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『玄朴と長英』真山青果(岩波文庫) 少し以前になりますが、私はある大学の社会人向け公開講座に行きました。 いろんな大学などがやっているこういった講座は、わたくし、けっこう好きで、今でも時々顔を出すのですが、その時やっていたのは、「スポーツと芸術」といったテーマのものでした。 近年スポーツと芸術がどんどん近づいているというのが主だった話題でありまして、そういえば、スポーツジャーナリストで、現在は小説なんかもお書きになる玉木正之氏は、かなり以前からそういった主張をなさっていました。 例えば野球において、4番バッターが、相手のエースが投げてくる内角のシュートを腕を畳んで見事にはじき返す場面を、芸術と言わずして何と言おうかといったテーマのもので、私もとても共感いたしました。 この度の公開講座で、スポーツと芸術の接近、或いは融合を説く上で例として挙げられていた競技はフィギュアスケートでありました。 詳しい内容は少し忘れてしまったのですが、フィギュアスケートは数年前(十数年前?)に採点方法が大きく変わって、今では衣装・化粧などまでが採点内容に影響するということでありました。(えーっと、たぶんこれで合っていると思うんですが。) それを初めて聞いた時私が思ったのは、衣装や化粧などをスポーツの勝敗(少なくとも運動能力の優劣)に関係付けるというのはいかがなものかということでありましたが、……えーっと、……えっーーと、……ちょっとこの話題に深く触れますと、今回の読書報告のテーマからは、いくら何でも大きく逸脱しすぎますので、これはちょっと置いておきますね。 少しだけ本筋に話しを引き戻します。持ってきたかった話題は、その講座の講師の先生がおっしゃった印象深い言葉でありますが、こんなニュアンスの表現でした。 「芸術のようなプレイ」というのはほぼ最上級の褒め言葉であろうが、「スポーツのような演奏」というのは少々様々なニュアンスのものをはらむ褒め言葉である。 確かこんな内容でした。 いえ、実は、冒頭の今回報告すべき作品を読みながら私が頭の中に持っていた最初の感想は、「芸」と「芸術」と言ったものでありました。 そしてそれが横滑りして「スポーツ」と「芸術」になったのでありました。 さて、今回私が読みましたのは戯曲集であります。この4つの作品が収録されています。 『玄朴と長英』『小判拾壱両』『明君行状記』『聞多と春輔』 この4つの戯曲が、何と言いますか、どれも実に素晴らしい。 著者の真山青果について、私は名前だけは知っていましたが作品を読むのは全く初めてで、一番最初の『玄朴と長英』を読んだ時は、その見事なできばえにほとんど「目が点になる」状態でありました。 これだけ、縫い目継ぎ目の見えない戯曲は、ちょっと読んだことがない(もっとも、戯曲についてはわたくし、さほどよく知っているわけではありませんが)と感じるにやぶさかではありませんでした。 そして2作目3作目と読み進め、読むほどにどんどん感心していったのですが、と同時にこんなことも思いました。 これは、例えば菊池寛のようなテーマ小説との類似がある、と。 『小判拾壱両』という戯曲は、井原西鶴の『西鶴諸国話』の中の「大晦日はあわぬ算用」を本歌にした作品であります。 西鶴の「大晦日は~」といえば、あの太宰治が『新釈諸国話』と銘打って発表した連作にも取り上げられていますが、太宰がもっぱら登場人物の人物造形にオリジナリティを発揮したのに対して、本作は物語解釈に筆者の独創性があります。 同様のことが、残りの作品にも共通していると思います。 しかしそうであっても、繰り返しますが、戯曲作品としては、間然とするところの全くない、実に引き締まった傑作であると思います。 一方(「一方」というつなぎ方が相応しいのかどうか少し迷いますが)、これらの作品に対する褒め言葉として私が感じたのは「名人芸」という言葉でありました。 「名人芸」の「芸」は、おそらく「芸能」の「芸」でありましょう。 もとより、戯曲という形式は、小説よりも成り立ちにおいて遙かに「芸能」の近く位置しているものではありましょうが、はて、私の感じた「名人芸」とは、冒頭の話題に触れた「スポーツと芸術」の関係と相似のものを持っているのでしょうか。 それがまだ少し、気になっているのでありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.05.26
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『官能小説家』高橋源一郎(朝日文庫) 冒頭の長編小説の読書報告の後半であります。 前回は、ワーグナーとブラームスは結局ベートーヴェンでもあり夏目漱石と森鴎外でもあるが半井桃水と高橋源一郎はとっても小林秀雄っぽい、ということでありました。たぶん。 ところで本小説は、わたくし、再読であります。 だいぶ昔に一度読みました。その時の私の読書メモにこんな風に書いてあります。 「前半はひどかった。中盤はさすがに読ませた。終盤は又すかすかしてきた。全体としてはまあまあかな。」 かなりわがままな感想ではありますが(どうもすみません)、本書再読後に改めてみてみると、今回の読後感想もほぼその通りではないかと、少々厚かましくもそう思ったのでありました。 まず、前半はひどかったという感想ですが、かつての私がそう感じたのは、たぶんこんな所だと思います。 後は「億万長者と結婚する方法」だ。藤原紀香の脚は、この世で見る価値のある数少ないものの一つじゃないだろうか。まあ、あくまで脚に限るけど。それから、「ナースのお仕事3」。もちろん、観月ありさの脚が出てくるところが素晴らしい。それに神田うのに松下由樹か。あんな看護婦ばかりいる病院がほんとにあるだろうか? ……うーん、この意味ですが、……うーむ、後で、考えてみますね。 次の、中盤はさすがに読ませたというかつての私の感想ですが、これは、ある意味高橋源一郎の小説の読ませどころですね。 半井桃水と樋口一葉のラブストーリーを書いた部分ですが、実は筆者の小説はポップな衣装を纏ってはいますが、その中に描かれる感情は「透明感のある切なさ」というような言葉でまとめることのできる、かなり広くポピュラリティのあるものです。 しかしもしも、この「透明感のある切なさ」という感情の描写やテーマが、少し感傷的でありはしないか、通俗的でありすぎはしないか、あるいは芸術性に欠けるのではないかという不安を、筆者自身が持ったとしたら……。 さて、この度私が本書を再読して気が付いたのはそのことであります。 そして、前半のマゾヒステックなまでの物語の壊しぶりや、終盤の「すかすか」の原因こそこれではないのか、と私は思ったのでありました。 作品の最後のあたりに、鴎外の思いとしてこんな事が書かれています。 だが、結局のところ、鴎外は一度も満足したことはなかった。 ある作品は毀誉褒貶に晒され、ある作品は無視された。また、格別の評判を得る作品もあった。その度に、喜び、哀しみ、また無知や無理解に怒りを感じたこともあった。やがて、鴎外はほとんどなにも感じなくなった。人々あるいは世間というものの評価に興味をなくした。 それではいけない。何度もそう思った。この世界から切り離されたところで自分のためにだけ書く「芸術家」だけにはなるまいと心に決めていたからだ。だから、冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるようにして新しい作品に立ち向かってきた。 しかし、それはいったいなんのためだったのだろう。 前回のこの欄に私は、筆者がとても真面目に書いている(真面目に不真面目に書いている)ということに触れましたが、そもそもこんな小説家小説を書くというのがきわめて「本気」でありますよね。 そしてまさに「冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるように」書いたのが、この悪ふざけのように見える「物語の解体」の部分であったのかもしれません。 そういえば、筆者はデビュー当時、もっともっとわがままに小説を書いていたような気がします。もっと「無意味」のそばで遊んでいたように思いました。 それに比べれば(本作においてだけなのかもしれませんが)、本作はかつて筆者の自家薬籠中にあった「無意味」の対極に位置するようなお話になっていると、この度私は思ったのでありました。 なるほど、生きている作家とは、やはり大変なものですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.05.12
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『官能小説家』高橋源一郎(朝日文庫) どこで読んだ文章であったか覚えていないのですが、たぶん複数回同趣旨の文脈を眼にした記憶がありますからある程度間違っていないのだと思いますが、何の話しかというと、リヒャルト・ワーグナーのエピソードであります。 ワーグナーが、ベートーヴェンの後に交響曲を書く何の意味があるか、と言ったというエピソードであります。 また、よく似た「文脈」の中で、ブラームスが交響曲第1番を書いたのは、43歳の時であった、と。 ……私はクラシック音楽に関して、好きなだけで何にも分かってはいませんので、ほとんど「与太話」の如くではありますが、確かにベートーヴェンの後に交響曲を書くのは、かなり勇気のいったことだろうと愚考いたします。 さて、何の話しかといいますと、冒頭の高橋源一郎氏であります。 私にとってフェイヴァレットな作家の一人ではありますが、発表される作品の出来の善し悪しについて、ちょっと差の激しい方でもあります。 で、なぜそうなのかと考えますに、この方は小説についてとっても苦悩していらっしゃるからではないか、と。 では、なぜ苦悩していらっしゃるかとさらに考えますに、それこそが「ベートーヴェンの後の交響曲」ではないか、と。 例えば本書にこんな事が書かれています。 明治の作家半井桃水が、酔っ払って森鴎外と夏目漱石に絡んでいる場面(まぁ、こんな場面設定そのものも、高橋氏の苦悩の現れでありましょーがー)であります。「(略)……ぼくはすぐに目を閉じた。それはまがい物だった。すべての部分が他の小説の寄せ集めでしかなかった。言葉も感情もすべてが他人の借り物だった。それがぼくの小説だった。ほんとうはその時、ぼくは書くことを止めるべきだったのだ。だが、ぼくにはそれができなかった。ぼくは小説家のふりをし続けた。そうすれば、いつかぼくもほんものの小説を書くことができるようになるかもしれない。ぼくはそういい聞かせてきた。だが、そんな時が来るはずなどなかったのだ」「小説にほんものもにせものもありはしない」漱石が静かにいった。「わたしもまた、言葉や感情を借りて来る。小説家のふりをしたことがない小説家などあるわけがない」「だが、あなたたちとぼくは違う。あなたたちの作品は日本語がこの世に存在する限り残るだろう。だが、ぼくの作品は出たとたんに忘れられる。時の裁きは公正だ」「未来のことなどわからない」林太郎が答えた。「わたしは時の裁きも信じない。わたしたちが知っているのは、この国のいま、この言葉のいま、それだけだ」「あなたたちはその謙虚さにおいて傲慢だ。あなたたちに理解できるのか? 才能のない作家の苦しみを。それでも書いていたいと願う者の苦しみを。ぼくの苦しみこそ普遍なのだ。書くことのできないぼくこそ、叶わぬ希望を持って生きるしかない大多数の者たちの代表なのだ。(略)」 ……こうして書き写していて改めて分かったのですが、高橋源一郎さんって、真面目な人ですねー。なかなか、こんな文章は書けませんよ。 ところで、なぜ高橋氏がこのような苦悩に取り付かれてしまったかといいますと、それは小林秀雄の悲しみであります。 ……なんか話しがどんどん横滑りしているような気もしますが、まぁ、もう少しご勘弁いただきたいと思います。 いえ、別に突飛なことを言い出すのではなくて、高橋源一郎氏がまれに見る小説読み技巧者であると言うことであります。 これはもうほとんど定説化しておりまして(たぶんしていると思うのですが)、筆者の書く文芸評論はきわめてレベルが高く面白いと、私も全くそのように思うのであります。そして本人もそのことはきっと自覚的であります。 だって、本書にもこんな風に書いてあります。 それからもう一つ、付け加えなければならないことがある、と桃水は思った。それを教えられるのは最高の作家ではない。なぜなら、最高の作家は小説の書き方を自然に知っていて、どうやって作られるか気にならないからだ。それを教えることができるのは、小説の書き方を知ろうと死に物狂いで努力してきたぼくのような作家、ぼくのようについに最高の作家になることができない人間だけなのだ。 ……ほんと、なんか真面目な方ですよねー。 しかし、そんな小説読みの上級者である高橋氏は、結果的に自ら述べるごとくあたかも小林秀雄のように「眼高手低」であると言うわけですが、あれっ? こんなところに小林秀雄を出すのはよくなかったかしら。 ともあれ、筆者の苦悩は誠に深く、今回取り上げた小説も、全くそんな見本みたいな作品でありますが、次回、もう少し丁寧に見ていきたいと思います。 あ、最後になりますが、そして言わずもがなの事柄ではありますが、冒頭で触れたワーグナーは、その後「楽劇」という独特のオペラを自ら作り上げほとんど教祖の如くになり、またブラームスの書いた交響曲第一番は、ベートーヴェンの第十番であるとまでの高い評価を得たのでありました。歴史のおさらい。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.05.06
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