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『男の凶暴性はどこからきたか』リチャード・ランガム&デイル・ピーターソン 三田出版会 ハンフリーがゴディを押さえこんでいるところに、残りのオスたちが襲いかかった。彼らはひどく興奮し、甲高い叫び声をあげながら突撃した。最年長のヒューゴは歯ぐきの近くまですり減った歯でゴディに咬みついた。ほかのオスたちは肩や背中を殴りつけた。若もののオスは少し離れて見守っていた。メスのジージーは攻撃するオスたちのまわりを金切り声をあげながら跳びまわっていた(五人のヘビー級ボクサーにめった打ちにされることを想像してみれば、ゴディの立場がわかるだろう。測定結果によれば、野生のものよりも力が劣ると思われる飼育下のチンパンジーでさえ、絶好調のスポーツ選手より四、五倍も力がつよいのである)。 10分後、ハンフリーがゴディの足をはなした。ほかのチンパンジーも殴るのをやめた。土に顔をうずめて倒れているゴディに、大きな石が投げつけられた。まだ興奮がさめない攻撃隊は大きな声をあげながら突進し。カハマ集団のなわばりの奥へ入っていった。数分後、彼らは北へ戻り、境界を越えて自分たちの遊動域へ引きあげていった。ゴディはゆっくりとおきあがり、恐怖と痛みで悲鳴を上げながら、引きあげていく襲撃者をみていた。顔にも胴体にも手足にも、ひどいけがを負っていた。打撲傷がひどく、何十もの切り傷や裂け目から血が流れていた。 それからゴディの姿は二度とみられなかった。二、三日か、ひょっとしたら一、二週間は生きていたかもしれない。だが死んでしまったことはたしかだ。 ゴディへの襲撃は最初の事例だった。チンパンジーが隣接集団のなわばりに侵入して相手を襲撃する事は以前からあったにちがいないが、人間が目撃したのはこれが初めてだった。この、死をともなう侵入襲撃が報告されたとき、チンパンジーの研究者や動物学者は大きな衝撃を受けた。 それまでは、同種の仲間を殺すのは人間だけで、ほかの動物にはそうした行動はみられないとされていた。ゴディに対する攻撃が観察されるまで、研究者たちは人間の驚くべき暴力性を人間固有のものとみなしていたのである。P21~22 動物について私たちが持っていたイメージは今大きく変わりつつあります。その一番大きな原因は、野外で動物を長期間観察して、その観察結果が報告されるようになった事にあります。 ジョン・マッキノンという研究者は、必要最低限の道具だけを持ってオランウータンを、「夜はオランウータンが寝ている樹上の巣の真下の地面で眠り、相手を見失うまで、あるいは食料が尽きるまで追い続けた」(P184)のです。「暑さと湿気、暴風雨、洪水、強風・・・ヒル、スズメバチ、蚊、アブ、ダニ、ゾウ、野生牛」に悩まされながら。その結果彼は、オランウータンのメスが攻撃的なオスにれいぷされる現場を見ることになりました。 このような観察結果は、ヒトは平和な種として進化してきたのに、今日見られる暴力性は進化の道筋以外の要因によるものだ、という考え方を決定的に揺るがす事になりました。殺害も、れいぷも、子殺しも私たち人間と遺伝子的に非常に近いチンパンジー、オランウータン、ゴリラの世界の中に存在している事が観察されたのです。つまり、我々人間の世界で起こっている殺害、子殺し、れいぷ、そして戦争は人間がご先祖様から受け継いだ「遺産」であるという事になります。しかし本当にそうなのか?著者は、第十章「おだやかな類人猿」で、20世紀になってはじめて発見されたボノボという新種のチンパンジーの事を紹介します。 ボノボはチンパンジーより小型で、150万年前から300万年前あたりにチンパンジーと分岐したとされています。 「ボノボの社会には、力づくのこうびも、大人のメスに対する暴行も、子殺しも全く見られない」(P273)という点で、ボノボの社会はチンパンジーの社会とは大きく違っています。ではなぜ違うのか。チンパンジーの社会ではオスがメスを支配していますが、ボノボの社会では両者は同等です。ボノボの社会では息子は母に対して強い依存を示し、母親の息子に対する支援は大きな意味を持っています。ある研究者は、このような特徴を持った社会を、「マザコン社会」とよんでいます。 ボノボの社会の中核は、メス同士の強力なネットワークです。メスたちはせいきをこすり合わせるホカホカと呼ばれる行為によって親和的な関係を強め、緊張をほぐします。オスはといえば、チンパンジーに比べてトップの座を争う事に関心がなく、そのために攻撃性も低いのです。せいこういも、友人を作るため、緊張をほぐすため、仲直りのためにも使われています。このようなボノボの社会の特徴をよく表す例を紹介します。 1986年12月21日、ワンバで伊谷原一が、そのあたりの森をなわばりの境界にしている二つの集団のうちの一つをひき寄せるために、開けた場所にサトウキビをばらまいた。(ところが二つの集団が来てしまいます)。 二つのパーティーのメンバーたちは、声をあげつづけながら徐々に二、三メートル以内に近づいて座った。衝突は起こらなかったが、両者が混じりあうこともなかった。およそ30分ほど妙な休戦状態がつづいたあと、P集団のメスが一頭中立地帯を越えていき、E集団のメスとホカホカをした。これにつづいて、それまで霊長類学者が誰も目撃したことのない出来事がおこった。二つのパーティーは二時間にわたって、ほとんど同じ集団に属するメンバーのように、一緒に混じりあって餌を食べ、休息をしたのである。もとの社会的な境界線を静かに保っていたのは、おとなのオスたちだけだった。 (その後もこのような光景は観察されるようになりました)。 初めに友好的な態度を示すのはきまってメスだった。P集団にきわだって友好的なメスが一頭いて、これはE集団で育った個体だった。このメスはE集団のメスに頻繁に接近し、逆にE集団のメスがこのメスに接近することもよくあった。メスたちは他集団のメスとのホカホカも、他集団のオスとの交尾も見られた。もっとも驚異的なのはオスの態度で、彼らは自分の集団のメスが他集団のオスと交尾をするのを、無反応にただ見ていたのである。(p285~286) ボノボも、私たち人間と祖先を同じくする類人猿です。著者はボノボのこのような特性を、ボノボがチンパンジーとは違ってゴリラが好むものを食べる食性に求めています、そして彼らの生活圏にはゴリラがいないのです。この豊かな食物が、ボノボの集団の規模が安定している要因となっているようです。 ボノボとチンパンジーが森で分岐し始めた頃、ヒトもサバンナで分岐し始めています。 著者は、ボノボの社会を視野に入れつつ、人間の社会でどのようにすれば攻撃性を低下させうるか、戦争を防止できるかという点に就いて、第十二章「デーモンを制御する」で自説を展開します。 男の暴力性と女性支配は、長いあいだ人間の歴史の一部であったと思われる。ここまでは認めざるを得ない。だが、それが今後もつづくはずだという悲観論者の主張は、進化的な見地からきっぱり否定できる。男のデーモン性は避けられないことではない。それはほかの動物にもみられるし、人間の社会によってもさまざまに異なるし、歴史のなかで変化もしてきた。 われわれが歴史のうねりに流されて、粗暴な過去からどのくらい離れたところまでいけるのか、それは誰にもわからないのである。(P331~332) 具体的に、私たちが生きている場所でどのように行動するか、それは私たちの選択にかかっているようです。誰も処方箋はかけないでしょうし。
2009.08.31
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『第二次世界大戦』リデル・ハート 中央公論新社 リデル・ハートという人は、戦略・軍事史研究家として有名な人です。戦争は様々な事柄が絡み合って推移していくわけですが、その中核をなすのは戦闘がどのように行われたか、ということです。一つの戦闘がどのように行われたのか、作戦の立て方はどうであったのか、成功と失敗の要因はどこにあったかを精密に検討していくこの本を読むと、一つ一つの作戦の成功と失敗とは実は紙一重のものであった事が分かります。 ノルマンディー上陸作戦の場合。 さらに緒戦当日の驚くべき事実として、ヒトラー自身が朝もずっと遅くなるまで上陸の報を受けていなかった事と、ロンメルが現場を離れていたことのふたつがあった。もしこれらがなければ、もっと迅速に強力な措置がとられたものと考えられる。 ヨードルは朝寝をしているヒトラーを起こすにしのびず、ルントシュテットからの予備隊の使用許可に関する申し入れを、みずからの責任において拒否したのである。 ロンメルがノルマンディーから離れていなかったら、予備隊の使用についてはもっと早く許可したものと考えられる。・・・しかしロンメルはその前日、司令部をあとにドイツへの旅に発っていた。強風と高波が一時侵攻を不可能と思わせたため、彼は妻の誕生日をウルム付近の自宅で過ごす事も兼ねて、ノルマンディー地区にもっと多くの装甲師団を配置する必要がある旨を訴えるために、ヒトラー訪問を決意したのである。(下)P242 こういったところは確かに、「イフ」「もしも」の世界です。しかし、戦争は偶然と奇跡に支配されているわけではない事も著者は私たちに教えてくれます。 そもそも日本帝国は基本的には海洋帝国であり、海外からの補給に依存する度合は大英帝国を上回っていた。日本の戦争遂行能力は海上輸送による石油、鉄鉱石、ボーキサイト、コークス用石炭、ニッケル、マンガン、アルミニュウム、錫、コバルト、鉛、燐酸鉱物、黒鉛、苛性カリ、綿、塩、ゴムなどの大々的な輸入に依存していた。のみならず食糧に関しても、砂糖と大豆の大部分、小麦の20%、米の17%は輸入に頼っていた。 にもかかわらず日本の開戦時の商船の総計はわずかに600万英トンであり、1939年(昭和14年)初頭における英国(ほぼ9500隻、総計2100万英トン以上)の三分の一よりはるかに少なかった。その上日本は二ヵ年にわたる戦争から教訓を得、勢力範囲の拡大政策をとっていたにもかかわらず、船舶防護の組織化を怠り、護衛船団も護衛空母も整備する措置をとらなかった。そしてすでに船舶数が激減してから、ようやくその手抜かりを償おうと努力し始めたのである。(下)P462~463 この本を読んでいて、戦争というのは、結局、その国の持っている様々な要素のうちのもっとも弱い部分で勝負が決まるのだなというとても当たり前のことにあらためて気がつきました。 またもう一つ、独裁体制という一見効率のよさそうな政治体制が戦時には最終的に何処で弱点をさらす事になるかという見事な分析にもなっているという事がこの本の優れたところでもあると思いました。 一つは、「英本土防衛戦(バトル・オブ・ブリテン)」の記述から、そしてあと一つ、私が強く印象を受けたのは、ダンケルクからの撤退の項でした。少し引用します。 1940年の英遠征軍の撤退成功は、主としてヒトラーの干渉のおかげだった。フランス北部を蹂躙したドイツ軍戦車が、英軍を前線基地から遮断しダンケルクへなだれ込もうとした時、ヒトラーは自軍戦車に停止を命令した。 この停止命令が、もはや救われる望みのなかった英軍を救ったのである。ヒトラーのおかげで大陸からの撤退に成功したからこそ、英軍は英本土に結集して戦いを継続でき、侵攻の脅威に備えるべく沿岸の防備を固めることが出来たのである。 ヒトラーは何故に、またどういういきさつでこの運命的な停止命令を下したのか。これはドイツ軍将官ら自身にとっても多くの点で謎であり、ヒトラーがそう決断するに至った経過とその動機を明確に知るのは、今後においても不可能であろう。仮にヒトラーが説明を加えていたとしても、そんなものは信用できない。高い地位にあって致命的な間違いを犯した者が、後日、自らその真相を語ることはほとんどないのである。第一ヒトラーは、こよなく真実を愛するといった部類の人間ではなかった。(上)P138~139 一つの作戦が終了してからその成否を分析して今後に生かすというサイクルが機能しているのはどちらのほうか?間違いなく、ドイツ、日本よりも、英・米の方に軍配が上ります(英・米も様々なミスをしたり、もたもたしていたにしても)。このフィードバック機能が働かなかった事が結局この長期にわたる消耗戦の敗者を決定したといっていいのではないでしょうか。 このように戦争というものを様々な観点で見ていくと、「もしも」という視点を滑り込ませて、その視点でのみ戦争を語ることの夢想的であることが明らかになります。 先日NHKで放映していた核に就いての番組の中での、「もしも日本があの時核をもっていたらアメリカから核攻撃を加えられることはなかった」という珍論の馬鹿馬鹿しさが浮き彫りになります。そういう事なら、「もしもあの時、日本に宇宙戦艦ヤマトがあったら戦争に負けてなかった」ともいえることになります。そしてそのような夢想家が、しきりに「現実的」という言葉を遣うということもまたこっけいな感じがします。
2009.08.30
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『病気の社会史』立川昭二 という本を読んでいますと、ボティチェリの「ヴィーナスの誕生」のモデルは、シモネッタ・ヴェスプッチという女性で、あのアメリゴ・ヴェスプッチの親戚だそうです。あの肖像画から彼女が肺病であったことがわかると言います。 閑話休題。シモネッタをひとつ。 太郎「女性は何考えてるかわからないよね。」 花子「え、何のこと?」 太郎「ほら、フィリピンの独裁者でマルコスっていたでしょう。」 花子「はいはい。」 太郎「その奥さんがイメルダ夫人。」 花子「憶えてる。独裁者の地位を追われて彼らが逃げ出したあとで、宮殿の中に何千足という靴があったという人。」 太郎「そう。足が二本しかないのに、何であんなに靴を買うのか・・・ホントにキミ達女性のやる事は理解できないよ。」 花子「女性ばかりじゃないわよ。男性だってそうじゃない。」 太郎「たとえば?」 花子「マルコスよりももっとスケールの大きな独裁者の始皇帝。」 太郎「秦の始皇帝?彼がどうかしたの?」 花子「後宮三千人、といって天下の美女を集めたんですよね。イメルダ夫人の足は二本だけど、始皇帝のアレは、一本しかなかったのに。」 お後がよろしいようで・・。
2009.08.29
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総選挙に就いて、思う事がいくつかある。 まずその一。日本にはすでに政教分離は消え去ったのか? 特定の教祖がいるような宗教団体(弧梅井とか口腹とか)が政治団体となって政党をつくり選挙活動を行う事によって、その宗教団体に属するものは政治信条の自由を事実上奪われることになる。 民主社会で重要なのは、個々人が自分の政治的信条に従って意見を公表したり、運動を組織したり、投票したりして政治の主人公としてふるまうことだと思う。これを宗教政党は決定的に阻害する。宗教、特に、特定の個人が教祖として敬われている場合、宗教教団の一員は、教祖様のご意向に従わねばならないだろう。教団に入信しているような人たちの中には、様々な苦労を抱えて、本当に藁をもすがるような気持で教団に所属している人が多い。そのような人たちの気持につけこんで票を掠め取ろうという神経は、およそ宗教とは遠いものとしかいえない。 その二。マスコミは、二大政党制と政権交代を盛んにアナウンスしている。しかし、私は、ライスカレーとカレーライスほどの違いにしか見えない。精々、皿の上にラッキョが乗っているか、福神漬けが乗っているかの違いしかない。 これは、眠主の中核をなしているのが元々痔民党出身者である事を考えれば当然だろう。 二つの政党ともに、財源をいう時に、絶対に踏み込まないのが、「政党助成金の廃止」、「アメリカ軍への思いやり予算の廃止」、「法人税の引き上げ」である。 特に眠主の場合、「我々も痛みを分け合う」と言って比例区の定数を削ろうとしている。「痛みを分け合う」のなら、一番の早道は「政党助成金の廃止」だろうに。そして、教科書問題、日の丸・君が代押し付けで、痔民よりはるかに悪質なのが一部眠主議員であることは、私のような職業の人間にとっては自明の事だ。 さらに一番怖いのが、二つの政党の「大連立」である。大連立のテーマはそうなると憲法改悪という事になる。それ以外にはない。世論調査などで、「望ましい政権」という項目に、「二つの政党の大連立」を挙げる回答が一定数あるが、その人たちはそれも視野に入れているんだろうと思うとぞっとする。 どの政党も絶対多数を握れない選挙制度(中選挙区、或いは完全比例代表制)の下では、政策の選択、そして実行は中道(中庸)化する。私はこのような状態が民主国家には一番相応しいと思う。 小選挙区制は、民主的選挙制度の下でのファシズムにかぎりなく接近する。私は今のアメリカを民主主義国家であるとは思っていない。国民が、ペプシコーラか、コカコーラかしか選択できないような国のどこが民主主義なのか。 他国の主権を平気で犯し、老若男女の区別無く爆弾の雨を降らせ、自国の価値観を他国に押し付けて恥としないような国のどこが「民主国家」だ。そのような政府のあり方を放置している国民の中には「デモクラシー」はない。(もちろん、アメリカの現状に異を唱えている人たちがいることを私は知っている) トゥキュディデスが、『戦史』(ペロポネソス戦争史)のなかで、「民主主義は他人を支配する事は出来ない」という発言を紹介していることの意味を私は考えている。 30日の選挙が、地獄の釜の蓋を開けるきっかけとならないように祈りたい。 選挙後の各党の動向に目を光らせたい。このチャー君のように。
2009.08.29
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『ふたりの星』ロイス・ローリー 講談社 世界の子どもライブラリー デンマークの人たちは国内のユダヤ人の人たちを、友人とし、ナチスの手から守り、スウェーデンに逃す活動を行いました。この作品は、その活動をテーマにしています。 アネマリーもエレンも十歳の少女です。ふたりは仲のいい友達です。物語の前半は、ナチスによって占領されたデンマークの人たちの生活と抵抗を描きます。 物語が緊迫感を増すのは、ナチスがデンマーク国内のユダヤ人たちが何処に住んでいるかのリストを手に入れ、どこかへ移送するらしいという事が明らかになったあたりからです。アネマリーの両親は、「それは間違っているからなんとかしないといけない」という思いから、まずエレンを自分たちの娘としてかくまう事とし、さらにエレンの両親をデンマークの港からスウェーデンに向かって密航させる計画に取り掛かります。 両親たちの献身的な活動、ドイツの兵隊たちを欺く手口が次々と描かれます。 そして、最後、お母さんは転んで足首を骨折してしまいますが、その時に、とても大切な包みを港にいる伯父さんのところに届けなければならないことがわかります。 誰が届けるのか?それは十歳のアネマリーしかいません。お母さんは小さな籠の中にその包みを入れ、その上に林檎とチーズとパンを入れて、彼女に渡します。アネマリーは、夜の暗い森を必死で走り抜けます。「赤頭巾ちゃん」のお話を思い浮かべながら。 そして、やっとの事で森を抜け、港に近づいた彼女を待っていたのは、ドイツの兵隊たちでした。 彼らはアネマリーを呼びとめ、彼女の持っていた籠に目をつけて中のパンを、林檎を、チーズを取り上げました。そして、ナプキンをかけて底に隠してあった包みも取り出して紙を破って中身を取り出しました。万事窮す!!・・・包みの中には何の変哲もないハンカチがありました。 兵隊たちは馬鹿にしたように笑い、籠とハンカチを返してくれました。アネマリーは、それを伯父さんに届けました。伯父さんは、有難うと言ってそれを受け取り、ほっとした表情を浮かべました。 読んでいて、なにがなんだか分からなくなりました。包みは見つかり、中身も見られてしまいました。中身のハンカチには何か書いてあったのか?そうでもなさそうです。では、伯父さんはなぜハンカチを受け取ってほっとした表情を浮かべたのか?これから先は絶対に書けません。16「ちょっとだけ教えてあげよう」を読んで、ええっ!!と驚き、「あとがき」を読んでそれが本当のことであったことを知って二重に驚きました。図書館で借りて読んでみてください。ホントにびっくりする事請け合いです。 デンマークの若者たちの中にはレジスタンス活動に身を投じて殺害された人たちもいました。作者はそんな若者たちの一人、キム・マルテ・ブルーンの写真と向き合って、この作品の構想を得たと言います。最後に、この若者が死を迎える前の晩に母親にあてて書いた手紙の一節を紹介します。 ・・・そして、みなさんにおぼえていてもらいたいのです。戦争前の自分にもどることを夢見てはなりません。あらゆる人が、若者も老人も、品位ある人間の理想の姿を夢見なくてはなりません。偏狭な、偏見にみちたものではない、理想のすがたを。それこそわたしたちの国が心からのぞむ偉大なもの、どんな小さな農家の少年でもめざすことかできるもの、だれもがその実現によろこんで手をかせるものです。わが身をささげて、戦いぬくことのできるものです。 私は、日本国憲法前文を思い浮かべました。
2009.08.29
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『オーウェル評論集』平凡社ライブラリー全四冊 第二巻「水晶の精神」の中に、「ナショナリズム覚え書き」という文章が収録されています。その一部を紹介します。 私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。 しかし第二には、そしてこの方がずっと重要なのだが、自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものとしたものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。 ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。 私が「愛国心」と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押し付けようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。 ナショナリストは自己の陣営によってなされた暴虐行為は非難しないばかりか、そんなものは耳にもはいらないという珍しい能力を持っている。 すべてのナショナリストには、過去は改変できるものだという信仰が付きまとう。 現代のプロパガンダの多くは純然たる捏造である。重要な事実が隠蔽され、日時が改変され、前後に関係なく一部分だけ引用して意味を変えてしまう。起こるべきでなかったと思われる事件については口をぬぐって語らず、最後には否定する。 ナショナリストはたえず権力や勝利や敗北や復讐を考えているくせに、しばしば、現実の世界で起こっていることにある程度無関心になる。彼が望むのは自分の陣営が相手を打ち負かしていると感じることであって、そのためには、自分の主張が事実に合っているかどうかを調べるよりも、敵をへこます方が近道なのである。 オーウェルのナショナリスト、ナショナリズムの定義は、「精神的習慣」です。そのために、自分のものの見方、考え方がそうなっていないかどうかを測る物差しにも十分に使えます。何度読んでも得るところの多い作家です。 またオーウェルは、以下のようにも言っています。 私が使っている広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリシズム、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義と言った運動や傾向も含まれる。 「平和主義」が入っている事の意味を考える必要が、平和運動にエールを送っている私のような人間にはありそうです。
2009.08.28
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『おやすみなさいトムさん』ミシェル・マゴリアン 評論社 第二次世界大戦の初頭、イギリスでも多くの子どもたちが学童疎開で田舎町へと送られていきました。妻と子どもを失って以来、村の人たちとの付き合いをほぼ絶っているトム・オークリーのもとにもロンドンから一人の少年が送られてきます。 この少年、ウィリアム・ビーチ(ウィリー)は、狂信的な母親から虐待を受けて育ってきており、大人は自分を殴るもの、自分は殴られて当然の悪い子、という意識に凝り固まっていました。トムはとまどいつつ、この少年の世話を始めます。ウィリーはトム、そして彼を取り巻く村の人たち、少年少女たちとのふれあいの中で、自分でも思っても見なかった才能を開花させ、ぐんぐんと成長していきます。そして、トム自身も大きく変わっていくのです。 トムは低い門の上から上体を乗り出して、打ち明け話の口調になっていた。 「先週、あの子は笑ったんだよ、フレッチャーの奥さん。遠慮がちな笑い方だったが、本当に笑ったのさ。ここにきてはじめてのこってね。ユーモアのセンスなどまるきしないものと思っとったんだが」 ミセス・フレッチャーはトムの目をじっと見返した。眉を気むずかしくしかめる癖も近ごろではずっと目立たなくなり、目の上の深い皺からも厳しさが減って、むしろ柔和な感じになっている。取りつく島もない、無愛想な取りなしの下に、この老人がなんともいえないやさしさを秘め隠していること、反応をまるで示さない小さな子どもが一緒に暮らすようになったのがきっかけで、この人の美点を自分ばかりでなく、たくさんの村人が発見しつつあるのだということを、ミセス・フレッチャーはしみじみ感じていたのだった。P175 ウィリーは、母からの「病気だから帰ってきてほしい」という手紙によって一旦ロンドンの自宅に帰ることになりました。トムは、内心心配しつつウィリーを送り出します。 ウィリーはトムからの手紙に返事もよこさず、トムの心配はつのります。意を決した彼はロンドンに行き、ウィリーを探します。 ウィリーとの再会、そしてトムは彼を「誘拐」して連れ帰り、彼を養子にします。 「ごめんなさい、父さん。父さんがそんなに心配するなんて、ぼく、考えていなかったんです。どうしてもしばらく一人でいたくて。父さんのこと、忘れてました。思い出しませんでした。ごめんなさい」 「こうして帰ってきたんだから、謝るにはおよばないよ。だが、すっかりまいっちまってるようだな。体を洗ってすぐ寝るといい」 ウィルが眠りに落ちた後、トムも床に入ったが、ウィルの言葉の意味がこの時はじめて胸のうちに沈んだ。 「あいつ、わしを『父さん』と呼んだ」と彼はしゃがれ声でつぶやいた。「父さんと」胸がつぶれるほど幸せな気持ちで、トムは声を抑えて泣いた。涙がさんさんと頬を伝っていた。P390 読み進んでいる時に私がひきつけられたのは、この作品の文体です。 長い煙突のついたストーヴが四列の机の間に、廊下と向かいあわせに取りつけられていた。ストーヴの上にはミルクの入ったソース鍋が温まっており、まわりに四角いストーヴ囲いがめぐらされ、子どもたちの湿ったソックスが湯気を立てていた。ストーヴの左手に、ホールに通ずるドアがあった。 教室には後ろに二つと左手に一つと、大きな窓が合計三つあった。窓ガラスには桟が十字形にはまり、隅のほうに初雪がたまって、とても美しく見えた。教室の右手の羽目板の壁際に標本を並べたテーブルが置かれていた。P216 この文章をゆっくりと声に出して読んでいくと、その良さが伝わると思います。イギリスのすぐれた児童文学に与えられるガーディアン賞を受賞したこの小説、たくさんの人に読んでほしい作品です。
2009.08.28
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『ガラスの仮面』44巻が発売されました。当然買いましたが、いつかテレビで美内さんが、「これからは真面目に描きます」とおっしゃっていた言葉に嘘は無かったようです。 私は昔人間ですから、電車の中で読まないで、家に帰ってじっくりと読みました。 ・・・・これからどうなるんだろうか・・・という展開です。
2009.08.28
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今、歯医者にいます。長年の不摂生の結果、これから奥歯を抜かれる事になりました。痛くないように神様に祈りたいのですが、どの神様がいいのか。あー、お助けください。
2009.08.28
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思い込みはなんと恐ろしい事でしょう。自分でちゃんと調べるべきでした。 スイカズラ ノウゼンカズラ ああ・・・なんということか。がっくし・・・。でも、一つ賢くなりました。ご指摘、ご教示感謝いたします。 写真は、「季節の花300」からいただきました。有難うございました。 http://www.hana300.com/nouzen.html
2009.08.27
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「スイカズラ」と聞くと、「どこかで聞いた(読んだ)記憶があるなぁ」と思います。あの本はなんだったんだろう。 小さなお姫様がスイカズラの花の中に住んでいる・・・そんなお話だったような記憶があるのです。 「親指姫」だったのかなぁ。 「スイカズラ」、「これがスイカズラなんですよ」と教えてもらった時に、思わず近寄ってしげしげと眺めてしまいました。
2009.08.27
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『ウルフィーからの手紙』パティ・シャーロック 評論社 1960年から75年まで続いたヴェトナム戦争は、ヴェトナム側の死者、軍民合わせて二百万人、米軍の死者5万8千人という結果を生んで終結しました。この戦争は直接戦った二つの国だけではなく、派兵した国々、基地を提供した日本などにも大きな影響と傷跡を残しました。 映画、評論、小説、様々な形で「ヴェトナムもの」が作られました。 この作品は2004年に出版されています。戦争が終結してから30年たって生まれたという事になります。 この小説の主人公のマークは、大切にしていたジャーマンシェパードのウルフィーを、アメリカ陸軍に軍用犬として提供する決心をし、実行します。そこからすべてが始まります。マークがウルフィーを提供しようとした直接の原因は、陸軍に入隊した兄さんが、「陸軍は軍用犬を必要としている」と伝えてきたからでした。マークがウルフィーを提供しようとした心の動きを作者は実に丁寧に描写します。 しかし、マークはすぐに後悔します。その気持に追い討ちをかけたのは、陸軍が軍用犬を「装備」として扱い、任務を終えた軍用犬を帰国させてもとの生活に帰すという事を検討してもいない事を知った事でした。彼は、どうすればいいのか、学校の先生に相談します。先生は、自分の気持をどうあらわしたらいいかアドバイスをしてくれます。まず手紙を書くこと。上院議員、下院議員、もちろん陸軍にも。しかし、それは効果を上げることは出来ませんでした。ではどうするか?先生は合衆国の建国の理念を説きます。 ここから先の展開は、現在の日本ではちょっと考えられないことになります(日本でこれができにくいという事自体が問題ですが)。マークはいろんな人たちの助けを借りて抗議運動を組織し、実行する事になります。「ウルフィーを返せ」という行進が実行されます。この展開、そして思いもかけなかった参加者の広がりにマークは戸惑います。しかし、行進は実施され、それに参加したマークのお母さんも大きく変わっていきます。 作者はここで、ドイツからの移民のエフィーに重要な役割を果たさせます。エフィーは、ナチの時代を体験しており、何かに駆り立てられるように集団で行動をする大衆の恐ろしさを見に沁みて知っているのです。エフィーは、デモ行進に参加する人のたちの中には、軍用犬の事など考えもしていない人たちがいるといいます。「そういう人たちは、人生に何も持っていないのよ。それでプラカードを持つの。わかる?理想の一部を担っているってわけ。」 群集心理の恐ろしさです。 「ウルフィーからの手紙」は効果的にさしはさまれ、戦場の最前線の状況のルポとなっています。厭戦気分、麻薬の蔓延、一方で、ウルフィーの活躍によって命を救われる米兵たち。 そして、兄さんのダニーが負傷したというニュースが届き、ダニーは変わり果てた姿で帰国します。 そして、ウルフィーは。このラストだけは自分で読んでみてください。 一人の少年の成長の物語です。少年の成長を周りの人たちはどのように受け止めるか。図書館で働き始めたお母さんの姿が私にはとても魅力的でした。同時に、命あるものがいとしくなる、そんな物語でもあります。※ベラをから揚げにして、南蛮漬けにしました。
2009.08.27
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『バーバラへの手紙』レオ・メーター 岩波書店 この本を手に取ったきっかけは、「ドイツ軍兵士が娘に書いた手紙」という紹介文でした。 確かに「手紙」でした。しかしこの「手紙」は、絵手紙でした。まだ幼い娘バーバラへのあふれんばかりの愛情をどんな形であらわそうか・・・、そう日夜考えているパパ・レオの想いがあふれている「絵手紙絵本」でした。 1943年4月4日。ぼくのかわいいバーバラちゃん、パパのレオは、君のおたんじょう日にも訪ねていけないほど、ずっと遠いところにきている。6日には、きみといっしょにいたいんだけどなあ。 でも、ながーい、元気よく走る汽車に乗ったとしても、いく日もいく日もかかるだろう。 確かに「ドイツ軍兵士」でした。しかしこのドイツ軍兵士は、ただの「ドイツ軍兵士」ではありませんでした。 彼は、ドイツのケルンに生まれ、反ナチス活動を行ったために強制収容所に入れられ、釈放後はオランダに亡命し、そこでユダヤ人女性と知り合い、1936年に結婚、1939年に娘のバーバラが誕生、オランダがナチスに占領されると人種法によって離婚させられます。その後、ユダヤ人を助ける活動を行いますが逮捕され、ゲシュタポの手から軍に引き渡され、ソ連のウクライナへと送られた、という「ドイツ軍兵士」でした。 自分の日常生活を描き、この手紙がどのようにして手元に届くかを説明し、バーバラが登場するお話、黒い豚のエ-ドゥアルトとイエス様の物語をつむぎだして絵手紙にしたパパ・レオ。自分を、周りの風景を、お話の登場人物、動物たちを楽しい絵にしたレオ。 バーバラに、いっぱい学んでほしいことを語ろうとした手紙は、1943年のものが最後になりました。彼は1944年7月26日、おそらく命令に服従しなかった罪で銃殺されたと考えられています。 娘、バーバラ・メーターさんのあとがきの最後の部分を引用します。 父から来た最後の手紙は、1943年の冬に書かれたものです。1944年7月26日、父はポーランドで戦死しました。それとも銃殺されたのかもしれません。どちらなのか、私たちにはわかりません。まだ36歳にもなっていませんでした。父は、<だめな兵隊>でした。父と同じ中隊の兵士だった人が戦後母を訪ねてきて、父は発砲しなければならなくなったとき、空に向けて撃った、という話をしてくれました。そのために殺されたのかもしれないのです。 父を取り戻す事が出来るのなら、私はどんな事でもしたでしょう。私は父を誇りに思います。父がだれであったかを、どんな人であったかを、父のありようをあらわしているその手紙と絵を、私は誇りにおもいます。それから、空に向けて撃ったことも。
2009.08.26
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『リスの目』ベロニカ・レオ ほるぷ出版 副題がついています。「フィンランドからスウェーデンへ 北欧にもあった学童疎開」。38ページほどの絵本です。点描風の挿絵が印象的です。 八歳でヘルシンキに住んでいた著者は、まず知り合いの家へ、そして次にスウェーデンの親戚の家に疎開する事になります。 空がほのおのように真っ赤に燃えているのをみて、思わず、「わあ、きれい」と言ってしまい、あとで後悔した事。 名前と住所、行き先を書いた札をぶら下げている「まるで小包のような」子どもたち。 黒いボール紙で窓を覆わねばならなかったフィンランドに比べて夜景を眺める事が出来たスウェーデンの家のこと。 スウェーデンの学校に中々なじめなかったこと。 滑り台でズボンに穴を開けてしまったこと。 戦争が終わって家に帰れるようになり、お母さんから、フィンランドが今どんな状態にあるかを聞かされて、「他人を思いやらなければならない」「自分のことだけを考えていてはいけない」という事がわかるようになったこと。 日常生活が淡々と書かれています。 日本の学童疎開の事を本を何冊か読んでいる私としては、日本の学童疎開と比べて、正直、「ずいぶんと恵まれているなぁ」と思いました。「わがままな子だな」とも思いました。しかし、全文を読み終えて、さらに著者のあとがき、巻末の解説(奥田継夫)を読んで、考えが変わりました。 「恵まれている」「わがまま」と私が思ったのは、戦争当時の日本とフィンランドとの生活水準の違い、そして、なにを大切にして日常生活を送っているかに思いが及ばなかったからだと気がつきました。そして、自分が読んだ学童疎開の本が、当時の日本における学童疎開の状態すべてを語っているという思い込みにも。 でもつらかった。ほんとうにひとりきりになれないから。 家族で一番大切な子になれないから。 という一節があらためて目に飛び込んできました。自分の知っている事を基準にして、「恵まれている」などと思うものではありません。それは、低い水準に子どもの、そして私たちの生活を合わせることになるのですから。 「七万人近い子どもが、戦時下の1939~1945年のあいだに、一度またはそれ以上、スウェーデンにわたりました」。「大部分のものにとって、疎開という経験から生まれたのは、自分が根無し草だという感覚です」。「だれもが子どもによかれと思ってしました。だれもが最善をつくしました。疎開を計画した役所がそうでした。付き添った看護婦や、婦人部隊員や、リーダーもそうでした。子どもを疎開させた両親もそうでした。家庭と心を開放したスウェーデンの両親もそうでした。 だれもが、戦争の恐怖と日常の不自由さからのがれられるような生活を、子どものためにつくろうとしました。 今日、スウェーデンでもフィンランドでも、子どもたちはこのような経験と無縁です。 ほとんどの子どもたちは、という意味ですが。 なぜなら、わが国の子どもの中に、あらたな難民の子どもがいるからです。 その子たちは、私がお話したことを思い出させる環境から、やってきました。 戦争がどういうものか知っている人はたくさんいます。 家がないことがどんな事かも。 運良く両親ともにそろっている人たちでも、よそものでいることがどんな気分かはわかるはずです。 そのような人たちに、本書をささげます」。と著者は「あとがき」に記しています。 北欧諸国は難民を積極的に受け入れている国々として知られています。そういう国だからこそ、こんな絵本が生まれたのでしょう。解説で、奥田さんは、各国の学童疎開の状況を書いていらっしゃいます。貴重な情報です。
2009.08.26
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田母神(たもがみ)俊雄・元航空幕僚長は25日、衆院宮崎1区に立候補している無所属前職の応援演説で宮崎市を訪れ、広島原爆の日の6日に広島市で開催された平和記念式典の列席者について「被爆者も2世もいない。左翼ばかりだ」などと述べた。これに対し、広島、長崎の被爆者からは批判の声が上がっている。 田母神氏は演説で6日に広島市で講演したことを紹介。さらに平和記念式典について「慰霊祭は左翼運動。あそこに広島市民も県民もほとんどいない。原爆の被爆者も2世もいない。並んでいるのは全国から集まった左翼。一部政治勢力が日本弱体化を図っている」などと述べた。 広島市によると、式典参加者は約5万人。会場には被爆者や遺族のための席も2000以上準備されている。 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長(80)は「原爆犠牲者に対して失礼だ。式典には歴代首相が参列して恒久平和と核兵器廃絶を誓っているのだから、日本政府はきちんと田母神氏に抗議すべきだ」と話した。 広島県被団協の坪井直理事長は「広島の平和記念式典は被爆者が平和宣言を聞き、亡くなられた方々に献花などする場。田母神氏の発言は実証がないのに人を扇動するばかりだが、何の効果もない。騒ぐ必要はないだろう」と話した。毎日8月25日 ☆先日のNHKでの核問題に就いての番組で、自衛隊の元幹部という人物が、被爆者の人たちに対して、「あなたたちは利用されているんだ」と言い放っていたが、なるほどであります。 今回の田母神もそうなのだけれど、現在の自衛隊には、旧軍の体質をそのまま引き継いでいる連中が存在している。その体質を一言で言えば、「敵を知らず己を知らず」というところ。仮想敵国を過大評価するところから、自分たちを批判する人たちのことがすべて「敵国に操られた工作員」としか見えない。つまり、日本国には様々な考えを持った人たちがいるんだ、という思考をどうしてもとれないのだろう。 国内の反体制派を「外国の手先」と断ずるのは、北朝鮮とか中国、旧ソ連の特徴である。彼らには、「意見の多様性こそが一国の正常な姿」という事が中々理解できない。 ワタクシからみれば、田母神などは、どう考えても、その思考法は「全体主義国家特有のもの」としか思えない。 そういう男の書いた本が本屋で平積みにされている、つまりは買って読みたがる人間が多いという事は、日本もいよいよ北朝鮮化してきた兆候かもしれない。 ・・・ということは、田母神は、北の工作員か?かなり有能な。
2009.08.26
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黄老というお店で、翡翠チャーハンを食べました。全体にほうれん草のみじん切り(というよりもすり潰し)が混ぜてあり、緑色のチャーハンになっていました。 で、今日の昼に、それらしきものを作ってみました。 ほうれん草が無かったので、モロヘイヤで代用。俎板の上で細かくします。 豚肉も細かく。ピーマンも細かく。紫蘇の葉も細かくしておきます。いり卵を作っておきます。 まず、中華鍋で豚肉を炒め、そこにコマギレピーマンを投入します。ご飯を放り込んで混ぜます、炒めます。モロヘイヤを投入してご飯に混ぜ込み、緑色に仕上げます。そこにウェイパー少々と、出汁の素をぱらぱら。 いり卵を投入、紫蘇のコマギレも投入。出来上がり。 色だけは緑色になりました。ちょっと「翡翠」とは言いにくいのですが、美味しかったからいいか・・。 スープは、前日の残り物の再利用。これは、玉葱の千切り、ニンジンの千切りの中にトマトをフードプロセッサーで潰したものを入れ、水を足してコトコト煮て、そこにトマトケチャップ、キムチの素を適量入れたもので、「トマトラーメン」の変形「トマトソーメン」の汁に使った余りです。
2009.08.25
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『杜甫 偉大なる憂鬱』宇野直人・江原正士 平凡社 この本は、2007年10月から翌年の3月までNHKラジオ第二放送「古典講読」の時間に26回にわたって放送されたものを元にして作られています。江原さんが訊ね、宇野さんが答えるという形式をとり、杜甫の人生、当時の社会、そして代表的な詩の解釈が展開されていきます。 杜甫は、同時代の先輩(11歳年上)の李白とよく比較されます。李白の人気の高さ、派手さに比べて杜甫は地味な感じがしますが、それは、李白の天才肌、奔放さに比べて杜甫は中国の詩人の中では珍しく、身近な人々の姿、妻や子どもなどを多く題材とした点にあるのかもしれません。 杜甫も同時代の知識人と同じように中央政治で腕を奮う機会を待ち望み、己の才能に自信を持っていました。しかし、科挙には何度も落第し、44歳になってやっとの事で推薦で合格したかと思えば、安史の乱(755~763)が起こって杜甫は妻子と離れ離れとなります。 この時作られたのが、「国破れて山河あり」で有名な「春望」です。 そして杜甫は何とか妻子と再会できるのですが、この時に作った詩(「羌村」)を宇野さんの解説を中心に見て行きます。 帰客千里より至る 妻孥は我の在るを怪しみ 驚き定まって還た涙を拭ふ 「はるばるかえってきた旅人の私は千里の彼方から到着したのである。 妻や子どもたちは私がしかと存在しているのを不思議がった。 驚いた気持が落ち着くと改めてみな涙を拭った。」 この後は解説を記します。 「近所の人たちも土塀の上から沢山のぞきこんでいる」。もう夜ですから暗いわけですが、家の中は明かりがついていて明るい、外からは見えるんですね。この杜甫の詩ではみんながもらい泣きをするわけです。杜甫の奥さん、子どもたちは農村の人々と仲良くしていたでしょうから、そこにやっとお父さんが帰って来たというので、その感動を共有してくれたと。 「家に帰ってもどうも楽しくないなぁ」と。 せっかく帰って来たのに・・・。 ちょっと不思議です。考えてみると、やっぱり杜甫は天下国家にかかわりたいんですね。ようやく奥さんや子どもたちがいる平和な農村に来ても、そこに安住できない、業と言うか。〔P153〕 有名な「兵車行」を見てみましょう。解説を見てみます。 いきなり車輪のアップと音、馬の顔のアップと鳴き声、兵隊一人一人の腰に弓矢がついていて、しずしずと目の前を通り過ぎてゆく。整然たる行進ですが、行き先は戦場の最前線というわけです。「両親や妻、子どもたちが走って見送っている」。すると砂埃がわあっと立つんですね。向こうのほうの橋も見えないくらいだ。ここで兵隊さんとは一生の別れになるかも知れない、それで家族は大騒ぎしているわけです。「兵隊さんの着物を引っ張り、足をばたばたさせて行っちゃいやだと道をさえぎって大声で泣く」。 「道端を通りかかったある人が「いったいなぜこんなに騒いでいるんですか」と兵隊の一人に訊ねると、兵士はただ一言、「このところ召集があまりにも多いんです」と答えた」。 「ある兵隊さんは十五の若さで北の黄河の守備にやられ、そのまま軍隊生活を続けて四十歳になった時、今度は遥か西に送られて、畑を耕す屯田兵になるよう命じられた」。 「あなたたちはご存知でしょう。漢王朝(実は唐王朝)の山の東の穀倉二百州の農村がもはや荒れ果てて雑草が伸び放題になっていることを」。〔P73〕 杜甫は唐朝の政策批判にまで踏み込んでいます。 杜甫は、「兵車行」を書いたときはまだ官吏となっていませんでしたが、官吏となって以後も、「石壕の吏」にみられるように、官吏としての立場よりも大切なものがあると思っていました。そこも見てみましょう。 「暮に石壕の村に投ず 吏有り 夜 人を捉ふ 老翁 牆を踰えて走り 老婦 門を出でて看る」 「ある日の夕暮れに、石壕の村に投宿した。すると小役人が夜だというのに人をつかまえにやって来た」。徴兵適齢期を過ぎていそうな宿の主人を兵隊にとろうとやってきたのです。 おじいさんをですか。 ええ。「捉ふ」、つまり「つかまえる」と言っています。役人は仕事で徴兵しに来たわけで、徴兵されて兵隊に行くのは国民の義務です。それなのにこういった言い方をするということは、杜甫もお役人なのに、完全に兵隊にとられる民衆の立場、一般人の視点に立ってしまっているわけです。(P232) 杜甫の詩で現在残っているのは1500首だそうですが、彼は、自分と同じ時代に生きた人々の声を詩の中に取り込んでいます。それを著者は「ルポルタージュ」と呼んでいます。適切な評価でしょう。 もちろんこの本には杜甫の抒情詩、叙景詩も収録されています。その方面での杜甫の才能を楽しむ事も出来ます。 この本の表紙は、橋本関雪の「失意」と題した絵の中の杜甫です。これがなんともいいのです。一度手にとってみられることをお薦めいたします。
2009.08.25
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『ヒトラーのはじめたゲーム』アンドレア・ウォーレン あすなろ書房 ジャックは、ポーランドはバルト海沿岸のグディニアで暮らしていたユダヤ人の少年でした。1939年の夏に12歳になったばかりのジャックの運命が大きく変わるのは第二次大戦の勃発でした。ポーランドは降伏し、ドイツに占領されました。そしてユダヤ人に対する迫害が大手を振って進められるようになります。父母、弟、姉との別れ、そしてジャック自身は強制収容所へ叩き込まれ、数箇所の収容所を転々として奇跡的に戦後を迎えることが出来ました。 収容所を出たときジャックは18歳になっていました。 収容所を出た彼を待っていたのは、両親、弟、姉、祖父がすべて収容所で死んでしまったという現実でした。 12歳の少年にそんな事が可能だったのか?分別にあふれ、体力も気力もある成人男性の多くが帰らぬ人となったという現実を考える時、疑問がわいてきます。しかし、ジャックは生き残り、アメリカにわたって幸せな暮らしを手に入れ、著者と出逢い、この本が出来上がったのです。 ジャックは、自分が送らねばならなくなったこの生活を、「ヒトラーがはじめたゲーム」と思って、ゲームのルールを考え、生き残る工夫をしていきます。収容所で彼は有益な示唆を受けたり、生涯の友人を得ます。では、彼が切り抜けてきたこのゲームのルールとはどのようなものだったか。彼はどのような規律を自分に課して生き残ろうとしたのか、それがこの本のポイントとなります。 この不可解な世界では、ある人間は何も食べられず、ある人間は水っぽいスープの中にジャガイモの貴重なひとかけらをいれてもらえる。いったい、その差はなにによって生じるのだろう。P68 ジャックは自分が生き残れたことを、自分がうまくやったからだとは思っていません。それは偶然であり、奇跡なのです。なぜ生き残れたのか、その答えを彼は持っていないのです。 以下に心に強く残った一節を引用します。 祖父や祖父の友人のユダヤ人たちは、もしも自分たちがナチスにひどいことをされたら、ユダヤ人以外の隣人たちが黙ってはいないだろうと思っていた。 しかし、それは見込みちがいでした。たいていの人がわたしたちを避けるようになり、いっさい関わりを持とうとしなくなったのです。彼らがナチスの同調者だったというわけではありません。ただ、それまで自分では気がつかなかったにしても、心の奥底では、彼らの多くがユダヤ人に対して差別意識をもっていたということなのです。 このことは、とりわけ祖父にとって大きな衝撃でした。祖父はそれまでの人生をずっと、ユダヤ人ではない人たちとも仲良く暮らしてきたし、自分たちは彼らの友人だと思っていたのです。 私はどうだったかというと、それまでわたしは、自分を「ポーランド人」だと考えていたのですが、いまや「ユダヤ人」だと考えなくてはならなくなったのです。わたしはそのことで、とても混乱していました。P32。 以下は資料として記録しておきます。 ユダヤ人以外の囚人は、色分けされた三角のしるしをつけていた。緑は通常の犯罪者。赤い三角は政治犯。黒い三角はロマ(ジプシー)。同性愛者は桃色。ユダヤ教徒以外の宗教犯、ナチスに抵抗した安息日再臨派、プロテスタント、カトリックのリーダーは紫の三角。
2009.08.24
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第四章「政治的抵抗運動」 リーゼロッテ・ヘルマン、ヒルデ・コッピ、リーナ・ハーク。 リーゼロッテ・ヘルマンは、共産主義者として死刑宣告を受け、29歳の誕生日を迎える3日前の1938年の6月20日に断頭台で処刑されました。 彼女はユダヤ人であり、反ファシズムの立場に立っていたためにベルリン大学から追放されます。この時に111名の学生が同様に追放されています。彼女は航空機産業が軍需産業へと切り替えられていく実態をさぐったり、戦争準備が着々と進められている情報を収集したりしました。 ヒルデ・コッピは、夫とともにゲシュタポに逮捕され、女性刑務所に送られます。そこで彼女は男児を出産、ハンスと名づけられた幼子は、1943年に処刑された母、1942年12月22日に処刑された父がどのような人であったのかを手紙や教誨師が書き溜めていたメモを通じて知る事になりました。 処刑された共産党員たちに就いて、あるゲシュタポの警部は以下のように述べています。 「被告人たちは道徳、職業の面からいっても、質の悪い人間とは思えなかった。エリートである事が問題であったとさえいえる。国家に対して彼らが抱いていた敵意は、事実に基づいた動機によってしか説明できない」と。 リーナ・ハークは生きて戦後を迎えることが出来ました。 そして彼女は言っています。「私は高齢ですが、人類の道はそれでもなお、人間の尊厳を尊ぶ世界の実現に向かっているという信念を失わないようにしているのです。」 ミルドレッド・フィッシュ・ハルナック。 ゲシュタポは、彼らが「ローテ・カペレ(赤い楽団)」と呼んだ抵抗組織を摘発しました。彼らはソ連に対して情報を提供する事を活動の主軸としており、そのために戦後になってからドイツが東西に分割されて冷戦が西ヨーロッパを覆うようになると、「ローテ・カペレ」は、「ソ連の手先」という評価を受ける事となります。しかしその後、「抵抗運動に変わりはない」という視点が確立されるにしたがって「ローテ・カペレ」に対する評価も正当なものとなってきました。 「ローテ・カペレ」にかかわった女性たちの職業は、医師、教師、ジャーナリスト、翻訳家、司書、弁護士、シナリオ作家、看護婦、舞踊家、写真家、作家、速記タイピスト、ファッションモデル、と多岐に渡っています。 ドイツ系アメリカ人であったミルドレッドは、ドイツに渡り、そこで夫とともにヒトラーに対する抵抗運動を組織します。アメリカ大使館にも頻繁に出入りして情報の収集にも努めた二人は、ルーズベルトやチャーチル、世界の他の国の政治家の演説を、オリジナルな形で紹介し、ナチの新聞が歪めた情報を元の形に復元しています。夫は妻を帰国させようとしますが彼女はそれを拒否して活動を続け、二人は捕らえられます。夫には死刑判決が下されますが、妻には6年の懲役刑が下されました。しかしヒトラーの介入によって判決は死刑へと変更され、彼女は、「ナチによって死刑を宣告された唯一のアメリカ女性」となりました。1943年2月16日18時、死刑は執行されました。最後の言葉は、「そして私はドイツをとても愛していたわ」でした。 ベルリンのバラ通りにおける女性たちの蜂起。 1943年の3月、首都ベルリンで、何百人もの女性が、自分たちのユダヤ人の家族の強制移送に反対の声をあげました。 1942年11月2日付の通達では、国防軍のメンバーがユダヤ人と結婚していた過去を持つ女性との結婚を禁じています。「ドイツ人女性がユダヤ人と婚姻関係を結ぼうとしたことは意志薄弱の表われ」であるという理由からです。 このような状況で、非ユダヤ人の女性が、ユダヤ人の夫を持つという事は、社会生活のうえであらゆる不利を蒙り、中傷と迫害とに耐えねばならなかったことを意味していました。 「夫や息子が帰ってこなかったので、妻、姉妹、または息子の嫁たちは彼らをさがし始め」ます。彼女たちは、バラ通りに行き、そこで彼女たちは、機関銃を向けて、「立ち去らなければ撃つぞ!」と言う親衛隊に対して、「もう私たちは何がどうなってもよかった」という気持で、「人殺し!」と喚き返しました。 逮捕者(夫や息子たち)は小グループに分けられて釈放されました。 この運動に参加した一女性は後にこう述べています。 「ユダヤ人を敬遠する人のほうがいつもはるかに多かった。抵抗する勇気を持っている人が多くないということはわかっていた。なにかをすることはできた、たしかに!でもいつも自分の命を賭してするほかないのだから。バラ通りに行ったときも、そのことはわかっていた。そこにいた女性たちはみんな全く個人的な理由を抱えていた。彼女たちにとってそれは生きるために必要な事だった。なにしろ自分の夫、自分の子供がそこに捕えられていたのだから!私が言いたいのは、「そのとき人はなにもすることができなかった」という文は、一般的な言い方をすれば的確な一文だということである。人は命を危険にさらしたくなければ、実際にじっとしているほかないのだから。」 第五章「クライザウサークルにおける抵抗運動」 マリオン・デーンホフ伯爵令嬢。 1944年7月20日、アドルフ・ヒトラーを殺害するための爆弾が総統大本営で爆発しますが、ヒトラーは奇跡的に助かりました。この爆弾を仕掛けた人物は陸軍大佐クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクでした。 クライザウサークルは、ヒトラー暗殺計画を支える民間人のグループでしたが、その中の紅一点が、マリオン・デーンホフでした。彼女はサークルからの依頼を受けて情報の伝達を行う事でした。彼女はジャーナリストとして活躍し、疑いをもたれつつも逮捕は免れてドイツの敗戦を迎えることになります。 1944年7月20日事件の抵抗運動闘士の妻たち ヒトラー暗殺計画の失敗、そして夫たちの逮捕は大抵の妻たちにとっては寝耳に水であったようです。彼女たちは夫たちから計画に就いて知らされていませんでした。 計画の中心人物であったシュタウフェンベルクの妻ニーナは妊娠中でした。彼女は女児を出産します。 ハインリヒ・ヒムラ-は、古ゲルマンの「血の復讐」を持ち出し、一族の絶滅を叫びましたが、第三帝国の崩壊のためにそのことは実現されませんでした。 第六章「学生の抵抗運動」 ゾフィー・ショル。 兄とともにヒトラーに対する抵抗運動「白バラ」に身を投じたゾフィーは、反ヒトラーの宣伝活動を行い、恋愛関係にあった男性を教育しました。彼はスターリングラードの最前線でゾフィーの言ったことの正しさを知る事になります。 ミュンヘンで行われた尋問で、彼女は以下のように言い放ちました。 「私は何もかも精確にもう一度繰り返すでしょう。というのも、間違った世界観を持っているのは、私ではなく、あなたがたなのですから」と。 1943年2月22日17時、ゾフィーは斬首され、続いて兄と友人も斬首されました。 息子と娘を墓地に埋葬した後、父は、「みんな一緒に動脈を切り彼らに続こう、こんな事は受け入れられないという事を示そう」と言いました。家族は、二人はそんな事を望んでいない、と止めました。母は、「ミュンヘンの飲食店でみんなで食事をしましょう」と提案しています。彼女はまだ生きている子供たちのことを考え、息子と娘を失った悲しみに耐えました。 二人が処刑された後、大学では総統への忠誠集会を開き、白バラのメンバーは「特異な変物」であると攻撃し、学生指導者は、「不名誉で卑劣な徒輩」と侮辱しました。 ゾフィー・ショルは、戦後、雑誌『ブリギッテ』の女性読者による投票で「20世紀のもっとも偉大な女性」に選ばれ、さらに2000年の夏には、「ゾフィー・ショルをヴァルハラへ!」という運動が起こりました。ヴァルハラ、偉大なドイツ人の国民的栄誉の殿堂に五人目の女性としてゾフィーは入る事になりました。
2009.08.24
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『ヒトラーに抗した女たち』マルタ・シャート 行路社 高校生の時に、筑摩ノンフィクションシリーズで、「白バラは散らず」というナチスに抵抗して処刑されたハンス・ショル、ゾフィー・ショルの兄妹のことを知りました。強大なナチスに抵抗するという事を行った若い人たちがいた事を知ったのはこれが初めてでした。 この本の最後に、第六章「学生の抵抗運動」として、ゾフィー・ショルの事が取り上げられています。なつかしく読みました。 それ以外は、全く初めて読むこと、知る事ばかりで、一日中、本からはなれずに読みふけりました。まず、目次を紹介し、コメントをつけます。 第一章「初期のヒトラーの敵対者」。 コンスタンツェ・ハルガルテン。 ヒトラーに対して好意的であった人々も多かった中にあって、この女性は最初からヒトラーを「単純で知ったかぶりの扇動者」と見抜きました。それは、彼女が一貫して女性の地位向上のために戦ってきたからで、彼女はナチの思想の中に、「女性を格下げするもの」を見出していたのです。 ドロシー・トンプソン。 1931年にヒトラーにインタビューしたアメリカ人ジャーナリストの彼女は、「口からでまかせに矛盾した事をしゃべる『器量の小さい男』」であるヒトラーに対して辛らつな記事を書き、ヒトラーと宣伝担当大臣ゲッベルスとを激怒させました。 「(庶民たちは)あそこに立っている男は自分たちの仲間だと思ってしまうのです。劣等感を持った庶民と彼はうまが合うのです。ヒトラー自身がまさしく劣等感に苦しめられているからです。」 この項には、アウシュヴィッツで作られた女性の交響楽団のことが書いてあります。死ぬ運命の人たちが到着し、或いはガス室へと行進する時に、彼女たちはワルツやメヌエットといった楽しい曲を弾かねばならず、親衛隊員たちの楽しみのためにも演奏せねばなりませんでした。その生き残りが、マリア・フェヌロンであり、エステール・ベジャラノです。エステールは、ブレヒトの娘ハンネ・ヒーオプと演奏旅行をし、ハリー・ベラフォンテとデュエットを組んで平和と、抵抗を歌い続けています。 ベラ・フロム。 豊かなユダヤ人の市民階級出身の彼女は、社交界にデビューしたばかりのコチコチのヒトラーを間近に見、手にキスをされてしまいます。ヒトラーは、ユダヤ人の彼女の手にキスをしたのです。彼女はヒトラーと対抗できる筈だったクルト・フォン・シュライヒャー夫妻を援助し、励まし続けます。彼女は後にアメリカに亡命しますが、「ゲーテ、シラー、カント、そしてモーツァルト、ベートーベン、バッハ、ブラームスを生んだ文化国民が、どうしてヒトラーの蛮行に追従したのかという謎」を繰り返し考えることになりました。 第二章「戦時の抵抗」。 エルフリーデ・ショルツ。 『西部戦線異状なし』を書いたエーリヒ・マリア・レマルクの妹であった彼女は、ファシズムに対する嫌悪を口にし、ヒトラーの頭を弾丸で打ち抜きたいと語ったことを密告されて処刑されます。「国防軍に対する破壊工作を行うものは処刑する」という1938年に公布された特別法がその根拠でした。 第三章「意に反した抵抗」 エリザベート・フォン・タデン。 彼女は女子教育に全生涯を捧げようと決意し、「新しいドイツの建国を助ける国民同胞を育成し、意識高い国家社会主義の一員を養成」しようとします。つまり彼女は主観的にはナチ体制を支える女性を作り出そうとしたのです。しかし彼女が実際に行ってしまったのは、自立した考えを持った、教養高い、社会活動に積極的に参加するような女性でした。そんな女性はナチ体制からは望まれていなかったのです。彼女は目をつけられ、教職を終われ、逮捕されて処刑されます。 ハンナ・ゾルフとその娘ラギ・パレストレーム伯爵夫人。 この母娘は、ユダヤ人に対する迫害をドイツの恥と考え、ドイツの名誉を救おうとして各方面に働きかけ、ユダヤ人の救援活動を行いました。合法的に外国へ送り出すためのビザの取得のために精を出し、それが叶わぬ場合は偽の旅券を調達しさえしています。捕らえられて強制収容所に入れられた母と娘はそこで様々な人々に出会います。多くの収容者のために心を砕いているゲシュタポ警官、自分のわずかしかないパンの一部を素早く握らせてくれる収容者の人々。二人は奇跡的に生きのびてドイツの敗戦を迎えました。 「過去の事は意味を失ったのだから、思い出したいとは思わないわ。世界は過去から何も学ばなかったんですもの。虐殺者も犠牲者も傍観者も。今の時代は、その不気味なリズムが少数のものにしかわからない死者のダンスのようなものね。奈落をみないで、みんな混乱しつつ渦を巻いて踊っているのよ。」 戦後になってからのラギの発言です。 後半は、次回に回します。
2009.08.23
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JRの運転士が走行中に後ろの車輌の女性を、「容姿がいいから」と言う理由で携帯でパチリとやったと報じられております。 時速120km、後を向いている間におよそ200m走ってしまったということです。 九州に修学旅行に行った時のことを思い出しました。 バスに乗って旅をしていたのですが、車中でのゲームとして、歌詞が「あ」で始まる歌を男女交互に歌うという事をやっておりました。結構続いたのですが、そのうちに「あ」が無くなって来てました。 男性軍ピンチ!という時に、聞きなれない声で、「あ」の歌が車中に流れました。その時マイクを手にしたのはバスの運転手さんでした。女性軍からは出てこず、結局、男性軍の勝利となったのですが、あとでその真相を知る事になりました。バスから降りてからのことです。 先生、一番最後に歌ったの運転手さんやったな。 そやなぁ、うまかったやんか。ええ声やった。 でもなぁ、俺、見てしもたんや。 なにを? マイクとって歌うときに、運転手さん、一瞬、手え離しよったんやで。 え? 片手ちゃうねん、両手。・・見た瞬間、ええ!!思たけど、言われへんしなぁ。ホンマにあの時は焦ったで。 ・・・・・・・・ 事故らなくてよかったです。 弓浜半島から見た日本海です。
2009.08.22
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『ハンナのかばん』カレン・レビン 石岡史子訳 ポプラ社 600万人のユダヤ人が殺され、そのうち150万人は子どもだった、といわれています。600万人、150万人が殺されるという事は想像ができません。しかし殺害された一人の少女の短い人生をたどることができれば、私たちは、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)という事を胸に刻む事が出来るかもしれません。 1995年に広島県福山市にホロコースト記念館が設立されました。そして1998年に市民の寄付によって東京にホロコースト教育資料センターが設立されました。ホロコーストの歴史を学ぶ事で子どもたちが差別や偏見の恐ろしさを知り、平和を作り出す力を育ててほしいと言う願いからでした。 東京の資料館の所長石岡史子さんは、150万人もの子どもたちが殺されたという事を子どもたちにどう伝えたらいいかと悩んだ挙句、世界中のホロコースト博物館に手紙を書いて、当時の子どもたちの遺品の貸し出しを依頼しました。しかし歴史的に貴重なものを日本に送るわけにはいかないと断られます。石岡さんはめげることなく1999年の秋にポーランドを訪れ、現在は博物館となっているアウシュビッツ収容所を訪問し、遺品の貸し出しを副館長に直接交渉しました。そして翌年の2000年、小さな子どもの靴と靴下、小さなセーター、毒ガスの空き缶、そして茶色い旅行かばんが送られてきました。 そのかばんに白いペンキで書いてあったことは、「ハンナ・ブレイディ」「1931年5月16日生まれ」「孤児」だけでした。 「ハンナ・ブレイディってだれ?」「このかばんに何をつめて、何処へ行ったの?」「家族はどうなったの?」「ハンナに一体何がおきたの?」 石岡さんは子どもたちのこんな質問に答えたいと思いました。 何度も各国のホロコースト記念館と連絡を取りながら、石岡さんは一歩一歩核心に近づいていきます。 まず、ハンナがテレジン収容所にいてその後、アウシュビッツで亡くなったことが分かりました。テレジン収容所でハンナが描いた絵もみつかりました。 資料館では、「子どもたちが見たホロコースト」展が開かれました。展示会で写真やハンナのかばんに接した子どもたちの中から、もっと知りたいという声があがり、石岡さんを突き動かします。石岡さんはテレジンに飛び、ぎりぎりの日程の中でハンナのお兄さんがカナダで生存しているという事実に到達します。 帰国した石岡さんは、子どもたちと一緒にハンナのお兄さん、ジョージ・ブレイディさんに手紙を書きます。 この本では、石岡さんと子どもたちの行動と、ハンナとジョージの平和な暮らし、両親の移送、二人の移送、そしてハンナの死までが交互に書かれています。兄と妹二人の事はジョージさんの記憶から再現され、多くの写真はキリスト教徒であったおじさんが大切に保管してくれていたものです。 この事はカナダの一人の女性の知るところとなり、彼女はラジオ番組を制作します。放送された番組を聴いた彼女の友人は是非とも本にしてほしいと彼女に頼みました。こうして出来上がったのがこの本なのです。 一人の少女の短い人生はこのようにして多くの人たちの知るところとなりました。日本風にいえば、何よりの供養になったことでしょう。そして、もうこんな事が繰り返されないようにするためには私たちは何をしなければならないのかをこの本を読んだ一人一人の読者の胸に刻むのではないでしょうか。 私の住んでいるところから車で15分ほどのところに、「アンネのバラの教会」があります。ホロコーストの写真やアンネ・フランクの資料館が併設されているところです。 ホロコーストは事実です。そしてそれが一時的な興奮や衝動で起こされたものではなく、計算された冷静な計画に基づいて行われた事である事を知る事は私たちにとって「人間とは何であるのか」を考える上で必要な事であると思います。そして殺害された一人一人の人生に接する事も。
2009.08.22
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『クレオパトラの謎』吉村作治 講談社現代新書 今年(09年)NHKで、「エジプト発掘」と言う番組が放映されました。ピラミッド、ツタンカーメン、そして三回目(8月2日)は、「クレオパトラの妹の骨がトルコのエフェソスで発掘された!」という内容。発掘されたクレオパトラの妹アルシノエの頭骨は復元(復顔)によると、ギリシア系とエジプト系の混血である事が分かりました。クレオパトラの姉も、その母はエジプト系であった事が分かっています。クレオパトラは「プトレマイオス朝の女王」と教科書には載っていますが、この「プトレマイオス朝」というのは、少し教科書を遡ると、アレクサンドロス大王が死去した時に帝国が分裂し、エジプトを支配する事になったギリシア系の王朝です。彼らは現地のエジプト人たちに対して支配者として臨んだために、混血する事はなかったと考えられ、クレオパトラも純粋にギリシャ系の顔立ちであったと考えられてきたのですから、これは大発見といえるでしょう。クレオパトラ自身の頭骨が見つかれば問題解決なのですが、それは未発見です。 さて、クレオパトラの人生は結構明らかにされている方なのですが(『クレオパトラ』ウェイゴール 角川文庫など)、著者の見解では、それはローマ側の資料によって描かれたクレオパトラである、という事になります。著者はエジプト考古学者として有名な人ですから、この際、エジプトの立場からクレオパトラをみたらどうなるか・・という事に挑戦をしています。 ポイントの一つになるのは、彼女が最初は保護者として、そして後には夢をともにしようとしたシーザーと構想した「世界帝国の野望」です。これは、シーザーとの間の子どもシーザリオンが成長するにしたがって大きくなり、シーザー亡き後はアントニウスに引き継がれます。しかし、時代がそれを許さなかった。著者の独自の見解は第七章「再燃する世界帝国の野望」、第八章「敗北と名誉ある死」で述べられています。 アクティウムの海戦においてクレオパトラが戦線を離脱し、それをアントニウスが追い、アントニウスの部下たちは見捨てられて壊滅するというくだりについて、私は映画「クレオパトラ」(クレオパトラを演じたのはエリザベス・テーラー、アントニーを演じたのはリチャード・バートン)程度の知識しかなかったのでこの本はとても参考になりました。 ※「クレオパトラの鼻、もしもそれがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう。」パスカル この言葉は本来はクレオパトラの美醜とは全く関係がなく、パスカル自身は、人間の歴史なんてちょっとしたことが変わっただけで、変わってしまうような儚いものなのだ・・と言いたかったという解釈があります。「低かったら」と言う訳は間違っているんだそうです。 吉村さんは、「クレオパトラの鼻が一センチ低かったら」とパスカルの言葉を紹介していますが、「鼻が一センチ低い」というのはこれはもうとんでもない状態になると思うのですが・・。
2009.08.22
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『ウォー・ボーイ』マイケル・フォアマン ほるぷ出版社 突然爆弾がふってきた。屋根をつらぬき床ではねかえって、ベッドごしに鏡にあたり、暖炉で炸裂した。 焼夷弾だった。(注:このページには爆弾の経路が図解されています!) イヴァン兄さんがパジャマ姿のまま、国防隊のブリキ帽を頭にのっけて現れた。どの部屋にも砂袋をそなえておくのが銃後を守るもののつとめだ。彼は焼夷弾の上に砂を投げたが、かわいた砂はすべり落ちた。そこで暖炉の前の敷物をかぶせて、上からピョンピョンふんづけた。パッドにいさんが裏の空き地からバケツでぬれた砂を運んできた。これで万事終了。 こんなとき、シガレットカードを集めておくと、どうすればいいかがわかる。 (注:このページには、焼夷弾を消しているところが図解してあるカードが載っています。シガレットカードでしょうね。家が木造ではないから出来る事でしょうね) 母はベッドからぼくをだきあげて逃げた。夜の空は光でいっぱいだった。サーチライト、対空砲、星、そして爆撃機が撃ちまくる小さな光の輪。母が走る。空がゆれる。向かいの防空壕についたとき、空が赤く燃え上がった。教会炎上すだ。 1941年4月21日、月曜日。まもなく午後10時だった。数千もの焼夷弾がぼくたちの村の隣の町、ローストフトに落ちた。ドイツ軍は教会の屋根を燃やし、大規模な爆撃編隊を誘導しようとしていた。数分もしないうちに、村と町の南部で40か所以上が炎上した。二個の焼夷弾が教会の屋根に落ち、牧師さんがはしごにのぼって一個だけとりのぞいた。 以上のようにこの物語は始まります。 少年が生活していた町はイギリスの中で最もドイツに近い場所に位置していました。最前線での日々が少年の目から描かれます。 灯火管制がしかれたときは敵の攻撃でやられるよりも交通事故の被害の方が多かった。そこで、舗道にうめてある石に白いペンキがぬられ、男の人たちが夜道を歩くときには白いシャツの後ろを上着の外に出しておくようにいわれた。農家の人たちは牛を白いしまもようにぬって、道路に迷い出たとき、はねられないようにした。 といったことがサラリと書いてあります。疎開する子どもたちもいます。一旦疎開した兄さんは、「死ぬんなら、みんなでいっしょに死にたいもん」とかえって来てしまいます。 陸軍や海軍の兵隊たちとの交流。様々な思い出。 1942年のクリスマスの夜。母といっしょに階段をのぼり、途中でふりむいた瞬間は忘れられない。タバコの煙の中の顔、顔、顔。みんな軍服を着ていたけれど、頭に紙の帽子をのっけていた。みんな、子ども持ちだったと思う。それなのに、よその家にいる。きっと、たった今のおやすみのキスをした男の子(ぼくのこと)が自分の子どもだったらいいのにと思っていたにちがいない。 なんでもない文章ですが心に残ります。兵隊と子どもとの交流はよく描かれるテーマなのですが、兵隊にとって戦場の中でつかの間、自分自身を取り戻せる、自分の子どもと目の前の子どもとを重ねる大切な機会なのかもしれません。 子どもたちがどんな遊びをしたのかが挿絵入りで描かれています。学校の事も、もちろん空襲の事も。子どもたちは、来襲してくる敵機にも詳しくなります。 子どもたちは軍隊の階級章を覚えていただけじゃなくて、戦闘機の型や音に詳しかった。野原や森には蝶も鳥もとんでいたが、ぼくたちの心には飛行機しかとんでいなかった。 そのうちアメリカから兵隊がやってきます。V1号、V2号も飛んできます。 そして戦争は終わります。 声高に戦争を告発するといったタイプの本ではありません。戦争の日々が少年の目で綴られています。淡々と綴られている文章の中からどのようなメッセージを読み取るか、それは読む人に任されている事でしょう。
2009.08.22
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『ハムレット』 シェイクスピアの作品の中でも最も有名なものでしょう。そしてその中でも有名なのが、以下のセリフ。 To be,or not,to be, that is the question. これは様々に訳されてきました。 木下順二「生きるか死ぬかそれが問題だ。」 福田恒存「生か死かそれが疑問だ。」 小田島雄志「このままでいいのかいけないのか、それが問題だ。」 デンマークの王子ハムレットは父の亡霊から父を殺したのは叔父である事を知らされ復讐を命じられますが、叔父の現在の妻は自分の母である事などを考え思い悩んだ末にこのセリフを語るのです。 結局、ハムレットは復讐を果たしますが、恋人のオフェーリアはハムレットの心変わりと、ハムレットによって父を殺された悲しみから気が狂い、足を滑らせて水死します。オフェーリアの兄レアティーズはハムレットと決闘して死に、叔父は刺し殺され、母は毒杯をあおって死にます。そしてハムレット自身も死に、幕が下りるのです。 シェイクスピアの生没年は、1564年~1616年なのですが、この記憶の仕方、1564(人殺し)の1616(いろいろ)は、中々良くできている、そう思いませんか? ※『ワーグマン日本素描集』岩波文庫 に、このセリフのおそらく日本初訳が載っています。「シェクシピル」の「ハムレットさん、ダンマルクノカミ」「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」 『リチャード三世』福田恒存訳 新潮文庫 背景は、ランカスター、ヨーク両家の凄惨なバラ戦争。 冒頭の、「やっと忍苦の冬も去り、このとおり天日もヨークの味方」は、テュークスベリーの戦い(1471年)でランカスター家のヘンリー6世が倒されて、ヨーク家のエドワード4世が即位した事を示します。エドワード4世に忠誠を誓ったグロスター伯は、王がなくなると、即位したばかりのエドワード5世とその一族を監禁したり暗殺して王位につき、リチャード三世となります。 しかし彼を王位につけるのに功績があった者たちが反乱を起こし、さらにランカスター派のヘンリー・テューダーがフランスからイギリスに侵入、1485年のボズワースの戦いでリチャードは敗れ去り、遺体は丸裸にされて晒されました。勝者のヘンリーはヘンリー七世としてテューダー朝をひらきます。 シェイクスピアが生きた時代は、テューダー朝の時代ですから、リチャードは格好の敵役、実に悪の権化として描かれています。ところがさすがはシェイクスピア、この戯曲は「悪の魅力」で観客を惹きつけることになるのです。 A horse!a horse!my kingdom for a horse! 馬をくれ、馬を!馬の代わりにわが王国をくれてやる! リチャード三世、終幕間近のセリフです。for、「同格のfor」ですが、こういう簡潔な表現になるのですね。 『時の娘』ジョセフィン・ティ ハヤカワ文庫 捜査中に事故にあったグラント警部は病院のベッドの上で暇をもてあましていました。その時、偶然にも一枚の肖像画に出会います。強い印象を受けた警部は裏返して名前を確認しますと、そこには「リチャード三世」と書いてあります。リチャード三世といえば、シェイクスピアの作品で有名な冷血漢、悪逆無道の殺人鬼・・。しかし肖像画の人物はまことに穏やかな顔をしています。 リチャード三世とはどんな人物であったのか?警部の中に疑問が生まれます。グラント警部は、ベッドの上からいろんな指示を出し、リチャード三世の実像に迫ろうとします。さてその結論は・・。 1951年に刊行された「歴史ミステリ」の傑作です。
2009.08.21
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「秘密のケンミンショー」で、鳥取県の事を取り上げておりました。東京一郎君夫妻が鳥取県・鳥取市に転勤となった結果です。 番組の中では京一郎君夫妻をもてなす地元の方の設定が夫(鳥取出身)、妻(米子出身)となっていて、之には私大変に満足致しました。かなり違いますから、西と東とでは。番組の中では「豆腐ちくわ」(鳥取)「茶碗蒸しの中の春雨」(米子)が話題として登場していました。 次週どのような展開になるか楽しみであります。鳥取と米子では言葉もかなり違います。鳥取の方からいわせれば、「米子の人はケンカしているようだ」と言われ、米子から言わせれば、「鳥取の人は喋り方がゆっくり。おっとりしてる」となるのであります。 日本で尤も人口が少ない県(60万!)です。どの政令指定都市より人口が少ないし、甲子園の切符も一番簡単に手に入るのでは。
2009.08.20
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『現世の主権について』マルティン・ルター 岩波文庫 この本の中に、「軍人もまた祝福された階級に属しうるか」という文章が収められています。これは、宗教改革(1517年)に影響を受けて起こったドイツ農民戦争に密接に関連しています。領主たちの圧政に苦しんでいた農民たちはルターの説いた改革信仰に刺激されて一揆に立ち上がります。これが1524年から25年にかけて起こったドイツ農民戦争です。農民たちはルターの支持を期待したのですが、ルターは農民たちの領主への反抗を不法とし、領主たちに対して農民たちを武力で弾圧するように勧告しました。農民たちは弾圧され、残酷に処刑されました。 この弾圧の中で、アサ・フォン・クラムという一人の将軍は農民たちに対する殺戮の残酷さに心を痛め、ルターに対して、「このような残虐行為を働いた我々軍人でも天国には行けるのか?」と問いを発しました。それに対してルターが答えたのがこの一文です。一部を引用します。 如何にも殺戮や劫掠が愛の行為であるとは思われない。それ故無知な人には、それはキリスト教的な行為でなく、またさようなことをするのはキリスト者にふさわしくない、と考える。けれども本当は、それもまた愛の行為である。けだしそれは恰も良医と同じである。病気が甚だ険悪重篤で、医師は身体を救うために手や足や耳や目を切り棄てたり、廃物にしたりしなければならない場合、彼が切り棄てた手足に着目すれば、彼は無慈悲な恐ろしい人であるように見える。けれども彼がそうして救おうとした身体に着目すれば、彼は優れた誠実な人であり、(行為の上からのみ言えば)キリスト教的な善き行為をなしたということが、実際にわかる。 同様に軍職についても・・・それが善人を護り、あのような手段によって婦女、小児、家屋敷、財産、名誉、平和を保全し守護する点に着目するなら、その行為が如何に貴く且つ神に属するものであるかということがわかる。そして私は、その職務も、身体全体が滅びないように、足や手を切り棄てるのであると悟る。何故なら、もし剣が防御して平和を維持しなければ、およそ世界に存するすべてのものが争乱の為に滅び去るであろう。それ故にかかる戦争は量り知れぬほど広汎な永久的争乱を防止する小さな短い争乱、大きな不幸を防止する小さな不幸にほかならない。 さて、人々は戦争が如何に大きな災厄であるかということを大いに書き立て、言い立てる。そしてそれは悉く尤もである。けれどもそれと共に彼らは、戦争によって防止される災厄はその何倍も大きいということにも注目しなければならない。如何にも、世人が公正で、衷心から平和を保持するなら、戦争は地上最大の災厄であろう。けれども世間は邪悪で、世人は平和を保持する事を欲せず、反対に掠め、盗み、殺し、婦女や小児を辱しめ、名誉や財産を奪う、と言う事実を貴君はどう考えるか。全世界に蔓延して何人もその難を免れないこの争乱は、戦争或いは剣と呼ばれる小さな争乱が之を阻止しなければならないのである。それ故に神も剣に高い栄誉を与え、之を神御自身の定めと称し給う。けだし人間が之を案出し設定したのだと言ったり考えたりする者がないようにとてである。何故なら、その場合にはこの剣を携えて殺戮する手もまたもはや人間の手ではなく、神の御手であり、人間が絞首し、車裂きにし、斬首し、殺戮し、戦争をするのではなく、神が之をし給うのである。すべては神の御業であり神の審判である。〔P91~93〕 「解題」には以下のように書いてあります。 わが国には、キリスト教を純粋且つ徹底的に遵奉すれば絶対的非戦論者になるべきはずだ、と決め込んでいる人が少なくない。その何ゆえなるかは明らかでないが、或いは非キリスト者も幾らかは知っているイエスの山上の説教が、トルストイの無抵抗主義や内村鑑三の非戦論などに裏打ちされて生じた印象であるかもしれない。しかし本書におけるルターを始め、偉大なキリスト教神学者で絶対的非戦論を唱えた者は殆どいない。このことは現在キリスト者として戦争の問題を考える時、無視しがたい事実である。けれども現在わが国で大きな問題となっている再軍備論・非再軍備論の論争は、現実の政策としてこの原理論とは一応区別して考えられなければならないであろう。言いかえれば、もし非再軍備論が成り立つとすれば、それは原理的な絶対非戦論としてでなく、諸種の具体的事情を勘案した現実的政策として成り立つべきであるということである。そしてその際、再軍備・非再軍備を決定するのはルター自身が本書の中で言う「良識」であるべきであろう。 この解題が書かれたのは1954年です。 原始キリスト教においては絶対的非戦論が採られており、ユダヤ独立戦争にもキリスト教徒たちは参加せず、そのためにユダヤの地にいる事ができなくなったという事実があります。そしてその姿勢が決定的に転換するのはキリスト教がローマの国教となり、ローマの行う戦争が聖戦とされて後の事です。 「偉大なキリスト教神学者」たちは、すべてその後の教会の姿勢を肯定する上に理論を展開しています。それに引き換え、トルストイ、内村鑑三は「出発時点でのキリスト教」にこだわった人たちといえましょう。その姿勢の違いははっきりしています。 また、戦争が「神の御業」であるのなら、ほんとうにそれが「神の御業」である事をどうやって知る事ができるのか?そのように思い込んで行われる殺戮は、神の名の元に行われるだけによりいっそう残虐なものとならざるを得ないのではないか。 非キリスト者である私はそのような疑問を持ちます。信仰と狂信とはどこで区別されるのでしょうか?
2009.08.20
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『家族の起源』山極寿一 東京大学出版会 著者はゴリラの研究者です。アフリカでの長年のフィールドワーク、日本だけではなく各国の研究者との討論の結果がこの本となりました。 家族という極めて人間的な小さな集団がどのようにして誕生してきたのか。人間と極めて近い関係にある霊長類の社会の中に、人間の家族の起源は見出せるのか。 「初期の人類は霊長類の遺産を巧妙に用いて」家族の原型を築き上げたのではないか、という著者の年来の予感は、この本の中では以下のように結論付けられています。 人類は類人猿が潜在的に持っていた能力を試行錯誤的に試しながら適応的な特徴を選別して進化への道を歩んできた。その結果、人類はすべての類人猿の特徴をモザイク的に持つようになった。 一方で女たちは、配偶者を選択する傾向を強め、自分と子どもの保護者を一人の男に限定しようとする。しかし母親と子どもとは生物学的な絆は明確だが、男はそうはいかない。父親としての地位はその配偶者である女と子どもの双方に選ばれてはじめて不動のものとなる。 父親としての地位を安定化するためには、テナガザルやゴリラのオスのように子どもの成長期を通じて保護者、養育者として影響を与え続けるか、組織をかためて父親としての社会的認知を確立するしかない。行動範囲が広がってきた初期の人類の男にとって配偶者や子どもと常に同居し続ける事は不可能となり、子どもから自然に父親として認知してもらう事は不可能となる。 そこで、初期の人類は、親族組織を強化して、父親の役割に大きな権威を付与した。すなわち、分配、連合、仲裁など社会的な交渉を決める権利や子どもの養育に関する権利を父親に与え、父親が常に配偶者や子どもと同居していなくても常にその影響が及ぶようにしたのである。(P174から177をまとめました) つまり父親という存在は作り出されたものである、という事が著者の結論です。1997年に出版された著書には、『父という余分なもの』(新書館)という題名がつけられています。 この本の魅力は、著者が長年のフィールドワークで触れ合ってきたゴリラ、他の研究者の報告している他のサルたちの姿です。ゴリラについて紹介してみます。(P140からP143まで) 乳児を抱えたメスはより強くシルバーバックの保護を求めるようになるのだろう。乳児が一歳から二歳になって自然の食物に関心を向けるようになると母親は乳児が他の幼児と遊ぶ事を許し、乳児をシルバーバックのそばに残して自分は少し離れて採食する事が多くなる。シルバーバックはこれらの幼児たちにきわめて寛容な態度を示し、幼児たちが乱暴に顔を叩いたり、背中に乗って遊んでもとがめることはない。幼児たちは、四六時中シルバーバックの後をついて歩き、シルバーバックの食べるものを口に入れ、シルバーバックの背や腕に寄りかかって休む。 またシルバーバックは、母親が移籍したり、死亡したりしたために孤児になった幼児を、優しく保護し世話をする行動特性を持っている。 ただ、シルバーバックは孤児たちに特別目をかけて育てるわけではない。彼は他の子どもたちより孤児を庇う事が多かったが、これは孤児たちがよく年上のゴリラに攻撃されたからである。孤児たちが年下の子どもにちょっかいをだせば彼らを叩いて諌めている。もともとゴリラにはけんかがおこると弱い方を援ける傾向があるが、シルバーバックにはこの傾向がいちじるしい。 すべてが等しく自分の子どもであるシルバーバックは特定の子どもをえこひいきしようとはしないのである。このため、子どもたちも、シルバーバックを後ろ盾にして他のゴリラに向かうような行動は示さない。 シルバーバックとは、「背中の毛が鞍状に白くなっている」成熟したゴリラのことで、群のリーダーです。いろんなことを考えさせられてしまいます。 「類人猿」と一くくりに出来ない彼らの多様性も実に面白い本です。日本の「サル学」の蓄積の凄さを感じます。 父が入院している病室から見えた朝焼けです。
2009.08.19
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夕飯は簡単に。 玉葱をスライスして鍋に敷き詰め、そこにワインをどぼどぼ。火にかけて煮えてきたらそこに一口大に切った鶏肉を入れてさらに煮ます。煮えてきたな・・と思ったらそのうえに千切りのキャベツを山盛り入れて蓋をします。ここからすこし煮て、後は火を止めて蒸し煮。味は、ウェイパー。 モロヘイヤをゆでて、水にさらして絞り、俎板の上で包丁で微塵に潰します。そこに卵を溶き、出汁醤油をいれてかき混ぜます。ここにヤマイモがあれば・・でしたが、なかったのでここでとめました。 豆腐の味噌汁。 ご飯の上にモロヘイヤのみじん切りをかけてすすりこみ、後半分のご飯は、鶏肉のいいスープが出ていますからその中にご飯を投入して完食しました。 夏はこういう簡単なものでもいいのでは。
2009.08.19
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8月15日の付近、テレビで、戦争を体験した人たちの証言を取り上げる番組が集中的に放映されます。その中でよく出てくるのが、「私たちのやったことを無駄だったと言われたくない」という言葉です。 しかし、そう言っている人の言葉から、その人自身も無駄だったのではないかと思っており、必死でそれを打ち消そうとしている様子が伝わってきます。 様々な特攻兵器を見ていてもそれを感じます。「伏龍」という「兵器」があります。これは、潜水服をきて海中深く沈んでいる兵士が棒の先に爆弾を装着して、頭上を通過する敵の艦船に対して重りを外して浮き上がり、攻撃を加えるという「兵器」です。 また、バケツリレー。これは、都市空襲というものに無知でなければできなかったでしょうね。木造家屋が大半である東京の上空に敵機が侵入してきたら甚大な被害が生じる、だから、防空演習を行う事自体が国の敗北を認めることであり、要は敵機の侵入をどう食い止めるかでなければならないと1933年に書いた桐生悠々は、陸軍からにらまれ、「信濃毎日」は不買運動を受け、悠々は退社を余儀なくなされます。 空襲の際は踏みとどまって消火活動を行うように、という命令を守ろうとして逃げ遅れた人がいたことは東京大空襲の生存者が語っておられることです。 当時の人たちは真剣に国の事を思っていたのだからその真情に対して、無駄だったとか、犬死であったとか批判する事は許せない、という声があります。 戦中派がいうならまだ許せるのですが、戦争を体験してもいない戦後派が目を吊り上げて言うのは、呆れ返るばかりです。そんなに事実を見たくないのか、また同じことを繰り返したいのか、と思います。 ガリレオが自説に対して反論を加えようとした教会関係者に望遠鏡で木星の衛星を見せようとしたときに、彼らはそれを拒否したといいます。また望遠鏡を覗きこんだものも、あれは悪魔が作り出した幻影である、として衛星の存在自体を認めようとしなかったそうです。 同じことを繰り返さないためには、徹底して事実を見なければならない事は論を待ちません。 「真剣」とか「真情」という言葉を使って事実の評価を捻じ曲げようとするのなら、そのような人たちの行っている事は、現在の北の将軍様の国家で行われている事と同じであるということです。あの国でも、真剣に、そして真情を込めて将軍様に仕え、北を世界一の国家と信じ、その体制維持のためには命を捨てても良いと思い込んでいる人たち(おそらく若者)はいるわけです。 将来、体制の転換が生じたとき、その若者たちは、自分の国の行った犯罪と愚行とに向かい合わねばならない。そうなった時に彼らに、「仕方なかったんだよ」と過去を早く忘れなさい、という言葉をかけることは正しいのでしょうか? 紅衛兵として活動した過去を持つ中国の人たちは今では結構な年になっています。その人たちは、自分が行った事を、「真剣だったんだから」「私なりに国の事を考えていたんだから」と免罪できるのでしょうか? 北や中国の事を口を極めて罵る事を専門としている人たちの中には、このような思考形態によって戦争中の日本の行動を擁護する人たちがいます。同じだから腹が立つのでしょうか?近親憎悪??
2009.08.19
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NHKで、核についての番組を放映していました。 驚く事はいくつかあったのですが、核武装を真面目な顔をして主張する人たちの論拠を聞く事ができたのは、ある意味で収穫であったと思っています。 日本でも多くの人たちが参加している反核運動について、「日本の国益に反する集団」と見なしている元自衛隊の幹部の人には呆れ返るのを通り越して、「自衛隊は大丈夫なのか」と心配になりました。現役の自衛隊の方も出席していらっしゃったのですが、どう思われたのでしょうか。 この方は、ヨーロッパの反核運動が実はソ連の工作員によって仕組まれた事であり、その証拠はあるのだ!と得々と語っているのですが、ヨーロッパの反核運動は、NGOの方も語っていらっしゃったように、西ヨーロッパ各国でたくさんの人たちが参加した大運動であったのです。そのような大運動を組織する事が出来たソ連の工作員というのは、素晴らしい組織力と情報操作能力を持ったスーパーマンに違いありません。ソ連の工作員をそこまで持ち上げていいものなのか、私としては、この元幹部の方はソ連の宣伝マンなのかと疑ったくらいです。 敵の脅威を語ろうとすれば、その実態以上に敵の能力を語らねばならなくなる、というのはひとつの落とし穴であり、同時に戦略です。アメリカがソ連の核の脅威を、「ミサイルギャップ」という形で宣伝し、国民の支持を得て大核軍拡を行ったように。 この方は自分が語っていることをそっくりそのまま信じておられるようでした。そんな優秀なスーパーマンを抱えているソ連がなぜあっけなく崩壊してしまったのか。私にとっては大きな謎です。 この人の下では、優秀な情報分析力を持った自衛隊員は育たないでしょうね。 第一、「反核運動はソ連の工作員に指導された」という情報は、誰が何のために広めたのか、その政治的意図も検証せずにそのまま信じるというナイーブさを、会場にいらっしゃった現役の自衛官の方はどう思っていらっしゃったのか・・。この元幹部の方の現実認識、田母神氏も同程度なのですが、こういう方たちに早く退職していただいて自衛隊は現実を見る目を取り戻していただきたいものです。 日本が核武装すべきという論拠は、「核のバランス」「相互確証破壊」の上に成り立っています。核のおかげで、世界大戦は起こらなかった。核がなくなれば、血で血を洗うような通常兵器による戦争が多発する。だから核は必要という意見でした。 面白いなと思ったのは、そのような意見を語る方たちに共通した姿勢です。 俺たちは、戦史についてのいろんな知識を持っている。シロートが、情緒的なことをいってやがる、という相手を見下した上から目線。これはほとんど宗教的な境地にまで達していると見えました。 この信者の方たちがしきりに語るのは、「現実を見なさい」という言葉であり、「核のおかげで世界大戦は起こっていない」「インドとパキスタンも双方とも核を保有する事になったので戦わなくなった」「日本が核を落とされたのは、日本に核がなかったからだ」「北朝鮮は核を持っているからアメリカの攻撃を受けなかった。イラクは核を持っていなかったからアメリカによって攻撃された」などという事でした。 茶髪の若い女性が語っていました。極論ですが、と言いながら。 「世界中の国が核武装すればいい」と。 核武装論の行き着く先はそうなるのですから、これは極論でも何でもありません。 ただ、この論の落とし穴はどこにあるか。 国家の管理の下に置かれている、「使えない兵器」としての核が際限なく拡散した場合に、国家の管理の元におかれていない核、使用された場合に「誰が使用したかわからない」核がかなりの確率で登場するということです。 抑止力としての核を認める立場は、一つの原理に立脚しています。それは、「相互確証破壊論」を、核を保有するすべての集団が共有している、という事です。これまでは、核を保有している主体は、国家に限定されており、それを自明の事として抑止論は語られてきたわけです。 ところが、核を保有する主体の中に、国家以外の集団が登場してくる可能性が出てきたという「現実」に立脚してオバマ大統領は、プラハでの演説を行ったと私は考えています。アメリカの大統領たるもの、理想を語っていればいいというものではない。9・11以後、「新しい戦争」という概念が登場してきました。その根本は、国家以外の集団が、国家を攻撃する可能性が登場してきた、というところにあります。おそらくアメリカ政府はその危機についてかなりの情報を持っているかもしれない。私はオバマ演説は、その危機感の現われでもあると見ています。 60年以上に渡って核が使用されていなかったという状態が変わろうとしている、つまり、「抑止論」「相互確証破壊論」を共有しない集団が登場しているという事に、核武装論者は何故か目を向けようとしないようです。「軍人は常に過去の戦争を戦っている」という言葉を思い出しました。 また、面白いことに、北朝鮮の脅威を語り、日本も核武装をすべきだと主張する人たちは、北は話が通じる相手ではない、共通の話し合いの基盤がない相手だと口を極めて罵るわけですが、不思議な事に、北も同じような「抑止論」の立場に立つことを信じて疑わないのです。自分の都合がいいように相手も考えてくれると思うナイーブさ。ファンタスティックです。 1969年に、筒井康隆さんによって書かれた『アフリカの爆弾』というSFがあります。これは、アフリカの一部族がアメリカから核爆弾を購入して・・・という核拡散を扱った作品なのですが、核武装論者の方たちにはまずこの作品を読まれることをお薦めいたします。今読み返すと、不思議な現実感があります。この頃の筒井さんは天才的でした。 また、「核があるから戦後核戦争が起こらなかった」という論については、核戦争が偶発的に起こりそうになったケース(たとえば、キューバ危機)を検証してみれば、ホントにラッキーだったとしかいえない、というとても単純な事がわかるでしょう。 ある事柄を取り上げて、それを一気に全体に広げていく、この論理の三段跳びには、ホントに学ばせていただきました。核保有論者の方たちに感謝いたします。
2009.08.16
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何とか帰ってまいりました。 渋滞には、神戸ジャンクション付近で引っかかったのですが、最小限でした。 夜になってから幻覚、幻聴の症状が出ていた父の状態も日を追うごとによくなりました。昨夜は妻が泊まってくれたのですが、「夜中のワンマンショー」はなかったようです。 ベッドの横にも立つ事ができるようになりました。 母のことは心配なのですが、故郷を後にすることが出来ました。 母や姉と連絡を密にとって、少しでも支えになりたいと思っています。
2009.08.16
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「リミット 」最終話を見て、別のストーリーを考えた。問題は、武田鉄矢が「金八」になってしまうところ。加藤が、黒川を捕まえ、さらに、梅木が黒川を加藤から奪うところから。梅木は加藤のピストルを奪っている。 梅 無言のまま黒川の両手の関節を外す。立ち上がり、黒川の右足を思い切り踏みつける。足が折れる。 加藤「梅さん!何をするんですか!」 梅木「足折っただけだよ。 」 加藤、梅木の方へ行こうとする。梅木、ピストルで制して。 梅木「来るんじゃない!動くなよ。動くと撃たなくちゃならない。加藤、俺は中央署で二番目に射撃の腕はいいんだ。正確にお前の足を撃ち抜けるんだ。マリアさん、そいつを押さえておいてくれ。 」 黒川、呻く。 梅木「黒川、痛いか?お前のオヤジも、足までは折ったりはしてないもんなあ。さてと… 」 ピストルを黒川の口の中にねじ込む。 加藤「梅さん、やめろ!」 梅木「加藤、黙って見てろよ!黒川、このまま引き金引いたら、お前は脳ミソぶちまけて死ぬんだけど、黒ちゃん、そうして欲しいか?」 黒川、痛みをこらえつつうなずく。 梅木「ブーッ!不正解。俺ねお前にあいつ殺されてからずっと研究して来たんだよ。ずっと。でね、痛みが続いて、死ねなくて、一生ベッドの上でションベン垂れ流して生き続けるためにはどこを撃てばいいかわかったんだよ。今から研究の成果を披露してやるよ。」マリア「梅木さん!やめてくださいそんなこと! 」 梅木「マリアさん、俺もうあんたたちの世界に帰れないんだよ…。 黒ちゃん、見てなよ。」 梅木、弾倉から弾をすべて出し、その中から一つ弾を取って再び込め、弾倉を回す。もう一発弾を込めて同じ動作。さらに二発。 梅木「さてと、研究発表会の始まり始まり…ロシアンルーレットも楽しめるしな。六分の四ってすごい確率だよね。」 黒川「梅さん、痛いよ。助けてくれよ!…母さん助けてくれよ!父さんやめてください!やめろ!」 梅木「錯乱が始まったな。黒ちゃん、すぐに意識がなくなるからね。もうすぐだからね。この糞みたいな世界を見なくてよくなるよ。俺もあとから行くけどね。 」 加藤「梅さん!逢えなくなるぞ、あの人と。あんたは地獄に落ちるんだから!天国のあの人と逢えなくなるぞ!」 梅木「そうだよな、加藤、逢っちゃくれないよな。…ま、仕方ないよ加藤、俺はこいつなんだよ。黒ちゃん、あんたを撃つのはあんたなんだよ。 」 マリア「梅木さん!私、違うと思います。あの人は、梅木さんが地獄に落ちてても探しに来てくれると思います。…もしも、この人が地獄に落ちても、私探しに行くから。私が地獄に落ちても、この人が探しに来てくれると私、信じているから。」 梅木「信じてるのか。信じて。 」 マリア「梅木さんは信じてあげられないんですか!」 梅木「黒川!」黒川のこめかみにピストルを当て引き金をひく。カチッという音。続いて自分のこめかみにピストルを当て引き金をひく。カチッという音。梅木、その場に座り込む。…しばらくして懐から警察手帳を取りだし加藤に投げる。 梅木「そこのブロックの上においてくれよ。 」 加藤、不思議そうに手帳を置く。梅木、無造作にピストルを向けて撃つ。手帳はぶっ飛ぶ。 梅木「言っただろう。二番目にうまいって。」 加藤「一番は誰なんですか。 」 梅木「そんなこと言えねえよ 。お前も刑事なんだから、自分で見つけろよ。 」
2009.08.15
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戦争体験者の証言を多数聞く事ができました。鉄血勤皇隊の少年たちの年齢が14歳から17歳、なんとも言えない気持ちになります。入隊直後から戦場に投入された彼ら。今で言えば中高校生。ドイツでも敗戦直前に同じようなことが行われています。また、部下を多数戦死させてしまった方は、みずからが楽しい事をする事をかたく禁じられていました。自分の責任について口をつぐみ、認めようとしない指導者クラスとえらい違いです。自分の責任で、愚策によって死地に追いやった多数の兵士たちの声に耳を傾ける事もないのでしょう。無責任の極みです。
2009.08.14
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手術の予後は経過順調なのですが、麻酔の影響で、幻覚が出ているようです。昨夜は姉が泊まってくれたのですが、一晩中、歌を歌ったり、大きな声で騒いだりと大変だったようです。主治医の先生によれば、よくある事のようです。さまざまな方たちにお世話になる毎日です。
2009.08.14
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「ヒトはどのようにしてつくられたか 」岩波書店 を読みました。目からウロコが大量に落ちました。山極寿一さんというゴリラの研究者に関心があって借りた本なのですけど、予想以上に知らない事だらけで、ドキドキしながら読みました。焦点の一つは、人間の「家族 」の起源です。さまざまな類人猿研究の最前線からの具体的内容が紹介されています。また、二足歩行がどれだけ「異常 」なことであったか。対談部分が特に面白いです。本当に知らない事だらけ!読書の醍醐寺を満喫しています。
2009.08.13
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ためしてガッテンを見ました。スロージョギング&スローステップ。やってみようと思います。まずは、ジョギングシューズを買います!でも、これって、寅さんが樫山文枝さんに惚れた時に、まずメガネを買ったのに近いかもしれないですね。
2009.08.13
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手術以来2日目で初めて水が飲めました。予定では明日でしたが、半日早く飲めました。順調と言うことでしょうか。
2009.08.12
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92才の父の手術、成功しました。胃の腫瘍の切除。昨夜はICUで見ていただきました。今朝、病院に来て、父の顔を見て、ひとまずほっとしました。
2009.08.11
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初めて日記を携帯で書き込みます。米子は晴天です。帰り、中国縦貫道は渋滞もなく、すんなり帰ってこれました。雨は大変でしたが。
2009.08.10
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明日(9日 日曜日)からしばらく帰省してまいります。帰ってくるのはおそらく16日になるかと思います。 渋滞に向けてつっこんで行くような気がしないでもありませんが、なんとかその日のうちには着きたいと思っております。 ではみなさま、お元気で。
2009.08.08
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気がつくと、山岸涼子さんの漫画が、娘たちの本棚のかなりの部分を占めるようになっています。 私も以前から読んでいるのです。「日出る」とか、「白眼子」(あの構成力は凄い)。最近は、「テレプシコーラ」。最初はヘンな題名だなと思ってました。「ぺ」を足したら、「テレペプシコーラ」となりますし。「舞姫」という意味なのですね。 バレエ漫画。かの名作「アラベスク」よりも私は「テレプシコーラ」の絵の方が好きです。余分なものがそぎ落とされて実にスッキリしているのがいいのであります。そして、展開。第一部のラストは、ああならざるを得ないと思いつつも、哀しいものがありました。 かなりはまっております。 図書館で、ダンテの『神曲』と、予約していた『テレプシ』とを借りていくわけですから、職員の方も、ヘンなオジサンと思っていらっしゃるのでしょうね。
2009.08.07
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大原麗子さんが亡くなった。62歳という事をはじめて知った。運動神経に障害が出る病気で闘病中だったと報じられている。 「男はつらいよ」に出演していた時の大原さんのことを思い出す。 「アサヒ・コム」には、大原さんのきれいな写真が載っている。 「読売」「毎日」と見てみたけれど、両紙ともにスナップ的な、それだけに自然な写真なのだけれど、私は「朝日」の写真が一番きれいだと思う。こういう時は、各紙ともに、「これが私たちの考える大原さんの一番きれいな、素敵な写真です」、というのを載せてほしい。少しづつ更新して。それを観ながら大原さんをしのびたい。
2009.08.07
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今年の原爆忌は、これまでとはちょっと違った感じがしました。 オバマ大統領の発言が、被爆者の方たち、長年、核廃絶に取り組んでこられた方たちに好意的に受け取られ、希望を語る方たちがいらっしゃったことが、印象的でした。 麻生首相は、記者会見であらためてアメリカの核の傘の元で暮らしていく事を語りました。 テーマは、「核軍縮」です。この人は、「軍縮」という言葉の意味もわからないようで、依然として、近くに核を持っている国があってそれが日本の脅威になっているんだからアメリカの核の傘が必要、という論調。 世界でみんなが核を一斉になくそうという事になったらなくなるんだけれど・・と語る首相を見ていると、このような考え方をする人たちにとって北朝鮮という国は、絶対に潰れてもらっては困る国なんだなと思いました。 とにかく、「危機」が必要。なければ作ろうかという勢いです。 「軍縮」という言葉、特に核軍縮という言葉を、実際に歴史的な事柄として検証してみればわかるのですが、麻生首相が使っているような概念とは全く違うのです。 このような現実から遊離した妄想を振り回すような人が一時的にせよ首相であることが出来てきた、という事実そのものが、今の日本が、様々な問題を抱えつつも平和である事の証明になっているのかなと思った事でした。 明日は立秋。ベランダに出ると虫の音が聴こえてきました。今晩初めて気がつきました。
2009.08.06
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横浜市教育委員会は4日、10~11年度に市立中学で2年間使う歴史教科書に、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)が主導し自由社(東京都文京区)が発行する教科書を8行政区で採択した。「つくる会」の分裂に伴い、扶桑社版とは別に執筆された自由社の教科書は08年度検定に合格したばかり。文部科学省は「(採択例を)把握していない」、同社は「全国初」としている。 同市の教科書採択は、校長や学識者で組織する市教科書取扱審議会が候補を答申、市教委が市内18行政区ごとに決める。この日の市教委には今田忠彦委員長ら6人の教育委員全員が出席。18区ごとに無記名投票し、港南や青葉など8区で自由社が選ばれた。18区全体で市立中学は145校、1学年約2万5000人の生徒がいる。 投票に先立つ審議で、今田委員長は「日本人に生まれたことを悲しませるような教科書は絶対、駄目だと思う。自由社の教科書は非常に理解しやすく、先人がどういう意識で生きてきたのか深みをもって書いている。日露戦争も愛情をもって書いている」と意見を述べた。【山衛守剛、木村健二】「毎日新聞」記事より さて、このような愚行を行った横浜市のホームページを見ると、「教育委員会とは」という項があります。 【教育委員会とは】 教育委員会は、教育の政治的中立性を保持し、学校教育や生涯学習等の振興を図るため設置された、市長からは独立した執行機関です。教育委員会は6人の教育委員による合議制の機関となっています。教育委員会は、1、政治的中立性・安定性の確保、2、地域住民の多様な意見を反映、3、生涯学習などの教育行政の一体的な推進等を目的として設置されています。 教育委員会の権限に属する事務は、教育委員会の会議によって処理することとなっており、教育に関する事務の管理及び執行の基本的な方針等について審議し決定しています。【教育委員の任命】 教育委員は、人格が高潔で、教育、学術、及び文化に関して識見を有するもののうちから、市会の同意を得て市長が任命する6人の委員(うち1名は教育長)で組織されます。委員の任期は4年で、再任されることがあります。 横浜市ホーム・ページより。 「教育の政治的中立性を保持し」、どこが?「人格が高潔」?「教育、学術、および文化に関して識見を有する?」。 そんなエライセンセイ方がなぜこのような教科書を全国に先駆けてわざわざお選びになったのか。あいた口がふさがらない。 この教科書の元版は扶桑社から発行されたものであるが、その扶桑社自身がこの教科書を絶版とすると、「新しい教科書をつくる会」に通告し、、「なぜ絶版にして、別のグループに書かせるのか?」と質問されて、以下のようにコメントしている。 『新しい歴史教科書』に対する各地の教育委員会の評価は低く、内容が右寄り過ぎて採択がとれない。 大笑いである。扶桑社といえども会社組織であるから教科書の採択が取れるか取れないかは重要な事であり、正直なコメントだろう。 また、「つくる会」で検索してみると、「つくる会運動の離合集散」という項がわざわざ設けてあり、かなりのスペースを取って記述してある(「ウィキペディア」)。 こんな会が編集している「教科書」の採択を、強硬に主張したのが、「日本人に生まれたことを悲しませるような教科書は絶対、駄目だと思う。自由社の教科書は非常に理解しやすく、先人がどういう意識で生きてきたのか深みをもって書いている。日露戦争も愛情をもって書いている」と述べた今田センセイである。 今日は広島原爆忌であるが、アメリカのスミソニアン博物館で原爆投下を、「原子雲の下で何が起きたか」をテーマとして扱おうとしたところ、強硬な反対に遭遇し、企画は変更され、担当者は辞職を余儀なくされた。 その時の反対論の主なものは、「原爆投下によって多くのアメリカ兵の命が救われた」というものであったり、「戦った我々の誇りを傷つけるのか」といったものであったことを記憶している。 先日発表された世論調査の結果では、アメリカ人の60%が原爆の投下を正当視しているという(以前に比べたら下がっている)。 自国政府が過去に行った愚行(戦争を開始し愚劣な作戦によって多数の兵士を死に追いやり、占領地域では強制労働、抵抗運動への弾圧、日本文化の押し付け、無抵抗の人々の虐殺等々)を直視しなくて何が歴史教育か。 オバマ大統領が、演説の中で、アメリカの原爆投下の「道義的責任」にふれたのは、自国の歴史の中のマイナス面もきちんと見ていこうという決意の現われとして私は評価したい。 自国のマイナス面は見たくもない、聞きたくもない、そんな腑抜けた幼稚なことを言っているのなら、一生「歴史」にかかわるんじゃない! こういう言い草を耳にすると、こういう輩は、生徒たちが一生大きくならないと思っているんじゃないかと思ってしまう。生徒たちは成長し、海外にも行くこともあるだろう。アジア各国にも行くだろう。そこで、戦争中の日本の加害について全く学んでいなかったら、能天気な発言をしかねない。その責任を今田氏は取れるのか? 書店の児童書コーナーに行くと絵本がずらっと並んでいる。 「かちかち山」「一寸法師」「ガリバー旅行記」といった子ども向きに書き直された絵本があるが、「つくる会」の教科書は、お子様向きに書き直された絵本である。それぞれのお話には当たり前だが、「原話」がある。残酷であったり、「そんな馬鹿な!」というシーンもあり、人間に絶望するような記述もある。生徒たちには、発達段階に応じて、絵本も原話も自由に与えればいいと私は思っている。 歴史をなにかの目的に使おうという組織の典型は、戦中の日本、旧ソ連共産党、現代の北朝鮮である。私は、「作る会」は、そういった組織の思考と軌を一にしていると思う。自由を認めず、生徒たちの学ぶ権利を阻害しようとする点などあきれるくらい同じではないか。 またこのような人物をわざわざ任命した横浜の中田市長、あなたは、「全国に先駆けて」このような欠陥教科書を採択させた責任者という事になる。「自国の歴史を貶めるような発言は許せない!」と、オバマ大統領に抗議電を打てばどうだろう?それで首尾一貫するんじゃないか? ついでにあなたが理想とするような「歴史本」を一冊だけ紹介しておこう。それは、『ソビエト共産党史』。ナイル川のワニがあまりの退屈さに読んでいて寝てしまい、捕まえられたというこの本、「無謬の党」の事が書いてある。まちがっても、「ソビエト国民に生まれた事を悲しく思う」様な事は一切書いてない。熟読玩味されたい。 「日露戦争を愛情をもって記述し」という今田発言。私は日本近代史については素人に毛が生えたような知識しかないのだが、こんな馬鹿丸出しの発言ははじめて聞いた。 日露戦争についてはすでに多角的な研究の積み重ねがある。「つくる会」は、その一面のみを拡大し、そこに司馬遼太郎氏の、「坂の上の雲」を粗雑に読んで、「明るい日露戦争」をでっち上げた。生前の司馬氏が、「坂の上の雲」はテレビドラマにしないようにと言い残していたのは、そのような形で自分の作品が悪用された事にも原因があったのではないか(ドラマ化されるそうだけれど)。 横浜という国際都市の名を辱める愚行が行われた事がとても哀しい。
2009.08.06
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近くの公民館で二胡のコンサートがありました。今年で五回目だということです。 会場は公民館の三階でしたが、満員の盛況。私のような中高年から若い人まで様々な人たちが集まりました。 <演奏曲目>1 トップオブザワールド 2 光明行(中国曲) 3 島唄 4 海女(中国曲)5 星に願いを 6 love love love(ドリームカムズトゥルー) 7 望春風(台湾民謡) 8 旧情綿綿(台湾民謡) 9 マイメモリー(韓国) 10 月の砂漠・赤とんぼ 11愛の挨拶 途中で「体験コーナー」もあり、二胡のひき方についての解説がありました。会場には実際に二胡の演奏に取り組んでいる方もいらっしゃって、ブームである事が実感できました。 「体験コーナー」で、二胡の演奏に取り組んだ三人の方たちは、筋がいいのか指導がいいのか(両方でしょうか)、「それらしい」音が出るようになり、会場からも大きな拍手が。こういうところがミニ・コンサートのいいところでしょうか。 アンコールの「浜辺の歌」は、会場中の人が歌いだしたかと思うぐらいの大合唱になりました。 二胡の演奏ははじめて聴いたのですが、身体の中に沁み入ってくるような音でした。しっとりとした、ちょっと悲しみをたたえたような曲がぴったりするような気がしました。ただ、後半ではずむような軽快な曲も(かなり高度なテクニックが必要そうでした)演奏されており、幅の広い楽器ではありますが。 CDを買って帰り聴きました。これからしばらく聴き続けようと思います。 演奏は、二胡が魏麗玲(ウェイ リーリン)さん(写真左)。キーボードが中島陽子さん(写真右)。 「ウェイ・リーリン」で検索すると、魏麗玲さんのホームページにアクセスできます。 ここに越してきて良かった。
2009.08.05
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クリントン元大統領が北朝鮮を訪問した。「電撃訪問」などとマスコミは言っているが、そんな事はありえない。 転居届けに、「近くに来られたら是非ともお立ち寄り下さい」と書いていたからといって、何の連絡もなしにいきなり、ピンポーン!とやるような人がいないのと同じである。 婦唱夫随である。かあちゃんが案を練ってとうちゃんが動いたわけだ。なにせとうちゃんにしてみれば、「アノ件」があるからかあちゃんには頭が上らない。 今回の北朝鮮訪問の目的は、拘束された女性記者の解放だと言われている。とてもわかりやすい。しかし、私は真の目的は違うところにあると睨んでいる。 それは、金正日将軍様のアメリカ亡命である。 亡命するなら中国じゃないかって?それは違う。将軍様はなぜアメリカを選んだか?それは、彼のアメリカ映画好きを見ればわかることだ。 オバマ大統領は、クリントン元大統領に、二枚のパスを渡したといわれている。 一枚は、アメリカで公開される総ての映画を、公開前に見ることができるパス。 そしてもう一枚は、アカデミー賞授賞式の最前列のチケットだ。 金正日は、これで完全にぐらっと来たという。 なぜ亡命かって?彼が北朝鮮の将来については一番よく知っている、これが答えだよ。 私がまだつかみきれていない情報がある。それは、将軍様が何を手土産にアメリカに亡命するかだ。 核についての情報?そんなものはとっくの昔にアメリカに漏れている。 政変の可能性についての情報?本人が行くんだから問題外。 私が絞りきれていないのは、手土産の中に、どんなキムチが入っているかなのだ。これはまだわからない。頭を悩ましている最中だ。
2009.08.04
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ある講演会(?)でお坊さんから聞いた話。 若いお嫁さんから、「三途の川って川幅がどれくらいあるんでしょうか?」って訊ねられたことがあるんです。私も驚きまして、「なんでそんな事ききはるんですか?」と訊ねますと、そのお嫁さん、「うちのおばあちゃん、最近スイミングスクールに通うようになったんです。ひょっとして、三途の川をターンして帰ってこよう思てるんじゃないかと思いまして」とのお答えでした。 さあ、どれくらいあるんでょうかなぁ・・。 やまべとよむさんから書き込みをいただきまして、思い出しました。
2009.08.04
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『ホメロスを楽しむために』阿刀田高 新潮文庫 現地を旅しながら、ホメロスの『イリアス・オデッセイ』をやさしく解説した本です。著者の感じた疑問や、「これはどうなっとるんだ!」というツッコミが楽しい本。 一箇所だけ紹介しましょう。『オデッセウス』のなかで、オデッセウスの息子テレマコスが、スパルタを訪れた時にメネラオスの館を訪問し、メネラオスと妃のヘレネ(トロイア落城後も彼女は生きていたのですね)に迎えられる場面です。 ヘレネは、木馬の中に隠れていたオデッセウスがトロイア城内に潜入して神像を盗み出そうとした時、オデッセウスに気づいたのですが、「すぐにわかったけど、黙っててあげたのよ」と得意そうにつぶやいた後のセリフから。 「あのとき、私、ひどく後悔しておりましたのよ。女神のアフロディテのせいで、心を迷わされ、故郷を捨て、非の打ち所もない夫を忘れ、かわいい娘まで残してトロイアへ行ってしまったことが、くやしくてくやしくてたまらなかったわ。だから、オデッセウスに協力してあげましたの」 サラリと言ってのける。 おい、おい、おい。ヘレネのこの言い分をテレマコスがどう聞いたかはともかく、われ等、後世の読者は釈然としないぞ。少なくとも私は、 あんた、それを本気で言うの?絶世の美女ともなると、すごいもんだねー と考え込んでしまう。 伝説を信ずるならばトロイア戦争は、ヘレネの出奔から始まったことではないか。初めにヘレネありき、なのだ。このエッセイの第一話の終わりでも述べたように、ヘレネには情状酌量の余地が全くないでもないが、一切の悲劇がそこから始まっている事は疑いない。なのに、当の本人から「私も被害者なの。だから裏切ってやったわ」と言われたら、どうにもやりきれない。「それはないぜ」である。とはいえ、これほど極端ではないまでも、世間の美女の中には、この種のセリフを泰然と吐く人がいないでもない。美しければ美しいほど理不尽のレベルがすごくなるのかもしれない」(P172~3)。 人生の中でこんな目にあったことのある人は身につまされる箇所でしょうね。昔から、美人の事を「傾国」「傾城」とか言ってきたのですが、美人はそれだけで危険なものだと昔の人は考えていたのです。身近に美人がいない人はそれだけで幸せなのかも知れません。
2009.08.04
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本日から当分自宅での研修となります。これまで読むことをさぼっていた本をかためて読む期間としたいと思っているのですが、食事は作らねばなりません。 まず、昼食。これは簡単単純。ゆでた素麺を水でよく洗って盛り付けます。 そこへ、豆乳と熱湯で溶いて冷やしたウェイパー(中華味の素)を混ぜたものをかけ、さらにすりゴマを降りかけておしまい。 すすりこむと美味しいです。 夕食。これは夕べから酒と塩、七味唐辛子、生姜の摩り下ろしに漬けておいた鶏を焼きます。焼けてもしばらく放って置くと、中まで熱が通ります。 あとは、タラの切り身とほうれん草を和風だしと塩、酒で火がよく通るまで煮ます。別の鍋で豆腐を温めます。豆腐から盛り付けて、そこにタラの切り身を盛り、ほうれん草とスープを入れると出来上がり。 タラ、ほうれん草、豆腐を食べてしまった後のスープをご飯かけてかき込むと夕食は終了。
2009.08.03
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