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『ドグラ・マグラ』夢野久作(角川文庫) もう、少し前の話になるのですが、電子書籍リーダーを買いました。 あれこれと使ってみましたが、確かに便利ですね。思った以上に読みやすい。何より、文字の大きさを自由に変えることができるというのは、年輩者にとっては圧倒的に便利であります。 で、どんな作品を読んでいるかと言いますと、もっぱら「青空文庫」です。 本ブログの傾向からも分かるように、わたくしの嗜好としましては、できたらもうお亡くなりになっている方の小説、あるいは昭和期以前の文芸作品ということで、昭和期全体をカバーと迄はまだいっていませんが、それでも青空文庫は私の好みにかなりぴったりであります。とてもうれしい。 そして青空文庫以外にも、ネットを見ていて、ふっとダウンロード無料の作品を発見したりなんかして、これも「ラッキー」と、とても嬉しいですね。 その一つに、こんな漫画がありました。 『ブラック・ジャックによろしく』佐藤秀峰 昔はともかく今の漫画界のことはほぼ何も知りませんので、この作品のできが相対的にどんなものなのか私には判断できないのですが(ただ、日本が世界に誇るこの漫画というコンテンツがかなり優れている、ハイレベルなものであることは何となく知っています)、とても感動的な作品でした。 主人公はインターンのお医者さんであります。医療がテーマのお話なんですね。 インターンの青年が、内科・外科・小児科等の専門医局に次々に配置され、医療現場の様々なドラマを経験していくというお話、つまり一種の「ビルドゥングス・ロマン(=教養小説)」です。 そして後半、精神科医療の話になって、作品は一気に重くしんどく、そして感動的なものになります。 さて、その「精神科医療」です。 やっと冒頭の小説のテーマに繋がったのですが、推理小説界の「三大奇書」の一つと言われる『ドグラ・マグラ』が深く描こうとしているのが、この「精神科医療」であります。 ……ただ、ただねぇ、推理小説の中で、それも「奇書」と呼ばれるような作品の中で、妄想とか脳とか精神異常とかの話になるわけですね。そして本作品の成立は昭和十年です。 つまり、本作が現在も現役で読めるかと言えば、なかなか難しいと私はまず思いました。 一言で言いますと「冗漫」さが気になるんですね。 ただ同時に思うのは、この冗漫さも或いは作品の狙いの一つではないかということです。 単に作品の長さと言うだけならば、本書は角川文庫上下二冊合計650ページほどですので、長すぎると言うほどのものではありません。ただこの冗漫さが、かなり読みづらいと言うことです。 さて、650ページほどの小説で、かつ冗漫さ(=読みづらさ)も作品の効果に入れているとすれば、その効果とは何かと考えれば、やはり「シュール・レアリズム」でしょうか。本作の評として用いられることのある文言ですが、たしかに読んでいて、例えばサルバドール・ダリの絵画のような、不思議な戸惑いの感覚を生み出すところがあります。 そしてダリの絵画に不思議な静謐空間が描かれているように、確かにこの冗漫さは、本作に不思議な広がりをもたらしているようにも思えます。 さらにそこに、「記憶の遺伝」という本作の鍵を加えると(記憶は遺伝するかというテーマは幽霊は本当にいるのかというテーマと似て、とても面白いものです。超常現象話題は古今東西絶えることがありません)、ここに一つの「現実の別解」が出てくるような気がします。 「現実の別解」とはつまり、一つの世界観のことであり、その構築こそが筆者の制作の源泉であったのでしょう。 昭和初年の精神病治療の話が、現在もリアリティを持つかについては判断の難しいところでありながら、筆者がこれだけの手間暇を掛けて独創的な「現実の別解」を作るには、精神の世界というキーワードはやはり外せないものであったと思います。 われわれはそれを冗漫なほどにこだわって描く筆者の情熱に、いかにも本作に「奇書」という褒め言葉を贈るに相応しいものを見るのであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.08.19
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『堕落』高橋和巳(新潮文庫) 上記の小説の読書報告の後半です。 前半は何を書いていたかと申しますと、ふと、高校時代の自分自身の読書傾向について思い出していたんですね。 これは以前にも書きましたが、高校時代の私はかなり庄司薫に入れ込んでいました。 今思えば、「薫くんシリーズ」によって、私は「近代日本文学の森」の入口まで連れてきて貰ったわけです。 これは感謝せざるをえませんね。 しっかり読めば「薫くんシリーズ」も、そんなに「軟弱」なことばかりが書かれていたわけではありませんが、とにかく「あたり」が柔らかかったおかげで、まー、結構やさしく読めたわけですね。 ところが、「近代日本文学の森」にはそんな小説ばかりではないわけです、あたりまえながら。 思い出してみると、あの頃の私は、結構たくさんの小説にぶつかっては玉砕していましたねー。 例えば、三島由紀夫の『暁の寺』なんて作品が今ふっと浮かびます。 私、あの『豊饒の海』4冊中、『春の雪』と『天人五衰』は2回読んだ覚えがあるのですが、『暁の寺』は、何といいますかねー、……イメージ的には、泣きながら文字だけ追っかけて、最後に「あほー、おまえのかあちゃんでべそー」と言って泣きじゃくりながら逃げていく少年の如くでありました。(なんかよくわかんないな。) ともかくそのころ、ちょっとうかつに手を出してはいけないと感じさせる作家の一人が高橋和巳でありまして、そしてその思いは現在まで連綿と続いています。 そんな中、本書を読んだわけです。 150ページほどの中編小説であります。 面白かったですねー。とても感度的でありました。 いえ、中盤くらいまでは、何か瑕疵があるわけではないですが、暗い。とにかくとことん暗いんですね。それは、かつての私が「ちょっとうかつに手を出してはいけない」と感じたその直感そのままであります。 戦前満州国を理想郷として建設しようとしていた青年が、しかし現実の中国大陸においては、日本軍と人民が大陸人に対して残酷非道なことを続けるのに結果的に加担する側にあり、一転敗戦になると、今度は中国軍と人民によって強烈にひどい仕打ちを受け、本当に命からがら日本に帰り着くというそんな徹底的な挫折経験から、極度のニヒリズム・人間不信になります。 ただこの小説の面白いのは、そんな極端なニヒリズムに陥っても、力のある人物はその後も一定の仕事を社会の中で残すという設定であり、しかし同時にそんな人間不信が、やはり主人公の精神を少しずつ蝕んでいくという展開であります。 まず、この構造が見事です。 読んでいて、時に辛いほどのニヒリズムを感じる個所もあり、そんなところでふっと田宮虎彦の例えば『絵本』などという小説を連想したりしたのですが(田宮虎彦のある小説群には、少々厳しく言えば、人間観察について偏りが感じられるようなニヒリズムがあります)、前半の中国大陸での体験が微妙に形を変えながら繰り返し挿入されるので、かなりニヒリズムに感情移入ができます。 そして、『堕落』というタイトルのままに、じりじりと一般社会から弾かれていく(自らの意志でそれを目指していく)主人公が最後に望むのは、自らの人生を翻弄した国家への恐怖を心の中に激しく抱きながらも、それと最後の対決をすることであります。 司馬遼太郎がかつて書いていましたが、近代国家は当たり前のように国民の命を翻弄し、供出させる権力を持ちます。 例えば、生まれればたまたま日本人であり(「日本」を「中国」「アメリカ」「イラク」「韓国」「北朝鮮」などどの国に入れ替えてもそれは同じく)、そしてそのことによって国家から死ぬことを強要されるという事態は、過去にずっとあったし、これからもそう簡単になくなるとは思えません。 自分の人生と国家を考える時、この国家の権力を「やむなし」とは考えず、人生の上の最後の対決の場をそこに選び取った主人公を描いた本作が、強く人を撃たないわけがありません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.08.11
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『堕落』高橋和巳(新潮文庫) 明治時代以降の近代日本文学史の中の、どちらかと言えば「マイナー」な作家とか作品を読んでいこう、ってのが、まぁ、本ブログのタイトルの命名由来なんですが(ちょっとだけ別の意味も本当は少し含んでいるのですが、今回はそれは置いて)、なかなかそうはなっていません。 やはりメジャーな作品を読むことが結構あります。 だって取りあえず有名どころをという感覚って、少しはしたないですが、誰にもありますよねぇ。 というより、数をこなしていくと何となくそんなことが肌で感じられて、さりげなく「マイナー」を手に取るのを逡巡してしまうのですが、どんなことを肌で感じるかというと、……えーっと、ちょっと身も蓋もない言い方をしてしまうんですが、こういうことですね。 「マイナーにはマイナーの訳がある。」 うーん、やはり「それをいっちゃーおしめーよ」的表現になってしまいましたが、えらいもので、ここがもう一歩とか、もうひと踏ん張りとか、ちょっと気になるところがあるのがマイナー作品なんですよねー。難しいところであります。 で、今回の読書報告ですが、さて、高橋和巳ってどうなんでしょ。 どうって、「おしめーよ」的表現で言うと、高橋和巳はマイナー作家なのかどうかと言うことでありますがー。 たとえば、再三本ブログに顔を出す私の持っている高等学校国語科副読本の『日本文学史』の本の「昭和30年代の文学」の説明には、この3人の小説家しか書かれてありません。 石原慎太郎(1932)・開高健(1930)・大江健三郎(1935) うーん、いくら何でもこの3人だけで昭和30年代が終わってしまうのは淋しいだろうとは思いますが、まー、この3人は取りあえず昭和30年代の作家の「メジャー」であると言うことですね。 で、高橋和巳ですが、世代的には全くこのお三方と同世代、誕生年は1931年であります。ただ、彼は早くに亡くなりましたからねー。没年は1971年、40歳になる間際でありました。 これはちょっとつらいですね。もちろん早熟の天才は近代日本文学史の中にも結構いらっしゃいますが(梶井基次郎・中島敦あたりを筆頭に、探せばけっこういると思いますが)、やはり人生のほとんどにおいて同様のことが言えると思いますが、「長生きしたもんの勝ち」という側面が明らかにある、と。 まー、長生きするから大家が生まれるんですよねー。 結局高橋和巳は、己の才能の十分な収穫時期を迎えること亡くなくなったってことですかね。 それにこの度、年譜を見まして私は初めて気づいたのですが、この方はそもそもほとんど「専業作家」の時期を持っていません。(大学に勤めていたんですね。)亡くなる前の2年間くらいだけです。 これはかなり、「致命傷」ッぽい所ですね。 というより、この方は本当にこれからと言う時に亡くなったということでありましょうか。 さてここまで、分かったふりをして書いてきましたが、実はわたくし、高橋和巳の作品はこの度初めて読んだのであります。(すんません。)そして思った事が、ここまで書いてきた、高橋和巳はメジャーか否かと言うことなのですが、なぜそんな感想になったのかという理由は二つあります。 ひとつめは、かつて大昔、私が高校生だった頃、以前にも少し触れたことがあったように思いますが、軟派な文学青年をしていた私並びに同様の文学青年の間に「アイドル」作家が数名いました。こんな方でしょうかねぇ。 大江健三郎・開高健・三島由紀夫・倉橋由美子 これらの方々にもう少し「芸術派」ッぽいメンバーを加えるなら、川端康成・吉行淳之介あたりが加わったかもしれません。 しかしその一方で、じっくり高橋和巳を読んでいた、軟派じゃない文学青年がいたんですねー。 ……えー、どうなんでしょうねー。 昔はよかったなぁみたいなことを言い出せば、まぁ人生もテンカウント間近だと思いますが、つい言っちゃいそうになって何とか止めようとは思うのですが、そういえば高橋和巳を読んでいたN君は、ソルジェニーツィンなんかも読んではりましたなぁ。 ……時代、ですねぇ。 一度、私は彼に、こわごわ「その本、おもしろいか」と尋ねたことがありました。 彼は即座にかつむっつりと「おもしろい」と答えてくれましたが、私は結局ソルジェニーツィンも高橋和巳も手に取ることなく現在に至ってしまいました。 ただ、軟派な文学青年の私にも、高橋和巳という「凄そうな」作家がいるらしいという感覚は残ったのでした。 えー、今回も変な展開になってしまいました。 二つあると言った、高橋和巳はメジャーか否かの設問理由の二つ目が(一つ目も十分には)書き切れていませんが、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.08.06
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