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『戦史』トゥキュディデス 「世界の名著」5 久保正彰訳 中央公論社 アテネとスパルタの戦い(ペロポネソス戦争)が始まったとき、著者は、「この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予測して、ただちに記述をはじめた」と記しています。戦いと同時並行で書き進んだのか、戦いが終了してから一気に書いたのかという点については研究者の間でも意見が分かれているようですが(「解説」より)、いずれにしても、ペロポネソス戦争(前431年~前404年)が終了してかなり経ってから書かれた本ではないことは確かです。 このような歴史書はめずらしいと思います。ほとんどの歴史書は、ある事件が起きて、事件についてのさまざまな資料がある程度出てきてから書かれているからです。 そして著者は自分の記述の原則を以下のように記しています。 「戦争を通じて実際になされた事績については、たんなる通りすがりの目撃者から情報を得てこれを無批判に記述することをかたく慎んだ。またこれに主観的な類推をまじえることもひかえた。私自身が目撃者であった場合にも、また人からの情報に依った場合にも、個々の事件についての検証は、できうるかぎりの正確さを記しておこなった。しかしこの操作をきわめることは多大の苦心をともなった。個々の事件にさいしてその場にいあわせたものたちは、ひとつの事件についても、敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことがおおく、そのためにかれらの供述はつねに食いちがいを生じたからである」P331 今から2000数百年前にこのような自覚のもとに歴史が記述された事は奇跡といっていいかもしれません。それも、もっとも「敵味方の感情に支配され」やすい戦争という事柄についての記述を行う場合にです。 この本はもちろん、ペロポネソス戦争についての記述がその大半を占めているのですが、よく引用される部分として、当時のアテネの指導者ペリクレスによる戦没者に対する追悼演説があります。ペリクレスが、アテネという実在のポリスを讃えるという形をとりながら、彼の理想とするポリス市民の姿を市民たちの前に示し、そして彼らの士気を奮い立たせようとした名演説だと思います。一部を引用します。 「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。人の理想を追うのではなく、ひとをしてわが範に習わしめるものである。その名は少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。 われらは質朴のうちに美を愛し、柔弱に堕することなく知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさをみとめることを恥としないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己の家計同様に国の計にもよく心をもちい、おのれの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見なす。」(P356~358) もう一つペリクレスの演説。戦いに疲れたアテネ市民たちの中には指導者ペリクレスを非難する声があがり始めます。それに対する演説。 考え違いをしてはならぬ、われらはただ自由か隷属かそれだけを争っているのではない。支配者の座を追われれば、支配者たりしあいだに人々から買った恨みをつぐなう危険に迫られる。諸君はし覇者の座から降りることはもう出来ないと覚悟せねばならぬ。今になってその因果を怖れて、静かな善人に態度を改めたところでもう遅い。なぜなら、諸君は同盟独裁者(注:アテネはデロス同盟を組織して多くのポリスを支配してきた)の地位についてはや久しい。この位を手に入れたことがよし正義に反するとも、これを手放す事は身の破滅に等しいからだ。P372 過激な民衆煽動家として悪評高い人物としてクレオンがいます。これは民主主義の無能さを指摘する演説の出だしの部分なのですが、この一行は様々な事を考えさせてくれます。 民主主義は他人を支配する事は出来ない。 クレオンに対して反対論を唱えたディオドトスの演説から。(この場合は、アテネに対して反乱を企てたポリスの市民たちをどう処分するか。クレオンは全員処刑を説き、彼は処刑の範囲は最小限にと主張しています) 今日までにもいくたびとなく人間は、犯罪による被害を軽減しようと思ってありとあらゆる刑罰を累進的に加えて行き着くところまできてしまったからだ。時の経過とともに犯罪者が増加し、刑量もそれにつれて死刑にまで増大してきたのであるが、しかしここにいたってもなお、犯罪は後をたたない。 貧窮は必然の力によって人を向こう見ずな振る舞いに走らしめ、権力は横暴不遜のこころをつちかい、人を強欲に駆り立てる。その他人生諸般のめぐり合わせにさいしても同様に、人間はその立場立場の免れがたい衝動のとりことなり、抗すべからざる強い誘惑に盲導されて危険な深みに陥るものだ。P387 最後に、著者トゥキュディデスの戦争は何をもたらすかと言う論を引用します。これらがすべて2千数百年前に書き残されたという事にもう一度注意してください。 内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れなかった。この時生じたごときごとき実例は、人間の性情が変らないかぎり、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰り返されるであろう。なぜなら、平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人もおのれの意に反するごとき強制の下に置かれることがないために、よりよき判断を選ぶ事が出来る。しかるに戦争は日々の円滑な暮らしを足元から奪い取り、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘付けにするからである。 こうして次々と諸都市の政情が内乱と化していくと、後から乱に陥るものは先の実例から何を学ぶのか、さきよりもはるかに過激な意図や計画を案出し、老獪きわまる攻撃手段や非常識も甚だしい復讐手段をもって抗争するのであった。やがては、言葉すら本来それが意味するとされていた対象を改め、それを用いる人の行動に即してべつの意味をもつこととなった。 たとえば、無思慮な暴勇が,党を利する勇気と呼ばれ、これにたいして、先を見通してためらうことは臆病者のかくれみのと思われた。沈着とは卑怯者の口実、万事を解するとは万事につけて無為無策に他ならず、逆に気まぐれな智謀こそ男らしさを増すものとされ、安全を期して策をめぐらすといえば、これは耳障りのよい断り文句だとされた。 何事によらず人の先を越して悪をなすものが誉められ、悪をなし意図すらないものをその道に走らせることが賞揚にあたいすることとなった。そしてついには、肉親のつながりも党派のつながりに比すれば物の数ではなくなった。党派のためとあれば、仲間は理由を問わず行動に走ったからである。P411~2 「未来の歴史にも繰り返されるであろう」と書いた著者の「予言」に私たちは、「それは違う」と抗弁する事が出来るでしょうか? この本が真の意味で「古典」であり続けている意味がここにあります。私たちに問われているのは、このように明白な愚行を伴う戦争というものをどうすればなくす事が出来るのか、なのではないでしょうか。 私の記録からは伝説的な要素が除かれている為に,これを読んで面白いと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかつてのごとき、つまりそれとあい似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相をみきわめようとするとき、私の歴史に価値を認めてくれればそれで充分である。P331
2009.07.31
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『ギリシア神話 付・北欧神話』山室静 教養文庫 代表的なギリシア神話が分かりやすい語り口で紹介されています。 アンドロメダ、大熊座のような星の神話。 水仙やヒヤシンスといった花の神話。 そして、イカロスやパエトーンのような父の言いつけを守らなかったために悲劇的な死を遂げる若者の神話。 冥界へ亡き妻を訪ねて行くオルフェウスの神話。 人間の娘たちと恋に落ちる神様たちの姿、嫉妬し、怒る神様たち。人間の持つ欠点をそのまま持っている(これは逆かもしれませんね。私たち人間が神々の持っている欠点をそのまま与えられているのかも)神々の姿。 ギリシア人のものの見方と考え方が、神話と言う形で表現されています。 図書室には、ギリシア神話についての本が数種類置いてあります。まず手にとってみましょう。 さて、この本の特徴は、「北欧神話」が一緒に入っていることです。北ヨーロッパ世界で語り継がれてきた神話なのですが、そこに登場する神々はヨーロッパの英語圏の人たちにはとても身近なのです。英語の辞書で一週間の曜日を引いてみると、その語源が載っています。 火曜日 Tuesday 、これは、チュートン族の軍神ティウの日。 水曜日 Wednesday これは、ゲルマン神話の神・オーディンの日。 木曜日 Thursday これは、北欧神話の神・トールの日。 金曜日 Friday これは、北欧神話の神・フリッグの日。 すべて北欧神話に登場する神々の名前です。 北欧では冬は暗くて長く、人々は本当に春が来るのだろうか、世界はこのまま凍りついて滅びてしまうのではないかという恐怖感に常に襲われていたようです。そのため、この世界で誕生した神話には、「神々のたそがれ」、つまり神様たちの作り上げた世界が滅亡するというなんともものすごいラストが用意されているのです。 神々のリーダー、オーディンは、すべてのことを知りたいと、ミーミルの泉の水を飲みます(それと引き換えに、片目を失います)。そこで彼は、神々の世界が滅びることを知ります。しかし、その運命と戦うために彼は精一杯の努力を払ってその日を迎えようとします。 神々の中には、奇妙な神様がいます。名をロキといいます。この神はいたずら者なのですが、時として、度の過ぎたいたずらをしでかします。たとえば、以下のような。 ある日神々は退屈しのぎに何かゲームをやろうということになりました。そこで、光の神バルドルに何でもぶつけて遊ぼうということになります。神々は手分けして世界中を駆け巡り、すべての者たちに、バルドルに危害を加えないことを約束させます。ところが、ヤドリギだけは、まだ幼いから約束させるまでもないと外されます。 さて当日のこと。神々は、バルドルに手当たり次第にものをぶつけて楽しみました。その中でぽつんと寂しそうにしている神様がいます。盲目の神様・ホズルです。ホズルのそばによって行ったのがロキ。彼は、矢の先にヤドリギをつけて、ホズルに渡し、後ろから手を添えてバルドルに狙いを定めます。矢はバルドルの身体をつらぬき、世界から光が失われます。 そして、魔物たちが死者のつめで作った舟に乗って押し寄せてきます。 戦いの中で神々も魔物もともに斃れ、最後に炎の巨人スルトルが宇宙樹・ユグドラシルにたいまつを投げつけ、世界は炎に包まれ、海の中に沈んでいきます。 ギリシア神話と北欧神話、まったく対照的な二つの神話を一冊で読める、「お得な」本です。
2009.07.30
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匈奴を強大な勢力とした冒頓単于が死去して後、老上単于が立ちます。その時、漢は単于に漢の王室の親戚筋に当たる娘を公主(皇帝の娘)と偽って妻として送り込みます。その時、御附きのものとして同行させられたのが宦官の中行説という人物です。彼は、「わたくしが行けばかならず漢の禍いのもとになろう」と言ったそうですが、匈奴に到着するとさっそく単于の臣下となり親愛されました。 以前から匈奴は漢の絹や綿、食物を愛好していたのですが、それに対して中行説は言いました。 「匈奴の人口は漢の一割にしか当たりません。それにもかかわらず強いのは、漢とは衣食を異にし、その供給を漢に仰がないからです。単于がその習俗を変えて漢の産物を愛好されるようになれば、漢は自国で消費する物資の二割ほどを使うだけで匈奴を従える事ができるようになるでしょう。 漢の絹や綿で作った衣服で棘の中を駆け巡れば衣服はすべて裂けてしまいましょう。漢の衣服が匈奴の皮製の衣服の丈夫さに及ばない事をお示し下さい。 また漢の食糧が手に入りましてもすべて捨ててしまい、匈奴の牛乳・チーズの便利さとうまさには及ばない事をお示し下さい。」 ある時、漢の使者が、「匈奴の風俗では老人が粗末に扱われている」と言った。 中行説は使者に言った。 「漢の風俗でも、若者が従軍して出発する時に、年老いた親は自分の着ていた暖かい服や栄養のある食べ物を息子に与えようとするだろう。」 使者は、「そうだ」と答えた。 中行説は言った。 「匈奴は、公然と戦争を本務としている。老弱者は戦争が出来ないので元気な若者に美味しいものを食べさせ、それで自らも国を守っていると思っているのだ。それでこそ老人たちも安全に生活が出来る。 匈奴が老人を大切にしていないなどと言えないだろう。」 漢の使者は言った。 「しかし、匈奴は父と子が同じテントで眠り、父が死ねば継母を自分の妻とし、兄弟が死ねばその妻を自分の妻とし、衣冠束帯の礼儀も、朝廷の礼式もないではないか。」 中行説は答えた。 「匈奴の習俗では人は家畜の肉を食い、その乳を飲み、その皮を着る。家畜は草を食い、水を飲み、季節によって移動する。それゆえ、人々は戦時には騎射を練習し、平時には泰平を楽しむ。その法制は簡易で分かりやすく、実行しやすい。君臣の間も気軽である。 父や兄弟が死ぬとその妻をめとるのは家系の絶える事を怖れるからだ。したがって匈奴は国が乱れてもかならず同宗・同祖のものを立てて王とする。然るに中国ではうわべを飾って父兄の妻をめとることをしないけれど、親族はどんどん疎遠になり、はては互いに殺し合い革命騒ぎとなるではないか。 その上、礼儀を強制するものだから恨みが生じ、見掛けを飾るから競って大きな家をつくり財産を使い果たしてしまう。 人民は戦時にも訓練を行う事はなく、平時は農業で疲れきっている。 泥の家に住む漢人よ、冠をつけていたとて何の利益があると言うのだ。」 漢と匈奴という二つの世界の価値観と習俗を相対化して語る中行説の言を紹介する司馬遷の筆致は、ローマ人にゲルマン人の習俗を紹介して、安逸に流れがちであった彼らを戒めようとしたタキトゥスの『ゲルマーニア』を思い出させます。 絶対的な価値を設定することなく世界の各地域を序列化せずに研究する文化人類学の手法を見るようでもあります。
2009.07.29
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『栽培植物と農耕の起源』中尾佐助 岩波新書 「こんな内容を書いた本はどこにもない」と著者は「あとがき」で書いていますが、そのとおりです。この本を初めて読んだときの驚きと興奮は今でも憶えています。 「触れれば落ちる野生種の粒、この性質は野生のものが種子を自然散布するのに適応した性質である。栽培種のほうはこれに反して鎌で刈り取る人間の収穫法に便利な性質である。人類は野生の穀類を利用し始め、その品種改良の初期に、野生の脱落性から非脱落性に改良したものと想像されている。」 知らなかった・・・。 「現在の栽培イネは、ほとんど一斉に出穂する。それが不ぞろいだったら、収穫は穂だけ選んでひとつの水田に何回も行くほうが合理的だ。稲作農業では、品種と農法の発達により、穂刈りから根刈りへと進歩する。」 弥生時代の石包丁は、穂刈りの道具。その当時の田んぼでは、稲穂のみのり方はバラバラであったわけです。 「バナナは種無しの果実という点では大発達である。果物類でバナナほど倍数性を上手に利用したものは、文明国でもまったく比べられるものがない。その改良は、ほとんどこんにち民族名すらはっきりしないような未開発地域の土民たちが成し遂げたものである。」 「種無しバナナ」、これは盲点でした。種がないのが当たり前と考えていましたから。 「人類はかつて猿であった時代から、毎日食べ続けてきて原子力を利用するようになった現代にまでやってきた。人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学術のためよりも、食べるものを生み出す農業のために、いちばん多くの汗を流してきた。農業こそは、人間の努力の中心的存在である。」と著者は書いていますが、これは冷静に考えればそのとおりです。食べ物を巡っての努力、そのままでは食べられなかったものを食べられるように改良した努力、それを知ることは私たちが暮らしている社会を少しまともにしてくれそうです。
2009.07.28
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このところ、蝉のジジジジジ!という大きな羽音を居間でよく聞くようになった。ベランダの壁で羽を休めていた蝉がうちの仔たちの餌食になるのだ。 今日は、あもが蝉を銜えて居間に入ってきた。食べるのではなく、噛み千切ってしまうのではなく、加減しながら銜えてきた蝉を床にぽとりと落とす。蝉は大抵仰向けになって羽をふるわせて逃げようとする。その蝉に前足で猫パンチをくらわせる。蝉は吹っ飛んで壁にぶつかり、また逃げようとする。蝉は最初に銜えられた時にすでに致命傷を負っているようで、飛んで逃げるという事はない。 猫たちは時には一匹で、時には二匹、三匹で蝉を玩具にして遊んでいる。そのうちに蝉は動かなくなる。そこで初めて食べられてしまう。猫たちは羽を食べる事はなく、蝉が食べられてしまったあとには大抵羽が散らばっている。 この夏、一体何匹の蝉がベランダで犠牲となるのか。 蝉の間に回覧板がまわされることはないのだろうか。
2009.07.27
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1go1exさんに券をお世話いただいて文楽を観にいってきました。初めてです。国立文楽劇場。 第二部の「生写朝顔話」。初対面で恋に落ちた男女(阿曾次郎・深雪)がすれ違いを重ね、深雪は苦労の果てに失明しますが、最後に二人は結ばれる(今日は、最後までは演じられず、深雪の目が開くところまででした)、というお話。 前から九列目で結構いい席で、人形の細かい表情なども見えました。 舞台の上のほうにセリフが字幕で出ます。 上手の方では太夫と三味線。 人形を見て、字幕を見て、太夫と三味線を見て・・と中々首の疲れる観劇でしたが、初めてだったからでしょうか、驚いたり感心したりする事ばかりでした。 阿曾次郎(この時は駒沢次郎左衛門)に痺れ薬を飲ませて殺そうとするたくらみを見破った宿屋の主人の機転で痺れ薬は笑い薬にすりかえられます。そうとは知らぬ悪者ども。痺れ薬の解毒剤を飲んで疑われた時のために備えますが、薬はすりかえられています。効くわけもなく、薬のせいで大笑い。 ここは、人間国宝・竹本住太夫さんの笑いが秀逸。様々な笑いを演じ分ける住太夫さんに感服いたしました。 阿曾次郎を追って宿を飛び出し、大井川まできた深雪ですが、阿曾次郎が渡ってしまった後は河止めとなり、渡ることは叶いません。歎き悲しみ、死のうと思いつめる深雪。この深雪の心の動きを見事に伝える人形捌きが吉田蓑助さん。よく、「生きているようだ」などと言いますが、本当にその言葉には嘘がないという事を実感しました。 太夫さんの語りは複数の人物たちを語り分けます。ここいら辺は落語と同じ。どうりで、噺の中に時々浄瑠璃が出てくるわけです。 今日も一つ発見がありました。「大井川の段」「追ふて往く 名に高き街道一の大井川、篠を乱して降る雨に、打ち交じりたるはたたがみ、漲り落つる水音は物凄くもまたすさまじき」と言う部分は、米朝師匠演ずるところの「軒付け」で聞いたことがあるセリフです。 次回は11月。楽しみです。
2009.07.25
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教科書には、人類について以下のように書いてあります。 「人類がほかの動物から区別されるのは二本足で直立歩行(直立二足歩行)できることにある。さらに、直立したまま頭部を背骨の上でバランスよく保てば、両手を自由に操ることができる。この直立歩行の機能が完全なものになるにつれて、人類は、大きな容量の頭脳を発達させた。」 出発点となった二足歩行がなぜ始まったのか、というよりも、なぜ始めねばならなかったのかについてはまだまだわからないことが多くありますが、一冊だけ本を紹介します。 『足のはたらきと子どもの成長』近藤四郎 築地書館 近藤さんの説をまとめてみます。 ヒト化の動機として、第三紀の終わりごろ、気候の冷涼化に伴ってアフリカの森林が後退し、人類の祖先は生活上の有利さを求めて森林からサヴァンナへと進出し、直立二足歩行を勝ち取ったという説があります。 この説は、環境の変化が身体を根本的に変えて立って歩けるようになったと言っているわけでとても考えられません。 また、立ち上がると見晴らしが利いて有利、という動機論はナンセンスです。 まず立ち上がって歩くように、身体のほうの準備が整わないと立ち上がることはおろか、長く歩けるはずがない。このことは、赤ん坊が、座る、ハイハイ、立つ、伝い歩きという成長過程をとることからみてもあきらかです。 だから私は次のように考えたい。樹の上で、直立二足歩行の準備は、ほとんど完了したのではないか。樹をよじのぼる、樹上・地上ともに四足歩行、樹枝間の跳躍もできるという多様なロコモーション(移動形態)を持った祖型者から樹枝の上を二本足で歩くことが巧みなものが選抜され、樹上と地上の往き来を繰り返す、その能力がほぼ出来上がってから、疎開林・サヴァンナへと進出して行ったのではないでしょうか。 近藤さんの考え方は、「身体のほうの準備が整わないと立つこと、そして長く歩くことはできない」という言葉に集約できます。 これは、「木の上のほうの葉っぱを食べようとしているうちにキリンの首が伸びた」、という考え方のどこが間違っているかを理解する上でのポイントとなる言葉です。 この築地書館から出版されている「みんなの保育大学シリーズ」は、以下のとおり。 『ひとの先祖と子どものおいたち』井尻正二 『子どもの発達とヒトの進化』井尻正二『手のうごきと脳のはたらき』香原志勢 『足のはたらきと子どもの成長』近藤四郎『脳の発達と子どものからだ』久保田競 図書室にあります。 「みんなの保育大学シリーズ」は、さくら・さくらんぼ保育園の園長であった斉藤公子さんが、「人間の子どもは、受胎から大人になるまでにどんな道筋を通って大きくなっていくのであろうか、ほっておいても育つのか、大人は何をしてやればいいのか、子育てに『手遅れ』というものがあるなら、それが知りたい」という思いから、「人間の子どもの個体発生と生物の系統発生の関係を学び、私たち保育者のなすべきこと」を探るために始められた取り組みです。各界の第一線の人の講義、それに対する質問と答えとが収録されています。 保育の道に進もうとしている人にとっては必読書です。 図書室にある本をもう少し紹介します。 <きみのからだが進化論>シリーズ(農文協)の、(3)『むかし、わたしはおサルさん』(4)『足で歩いて手で持って』(5)『わたしはヒトで、人間で』 目からうろこのことがらが書いてあります。 シマウマの目は顔の右と左に分かれてついているのに、人間の目はなぜ顔の真ん中によっているのか? 人間の手でなぜ親指だけが他の指から離れてついているのか? 私たちの手に指紋があるのはなぜなのか? 人間の肩甲骨が背中についていることで何が変わったのか? お尻が一番大きい動物って人間だって知ってました? 唇があるのは人間だけって知ってました? 手にとって見ましょう。イラスト中心の本ですから読みやすいと思います。 ☆いまのところ、こんな感じのブックガイドになりそうです。
2009.07.24
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ウェス・モンゴメリーのインクレディブルジャズギター、を聴いています。 トミー・フラナガン、パーシー・ヒース、アルバート・ヒースというメンバー。 いかにも簡単そうに軽々と弾いていて、実はとっても難しい事をやっている・・というのがジャズギターですが、この人は特に軽いですね。 トミー・フラナガンのピアノとの相性もいいです。
2009.07.23
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『第九軍団のワシ』ローズマリー・サトクリフ 岩波少年文庫 「ローマン・ブリテン」四部作の第一作目です。 世界史の教科書をひらくと、ローマ帝国のところでは<ローマ支配領域の拡大>という地図があり、<ローマ帝国の最大領域>が表示されています。その中に、ブリタニア、現在のイギリスが入っています。 この作品は、ローマ帝国がブリタニアを支配していた時代の一人の若者を主人公としています。名前は、マーカス・フラビウス・アクイラ。新しくブリタニアに配属される事となった軍団の大隊司令官です。ゴール地方(現在のフランス)出身の兵士たちを率いる彼には、ブリタニアの地でやり遂げたい事がありました。それは、北方で発生した反乱を鎮定するために派遣された第九ヒスパナ軍団(現在のスペイン出身の兵たちから構成されている軍団)が姿を消してしまった理由を確かめる事、指揮官であったマーカスの父がどうなったのかを知るという事でした。 赴任した彼を待っていたのは地元氏族たちの反乱でした。彼は負傷し、一命は取り留めたものの軍団で働く事は不可能な身体となってしまいました。 そんな時、近くの闘技場で催された剣闘士の試合の敗者となった若者を彼は奴隷として買う事となります。エスカという青年と彼とは奴隷と主人、ブリトン人とローマ人という垣根を越えて信頼しあう仲となります。 マーカスは、エスカの口から、第九軍団の旗印であった「ワシ」のことを聞き、さらに、その「ワシ」が北方の氏族の神殿で神としてあがめられているという噂を耳にします。 マーカスはエスカを伴ってはるか北方の地へと「ワシ」を探す旅に出ます。 二人は「ワシ」を探す事が出来るのか。二人は北方の地でどんな人たちと出逢うのか。 後半の「ワシ」探索と発見、そして「ワシ」を奪取して後の逃亡はスリルに満ちています。サスペンスとして一級品になっています。 ローマ人は支配地域に都市を建設して、闘技場や浴場を整備し、「都市生活の快適さ」を提供する事と引き換えに人々を支配します。ローマ人の真似をし、ローマの流行を追う人たちも出てきます。 しかし一方で、ローマ人による支配を嫌い、自由を求める人々は反乱に立ち上がり荒野で暮らす道を選びます。 人としての生き方について考えさせられる部分でしょう。 また壊滅した第九軍団の兵士たちは全員死んだのか?生き残った兵士たちはその後、どんな道を辿ったか。これも興味を惹かれる部分です。 軍団の生活だけではなく、北方で二人が出逢う事となる氏族たちの生活ぶりも具体的に描かれます。 この本の魅力は、描写力の確かさにありますが、それを支えているのは、作者によるローマ支配時代のブリタニアについての徹底した調査・研究である事は間違いありません。 そして、マーカス、エスカの二人の青年の描き方、二人を取り巻く人物の造形の巧みさも、この小説に深みを与えていると言えるでしょう。
2009.07.23
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夏の読書をどうするか、あれこれ考えて、歴史関係の本を読み返してみることにしました。 今年で一区切りつくことでもあり、これまでに読んできた本をまとめて紹介したいとも思っています。 実はこれまで二回、ガイドブック的なものは作った事があります。 今回はそれらをベースにしながら、新しく読んだ本、これから読む本も加えてまとめてみようかなというところであります。 まずは図書室の本を漁ってみるつもりです。 手始めに借り出したのが、サトクリフの『第九軍団のワシ』。帰る途中の電車の中で読み始めましたが、面白い。御影で一旦本を閉じてバッグの中にしまいこみました。下手すると、下りるのを忘れそうでしたので。 ローマの軍団についてしっかりと学べそうです。そして、「原住民」たちの歴史も。 「ローマ人は荒地を作り出してそこを平和と呼ぶ」『アグリコラ』タキトゥス、という見方、ローマ人は征服地に都市を建設して被征服民に都市生活の快適さを提供する事によって支配を磐石のものとした、という見方、おそらくその双方があったことと思うのですが、主人公の、マーカス・フラビウス・アクイラがどのように生きていくのか、どのような体験をするのか楽しみです。
2009.07.22
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本日は球技大会でした。昨日はバケツをひっくり返したような大雨で球技大会はあえなく中止。 生徒の中には、全身ずぶぬれで体操服に着替えて授業を受けていたものもいたくらいでした。 今日も無理だろうなと思っていたのですが、朝早くから野球部の生徒たちがグランド整備を引き受けてくれたおかげで男子のソフトボールが開催できました。女子はバスケ。 ずーっと厚い雲に覆われて風もあり、涼しかったのですが、日蝕はついに見ることができませんでした。皆無日蝕。 で、皮肉な事に日蝕が終わったころにお日様が顔を出しました。 ○日蝕の終わった頃に陽の光り まろ 明石の方では時々雲から顔を出してくれたために見れた!ということでした。 朝、テレビを見ていたら、インドの人たちと皆既日蝕のことを報じていました。 インドの人たちの間では、日蝕は不吉なもので、聖なる湖に行って沐浴し、湖のほとりで日蝕が終わるのを祈る・・んだそうですが、そのご家庭では、日蝕はテレビで見て、沐浴は家のお風呂にしたら・・という声が家族の間から上がり、お爺さんは、「変ったモンじゃ」と憮然たる顔をしておられました。 今風になっていくんですね。
2009.07.22
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NHK「マネー資本主義」を見た。昨日は最終回。 いろんな人たちがインタビューに応じていた。 今回の件について金融工学は責任はない、悪いのは人間だと言い張っている学者がいた。 規制が緩和され(と言うか、ないに等しい状況となり)、金に対する欲望が無制限に広がって行こうとする状態の下で、「リスクをコントロールしたい」「いくらでも金を儲けたい」という人間たちの欲望に奉仕するための道具を作り出してしまった責任をこの人物は感じていないようだ。 覚醒剤を打った人間に銃を渡して、殺人が起きた時に、「私には責任がない。銃を人殺しに使ったやつが悪い」と強弁するようなものではないか。 この男が想定している「人間」とはどんな人間なのか?「こんな事に使われるとは思ってもいなかった!」と驚いて見せるのなら、お前は想像力も何もない馬鹿だという事だ。 最後のほうに、ヘッジファンド世界で生きている人物が出てきて、いろんなことを言っていた。(1)資本主義は平等を作り出さない。それが作り出すのは不平等だ。平等を目指した社会主義はソ連の失敗によって間違っていた事がはっきりした。(2)規制などを一切すべきではない。すべてを市場に任せればいい。失敗したら潰れればいい。役員を解雇すればいい。破綻した企業を国有化するという社会主義のようなことをするからおかしくなる。(3)努力に応じて報酬はある。人よりいい生活がしたければ努力すればいい。 ソ連の何処が「社会主義」なのか?「うちの国は社会主義国家です」と言えば社会主義なのか?北朝鮮の正式国名「朝鮮民主主義人民共和国」をとりあげてみれば、一目瞭然ではないか?どこに「民主主義」がある?どこが「共和国」なんだ? 韓非子は、本人の言い張る事と、事実とを厳正に比べねばならないと言っている。最低限それくらいのことをしたらどうなんだ。 ソ連の崩壊を以って資本主義の優位性を主張し、アメリカを発信源とする「新自由主義「市場万能論」を金科玉条の如く信奉する。 いまや、アメリカ型の「新自由主義的市場万能論」は、都会に猛獣を放つようなものであることが事実を以って証明された。 市場は規制されねばならない。 1929年の大恐慌の悲惨さとそれが結局は第二次大戦の遠因となったこと、そしてアメリカは金融市場を規制すべく立法措置を取ったという歴史の教訓を忘れたところから今回の事態は発生している。 アメリカは二度、世界に大迷惑をかけたことになる。 この男の言っている事は、結局は、私がこれまでどおり儲けたいだけ儲ける「自由」を奪わないでくれ!と言っているだけではないか。 この男にも決定的に欠けているのが、今回の事で世界中の人々がどれほど大きな被害を受けたかという事に対する想像力だ。市場の失敗が、市場のプレーヤーだけに被害が及べばまだいい。首になればいいだろう。路頭に迷ってごみためでも漁ればいい。 規制を取り払い、暴走したマネーがどんな被害を関係ない人たちにまで与えたか、それを見ないで何を寝ぼけた事を言っているのか。 私は、この男の目の前に、今回の件で生活を破壊されて自死せざるを得なくなった貧困国の人々の死体を積み上げてやりたい。その死体の山に向かって同じことがこいつは言えるのか? そしてお決まりの努力万能論。 努力しても這い上がれない、或いは努力の途中で不運にも事故に遭遇して努力する事も出来なくなった人たちの事もこの男の頭にはないようだ。自分の今の位置がどれほどの幸運の上に成り立っているのかと言う謙虚さの欠片もない。 「新自由主義」「市場万能論」「努力がすべてを解決する」。これらすべてをゴミために放り込みたい。少なくとも、自分の中のそういった要素を叩き出したい。 番組の中で、サイバラ巨匠がいいことを言っていた。モノ作りを大切にする資本主義。 高知にいた時は、漁師さんのお金には、魚の鱗や血がついていた。 東京のビルにいる人たちってモノを作っていない人たちばかりじゃないですか。 それと、宇沢さん元気でしたね。久しぶりにお姿を拝見いたしました。
2009.07.21
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「もしも○○が××な性格なら」 ○番町皿屋敷のお菊さんがいい加減な性格の場合。 皿を数える時。 「にー、しー、ろー、はー、とお」 「おい!何をいい加減な事してんねん!」 「ええやんか、毎日数えてんねんから。ぽんぽん言わんでも。疲れてんねん、夏ばてで。」 「井戸ん中は涼しいんとちゃうんか」 「それはそうやねんけど、西瓜がちょうど冷えごろで、食べ過ぎて昨日から下してんねん・・」 ○愛妻家の竹取の翁の場合、いらちのかぐや姫の場合。 「なんか光っとるなぁ。なんだろかいな。・・・あっ、竹が光っとる。・・こら、婆さんにも見せてやらんと。」(と、翁は家に取って返して) 「婆さん、婆さんや、竹薮ん中で竹が光っとるが!」 「また、おじいさん、蛍と見間違いをしたんでしょう。今日はもう遅いから明日にしたらどうですか。ちょうど、お酒も燗がついてますし。」 「いや・・・確かに竹が光っておったんだがなぁ・・。」 「はいはい、おじいさんがそう言うのなら光っておったんでしょうが、今晩はもう遅いですから、明日の夕方に行ってみませんか?」 「ま、それもそうじゃな。・・・じゃ、婆さん、ついでくれんかな。」 「はいはい。これも召し上がれ。」 「うん、これはタケノコの煮つけじゃないか。婆さんの煮付けは美味いからなぁ。どれどれ・・・・。うまいなぁ・・・わしゃ、婆さんと一緒になってほんによかったと思っておるで。」 「まぁ、まぁ。」 翌日の夕方、二人は竹薮に行ってみました。翁が記憶を頼りに光っていた竹の場所に行ってみますと。そこには、一本の竹がまるで爆発したように途中から裂けておりました。 「こっ、これはどうしたことじゃ!」 「おじいさん、何か手紙のようなものがありますが。」 「どれどれ見せてみなさい。」 <一晩中待っていたのに。光まで出してサインを送っていたのに。待ちきれないので先に月に帰らせていただきます。かぐや> 「おじいさん、これは何?かぐやって誰なんですか?」 「????」 「昨日、どこかの若い娘と逢引の約束でもしてたんでしょう!」 「わしゃ知らん。そんな事はないで。」 「いいえ、この手紙が何よりの証拠、ワタクシ実家に帰らせていただきます。」 「おーい、ばあさーん・・・ああ、行ってしまった。・・・それにしても、なんじゃいこの手紙は・・。」 このようにして、翁は涙に暮れるのでありました。 翁は、後に自分の体験を本にして自費出版し、友人関係に配布し、ちょっとした人気者になりましたとさ。 これ以後、個人の内輪話を題材としてお話を作り上げ、仲間内だけで楽しむ事を「がくや」ということになりましたとさ。 え?「がくや」ではなくて「かぐや」? それはよくあることなんです。写して行く過程で写し間違いが発生したんでしょうね。濁点の位置が変ってしまったんですよ。
2009.07.20
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朝日新聞に、カズオ・イシグロ氏のインタビューが載っていた。記事が手元にないので記憶で書いてみる。 あなたは今からでも変化できる、と言うメッセージを現代社会は出し続けている。 そう思い続けている限り、現実の自分には向かい合えない。 そんな意味の事であったと思う。たしか、今後自分が何作くらい書けるか・・という事を語った後に出て来た言葉であったように思う。 北海道の大雪山系での遭難に関連して、近年の遭難者の大半を中高年の登山者が占めているという事を知った。 どれほど準備をしていても遭難は起こる。プロの登山家でも遭難をする。一般論としてはそうだと思う。 しかし、山に登る前に、中高年の人たちはまず自分と向き合うという事をやったのだろうか。体力の衰えという事実をまず受け入れ、それを回復すべくトレーニングを重ねて後に山に向かったのだろうか。 装備は十分であったのか。夏といえども天候が激変した時の大雪山系についての知識はあったのか。 六甲山でも遭難する人はいるのだ。 私は、アンチエイジングという言葉は、業界が中高年の購買意欲を刺激するために作り上げた言葉であると思っているので、極力、無理はしないことを心がけている。 無理をするなら、それなりの準備と覚悟は必要ではないか。 まず現実の自分に向かい合うこと。私はそれが自分の老いを受け入れる第一歩だと思っている。 今回の遭難は、様々な要素が複合して起こったと思う。費用が安価であるだけに予備日の設定のない日程。参加者の装備の点検不足。ガイドの判断ミス。 亡くなった方たちの冥福を祈りたい。同時に、私は自らの老いと向かい合う日々、この人たちのことを思い出したい。その事で亡くなった方たちの魂を鎮めたい。本当に他人事ではないのだ、私にとっては。
2009.07.20
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妻が遅くなるのでワタクシが調理担当。 いつもの、「あら、こんなところに○○が」路線。 塩鮭の切り身がある。野菜入れの中にはキューり。 鮭を焼いてほぐします。さらに冷蔵庫の中に残っていた豚のコマギレを中華鍋で炒めます(ごま油使用)。そこにウェイパー投入。ご飯を投入。鮭のほぐし身を投入。炒めます。 卵二個をぱらぱらに。これを投入。 盛り付けて、上に葱を散らします。 キューり。輪切りに。紫蘇を千切り。酢少々、塩少々、味噌少々入れてもみます。ここにしらす干を入れて混ぜます。 少し置いておいて、絞ると余分な塩分とあくが取れます。 手づかみで盛り付け。 美味しいのであります。 そこに
2009.07.18
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小耳(5) 芦屋の大丸で珈琲買ったんだけど、二百グラム下さいって言ったわけ、すると店員さんがなんて言ったと思う? •・ ・・・ 百グラムづつお包みいたしましょうか?っていうのよね。もちろん、お願いします。 すごいねぇ、さすがデパート。 珈琲買ってそんな事言ってもらった事ないもんねぇ。うーん、芦屋だわァ。百グラムづつなら古くならないしね。
2009.07.18
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このところ、毎週土曜、日曜になるとスパゲッティを作ってます。 今日の朝起きて、冷蔵庫の中を確かめて、作り始めます。 トマトとタラコがありました。 冷たいスパゲッティにしよう。 トマトとタラコ(半分くらい)と塩少々、オリーブオイルをフードプロセッサに放り込んで、ジャー・・。 ハムとソーセージを切って冷やしたスパゲッティにのせ、そこに、トマト+タラコ+塩+オリーブオイルをかけて完成。 すると娘が冷蔵庫からチーズを出してきて摩り下ろして振り掛けてくれました。 おいしさアップ。
2009.07.18
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『夢の彼方への旅』(エヴァ・イボットソン 偕成社)を読みました。 ロンドンの寄宿学校で過ごしていたマイアは、列車事故で両親をなくし、ブラジルに住む親戚のところに引き取られる事になります。 ここらへん、『小公女』の趣がありますが、マイアには両親が残してくれた財産があり、生活に困るわけではありません。 ブラジルには家庭教師のミントン先生が付き添っていく事となります。 船旅の途中でマイアは、旅の劇団と一緒になり、一座の中のクロヴィス少年と言葉を交わします。クロヴィスは、変声期に入りかけており、その事に不安を感じています。一座の出し物は『小公子』。 マイアとミントン先生はマナウスに到着します。 そこで逢う事になった親戚、カーター一家とはどんな人たちであったのか・・。ここは、『小公女』或いは『シンデレラ』の定石どおり・・と紹介しておきましょう(分かる人は分かりますよね)。 マイアは、不思議な噂を耳にします。 それは、イギリスから二人の男がやって来ていて、一人の少年を血眼になって探しているという事。 さて、その少年とは一体どんな少年なのか。ここにクロヴィスが絡んできて、『王子と乞食』さながらの展開となります。 不思議なのはミントン先生。彼女はアマゾンの人と自然に妙に詳しいのです。「これからマイアと行くところだからちゃんと調べておかなくっちゃ・・」という程度ではありません。さて、この人の正体は・・?? イギリスの児童文学の名作の骨格を巧みに取り入れ、20世紀初頭のイギリス上流階級の生活ぶりを時として風刺も交えつつ描いた名作です。 ラストですか?もちろん、「夢の彼方への旅」が始まるのです。ご心配なく。 NHKの「名曲アルバム」の最初の頃に取り上げられたと記憶しているのですが、ブラジルのマナウスには、ゴム景気に沸いた時に地元のゴム王たちによって作られた大劇場があります。パリのオペラ座を模したものだそうです。名は「アマゾネス劇場」。「今では緑のツタがからみつき、屋根でホエザルがほえている」(あとがき)という状態のようですが。
2009.07.18
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避雷針が伸びている事に気がついたのは四月の中旬だった。 停留所の前にあるマンションの上に避雷針が立っている。バス停から避雷針を仰ぎ見ると、ちょうど、電線が間に入る。 電線と避雷針の先端の位置関係が微妙にずれている事に気がついて後は、その伸び方を観察する事が楽しみになってきた。 五月の連休の前あたりであったと記憶しているのだが、伸びが止まった。 連休が明けて、バス停に立つと、避雷針の先端からやや下あたりのところに見慣れぬものがついているのが見えた。 目を凝らしてみると、双葉のようにも見える。 次の日、京都の南座で歌舞伎を観るときのために買ったオペラグラスで見てみると、確かに双葉だった。ただ、普通の双葉と違っているのは、緑色ではなくて、陽光を反射する金属の光沢を持つ双葉であった事だ。 ちょうど、雨が降り続いたこともあって、双葉は順調に成長し、六月に入ると、避雷針の先端部分に何かが芽生え始めた。 これは花が咲くかなと楽しみにしていると、蕾がきざしてきた。 ジュラルミンの輝きを持った蕾はバス停でバスを待つ人たちの間でも話題になりつつあった。 大きくなりましたね。 いつ頃咲きますかね。 七月に入るころかもしれませんね。 日ごろは何も話さずにただバスを待つ人たちの間に共通の話題ができた。 予想は当たった。 七月に入ったとき、蕾はとうとう開き、ぽん!という軽やかな音があたりに響いた。バス停に立っていた私たちは思わず顔を見合わせて、拍手をしてしまった。 あの花、いつまで持つんでしょう。 そうですねぇ、どんなもんでしょうか。 私たちの関心は、花を眺める事から、散る様子がどのようなものであるかに移っていった。 花が散った日のことは鮮明に記憶している。日記にも書いた。 七月七日、花は散った。花びらは一つ一つ風に流されていった。金属だからまっすぐ下に落ちてくるものと予想していたのだが、それは外れてしまった。 甲山から吹いてくる風に乗って、ひらひらひらひらと花びらは舞った。全部で十二枚の花びらは、ゆっくりと、海の方向へと流れていった。 見えなくなるまでだいぶ時間がかかった。 バスはその間停留所でじっと止まっていた。 きらっと最後の光りが私たちの元に届いてから、私たちはゆっくりとバスに乗り込んだ。 今日もまた暑い日になりそうだ。
2009.07.17
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『路上のヒーローたち』(エリザベス・レアード 評論社)を読んだ。 舞台はエチオピアの首都アジスアベバ。父と母を失ってしまった姉と弟。姉が働きにいっている間にぶらりとやってきた男はお母さんの兄貴と名乗り、いい働き口があると少年を連れ出す。男は少年をアジスアベバ(以下「アジス」と略)から遠く離れたところにある農家に売りつける。 少年は酷使され、身の不運を歎くが、同時に人の温かさにも触れる。 少年は逃走を計り、親切なトラック運転手の助けを借りてアジスに帰る。 しかし、そこには姉の姿はなかった。姉は雇い主に従ってアジスから離れたところに行ってしまっていた。行方不明となった弟の事を心配しながら。 少年は、路上で生きていくしか道はないと悟る。 彼は、路上で暮らす少年たちの集団の中に入り込む。 そこへ、一見して金持ちのお坊ちゃま然とした少年が仲間に加わる。彼は、父親との対立から家出を敢行しては見たものの途方に暮れていた。見つからないように、連れ戻されないようにとおどおどしていた少年は、路上で寝るハメになる。 お坊ちゃまのダニ、姉とはぐれて一人で路上で暮らさざるを得なくなったマモ、この二人の少年が軸となって物語りは進む。 作者のエリザベス・レアードは、エチオピアをくまなく旅し、アジスアベバのストリートチルドレンたちとも友達になり、多くの話を聞いたという。 こんなエピソードがある。 路上生活を送る少年たちの一人(カラテ)が病気がひどくなり、仲間が病院に連れて行く。カラテはそのまま入院させられるが、仲間との生活を恋しがり、仲間も彼を「救出」に行く。 ダニは言う。 重病なんだ、もう一度入院させなくちゃ。 マモは言う。 どうしてそんなこと言うの?カラテが病院でどんなにみじめだったか、見ただろ?おれたちと、ここにいた方がずっと良いんだよ。 ダニ。 でも、ぼくたち、薬も注射もなんにも持ってないだろ。体も冷えきっちゃうよ。どうしようもないだろ。 マモ。 あんなとこにカラテを置いとくなんてできなかったんだもん。 ダニ。 いい病院だったのに。病院はみんなあんなもの。めんどうだけはちゃんと見てくれる。 マモ。 自分のことをちゃんと分かってくれる人のそばにいたいよ。治療よりそっちの方が大事だろう。 カラテは、ダニの「お話」を楽しそうに目を輝かせて聞き入る。そして、朝になったら死んでいた。 グループのリーダーのミリオンはカラテの小さな体を抱きしめて泣く。みんな泣いた。 考え込まされた。 ダニはお話をノートのきれっぱしに書き、それを売る事を思いつく。マモはそれを楽しんでやってのける。 そしてその事がきっかけとなって物語は大団円を迎える。 今読んでいる本は、アマゾンを舞台とした『夢の彼方への旅』なのですが、司書のAさんと、「本で辿る世界」というリストを作ってみてもいいね、と相談しています。
2009.07.16
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朝の打ち合わせが終わってから、流しのところにいって、アルミの急須の中にお茶を入れ、水道の水を入れました。少し振ってから、スターバックスで買った蓋つきのコップ(「タンブラー」というのだそうです)に注ぎます。 その時に、急須自体をわしづかみにしていたら、後ろの方からびっくりした声。 熱くないんかいな! いや、これ水やねん。 えー、なんやぁ、てっきりお茶やと思ってた。ホンマに年取ったら手の皮も厚くなるんやなぁ・・おもっとったんや。 し、失礼な。 というような会話があったのですが、これが「思い込み」というものなんでしょうね。急須=熱いお茶、という等式が私たちの頭の中にはあり、急須をつかんでる=手がやけどするほど熱いor手の皮が無茶苦茶厚い、という思考になってしまうようです。。 手品とか、「超能力」ってこんな事がベースになっているんでしょうね。
2009.07.16
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図書館ニュースに、「音楽と朗読の会をしようと思っています。どなたでも」と記事を載せました。 さっそく申し込みが。S先生が、「私も参加させていただいて良いでしょうか?」「当然、もちろんです。・・ところで、楽器はなんでしょうか?」「ビオラです。」「ああ、バイオリンと大きなやつですね。」「そうです。アルトにあたるのかな。」「O先生とのペアなんかどうですか?」「O先生、何か楽器をされるんですか?」「いや、朗読をどうかと思いまして。」「いいですねぇ。」 なんて話になりました。職員の中にはフルートを吹ける人もいます。聞くところによると、クラシックギターを弾ける方もいらっしゃるとか。 何かやろうとすると、いろんな情報が集まるもんです。
2009.07.15
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都議選の結果が出、麻生首相が解散を予告しました。8月30日の投票。 今の情勢のままで選挙戦に突入すれば、間違いなく政権交代が起きるでしょう。しかし、成立するであろう民主党を中心とした政権(自民からの離党組も含めて)は、やはり寄り合い所帯であり、小泉政権と同じようなバブル要素を抱えている事になります。スキャンダルも出てくるかもしれません。 国民の側が性急に「結果を出す事」を求め、民主バブルがはじけ、マスコミが面白おかしくスキャンダルを報じるようになった時にどうするか。 そこで、私たち国民=有権者の正念場が来るように思います。 私たちが依然として「劇場の聴衆」の立場でいるのなら、白馬に乗って助けに来てくれる王子様を待望し続けるのであれば、政治に絶望し、「俺について来い!」型の強権的な指導者が国民を引っ張ることになるかもしれません。 そうなるとまさしく、「英雄を必要とする国が不幸なのだ」というブレヒトの言葉(『ガリレオの生涯』)が再び繰り返されることになるかもしれません。戦前の日本、或いはドイツの歴史は私たちにとっての最大の教訓のはずです。 そうならないためにはどうすればいいか。私は、火中の栗を自ら拾うしかないと思っています。自分の出来る範囲での政治参加を息長く行う。ぶれる事もあるし、止めたくなる事もあるかもしれないけれど、時々休んでまた歩き出す。 私はそうしてみようと思っています。 少なくとも私は、自らが主権者である事を忘れた時に悲観的になる、引きこもりがちになるようですから、これは自らへのメッセージです。私は穴から這い出さなければならない。 ここ数日、いろんな方のサイトを覗かせていただき、書き込みをし、コメントをいただきました。以上に書いたことは、その結果、私が考えるようになった事です。 様々な方たちに感謝いたします。 ※「風のまろ三郎」です。家にやってきたころのまろです。
2009.07.14
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朝、図書室の窓をあけると、近くの小学校から子どもたちの元気な声が聞こえてきます。 みんなで本を読んでいるのです。 「雨ニモマケズ」が大きな元気な声で風に乗って流れてきます。 司書のAさんと顔を見合わせて苦笑するのです。 元気な詩じゃないんですよね。 賢治は確かもう死にかけですよね。 手帳に書かれてて。 長岡輝子さんの朗読で聞いたことがあります。よかったなぁ。 でも、小学生だからいいか・・・ってなもんやね。 小学生は元気でなくっちゃ。 これは、こんな詩なんだよ・・って教わって、そうなんだ!ってびっくりする・・というのもアリやからね。
2009.07.13
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今日行きました、伊丹アイフォニックホールの近くのお店の前に立っていました。 どういう人が立てたかまるわかり。うーん、そうなんだ。
2009.07.12
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今日は知人の紹介でクラシックのコンサートに久しぶりに行ってきました。 知人は「かぶとやま交響楽団」の団員であります。 会場は、伊丹アイフォニックホール。 演目は、フィガロの結婚序曲(モーツァルト)。ロンドン(ハイドン)。英雄(ベートーヴェン)。 そんなに大きくないホールですが音響は凄くいいなと思いました。 管の聴かせどころがあったりして、知人のソロのパートが来たりすると心のなかで拍手を送ったりしてました。 最近ジャズをよく聴いているせいでしょうか、舞台左端のコントラバスの音が心地よく響いてきます。 それにしても、生はいいですね。 CDを否定するわけではありませんが、生には生のよさがあります。 バイオリンの切れがいいなと感心したり、チェロとコントラバスの重低音が身体全体に響いてきたりと、舞台の上と観客席との一体感がたまりません。 曲が始まる前に第一バイオリンが立ち上がって音を出し、みんなで合わせる、というのは見たことがあるのですが、オーボエで合わせる(「ロンドン」)のは初めて見ました。いかに初心者であるかがまる分かりですが。 終わって後、知人が出てくるのを待っていたのですが、知人が勤務している学校の教員の方、生徒さんたちが知人が出て来た途端に駆け寄って声をかけ,彼女もそれに笑顔で応えていたのが素敵な光景でした。 私も声をかけると、生徒さんを紹介していただき、握手して別れました。 次の定期演奏会も行きたくなりました。
2009.07.12
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ジョン・リーさんのお薦めに従って「トミー・フラナガン・トリオ」のCDを聴きました。 落ちついた、しっとりとした感じです。 パソコンに向かいながら横で流しているととてもしっくりきます。 有難うございました。
2009.07.12
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アメリカのオバマ大統領が、「核兵器のない世界を」などという事を言って世界を廻っている。そんな事を目指していいのか。特にわが国の近くには将軍様に率いられる国がある。テレビで紹介されるその国の様子を見ていると、戦中のわが国の事を思い出してしまう。 張子の虎の如き大言壮語、そして夜郎自大、何から何までそっくりである。国民には真実は知らされず、常に「大本営発表」であった。国民の命はまさに鴻毛より軽く、指導者の命は泰山より重かった。 「一億玉砕」を呼号した右翼の連中は生き残った。 「死して虜囚の辱めをうけるなかれ」と説いた人物は自決に失敗した。 わが国があの時正気を失っていた事は体験者にはよくわかることだ。 私は好戦的な言辞を弄する40代以上を一切信用しない。 そのような連中は若者を煽るだけ煽っておいて自分は生き残るに決まっている。これは歴史の教訓だ。 過去の日本と同じような危険な国が隣にあって、そして核を保有している状態で本当にアメリカは核を減らそうとするのか。 私はこの際、断固、新しい提案をしたい。 それは、「一家に一個の核爆弾」ということである。 私たちは自分の命と暮らしを自分で守らねばならない。日本も核武装をなどと言っている御仁がいるが、アホかと思う。もう国なんか信用できるか!馬鹿モンが。また騙されるのに決まっとる。 イラン、将軍さまの国からも原材料は流れ始めている。ソ連が崩壊した時に大量の原材料が奪取され、闇市場に流れた。今にネットのサイトで販売が始まる事は必至である。 私の学友はMITで学び、卒論で「核爆弾の簡単な作り方」を書いた。 それから40数年が経ち、彼の近著は、「誰でも作れる核爆弾」である。最初の文章を引用したい。 核爆弾は誰でも作れる。ONとOFFが区別できて、コンセントにコード゙が差し込めれば誰でも作れる。居間の片隅、台所、納屋の中に眠っている「あれ」によって核爆弾は作れるのだ。 さぁ、みんなで作ってみよう! この本の末尾には「核爆弾作りのレシピ」が掲載されている。この部分だけは袋とじになっている。「袋とじ」・・・懐かしい響きだ。・・誤解しないで欲しい。これは「そのような」本ではない。「ああいった」本でもない。「こういった」本なのだ。 今、この本を買うと、もれなく桐の箪笥がついてくる。箪笥の中には○○が入っている。先着5億人様に限り△□も着いてくる。 さぁ、みんなで作ってみよう、核爆弾。「一家に一個の核爆弾」!Yeah!
2009.07.12
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小耳(4) いろんなサイト ほら、いろんな動物のサイトてあるやん。猫とか犬とか。 でな、亀のサイトなんかあるんかな思て、検索してみたら、これがあるんや。「亀人」って書いてあって、「かめんちゅ」って書いてあったわ。 他にどんなんがあるかな思て、「蛇」で検索したらあった。ま、ここらへんまでは普通やな。 で、次に「ダンゴムシ」で検索したらやっぱりあるんや、これが。動画つき。ダンゴムシひっくり返して、起き直ろうとしとる映像なんやけど、腹筋しとるようやねん。これは笑えるで。 ホンマにいろんな同好の士がおるもんやねぇ。
2009.07.12
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小耳(3) 亀の恩返し うちに亀がいるんですよ。もらったときは、ホントに小さくて、くれた人も、大きくならへんから、言うてくれはったんです。でも、亀のことに詳しい人に訊ねると、それはミシシッピアカミミガメいうて、30cmくらいになるで、言われて、ホントに今30cmくらいになってます。甲長(こうちょう)言うんですて。ほら、甲羅の縦の長さ。横とちゃいますよ。 大きさに応じて入れ物変えたり、世話するのは私だけなので、亀のほうもよく知っているんですね。 亀飼ってみてはじめて知ったんですが、のろのろどころか、ものすごく速く動くんですよ、特に餌が欲しい時なんか。 少し前に、熱が出た時があったんです。亀じゃなくて、私が。その時に、亀にむかって言ったんですよ。 あのな、あんたの事を世話しとるのは私だけやねん。竜宮城に連れて行ってくれとは言わん、せめて悪いなぁと、世話になっとるなぁと思ったら、私の熱下げてくれへんか。 次の日、熱が下がってましたわ。
2009.07.11
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『ヒットラーのカナリヤ』(サンディー・トクスヴィグ 小峰書店)を読みました。 西宮市立図書館の上ヶ原分館が近くにあってよくそこに行くのですが、児童書のコーナーにおいてあった本です。 以前にも『兵士ピースフル』が置いてあり、借りて読んで感想を書きました。 今回もアタリでした。いい本が置いてあるのは助かります。 デンマークにおける反ナチスの活動を描いた児童文学です。 なんともうかつであったのは、デンマークという国がどのような反ナチ活動を行ってきたかについて積極的に調べてみようとしてこなかった事です。 その焦点は、ナチスドイツによって占領された祖国を救おうというレジスタンスにあるのですが、その活動の重要な部分をなしていたのが、国内のユダヤ人たちをスウェーデンへ無事に逃すという取り組みです。 物語は、少年の視点で語られます。お父さんは画家、お母さんは有名な女優、お姉さん、お兄さん、五人家族です。 お父さんは分別ある大人として、抵抗の不可能さを説き聞かせようとしますが、お兄さんは正義感、そして祖国愛から納得はしません。そのうち、お姉さんはドイツ人の兵士と恋をするようになります。 「ぼく」にはユダヤ人の友人がいます。 占領され、目覚しい抵抗も行わないデンマークは他国から「ヒットラーのカナリヤ」と侮蔑され、お兄さんは抵抗運動に身を投じ、「ぼく」もまずできる事から始めようとします。 そんな一家のところへ、伯父さん(お父さんの兄)がやってきます。ユダヤ人は追い出さねばならないと主張し、ナチに対して親近感を持つ伯父さんは煙たい存在ですが、お父さんにとっては大切なお兄さんでした。 状況はきびしさを増し、お父さんも伯父さんも今までのようなわけには行かなくなります。もちろんお姉さんも。 みんながそれぞれのやり方で変っていきます。この変り方が物語の緊迫感を強めます。 そしてクライマックス。家にユダヤ人狩りのグループが踏み込んでくるという情報が入ります。知人のユダヤ人数人をかくまっていた一家はどうやってこの危機を切り抜けるのか。女優のお母さんの大活躍が始まります。 デンマークはヨーロッパ諸国のなかで最も早くユダヤ人もデンマーク人と平等と宣言した国です(知らなかった!)。 デンマークという小国での知力を尽くしての抵抗運動の様々が紹介されます。それは、デンマーク人が誇りとしていることに依拠して進められます。 最後に、この本の最後に書いてあることを少しばかり紹介します。 7220人のデンマーク系ユダヤ人、そして680人の非ユダヤ人をスウェーデンに移送するために300隻あまりの漁船が使われた。 1944年には、デンマークの警官隊全員が逮捕され、デンマーク警察はデンマークのヒルフスポリツァィ、そして、ナチスの非常に攻撃的な補助部隊であるHIPOに取って代わられた。デンマークの警官の多くはダッカウ(ダッハウ)やブッケンバール(ブーヘンバルト)などの強制収容所に連行された。 悲しい事に、最も反ユダヤ人運動に熱心だったのは、占領軍に対して手を貸す立場にあったデンマークのナチスだった。 自分の国の暗部にもきちんと眼をむける強さ。そんな強さの欠片もない人たちが、NHKの「JAPANデビュー」にイチャモンをつけています。酔態を晒して世界に日本の恥をばらまいた中川などを担いで。
2009.07.11
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○「拙速動物」 やる事は手早いけれど結構ずさんな仕上がりとなりがちな人。 ○「牡蠣休暇」 鳥取県産の夏牡蠣を食べるために取る休暇の事。
2009.07.10
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小耳(2)<cigarett> 外国人の先生が英語を教えるという授業があって、英語の先生たちも何人か来てた時の事。どういうつながりだったか知らないんだけれど、その人が、生徒に向かって、 Have you any cigarett?って訊ねたんだって。するとある生徒が、 Yes アイ have.って答えたわけ。するとその外人の先生が、 Show me please.ってさらに言った。するとその生徒は、内ポケットからタバコを出してきて、机の上に、ばしっ!と置いたんだって。 ある生徒の感想。「捨て身のギャグやなぁ」 ある教師の感想。「あいつが英語が分かるとは思わんかった。」 すったもんだの末にその生徒は家庭謹慎になったそうです。
2009.07.10
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これで完璧、と思ったんです。 視力検査が始まったんです。意気揚々とラインにたって、あのしゃもじみたいなものを眼に当てたんですが、先生が棒で何処を指しているかが見えないわけですよ。 折角全部憶えたのに・・・。 見えないんです・・と言うと、前に進みなさい、と言われてあとは例年通り。 あんなにがっくりきた事はないですね。
2009.07.10
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私、視力が0,1ないんですよ。 高校の時、視力検査をする時って、黒板に検査票を貼って、一番上が見えない人は前に進ませられて、「はい、○○」って言われるんです。 それが凄くいやで、一番上だけでも憶えて、見えた振りしてやろうと思ったんです。 で、検査が始まる前に検査票の傍まで行って憶えて、これで完璧だ!と心のなかでガッツポーズしたんですよ。 ところが・・・検査が始まったら、意外なところに落とし穴があったんです。 Qさて、その「意外なところに落とし穴」とは? 「正解」は、明日!皆さん考えてみてください。
2009.07.09
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図書室で読書講座を開きました。 私は今年が初めてですから、司書のAさんにすべて取り仕切っていただきました。 図書室の資料を使って疑問を解いていく「レファレンス」を軸として、ゲーム形式で早さを競います。 縦に五つ、横に五つ、合計二十五の問題をプリントし、縦・横・斜め五つの問題が解ければビンゴ!で、賞品を差し上げます、という企画です。 たとえば、「『吾輩は猫である』の猫の名前は?」という問題。これは、「名前はまだない」という解答と、出典(『吾輩は猫である』)を示さねばなりません。 図書委員長たちが問題を作ってくれたのですが、足りなくなり、司書のAさんと私で追加問題を作成。私は、「兵庫県の最低賃金はいくら?」という問題を作ろうとしたのですが、図書が見つかりません。労働法関係の図書で新しいものがないことが判明しました。 この取り組みは、今の図書室でどの分野が弱いか、ということもはっきりさせてくれました。 失敗もありました。「兜の前立てに『愛』の字を使っていた武将は?」という問題、当然あるものと出題したのですがありません。日本史関係、戦国時代の本も当たってみたのですが出てきません。直江兼続当人についての記述は結構あるのですが、肝心の「愛」がみつかりませんでした。やはり「当然あるだろう」という思い込みは危険だという事が判明いたしました。 秋になったらまた企画を考えようと思っています。 ひとつは、「猫展」に続く、図書の企画。 もうひとつは朗読と楽器演奏の組み合わせ。フルート、ギター、ピアノなんかどうかな・・なんて考えています。音楽の人とラーメン食べながら相談したのですが、乗り気。実現したいです。
2009.07.09
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何がきっかけになったのか憶えていないのですが、司書の方から、川上弘美さんの「蛇を踏む」が面白かったという話を聞きました。 図書室には「蛇を踏む」はなかったので、『センセイの鞄』を借りて読みました。 司書の方は、柄本明と小泉今日子でドラマになっていて、ホントにぴったりだった、と話しておられました。 読んでいくうちにその事に深く納得、川上さんは、柄本明を頭において書いたのではないかと(アテ書というヤツですね)おもったくらい。 文章も、設定もまったく違和感がありません。すんなりと小説の虚構の世界に入っていけました。使われている日本語にも感心するばかり。 お酒が呑めない私はほろ酔い加減で読み進みました。読み終えて、胸がきゅっとなり、切ない思いとなりました。 私は、センセイでも、月子さんでもない第三者として読み進んできて、最後の瞬間に月子さんになってしまいました。 還暦一歩手前の男の胸をきゅっとさせるとはたいしたものです。 日本語の達人だなと思いました。 これについては異論のある方もいらっしゃる事と思いますが、私はそう思いました。これは私の価値観であり、同時に私の偏見でもあります。 小説の好みなども個々人の価値観(私に言わせれば偏見)ではないかと思うのです。 このブログでは、私が読んで良かったと思う本を紹介しています。時間の無駄であったという本のことは書いていませんし、強い違和感を感じた本も取り上げません。世の中には、悪書を斬る!という人もいらっしゃいますが、私は、その本を読むことで時間を無駄に費やし、嫌な気分になり、同時に雑感を書き付けてさらに時間を浪費してしまうという結果にだけは陥りたくないのです。 できれば、いい本(私にとっての)ばかり読んで暮らしたいのですが、まだ修行が足りず中々そうは行きません。 話を元に戻します。 書店で「蛇を踏む」(文春文庫)を見つけて買い込み、電車の中で読みました。不思議な作品です。 「あとがき」のなかで、川上さんは、「うそばなし」と自らの小説を称していらっしゃいます。この姿勢が好きです。 ディネーセンの「アウト・オブ・アフリカ」を映画にした「愛と悲しみの果て」のなかで、メリル・ストリープが、ロバート・レッドフォードともう一人の男性に暖炉の近くで「お話」を語るシーンがあったと思います。 私もあんな「お話」が大好きなのです。 自分の読みたい日本語で書かれた小説をこれからも読みたいものだと思っています。
2009.07.08
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今日は、西宮から社(「やしろ」と読みます)へ出張。中国縦貫を使ったら一時間ちょっとで着いてしまった。 まさかそんなことになると思っていなかったので、CD三枚を持って車に乗り込む。 バド・パウエルの「ザ・シーン・チェンジズ」(「クレオパトラの夢」が入っているCD)、マイルスの「死刑台のエレベーター」「マイファニーバレンタイン」。全部ディスクに録音する。 カーナビで目的地を設定すると、一時間ちょっとで着きます、と表示される。そんな馬鹿な・・と思いつつ走ると、ホントに一時間ちょっとで着いてしまった。 偉いもんである。原理は全然分からない。なかに小人が入っているわけでもあるまいに。こういう時に昔の人は、「キリシタンバテレンの魔法」(いつの話だ)と言ったんだと思う。 なんでこうなるのかわからない・・という事どもに私は取り囲まれている。分からなくても良いんじゃないかと思いつつも、お尻のあたりがこそばゆくなってくる。
2009.07.07
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兵庫県知事選挙は昨日、投開票が行われました。 現職知事に自民・公明・民主・社民の相乗りというちょっと考えられないような構図で選挙が行われ、対立候補は一人だけでした。政党として支持したのは共産党のみ。 「憲法を県政に生かす会」の代表幹事の田中耕太郎という人物なのですが、この男の結婚式の司会をやった縁で私たち夫婦が結婚してしまったというなんとも恩人といっていいのか、お前が結婚さえしなければ・・・と言えばいいのか、複雑な心境を抱かざるを得ない男です。 彼は大学を卒業して後はずっと中小業者の人たちの営業と生活を守る「民主商工会」に勤務して働いてきました。 知事候補になってのちは、兵庫県下を駆け巡り、真っ黒に日焼けして政策を訴えました。兵庫県政の無駄遣いと福祉切捨てを徹底的に批判しました。 私たち夫婦は、駅頭での演説を聞いたり、個人演説会に出席したり、事務所にビタミン剤を差し入れたりしたのですが、耕太郎は、ホントに切実な声を聞いたようです。 兵庫県政から切り捨てられた人たちは、訴える場所さえ奪われています。手を握られて、何度も何度も、拝むように頼まれたそうです。それを背負って還暦をものともせずに頑張りぬきました。 ああ、こいつと友達でいてよかったと思いました。 大差でしたが、彼に投票してくださった方たちは49万2140人いらっしゃいました。そのことを考えると胸が熱くなります。 兵庫県知事の友達になりそこないました。
2009.07.06
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昨日NHKを見ていて、驚いたのが、この「ピラミッドの作り方」。長大な傾斜路を作って石を運び上げ、一定程度の高さになったら、周囲をぐるりと取り巻くような傾斜路を作って、石を運び上げる。 岩波から出ていたデビット・マコーレーの『ピラミッド』も確かこの説で書かれていたと思います。 これが通説であったと思っていたのですが、昨夜の番組では、それではピラミッドの稜線が見えなくなり、常に傾斜角度を確かめながら石を積み上げねばならなかったはずだから、この工法は不適当として、「内部トンネル説」が紹介されていました。 ピラミッドの内部にらせん状の内部トンネルを作り、そこを通路として石を運び上げた、という仮説です。 そんな事ができるのか?と眉につばをつけながら見ていたのですが、精密な重力の調査や現在も残っている穴の痕跡から、十分に考慮に値する説である事が証明されていきます。 ピラミッドをどうやって作ったかについての文献はまだ発見されていません。 有名なヘロドトスの『歴史』も、ピラミッドが建造されて五百年経ってから書かれた本です。 結局は、まだ知られていないピラミッドの内部構造がはっきりして後に確定される事でしょうが、新しい事を知ることは楽しい事です。
2009.07.06
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月見山で私の右隣の席が空いた。そこに、顔に傷があって、スキンヘッドの男が乗ってきて座った。そこで立てば良かったのだけれど、立ち時を失ってそのまま。 男はポケットから携帯を出して大きな声で話始めた。 周りの人はみんな下を向いたり、窓の外を見始めた。私はもちろん寝たふりをした。 長い長い時間に感じていたのに、本当は三十秒ぐらいしか経っていなかったようだ。 私の左隣にお孫さんだろうか、小学校の低学年くらいの女の子と一緒に座っていた老婦人が立ち上がってその男の前に立ち、じっとその男の顔を見つめていたかと思うと、いきなり男の頭を右手で、ぺちっ!という感じで叩いた。 周りにいた私たちは目を見張ったが、一番驚いたのはその男で、何が起こったのか一瞬あっけにとられ、次に眼をむいて、どなった。 なにすんねん!ばばあ!! 老婦人は、ニコニコしながら言った。 けんちゃん、けんちゃんだ。 男はぽかーんと口をあけ、つぎに眉の間に皺をよせて老婦人の顔をしげしげと見つめた。 たみこ先生! 老婦人は言った。 けんちゃん、だめよ、電車の中で大きな声で電話したら。 彼女は車内を見回して言った。皆さん迷惑だったでしょう。許してやってくださいね。 私は慌てて老婦人が座っていた方へずれた。彼女は、軽く会釈をすると少女と一緒に腰を下ろし、男に穏やかな視線を向けた。 変ってないわねあなた。声の大きさも、他人様に迷惑をかけても平気なところも。でも、だめよ、そんな事してるとみんなから嫌われるから。 男は、大きな身体をこれ以上ないくらいにすくめて、真っ赤な顔になった。 少女が男の前に立った。 おじちゃん、電車の中で大きな声でお話しちゃだめなのよ。 ダメをおされた男はさらに小さくなった。 老婦人は男の耳元に何事かをささやいた。 その度に男は何度も何度も頭を下げていた。 電車が須磨に着き、二人は下りて行った。 老婦人と少女は男の方に向かって手を振り、男もまた満面の笑みで手を振りかえした。 私と男との間には空席ができたが、もちろん誰も座ろうとしなかった。また私は立つ機会を失ってしまった。 そのうち、低い声が男の方から聞こえてきた。最初はなんだか分からなかった。 男は泣いていた。徐々にそれは、号泣といっていい状態になり、涙は男の手の甲をぬらしていた。左手の小指がなかった。
2009.07.05
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電車に乗りこんで気がついた。ぐるっと見回してみると帽子を被っている人が全部で七人いる。全部男性。前につばのついたアポロキャップみたいなもの、野球帽みたいなもの。そして鳥打帽のような形のもの。 私の座っているところから少しだけ離れた席に座っていた男性は、まるでアンデス山脈のインカの末裔のようなニットの帽子を被っていた。耳のところもすっぽりと覆われている。頭の天辺の部分から同心円状にカラフルな毛糸で編んである。 思わず見とれてしまった。 しばらく見ていると、だんだんと別のものに見えてきた。 ダーツの的みたいに見えてきた。ああ、そうだ、見たことあるぞ。 ポケットの中に都合よくダーツが入っているわけもないし、入っていたとしても投げるわけにはいかない。外れたら外れたで、当たったら当たったでえらいことになるのは目に見えている。 新聞にも出るだろうな。 兵庫県立○○高校教諭、車中で乗客の頭にダーツを投げる。 そんな事をする人には見えなかった、という声が載ればいいけれど、いつかやると思っていたけれどやっぱり・・なんて職場の同僚の声なんかが載ったら相当落ち込みそうだ。 仕方がないから、投げてるつもり、で時間を過ごす事にした。 ダーツは実際に投げてみた事もあるけれど、そんなに簡単なものではなかった。狙ったところに当てるなんて簡単だと心中思っていたのだが、そうはいかなかった。見ていた人に当ててしまったというほどひどくはなかったものの、的に当てるだけで精一杯だった事を思い出す。 心のなかで慎重に狙いを定める。ダーツを持ち直す。 的をしっかり見つめ、ダーツを持った手を軽く振る。 なんでもない感じで第一投。 外れた。 気を取り直して、ダーツの重さを確かめ、一度片目をつむり、距離を確かめて、指先に神経を集中する。 ダーツは一直線に的に向って飛んで行き、インカ帽(勝手に命名)のまん中に突き刺さった。 心のなかでガッツポーズをする。 すると、インカ帽の青年は、帽子を脱ぎだした。一度脱いで、何かを確かめるようにてっぺん辺りを見て、一、二度首をコキコキしてから、また帽子を被りなおした。 やった・・と、思っていたら、私のつむじの辺りがピリッときた。おかしいなと振り返ってみたら、二つほど後ろの席に座っている小学生くらいの子と眼があった。その子はすぐに眼をそらしたから、何をやっていたかよくわかって、一人でクックッと笑ってしまった。 笑っているうちに駅に着いた。
2009.07.04
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性善説、性悪説の意見をもうひとつのクラスで書いてもらい、出てきた意見をピックアップして説明を加えました。 どちらでもないA人間は、「悪」でもあり「善」でもある。なぜなら人間は一まとまりの塊ではなくて、みんなそれぞれの心を持って生まれてくるから。 さて、これやけれど、これは、人間みたいに数が多い集団を、「人間は○○や!」いうて括れるか・・いう問題やね。 たとえば、「男はみんな狼よ」とかって言うやん。ホンマにそうやろか?そんな風になれへんような男の子もいそうやし。 また、「女はみんな嫉妬深い」とか言うけれど、「私そんなんちゃうで」いう人もおりそうやな。 この教室に30人ちょっとおるけど、みんな顔も違うし、育ち方も違うし、趣味も違うし、違うところっていっぱいあるやんか。それが「個性」やな。 ただ、みんな違う・・というだけで話がすむか・・やな。違うところいっぱいあるけれど、それでも人間全部に共通するような性質ってないんやろか? この問題はいろんな地域と時代で古くから考えられてきた問題なんやね。 たとえば、ギリシャのアリストテレスいう人は、「人間は社会的動物」って言ってる。 集団を作って生活しとるいうことかな。 人間はひとりでは生活でけへん。衣・食・住、考えたら分かるわな。きみ等が着てる服、きみ等が作ったものとちゃうやん。朝食べてきた食事、昼の食事、誰かが作ってくれたモンや。家も誰かに建ててもろとる。ここまでは、物質面のことやけど、心の問題はどないやろ? 生き物の中には、単独で生活してます・・いうヤツも結構おるけれど、人間のご先祖様はサルやね。サルは集団で生活しとる。 もちろん、ぼく等は生活していて一人になりたい時ってあるわな。自分の部屋持ちたいな・・とかさ。 でも、ずーっと一人でええ、友達も家族もなんもいらん!言うて、ずっといけるかどうかやわな。寂しなるんとちゃうかな。では、なんで寂しなるかや。単独で生活しとるようなヤツは寂しくなることはないやろね。でも、人間は寂しくなる。友達と、家族と心が通っていたら、わかってもらったりしたら嬉しいやんか。逆に理解してもらわれへんかったりしたら落ち込むわな。これって、人間が集団で生活する生き物やからやんか。 人間はなるほど様々や。個性がある。でも、人間すべてに共通する性質は確かにありそうやね。・・・どんなモンがある?(紙配布 回収) ウンチやオシッコする。欲望がある。種を残そうとする。腹が減る。 なるほど。案外色々ありそうやな。 B人間が生きていくのに善も悪もない。 さて、次はこれ。「生きていくのに善も悪もない」。ちょっとカッコええやんか。 これは、「悪ってなんや?」「善ってなんや?」ということやな。これはそんなに単純に決められる事とちゃうねん。 これは、「基準」の問題になる。 たとえば、腹が減って飢え死にしそうな時に、気がついたら隣に握り飯持った子どもがいる、とする。この時にどんな基準を立てるか? 「どんな事があっても人のモノを盗んだらアカン」いう基準を立てたら、下手したら飢え死にせなあかんかもしれん。 「生きる事がすべてや」いう基準立てたら、子どもシバキ倒して握り飯盗って食うのが正しい、いうことになる。その事で子どもが死んでもそれはしゃあない・・・いうことやね。 今の日本みたいに食べるものが結構あって・・いう時代ではなくて、戦争が続いたり、食糧が無くなって餓死したり、いうのが普通、いうような時代もあったわけ。 そんな時代に、親鸞いう人がおって、生きるために人の握り飯盗ったり、人を殺したりせなあかんかった人ほど、救いを求めるもんや・・言うてんねん。 「生きてくためにはしゃあなかったんや!」と自分に言い訳して、自分がそれに納得できるか・・いうことやな。 殺さなんだら自分が死んどる、しゃあないやんか!言うたら、そらしゃあないわな・・いうてくれる人もおるかもしれん。でも、自分の気持はごまかせん、いうやんか。自分はホンマに納得できるんか・・いうことやねんな。しゃあないやんか!で突っ張れるんかいうことや。 墨子いう人がおって、こんな事言うとる。 果樹園に忍び込んで果物を盗もうとしたヤツが捕まえられて、罰を受けました。 夜道を歩いていた人を殺して荷物を奪った犯人は捕まって死刑になりました。こんな事はよく起こる事ですから皆さんご存知でしょう。 でも・・・言うて、墨子は、「人を殺しても罪にならない場合があるんです」と言い出す。 墨子がどんな事言ったかはあとで説明するとして、考えてみよか。(紙配布 回収) 戦争 精神的におかしいとき 死刑 正当防衛 色々あるね。精神的におかしくなっていて責任能力がないと判断されたら罪に問われないケースは確かにある。 死刑。死刑を執行する人の場合やね。刑務所に勤務している人。死刑に反対する人の中には、たとえ仕事であっても結果として他人を殺すことになる人が出てくる死刑には反対、と言っている人がある。 正当防衛。これは、殺さなかったら殺されとる・・という事が証明できるかどうかやな。 戦争。戦争で、敵兵を撃ち殺して一々「殺人犯や!」いうことになっとったら戦争できひんわな。戦争で敵を殺してもいい、罪には問わない、いうのを「交戦権」いうんやね。日本は憲法第九条第二項でこれを禁止している。だから、自衛隊がイラクに派遣された時に、これが問題になった。敵です、殺しました、ハイ、オッケー・・ではすまないわけ。もしも不幸にして発砲して相手が死んだ時には、本当に仕方なかったのか、正当防衛だったのか、という事が徹底的に調べられたやろね。 それに、もしも正当防衛でした、いうことになっても、人を殺してしまった・・・いう気持はその人の中に残ってしまう。ホンマにそんなことにならんでよかったな、思うわ。 墨子は、戦争では敵国の人をたくさん殺したり、敵国の人の家からいろんなものをかっぱらったら誉められる。これって、おかしくない?言うとるわけ。どこがちゃうんや、同じ人殺しやんか!いうわけやね。 戦争だけなんで特別扱いするんや、いう指摘は、今でも考えアカン事やろね。 人を殺してしまったいう事を一生抱えていく。人間をそんな目にあわせたらアカンやろ、いうことにもなるね。
2009.07.03
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最近よく聴く曲が、「Cleopatra's dream」。「クレオパトラの夢」。バド・パウエルの1958年のレコードに収録されている作品です。 ジャズの曲のタイトルは洒落たものが多いなと思うのですが、これなんかそうでしょうね。 他、「ニューヨークの秋」「煙が眼に沁みる」など、雰囲気があります。 休日の朝に、好きなCDかけて珈琲を飲む。大切にしている時間です。 CDは最近は古いジャズのCDばかり。これが、私の朝と珈琲にぴったり来ます。 明日は土曜日、出勤しなければならない用事はありますが、朝はゆっくりできます。 さて、何を聴くか・・。
2009.07.03
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図書室で、司書の人と話していて、ファンタジーを読んだことがないという話をしました。 あれこれ話を聞いていて、「お薦めはナンですか?」と聞いて見ました。 即答で、『ゲド戦記』。なるほど。 図書室にありますから、借り出しました。 第一巻から読み始めました。 なにせはじめてですから他の作品と比べてどうのこうのといえないのですが、あっという間に引き込まれてしまいました。 ル・グインという名前はずっと以前から知っていました。私はSF少年でもありましたので。 しかし、読んだ事はありませんでした。 虚構の世界です。魔法使い、龍、どれをとっても虚構です。しかし、百ページほど読んで気がついたのは、なんとも周到に「世界」が構築されているという点でした。 「均衡」という言葉が出てきます。魔法使いは勝手にどんな魔法でも使えるわけではない。ある場所で雨を降らせると、他の地域では旱魃になるかもしれない。 虚構そのもののなかに体系をもたらし、破綻がない。凄い腕です。 自分の名前を知り、魔法を封じる力を持つ影から逃れていたゲドが、影と向かい合う決心をします。そして最初は急ごしらえのボロ舟に乗って、次はしっかりした舟に親友と乗り込んで、世界の果てで影と向かい合います。 影はゲドの前でめまぐるしく顔を変えます。そして・・。 読んでいて、無性に「分析」したくなります。これは何を象徴しているのか?影が顔を変えるのはなぜか?登場人物たちは何を象徴しているのか? でも、結局それは止めて、物語そのものを楽しむ事としました。 読み終えてひとつだけ困った事があります。 ファンタジーの他の作品を読み進んでいって、この『ゲド戦記』よりも素晴らしい作品に逢う事ができるのか? ちょうど、『渚にて』で、SFに首まで浸かってしまった時みたいに。 ま、なんとかなるでしょう。 読んでいたら、上の娘が一言。「何を今頃読んでるん」。すみませんね、今頃で。
2009.07.02
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今日は、うれしい事がありました。 実は昨日、電車の中で定期を落としてしまったのです。阪神西宮の駅についてポケットを探ると定期がありません。あわてて、バッグの中も全部探したのですがありません。 改札口の駅員さんに事情を話すと、落し物センターのリストを渡してくださり、そのまま改札をとおしていただきました。 今日、職場からセンターに電話したのですが、「届いていません」とのこと。定期類はすぐに使えることもあって、中々届く事はないのだそうです。 すっかり諦めて、帰りの電車に乗って三宮に到着したあたりで、「定期が板宿の駅に届いていると連絡がありました」と妻と娘からメール。 引き返して板宿まで行って定期を受け取りました。 駅員さんに、どなたが拾ってくださったのでしょうかと訊ねたのですが、それは教えられません、との事でした。 阪神西ノ宮駅に下りると、香寺ハーブガーデンの出店があり、ケーキを売っていました。こういう時は、嬉しくて何か買って帰りたくなるもので、二つ買い求めて帰り、家族で夕食後のデザートとしていただきました。 拾ってちゃんと届けてくださった方がいらっしゃる、その事が無性に嬉しかったです。 私のようにうれしい事があれば、消費は拡大するのに・・とヘンなことまで考えてしまいました。
2009.07.01
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