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「ディア・ハンター」は嫌いな映画である。俳優も、キャメラも、音楽も、演出もすべてにおいて完成度が高いのである。この映画を最初に見たときは、まだ「地獄の黙示録」は公開されておらず、これを見ながら「『地獄の黙示録』は、地獄のような戦場の描写は、この作品を上回るであろうか」と考えていたほどであった。しかし、ベトナム戦争において加害者であるアメリカが、ここまで「アメリカ人も被害者という側面もあるのだ」という主張をしていいのかと、非常に腹立たしく、嫌悪感をいだいたのであった。以来、この作品は嫌いな映画のトップクラスに君臨しており、次にこの映画を見て、この「嫌い」がどのように変化していくのかという点が、ここ何年もの私の最大の関心事であった。「午前十時の映画祭」で、やっとその検証の場が叶えられたわけで、改めて見て、どうであったかと、マイケル・チミノ監督には、ベトナム戦争がどんな戦争であったのかの関心は全くなかったのではないかという点を強く感じたのである。ひとつの世界(共同体)が、社会の出来事(ここではベトナム戦争)によって、どのように変貌、あるいは崩壊するか、そのこととそれを構成する個々人の変化が、どのように関係づけられるのかを描いたものではないだろうか。結婚式のシーンが延々と25分ほどもあるが、そのシーンから多少無理なこじつけをやってみると、これはアメリカローカルの庶民版「山猫」ではなかろうか?そういう解釈の方が、ベトナム戦争論的解釈より非常にすんなり受け入れられるというのが現在の私のこの作品への評価である。「ディア・ハンター」とは、また、何年後かにお会いしたい。
2011年11月06日
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「未来を生きる君たちへ」という教育映画のような題名で、これは見る意欲をなくすのであるが、デンマーク語の原題は「復讐」とか「報復」という意味。英語版の題名は「In a Better World」。見た後の感想としては、「未来を生きる君たちへ」は、少年2人への大人たちの祈りのようなものであり、「In a Better World」は、憎悪と争いが絶えないこの世界への祈りを感じる。極めて今日的な内容で、世界中の人々が見るべき映画ではないかと感じた。
2011年11月05日
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この映画の登場人物たちが活動する基盤は「協同組合」であるが、この「協同組合」については、井上ひさしの「ボローニャ紀行」に登場する「組合会社」のことではなかろうか。この本によるとボローニャの人々は何かあるとすぐに組合会社をつくり行動するとあるが、これはイタリアのすべての当てはまるようだ。この映画をみながら、「組合会社」(協同組合)をつくり自活していく風土が、精神疾患の人々もまた社会の中で、それぞれが持っている技術や個性を活かした生き方が出来るのだと思った。映画「人生、ここにあり」は、人は誰も自分の個性や特技を活かして生きる権利を持つということが実現できる社会になるためには、どのようであるべきかということを考えさせた作品である。
2011年11月04日
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先日のおくんち見物に来られた外国映画輸入配給協会の事務局長から強く推薦された作品のひとつ。「人生、ここにあり」とは、なんとも教訓的な人生論を聞かされどうなつならない題名であるが、原題は「やれば、できるさ!」で、まさにその通りの内容である。この映画の背景にある精神病院が閉鎖されるというのは、精神病院を使わないで、患者たちを支えるという考え方があり、それを実現するしくみだという。精神疾患で心を病んでいるというが、ここに登場する人達は、みな私たちの周辺にいそうな、また会社の中にも必ずいそうな人達ばかりである。つまり精神疾患とは何かということである。この映画に登場するのは、その患者たちが、寄木細工で床を仕上げる技術で生きていこうとするのであるが、廃材を使った寄木細工というのが極めて暗示的。極めてデリケートな、ちょっと間違えれば、問題になりそうなテーマを実に明るく、それも見せ掛けの明るさではなく、そこにある問題や悲劇もきちんと描いている点が素晴らしい。イタリアという国の奥深さと思慮深さを見せられた思いである。
2011年11月03日
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「ゴッド・ファーザー」と「ゴッド・ファーザーPART2」、共にパーティーのシーンが冒頭にある。この二つのパーティーの在り様、そして描き方が、この2作品の内容を示している。第2作目の会場は第1作目より広い会場で豪華になっているはずなのであるが、どこか寒々しい。イタリア人独特の味がなくなってアメリカナイズされている。マイケルが統率する時代は、ビトの時代と全く異なる局面に入っていることを示している。だからこそ、最後の部分の、もうじき帰宅する父親を待つ兄弟たちの様子を描いたシーンが非常に生きてくる。これらのパーティーのシーン、食事のシーンの基は、ヴィスコンティの「山猫」にあることは明らかである。
2011年11月02日
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「皆さんは優良会社の従業員です」という職員への挨拶で退任した橋下知事であるが、職員へは、その言葉で良かろうが、では府民へは何と言うのか?次は大阪市長選である。こういう人物が知事や市長になることが、住民にとって幸福なことなのか?
2011年11月01日
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「午前十時の映画祭」で「ゴッド・ファーザーPART2」を見る。シリーズ化した場合、続編がつまらなくなるケースが多い中でこの作品は例外的に完成度をあげている。最初の「ゴッド・ファーザー」の存在を無視して、この「PART2」を独立した作品としても極めて完成度の高い作品だと思う。私が、この映画を見るのは、おそらく三度目くらいであるが、人間の記憶のあやふやさを見る度に感じる映画でもある。ストーリーは既に承知して見ているのであるが、場面の登場の順序や場面などが毎回微妙に違うのである。少年時代のドンがアメリカへやってくる回想シーンはもっと中盤かと思っていたら、ほぼ冒頭なのであるし、ロスが射殺されるシーンは空港の広いターミナルかと思っていたら、案外とキャメラが寄っていたし、ラストのマイケルは部屋の中で沈んだ表情を見せてドアが閉まっていくのかと感じていたら、そうではなかったなどかなり違う。これらの錯覚は、おそらく私自身がドラマに夢中になって、頭の中にもうひとつのドラマを創りあげていたのではなかろうかと思った。次回、見るときにはまたまた変わったものになるのではと、期待するのである。それにしても、この作品のアル・パチーノの存在感と貫禄は、ただものではない。大御所のリー・ストラスバーグに対して対等にわたりあっている。この作品、全編にわたり保身と縮小のドラマを大スケールで描いている点が素晴らしい。
2011年10月31日
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第8回浜んまち映画祭の11月上映作品は長崎ロケの日仏合作映画「忘れえぬ慕情」である。ほぼ全編が長崎ロケのこの作品、当時最も大掛かりなロケをおこなったのは、三菱重工長崎造船所である。ここの史料室に当時のロケ風景を写した写真が大量にあり、その中の一部を提供いただき、写真展を行っている。写真展の場所は最大の繁華街である「浜んまちの商店街」。旧大丸の仮囲いの塀を活用しての実施。実はこれがすごい人気なのである。「忘れえぬ慕情」に関心のある方、当時のロケをご存知の方、是非、ご覧下さい!映画は11月12日から25日まで長崎セントラル劇場で。
2011年10月30日
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ポール・W・S・アンダースンという監督は、「バイオハザード」、「エイリアン VS. プレデター」、「デスレース」を観ると腕のいい娯楽映画の監督であるが、本作でも、その腕は発揮されている。娯楽映画として宣伝するなら、このレベルは最低限欲しいところ。ミラ・ジョボヴィッチが主役かと思ったら、あくまでもダルタニアンと三銃士が主役である。しかし、ミラ・ジョボヴィッチも、重要な脇役として活躍。私が見たのは2D・字幕版であるが、いかにも3D効果を意識したキャメラワークやアングルの連続。飽きさせない演出で客をひっぱっていく。クリストファー・ヴァルツのリシュリー卿は予想通り適役であるが、悪役のオーランド・ブルームはハンサムであるが、凄みがないのが残念。やはりアラン・ドロンは凄かったと改めて認識。ダルタニアンももうちょっと魅力が欲しいが、まあ、田舎から出てきたばかりの半人前という設定ならこれでもいいかというところ。いくつかの欠点はあるものの、飛行船の戦闘など派手な見せ場の連続で、気晴らしの映画鑑賞には最適な作品である。
2011年10月29日
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ユナイテッド・シネマに置いてある「猿の惑星・創世記 ジェネシス」のチラシには、「泣ける」と「涙」の文字が全面的に覆っている。ここまで泣ける「猿の惑星」を観ることになるとはこんなにも泣いたことはありません始めから終わりまで泣き通しでしたまるで難病悲恋映画の宣伝文句ではないか。「猿の惑星・創世記」を観て泣く人がいても、それは全くかまわないのであるが、しかし、ここまで言うか?それを配給会社が取り上げて、こんなに宣伝するか?もしかして、「泣ける」ということが名作、観るべき映画、観て満足する映画の条件と思っていないのか?
2011年10月28日
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三谷幸喜の新作「ステキな金縛り」が公開されるが、実は、私は、三谷作品には毎回、失望させられている。異常な設定が全く活かされていないという感じである。異常な設定をしたこと自体で、監督が喜んでしまっており、それが作品を面白くするところまで至っていない。今回の「ステキな金縛り」も、予告編を見る限り、もうそれで判ったよと言いたくなり、予告編で描いている以上のことがあるのだろうかと思ってしまう。はたして、この作品の出来は?
2011年10月27日
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「午前十時の映画祭」で「さよならをもう一度」を、見て、改めてイングリット・バーグマンに関心を持つ。伝記と自伝を改めて読んでみよう。
2011年10月26日
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小説「猿の惑星」の原作者は「戦場にかける橋」のピエール・ブール。「戦場にかける橋」では、図らずも日本兵を善人に描いたことが悔やまれ、それがきっかけかどうかは定かではないが、日本人を猿に描いたのが小説「猿の惑星」であったと言われている。今回の映画を見ると、もし、これが日米貿易摩擦が激化し、日本人が金にものを言わせて次々とアメリカの資産を買いあさった時期に、この映画が作られていれば、この作品はもっと話題になり、議論になったのではなかろうか。映画の中ではアルツハイマーの治療薬の実験台になったチンパンジーが知能を持って、という展開であるが、これが戦後、アメリカから自由と民主主義を与えられて経済大国になったとの喩えに描かれたという批評が出るのは容易なこと。ただし、それ以上のものはなく、日本人に対する揶揄や批判は読み取れないので、この作品は「日本人へのあてこすりである」とするのは見当違いであろう。
2011年10月25日
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クロード・ルルーシュ監督の「パリのめぐり逢い」のイヴ・モンタンのキャスティングは、もしかしたら、この映画からインスパイアされたものではなかろうか?アンソニー・パーキンスは、この映画の撮影は「サイコ」の直後であり、監督としては、「サイコ」を意識したのではなかろうか?この映画のパーキンスはすごいと思う。その後、アンソニー・パーキンスは、役柄を拡げることができずに俳優としては悩んだようであるが、それは「サイコ」ではなく、むしろ普通のお坊ちゃん育ちの青年を演じた「さよならをもう一度」の影響が大きかったのではなかろうか?
2011年10月24日
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衝撃的なラストが伝説的作品となった68年の「猿の惑星」は、チャールトン・ヘストンが主演であることも手伝って、壮大なエピック・ロマンともなった。今回の作品は、その序章ともいうべき内容。猿が支配する地球はいかにして生じたのかについて描いている。この作品、技術と演出は、大変よく出来ているのであるが、残念ながらスケール感に乏しいのである。一都市を舞台にした動物パニック映画のレベルであり、それであれば、これは傑作なのであるが、地球全体が猿に支配されるプロセスを描いたことにはならない。確かにラストに全世界に伝播する過程が絵解きされるが、あの程度の描写ではチープではないか。もっと衝撃が欲しいところである。本作品は、おそらく続編があるのであろう。それを期待しようではないか。
2011年10月23日
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この映画は一人の女性と二人の男性による三角関係のラブロマンスであるが、この映画が最も描いているのは、40代の肉体を持つイングリット・バーグマンである。この作品の撮影中、彼女は45歳であり、演じている女性は40歳という設定。「カサブランカ」や「誰が為に鐘は鳴る」などの20代の若き美人女優とは違ったバーグマンである。容貌、肌、肉体、歩き方などすべてに中年の表情が顕れている。そうしたものを抱えたバーグマンの苦悩が、そのまま主人公ポーラを演じるのに相応しい。いや、むしろ、中年期のバーグマンの苦悩が、ポーラを演じさせたのかも知れない。まさにこの時期でなければ、この映画への出演は、単に演技力を発揮するだけの仕事であったかも知れない。この「さよならをもう一度」はラブロマンス映画という枠を超えて、40歳代のバーグマンのドキュメンタリー映画となっている。
2011年10月22日
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「午前十時の映画祭」は、多くの人が異口同音に言っておられるように、思いもかけない作品、よく挙げられるのであるが、スクリーンでは、なかなか見ることが出来ない作品が公開され、非常にうれしい企画なのであるが、ジョン・フォードハワード・ホークスの作品がないのは何か事情があるのだろうか?
2011年10月21日
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草子ブックガイド(玉川重機)一瞬と永遠と(萩尾望都)この2冊は、最近読んだ本の中で最も心に入り込み、同時に共感を覚えた本である。「草子ブックガイド」の言葉の海、本の世界を漂流したいという気持ち、「一瞬と永遠と」での、その世界へ誘い込む各章の並べ方。それらに例えようもない快感を覚えた。「草子ブックガイド」は「1」であり、今後が楽しみである。
2011年10月20日
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「午前十時の映画祭」は非常に良い企画であるが、これを見ることによって、最新の封切作品の質の低下が露呈することも多いのである。それにしても、映画の良し悪しは、一体何によって生じてくるのであろうか?昨年、「午前十時の映画祭」でヒッチコックの「北北西に進路とれ」を見たが、今回で5回目。しかも見る前日には、「ヒッチコック・トリュフォー/映画術」を読んでおり、ストーリーも演出も知った上で見たにもかかわらず、やはり手に汗握って、楽しんでいる。その一方で、その後に見た当時の新作「ロスト・クライム」(伊藤俊也監督)は映画が始まって30分ほどで退屈さのあまり「はやく終わらないか」と思う有様。こちらは原作も読んでおらず、全く初めて。私自身、伊藤俊也監督には関心を持っているのであるが、この有様。この差は一体、どこにあるのだろうか?ここは非常に面白い論点のようだ。
2011年10月19日
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昨年は5月中旬から約5ヶ月間ブログの更新を休止していて、再開したのが10月18日。一度、休止すると、つい休止したくなるわけでその誘惑と戦いながら1年間継続できた。さて、これからも続けていこう。「周年」とは「執念」によって実現するものとわかった。
2011年10月18日
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「マーラー君に捧げるアダージョ」も「ショパン愛と哀しみの旋律」も、わかりやすい物語である。特に、前者では、マーラーの曲がなかなか親しみにくいものであり、更にはフロイトが登場するのであるが、全体的には、そのような難解さはない。こうしたわかりやすさを、「昼メロ調」と揶揄することも可能であるが、私はそうは思わなかった。わかりやすくすることで、マーラーやショパンの天才であるがゆえの苦悩に接することができ、また、同時に彼らの作品を聴いてみようという気にさせたのである。これまで敬遠していたマーラーの交響曲第8番、アルマ・マーラーに捧げたというこの曲はやはり聴いてみたいし、ショパンがサンドとの交際期間に作曲した作品も、またリストの作品も改めて聴いてみたい。
2011年10月17日
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ジョルジュ・サンドとショパンの最初の出会いの瞬間を描いたシーンは、彼らの未来を暗示させる。サンドを演じたダヌタ・ステンカという女優、私が抱くサンドのイメージ通りである。あまり馴染みがないが、「カティンの森」で大将夫人を演じた女優。ここでも印象的であった。「カティンの森」は長崎では公開済みであるが、10月30日には「長崎国際平和映画フォーラム」で再度公開されるので、これは改めて見る機会出来た。
2011年10月16日
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ピアノの詩人と称され、繊細な作品が知られているショパンは、若くして病死したことから、弱弱しいイメージがあるが、この映画で描かれるのは、情熱的なショパンである。冒頭から理不尽な支配者への反抗と大国に支配されるポーランドの想いが激しく描かれ、この部分で激しく、疾走するショパンのイメージが示される。そんなわけで、その後のジョルジュ・サンドとの出会いからの描写も説得力ある展開。サンドとの愛の生活は想像以上のひどさであったが、そうした中で「英雄ポロネーズ」や「舟歌」などの名曲が生まれたのであるから、これは「マーラー君に捧げるアダージョ」でも感じたことであるが、恋愛と創造力の関係は不思議なものである。それにしても天才であることの代償とはなんと大きなことか。
2011年10月15日
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野田首相は、原則としてすべての武器と関連技術の輸出を禁じる政府の武器輸出3原則を緩和する意向を固め、11月に行われる見通しの日米首脳会談で、オバマ大統領に表明する調整に入ったということなのだが、「武器輸出3原則」というものは、日本の国際的な活動の中で非常に重要な基本的性格を持ったものだと思うのであるが、それが、国民的な議論なしで、こんなに簡単に変えてしまっていいのか?防衛装備品調達のコストダウンにもつながるというが、本当か?戦闘機や艦船、ミサイル防衛など重要装備の国際共同開発に日本企業が参加できるようになり、人道支援のための装備品輸出も可能になるというが、それは一体誰の為に「いいこと」なのか?結局は、「日本は戦争に加担している」という事実を生み出すことではないのか?
2011年10月14日
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ナチスによるユダヤ人虐殺については、「何故、このようなことが起きるのか」という思いにかられる。しかし、このような差別や虐殺は、その後も現在も数多く起きている。「黄色い星の子供たち」を見ながら、あるいはユダヤ人虐殺をテーマにした作品を思い出してみると、そこには権力者への阿りと、それに同調することでの周辺との波風立てない生き方というものがあるように感じた。また、ユダヤ人を差別しても決して社会正義に反するものではないという論調も世間に流布して、それにみんなが同調していたということもあるのだろう。こうしたことは現代の日本でもたびたび起きていることを知っておくべきであろう。
2011年10月13日
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ナチスのユダヤ人虐殺というだけで十分にショッキングなのであるが、それにフランスが手を貸していたということもまた、あまりにもショックである。こうしたことが具体的な一人一人の人間にどのように影響を与えるのかが描かれる、この映画の終盤にこそこの映画の白眉である。収容所から脱走する決意をする少年ジョーが、友人に「両親はどうするのだ?」と問われて、「あきらめた」と答えるシーン。戦後、アネットと再会したジョーとノノ。ノノの顔には笑顔はなかった。眼は幼い子どもとは思えない死んだようであり、無表情であった。子どもが子どもでなくなること。それが戦争であり、ユダヤ人虐殺であったということの残酷なまでの描写であった。
2011年10月12日
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記録として1090000 2011-10-11 15:49:10 66.220.*.*
2011年10月11日
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この映画はフランスがナチスのユダヤ人虐殺に手を貸した、加担した事実を描いたものである。フランスにとっては負の事実であり、あまり公表したくないことであろう。そのようなことを描いた作品を、なんとゴーモンという伝統ある映画会社が配給していることに注目しておきたい。製作にどの程度関わったのかは判らないが、この点には驚いた。これは日本で言えば、朝鮮人の強制労働や従軍慰安婦を描いた作品を東宝や松竹が配給するようなものである。過去を直視する歴史認識の違いであろうか。この映画を見て、私はまず、このことを考えさせられた。「黄色い星の子供たち」のような映画は日本でも製作できるかも知れないが、果たして、それを東宝や松竹は配給するであろうか?
2011年10月11日
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「麗しのサブリナ」でオードリー・ヘプバーン演じるサブリナのハートを射止めるのは、ハンフリー・ボガートである。このとき、ボガート55歳。ウィリアム・ホールデンは36歳。ヘプバーンの25歳に対して、年上である。その後、ヘプバーンが共演することになるゲーリー・クーパー、フレッド・アステアも年上で、作品の上では年の差カップルを演じることになる。では、彼女がリードされるだけの存在であったかというと、そうではなく、きちんと主張する人物を演じている。そのバランスは見事で、これはあくまでも推測であるが、ここにはおそらくヘプバーンをいかに売り出すかという映画会社なりの方針が貫かれているのであろう。この傾向はなかなか興味深いが、こうした作品が生み出された社会的背景とは何であったのだろうか。
2011年10月10日
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「ローマの休日」に続くオードリー・ヘプバーン主演の2作目。ここでは、お抱え運転手の娘が、彼らを雇っている金持ちの次男に片思いをし、やがてパリに行って洗練されて帰ってくる。そこからは兄弟二人の間の恋の行き来。この物語の中にその後の彼女の主演作品の要素がすべて出揃っている。この2作品で、その後のヘプバーンのイメージを決定づけたのではなかろうか。彼女の場合、そのイメージが負担になることなく、ほぼそのイメージを活かしたキャリア形成となったことは奇跡的なことかもしれない。但し、これは観客の立場からの意見であり、彼女自身がどのように思っていたかは判らない。下手な監督が演出すると陳腐というか、醜悪になりかねないこの物語を見事に演出したビリー・ワイルダーの映画術には、ただただ敬服するばかりである。ヘプバーンにとってスタートにおいてウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダーという名監督に出会ったことは幸福というべきであろう。
2011年10月09日
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偉大なる作曲家グスタフ・マーラーの伝記映画かと思ったら、確かに伝記映画には違いないのだが、マーラーの悩みの聞き手が、なんとフロイトという設定のびっくりするような設定。「起きたことは事実であるが、どのように起きたかは創造である」というフレーズが表示されるが、この映画のねらいは、まさにそこであろう。そこを認識しなかったら、この映画は昼メロ調の判りやすいが、底の浅い作品と評されておしまいであろう。このような悲劇的な苦悩があったからこそ、あのような名曲が生まれたとすれば、創造とはなんとすごいものであることか!
2011年10月08日
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スティーブ・ジョブズは、間違いなく社会を変えた人物の一人としてあげられるであろう。その事業実績だけではなく、ガレージから世界一の企業へというアメリカン・ドリームの体現、そして経営陣の内紛で辞任し、やがて復帰、というドラマティックな出来事。これらはまさにドラマであった。ジョブズ氏の死去は、まさに燃え尽きたという感じである。
2011年10月07日
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もし、日本の幼稚園で哲学のクラスを開設するという案が出たら、もしかしたら、かなりの反対が出るのではないか?子どもらしさがなくなる。理屈っぽい子どもになる。特定の思想を押し付けるな。社会に出て役に立たない哲学より英語を教えろ。というのが予想される反対理由。これは「哲学」への偏見であり、間違った認識なのであるが、おそらくこういう意見は根強いのではないか。映画「ちいさな哲学者たち」に描かれているようにあの年齢から自ら抽象的なことを考える習慣を身につけることが、その子どもたちのその後の人生に大きなプラスの影響を与えるのではなかろうか。それは子どもたち個人だけではなく、そのような人が集まったまちや国自体が変わってくるのではなかろうか。
2011年10月06日
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哲学のクラスを設けて、子ども達が自分で考える力を養成するユニークな教育方法が採られているパリ郊外にある幼稚園の活動とその状況を追ったドキュメンタリーである。もし、これを日本でやろうとしたら、子ども達の親たちや周辺の方々はどんな反応を示すのであろうか?私はこのような試みは日本でも実施されていいと思う。日本でこのようなことをやっている幼稚園はあるのだろうか?子ども時代から、愛について、人種について、生きることについて、自分と他人との関係について、このように自分で考える機会があり、それが習慣になることは、大人になって大きな成果となるのではなかろうか。ここに描かれた幼稚園児たちは、大人になって、様々な問題をかかえる社会の中で、きっと良き社会人となって解決に立ち向かうのではなかろうか。今、社会に必要なものは何かを示してくれた映画であったと思う。
2011年10月05日
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「大鹿村騒動記」の原田芳雄は、いつもの原田芳雄であり、いつもの野太い声であった。あの舞台挨拶に車椅子で登場した原田芳雄と同一人物であることが信じられない。この撮影のときに既に病気は進行中であり、おそらく大変な気力で創り上げた作品なのであろう。本来ならば、悲しみの雰囲気が画面を覆うのであろうが、この作品では、そのような雰囲気はなく、むしろ明日はどうなるのかというある種の希望を感じさせてくれたそんな作品であった。土着性高い、またある種男くさい世界に性別不明な若者が訪れて展開するドラマ、これはパゾリーニの「テオレマ」をもとに阪本監督と原田芳雄が、仕掛けたかのかと思った。
2011年10月04日
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ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト原作の「モールス」とは映画「モールス」の原作である。まずは上巻を読み終えた。感想としては「面白い!」、「興味をひかれる」であり、もちろん下巻も読む。映画を見てから原作を読んでいるわけであるが、興味を削がれたり、内容を結末まで知っていることで鮮度が低下するわけでもない。映画化にあたっては、原作を実によくまとめ改変したことがよく判る。それにしても、少年少女の心情を描くにあたり、こんな設定をよく思いつくものだと感心。下巻に移ろう!映画「ぼくのエリ 200歳の少女」も見たくなった。
2011年10月03日
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長崎で新しい映画製作の動きが起きている。長崎発の企画です。海に囲まれた長崎県の、その海岸という地形を活かした少年冒険活劇。「グーニーズ」長崎版。このような切り口での長崎の魅力を描くのは初めてではないでしょうか?今回は、本製作の前のプロモーション映像ですが、是非、本編製作、公開までの実現を!詳細はここ!
2011年10月02日
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あまり期待はしていないのだが、案外と傑作かもしれないと思っている2作品「モテキ」「僕たちは世界を変えることができない。」
2011年10月01日
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原田芳雄、岸部一徳、石橋蓮司、大楠道代といったベテランの芸達者たちが見事な演技合戦である。まるで掛け合い漫才のような丁々発止の会話がドタバタ調で展開する。「仁義なき戦い」シリーズで言うと「代理戦争」のような感じである。まさに嬉々として演じており、これは果たして演技なのかと思わせるものがある。そんな笑を誘うようなドタバタの会話劇の中で俳優たちが、ふと見せるなんとも言えない表情が非常に気になるのである。その名状しがたい表情にこの映画のテーマがあるのではないかと思う。この映画はセリフや動作の場面で見せるものではなく、俳優たちの表情こそが主役なのかも知れない。
2011年09月30日
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この映画を見ながら頭の中に浮かんだ、というか連想したのは小川紳介の「ニッポン国古屋敷村」であり、「1000年刻みの日時計」である。これらの小川作品と同様に実に豊かな作品である。また、小川作品がフィクションとノンフィクションの間をぬうように展開していったことを、阪本監督もチャレンジしているようだ。この作品は原田芳雄の念願の企画であったというが、おそらく彼の役者としての役者論であり、映画論でもあるのだろう。この映画は、ここに関わった人々の「8 1/2」であり、「映画に愛をこめて アメリカの夜」であるとも言えよう。とにかく素晴らしい!
2011年09月29日
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ジェームス・スチュワートは第二次大戦中は爆撃機のパイロットとして活躍し、大佐まで昇進したという経歴の持ち主。戦後復員したとき、映画会社は彼を主演の戦争映画を企画しようとしたが、「本物の戦争を見てきた人間が、戦争映画に出たいと思いますか?」と言って断ったという。フランク・キャプラもまた戦争によってショックを受けた。そんな二人によって創られた作品が「素晴らしき哉、人生!」であるとは納得である。この映画は時代が生んだ映画といえよう。もしかしたら、ジェームス・スチュワートはオーディー・マーフィーのように扱われるスターになったのかも知れないと思うと非常に複雑な思い。
2011年09月28日
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冒頭から「夜の大捜査線」や「華麗なる賭け」を彷彿とさせるアメリカン・ニューシネマ・テイストの画面。これらの作品に共通しているのは、ドキュメンタリータッチの画面の中でヒーローやヒロインを見事に格好良く描き出していることだ。それに大きく寄与したのが編集者としてのハル・アシュビーであることは言うまでもない。そのハル・アシュビーが、この作品では監督であり、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーたちがいかに素敵なスターとして撮られているかは期待以上のものがある。コンサート会場を縦横無尽に動くキャメラが捉えたミック・ジャガーたちの姿、そして、それぞれのキャメラ位置から撮られた場面が切れ目なく繋がっていく様は、名編集者ハル・アシュビーの面目躍如である。これはコンサートのドキュメンタリーというより、ザ・ローリング・ストーンズを主人公にしたアクション映画と言ってもいいのではないか。
2011年09月27日
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24日は、「午前十時の映画祭」で「素晴らしき哉、人生!」を見た後に、ほとんど時間をおくことなく、「ザ・ローリング・ストーンズ レッツ・スペンド・ザ・ナイトトゥゲザー」を見たのである。つまりハシゴ観賞。一方はクラシックなモノクロの劇映画であり、もう一方は音楽ドキュメンタリーである。全く異質のものを続けて見たわけであるが、お互いにマイナスに作用することなく、どちらも印象深く心に刻まれている。優れた映画というものは、そういうものだと言ってしまえば、おしまいであるが、もしかしたら、この2作品の間には共通したものがあるのかも知れない。また、フランク・キャプラとハル・アシュビーとに共通点があるのかも知れない。ハル・アシュビーをフランク・キャプラの世界から探ってみるのも面白いのかもしれない。ハル・アシュビーはアメリカ映画の変革期に登場した作家であるが、「素晴らしき哉、人生!」もまた、終戦直後という時代の変革期に生まれた作品であることを考えれば、この2作品には共通する何かかがるのかも知れない。いろいろと考えさせてくれた映画体験であった。
2011年09月26日
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この映画はアメリカ映画の代名詞的存在であり、同時に黒澤やスピルバーグが敬愛する作品であり、またアメリカの大学の映画学部では教科書的な扱いを受けているという具合に最高の扱われ方をしている作品であるが、公開当時は興行的に惨敗で、フランク・キャプラ引退の遠因にもなった作品である。この作品で最も観客に衝撃を与えるのは、主人公ジョージ・ベイリーが生まれなかった世界を見せる場面である。この地獄巡りのようなシーンの異様な迫力は、おそらくキャプラの戦争体験が生み出したものであろう。人間はひとつ何かが違ってくると、このように変貌するという暗示である。だからこそ、ラストシーンの感動が強くなるのであるが、当時の戦争をくぐりぬけた観客には白けるものであったのかも知れない。
2011年09月25日
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二人の男が何やら準備をしている。そして、その二人が道を歩く若い女性を誘拐し、隠れ家のベッドに縛り付ける。ここまでをスピーディーに一気に見せる。セリフなどない。この無駄のない導入部で私はひきつけられ映画の世界に引き込まれる。この映画の登場人物は誘拐する男二人と誘拐された女性1名の3名のみ。これは主要人物が3名ということではなく、画面に登場するのが3名ということなのである。やがて、誘拐は突発的なものではなく、計画されたものであることが判ってくる。3名のそれぞれの関係もわかってきて、そこから計画の綻びが生じてくる。それがサスペンスを生み出す。登場人物が3名だけであるから、主軸となるストーリーのみに集中して無駄がない。101分という上映時間もちょうどいい。この映画、予想もしない傑作である。成功の要因は、3人の行動のひとつひとつが的確に描かれ、そこから次の展開へつなげていくシャープな編集と省略の見事さである。物語のテーマは「崩壊」である。何が崩壊するのかは実際に映画を見ていただくしかない。タイトルにある「失踪」は、原題も同じであるが、もしかしたら、「失踪」はラストから始まるのではなかろうか?エンドタイトルのデザインも見事であった。
2011年09月24日
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先日、「午前十時の映画祭」で「ザッツ・エンタテインメント」を見て思ったのであるが、数多くのMGMミュージカルの名場面を見ながら、なんと場違いにもスタンリー・キューブリックの作品を連想させた。構図などが、そっくりの場面があるのだ。題名は忘れたが、「シャイニング」を連想させる場面があったし、キャメラワークが、「2001年宇宙の旅」や「現金に体を張れ」にあったぞと思わせるものがあった。「恋愛準決勝戦」で、フレッド・アステアが、部屋の中で床から天井までを自由に歩き回るシーンは、「2001年宇宙の旅」の中で宇宙船でスチュワーデスが歩く場面で再現されていたではないか。この2作品の監督は共に「スタンリー」。キューブリックは、これらの作品群から何らかの影響を受けているのではなかろうか、とそんな想像をめぐらせることが出来たのも、この映画の楽しさであった。
2011年09月23日
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「バンド・ワゴン」という映画を初めて見た。これが、これほどに楽しい映画とは思わなかった。もちろん評価の高い映画であるとは知っていたが。この楽しい映画の一部と、たまたま同時期に見た「赤い靴」と重なる部分があって、それは何かというと芸の追及と個人的な人生における幸福の追求の選択のことである。「赤い靴」は極めてシリアスであり、残酷なお話しなのであるが、この「バンド・ワゴン」では全くそのようなことは感じさせない。選択の結果も、選択するにあたってのパートナーの態度が全く違うのである。もちろん、楽しいミュージカルという装いもある。きびしい状況を描いても、そこを洗練された楽しさで包んで観客をリードする技術が、特にMGMミュージカルでは優れていたのではないか。そうしたことが「思想的には深みはない」が、長年にわたり、多くの観客に映画の楽しさを提供したことには間違いない。
2011年09月22日
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アメリカ映画においてはミュージカルと共に戦争映画と西部劇は娯楽映画の定番であり、これらはアメリカ映画の最も得意とするジャンルとなった。戦争映画と西部劇が何故、活性化したのかというと、それは敵を描いてきたことである。この場合の敵はナチスであり、あるときは日本軍であり、また共産主義であり、インディアンと名付けられた先住民である。ただ、こうした敵の存在が常に有効かというと、そうではなく先住民に対する意識の変化は西部劇というジャンルを衰退させ、ナチスや共産主義が悪役であることも万能ではなくなってきた。現実の国、地域、あるいはイデオロギーを敵とみなすことが、世界を相手にしている映画ビジネスでは不具合となる場合が多く、そうなると取り扱いが安全な敵としてはエイリアンだけであろう。「スカイライン・征服」や「世界侵略・ロサンゼルス決戦」という映画は、そうした新たな取り扱いが安全で安心できる敵を設定した「新時代の戦争映画」というべきであろう。
2011年09月21日
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「赤い靴」はマイケル・パウエルとエメリック・ブレスバーガーの共同監督作品であるが、この作品について最も寄与し、存在感があるのは、撮影監督のジャック・カーディフであろう。ジャック・カーディフといえば、監督としても活躍しており、メジャー作品も手がけている。そのひとつ、1968年の「あの胸にもういちど」は、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説「オートバイ」を当時流行のサイケ調の斬新なタッチで描いた作品でキャメラマンとしてのジャック・カーディフのセンスが随所に光っている傑作であった。アラン・ドロン主演で売り込んだはずが、いつの間にか、これはマリアンヌ・フェイスフル主演作として語られるようになった作品である。この映画でヒロイン、レベッカが乗るハーレーとペイジが履く赤い靴とは同じ意味を持つのではなかろうか。彼女らがめざすところへと連れていってくれるもの。それがレベッカにとってはハーレーであり、ペイジにとっては赤い靴であったわけだ。そして、ラストも共通している。「あの胸にもういちど」はジャック・カーディフ監督による「赤い靴」なのではなかろうか。
2011年09月20日
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この映画のジャンルをどのように言うべきであろうか。地球を攻撃する宇宙人との戦闘を描いた内容であるから、SF映画としてもおかしくはないが、実際にこの映画を見ても、SF映画とはとても言い難い。SF映画に必要なセンス・オブ・ワンダーは全くなく、内容としても宇宙人との戦闘である必然性は全くない。これは、凶悪なアパッチ(敢えてこのような表現をとらせていただく)に包囲された開拓民を救出する騎兵隊であっても、ナチスドイツ軍から友軍を援助する為に出向いた小隊であってもいいわけだ。もちろん、最近のアフガニスタンやイラクを舞台にしてもこの映画は成立する。そのように考えると、この映画は例えば、かっての人気テレビシリーズ「コンバット」が、SF映画のスタイルをパッケージにして再登場したということだろう。
2011年09月19日
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