ずっと忘れない日がある。昭和58年(1983年)7月22日、1回戦最高の好カードと言われた下関商業との試合は3対3で延長となり、10回表、6点を一気に取られて敗れたその日。
その試合(も)、控え内野手で代打要員の背番号10番は一塁コーチャーとしての仕事のみで打席には立てなかった。(それでもすごく疲れたが…)
代打ではなく、最終回に守備要員(守備が不安で控えだったはずだがw)としてセカンドを守って出場したら、相手打者がセカンドからサードに移った選手を狙ったセーフティーバントを試み、1球でチェンジとなった…。球飛んで来なくて良かったが(笑)、正に何もせずに高校野球が終わった。
小学校の町内対抗ソフトボールでは、鬼監督だった父の強引な手腕もあり、弱小地区だった山の口町が、ベスト4や準優勝…その息子も一部の他地区のコーチ等から天才扱い(爆)されていたこともあったのだが…。
それだけに「今日は出るかも」と思い試合を見に来ている父はどんな気持ちだったのだろう…高校野球であまりにも活躍しない息子(ちなみに兄は反抗してサッカー部w)…という後ろめたさもあり、その頃の話は大人になってもあまりしなかった。
それからちょうど38年、2021.7.22オリンピック開会式の前日に、83歳で父は逝った。
7
月初めに脳血栓で倒れて救急搬送された時は「 2
週間程度で退院」と聞いていた。家で倒れた時、ろれつが回らない状態で母に必死に何かを言っていて、「これに書いて」と紙を渡したら右手がマヒしていて、左手で必死に書いた文字が「119」だった…という、「書かせるよりもまず救急車だろ!」というブラックジョークのような話が、その後、元気になっていれば笑い話になるはずだったのだが…。
入院中に左手にも新たにマヒが出たことでしっかり検査をし直すと、 7
月 9
日の段階では、脳の血栓は2つ、栄養失調で管を入れている、腎臓に影がある、血尿が出ている、両手や足のマヒ、熱も出ている…と今思えば結構深刻な状況になっていた。検査が続き、医師から検査結果を説明されるまでの期間、コロナ関係の面会禁止で母は会えず、医師の電話待ちだった。
そして、7月19日に家族(母と兄)に「腎臓がん」であること、腰骨などに骨転移があることの説明があり、そのまま医師を伴って本人へのがん告知に病室に行った。父は、面会禁止なのに現れた二人に相当驚いていたようだ。相当悪いなと覚悟したのかもしれない。告知を受けた時に父の意識はしっかりしていて、倒れる前の 1
か月間、食欲不振でかかっていた近所の内科医のことを「○○のやつ…」(がんを見逃して的外れな食事療法をさせやがって…の意か?)とつぶやいた。医師が今後の治療計画を示したこともあり、「すぐに死ぬようなことはないだろう」と家族もそこそこ長い闘病を覚悟した。
が、その告知までの間にも、尿の排泄がうまくできなかったり、肺に水がたまったり、自発呼吸が困難になり酸素マスクを常時つけていたり、主因の腎臓がんの治療はできないままだった。
昨夏は新型コロナのことで帰省できなかったので、もう2年会っていない。これはとにかく一度早めに見舞いに行こう…と、やっと受けられる2度目のワクチン接種の後、8月に…と計画し始めた。単身で行くか妻子も一緒に行けるかどうか…と。
しかし、 7
月 21
日には多臓器不全の状態になり、「現在の状態から脱却することは極めて難しい」「治療に反応がなければ数日以内にお亡くなりになる可能性が十分にあります」との説明を受けたと夜に連絡が入った。
そのまま荷造りをはじめて、7
月 22
日早朝 4
時に単身で始発電車より早いバスで出発。これなら新幹線小倉経由で11時47分に下関駅に着く。
兄は家族で見舞うつもりで病院に朝電話をしたら、午前は治療があるので午後の方が良い…と言われ自宅待機中(だったか会社に一度行ったか)。
11
後から考えると、いつもせっかちで、結構「かっこつけ」の人だっただけに、「死ぬとなったら苦しまずにスッと、家族にもその姿を見せずに…」は、本人の狙い通りだったのかもしれない。病院で姿を見た時、つらい症状が 1 か月弱続いていた人とは思えないほど、穏やかな表情をしていた。
一度お見舞いにと帰省したはずが、 4
連休のうちに葬儀まで済ませることになった…。
こんなに早く使うことになると思っていなかっただろうが「俺が死んだら」という題名のA4サイズの白封筒の中に連絡先や口座番号や遺影の候補写真や喪主がやること…などの印刷物があったのは助かった。まあ、その題名はどうかと思うが(笑)
お通夜まで忙しくて気が張り詰めていたが、間もなく始まる…というタイミングで大混乱。5人の家族葬だったはずが母の連絡の仕方も悪かったのか、一部の親族がコロナのこと無視で誘いまくって、「17人いる!」の突然の状態に「受付」の仕事をひとりで始める故人の次男…。「御香典にはさわれませんので…」と打ち合わせで言っていた典礼会館の方も見かねて、「大丈夫ですか」と声をかけてくれたので「いっぱいいっぱい…いや無理です」と返事をするとてきぱきと手伝ってくれる。
あまり付き合いのなかった父方の親族に振り回され、大汗をかいた後に、やっと式場の席に着いて悲しみに浸り始めた。遠方でコロナ禍の今は来られない母方の親族(言葉通り親しい一族w)の弔電にうるうる…。
家族からの聞き取りでつくられた「故人の人生の系譜」みたいな文章がすばらしく、ちょっと本人の実態と違うことも含めて泣き笑い…。
そして、お経が始まると、モンゴルのホーミーのような倍音成分豊富なお坊さんの声に酔いしれた。いつの間にか夢の中…というか、少し夢を見るほど寝てしまった…。手元の数珠、2回落ちる…。
大阪旅行 その2 2023/07/28
大阪旅行 その1 2023/07/27
福岡旅行 その3(宗像・門司) 2023/07/26
PR
フリーページ
購入履歴
キーワードサーチ
コメント新着
サイド自由欄