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秀忠軍を破った上田城にて 短歌 2首 写真付上田城の駐車場に着いた途端、ものすごい豪雨が降り始め、雷も鳴って車から一歩も外へ出られなくなってしまった。待つこと約30分、ようやく収まってきたので急な坂道を登り城内へ。自然の山と石垣を組み合わせた砦のような城は、見上げる者を威圧する。関が原の合戦へ行く途中の徳川秀忠の3万8千の軍勢を真田昌幸、幸村の親子が2千5百の兵で打ち破ったのは余りにも有名だが、天守閣を作らず、実践的な城作りをした親子の堅実さの表われである。武田信玄が城を作らず、躑躅が丘館に住んだのも相通じるものがあるような気がする。* 天守なき松尾の里の要害は塊りのごと聳えてゐたり* 幾千の降りくる雨滴(うてき)を浴びにつつ秀忠を返しし断崖を登る
May 27, 2007
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無言館へ行って分かったことは、戦没画学生と同じ時代に生きご自分は生き残って今も活躍をしている文化功労者、洋画家、野見山暁治氏の存在がなければ今日の窪島誠一郎氏の無言館はなかったということでした。野見山氏は窪島氏を触発し、ともに全国を歩いて、戦没学生の絵画、遺品を集めて歩いたのでした。窪島氏は、無言館を反戦、不戦のため作っているのではないとのことですが、戦時下で没頭して描いた僅かな作品や家族や恋人たちへ宛てた切実な書簡などを見ていると結果として、私たちは純粋に不戦への誓いをすることになるのではないでしょうか。この写真の「記憶のパンフレット」が庭にあります。一度赤いペンキで悪戯をされたようです。窪島館主は、館に反対する人たちもいることを留めるために台座の一部に赤いペンキを落とさずに残したそうです(これは信濃毎日新聞から)。しかし、どんなに考えが違おうと悪戯は許されるものではありません。* 絵の語る生きの重みに一人われ石畳の上に不戦を誓ふ* 冷え尽くすコンクリートの壁面に学徒は遺しぬ裸婦の温みを* 展示館の建設遅きに失せしと戦死者に向けたる館主の詫び状* 遺されし妻は百余の書簡さへ全てを諳んじ泣き伏しをりしと* この館に奉げし人らの名盤は積み上げらをり天井までも
May 24, 2007
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別所温泉・安楽寺にて 短歌3首安楽寺は平日とて観覧者は我ら以外誰もいなかった。谷間にお寺があるせいか、はたまた曇っているせいか、あたりはかなり暗い。三重塔を見上げれば、庇の下の寄木は釘などは何も使っていない。無数の寄木で支えられている。鎌倉時代の建築設計の計算と技術には、舌を巻いてしまう。境内に「悠仁様」の御印「高野槙」の大木があった。前に二度来たときには気がつかなかった。こんな大きな木は見たことがない。しかし品の良い木だ。また、お寺によく似合うシャガの花も咲いている。安楽寺 短歌3首峪深く陽の至らざる寺庭(てらには)にシャガの花斑(くわはん)はおぼろに浮かぶ勤めなる正午の鐘を撞き終へし婦人礼をする高き鐘楼数百年の風雪に耐えてこの峪に八角塔は身動ぎもせず
May 23, 2007
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5月10日、家族で上田市の塩田平へ行ってきました。まづ、戦没画学生の絵画、書簡、資料等を展示する無言館へ行きました。平日で、天気が悪いのにも関わらず、大勢の見学者がいるのには、驚きました。感想は、短歌に記載のとおりです。改めて不戦の誓いをしてきました。短歌4首* 十字架のごときかたちの無言館に重荷を背負ふわれら後人(のちびと)* 画学生の描きし裸婦像麗しく生きし証しのほとばしり出づ* たましひの宿る館(やかた)は丘のうへに聖地のごとく鎮まりてをり* 悠久の塩田平にありてこそ学徒の魂は安らひをるらむ
May 21, 2007
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