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インターネットの海にこぎ出したことは私にとっては大きなできごとでした。この海にはいろんな方がいていろんな景色を見せてくれます。私は海べを行ったり来たりしながら遠い水平線の素敵な風景を眺めていました。楽しい一年をありがとうございました。あなたに会えたおかげでとても楽しい一年でした。ありがとうございました。よいお年をお迎えください。
2006年12月31日

インターネットの海には本当にいろいろな方がおられます。私にいろんなことを教えてくれます。先日ブログのお友だちがFLAGというアニメを紹介なさっていました。お友だちと言っても私が勝手にお友だちだと思っているだけなのですが。荒川執事さんという方です。ナターシャ・ドンスコイ様の執事さんです。タグまで勝手にコピーしてしまいました。彼のブログに誹謗中傷はありません。彼はただその優れた視線で取捨選択して見せてくれるのです。つまり私は勝手な彼のファンのひとりなのです。さすがにランキング常に上位のブロガーです。上位であることが納得できるブロガーです。FLAGを見ました。GYAOで今放送しているのです。見るべき価値のあるものだと思いました。年末のこんな時期に6話まで・・・見ました。朝の4時まで見ていました。
2006年12月30日
安政元年7月11日島津斉彬は江戸城に登りました。いつもの老中阿部正弘にしては歯切れが悪すぎるからです。阿部はやはり迷っていました。阿部家の家紋の別紋は石持(こくもち)といいます。石持というのは色の黒い日の丸だったのです。阿部という男は日の丸も黒丸もどちらも本心ではイヤだったのです。他人から「阿部は自分の家紋を日本の国旗・旗章にした」そう言われることが許されなかったのです。彼はどちらもイヤだったのです。島津斉彬は苦しむ親友阿部からこの話を聞き出しました。
2006年12月29日
街は朝から忙しくしていました。車がたくさん出ていました。人々が忙しそうに動いていました。高校生が自転車でびゅんびゅん行きました。中学生は走っていました。主婦達が買い物袋を抱えておしゃべりもしないで急ぎ足でした。車を駐車場に駐めようとしたとき目の前を急ぎ足の「もきち」と「しげた」が行きました。こいつらは挨拶もしません。ときどき大粒の雨が降っていました。ときどき大粒の雨が落ちているのに・・です。私だけ年末ではないみたいです。クリスマスをワープしてしまったのでなんだかヘンテコリンな年の瀬です。今日で年内最後のじいちゃん先生に注射をうってもらいました。正月でも来いよ・・と言ってくださいましたが。ありがとうございます・・・とだけ答えました。お正月から注射はイヤです。金魚たちは年末も相変わらずの食欲です。相変わらず元気です。私もとても元気です。
2006年12月28日
1839年天保10年のアメリカ合衆国の捕鯨船は540隻ありました。これは世界の8割にあたる数です。それから8年後の捕鯨最盛期には725隻(28万トン)に達しています。当時世界の先進国はマッコウクジラを追って激しい競争を展開していたのです。正直に本当のことを書くと私は中学2年生までサンタクロースを信じていました。恵まれた家庭に育ったのでした。むしろ単純だったのでした。とっても単純だったのでした。今年のクリスマス・イブは最悪でした。クリスマスにはサンタさんの代わりにじいちゃん先生がやってきました。痛い注射をしてくれました。私の胸と喉の奥がゼロゼロ言い始めると横になって休むことができません。夜中でもすわって布団をかけて百人一首の人のような格好で・・・そんないいものではありません。だるま大師の修行のような格好で・・・これもちょっとよく書きすぎです。暖かいコメント・メッセージありがとうございました。明日には元気復活すると思います。ありがとうございました。
2006年12月27日
日本の国旗を日の丸にするか黒丸にするか幕府の内部で大論争をやっていた安政元年1854年の夏島津斉彬は江戸の薩摩藩邸で細かいデザインに没頭していました。万国旗印の書物も用意して研究もしたくさんの試作品も作りました。丸の赤は、絵師の柳田龍雲に朱や紅とは違う色に塗らせた。生地も木綿や絹地と変えて作った。出来上がった大小、濃淡のそれを庭に立てさせる。そしてながめてまた考え込みます。クリスマス・イブ・・すっかり風邪をひいてしまいました。胸と喉に住みついていたカエルさんが久々にゼロゼロ言っています。まだゼロゼロ言ってます。
2006年12月25日
島津斉彬は江戸に上りました。水戸斉昭をはじめ親友の有力大名に「日の丸案」を説明するためです。保留にされてしまったからです。閣老の阿部正弘は尊敬する斉彬のプランに賛成したように見えますが幕府の責任者としては独断で決めるわけにはいきません。四つの機関に検討を指示しました。それぞれに討議したところ異論が噴出しました。日の丸は幕府の船章だから日本の船章は「黒丸」にせよ。白と紺の旗がいい。吹き流しはどうか。帆の染め色で区別したらどうか・・・幕府案としては日の丸案は否定黒丸・・つまり黒い日の丸が最有力案として答申されたのです。ながながとごめんなさい。つまり時間がありません。おめでたい日の丸で引っ張っているわけです。昨夜は早くに休みました。喉がイガイガ。頭がボオだったからです。そして今もまだ熱は下がってはいません。喉は腫れたままです。クリスマス・イブのためにこれからもう一度休みます。寝ます。まだ朝の5時なのです。外はまっくらです。
2006年12月24日
日の丸は美しいと思います。日の丸は島津斉彬の創作ではありません。8世紀日の丸は日月の長旗としてつかわれていたようです。源平時代八島の合戦で那須与一が弓矢で射落とした軍扇にも日の丸がありました。戦国時代武田、上杉、伊達そして徳川も日の丸を使いました。寛永11年1634年幕府も日の丸を公儀の旗章にしています。日の丸を日本の全ての船章に外国に対し日本国国旗として使おうではないか・・と提案したのが島津斉彬です。1853年嘉永6年薩摩藩が15隻の大船建造を幕府に願い出たとき船の旗章はすべて日の丸を使いたいと加えました。幕府は船の建造は許可しましたが船章は追って指示すると保留にしました。♪もういくつ寝るとお正月 の歌が不自然ではなくなりました。お正月には島津斉彬に会いに行きます。照国神社は彼を祀ったところです。
2006年12月23日
街には年末の雰囲気が漂っています。乾物屋さんにも八百屋さんにも年末の品物がお正月の品物が並んでいます。お正月と言えばお盆と言えばほとんどのお店がしまっていてとっても静かな町並みにお日様が射してして・・・・小さな頃のずっとずっと昔のお正月の風景を思い浮かべてしまいます。桜島大根を御存知ですか。大きなカブではありません。ちゃんと大根なのです。これは普通のサイズですがもっともっと大きくて重たいのもあります。私は直径40cmくらいのものは持ってみたことがあります。
2006年12月21日
ど真ん中のみどりの中に赤い紅葉が見えます。その紅の中にちょこっと頭をみせている。アレが西郷さんの銅像です。県美術館の前庭に西郷さんは立っています。木々に囲まれて立っています。昨年の今頃は鹿児島も寒い日が続いていました。ときおりミゾレも降っていました。そんなとても寒い日に工事の方が来てくださいました。インターネットの接続の工事です。クレーンをあげて電話線をつなぎ替えて何人もの方が一生懸命やってくださいました。私はどんな仕組みでこのPCが外の世界と繋がっているのか解りません。年末年始は新しいオモチャをもらった子どもと同じでした。試行錯誤なんどもなんども失敗してどうにかこうにかコンピュータは動いています。まもなく一年がたとうとしてしているのです。おもしろい楽しい一年でした。あと10日で今年も終わろうとしています。もう一回ぐらいは西郷さんの顔を見に行きます。
2006年12月20日

城山に登ると鹿児島の市内を見下ろせます。写真左の建物は市の文化センターです。現在は「宝山ホール」の名がついています。先月ココで松本幸四郎のお芝居がありました。勧進帳です。その前庭の高い二本のフェニックスの足下に小松帯刀の像が見えますか。幻の宰相小松帯刀です。坂本龍馬のお友だちの小松帯刀です。 (あまりに小さいのでアップの絵も御覧下さい。)文化センターのお隣小松の像の後ろのカマボコを乗っけたような建物は鹿児島東郵便局です。小松帯刀の家がこのあたりにあったのです。城山から鹿児島の街を見下ろすとまるで全てが止まっているように見えます。とても静かです。あと一週間でクリスマスだとは思えません。暖かい冬の一日です。今日は昨日の写真を使ってガイドさんをやってみました。とてもプロにはなれそうもありません。
2006年12月19日
忙しいぞといいながらふらふらと桜島を見にでかけています。城山からの眺めはなかなかのものです。ここの食事は基本がランチで平日はわりとすいています。ただ待ち合わせとお話するのには向きません。ここの食事は基本がバイキングだからです。桜島が今日も白い煙をはいていました。今週末はきっと家族連れや恋人たちで賑わうだろうと思います。
2006年12月19日
森有礼文部大臣は明治22年憲法発布祝典の日に暗殺されました。友福沢諭吉は書いています。わが輩はひとりの大臣一人のために悲しむのにあらず。わが文明のために有為活発なる一個の若き政治家を失いしを惜しむものなり・・・西郷さんの後ろの木が紅葉していました。空は冬の色をしていました。森有礼は変わった人物です。鹿児島人の系譜の中で西郷・大久保・松方といった政治の系列ではなく教育界の先覚者の道を歩みました。特に師範教育と女子教育には大きな業績を残しています。西郷隆盛は魅力的な人物です。森有礼もまた偉大な人物です。けれども彼の名前はそれほど有名ではありません。彼の業績を知る人はほとんどいません。西郷さんは黙って冬の空を見ていました。彼の業績もまたそれほど知られているわけではありません。その名前とキャラクターほどにはですが。
2006年12月18日
何度読んでも私には理解できない物語です。スコット・フィッツジェラルドです。グレート・ギャツビーです。村上春樹はノルウェーの森の中でこの本を手放しで褒めていました。絶賛です。別の場所で場所の人がこの本を勧めてくれました。私は彼を好きでしたから必死になって読みました。彼が本を貸してくれましたから必死になって読みました。それでも私にはグレート・ギャツビーの良さが分かりませんでした。理解できませんでした。忙しい忙しいといいながら賑わう街の本屋さんを覗きました。村上春樹がグレート・ギャツビーを翻訳していました。初版が出されたばかりです。数ページを立ち読みして引き込まれて迷わず買ってしまいました。とっても本を読む時間などないのにと思いながらです。村上春樹は偉大な作家です。
2006年12月17日
森有礼のもとを一人の日本人留学生が訪れました。かつて森の廃刀論に激怒して彼をつけねらった刺客のひとりです。そのころ彼を刺そうとしていた脇差しを持参して当時の不明をわびたのでした。笑って受け取った森は始末に困ってワシントンのスミソニアン博物館に寄贈新聞に紹介されて多くの参観者が訪れたようです。教育基本法改正案は可決成立したのでしょうか。それとも不信任案が提出されてはたまた会期延長になったのでしょうか。まだニュースは見ていません。森有礼は日本最初の文部大臣です。さらに・・・明治3年の年末森有礼は部下を引き連れてアメリカに渡りました。外交政策の布石としてアメリカ・イギリス・フランスには公使館を置く必要があったのです。初代の小弁務使になる人物にはどうしても人間性のみならず海外の知識が必要だったからです。初代のアメリカ小弁務使として渡米した森有礼はこのとき若干24歳でした。
2006年12月16日
森有礼は渡英した年に手紙を書いています。刀を持って斬り合うような武術は時代遅れである・・・と各国が急速に近代化を進めているときに日本人の支配階級が大小をさしていることは滑稽であり無駄である ・・・・ と。ただ森有礼の卓見が卓見として受け取られるには時がまだ早すぎました。廃刀論・廃刀説は公議所において満場一致で否決されてしまいました。満場一致で・・です。国風を破壊するものだ。乱臣賊徒であると。武士階級からの猛烈な反撃です。刺客が彼をねらうようになり騒ぎは全くおさまりませんでした。森有礼は官を去り鹿児島に戻りました。責任を取ったのです。これもまた明治2年のできごとです。政界や世間を暴論で混乱させた責任です。・・・・・2006年12月14日この国の国会ではふたつの議案が成立しそうになっています。防衛省法案と教育基本法改正案です。国会はこの国の立法機関です。国会議員は・・・・私は・・・政治を語りたくありません。
2006年12月15日
頃は元禄14年・・と歌い出す歌があります。赤穂浪士の歌です。正直言うと私は今でもほとんど歌うことができるのです。旧暦の12月14日は赤穂浪士討ち入りの日です。鹿児島には「三大行事」というのがあります。ほとんどの鹿児島の観光案内には書いてあるのですが。「妙円寺参り」「曽我どんの傘焼き」「義臣伝輪読会」が鹿児島の三大行事です。そしてこの三大行事のうち最後のひとつは現在ほとんど行われていません。次のような説明があります。義臣伝輪読会は赤穂浪士の討ち入りにちなみ旧暦の12月14日の夜行われる行事。少年たちを集めて深夜まで義臣伝を輪読する行事であった。当夜は母親たちからの心づくしの「粟なっとう」(餅粟と黒砂糖のぜんざい)が出されることになっていたという。実は私は・・この輪読会に長い間出ていました。小学校の頃から中学2年生に転校するまでの間ずっとです。その頃まで私の町にはあったのです。ですから「粟なっとう」の味も覚えています。赤穂浪士のお話しも実はとっても詳しいのです。堀部安兵衛も吉田忠左衛門も知っています。片岡源五右衛門も不破数右衛門にも詳しいです。寺坂吉右衛門も・・・・私はみんながそうなのだとずっとずっと思っていました。ちょっと人に言えないことなのかも知れませんけれども。人に言えないことなのに。書いてしまいましたけれども。私は上京したとき慶應義塾に行くより先に泉岳寺にお参りしてしまいました。
2006年12月14日
第一。官吏、兵隊のほか、帯刀を廃する随意たるべきこと。第二。官吏といえども、脇差しを廃するは、随意たるべきこと。明治2年1869年。新政府は公議所を新設。森有礼は23歳の若さで雄藩薩摩を代表する公議人でした。これが彼の有名な廃刀論です。薩摩の欧州留学生が乗った船はトーマス・グラバーが世話をしたものです。オースタ・ライエン号に乗船した時彼らは腰の大小を箱に収めました。大変な衝撃・悲哀・苦悩があったようです。刀は武士の命であったそんな時代でした。中でも血気盛んな藩の青年若者たちだったのです。文久2年1861年3月21日の出来事です。刀は武士の命・・・・・・・深い意味を持っていそうな言葉です。拳銃・ライフルは西部開拓のシンボル。フロンティア精神の象徴・・・・・・・・・きっと深い意味を持っているのだと思います。核による牽制・核による世界のバランス核を持つことによって始めて保たれる権威核を持たせないことによって守られる面子そして核による平和・・・・・・・・・・・きっと私などには理解のできない深い意味があるのでしょう。森有礼は日本の最初の文部大臣です。
2006年12月13日
中島みゆきは歌っていました。歌ってもらえるあてがなければ人は自ら歌びとになるどんなにひどい雨の中でも自分の声は聞こえるからね中島みゆきの音楽はカーステレオには適しません言葉を聞いてしまうからです。中島みゆきの音楽はBGMにはなりません。子守歌にもなりません。言葉を聞いてしまうからです。中島みゆきがお嫁に行けないのは男性に見る目がないからです。彼らに意気地がないからです。彼らに自信がないからです。あんなにかわいい人なのにかわいい女に見えません。あんなに淋しい人なのに淋しそうに見えません。見透かされているように思うのです。そんな人ではないのにです。バカにされるのを恐れるのです。そんな人ではないのにです。何の苦労もなしにポンポン歌うように見えるのです。そんな人ではないのにです。中島みゆきを扱えるのはきっとトンデモナイお馬鹿さんかとんでもない天才さんです。中島みゆきは歌っています。君の心がわかる とたやすく誓える男になぜ女はついてゆくのだろうそして泣くのだろう中島みゆきは望んでいます。空と君との間には今日も冷たい雨が降る君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる先日新しいCDを二枚買いました。
2006年12月12日
とってもいい天気でした。長島美術館は高台にあります。自分の足音スニーカーが石の階段を踏む音が聞こえました。風がさわさわと走って行きました。まるで又三郎のやってくる日の空のようにです。ヤシの木の横を風が駆け抜けていきました。イタリア・ボローニャ国際絵本原画展に行ってきました。原画を見て歩いていると幸せな気持ちになります。思わず笑ってしまう絵もあります。私の方がうまいぞ・・とは口に出しては言いません。正直に言うと私は宮沢賢治は好きではありません。文章がヘタくそです。けれども彼の世界には何故だか惹かれてしまいます。正直に言うと私は子どもが好きではありません。アイツらは少し乱暴です。アイツらはとても残酷です。けれども・・・
2006年12月11日
新しい歌に変わっていました。クリスマス クリスマス孫ぃせびらるっ まごぃせびらるっ眼鏡爺。 メガネじぃまもなくクリスマスがやってきます。目にいれても痛くない孫たちにプレゼントをせがまれておじいちゃんは・・・ くらいの意味でしょうか。そのまんまの歌に仕上がっています。世の中のおじいちゃん・おばあちゃんは孫のこととなるとそれこそ目にいれても痛くないと聞きます。私はじじばか・ばばばか・・・大好きです。親バカ・・・大好きです。子ども達が・・というのではありません。子どもをみつめる父親たちの孫を見るおばあちゃんたちのその表情が好きです。 ***** 毎月掲載させていただいているさつま狂句のこの看板?は 鹿児島市の西田本通りにある「メガネのふじ」さんに掲げられているものです。 車の窓からみつけるたびにうれしくなってしまいます。 以前に一度だけメールを頂戴したことがあります。 お店の御主人のお母様が詠んでおられるとのことでした。
2006年12月10日
ジョセフ・J・ロシュフォートという人物がいます。アメリカ海軍通信情報課の創設者であり。二次大戦開戦時の太平洋艦隊情報中枢の無線監視局HYPOの局長です。戦後、真珠湾調査両院合同委員会に呼ばれたハズバンド・キンメル提督は語っています。ハワイに対する攻撃が実施される可能性を示す何かの兆候をもし私が掴んでいたなら真珠湾を防衛する用意を調えていたことだろう・・・と。11月28日から30日にかけての週末太陽に発生した磁気嵐の影響で赤城から発進された無線電信は大平洋を横断してオアフ島・アラスカ州・及びアメリカ西海岸の米海軍無線傍受局と客船ルアライン号にまで届いていました。ロシュフォートは11月30日付けの通信概要でこのことをキンメルに報告しています。キンメルはこの報告書を読んで情報参謀エドウィン・レイトンに尋ねます。空母はどこにいるのか・・・・と。まさか奴らはダイヤモンド・ヘッドの先を回っているのではないだろうね・・・・と。レイトンは答えました。その前に発見したいものです。・・・・と。雨が上がって桜島が美しい風景を見せてくれていました。私は少しいらぬおしゃべりが過ぎてしまったようです。今。私に大平洋戦争を語る必然などないのです。私は。大きな風呂敷を広げてしまったようです。ちょっと調子に乗ってしまいました。時間がないことを言い訳にしてちょっとはしゃいでしまいました。軽々しく語っていいものとそうでないことがあることを忘れてしまっていたオバカです。ちょっと頭を冷やします。不愉快を届けてしまったのだとしたら謝らなければなりません。ちょっと頭を冷やします。ごめんなさい・・・でした。書き始めてしまったものをおさめるためにアメリカサイドの情報をほんの少しだけ書きました。これもまた蛇足だったかもしれません。
2006年12月09日
昭和16年12月8日のできごとです。0:25 米海軍通信局、傍受した日本の「対米最終通牒(覚書)」の暗号読解文を海軍首脳に配布する。1:00 米軍情報部、日本の「対米最終通牒(覚書)」を解読。1:25 マーシャル陸軍参謀総長「対米最終通牒(覚書)」を読む。1:30 第一航空艦隊の第一次攻撃隊183機、真珠湾に向け発進。2:30 ワシントンの日本大使館「対米最終通牒(覚書)」暗号文の解読終了。2:45 第一航空艦隊の第二次攻撃隊167機、発進。3:19 第一次攻撃隊、オアフ島の攻撃開始。3:28 ハワイ海軍航空隊司令官、「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と全世界に放送。3:47 ルーズベルト大統領、真珠湾攻撃の報告を受ける。4:05 野村・来栖両大使、米国務省に到着。(21分ハル長官に「対米最終通牒(覚書)」を手交する。4:32 第二次攻撃隊、オアフ島攻撃開始。東京は開戦を決意した時点で宣戦布告文を作成していました。暗号電報でワシントンの大使館に逐次送達されました。東郷茂徳外相が野村中米大師に「対米最終通牒(覚書)」を発進したのは12月6日のことでした。大使館で信じられないミスが発生しています。当時の中米日本大使館は事務体制が整っていなかったのです。その上宿直も置かれていなかったのです。ワシントン時間の12月7日正午に米国務省に通達されるはずの電報は同日の朝にはまだ山積みのまま手つかずだったのです。暗号を解読してタイプするのに手間がかかったために12月8日朝ハワイ空襲が開始されたときこの宣戦布告文章は国務省に届いてはいません。日本の奇襲・だまし討ち・・絶好の宣伝材料は提供されました。どうしても12月8日をはずすことができませんでした。クダクダ・ウダウダ読みにくい文章をごめんなさい。つまらない文章をごめんなさい。電波傍受・暗号読解は戦争のもうひとつの局面です。情報の戦いがある意味では現実の兵力にも匹敵します。情報戦の裏側でとんでもないドラマが生まれていました。日本だけではありません。アメリカでもまた同時進行でたくさんの人物の思惑を含んだたくさんのドラマが繰り広げられていました。
2006年12月08日
山本五十六は答えてました。それは是非やれと云われれば初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないがかくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい。近衛文麿。首相に言った言葉です。山本五十六は手紙に書きました。個人としての意見と正反対の決意を固め其の方向に一途邁進の他なき現在の立場は誠に変なもの也。之も命といふものか。そしてこの電報は発信されました。トラ・トラ・トラ・・奇襲成功セリ03221941年12月8日のことです。海面下ではたくさんのドラマが生まれていました。日本でもアメリカでもです。歴史のひだに織り込まれて眠っていた事実がしだいに表に出てきています。今はすでに「アメリカは真珠湾攻撃を知らなかったのでしょうか」という問いは意味を持ちません。アメリカが誰であるかというのは大きな問題ではありますが。時間ができたらイーストウッドのふたつの映画・・見てみたいと思います。
2006年12月07日
そしてこの電報は発信されてしまいました。1941年12月2日午後3時です。1939年9月から連合艦隊司令長官に座にあったのは山本五十六です。大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものならば此を避け此の際隠忍自重臥薪嘗胆すべきは勿論彼はそう考えていました。しかし対米戦争の可能性を考えるときハワイにある米艦隊を奇襲撃破することが不可欠の要件であると考えてもいました。そのために一年あまりの時間をかけてハワイ奇襲の作戦を立て六隻の第一級航空母艦を集めてハワイを攻撃する案を作成していました。最後の御前会議は12月1日に開催されその場で英米蘭に対する開戦が決議されました。それまでに開戦の準備を行っていた統帥部は12月8日開戦を意味する電報を陸海軍の司令官に発しました。ニイタカヤマノボレ1208・・・です。12月2日午後5時30分にこの文章を打電発令せよこの電報はその指示書です。まもなく12月8日が訪れます。1941年日米開戦の日です。今から65年前日本とアメリカは戦争を始めようとしていました。私たちは歴史から何を学べばいいのでしょうか。美しい日本をめざすこの国の内閣が防衛庁を防衛省に格上げするかも知れないという噂を聞きました。私には難しいことは分かりませんが。戦争は繰り返してはならないと思っています。私は政治を語りません・・・が。
2006年12月06日
昭和58年1983年11月来日したレーガン大統領は話しました。1865年ナガサワ・カナエというサムライスチューデントは日本を発ち西洋で学んだ。10年たって彼はカリフォルニアのサンタ・ローザで小さいながらもワイナリーを開いた。そしてほどなくカリフォルニアのブドウ王として知られるようになった。衆議院本会議場での演説です。日米両国にとってこの元戦士のビジネスマンの功績は多大なものがある。そう言って磯永彦助(長沢鼎)をたたえました。ロン・ヤス会談で防衛問題・貿易摩擦が話し合われたその時のことです。20年以上も前のことです。レーガン大統領はバック・ツー・ザ・フューチャーのレーガンであり日本の首相は中曽根康弘だったのです。曇り空ではありましたが桜島がきれいに見えていました。雲の隙間から太陽の光がこぼれていました。昨日の朝の風景です。今日もいいお天気になりそうです。
2006年12月05日
磯永彦助の弟は赤星弥之助といいます。鹿児島の図書館を寄贈した人物です。磯永彦助が最後に帰国したのは大正12年です。弥之助の孫山路澄子が夫とともに磯永のアメリカ帰国に同行しました。澄子の夫が外交官となりワシントン大使館勤務となったためです。三人は関東大震災のニュースをホノルルで聞いています。昭和三年九月磯永彦助は留学以来使った変名の長沢鼎として81歳の生涯をサンタローザで閉じました。日本政府はブドウ王として知名士として国威を発揚した磯永の功労に勲四等を贈っています。磯永のファウンテン・グローブ・ワイナリーはパラダイスリッジワイナリーというところで偲ぶことができるようです。chiblitsさんアメリカ在中のみなさん是非確認なさってみてください。また在サンフランシスコ日本国総領事館のホームページにも彼の記事をみつけました。少し長く磯永の事を引っ張ってしまいました。本当はネタがなかったからです。本当は時間もなかったからです。師走12月ちょっとバタバタしています。ねじりはちまき頭につけてコーヒーがぶ飲みしています。私の電話は居留守電話になっています。
2006年12月04日
おしょうゆの味のお団子を鹿児島では「しんこだんご」といいます。とっても素朴な味のとってもなつかしいおだんごです。今日も母と出かけたついでに買ってきました。磯永彦助は島津久光の墓碑建設の一助になればとかなりの額のドルを鹿児島に送金しています。けれどもそのお金は返送されてしまいました。磯永のことを「故郷喪失者」とみなしたのです。西南戦争に帰国しなかった彼を冷たく扱ったという説もあります。彼はひどく傷ついたと思います。明治の末老年を迎えた彼は半世紀ぶりに故郷鹿児島に一時帰国しました。鹿児島の街でしんこだんごを目にした磯永は五円札を出してしんこだんごを山ほど買いました。当時一串一銭か五厘ほどの値段です。幼い少年の頃に藩の命令によって渡欧してからひとりで外国で暮らし耐えに耐えてきた孤独の日々にたいする自分自身への慈しみが涙となってほとばしりでました。かつての青春の日々を取り戻そうとする血の涙だったのです。見てきたような書きぶりをしてしまいました。磯永としんこだんごのエピソードです。しんこだんごは頑張った男の涙の味がするのです。
2006年12月03日
サンタローザに落ち着いたハリスと磯永はブドウ園を開きました。磯永はハリスの清潔で高格な人柄に傾倒して行きました。ハリスもまた若い日本の若者に惹かれて行ったのだと思います。米人牧師ドクトル・ハリス(トマス・レーク・ハリス)にはひとりの妹がいました。兄は彼女に磯永との結婚を勧めたのです。彼女は兄の強制に死をもって抗議しました。自殺してしまったのです。磯永のことを好きではなかったのです。彼は打ちのめされ長い沈痛の日々を送りました。ハリスの死後ブドウ園を引き継いだ磯永は周囲20kmの大ブドウ園の開拓に成功しました。300人を使用して彼が製造した「サクセス・ワイン」はヨーロッパや東洋にも輸出され大正時代の日本にも積み出されて行ったのです。ファウンテン・グローブ・ワイナリーが彼のワイナリーです。薩摩からの留学生たちは全てが変名・仮名を使って生活していました。密出国密入国だったからです。日本は鎖国をしていたからです。彼の名前は「長沢鼎」とされました。薩摩藩がつけてくれた変名です。磯永彦助は高麗町で生まれました。鹿児島県立甲南高校の正門のすぐ近くです。甲南福祉会館の敷地内に彼の生誕の地の碑が立っています。私が小学校の頃に通った私塾のすぐ近くでした。中学や高校の頃ふらふらと歩いたあたりでした。町には懐かしい雰囲気がありました。ほんの少し師走の慌ただしさもありました。私はちょこっと逃げ出して彼の生誕の地を眺めに行ったのです。今日見に行ったのです。磯永彦助は明治の末と大正12年に一時帰省ははたしました。けれども彼は亡くなるまでこの長沢鼎の名前を使用していました。留学生として藩からもらった名前だったからです。心は14歳で旅だったままだったのです。彼は昭和9年3月81歳で亡くなっています。
2006年12月02日
14歳で留学した磯永彦助は最初スコットランドのグラバー邸から農学校に通っていました。1867年慶応3年の頃のお話です。やがて事情があり米人牧師のドクトル・ハリスに伴われて渡米ミシガン湖のほとりで農耕しながらハリスに哲学を教わりました。まもなくハリスは西部への移住を決意します。日本人留学生のうち磯永だけがハリスに同行しました。カルフォルニアのサンタローザに落ち着いたハリスと磯永はブドウ園を開きました。磯永彦助は生涯妻を娶りませんでした。それには理由があったのです。曇りのち晴れ・・今日の鹿児島の天気です。桜島は靄と雲の中に隠れていました。きっと寒くなって来たせいです。その気持ち分からないではありません。私はオコタは苦手ですがフトンにくるまっていつまでも横になっているのは好きです。私は雪が大好きですが寒い朝は苦手です。胸とのどがキュっとしてしまうからです。胃が持ち上がってきてギョっとしてしまうからです。雨があがって鹿児島もずいぶん寒くなりました。けれどもまだ息が白くなるようなことはありません。
2006年12月01日
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