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27歳~29歳くらいにかけて、海外ボランティアであちこちの国に行っていた。なにができるわけでもない、けれども行って、見て、触れ合うだけでも、無力な私でも、なにもしないよりは、ましなような気がしていた。日本から来ましたと、握手して笑顔を振りまいて、仲良くしましょうよって、それだけでも。友人たちは、結局協力してくれた。物が集まりすぎるからと、集めるものを限定して集めることにした。家族だけでなく、その知り合いや会社なんかで少し声を掛けたら、使っていないボールペンと鉛筆、ゲーセンで取った、いらないぬいぐるみは大量に集まった。手渡しすることを、やろうと思えばやれるんだと、知れただけでも収穫だった。行く前の数年は、かなり生活を切り詰めて、貯金をしていたけれど、嘘のような現地の物価の安さに、現地での生活はいくらでも続けられるような気がした。貧しい国の生活の質素さと、円の強烈な強さに、日本という国の強さを実感した。貧しい国の人たちは、日本人というだけで私をうらやましがっていた。そんなもの、得意でもなんでもない、妙な気分だった。恵まれた職場を辞めて、日本を出るとき、よく聞かれたものだ。好き勝手していい年かどうかを考えろ、将来はどうでもいいのか、結婚とか、子供とか、安定した家庭とか、平凡でも普通が一番とか、考えているのか?と。言ってしまえば、考えていなかった。『なにそれ、幸せってそういうものなの?? 』私は逆に聞いてみたかった。でも私は、それは思いあがりに満ちた勘違いだったことに気付かされる。世の中には、とんでもない人がいるものである。半月ほど滞在した国では、いまだに植民地のように人が使われている現状を見せていただいた。そのときに一緒だったイズちゃんは、いろんなNPOに関わっている人で、トランジットで寄ったクアラルンプールで時間をつぶしているときに、話しかけられた。「ねぇ、日本に帰らないで一緒にカンボジアに行かない?」カンボジア・・・たしかに、マレーシアのクアラルンプールからなら、近い・・・日本よりは。イズちゃんは、あちらに顔が利く人がいるから一緒に行って、しばらく活動しようと言う。カンボジアは当時、歴史的な総選挙にて、政治が動き、民主政権がやっと落ち着いた頃だった。その以前は酷かった。政党の主義への反発者を探し出し殺す内戦により、大量虐殺の話が絶えなかった。ベトナム戦争の巻き添えで亡くなったのはどのくらいの人だろうか。でも、戦争ではなくて、政権争いと、それに関連した民族紛争で亡くなったのは、数百万人。実は、こっちの方がすごい人数だ。他の国が首を突っ込んで、それぞれが支持する政党に武器を渡した。まさに「主義」の争い。特権階級同士の私利私欲と思想の争いは、虐殺になり。お年寄りと女子供がいる生活の場で、役人や警察官やお隣さんとも殺し合いだ。まっとうなことを言う知識人は、一番面倒だから、まず殺す。だから、政治のことなど知らないフリをして、バカになるのが一番利口なのである。自分の身近に、一番あって欲しくない社会構造を、究極にした感じがするわ。ポルポトさんは死んだらしいが、その後も虐殺の鎮圧や選挙のために尽力した人たちも殺されている。日本人のボランティアも同じだ。実際に殺されている。今でこそ、アンコールワットに観光旅行なんて行けちゃったりするけれど、当時はまだ不安定だった。首に手拭い巻いたTシャツ姿の農民が、ロケットランチャー持ってうろうろしてたり、子供が遊んでいる道端の、そこいらじゅうに地雷が埋まってたりするんだろ?安全だなんて、まだ誰も言いやしない時期である、私は怖えぇよっ。いざ、カンボジアへと誘われて、私は見ようとしていなかった血生臭い事実を鼻先に突き付けられたような気がした。このままカンボジアに行って帰れなくなったらどうすんだよ、私の将来はどうなるんだろ、結婚なんてできなくなるんだろうか、自分の子供にも会ってみたいよな、小さな家でもいいから持ってみたいな、ちまちま働いて節約しながらでも家族で旅行とか行くんだろうな、安定した将来のためや、子供のため、必死で地道で普通に生きて、そういう人生、そのために、私はきっと頑張るんだよな・・・。えぇ、お恥ずかしながら、この普通の人生という選択肢を捨てる気は、なかったわけです。この普通の生き方を捨てる気が、まったくないくせに、『なにそれ、幸せってそういうものなの??』って思っていたことが恥知らずってなもので、結局、これに納まっている私が、結婚や家庭や子供など、別に欲しいと思ってなかった、などと・・・。「え?私35歳だよ。結婚?しないよ。だってこれが生きがいだもん。 このまま日本に帰れなくても? いいよ。日本に住む気ないもん。たまに金稼ぎに帰る。」このイズちゃんを前にして、イズちゃんが、その高慢なセルフを吐くならともかく、私が言うなよ!!!と、(思ってただけで言ってはいないけど)やっと自覚したわけで。その後、結婚して、家庭を築き、日本に根を張り、ごく普通に生きていることに、まったく疑問も、もやもやもなく万進できるのは、きっと。世の中にはすご過ぎる人がたくさんいて、私なんて全然、これっぽちもかなわないと心底知り、日本に守られて、普通というものに守られて、小市民として生きるのがせいぜいの器だと、気付かせていただいたからに違いないと、素直に思っています。未来の可能性を限定する生き方はしないつもりだけど、今ある幸せは手放したくない。これが私。今どこにいるかも知らないけれど、イズちゃんに感謝しています。そして、どうか無事でいて欲しいです。
2009.04.28
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ハムちんの会社の後輩が、とにかく病院関係者を紹介して欲しいと言っている。その話を聞いた時、なにか大きな事故でもあったのだろうかと直感した。とにかく話を聞くと伝えてもらうと、後輩君は、休日だと言うのにきっちりとスーツを着て、高価なワインを手土産に、我が家を訪れてくれた。後輩君のお兄さんがバイクに乗っていて事故にあったのは、一ヶ月も前のことで。救急病院に運ばれたときは、即死でもおかしくない状況だったと言う。脊髄を損傷した彼は、回復の見込みの無い全身麻痺の状態で。全身麻痺なので呼吸中枢も動いておらず、喉に穴を開け人工呼吸器にてなんとか呼吸をしている。他にも致命的な損傷を、内臓にいくつも負っており、血圧を低く保ってなんとか維持していた。彼は、私よりも年下で、独身だった。明日死んでもおかしくない、という状況にて、一ヶ月が経ち、奇跡的に彼は、意識を取り戻した。全身麻痺だから体は一切動かすことはできないし、話をすることもできないが、瞬きや、わずかな表情で、少しの意思疎通はなんとか取れるようになったという。後輩君が求めているのは、セカンドオピニオンである。そのとき彼が入院していたのは、地方の総合病院だった。「明日死んでもおかしくない」という主治医の診断は、一ヶ月経っても、意識を取り戻しても覆る事はなく。でも、家族としては、一ヶ月経ち、意識を取り戻したら、希望を持つなと言うほうが酷だろう。「治療はできない」という診断は納得できないに違いない。その病院は、名古屋の国立大や市立大の医学部とのつながりの強い病院だと知っていたのから、病院名を聞いたときから、私は、セカンドオピニオンで診断は変わらないと思っていた。診断は変わらない。だけど、セカンドオピニオンは無駄ではない。セカンドオピニオンって、新たな希望を持つためのものだと思われているかもしれないけれど、実は、セカンドオピニオンで新たな希望を持てることは少ない。だけど、初めの医師の意見が納得できないとき、すごく重要なもので、それが絶望的なものであっても、診断が覆ることがないと知っておく事は、納得できないまま、転院も出来ない状態のままで、死を迎えるよりは、聞いておいた方が、どんなに救われるだろうか。私の勤める病院に、少し有名な大学病院の救命分野の先生が非常勤で来ていたから、セカンドオピニオンをお願いした。私が話をしたとき、先生は言った。「その人を、たとえ助けられるとしても、本人は生きたいと思うのだろうか」私は、たとえ全身麻痺で、一生人工呼吸器の状態で寝たきりあっても、生きていてほしいと言う家族の切実な思いを聞いていたから、先生の言葉は、あまりにも厳しい言葉だった。もともと私は気持ちが顔に出るタイプなので、厳しいと思った気持が、顔に出ていたのだと思う。「助けられる状態なら是非助けてあげたいけれど、僕は、僕が助けた命のせいで 家族の将来がめちゃめちゃになっていく姿もたくさん見ているからね、すまないね」「助けられるなら助けたいしけれど、ダメならダメとはっきり言うしかないから。 それでよかったら連れておいで」さっぱりした先生の、けれども、優しい一面も見れたから、私は後輩君を職場に呼んだ。診断は覆らず、治療不可能。なにもできないままで死を待つしかないと聞かされた後輩君は、真っ赤な目のまま私のいる事務所に現れた。「ありがとうございました。兄との残された時間を大切にします。」私は、セカンドオピニオンで何を言われるのか、知っていて、後輩君がこう言ってくれることを知っていたのに、なんて酷いことをしてしまったのだろうかとどう言ったらいいかわからなくて、ただ、とっさに手をとって一緒に泣いた。あれから一年経つ、彼はまだ、その状態のまま生きいている。奇跡はまだ、続いている。
2009.04.25
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区の福祉課から私に電話がありました。○○党の政治家さんの事務所から、福祉課に電話があったと。○○さんが大変だから相談に乗ってくれんか?という電話で、役所が調べたら担当が私だった、ので、お願いします、とのこと。名古屋では市長選をまじかに控え、政治活動が活発になっております。選挙の時期になると、必ずですね。こういうの。老老介護の低所得家庭とか、身寄りのない生活保護家庭とか、たくさん担当させていただいてるのですけど。名簿でもあるのでしょうか??政治活動の人たちは、こういう家には必ず顔だして、活動してますね。「あなたがこうなったのは、あなたのせいじゃない、日本が悪い、政治が悪い、 日本の福祉は最悪だ。変えなきゃいかんよ。」社会的弱者に耳障りのいいこと言って、まるめこむのはさぞかし簡単でしょ?私には、騙し易い家や人を狙った悪徳商法や、金目当ての宗教勧誘と、同じにしか見えないわ。彼らに必要なのは、支持する政党に彼らから一票をもぎ取ることかしら??飢えて死ぬことの恐怖や、糞尿にまみれて動けなくなることの恐怖に脅える彼らを見れば、必要なものは必然に見えてくると思うのですけどね。彼らに必要なものは、必要な社会資源を、今使うことであるのであって、政党を替えることなど、なんの得にもなりゃしないって、見リャわかる。必要な手立てを必要に行使すれば、そんなことにはならないのだよと、恐怖から開放してあげることが思い浮かばずに、政治活動になるなんて理解不能だわ。それとも政党が変われば貧しさが替わるとでも??景気が変われば、随分変わるかもしれないけどね。そんな確信をどこで持てるのかも私には疑問ですし、なによりも、そんなあやふやなもののために・・・・脅してどーすんだよ。必要なライフラインを知りもしない政治活動家に、脅された人のフォローをするのは、電話を回された私たちですわ。介護や入所を、死にそうになってても拒む人って、めっちゃ多いんです。そういうことも知らずに、無責任に脅すなよ。「困ったことがあれば、電話してください。ここが事務所です」そう言って置いていった名刺に電話しても、結局こっちにかかってくんのにね。この悪循環、ご熱心な活動家は知らないだろな・・・。
2009.04.22
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快晴の日曜日の昼間っから。飲んだわよ。保護者会役員、みなさんお疲れ様でした~!かんぱーーい!って、我が家に集まったのは、なんだか気の合いそな四人です。そのうち、個人的に集まろうねって、練っていた計画がやっと現実になりました。私たちは、進んでやるタイプでもないけれど、かといって非協力的でもなくて、断りきれずにやることになってしまった、ていうお引き受け感があるところも一緒だったし、やるからにはサボれなくて、運動会やバザーでは、常に働いていた私たち。イベントごとはとにかく盛大に、何事にも○理教色の濃ゆーい保育園もどうかと思うけど、宗教関係ないしっ、安全に預かってくれリャいいんだよって、保育園の方針に反発する保護者もどうだ・・・っつう、冷静に両者の主張が見れてしまう、微妙な立場に挟まれており。運動会で旗持ちながら、バザーではカレーやおでん作りながら「なんだかねぇ~」などと語り、仲良くなりました。結局は楽しかった。とは簡単に言えないものがあったからこそ、ちょっと愚痴大会。「でも、こうして保護者友達ができたからいいかっ!」と私が言うと、「そうか?なにも役員で一緒にならなくても、私たちは仲良くなれたでしょ。 私らが楽しくしゃべりながらなんかやってるの見た園長にさぁ、 『そうやって親交が深まって、役員やってよかったですね』なんて言われてさ。 なにも役員じゃなくても深まったわよ!って言いそうだったがね!」・・・・はい(汗)そーすね(汗)。前向きな私の意見台無しっすけど。TT今まで知らなかったことは、私が一番年下だと思っていたのに、実は一番上だったということと。(いつまでずうずうしく年下気分なんだよ私・・・)そして、皆さん、ザルという共通点があったこと。全員が冗談みたいな量のアルコールを持ってきたおかげで、うちの冷蔵庫、すごいことになりました。女四人が高らかに笑い声を上げ、子供六人が運動会のように騒ぎ、おにぎりを食い散らかす、その横でハムちんは、せっせとから揚げやポテトを揚げて、空いた皿を下げていました。あげくの果てには、小さい子以外の子供を車に乗せて、近くの公園に連れて行ってくれたハムちん。口下手だから黙ってはいるものの、愛想に掛けることもなく。ほんとによく働いてくれました。パーフェクト!!!奥様受けは、ばっちりでございます。みなさん、大変羨ましがり。ほんとに、いい旦那さんだ、素敵な家族だと、お褒めに預かってしまいました。実は、ハムちんには、奥様たちが来る事前に、頑張ったらスロットするためのお小遣いをあげようと、金で釣っていたわけで。私の買収作戦が功を奏したってわけなのですが。それは、内緒にしておきましたわ。でへ。
2009.04.20
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うちのハムちんっす。2年おきに、きっちり、そのとき出ている最新型に携帯を買い換えですわ。私が許してしまったら、もっとマメに換えてしまうでしょう。家計に響くから、気が進まないけども一緒にショップに付き合って、私は、最近へたってきた電池パックだけ交換したわ。一緒に二年前に買ったけど、私のはじゅーーーーぶん使えるからと嫌味を言ってみたけれど、にぶちん男は、これが嫌味だと全然気が付いておりません。高ーーい新品をいじって楽しそう・・・。別にね、いいんだけどさ。最新式に変えても、機能など全然使っておらず。取り説読むわけでもなく、以前も全然使いこなしている風ではなかったけれど、以前のものと全く同じに使っていて。「なんか変わったの?」と聞くと、「ちょっとテレビの映りがいい」くらいの感想しか聞けないところが、非常に不満だわ。「そんなんで換える必要あったんかいな?」と聞くと、「だってほら、こっちにもこっちにも開くんだよ!格好いいじゃん!」って嬉しそうに・・・。私はせめて、写真のガソ数が全然違うとかいう、最もらしい言い訳が聞きたかったわよ。かわいい、では済まされないバカっぷりが、目に余って仕方ありません。TT自分のことを賢いと思っている男と結婚すると、さぞかし苦労するだろうという私の目利きは、間違っていなかったと思うけど、バカで開き直っている男もどうかと思う。おバカキャラの男がはやっておりますね。「やったぞ、ついに俺たちの時代が来た!」と喜んでいるハム友人たちは、ほほえましいと思ってしまうけれどね。もう少しばかり、取り繕ってはくれまいか。
2009.04.18
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義姉が病気になり、数ヶ月の入院になると連絡を貰ったのは、去年の7月中旬だった。当時2歳のまほちゃん(仮名)を、どうするのかと問題になった。専業主婦の義姉の入院に、ばりばり働く義兄には、自分でまほちゃんを見るという感覚はなく、実家に丸投げという形で、自分の実家に義姉とまほちゃんを連れてきたのです。義兄の考えとしては、義姉は、自分の実家や、ハム三男家族が住む名古屋に転院する、ということで問題を解決できると思っていたよう。私と義姉は、義母に、「孫の面倒は一切見ない」と、うんざりするほど念押しされていたから、解決するとは到底思っていないのだけど・・・。この家の男は、小言は話聞いてないみたい。黙って付いてきて、ハム実家にいる義姉さんを思うと、本当にかわいそうだった。義姉が入院するまでのほんの数日間。ここにはちょっと書けないな、という。親戚の駆け引きや、理由と言う名の言い訳や、果てには嘘、そういうものが噴出していた。働いている、という理由から、私は無理だろうと初めから対象外みたいだったけれど、話が進まないうちに、周りも私も、私が手を挙げなければ解決しないだろうと考えはじめていた。誰もが、普通は義母がみるだろう、と当然に思っていたことが、話の進まない最大原因で。預かれない、との一点張りに、さぁ困ったと、困っているだけの人たちでは、何も動かない。一応報告を、とおかんに言うと。「あちらのお宅は、みんな裕福な主婦じゃないの!どうして働いて家計支えてるばきが預かるの??2歳児預かるなんてできないでしょ。絶対にあずかってはダメ!!」と、猛烈な反対にあい。喧嘩になり、果てには、泣いて言い合いになったのでした。「ねぇ、お母さん、私と血が繋がっているかどうかなんて、関係なくない? 正月に、今年も宜しくお願いしますって、どうして頭下げてるの? なにかあったときに助け合えなくて、どうして親戚って言えるの? ここで私が知らんふりしてたら、私だって知らんふりされるんだよ?」おかんは、なにかあったときの責任の大きさを憂いているのだろうし、私に苦労させたくないという思いもあるだろうし。義母に対する、納得いかない思いも溜めているのだろう。「ばきがいい顔して苦労しても、あの人はばきになにかあっても、 どうしようって言ってるだけ。こっちに電話もしないでほっとくだけでしょう。 今まで一度でも、ばきが困ってるときに、なんかしてくれたのか?? あんたが乳飲み子抱えて病気したときも、引越ししたときも、誰も助けてくれなかったじゃないか!」「違う、私ははじめからあてにしてないの、頼る気も助けてもらう気もない。そういうことと違う」おかんの憤りは、わかっていたけれど。私は、おかんや、おかんから話を聞いた実姉からの電話を無視して更には、「ほんの少しの期間だけだから」と父に嘘まで伝えてもらい、まほちゃんを預かったのです。同じ人の子の親なのに、どうして、義母もおかんも、義姉の亡くなったお母さんの気持にはなれないのでしょうか。もし、生きていて、義姉やまほちゃんがこんな目に合っているとしたら、絶対に許さないと思うのに。まほちゃんは、突然いなくなった母親を、なんかおかしいとは思いながらも、世話をするのが私だとすぐに理解して、私に絡みつき、しがみつきました。私はまほちゃんに、本当の母親のように接してしまっていいものかどうか、迷いながら、遠慮しながらも、かわいくなっていく気持は、どうしても止められなかった。毎日二箇所の保育園と託児所を往復するのは大変だったけれど、三人でシャワーしてご飯食べて疲れきって寝る生活は、ルーチンになり慣れつつあったかもしれない。まほちゃんが義姉に迎えに来てもらい、帰ったのは9月中旬だった。義姉の退院後、抱かれるまほちゃんを見て、やっぱり本物のおかあさんには敵わないよな、と痛感。退院後、義姉はしばらく私の家に泊まったのですが、その間、まほちゃんは、まさにべったりで、あちらの家の車には喜んで乗るのに、うちの車に乗るのは泣いて嫌がるのです。私の家に入れようとすると、ちがう、ちがう、と義姉に泣いて訴えるのです。2ヶ月も楽しく住んだのにね・・・今まで一度も嫌がらなかったのにね・・・私たちに、まるで本物のパパとママみたいに甘えてくれていたのにね・・・お別れにと、まほちゃんの頬を触ろうとした私の手を、まほちゃんは振り払い、本当のママにしがみつきました。私の方を頑なに見ませんでした。申し訳なさそうに義姉は私たちに謝りながらも、嬉しそうにまほちゃんをぎゅっとしました。帰っていくまほちゃんをハムちんと見送りながら、恐れていた事態に陥りました。私たちが、まほちゃんを本当の子供のように錯覚するまでに、2ヶ月という時間は充分過ぎたのです。見送った後、二人して大号泣していました。
2009.04.15
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善良でいい人たちが沢山でてきて、その人たちに、ズルさや哀しさという、欠点や不幸が見当たらず、爽やかで読み心地良く、世の中がいい人ばかりに思えるような、そんな本を読んだとき。自分を振り返って反省する、とかではなくて、きな臭いなぁ、世の中どんないい人でもダメなとこってあるもんだろうが・・・などと、本屋絶賛ハートウォーミング作品で、こころがブラックになっているとき。
2009.04.15
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10年くらい前に、ソニーが、犬型ロボットのアイボを売り出し、ネット予約だけで即完売だったという話がありました。犬型ロボット?それ、欲しいの?癒されるの?マニアックだなぁ。と当時の私は思ったものです。そのロボットが自由に動き回るなら、どうせなら家中を掃除してまわってくれないかな?それなら私はめっちゃ癒されるのになぁ・・・そんな私が、10年後お買い上げしたものは、アメリカのアイロボット社製、掃除機ロボット、ルンバです。これこそ、私にとって相棒(アイボ)だわ、ふへへ。なーんて、おやじギャグに浮かれながら、部屋中を勝手に動き回り、掃除機かけてくださるルンバちゃんを、満足に眺めるのです。先日、義理両親が近くにいらしたと突然の訪問。義母さん、ルンバを見て「これなーに?」と聞き、正直に「掃除機ロボですよ」と答えた私。あーあ・・・なんか、やってしもうたわ、というような雰囲気が流れてしまいました。義母さんは、良家のお嬢さんが女学校を卒業してすぐに嫁に来た、という人で、社会に出るなど考えたこともなく、頑固一徹、権威の塊のような義父さんに、お使えするようにつつましく従い、家事育児に手を抜かず、男子三人を丁寧に丁寧に育ててきたような人です。これといった趣味もなく、言葉少なく大人しく、舅、姑をお世話して送り出し、やっと、これからの人生は自分のために生きるのだと、自我を出すようになったそうで。そういう義母が、かなり世間知らずチックなことを言っていても、義父も息子たちも、まぁいいわ、、と誰も突っ込み入れない感じがあり。それは、労わりや優しさというには違和感があり、申し訳ないけれど私には、家事や家の面倒ごとを、一切手伝わずに母親に負わせてそれを当り前として接してきた、という男たちの、負い目があるように見えるのです。初めて私が義両親の家を訪れたのは、私たちだけで結婚を決め、借り承諾を頂けたと聞いてから。高級住宅街にある、庭というよりは雑木林の中の、外からは母屋が見えないようなお屋敷だとはつゆ知らず、ハムちんは2DKの離れに住んでいると聞いていたけれど、どんな家なのかもピンとこず。当時乗っていた車高を下げたロードスターをオープンにして、サングラスを掛け、なつかしーオザケンを流してノリノリになりながら、車をどこに停めようかとハムちんに電話したら、偶然家のまん前で、この雑木林が??と混乱しているときに、すぐに道路に出てきた両親に、その車に乗った状態でお会いするとは思ってもいませんでした。ほんとに、お互いに目が丸くなった、という出会いでございました。あれは大失態。もっときちんと段取りしてくれよ、ハム・・・。そんな家に住んでいても、義父の仕事から考えると、収入は、今でこそいいのでしょうが当時の公務員。受けついだ家が、ただでかいってだけ。庭は手入れが追いつかず荒れ放題、夏には藪蚊が大発生して、きっとかなりの近所迷惑でしょう。トイレは昔ながらの離れで、後から無理やりつないだであろう渡り廊下は素人仕事のようなベニアの張り合わせ。広い土間には、塞がれた井戸と釜戸があり。そこに接した、昔は物置に使っていたという部屋に小さなアパートに取り付けるような狭いキッチンがありました。土間を渡ったところに、昔は火をくべて沸かしていただろう、こちらも突貫工事で取りつけたような風呂があり、その風呂から土間に降りて裸で風呂を行きするらしいのです。外気が・・ってかここはほどんど外だろう、という土間を見て、「ここを行き来するときは、心臓に気をつけないと・・・」ととっさに言ってしまったのですが、実は、真冬の風呂上りに、ハムちんの祖母は心筋梗塞を起してしまっただと、後から聞き、「先に言えー」っと、罪のないハムちんを私が怒る、という事件もありました。とにかく、お屋敷とはいえ、住みたいと思えるところではありません。固定資産税の額を聞き、反り返るほどに驚きました。バブルの頃は一か月分の義父の給料が無くなったらしいです。義母さんは、この家に嫁いできて、どんなに苦労してここで年寄りをみて、子育てし、やりくりしてきたのだろうかと思うと、本当に頭が上がらないのです。(それなのにバカ息子のハムちんは、ぼんぼん気分で金使いの荒い奴で、 「親の財産なんて三男には関係ねえな、ひとり立ちすること考えろバカもん」 と唸った私が嫁になって今に至ります)私たち夫婦は、初めから一抜けた~~と同居を放棄してセセコマシイ家を建てており、その後嫁に来た義姉も、あの家では絶対に住めないと言い切っており、前途多難な感じです。話が長くなりましたが、そういう家が、三男の嫁として初めて迎えたのが私でした。初対面が、義母の考えていたような、良妻賢母のお嬢さんでなかったのは明白で、その後も、話がかみ合わないとお互いに感じるような出来事が多く、大変申し訳ない気がしています。お掃除ロボットに目を丸くした義母は、帰る前にハムちんにこそっと言いました。「ばきさんとは、次元が違いすぎて、喧嘩どころかお話にもならない」なんとなく、肩を落として帰る義母の、少し年老いた後姿を見ながら、あーーー、どうもすみませんねぇ、といつもながらに感じるのでした。
2009.04.09
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暖かくなってきましたねぇ。私、寒いの嫌い、厚着(してるけど)嫌い。乾燥した空気嫌い。雪なんてとんでもない。っていう。とにかく寒いのが嫌いで、寒くなるとビーチリゾートへ行くことばかり考えている女です。寒さが増す、秋が深まる頃は一番ブルーになっていて、寒さの峠を越したあたりは、すでに、夏のことばかり考えています。ということで。さぁぁて、暖かくなって、きましたぜぇぇぇ!衣替えって、普通、5月に入ってからですかね?でも私はね、そろそろやっちゃいます。待ちきれないんですもの♪ハムちんのはほっときますよ、ずっとほっといてるから夏のだか冬のだか、ごちゃ混ぜです。私の服と、まひろんの服は、分厚い服をしまいかけております。だから、三寒四温の「さぁん~!」の方でちと困ってしまうのですけどね~。で、手に取りました、まひろんも私もお気に入りの服。成長著しいので、片付けてしまったら、もう次のシーズンには着られないかもしれません。もう着られないかと思うと、ものすごく寂しい気持になりました。それは、大阪のお友達のハンドメイダー「むっちゃん」にオーダーメイドしていただいた服です。ぷっくりおなかが隠れるようにと長めのゆったりプルオーバー。「こんな感じの服」っていうのが私が伝えるのがヘタだったなと思うから、むっちゃんはいろいろ想像して工夫してくれたのではないのかな?頂き物やお古ばかりだったまひろんの服は、派手で子供っぽい色合いが多かったから、私の希望の落ち着いた色合い、と、まひろの好きなピンクを考えてくれて、素敵なイチゴミルク色を選んでくれました。もう一色のグレーのドット柄も、私のストライクだったのだけど、まひろんも見たとたんに「かわいいっ」って大喜びでした。その頃のむっちゃんの日記を読むと、すごく忙しい時期だったようで、頼んでから、大丈夫かなって心配したのだけど、思っていたよりも早く出来上がったから、すごく優先してくれたのだよね? 申し訳なかったです。ごめんね、ありがとう。^^出来上がった後も、袖の長さを肩から調節して直してくれたりで、お世話掛けました。送られてきたのを着せたときは、「ああ、すごいな、さすがだオーダー」と、こんな服欲しいな、がそのまま形になったことに、すごい感激しました。届いたのは11月後半で、そらからの5ヶ月ほど、薄手で柔らかい生地なので、重ね着してもよし、下着の上にそのまま着てもよしだったから、長い期間着まくっていました。着心地がよくて、動きやすく、初めはお出かけ着にしようと思っていたのだけど、まひろんが着たがるから、いつの間にかばしばし着まくり。着ているだけでちょっとお上品に見える、スカートにもパンツにも合う、お世辞抜きで魔法のような服でした。あぁ、もう着れなくなるのかなぁ、寂しいなぁ。あと少し、もっと着倒しますぜ。
2009.04.07
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私の勤める病院には、図書室というものがあり、その存在さえも知らない職員が多いのだけど、かなりの量の本があり、新しいものもある。がつがつ借りている私に目をつけた事業部の原っちに相談されて、もっと借りて貰える様にと、整理をし始めた。私は、口を出し応援するばかりで、頑張るのは原っちなのだけど。いずれは入院患者さんにも移動図書館にして貸し出せるようにしたい、という夢を持ち、原っちはどんどん図書室を整理している。ああ、夢があるわ~。そんなことで、原っちと急激に距離を縮めた私、ぴちぴち二十五歳の原っちには、いろんなことを聞かれるようになった。「旦那さんとはどこで知り合ったのですか?」「結婚決めた理由って・・」・・・・男のことばかりで、興味は結婚のこと。お年頃ですねぇ。いろいろと話すうちに、私の結婚観、男感が原っちにもわかってきたらしく、「ばきさんて、すんごい現実的な人なんですね」と言われた。そうか・・・。私が結婚相手として旦那さんを選んだ理由は、お互いに結婚相手として求めるものを満たしていると思えたからであり、それは、お互いに超現実的な感覚で、だった。結婚を前提として相手に求める最低限のものは、持っていなければお話にならないけれど、逆に、もともとないものを、勝手な理想に近づけようと求めすぎもしない。結婚を前提としていた私たちの姿勢は一緒だったし、時間が経ってもそれはぶれていない。好きで好きで一緒にいたくて、骨抜きになって結婚なんて、私たちの間にはなかったからこそ、結婚できたとさえ思う。私の思う理想の男。映画のボーンアイデンティティーのボーンのような、鍛え抜かれた勘と、謎とスリルと魅力に満ちた男。ミッションインポッシブルのイーサンみたいな、正義感と才能と天性の運、でかいバックを持った男だ。はっきり言って現実離れ。私が惚れて溺れてめためたになってしまう男には、結婚は不向きどころか、いないな。旦那さんの理想の人は、ずばり中山美穂だ。最近コマーシャルくらいには出てくるようになり、ハムちんは間抜け顔して釘付けになっている。私やハムちんが浮気をする可能性がないとは言えない。浮ついた気なら、ある可能性が高い。だけど、本気になってしまう可能性といえばどうだろう。たとえば私の前に、ボーンやイーサンが現れて、わけのわからない謎の団体に追われながら、やたらと勘の鋭くなんでも出来る優秀すぎる男と一緒に、彼の無くした記憶を手繰る旅に出たり、なにやら大きな組織からの依頼で、スパイのように情報を盗んだり人質を救ったりしたようなときだ。ダメだ、きっと私は骨抜きだ。たとえばハムちんの前にミポリンが現れて、フランス生活も辻一成も捨ててあなたと貧乏暮らしする、と迫れれたら、ばき一家は崩壊だし、私も打つ手がないだろうよ。だって、超理想の人なのだもの、私もハムちんも骨抜きだもの、本気だもの、だめだわ。だから、一家が崩れる可能性は低いな。でも、まったくなくもない。結婚相手としては、いいんだよほんとに。大事なのは、結婚になにを求めるのかをはっきりさせておいて、それを結婚した後も忘れないことなのじゃないのかな?あぁ、あくまでも、私のように無難な家庭を築きたいのならね。こういう話をするのって、めちゃめちゃ楽しいですわ。原っちは、さかな君に似ているかわいい顔で、おおきなお目目をくりくりさせて言いました。「ばきさんて、めちゃめちゃ現実的なのか、空想的なのか、よくわかんない人ですね」・・・・確かに。
2009.04.03
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お仕事はパパが休んでくれました!一日で復活して、超元気です、ありがたいありがたい。イチゴの乗ったケーキって、約束したのにね。予約入れてなくて抜かりました。チョコレートケーキ。でも大喜びです。なんだか、今までで一番嬉しい誕生日なのはどうしてでしょう?五本のロウソクの火が、にじみっぱなしでした。おめでとうをありがとう!
2009.04.01
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