張したのだったと思います。わたしは「へえー」と思いました。池田君の下の名前は忘れてしまいました。とりわけ変わった子ではなかったように思います。ライオンズ公園のこのライオンを見るたびに彼のことを思い出します。顔も覚えてはいないのですが。池田君のライオンのしっぽの絵はあんまり上手な絵ではありませんでした。私は絵が上手でしたから。ちゃんとそのことは解りました。けれども彼の絵の描き方はすごいのではないかと。心の中では思っていました。このお話に後日談はありません。池田君が絵の大家になったというコトもありません。ライオンズ公園のライオンの噴水は大久保利通の像のすぐ横にあります。斜め後ろにあるのです。
2006年04月14日
この街は歴史と共存しています。街の中に歴史が住みついていると言った方がいいのかも知れません。原良町にある小松帯刀の私邸です。私邸跡です。この地には現在もお住まいの方がおられるのです。庭だけが当時の面影を残しているとのことです。帯刀の公邸跡には現在文化センターという大きな建物が建っています。その正面入り口の前に帯刀の像があるのです。街をゆっくり歩かないと見過ごしてしまいます。私自身の歩き方です。あまりに同化してしまっていて風景の中にしっくりおさまっているためにわたしは通り過ぎてしまいます。龍馬が泊まったこの宿も龍馬が歩いた道も薩英戦争の司令部も西郷や大久保が遊んだ広場も河原も自分自身の生活エリアの中にあります。自分が通った通学路です。意識しなければ足を運ばない。意識しなければ車を止めない。意識しなければ立ち止まることをしない。自分自身を反省です。
2006年04月11日
小松帯刀は生真面目な男です。そうであったろうと思います。彼の日記を見れば1800年代の中期の天気が分かります。薩長同盟は彼の京都の私邸で成立しています。坂本龍馬とお龍さんは帯刀の私邸に逗留しています。薩摩へ訪ねたときのことです。慶喜に大政奉還を直接勧告した男小松帯刀はそれほど有名な人物ではありません。西郷や大久保や坂本龍馬ほどには名の売れた人物ではありません。彼の名をつけた焼酎の方は有名なのかも知れませんけれども。図書館には禁帯出の書籍がたくさんあります。けれども禁帯出の本の方に興味深いものが多いのも事実です。慶応二年1866年1月21日。中岡慎太郎と坂本龍馬の仲介で長州藩と薩摩藩の薩長同盟が結ばれました。その2日後。1月23日。坂本龍馬は寺田屋で襲われ負傷しました。その日の京都の天候は・・・まったくどうでもいいことに興味があります。何の足しにもなりませんが。
2006年04月10日
自分の身体よりも大きいくらいのランドセルしょって元気たちが学校に行きます。入学式を終えたばかりのおちびさんたちのあのランドセルの中には何が入っているのでしょう。横断歩道にはお母さんたちが黄色い旗を持って立っています。まだ起きたばかりの顔のお母さん。きちんとお化粧したお母さん。照れて旗をたたんだままのお母さん。お話に夢中なお母さん。大リーグの審判のように大きな身振りの見事な技のお母さん。小学生も一年生と六年五年では身体の大きさが違います。小学生の登校の列が横断歩道を渡ります。普段はイライラの自動車たちの顔も穏やかです。赤信号を楽しんでいるかのようです。登校の生徒さんたちの波がおさまった時間営業の車が道路に溢れ出す前の時間ほんのちょっとした偶然が重なって信号ひとつ分に自分の車しかいないコトがあります。中央駅を背に西田橋を右に見ながら赤信号で止まっていました。春の木市はあとひとつきです。信号青で左折して横断歩道のまえでゆっくりと止まりました。横断中の団体さんはハトさんたちです。わたしのことをナメテいるのか飛び立とうとはしません。ぴょこぴょこ五羽の鳩が横断歩道を渡って行きます。それでもちょっと急ぎ足で渡って行きました。二日前の金曜日。入学式の翌日のできごとです。出来事と言えるほどのことでもありませんが。
2006年04月09日
おススメのラーメンは何ですか・・・と尋ねてみました。ご主人は・・あの方がご主人かどうかは分かりませんが。迷わず純正みそラーメンを薦めてくれました。味つきのお味噌を少しスプーンでのせてくれました。さらに途中で辛子味噌を試してみたらいいとサービスしてくれました。ほんとにおいしいみそラーメンです。札幌のそれとも少し違います。とんこつ味のみそラーメンなのです。辛さもあとから追いかけてきます。天文館を歩きながら汗を拭きました。7,8メートルの細い路地の入り口に「ラーメンのこむらさき」向こうの口には「くろいわラーメン」があります。そしてこの「ラーメンの和田屋」はふたつの店の中間にあります。どちらのお店にも小股で歩いて14歩くらいのものです。そしてじつはとっても有名なお店なのです。店員の方のサービスと明るさで倍おしいしいラーメンです。
2006年04月07日
雨になりそうな空もようです。花散らしの雨になるのでしょうか。旧暦の3月3日は花散らしの日です。旧暦の3月3日は桜田門外の変が起こった日です。井伊直弼は季節外れの大雪の中。屋敷を出ました。3月3日に雪が降ることはめずらしい出来事だったのです。旧暦3月3日の花散らしは若い人たちの祭りです。お花見で村中の人が集まります。その夕刻あるいは翌日。独身の若い男女が海岸に集まって楽しい時を過ごします。花散らしは出会いの場所です。合コンです。花散らしは見知らぬ男女の出会いの機会・集団見合です。少なからず隠微な響きを持った花散らしの語源です。語源のひとつです。この花散らしの風習は中国地方以西にはかなり長い間残っていたものです。今年鹿児島では長い間さくらを楽しむことができました。強い風にも激しい雨にもさくらの花は残っていました。今夜は雨になりそうです。この雨でさくらの花は多くが散ってしまうのでしょうか。
2006年04月06日
御指摘を受けました。本当にごめんなさい。昨日の私の投稿は同じ内容がすでにテレビ放送されていたようなのです。勉強不足で知りませんでした。私はうれしくなってしまっていたのです。私はうかれていたのです。平田公園のお隣に立つマンション。そのマンションの隅に小さな石碑が立っています。調所広郷の邸宅跡の碑です。私には妄想癖があります。平田靱負と調所広郷のふたりの人物にもしも共通点があったならば二人の人間に何かしらの繋がりがあったならばそのように考えることはウキウキしてしまうことだったのです。自分は傲慢に思い込みました。すごい発見をしたのだと。誰も気付かない歴史の中のひとつの事件を自分がみつけてしまったのだと。ココで二人を結びつければ素敵な物語が作れそうだと。けれども所詮は愚かな妄想の生み出した誤解だったようです。すでにみんなが知っていてただただ私の空想の暴走を許してくれていたのでした。私はただの勉強不足だったのでした。私には著作権の侵害をするつもりなど全くありません。本当にごめんなさい。
2006年04月05日
人出の多い甲突川沿いの木市の会場から一筋入ったところに平田公園があります。平田公園平田靱負ひらたゆきえの屋敷跡にできた公園です。平田公園のさくらはもうあと一週間は咲いていると思います。宝暦の木曽川治水工事の総奉行が眺めた桜なのでしょうか。鹿児島の四月にしてはヒンヤリとした空気です。犠牲者を多数出してしまったこと。膨大な工事費用を使ってしまったことの責任を取って腹を切った人物平田靱負。そしてそのお隣に住んでいた人物。薩摩藩が抱えていた莫大な負債を返済してしまった人物調所広郷。調所の屋敷は平田靱負の屋敷の隣にありました。調べてみなければはっきりしたことは言えませんが。調所広郷があれほどみごとに。あれほど強引に仕事を推し進めたことと。両家の屋敷住居が隣同士であったことが無関係だとは思えません。もちろん私のかってな憶測に過ぎません。平田靱負が亡くなって21年たって調所広郷は生まれています。面識があるはずはないのですけれども。鹿児島の四月にしてはヒンヤリとした空気の流れる曇り空の日に桜の舞う人気のない公園をひとりで歩くと妄想の中で歴史上の二人の人物が出会います。妄想が250年の時を越えて行きます。
2006年04月04日
ラーメン専門店はあちこちにお店を出しています。くろいわラーメンも人気店のひとつです。くろいわの中でもこの鹿児島高校前店はうわさ通りのいい味を出しています。きたない店ほどラーメンが旨い。そんな神話がありました。私たち仲間内での話です。このくろいわがきたない訳ではありません。昔はどこも・・・・遠い昔のお話です。お金のない高校生が厳しく評価するからでしょうか。鹿校前店は誰もがアソコはおいしいと話します。そしてラーメンのお店はそんな噂話が重要です。わざわざ出かけて行ってでも食べるからです。たくさんのお店があるからです。こんなことをこんな時間に書いているだけで無性にラーメンが食べたくなります。
2006年04月03日
鹿児島にだってタレントがやってくることがあります。コンサートだって開かれます。外タレもたまにはやってきます。コンサート会場のひとつが鹿児島アリーナです。松任谷由実もここでコンサートやりました。入り口に古い大きな石の門が立っています。国登録有形文化財です。もちろん門の役目は、はたしていません。今はただのモニュメントです。昔は。昔は通りたくはない門でした。通ったことはありません。この石門は旧鹿児島刑務所正門です。刑務所の跡地に鹿児島アリーナが建ったのです。司法省の役人で各地の刑務所を設計した山下啓二郎の作品です。何にでも専門家はいるものです。甲突川上流の石を使って7年の歳月をかけて作られたと説明書きにはあります。囚人の労役で作られたものだとあります。1908年3月完成とありますから日露戦争の頃作られたことになります。刑務所が完成するまでの間。囚人がどこにいたのか。自分たちの入る施設を作っていた囚人の気持ちはどんなものだったのか。作品として刑務所をつくり続けた鹿児島出身の司法省役人山下とはどんな人物だったのか。鹿児島アリーナは市の施設です。スポーツ施設が完備しています。アスレチック運動ができます。フットサルもバスケもできます。合気道もヨガもできます。私は健康とダイエットと運動不足解消のためにスポーツ室で腹筋やっています。トレーナーが少し厳しいです。鹿児島アリーナの入り口には大きな石の門があります。
2006年04月02日
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