全3件 (3件中 1-3件目)
1
こんばんは。 突然ですが、実は先月、父が亡くなりまして。 ネットに書くのもどうかと思って黙っていたのですが、新年のご挨拶があることを思い出しました。 このまま新年を迎え、「明けおめ~」とは、心情的にも、日本古来の風習からも言いづらい。 知り合いに喪中ハガキは出したのですが、ネットでも新年のご挨拶は失礼させていただきますのでよろしくご配慮のほどお願い申し上げます。 皆様にはどうぞよい年をお迎えください。寒さに向かう折から、ご自愛のほどをお祈り申し上げます。 父は肝硬変から肺炎を併発しまして、八十歳で永眠しました。 昔から肝臓が悪く、検査のたびに指摘されていたようです。 ところが、お酒はほとんど飲まず、タバコも吸わない。肝臓が悪いと言われてからは、しじみ汁もよく飲んでいたんですよ。 それでも良くならず、どんどん悪くなって、最後は肝硬変の末期的症状をすべて併発して亡くなったのでした。 偏差値70を超える大学医学部の病院へ長く通院していたにもかかわらず、原因がわからなかったそうな。 最近、少し医学の門前で小僧をやっていますので、今になって考えてみると、その原因は「食べ過ぎ」だったのではないかと考えるのです。 まさか病院の先生も、その食べっぷりのすさまじさは想定外だったのではないか。 たとえば、厚さ5ミリのバターを塗ったトーストをメインにした朝食をしっかり食べた後、デザートにクリームパンを1個食べる。 昼食の前に、お腹がすいたと食パンをそのまま食べ、昼食はしっかり1人前食べたあと、おやつにせんべいやケーキなど家にあるものをすべて…。 これ以上は書けませぬ。故人を鞭打つようなことは。 でも、どんなに少なく見積もっても一日4000Kcalは超えていたでしょうね。 当時は、年をとってもその健啖ぶりはすごい、健康だから食欲があるのだという認識があったのは事実です。 幼年時代を戦争で過ごし、好きなものを十分食べられなかった反動もあったのかと…。 本来なら、肥満体や血糖値が上がって糖尿病になるはずですが、それほど太らず、血糖値もあまり上がらなかった。 結果的に、それで危険信号が見過ごされてしまったのでしょうね。 オイラの血液検査の結果から見て感じるのですが、うちの家系は遺伝的にインスリンの分泌は盛んみたい。 日本人は一般的に、西洋人と比べるとインスリンの分泌が良くなく、糖尿病になりやすい民族だと言われます。 農耕型で、比較的少ないカロリーの食生活で生き続けてきたからでしょうか。 ところが西洋の狩猟民族は、高カロリーの肉をよく食べるため、血糖値を下げるためのインスリンが分泌しやすい体質になったのだとか。 …とすると、オイラの家系は西洋狩猟民族? アジアやアフリカにも狩猟民族はいると思いますが…。 それはともかく、インスリンの分泌が悪くなると、血液中の糖分が細胞に取り込まれず、高血糖が続いて糖尿病になります。 ただ、インスリンの分泌が盛んだと、血液中ではなく細胞の中に糖分や脂肪が取り込まれる。脂肪はちょっと記憶が定かではありませんが、内臓脂肪として蓄えられるのは間違いないみたい。 内臓脂肪は脂肪肝と直結しますからね。 長年、肝臓が悪かったのは、肝臓そのものから来るのではなく、高カロリー食をし続けたために、肝臓が悲鳴をあげていたサインだったのはないか。 本来の死因は、メタボリックシンドロームだと感じました。 だから、病院から長年肝臓の薬をもらって飲み続ける前に、ダイエットに励むべきだったのでしょう。 病院の先生は、ダイエットは勧めてはいたものの、肝臓の病気とコラボで考えてはいなかったみたい。 多少太めでしたが、肥満体ではなかったですからね。メタボが騒がれるようになったのは、そんなに古くはない話ですし、騒がれたときはもうどうしようもないくらい病状が進んだ後でした。 もっとも、これは検査結果を見たオイラの推理ですし、専門家から見たら、全然見当外れなのかもしれませんが…。 でも、そう考えると驚くべきは父の体力。 40歳代のオイラよりもはるかに大量のカロリーを数十年にわたって摂取しつつも、80歳まで生きたのだから。 健康に気をつけて、日々節制していても70歳前に亡くなってしまう人は少なくないはず。 オイラも一時期、真似してガンガン食べたことがありましたが、3年ほどで体が悲鳴をあげてしまいました。 父は終戦の年に国家公務員になって、平成9年に財団法人を退職するまで、勤続52年。 70歳まで仕事ができて、定年後は思う存分食べたい物を食べ、趣味に没頭できた人生はうらやましいと言うほかありません。 お葬式も、遺族みんな泣くこともなく、淡々と進められたのはそういう思いがあったのかもしれませぬ。 …ということで、おかげさまで父の葬式は無事すんだのですが、お葬式というと、いつも思い出す出来事があるのですよ。 オイラにとっては、人生最大の修羅場だったと言いますか。 父の葬儀の話題の後に書くネタではないかもしれませんけど…。 でも、父は日頃はカタブツのイメージでしたが、オイラの子供の頃は、いつも家族が寝静まってから起きだし、深夜テレビを見ていました。 ふと、目を覚ますと、テレビのコメディを見ながら、ククククククと押し殺したような声で笑っていたのを覚えています。 きっと、父もこの話題は嫌いではないはず。 もう20年近く前、銀行に勤めていた頃の話ですが、職場の先輩の父君が亡くなったということで、支店のみんなとお通夜にお伺いすることになったのです。 お通夜の会場は先輩の自宅。 夜8時を過ぎていたので、遺族や親族、関係者のお焼香が大方終わった頃です。 そこへ支店の行員がゾロゾロ並んで、一人ずつお焼香をします。 古い日本家屋の縁側を挟んだ座敷に祭壇が作られていて、その前に喪主の未亡人と息子の先輩が正座し、参列者のお焼香が終わるたびに会釈しました。 故人はまだ60歳代だったと記憶しています。未亡人もまだ若く、涙に濡れてうつむく姿が痛々しい。 いつもはニコニコ笑っている先輩も、さすがに今日は沈鬱な表情でうなだれている。 オイラはまだ若かったので、お焼香の仕方がわからず、お焼香をする人たちを後ろから眺めておりました。 冠婚葬祭のマナーは、しっかり守らないといけませんからね。 お焼香が進み、いよいよ次の次がオイラの番。 すぐ前に立っていたのが、副支店長でした。後ろから副支店長の所作に注目するオイラ。 さすが副支店長。数珠を用意しているっすか。 数珠を右手から左手に持ち替えた。 そして、お香に向かって右手が伸びる。 そのとたん、キャというくぐもった声がお通夜の会場に響きました。 皆がお焼香をしている副支店長に注目します。 副支店長の右手が体の横でひらひら揺れている。 なんと、お香を取ろうとして、間違って香炉に手を突っ込んじゃったみたい。 大勢の人たちのお焼香が終わったあとなので、香炉の中は真っ赤かに燃えている。 そこへ思いっきり手を突っ込んだら、激痛が脳天を直撃したはず。 本来なら、思いっきり、ギャァァァァァァァ~とか、アチャャャャャャャ~と悲鳴をあげるところでしょうけど、キャッという必要最小限の悲鳴で留めるあたりは、さすが副支店長だと思いました。 ただ、そのあとの所作は若干問題かも。 本来なら、数珠を両手のひらにかけ、合掌礼拝しなければならない。 ところが、激痛で大脳皮質がマヒしたためか、パンパンと柏手を2回も打ってしまった。 真正面からこんな滑稽なライブを見せられてはたまらない。 それまで泣き濡れていた未亡人が、思わずプッと吹き出したのです。 神社にお参りしているわけじゃないから、それはまずいっすよ。 副支店長はお焼香が終わると、左手で右手を抑えながら、そそくさとその場を離れます。 そして一目散に出口に走ってゆくのでした。 きっと火傷した指を冷やそうと、水を探しに行ったのでしょう。 もちろん、その時のオイラはその一部始終を冷静に眺めていたわけではなく、信じられない光景にただ呆然と立ち尽くしているだけでした。 気がつくと、お焼香はオイラの番。 前を見ると、今まで涙に濡れていた未亡人が必死で笑いをこらえている。先輩は下を向いて目をギュッと閉じ、両手で膝がしらをつかんでいる。 他人から笑っていると思われないためには、これがベストな方法かも。 肩が小刻みに震えているのは、どこから見ても、父親の悲しみに耐えている姿にしか見えませぬ。 本来なら、こういう面白すぎる光景を見てしまうと、ギャハハハハハハハハハハと人目をはばからず大声で笑うのですが、さすがに非常識と言われるオイラでもそんなことできるわけありませぬ。 父の位牌にお香を投げつけたと言われる織田信長でも、さすがに笑ってはいなかったでしょうし…。 笑いながらお焼香をするなんて、人として一番やってはいけないことですからね。 人生最大の汚点だけは残したくない。 とっさに思ったオイラは、思いっきり尻の肉をつまみあげて、込み上げてくる笑いを必死で抑えました。 目の前では喪主と先輩が笑いをこらえているのがわかりますけど、こっちは笑いをこらえている様子すらわかってはまずい。 目を見開き、歯を喰いしばって、必死に耐えてお焼香をすませました。 脂汗は出てくるし、もう大変でしたね。 後日、先輩から、そのときのオイラは鬼気迫る表情をしていたと聞きました。 石川さゆりの「天城越え」のときの表情みたいだったと…。 でも、そんな色っぽくはなかったはず。 大相撲の優勝決定戦で、足の痛みに耐え、貴乃花が武蔵丸を破って優勝したときの「鬼の表情」と言って欲しかったっす。
2008年12月20日
コメント(16)
こんにちは。 今日は、久々のベスト5ネタっす。 オイラは最近、事務所でシコシコ文章を書いていることが多いのですが、そのためには資料集めが必要。 これが結構、大変なのですね~。でも昔と比べて、ネットで検索できるようになってからはすごく楽になりました。 以前は、図書館へ行って、本棚からごっそり参考文献を両手に抱えて持ち出し、閲覧室の机に積み重ねて、片っ端から読みまくる。 使えそうな本は左へ積み重ね、そうではない本は右へ。 そうやって粗読みをして、一次選考を突破した本に対しては、少しじっくり腰をすえて読む。 2~3行だけ使える文章を見つけたら、ノートにメモするのですが、とても書ききれない量の文章を引用しようと思ったらコピーを取りまくり。 そして、コピーを直接ハサミで切ったり、メモも文章ごとに細かく切ったりして文章を細切れにし、あとはその順序をあ~でもない、こ~でもないと試行錯誤しつつ並べ替え、なんとか辻褄のあう文章をこしらえる。 文章の表現の仕方を整え、最後に秘伝の隠し味の調味料をパラパラとふりかけて、はい、できあがり~♪ …というふうに書いていたのですが、最近は図書館へ一日がかりで行って参考文献を収集する手間がかなり低減しましたね。 でも、ネットで必要な情報が簡単に手に入るようになったのと反比例して、読解力が落ちてきたなと思う今日この頃です。 その話題はまた今度にして、ネットで大量に情報を収集する作業はそれほど頭を使わない代わり、単純作業の忍耐力が必要だとわかりました。 それを行う推進力になっているのが、オイラの場合、音楽なのですね~。 学生時代、深夜放送のラジオを聴きながら受験勉強していた気分に浸られるといいますか。 効果があがっているかどうかは疑わしいのですが、ずっと机に座っていられるのだけは間違いないみたい。 どんな音楽が効果あるか試してみたのですが、オイラの場合、ひたすら忍耐力が必要とする作業に関しては、昔のフォークがいいのではないかという結論に達しました。 そこで、本日は、ビジベンが仕事するとき聴いているフォークソングベスト5をお送りしようか、と…。 ほかにも、アイドル歌手編や演歌編、昭和の歌謡曲編、ニューミュージック編、ジャニーズ編、映画音楽編、最近のヒット曲編、サザン編、聖子ちゃん編といろいろあるのですが、それはまたいずれ。 こうして考えてみると、オイラは果たしてちゃんと仕事しているのだろうかと考えてしまうのですが…。 それはともかく、ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングのベスト5は次のように決定いたしましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)第五位 「風」 はしだのりひことシューベルツ それはこちら この曲は1960年代ですから、オイラもヒットしていた当時の記憶はほとんど残っていないっす。 次の出だしの歌詞の意味もよくわからなかったような。北山修作詞 「風」 人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ 寂しくなって振り返っても、風なんかいつも吹いていなかったし…。 でも年を経るに従って、その歌詞がずんと胸に響いてくるようになりました。それに、はしだのりひこの美しいメロディーラインと歌声が重なります。同志社大学神学部卒らしいから、賛美歌のように心の奥の一番敏感な部分に届くのでしょうか。この歌は以前、教科書にも載っていたらしいですね。今の若い人たちは知っているのだろうか、と思いました。第四位 「学生街の喫茶店」 ガロ それはこちら 「風」の品行方正な雰囲気とは違って、ちょい悪っぽい若者3人が、授業をさぼってタバコをプカプカふかしながら喫茶店で、人生とは何か、なんてだべっている当時の世相を反映している歌でした。 もっとも当時のオイラは中学生くらいだからよくわかりませんでしたけど。 ガロっていうネーミングは斬新だと思いました。当時流行っていた漫画雑誌の名前からつけられたのだと思っていましたが、ホントは三人の世話役だった人が、自分の子供に「我朗」とつけようと思っていたところからのネーミングだったそうな。 この歌を聴いたためか、オイラの学生時代は喫茶店へ友人たちと入り浸っていた記憶ばかりが残っています。 当時はインベーダーゲームが全盛で、あのピコピコ鳴る音と喫茶店でいつも食べた大盛りのナポリタンのイメージが強烈でした。 授業中の記憶が空白なのはなぜ?第三位 「心の旅」 チューリップ それはこちら これもオイラが中学生のときのヒット曲。 ラジオのベスト10番組が好きで、当時はいつも聴いていましたが、一位を長く維持していた記憶があります。 チューリップはつい最近まで活躍していましたね。 この歌を作ったのは、財津和夫。 ほかにも、『青春の影』や『サボテンの花』、『虹とスニーカーの頃』などの名曲をてがけていますな。 オイラ的には、松田聖子の『チェリーブラッサム』や『白いパラソル』のほうが印象強いっす。 とくに『白いパラソル』は聖子ちゃんの曲の中ではベスト3に入るほど好きな曲。 そういえば、「心の旅」は、かつて吉田栄作がカバーしていましたね。 当時の映像を見ていて、財津和夫も今と全然雰囲気が違うな~と思っていたんですよ。 この記事を書くので調べてみたら、当時のボーカルは財津和夫ではなくて、メンバーで一番若かった姫野達也だったと知りました。 なんでも、デビューからシングル2枚、アルバム2枚を出したがヒットせず、当初リーダーの財津和夫が歌うはずだったが、レコーディングの直前になって、関係者の間で「財津より、甘い声が魅力の姫野に歌わせよう」ということになったとか。 「心の旅」は30年以上、財津和夫が唄っているとばかり思っていたのでした。 財津和夫が唄っていたら、どんな雰囲気の曲になっていたのでしょうね。第二位 岬めぐり 山本コウタローとウィークエンド それはこちら コミックソングの『走れコウタロー』でブレイクした山本コウタローが、長い時間をおいてまったく違うイメージで大ヒットした名曲。 中学から高校時代にかけてよく通学のときに口ずさんでいた記憶があります。 『走れコウタロー』のときは小学生でしたけど、曲の途中で当時の美濃部都知事の物まねが入ったりして、当時としては斬新な構成でした。 あのまま終わっていたら、コミックバンドのリーダーとしての記憶だけが残ったと思いますが、この曲で見事にイメージを一掃しましたね。 吉幾三や殿様キングスのさきがけと言いますか。 郷愁を感じるメロディーラインと縦笛(リコーダーというらしい)がいい雰囲気を醸し出し、バスは走る~♪という歌詞にぴったりのリズム感。 オイラはそれほど歌がうまくないのですが、カラオケで歌うとすごく歌いやすい。 一時期、岬めぐりが趣味だったのは、この歌の影響かも。 さて、 いよいよ第一位の発表っす。 ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングの第一位は… 駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)第一位 或る日突然 トワ・エ・モワ それはこちら この歌がヒットしていたのは小学生の頃だったのと思いますが、当時ももちろんいい歌だと感じていました。 でも、ホントに好きになったのは、改めて聴きなおした最近ですね。 イントロや全体の雰囲気がなんともハイカラ。 まだ日本家屋全盛で、水洗式のトイレもそうなかったであろう当時の雰囲気から生まれた歌だとはとても思えませぬ。 日本よりヨーロッパ、とくにフランスのイメージがすると思ったのはオイラだけでしょうか。 もっとも、フランスへ行ったことは一度もなく、カトリーヌ・ドヌーブやイブ・モンタンが全盛の頃のフランス映画のイメージなのですが…。 そういえば、トワ・エ・モワというネーミングは、フランス語で「あなたと私」という意味だそうですね。 ネットで調べてみると、メンバーの芥川澄夫と山室英美子それぞれソロ志向だったそうな。 事務所の方針でコンビを組んでデビューしたのですか。 そういえば、当時から唄っているときの二人の距離感が、チェリッシュとは違う素人っぽい雰囲気がありましたね。 その後、山室英美子は白鳥英美子としてソロで活躍していましたが、最近はたまにトワ・エ・モワとしてテレビに出演する機会も増えたと感じます。 最近のヒット曲は、それほど詳しくありませんけど、こういうメロディーラインの美しい曲ってあるのですかね。 それを期待して、今年も紅白を見ようと思いまする。
2008年12月13日
コメント(17)

こんにちは。 前回は写真がなくて失礼しました。 やっぱり、お散歩ネタはビジュアルが大事だと、その重要性を再認識した次第です。 実はもうフォトデータが一杯になっていて、前の画像を削除しないと新しい画像をアップできないんですけどね。 100円払うと、フォト容量をアップできるとどこかで聞いたのですが…。 でも、100円あれば100円ショップでペットボトルのお茶が買えるし、松屋で野菜サラダをオーダーできますからね。 しばらく、古い画像を削除しながら、継続するしかないっす。 さて、今回行ったのは、多摩ニュータウンのそばに今も残る鎌倉街道。 今も鎌倉街道と呼ばれる道は残っていますが、古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代、幕府の御家人が、何か一大事が起きたとき、「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道ですね。 歴史関係の雑誌に、現在の鎌倉古道の写真が載っていたんですよ。 鎌倉へと向かう道は当時、何本もあったそうなのですが、今回オイラが行ったのは、鎌倉から武蔵国西部を抜けて、上州すなわち群馬県に向かう道。 その中の多摩市から町田市の小野路・野津田・七国山周辺です。 東京都なのに、鎌倉時代の武士が歩いてもおかしくないような雰囲気の箇所が残っていて、一気に興味を魅かれたのでした。 森閑とした古道を歩いていると、タイムトラベルしてきた鎌倉武士に出会えるのではないか、と…。 …ということで、まず向かったのが、京王線、小田急の二つの私鉄の駅がある永山駅。 そこからテクテク歩いて、現在の鎌倉街道、都道18号線を越えると前方に見える貝取山緑地の小高い丘を登ります。 貝取山というくらいだから、縄文時代の貝塚でもあるのかしらんと思いましたが、詳しいことはわかりませぬ。 頂上にマンションがあったりして少し期待外れでしたが、そのまま尾根を南下します。 そういえばここには以前来たことがあり、面白い形をした石があったことを思い出しました。 すると、その巨石が遊歩道の傍らに存在感を持って現れます。 確か、象に見えるから象石とも呼ばれていた記憶がありますが、確かに色といい、つやと言い、小象が寝ころんでいるように見えなくもないですな。 遊歩道を抜けると巨大団地多摩ニュータウンの真っただ中。 ところどころ広い公園があって芝生の広場も完備しておりまする。 団地の建物といくつもある広い公園のコラボを満喫しながら歩いているうちに、迷ってしまいました。 まわりを見回しても、360度、巨大な四角い建物がどこまでも続き、方向感覚を狂わせます。 わぁ~、またラビリンスへ迷い込んでしまっただ、とあせって歩き回るうち、都立高校の建物が目に留まりました。 そこを目印に地図で調べてみると、なんと目的地から2キロもずれている。 ウォーキングで、オイラがこんなに間違った方向へ歩いたのは初めてかも。 もっとも、仙台へ行ったとき、松島行きの電車に乗ったと思ったら、山形へ行ってしまったことはありましたが…。 それはともかく、ルート修正のため余計な距離を歩く羽目に。 そのおかげで、金メダリストのビッグマウス、石井慧選手の母校、国士舘大学の体育学部の前を通ることができました。 石井選手のビッグマウスは、アメリカプロレスのショーマンシップを見るようで、個人的には好きなのですが。 ようやく、次の目的地一本杉公園へたどり着くことができました。 ここは、池や芝生が広がる落ち着いた公園。となりにある女子大の緑あふれるキャンパスも眺めることができます。 ここには、多摩市内から移築された古民家が二つ、屋外展示されていました。 こちらの旧有山家住宅は市の指定有形文化財なのだとか。 座敷の床は竹を編んで並べてあるのですね。 歩くたびに竹踏みができて健康には良さそう。 だけど、縁の下が透けて見えて、冬はかなり寒いだろうなと思いました。 一本杉公園を出て、いよいよ古道の雰囲気が漂う旧鎌倉街道へ。 思わず下の舗装道路を行きそうになりましたが、引き返して左の小道へと入ります。 最初は、ハイキングコースと変わりないじゃんと思っていましたが、歩くにつれ、いかにも鎌倉時代の古道と思われる場所もありました。 掘割みたいに凹状に見られる道は、鎌倉街道なのでしょうね。 …と思って、家に帰ってからネットで検索してみたんですよ。 鎌倉街道の道幅の規格は6メートルなのだとか。 これはどう見ても、3メートルもないような気が…。 鎌倉街道ではなく、後世に作られた道ではないかという疑念もわいたりして。 それはともかく、そのときは鎌倉街道と信じて疑わなかったので、鎌倉武士がタイムトラベルしてきたら、どう対応しようと考えつつ歩きました。 ところどころ、視界が開ける場所があり、都内とは思えない山里の景観が望めます。 馬頭観音、子育て地蔵など、道の歴史を感じさせるアイテムを眺めつつ、小野路へ。 小野路は、古くから鎌倉街道の宿として知られるそうですね。近世に入っても大山道の宿場として賑わったらしい。 通り沿いに、幕末、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司さんたちが剣術の出稽古に通ったという小島家には、小野資料館がありました。 何でも当時の当主は、近藤勇と義兄弟の間柄だったそうな。 資料館は、毎月第一・第三日曜日の公開だそうで、行った日は休館日でしたが、古い門に歴史を感じました。 小野資料館からすぐ近くにあるのが、小野神社。 平安時代の学者で、遣唐使の小野妹子の子孫であった小野篁(おののたかむら)を祭る神社なのですね。 なんでも、平安時代に小野篁の子孫が武蔵国の国司として赴任した時、先祖を祭ったのだとか。 国司も注目するくらいだから、この辺りは当時、交通の要衝として栄えていたのだろうと思いました。 次は、小野路一里塚へ向かったのですが、またまた道を間違えて1キロ以上も余計に歩くことに…。 実は、地図を図書館でコピーしたものを持って行ったのですよ。 図書館のコピーが薄くて、道路がよくわかりませぬ。 仕方なく、あとは感だけで歩いたのですけど、運よく一発で一里塚にたどり着くことができました。 ここは、徳川家康の遺骨を静岡の久能山から日光東照宮へ移すときに道が整備されたのですね。 そのとき、家康の遺骨を乗せた輿が壊れて、鍛冶屋を呼んで直すなど大騒ぎになったらしい。 それにしても、道だけではなく、一里塚まで作っていったわけですから、当時の大イベントだったのでしょうね。 そのすぐ近くに広がるのが野津田公園。 起伏を利用した広大な公園で、陸上競技場や湿生植物園、上の原広場など見どころが満載でした。 まずオイラが向かったのは、バラ園。 さまざまな種類のバラの花が咲き乱れておりました。もう少し前に来れば、満開だったのでしょうけど。 行った日は秋たけなわの頃でしたので、上の原広場には、すすきの穂が風に揺られていました。 これだけ大量のすすきを見る機会は、東京では滅多にないので久しぶりに秋の景観を堪能できましたね。 園内から、再び鎌倉古道を歩き、七国山を目指して歩きます。 鶴見川まではよかったのですが、迷路のような住宅街に阻まれ、再び道がわからなくなってしまいました。 そういえば、15年前に七国山という絶景が望めそうなネーミングに惹かれてやってきたのに迷ってしまい、結局目的地へ到着できず、すごすご引き返したことがあったのを思い出しました。 今回も方向感覚までわからなくなって、再び鎌倉街道へ出るまで住宅街をぐるぐる歩き回りました。 鎌倉井戸には行ってみたかったのですが…。 そこからまた町田駅まで、延々と歩くのでした。 うちに戻って迷っていた距離を計算すると、通常のルートより5キロは余分に歩いたような。
2008年12月06日
コメント(8)
全3件 (3件中 1-3件目)
1