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こんばんは。 巷では3連休ですか。 昔から風邪をひくときは休日と決まっているオイラ。 急に寒くなったので、仕舞ってあったストーブを出すまでのタイムラグが、ダイエットして免疫力が低下した身体を直撃します。 ちょっと参った外部要因もあって、連休明けに風邪をひくかどうか微妙なところ。 体の防衛軍とエイリアン風邪ウイルスとどっちが勝つか、興味深いところですな。 それはともかく、今日は、前回の小田原散歩の続きです。 北条時代の小田原城を見たあとは、江戸時代の小田原城へGO! …ということで居神神社を出て、道路を挟んだ反対側の大久寺へ向かいます。 こちらは、寺の名前から江戸時代の藩主大久保氏の関係があるんだろうなと思ったら、やはり大久保氏の菩提寺なのでした。 一族の墓が境内にあったのですね~。 大久保神社に大久寺ですか。そのものズバリのネーミングですな。 東海道本線の線路を越え、しばらく行くと北条氏当時の小田原城の遺構である「早川口遺跡」。 ここも豊臣秀吉の小田原征伐に備えて作られた大外郭の一部なのですね。土塁もかなり磨耗して低くなっていましたが、住宅街のど真ん中に北条氏の遺跡が残っているのはすごい。 現在の小田原城址公園からもかなりの距離があり、当時の城の巨大さが改めて実感できました。 御幸の浜といわれる海岸を眺めた後に向かったのが、小田原文学館。 趣のある古い洋館だったので有名な人の家だったのかなと思ったんですよ。 やっぱし、佐藩の藩士で明治維新後は宮内大臣などを歴任した田中光顕の別荘として建てられたのだとか。 司馬遼太郎の幕末ものにもたまに登場する人物ですな。 昭和12年に建てられたスペイン風建築だそうで、今住んでも違和感のないモダンな建物。 館内では、小田原出身やゆかりの文学者の作品や手紙、写真などが紹介されていました。 北村透谷、北原白秋、尾崎一雄、谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾はオイラも知っているっす。 中には知らない作家も大勢いましたが、当時の肖像写真が飾られているんですよ。 井上康文という詩人は、今も時代でもジャニーズに入ったら人気が出そう。「嵐」のメンバーに似ているし。 田原俊彦に似ている作家もいましたよ。 かつてはジャニーズにあらざるものはアイドルにあらず…なんて言われた時代もありましたが、明治・大正の文壇にもジャニーズブームはあったのでしょうか。 ちなみに樋口一葉も、そのネーミングや五千円札の雰囲気から、古風でおとなしい女性のイメージです。 でも樋口一葉記念館に残された写真や手紙を拝見すると、結構キャピキャピギャルの一面もあったみたいなんですよ。 古いセピア色の写真から、セピア色の性格をイメージしてしまいがちですが…。 それにしても、オイラはどういう基準で人を見ているんでしょうね。 庭園を挟んで、尾崎一雄の移築された書斎や田中光顕の別荘の別館として建てられた純和風の建物では、北原白秋の童謡にまつわる展示もありました。 古い日本家屋とマザーグースのミスマッチがまたグーです。 文学館を出て、小田原城址公園へ向かうときにはもう午後4時近くに…。 公園の南側の入り口から城内へ入ります。北条時代の小田原城をゆっくり見たから、天守閣に入る時間がなくなってしまいました。 ま、以前入ったことあるし、と思いましたが、それはなんと20年くらい前なのでした。 展示物はそれほど大したものはなかったと記憶していますけど、なんと言っても標高60メートルからの眺望は見事でしょうね。 かつて小田原第2尋常小学校の講堂だった建物の小田原城歴史見聞館にも入ったことないし、今度またゆっくり小田原城へ来ようと思いました。 昔から比べれば小田原城の城内も整備され、今でも関東の城の中では横綱クラスの見所が満載です。 まず、近年復元された銅門を通って二の丸へ。 今はだだっ広い広場になっていますが、かつてここには壮麗な二の丸御殿があったのですね~。 赤い常盤木橋を渡ります。今は田んぼになっていますが、かつてここには幅20メートル近くある堀になっていて、本丸を守っていたらしい。 橋を渡り、石段を上ると昭和45年に復元された常盤木門。 さすが江戸幕府の関東前線基地としての威容が感じられました。 巨大な門をくぐっていよいよ本丸へ。 本丸に上がると、巨大な天守閣が圧倒的な迫力で目に飛び込んできます。江戸時代もこれと同じ大きさだったのでしょうか。 当時の人たちは、東京タワーや六本木ヒルズを見上げるような感覚で眺めたのだろうと思いました。 江戸時代初期には、三大将軍家光がこの天守閣に登り、眺望を楽しんだという記録が残っているらしい。 いきなり天守閣の内部へ入るのではなく、石垣の急階段を登って入り口に到達するのが特徴的かも。登るとき、視界が広がって、ワクワクするような高揚感を当時の人たちも感じたのでしょうね。 それをオイラも味わいたくて、是非また近いうちに来たいっす。 天守閣の建っている丘を反対側に下ると小さな遊園地になっていて、そこからまた下って、報徳二宮神社へ向かいます。 向かう途中のこの池。 神社によくある心字池かと思いきや、北条時代の堀の跡なのだとか。 石垣を用いない戦国時代の堀の原型をよく留めているらしい。 堀の幅は、20メートル以上、深さは5メートル以上もあるのですか。 澱んだ水で、意外と浅いのではないかと思いましたが、底には北条氏の堀特有の障子堀の一部を残していますと解説板には書かれていました。 報徳二宮神社の境内は、北条氏によって作られた古い曲輪の跡だそうです。雷曲輪を呼ばれる二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地で、江戸時代は、小田原城の火薬庫があったそうな。 報徳二宮神社は、かつて学校の校庭でよくお目にかかった二宮金次郎を祭った神社。 そういえば、二宮金次郎は小田原藩領の出身でしたね。小田原藩の家老や小田原藩の分家、その後天領の財政再建に腕を振るったと聞いたことがあります。 それにしても、こちらも二宮神社というストレートなネーミング。 隣にある郷土文化館が無料で入れるというので、行ってみることにしました。そういえば、前回来たときも「無料」という言葉に吸い寄せられたような。 発掘資料や民俗資料など、よくある展示物が所蔵されていましたが、オイラが興味を持ったのはやはり小田原城の資料。 とくに、北条時代の小田原城の縄張りは興味深かったっす。 朝からずっとオイラがたどってきた道を見ながら、当時の小田原城をイメージしてしたら、おじいさんに声をかけられました。 係の人ではないみたいですが、説明してくださるみたい。 まず、小田原城の総構えの巨大さを指摘されます。「総構え」ってわかる? …と聞かれましたが、ええ、何となく聞いたことがあります、と何気に聞き上手になってしまう自分が哀しい。 城の説明の中で間違っている箇所に、必死で突っ込みを入れたくなるのを押さえ、しっかりお礼を言って外に出ます。 再び城内を通って、水堀を渡り、幸田門跡へ。 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に激闘がここで繰り広げられたそうな。 確かに平地で、居館があったといわれる場所までもうあと少し…。 謙信も、信玄も、あと一歩まで攻めたものの落とせなかったというのが実感できました。 幸田門跡から続くスペースに、土塁が残っている。 ここは、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡だそうですね。 さきほどの早川口遺構の土塁は、住宅街の中にありましたが、こちらの土塁は完璧に市内中心部。 土塁の上を歩くと、ビルで働いている人たちを窓ガラス越しに眺めることもできます。 やはり小田原は城と町とが見事に共存しているのですな。 そして最後に向かったのは、北条氏政・氏照の墓。 北条氏政は、北条氏第4代の当主。氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主だった存在。 当然、由緒正しい寺院の墓地の奥にひっそりと、というイメージでしたが、小田原駅から程近い歓楽街の一画にあったのは少々驚きました。 二人は、小田原落城の後、城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃したのですね。 遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されたらしい。 江戸時代になって伝心庵は移され、その跡に別の寺が建立。この墓所は長く放置されてあったのを、後の小田原城主が北条氏追悼のため作り直したのだとか。 それも関東大震災のとき埋没し、行方不明になっていたのを地元の有志の人たちが復興したのですね。 北条氏のとっては悲劇的な結末でしたが、新しい花が供えられ、今でも小田原の人たちから慕われているのがわかりました。
2008年11月23日
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こんにちは。 オイラが最近はまっているのが、筋トレ。 この前、何気にテレビを見ていたら、中高年でも安全に、短時間でも効果のあがる筋トレの仕方をやっていたのですよ。 その方法は、腹筋、スクワット、腕立て伏せの3種類のみ。 しかも、やるのはそれぞれ、たったの10回だけ。テレビではそれを一日2セットやるとさらに効果的と言っていました。 えっ?たったそれだけで効果あるの? 若いころは筋肉ヲタクで、ブルワーカーはもちろん6キロのダンベル、エキスパンダーなどエクササイズ用具は今でも家にあるオイラ。 それを全部やったら1時間はかかるし、疲れるし、面倒くさいし、でここ何年間かはご無沙汰でした。 でもテレビで見た、この方法を実践している人たちは、高齢者でも信じられないくらい身体レベルの高い人が多い。 ホントかどうか疑心暗鬼でしたが、続けてみることにしたのです。 ただ、やり方にちょっとしたコツがあるみたい。 それは、腹筋にしても、スクワットにしても、腕立てにしても、通常よりゆっくりやること。 腹筋や腕立ては、腰に負担がかからない配慮はしてありましたが、基本的にはスローにやるということさえクリアすればいろいろ応用できそうですね。 オイラはとりあえずその3種類だけやってみました。トータルでも一日10分くらいでできます。 それを実践して10日くらい経った頃、なんとなく効果が実感できるようになったのですよ。 ダイエットして体が軽くなったところに筋トレを行ったので、車で言うと車体を軽量化してエンジンのパワーを増した感覚と言いますか。 街を普通に歩いていても、体に余力があるから、何の脈絡もなく駈けだしたり、階段を3段抜かしで駆けあがりたいという衝動にかられる。 何をするにしても体を動かすことに関しては、余裕をもってできるというメリットはありますね。 ダイエットして少々困ったのは、満員電車の中。 なぜか、気がつくといつもオイラの隣に、身長180センチで体重が120キロは超えていると思われるメタボおやじが立っているんですよ。 太っていた頃は、電車が揺れてそのおやじが倒れ掛かってきても、怒涛のがぶり寄りで押し返すこともできた。 ところがダイエットしてからは軽量の哀しさから、一気に土俵際まで持って行かれることが増えましたね。 ただ、最近はおかげさまで筋トレの成果からスピードとパワーがつきました。 体勢を低くしてメタボおやじの前みつをとり、一気に寄り切ろうという作戦をたてております。 今度、ホームで千代の富士みたいな足を高く上げる四股を踏んでから、満員電車に乗りこもうか、と…。 そのメタボおやじも、曙みたいにのっそり電車に乗り込んできたりして。 それはともかく、今回もお散歩ネタです。 江戸時代の城の東正横綱といえば、江戸城だと思いますが、戦国時代の城の横綱もまた関東にあるのですね~。 それは小田原城。 ご存知、後北条氏の本城として、当時関東の中心であった大城郭です。 名将武田信玄や上杉謙信も落とすことができず、豊臣秀吉が全国から集めた20万の兵力に包囲されながらも100日間持ちこたえたのですよ。 子供の頃から城ヲタクだったオイラ。当然、小田原城は何度も行っているのですが、いつも見ていたのは江戸時代の小田原城なのでした。 新幹線に乗っていて車窓から見える天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。宝永3年(1706)に作られた天守閣の設計図や模型を参考に再建されたのですな。 天守閣は立派ですが、豊臣秀吉の大軍を迎え撃ったにしては、正直言って小さな城だなという印象でした。江戸時代は10万石クラスの譜代大名が城主だったのですね。 ところがその後、いろいろ本を読んでいて、現在の本丸には北条氏の居館はあったものの、戦国時代の本丸は別な場所にあったことを知りました。 それは、東海道線と新幹線の線路を越えたもっと標高の高い場所。現在城山公園や県立小田原高校になっている辺りが、北条氏時代の本丸だとか。 そう聞くと、行かないわけにはまいりませぬ。 江戸時代の小田原も、東海道の要衝として繁栄していましたが、史上小田原がもっとも脚光を浴びていたのは北条氏の時代だったのではないか。 小田原征伐の当時、もし新聞があったら全国紙でも連日一面トップで掲載されたでしょうからね。 北条氏の時代の本丸を知らなくては、城ヲタクのもぐりと言われても仕方ないっす。 … ということで、名誉挽回のために小田原へやってきました。 いつもは繁華街の東口へ出て、城址公園へ向かうのですが、今回は西口からスタートです。 駅前には、北条早雲の銅像が…。 望遠で撮ったので不鮮明ですけど、馬に乗った早雲と走る鹿のコラボレーションですか。 馬と鹿…とだからどうというのではなく、これは早雲が小田原城を攻略した故事によるものでしょうね。 当時の小田原城主は大森藤頼。 伊豆にいた早雲は、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。そこで鹿を追い返すために勢子を小田原領内に入れ、伊豆へ鹿を追いやりたい」という手紙を藤頼の元に届ける。 藤頼はこれを許して、早雲は勢子を入れた。が、しかし、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、相模の国攻略の第一歩としたのでした。 現在の小田原城を眺めていると、東海道新幹線などで分断されて単独の丘の上に建っている城のように見える。でも、それより高く、鹿が逃げ込むのには絶好の裏山があるのですね。 それはともかく、北条早雲の像が小田原駅の西口にあるのが興味深い。 東口が江戸時代の小田原、西口は北条氏時代の小田原と、棲み分けができているのだろうかと思ったりして。 北条早雲は司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで共感を覚えた武将です。中年になってから一念発起して京都から駿河の国へ。 今だったら、東京から地方へIターンして新たな働き口を見つけて働くといった印象でしょうか。 京都にいた頃は、鞍を作っていた職人のような描かれ方をしていたのが記憶に残っています。 確か、50代半ばで興国寺城の主となり、60歳過ぎてから伊豆の国を取り、88歳まで長生きしたのでしたね。彼の生涯を眺めると、中高年も夢さえ捨てなければまたまだやれるのではないかと希望がわいてきます。 そんなことを考えつつ、お寺が左右に並ぶ舗装道路を通って城山公園へ向かいました。 道路は広くて立派なのですが、さすが城山というだけあって勾配がきつい。 やがて右手に、陸上競技場のグランドが見えてきました。行った日は、中学生の競技会が開かれていて、場内アナウンスがひっきりなしに聞こえます。 このグランドの広大なスペースが御前曲輪の跡なんですと。 小さな城だったら城全体がすっぽり入るスペースが、数ある曲輪の一部ですから城の規模がわかりますね。 眺望がよくて土地の起伏はわかるのですが、城の規模が大きすぎて縄張りが推理できませぬ。 いつもは、ガイドブックのコースを無視して城跡を縦横無尽に歩き回るのですが、迷子になりそうなのでコースに従うことにしました。 公園の林の中を歩いてゆくと、巨大な空堀が目の前に現れます。 これが、小峰の大堀切。 小田原城の西の守りを固めるために、豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために作られたらしい。 堀の幅は、約20から30メートル。深さは土塁の頂上から12メートルあまりもあって、斜面は50度という急勾配なのだとか。 空堀としては全国的にも最大規模のものですか。 正直言って、これくらいの大きさの空堀は何度か目にしたことがありますけど、驚くべきはその総延長。なんと9キロメートルにも及ぶそうなんですよ。 小田原城が戦国時代末期、その威容を天下に響かせたもっとも大きな理由が、総構の巨大さでした。 城下町を包囲する外郭の周囲は五里と言うから、約二十キロにも及んだらしい。戦国時代のドラマを見ていて、北条氏が登場するシーンには必ずと言っていいほどこのフレーズが飛び出します。 それにしても、これだけの空堀がよく現代まで残りましたな。 中途半端な規模ではないから、城跡にそれほど関心がなかった時代の人も手を付けられなかったのかも。 当時の北条方の人たちは、日本全国を敵にまわして戦うことを想定して巨大な空堀を作ったのですね。死ぬか生きるか、必死の思いだったのでしょう。 彼らの心中をイメージしていたら、腕にでっかい蚊が数匹も止まっていました。ちなみに行った日は初秋でしたので念のため。 血を吸われるか、吸われないか、必死の思いで腕をバチバチ叩きながら空堀をあとにします。 しばらく歩くと、大久保神社。 ここは江戸時代の小田原藩主大久保氏を祭った神社ですな。城下町より、北条氏の本丸のすぐそばにあるというのは何か意味でもあるだろうかと考えました。 それにしても、このあたりからの眺望は素晴らしい。小田原の市内はもちろん、伊豆や真鶴半島。そして小田原征伐で、豊臣秀吉が陣を張った石垣山城まで見通すことができまする。 このあたりから、一夜にして城ができたと北条方は大騒ぎしたのですな。 急な坂道をくだり、小田原の市街地へと向かいます。 その途中にあるのが、伝肇寺(でんじょうじ)。 ここは詩人の北原白秋が34歳のとき、小笠原からこちらの境内に居を構えて移り住んだそうななんですよ。 その家が屋根も壁も茅葺の南方的な庵室だったらしい。 その姿が木菟(みみずく)に似ていたので、白秋自ら「木菟の家」と呼んだとのこと。 小田原はともかく、北原白秋が小笠原の父島に一時住んでいたというのは驚きましたね。 なんでも奥さんが肺結核になったから空気のいいところで静養したそうなのですが。 境内には、白秋にちなんだみみずく幼稚園がありました。 国道1号まで降り、次に向かったのは、鎌倉時代末期の石碑のある居神神社。 解説板には、小田原の後北条氏に討たれた三浦荒次郎平義意(よしおき)の霊もお祭りしてあると書かれていました。 これからいよいよ、江戸時代の小田原の城下町を歩くのですが、それはまた次回。
2008年11月16日
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こんばんは。 今日の昼間、渋谷を歩いていて、またアンケート勧誘のおばさんに声をかけられました。 年齢を聞かれ、オイラの年を言うと、「あ~残念、対象外なんですよ。ごめんなさい」と言われてしまったのです。 どうやら、20~30歳代の人たちが対象のアンケートみたい。 ウヒョー、オイラは30歳代に見えるっすか。 かなり逡巡しながら声をかけられましたから、あまり手放しでは喜べないのですが…。 でも、これほどうれしい間違いはないかも。 スリムのジーンズにヨットパーカーという若造りな格好もあったと思うのですが、ダイエットと筋トレの効果が少しずつ表れてきているような気もしました。 4年前は、同じ渋谷の路上で、アンケート勧誘のおばさんから50歳代に間違われましたからね。 そのときは、一瞬目の前が真っ暗になって、その場に崩れ落ちてしまいそうになったのを覚えています。 やはり体型によって、年齢を判断する人が多いのかも。 渡辺監督より原監督のほうが若く見えるのは、オイラだけではないと思いますし…。 改めて現在の体重の死守を決意した次第です。 さて、前回の続きの3ヶ月で15キロやせたという社長のダイエット法。 社長の話を聞く限りでは、これは一種のレコーディングダイエットかな、と思いました。 レコーディングダイエットとはご存知、ベストセラー「いつまでもデブと思うなよ」の中で著者の岡田斗司夫が紹介したダイエット法。 これは、日々摂取する食物とそのカロリーを記録することで、自分が摂取しているカロリーや食事の内容、間食などを自覚して、食生活の改善につなげるらしい。 岡田斗司夫は、このダイエット法で、117キロもあった体重を一年間で50キロ減らし、67キロにすることに成功したのですか。 体脂肪も42%から17%へと、25%も減らしたのですね~。 その本は、一年前に自分が穿いていたズボンを着て、そのウエストの激減ぶりをアピールする岡田斗司夫の衝撃的な表紙が印象的でした。 オイラはこれほど痩せたら死んでしまうから読みませんでしたけど…。 でも、ダイエットの1ヶ月当たりの減少率から言ったら、社長さんの5キロに対して岡田斗司夫は4.166キロと、社長さんのほうがすごい。 3ヶ月で15キロダイエットした社長に、「いつまでもデブと思うなよ」を読んだんですか?と聞いてみたんですよ。「何、それ? デブとは失敬な」と機嫌が悪くなりそうだったので、あわてて本の説明をしました。 どうやら本を読まないで、いつのまにか同じようなダイエット法を実践していたらしい。 オイラも、その本を読んでいないからあまり偉そうなことは言えませんが、自分が食べた食物を記録するという点では、両者はクリソツなのではないか。 その社長さんの方法は、いつも使っている手帳に、一日分の食事や間食のメニューとカロリーを書き込んでゆくもの。 普通のビジネス用の小さな手帳に書き込んでいるから、すごく字が細かい。 見せてもらうと、虫眼鏡がないと読めないくらい小さい端正な字で、ごはんの分量、おかずの食材、飲み物の量、カロリーなどがぎっしり書き込まれておりました。 最後に、一食ごとのカロリーと間食を含めた一日分のカロリーの総量が計算されている。 そして手帳に挟んであるのが、方眼紙に書かれた折れ線グラフ。 さすがに3ヶ月で15キロも痩せただけあって、体重は急降下を示しているのでした。 そして当時の一日のカロリー目標、1600kcalが端っこに太く書かれています。 一日のカロリーを制限してやせるのは、ダイエットの王道ですからね。その辺の知識は、医師が書いた真面目なダイエットの本で仕入れたと話してくれました。 ダイエットのために読んだ本を自分のデスクから引っ張り出してきてオイラに見せてくれます。 自分のダイエットを自慢しようと思って訪問したのに、いつしか社長さんのダイエットの自慢話を逆に延々と聞く羽目に…。 それにしても、ダイエットの本を見せてもらうと、4冊全部の本の裏表紙にブックオフの値札が…。 なんと、全部105円コーナーから仕入れたのですか。 聞くと、不動産会社の情報網を駆使して、都内のブックオフなどディスカウントのお店はすべて頭に入っているとのこと。 仕事で近くへ行ったとき、店を覗いてみるのだとか。 ひぃぃぃぃぃぃぃ~年収2000万円を超えていて、100万円のロレックスと30万円のべっ甲のメガネをしている社長さんが、ブックオフの105円コーナーの常連だったなんて。 ダイエットで負け、本来なら圧倒的勝利を収めねばならない節約勝負にも負けて、目の前がクラクラしてくるオイラ。 それはともかく、短期間でダイエットに成功するなら、一日のカロリーを抑える、この方法がベストでしょうね。 …というより、これしかないような気が。 以前のブログにも書いたかもしれませんけど、どんだけ運動しても、どんだけ世の中にあまたあるダイエット法を行っても、自分が一日で消費するカロリー以上に食事でカロリーを摂取していたら、やせるわけがない。 いわば、プラスとマイナスの関係。 大食い選手権に出るような人たちは、皆やせている人が多いですが、彼らは特別な体質を持っているのでしょう。 摂取したカロリーが体に蓄積しないか、あるいは基礎代謝量が跳びぬけて多いか、その辺は専門家ではないからわかりませぬ。 ただ彼らと同じように食べていたら、太る人が絶対的に多いということ。 その社長さんがとった方法は、もっともオーソドックスで、実行しさえすれば確実に結果が出る方法なのですね。 それは…。 まず、それぞれの人にとって必要な一日のカロリー量を算出する。 たとえば、標準体重1キログラム当たりのエネルギー量を次の3つに分ける。 軽労働 25~30kcal 中労働 30~35kcal 重労働 35kcal 標準体重というのは、BMIという数値でよく表されます。 それは、身長(m)×身長(m)×22 社長さんの場合は身長168センチ。 すると、身長1.68m ×1.68m×22で、62.0928キロが標準体重。 その数字に、自分の一日のライフスタイルを考え、上記の軽労働から重労働に必要な標準体重1キログラム当たりのエネルギー量をかければいいわけですな。 社長さんはデスクワークの軽労働が主体で、なおかつ早く痩せたかったから、標準体重1キログラム当たりのエネルギー量25kcalを選択したらしい。 つまり計算式は次のようになりまする。 身長(m)×身長(m)×22×標準体重1キログラム当たりのエネルギー量 上記の式を社長さんに当てはめてみると 身長1.68m ×1.68m×22×25kcal = 1552.32kcal …ということで、社長さんが一日に必要なエネルギー量は、1552.32kcalと出ました~♪ 多少下駄を履かせて、一日のカロリー目標を1600kcalとしたのですな。 ところでこれを実行するためには、自分が食べる食材のカロリーがわからないといけない。 そこで社長さんは、それぞれの食材のカロリー表もまたブックオフでゲッツしたのだとか。 カロリー表を参考にしながら、自分が食べる食事や間食のカロリーを計算して、一日1600kcal以内に収める。 最初はものすごく大変だったそうですけど、慣れてくれば食材の大体のカロリーがわかって来るから、計算しなくてもどれくらいあと食べても大丈夫かというのがわかったとのこと。 うぬぬ、話を聞くと簡単だけれど、それを実行するのはよほどの根性が必要かも。 実際は、飢餓との壮絶な戦いがあったのではないか、と感じました。 成果が出てくれば、頑張ろうという気にはなると思いますが。 でも、そこまで頑張らなくても、それなりにダイエットに成功する方法があると以前、聞きました。 それは、以前見たNHKの「ためしてガッテン」。 番組の中で紹介されていたのは、単に毎日体重計に乗って体重を量って記録すること。 これもまたレコーディングダイエットなのでしょうけど、番組の中ではただ量って、折れ線グラフを作ることくらいしか言っていませんでした。 体重を量るだけで果たして痩せるのかニャー。 …と見ていると、番組でモニターになった人たちは皆痩せている。 とくに、一日何カロリーに抑えるなんてカロリー計算はしていなかったみたい。 体重を量って、グラフを作るだけなら簡単ですよね。 これは人間の向上心に訴えかけるやり方なのではないか、と思いました。 日頃から痩せようと思っているのに、自分の体重が折れ線グラフで右肩上がりに上がっていたら、何とかしようという気持ちになるはず。 また、少しでも減少傾向にあったら、さらに痩せようと思うのではないか。 せっかく、頑張って減らした分、元に戻ったらがっくり来ますし…。 私事で恐縮ですが、オイラは、カロリー計算はおろか折れ線グラフを作ることもしませんでした。 ただ、体脂肪計を購入したことがもっとも大きな成功要因だったと思うのです。 それまでは、あまり体重計に乗ったことはなかったし、たまにヘルスメーターに乗ることはあっても、どうせ壊れていると出た数字を信じなかったのでした。 最初に乗ったとき、思ったより体重があったのにびっくり。 それから、2~3日に一度、体重と体脂肪、内臓脂肪のランクを量っては、手帳にその3つだけを記入していったのですね~。 たったそれだけでしたけど、定期的に量ってゆくとどうしても前の数字が気になる。 最初のうちは、それほど熱心にダイエットに励んだわけではないですが、前回より少し減っていればうれしい。 体重70キロ前後で、2~3ヶ月も一進一退を繰り返してのですが、12月の半ばごろ、なんとしても今年中に60キロ台に戻すぞ、と頑張った記憶があります。 でも、70キロを切ってからは、それほど努力もしないのに量るたびに体重が少しずつ落ちていって、いつの間にか65キロになったという感じです。 オイラの場合、いまだに太っていた頃と同じように間食を続けているし、ダイエット最大の敵と言われる「寝る前の間食」もやっている。 トータルで食べる量はそれほど変わっていないかも。 それでも痩せて体重を維持できているのは、いろいろ本を読んだり自分で実験したりして、痩せるコツを身につけたからなんですね~。 ビジベンダイエットの極意は、またいずれ。
2008年11月08日
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こんばんは。 う~、忙しいっす。 世の中は不況なのに、昨日と今日、仕事で一日つぶれたし、考えてみるとここ一ヶ月間、土日で完全に休んだ日はなかったような。 日頃からあまのじゃくを自認しているオイラですけど、仕事まであまのじゃくなのかも。 景気が良くなるとたぶん休む暇ができると思うので、早く景気が回復してほしいと願う今日この頃です。 それはともかく、このままだと、さらに痩せそう。 オイラがここ2~3年ダイエットしているのは何度か記事に書きましたが、とうとう65キロになっちゃいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~♪ 身長が176センチで体重が65キロ。 一番太っていた頃から比べると、9キロ以上もやせたのですな。 オイラが町を歩いていて、たまにウインドウに映る姿を見ると、やっぱり痩せたよな~と実感できます。 痩せると確かに若く見えるような気がしますけど、何となく貫禄がなくなったような気も…。 気の弱そうな森本レオのキャラで歩いている中年男といいますか。 75キロ近くあったときのウエストは確か82センチくらいで、胸囲は96~97センチでした。 傍目にはそれほど腹が出ていないし、胸板は結構厚め。 おお、小型の力道山みたいじゃ~と、鏡の前で空手チョップのポーズをとって割りと悦にいっていた記憶があります。 当時、誰が見ても、オイラをメタボと疑う人がいなかっただろうと断言できる。 が、しかし…。 何でたいして運動していないのに、体がビルドアップされてきたのかという疑問もありました。 一見逞しく見えた体が、内臓脂肪の張りぼてだったと気づいたのは健康診断で血液検査を受けたとき。 完璧に病気というほどではないにしても、血糖値や肝機能、中性脂肪などの数字はかなり悪い状態だったのです。 とくに肝機能の数値は青くなりましたね。 それほどお酒を飲まないのに、なんで肝臓が悪くなるのだろう、と…。 知り合いの病院の先生に、飲み会のとき数値を話したら、ええ~?と大きな声を出して、おいらが手に持っていたビールのグラスを取り上げられてしまいました。 当分、一切アルコールを飲んではならぬ、といつも気さくな先生が顔をしかめていたのを覚えています。 それだけ血液検査の数字が悪いのに、当時はまったく自覚症状がなかったんですよ。 それどころか、体重が増えたことすら気がつかない状態。 そのときは何年ぶりかで体重計に載って、エエエエ~!!!と絶句したのでした。 中学、高校時代、どんなに食べても体重60キロどころか55キロを超えなかったオイラが、70キロを超えるなんて夢にも思わなかったのです。 ただ、体重が標準体重以下に戻って当時を振り返ってみると、やっぱり体調が悪かったんだと思える部分はいくつかありますね。 たとえば、当時も今と同じようにウォーキングで近場を歩き回っていたのですが、平坦な道はさほど苦しくなくても、いざ上り坂にさしかかると途端に息切れがしてくる。 高尾山に行ったとき、とても麓から登るという気が起きず、ケーブルカーで山頂近くまで行ったのですが、そこからのハイキングコースがものすごく辛く感じました。 20分歩いては10分休む状態と言いますか。 そのときも、自分の体調が悪いとは思えず、標高が高くて酸素が少ないからだろうと思ったりして…。 高尾山の標高は確か600メートルぐらいなのですけど。 それから、多少歩くと足がすごく疲れました。 足が痺れたようになって眠れず、太ももにピップエレキバンを常時貼っていたのですね~。 それでも、一日3万歩以上歩いたら誰でもこうなるだろうと、大して気にも留めなかった…。 それから当時と今の違う点は、バファリンなどの鎮痛薬にここ一年くらいお世話になっていないこと。 体重があった頃は、よく口内炎になりました。薬を塗ってもなかなか治らず、痛くて食べられないから、鎮痛薬を飲んで食事をしたこともよくありました。 最近も口内炎はたまに起きますが、それほど重くならない。また起きる確率も当時の3分の1くらい。 太っていると口の中にも脂肪がついて、口内が狭くなると聞きました。すると、必然的に、噛むとき口の中のお肉も一緒に噛んで食べようとしてしまう。 傷ができると、そこから口内炎になるのですな。 そういえば、体重70キロを切るくらいのときから、一切口の中の肉を歯で噛むことはなくなったのでした。 それから、緊張型の偏頭痛も、最近なくなりましたね~。 これはどういうことなのでしょうね。 3ヶ月に一度くらい、ズッキィィィィィィィィィ~ン!!!と飛び上がるような痛さの偏頭痛が襲ったのですよ。 それが、まったくなくなってしまった。 偏頭痛にはいくつか原因があるのですが、オイラの場合はおそらく緊張型。 読んで字のごとく、頭を包む筋肉や首の筋肉の緊張によって起こるのだとか。 後頭部から首筋のあたりが重く、凝った感じになって鈍痛がし、ひどくなると頭全体が締め付けられるように痛み、吐き気を伴うこともあるらしい。鈍く重い感じの痛みが特徴で、頸部の筋肉の痛み、肩こり、めまいなどの症状がある。 いつかブログにも書いたかもしれませんけど、2~3分に一度、ズッキィィィィィィィィィ~ン!!!と頭に五寸釘を打たれるような強烈な痛みが襲う。 眠っているときにそれが起き、飛び起きて鎮痛薬を這うようにして探しに行ったこともありましたね。 それもまた、体重70キロを切るあたりから一度も起きていない。 緊張型の偏頭痛の原因となる筋肉の緊張は、悪い姿勢や運動不足による筋肉のこり、精神的なストレスが影響しているらしい。 なぜ精神的なストレスが影響するかというと、ストレスが加わると、頭から首にかけての筋肉が緊張して首を締め付けようとする働きが生じるためだそうなんですよ。 オイラの場合、太ったときはワイシャツの首周りが異常にキツク感じました。たぶん頭も、脳みそ以外の部分に肉がついて重くなったのではないか、と。 太ると体中の筋肉にも過度の負担がかかりますからね。 それが原因で偏頭痛を引き起こしたのかも、と感じました。 多少小太りのほうが長生きするとか、免疫力が高いとか、世間では言われていますけど、オイラの場合は限っては標準体重くらいが一番体調いいみたい。 だから、現在話題になっているメタボ健診は、健康に近づくためにはいい試みだと思います。 体重管理が健康になるためのもっとも近道ではないか。 …ということで健康的にやせたから、いろんなところで自慢しようと思っているのに、誰も話題にしてくれませぬ。 誰も、オイラを見て、痩せたね~って言ってくれないのです。 もっとも、約3年がかりでゆっくり痩せていったから、誰も気づかないのは無理ないかもしれませんが…。 うう、それでもせっかく痩せたのだから、誰かに自慢したい。 そこで向かったのは、渋谷の駅前からほど近い不動産管理会社。 そこの社長さんは、オイラが銀行時代からいろいろとお世話になった方なのですね~。 最近、忙しくてなかなかお伺いできなかったので、久しぶりにご挨拶に訪問してみようか、と…。 ご挨拶は建前で、心の中ではオイラが痩せたのを自慢しようと思っていたのは事実です。 アポの時間を約束して、社長さんはオイラが痩せた姿を見て、どんなリアクションをするだろうかとワクワクしながら会社のオフィスに入りました。 ところが、応接室に入ってきた社長さんを一目見て、「おお~、すごい痩せましたね~」と驚きの声を発したのは逆に、オイラのほう。 オイラが以前から知っている社長さんは、身長が168センチの体重85キロ。年齢は60歳を少し超えたくらいで、歳相応以上の貫禄が体から感じられました。「思わず、何キロ痩せたのですか?」と思わず、自分のことは忘れて質問します。 すると、3ヶ月で15キロも痩せたと仰るじゃないですか。 この激やせに、もしかしてガン?と耳の奥でつぶやく声が聞こえました。 「ほかの人からよく言われるのだけど、ガンじゃないよ」とのこと。 何でも、ご自分でダイエットの作戦を立て、それを実践してこの快挙に結びついたらしい。 それにしても、3ヶ月で15キロのダイエットっすか。 3年で9キロのダイエットくらいで、自慢しようと考えていた自分が恥ずかしい。 ダイエットしようと思ったきっかけは、やはり健康診断の結果が思わしくなかったからだそうな。 聞いてみると、血糖値が少し高いと医師から指摘されたそうですね。 それとメタボ健診の結果によっては、企業に何らかのペナルティが科される恐れがあると聞かれたからだそうな。 悪かったときの健康診断の血糖値とヘモグロビンA1cの値は、ほっとくと糖尿病へ一直線だったのが、やせたおかげで急速に危機的状況から脱出できたのですか。 とくに驚いたのが、ヘモグロビンA1cの値。 6.5パーセントから3ヶ月で4.3パーセントなんて、その検査数値の性格上ちょっとありえない数字。 主治医の先生は驚いて、どうやって下げてのか、逆に根掘り葉掘り質問されたらしい。 それにしてもオイラが社長を知ったのは、今から20年近く前。 当時から一貫して、体重85キロを維持し続けてきた人がたった3ヶ月で15キロもダイエットできるのでしょうか。 聞いてみると、中年になってから太ったのではなく、20歳代から身長168センチ、体重85キロの体型だったらしい。 太っていた当時、95センチ以上あったウエストは現在83センチ。見事に3ヶ月で、メタボから生還したのですか。 自分のダイエット自慢のことはすっかり忘れ、話題は社長さんのダイエット法に…。 話を聞いてみると、なるほどすごく利にかなっていますね。 その方法は…。 と思ったら、今日は自分のダイエットのことで長く書きすぎました。 続きは次回。
2008年11月02日
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