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『青春・上中下』小栗風葉(岩波文庫) 中村光夫の書いた『風俗小説論』の冒頭で、私はなぜかずっと、小栗風葉の『青春』、小杉天外の『魔風恋風』、そして島崎藤村の『破戒』の三作品が比較分析されていると思っていました。(先に正解を申しておきますと、中村光夫は『青春』と『破戒』と、もう一作は田山花袋の『蒲団』を比較していたのでありました。) その頃私は『青春』をまだ読んでいなくて、一度読みたいものだと思いつつ、大阪や神戸の古書店に行ったりすると、さりげなく探したりしていました。 そのうちに齋藤美奈子の『妊娠小説』を読みますと、ここにも『青春』が出てくるではありませんか。齋藤美奈子は、『青春』をこんな風に紹介しています。 (略)この間の事情をよくあらわしているのは、小栗風葉『青春』(一九〇六=明治三十九)だろう。第一次ブームに先鞭をつけたとも思われる、華麗な冒険「堕胎」活劇だ。 「華麗な『堕胎』活劇」と書いてあります。 この後齋藤美奈子は、やはり中村光夫の『風俗小説論』に『青春』が論じられていることに触れ、さらにこんな風に続けています。 (略)だいいちテキストそのものが、ほんとに「発掘」でもする気でないと手に入らなくなっている。 しかし、『青春』は草の根わけても一読してみる価値がある。ちょっと頭のおかしい帝大生=関欽哉と、少々つっぱった女子学生=小野繁との恋愛を軸に進行する物語の山は、もちろん中盤、繁の妊娠と堕胎にある。 今度は、「草の根わけても一読してみる価値がある」と書かれてあります。 ……うーん、こんな風に書かれると、是が非でも読みたくなってくるではありませんか。 こうして私は、まだ見ぬ『青春』に憧れ続け、私の青春も暮れていくのでありました。……。 ……と言うわけでも、あまりありませんで、まー、何かの拍子に読めればいいかなくらいは時々思っておりましたが。 ついでに申しますれば、時々本ブログにて触れております『筑摩書房・現代日本文学大系・97巻別巻1』におきましても、小栗風葉の作品は収録されていません。ついでのついでに、小杉天外の作品も同様に収められておりません。 この収録基準が適切であるのかどうかは、私には分かりかねますが。 さて冒頭の三小説ですが、そのころ私が読んでいなかったのは、実は『青春』だけではなかったんですね。勘違いしていた小杉天外の『魔風恋風』も未読でありました。 だから冒頭の書き方はちょっと誤解を生む書き方であったのですが、読んでいたのは藤村の『破戒』だけだったんですね。 だって普通、そうでしょー。 たとえ大学で日本文学の一つも学ぼうかという若者であっても、この三小説があったとして、それぞれの「既読率」(この言葉は今私が作ってみました)はたぶんこんなものでしょう。 島崎藤村『破戒』……5% 小杉天外『魔風恋風』……0.1% 小栗風葉『青春』……0.05% ……えー、もちろんお遊びでありますがー。 お遊びであるんですが、上記の数字であります。 現在日本中の大学で、日本文学を学んでいる学生の総数を分母として上記作品の既読率を考えてみたんですが、このあたりの数字でどんなもんでござんしょ。 『破戒』は100人に5人が読んでいる。 『魔風恋風』は1000人に1人が読んでいる。 『青春』は10000人に5人が読んでいる。 何の根拠もない数字ですがー、なんか、ちょっと面白いですね。そんなことないですか。皆様のご意見をお聞かせください。 閑話休題致しまして(といっても、この文章はすべてが閑話でありますが)、さてわたくしは、その後、先に『魔風恋風』を読んだんですね。 なぜって、こちらの方が古書店で安くかつすぐに入手できたからであります。 (『魔風恋風』につきましては、本ブログで報告いたしておりますので、よろしければそちらをお読みください。) 一方、『青春』の方ですが、これもある古書店にて私は発見したのであります。 確かにあったんですが、……んー、何と言いますか、大阪の一軒の古書店にあったんですけれどね、それが、うーん、ちょっと高かったんですよねー、価格が。 いえ所詮高の知れた額ではあるんですが、私としましては、大いに逡巡してしまう金額であったわけです。 そこで、買おうか買うまいかと、その店に行くたび大いに私は迷いまして(またこの『青春』三巻セットがいっこうに売れてないんですよね。いつ行ってもまだ本棚にありました)、結局、その店では買いきれず、その後半年か一年くらい経ったでしょうか、神戸の古書店にて再発見したんですねー、それも、大阪のお店の値段の四割程度の価格で。 嬉しかったですねー。喜びを噛みしめるようにしながら手に入れた三冊の本を持って、いさんで家に帰りました。 ……というところで、冒頭書籍購入までの一席。 申し訳ございませんが、残りは次回と言うことで。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.03.31
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『砂の器・上下』松本清張(新潮文庫) どうしてですかね、推理小説を読む時に限って、妙に「リアリティ」なんて事を考えるんですが……、そんなこと、ありませんかね。 もちろんそれは、推理小説に殺人とかの、いわば「非日常的」な出来事が起こるからでありますね。 つまり、フツーの人にとって身辺に殺人事件が起こるなんて事は、一生の内にほとんどないという前提の元、しかしそれが小説内のフツーの登場人物(もちろんフツーじゃない登場人物の場合もありましょうが)には起こってしまうから、そういった展開に、はたして我々が感情移入しうるリアリティはあるのかと考える、と。 まー、その当たりが正解なのかなとは思いつつ、じゃ、さらに、小説を読むにあたってそんな「リアリティ」とは具体的にどんなものなのかと考えると、それは結構、簡単な話ではありません。 これは以前にも書いた気もするのですが、重複することを恐れずかつ簡単にまとめますと、「我々は自分を心地よく騙してくれる程度のリアリティをこそ求めている」ということでありましょうか。 実はそんなにガチガチにリアリティを求めているわけではないんですね。 だって、そんなガチガチのリアリティを必要とするなら、我々は小説なんて読まずにドキュメント、ノンフィクションを読めば、それで話はすむのであります。 即物的な例でありますが、一小学生である江戸川コナン君は(言わずと知れた青山剛昌氏の漫画『名探偵コナン』の主人公ですね)、どうしてあんなに殺人事件に遭遇するのか。 でも、まぁ、私たちは、その辺はご愛敬として、コナン君の事件簿を楽しく読みますわね。結局我々の求めるリアリティとはそういうことであります。 さて、そんなリアリティを求めて、今回の本書の事を報告するわけであります。 というところで、やっと一周回って冒頭の一文に戻ってきたのですが、……うーん、何といいますか、やはり少し、違和感が残るんですよねー。 それはひとつには、本作の展開において、リアリティ上の違和感は結構たくさん感じるということがあります。 例えば、前半に出て来る「紙吹雪の女」や「カメダの不審者」の行為や存在にはほとんどリアリティがないんじゃないかとか、主人公の老刑事の謎解きのプロセスは、あまりに彼の身辺で都合良く展開しすぎてはいないかとか、あんな「殺人凶器」はありなのかとか、まー、あれこれ引っかかっていけば、どんどん引っかかってしまうんですね。 ところがそんな「リアリティ」に関する瑕疵を列挙し、さてそれでどうなんだと、ふと思った時、私は冒頭の違和感にぶち当たったわけです。つまりそれは、我々は推理小説にだけ過度にリアリティを求めてはいないか、と言うことであります。 例えば志賀直哉の『和解』の中に、妻に対して残酷なばかりの対応をする主人公が出てきますが、そんな個所を読む時、我々はまず場面の「リアリティ」を考えるでしょうか。 わたくしならまず、主人公の性格設定という言葉がたぶん浮かびます。そのように筆者によって作られた性格なのだという風に考えて、それでなんとか自らを納得しようとするんですね。 それでもまだ納得できない時、次は「自分にはよく分からないが……」と重要部分をペンディングしてしまって話を進めそうな気がするんですが、こういう感じ方って、おかしいですかね。一般的ではないですかね。 そんな風に考えますと、純文学には作品評価の基準にリアリティは無いということになってしまいますね。(これはいくらなんでも純文学に甘すぎる気は、かなりします。)なのに、推理小説の時だけキツイのは不公平なんじゃないか、と。 さて、結局の所、私は本作品をどう感じたのかというと、一番急所となるべき殺人動機部分にも、少々リアリティの破綻が見えると感じたということでありましょうか。 少なくとも、犯人があそこまでの遺体損傷を意図する(血だらけの遺体の顔面を電車に轢かせようとする)のは、人間心理の捉え方にかなり無理がありはしないかと思ったのでした。 ただ、本作は新聞連載小説です。制作サイドとして、顧客に対するサービスは、当然案じてしかるべきものであります。次回、次々回に、読者の興味をつないでいかねばなりません。 そんな新聞小説に、推理小説がはたして相応しいのかどうかは私の手に余る問題ではありますが、例えば漱石の『こころ』などを思い出してみますと、なるほど描き方次第で「二兔を追う」ことは十分可能であるなと感じます。 本作品もとても有名な小説ではありますが、一方で筆者松本清張には、もっと完成度の高い作品もあると聞きます。もとより私は、この一作で筆者のトータルな評価をしようと言う気はさらさら無いのでありますが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.03.24
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『河内屋・黒蜥蜴』広津柳浪(岩波文庫) 本文庫には三つの短編小説が収録されています。この三作です。 『河内屋』(明治二十九年九月) 『黒蜥蜴』(明治二十八年五月) 『骨ぬすみ』(明治三十二年一月) どの作品のタイトルも、とてもシンプルですね。こんなのが時代の流行だったんでしょうか。ちょっと同年代の他の小説作品をいくつか挙げてみます。 『舞姫』森鴎外(23)、『五重塔』幸田露伴(24)、 『滝口入道』高山樗牛(27)、『たけくらべ』樋口一葉(28)、 『外科室』泉鏡花(28)、『不如帰』徳富蘆花(31) ……んー、やはりこんな題名の付け方が流行だったのかも知れませんね。どれもとってもシンプルです。(合わせて、みんなちょっと不気味な感じがしますね、なぜでしょうか。) さて次に、今回この短編集を読んで、私はもちろんいろんな事を思ったのですが、その一つとして、言文一致文体のとてもこなれていることに感心しました。(細かく見れば、この三作の間にも少し文体の相違があって、やはり年代順に徐々に変化していき、よりこなれた口語文体に移行してることが分かります。) 例えば、こんな感じです。 お染は食を廃して、自ら死を求めて居る。お染が死んだ時は、自分も此世を捨てる時である。自分のために死ぬ人を、決して一人は殺さぬ。お染も死ぬのである。自分も死ぬのである。死ぬ前に唯一度――今一度染々と逢つて、染々と話を為て、自分の為に死んで呉れる礼が云ひたい。礼が云ひたい。一度逢ひたい。(略) (『河内屋』) 抽象的な内容の描写ですが、見事にこなれた表現になっています。 ところが日本文学史の教科書を読んでみますと、明治時代の言文一致運動の先駆者として挙がっているのは、下記の人々と作品です。 二葉亭四迷『浮雲』(20)『あひびき』(21) 山田美妙『武蔵野』(20)『蝴蝶』(22) 尾崎紅葉『多情多恨』(29) しかし最初に挙がっている『浮雲』『武蔵野』からわずか9年、それでここまで文章がこなれるんですねー。 というよりも、言文一致運動の先駆者として名前の挙がっていない広津柳浪の文体ですらこれだけ言文一致になっているということから、逆に言文一致という運動が、いかに時代に必要とされていたのかが分かるようであります。 もっとも、これも岩波文庫に入っている三遊亭円朝の諸作品を読めば、これくらいの言文一致は当たり前だとも思えます。刊行が約十年先行する三遊亭円朝の作品は、まるで武者小路実篤の小説のように、「天衣無縫」に言文一致していますよ。 一方、広津柳浪という作家は、日本文学史の中ではどの様な「文学思潮」に位置づけられているかと見ますと、「深刻小説」「悲惨小説」という言葉が出てきます。 出てきますが、なんか、これよく分からないですね。あまり聞いたことないですね、そんなことないですか? 同じ流派の人に他にどんな作家がいるかと調べてみますと、樋口一葉が挙がっているではありませんか。あの五千円札の、例の、一葉女史であります。 そんな「有名人」を擁しながら、なぜ「深刻小説」とか「悲惨小説」という文芸用語が今ひとつ人口に膾炙しなかったかと考えますに、思うにこれは、ネーミングのセンスの悪さのせいですね、きっと。 「深刻」とか「観念」とか、もー、はっきりいって、そのまんまじゃないですか。固有の、オリジナルな文芸思潮を表すものとしては、メリハリと言いますか象徴性と言いますか、なんかあまりに工夫がなさ過ぎるんですよねー。 ……というわけで、流派のネーミングに恵まれなかった筆者でありました。 というか結局の所、描いていたものに、「キック」が今ひとつ足りなかったように思うんですがねー。 例えば、作品世界における社会に対する告発性をもう少し高めていたなら、きっと「社会小説」に成りえただろうし(木下尚江の『火の柱』なんてのはそんな作品です)、社会正義に目覚めるのがイヤだったら、「自然主義」のように、あるがままに書くのだ、善悪正義を問わない「無思想無解決」の姿勢なのだ、と尻をまくる手もありました。 というふうに、広津柳浪作品の歴史的限界を、私、わがまま勝手に述べてきました。 ではこの筆者の評価すべき部分はどこなのだと考えますと、パンドラの箱の中に残っていた「希望」のように、作品の中に底光りしてあるものは、ぐるりと一周回って、やはり文体力であると思います。 上記に「言文一致運動の先駆者として名前の挙がっていない広津柳浪の文体ですらこれだけ言文一致になっている」と書きましたが、やはりこれは筆者特有の文体力でありまして、どの作家もがこれほど書けるものではありません。 かつて、内田魯庵の小説を読んだ時に、その幸田露伴に見まがうような優れた文章に驚きましたが、今回は、尾崎紅葉ばりの広津柳浪の文章に、改めて私は、明治文学の懐の深さをつくづく感じるのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.03.17
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『十九歳の地図』中上健次(河出文庫) たぶんあの本にあったとは思いながら、探すのが面倒で、ごまかしごまかし書くのですが、三島由紀夫であります。(そういえば、こういう書き方も書き手の不誠実を表すと、これは『小説とは何か』に書いてありましたが。) 確か三島がこんな感じの事を書いていたと思います。 君が二十歳で無一文であるならばそれは素晴らしい。未来はすべて君のものであるからだ。……というニュアンスの文章です。 「二十歳」という年齢設定は、ひょっとすれば、ちょっと違っているかも知れません。 一方で三島は「十六歳では早すぎる。十八歳では遅すぎる」という警句もまた書いていると、この知識もなんだか出所がはっきりしませず、うーん、私って、本当に不誠実で、誠に申し訳ありません。 とにかく、二十歳前後で何も持っていない、という状況であります。 冒頭の小説集ですが、四編の短編小説が収録されています。 中上健次は、実はわたくし、ほとんど読んでいません。それは、あかんやろとは思いつつ、何と言いましょーかー、ちょっと読むべき時期を逸してしまったんですね。本当なら、大江健三郎にのめり込んでいた頃か、その後くらいに読めばよかったのにと思うのですが、今思い出しますと、ひょっとしたら私はそのあたりから、読書だけのいびつな演劇青年になっていったんじゃなかったかしら。もっともそんなことは、理由にも何にもならないですが。 ともあれ、私にとって中上健次の小説は二冊目であります。前回の読書は『枯木灘』で、これはもちろん評判通りの素晴らしい作品だとは思いましたが、それがこのー、まー、やっぱり重いですわな、この中上の世界は。それで、怯んだんでしょーなー。あ、ちょっと、これ、あとまわしに、しょ、と。 と言うわけで今回ほとんど初読に近い状況で読みましたが、やっぱり凄いですよねー。 ひしひしと作者の力量が、肌で感じられてくるようです。 その中の、総題にもなっている『十九歳の地図』でありますが、ここでやっと冒頭の話題に戻ってくるのですが、寮に住み込みの、何も持っていない、十九歳の新聞奨学生の予備校生の話であります。 主人公は、新聞配達担当区域の家にいたずら電話を掛け人を不愉快にしたり、ターミナル駅に脅迫電話を掛けて、人々が混乱するのを想像したりします。明確な犯罪行為であります。 ただ、小説という存在は、いつの時代も犯罪と併走する側面を持ちます。ドストエフスキーの『罪と罰』を例示するまでもなく(そういえば冒頭にあげた三島由紀夫も、たくさんの犯罪小説を書きました)、犯罪行為の中には、人間存在、人間精神が持つ「暗部」を考える鍵となる、きわめて大切な要素が数多く含まれるからです。 事実、様々な犯罪は小説やドキュメンタリーとなり、表現のテーマになっています。 そこに描かれる犯罪者の精神は、それを実行した・実行しないという決定的な分水嶺を持ちながらも、しかし、自らの内面深くに絶えず視線を降ろそうとしている者にとっては、自分の心の中にも存在していると気づかせずにはおかないものであります。 我々はラスコリニコフに共感するように、様々な犯罪者の心の闇にもやはり感情移入をし、そして、自らの心の深さ広さ不思議さ複雑さなどに改めて思いを馳せ、恐れと眩暈のような感覚を持ちながら、しみじみと感じ入ります。 『十九歳の地図』の無一文の主人公の持つ、ぶよぶよと肥大した強烈な不満、自意識、そして劣等感は、本当に反吐の出そうな薄汚いものでありますが、しかし同時に、間違いなくそうしたものが、自分の心の片隅にも密かに佇んでいることに、我々は読んでいてはっと気付きます。 坂口安吾は、人生の持つ、氷の彫刻を抱きしめるような冷たさと愛おしさを文学のふるさとと書きましたが、文学のふるさとの一方には、この眩暈を覚えるような人間精神の深さと闇があるように思います。 優れた才能は見事にそれを見抜き、我々にそれを直視させようとします。 そんな直視などしたくもないものを読者の前にさらけ出す才能こそが、中上健次の持っていたものでありました。 その後それは一定の開花をしさらに深化を求めつつ、しかし十分に叶うことなく四十六歳で筆者が亡くなってしまったことは、言葉無きほどにいかにも残念であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.03.10
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