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こんにちは。 今日は先日の結城ウォッチングの続きです。 さて、前回から変わった点。 それは、写真なのですね~。 ケータイ電話を機種変更したとき、よりカメラ機能の充実したケータイに買い換えたのです。 少しは違いがわかりますでしょうか。 前回の機種は、324万画素で、今回は515万画素。 パッと見はあまり変わらないかもしれませんが、撮影はこちらのほうが断然楽。 前はズームにするとぼやけるからかなり前進したり、大きすぎてカメラの枠に収まらないときは思いっきり後退したり、写真一枚撮影するのにも体力勝負でした。 今度の機種は、ズーム機能が充実しているからその場で、画像を大きくしたり小さくしたりできるのですね~。 より本式のデジカメに近づいたといいますか。 それから前のケータイのカメラは、暗い場所だったらまったく写らなかったけれど、今度のは、ナイトモードにすればそこそこ暗くても大丈夫。 もしかしたら、一日で五千歩くらいは減らすことができるかも。 カメラで太ったということにならないようにと願う今日この頃です。 それはともかく、お散歩ネタ。 前回は、親鸞聖人の奥様の墓をお参りしたところまででしたね。 玉日姫の墓から市内中心部に向かって歩き、結城小学校の手前を右折して細い道に入ってしばらく行くと、再び古いお墓がありました。 こちらは、源翁和尚の墓。 源翁和尚と聞いてもすぐにはピンと来ないかもしれませんが、大工さんが使う鉄製の大きな槌を俗に「ゲンノウ」と呼びますよね。 その呼び名は、源翁和尚の名に由来しているらしい。 それは殺生石の伝説によるのだそうですね。 何でも平安時代、鳥羽法皇の寵姫「玉藻の前」は、陰陽師の安部泰成によって白面金毛九尾の狐だと正体を見破られる。 この狐は、中国と日本の名だたる人物のもとにだけ出没する妖狐だったとか。 妖狐は、那須野に逃れてゆくが、そこで射殺されてしまう。しかし、その霊が石と化して大勢の人や動物を殺してしまい、死骸が山のようにできてしまったとのこと。 そこで朝廷では源翁和尚をつかわし、祈祷を行う。そのあと源翁和尚は手にした金槌で殺生石を砕き、九尾の狐もその妖力を失ったそうな。 そういえば、殺生石や九尾の狐を退治したお坊様のお話はどこかで聞いたことがありましたね。 アニメの「日本昔ばなし」だったかどうか忘れましたけど。 ゲンノウは、九尾の狐を退治した強力アイテムだったのですか。 そう言われてみると、このお墓もパワーというか、どこか力強さを感じます。 ところで、そんな偉いお坊様のお墓がどうして那須ではなく結城に?と思いました。 史実としての源翁和尚は、室町幕府が成立する直前に越後の国で生まれたらしい。 ネットで調べてみたら、生年月日がみんな違っているんですよ。 出家して北関東を中心に行脚。1371年、結城家8代城主直光が和尚を招いて、結城の安穏寺を禅宗(曹洞宗)の寺に改宗して、中興開山の人となったそうな。 九尾の狐の化身であった殺生石を退治したのが、1385年の8月で、翌年に後小松天皇より能昭禅師の号と結城山の勅額を賜ったのですね。 時期が特定できるということと、天皇から号もいただいているわけですから、殺生石にまつわる何らかのイベントはあったのだろうと思いました。 そのイベントの中身を考えるといろいろイメージが膨らみます。 その源翁和尚が中興開山したという安穏寺はお墓から歩いてすぐの場所にありました。 結城駅前通りを南下すると、結城の町の魅力のひとつである見世蔵が随所に見受けられます。 見世蔵は、江戸時代からの商店建築様式のひとつ。読んで字のごとく蔵であっても、倉庫ではなく店として利用されたとのこと。 観光案内所にもらったマップには、30軒くらいの見世蔵が紹介されていました。明治初期から大正期にかけて、結城ではこれらの蔵造りの建物が数多く建築されたらしい。 これらのほとんどは、今も店舗や住宅として利用されているのですか。 関東で蔵の町というと、まず川越、栃木、佐原などが浮かびます。関東ではないですが、喜多方も有名ですね。 それらの町の蔵は、観光資源として、別の用途に使われているケースが多いのですが、結城の蔵はほとんどが現役選手。 内部の見学ができない蔵がほとんどですが、今でも使われている蔵は、しっかり街並みの中に溶け込んでいました。 与謝蕪村の詩碑がある妙国寺、戊辰戦争の兵士が眠る光福寺などをめぐり、弘経寺へと向かいます。 さすがに歴史のある城下町だけあって、由緒ある寺院が多数並んでおりますな。 弘経寺は、1595年、結城秀康の長女松姫の菩提を弔うために創建された寺院だそうです。 当時は関が原の戦いの前で、徳川家康は256万石の関東の覇者の時代。次男の秀康は、結城10万石の城主だったのですね。 創建当時から一度も焼失していないということから、この本堂は当時のものでしょうか。 安土桃山時代の豪壮な建築様式は感じられるのですが。 このお寺には、当地に滞在した与謝蕪村の襖絵も残っているそうですね。 さすがに炎天下歩き回ったので疲れました。趣のあるしっとりとした境内で一休み。歴史のある寺院は、心にも涼風を送ってくれます。 弘経寺の境内から、レンガ造りの古い煙突が見えたので、疲れも忘れて正面にまわってみたのです。 おお、造り酒屋ですか。しかも安政蔵といって、江戸時代に造られた蔵が今も現役で活躍しているのがすごいっす。 観光施設ではないから中には入れないのですが、逆に蔵としてのリアリティを感じましたね。 蔵の中からちょんまげ姿の職人さんが現れても、全然違和感がない。 しばらく歩くと、また別の造り酒屋の建物が…。 こちらも江戸時代に建てられた蔵を店舗や醸造蔵として利用しているのですね。 お酒はあまり飲めないのですが、好きな人にはたまらないかも。 酒蔵から歩いてすぐのところにあるのが、考顕寺。 このお寺は、結城家15代政朝が開基し、結城秀康が再建。江戸時代末期の結城水野家の菩提所でもあったそうな。 結城秀康は、江戸幕府が成立後、越前に移り、越前松平家の祖となる人ですが、結城の町にこれだけ大きな足跡を残しているとは知りませんでした。 二代将軍秀忠のアニキですが、豊臣秀吉の養子になったりして、家康からは粗略に扱われたイメージなのですが。 考顕寺から道路を挟んだところにあるのが、称名寺。 このお寺は、結城家初代の朝光が親鸞の教えに帰依して、彼の高弟を招いて開基したそうですね。 境内には、結城朝光の墓がありました。 横にある解説板を読むと、この人はなんと、87歳まで生きたのですね。 鎌倉幕府の草創期から北条氏の台頭の時期、幕府の中枢にありながら天寿を全うできたのはすごいかも。 木曽義仲の追討から、平家とのファイナルマッチであった壇ノ浦の戦いにも参加。その後、戦勝報告のため東下した源義経を頼朝の使者として、「鎌倉入り不可」の口上を伝える。 奥州藤原氏との戦いにも参加し、その功により奥州白河三郡を与えられ、頼朝が死んだあとは、畠山重忠や梶原景時など多くの御家人が失脚したのですが、そのときも家を守りぬいたのはさすがです。 梶原景時は、以前大河ドラマで中尾彬が演じたように、濃いキャラクターというイメージ。 結城家初代の朝光は鎌倉幕府の御家人の中でも礼節を守る紳士として、人望を集めたそうですね。 親鸞に帰依したことからも解るとおり、信仰心も厚かったのでしょう。 北条政子に代表されるような北条氏の「出る釘は必ず打つ」鎌倉幕府の内紛の時代でも、引き続き厚遇されていたのは、その清廉な性格によるところも多かったのでしょうか。 気骨のあふれるエピソードも残っているそうですね。 パッと花火が咲くように一瞬輝いて、そのあとすぐ消えていく会社や経営者は少なくないですが、400年もこの地方に家を繁栄させ、今なお語り継がれる人物はあらためてすごいと思いました。 結城駅へと向かう大通り沿いに、市民から「金仏さん」と呼ばれる常光寺の阿弥陀如来像がありました。 確かに親近感のあふれるやさしい顔をした仏像ですね。 ここまで来れば、結城駅はすぐそこ。 再び、結城攻略の作戦本部である駅前の図書館に行き、疲れた体を休めるのでした。 暑い中、ほとんど休まず歩いたので、時刻はまだ午後3時。 立ち止まると汗が噴き出すので、海を回遊するマグロのごとくずっと歩き詰めだったのです。 「古寺めぐりコース」が終わったので、今度は「見世蔵めぐりコース」にチャレンジしようか、と…。 再び、炎天下図書館から出たオイラは、市内中心部を目指すのでした。 蔵造りの美しい街並みは、無理してでも行ってよかったと思います。 行った日は休みでしたが、つむぎの館は着物の好きな人にはたまらない魅力でしょうね。 また、結城の小学校は、堀や石垣に囲まれてお城のよう。 これなら不審者も、侵入が難しいかもしれませぬ。
2008年09月27日
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こんにちは。 いつもとイレギュラーの飛び石連休中日の更新です。 ここのところ、平日より休日が忙しい状況が続いているような。座談会やモニター、病気の講演会、いろいろな大学での有償ボランティア、治験などに参加したり…。 いろんな経験ができるから面白いし、副業で収入があるのもうれしい。 銀行で融資担当者だったとき痛感したのですが、収入は分散しているほうがリスクは低減できる。取引先がどんなに大きくて信用があっても、数社ではこのご時勢、何が起こるかわからないですからね。 できれば、収入が多業界にわたって分散していればベストかも。 いくら不況といっても、全業種、低空飛行を続けることはあまりないですから。 …と、さまざまな会社からアンケートのお礼に送られてくる500円の図書カードや1000円の商品券の枚数を、毎晩数えて喜んでおりまする。 銀行員当時習った扇のようにひらく数え方で…。 ただ、リスク分散を追及するあまり、時給いくらという発想がなおざりになっているのでした。空いた時間にやっているといっても、時給に換算すると500円をはるかに下回っているのではないか、と。 安定は維持しながら、もう少し効率よく稼いで、関東地方の名所旧跡だけじゃなく世界遺産を歩きたい。 ネット事業は確かに経費面などリスクが少ないので、何か自分ではじめたいなと考えている今日この頃です。 さて今回も、マンネリな近場のお散歩ネタ。 昔から歴史のある城下町をほっつき歩くのが好きなのですが、不幸なことに関東地方は行ったことのない場所がだんだん少なくなってきました。 ガイドブックを眺めても、比較的東京からの交通が便利なところはほとんど出かけたことがある。 しかし、歴史好き、城好きには、見逃してはならない町が抜け落ちていたのですね~。 それは、茨城県の結城市。 結城は立派な城下町なのですが、紬の生産地というイメージが強すぎて、オイラの中ではあまり目立たない存在だったのです。 でも結城といえば、戦国時代初頭?の結城合戦や豊臣秀吉の養子になっていた徳川家康の二男、秀康が跡を継いだ結城家で脚光を浴びた土地。 もちろん城跡もあるというし…。 …ということで、8月半ばの猛烈に暑い日、オイラはJR結城駅にやってきました。 駅はモダンな近代建築で、これまた駅前に東京ミッドタウンのファサードみたいなお洒落な建物がありました。 よく見ると、ガラス張りの図書館みたい。 図書館を見ると入りたくなるので、結城攻めの作戦会議にと一休み。広々としたロビーのテーブルでは、中学生や高校生が熱心に勉強しておりました。 こんな涼しい、広々として眺めのいい場所で勉強したら能率上がるかも。 彼らにエールを贈りつつ、熱風吹きすさぶ外へと再び突撃。 モワァァァァ~ うう、あ、暑い。死にそう。 あまりの暑さに、立ちくらみを起こしそうになり、近くの観光案内所へ緊急避難。 そこには、無料の市内観光マップがたくさん取り揃えてありました。これはラッキーと、何種類かもらい、再び図書館へと退却します。 こんなくそ暑い日に何時間も歩き回ったら、脱水症状を起してしまうっす。 市内の地図を見ながら、再度作戦を立て直しました。 冷房のある施設を拠点にして、面ではなく線で移動したらどうか。 まず目指すは、北東のショッピングセンターじゃ~! 突撃~!!!! 進軍ラッパとともに、203高地を目指す兵士のごとく目的地に向かって駆け出します。 駅前の大通りを走り交差点を渡り、右手に信用金庫の本店を見ながら走って、ショッピングセンターへ。 着くころには、体中の毛穴から汗が噴き出し、見るも無残な姿に。 気温36度、湿度80パーセントの中を5分以上全力で走ったのだから当然ですよね。 何で歩かず、走ったんだろうと考えても後の祭り。別に急ぐ旅ではないのでした。 頭がフリーズしていたとしか思えないっす。 ショッピングセンターでは、ペットボトル飲料をしこたま買い込んだのは言うまでもありませぬ。 ここまでは何とか来たけれど、ここから先は冷房が効いている施設はなさそう。 走って汗をかいたら体が軽くなったので、ここから先は水分補給しながらゆっくり歩いてゆくことにしました。 昔懐かしい麦わら帽子と、100円ショップで買った扇子がオイラの生命線です。 マップを見つつ住宅街を歩いてゆくと、最初の目的地、大輪寺がありました。 ここは、結城家代々の祈願所だったお寺だそうな。 結城家は、今の栃木県にあたる下野国南部の豪族小山政光の三男、結城朝光に始まるそうな。朝光の母は源頼朝の乳母だったため、鎌倉幕府との絆も強かったらしい。 それ以降、結城氏は約400年に渡ってこの地方を治めるのですね。 一口に400年と言っても、徳川家康が江戸幕府を開いて、平成の現代に至るまでの年数。 それだけ長い時代、この地方に君臨した家だけに、今なお市内に結城氏のいろんな遺跡やアイテムが残っていてもおかしくないわけですな。 結城家8代の直光が創建したという華蔵寺にお参りし、そのまま道なりに進むと、武家屋敷のような外観の中学校が…。 いいな~、歴史好きとしては、こんな素敵な中学校で学びたかったっす。どうせなら、水戸の弘道館や萩の明倫館みたいな藩校をイメージできるようにすればいいのに。 松下村塾だと個人経営の塾みたいになってしまいますが…。 直射日光をまともに受け、青々とどこまでも続く田んぼを見ながら歩きます。 日陰が恋しくなった頃、ようやく次の目的地、結城家御廟に到着。 ここは、結城家初代朝光から十六代政勝までの16基と、名前がわからない4基を合わせて、合計20基の五輪塔が並んでおりました。 解説板を読むと、この御廟が作られた経緯は、いくつかの説があるそうですね。 当然、十六代以降に作られたものでしょうけど、徳川家康の次男であった結城秀康とも関係があるみたい。 これを作った人は、どういう気持ちで作ったのだろうといろいろ想像すると、ロマンが膨らみます。 解説板によると、御廟の周囲は堀を構え、塚上に土を盛り、土塁をめぐらしてあるのですか。そして床面には大谷石を敷き詰め、塚全体に玉石を並べるなど、排水に細心の注意が払われているとのこと。 確かに、今でもその痕跡が随所に残っていましたね。当時、この御廟を作った人たちの息遣いが感じられるようでした。 そんなことを考えているうちにも、ギンギンギラギラの太陽は容赦なくオイラの体力を侵攻してゆきます。 汗をふきつつ、蝉しぐれの中、歩きだしました。 次はいよいよ、結城城址。 あまり大した城跡は残ってないとのことですが、隠された痕跡を探り出すのも城ウォッチングの醍醐味のひとつですからね。 …と、どこまでも広がる田んぼの遥か先、あれは土塁でしょうか。 広大な田んぼが当時、堀だとしたら、なかなかの要塞だったかも、と思いました。 城跡へ行く途中のこの起伏。 どう見ても、土塁のように見えるのですが、あとで調べてみると城内ではないとある…。 出城かな、それとも現代の宅地造成によるものかな、と暑さを忘れて考えながら歩きました。 最近、造成されたものだとしたら、よっぽど城好きな土木技術者ではないかな、と…。 結城城は城跡公園として、完璧に整備されすぎていました。 公園へ来るまで、明らかに空堀や土塁とわかる部分はありましたけど、ここまで整備しちゃうと当時の面影をイメージすることはできませぬ。 どこの城でも見かける当時の縄張り図も、結城城の場合、かなりアバウトですね。 実際は、南西面660メートル、北西面が300メートル。巨大な4つの曲輪は空堀で仕切られ、背後は高い崖に守られていたらしい。そして、城の周囲を川が巡る。 うぬぬ、イメージできませぬ。 戦国時代の山城ならともかく、1700年に水野勝長が、一万八千石で入部して再建され、明治に至るまで水野家の居城だった城なんですけどね。 実はこの城、1440年に足利幕府の大軍に囲まれながら、1年余りも篭城し続けた難攻不落の城でもあるらしい。 世に言う結城合戦で、関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝は持氏の遺児春王丸と案王丸を奉じて兵を挙げ、落城まで一年余りの歳月を費やしたそうな。 幕府の大軍を囲まれつつも、少ない兵力で篭城するあたり、楠木正成の千早城、赤坂城をイメージしてしまいました。 その辺りの面影が若干残っているのは、城跡公園近くの広い空堀ですかね。 篭城当時の空堀かどうかわかりませんけど…。 今回は行きませんでしたが、城跡公園の近くには、「紬の里」という藍染や機織りを短時間で体験できるスポットがあるそうですよ。 そこから5分ほど歩くと、玉日姫の墓がありました。 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻だった人物。 親鸞聖人が流罪となったあと、結城で暮らし、聖人が京都へ戻った後も、この地で草庵を結び布教をして生涯を送られたそうな。 うちは一応浄土真宗ですし、祖父が子供の頃、お寺で修行したと聞いたことがあります。 先祖も浄土真宗のお寺の住職らしいのですけど、親鸞聖人の伝記については一度も読んだことがありませんでした。 その経緯はわかりませんが、流罪になったり、奥さんと別居されたり、波乱万丈の生涯を送られたのですね。 一度、伝記や弟子の唯円が書いたという有名な「歎異抄」についても読んでみたいと思いました。 詳しく勉強したことはないですけど、「悪人正機説」は、今の時代にあっても古くはないのではないか、と…。 ここから結城市街へ向かい、引き続き古寺や「見世蔵」と言われる蔵造りの街並みに出会うのですが、長くなりそうなのでそれはまた次回。 ところで、今日の記事から前回までとは変わった点があるのですが、それは気がつきましたか?
2008年09月22日
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こんにちは。 書店でウォーキングガイドブックを物色していて、優れものの本を見つけました。 それは、「東京の1万年を歩く」(東京古里会編著・学習研究社)という本。東京の1万年を歩く 東京が舞台になった事件や遺跡に焦点を絞った歴史探訪書というコンセプトなのだとか。 名所旧跡のコースマップや解説で埋められた本は数多ありますけど、当時の城の再現イラストや航空写真まであるのは珍しいっす。 表紙のイラストが、戦国時代に赤羽にあった稲付城の鳥瞰図ですからね。 稲付城ばかりではなく、戦国期の江戸城や八王子城の再現イラストもありました。 これは、もしかしてオイラのために書かれた本なのではないか、と…。 さっそく購入して、この本に載っているルートを歩いてみることにしたのです。 熟読してみて、切り口は斬新だと思いましたが、如何せん何十年も関東周辺を歩き回っているオイラ。 ほとんど行ったことがある場所ばかり。 それでも、点ではなく面で歩けばまだまだ面白そうな地域がありそう。 …ということで、今回は多摩川周辺にあるという城跡をめぐってみることにしました。 ガイドブックには小田急の向ヶ丘遊園駅スタートとなっていましたが、交通費をケチるため南武線の登戸から歩きます。 オイラが健脚になったのは、昔から交通費を浮かせようと思って歩いていたからかも。 行った日は、35度を超える猛暑日。 余計に歩いて汗が出た分、自販機でお茶のペットボトルや缶コーヒーを買ってしまったから、かえって損しているのでした。 コンビニやスーパーで涼んだり、買い物をしたり寄り道して、ようやく最初の目的地・長者穴古墓群に到着。 ここは、飯室山という小高い丘の麓に築かれた横穴墓群なのですな。7世紀中頃から後半にかけて築造されたらしい。 崖に横穴を掘っただけのシンプルな墓ですが、当時は奥行が5メートル、幅3メートルほどの規模があったのだとか。 そういえば以前ブログにも書きましたが、田園調布周辺には全長100メートルを超える前方後円墳もあるのでした。 このシンプルな墓のほうが、時代が新しいのですね。当時からエコの考え方があったのだろうかと考えたりして。 両側にポコポコ空いた小さな穴を見ながら、飯室山の頂上へ向かう階段を上ります。 標高はさほどないのですが、湿度がすごい。汗で前が見えないっす。 頂上に上り、尾根伝いに歩いてゆくと、冠木門が見えました。 ようやく枡形城の本丸ですか。 枡形山の山頂部は、東西130メートル、南北80メートルの平坦地となっているのでした。 一応、山城なのでしょうけど、戦国時代の城跡の本丸がこれだけの広さを持った平坦地というのは珍しいかも。 しかも、まわりは断崖絶壁。 当時は木が切り払われていたでしょうから、下から見上げると巨大な枡が屹立しているように見えたのでしょう。 戦国時代の枡形城を是非この目で見たかったっす。 山頂には立派な展望台が…。 この和風とも洋風ともつかぬ、微妙な外観が戸惑いを覚えます。 ちょっと寝殿造りっぽい部分もありますね。 ここまで立派な展望台を作るのだったら、いっそのこと天守閣に似せた外観にしたほうがインパクトあるのに…。 小田原城や江戸城の櫓形式に似せた外観に抵抗があるのなら、戦国時代の物見櫓風でもよかったですね。 以前もここに来たことがあるのですが、いつも誰も登っていないのが寂しい。 それはともかく、上るのはいいけど、せっかく収まったのにまた汗が噴き出しそう。 と思ったら、エレベーター完備なのでした。しかも、冷房つき。 極楽気分で展望台にあがると、多摩川方面の絶景を拝むことができました。 この枡形城は、鎌倉時代、源頼朝の妻北条政子の妹を妻に迎えた稲毛三郎重成によって築かれたらしい。 戦国時代の1504年には、北条早雲がここを本陣として今川氏親と共に上杉顕定と戦った記録が残っているそうですね。 北条早雲といえば、40歳過ぎてから一念発起し、関東の覇者となった後北条氏の創業者。 中高年の期待の星とも言える存在です。 北条早雲もこの景色を眺めたのでしょうかね。 枡形城の本丸から降りる急な階段に、「枡形」の名残を感じることができました。 しばらく行くと、広福寺の山門が現れます。 ここは、枡形城を築いた稲毛三郎重成の館跡とも言われているそうな。 行った日は、ちょうどお葬式の後片付けをしているところでした。 ここから子之神社までの約3.3キロは、さすがに堪えました。 炎天下、ほとんど日陰がない。二ヶ領用水の新川のほとりをトボトボ歩き、次に山下川の近くの住宅街では太陽が真上からオイラを直撃します。 地球温暖化によって、人類はホントに絶滅するのではないか、と心底思いましたね。 仕方なく、伝家の宝刀、雨用の折りたたみ傘をメリーポピンズのようにかざして歩き続けます。 ようやく、子之神社にたどり着くと、近くのお寺ではまたお葬式が行われているのでした。 参列する人たちは、黒い服を着て汗まみれで苦しそう。 こう暑いと、体力が弱っている人はつらいかも。亡くなられた方は、この猛暑が影響されたのでしょうか。 真夏の炎天下にウォーキングをするのは控えようかと思いました。 急な石段を上り、子之神社にお参りをします。 本殿は幕末に作られたそうですが、立派な装飾にしばし暑さを忘れて見とれました。 そこから境内に相撲の土俵がある薬師堂まで歩き、いよいよ後半の注目スポットである小沢城へと向かいます。 小沢城は、川崎市と東京稲城市との境にある丘陵上にあるのですね。 新旧三沢川の合流地点のそばにある登り口から城攻めを開始します。 炎天下、山道を登るのは辛いけれど、10年ほど前に行った八王子城に比べればさほどでもない。 八王子城へ行った日は、確か38度を超えていたような。あまりの難攻不落ぶりに死にそうになりましたっけ。 前回の豪雨と同じくらい辛かったことを思い出しつつ、小沢城の曲輪と思われる場所に到達。 物見台や空堀、古井戸の跡なども残っていて、なかなか見所多い城でした。 この城も、枡形城を築いたと言われる稲毛三郎重成と関係があるらしい。 そして戦国時代には、北条早雲の孫、北条氏康がこの城に入って戦った記録があるのだとか。 武田信玄や上杉謙信は戦国のスーパースターとして有名ですが、戦闘力だけではなく治世など総合力ではむしろ北条氏康のほうが上だという意見があるほどの名将。 当時はどんな城だったのかなと縄張りを考えていると、城跡に野球のアナウンスが響き渡りました。 すぐ隣は、よみうりランド、ジャイアンツ球場なのですね。どうやら、巨人の2軍の試合が行われているみたい。 次に向かったのは小沢城主が毎日お参りに通ったといわれる穴澤天神社。 穴というくらいですから、やっぱり穴が神社名の由来になっているらしい。 神社の北側の丘陵斜面に横穴があって、内部に石仏が安置されていたとのこと。 家に帰って調べてみたら、この穴の中に入れるみたい。 洞窟の長さは10メートルほどらしいのですが、この穴も横穴墓と関係あるのでしょうか。 入ればよかった~と悔やんだのですが、実はオイラはこのあと、もっとすごい穴に入ったのでした。 それは、ここから1.2キロほど歩いたところにある弁天洞窟。威光寺というお寺の境内の奥にある崖にあけられた穴なのですね。 ここには全長65メートル、広さにして200坪もある大洞窟があるのでした。 中は、電気がなくて、まさに暗黒の世界。 入るときは蝋燭を持って、そろりそろりと足元に気をつけながら進まねばなりませぬ。 もとは横穴式の古墳だったそうですが、明治時代に現在の形に掘り広げられたそうですね。 新東京百景に選ばれるくらい有名な場所らしいのですが、いつ来ても誰もいないような。 実は、ここへはもう4~5回も来ているのでした。 最初に行ったのは15年ほど前だったのですが、真っ暗だし、迷路みたいだし、中にヘビはいるし、で相当ビビッたのを覚えています。 これだけ怖い思いをしたのだから、もしかしてご利益があるかも、と洞窟の中にいる白い大蛇に願い事をしたのです。 もちろんモノホンの大蛇ではなく、石に彫られ着色されたものですが…。 明るいところで見たら、普通のオブジェでしょうけど、真っ暗闇の中で蝋燭の光にボォ~と照らし出されたヘビと目が合うとさすがに怖い。 神秘さも感じました。 そしたら、その後願いが叶ったのですね~。 それに味をしめて、何度か願い事があるときは訪れて一人で洞窟に入って願い事をするのでした。 願い事といっても、プロレスの世界チャンピオンになりたいとか、森高のサインが欲しいとかいう実現不可能な願いではなく、努力すればできるレベルですが…。 5年ぶりに洞窟に入ったのですが、慣れててもやっぱし怖いっす。 白い大蛇が動いたらどうしよう、とか。 蝋燭の光だけで、一人でこの中に10分間以上入っていたらどんな気分になるか。 どなたか、この暗黒の空間を体験された方がいらっしゃれば、是非感想を聞きたいと思いました。
2008年09月13日
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こんにちは。 平成15年8月のある日、神奈川県の相模川の河原にいたとき、集中豪雨の増水で危機的状況に陥ったオイラ。 前回はそこまで書いたのでしたね。 あのあと、もう少し記憶を呼び覚まそうと、当時持ち歩いていた手帳を出してみたんですよ。 ページを開くまでもなく、当時の惨状が手帳本体に現れていたのでした。 集中豪雨の水をたっぷり含んで、ゴワゴワになっている。今でもページを一枚ずつめくるのに苦労する状態。 水性インクで書かれた箇所はロールシャッハテストみたいな模様に。 革の財布も使い物にならなくなったし、ケータイも故障。カバンの中に入れてあった本も水を吸いまくって、見るも無残な姿になったのでした。 それ以後、ユニクロのバーゲンで買った100円のジップパースを、いまだに使わざるを得ない状況に追い込まれたのです。 ファストフードの割引券やポイントカードがたっぶり入るから気に入ってはいるのですが…。 手帳には、『神奈川相模川サンポ。超豪雨、全身ずぶ濡れ。一時間以上も木の下で酷い目にあった』というフレーズが書いてありました。 結局、一時間以上も、暴風雨の中にいたのですね~。 オイラがいた場所が中州みたいになって、川の水がどんどん増水してくる。 雨が防げる場所へ行くには、広い河原を延々と歩き、堤防を越えて、そこからまた住宅地まで土手の上を歩かないといけないのです。 来たときは、20分くらいかかったような。 豪雨の中を行こうかどうか迷っていると、上流からドドドドトドッと水が押し寄せてくる音が聞こえました。 ヤバ!!! そのときはさすがにあせって、土砂降りの中を強行突破することにしたのです。 しかし、川が増水して流れている箇所を通らねばなりませぬ。 深さがわからないから、杖になる太い枝を拾い、水深を測りながら前進しました。 これが正解だったみたい。 膝ぐらいの深さの濁流でしたが、急に深くなっている箇所が何箇所かあったのです。 そこで転倒していたら、最悪、流されていたかも。 転ばずに、何とか対岸まで到達。あとは泥田のようになった河原をひたすら堤防に向かって歩きました。 川の中では一度も転ばなかったのに、そこでは足をとられ、ヘッドスライディングみたいな豪快さで何度も転倒。 「七人の侍」の野武士との戦闘シーンみたいじゃ~と思いましたね。 派手な水しぶきをあげて転倒する迫力は、七人の侍のエキストラが務まるのではないか、と…。 泥まみれになりながらも何とか相模川の堤防をこえると、遊歩道沿いに大きな東屋を発見しました。 一時間以上も土砂降りの雨の中にいたから、屋根のある場所というだけで天国のように感じたのです。 うう、助かった~。 捕虜になって拷問をうけたあとのランボーみたいな姿で東屋に入ると、先客が7~8人もいる。 オイラと同じく、雨宿りっすか。 暗いし、雨が目に入って霞がかかったように見えるのですが、色の黒い屈強な若者たちの姿が…。 そこへ、ドッカァァァァァァァァァ~ンと稲光。 怖そうなお兄さんたちが眉をひそめて、オイラを見つめているのがわかりました。 横目で見ながら、囁きあっている。その言葉は、日本語じゃないし、どうやら英語でもなさそう。イランとか、中近東の人たちみたい。 外が土砂降りの東屋の狭い空間。何やら不穏な雰囲気。 逃げ場はどこにもない。 一難去ってまた一難か? そのとき、一人の若者が立ち上がってオイラに近づいてきました。手には傘がしっかりと握られている。 臨戦態勢で、身構えるオイラ。 すると彼は、傘を差し出しながら、「これ、あげる」と言ったのです。 え~? 傘をくれるの? 悪いからいいっすよ、と固辞するオイラに、「友達がたくさんいるから大丈夫」と傘を握らせてくれたのです。 他の若者たちも、笑顔で「どうぞ使ってください」と言っている。 わぉ、いい人たちじゃん!!! どこから見ても、それほどお金を持っていそうもない彼らだし、もらうのは申し訳ない。 それじゃ買いますよ、と言って千円札を取り出し、手渡そうとするオイラ。 びしょ濡れの千円札でしたが、いくら渡そうとしても、「いいですから」と受け取ってくれないのでした。 もしかして、日本人より親切なのではないか、と思いましたね。 困っている人、悲惨な人、ドツボにはまっている人を見て、手を差し伸べるのはできそうでなかなかできないこと。 子供時代からプロレスを見て、外人というと悪役レスラーの印象しかなかった自分が恥ずかしかったです。 それだけオイラの姿が哀れな状態だったのでしょう。 30分ほどして雨が上がり、今までの雷雨が信じられないほどの晴天に。泥まみれになったのですが、暴風雨の中を歩いて、洗濯機の中で攪拌されたような状態だったのか、思ったよりきれいになっていたのは驚きました。 今でも、その傘はうちの傘立てにあって、それを見るたびにやさしかった彼らのことを思い出します。 さて、ここからはお散歩ネタ。 こちらも、前回の続きなのでした。 法務省の法務史料展示室を見たあと、国会議事堂方面に向かいます。 福田首相は電撃退陣してしまいましたね。 安倍さんのときもそうでしたが、今回もあまりに唐突。 行った日は夏真っ盛りの頃でしたけど、こんなことになるとは思ってもみませんでした。 国民はもう慣れっこになったのか、安倍さんのときほど非難の声が聴かれないのも哀しい。 裁判所合同庁舎を左手に見ながら歩き、外務省と財務省を隔てる潮見坂を上ると国会前庭の和式庭園。 ここまで来ると、国会議事堂が正面に見えます。 現在の建物は、昭和11年に帝国議会議事堂として建設されたらしい。正面に向かって左側が衆議院、右側が参議院なのですか。 中央塔の高さは、65.45mで、昔はかなり高いというイメージでしたけど、東京にビルがどんどん建つご時勢ではその高さに触れる人はいなくなってしまったような。 国会議員の後援会の人たちを乗せたバスが何台も道に止まっていました。 国会の前を過ぎ、洋式庭園の先にあるのが、憲政記念館。 ここは、昭和45年に、我が国の議会開設80周年を記念して建てられたらしい。 江戸時代、この場所は彦根藩井伊家の上屋敷があったそうで、大老・井伊直弼もここに住んでいたそうですね。 中には、国会の組織や運営などの資料が多数展示してありました。 固いイメージですが、映像資料やシアター、立体ビジョンコーナーもあって、飽きずに眺めることができました。 オイラが興味深かったのが、議場体験コーナー。 テレビの国会中継でよく見る議員の机と椅子が並んでいて、プチ議員体験が味わえるのですね~。 ここにある議員の椅子は、原寸大ですかね。 だとしたら、あまりにも狭いっす。リクライニングじゃないし、結構硬い。 長時間座ったら、腰が痛くなりそう。 ちょっとした映画館の椅子のほうが遥かに快適ですな。 こんな椅子に座りたくて、皆必死に選挙を戦うのだろうかと思いました。 憲政記念館を出て、国会図書館の前を通り、赤坂へと向かいます。 赤坂見附の近くにあるのが弁慶堀。 桜の時期にはよくテレビで紹介されていますが、都心のボート乗り場としても有名ですね。 行った日は、さすがに暑くてボートに乗っているのはおっさんが一人だけ。 ここは釣堀でもあるらしくて、上から見ていたら大きな魚を釣り上げていました。 上を見ると、赤坂プリンスホテルとホテルニューオータニ。 日本一贅沢な釣堀かも。 外堀通りを少し行くと、左手の丘は日枝神社。 赤い鳥居のトンネルを歩いて本殿に参拝します。 ここは江戸城の鎮守として歴代の将軍から崇拝されていたらしい。 宝物殿には、将軍から奉納された国宝、重要文化財の太刀が展示されていました。ちなみにここも無料ですよ。 赤坂通りを歩き、今注目のスポット「赤坂サカス」へ。 それにしても、「赤坂サカス」なんて珍しいネーミング。 ここに来るまで少し迷ったので、「赤坂探す」がその由来かと思いましたが、やっぱし違ったのでした。 調べてみると、赤坂サカスの『サカス』は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=『サカス』の意味もあるのだとか。 ふーん、なるへそ、セレブの人たちの考えることは違うニャ。 TBSテレビの本社ビルとリニューアルオープンした赤坂BLITZタワーと赤坂ACTシアターで作った「街」なのですな。 高層ビルとお洒落なテナントのコラボは、六本木ヒルズや東京ミッドタウンで免疫ができていたので、度肝を抜かれるという事態は避けることができました。 テレビやマスコミの加熱ぶりが先行しているという感じはありましたね。 …と、そこにあるコンビニしか利用しなかったオイラが向かったのは、乃木神社。 ここはかつて、乃木大将の屋敷があった場所てすな。 今も残っている建物はログハウス風で、乃木大将がドイツ留学中見たフランスの連帯本部兵舎を自ら模して設計したらしい。 地下、地上2階建てで、それほど大きくなく、質素といっていいかも。 ここは、大正元年、明治天皇に殉じて乃木将軍夫妻が自刃した場所でもあるのですね。 窓越しに自刃した部屋が見えるのですが、夕方になってしまったので乃木邸の敷地に入ることはできませんでした。 何度も訪れたことがあるので、乃木神社に参拝してから、青山墓地へ向かいます。 久しぶりにオイラの家の墓にお参りしたあと、六本木ヒルズへ行ってみることにしました。 一流IT企業の代名詞ともなっていた六本木ヒルズですが、江戸時代は長府毛利家の上屋敷だったらしい。 赤穂浪士の武林唯七ら7人が切腹した場所でもあったのですね。 なんと、先ほど旧宅へ行った乃木希典もここで生まれているのだとか。 六本木ヒルズの庭はかつて大名庭園だったのですね。 六本木ヒルズの森タワーも、威厳を持ってオイラを見下ろすのでした。
2008年09月06日
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