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『幽界森娘異聞』笙野頼子(講談社文庫) ……ふーむ、どーも、よく分からないのですがね。 何がって、……何がといわれれば、なんとなくますます混乱してくるのですがー。 ……えーっと、この筆者の作品についてはわたくし、前に一度報告していますね。 その時、返り討ちにされたと私は書いているのですが、性懲りもなく、今回も勝手に勝負を挑みそしてやはりぼこぼこにやられたという感じでありましょうか。 一つ分かったことといえば、この筆者の書く作品は、どういう方向であるかは定かならねど、ますますヒートアップしていると言うことであります。 どんどん過激になっているものの一つは、例えば、高橋源一郎の楽屋落ちフラグメントの如き描写でありますね。 ただ「楽屋落ち」と書くには、日本文学には偉大なる楽屋落ちである「私小説」の伝統がありますので、なに、それは伝統に倣っただけであるといえないわけでもありません。(かなっ?) 例えばこんな感じですね。 そうそうここで、いきなり森娘の経歴賞罰をさっと書き写す。別に「ストーリー展開の必要上(COMで覚えた言葉だ多分)」って程のものではないけど森娘とは、何かを、今から最小限説明する。残念、フィクションとして勝手放題しようと思っていたのに。でも「○○の娘、だけでは誰か判らない」と人々から言われたからこんな事に。だがまあ、ここに書いてあるどなたかの経歴と森娘本人とは何の関係もないと誓っておきましょう。 どうですか。少し古いところでは、確か、筒井康隆がこんな感じでストーリーを展開する小説を書いていたように思い出しますが、えー、何と言いますかー、こんなことって、本当に書かねばならないんですかね。 とにかく私は、一つはそれらの記述に、ちょっとついていけませんでした。 ただ読みながら、いろんな事は考えたのでありまして、例えば、そういえば谷崎潤一郎の『吉野葛』なんて小説もこんな風な展開じゃなかったかしら、とかあれこれ思い出していたんですね。 でも、『吉野葛』そのものの内容を私がすっかり忘れているものだから(いえ、ちょっと文庫本を取り出して軽くおさらいをすればすぐに確認はできるんですけれども)、本当に谷崎作品に似ているのかどうかはよく分かりません。 そして二つ目、次にちょっと私が堪えられなかったのは、これもそういえば吉行理恵の小説を読んだ時に感じたことだったよなーとか思い出したのですが、本作の大切な部分を占めている(んでしょうな、たぶん、よくわかんないんですが)のが「猫話」であるということであります。 猫話、ってありますよねー、やはり。 あいかわらず、いろんな人が書いていそうでありますね。 そして、これは私の偏見かなとは思うんですが、どーも猫話って、客観性に欠けて自閉的な気がするんですがねー。 やっぱり偏見でありましょーかねー。 そんなこんなを思いながら本作を読んでいましたら、後半にこんな事が書いてありまして、とても興味深かったです、これ。 この前の連載に入れようと思って入らなかった文章が今、目の前のディスプレイに出てる。「純文学の判らない読者その一、それは活字をぜんぶ現実だと信じてしまう人。その二、文章の醍醐味を楽しめない人。その三、作家らしい生活をしていないというだけの理由で、その作家の作品を読まずにけなしている人。その四、新しい小説の前ですぐにオレこれ食えないからこんなの要らないとか言ってしまう人、その五、物語を読むためにだけ小説を読む人、その六、今の小説を全部古典・神話の本歌取りと勝手に決め、一番どうでもいい部分を各々比較検討する人、その七、二との関連で境界例作品の通俗部分だけを読んで意見を言い、だからこの作品は意味ないとか平気で言う人……」 ……、うーん、まー、本作に返り討ちされたって事で言えば、わたくしも「純文学の判らない読者」なんでしょうねぇ。 じゃ、私はその何番に当たるのだろうかと、ちょっとじっくり読んだんですが。 うーん、五か六の後半あたりか、七の「境界例」ってのは、何のことかよく知らないのですがー。 とにかく一つ判ったことは、やはり私は最前衛の文学作品については、どーもその文法が判っていないってことでありましょうか。 でも、でも私は、純文学については、(判っちゃいないくせにではありましょうが)今しばし、フェイバレットでいるつもりであるのですが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.11.17
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『臍の緒は妙薬』河野多恵子(新潮文庫) 例えばこんな文章であります。 お坊さんに会って、「妹でございます」と峰子が挨拶した時、「ごきょうだいを亡くされますと、親御さんをお見送りなさった時のとはまたちがったお気持ちで……」とおっしゃる。流石にお坊さんだけのことはあった。悲しさにかけては、親の死――二度目に会う親の死だった母の時でさえ、もっと悲しかった。だが、自分たちが孤児になった時とはちがう淋しさがあった。ひやひやする風が肩先に触れはじめたような、初めて経験する淋しさであった。(『臍の緒は妙薬』) うまいものですねー、全く。つけ加えねばならない補足というものがまるでありません。 難しい言い回しはまるでなく、それでいて必要にして十分な説明が見事に描かれており、そしてなによりどっしりと落ち着いた流れような文章の存在感は、読んでいてとても心地よいものになっています。 次は、この見事な文章をさらにちょっと捻ると、こんな感じになります……。 二日目の土曜日には、講堂で学芸会がありました。プログラムの最初、全員が座席で起立し、唱歌の松永先生のピアノで、皇太子殿下御誕生の奉祝歌を斉唱した。ラジオはその歌を始終放送してきたし、黒板に歌詞が書かれたままの唱歌教室で各学級ともその歌を習った。子供たちはとっくに馴染んでしまっている歌ですが、高等科の生徒を含めて全員一緒に新しく練習し直した斉唱なのでした。(『月光の曲』) どうですか。でもこの文体は、なんだか少し不思議な文体になっていますね。 それはまず、日本語に特徴的だと言われていますが、主体を明示していない文章だからのように思えます。 確かに他の個所では、個人的な感想めいた表現が出てきておりながら、誰がそう思っているのか分からないようになっていたりしています。 しかし文章の流れに任せながら、たゆたうように読み進めていけば(引用部は短くてそこまでは浸れませんが)、そこには昭和十年代に児童であった女子の視線がほんのりと感じられ、さらには上記のように彼女が文体の常体と敬体を混同させながら描いている、たどたどしくもリアリティ溢れる描写であることが納得されます。 全く、恐ろしいような豊かな文体の力でありますね。 ……そもそも女流文学、といえば語弊があるのかも知れませんが、女性作家には、こんな緻密で正確で豊かで、そして少し粘着質的に偏っていそうな文体の方がいらっしゃるように私は感じるのですが、別に女性に限ったことではないのでしょうかね。どうも私には、女性作家特有に思えて、でもこれって、女性への偏見でしょうか。 例えば、野上弥生子とか円地文子なんて人が、私にとってはそんな感じの方なんですが、この河野多恵子も間違いなくそんな方ですね。 そもそも河野多恵子と言えば、取り上げているテーマの多くが、既に強い粘着性を感じさせますものね。 今回の短編集に描かれているものも同様であります。 総題にもなっている短編は、自分の臍の緒の在処形態にこだわる女の話であります。(私も今まで少しは様々な小説を読んだつもりでありますが、臍の緒がキーワードになる小説ってのは、流石に初めてであります。筆者のとんでもないオリジナリティを感じます。) その外にも、亡くなった亭主の運勢を、亡くなっていることを告げずに易者に見てもらう女の話とか、子供のない妻が、もしも亭主との間に子供が産まれていたらその子はどんな顔になるだろうかと、コーンスターチを使って子供の顔を作る話とか、……うーん、こうして並べて書くと、実に粘着的テーマで彩られた短編群であることがわかりますなー。 しかしこういった、まー、理性の枠を飛び越えているといいますか、まー、はっきり言って変態的な欲求は、確かにそれが他人の性癖であるならば、我々は「アブノーマル」の如くにも感じましょうが、もしも自らの内面にそれが現れた時は、少々やばいかなとは感じつつも、自分ではいかにも止めようがなく、そもそもその欲求に対して、自分では割と「整合性」らしきものを感じるもので、従って止めようと言う強い意志のうまれないままどんどん浸っていくものであります。 実はそんな欲求こそがいかにも文学的な欲求であり、そしてそれが文学的であるということは、本短編集の諸作品に共通して漂っている文学的なサスペンスの感覚や、うっすらと感じる神経症的な恐怖感からも分かるのですが、それらが、我々がうまれて生きていることの不安と不思議に直結している重要な課題であることを、如実に語っているのであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.11.04
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