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新書イスラームの世界史 (1)『都市の文明イスラーム』 (2)『パクス・イスラミカの世紀』 (3)『イスラーム復興はなるか』 講談社現代新書 以上の三冊は、イスラーム世界の歴史を概観できる今のところもっとも手ごろで水準の高い新書であると思います。 『都市の文明イスラーム』では、まず「『イスラームの世界史』への序言」が、巻頭にすえられています。イスラームとは何か、開かれた世界、異文化との対話などの項目から、この部分が全三巻すべてを包み込む解説であり、また、なぜいまイスラームなのか?という問への意欲的な解答であることが理解できると思います。 そして、イスラーム教の成立、ウマイヤ朝からアッバース朝への流れ、トルコ人の登場、地中海、さらにアフリカ世界に対するイスラームの浸透が記されます。 『パクス・イスラミカの世紀』では、アッバース朝の衰退=イスラームの衰退ではないという立場から、まず「モンゴルが『世界史』をひらく」(杉山正明)が記されます。たしかにモンゴルはアッバース朝を滅ぼして、カリフ制度を消滅させました。しかし彼らが西アジア世界に残した諸制度は確実に次の世代に受け継がれています。モンゴル=破壊者、という思い込みはそろそろ修正されねばならないと著者は事実を挙げて語ります。 ティムール帝国、オスマントルコ帝国、ムガル帝国が登場します。そして現在世界最大のムスリム人口を有するインドネシアなどのイスラム化の端緒が記されます。 『イスラーム復興はなるか』では、オスマン帝国の解体、西欧諸国によって植民地とされた諸イスラーム世界における独立運動とイスラームの復権、イランを中心としたシーア派の活動、ロシア、そしてソビエト連邦の元でのムスリムの苦闘、メッカ巡礼と周縁地域の諸事情が述べられて、イスラーム世界の現状と今後の展望が語られてこのシリーズは終わります。 現在のイラン、イラクで、「○○師」とよばれる「ウラマー」たちの影響力が、西欧の知識を身につけた知識人や政治家よりもあるのはなぜなのかを考える事は大切な事です。ウラマーとはイスラーム法を身につけた知識人です。イスラーム教では神と信徒を仲介する聖職者は存在せず、その代わりにウラマーたちが民衆の中で活動し、尊敬を集めているのです。
2009.09.30
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職場で、「明日、10月1日は国慶節だね」と話していたら、Aさんが、「そういえば、北京オリンピックの時には、雨が降りそうだったからロケットを飛ばして雨雲を散らした、とラジオで言ってたから、今回も飛ばすのかな」と言います。 ワタクシ、びっくり仰天。そ、そんな馬鹿な・・・と検索してみると、ケータイのサイトでも引っかかってきました。以下にコピーしたのは、パソコンで検索した結果なのですが、驚きました。 明日の北京の天気を調べてみると、晴みたいで、ロケットは飛ばないでしょうね。 それにしても、人為的にこんなことやっていいんだろうか。どこかに影響がでないのだろうか。そんなことよりも、国威をかけたオリンピックの開会式が晴になってもらわないと困るのだろうか。 中国は、ワタクシと同じ還暦であります。 北京オリンピックの閉会式が行われた8月24日、中国当局は雨天を避けるためロケット弾を発射、雨雲を散らした。8日の開会式でも同様の「人工消雨」措置が取られていた。24日午後8時スタートの閉会式が雷雨の影響を受ける恐れが出てきたため、午後2時から8時50分にかけて飛行機8機を飛ばし、雲を消す作用のある物質を大量に散布。同時に北京、天津、河北省から計241発のロケット弾を発射した。http://www.maniado.jp/community/neta.php?NETA_ID=1905に書いてありました。
2009.09.30
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びっくりしました。薔薇豪城さんからの書き込みの中に、『ガキデカ』という懐かしいコミックの事が出てきたからです。 「八丈島のキョン!」とは・・。 山上たつひこ氏の漫画を最初に読んだのは、『光る風』からでした。シリアスな政治漫画でした。 その後、『ガキデカ』とか『喜劇新思想体系』などの路線に行ってしまうのですが、どこかに「『光る風』で右翼に脅迫された」と書いてあったという記憶があります。 『ガキデカ』に出てくる「こまわり君」は、先日の選挙で落選し引退した某宗教政党の重鎮に似ているとおもっていたので、ワタクシは、彼がテレビに出てきて、したり顔で何か言うたびに、「こまわり君」の事を思い出したのでありました。 アフリカ象が好き! 死刑! なんてのもありましたね。
2009.09.29
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東南アジアに就いての本を読んでいたら、以下のようなお話が載っていました。インドネシアのお話です。 ネズミジカ(体長50cmくらいの小さな鹿)がワニをだますお話です。一度だまされたワニは復讐の気持に燃えていましたが、ネズミジカは、川の真ん中の石の上で寝てしまい、気がつくと川は増水しており、岸にわたることは出来なくなっていました。そして彼の周りにはワニたちが・・。 「ネズミジカよ、今度こそつかまえたぞ。もう逃げられまい。」 「いや逃げようとは思わないよ」と彼は答える。 「この前だましたのは悪かったと思っている。ワニに食われるのが僕の運命なんだ。もう抵抗はしないよ。」 ネズミジカはしばらく黙っていたが、やがて言葉を続ける。 「なぜ、こんなに大勢仲間を連れてきたんだ?」 「みんなでお前を食べるのさ。」 「やれやれ、また例のさわぎかい。」 「何のことだ?」 「僕のことでけんかになるのはいやだな。僕は君にだけ食べられるほうがずっといい。仲間を帰らせてよ。」 「そうはいかないさ。俺は仲間を食事に招待したのだ。帰らすことなんかできるもんか。」 「じゃ、仕方ないけど」とネズミジカは落ちついたもので、「でもどうするつもり?僕のからだはひどく小さいけれど、公平に分けるつもりなら、秤がいるよね。」 「そりゃまずいな」とワニはため息をつく。 「もし公平に分けないと、仲間たちは怒って君にかかってくるよ。」 「俺もそのことは心配しているんだ。お前が自分で分け前の心配をしてくれれば、誰も不平を言わないよ。」 ワニの仲間たちも同意する。 「それじゃ、できるだけ公平に分けるからね。計算しやすいように一列に並んでよ。」 ワニどもが一列に並ぶと、ネズミジカは、平たい石の上から最初のワニの頭の上に跳び乗り、「君には頭をやるよ」、「君にはノド」、「君には右の前足」といいながら、次々と跳び移って行く。そして最後のワニのところで、「君には後姿をやるよ」と叫ぶなり、岸まで跳んで森の中に消えて行った。(P112~113) 日本の「あの昔話」に似てますね。
2009.09.29
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ニュースを見ると、NHK朝の連続ドラマ『つばさ』が、視聴率13,8%で低視聴率記録を更新したと書いてありました。ちなみに、これまでの最低は、『ひとみ』で、15,2%。 歴代ドラマの視聴率を見ると、最高が『鳩子の海』の47,7%。これは記憶にありません。印象に残っている『おはなはん』で45%。 最近のもので、「面白かったなぁ」という記憶がある『芋たこナンキン』で16,8%。『ちりとてちん』で15,9%なのであります。『ちゅらさん』で22,2%。 もうこうなってくると、視聴率なんぞどうでもいいという気持になります。『ちりとて』で15,9%いうのはどういうこっちゃ!とわたしは怒るのであります。あんなにオモロイのに。DVDにまで撮ったっちゅうのに。 「朝ドラの歴史的使命は終わった」なんてことをいう気はありません。ワタクシが「おもろいなぁ」と録画して楽しみたくなる番組を放映していただきたい。サユリ様が出演されるのなら、ワタクシ、DVDを買いに電気店に走りますよ。無理だろうなぁ。でも、やってみてくれませんか、NHKさん。視聴率が1%になってもワタクシは見ます。
2009.09.28
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今日はかなり充実した一日でした。 まず、最終日となった「ボローニャ国際絵本原画展」(西宮大谷美術館)に行って来ました。入口左に、今井綾乃さんという方の描かれた「猫の靴屋さん」の絵の超拡大版がどーんと置いてあり、沢山の人たちがここでまず記念撮影。 会場内へと入ります。わたし、実はこの原画展は初めてなのです。 結果から言いますと、ホントに楽しかった。実に様々な画材があります。鉛筆、ペン、アクリル絵の具、刺繍。様々な描き方があります。細密にして精密な描写で描かれる動物や鳥の姿。数十、数百の人々が細かく描きこんである絵。省略の極致のような描線。極彩色。淡色。くっきりした絵。ぼかされた描き方。吸い込まれるようにして眺めました。その間、一つのことばかり考えてました。それは、「絵が描けたらなぁ」ということ。「描きたい」という気持と「描けない」という現実との間を行ったり来たりしてました。で、一つ考えました。具象はダメだけれど、イラストレーションでデフォルメ(というか勝手にデフォルメされますが)したらいいかも・・。絵を眺めながら、考えながら、私はニコニコしていたと思います。素敵なものを眺める事は心が開放されることです。様々な国からの作品がありました。特に目を惹かれたのがイランでした。伝統的なミニアチュール(細密画)の技法を取り入れた作品。古代ペルシアの遺跡の浮き彫りを模したような登場人物が出てくる作品。「伝統」というものを感じました。図録と絵葉書を買いました。絵葉書集を開けてみてびっくり!!ぜんぶ、ネコのシリーズだったのです。何も考えないで、「これお願いします」と買ったのですが。
2009.09.27
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『格闘するものに○』三浦しをん 新潮文庫 2000年に出版された作者の第一作です。就職活動をした体験が軸となって展開していくのですが、24歳でこんな作品を書けたことがまず驚きです。「ウィキペディア」で見ると、早川書房の入社試験を受けに行って、その時に書いた文章が編集長の目に止まり、作家になるようにすすめられたと書いてありますが、まことにさもありなんです。 編集者を目指していた彼女が受験した出版社はたとえば、K談社とか集A社とか書いてあるのですが、これはもう誰が読んでも、「あ、あそこか」とわかる社名になっていて、彼女の作品がK談社からも集A社からも出ていない理由が実にはっきり、くっきりとわかる仕組みになっています。特にK談社の場合、当時の面接担当者が、この小説が出版された後に無事でいられたか・・・ふと心配になりました。タワラマチさんが持ち込んだ歌集をポイしてしまって、他社にベストセラーをさらわれてしまった某社では担当者がクビになったといいますから。 体験した事をそのまま書いた私小説ではないのです。政治家の父の後継者として自分がなるか弟がなるかで親族会議が開かれて・・と言った部分は「お話」なんでしょうが、この部分が就職活動と絶妙に絡まります。 そして弟が失踪し、実は山村に潜んでいた・・・という部分は、近作『神去なあなあ日常』にもつながっているのか、などとこちらも妄想を働かせることにもなったりします。
2009.09.27
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『秘密の花園』三浦しをん 新潮文庫 ウィキペディアで、「三浦しをん」を見ると、「好きな行為 妄想」とあります。この作品は、極めてリアルに語られた妄想といっていいのではないかと思いながら読み終えました。 中谷翠(すい)、五十嵐那由多(なゆた)、坊家淑子(としこ)は、キリスト教系の女学校(小・中・高)聖フランチェスカの高校二年生です。この作品は三篇の中、短編からなっています。第一話「洪水のあとに」では那由多、第二話「地下を照らす光」では淑子、第三話「廃園の花守りは唄う」では翠が中心となって小説が進行します。 三人ともに「なにか」を抱えています。那由多は幼少時のある体験、淑子は、教師との性的な関係、翠は、多数と無難に付き合えない「自分」を。 三人の生活の舞台はかなり詳細に記述され、地図の中に位置を落としていけば、かなり正確に地図が描けるのではないかと思うぐらいです。そして三人の内面描写もリアルに、それぞれのパーソナリティに沿って描かれていきます。わたしが驚くのはこの点で、たとえば淑子は、ずっとこの作品の中では淑子なのです。彼女は那由多のようにも、翠のようにも行動せず、思考もしません。この人物造形力には惹きこまれます。およそ破綻がない。 このような「お話」を構想し構築していくためには、一種独特の「妄想力」(こんな言葉はないかもしれないけれど)が不可欠であると思うのですが、これも作者の長年の鍛錬(?)なのでしょうか。 これまでとは一味違った作品を読むことができました。
2009.09.27
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お芝居を観てきました。タカコキカクの「最新光速チルドレン」。 人間の寿命はのばせない。ではどうすればいいか。他人よりも速く動き、他人よりも速く喋り、他人よりも・・・何でも速くやれるようになれば、その人は他の人よりも長生きしたという事にならないか・・。そんな事を思いついた博士がいて、そのアイデアを子どもで実験します。そこで生まれた「光速チルドレン」、そして最新型の「最新光速チルドレン」。 とまぁこんなお芝居が展開するはずが、博士を演じる役者がいなくなっちゃって・・・どうしようと思っていたら、客席に「伝説の俳優」と言われた笹倉がいて・・・。拝み倒して博士の役を演じてもらうが、彼は4時には子どもに会いに行かなければならないと、2時間予定の芝居を半分の1時間でやってしまえと無理難題を投げかける。断れない劇団の面々は、なんとか短縮しようと四苦八苦。あ、時間がない!でも、時間ってなんだ?他人よりも速く生きることはそんなに大切か?そんなことしてホントに大丈夫か? 27日(日) 13時、17時の公演もあります。興味のある方は見に行ってください。 場所→地下鉄谷町線「阿倍野駅」1番出口より徒歩2分のロクソドンタブラック。喫茶「田園」を曲がったとこです。 詳しくは、http://takakokikaku.cocolog-nifty.com/blog/cat3471313/index.html で、それから用事があって堺まで。阪堺電車にはじめて乗りました。路面電車です。時間があったので宿院の近くの商店街を歩きました。与謝野晶子の短歌が垂れ幕に書いてあって下がっていました。 ○明日といふよき日を人は夢に見よ今日のあたひ(値)はわれのみぞ知る 今日のお芝居のテーマと微妙に絡まる歌が目に止まりました。
2009.09.26
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『きみはポラリス』三浦しをん 新潮社 この作家の引き出しの多さに驚いています。 まず、ギャグの豊富さ。同じパターンが出てきて、「あ、また・・・」ということは、六冊読んできてまだありません。そして、題材の多様さ。文楽、林業、箱根駅伝、便利屋稼業、以上は長編です。 『きみはポラリス』には11の短編が収録されています。なぜか、「きみはポラリス」という作品はありませんが。 作者は初出・収録一覧のページに、以下のように書いています。 「恋愛をテーマにした短編」の依頼が多い。以下、依頼者からあらかじめ提示されたテーマを「お題」、自分で勝手に設定したテーマを「自分お題」と表記する。「お題」または「自分お題」に沿って書いた恋愛短編を集めたのが、本書である。 たとえば。 裏切らないこと 小説新潮2006年3月号 自分お題「禁忌」 この作品の中で、B君が同じマンションに住むA君が自宅の鍵を忘れてきて困っているのに同情して、「平気だよ。俺、うちの鍵持ってるもん。これでAくんちのドアを開ければいいよ」と提案し、本当に開いてしまった、という話が出てきます。当然のことながら大騒ぎになり、全部で500戸ある住宅の鍵と錠が調べられて、「結論として、B君の家の鍵でA君の家のドアが開いたほかは、すべての鍵は片割れの錠以外には効力を持たないことがわかった。ものすごい確率の偶然で、『不良品』の鍵の存在が発覚したことになる」という顛末を迎えます。 この話と、人間同士の結びつきというテーマが見事に絡まります。一組の若い夫婦と子ども、そして、老人二人。この老いた女性の言葉、「本気を貫く」とはどういうことか、「裏切っちゃいけない」とはどういうことかは、思わずページをめくる手が止まるくらいの重みと凄みがあります。 才能という言葉が浮かんできました。
2009.09.26
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阪神電車の窓に顔を寄せて沿線の風景を眺めていると、明かりのともった窓が目に入ります。多くはすりガラスであったり、カーテンが引いてあって中は見えません。でも、時々、中の様子が見えることがあるのです。 一番多いのは、誰もいない部屋に明かりがともっているケースです。 その次は、食卓を囲んでいる様子。ちょうど帰る時間が夕餉の頃だからでしょうか。 オフィスで数人の人たちが働いている光景も目に入ります。遠目ですから、鼻をほじっているのかもしれないし、ゲームをしているのかもしれないけれど。 夫が妻の胸にナイフを突き立てているところとか、もっとドキドキするような光景がいつかは目に入るのかなぁ、などと妄想をたくましくしながら夜の窓をぼんやりと見つめていると、西ノ宮駅に着きます。
2009.09.25
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『コンスタンティノープル陥落す』S・ランシマン みすず書房 1969年発行のこの本は、塩野七生さんの本が発行されるまでは、唯一と言っていい1453年のコンスタンティノープル陥落に就いての本でした。 第一章を読み終えたとき、私は、コンスタンティノープルはよくこれまで滅びずに来たものだと思いました。皇帝が長年対立していた西欧、特にローマ教会との合同を条件として援助を申し出る事自体、この都市が追い詰められていた状態を浮き彫りにする事柄はありません。 第二章では、メフメト二世の父であるムラトの時代に至るオスマントルコの歴史、そしてビザンツ帝国の歴史が語られます。 第三章では、ビザンツ皇帝コンスタンティノスとメフメトについての記述となります。風前の灯であったビザンツ帝国の皇帝が結婚相手を探すという事に就いて数ページが割いてあるのですが、哀しいものがあります。またメフメトと父ムラト、そして大宰相ハリル・パシャとの確執の原因の一つが、「コンスタンティノープル攻略」であったことが記されます。 第四章はビザンツ帝国が行った西欧に対する援助要請の最後の努力が、第五章ではメフメトが行った包囲の準備が記されます。 第六章から第九章までは攻撃側と防御側のそれぞれの努力が記され、そして第十章「コンスタンティノープル陥落す」では、いよいよ「その日」のことが記されます。 メフメトは親しくイェニチェリ兵を指揮して壕まで進み、そこに立って、傍らを過ぎてゆく兵士を大声で激励した。一波また一波と、これら、新手の堂々たる、そしてがっしりと武装した兵士たちは防柵に駆け上がり、その上の土樽を打ち砕き、角材の支柱をたたき切り、破壊できぬ箇所にははしごをかけ一波ごとに、あわてることなく、後続の波に道を開いた。キリスト教徒軍は疲れきっていた。かれらはほんの数分間小休止をとっただけで、すでに四時間以上も戦ってきていた。しかし、かれらには、もしここで退けば万事休する事がわかっていたから、その戦いぶりは死に物狂いであった。彼らの背後、市内では、諸教会堂の鐘がふたたび鳴りひびき、祈祷のつぶやきが天にもとどけと高まっていった。(P201~202) それまでは獅子奮迅の戦いぶりを見せていたジェノヴァ人のジュスティニアニは銃弾に傷つき、撤退、この箇所が総崩れとなります。 ただちに、多くのイェニチェリ兵が内壁に達し、抵抗も受けずにこれによじ登った。突然、誰かが見上げて、トルコ国旗がケルコポルタ上方の塔高くひるがえっているのを見つけた。叫び声が湧きおこった。「都市は占領された!」(P204) 第十一章では、征服後のコンスタンティノープル(徐々に「イスタンブル」と呼ばれますが)がメフメトの指示によってどのように復興して行ったかが述べられます。 第十二章では、コンスタンティープル陥落が西欧に与えた衝撃と、それにもかかわらず何も行われなかった事、そして、バルカン方面、黒海沿岸へのメフメトの征服活動の進行が述べられます。 最終章の第十三章では、ビザンツ帝国の生き残りの「その後」が記されます。 著者は最後に、1453年の陥落の日が西ヨーロッパとギリシア知識人ではどのように伝えられたかを記し、対象的な一文でこの、歴史書を閉じます。 村々では、人たちは、より正しい知識をもっていた。そこでは、かれらは、コンスタンティノープル陥落の報せがとどいたときつくられたいくつかの哀歌、すなわち、かの都市は、その奢侈と誇り高さと背教とのため神裁を受けたが、最後まで英雄的戦闘を戦いつつ陥落したのだ、という哀歌を覚えていた。かれらは、かの恐怖に満ちた火曜日、まことのギリシア人なら誰でも今なお、不吉の前兆となったことを知っているかの一日を忘れなかった。しかし、かれらが、最後のキリスト教徒皇帝が西方の同盟者どもに見捨てられ、城壁の突破口に立ちはだかって、衆をたのむ異教徒の大軍に圧倒されるまで敵軍に抵抗し続け、ついに、帝国をおのが死出の装束として戦死したことを語るとき、彼らの心はうずき、彼らの勇気は昂揚するのであった。(P278)
2009.09.24
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こういう光景を眺める事が出来るというのが、わたしにとっての幸せの一つです。 先ほどは、ベッドの端で寝ていたチャーが、寝返りをうった途端に下に落ちました。しかしそこはネコ。ちゃんと足から着地して、何事もなかったかのように立ち去りましたが、内心かなり動揺していたのではないか・・・とわたしは推測しております。
2009.09.23
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五連休に入る前の日、司書のAさんに、何冊か本を紹介してもらいました。 「これくらいかなぁ・・」とAさん。ふと棚を見て、『モモ』に目が止まりました。 「読んだ事あります?」 「いや、まだなんです。」 「読んだ方がいいですよ、絶対面白いから。」 司書室で話しているところへNさんが来訪。『モモ』に目を留めて。 「これ面白いのよねぇ。絶対にお薦めです。」 で、読み終えました。 「探偵小説のようなスリルと、空想科学小説的なファンタジーと、時代への鋭い風刺があふれています」と訳者の大島さんは紹介していらっしゃいますが、まさにその通り。 はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしづつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむ事もできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。(P321~322) 時々この部分を読み返さなくてはならないようです。 今の私には、人生が楽しいと感じさせてくれる人たちと、可愛い三匹、そしてこの世界そのものの美しさを楽しむ気持と、読書の楽しみがあります。この幸せを心に刻まないといけないですね。また一冊、いい本と出逢いました。
2009.09.23
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『まほろ駅前多田便利軒』三浦しをん 文藝春秋 ページをめくると、今風の若者の劇画タッチのイラストが目に入ります。 多田啓介君は、東京の「まほろ市」で便利屋をやっている青年です。彼の事務所兼宿泊所へ、高校の同級生の行天春彦君が転がり込んできます。多田君の迷惑を知ってか知らずか。 第一話は、チワワを預けたまま行方不明になった家族を探し当てて、娘とチワワとを対面させたまではよかったのですが、娘は行天君の一言で「うちでは飼えない」ことを納得し、「飼い主を探して」と多田君に依頼することになります。 第二話で、多田君はチワワの飼い主を探す羽目となり、「昼前だというのに、原形をとどめぬほどしっかりと化粧をしている。波打つ茶色い髪に真っ赤なバラのコサージュを挿し、蛍光グリーンの薄っぺらいワンピースには、ショッキングピンクの大きなチューリップ模様が散っていた。腕には、礼儀正しくドアの外で脱いだらしい、フェイクファーの黄色いコートがあった。「ジャングルに棲息する毒をもつ大トカゲが、インコの化け物を捕獲した瞬間」みたいな姿」をした「コロンビア娼婦のルル」から、「チワワほしい」と申し込みを受けます。二人はルルが飼い主としてチワワをちゃんと飼えるのか、元の飼い主の娘と対面させても大丈夫かをリサーチします。 ここいらへんはとてもしっかりした二人なのですが・・。 得体の知れぬ行天君を抱え込む事になってしまった多田君の苦労は続き、裏の世界の人たちも登場したりします。「三浦ワールド」を楽しめます。 多田君と行天君の履歴は後半で紹介されます。 135回直木賞受賞作品。
2009.09.23
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『オスマン帝国』鈴木董 講談社現代新書 オスマントルコの通史です。小アジアを根拠地とし、北アフリカ、エジプト、メディナとメッカ、イラクとシリア、そしてバルカン半島からハンガリー、黒海の北部地域までをその支配地域としたオスマントルコの動向は、西欧諸国にも多大の影響を与えています。 1453年のコンスタンティノープルの陥落のみではなく、1529年の第一次ウィーン包囲は、ハプスブルグ皇帝から宗教改革を弾圧する余裕を奪い、プロテスタント諸侯たちの協力を取り付けねばならないという事態を生む事となります。そして、ハプスブルグと対抗するためにフランスが選択したオスマントルコとの同盟関係は、後世の独ソ不可侵条約に匹敵するようなものかもしれません。 著者は、当時のヨーロッパとの比較において、オスマン帝国で実現された諸制度の利点を挙げます。 まず、学院、病院、貧者への給食施設のような公共福祉施設を運営するための「ワクフ制度」。これは、宗教寄進財産をもとにして公衆浴場、バザール、隊商宿、宿泊施設を経営して、そこから上る利益で公共施設を運営するというシステムです。 そして、ユダヤ教徒、ローマカトリック、ネストリウス派キリスト教徒、ギリシア正教徒など宗教を異にする人々への寛容政策。もちろん種々の制限はあるにしても、西欧社会ではイスラム教徒は存在する事さえ許されなかった事を考えれば、またユダヤ教徒への度重なる迫害を思い起こせば、オスマン帝国の共存の知恵の素晴らしさが浮かび上がってきます。 ヨーロッパの諸制度や文化に対するオスマン朝の影響もまた見逃せないものがあることを思うと、もっと注目されねばならない国であると思います。
2009.09.22
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『ぶらんこ乗り』いしいしんじ 新潮文庫 高校生の「わたし」が家に帰ると、おばあちゃんが、「でてきたんだよ」と机の上に置いてあった麻の袋を指さします。その袋の中に入っていたのは四歳の時から弟が書き残したノートでした。ふとしたことから弟は声を出す事が出来なくなりますが、その代わり、動物たちの言葉を解するようになったとノートに書き、動物たちの教えてくれたお話を「わたし」は知ることになります。 おしくらまんじゅう(としよりのカモメがもくげきしたこうけい) ほっきょくのペンギンたちが、おおきなひょうざんのうえにぎっしりかたまってすごしている。さむいからあつまっているんだろうか。おしくらまんじゅうみたいにおしあいへしあい。いちばんそとにいるペンギンがつぎつぎとうみにとびこんでゆく。 あそんでいるわけじゃない。 ちからのつよいものはかたまりのなかにいすわり、よわっちいペンギンをそとへそとへとおしだすんだ。そしてうみへおとす。 なんのためにか。 うみのなかにトドやシャチがかくれていないかたしかめるためにだ。 かいめんがまっかにそまれば、つよいペンギンたちはうみにはいらず、むれをぎゅうぎゅうそとにおして、よわいペンギンをどんどんひょうざんからおっことす。しばらくたつと、うみはしずかになる。トドがまんぷくになったんだ。トドはとおくへいっちゃった。つよいペンギンはじぶんからうみにとびこんでえさのさかなをさがす。そして、やっとつかまえかけたニシンを、そらからまいおりてきたカモメにまんまとよこどりされちゃう。 ローリング(どぶネズミのみたできごと) どうぶつえんのゾウのあしもとに、よく、まっくろいボールがころがってることがある。フンだろうか。それにしてはまんまるだし、ほしくさがつきでたりもしていない。なにより、においがちがう。もっとおいしそうな、おもわずひきよせられちゃいそうなかおりが、と゛ぶのほうまでたしかにただよってくる。 でも、いっちゃだめだ。ぜったいにだめ。そんな気がして、ドブネズミはけっしてちかづかない。 これがなにかというと、つまり、ゾウがあそんだおもちゃなんだ。 えさをたべているゾウ。そりゃ編もう、まいにちものすごいりょうのくさをゾウはたべる。そこへどうぶつえんのハトが、おこぼれめあてにまとわりついてくる。うるさいなあ。ぶん、とゾウはながいながいはなをひとふり。ゾウのはなって、じょうげさゆう、ぐるぐるとじざいにまわる。はなでなぐられたあわれなハトは、きゅう、ときぜつしちゃって、じめんにぽてんとおっこちる。 さて、ごはんをたべおえたゾウ。ごきげんでふりかえると、あれ、なんだかみなれないものがおちてるね。やわらかそうだよ。おもちゃだおもちゃ。ゾウはまえあしをきぜつしたハトのうえにのせ、ぐりぐりっとまわす。ゾウのあしのうらってじつにデリケートにできてて、すいかをつぶさず、たべやすいおおきさにじょうずにわることもできる。そのあしで、ぐりぐりっ、ぐりぐりっ。 ぐりぐりっ! あしをどけると、くろくてまんまるいボールができている。 ああ、あそんだあそんだ。 ゾウはぽーんとハトのたまをけっとばし、さんぽをはじめる。 このあそびを、どうぶつえんのしいくがかりは、 「ローリング」 とよんでいる。 「あ、またローリングやっちゃってる」 とか、 「ろーりんぐのたま、きょうはぜんぶで四つ」 だとかいって。 ここに書いてあることはホントでしょうか。ウソでしょうか。ホントらしいウソなのか。ウソみたいなホントの話なのか。 木の上に作ったぶらんこをこぎつづけている弟と「わたし」が、いろんなことを話しこんだ日々はやがて終りを迎えます。 おばあさんが出てきます。犬も出てきます。お父さんとお母さんも。登場人物たちはみんなくっきりと描かれていながら、どこか夢のようです。 夢のようなお話、読み終えてそう思いました。不思議な読後感です。
2009.09.21
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昨日は堺市に行ってきました。ちょうど、だんじりの試験引きの日でした。そろいの法被に身をかためているのは、大人の男性だけではなく、少年も、若い女性も。町中総出の行事です。本番はもっと凄いのでしょうね。 ○だんじりの笛遠ざかる鰯雲 まろ
2009.09.21
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○秋茄子のもがるるまでのぶらりかな まろ ※写真は、http://eat-a-peach.jp/newpage21.html を拝借いたしました。
2009.09.20
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『ロードス島攻防記』塩野七生 新潮社 十字軍によって獲得したパレスティナの地から聖ヨハネ騎士団が去らねばならなくなったのは、1291年のアッコン陥落によってでした。騎士団は1308年に東ローマ帝国領であったロードス島を征服し根拠地とします。 ロードス島は小アジア半島からすぐのところに浮かぶ島で、騎士団は医療活動を行う一方で、トルコ船を襲撃して、奴隷として船を漕がされていたキリスト教徒の救出につとめます。 1453年にコンスタンティノープルを征服したメフメト2世は1480年にロードス島に大軍を派遣しますが騎士団の3ヶ月にわたる抵抗、そしてトルコ陣内に発生した疫病のために撤退します。 メフメト2世の後継者のバヤジッド、孫のセリムの時代は大帝国をかためる事と、シリア、アラビア、エジプトの征服に費やされ、ロードス島にトルコの眼が向く事はありませんでした。 ロードス島に目を向けたのは、後に「大帝」と称されるようになったスレイマ-ンでした。1520年にスルタンとなった彼は、ロードス島攻略を真剣に考え始めるのです。 「法の人」「秩序の支配者」と呼ばれる事をこのんだスレイマ-ンは、1521年にヨハネ騎士団長に就任したばかりのフィリップ・ド・リラダンに向けて島を引き渡すようにとの親書を送ります。リラダンはこれを拒否、西ヨーロッパ諸国からの援助も期待できぬままヨハネ騎士団のロードス島攻防戦は開始されます。 ロードス島の城塞と都市の状態はP72「城塞都市」で詳述され、ロードス島にこもる騎士団が孤立せざるを得ない理由は、P92以下のオルシーニの言葉で説明されます。 城塞にこもるものたちは、騎士600人足らず、傭兵1500人あまり、島民で参戦可能なもの3000人。これだけです。トルコ側は、陸軍だけで20万人。 1522年8月1日、攻防戦の火蓋が切られます。大砲による砲撃、トンネルを掘り城壁の下で爆発させる地雷攻撃が延々と続きます。数度の総攻撃の結果トルコ側は数万の死者を出しますが、防御側も消耗を深めます。 11月の末から数度にわたってスレイマ-ンは降伏を勧告します。最後まで抵抗すれば落城後の皆殺しが待っているとの言葉を付け加えて。住民たちの気持は降伏に傾き、聖ヨハネ騎士団は選択を迫られます。 聖ヨハネ騎士団は、これまでことごとに軽蔑してきたヴェネツィア共和国と、同じ選択を迫られたのである。金もうけのためならばキリスト教徒としての節操を捨ててかえりみない奴ら、と騎士団は、ヴェネツィアがトルコと平和条約を交わすたびに非難し、ヴェネツィア国籍の船ならば商船でも、トルコ船を襲うと同じに襲撃し、積荷は奪い、乗船客からは身代金を取り立てていたのである。イスラム教徒と協約を交わすものは、たとえキリスト教徒であってもキリストの敵と同じである、としてきたのであった。それを今、騎士団の存続という事を無視しないかぎり、自分たちが踏襲するはめになったのである。彼らの頭には、いま改めて、聖ヨハネ騎士団だけが宗教騎士団として残っている事が思い出された。イスラムを敵とすることで生きてきた人々が苦悩せざるをえなかったのはこの点にある。住民の命を救うなどということなど、彼らからすれば第二義的な問題に過ぎなかった。(P175) スレイマ-ンは、島外退去のための日数として12日を提示、持って出たいものはすべて持ち出してよく、船が足りない場合はトルコの船で運ぶ、トルコ全軍は1マイル後退する事などを約し、それは一部混乱はあったものの厳密に守られました。 勝者と敗者が向かい合った席で、騎士団の若者は、「幼時から聞かされてきた野蛮なトルコ人という概念と、どうしても一致」しない28歳のスレイマ-ンと対面し、その言葉を聞いたのです。 スレイマ-ンは、「自軍の兵士たちに対し、敗者をないがしろにした者は重刑に処す、と通達させた。それは完璧に守られ」ました。1523年1月1日の事でした。 エピローグではその後のヨハネ騎士団のことが語られます。現在、騎士たちは世界を股にかけた医療活動に挺身しているのです。
2009.09.20
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『ニシノユキヒコの恋と冒険』川上弘美 新潮文庫 『センセイの鞄』を読んでから何冊か川上さんの作品を読みましたが、この作品はお話の楽しさを満喫させてくれました。 ニシノくんは私に対しては、以前省エネ料理の会の女性たちにしたような説明口調でものを言ったりしなかった。後刻喫茶店でコーヒーを飲みながら、「サユリさんは他のおばさまがたとは違うと感じてたから」とニシノくんは言った。 「あなたは他の人とは違うから」というのは一般に殺し文句であるとされる。ものの本を読むと、そう書いてある。私はそんなものには引っかからん、とつねづね思っていた。しかし何せ「あなたは他の人とは云々」というような内容の言葉を言われる機会もなかったから、果たしてほんとうに自分がその言葉に左右されないですむのか、確認できずにいた。 このとき私は、哀れ我も人の子、と思い知る。そのせりふを言われた瞬間、私はニシノくんのすべてを許していた。ニシノくんに対して私が許すべきことなど、それまで一つもなかったにもかかわらず。 ニシノくんの過去を、ニシノ君の現在を、ニシノくんの未来永劫を、私は許していたのだ。(P199) この連作集には全部で十点の作品が収められています。そのすべてにもれなく登場するのが、ニシノユキヒコ、西野幸彦は、ある時は高校生、ある時は中年の男として、ある時は庭の隅のほうに座っている亡霊として登場します。彼と関係を持った女性たちは、ある作品では主人公として、別の作品では脇役として登場します。 女性たちはニシノにどうしようもなくひきつけられながら、ある日突然彼を捨てます。別れることになります。その過程はまことに十人十色です(だから十作品?)。 川上さんの作品を私が読みたくなるのは、上に引用したような文章にめぐり合えるからです。こういう言葉遣いが大好きなので。そして、不思議な展開。まさにこの人しか書けない世界がそこにあり、この人しか使わない言葉がそこここにちりばめられています。 ユキヒコは、なめらかにうわの空だったのだ。うわの空なんだかどうだか、よくよく注意してみなければわからないほどの、なめらかさ。(P75) 不思議な作品です。
2009.09.19
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『フランス革命期の公教育論』コンドルセ他 岩波文庫 1792年4月に、コンドルセは「公教育の全般的組織についての報告と法案」を立法議会で報告しました。その一部を紹介します。 教育の目的。 人類に属するすべての個人に、みずからの欲求を満たし、幸福を保証し、権利を認識して行使し、義務を理解して履行する手段を提供すること。 各人がその生業を完成し、各人に就く権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った才能を完全に開花させ、そのことによって市民間の事実上の平等を確立し、法によって認められた政治的平等を現実のものにする方策を保証すること。 これらのことが国民教育の第一の目的でなければならない。そしてこの観点からすれば、国民の教育は公権力にとって当然の義務である。(P11) あらゆる教育の第一条件は真理のみを教える事にあるから、公権力が教育にあてる諸機関は、あらゆる政治的権威から可能なかぎり独立していなければならない。しかしこの独立は絶対的ではありえないから、同じ原則から、それらを人民の代表者で構成される議会のみに従属させなければならないという結論が出てくる。(P13) われわれは、今後、わが国には次のように語る人が一人もいなくなることを望んだ。法律は私に権利の完全な平等を保証したが、私には権利を知るすべが与えられていない。私は法律にのみ服従すればよいのだが、無知のために周囲のすべての人々に服従せざるをえない。私は知る必要のあることを子供のころに教えてもらったが、生活のために働かねばならなかったので、そのとき学んだ初歩の観念はまもなく消え去ってしまった。私に残っているのは、自分が無知なのは自然の意志ではなく社会の不正のせいだという苦々しい感情だけだ、と。 公権力は貧しい市民たちに次のように語りかけなければならない、とわれわれは考えた。諸君は両親の財産状態のせいで必要最低限の知識しか得ることができなかった。しかしわれわれは、諸君がそれらの知識を保持し、各田精するのに好都合な手段を保証する。もし諸君が自然から才能を賦与されていれば、諸君はその才能を伸ばすことができるだろう。そしてその才能は諸君にも祖国にも役立つであろう、と。(P14~15) 公開講座 毎日曜日に、教員は公開講座を開き、この講座にはどんな年齢の人でも出席することができる。われわれはこの制度によって、必要でありながら初等教育には組み込めなかった知識を若者に与える手段を持つことになる。さらにこの講座で、道徳の原理と規範がもっと広く説明され、市民が権利を知り行使する上でぜひ知っておかねばならないような国法の分野についても説明されるであろう。・・いかなる階級の市民に対しても、フランスの憲法も権利の宣言でさえも、崇拝し信じるべく天上から下された書として提示されることはなくなるであろう。 このように生涯にわたって教育を継続すれば、学校で得た知識がすぐに記憶から消え去るような事はなくなり、有益な精神活動が保持されるであろう。 最後に人々は、自分で学ぶ技術、たとえば、辞書で単語を探したり、書物の目次を利用したり、図表や地図や見取り図をもとにして物語や地誌や覚書や抜粋を理解するなどの技術を教わるであろう。(P17~19) 以下、コンドルセは、初等学校、中等学校、学院、について述べ、数学と物理学を重視する理由、ラテン語と古典教育、精神・政治科学、宗教教育、リセと述べていきます。 そして、「教育の無償」を説くのですが、その理由を以下のように述べます。 大多数を占める貧しい階級の子供に才能を伸ばす可能性を与える事が、公共の繁栄のために重要である。このことは、祖国に役立つより多くの市民を祖国のために確保し、科学の進歩に貢献しうるより多くの人間を科学のために確保する手段であるばかりでなく、財産の差異から生まれる不平等を減少させ、財産の差異のために別々になりがちな諸階級を融合する手段でもある。自然の秩序は、社会のなかに財産と教育の不平等以外の不平等を設けなかった。(P58) さらに、教科書、教育の独立が述べられています。 二百年ほど前にコンドルセによって書かれ、報告された「国民教育」の理念は、残念ながら古びていません。それだけに、今でも読む価値を失っていない古典であり続けるのでしょう。 また、「フランス語教育」の中に以下のような一文があることを知ると、フランス革命とは、「フランス」を生み出す過程でもあったことが分かるでしょう。 連邦主義と迷信はバ・ブルトン語を話す。亡命者と共和国を憎むものとはドイツ語を話す。反革命はイタリア語を話し、狂信者はバスク語を話す。これらの災厄と誤謬の道具を打ち砕こう。(P270) ヴァンデの反乱、反革命、外国との結びつきは、すべてフランス語が浸透していない事に原因が求められ、「農村にフランス語の教員を送ろう」(P269)との提案がなされます。 世界の言語になるのは、自由と平等に力強さを与えた言語、立法府の演壇と二千の人民の演壇を持つ言語、多数の人々の集まりに活気を与える大きな議場と愛国心を賞賛する部隊を持つ言語、この四年来、あらゆる国民に読まれ、ツーロン、ランダウ、ヴォーバン要塞を奪取した栄光と国王の軍隊の絶滅の役割を果たした14の軍隊の価値を全ヨーロッパに知らせた言語、こうした言語のみに許された任務である。(P276) このような考え方は、植民地の人々に対して何の疑いもなくフランス語教育を施す事に繋がっていくのですが。 すやすや寝ているチャー君です。
2009.09.18
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『風が強く吹いている』三浦しをん 新潮文庫 文楽、林業と読んできて、今度は箱根駅伝。 10人ぎりぎりの人数で、大半が長距離走の素人という集団が箱根駅伝を目指して練習に励み、ついに出場を果たし、そして・・・というお話です。 全部で660ページという文庫本なのです。最初の100ページほど読み進んだ時は、正直、「これは設定に無理がありすぎるぞ」と思いました。箱根駅伝は、ハードな練習に励んでいる大学でも中々出場する事自体が難しいというレースですから、素人集団が出場を勝ち取るというのは・・・と思っていました。ところが、これが「三浦マジック」とでもいうのでしょうか、9人を引っ張っていく清瀬灰二(ハイジ)の、硬軟使い分ける操縦術によって彼らが一つの集団として変化し、個人もまた変わっていくという過程を見て行くと、読んでいるこちらの方が、違和感を感じている暇がなくなってきました。 展開とラストとは、私が「こうなったらいいな」と思っている通りになります。そういう意味では、読者の期待を裏切る事に全情熱を傾ける、という種類の小説ではありません。 九「彼方へ」からいよいよ箱根駅伝の本番が始まります。 天才走者蔵原走(かける)の走るシーンは、外見的には以下のように描写されています。 ぶれも歪みもない、完璧なフォーム。そこから繰り出される強さと速さが、「走りとはこういうものだ」と見るものに告げている。「うつくしいな」 清瀬はつぶやいた。(P592) 作者は、走(かける)の走るシーン自体を描こうとはしません。心の中、沿道の風景、清瀬からの指示、仲間の思い、そういうものが巧みに織り交ぜられて語られます。そして、読者は、自らの想像力を駆使して走(かける)の「完璧なフォーム」を眼前に作り上げるのです。 箱根駅伝はそれ自体が感動的なものです。それを小説という手段で描写する。至難の業です。作者は取材に6年かけたといいます。そのすべてを想像力を駆使して再構成したこの作品、500ページほどは一気に読んでしまいました。 この作品、映画化されて10月公開です。 写真は単行本のものですが、文庫本の表紙も素敵です。書店で手にとってご覧下さい。私は、「信貴山縁起絵巻」の雲に乗ってかける童子を連想してしまいました。
2009.09.17
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『レパントの海戦』塩野七生 新潮社 オスマントルコは、ヴェネツィアとの和平状態を破棄してキプロス島の占領を企てます。それを察知したヴェネツィアはキプロス防衛のために、スペイン、そしてスペインを動かすためにローマ法王を取り込んで「神聖同盟」を作り上げようとします。この本の前半部分は、ヴェネツィアの企図が水泡に帰すまでを扱っています。 そして、背水の陣を敷いたヴェネツィアは大艦隊の結成に成功します。 総経費の分担は、 スペイン 6分の3 ヴェネツィア 6分の2 法王庁 6分の1 ときまった。いかに人に要する経費が重視されたかの証拠に、軍船の分担比率となると、次のようになる。 スペイン総数 73隻(スペインの港より15隻。スペイン支配下のナポリ、シチリアより36隻。傭兵隊長ドーリア所有22隻) 法王庁 12隻 その他イタリア諸国 11隻 聖ヨハネ騎士団 3隻 ヴェネツィア 110隻 総計 209隻 第二の問題点は戦略目標にあった。 これが明確でなかった事が前年の失敗の主因であったのだから、ヴェネツィアも真剣だ。今年こそは細部まで明記されなければならなかった。 ヴェネツィアの真意は、キプロス救援にある。 スペインは、北アフリカ攻略に連合艦隊を使いたがっていた。 法王は、イスラム教徒と戦うならば、どこであろうとかまわないと思っている。しかし、現実にキリスト教徒とイスラムの間で戦争が起きているのはキプロスだから、連合艦隊の進路がオリエントに向けられるのは当然とは思っていた。 だが、状況を左右できる力は自分たちにあると思うスペインは、戦略目標が東地中海に限定される事に断固として反対する。これは理のないことではないので、法王がまず動揺し、ヴェネツィアも妥協するしかなかった。 きまったのは、地中海の東西にかかわらず、敵のいるところに出向き対戦する、というものである。(P96~97) 総司令官には、スペイン王フェリペ二世の腹違いの弟にあたるオーストリア公ドン・ホアンが就任します。 28000人の戦闘員を積んだ連合艦隊は1571年9月16日、シチリアのメッシ-ナを出航し東へとむかいますが、艦隊にキプロス陥落のニュースが届きます。 キプロス最後の砦ファマゴスタは8月24日にすでに陥落していたのです。なぜこれほど報せが遅れたのか?篭城軍は身の安全は保障するというトルコ側の申し出を受け入れて降伏したのですが、全員が殺されるか奴隷に売り飛ばされたために報せる事が出来なくなっていたのです。特に司令官であったブラガディンは、全身の皮を剥ぎ取られたのち海中に突き落とされ、その後首を斬りおとされるという残酷な仕打ちにあっています。 このことは艦隊の心を一つにし、いよいよ1571年10月7日、レパントでオスマン艦隊と連合艦隊とが正面から衝突します。 戦闘の経過は読んでいただくとして、連合艦隊はオスマン艦隊に大勝利をおさめます。しかし、オスマン帝国は早急に艦隊の再建に取りかかり、以前と同じ規模の艦隊の再建に成功します。そして、オスマン帝国の宰相は、ヴェネツィア大使に以下のように語ったのです。 レパントの海戦では、確かにわれわれは、完敗といってもよい敗戦を喫した。だが、あなたがたからはキプロスを奪うのに成功している。つまり、あなた方は腕の一本を失ったのに対し、われわれは、ひげをそられてしまったわけだ。だが、ひげは再びはえてくるが、切られた腕はもとどおりにはならない。(P195) 西欧とオスマン帝国の力関係が逆転するまでにはまだまだ長い時間がかかったのです。
2009.09.17
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『コンスタンティノープルの陥落』塩野七生 新潮社 コンスタンティノープルは1453年5月29日、20歳を越したばかりのマホメッド2世によって征服され、皇帝コンスタンティヌス11世は混乱の中で戦死したといわれています。 マホメッド2世はなぜコンスタンティノープルを征服しようとしたのか。そして、オスマン帝国と東ローマ帝国(実質、コンスタンティノープルのみ)双方と密接な関係を保っていたヴェネツィアとジェノヴァはどのように振舞ったのか。 相互に破門しあって後、ギリシア正教側と不倶戴天の敵となっていたローマ教皇は、東西両教会の合同を持ちかけて援助を要請したコンスタンティヌス11世の申し出に対してどう答えたか。 マホメッド2世の命令で、小アジアの反乱鎮圧のためと信じ込んで駆けつけたセルビアの騎士たち(キリスト教徒)は、自分たちが戦わねばならない相手がコンスタンティノープルに立て篭もる同じキリスト教徒であると知った時にそれを拒否できたのか。 「陥落」という結果は分かっています。そこに向かってドラマは進行するのですが、ところどころに、「もしも」という部分があります。そして第十章「エピローグ」で、登場人物たちの「その後」が語られますが、それ自体がドラマになっています。
2009.09.16
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『神去(かむさり)なあなあ日常』三浦しをん 徳間書店 横浜の高校を卒業した平野勇気君は、何がなんだか分からないうちに、三重県の山奥の神去(かむさり)村へ、行く事になります。林業に就業することになっていたのです。母と担任の陰謀によって。 あまりの事に(それがなんなのかはお読み下さい)耐えかねて脱走を図るのですが失敗、そのうちに徐々に勇気君の心境に変化がおきてきます。美女の存在もあります、当然。しかし、彼の心をしっかりと捉え始めたのは、山そのものと、そこで暮らす人たちでした。 もちろんいい事ばかりではありません。山仕事の最中に身体に取り付くヒル、そしてダニ、血は吸われるわ痒いわ、エライ目にあいますし、花粉症も発症してしまいます。しかしそれでも彼は実家に逃げ帰ろうとはしなくなります。 山の不思議も現れます。神隠し、そして山の神様。 少しづつ少しづつの達成感、山仕事を通して自分を成長させたいという思い。彼は後ずさりをしつつも、仕事仲間たちから突き飛ばされ、押され、羽交い絞めにされながら前に進んでいくのです。 そして48年ぶりに催される祭りに勇気君も参加を許され、神去山へと入っていきます。 神去山の森。暗闇のなかでわけもわからず突進していた場所は、とんでもない森だったんだ。 神隠しに遭った山太を探した時にも、その片鱗を垣間見た。でも、山の奥深く広がる森は、もっとすごい。とにかく巨木の集合体だ。三十メートルはあるエノキ、白い葉裏が雪のように空を覆う樫の木、ひび割れた樹皮を持つ桂の古木。これまで手入れした山では見たこともなかったような、どでかい杉やヒノキも生えている。落葉樹も常緑樹も、針葉樹も広葉樹も、人間の決めた分類なんかぶっとばす勢いでまぜこぜだ。 植林された山とはちがう、混沌とした秩序のもとに、多種多様な木がむせ返るほどの緑の空間を作っていた。p239 山に分け入った山人たちは、一本の巨木のもとに集い、それを切り倒します。そして・・・。ここから先はお読み下さい。 短いセンテンスでテンポよく読むことができるこの小説、「山のお仕事」のガイドブックにもなっています。『仏果を得ず』が、「文楽の世界ガイド」になっていたように。 司書のAさんに感謝。いい本を紹介していただきました。
2009.09.15
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『仏果を得ず』三浦しをん 双葉社 を読みました。「文楽小説」です。主人公は、文楽の世界に首まで浸かっている若き太夫の健、そして彼と組むことになる三味線の兎一郎(といちろう)です。 目次部分からして装丁が凝っているのは実物を手にしていただく楽しみと致しまして、「幕開き三番叟」、「女殺油地獄」、「日高川入相花王」、「ひらかな盛衰記」、「本朝廿四孝」、「心中天の網島」、「妹背山婦女庭訓」、「仮名手本忠臣蔵」。 いずれも名作です。これらの作品とぶつかる時に健が感じる作中人物への違和感、そしてそれをどのようにして乗り越えていくのか。『しゃべれどもしゃべれども』(佐藤多佳子 新潮文庫)をつい連想してしまいました(表紙のイラストのせいかもしれません)。 作中人物の「性根」にどう迫るかが、健が日常生活の中でぶつかるさまざまな事(もちろん、恋も)と絡まって語られていきます。 文楽の世界、こんな太夫さんがホントにいるのか・・・いや、いそうだなぁ・・・いやいや・・・とアレコレ考えつつ読み終えてしまいました。 こんな事ホントにあるんか?子どもを犠牲にしてまで主君に尽くすっておかしいんと違うか?紙屋治兵衛って情けない男やなぁ。与兵衛は、なぜお吉を殺すのか? そして最後の「仮名手本忠臣蔵」で大団円。
2009.09.14
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ベトナム戦争当時に、アメリカで反戦運動に身を投じるのがもっとも遅かったのは政治学者と歴史家であったそうです。他の分野で活動していた人たちのほうがより敏感に「汚い戦争」「大義なき戦い」の本質を見抜くことが出来たのは、その人たちが自分のフィールドで培っていた「常識」の方が、戦争の実態に迫る力を持っていたからだといえます。 政治評論家や新聞記者は、自分の手持ちの情報を政治家がおかれている立場に理解を示すための道具として使うことによって政治家個人とのコネクションを深めます。そのことがますますその人たちを「事情通」に仕立て上げます。 田中金脈を追及する記事を立花氏が発表した時に、「事情通」の記者たちは、「そんなことは記者ならみんな知っている事だ」と批判したといいますが、オフレコ情報を山ほど溜め込んで悦に入っている体質は、「専門家」を自称する人たちの書く文章に手枷、足枷をつけるのみとなります。 以前、沖縄で米兵による少女暴行事件が起き、米軍基地を日本から引き上げよという声が挙がった時のことです。自分の娘が暴行されるような事があっても私は米軍基地は日本にとって必要だと言うと思うという文章を、「中央公論」に書いた「評論家」がいました。「専門家」というのは、ここまで自分の「常識」を破壊するものかと唖然とし、こういう「専門家」にはなりたくないものだと思った事でした。 自分のフィールドでこれまで培ってきた「常識」、そして「直感」を大切にしたいと思っています。 「直感は過たない。過つのは判断である」(ゲーテ)という言葉を私は、五味康祐氏のマージャンの本で目にしたのですが、ことはマージャンのみにはとどまらないようです。 ※よく行かせて頂いている平川さんのブログの記事を読んでいて、コメントを書こうかなとしていたら長くなりすぎました。http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/?p=416#comments
2009.09.13
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問題です。(1)アンパンマンの「アン」は、「こし餡」でしょうか、「つぶ餡」でしょうか? (2)食パンマンは、何枚切りでしょうか? (3)生みの親とは別に育ての親が存在し、あとになってから兄が登場するという なんとも複雑な家庭で成長しながら非行にも走らずまっすぐに生きた少年がいます。誰でしょう?
2009.09.13
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ビートルズのCDアルバムの音質を改善したリマスター盤が9日、世界同日発売となった。東京都内では、複数のレコード店が午前0時から特別販売を開始。銀座4丁目の山野楽器銀座本店の前には、販売前から約30人の熱心なファンたちの列ができた。 発売されたのは「プリーズ・プリーズ・ミー」(63年)から「レット・イット・ビー」(70年)までの全オリジナルアルバムなど。最新のデジタル処理で音質を向上させ、従来のアルバムに比べ、最も原音に近くなっているという。 山野楽器銀座本店では「ア・ハード・デイズ・ナイト」が大音量で鳴り響くと、販売を開始。買いにきた東京都港区の会社員北出直己さん(48)は中学生のころからビートルズを聴いてきた。「いつまでも飽きない音楽。また新しい発見をしたい」と話した。 このほか、タワーレコードやHMVの渋谷店、ディスクユニオンの新宿本館なども午前0時から販売した。(宮本茂頼) 09年9月9日朝日 ☆大好評のようです。ヒットチャートに進出するのでは?という予想もあるほどです。でも、私は買わないと思います。それどころか、このニュースを聞いて、正反対の事を考えました。それは、最初に聴いていた時の音で聴きたい、ということです。 友達の家で最初に聴いたビートルズは、シングル盤がちょうど乗り、LP盤は大きくはみ出すような再生装置(いま、あの機械の名前が出てきません)でした。歌詞カード見ながら、それらしく歌ったりしました。高校生の頃です。 もちろんその時のLPは家においてあります。しかし、今、我が家のステレオから流れてくるのはCDの音です。針を下ろす時の、ジジ・・・ッという音はそこにはありません。よりクリアーにという時代なのですが、最初に聴いたあのくぐもったような音のビートルズに妙になつかしさを感じます。 いま、コンポはコンパクト化が進んでいますし、ターンテーブルでLPに針を下ろして聴くのはかえって贅沢かもしれません。
2009.09.12
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何にも考えないでカメラを向けて、シャッターを切りました。 写真を見たら、面白い出来上がりになっていました。後ろの白い壁に影が映っているのが意外でした。
2009.09.11
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『第二次世界大戦』マーティン・ギルバート 心交社 上下巻合わせて8百ページほどの本です。 まず第一章は、ヒトラーのポーランド侵略から始まります。そして、その後は、時間軸に沿って記述が進みます。つまり、1939年の9月1日の次は9月2日に何が起こったか、という風に。まずヨーロッパ、そしてそこにアフリカが加わり、さらに太平洋が加わります(太平洋戦争に就いての記述は簡単です)。 繰り返し取り上げられる項目は、まず、罪なき人々に対する迫害、そして、戦場で示された勇気、さらに、暗号の解読と戦局の関連です。 アウシュヴィッツ強制収容所で七月末、一人のポーランド人が強制労働隊から脱走した。その報復として独房に閉じ込めて餓死させるため、彼のいた区画の600人の組の中から無作為に10人を選び出した。選抜が終わった時、ポーランド人のカトリック司祭で囚人でもあったマキシミリアン・コルベ神父が収容所の所長に近づき、その中の一人と代わらせて貰いたいと申し出た。「私はこの世で唯独りです。この男はフランシスコ・ガヨウニチェクといい、養わなくてはならない家族がおります」。 所長は「了解した」と言って顔をそむけた。コルベ神父は最後に死んだ。30年後コルベの列福式に彼と入れ代わったフランシスコ・ガヨウニチェクが妻と共に参列した。(上P293) 新聞報道によれば、ドイツ連邦議会は、09年9月7日、第二次大戦下の軍事裁判で軍人等に「国家反逆者」として言い渡された有罪判決を一括して取り消す「包括的名誉回復法案」を採択、成立させました。ナチス政権は1943年に軍事刑法を改定し、軍人の脱走、ユダヤ人の逃亡支援、戦争批判発言にも死刑適用を拡大、大戦中に死刑判決を受けた人々は3万人に及び、うち2万人が処刑されています。 これまで、「反逆行為」によってドイツ軍兵士が危険にさらされてきたという理由からこの法案は採択されてこなかったのですが、軍事史研究者の判例研究が進むにつれてこのような論拠が崩れ、今回の採択に繋がりました。 この本は、ユダヤ人を初めとする占領地域の人々への暴行に対して抗議をしている国防軍兵士の姿も多く記されていますが、死刑判決を受けた人々の数が3万人、そしてその中には、ユダヤ人の逃亡を支援した兵士もいたことに感動を覚えます。 そして、もう一つの特徴があります。それは、できうる限り個人名を記そうという著者の姿勢です。 1943年9月7日、移送された10代の少女エティ・ヒルベルシムは、友人にあててやっとの事で葉書を書き、またオランダ国内を走っていた列車から外に投げた。「私たちは歌を歌いながら収容所を出ました。両親もミーシャも、しっかりと落ち着いて歌いました。三日ぐらい旅行するらしいです」。列車の目的地はアウシュビッツだった。移送されたほとんどのものは到着と同時にガス室行きとなった。女子収容所の居住棟に入れられたエティ・ヒルベルシムは、11月末日にそこで死んだ。(下P100) 名前が記されるということは、死者が単なる数字に還元されるのではないということです。そのことは著者から読者へのメッセージだと思います。 同時に、アウシュビッツから「4人のユダヤ人が異常な幸運と勇気でなんとかアウシュビッツから逃げ出し、ガス室のニュースを」もたらし、「連合軍がアウシュビッツに通じる鉄道線路を爆破するようにとの訴え」があったにもかかわらず「イギリス飛行士の生命を無目的に失う」(下P206)として退けられた事、ワルシャワ蜂起がスターリンによって見捨てられた事(第40章)などの連合軍の汚点も厳しく批判されていますし、ドイツ軍兵士の勇敢さに就いても著者は賛辞を惜しんでいません。そういう意味では極めて公正な記述であると思います。 歴史叙述は、歴史家の価値観が具体化される場所です。膨大な事実の中からなにを取り上げ、どのように記述するか、著者の立場は、この本の最後の文章に集約されています。 負傷者の数は誰も数える事ができないが、戦争の結果不治の傷を負ったものが数百万人もいることは間違いない。これら何百万もの人々は完全な障害から醜い外創にまでおよぶ肉体的な傷と精神的な傷を引きずって残りの人生を生きているのだ。それが直接の原因で死んだものも多く、生きていても苦痛、不快、恐怖や自責の念を引きずっていた。窮乏や連行や虐殺から幸運にも生きのびた民間人も同じような肉体的、心理的、精神的な傷を引きずり苦しんだ。そして今でも苦しんでいるのだ。第二次世界大戦の未決着の問題で最大のものは人間の痛みである。(下P443~444) <蛇足> アンツィオ上陸の日、イギリス軍兵士クリストファー・ヘイズは海岸後方の地雷原をさまよっている6歳の少女を見つけた。彼女は名前はアンジェリータだと言った。母親がどこへ行ったか分からず、ヘイズの部隊に10日もとどまっていた。そして2月1日兵士たちと一緒にトラックに乗ったとき、砲弾が車に当たり、全員が放り出された。「私の銃は壊れてしまった。私はアンジェリータの身体を持ち上げて溝の外へ出した。彼女は死に、私は彼女を道端に残した」。ヘイズはこう追憶している。(下P147) アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ アンジェリータ アンジェリータ いずこ行きし アンジェリータ アンジェリータ 月だけが輝く夜のアンツィオ われらを迎える青い月の中に 貝殻を握りしめて 泣いている女の子 アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ アンジェリータ つわものは夜明けに進む アンツィオ われらの行く手に朝の太陽 われらを慕って共に進む子供 楽しげに歌をうたい歩いている女の子 アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ アンジェリータ 音もなくわれらは進む アンツィオ 辺りのしじまが突然破れた われらが見たのは 血にまみれた子供 かたく握った小さな手には四つの貝殻が アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ アンジェリータ アンジェリータ いずこに行きし アンジェリータ アンジェリータ アンジェリータ アンジェリータ ダーク・ダックスの歌で有名になったこの歌、元歌は、ロス・マルチェロス・フェリアルの歌う、「アンツィオのアンジェリータ」という歌です。1964年の歌なのですが、どのようなことから歌われるようになったのか、ご存知の方、ご教示くだされば幸いです。 http://jp.youtube.com/watch?v=SfPpFD1cVwU
2009.09.11
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○絶体絶命 悪魔には表情がないといわれる。そのとおりだ。男の顔には何の表情も浮かんでいなかった。またもや新しい苦痛を私に加えているというのに、その顔にはなんの同情も浮かばない。私の瞳に浮かんだおびえや、私の顔に浮かんだ恐怖の色がこの相手には見えないのだろうか? 男は冷静に、いや、それどころか、職業的な手つきで、血みどろの仕事を続けた末、調子よくこういった。 「うがいをしてください」 ○寝物語 ベッドルームへもどってきた男がいった。「気をつけてくれよ、ハニー。弾がこめてあるんだからな」 女はベッドの頭板にもたれていた。「この拳銃、奥さんを殺すために買ったわけ?」 「いや。それはヤバい。プロを雇った方が安心できる」 「あたしじゃだめ?」 男はにやりとした。「しゃれてるね。しかし、女の殺し屋を雇うほどの物好きがいるかな?」 女は唇をなめなめ、拳銃の狙いをつけた。 「いるわよ、あなたの奥さん」 このようにとても短い小説(小噺?)集です。新潮文庫。 ちゃーくん。ねむねむです。
2009.09.10
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民主、社民、国民新の3党幹事長は9日午後、連立政権樹立に向けて国会内で会談した。社民党の重野安正幹事長が米軍普天間飛行場(沖縄県)の移設計画見直しと日米地位協定改定について連立合意文書に明記するよう要望。民主党の岡田克也幹事長はこれを受け入れ、「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」との表現で盛り込むと回答、連立政権樹立で合意した。3党は同日夕、党首会談を開き、連立政権発足を正式に決定する運びだ。【西田進一郎】 毎日09年9月9日☆これは出発点としてはいい事だと思います。「対等で緊密な日米関係」というからには当然踏み込まねばならない部分であったのではないでしょうか。これまでの関係があまりにも従属的であったという点に就いては、大方の日本人が認めているところでしょう。 ただ問題は、アメリカに対する従属をよしとする人たちの反撃がどのように行われるか、貿易問題を絡める、北朝鮮の危機を煽る、民主党の内紛を助長する、様々な方向から非難は出てくる事でしょうが、こういうときは、誰がなにを言うか、注視していたいと思います。 その人たちは、また「現実的」という言葉を使うんだろうなぁ。 ぐっすり寝ているあもちんです。
2009.09.09
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『フェイル・セイフ』ユージン・バーディック&ハーヴィ・ウィラー 創元SF文庫 この本が最初に出版されたのは1963年でした(河出書房新社)。 「フェイル・セイフ」という言葉は、いまでは「機械の故障が発生した時に、被害を最小限にとどめるシステム」と説明されているようですが、1960年代では、「核戦争が発生しそうになった時に、それを未然に防ぐシステム」という意味がありました。 この小説は、偶発核戦争を描いた作品です。 核を搭載した大型爆撃機編隊は、アメリカの基地から飛び立ち、アラスカ上空で、そのままソ連に突入するか、旋回して基地に引き返すかの指令を受けます。 ある日、領空を侵犯してアメリカに向かってくる飛行物体が発見されます。基地からは、そのままソ連領内に突入せよ!という指令が発せられます。のちにその飛行物体はコースを外れた旅客機であることが判明、引き返せという指令が発せられますが、どういうわけか、一編隊だけがそのままソ連領内に突入します。報告を受けたアメリカ大統領は即時、ソ連首相に電話をして、これが偶発的なミスである事を説明、情報を提供して、ソ連軍による撃墜に協力しますが、攻撃を巧みにすり抜けた一機がモスクワの上空に到達します。 報復攻撃による米ソ全面核戦争は避けねばならない。そう決断したアメリカ大統領は、ソ連の首相にある提案を行います。 この小説から、二つの映画が誕生しました。 『未知への飛行』(1964年)。原作を忠実に映画化したシドニー・ルメットの作品。ヘンリー・フォンダが大統領を演じています。 『博士の異常な愛情』(1964年)スタンリー・キューブリック監督作品。『未知への飛行』とは異なるブラック・ユーモアに満ちた作品。核爆弾にまたがっておっこちていくシーンは忘れられません。 『渚にて』ネヴィル・シュート 創元SF文庫 1957年に出版された核戦争をテーマにした作品です。 核戦争が勃発し、北半球は壊滅します。アメリカの原子力潜水艦スコ-ピオン号はオーストラリアに寄港しますが、アメリカの都市からモールス信号が発せられている事をキャッチしてアメリカに向かいます。果たしてアメリカに生存者はいるのか? また、南半球にも徐々に放射能は侵入し、オーストラリアの人々も徐々に被爆、死に直面します。その時に人々はどのような日常を送ったのか。 私が最初に読んだSFです。この作品ですっかりSFの世界に魅せられてしまいました。 映画は、1959年、スタンリー・クレーマー監督作品。グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー。 この二作品は、偶発核戦争の恐ろしさを描いています。アメリカとソ連という超大国同士が核の開発を競い合い、全人類が何回でも死ぬ事が出来るだけの量の核爆弾が蓄えられました。 核の拡散は、偶発核戦争の危険性をますます増大させますが、日本の核武装を主張している人たちは、「核はコントロールできる」「核は抑止力になる」という確信の上に立っています。しかし、それは偶然の上になり立つものであることを知らねばなりません。核は依然、人類にとって頭上に吊られたダモクレスの剣であり続けています。
2009.09.09
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『バスティーユ占領』ジャック・ゴディショ 白水社 「ドキュメンタリー・フランス史」シリーズの一冊です。 著者は、「バスティーユ占領は突然起こったのではない」と序文をはじめています。 「46の家が襲われ、掠奪され、破壊され、礼拝堂がいくつも放火され、7つの牢獄が襲われて燃やされ、全入牢者が解放され、最大の銀行が脅迫され、200人の死者と300人の負傷者が出た」のは、1780年のロンドンでした。 1789年7月14日のバスティーユ占領は、この時代、特に突出した事件ではありませんでした。しかし、そのあとに引き続いて起こった大変動は、ヨーロッパ世界を大きく揺さぶったのです。 著者はまず18世紀のフランスの社会不安について触れます。そして焦点をパリに絞り、労働者階級の動きと、パリに供給されていた食糧の動きを記します。つづいて、パリの治安はどのようにして保たれていたのか、当時ヨーロッパ第一といわれていたパリの警察力と、その不安材料に就いて記します。 「職種により賃金はひどく異なった。1789年に普通の手仕事は20スーから30スー、石工は40スー、大工や錠前屋は50スーにおよんだ。労働者の一日の必要量2キロのパンの値段が、通常8スーから9スーで、悪くすると12スーから15スー、ひどいときは20スーになった。パン代は通常支出の半分、野菜、肉、ぶどう酒が16%、衣類15%、光熱費1%、そして住居費を払い、家族を養うのである。」(P41) 「ここでいざというとき4,5時間以内に役に立つ軍隊はと言うと、1500の警察、300の憲兵が即時、軍隊5000が1時間から5時間遅れになり、全部で6800が60万人の密集地帯の治安を守ることになる。」(P64~65) そして第七章から、焦点はますます絞られて、第九章が7月14日のバスティーユにあてられます。 「7月14日は二つの大きな流れの、絶頂の局面が一致したという事で特徴付けられる。一つはパリの民衆の反乱であり、数ヶ月前から全国に展開していた反乱の一つの局面である。もう一つの局面は軍隊の離脱である。バスティーユの占領は、この全国的反乱の勝利をフランスと世界に知らせる、見事なシンボルであった。しかし国王と宮廷がこの事を意識するには時間がかかった。」(P182~183) ルイ16世は、日記の14日の項に、「なし」と書いているのですが、この感覚がわかりません。鹿狩りの獲物、ネッケルが出発した事などは書かれているのにもかかわらずです。 その後、バイイから三色(トリコロール)のワッペン(パリの市の色である赤と青の間にブルボン家の白が挟み込まれた)をもらったルイ16世は、以下のように発言します。 「みんなはいつも私の愛をあてにしてよろしい。・・私は満足に思います。私はブルジョワ衛兵の創設に同意します。・・バイイさん、あなたが市長で、ラファイエットが司令官で、私は安心です。」 アメリカ大使トマス・ジェファソンは書いています。 「王はヴェルサイユ宮殿に、ブルジョワ衛兵に守られて帰った。・・・こういうのを名誉ある罰金とでもいうのか。どんな君主も払った事がないし、どんな人民ももらったことがない。」 ポルトガル大使。 「おとぎ話としか思えないでしょう。あるフランスの王様が、田舎の馬車に乗って、武装した人民に取り囲まれ、帽子に自由のワッペンをつけさせられた・・・。」(P195~196) バスティーユは解体されました。解体を請け負った男は、解体に際して出たゴミをバスティーユの記念品に加工して販売しています。石には要塞の見取り図がつけられていたそうです。ベルリンの壁が解体された時、壁の一部は「記念品」として観光客のお土産となった事は記憶に新しい事です。
2009.09.08
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『太平洋戦争の歴史』黒羽清隆 講談社現代新書全二巻→講談社学術文庫 地域で、太平洋戦争の戦死者のリスト作りを、遺族会の方から名簿の提供をいただいて行った事があります。リストの中の戦死場所に「東太平洋」と書いてある方がいらっしゃいました。陸上の場合、かなり細かい地図にも載っていないような地名が記されているにもかかわらず、です。戦死された日付から、ミッドウェー海戦かと当たりをつけました。黒羽さんのこの本には、以下のように書いてあります。 大本営は、六月十日、「洋心の敵根拠地ミッドウェー」に対して、「猛烈なる強襲」を敢行するとともに、敵海上および航空兵力ならびに重要軍事施設に甚大なる損害を与えた」とし、(1)「エンタープライズ型」・「ホーネット型」空母各一隻撃沈 (2)撃墜機120機 (3)重要軍事施設爆砕と発表した。 「飛龍」搭載機以下による必死の攻撃と日本潜水艦の雷撃で撃沈されたのは空母「ヨークタウン」だから、ここには二重の誤りがある。また「我方損害」は、(1)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破 (2)未帰還機35機と発表され、現実の損害と大きな差を示した(「読売新聞」昭和17年6月11日号)。海軍首脳の一部には、かえって国民に真相を知らせるべきだという意見もあったが、結局、こうなった。 この虚偽をかくすために、厳しい秘密主義がとられた。 生存者にはかたく口止めがされ、通信には絵葉書だけが許されて、封書は一切禁止された。 戦死者の遺族に対しても、ことの真相はかくされつづけた。澤地久枝氏の克明なレポート『滄海よ眠れ』が明らかにしているように、たとえば空母「加賀」乗組の戦死者の遺族には、一ヶ月以上たってから、「東太平洋方面」で、「六月五日名誉ノ戦死ヲ遂ゲラレ候」という公報が送付され、「生前の配属艦船部隊名」等の守秘義務、父母妻子以外は戦死の事実をもらさないこと、僧侶の読経など外部へ漏れる行事の禁止といった注意事項が指示されていた。 徳島県の場合、知事名で、ミッドウェー海域という「海の一点」が「戦没の場所」として遺族に告知されたのは、1973年10月のことだったという。上巻P177~179 日本側は、「加賀」「飛龍」「蒼龍」「赤城」の空母四隻、重巡洋艦三隈が沈没、喪失した飛行機は285機、戦死者3064名の損失を出しています。 「大本営発表」という言葉は、一部の日本人の中では、「大嘘」と同義語とされていくのですが、こっけいな事には、海軍がミッドウェーで大敗北を喫したという事は陸軍にも長い間秘匿され、東条英機首相・陸相に伝えられたのはかなり後の事であったといいます。海軍は(陸軍もですが)、己のメンツのみにこだわり、「戦争での勝利」には関心がなかったと見えます。 黒羽さんの本は、家永さんの本とはタイプが違いますが、太平洋戦争に就いて知ろうとする人にとっての必読書であり続ける事でしょう。
2009.09.07
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『日本兵捕虜は何をしゃべったか』山本武利 文春新書 この本を読んで、「これでは負けるわなぁ」と思いました(何度も思ってきた事ですが)。著者は、暴力と脅迫を使っての国内での情報の秘匿の成功に比べて、戦場での軍事情報の保護がいかに杜撰であったか、そしてそれに軍はなぜ気がつかなかったかに就いて書いています。 日本兵は諜報の固まりであった。かれらは前線まで日記や日誌あるいは手紙、遺書をポケットや背嚢に入れて持参した。作戦命令、作戦地図、部隊配置図などを持参して、アメリカ兵との白兵戦に臨む事が多かった。階級の高い兵士ほど戦術的価値のある文書をもっていた。かれらが戦死ないし病死すれば、その死体からは文字の記されたものならなんでも取り上げられた。流れ出る血が文書を汚し、その価値を低下させる前に、瀕死の重傷者の肉体をまさぐる作業は、どの戦場にも見られる光景であった。日本軍の撤退後の戦場には、あらゆる戦術的、戦略的価値を持つ文書が遺棄されていたといっても過言ではない。P29 彼ら日本兵に情報守秘の姿勢が欠如しているのは、軍隊で受けた教育のせいである。彼らは降伏は自身だけでなく家族全員に対しても恥辱と教え込まれており、捕虜となる事は日本から排除され、日本への帰国の途が閉ざされることを意味している。捕虜になる前後に自殺せよとの至上命令が下されている以外には、いったん捕虜となった時の対処の仕方は教えられていないのだ。そしてつかまった後は、日本以外で将来の日々を送らねばならないと認識するようになる。アメリカ側の意外な厚遇と日本軍の教育がそうさせるのである。P41 米英軍は、捕獲した種々の文書を、日本語に堪能な日系二世兵士を活用して翻訳し、また捕虜の尋問によって得られた情報も「一定のフォーマットのもとでシステマティックな処理」(P47)を行っています。異なった機関相互で情報が活用できるようにするためです。 「捕虜になる事がある」という事を想定もしていないという現実離れした考え方と思い込みで、戦争をするわけですから勝てるわけがない。 また、第三章には、「高級将校の無責任」として、「海軍Z事件」の事が記してあります。 連合艦隊参謀長福留繁中将の搭乗機がフィリピンのセブ島に不時着した際に火災を起こし、福留ら九人は連合軍側ゲリラの捕虜になります。この時、防水コンテナに封印されていた最重要機密文書Z作戦文書が漂流し、フィリピン漁民の手に入り、ゲリラの手を経てアメリカ軍にわたります。この文書には、太平洋の複数の地域での連合軍の攻撃を阻止するための一連の防衛作戦が記されていたのです。福留たちは救出されますが、捕虜となった責任は不問に付され、第二航空艦隊司令長官に栄転しています。さらに、機密文書がどうなったかに就いての捜索も積極的になされず、結局米軍は、日本軍はこの文書に書いてあるとおりに作戦を実施するだろうと対策を立てて成功するのです。 「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を破ったのは、これを作らせた東条だけではなかったことが分かります。これを強制されて死地に追いやられたのは大半が下級兵士たちでした。
2009.09.06
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大阪・キタでひったくりをしたとして、大阪府警は4日、住居不定の無職、大川良二容疑者(34)を窃盗容疑で現行犯逮捕し、発表した。被害者のマッサージ師の女性(24)が大川容疑者を追跡。通行人の男性らと連携して取り押さえた。 曽根崎署によると、大川容疑者は4日午後4時40分ごろ、大阪市北区太融寺町の路上で、女性が手に持っていた現金約3万5千円入りの財布を自転車で追い越しざまにひったくった疑いがある。 女性によると、ヒールの高さ約10センチのサンダルで走って追跡。自転車の荷台に飛びつき、両ひざをすりむきながら約3メートル引きずられたところで自転車が倒れたという。 走って逃げる大川容疑者に向かって、一緒にいた友人の女性(26)が「捕まえて。ひったくり!」と叫ぶと、気づいた通行人の男性3、4人が追いかけ、路地に逃げ込んだ大川容疑者を協力して羽交い締めにしたという。 女性は「無心で追っかけた。梅田の街も捨てたもんじゃない。きちんとお礼を言えなかった人もいたので、改めてお礼を言いたい」と話した。 ☆驚きました。「ヒールの高さ約10センチのサンダルで走って追跡。自転車の荷台に飛びつき、両ひざをすりむきながら約3メートル引きずられたところで自転車が倒れた」といいますが、凄いの一言。「ヒールの高さ10センチのサンダルを脱ぎ捨てて」ならわかる。「ヒールの高さ10センチのサンダルをぶつけて」ならわかるのです。 しかし、「ヒールの高さ10センチのサンダル」で走った、というところが、いかに「無心で追っかけた」にしても凄い。とてもじゃないけれど真似ができません。走れるものなのですね・・・。 通行人の男性たちが取り押さえて・・というところに拍手を送るのは当然ですが、私の心の中には、「ヒールの高さ10センチのサンダルで」という部分がしっかりとインプットされたようです。
2009.09.05
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【モスクワ=副島英樹】ロシアのプーチン首相は31日、第2次世界大戦開戦70周年行事に向けてポーランドのガゼータ・ブイボルチャ紙に論文を寄稿し、39年のモロトフ・リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)が大戦の唯一の引き金になったとする指摘に対し、「歴史の歪曲(わいきょく)」だと反論した。 プーチン氏は、独ソ不可侵条約の前年に英仏がすでにドイツと融和政策をとったために、反ファシズムの共同戦線を張る望みがなくなったと主張。当時ノモンハン事件で日本軍との戦線も抱えていたソ連としては、ドイツとの不可侵条約はやむを得なかったとしている。 そのうえで「現在の政治状況の必要性から歴史を修正する試みがある」として、旧ソ連バルト3国や東欧諸国など反ロ感情が強い国々がロシア批判のために歴史を利用しようとしていることを示唆し、反論した。一方で、独ソ不可侵条約の「不道徳性」についてはロシアも認識しているともしている。☆「大戦の唯一の引き金」という指摘は、英仏の責任逃れでしょう。 たとえば、『第二次世界大戦』の中で、リデル・ハートは、「なぜヒトラーは、あれほど避けたがっていた大戦争に巻き込まれたのか。それは、長期にわたるその従順さで彼を増長させていた西欧列強が、1939年春、突然彼を裏切った(4月1日のポーランド支持声明をさす)ということにも見出せる。この政策転換は思いもよらないほど突然で、戦争を不可避にするものだった」(上巻P23) 「戦争を避ける唯一のチャンスはソ連の支持を確保する事であった」(P32)のにもかかわらず、イギリス、フランス両国の首脳はソ連に対する強い嫌悪感を持っており、ポーランドをはじめとする東欧諸国もソ連の軍事援助を拒否しました。 たしかに、リデル・ハートは「この条約(独ソ不可侵条約)締結が、戦争を不可避なものとした」(P35)と指摘しています。しかし、こうも指摘しているのです。「もし誰かが、蒸気圧が危険点を超えるまでボイラーをたくのを許すとすれば、その結果としての爆発に対する責任はこれを許した当人に負わされる。この物理学的真理は政治学にも、また特に国際問題にもあてはまる」(P23~24)。 スペイン内戦に対する英仏の不干渉政策、ミュンヘン会談におけるチェコを犠牲にしての宥和策、そこから見ていかないと、大戦の勃発に関する真の「責任」問題は解けないように思います。 独ソ不可侵条約の「不道徳性」については、ポーランド分割を約した秘密議定書を指摘するまでもありません。
2009.09.05
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犬養首相を射殺した海軍青年将校たちは逮捕されて後どうなったか 09:9/3A死刑になった 人を殺した罪はそれほど重い。何より相手は何もしていない。偉い人を殺したから。どんな理由があっても人を殺してはいけないから。国民にとって不都合だったから。国民の反感を買ったから。 B処刑されなかった 日本を悪くした総理大臣だと思われたから。懲役10年くらいで許された。国民がそう願ったから。民衆が、政治家を排除せよ、と考えていたから。国家改造運動の影響。国民が青年将校たちに同情したから。政治家や資本家は殺されて当然だと思われていたから。井上日召も処刑されていないから。犬養の政治のやりかたに反対している人が多かったから。武力に訴えても許される世の中だったから。世間の人たちが支持したから。世間の人たちが政治に不満を持っていたから。世論とマスコミの支持があったから。どんどん軍国主義になっていたから。 C裁判にかけられた 殺されても仕方ないと考えられていたから裁判にかけられた。 ☆五・一五事件の実行犯たちはその後どうなったんだろう?と生徒たちに予想してもらいました。 嘆願運動は盛り上がり、多数の署名が集められ、結局、実行犯の最高刑は禁固四年です。現職の総理大臣を射殺して禁固四年。この当時の世相が分かります。 このような世相に乗って、二・二六事件が起き、日本は坂道を転がり落ちていくのですが、国民、マスコミの責任、そして、政治不信というものがどれほど恐ろしいかを教えていこうと思っています。
2009.09.04
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「クローズアップ現代」を見ていたら、「政権交代」というシリーズで、民主党の「外交」を取り上げていました。 普天間基地の移設の問題での「海外に持っていってもらえば一番いいんだが」発言。イラク沖での自衛隊海上給油の見直し発言。「対等で緊密な関係」発言などに、アメリカはぴりぴりしているように見える。 鳩山氏がこれまでの日米関係を「従属的」と発言した事に対して、たしか「ワシントンポスト」だったかが、「従属的とはどういう意味だ」と疑問を呈したという。日米関係が従属的なものであるという事くらい日本では大半の人たちが思っている事だ。ただ、「北の脅威があるからアメリカに頼らねばならない」といった観点から、そのことに就いて異論を唱えていないだけの事ではないか。「 ワシントンポスト」の記者も、この記事を書く前に日本を訪問して、百人ほどの日本人に、「日本はアメリカに従属してますか?」と訊ねればよかった。特に沖縄に行って、「従属してますか?」と訊ねればよかった。 マイケル・グリーンという人物が、「アメリカとの関係に就いて前向きの要素が一つもない。駄々っ子みたいだ」と民主党が発信している対アメリカ関係の見直し、「対等で緊密な関係」について発言していたけれど、自己中心のきわみである。 世界の経済を大混乱に陥れたサブプライムローンの発信地となり、大義なきイラク戦争を始め、世界の最貧国といっていいアフガンに兵を増派しようとしてますます混乱の度合いを深めている国に対して、「もう、いい加減にしろよ。付き合い方考えさしてもらうわ」と言ってどこが悪い。 アメリカの「知日派」は、ずっと天動説で生きてきたと見える。アメリカ中心の世界はすでに変わりつつあるというのに。 アメリカの「知日派」に今必要なのは、「コモンセンス(常識)」と「ボン・サンス(良識)」ではないか。トマス・ペインの「コモン・センス」、そして「アメリカ独立宣言」を読み返してごらん、グリーン君。君の国の「初心」がそこにある。君の国は、そこから「思えば遠くに来たもんだ」状態なんだよ。 民主党は、自分たちに寄せられている庶民の願いの大きさを知ってほしい。それが裏切られたとなると、党としての政治生命は終わることになるのだから。
2009.09.03
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今晩、「鉄道員」がBSで放映されます。1956年のイタリア映画です。 最初に見た時に、少年が父親に向かって、「男と男の約束だよ」というシーンに感動しました。イタリアでは、子どもが父親にむかってこんな事を言い、父親もそれを当然と思っている雰囲気に、鳥取県の少年は感動したのであります。 もう一つは、ピエトロ・ジェルミという俳優のかっこよさです。この作品と、「刑事」しか見ていないのですが、少年の私にとって、ピエトロ・ジェルミという人は、「カッコいい男とはどんな人なのか」という具体的な例となりました。 ただ、当人がそのかっこよさに接近しようという努力を全くしなかったために、現在では、ピエトロ・ジェルミとは程遠い男になってしまったことは、かえすがえすも残念な事ではありますが。 今の若い人たちには、ピエトロ・ジェルミはどう見えるのでしょうか。
2009.09.02
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『ローマ教皇とナチス』大澤武男 文春新書 ローマ教皇は全世界のカトリック教徒の尊敬を一身に集める存在であり、「神の代理人」とも称される人物です。 その人物が、第二次大戦中のナチスの、或いはクロアチアの親ナチス政権が行った蛮行に対してどのような態度をとったのか。この本のテーマはそこにあります。 エウジェニオ・パチェリ(後の教皇ピウス12世)とピウス11世は、ナチス政権が発足して半年後の1933年7月20日に、ナチス政権とコンコルダート(政教条約)を締結しています。1月30日のナチス政権発足後に頻発していた反対派、ユダヤ人への暴行がヴァティカンに報告され、ドイツ教会関係者たちが一貫して反ナチスであったにもかかわらずです。ヴァティカンは、ナチ政権を承認した世界最初の国となりました(また、満州国を最初に承認した国にもなっています)。 1939年3月2日、パチェリは、教皇ピウス12世となります。そして彼は、第二次世界大戦中に行われたナチによる蛮行、またはクロアチアで行われた反対派の虐殺、強制改宗に関して、様々な情報を得ながらもついに一度も抗議することなく沈黙を守り続けました。著者は、教皇という立場での発言が各国の教会関係者にどんな影響を与えるかへの配慮、そして強制力も何も持たぬ人物の苦悩にも十分に配慮をした表現を各所で行っています。しかし、この沈黙はいったいなんなのか。読み進みながら、私の頭の中には「偽善」という言葉しか浮かんできませんでした。こんな人間がよりにもよってこんな時期に教皇になったのです。 これと対象的なのがミュンスター司教のアウグスト・フォン・ガーレンの行動です。彼はナチスの安楽死政策を弾劾し(1941年8月3日)、その政策を中止に追い込んでいるのです。ヴァティカンは、この安楽死に就いて一切抗議も報道もしていないのです。また、反対派への暴力、ユダヤ人殺害、安楽死計画に対して反対を表明した3700名もの聖職者が強制収容所に送られていることに対してもヴァティカンは何もしていません。 これはなんなのか。 「もともと教皇を頂点とする教会のヒエラルキー構造は、全体主義、ファシズムに通じる面もあったといえる」(P66)という指摘が腑に落ちました。 教皇の親ナチス的行為が、反ソビエト、反共産主義から来ていることは疑う余地はありません。それは、ドイツでナチを支持した大資本家、軍部などの保守派の心情と共通する点でしょう。要するに、ボリシェヴィキよりナチスの方がマシということです。その「よりマシ」論がナチの蛮行を許し、教皇の沈黙を生み出す事になりました。 「ホロコーストの現実に直面してのパチェリの沈黙は、単に個人の無能さを意味するものではなく、制度としての教皇と教皇によって造り出されたカトリシズム文化の弱い側面と無能さを意味している」という指摘(P153)を、現在のヴァティカンはどのように受け止めているのでしょうか。 ピウス12世のあとの教皇たちはユダヤ人に対して遺憾の意を表していますし、ドイツのプロテスタント教会は、ナチ政権と共同行動をとった面があったことを認めて深い反省の意を表明しています。 また著者は、単にピウス12世を俎上に乗せるだけではなく、当時の大国がいかにユダヤ人に対して冷淡な態度をとったかに就いても厳しい指摘を行っています。 過去を振り返ることは、現在と未来の自己の行動の指針を得ることでもあるのです。
2009.09.02
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『ロシア革命』レーニンからスターリンへ(1917~1929年) E・H・カー 岩波現代文庫 1917年のロシア革命の勃発から、レーニン死後のスターリンの権力確立までを扱った本です。著者にはすでにこの時期を扱った大著があり、この本はその研究を「蒸留」し、一般読者、初心者向けに書かれた本です。 『歴史とは何か』のなかで、カーは、「歴史とは過去と現在との対話である」という有名な言葉を書き残しました。ロシア革命の叙述がたどった道筋は、この言葉を様々な意味で証明しました。ロシア革命史、特にスターリン時代の研究で知られる渓内謙氏は、この本の解説「E・H・カー氏のソヴィエト・ロシア史研究について」の後半部分でそのことを記しています。 1991年のソ連の崩壊によってロシア革命は、「少数の陰謀家のクーデターによって打ち立てられた独裁権力が、その後の数々の悪行の重みに耐えかねて崩壊した。民主主義の権力が樹立され、ロシアは真の(市場的)文明化の道に踏み出した」と認知されるようになったと渓内氏は言います。ロシア革命は、ソ連の崩壊とともに歴史のくずかごの中に放り込まれたことになります。「レーニンもスターリンも同じ穴のむじな」的思考が、主流となり、ソ連崩壊とともに大量に流出することになった資料がその傾向に拍車をかけました。カーの業績も無意味なものと烙印を押されました。「歴史は再び政治の侍女となった」のです。 しかし、ソ連崩壊から十数年たち、当時の熱に浮かされたような「資本主義万歳、社会主義は終わった」との論調は再び冷静な研究にその座を譲り渡そうとしています。そのような変化の中で、カーの著作への関心、再評価の機運が高まってきました。それは、「権力による偽造と隠蔽がシステム化した30年代(特にその後半)以後の歴史」と、カーが研究の対象にしてきた時代とが重ならないという事情も幸いしました。 カーは、トロツキーの研究者として有名なアイザック・ドイッチャーとの交流の中で、特にレーニンとスターリンとの連続性と断絶の問題についての考察を深めてきました。この本では、断絶面のほうに比重がかかっているようです。 レーニンは、革命が成功して後はその時々の情勢に応じて革命政府がいかにすれば生き残れるかに重点を置いて論考を公表しています。時としてそれは緊急避難的でもあり、マルクス主義の「原則」から外れることもありました。少なくとも彼はその自覚を持っていました。しかし、スターリンはレーニン亡き後、彼の著作の解釈権を独占し、レーニンの著作のごく一部分を文脈と当時の状況から切り離して引用するという方式を採用し、敵対者を攻撃するに至ります。 スターリンが「一国社会主義論」を唱え、なぜそれがソ連の人々の心をつかむにいたったのかについて著者は以下のように記しています。 それは積極的で明確な目標を提供した。それは他国からの援助への無益な期待を不要にした。それは革命を特にロシア的功績として提示し、社会主義の建設を、その遂行においてロシア・プロレタリアートが世界に手本を示せる高遠な任務として提示することによって、国民的自負心を満足させるものであった。これまで、ロシアにおける社会主義の展望が他の諸国における社会主義革命に依存しているということは、党教義における中心的位置を占めていた。いまや優先順位は転倒された。 一国社会主義は、民族的愛国主義にとって強大な魅力であった。議論の余地なくそれはロシアを第一位においたのである。(P107) 革命を狭いナショナリズムの拘束服の中に押し込めることには、逆の面もあった。スターリンを、専ら個人的権力への欲望によってつき動かされた人物として描くのは、不公平であろう。スターリンは、原始的・農民的ロシアを、主要な資本主義列強と対等に対峙しうるような近代的工業強国に変えることに、彼の疲れを知らない精力を傾注した。資本主義国に「追いつき」「追い越す」必要性は、強迫観念的なテーマであり、スターリンの単調な散文の中の稀な華麗な部分のほとんどは、それに鼓吹されていた。(P244) ロシア革命の初心はなんであったのか。社会主義とはもともとどのような思想であったのか。現実の「社会主義」を自称する国家とは区別してそのことを考えてみる必要がありそうです。 最後に、渓内氏が記しているカーの言葉を引用します。 多分世界は、なにものにもいかなる意味を見ようとしない冷嘲主義者と、立証できない壮大な仮定に基づいてものごとを意味づけるユートピア主義者とに二分される。私は後者をとる。 私はそれを「社会主義」と呼ぶべきであろうし、その限りにおいて私はマルクス主義者であると思う。しかしマルクスは、二、三のユートピア的章句を除いて社会主義の内容を定義しなかった。私もできない。
2009.09.01
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