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藤沢市民オペラが上演した、ヴェルディの「ナブッコ」を観劇してきました。 2020年に上演される予定だったものが、コロナ禍で延期されていた公演です。「ナブッコ」はヴェルディの3作目のオペラで、最初の成功作であると同時に、名声を決定的にした重要なオペラです。初期ヴェルディの多くの作品に共通する特徴として合唱が重要で、市民オペラである以上市民の方々の合唱団なので、やはりなかなか上演に踏み切れなかったのですね。このたび実現が叶い、キャストの方々をはじめ、関係者の皆さまのお喜びはどれほどかとお察しします。 本当に素晴らしい上演でしたから、ご苦労は実ったのではないでしょうか。 「ナブッコ」というオペラ、ヴェルディ作品の中ではかなり人気が高く、特にイタリアでは、「第二の国歌」と言われる有名な合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」があることもあり、良く上演されるオペラですが、なかなか難しい(いつもいい上演になるとは限らない)部分のある作品です。旧約聖書の、アッシリアの暴君王ネブカドネザルがユダヤ人を連行した「バビロン虜囚」のエピソードに基づいた、聖書物語+オペラというオラトリオ風な作品なので、ストーリーはやや「場面」重視で整合性に欠け、展開は時に唐突。演出するのがなかなか難しいのです。あってないような演出、いや、正直なところ何もしていない(ように思える)演出も珍しくありません。「行け、我が想いよ」が囚われのユダヤ人の合唱なので、時代を現代に近づけて、この合唱をナチに迫害されたユダヤ人の合唱にしてみたりとか。これから、ナチの代わりにプーチンが登場する演出が出てきそうですが。。。音楽も、若きヴェルディの勢いある才能が漲る作品ながら非常にシンプルなので、演奏次第では野暮になりかねません。また、パワフル(なように感じられる)でまっすぐな分、強い声で歌われるとかっこいい(と感じられる)ので、強い声の歌手が起用されることが多い作品です。けれど「ナブッコ」が初演された1842年という時代は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニと来ている「ベルカント」の余韻がまだ残っている時代。「ナブッコ」の主役たち、特にアビガイッレという悪役ヒロインにはベルカント的な装飾歌唱が求められており、力でグイグイ押すタイプの歌手だと、装飾歌唱が本当に当て歌いになってしまって美しくない。それより何より、装飾歌唱がきちんと歌えていなかったりする。初演でアビガイッレを歌ったジュゼッピーナ・ストレッポーニはベルカント的な美質を持った歌手だと伝えられており、ヴェルディが彼女の声を全く無視して書いたとは思えないので(もっとも、調子を崩していた彼女にはこの役は合わなかったようですが)、力で歌い切るより、ややソフトな声であってもベルカント的な面をきちんと歌える歌手の方が合っているのではないか、と前々から思っていました。 そういう歌手が全くいないわけではないのですが、全てのキャストをそういうタイプで揃えるのが難しそう、というのが、イタリアを中心に「ナブッコ」を何度も見てきた感想です。1、二人はベルカント的なタイプの歌手が一人、あるいは二人三人いても、全部がそう、というケースにはなかなかお目にかかれない。考えてみれば今はロッシーニ・ルネッサンスの結果ベルカント歌手は豊作で、揃えられないことはないと思うのですが。。。オーケストラも、ただキレがよく力強いリズムを強調してぐいぐい押すだけではつまらない。もっと歌って!もっと繊細に!と言いたくなる演奏が時々あります。「ナブッコ」はまだまだベルカントなのですから。とはいえ、「ナブッコ」のオーケストラに関しては、指揮者次第でかなり素晴らしい演奏に遭遇できます。今やベルカント中心に大活躍のリッカルド・フリッツァを初めてきいて震え上がったのもジェノヴァの「ナブッコ」でしたし(2004年)、ミケーレ・マリオッティを初めてきいて吹っ飛んだ(失礼!)のもパルマの「ナブッコ」でした(伝説の名演らしい。2010年)。マリオッティは2013年にボローニャで聴いた「ナブッコ」も素晴らしかった。彼らの演奏に共通するのは(もちろん個性は違いますが)、歌心、繊細さ、思い切りの良さなどなどでしょうか。マリオッティが振った「序曲」なんか、地の底から湧き上がってくるような勢いと、軽やかさが同居した絶妙の音楽でした。ちなみにあのバッティストーニの日本デビューが二期会の「ナブッコ」で、これまたみんな吹っ飛んで語り草になったのは、ご存知の方もあるでしょう。話がそれました。藤沢市民オペラは、1973年に遡る市民オペラの老舗。日本は市民オペラ、区民オペラのレベルが高いのですが、藤沢はその象徴と言ってもいいでしょう。2018年から、日本を代表するオペラ指揮者として期待され、特にイタリアオペラに強い園田隆一郎さんが、音楽監督を務めています。園田さんは「ロッシーニの神様」アルベルト・ゼッダの薫陶も受け、ロッシーニやベルカントにも強い指揮者として知られています。その園田さんが「ナブッコ」を振る。期待しないではいられません。果たして、期待以上の演奏でした。とにかく方向性が明らかで、スタイルが徹底していた。それが、ヴェルディの音楽をきちんと読み込んだ結果だったのは、いうまでもありません。ヴェルディ、特に初期のヴェルディのオペラは、繰り返しですがシンプルで強い音楽だという印象があります。それは決して間違いではないのですが、楽譜にはデュナーミクが細かく指定されていて、特に弱音が多いのです。単に勢いのいい音楽なのではなくて、繊細な表情のある、人間味のある音楽なのです。園田マエストロは、そこをきちんと押さえていました。ていねいで細やかな音楽作り、特に弱音の(弱音の多さは、客席にいたら気付いたはず)表情の豊かさ。なめらかなレガートとふくよかなフレージング。シンプルな音楽の行間に潜む歌心と細やかなドラマ。そういうものをきちんと再現し、伝えてくれていたのです。特にオペラの(おそらく)本当の主題である父と娘の葛藤の部分は、とても美しかった。初期ヴェルディは粗野でも荒削りでもない。ロッシーニの影響(アンサンブルフィナーレなど)もきちんと見せながら、その中から立ち上がる、これぞ初期ヴェルディと言えるユニゾンの音楽の面白さも伝えてくれる。イタリアでも是非この路線でやってほしい、そう思える、一貫した美学のある音楽でした。藤沢市民交響楽団も、マエストロの指示によくついて行っていたと思います。特に、これもヴェルディの魅力と言える低弦の充実ぶりは際立っていました。藤沢市合唱連盟の合唱も美しく劇的な響きで健闘していましたが、マスクでの歌唱だったのが(致し方ないとはいえ)残念でした。歌手陣は充実の一言。主役から脇役まで隙がなく、名前のある人が揃って豪華(オーデションをやって選ばれたのですが、日本を代表する面々ばかりなのです)。しかも、いわゆる大声歌唱で吠える方が全くおらず、かなりベルカント的な方向性で統一されているという、理想的な布陣でした。イタリアでなく日本でこれが実現されたことに、大きな驚きと喜びを覚えないではいられません。園田マエストロの解釈も大いに影響しているのではないかと思います。本当に指揮者って重要!タイトルロールの須藤慎吾さん、美しく表情豊かなバリトンの声、豊かな響き、よくコントロールされた弱音。今回の演出(出色。後述)では、ナブッコは初めから狂っている設定なのですが、「いっちゃっている」演技力も抜群です。最後に正気に近づいた王も、堂々たるものでした。アビガイッレ中村真紀さん。初めて聴かせていただきましたが、とても柔らかくシルクのような手触りのある声。それほど強さはないのですが、個人的にはこれでもいいというかかなり好みです。アビガイッレは決して猛々しい女性ではなく、傷ついた弱い女性なのですから。。。技術的な傷は皆無ではなかったですが、装飾歌唱は高いレベルでこなしていらして好感が持てました。最後の死のシーンも熱演で、客席からは啜り泣きの声も。アビガイッレの死のシーンで啜り泣く声を聞いたなんて初めてです。これも演出の勝利。フェネーナ中島郁子さんは、素晴らしくコントロールされた彫りの深い声で、落ち着いた大人の女性フェネーナに忘れがたい輪郭を与え、イズマエーレ役清水徹太郎さんは素晴らしくリリカルで甘く、よく通りながらスタイル感のある声で、これまた忘れがたいイズマエーレを造形。決して大役とはいえないイズマエーレがここまで印象的だった「ナブッコ」の舞台は初めてです。ベルの祭司長杉尾真吾さんの若々しく張りのあるスタイリッシュなバスも聞き応え満点で、アンナ役谷明美さんも美しく表情のある声で存在感たっぷり、アブダッロ役平尾啓さんも好演。ザッカーリア役のジョン・ハオさんは声が飛ぶまでにちょっと時間がかかりましたが、エンジンがかかってからは格調と威厳のあるバスで、キーロールとも言えるこの役に存在感を与えていました。このキャスティング、脇役まで本当に第一線で活躍している方々ばかりなのです。どこへ出しても恥ずかしくない、と言いたくなるレベル。 そして今回の上演を類稀なる舞台へと押し上げたのが、岩田達宗さんの演出です。 上に書いたように、「ナブッコ」の演出というのはおざなり(に見える)ものが多い。ほぼ突っ立っているだけ、というプロダクションも少なくありません。 岩田さんはまさに行間からドラマを立ち上げました。これほど動きの多い「ナブッコ」の舞台は見たことがありません。登場人物は台本通りに、おざなりに唐突に登場するのではなくて、必然があってその場にいます。ナブッコは最初から狂人で、突然狂ったわけではありません。だからこそ、娘の命の危機に直面して正気を取り戻す成り行きに説得力が出てくるのです。フェネーナは終幕になって突然、処刑台に向かう姿を現すのではなく、第3幕からすでに皆と引き裂かれて牢獄へ連れ去られます。だから最後に処刑台へ向かう場面もつながるのです。みな、必要な時は舞台にいて、自分の歌がない場面でも演技をしている。最後は正気に返ったナブッコをはじめ、対立していた一同が同じ方向を見るのです。後悔し、不幸で、死を選んだけれどおそらく救われるアビガイッレとともに。それは感動的な場面でした。対立から融和へ。 実は、最後の合唱「偉大なるエホバ」は、「ナブッコ」初演の時にアンコールされた合唱です。初演の時に「行け、我が想いよ」がアンコールされて熱狂を巻き起こした、という有名な伝説はフィクション。(それをここに書いている余裕はありませんが、ご興味のある方は拙著『ヴェルディ』(平凡社新書)をご参照いただければ幸いです)。で、確かに、「偉大なるエホバ」は感動的な曲だ!と今回思い知らされたのでした。ロシアのウクライナ侵攻という野蛮な行為が行われてしまったこの時にこの「ナブッコ」が上演されたことは、ほとんど奇跡です。コロナによる延期は、天啓だったのかも知れません。「ナブッコ」は人類の原点。演出の岩田さんは、プログラムにそう書かれています。なぜか知りたい方は、ぜひ公演にお運びください。今週の週末も公演があります。藤沢市民オペラ「ナブッコ」
February 28, 2022
ポストコロナの新シーズンで、意欲的な新基軸を次々と打ち出しているNYのメトロポリタンオペラ。 シーズンオープニングを飾り、先日日本でも上映されたブランチャードの「Fire shut up in my bones」も感動的な作品でしたが、31歳の作曲家マシュー・オーコインが2020年に発表し、今回MET初演が実現した「エウリディーチェ」も、奥の深い、衝撃的な作品でした。 タイトルが示す通り、作品の下敷きはギリシャ神話の「オルフェウス」。楽人オルフェウスが、結婚の日に死んでしまった新妻エウリディーチェを取り戻しに地獄へ行き、地獄の神々を音楽で説得して妻を取り戻すものの、地上へ出るまで妻を振り返ってはいけないという命に背いて振り返ってしまい、妻を喪う物語です。 「音楽の力」を暗示する内容のため、オペラのごく初期から、繰り返し作曲されてきた作品としても有名です。当初は宮廷オペラでしたが、19世紀にはオッフェンバックがオペレッタ「天国と地獄(地獄のオルフェ)」として、神話をパロディ化。ラブラブのはずが夫婦はすでに倦怠期で、オルフェウスは妻が死んで喜んだものの、「世論」に背中を押されて地獄へ行くなど、当時の世相を皮肉ったものとして大人気を博しました。 そして今回、21世紀の「オルフェウス」オペラが誕生したわけですが、これがとても新鮮で、考えさせられ、刺激的な作品だったのです。 タイトルを「エウリディーチェ」にしたことからもわかるように、本作の主人公は妻のエウリディーチェです。彼女はオペラの中で成長?し、自己発見に至るのです。これまでの「オルフェウス」オペラでは、成長したりする主人公はオルフェウス。エウリディーチェにはほとんどなんの役割も与えられていません。オルフェウスを引き立てる?だけです。ここでは死んで冥界に行き、亡くなった父と再会したことで、エウリディーチェはオルフェウスの真の姿(エゴイスティックな芸術家)に気づき、父との時間の大切さに目覚めて、いざ夫が迎えにきて、地上に出る途中で彼が振り向いたら、ここを千度と冥界に戻ってしまうのです。 「オルフェウス」像もなかなか強烈です。彼の、芸術家としてのエゴが徹底的に描かれるのです。彼が愛しているのは音楽だけ。それを通した自分だけ。エウリディーチェは、実は眼中になかったりする。これ、男性にも、芸術家にも、相当に厳しい内容なのでは? そんな複雑なオルフェウスを表現するために、オーコインは卓抜はアイデアを思いつきました。一役を二人が演じる。実際の?オルフェウスはバリトンが歌うのですが、彼の中に渦巻く「音楽」の象徴のような役割として、第二のオルフェウス(カウンターテナー)が常に付き纏います。背中には天使のように羽が生えている、というあんばいです。この役を演じたオルリンスキーというカウンターテナー、ブレイクダンスの名手でもあり、美形!タレント性抜群でした。 地獄ではゾンビのような石像が活躍し、冥界の王ハデスはベルカントテノール。浮世離れした設定は、「あの世」にぴったり。 そんな不気味な環境で、死んだ父と出会ったエウリディーチェは、父への愛に目覚めてしまう。 最後はそれも満たされることなく、主役たちはそれぞれが大きな「喪失」を経験します。作品が書かれたのはコロナ前ですが、コロナを経て「喪失」は全人類共通のテーマになりました。 もしそれを承知の上でMETが本作を上演したとしたら、さすがの慧眼です、ピーター・ゲルブ総裁。 音楽はミニマルミュージックなど基本的にはモダンですが、あちこちにオペラの歴史を研究した形跡が。ベルカントオペラの影響はかなり強く、オペラらしい音楽の弧を「聴く」楽しみも味合わせてくれます。 原作は、オペラ以前に成立していた戯曲だとのことで、その原作を書いた女性劇作家サラ・ルールがオペラの台本も手がけました。女性だからこそ、の視点というのはあるでしょう。 演出も有名な女流演出家のメアリー・ジマーマン。ダイナミックでアイディアに溢れた装置は、METの「ルチア」などでお馴染みですが、今回も音楽と一体化して展開が速く、カラフルでダイナミック。「次に何が起こるのか?」と聴衆の興味を繋いでいく演出だったように感じます。 歌手ではまず、タイトルロールのエリン・モーリーが素晴らしい。透明な質感のあるしなやかな声、鈴を鳴らすような美しい音色、ムラのない響きと自在な超絶技巧。演技も説得力があり、引きつけられます。父親役ネイサン・バーグの渋いバリトン、ハデス役バリー・バンクスの痛快な高音、オルフフェオ役ジョシュア・ホプキンスの「危ない人」的な声と演技、皆どんぴしゃりの配役でした。 ライブビューイングの司会に、しばらく前までメトロポリタンオペラのスターとして一世を風靡し、この司会役でも大活躍したルネ・フレミングが復活し、さすがの頭の良さで、キャストインタビューの時にいい質問を連発していたのが嬉しかった。 「エウリディーチェ」、24日まで。東劇のみ3日まで。新生MET、本当にやってくれます。 Metライブビューイング
February 21, 2022
楽しみにしていた、「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」の「ドン・ジョヴァンニ」に行ってきました。バリトン歌手の宮本益光さんが主催し、ピアノ伴奏で、モーツァルトのオペラ全曲の演奏にチャレンジしている団体です。オペラ上演と言っても、全曲のエッセンスを取り出したハイライト版を、ナレーションつきで上演するので、肩は凝らない。それでいて「演出」は、(装置こそシンプルですが)たっぷり施されていて、宮本さんの世界観が浮かび上がります。 今回の「ドン・ジョヴァンニ」の印象を一言でいえば「愛と死の迷路」。装置?らしい装置は天井から下がるリボンだけで、このリボンは登場人物たちにもまとわりついて関係性を暗示します。縛られたり、むすびつけられたり、断ち切られたり。最後の最後で、その関係性の中心にいたのはドン・ジョヴァンニであり、登場人物は皆、ジョヴァンニとのそれぞれの関係性を生きていることがわかる仕掛けです。その中で誰もが迷う。迷っていないのは(リボンには纏わりつかれますが)、ドン・ジョヴァンニだけです。宮本演出にはつきもののダンサーが、微妙な感情や立場を視覚化します。「ドン・ジョヴァンニのセレナード」1曲のために、マンドリン奏者の青山涼さんを招いたのは究極の贅沢でした。ピアノは石野真穂さん。 宮本ドン・ジョヴァンニは唯一無二の域。宮本さん、この役や、「金閣寺」の溝口のようなデモーニッシュな役では「取り憑かれた」「いっちゃっている」人物になりきります。よく響くキャラクタリスティックな声もピッタリ。引き摺り込まれます。 文屋小百合さんの華麗で悲劇的でそれでいて喜劇的なエルヴィーラ、針生美智子さんの生真面目でこれも悲劇的なドンナ・アンナ、若々しくこれもまじめな近藤圭さんのマゼット、チャーミングで清冽な色気のある三井清夏さんのツェルリーナ、コメディ役者!の味わい豊かな原田圭さんのレポレッロ、堂々と品格のある伊藤純さんの騎士長など、キャストも多士済々。ドン・オッターヴィオが日本を代表するテノールの一人望月哲也さんで、しかも(ハイライト版ということもあり)普通なら2曲のアリアが1曲しかなかったのですが、そのアリアの場面では望月さんを舞台上から「日本を代表するテノール」と紹介して、ショーのようにしてしまうなど憎い配慮も。オッターヴィオって、歌はいいけど役はイマイチですもんねえ。確かに望月さんには勿体無いかもしれません。 長谷川初範さんのナレーションがまたいいのです。宮本ワールドの解釈を、けれん味たっぷりに卓抜に、時にユーモアを交えながら。ナレーションがあるのでハイライトでも話が通るし、楽しく、わかりやすいステージになる。 最後の最後で、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニが客席から登場して全員を結びつけます。「全てを回しているのはこの俺だ」というファルスタッフのセリフが聞こえてきそうでしたが、このセリフ、ドン・ジョヴァンニにもピッタリだと思いました。ただ彼自身は口には出さないでしょうけど。出したら野暮ですもの。笑。モーツァルト・シンガーズ・ジャパン ホームページはこちら。モーツアルトシンガーズジャパン
February 19, 2022
80代の現役名エッセイスト、関容子先生の最新作「銀座で逢ったひと」。 関先生は雑誌記者からエッセイストに転身され、主に文学者や俳優の聞き書きエッセイで、エッセイストクラブ賞、講談社エッセイ賞、読売文学賞など数々の賞を受賞された名手です。最新刊は、「銀座百点」に連載されたエッセイ「銀座で逢ったひと」をまとめたもの。文士から歌舞伎役者、俳優、落語家、画家、音楽家まで(音楽家は岩城裕之さんと五十嵐喜芳さん)37名の著名人との交流が、南伸坊さんの雰囲気のある似顔絵と共に紹介されています。直接お話ししたことがないので、あくまでご本からの印象ですが、関先生はとてもチャーミングな方のようです。知的で好奇心に富んでいて、「人」への興味が深く、温かい。(でなければ交友録で本はできないし、丸谷才一から中村勘三郎、池部良から古今亭志ん朝まで、錚々たるメンバーが心を開くはずがありません。究極の「聞き上手」なんだと思います。人を上手に慕う方なんですね。爪の垢を煎じたい。そして、「人」からたくさん学ばれる。丸谷才一さんからは、「文章はテクニックの問題ではなく、生き方の姿勢」ということを、井上ひさしさんからは、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く」ことを学ばれたという。全くその通りで、これにはただただ頷いてしまいました。 この本の大きな魅力は、人と人との交流の手触りでしょう。相手の雰囲気、空気感、その人との間に紡がれた時間を、滑らかですが「はっ」とさせる文章で綴ります。その背景がまた華やか。文壇バー、帝国ホテルでの出版パーティ…まさに、古き良き時代。 最近読んだあるベストセラー作家の作家指南の本に、「長者番付の上位には、一滴もお飲まない作家が大勢いる」「文壇バーは、出版社のお金で飲みたい作家の行く場所」「出版パーティは、自費出版するお偉いさんのもの」とあって、確かにそうだよな〜とこれも頷いていたところ。正直、そういう時代になりつつあるので、この御本を読んで、「文士」の時代の空気を思い出したのでした。 関先生の聞き上手の出発点は、51歳の若さで亡くなられてしまったお兄様との関係にあるようです。小さい頃、お兄様が、夜寝る前に色々な話を聞かせてくれて、それがとても楽しく、お兄様にとっても妹の反応が良くて張り合いがあったよう。「思えばこれはインタビューの極意で、興味を示して話し手を励ますこと、感謝と敬愛を惜しまず話すこと。そうすればもっと素敵な話が聞ける、ということを、私はここで学んだのかも知れなかった」。 素晴らしい。 関先生は、このお兄様のことを一度きちんと書きたい、と思っていらしたそうなのです。それをこの本で「ようやく果たすことができました」。 お兄様、あちら側で、さぞお喜びのことでしょうね。 本の詳細はこちら。 銀座で逢ったひと
February 19, 2022
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