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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹(文藝春秋) しかしこのタイトルも、なかなかといえば、なかなかなタイトルですよね。 でも、そもそも「名前」というものは、そう付けるとそうなっていく、といいますか、結果的に馴染んでいくものでありますよね。 私もだいぶ昔に、名前付けの最大イベント、我が子の命名をしたことがありました。 5つほどを最終候補に絞り、その中から付けたのですが、その付けた名前、仮に「A」としますと、「A」は他の候補「B」「C」「D」「E」と入れ替わっていても、付けた当初はちっともおかしくなかったはずですが、今となっては人物「A」は、「A」という名前以外の選択肢は全くないように感じます。 だからこのタイトルも、慣れればこんなものなんでしょうかね。 同筆者の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と言う旧作も、新作当初は私は、少々違和感があったように思い出しました。 で、さて、本書ですが、まー、いちおー、あっという間に読んでしまったもので……。 あ、まずこの件について述べてみたいと思います。 この件というのは本作のリーダビリティの高さということでありまして、私の知っている純文学作家の範囲で言えば、やはり村上春樹が一番な気がします。 谷崎も太宰も漱石も、読んでいるととても面白いですが(太宰は少しレベルに高低差がありますが)、「ワンシッティング」では読めませんね。 いえ、別に巻を措く能わずでなくてもいいんです。 今、ふっと思い出したのですが、野上弥生子や河野多恵子の長編なんかは、しばらく読んでは巻を措き、じっと考えて又ページを開く、みたいな事を繰り返す読み方を私はしていましたが、とっても感動的でありました。 ともあれ、この度私は冒頭の村上春樹の新作長編を、知人からたまたま図書券1000円を貰ったものだから思わず本屋で買ってしまい(いずれ買う予定だったとしても、こんなにまだ売れたての頃に買うつもりはなかったんですね)、そしてまんまとワンシッティングで読んでしまい、さらによせばいいのにアマゾンのレビューまで怖い物見たさに見てしまったんですね。 で、ふぅ、とため息を一つついて、少し戸惑っているわけです。 そうなるんじゃないかなという予想はしつつ、やはり最後のアマゾンがいけなかったですよねー。 つまり、私にはよく分からないんですね。 レビューに、例えば「数ページ読んで我慢できなくて売り飛ばした」なんて書くことの意味が。 一方、そんな事を書いてはいけないと言うレビューもあったりします。 でも、それにも、「なぜそんなことを書いてはいけないのか分からない」という趣旨の感想がひっついていたりします。 筆者村上春樹に対する人格攻撃の文章も結構あったりします。 これって、なんなんですかね。読者というのは、そんな権利まであるんですかね。 こんな言い方をすると、ある種のレビューアーからはいっぺんに馬鹿にされてしまうかもしれませんが、作家に対してであれどんな職業人に対してであれ、正当に行われた「仕事」に対して、最低限の敬意さえ払う必要がない場合ってあるんですかね。 そういえば、昔、安部公房が「地獄への一本道は善意に満ちあふれている」みたいなことを書いていましたしー。 それに、上記の私の文の「正当」とは何かについても、人によっては諸説ありそうですしー。 安部公房といえば、またこんな文章も思い出しました。 「なぜ書くか」と自問して、公房が自答していた文章です。 この質問はたぶん倫理的なもので、論理的なものではないはずだ。論理的には質問自体が答えをふくんだ、メビウスの輪である。作家にとって創作は生の一形式であり、単なる選択された結果ではありえない。(『死に急ぐ鯨たち』) こういう角度から、アマゾンのレビューを見ると、かなり整理されては来るのですけれど。(やはりポイントは100万部以上売れたってことですかね。) ともあれ、今回は、冒頭の小説の読書報告をほとんどしていません。 こんなケースは、本ブログには過去にも結構あったりするんですが、今回はこの終え方については、個人的にとっても苦いものを感じます。 いずれ、本作の「騒動」が落ち着いてから、再読し、また考えてみますね。 でも、一言だけ。 私は一読、とても落ち着いた深いところまで歩んで来たものだという感想を持ちました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.30
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『若き日の想ひ出』武者小路実篤(角川文庫) 上記小説の読書報告の後半であります。 前半は何を書いていたかと申しますと、芸術作品とタイトルはどう関係するのか、と言うことだったと思うのですが、実はわたくし、先日神戸にある「横尾忠則現代美術館」というところに行ったのであります。 横尾忠則氏につきましての私の知識というものは誠にお粗末なものでありまして、……えーっと、以下くらいでしょうか。 1.むかーし、少年マガジンの表紙のデザインをなさっていた。 2.むかーし、唐十郎とか寺山修司のお芝居のポスターを作っていらっしゃった。 3.確か、カルロス・サンタナのあるLPのデザインをなさっていた。 4.そして兵庫県の出身でいらっしゃった。 こんなものでしょうか。 だから、ほとんど初めて横尾氏の油絵とかを拝見したのですが、今回、何にも知らずに美術館に行ったら、現在展示しているテーマが「字は絵のごとく絵は字のごとく」というテーマで、画面中に言葉の描かれた絵画ばかりでありました。 もう少し具体的に述べますと、タイトルが絵の中に描かれているわけですね。 前回の本ブログで、私は、文学以外の芸術作品では、「作品名が作品の一部を成しているとは所詮言えない」と書きましたが、この横尾氏の作品の場合となると、なかなか微妙なものがありますね。 展示されている各絵画の横に、控えるようにこれも展示されている簡単な説明文にも、横尾氏が絵画と文字の関係についてかなり様々な試行をしていることが書かれてありました。 なるほど、やはりいろんな人がいろんな事をしているものですよねー。 ということで、やはり芸術についてはそう簡単に何でも断定的には言えないものだということを、愚かなわたくしは学んだのでありました。 ほんと、知ったかぶりしてあれこれ書かなきゃよかった。 ということで、今回のテーマですが、……えー、何だっけ。……。 あ゛、冒頭の武者小路の小説でありました。 そもそも武者小路の小説のタイトルがひどいんじゃないかと言うことですね。 「ひどい」なんてことは、前回全く述べていなかったのですが、横尾忠則タイトル含み絵画事件を真ん中に挟みまして、わたくし、少々攻撃的になっております。 本当は前回書き出す前に書こうと思っていたことが3つあったんですね。これです。 1.タイトルのあまりにノンシャランなこと。 2.文体のあまりにノンシャランなこと。 3.恋愛小説としてあまりにノンシャランなこと。 以上なんですが、1だけふれました。2については、特に初めの方、地の文の文体が常体敬体ごちゃまぜで、これはその効果を狙っているわけでも何でもないだろう、推敲・校正の折りにでも直すべきだろう、と言う趣旨でありました。 3については、これは読んでいただくと一発で分かるんですが、これだけ何というか「厚かましい」とでもいいますか、こんな厚かましい恋愛小説を読みますと、そもそも恋愛小説って何だっけという、誠に根元的な疑問が改めて浮かび上がってくるんですね。(もしそこまで考えての本作ならば、それはそれでとても素晴らしいといえます。) で、繰り返しますが、「恋愛小説」とは、いったい何が書いてある小説なんでしょうか。 というふうに改めて振り返って考えてみると、この武者小路氏の小説が我々に提示している小説の佇まいというものが、実に独創的であることが分かります。(あ、攻撃的じゃなくなった。) たぶん世の中には星の数ほども恋愛小説があるはずですが、オリジナリティという意味で言えば、これほどオリジナルな「恋愛小説」はないように私は思います。 その理由を、ひとつだけ挙げておきますね。 恋愛小説というのは、究極の所、いってみれば、「三角関係小説」じゃないですかね。 そうじゃないですか? しかしこの小説は、徹頭徹尾「二角関係小説」です。 そんなので恋愛小説が書けるんだろうか、とお思いの諸兄。 ここに実物があります。 何と言いますか、実に、不可思議な、そしてやはり評価されるべき恋愛小説でありましょう。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.23
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『若き日の想ひ出』武者小路実篤(角川文庫) どうでもいい事柄のような気もしつつ、一方でこれをどうでもいいと言っていいのかなと思う事柄から入っていきます。 その一つは、この本のタイトルです。 このタイトル、どう思います? まー、そもそも、芸術作品とタイトルの関係というものはいったいどういったものなのか、今まで私はあまり考えたことはありませんでした。 「芸術作品」と書いたのは、ふっと文芸芸術以外のことを頭に浮かべたからでありまして、つまり一方の典型に位置するのがクラシック音楽ですね。 クラシック音楽の世界には、少々下品に申しますと「タイトル、クソくらえ」の長い伝統があります。 「タイトル、クソ食らえ」はやはり少々下品すぎる言い回しでありました。訂正いたします。 要するに、タイトルには意味がない、という伝統がクラシック音楽界にはありますね。 例えば『交響曲第6番』と言うタイトルに、作曲家が6番目に作った交響曲という以外の意味はなんにもありません。 考えてみると、鼻白むほどに、実に即物的であります。 一方美術作品はどうでしょうか。 例えば、『最後の晩餐』……。 ……なんか、これは少しは意味があるような気がしますね。 でも、やはり、ちょっと、関連性は低いという気もします。 『ゲルニカ』なんてのは、どうでしょう。 これは地名ではありますが、歴史的にある象徴性を持った地名になっていることで(例えば「ヒロシマ」なんてのもそうでしょう)、ピカソの絵画のタイトルとしての『ゲルニカ』に大いに意味はありそうに感じます。 もしこの作品に違うタイトルが付いていたら、我々の印象はかなり変わっていた気がします。 とはいえ、やはり音楽や美術は、作品名が作品の一部を成しているとは所詮言えないでしょうね。 だってタイトルは言葉であり、音でも空間でも色でもありませんから。 そう考えると、タイトルと作品について考察する価値があるのは、やはり文芸作品だけと言うことが、まー、今更ながら、少し分かりました。 では、タイトルと文芸作品の関係ですが、そもそもタイトルとはどのようにつけるものなのか、私は以前何かの本でちょっと読んだことがありました。 大体この3つの付け方だそうです。 (1)主人公 (2)象徴 (3)テーマ 例えば『三四郎』なら(1)、『それから』なら(2)、『こころ』なら(3)、といったところでありましょうか。 なかなかうまく分類できそうですね。 ところが、今私はあまり何も考えずに漱石作品を例に挙げましたが、漱石作品のなかには上記分類ではどうしようもない作品が一つありましたね。 そう。『彼岸過迄』ですね。 このタイトルは「彼岸過ぎあたりまでこの小説を朝日新聞に連載する予定だ」という、いわば作家の業務メモではありませんか。 こんなん、ありですかぁ。 漱石という人は、そもそもタイトルにあまりこだわらない人なんですよね。 『吾輩は猫である』と言うタイトルは高浜虚子が決めたとか(でも候補を二つまで漱石が絞った後の、その一つと言うことですが)、『門』は小宮豊隆と森田草平が決めたとか、それらしいエピソードが幾つかあり、そしてそれが、一種の「英雄伝説」になってしまっているんですね。(これもふっと思い出したのですが、確か村上春樹は、漱石はタイトルの付け方がうまいと褒めていましたが。) とにかく、「文豪」漱石がそうなんだからと、タイトルに対して「ノンシャラン」なのがかっこいいということにでもなったのでしょうかね。 しかし一方で、こうも思うんですね。 タイトルは、結局の所結果オーライで、タイトルだけこだわることは出来ないんじゃないか、と。 「これはタイトルがいい」と思う作品は、当たり前なのかもしれませんが、結局内容が良いからで、例えば『戦争と平和』が別のタイトルであったところで、我々がこの文芸作品の評価を変えるとは思えませんよね。 では、冒頭の私の問に戻るのですが、この小説のタイトルは、いいタイトルかどうか。 そもそも、このタイトルでは小説かどうかさえ分からないような気がしませんか。 私は、この本を古書店の棚から手に取る時にそう思いました。(もっとも一方では、小説のようなタイトルを付けておきながら、内容は実に下らぬ身辺雑記めいた小説もありますから、まだ良心的なのでありましょうか。) ……うーん、なんかまた「ぼやき漫才」めいた展開になってしまいました。 読後すぐの感想は、「ともあれやはり武者小路実篤はすごい」であったのですが……。 ちょっとだけ次回に続きますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.16
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『てんやわんや』獅子文六(新潮文庫) 本文庫の解説を大井公介(この方の名はどこかで聞いたような気もするんですが、よく思い出せません)が書いています。本作は昭和二十三年に毎日新聞に連載されたが、私(大井氏)が昭和十九年にある随筆を書いたら、その文中の「てんやわんや」の表現が校正の時に「判読できない誤植?」と注されていたとありました。 そう言われてみれば、「てんやわんや」とは、多分なんだか上を下への大騒ぎといった意味ではありましょうが、一体どこから来た表現なのかよく分かりませんね。 で、広辞苑を開いてみたら、さすが広辞苑ですね、しっかりと言葉の歴史を踏まえた説明がしてありました。ちょっと写してみますね。 てんやわんや=(「てんでん」(手に手に、各自勝手にの意)と「わや」「わやく」(無茶苦茶の意)との二語が結合してできた語)われがちに騒ぎ立てるさま。互いに先を争って乱雑なさま。てんでんかって。稗史億説年代記「はてさて何処からも--な事はいわせますまい」 なるほど、やたらと( )の多い説明でありますが、てんでにわやくちゃ、から来た言葉だということがとってもよく分かります。 それがわかったところで、本小説のタイトルとしての『てんやわんや』ですが、……えー、何と言いましょうかー、わたくし、この小説のどこが「てんやわんや」なのか、さっぱり分からないのであります。……。 そもそも獅子文六の小説を読んだのは初めてでありまして、実は獅子文六の小説に私は長く興味など持ったことはないのでありました。それがなぜ、今回の読書に至ったかと申しますと、今まで本ブログの何度か名前を出している『筑摩現代日本文学大系全九十七巻別巻一』でありますが、私の部屋にあるもので、まーちょいちょいその背表紙を見ます。 最近はこのようなブログをしているもので、背表紙にある明治以降の小説家の作品も、多い少ないはありながら、一度は読んだことのある方がかなり増えてきましたが、その中に『大仏次郎・岸田国士・岩田豊雄』という巻がありまして、これが三人とも読んだことがありません。 読んだことはなくても大仏次郎は(名前が変わっていて記憶に残りやすいということもあって)『鞍馬天狗』や『天皇の世紀』の作者だなと聞きかじっていたり、岸田国士についても(娘が岸田今日子さんだという知識があったりもして)確か劇作家だなというぼんやりとした理解がありました。 しかし岩田豊雄だけ全く存じ上げる切っ掛けがなかったんですが、獅子文六がこの方だと知り、興味が繋がり今回の読書に至る、とこういう訳であります。 ところが、申し訳ないながら、本作がわたくしちっとも面白くないんですね。 冒頭にどこが「てんやわんや」なのか分からないと書きましたが、主人公はちっともてんやわんやしていないんですね。 ここで踏ん張ったらてんやわんやしそうだという個所はないわけではないのですが(「四国独立運動」なんてのは、本作中唯一出色の着想でありますが、なんとも尻切れとんぼであり)、そもそもの主人公の設定はそういった面倒から背を向ける小心者という風にされています。 背を向けながらも巻き込まれるというのなら、それはそれで面白いのですが、作品の展開そのものが主人公の性癖そのままに騒動から背を向けまして、だから小説がちっとも「てんやわんや」してきません。 ……うーむ、とわたくし、ここで考えたんですね。 それは、いったい面白くない小説とは何か、ということであります。 以前、小説の面白さについて少し考えたことがありましたから、それをひっくり返せばいいかとも思ったのですが、どうもそうではないようです。 本作を読んで(私が勝手に、いわば申し訳なくも読者のささやかな「権利」として本作を「面白くない」と思い)、面白くない小説とはどんなものかと考えついたのは、いわゆる常識的価値観から飛び立たない小説ではないか、ということであります。 作り物だと分かりつつ、ウソ話だと納得しつつ、なぜ我々が小説などというものを読むのかと言えば、それはやはりそこに新しいものを見たいからでありましょう。 それは特に、ものの見方についてそうではないかと思います。そしてものの見方とは価値観のことであり、我々は、小説に斬新な価値観をこそ発見したいと思うのではないかと私は考えるに至ったわけであります。 もっとも、三島由紀夫は小説について、正体を捕まえたと思う端からするりと抜け出すものこそが小説であると、述べていましたが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.09
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『新釈諸国噺』太宰治(青空文庫) 太宰治の上記作品は、十二作収録されてあるうちの半分が昭和十九年に雑誌に掲載され、残り半分は昭和二十年に書き下ろしとしてまとめられて単行本となりました。同筆者の、昭和二十年に書き下ろし作品として発表された『お伽草紙』と並んで、太平洋戦争末期における、国策文学ではない、数少ない文学作品であります。 確か以前、文芸評論家の奥野健男が書いていました、この時期の日本文学の伝統を引き継いで作品を書いていたのは、ほとんど太宰治ひとりじゃなかったかとの指摘は、大いに的を得ていると思います。そしてそれに合わせ、昭和初年、あれだけほしがっていた芥川賞を貰えなかった太宰が、佐藤春夫に「文壇サヨナラ・ゴルゴダの丘」という言葉をしたためた葉書を投函していたことを思うと、なかなかいろんなことを考えさせるものであります。 さてそんな『新釈諸国噺』ですが、上記に並んで書いた『お伽草紙』が太宰の最高傑作ではないかという評価をされ、私自身も何度となく読んだのと比べると、自分で並び称しておきながら、こちらはちと華やかさに欠けるような気がして、十二作全作をまとめて読んだのは、今回が二度目くらいではなかったかしらと思うのであります。 今回通読してみて、確かに『お伽草紙』よりもかなり地味な感じがしました。そして色彩感に欠けると同時に、テーマの多様性についても、トーンが単一で、やや変化に乏しい気がしました。 そんな中で、いかにも太宰らしい人間観察を感じたのが、第一作目の『貧の意地』であました。 といいますか、実は本作を読む前に、私は真山青果の『小判拾壱両』という戯曲を何も知らずに読みまして、あ、これも太宰が「リメイク」した西鶴作品と同じじゃないかと知ったのでありました。 しかし、微妙に太宰の『貧の意地』と異なっていて、私はその違いにとても興味深いものを感じました。そして、これは一つ原典に当たらぬ訳にはいかないだろうと思い、私は西鶴の本(この二作の原典は『西鶴諸国ばなし』であります)を近所の図書館に借りに行ったのでありました。 で、西鶴の原典の本を借りたのですが、その内容に入る前に驚いたことがありました。 そういえば太宰の本作のはしがきにも「原文は、四百字詰の原稿用紙で二、三枚」とあったのですが、なるほどとても短い、驚くほど短いということであります。 なにかそれは、あっけにとられるような短さであります。この短い話を十倍くらいに広げた太宰も凄いとは思いますが、原稿用紙わずか二.三枚にこれだけの深さのある話をまとめた西鶴が、やはりとんでもなく凄いと、今更ながらわたくしはつくづくと思ったのでありました。 初めて西鶴の二.三枚を読んで分かったのは、太宰の方が原作のストーリーのままに書いてあるということでした。 太宰作品と真山作品のもっとも大きな違いは、この話の肝である一両を出した人物を、真山作品は明示しているというところですが、これは完全に真山青果のオリジナルでありました。真山作品は、そのほかにも全体の結構を大きく変えていました。 で、私は思ったのですが、両作品の優劣比較ではなく、太宰作品に焦点を絞って考えてみると、『貧の意地』のクライマックスは終盤のこの部分ではないか、と。 七人の客は、言われたとおりに、静かに順々に辞し去った。あとで女房は、手燭をともして、玄関に出てみると、小判は無かった。理由のわからぬ戦慄を感じて、「どなたでしょうね」と夫に聞いた。 原田は眠そうな顔をして、「わからん。お酒はもう無いか。」と言った。 落ちぶれても、武士はさすがに違うものだと、女房は可憐に緊張して勝手元へ行きお酒の燗に取りかかる。 私は、この部分の「理由のわからぬ戦慄」と「眠そうな顔」をする亭主との対比の中に、太宰が終生様々な形で作品のテーマにし続けた、「小さな必死の者」とでも言えそうな、やはり美しいという表現が妥当である存在が見えるような気がします。 ではこの部分を、西鶴は一体どう書いているのでしょうか。 あるじ即座の分別、座なれたる客のしこなし、かれこれ武士のつきあひ、格別ぞかし。 さすがに西鶴の表現も実に見事なものであります。 なるほど、この原典があって、またこの太宰の「リメイク」ありと言うところでありましょうか。まことに両者共に絶品でありますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.06.02
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